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京都のお寺に育ったしばやんの歴史考察など

滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他

以前このブログで、神社の境内の中に塔が残されている事例をいくつか紹介した。
奈良時代には仏教を広めるために日本古来の神道との融合策がとられ、神社に神宮寺が併設されたり、寺に鎮守社が建てられたりしたのだが、そのような神仏習合が平安時代になると仏が仮に神の姿で現れるという本地垂迹思想が広がり、神社に神の本地である仏を祀る本地堂を建てたり、神宮寺に仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)を祀る塔が建てられたりして、神社の境内の中に仏教施設が存在することが普通にあった。

しかしながら、明治維新期に神仏習合を否定する神仏分離令が出されて、そのために神社境内の仏教施設や仏像などはほとんど破壊されるか移されてしまったのだが、神仏分離の徹底度合いは地方により異なり、以前このブログでいくつか紹介した通り、今でも神仏習合時代を彷彿とさせる景観を残している寺社が少数ながら各地に存在する。

滋賀県の北部にいくつかそのような景観を残していそうなところがあるので以前から行きたいと思っていたのだが、長浜市に向かう旅程の中に組み入れて先日訪問してきた。

邇々杵神社 鳥居

最初に訪問したのは邇々杵(ににぎ)神社(高島市朽木宮前坊289)である。
上の画像はこの神社の鳥居で、どこにでもありそうな神社にしか見えないのだが、境内を進むと美しい多宝塔が見えてくる。

邇々杵神社 境内

『レファレンス協同データベース』にこのような解説が出ている。
「『滋賀県百科事典』によりますと、…古くは朽木(くつき)大宮権現と称し、そのまつるところを日吉大宮権現とし、市場の山神社とともに朽木谷の産土神である。新旭町井ノ口の大荒比古神社とおなじく佐々木氏の祖神をまつることから1875年(明治8)には河内社といった。その後、境内社瓊々杵尊(ににぎのみこと)、十禅師社を主殿として、今の社号にあらため、河内神社を境内社とした。『神宮寺縁起』に859年(貞観元)僧相応が葛川明王院を創立したとき、この神を勧請したという。(中略)神社の東隣りに相応を開山とする神宮寺があり、創建当時(平安時代)のものといわれる木造重層の多宝塔がある。(河原喜久男)」とあります。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000094462

「権現(ごんげん)」というのは日本の神の神号のひとつで、神々が仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたと考える本地垂迹思想に基づくものである。明治の初期には「権現社」「権現宮」「権現堂」の多くが廃され、「権現」の神号を用いることを一時禁止されたために、権現を祀る神社の多くは本地仏を廃して祭神(垂迹神)のみを祀るようになり、祭神の名前も記紀神話の神を比定したのである。その過程で神社の仏教施設の殆んどが失われてしまったのだが、どういうわけか朽木大宮権現では建物も仏像などもそのまま残されたようなのである。当時の村人たちにかなりの苦労があったのではないかと思うのだが、当時の記録をネットで発見することは出来なかった。

邇々杵神社 多宝塔

上の画像が邇々杵神社の多宝塔で、前掲の『レファレンス協同データベース』では平安時代のものと記されていたが、今の多宝塔は江戸時代に再建されたものであることが案内板に明記されている。
「多宝塔は、朽木神宮寺宝塔として神宮寺に属していたが、邇々杵神社の奥の院とも称し、古来から信仰厚く、宝塔内には木造釈迦如来像(藤原時代の作風を伝える鎌倉時代初期の仏像で胎内には朽木神宮寺の墨書銘がある)と二十三体の薬師如来像をまつっている。
創建は神宮寺と同じく貞観元年(859)に造営されたが、その後荒廃破損し、天保十三年(1842)五月十三日に再建したものであり、朽木村にとって貴重な文化遺産である。」

「朽木村」という村は安曇川の上・中流域にかつて存在し、京への木材の供給地として、また京都と若狭を結ぶ街道筋として栄えた歴史を持つが、平成十七年(2005)の市町村合併で高島市に編入されてしまい、「朽木村」の指定文化財であった多宝塔は、高島市の文化財に指定されているようだ。

