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京都のお寺に育ったしばやんの歴史考察など

兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか

仙台藩や米沢藩を通じた恭順嘆願も奥羽鎮撫使に拒否されてしまい、会津藩は和平嘆願に希望を失って、自藩防衛の戦いに身を投じることとなる。

白河城
【白河城】

奥州鎮撫使参謀の世良修蔵は白河城を会津攻撃の足掛かりにしようと考え、慶応四年(1868)閏四月十六日に仙台藩士高城左衛門に白河城の兵力配置の変更を命じている。しかし、仙台藩はすでに新政府と戦うことを決意していたので世良の情報は仙台藩から会津藩に筒抜けとなった。

白河地図

白河は、古くは「白河の関」が置かれた奥州の玄関口で、猪苗代湖の南から会津若松を攻略するための要地であり、白河藩は慶応三年(1867)に阿部氏が棚倉藩に移封されたのち幕領とされ、城郭は二本松藩丹羽氏の預かりとなっていて、当時は二本松藩のほか仙台、棚倉、三春などの諸藩兵が新政府から駐屯を命じられていた。
仙台藩家老の坂英力が会津藩家老梶原平馬に、宇都宮方面からの新政府軍が白河城に入城する前に白河を奪うべきだとの書状を送り、閏四月十九日には城に駐屯していた仙台藩兵を須賀川まで後退させわずかの兵しか残っていない状態にして、会津藩は閏四月二十日に急襲して白河城を占領し、また同じ日に仙台藩は奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵を斬首し、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを軟禁している。

当時新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたのだが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令でそのまま白河へと前進し、二十五日に新政府軍の先遣隊が城に奇襲をかけたのだが、無理な強行軍の疲労と弾薬不足もあり、会津軍に撃退されている。

西郷頼母
【西郷頼母】

この間、閏四月二十二日に仙台で奥羽列藩同盟が結成され、二十六日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母(たのも)が、副総督として同若年寄横山主税(ちから)が千余人と砲二門を率いて白河城に入城した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着し、白河城の奥羽同盟軍は総勢二千五百~三千人、砲十門の大部隊となった

一方、新政府軍は二十八日に白河南方の白坂に結集し、その兵力は薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍(おし)藩による七百人、砲八門であったという。

五月一日の朝から戦闘が始まった。
単純に兵力を比較すると圧倒的に同盟軍が優勢であったのだが、白河本町の庄屋川瀬才一の『白河戦争見聞略記』にはこう記されているという。

「五月朔日卯の上刻(午前六時)、官軍勢五百余人、九番丁関門外迄寄せ来れり。この兵の過半は前夜に来りて潜伏したりと云う。此日官軍より突然打ち出したるその炮戦烈しき是を聞くもの驚愕肝を冷さざるなし。此日官軍は関東口・米村口・棚倉口・原方口と四方に手を分って討ち入るゆえ、会津勢は手配りも案外に相違し大いに周章狼狽して大一番に棚倉口を破られ、挟み撃ちならんと心付き、桜町および向寺町に放火して東西に走せ、南北に散乱するの混雑、蜘蛛の巣(子)を散らすが如し。関東口、米村口、原方口の三方は一度に破られ会津勢は引揚げに、登り町に放火せり。斯の如くして此日皆破られ惣崩れとなりたり。この日の戦死者は六百八十余人なり。」(星亮一『奥羽越列藩同盟』p.112)

と、新政府軍が圧勝したのだが、この戦いを会津藩側の立場から記されている『会津戊辰戦史』で読んでみよう。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本だとされている。

会津戊辰戦史

卯の上刻(午前六時)西軍棚倉口桜町方面より大砲小銃を発すること頗る烈しく、純義隊以下の諸隊殆んど危うし。
「西兵返戦して三面より猛撃す。仙台の将佐藤宮内、坂本大炊赴き戦う。大炊逢隈川を渡りて西に進む。弾丸その頭を貫きて斃る。仙将瀬上主膳衆を励して戦う。日向茂太郎之に死す。東軍支うること能わず。米村の堤防に拠って戦いしも、忽ち砲兵十余人皆斃(たお)れ頗(すこぶ)る苦戦の状あり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/183

