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攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか

はじめて明治維新を学んだ際に若い青年が時代を動かしたことに驚いた記憶があるが、なぜ彼らは働きもせずに国事に没頭することができたのであろうか。何らかの方法で資金を捻出することが可能であったのか、誰かが彼らの活動資金を支援していたかいずれかなのだが、この点について解明している書物は少ない。

薩摩天保
【薩摩天保】

以前このブログで、『全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか』という記事で、薩摩藩が寺院の梵鐘を鋳潰して天保銭を密鋳していたことを書いた。薩摩藩士で島津斉彬の側近の市来四郎の証言によると、安政5年(1858)の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めて、兵器だけでなく貨幣にも鋳換えたのだそうだ。
阿達義雄氏の論文『薩摩藩密鋳天保通宝の数量』には290万両の密鋳を行い、その金額は薩英戦争の被害額を40万両も上回る水準という。

貨幣の密鋳は薩摩藩のほかに、盛岡藩や仙台藩、水戸藩など10以上の藩で行われたことが知られていており、長州藩でも行われたという説がある。古銭研究者が「曳尾銭(ひきおせん)」と呼ぶ、「通」のしんにょうの先が伸びている特徴のある天保銭が山口中心に発見されているのだそうだが、密造の規模は薩摩には大きく届かないようだ。では長州藩は、倒幕を実現するための活動資金を主にどういう方法で手に入れたのだろうか。

北前船主通り2
【河野浦 北前船主通り】

前回および前々回の記事に北前船で財をなした河野浦の右近権左衛門のことを書いたが、北前船で繁栄した地域は全国各地に存在し、山形県酒田市や石川県加賀市、新潟市などに船主の集落が残されていて、平成29年4月28日に「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」に30以上もの市町村が「日本遺産」に登録されている。
『日本遺産ポータルサイト』には船主集落のいくつかの画像が紹介されているが、これを観ると河野浦だけでなくそれぞれの寄港地が北前船による収益で潤ったことがよくわかる。


長州藩には下関、三田尻(防府市)、室積(光市)、上関、萩など北前船の寄港した港が多数存在し、なかでも下関は日本海、瀬戸内海、九州の各航路の結節地である重要な港で大変賑い、400軒もの問屋が軒を連ねていたという。

近松門左衛門の『博多小女郎波枕』には当時の下関をこう記している。
「長門の秋の夕暮れは、歌に詠むてふ門司が関、下の関とも名に高き、西国一の大湊、北に朝鮮釜山海、西に長崎薩摩潟、唐土阿蘭陀の代物を朝な夕なに引き受けて、千艘出づれば入船も、日に千貫萬貫目、小判走れば銀が飛ぶ、金色世界もかくやらん。」

六十余州名所図会 長門 下関
【六十余州名所図会 長門 下関

近松の表現には誇大な部分が少なからずあるとは思うが、下関は日本海、瀬戸内海、九州からの船が行きかう重要な港であったことは間違いなく、「西国一の大湊」であったことに嘘はない。下関の船主や廻船問屋が他の北前船寄港地と同様に巨額の利益を得ていたことは確実なのだが、残念ながら下関には船主集落や豪商の邸宅は残されていない。しかしながら、北前船で得た利益を惜しみなく勤王の志士に援助した人物が少なからずいて、なかでも廻船問屋・小倉屋の白石正一郎という人物は有名である。

昭和15年に出版された安藤徳器著『維新外史』にはこう記されている。この本は「国立国会図書館デジタルコレクション」で誰でもPC等で読むことが出来る。文中の「白石資風」は「白石正一郎」のことである。

「…地理的には九州四国対馬への関門であり、経済的には北廻船や越荷方の漁利を独占した良港――諸国の船舶商佔の出入りは志士密謀の策源地となり、脾肉の嘆を鬱散する幕末の歓楽境となった。就中勤王の侠商白石正一郎、大庭廉作等が、家産を蕩尽して草莽憂国の士を庇護したことは有名な話である。
 いま、白石資風日記を繙くと、『西郷月照滞在以来正一郎家内中ノ配慮混雑筆紙ニ尽シ難ク』とか、『平野次郎ヲ新地春風楼ニ潜伏サスル』『薩ノ大久保一蔵君上下四人来駕急ニ上京也』と見え、其の往来した志士の人名は、優に百余名に上って居る。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/87

白石が面倒をみたのは長州藩士だけではなく薩摩藩士や土佐藩士も同様で、白石がこういう金の使い方をすることで、薩長土の志士達がつながっていったのである。
同上書にはこう解説されている。文中の「馬関」とは「下関」のことである。