以前はこの神社の東側に神宮寺があったのだが昭和二十六年(1951)に焼失してしまい、今では多宝塔と、火災後に建立された小堂が残されているだけである。

海津大崎

邇々杵神社をあとにして海津大崎に向かう。
ここの桜は「日本さくら名所百選」にも選定されていて、例年だと長浜曳山祭りが行われる頃にほぼ見頃を迎えるのだが、今年は満開の時期があまりにも早すぎた。ボタン桜の一部が咲いていたものの、ほとんどが散ってしまったあとだった。

海津大崎の桜は、昭和初期に滋賀県高島地方事務所の宗戸清七氏が自費で桜の若木を植え始め、その桜が咲きだすと村の青年団も協力するようになり、今の桜並木の原型が形作られたのだという。今では湖岸を走る県道557号線に約4kmにわたり約800本の桜の木が植えられていて、満開時には桜のトンネルのような状態になるというのだが、こんなに長い桜並木は見たことがないので、何年かのちの満開の頃に再チャレンジしたいところである。

大崎寺

海津大崎にある大崎寺(高島市マキノ町海津128)を訪ねる。この寺は近江西国三十三所観音霊場九番札所で、本尊の千手観世音菩薩立像はこの寺を大宝二年(702)に開基したとする泰澄の作と伝えられている。

大崎寺 阿弥陀堂

旧本堂(大崎観音堂)を修復する際に、豊臣秀吉が安土城落城の際に戦死した人々の血痕の残る城材を用いたことから、観音堂の天井は「安土の血天井」として有名であったというが、昭和四十一年(1966)の観音堂改修に際し、今度はその城材がこの阿弥陀堂に使われたという。どこに血痕があるのかよく見てもわからなかったのだが、案内板には今でも梅雨の頃になると血痕が滲みだして痕跡が現れると記されていた。

大崎寺からは、奥琵琶湖パークウェイを走って葛籠尾崎(つづらおざき)を経由して長浜に抜けるコースを選んだのだが、この道路沿いにも多くの桜が植えられている。残念ながら桜の季節は終わっていたものの、奥琵琶湖の景観は素晴らしかった。
このパークウェイは秋の紅葉も美しいことで知られており、四季折々の自然美が楽しめそうなので、また走ってみたいと思う。

奥琵琶湖

奥琵琶湖は険しい山が琵琶湖に沈みこんでいるような地形で、琵琶湖では最も水深の深いところでもあるのだが、人間の居住環境の痕跡がほとんど認められないにもかかわらず、縄文時代から平安時代後期までの数多くの土器が水深10~70mの湖底で大量に発見されている(葛籠尾崎湖底遺跡)。現在までに約140点がひきあげられたのだそうだが、その成因についてはいまだに結論が出ていないという。
http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/sogo/kakuka/ma07/treasure_of_water/files/wot_16.pdf

長浜市に入り、予約していた赤後寺(しゃくごじ:長浜市高月町唐川1055 拝観予約090-3164-7486)に向かう。

赤後寺と日吉神社の鳥居

上の画像が赤後寺に向かう階段で鳥居の奥に見えているのが赤後寺の観音堂なのだが、仏教施設が神社の境内の中心にあるとは驚いた。
この観音堂の右に日吉神社の本殿があり、左に鐘楼がある。鳥居を潜りぬけてお寺に拝観に行くのは随分久しぶりの経験だ。

赤後寺と日吉神社

寺には住職はおられず、地元の方が交代で奉仕されて今日まで貴重な文化財が守られてきた。境内も綺麗に清掃されており、観音堂の内部もお供えがなされていて、この観音様が地元の人々にとても大切にされていることが良くわかる。
拝観は事前予約制で、当番の方から詳しく説明を受けることが出来る。

赤後寺の厨子

立派な厨子の中には平安時代初期に製作されたご本尊の木造千手観音菩薩立像と木造菩薩立像(伝聖観音立像)が安置されていて、いずれも国の重要文化財に指定されている。またご本尊は通称「コロリ観音」と呼ばれていて、災いを利に転ずる仏として親しまれてきたという。

