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京都のお寺に育ったしばやんの歴史考察など

吉田松陰はペリーを暗殺するためにポーハタン号に乗り込んだのか

嘉永七年(1854)三月二十七日ペリーの二度目の来航の際に、吉田松陰と金子重之輔が海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗り込もうとした事件があった。二人は、渡航を拒否されたために下田奉行所に自首し伝馬町牢屋式に投獄され、死罪は免れたものの松陰は長州へ檻送されたのちに野山獄に幽囚されたのだが、松陰がペリーのいるポーハタン号に向かった目的は何であったのか。アメリカに留学しようとしたというのが通説になっているのだが、実は松陰はペリーの暗殺を狙っていたという説が存在するのが気になっていた。

松陰と重之輔

この事件については、米国側や日本官憲側の記録のほか松陰自身の記録が残されている。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 第32』にこの事件についてそれぞれの記録が引用されているので紹介したい。

米国側の『合衆国艦隊遠征記事』によると、
「彼 (松陰) らが甲板に上るや、士官はその旨を提督(ぺリー)に通じた。提督は通訳を遣わし、その不時の入来が何故であるかを尋ねしめた。彼らは正直に、何卒(なにとぞ)合衆国に伴い行かれたし。さすれば遠遊の志を達し、世界を大観することができるであろうとの旨を答えた。…
提督は彼らの来意を聞き、而してのち、自分も日本人を米国に同行するは、固より欲するところであるが、残念ながら君らをこのまま乗艦せしむることは出来ないと告げしめた。提督は日本政府の許可さえあれば彼らを伴うことは拒まない。而して艦隊も当分下田に碇泊すれば、彼らは十分にその許可を得る機会があろうと言わしめた。

彼らは提督の答えに、甚だ当惑した。彼らもし再び陸上に還らば、必ずその首を断たれることを告げ、熱心に留艦を許されんことを懇請した。この祈願は強くしかも懇ろに拒絶せられた (The prayer was firmly but kindly refused) 。彼らと通訳との談判はなお久しきに渉った。彼らはあらん限りの議論を尽くしてその志を達せんと努め、米国人の人道心に訴えた。端艇は下ろされた。彼らはその送去に際して、些か穏やかなる抵抗を試みたるのち、その不幸の運命を悲しみつつ蕭然(しょうぜん)として舷(ふなばた)を下った。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/149

吉田松陰
吉田松陰

この文章を素直に読めば、松陰は勉学のためにアメリカに渡ろうとしたことになるのだが、殺意をもって乗り込んだとしても、まずは米兵に疑われないように振舞って、船の中に留まることを認めてもらうように努力することは当然のことである。艦内に留まることが許されれば、直接ペリーと話ができるチャンスがいつか到来することが期待できるからである。

しかしながらペリーは二人が船に留まることを認めなかった。その理由は、吉田松陰がおそらく想定していなかったと思われる理由によるものであった。

徳富蘇峰の前掲書にはこう記されている。

「…提督が彼らを拒絶したるはこのぼんやりとしたる人道よりも、なお他に考慮するところがあったからだ。日本人の脱走を見逃すのは、日本帝国の法律に背くものだ。今や日本をば嫌々ながら重要なる譲歩をなさしめ、条約を締結したからには、そのうえは出来うるだけ日本の制度に適合するをもって、米国の政策とせねばならぬ。日本の国法は死刑のもとに、その臣民の外国に去るを厳禁している。たとい米国人には無罪と映ずるも、日本の国法の眼から視れば、外国船に逃れ来った者は、立派な犯罪者だ。
かつまた彼らの語りたるところは、別段疑うべき節はなかったが、しかも彼らが公言したる以外の卑俗なる動機から動かされて来たものであるやも料(はか)られない。あるいは彼らが米国人の面目(信義)を試みるための策略であるかもしれない。あるいはかく信じたる者もあった。
兎にも角にも提督は、彼らを厳罰より宥むるべく、これがほんの一些事であるという彼の心持を、あくまで日本官憲に合点せしむべく、細かに気を配った。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/151

