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京都のお寺に育ったしばやんの歴史考察など

現存する唯一の忍術屋敷を訪ねて~~甲賀歴史散策その1

滋賀県の甲賀と言えば「忍びの里」を思い浮かべる程度だったのだが、調べてみるとこの地域には貴重な文化財や伝統文化が残されているのに興味を覚えて、週末に日帰りで甲賀市の名所旧跡を巡って来た。

甲賀流忍者屋敷

最初に訪れたのは『甲賀流忍術屋敷』(甲賀市甲南町竜法師2331 ☏0748-86-2179)で、この住居は甲賀忍者であった望月出雲守の旧宅であり、現存する唯一の忍術屋敷だという。

外見は一般的な平屋の日本建築で元禄時代に建てられた住居なのだが、内部は三階になっていて、随所に様々な工夫が凝らされている。そのような仕掛けのある住居であることを知られずに長い間使われてきたそうだが、昭和30年の調査により、紛れもなく本物の忍術屋敷であることが認定されたという。

忍術屋敷 門

この屋敷の面白さは、ガイドさんの説明を聞けばよくわかる。説明時間は約30分程度で1時間に1度は必ず説明しておられるのでその話は必ず聞いて帰るべきである。
待ち時間が15分程度だったので、ビデオ映像を見た後、手裏剣投げ(8投\300)が面白そうなのでチャレンジしてみた。
建物の外に出るとゴルフの練習で使うようなネットがあり、親指と人差し指で手裏剣を持って、中央の的をめがけて回転を入れて投げるのだが、ボールを投げるよりかはコントロールがかなり難しい。座敷で甲賀忍者秘伝の「健保茶」を飲みながら待っていると、ガイドさんの解説の案内があり、資料室に向かう。

ガイドさんの説明中は一切の撮影や録音が禁じられているので、屋敷のカラクリについて読者の方に詳しくお伝えすることが出来ないが、どんでん返しや隠し梯子、落とし穴や地下道など、侵入してきた敵から身を護るために様々な仕掛けがされていて、忍者衣装を着たガイドさんの説明が非常にわかりやすく、大人も子供も結構楽しめるのでお勧めしたいスポットである。

甲賀流忍者屋敷 からくり

上の画像は説明の後で撮影を許された落とし穴だが、どんでん返しの板壁の隣の部屋は簡単に床板を外すことが出来、床下はこのように深い穴になっている。どんでん返しの板壁は、180度回転すると同じ方向には回らない仕組みになっているので、敵はそのことが気付くまで何度も同じ方向に板壁を動かそうとするが動かない。ようやく反対側が回ることが気付いた時には、隣部屋の床板が外されていて床下の穴に落ちざるを得ない。
この穴は3mの深さがあるので侵入してきた敵は脱出することが出来ず簡単につかまってしまう。
あるいは自らこの穴に入り、床板を元に戻して、横穴を通って隣の同族の屋敷に逃げることも可能になっているという。

忍術屋敷2階

上の画像は隠し階段を上って到達する二階の部屋だが、天井が低いので普通の長い刀は振り下ろせない。2階に隠してある短刀を用いて戦うことも可能だし、3階に上って縄梯子で1階に行くことも可能だ。

手裏剣

ガイドさんの説明のあとは自由に撮影が可能となり、資料室の展示物などを見学する。
資料室には忍者が実際に使っていた手裏剣、撒き菱、忍法書、薬や火薬を作る道具などが展示されているほか、甲賀忍者の歴史や望月氏の歴史などが詳しく解説されていて結構読み応えがある。

仕込み杖、脇差鉄砲

ビデオやガイドさんの解説で、「甲賀」を「こうか」と読んでいることに途中で気が付いて、なぜ「こうが」と言わないのか気になっていたのだが、展示室に次のように解説されていて納得した。
「甲賀は古くは鹿深、甲可、甲香などと記されて『かふか』と呼ばれていたため、現在でも『賀』は濁らずに『こうか』と地元の人々は発音している。」

