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京都のお寺に育ったしばやんの歴史考察など

越前和紙で栄えた地域の歴史と文化と伝統の味を楽しむ~~越前の歴史散策1

越前市は品質、種類、量ともに全国一位の和紙生産地として知られているが、この地における和紙作りには1500年という長い歴史があるのだという。そして、和紙生産の中心地である5つの集落(新在家町、定友町、岩本町、大滝町、不老町)を昔から五箇(ごか)と呼び、その大滝町にこの地に紙の製造法を伝えたとされる川上御前(かわかみごぜん)が祀られている神社がある。この神社には立派な社殿があるだけでなく神仏習合の行事が今も行われていて、平安時代の仏像が残されていることに興味を覚え、越前方面の旅行の最初に訪れることにした。
この地域を巡るには、次のURLにある「和紙の里」めぐりの地図がわかりやすい。
http://www.echizenwashi.jp/information/pdf/pamphlet_area.pdf

和紙の里地図

『越前和紙』のホームページに、この地における和紙生産のはじまりに関する『川上御前の伝説』が紹介されている。
http://www.washi.jp/history/index.html

継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として、まだ、この越前に潜龍されておられたころ、 岡太(おかもと)川の川上の宮が谷というところに忽然として美しいお姫様が現れました。
『この村里は谷間であって、田畑が少なく、生計をたてるのにはむずかしいであろうが、清らかな谷水に恵まれているので、紙を漉けばよいであろう』と、自ら上衣を脱いで竿にかけ、紙漉きの技をねんごろに教えられたといいます。習いおえた里人は非常に喜び、お名前をお尋ねすると、『 岡太川の川上に住むもの』と答えただけで、消えてしまいました。それから後は、 里人はこの女神を川上御前とあがめ奉り、 岡太神社(おかもとじんじゃ)を建ててお祀りし、その教えに背くことなく紙漉きの業を伝えて今日に至っています。」

継体天皇は応神天皇の5世孫にあたり、以前は男大迹王として越前国を治めていたのだが、第25代武烈天皇が跡継ぎを定めずに崩御された際に白羽の矢が立ち、中央豪族の推戴をうけて西暦507年に河内国樟葉宮において即位され、第26代の天皇となったとされている。この継体天皇が越前の王であった時代は5世紀末から6世紀のはじめなので、この地における和紙の生産について1500年以上の歴史があることになるのだが、この地における和紙生産が相当古くからおこなわれていたことについては、川上御前の伝承だけではなく、正倉院文書に記録が残されているという。

全国手すき和紙連合会のホームページにはこう解説されている。
「越前和紙は、日本に紙が伝えられた4~5世紀頃にはすでに優れた紙を漉いていたようです。正倉院文書の天平9年(737)『写経勘紙魁(しゃきょうかんしげ)』に「越経紙一千張薄」とあり、写経用紙として薄紙も納めていたので、すでに技術水準が高かったといえます。」
http://www.tesukiwashi.jp/p/echizen1.htm

川上御前
【川上御前】

紙漉きの業を伝えた川上御前は、紙祖神(しそじん)として今もこの地で尊崇され、その姿を模した分霊の像は、どこの紙屋でも高い場所に鎮座されているのだという。この神様は、わが国で存在する唯一の「紙の神様」なのだが、群を抜く越前和紙の品質の高さは、紙祖神に対する地域の人々の厚い信仰抜きでは語れないのだと思う。

前掲のホームページにはこう解説されている。
「平安時代には中男作物の紙を納め、中世には鳥子紙・奉書紙の名産地となっています。近世にはさらに檀紙の産地として名声を博し、最高品質を誇る紙の産地で、『雍州府志(ようしゅうふし)』は「越前鳥子是を以て紙の最となす」と讃え、『経済要録』には「凡そ貴重なる紙を出すは、越前国五箇村を以て日本第一とす」と評しています。
寛文元年(1661)に初めて藩札を漉き出したのも、明治新政府の太政官金札(だじょうかんきんさつ)用紙が漉かれたのもこの地です。また、横山大観始め、多くの芸術家の強い支持を得て、全国に越前和紙の名は知られています。」
http://www.tesukiwashi.jp/p/echizen1.htm