案内の方に厨子の扉を開けていただいた。
十一面千手観音といっても42本の腕の内残っているのは12本で、手首から先は失われてしまっている。頭上にいただいていたはずの十一面も何もない。木造菩薩立像については掌だけでなくつま先も失われてしまっている。
とても痛々しいお姿ではあるのだが、凛とした包容力あふれる表情と、肉付きの良い堂々とした体躯に迫力を感じて、腕の破損が次第に気にならなくなってくる。残念ながら仏像の撮影が禁止されていたので紹介できないのだが、ネットで探すと次のURLにこの2躯の仏像の画像がでている。
http://butszo.jp/2014/03/2086/kannonnosato16/

赤後寺の創建は奈良時代の僧・行基と伝えられ、中世には神仏習合により日吉神社と一体のものとして人々の信仰を集めてきたという。
しかしながら戦国時代になって、近江は何度も戦場となり、村の人々はこの仏像をお守りするために寺から何度か運び出して、ある時は田の中に埋め、ある時は川底に隠したりしたそうだ。

赤後寺と御枕石

天正十一年(1583)に行われた豊臣秀吉と柴田勝家との戦い(賤ケ岳合戦)では寺が火災に巻き込まれたのだが、村人たちは夜間に仏像を運び出し、村に流れる赤川まで背負ったのち川底に沈め、さらに仏像が流されないように枕石を置いたという。しかしながらその際に川の増水のために仏像の宝冠や光背、手などが流されてしまったと伝えられている。境内にはその時に使われた枕石と伝わる石が置かれている。

昼食をとってから、次の目的地である安楽寺(長浜市細江町105)に向かう。この寺は特に神仏習合的な要素はないのだが、庭園などに見どころがありそうなので旅程に入れていた。

安楽寺 門

奈良時代はこの近辺は藤原不比等の荘園であったそうなのだが、この場所に安楽寺が創建されたのは弘安二年(1279)のことだという。
その後室町幕府を開いた足利尊氏より寺領三百石と長刀が寄進され、さらに二百石が加増され寺は隆盛を極め、大伽藍のほかに塔頭二ヶ寺、寺侍六軒を有する大寺院だったようだ。しかしながら元亀元年(1570)の姉川の戦いで多くの堂宇が焼失してしまい、それからしばらく荒れ地となっていたが、江戸時代になって彦根藩主が庇護し、第二代藩主井伊直孝公が龍潭寺開山萬亀和尚に命じ再建されて現在に至っている。

安楽寺 庭園

この寺の庭園は夢窓国師が作庭したと伝えられる池泉回遊式庭園で、中央の池は琵琶湖に見立てたものだという。奥様に淹れていただいたお茶を頂きながら、縁側に座って庭を鑑賞していると、時折小鳥が飛んで来て羽を休める。小鳥のさえずりを聴きながらゆっくりと時間が流れる。

仙厓禅師六曲屏風一双・山号額

本堂の脇に寺宝が収められている部屋があり、案内していただいた。海北友松の水墨画や白隠禅師の達磨画像、仙厓禅師六曲屏風一双・山号額、井伊直弼の掛け軸、足利尊氏画像など想定した以上に貴重なものがいろいろあるのに驚いた。

安楽寺の松と龍

帰り際に奥様から、「『龍』を見てください」と境内に案内されて、「このあたりからよく見えます」と言われて案内された松をよく見ると、枯れた枝が親子の龍が空を飛んでいる姿に見えるのである。
面白いのでいろんな角度からこの松を観てみたのだが、見る位置を変えると龍の姿にはならないところが面白い。

神仏習合の景観を残す竹生島に向かう船の時間調整で旅程に入れた安楽寺だったが、庭園や寺宝に見るべきものが多く、気さくな奥さんの案内で結構楽しく過ごすことが出来た。(つづく)
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【ご参考】
このブログで神仏習合の景観を残している寺や神社を幾つか訪ねてきました。よかったら覗いて見てください。

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-357.html

日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html

白馬落倉高原の風切地蔵、若一王子神社、国宝・仁科神明宮などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-404.html

東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html

新緑の書写山・円教寺と、その「奥の院」と呼ばれる弥勒寺に残された神仏習合の世界
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-452.html









関連記事

旧幕府の軍艦で脱走を図り、明治政府とは別の政権を誕生させた榎本武揚とその後

慶応四年(1868)三月から四月にかけて、江戸城を明け渡すことにつき明治新政府と旧幕府との間で交渉が行われ、徳川宗家の本拠たる江戸城が何の抵抗もなく無血裏に明け渡されたのだが、開城前に行われた交渉で徳川慶喜の名代・勝海舟が、西郷の提示した江戸城総攻撃を回避する諸条件の回答として提示した条件のひとつに、幕府が従来使用していた軍艦を引き渡すということが記されていた。