忍者の衣装など

資料室の解説などを参考に、簡単に甲賀の歴史を振り返っておこう。

甲賀は、東は鈴鹿山脈、西は笠木山脈にはさまれた山間の地にあり、京都・奈良の都に近いことから軍事的要衝の地として何度も戦禍を受けてきたために、武士だけでなく住民たちも自衛力を養ってきた歴史がある。
そして、長亨元年(1487)に『鈎(まがり)の陣』の戦いがおこり、その戦いがきっかけとなって、甲賀地域の武士たちが『忍者(しのびのもの)』と呼ばれるようになったという。では、この『鈎の陣』の戦いとはどのような戦いであったのか。資料室の解説にはこう記されていた。

足利義尚
【足利義尚】

「当時、実力にものをいわせていた社寺や公卿の荘園を横領して、幕府の命令を無視した六角政頼、高頼父子を討伐するために、足利9代将軍義尚は諸国の大名を率いて長亨元年9月に大津の坂本に本営をおき、六角氏の本城である観音寺城を攻め、六角氏は甲賀城に逃れた。
 10月になって、義尚は本営を坂本から栗太郡の鈎(現栗東市)の安養寺に移し、甲賀城を攻めて落城させた。六角氏は姿を消し、甲賀山中でゲリラ戦を展開した。この戦いは、将軍義尚が鈎の陣屋で延徳元年(1489)に死ぬまで3年近く続き、足利将軍の権威をかけたものだったが、逆に甲賀武士(甲賀忍者集団)の活躍ぶりを全国に知らせる結果となり、それ以後一躍日本の歴史に登場するようになった。
 この戦いで甲賀武士は将軍の本陣に度々夜襲をかけ火を放ち、義尚を困らせた。それに参加した甲賀武士を甲賀武士五十三家、その中でも特に功績のあったものを甲賀武士二十一家という(諸説あり)。その中でも望月出雲守は、自由自在に煙を操って敵を悩ませた。そのおかげもあり、近江の守護として六角氏は四百年近く蒲生郡安土城(現近江八幡市)の観音寺城を居城として、近江の南半分を支配した。」

室町幕府が六角高頼と戦ったのは長享元年(1487)と延徳3年(1491)の2度あり、総称して「長享・延徳の乱」と呼ばれているが、1度目の戦いで幕府軍は近江国栗田郡鈎(滋賀県栗東市)に陣を張ったことから、「鈎の陣」とも称されている。
この解説にあるように、六角氏は甲賀武士の支援によって命拾いをしたのだが、その後永禄11年(1568)に六角義賢は織田信長との戦いに敗れ、観音寺城を去ることとなる。六角氏が敗れたのは、この戦いで甲賀武士たちが六角氏を支援しなかったことが大きかったというのだが、再び資料室の解説版の文章を紹介しよう。

「実は、その裏面で家康が動いたと言われている。家康は早くから忍者たちに目を付け、永禄元年には伊賀忍者70名、甲賀忍者200名を雇い入れていたという。信長の義賢攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、家康の手がのびて、義賢に加担しないことを条件に、甲賀攻めを回避したからだといわれている。かくして、天正2年(1574)、六角義賢は敗れ、天正9年(1581)に、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、そして全滅作戦『天正伊賀の乱』を決行し、神社仏閣はもとより民衆もことごとく焼き払った。

以前このブログで、天正10年6月に本能寺で信長の接待を受ける予定であった徳川家康は、「本能寺の変」を知り、わずか34名の供回りで堺から三河まで戻ることために伊賀者らの援助を得たことが記録されていることを書いた(「神君伊賀越え」)。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

服部半蔵
【服部半蔵】

7年前にこの記事を書いたときは、家康一行を警護したのは服部半蔵ら伊賀者が中心だと理解していたのだが、実は多くの甲賀者も家康の警護に関わったようだ。
解説版にはこう記されている。

甲賀武士の好意的な援護を受け、宇治田原から信楽へ入り、信楽小川の城主で甲賀武士五十三家の一人である多羅尾家で一泊した。その先は服部半蔵らの伊賀武士等に守られ伊賀から加太(かぶと)越えし、伊勢の白子浜に着き、そこから海路で本拠三河まで危うく逃れることが出来た。」

Wikipediaには200人の甲賀武士が加太峠までの伊勢路を警護したという説が紹介されているのだが、信楽からは伊賀武士が中心になって家康を警護したとする資料室の解説とどちらが正しいかはよくわからない。いずれにせよ、家康がこの時の警護に感謝して、江戸開幕後に伊賀武士と甲賀武士を江戸に呼び寄せたことは史実である。解説版にはこう記されている。