岡太神社 大瀧神社 鳥居

上の画像は大瀧神社・岡太(おかもと)神社(〒915-0234 越前市大滝町23-10 ☏ 0778-42-1151)の鳥居で、主祭神は大瀧神社が国常立尊(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)で、岡太神社が川上御前である。
標高326mの権現山山頂付近にある奥の院にはそれぞれの本殿が別々に建てられているそうだが、下宮の本殿・拝殿は両神社の共有になっているというところが面白い。

大瀧神社 境内の紅葉

この神社の境内域の森林はふるさと文化財の森に指定されており、鳥居をくぐると樹木に囲まれた神秘的な雰囲気の境内が広がる。この時期は銀杏の木の色づきが鮮やかで、今月下旬までは美しい秋の景色が楽しめそうである。

手水舎で手を清めていると、ボランティアの方に声をかけて頂き、木造十一面観音(越前市指定文化財)の拝観を勧められ、手水舎の奥にある観音堂(絵馬堂)に向かった。
大瀧神社はもともと神仏習合で「大瀧児(おおちご)権現(大瀧寺)」と称し、中世には勝山市の平泉寺の末寺となり広大な寺域に48坊の堂塔が建ち600余人の衆徒がいて隆盛を誇ったが、織田信長による一向一揆討伐の兵火にかかり全山が焼失。その後丹羽長秀を始め歴代領主の保護を受けて復興したのち、明治維新の神仏分離令により大瀧神社と改称されたという。仏像などは処分せず、法徳寺などの寺に預かってもらったおかげで、貴重な平安時代の仏像が今も残されている。

大瀧神社 絵馬堂の十一面観音座像

観音堂にある木造十一面観音坐像はご祭神の本地仏として平安時代初期に制作されたものだという。神社が仏像を保有している事例は今まで何度かこのブログで書いてきたが、所有している仏像を一般に公開しているところは殆んどない。大瀧神社が仏像を保有していることは事前に調べて知ってはいたが、拝観は難しいと思っていたので、拝観の声をかけて頂いただけでなく撮影の許可までしていただいた時は本当に嬉しかった。この日はたまたまバスで団体の観光客が来られる予定とのことで、運よく拝観できたのかもしれない。

大瀧神社 神門

上の画像は神門だが、この門をくぐると国の重要文化財である大瀧神社本殿および拝殿がある。

大瀧神社 拝殿・本殿

この建物は天保14年(1843)に建築されたものだが、屋根は檜皮葺で重厚にして躍動感があり、柱や本殿の壁面などには驚くほど装飾性の高い彫刻が施されている。大工の棟梁は大久保勘左衛門で、大本山永平寺の勅使門を手がけた人だという。

大瀧神社 拝殿の彫刻

上の画像は拝殿の彫刻で、下の画像は本殿の彫刻であるが、この地域が和紙作りで如何に豊かであったかが、この建物を鑑賞すれば誰でもわかるだろう。

大瀧神社 本殿の彫刻

権現山の山頂付近に奥宮があり、岡太神社、大瀧神社、八幡宮の三つの建物が並んでいるのだそうだ。御神木の大杉やぜんまい桜、ブナの大木が林立する社叢を観ても良かったのだが、旅程を優先して断念した。奥宮までは歩いて約30分とのことだった。

次の目的地である紙の文化博物館(〒915-0232 越前市新在家町11-12 ☏ 0778-42-0016)に向かう。道路の反対側にコミュニティー広場の無料駐車場があり、チケットは卯立の工芸館と共通である(\200)。

紙の文化館には越前和紙の産地の歴史や和紙の利用についての様々な展示がある。
明治維新後、幕府などに納めていた越前和紙の需要が激減し、五箇の紙漉きは存続の危機に陥るのだが、明治維新政府の参与となった福井藩出身の由利公正が、全国統一紙幣である太政官札の発行を建議し、藩札用紙の漉き立ての実績があり大量生産が可能な五箇の紙が選ばれたのだそうだ。その後、新政府発行の紙幣はドイツ製の洋紙に変更されたが、明治8年(1875)に大蔵省抄紙(しょうし)局が設けられ用紙の独自製造が再開されると、その際に越前和紙の紙漉き職人が上京して新紙幣の用紙を漉いて技術指導を行った記録がある。
また越前和紙職人は偽造防止の為に透かし技法を開発し、日本の紙幣製造技術の飛躍的進化に貢献したという。その後も大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に「川上御前」の御分霊が奉祀され、昭和15年(1940)には大蔵省印刷局抄紙部出張所が岩本(越前市岩本町)に設置されるなど、越前和紙の技術はわが国の紙幣発行に不可欠なものであったのである。

