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京都のお寺に育ったしばやんの歴史考察など

ペリー来航の目的と、その後幕府の権威が急速に失墜した経緯を考える

前回の記事で、江戸幕末に米の相場以上に生活必需品の価格が高騰して武士階級が困窮生活を余儀なくされていたことを書いた。徳川幕府は有効な対策を講じないまま求心力を失っていったのだが、徳富蘇峰は『近世日本国民史 第31巻』でこう解説している。

「…徳川幕府中心主義を、わが全国民が遵奉し、かつ徳川幕府がこれを遵奉せしめ得る場合においては、鎖国政策も祖法としてこれを維持するを得べきも、国民の心が徳川幕府より離れ、もしくは離れんとし、而して幕府が国民を強制するだけの実力や、実験を失墜したる場合においては、如何に祖法は存在しても、そは勢い徒法とならざるを得ないのだ。
 しかるに徳川幕府中心主義は、尊王思想勃興のために一大打撃を受けた。それがようやく具体化せんとするに及んで、さらに致命的打撃を受けつつあった。これと同時に、永続したる泰平は、農工商の階級をして、漸次に台頭せしめた。すなわち腕力に代えるに富力を以てするのやむなきに至った。堂々たる国持大名が大阪町人の前に、叩頭平身せねば、その日用が弁ぜられぬ時代を現出し来った
 …
 例せば…幕府老中・水野忠邦の失脚の如きも、多くの理由中の一には、彼がその属僚羽倉外記*をして、大阪町人から無理やりに多額の御用金を徴収せしめたることを数えねばならぬ。
 しかのみならず徳川幕府中心主義に必須の力たる、いわゆる旗本八萬旗なるものは、全くと言わざるも、その大半はほとんど物の用には立たない。否(いな)却って徳川幕府の足手纏いとなった。彼らによって徳川幕府を擁護するなどとは、思いも寄らないこととなった。…
 徳川幕府の法度、制典も、時代の変化とともに変化すべき必要があった。しかも執政者は、ただ守株の見に拘泥し、時勢に応じて変通の策を施す所以(ゆえん)を解せず。ここにおいて一切の法度、制典も、ほとんど徒法となり、徒制となった。かかる場合において、その法制が、威権を失墜し、その強制力、その拘束力を薄弱ならしむるは、まことに余儀なき結果と言わねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/17
*羽倉外記:水野忠邦の抜擢により納戸頭兼勘定吟味役となり、天保14年7月に大阪西町奉行所に富商を集め総額110萬両に及ぶ御用金を申し付け、そのうち98万両を引き受けさせたが、水野忠邦の失脚により羽倉外記も職を追われてこの件は沙汰止みとなった。

徳川幕府の支えとなるべき旗本の生活は困窮状態にあり「幕府の足手纏いとなった」とまで書いている。本来ならば時代の変化に合わせて諸制度も見直すべきであったのだが、何もしてこなかったために幕府の権威は衰えていくばかりである一方、尊王思想の拡がりもあって、それまでは幕府の命を奉じてきた雄藩の大名や豪商たちが、次第に幕府を軽視するようになっていったのである。

このような状況下で、鎖国を続けているわが国の近海に、外国船が頻繁に現れるようになっていた。
文化5年(1808)にはイギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎に侵入して乱暴を働く事件が起き(フェートン号事件)、その後も、イギリス・アメリカの捕鯨船が近海に現れたので、鎖国体制を守ろうとした幕府は、文政8年(1825)に異国船打払令を出している。
その後天保8年(1837)に、日本人漂流民7人の送還と通商のために浦賀に現れた非武装のアメリカ商船・モリソン号を、異国船打払令に基づき砲撃を行ったことはわが国でも批判されることとなり、さらに天保13年(1842)に起こったアヘン戦争で清国がイギリスに惨敗した情報を入手するとその年に幕府は異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという薪水給与令を出している。

ペリー来航

その後も何度か外国船が現れて、嘉永6年(1853)6月にはアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4隻の軍艦が、開国と通商を求めるアメリカ大統領の国書を携えて江戸湾入り口の浦賀の沖にやって来た。この4隻の軍艦がわが国を、特に徳川幕府を大きく揺さぶり、幕末の動乱はここから始まったといっても過言ではない。
教科書などにはペリーが「我が国に強く開国を迫った」程度のことしか記されていないのだが、アメリカは我が国に開国を実現させるためにどのような交渉を考えていたのであろうか。