伊賀の服部半蔵は、江戸麹町(現千代田区)に屋敷を与えられ、伊賀同心の頭目となった。
 いまに残る半蔵門は、彼の屋敷前にあった。神田に甲賀町(現千代田区)、四谷に伊賀町(現新宿区)、麻生に笄(こうがい)町(現港区)と名が示すように、甲賀忍者・伊賀忍者が多く住んでいたのである
。」
江戸に移り住んだ甲賀忍者たちは江戸城本丸と大手三門の警備、大名の諜報、鉄砲隊などを任されていたのだそうだ。

ではこの忍術屋敷を建てた望月出雲守とはどのような人物であったのか。
望月出雲守は甲賀五十三家の筆頭格で、昔は「伊賀の服部、甲賀の望月」と称されるほど大きな勢力を持っていた人物で、特に霧を自由自在に操る術に長けていたという。

薬と甲賀忍者

資料室の解説にはこう記されている。
「望月氏は、名前を本実坊といい、山伏姿で神社の御守り札を持ち、そして薬を売り歩きながら情報収集に務めた。伊勢の朝熊山の明王院の御札と万金丹を売り歩き、加持祈祷をして回るなど、お札くばりで生計を立てていたのである。
 明治17年、配札禁止令が出た後、薬の配置販売という甲賀売薬の先駆者となった。」
そして明治35年に、同志と共に近江製剤株式会社を創立したという。
この忍術屋敷は、現在は近江製剤株式会社の名義になっているのだそうだ。

近江製剤株式会社

近江製剤の会社プレートが展示されていたが、トレードマークは望月氏の家紋である九曜をベースにして、中央に「本」と彫られている。

話を甲賀忍術に戻そう。甲賀忍術は何のために考案されたものなのだろうか。
この施設のパネルにその解答が記されていた。
甲賀流とは『忍術とは国家を安平にして大敵悪党を滅ぼすの術なり』と要約されているが郡内の地勢は丘陵が起伏し、低地には農耕地があって、勤勉に耕せば住民は常に安楽に生活することが出来たのである。また郡内には甲賀五十三家と謂われる豪士が住んでいて、郡の指導的な役割を果たしていたのであるが、自救自衛の精神から、常によく団結し、事ある時には、断固として外敵を排除する目的を以て常に野外に忍者を派遣したり、…防御兵器として当時としては実に驚嘆に値する大器等を秘密裏に用意し、優れた戦法によって完全防衛の体制を整えていた。これを甲賀流と謂ったのである。
 だから甲賀流は侵略的な考えから行われたのではないのであって、平和を害する外敵に対して敢然として制圧を加えるために行われたものであった。」

萬川集海

資料室に展示されていた『萬川集海』という忍術の秘伝書(延宝4年[1676]編纂)には、忍術というものは使い方を誤ると、世の中を乱し、人道に背くことがありうるのだが、その様な行為を戒め、心の持ち方などの精神面の修養が大切とのことが書かれていた。

甲賀忍者は、「平和を害する外敵」に敢然と立ち向かい制圧を加えることによって、平和を実現しようとしたのだが、今のわが国にはその姿勢が欠けている。
わが国の周囲には平和を害しようとする国や、難癖をつけてはわが国の富や領土や資源を奪い取ろうとする国、明らかに人道に背く行為を行っている厄介な国が存在する。それらの国が、わが国において様々な工作活動を行っていることは、今の大手マスコミやそれに連動する勢力の動きを見れば明らかであろう。このような工作活動を野放図にして、これからもわが国の平和が守れるとは思えない。
どんな国でも、国家の安全保障や国益を脅かすスパイに対しては厳罰で臨むのが普通だが、わが国は世界で唯一「スパイ防止法」がない国であるために、スパイ行為を取り締まることが出来ないし、独自で海外の情報を集める能力も弱い。
まずは、「スパイ天国」と呼ばれているわが国の現状にメスを入れて、「平和を害する外敵」やそれに協力するメンバーを取り締まることができる普通の国にして欲しいものである。

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わが国史上最大の火山災害である「島原大変」の被害者の大半は津波で死亡した