卯立の工芸館

紙の文化博物館から歩いてすぐの所に卯立の工芸館(〒915-0232 越前市新在家町9-21-2 ☏ 0778-43-7800)があり、紙漉き職人の実演を見ることが出来る。
この建物は、江戸中期寛延元年(1748)に建てられた紙漉き家屋・西野平右衛門家を平成8~9年に移築したもので、国登録文化財になっている。

卯立の工芸館の玄関を入った土間と板の間

玄関を入ると広い土間と板の間があり、紙の原料である楮(こうぞ)などの煮釜がある。そして流しや井戸があり、紙漉き場がある。

紙漉き実演

和紙を作るには原料の皮をはぎ、白皮を煮たあと塵を取り、煮た皮をトントンとたたいて繊維を解きほぐし、叩いた皮を水の中で念入りに洗って不純物を洗い流す。その後漉舟の中の紙原料が早く沈まないようにするため、とろろあおいの根の部分を臼でついて採った粘液(ねり)をまぜる。そうしてから紙を漉くのだが、簡単そうに見えるものの均一な和紙に仕上げるためにはかなりの熟練が必要だという。あとは圧搾して水分を絞り、1枚ずつ板に張り付けて天日で紙を乾かすのだが、越前では紙の肌合いを重視して、干板は雌の銀杏の板を用いるのだそうだ。

この工芸館で本格的な流し漉き体験ができるコース(一人5千円)があるのだそうだが、簡単な紙漉き体験なら近くのパピルス館で封筒作りやうちわ作りなど多くのメニューが用意されているようだ。

しかしながら、よくよく考えると、今日の生活で和紙を使うことが随分少なくなってしまっている。昔は筆で字を書くこともあったのだが、今ではほとんどなくなってしまった。
パソコンや携帯機器が普及したことの影響で手紙を書くことがなくなり、書類なども印刷することが少なくなって、和紙だけでなく洋紙の需要も低迷しつつある。また電子マネーの利用が増加して、紙幣の需要も低下傾向にあり、このままでは、和紙にせよ洋紙にせよ、どちらも市場は縮小していくばかりである。
この地域の素晴らしい文化と伝統と景観を守るためには、越前紙が売れることが必要なのだが、そのためには絵画用、版画用、工作用、手芸用、建築用などの用途をもっと開拓していかなければならないはずだ。しかしながら紙という素材は、書く、描くという用途を離れて、消費者が飛びつくような新しい商品を開発することは決して容易なことではないのである。とりあえずおみやげに便箋を1つだけ購入したが、いつ使うことになるかはわからない。

せっかく越前に来たのだから、昼は越前蕎麦が食べたいと思って、近くの森六(越前市粟田部町26-20 ☏ 0778-42-0216)に向かう。和紙の里のコミュニティー広場の駐車場から1.5kmで、車で5分程度で到着する。

森六店内

明治4年創業の古いお店で、店構えも店内もレトロな雰囲気が漂う。店内には所狭しと芸能人らの色紙が飾られている。

越前蕎麦

メニューは越前おろしそばと越前せいろそば、スペシャルせいろそばの3つだけだが、迷わずおろしそばの大盛りを注文した。

黒っぽくてやや太めの蕎麦の上に辛味大根とネギと鰹節が載っているだけなのだが、噛めば噛むほどそばの甘みとおろしの辛みが混ざり合ってなかなか旨かった。
<つづく>

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【ご参考】
このブログで紹介した、神仏習合の風景が楽しめる神社。

いずれも、神社の境内に三重塔や多宝塔が残されています。

①柏原八幡宮(兵庫県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

②名草神社(兵庫県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

③談山神社(奈良県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

④新海三社神社(長野県) 
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html

⑤若一王子神社(長野県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-404.html

④邇々杵神社(滋賀県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-558.html

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関連記事

明治政府にとって「徴兵制」のハードルは高かった

教科書などでは、明治4年(1871)の「廃藩置県」について、明治政府は薩長土三藩から御親兵を募り中央集権を固めたうえで、藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣したことが記されている。
この廃藩置県を断行するということは、国の防衛のありかたを根本的に見直さざるを得なくなるのだが、その点については明治政府内で様々な議論があったようだ。