維新の元勲が置酒徴逐の間に策動した所、かの大西郷と木戸を握手させた、坂本龍馬の薩長連合も亦馬関に於てであった。…
 かく志士を庇護した反面に於て、彼等御用商人が資金運用を諮り、一種の利権問題の含まれていたことは今日の政商と異ならぬ
 白石資風日記文久二年十二月二日の條に『昼前大国船三艘ニテ廉作帰リ来ル。森山新蔵殿及波江野休左衛門(波江野ハカゴ島下町の商人廉直ノ者ニテ森山ハ素大久保利通等ノ使役スルモノナリ。当時町老寄ニテ産物商ノモノナリ。営業酒店又ハ古着商)用達金二萬四千五百両持チ帰ル。右ノ内三千金当家ヘ拝借被仰付二萬金ハ米置入之御手洗ノオ手当千五百両ハ早船十艘御造立御手当成。』とか、三年正月十七日の條に『長州様ヨリ千五百金御カシ渡可被仰候段御書付頂戴』などあるを見ても察知するに足りやう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/88

このように『白石資風日記』には薩摩藩や長州藩に大金を渡したことが書かれているが、この資金は攘夷を実行するためのものであったと思われる。

馬関戦争図
【馬関戦争図】

孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は文久三年(1863)五月に攘夷の実行を約束し、それにもとづき長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して通告なしに砲撃を加えた。その報復として、半月後にアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡に碇泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的な打撃を与えている。(下関事件)
その翌日に高杉晋作が白石正一郎を訪ね、その2日後に、外国艦隊からの防備のために奇兵隊が結成され、正一郎も弟の廉作もそれに参加し、白石邸に本拠地が置かれることになったという。

長州藩は新たな砲台を設置して海峡封鎖を続行したが、翌年にはイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊が下関を徹底的に砲撃し、砲台は占拠され破壊されてしまう。(四国連合艦隊下関砲撃事件)

その後長州藩は武力での攘夷を放棄し藩論を倒幕に転換させていく。同様に薩摩藩も次第に反幕府の姿勢を強め、両藩ともに軍事力充実の為にイギリスに接近していった。
一方幕府はフランスの指導による軍事改革を進め、慶応元年(1865)に第二次長州征伐が宣言され、薩摩藩にも出兵要請が出されたのだが、坂本龍馬などの仲介により慶応二年一月(1866)に薩長同盟が締結されたことから、薩摩は出兵しなかった。最新兵器で武装した長州藩の奇兵隊などは各地で幕府軍を打ち破り、このため幕府は、将軍家茂の病死をきっかけとして戦闘を中止した。

長州奇兵隊
奇兵隊

奇兵隊は武士のみならず農民や町民でも、志があれば参加できる民兵組織であり、この兵士たちの装備や生活支援の為に正一郎はかなりの私費を投じたようである。しかしながら、奇兵隊の隊員は次第に膨れ上がり、その資金負担は本業の資金繰りにも影響を与えることとなる。

慶応元年(1865)の正一郎の日記には白石の借金について噂がたっていたことが記されている。
「(十一月)十四日…林半七君曰ク、当家借財四五百金ニテ当分間ヲワタシ不申哉ト申聞候得共、夫ニテハ所詮間ニ合不申。然ルニ当節又々幕情勢相迫候由ニ承候。オノレ勘考スルニ、君上有テノ事ニ付、先々当分カリ主ヨリ責来不申様被仰付度。追討ノ一挙平穏ニ相成候上、此家屋敷御買上相成候様御周旋被成下度。夫迄ハ先ツ見合可申ト返答ニオヨブ。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935850/63

白石正一郎の巨額の借財があったにせよ、白石宅には入れ代わり立ち代わり志士たちが訪れては宿泊や酒席などの世話になっている。
慶応二年(1866)の日記にはこう記されている。
二月一日奇隊ヨリ惣官山縣君其外遠乗シテ来ル。井上聞多君、伊藤春介君、野村靖之助ナド芸妓召連来リ暫ラク大サワギ
*山縣君(山縣有朋)、井上聞多(井上馨)、伊藤春介(伊藤博文)、野村靖之(野村靖)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935850/64

洋行前の伊藤博文
【洋行前の伊藤博文】

井上や伊藤らの遊興費は外国商人からも出ていたようだ。『萩の落葉』という当時の風聞書に、このような記録があるという。
「…伊藤春助外夷より大金を貰ひ受け、稲荷町新地において湯水の如く遣捨て、其上妓婦両人受出し且又内々馬関を交易場に開港之唱有之候に付、奇兵隊其外慷慨の志士憤発誅戮可致哉。何れ大変不遠中に発し可申右等之趣に付、前條之町触有之候哉と申居候事」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/93