ペリー

徳富蘇峰の前掲書に、ペリーが海軍長官に送った意見書の要約が紹介されているので引用しておこう。
「捕鯨船、その他船舶の避難所および糧食、薪水等の需要品補給の港湾を一箇所及び数箇所得ることは、必ずしも至難の業ではない。万一日本政府が、本土においてこれを肯(がえ)んぜず*、なお兵力に訴えてもというと言う場合に、日本の南方にて良港を有し、飲料水、および食料を得て、便宜ある島嶼一二箇を占領し、軍艦の屯所を作り、而して後徐(おもむろ)にその目的を達すべく、手段を廻(めぐ)らす事。
次には日本、支那両属の姿である琉球にも、主なる港を開かしむる覚悟だ

かく避難港が出来、船舶が輻輳(ふくそう)するに際しては、勢い食料品の需用が多くなり、したがってその地方に果実、蔬菜等の栽培を奨励するの必要がある。そのため、若干種子類を齎(もた) らし来(きた)ったが、なお農具の類等も、追々と送付を希(こいねが)うこと。

かくて港湾開け、石炭、糧食等に不自由なく、その土着人の労働や物品に対して、相当の代価を払い、彼らに対する公正の態度を以てし、彼らと親密なる交際をなしたる上は、ここに初めて日本政府をして、我が真意を知らしむることが出来るであろう。かくの如くして加州と支那との間を航海する船舶は、中途に安全なる港湾を得、同時に歳月の経過とともに、日本政府をして、わが合衆国の求める交際の目的は、全く平和的のものであることを、諒解せしむるであろう。」
*肯んぜず:聞き入れず、承諾せずの
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/25

この文章を読めば、ペリーはわが国をいきなり武力侵略するつもりはなかったことはわかるが、もしわが国が開国を拒絶した場合は、武力による占領を視野に入れていたことは明らかだ。軍艦4隻は我が国との交渉を有利に進めるために必要であったのだ。

アメリカがわが国を開国させるために、なぜ武力行使まで考えていたのかと誰でも思うのだが、ペリーの意見書には、続けてこう記されている。

「海上権に関して、わが大敵である英国の、東方において有する占領地と、その防備ある港湾の、着々として増加しつつあるを見る時は、わが合衆国もまた、快捷(かいしょう)*の運動を為す必要を思う。
世界の地図を見るに、東印度および支那海、しかして支那海における重要なる地点は、すでに英国の占める所となった。幸いに日本及び太平洋上の諸島嶼はいまだ英国の手が触れていない。のみならず、その中のあるものは、通商の要路に当たり、わが合衆国に取りて、重要の地点だ。それは今日我が合衆国たるもの、自ら進んで多くの避難港を得るに、寸時も遅疑すべきではない。ゆえにボーハタン号およびその他の軍艦を、至急続発せられんことをねがう。」
*快捷:動作などが素早いさま。敏捷。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/26

このように英国との対抗上太平洋を安全に航行できる航路を獲得するために軍艦を送り込むことを要望しているのだが、この言葉の意味について少し補足させていただく。

日本開国

渡辺惣樹氏の『日本開国』に、1849年9月17日にアーロン・パーマーがクレイトン国務長官に提出した『対日戦争計画書』の内容が紹介されている。物騒な表題になっているが、いきなりわが国を武力制圧するということではなく、アメリカの将来にとって東アジア、とりわけ支那大陸との安全交易ルート確保は国益上極めて重要であり、そのためには戦争も辞さずとの覚悟が必要というのがこのレポートの主旨のようだ。

アメリカにとって太平洋航路の確保が喫緊の課題であったのはなぜなのか。渡辺氏はこう解説している。
「…日本の地勢的な位置がアメリカの国益の発展に重要だったのです。
 航路を劇的に短縮するパナマ運河。その前段階としてのパナマ鉄道計画はアスピンウォールらによって具体化しています。

 *南米ケープ岬経由
  イギリス ― サンフランシスコ   13,624マイル
  ニューヨーク ― サンフランシスコ 14,194マイル
 *パナマ経由
イギリス ― サンフランシスコ    7,502マイル
  ニューヨーク ― サンフランシスコ  4,992マイル