ペリー

ペリーは、わが国に圧力をかけて条約を締結した以上は、わが国の法律を尊重すべきであり、国法を犯した者を匿って日本側を刺激するべきではないと考え、また彼らの渡米の動機は純粋に向学のためかもしれないが、別の動機があって接近してきた可能性も否定できない。確かにペリーにすれば、二人の乗船を拒否することが無難な選択であったと思われる。

次に『浦賀奉行支配組頭上申書』を紹介しよう。松陰らが米艦に乗船しようとした動機については、こう記されている。
「…亜(アメリカ)船浦賀へ渡来、不穏につき、異国の状態審(つまび)らかに弁(わきま)え候こと、国家の急務と存じ付き、異船へ乗り組み、五大州研究の外はあるべからず。しかしながら御大禁の儀につき、身を捨て、策を行うにしかじと決心し、ひそかに異船乗組み、地球実験のうえ、皇国の御為に致すべしと覚悟を極め、師範修理へもはかり候おりから、魯西亜(ロシア)船四艘、長崎表へ渡来につき、魯人へ頼み、ひそかに乗り組み、異国へ渡るべしと、去る丑年九月中一人にて長崎表に到り、種々周旋候えども、宿意を遂げず、むなしく江戸へ帰り、…この度亜米利加(アメリカ)船渡来につき、宿意を遂げたく、…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/154

このように、プチャーチンの来航の時も同様の目的で長崎に行き、軍艦に乗り込もうとしたが果たせず、江戸に帰ったら今度はペリーが渡来したので、今度こそは目的を果たそうと考えたことが書かれている。
そして、ペリーから乗船を断られた理由については、
「その方の願意、使節においても歓(よろこ)ばしく、尤(もっと)もには存じ候えども、横浜に於いて日本の天下と、亜米利加の天下と、事の約定もこれあり、追っては互いに通路ひらくる上は格別、この節内々に連れがたし。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/155
と記されている。

これらの資料を素直に読めば松陰は留学のために渡米しようとしたことになるのだが、松陰がペリーを討ち取る意思を持っていたことを示す手紙が残されているので紹介したい。

宮部鼎蔵
【宮部鼎蔵】

『国立国会図書館デジタルコレクション』で『吉田松陰全集第5巻』に嘉永六年(1853)六月十六日付けで同志の宮部鼎蔵宛てに記した手紙の一節が収録されている。
ペリーの第一回目の来航ののち、米艦隊が江戸を離れた四日目に記されたこの手紙は漢文で書かれていて読みづらいのだが、最後の文章はペリー暗殺を宣言したとしか読めない。

「唯所待春秋冬間又来(ル)ヨシ。此時コソ一当ニテ日本刀ノ切レ味見セ度(タキ)モノナリ。此度ノ事列藩ノ士及策士論者決打払者十ニ七八噫惜哉(聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるという。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものである。この度のことで、ペリーを打払うべきだとする者は、七八割はいた。)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1051547/98

久坂玄瑞
【久坂玄瑞】

また文春新書の『ひとすじの蛍火—吉田松陰 人とことば』に、安政三年(1856)夏に愛弟子の久坂玄瑞に送った手紙の内容の一部が紹介されている。

嘉永六年秋、熊本で再開した宮部は『なぜペリーが浦賀にいたときに斬らなかった』となじる。僕が『君こそロシアのプチャーチンを斬らなかったではないか』と反論すると、『彼は斬る必要はない』と譲らない。二人とも江戸にいた翌安政元年、ペリーが再来航した。宮部と僕の二人は憤慨してこの米国人を斬ろうと…」(『ひとすじの蛍火—吉田松陰 人とことば』p.158-159)
できれば全文が読みたいと思って吉田松陰全集の索引を調べてみたが、残念ながら全集にはこの手紙が収録されていないようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155664/485