しかしながら、前掲の『維新外史』によると、長州志士たちの活動費や遊興費の多くは、藩が支出した銃艦購入費や洋行費から流用されたという。
「…高杉が独断に於て英商グラバより購入したオテント(丙寅丸)の三萬六千二百五十両の船価は、洋行費として千五百両の支給から手付を打つと称して費消したのであった。井上が要路に弁解した書中『谷氏(晋作変名)御勘渡金千五百両の處返納仕候様中来リ、然ル處崎陽ニテ遠行之仕度相調且舷買入雑費ニテ金モ遣ヒ候様子、然ル處大不平ニテ云々』と見える。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/95

長州藩の銃艦購入費や洋行費は、白石正一郎ら勤王の商人のほか、豪農など民間の有力者が攘夷軍用金として藩に献納したものなのだが、ほかにも長州藩には関ケ原の戦い以降蓄積されて来た巨額の資金が存在したという。軍事機密費が存分に仕えたからこそ、長州の志士たちは豪遊することが可能であったのだが、これだけ無駄な支出をしても、維新後に長州藩の資金が余り、七十万両を朝廷に献上したのだそうだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/97

その後江戸幕府が崩壊して明治の時代となるのだが、平和な時代が訪れると武力の重要度合が低下することは言うまでもない。
正一郎が面倒を見てきた奇兵隊は無用の長物となり、明治二年十一月に山口藩知事毛利元徳は、奇兵隊を含む長州諸隊5000余名のうち3000余名を論功行賞も無く解雇し、各地を転戦した平民出身の諸隊士は失職してしまった。解雇された元奇兵隊員ら約1800人がこれを不服として山口県庁を取り囲む騒動となる。(脱退騒動) 。
木戸孝允が明治政府の鎮圧軍を率いて脱退軍を撃退し、奇しくも奇兵隊創設者である高杉晋作の父高杉小忠太は山口藩権大参事として旧奇兵隊士を鎮圧する側で活躍したという。

白石正一郎が明治維新後も元奇兵隊の隊士の面倒を見たという説もあるようだが、詳しいことはよくわからない。政治に関与しすぎた正一郎はついに小倉屋を倒産させてしまうのだが、散々彼に世話になってきた連中は、彼に手を差し伸べようとしたのか、あるいは正一郎がそれを固辞したのか。いずれにせよ、新しき世を夢見て志士たちを支援し続けた正一郎にとっては不本意な結果となってしまった。

安徳天皇

明治以降の正一郎の日記には僅かの記録しか活字になっていないのだが、読み進んでいくと、明治十年(1877)に赤間神宮の宮司に就任したことが書かれている。赤間神宮は、文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで入水して果てた安徳天皇ゆかりの神社であり、奇兵隊の隊士が増加し白石邸が手狭となってからは、奇兵隊の本拠地となった場所でもある。

下関の海に生き、尊王の志が人一倍強かった正一郎は、最後に天皇家とゆかりがあり、自分が支援してきた奇兵隊の思い出が詰まった神社の神職となる道を選び、その三年後の明治十三年(1880)に六九歳の人生を終えたのである。

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日露戦争・旅順港閉塞作戦に協力した右近家から敦賀に向かう……越前の歴史散策4

河野浦の北前船主の館・右近家の旧本宅の庭園に、なぜか砲弾が置かれている。
ガイドさんの説明によると、右近権左衛門が所有していた「福井丸」が日露戦争の旅順港閉塞作戦の二回目の作戦で使用され、その船を指揮していた広瀬武夫少佐がその船で戦死したことと関係があるという。
旅順港閉塞作戦のことは司馬遼太郎の『坂の上の雲』でその話を読んだ記憶があるが、北前船主の館・右近家でその話が出て来るとは思わなかった。