明治文明綺談

菊池寛の『明治文明綺談』(昭和18年刊)にはこう解説されている。

「つまり廃藩置県の結果、各藩の常備兵は自然に消滅することになる。そのため、全国一途の兵制が建てられることになり、東京、大阪、鎮西、東北の四ヶ所に鎮台が置かれ、各地に分営が置かれることになる。この鎮台弊をどこから採用するかということになると、各藩の藩兵が消滅したのであるから、広く国民一般から募集せざるを得なくなるわけだ。徴兵制によらなければ、鎮台に必要なる兵員を満たすわけにはゆかぬのである。
 しかし徴兵制は、直ちに要路者の全部の賛成を得るまでには至らなかった。
 百姓町人から徴兵せずとも、士族だけからでも必要な人数は得られるではないか、というのが薩摩出身の政治家たちの世論であった。嘗て大久保利通が、大村益次郎の所説に反対したのは、全く士族徴募論を採ったからである。西郷隆盛は公然とは反対しなかったが、徴兵に就いて不満を持っていたことは察しられよう。戦争は侍がやるものとは、彼の終生易(かわ)らぬ信念だったからである。だから、後の西南戦争でも、『百姓出身の兵隊を殺す出ないぞ。民兵が降参してきたら、許してやれ』と言って、あくまでも軍人は武士であるという信念はかえなかった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/103

谷干城40
【谷干城】

西洋諸国と同様に、わが国においても国民皆兵の徴兵制が必要であることを唱えたのは大村益次郎山縣有朋であったのだが、もし徴兵制が実施されると士族は本来の職能である軍役から離れて存在意義を失うことになるは言うまでもない。
この動きに最も不満を懐いたのは、薩長土三藩出身の近衛兵であったという。菊池寛の前掲書に谷干城の隈山詒謀録(わいざんいぼうろく)の次の一節が引用されている。文中の「桐野」は桐野利秋、「山縣大輔」は山縣有朋(当時兵部省の大輔)を指している。

「初め三藩の獻兵は皆、維新戦功の弊にして、此を以て朝廷の基礎を固め、廃藩を断じ、此の兵は長く徳川の旗本八萬旗の如きものとなり、頗る優待さるるものの如く考えし者多かりしが、飛鳥尽きて良弓収まるの譬えの如く、少々厄介視せらるるの姿となり、且つ近衛兵の年限も定り、一般徴兵の制に依る事に決したれば、長州の外は藩士共不快の念を抱ける如し。
 殊に桐野は徴兵主義に不満なりし。西郷は寡黙の人なり。故に明言はせざるも、矢張り壮兵主義なりしが如し。…この時、桐野が不平は殆んど絶頂に達せり。余に対し、山縣大輔を罵りて曰く、彼れ土百姓を衆めて人形を作る、果たして何の益あらんや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/104

このようにかなり険悪なムードが漂っていたようなのだが、維新の軍功があった桐野らの主張が遠ざけられるに至った理由はどのあたりにあったのだろうか。

「近衛将校である桐野利秋の家などには、兵隊たちが集って昔の同輩のつもりで酒を酌み、喧噪することは、鹿児島におけるのと変わらなかった。その気概はとにかく、これでは新時代の陸軍の軍紀は維持できない。藩の強兵も、遂には驕兵のそしりを免れなかった。
さすがの西郷も、この三藩の駕御には閉口し、『これらの兵は誠に王家の柱石』ではあるが、自分としては之を指導するのは、『破裂弾中に昼寝いたし居る』気持がすると、当時外遊中の大久保利通への手紙に書いている。
 こうした士族世襲兵の驕慢にして制馭しがたかったことは、同時に徴兵論者の主張をいよいよ有力なるものとした。また終身兵制が夥しい費用のかかることも、指揮者はみな認めていた。曾我祐準将軍が『国軍は縦に養うて横に使うようにせねば国庫は堪え能わぬ』と言ったのは、常備兵を少なくして、予備兵を多くするという意味で、その間の消息をよく物語っていると思う。
 要するに全国画一、四民平等の徴兵制度によって、国民皆兵主義を実行するにあらざれば、これからは諸外国との紛争に於て、国防を全うすることは出来ぬという確信は、軍部責任者の等しく堅持するところであった。それは明治4年12月、兵部大輔山縣有朋、兵部少輔河村純義、兵部少輔西郷従道三人連署して奉った建議の中で力説されていることであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/104