前回の記事で大規模な山の崩壊や地盤の崩壊で津波が発生し得ることを書いたが、今回はその事例について記すことと致したい。

島原半島の中央部に活火山の雲仙岳があるが、この山は三岳と呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳ほか、総計20以上の山々から構成されている。
平成3年(1991年)の5月に、雲仙岳の三岳の一つである雲仙普賢岳に溶岩ドームが出現し、それが日々成長したのち小規模な火砕流が頻発するようになり、6月3日には溶岩ドームが崩壊して大規模な火砕流が発生してしまう。ネットではその時の動画が紹介されている。
https://youtu.be/r0gFFJUsIrE



この災害は、地元消防団員や警察官、農民をはじめ、報道関係者など43人の犠牲者が出た大惨事であったのだが、歴史を紐解くと、江戸時代中期にもっと大きな災害が雲仙岳で起こっている。

東京大学地震研究所図書室のサイトに、に起きた「島原大変」に関する『大日本地震史料 巻之十』の記録が多数紹介されている。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/meta_pub/G0000002erilib_L001001

「島原山焼山水高波一件」という史料には、寛政4年(1792年)に「島原大変」が起こる前に何度も地震が起きていたことが記されている。文中の温泉嶽は雲仙岳で、前山は眉山、海嘯は津波を意味している。

「同(寛政)四年一月十八日戊午、肥前国温泉嶽ノ普賢山、鳴動シ、地頻ニ震動ス、二月四日穴迫ノ地鳴動シ、石砂ヲ渓谷ニ崩落シ、九日ニ至リ、火気ヲ発シ、二十九日、蜂之窪又火ヲ噴キ、四月一日ニ及ビテ、前山崩裂シ、泥水奔流シテ海に入リ、海嘯之ニ加ハリ、島原城下数十村ヲ蘯尽ス、肥後国熊本ノ海辺モ其害ヲ被レリ、」(『大日本史料巻之十』p.445)

また、「筆のすさび」という史料には、

「寛政四年壬子二月、肥前国雲仙嶽、大に火燃て、数日地震夥しかりし、同四月朔日の夜戌刻過、雲仙嶽の下の前山といへるが、島原城の上に当たりたる山、二ツに敗れ、火出で、同時に島原海中よりも火燃出、津浪、山のごとく湧上り来り、島原城下の町々、其外島原領の村々、佐嘉領の南海に臨める村々、天草島の海浜にある民屋、皆同時に没溺し、島原にて死亡の人、凡三萬余。肥後にても二萬余人といへり。其外諸国、皆それに準じて、夥しき死亡なり。其夜、海中に小き島七八十も出現したりとぞ。」(『大日本史料巻之十』p.460-461)

九十九島

この「島原大変」で上海にいくつも小島が出来て、「九十九島(つくもじま)」と呼んでいる。被害者数は過大に記しているようだが、周辺地域で津波被害が出たという記述はそのとおりであろう。

島原大変

国土交通省九州地方整備局がまとめた『日本の歴史上最大の火山災害 島原大変』というレポートがネットで公開されていて、その表紙に眉山山体崩壊前と崩壊後の絵が描かれている。今の眉山の形状を調べると、この絵は決して大げさではないことがわかる。
http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/wlib/pdf/010101a.pdf

雲仙岳と眉山(右) Wikipediaより

上の画像はWikipediaに掲載されている雲仙普賢岳(左)と眉山(右)の写真だが、眉山の崩壊は雲仙普賢岳の崩壊よりもはるかに大きく、大量の土砂が海に流れ込んで、海岸線が約800mも押し広げられたという。

国土交通省のレポートの「まえがき」にはこう記されている。

「寛政四年四月一日(西暦1792年5月21日)、島原城背後にそびえる眉山の東側が大きく崩れました。山体崩壊です。この崩壊は、普賢岳の噴火活動中に起きた地震に因って引き起こされました。崩壊により大量の土砂が有明海に流れ込み、大きな津波を引き起こしました。津波は有明海沿岸の村々を襲い、およそ1万5千人の人々がなくなりました。これは『島原大変肥後迷惑』として、日本の火山災害の歴史において最大の死者を出した災害として記憶されてきました。」
http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/wlib/pdf/010101a.pdf