右近家の西洋館からもう少し坂を上ると山荘展示館があり、福井丸に関する資料が展示されている。
展示パネルには旅順港閉塞作戦について次のように解説されていた。

福井丸
【福井丸】

「明治37年(1904)2月10日、日本は強大国ロシアに対し宣戦を布告した。開戦当時、ロシアは極東の根拠地、遼東半島の旅順港およびウラジオストック港に戦艦5隻を中心として19万トンの極東艦隊(太平洋艦隊)を擁していた。
 日露戦争の戦場となる満州への兵員、物資の輸送を必要とする日本にとって、極東艦隊の出没を阻止し、日本海における制海権を確保する必要があった
 それがためには、極東艦隊を旅順港に封鎖する『旅順港閉塞作戦』がとられた。
 そこで閉塞作戦は3回決行されるが、その2回目に選ばれたのが『福井丸』であった。戦争という予期しない事態のため、『閉塞船』という任務をおびて、3月27日に旅順港口にて爆破自沈した。その沈没が二人の軍神を生んだ。指揮官は広瀬武夫海軍少佐(のち中佐)であり、指揮官附は杉野孫七海軍上等兵曹(のち兵曹長)であった。
 福井丸は爆破自沈を決行したが、その混乱の中、杉野が行方不明になり、指揮官広瀬は安否を気遣い、三度船内を探索したが見つからず、脱出のボートに乗り移って間もなく、広瀬は敵弾にたおれた。
 この指揮官と部下の最後が人間愛の物語として全国に長く伝えられ、国民の称賛を受けた。」

広瀬は決死的任務を敢行し、自らの危険も顧みず部下の声明を案じて戦死を遂げたことから国民の共感を呼び、すぐに中佐に特進した後に「軍神」と崇められ、出身地の大分県竹田市には広瀬神社が創建されたという。

広瀬武夫
【広瀬武夫】

東郷平八郎連合艦隊司令官が、第二回旅順閉塞について報告した公報が、昭和11年に出版された『類聚伝記大日本史. 第十三卷』に引用されている。広瀬中佐戦死については次のように記されている。
「…戦死者中福井丸の広瀬中佐、および杉野兵曹長の最期は頗る壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬に転嫁する為め船艙に下りし時、敵の魚形水雷命中したるを以て、遂に戦死せるものの如く、広瀬中佐は乗員を端舟に乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざる為め、自ら三たび船内を探索したるも、船体次第に沈没、海水上甲板に達せるを以て、止むを得ず端舟に下り、本船を離れ、敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり。中佐は平時に於いても、常に軍人の亀鑑たるのみならず、その最後に於いても萬世不滅の好鑑を残せるものと謂つべし、…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879891/34

旅順港を封鎖するとは随分大胆なことを考えたものだが、これには前例がある。
1898年に起きたアメリカとスペイン間の戦争でスペイン大西洋艦隊がキューバのサンチャゴ湾に入港した際に、アメリカ大西洋艦隊はサンチャゴ湾の湾口に船を自沈させてスペイン艦隊の出港を防ごうとしたのだが、予定通りの場所で自沈したものの沈没する角度が悪く、意図したように湾口を完全にふさぐことは出来なかった。

サンチャゴ湾
【サンチャゴ湾】

地図で確認するとサンチャゴ湾の湾口は最も狭いところで200m程度のようだが、旅順口の場合は370m程度であろうか。湾口が広ければそれだけ閉塞作戦の難易度が高くなるし、1度試みれば、敵方は二度目、三度目があることを警戒することになることは言うまでもない。

旅順閉塞作戦図(㈶三笠保存会)
【"旅順閉塞作戦図(㈶三笠保存会)】

この閉塞作戦は三度にわたり実行され、この作戦で、当時日本が保有していた千トン以上の商船の1割に当たる21隻が投入され、特に第三次閉塞作戦は12隻の閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、敵の沿岸砲台により湾の手前で沈められてしまい、結局旅順港を十分封鎖するには至らなかったようである。

福井丸は明治36年(1903)の8月から12月の間日本海航路に従事していたのだが、年が明けた1月10日に軍用船として傭入命令書が届いたのだそうだ。この船は1882年にイギリスで竣工した貨物船で、明治24年(1894)に右近権左衛門が購入して「福井丸」と名付けたものであるが、直前まで貨物運搬で利用していた船であり今後も利用できる船を手放すことにはさぞ複雑な思いがあったことだと思う。

北前船主の館・右近家をあとにして、敦賀に向かう。敦賀も、三国、河野とともに北前船で栄えた地域である。

気比の松原

日本海さかな街で昼食をとり、お土産を買ってから北に向かって走ると松原公園があり、国名勝の気比の松原があるのだが、この広さは想像をはるかに上回る規模であった。地図で確認すると、敦賀湾の奥に面する部分のうち西側の半分が松原だ。
敦賀観光案内サイトによると、長さ1.5km、広さ約40万㎡で赤松・黒松約が17千本もあり、静岡県の三保の松原、佐賀県の虹の松原と並ぶ日本三大松原のひとつだという。
http://www.turuga.org/places/kehimatsubara/kehimatsubara.html