山縣有朋
山縣有朋

明治5年2月に兵部省は陸軍、海軍の二省に分かれ山縣は陸軍大輔となり、さらに熱心に徴兵制採用の急務を説いている。
そして明治5年(1872) 11月に「全国徴兵の詔(みことのり)」が発せられ、同日に太政官は「徴兵に関する告諭」を発している。

古代からわが国においては国民皆兵が行われていたのだが、兵農分離が進んだのち武士階級が生まれて実権を掌握するようになっていった。この告諭では「後世の雙刀を帯び武士と称し、抗頭坐食し、甚だしきに至ては人を殺し、官其罪を問わざる者の如きに非ず」と、武士階級に批判的に述べたあと、「世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得しめんとす。是れ上下を平均し、人権を斎一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり」と四民平等の明治維新の理想を表明し、最後にこう結んでいる。

「…人々心力を尽くし、国家の災害を防ぐは、則ち自己の災害を防ぐの基たるを知るべし。苟も国あれば則ち人々其役に就かざるを得ず。是に由て之を観れば民兵の法たる固より天然の理にして、偶然作為の法に非ず。…西洋諸国、数百年来研究実践を以て兵制を定む。故を以て其法極めて精密なり。然れども政体地理の異なる、悉く之を用うべからず。故に今、その長ずる所を取り、古昔の軍制を補い、海陸二軍を備え、全国四民、男児二十歳に至る者は、悉く兵籍に編入し、以て緩急の用に備うべし。郷長、里正厚くこの趣意を奉じ、徴兵令に依り、民庶を説諭し、国家保護の大本を知らしむべき也。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/105

軍人の徴募制度には、国民に軍務を服する義務を課す徴兵制と、当人の自由意思に任せる志願制度とに分かれるが、前者の場合は、肉体的にも精神的にも思想的にも、兵役に従事させることが難しい人物も国家権力によって軍隊に召集されることになり、そのようにして集められた軍隊で危険な戦場で戦えるのかという問題が残る。また後者の場合は、応募する者が固定化して昔の武士のように特権階級化し、老後の生活保障まで考えると莫大な費用が掛かるばかりか、応募が少なければ国防のために必要な人数が集まらない懸念もある。
英米など多くの国は志願制度をとっているのだが、山縣らは、兵役は全国民が一様に負担する義勇奉公の制度があるべき姿であると考えた。
先に紹介した「徴兵に関する告諭」に、徴兵制度を国民に納得させるために、次のような文章を織り込んだのだが、そのことが大問題となっている。

凡そ天地の間一事一物として税あらざるはなし。以て国用に充つ。然らば則ち人たるもの、固より心力を尽し、国に報ぜざるべからず。西人之を称して血税とす。其生血を以て国に報ずるの謂なり。且つ国家に災害あれば人々其災害の一分を受けざるを得ず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/106

「血税」という言葉は、兵役でもって国に報いるという意味で比喩的に用いていることは言うまでもないのだが、多くの日本人がこの文章を誤読してしまったという。

菊池寛
【菊池寛】

菊池寛の解説を続ける。
(その文を)「そのままに読んでしまって、血税とは、軍隊に入って生血をとられることだと誤解してしまったのである。また中には『血税とは血を搾り取ることで、東京や横浜には外国人が沢山来ていて、日本の若い者の血を絞って、葡萄酒をつくっているそうだ』などと真面目になって言いふらすものがあり、大いに一般の恐慌を引き起こしたものである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/107

この話は笑い話ではなく、各地で実際に血税騒動が起こったようだ。『日本史広辞典』によると「73年3月の三重県牟婁郡神内村一揆から74年12月の高知県幡多郡蜂起に至る19件が確認されている。73年の北条県(現、岡山県)、鳥取県会見郡、名東県(現、香川県)等の一揆は、数万人が参加する大規模なものであった。」(p.721)と解説されている。