横山主税
【横山主税】

副総裁横山主税自ら采配を振って衆を励し、稲荷山に登るや忽ち弾丸に中(あた)りて斃る。戦い猛烈にして遺骸を収むるに遑(いとま)あらず。…諸将殊死して戦うと雖も遂に利あらず。仙兵は根田、小田川の方面に退き、その他は白河の市街に退きしが、混乱状態に陥りて収拾すべからず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/184

ライフリング

東北軍が大敗を喫した理由は兵器の差が大きかった。
以前このブログで書いたとおり、長州藩や薩摩藩は幕末の早い時期から、ミニエー銃などの最新の武器を購入していた。ミニエー銃には銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施されていて、銃弾はロケットの様に円柱の先が尖った形になっているので、銃弾が発射されると鋭い回転が与えられ、銃身に螺旋状の溝がなく球形の弾を用いる従来の銃(マスケット銃)よりも飛距離と命中精度に格段の差があったのである。
辰戦争で新政府軍の主力小銃はイギリス製のエンフィールド銃(ミニエー銃の一種)であったのだが、会津藩など東北諸藩はマスケット銃で新政府軍と戦ったのである

Wikipediaにミニエー銃の発明が世界の戦争を変えたことがわかりやすく記されている。

高い命中率と1,000ヤード*まで延長された射程を実現したエンフィールド銃は、歩兵運用の基礎条件を大きく変えてしまった。
エンフィールド銃を装備した部隊と従来のマスケット銃を装備した部隊が交戦した場合、マスケット銃側は有効射程の100ヤード(マスケット銃の命中率は50%)まで接近するためだけに、最大で900ヤードに渡る死のロードを友軍の屍を乗り越えつつひたすら進まねばならなかった

マスケット銃が運用されていた当時の主力兵科である戦列歩兵の前進速度は60m/分(イギリス式)であったため900ヤードの距離を進むためには13分以上かかるが、この間にエンフィールド銃は30〜40回の射撃が可能であるため仮に1,000人のマスケット銃兵を相手にした場合でもエンフィールド銃装備の部隊は理論上25人の小部隊で無傷のまま相手を全滅させてしまう事ができた
また、エンフィールド銃がもたらしたもうひとつの変化は、マスケット銃の球弾に比べて複雑な形状の弾丸が高速で回転しつつ人体へ命中すると、弾体が極度に変形しつつ人体内部へくい入ることで、マスケット銃よりも格段に酷い銃創が作られる現象だった。
しかし当時の用兵者の多くはこの事実を認識せずに戦場に臨んだため、身を以ってエンフィールド銃の威力を経験させられたクリミアのロシア兵やインドのセポイ達の犠牲にも拘わらず、その後の南北戦争や戊辰戦争における戦いでも18世紀的な密集陣形を取らされた多くの兵士が即死した。」
*ヤード:1ヤード=3フィート=91.4cm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83

上記記事には、戊辰戦争に於ける会津藩に、新政府と比べて武器の性能が劣っているとの認識があり、新式装備の調達を目指していたが、新政府軍(特に長州藩兵)が会津殲滅を目指している事をいち早く知った外国商人達から積極的な協力が得られないまま新式銃器の入手が大幅に遅れ、何も届かないうちに開戦したことが脚注で記されている。東北諸藩で最新兵器が届いたのは、新政府軍が通過した後の事だという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83#cite_note-9

戊辰戦争

かくして政府軍は奥羽侵攻の要である白河城を一日で占拠したものの、それ以上の追撃戦に移ることは出来なかった。その理由について佐々木克氏の『戊辰戦争』にはこう解説されている。