しかしながら、これらの軍艦を率いていた榎本武揚たちはこの条件に従わず、同じ年の八月十九日の深夜に品川沖から蝦夷の方面へ脱走してしまったのである。新政府は勝に抗議したようだが、無血開城したあとのことなのでどうすることもできなかったようだ。

開陽丸
開陽丸

Wikipediaによると、当時の幕府海軍が保有していた軍艦は、国内各藩の海軍力をはるかに上回り、『開陽丸』(排水量2590t、全長72.8m)や『富士山丸』(排水量1000t、全長56.4m)に匹敵する戦闘力を持つ軍艦を持つ藩は存在していないばかりか、東アジア各国の中でも最大規模の水準にあったという。
その幕府海軍の保有軍艦の内『富士山丸』、『朝陽丸』(排水量300t)、『翔鶴丸』(排水量350t)、『観光丸』(排水量353t)の4隻は新政府側に引き渡されたのだが、残りの軍艦『開陽丸』、『回天丸』(排水量710t)、『蟠竜丸』(排水量370t)、『千代田形』(排水量140t)の4隻および運送船4隻(『咸臨丸』『長鯨丸』『神速丸』『美が保丸』)を加えて品川沖を脱走したのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E5%BA%9C%E6%B5%B7%E8%BB%8D

ジュール・ブリュネ
【ジュール・ブリュネ】

脱走したメンバーには彰義隊や遊撃隊の生き残りや、旧幕軍事顧問団の一員であったジュール・ブリュネ砲兵大尉ら5人がフランス軍籍を捨てて参加しており、総勢2千余名が乗船して行動を共にしたという。

この事件は一般的な教科書などでは榎本武揚らが、旧幕府の海軍をひきいて箱館を占領して五稜郭に立てこもって戦った程度の事しか記されていないのだが、明治新政府にとってはかなり深刻な事件であったはずで、わが国に駐留していた外国人も強い関心を抱いていたことは明らかである。

アーネスト・サトウ
【アーネスト・サトウ】

岩波文庫の『一外交官の見た明治維新(上)』を読むと、著者のアーネスト・サトウ(当時英国公使館の通訳官)は幕府海軍の事を「徳川の海賊」と呼んで、この事件についてこう記している。(文中の「賊軍」とあるのは旧幕軍のこと)

「…徳川の海賊――降伏を拒んで、10月4日*に江戸城から脱走後、こう呼ばれていた――が、開陽丸、その他の僚艦を率いて箱館港に上陸したというのだ。
 賊軍は、1866年に派遣されてきたフランス陸軍教導団の一員によって指揮されていた。そのフランス士官は、賊軍が江戸湾から脱走した際に行動を共にしたのである。同士官が、公使の声明した局外中立に違反し、またフランスと友好関係を結んでいる日本の君主の主権に背いて賊軍に参加したということは、フランス公使館にとっても大きな頭痛の種であった。
 その後、箱館の近くで戦闘が行われ、官軍にも多数の戦死傷者があった。横浜の外国新聞は、箱館港を去る約15マイルの地点で天皇(ミカド)の部隊が勝利を博したことを伝えたが、しかし領事からの公信によれば、賊軍の方がはるかに優勢であった。」(『一外交官の見た明治維新(上)』p.231)
*10月4日: サトウの記録は全て太陽暦で記されていて10月4日は旧暦では八月十九日にあたる。

「箱館にいるイギリスとフランスの臣民を保護するため、サテライト号とペニュス号が、14日に同地に派遣された。イギリスの公使館アダムスは前者に便乗して行った。…
 18日に横浜へ帰ってみると、かねて予期したことながら、箱館は脱走した徳川の軍艦に占領され、清水谷(箱館府知事)は幕僚全員をつれて、同地を脱出したという情報が入っていた。察するに余りあるが、箱館の領事は肝をつぶすほど驚いた。サテライト号が現場へ向かって急行していたものの、これに大きな期待をかけることは出来なかった。」(同上書 p.234~235)