ここに現れた海路短縮の数字が、世界の海運地図に与えるインパクトを如実に示しています。セントルイスからミシガン湖周辺を抜け、サンフランシスコやサンディエゴをつなぐ電信網の敷設や大陸横断鉄道の計画も視野に入っています。上海からサンフランシスコまで20日足らず。大陸横断鉄道が完成すれば、上海―ニューヨーク間は25日程度で結ばれてしまいます。電信網が完成すれば、サンフランシスコに船が到着した数時間後には、支那大陸やアジア各国の市場情報がニューヨークにもたらされます。東アジアの動向をロンドンに先駆けて知ることができるのです。イギリスに対して圧倒的に有利に立てるのです。
 太平洋を運行するアメリカの船舶が安全に航行できれば、イギリスの世界覇権に対抗できるのです。幸い北太平洋へのイギリス海軍の展開は遅れています。上海から日本の東岸を抜け、アメリカ北西部に抜ける航路(グレートサークルルート)が安全に使えさえすればよいのです。他の列強がこのルートを使うことは一向に構いません。他国にとってはこの航路をとるメリットはほとんどないのです
。」(『日本開国』p.174-175)

パナマ運河

調べるとパナマ鉄道が開通したのは1855年で、ペリー来航からわずか2年後の話である。このルートが開通すれば、ニューヨークから東アジアまではヨーロッパのどこの国よりも圧倒的に短い距離でつながることが可能となるのだ。しかしながらいくら距離が短くとも、陸地の少ない太平洋で安全に航行ができる条件が整わなければ意味がない。アメリカにとっては、パナマ鉄道が開通する前にわが国が開国して、アメリカと親密な関係を構築することが望ましかったのである。
もしわが国がそれを拒絶すれば、アメリカは、小笠原諸島や沖縄諸島などを占領することを考えるしか方法はない。
ペリーは軍事力でわが国を威圧して交渉を有利に導こうとしたのだが、パナマ鉄道は建築の最中であり、交渉に時間をかける余裕は十分にあったと思われる。

サスケハナ号
【サスケハナ号】

では、ペリーと我が国との交渉はどのようなものであり、わが国はどう対応したのか。
徳富蘇峰の前掲書には、ペリー来航時の状況についてこう記されている。文中の「サスケハンナ」は艦隊の旗艦の名である。

「艦隊がいまだ錨(いかり)を下ろさぬ内に、日本の警備船の一群は、艦隊めがけて追うて来た。提督は早速信号もて、船にも短艇(ボート)にも、決して彼らを乗せしむるなと命令した。而して旗艦に限りて、用件を帯び来る者は上艦を許すが、それでも一度に三人を超えるを得ずと命令した
かくて艦隊が錨を下ろすと、海岸の砲台から一発を放った。まもなく艦隊は訪問を砲台の全面と、浦賀の町とに向け、一列に碇泊をなした。その時日本の警備船が、四方から沢山集まり来たった。そのうち小舟が一艘、旗艦の側(かたわら)に近づいてきた。舟の一人が手紙を携えていて上鑑を求めたが、サスケハンナの士官は之を拒絶した。されどその手紙が仏文で書いてあったことがわかったから…読み上げさしてみると、軍艦が此処に碇泊するは危険であるから、はなく退去せよとの指図であった。また大官と見える役人が、サスケハンナの艦側に来り、艦梯を下ろすべく合図したが、これまた拒絶した
この時ペルリ提督は、…提督は最高の役人以外には誰にも面会しないから、陸に帰られよと告げしめた。しかるに舟の中の男が、オランダ語で種々と訊きたてた。…彼は執拗(しつこ)くも上艦を求めたが、その度(たび)ごとに拒絶せられ、この艦隊の司令官は、合衆国にて最高の官位の人であるから、それに相当する高位高官の人であらぬ限りは、相談はできぬと答えた。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/40

中島三郎助

結局浦賀奉行支配組与力の中島三郎助とオランダ語通詞・堀達之助の2人が上艦を許されたが提督は顔を出さず、コンテー大尉が2人に米国大統領から日本皇帝に宛てた国書を携えているので、相当の役人を軍艦に派遣してほしいと伝えたという。

蘇峰の解説を続けよう。
「与力は日本の国法では、外交のことは、一切長崎にて取り扱うこととなっているから、長崎に赴かれたしと挨拶した。コンテー大尉は、提督が浦賀に来たのは江戸に接近しているためにことさらに此の地を指定してきたのだ。提督は決して長崎には赴かない。また国書を相当の礼儀をもって現在の場所に受け取らるべきこと。提督の本意は和親にあるも、もし万一侮辱に渉るがごときあるに於いては、一切容赦はまかりならぬ。かつ日本の警備船がかく軍艦を取り巻いているとはけしからぬことだ。もし早速退散せぬならば、提督は武力もて彼らをしかせしむるであろうと付け加えた。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/42