「上野の山にたてこもる彰義隊はまだ掃討されず(上野戦争は五月十五日)、北関東の旧幕兵ゲリラも、まだ完全に制圧していなかったから、戦力の増強が出来なかったのである。戦線が伸びれば、会津藩を拠点に、三斗小屋から黒磯、あるいは五十里湖から日光、今市に進出しようとする大鳥圭介をはじめとする旧幕兵らに退路を遮断される危険があった。しかも北越では、五月二日、河合継之助と岩村精一郎の慈眼寺会談が決裂して、長岡戦争が始まった。政府軍全体が苦境におかされていた時期であった。」(『戊辰戦争』p.138-139)

新政府軍に銃弾などの補給がほとんど行われていなかったので、同盟軍は白河城から南下して旧幕府勢力に加勢し白河城の新政府軍を孤立させるなど、戦い方がいろいろあったと思うのだが、同盟軍の全軍をコントロールするような指揮官がおらず、新政府軍の銃器と戦う戦術も拙かった。

細谷十太夫
【細谷十太夫】

『会津戊辰戦史』に仙台藩衝撃隊長であった細谷十太夫の戦いぶりが記されているので引用させていただく。

「五月二十一日…仙台藩衝撃隊長細谷十太夫小田川に進む。西兵已に七曲の山上にあり、十太夫部下六十七名に命じ盡く刀を抜き一斉に突進して西兵を衝かしむ。西兵辟易して退く。…十太夫は五月一日の敗報を聞き憤慨に堪えず、一刀を佩び皆黒装なり。十太夫常に部下に謂って曰く、敵は銃隊なれば遠きに利あり。我が隊は之に反して近きに利あり。故に一、二人斃るる者ありとも顧(かえりみ)ることなく進んで敵を衝(つ)けと。毎度此の如くなれば、銃丸多くは空しく頭上を過ぎ命中すること少なく、向う所前なく、人その勇武を称して烏(カラス)組と云う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/188
夜襲が中心だったとはいえ、このように敵の射程圏内に集団で突入するような戦い方を繰り返していたら、たとえ兵の数が優位であっても勝てるとは思えないのだが、細谷十太夫本人はこのやり方で生き残り、日清戦争では陸軍少尉となり、後に竜雲院という寺の住職となって戊辰戦争、日清戦争の戦没者を弔ったという。

列藩同盟を結んだ諸藩の白河方面への軍隊結集が遅れていたのでこのような小競り合いがしばらく続いたようだが、ようやく諸藩の兵が集まって列藩同盟軍は五月二十六日に約二千の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけている。しかしこの日も城を攻略できず、さらに二十七日、二十八日と連続して攻撃をかけたのだが新政府軍に撃退されてしまう。

一方新政府軍は五月十五日の上野戦争の勝利ののち、ようやく板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城増援に向かい、白河城の政府軍勢力は一挙に千五百~千六百名に増強されている。
同盟軍はその後も何度か白河城を攻撃するのだが、戦果はなかった。これまで多くの犠牲者を出してきても、同盟軍の戦い方は相変わらずだったようだ。

例えば佐々木克氏は前掲書でこう述べている。
「六月十二日、同盟軍は四たび白河城政府軍を攻撃した。だが今回も戦果はなかった。とくに仙台藩兵の拙戦がめだった。100メートルほどしか飛ばない和銃や丸玉のヤーゲル銃で遠くから発砲し、近づいていっては政府軍のエムピール銃やミニエー銃の300メートルはある射程の中に入って打撃を受けた。この日の戦闘で仙兵死60、不肖25、二本松死8、負傷18、棚倉死15、負傷14、相馬死1と多くの死傷者を出して、貴重な戦力を消耗した。(会津藩の死傷者は不明)」(同上書 p.140)