このレポートによると、寛政4年に崩壊した眉山は、もともとは3000年~5000年前に造られた溶岩ドームで、島原半島の台地は何度も山体の形成と崩壊を繰り返して作られたのだという。「島原大変肥後迷惑」という名前は、島原で眉山が山体崩壊を起こし(島原大変)、それに起因する津波が島原だけでなく、対岸の熊本(肥後)にも大きな被害を出す原因となったことから、そう呼ばれるようになったという。
この津波は「日没後、しかも大潮の満潮時近くに発生」し、「肥後・天草の沿岸各地を襲い…津波の遡上高は20~50mに達したと伝えられ、多くの家や田畑が波にさらわれました。これにより島原半島側でおよそ1万人、熊本県側でおよそ5千人の、あわせて1万5千人もが津波に流されたり土砂に生き埋めにされて亡くなりました」(p.13)とある。死因別には分類されていないが大半が津波の犠牲者のようである。

雲仙岳と有明海・島原湾

この被害者の数は、わが国の火山災害史上最多となるのだそうだが、ではどの程度の土砂が有明海に流れたのであろうか。国土交通省の推定によると、眉山の崩壊土量は3.25億㎥で、海に流れ込んだのは2.76億㎥というのだが、単純に考えると、一辺が651mの立方体の土砂が一気に海に流れ込んだことになる。

この衝撃で津波が発生して島原の対岸の肥後や天草に襲い掛かり、肥後の海岸で反射した返し波が、再び島原を襲ったと考えられている。

「島原大変」のような山体崩壊によって津波が発生することは多くなく、わが国では同様な事例は、江戸時代に北海道の渡島大島と駒ケ岳で起きたことが記録に残されている。

渡島大島と石崎地区

渡島大島は離島である上に無人島であるため、噴火活動についての記録はないが、寛保元年(1741年)八月二十七日に寛保岳の大噴火があり、噴火の翌日に、対岸の江差から松前にかけて大津波が襲い1467人の死者が出たという。
最も大きな被害がでたのが上ノ国町の石崎地区で、50件ほどのあった家屋が全戸流出し、住民の生存者は1名だけで、他は全員溺死したと伝えられている。

「北海道旧纂図絵」に描かれた渡島大島の噴火

『函館市中央図書館デジタル資料館』で『北海道旧纂図絵 巻7 』を閲覧すると、この津波の絵が描かれているページを見つけることが出来る。
http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/reservoir/516eb5e51a5572427000144a

津波の原因について、気象庁は山体崩壊説を採っているようだが東大地震研究所は地震説を採っているという。渡島大島の写真を見ると、北側に大崩壊した形跡があるのだが、東大地震研によると、その山体崩壊のエネルギーでは寛保元年の津波の大きさを説明できないのだという。しかしながら、寛保岳の噴火の翌日に地震があった記録がないので、どちらが正しいかはよくわからない。

駒ケ岳と内浦湾

駒ケ岳については、寛永17年(1640年)に起きた噴火の際に山頂の一部が崩壊し、大小の岩塊が海に流れ込んで津波が発生したとされ、津浪が対岸に押し寄せて、700名余りが犠牲となったとされる。

徳川幕府の公式記録である『大猷院御実紀 巻四十四』の寛永十七年六月二十九日の条にこの記録が出ている。「大猷院」というのは、三代将軍徳川家光の法号である。

「この月十三日松前志摩守公廣が所領戸勝(十勝)より亀田にいたるまで、逆波のために打ち破られ、民家悉く漂没す。土民幷に蝦夷等五百余人溺死す。同日内浦嶽もえ出て。灰燼虚空にみち。十四十五両日の間すべて闇夜のごとしとぞ(紀年録。)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991117/300

テレビなどで解説される津波の解説はほとんどがプレート境界型地震の話で、山崩れによって津波が発生する可能性に言及することが少なすぎると考えるのは私ばかりではないだろう。地震が多く火山の多いわが国は、他国よりも山崩れによる津波が発生する可能性が高いと思われるし、もし起きた場合の被害は決して小さくないはずだ。しかしながら、その対策がほとんど何もとられていないのである。