ペリー来航図巻(第4紙)
【ペリー来航図巻(第4紙)】

翌日には浦賀奉行所与力の香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪ねたが、親書は最高位の役人でなければ渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談するために4日の猶予をくれるように頼んだのだが、ペリーは3日なら待とうと答えさらに「高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになる」と脅しをかけながら、さらに幕府を威圧するために浦賀湾内に武装した短艇を派遣して湾内の測量を開始している

徳川家慶
【徳川家慶】

この時の第12代将軍徳川家慶は病床にあり、国家の重大事を決定できる状態ではなく、老中首座阿部正弘が国書の受取りを認め、ペリー一行の下田上陸を許している

嘉永六年六月久里浜陳営の図
【嘉永六年六月久里浜陳営の図】

浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見し、ペリーからフィルモア大統領の親書などが手渡されたのだが、幕府は「将軍が病気のため決定できない」とし、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは1年後の再来航を約して、江戸を威嚇しながら離れていったという。

阿部正弘
阿部正弘

ペリー退去後のわずか10日後に将軍家慶が死去し、後継者の家定も病弱で国政を担えるような人物ではなかった。
しかし、老中等にも名案はなく、国内は異国排斥を唱える攘夷論の高まりもあって、老中首座の阿部正弘はペリーの開国要求に要請に頭を悩ませた結果、幕府の役人だけでなく諸大名・諸藩士から一般の庶民にまで幅広く意見を求めたのである。

徳富蘇峰は同上書でこのように幕府を批判している。
「ただこの際に遺憾なるは、幕府当局の臆病と不見識だ。彼らはなにゆえに自ら信ずるところを公然と天下に発表しなかったか。攘夷の行うべからざるは彼らはいずれも百も承知のことではなかりしか。何ゆえにこれを公言せざりしか。また一歩を進めて考察すれば、米艦渡来は戦争が目的ではなく、和親が目的だ。ただ日本が容易に和親の相談に応ぜざるため、武力をもってこれを威嚇するという芝居に過ぎなかった。彼らは何ゆえにその真相を看取せざりしか。その所信を公言しなかったのは臆病であり、その真相を看取せざりしは不見識である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/119

国家の命運を決めるような重要な問題について、一般庶民にまで幅広く意見を求めるようなことは徳川幕府としてやってはいけなかったのではないか。幕吏から意見を聞くだけならともかくも、諸般の大名から一般庶民にまで意見を求めては、よほど幕府には見識ある人材が乏しいと解釈されても仕方がないだろう。

これまでの幕府は外様大名やそれ以下の人々が幕府の政策に対して政治的な発言をすることが許されなかったのだが、この時に意見書は七百近く集まったという。中公文庫の『日本の歴史19 開国と攘夷』には、江戸吉原遊女屋主人藤吉の意見書が紹介されている。
「なにげなく漁業をしている様子で異国船に近寄り、鶏や薪水や、そのほか外国人の望む漆器とか絵画などを贈って、仲よしのようになり、だんだん打ちくつろぎ、そのうちに外国船に乗り込み、酒もりなどをはじめる。そうこうしている間に、酒によったふりしてまず日本人同士でけんかをはじめる。そうすると外国人も口を出し手を出すようになるだろう。それを合図に、軍艦の火薬庫に火をつけ、また鮪包丁で、かたっぱしから外国人を切りすてる。成功はまちがいなしです。」(『開国と攘夷』p.48)

幅広い階層から意見を求めたもののさしたる名案はなく、これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がって、結果として、さらに幕府の権威を下げることとなってしまったのである。

前回の記事で紹介した菊池寛の表現を借りれば、黒船来航時の幕府の対応により「かろうじて支えられていた、封建制度の鎖の一筋はたち切られたのである。徐々ではあるが、社会的の地すべりが始まった。断層がそこにも此処にも、不気味な肌をあらわにして来た。」(『大衆維新史読本』p.35)
別の言い方をすると、各階層の人々が幕府の批判を容易に口にできる環境を幕府自らが作ってしまった。そもそも鎖国を始めたのは幕府なのだから、開国すると判断して実行していたら、あれほど簡単に徳川幕府が崩壊することはなかったのではないだろうか。
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【ご参考】
ペリー来航の前に、わが国はロシアと交易を開始する準備ができていました。よかったら覗いてみてください

レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-439.html

ペリー来航の45年前のわが国でロシアとの交易を開始する準備がなされていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-440.html

間宮林蔵は原住民の小舟で北樺太を探検し、海峡を渡って樺太が島であることを確認した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-441.html

ゴロウニンを解放させた高田屋嘉兵衛の知恵
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-442.html



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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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