新政府軍進路

同盟軍がこのような戦い方を繰り返す一方、六月十六日には平潟に新政府軍千五百名が上陸し、その後も続々と派兵されて七月中旬には新政府軍は三千の兵を擁するようになり、戦線が磐城から北方向へと拡大していく。
戦況が新政府に傾いていき、同盟軍は自藩の自衛の為にいつまでも白河に兵を出せなくなって、秋田藩や新庄藩などが列藩同盟から離反していくこととなる。そして七月十四日を最後に列藩同盟軍は白河周辺から撤退し、百日以上続いた白河口の戦いは終結した

この戦いで同盟軍は幹部多数を失い大量の死者を出したというが、新政府軍の死傷者は少なかったという。
列藩同盟軍はこの戦いの敗北をきっかけに雲散霧消し、勝機を逸してしまうことになるのである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html





関連記事

東北諸藩は薩長の新政府を嫌い、別の国を作ろうとしたのではないか

前回記事で、仙台藩が慶応4年(1868)閏4月19日付の奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が大山参謀に宛てた密書を入手し、世良がその書状で奥羽全体を武力制圧することを主張していることがわかり、20日に仙台藩がこの男を捕らえて斬首したことを書いた。

当日仙台藩の白石城に集まっていた奥羽列藩代表の会議(白石会議)の席上で、世良修蔵斬首の情報が入ったときの様子が、米沢藩士・宮島誠一郎の日記にこう記録されているという。
「満座人皆万才ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉不止」(出席者全員が万歳を唱え、悪逆人に天誅を加えたことに快哉を叫ぶ声が止まなかった)

白石城姿図
【白石城姿図】

しかしながら、参謀を殺害したことによって、東北諸藩は奥羽鎮撫総督府を相手に交渉することはできなくなったことは言うまでもない。白石会議では今後は東北諸藩の総意として、太政官に直接建白することを決議し、また各藩が一致団結するための盟約書の作成にとりかかっている。

戊辰戦争

佐々木克氏の『戊辰戦争』に、5月3日に奥羽25藩で調印された『白石盟約書』の内容が紹介されている。これを読むと、それまで奥羽鎮撫使が東北諸藩にどのような酷いことをしてきたかがある程度推測できる条項があるので、いくつかを引用させていただく。

「一、 強を負うて弱を凌(しの)ぐなかれ、私を計りて利を営むなかれ、機事を漏洩するなかれ、同盟を離間するなかれ。
一、 城堡の築造、糧食の運搬は、止むを得ずといえども、漫(みだ)りに百姓をして労役し愁苦にたえざらしむるなかれ
   …
一、 無辜を殺戮するなかれ、金穀を掠奪するなかれ、凡そ事不義に渉らば厳刑を加うべき事。
右の条々違背あらば、則ち列藩衆議し、厳譴を加うべき者也。」(佐々木克『戊辰戦争』p.118-119)

翌4日には、この同盟に越後長岡藩が加盟し、6日には新発田藩等北越同盟5藩が加入して、合計31藩による奥羽越列藩同盟が成立したのだが、この同盟を終始リードしたのは仙台藩と米沢藩で、仙台藩がタカ派で米沢藩がハト派であったという。

佐々木克氏の前掲書に、閏4月20日ごろに仙台藩の玉虫左太夫、若生文十郎が起草したという行動計画書の要旨が出ているが、驚くようなことが書かれているので紹介しておこう。

「総括
(18)参謀の惨酷残暴により奥州二州が愁苦に堪えかねてこの様な運びになったことを太政官始め天下列藩へ訴え公論をきく。
(19)仏・米・魯国を引きつけ海軍や兵器の手配を整える。仏米両国への接触は会津藩が担当する。
(20)東北諸藩はもちろん、西南諸藩まで同志のものへ密使を派遣し、東西協力の策略を打ち合わせ、敵の内部を切り崩す。
(21)旧幕臣や海軍と密策をめぐらし同時蜂起の手配をする。これも会津藩の担当とする。