投夷書
【投夷書】

吉田松陰自身が記した文章もいくつか残されている。
『吉田松陰全集 第10巻』に、米艦に乗り込もうとした際にその趣旨を記した『投夷書』が収録されている。ここには、渡航を志した理由についてこう記されている。

日本国江戸府の書生瓜中(くわのうち)萬二・市木公太、書を貴大臣各商館の執事に呈す。…支那の書を読むに及んで、稍欧羅巴(ヨーロッパ)、米利幹(メリケン:米国)の風教を聞知し、乃ち五大洲を周遊せんと欲す。然り而して吾が国は海禁甚だ厳しく、外国の人の内地に入ると、内地人の外に到ると、皆ゆるさざるの典あり。ここを以て周遊の念勃々然として心胸の間に往来し…幸いにして今貴国の大軍艦…吾が港口に泊し、日たる已に久し。…今即ち断然策を決し、将に深密に請託して貴船中に仮坐し、海外に潜出して以て五大洲を周遊せんとす。また国禁をも顧みざるなり。願わくは執事かたじけなくも鄙衷を察して、この事成れるを得しめられよ。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048683/241

このように二人とも本名ではなく偽名を用いているのだが、純粋に向学のために渡米を望んでいた人物が、米艦に乗船することを懇願する文章で偽名を使うことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。
通説では、この『投夷書』で書かれているような動機で渡米しようとしたとされるのだが、松陰が偽名を使って記したこの文章の内容を、そのまま鵜呑みにして良いのだろうか。

また吉田松陰は乗艦に失敗した三月二七日について、かなり詳しい記録(『三月二七夜記』)を残している。この文章も『国立国会図書館デジタルコレクション』で誰でも読むことができる。

通訳 ウィリアムズ
【通訳 ウィリアムズ】

松陰と金子は放置してあった小さな漁船に乗り、旗艦ポーハタン号に接近していく。米兵は棒で松陰たちの小舟を突き離そうとし、松陰たちはたまらずにタラップに飛び移ったという。小舟には腰刀や文書などが残されていたのだが、小舟は大きく揺れて、刀や文書などを持っていく余裕はなかったと思われる。
二人は五~六名の米兵に囲まれ、しばらくすると通訳のウィリアムズが出てきたという。松陰らが直接交渉した相手はウィリアムズでペリーは二人の前には現れなかったようだ。

ポーハタン号
【ポーハタン号】

松陰が、この交渉がうまくいかなかった理由について述べているところを引用したい。文中の「渋木」とは金子重之輔の変名であり、櫓杭(ろぐい)とは、船尾の櫓床(ろどこ)につける小突起で、櫓の入れ子をはめて、櫓を漕ぐときの支点とするものである。

「…夷船に乗り移る際少しく狼狽す。故に我が舟を失う。もし舟を失わず、また要具を携え舶に登らば、後に心がかりなく、舶中に強いてとどまることを得、我が文書等を夷人に示し、また舶中の様子を見んことを求め、海外の風聞などを尋ぬる間に夜は明くべし。夜明けば白昼には帰り難しと言いて一日留まらば、その中には必ず熟談も出来、計自ら遂ぐべし。たとい事遂げずとも、夜に至り陸に返り急に去らば、かかる禍敗(かはい:思いがけない失敗)には至らぬなり。そのことの破れのもとを尋ぬれば櫓杭なきばかりにてかくなりゆけり。…
渋木生甚だ刀を舟中に遺せしを大恥大憾とす。然れども敗軍の時は何も心底に任せぬものなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048683/239

櫓杭

このように、金子重之輔の腰刀と、文書などを携えて乗船していれば、計画を遂げることができたと述べ、もしそのまま追い返されたとしても(文書を携えて)陸に戻れば、このような失敗には至らなかったと述べている点は重要である

二人は米艦が用意した船に乗せられて上陸したのだが、
「上陸せし所は巌石茂樹の中なり。夜は暗し。道は知れず、大いに困迫する間に夜は明けぬ。海岸を見廻れども我が舟みえず。因って相謀りて曰く。『事已にここに至る、奈何ともすべからず、うろつく間に縛せられては見苦し』とて、直ちに柿崎村の名主へ往きて事を告ぐ。遂に下田番所に往き、吏に対し囚奴となる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048683/239