気比の松原4

これだけ広大な松原がどういう経緯で残されたかと思って調べてみると、古代からこの地域は、近くにある氣比神宮の神苑として神人が近隣住民の利用を管理していたという。
ところが元亀元年(1570)頃に織田信長が氣比神宮から松原を没収し、江戸時代は小浜藩の藩有林となり、近隣の人々は納税の為に燃料となる松葉採集を行うことによって松原が残され、明治32年(1899)には国有林に指定され、昭和9年(1934)には国名勝に指定されたが、太平洋戦争時には軍用木材として一部伐採されたことがあるのだそうだ。

気比神宮鳥居

気比の松原から越前国一之宮の氣比神宮(敦賀市曙町11-68 ☏ 0770-22-0794)に向かう。
上の画像は敦賀のシンボルである氣比神宮大鳥居(国重文)である。木造の鳥居では広島の厳島神社、奈良の春日大社とともに日本三大鳥居のひとつである。

敦賀は天然の良港を有し、北陸道諸国から畿内への入り口であるとともに、対外的にも朝鮮半島や中国からの玄関口にあたる要衝であった。敦賀湾の近くにある氣比神宮は、「北陸道総鎮守」と仰がれ、古くから朝廷から崇敬されてきた歴史がある。
神社のホームページの「由緒沿革」には、
「仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して『四社之宮』と称した。」
https://kehijingu.jp/about/#about2
とあり、実際に『古事記』、『日本書紀』、『日本後紀』にこの神社の名前が出てくるのである。

氣比神宮古図

霊亀元年(715)には境内に神宮寺(気比神宮寺)が設けられたとの記録があり、これが文献上で全国最古の神宮寺成立だという。
上の画像は室町時代後期に描かれたとされる『氣比神宮古図』だが、五重の塔のほかに三重塔が二基あったことがわかる。
しかしながら元亀元年(1570)織田信長の越前侵攻の際に社殿とともに神宮寺は破壊され、その後廃絶したと考えられている。境内には神宮寺の名残として鐘楼があったそうだが、明治維新後取り払われたという。

気比神宮 鳥居と拝殿

戦前には旧国宝に指定されていた江戸時代初期建造の本殿があったのだが、残念ながら空襲により焼失してしまい、現在の社殿は戦後になって建築されたものである。

金崎宮 鳥居と神楽殿
【金崎宮 鳥居と神楽殿】

氣比神宮から金崎宮(敦賀市金ヶ崎町1-1 ☏ 0770-22-0938)に向かう。この神社のご祭神は後醍醐天皇の皇子恒良親王・尊良親王なのだが、なぜ南朝の親王が祀られているかについて、少し説明しておきたい。

新田義貞公肖像
【新田義貞公肖像】

建武二年(1335)に足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻し、翌年入京を果たすも楠木正成、新田義貞の攻勢に晒され一旦九州に下ったのだが、軍勢を立て直して東上し、5月25日に湊川の戦いで勝利すると、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。
後醍醐天皇は比叡山に逃れ、南朝の勢力回復の為に、氣比神宮の膨大な収入と日本海側の制海権を握って足利方と対抗しようと、建武三年(1336)10月に新田義貞に命じて恒良親王・尊良親王を奉じて敦賀に下向させ、それを出迎えた氣比神宮の大宮司・気比氏治らとともに金ケ崎城にこもり、北朝の高師泰(こうの もろやす)・斯波高経(しば たかつね)率いる6万の兵と半年にわたる激しい攻防戦の末、翌年3月6日に落城し、尊良親王・新田義顕・気比氏治以下将兵321人が殉じた悲劇の場所となった。

金崎宮 中門と本殿
【金崎宮 中門と本殿】

この神社は明治23年(1890)に敦賀の有志の人々が願い出て明治26年(1893)に金ヶ崎城跡地内に建立したもので、その後焼失し明治39年(1906)に現在地に再建されたものである。
神明造の本殿と中門は想像していた以上に格調の高いものであった。

絹掛神社
【絹掛神社】

本殿の隣に摂社の絹掛神社がある。案内板にはこう記されていた。
延元2年(1337)3月6日金ヶ崎城落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刃した。祭神はその人達である。氏名の判明する者わずかに十数名、大半の人は近畿・中国・四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少なくはない。籠城5か月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立ち向かった壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。」

金ヶ崎城址
【金ヶ崎城址】

境内を出ると金ヶ崎城阯の石碑がある。
この横の道を歩くいていくと、金ヶ崎古戦場の碑や本丸の跡地があり、そこからの眺めが素晴らしく、越前海岸まで望むことができるとのことであったが、予定の時間を過ぎていたのと越前海岸は十分楽しんできたことから、帰途に就くことにした。
この金崎宮・金ヶ崎城阯は桜の名所でもあるので、また別のシーズンに訪れたいと思う。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史