(22)京都・江戸両地につめている藩士を帰還させる。
(23)秋田藩に異論があるようだが米沢藩が説得する。同様に八戸藩は南部藩の江幡五郎が説得に当たる。」(同上書 p.128-129)
原文は『仙台戊辰史』に出ており、次のURLにある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/262

東北諸藩だけでなく旧幕臣や海軍や全国の同志と連携し、さらに外国の力を借りて戦うことが堂々と書かれているのだ。そして実際に外国と交渉した記録が残されているのだが、どのような交渉を行ったのだろうか。

会津・庄内両藩 資金調達でドイツに打診

上の画像は2016年9月18日付の北海道新聞の記事だが、重要な内容なので引用したい。

「戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は『戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある』とみる。
 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた
 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
 それによると『シュネル*(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ』などと書かれているという。
 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)

*シュネル:会津藩と米沢藩の軍事顧問を務めていたヘンリー・スネルか、新潟で武器商を営んでいた弟のエドワルド・スネルだと思われる。
http://blog.goo.ne.jp/gooasagao/e/8c89179e6325546433c03b3362ad96ef

幕末の会津藩・庄内藩領

上の画像は同日の北海道新聞に掲載された北海道の地図だが、会津藩と庄内藩は北海道に結構広い領地を持っていた。もしこの地域にプロイセンの軍事拠点が出来ていたら、明治の歴史は大きく変わっていたことは確実だ。
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/4685933.html

ビスマルク
【ビスマルク】

少し補足しておくと、当時の信書は船便であったためにプロイセンに届くのに2か月もかかる時代であった。駐日代理公使フォン・ブラントが「会津・庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を最初に出したのは7月31日だったのだが、その手紙がビスマルクの手元に届いたのは10月初め頃と考えられる。ビスマルクは10月8日に一旦これを却下したのだが、後にゴーサインを出した。その後会津・庄内藩から蝦夷地を99年間貸与する話が出て11月12日に再びブラント公使が本国に手紙を出したが、その時点では会津藩も庄内藩も降伏していたためにプロイセンの出る幕がなかったという流れである。

このような史実は殆んど通史などには書かれていないのだが、Wikipediaに興味深い記事がある。

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89

エドワルド・スネル
【エドワルド・スネル】

安政5年(1858)に江戸幕府が締結した日修好通商条約で、下田・箱館のほかに五港を開港することが決められたことは教科書などにも書かれているが、新潟の開港が遅れていた。
新潟港は、当初は1860年1月と定められていたが、水深不足や国内の政治情勢で開港が遅れ、公式には明治2年(1869)1月1日を開港日としているのだが、工事は前年に完了しており戊辰戦争の最中に列藩同盟はこの港で武器の購入交渉を開始していたようなのである。
列藩同盟の武器の調達に関与した人物の一人が、北海道新聞の記事に出てきた「シュネル」という人物で、兄のヘンリー・スネルは会津藩・米沢藩の軍事顧問で、弟のエドワルド・スネルは武器商人で、出身はプロイセンだったようだ。このスネル兄弟の存在が、奥羽越列藩同盟の結成の大きな要因になったことは確実である。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 奥羽戦争篇〔第72冊〕』に、新潟港開港と列藩同盟の動きに関する記述がある。

「奥羽・越の連盟中には外交上の知識の持ち合わせある者もあり、その連盟の成立を条約各国に告げ、その公認を要め、堂々と交際せんことを期した。当時安政条約*の結果として、戊辰の春**より新潟は開港せられ、普魯西(プロイセン)領事等滞在したれば、仙台藩玉虫左太夫らの発議により、その案文を草し、5月30日各藩代表者の仙台の松井邸会議の際これを検定した。」
*安政(5カ国)条約:安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ条約の総称。 その後ポルトガル(1860年)およびプロシア(1861年)とも同様の条約を結んだ。
**戊辰の春:1868年の春