失敗しても陸に戻れば罪に問われることはないと踏んでいたのだが、舟を失ってしまって中に残していた文書などが見当たらない。もしこれらの書類が先に奉行所に渡っていたことを考えて、「うろつく間に縛せられては見苦し」と判断して自首したのであるから、当時のわが国では重要な犯罪の証拠となるような書類などが含まれていたことは間違いないだろう。もともと2人は死を覚悟していたにせよ、早く手を打たないと他の仲間を事件に巻き込むことになるという場合は、早く自首をして2人だけの責任でやったと言い張るしかない。

川口雅昭

人間環境大学教授の川口雅昭氏は、吉田松陰はペリー刺殺のために近づいたのだが失敗し、佐久間象山・横井小楠・梅田雲浜・宮部鼎蔵といった関係者に累が及ばないようにウソをついたという説を唱えられているのだが、その仮説はそれなりに説得力があり、ほかにもそれを裏付ける証拠があるようである。

森田節斎
【森田節斎】

川口氏の論文にはこう解説されている。
肥後勤皇党の中村敬太郎直方が、文久年間に蟄居させられた永鳥三平の処分解除を求める『建議』の中で『吉田寅次郎(松陰)はペリーを一刺しにせんと船に乗り込みました』とはっきり書いています。また松陰の先生でもあった森田節斎*は、下田事件の真相、つまり松陰がアメリカの大将を刺しに行ったことを同志に伝えよと書いた手紙を弟葆庵(ほあん)に送っている。僧月性(げっしょう)や宇都宮黙霖(もくりん)も、松陰の真意を知っていたことをうかがわせる文章を残しています。」(『歴史通』2010年5月号p.208『松陰が謀ったのは「ペリー暗殺」』)
*森田節斎:幕末・明治の儒者・志士。大和五条生。上京し猪飼敬所・頼山陽に学び、江戸の昌平黌に入り、のち京都に塾を開き、吉田松陰・乾十郎ら尊攘派志士を輩出した。

できれば中村敬太郎の『建議』や森田節斎らの手紙の全文を読みたいところだが、これだけ通説と矛盾する資料が存在するのならば、通説が誤っていることを考えることも必要だと思う。
公式の記録や本人やその仲間が記した内容が常に真実であるとは限らず、自分の家族や仲間を守るために、組織を守るために真実が歪められて記録されたり、敢えて記録されないことがありうることは、いつの時代もどこの国でも言えることである。
          
嘉永六年の最初のペリー来航時に、松陰が次のペリー来航時にペリーの命を奪う決意をしたことは確かなようだが、松陰が途中で考え方を改めたかも知れず、嘉永七年三月に金子重之輔とポーハタン号に乗り込む際にペリーを暗殺する意思があったと断言することはできない。
とは言いながら、もし松陰らがペリーを暗殺していたとしたら、わが国とアメリカとの軍事衝突は避けられなかったであろうし、その後のわが国の歴史は大きく変わっていた可能性を感じる。

辛未洋擾
【辛未洋擾】

お隣の朝鮮半島では鎖国攘夷政策が続き、1866年に李氏朝鮮との通商をもとめて来航した米商船ジェネラル・シャーマン号が砲撃にされたのち焼き討ちされ、乗組員全員が虐殺される事件が起きた。(ジェネラル・シャーマン号事件)
アメリカはこの事件の謝罪と通商を求めてアジア艦隊に朝鮮派遣を命じ、1871年に極東艦隊司令長官ロジャースは5隻の軍艦を率いて江華島に現われ、抵抗する朝鮮軍を砲撃したのち海兵隊を上陸させて草芝鎮、徳津鎮、広城鎮を2日間で制圧し、朝鮮軍は240名以上の戦死者を出した(辛未洋擾:しんみようじょう)ことを知るべきである。

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「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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