榎本武揚
榎本武揚

榎本武揚らが蝦夷に向かった目的は、単純に新政府に対して抵抗することではなく、新しい国を作ることにあったのだ。彼が記したという檄文を読んでみよう。
「王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り
之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。」
https://ameblo.jp/0358rainbow/entry-12351669454.html

私なりに意訳すると、
「政治の変革は私も希望しているが、今の政体は公明正大ではない。我が主君の徳川慶喜には朝敵の汚名を着せ、城地や倉庫は没収され、先祖の墓は破壊され、幕臣であったものは居宅すら保つことが出来ない。これは強い藩(薩長のこと)の私利私欲であり、まっとうな王政ではない。よって我々はこの地を去り、北海道を開拓して新しい国を作る」ということである。

房総沖で暴風雨に襲われて咸臨丸・美賀保丸の2隻を失ったが、8月下旬頃から順次仙台に到着し、榎本らは仙台城で伊達慶邦(だて よしくに)に謁見し、奥羽諸藩を鼓舞してともに行動することを勧誘したのだが、その頃は既に奥羽越列藩同盟は実質的に崩壊しており、新政府軍はすでに会津城を包囲していて会津軍の敗北は誰の眼にも明らかだった。
9月12日には仙台藩も降伏を決定してしまったので、榎本らは仙台に逃れてきた桑名藩主・松平定敬(まつだいら さだあき)や大鳥圭介、土方歳三などの旧幕軍の残存兵を艦に分乗させて、10月18日に宮古湾より蝦夷地に向かい、10月21日に箱館の北の鷲ノ木(わしのき)に約3千名が上陸している。

箱館戦争図
箱館戦争図】

箱館府知事清水谷公考(しみずだに きんなる)はわずかな兵力では戦えないと判断し、残兵を率いて青森に逃れ、榎本武揚らはわずか数日で箱館および五稜郭を占領してしまう。さらに松前城を陥落させたのち江差・舘村を陥れて松前藩主は津軽に逃れ、旧幕軍は北海道全域を占領するに至る。

そして12月には選挙が実施されて榎本が総裁に選ばれ、新しい政権が誕生した。わかりやすく言えば、日本列島に二つ目の政権が北海道に生まれたということである。
アメリカが最初にこの政権を承認し、続いてプロイセン・ロシアもそれに続いた

明治政府としてはこの政権を早く叩き潰したくても、海上戦力では圧倒的に旧幕軍が勝っており、普通に戦っては勝てる相手ではなかったのである。

ところが、旧幕軍に悲劇が起こる。11月14日に江差攻略のために江差沖に到着していた主力戦艦である開陽丸が、翌日の夜に強い風波に押されて座礁・沈没してしまったのである。そのため、旧幕軍の海上戦力の優位性が崩壊してしまう。

ストーンウォール号
【ストーンウォール号】

明治2年(1869)2月に新政府はアメリカからストーンウォール号(排水量1358t)を購入しているのだが、この軍艦はもともと江戸幕府が買い取りを約束した船であった。ところが、幕府が瓦解して戊辰戦争が始まると新政府、旧幕府の双方が引き取りを要求したので、アメリカは局外中立の立場からどちらにも売る気はないと宣言していた。
ところが開陽丸が沈没すると掌を返したようにアメリカは局外中立の方針を変更し、この船を新政府に引き渡したのである。開陽丸なき後はこの船がわが国最大の軍艦となっており、この時点で新政府軍は旧幕軍を圧倒する海軍力を保有するに至った

そこで旧幕軍は奇策を試みようとする。回天、蟠竜、高雄の3艦に外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に改めてストーンウォール号に接舷し、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠しようとする計画を立て、3月25日に決行したのである。
しかしながら暴風雨のため蟠竜が離散し、高雄は機関故障のため脱落して回天だけで奇襲を敢行することになったのだが、回天は外輪船の為に横付けできず細い船首の高低差のある所から飛び移ることとなり、武器の標的となって多くの兵士が撃ち落され、回天も敵艦に包囲されて集中砲火を浴び、形勢不利と判断して回天は宮古湾を離脱したという。(宮古湾海戦)