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/98

徳富蘇峰の前掲書に、プロイセンに宛てて列藩同盟の成立を知らせ、その公認を求めるための書状の案文が紹介されている。

「わが大日本国徳川氏累世継承の政権を、天朝に復してより、天子幼冲、万機草創、而して奸臣隙に乗じ、私意を挟み、もって朝憲をほしいままにす。これゆえにその令するところ、一に至誠惻怛の意に出づるあるなく、もっぱら残酷殺伐の威を逞しうし、もって天下諸侯を圧服す…」と新政府を非難したのち、
わが奥羽越列藩、君臣上下、其此の如きを察し、公議一定、同盟相結び、以て大義を天下に伸ばし、而して強暴の来者撃て、もって之を斥け、その去る者必ずしも追わず、もって皇国を維持し、而して天下聖明の治を待たんのみ」と各藩の態度を示し、
「…敢えて告ぐ。望むらくは領事館執事、僕輩の至衷を諒とし、之を各国諸公使に伝え、もってその他なきを明らかにせられよ。…」と述べて、列藩同盟を公認することを求めている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/98

奥羽越列藩同盟旗
奥羽越列藩同盟旗】

薩長政府の非道を訴えたのは、奥羽越列藩がプロイセンとの貿易を開始するために、新政府ではなく奥羽越列藩こそが新潟港で諸国と貿易を行う正統性があることを認めさせようとしたのだろう。
彼らは、「独立」という言葉は用いていないが、奥羽越列藩が中心になって薩長の勢力を朝廷から追い出すか、東北地方から追い払うなどして、新しい「皇国」を作ろうと考えたことは間違いなさそうだ。

北白川宮能久親王
輪王寺宮公現法親王

6月16日に輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を奥羽越列藩同盟の盟主として迎えている。
Wikipediaによると「輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、『動座布告文』と『輪王寺宮令旨』を発令している。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。」とある。また10月18日付のニューヨークタイムズは「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」と報道したという。輪王寺宮が『東武皇帝』として即位したという話もあるようだが、詳しいことは分かっていない。
しかし「輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされ」ていて、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が残されているようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E8%B6%8A%E5%88%97%E8%97%A9%E5%90%8C%E7%9B%9F

安政6年(1859)「新潟湊之真景」
【『新潟湊之真景』安政6年(1859)】

戊辰戦争中の新潟港の話に戻そう。
当時新潟港には、プロイセンのほかアメリカ、イギリス三国の領事が二隻の軍艦で来ていたという。各藩の全権と奥羽列藩との貿易交渉が開始されたのだが、各藩は軍需品の輸入に関心を持っていて、特に米沢藩と会津藩は武器輸入を新潟港に頼るしか方法がなかったので関心の度合いが強かったという。

プロイセン領土の拡張

幕末期以降イギリスが薩長倒幕側、フランスが幕府側について武器を供給したことは有名な話だが、徳川慶喜が大政奉還したのちフランスの対日方針が変わり、戊辰戦争の途中でフランス公使のロッシュが日本を去っていった。プロイセンのスネル兄弟は戊辰戦争の東北諸藩の動きを見て我が国で大量の武器取引ができるチャンスがあると判断し、ビスマルクも北海道の会津藩・庄内藩領を足がかりにして領土の拡張ができると考えたのだろう。

会津藩・庄内藩がプロイセンとこのような交渉をしたことを『売国奴』だと考える人が少なからずいると思うのだが、新政府に対して謹慎し恭順の意思を示していたにもかかわらず、ここまで両藩を追い詰めた薩長側にも大いに問題があったことは指摘せざるを得ない。

いずれにせよ、東北の戊辰戦争に早く決着がついたことは、わが国にとっては幸運であった。
もし戊辰戦争が長引いていたら、プロイセン(ドイツ)が北海道に軍港を作っていた可能性が高かったし、そうなっていたらわが国は日清・日露を全力で戦うことができず、今の北海道のかなりの部分が外国の領土になっていてもおかしなことではないのである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-490.html

イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-495.html





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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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