亘理章三郎 著の『軍人勅諭の御下賜と其史的研究』(昭和7年刊)には、美作で竹やり小銃などを携え三千人が蜂起したことなどの記録の紹介の後、山縣有朋が監修した『陸軍省沿革史』の一節が引用されている。
「徴兵令の発布せらるるや因州の久しき慣習其性を成し、四民兵役の義務を弁知せず、特に徴兵令中に載せたる血税の文字は偶々俗心に不快の文字を与え、為に或る地方に於ては争乱を惹起するあるに至れり。故に徴兵令実施後数年間は、兵役を忌避する者多く、兵数往々欠員を生ずることありしが、当局百方苦心の結果漸次其弊なきに至れり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464377/47

徴兵免役心得

このように、陸軍省の正史において『血税騒動』で兵役忌避者が出たことの記述があることは注目に値する。

では、明治6年(1873)1月に徴兵令が交付されて以降どの程度の兵士が集まったのであろうか。
菊池寛の前掲書によると「山縣が当時理想とした兵員数は十二師団、三十万であった」のだが、「明治八年の調査によれば、歩兵二万六千人、騎兵二百四十人、砲兵二千百六十人、工兵千八十人、輜重兵三百六十人というから微々たるものである」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/107

普通に考えて、士族ではない一般の男性のほとんどは、軍隊に喜んで入隊するとは思えない。徴兵制について農民や商人たちがどのようにして抵抗したのか少し気になるところである。

亘理章三郎著の前掲書に、兵役忌避に関する明治10年2月1日の太政官達第17号が引用されている。これを読めば、軍隊に行きたくない人々がどのようにして兵役を逃れようとしたかが垣間見える。

「兵役は国の大事。人民必ず服せざるべからざるの義務に候処、人民未だ全く之に通暁せず。徴募の際動(やや)もすれば遽(にわ)かに他人の養子となり、又は廃家の苗跡(みょうせき)を冒し、甚だしきは自ら其肢体を折傷する等を以て規避する者往々有之。是れがため遂に定員の不足を生ずるに至り、不都合少なからず候條。猶一層精密に注意し管下人民へも丁寧説諭し勤めて是等の規避を防ぎ候様致すべく相達候事。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464377/51

他人の養子となったり、廃家の跡目を継いだり、自分で腕や脚を折ったり傷つけてたり、他の資料では、目に毒を入れたり、犯罪をおかして囚人となったりして徴兵を逃れようとした人物が少なからずいたことがわかる。

「血税騒動」については、菊池寛は「一般の教育程度が低いところから起こる誤解やデマであって、やがて一掃され」と記しているが、1年10ヶ月近く騒動が続いたことの説明としては説得力がない。おそらく民衆は、そのような言葉尻を捕らえて、明治新政府の施策に反対しようとしたのではないだろうか。

当時徴兵忌避者が如何に多かったかは、徴兵の対象となる男性の数が増加しているにもかかわらず、徴募に応ずべき人数が逓減しているデータを観れば見当がつく。次のURLに亘理章三郎著の前掲書に内外兵事新聞の統計データが出ている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464377/53

しかしながら、山縣有朋がこだわった徴兵制によって集まった軍隊が成果を挙げる時が来る。菊池寛は次のように解説している。

西南戦争田原坂
【西南戦争 田原坂激戦之図】

「その成果は、久しからずして、国民の前に現れることになった。則ち『百姓町人』の兵隊は、佐賀の乱に、台湾征討に、神風連の乱に、さては西南戦争に、当局の期待に背かぬ働きを示したのである。百姓町人の出身でも、これに正しい精神教育を施し、新しい武器を与えて訓練すれば、立派な近代的軍隊をつくることが出来るという、大村や山縣の確信を事実によって裏書きしたのであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/108

わが国の徴兵制の採用は軍事上の大革新であったのだが、これを実現させ軌道に乗せるのには山縣有朋の信念と頑張りがなければ難しかったと思われる。明治政府にとってこのハードルはかなり高かったのだが、この大改革を成し遂げることにより多くの成果を挙げることが出来たことを知るべきである。

日露戦争の動員兵力は100万人を超えていたが、この数字は徴兵制を採用していなければ動員不可能であったと思われ、またこれだけの軍隊を集めることができたからこそ、大国ロシアに勝利することが出来たのであろう。教科書などには大村や山縣のような先覚者の頑張りについては殆んど何も記されていないが、もう少し詳しく記述しても良いのではないだろうか。

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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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