近年で世界最大級の津波が、アメリカアラスカ州のリツヤ湾で1958年7月8日に記録されているが、津波の原因はマグニチュード7.7の地震により引き起こされた山体崩壊で、津波の高さは最大で524mに達したという。興味のある方は、次の動画が参考になる。
https://youtu.be/cj2IyBzJu0k

リツヤ湾

リツヤ湾を地図で確認すると、湾の入り口は狭く奥行12km、幅3kmと細長い湖で、周囲は山で囲まれている。
わが国で山体崩壊による津波が起きた雲仙岳のある有明海・島原湾も、駒ケ岳のある内浦湾も、リツヤ湾と同様に、周囲は山や陸地に囲まれて湾の入り口は比較的狭くなっている。このような地形は、普段の海は穏やかだが、もし山体崩壊や地盤沈下などで津波が発生すると、そのエネルギーは対岸に向かい、その帰り波はまたその対岸に向かうことになり、長い間内海の中に留まることが考えられる。
このような現象は海に限らず湖においても同様に起こるだろうし、山体崩壊だけでなく大規模で急激な地盤沈下(陥没)もまた同様の結果を招くことになるはずだ。

ネットでいろいろ検索していると1980年にアメリカワシントン州スカマニア郡にあるセントヘレンズ山が噴火時に山体崩壊を起こす動画が見つかった。この山体崩壊で山の標高は2950mから2550mに減少し、200軒の建物と47本の橋を消失させ、57人の犠牲者が出たという。
https://youtu.be/bgRnVhbfIKQ

同様の事がわが国でも起こる可能性があるのではないか。
富士山の大澤崩れは毎日ダンプカー48杯分の土砂が崩れているのだそうだが、富士山が山体崩壊した場合はどの程度の被害が想定されているのか。

静岡大学防災総合センターの小山真人教授が東京新聞に発表された『富士山の山体崩壊』というコラムがネットで読める。
小山教授は、富士山の北東側、東側、南西側の山体崩壊が過去に起きており、もし北東側が崩壊した場合は、最も被害が大きくなると述べておられる。
「大量の土砂が富士吉田市、都留市、大月市の市街地を一気に埋めた後、若干速度を落としながら下流の桂川および相模川沿いの低い土地も飲み込んでいき、最終的には相模川河口の平塚・茅ヶ崎付近に達する。このケースの被災人口を見積もったところ約40万人となった。事前避難ができなかった場合、この数がそのまま犠牲者となる。」
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/tokyoshinbun121031.html

富士山のような高い山が崩落すれば、猛烈なスピードで土砂が川や都市を埋め尽くしていくことになる。逃げることは殆んど不可能だ。
小山教授によると富士山の北東側の山体崩壊は1万5千年前に実際に起きており、相模川沿いを流れ下り、相模原市内の遺跡などにその痕跡があるのだという。

わが国には山体崩壊の可能性のある山は富士山以外にも多数存在するが、過去において山体崩壊を繰り返してきている山の土砂が流れるルートの周辺に住居などを建てることを制限することが必要ではないか。また、山体崩壊によって土砂が湾や湖に流れ込む可能性が高い海や湖の周辺地域も、住宅などの建築制限が必要だと思う。しかしながら、既に多くの人々が居住している場合の対策は難しく、せめて人口を他の地方に徐々に分散させていくことを誘導していくしかないだろう。平成3年の雲仙普賢岳の火砕流も、溶岩ドームがもっと巨大で島原湾に大量の土砂が流れ込んでいたとしたら、島原大変と同様に熊本にも被害が出た可能性が高かった。

西暦79年にポンペイの町はヴェスヴィオ火山の火砕流で埋まったと考えられているが、もし火砕流がポンペイを襲ったのなら、遺跡で肖像画などが焼けずに多数発掘されることはなかったと思うのだ。ヴェスヴィオ火山の噴火が引き金になって山体崩壊がおこり、一瞬にしてポンペイが土砂で埋まったのではないだろうか。
前々回の記事で、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、帰雲城と城下町が一瞬にして埋没したことを書いたが、同様のことがポンペイで起こっていたとは考えられないか。

山体崩壊は滅多に起こらないものではあるが、滅多に起こらないから何もしないのではなく、リスクの高い地域はある程度分かっているのだから、万が一起こった場合に少しでも人的被害が少なくなるような国土利用を推進してもらいたいものである。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史