箱館戦争

新政府軍は本格攻撃を開始するため、輸送船をチャーターして4月6日に1500名が青森を出発し、9日の早朝に乙部に上陸。新政府軍艦5隻は江差砲撃を開始し、旧幕軍は反撃を試みるも敵艦に砲弾は届かず松前方面に後退している。
4月12日には陸軍参謀・黒田清隆率いる2800名が上陸し、さらにストーンウォール以下の諸艦は海上より旧幕軍の陣地を砲撃し、箱館港内に進入して旧幕府の軍艦と交戦した。

国立国会図書館デジタルコレクションで『維新史 第5巻』にはこう記されている。
「5月4日夜、千代田形は暗礁に触れて進退の自由を失い、次いで回天もまた機関部を破損したので、旧幕府の海軍力は今や全く昔日の俤(おもかげ)を失うにいたった。これに反して、北征艦隊には新たに軍艦朝陽(排水量300t)が加わり、事務官権判事曽我準造も海軍参謀として青森に着し、軍容は頓(とみ)に整ったのである。
 ここにおいて官軍は5月11日の未明をもって総攻撃の期と定め、一隊は山背泊および寒川・大森浜に潜行して箱館の背後に迫り、本体は赤川・七重・桔梗野・亀田を攻略して、腹背より箱館の市街に突入した。土方歳三・春日左衛門らは自ら手兵を率いて防戦に努めたが、衆寡敵せずして遂に斃れた。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917908/188

海上に於いても激戦が繰り返され、旧幕艦・蟠龍丸からの一弾が新政府軍艦朝陽の火薬庫に達して、一大轟音とともにその艦体が天空に四散したということもあったが、その蟠龍丸も弾薬を使い果たし、背後から砲撃を受けるに及んで、乗員は艦を棄てて五稜郭などに逃れたという。

黒田清隆
黒田清隆

もはや旧幕軍の敗色は濃厚であった。
ここにおいて、新政府軍の参謀黒田清隆は五稜郭に使者を送って降伏を勧告し、5月14日榎本武揚はそれを斥けているが、海事に関する国際法と外交について詳述した『海律全書』という2冊の本を使者に託して黒田に贈ったという。榎本の書状によるとこの本は彼がオランダ留学中に学んだ本で、我が国の海軍にはなくてはならない書物で、この本を兵火で失ってしまうには惜しいので差上げたいと記されていたという。

『海律全書』
【『海律全書』】

『海律全書』を受け取った黒田は榎本の人柄に感銘を受け、海軍参謀名で感謝の意と、いずれ翻訳して世に出すという内容の書状を添えて酒5樽を贈ったのだそうだ。

その後も新政府軍の砲撃が続も旧幕軍の砲台も陥落して、榎本は観念して降伏勧告を受け入れて箱館戦争は終わりを告げる。東京に護送され牢獄に収監された榎本に対し木戸孝允ら長州閥は厳罰を求めたのだが、なんとしてでも彼を助命しようとしたのが黒田清隆である。

榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)
【榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)】

黒田は、榎本から送られた『海律全書』の翻訳を福沢諭吉に相談したのだが、福沢はこの内容を理解しているのは留学で直接教えを受けた榎本しかいないと言ったという。この本に書かれている内容は当時のわが国にとって重要なものであり、この時代が榎本を必要としていたのだ。黒田はみずから頭を丸めて榎本の助命を訴えたという。

明治5年(1872)1月に榎本は特赦により出獄し、新政府の一員として生きる道を選んだ。
明治7年(1874)には榎本は駐露特命全権公使に任命され、あわせて日本最初の海軍中将に任命されてロシア帝国と樺太の国境画定交渉に携わっている。

日魯通好条約

安政元年(1855)の日魯通好条約において、国境は千島列島の択捉島と得撫島との間に定められていたのだが、樺太については国境を定めることが出来ず日露混住の地とされ、その後ロシアの樺太開発が活発化して暴行や窃盗が頻発するようになり、殺人事件も起こっていたという。

樺太千島交換条約

明治7年(1874)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有することなど樺太放棄論に基づく訓令を携えて、榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴き、その結果翌明治8年(1875)5月に、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結している。

単純に面積だけで考えれば樺太をとる方が有利に見えるのだが、当時の我が国は北海道の開拓だけで精一杯で、樺太の開拓や防衛までは手が回らないだけでなく、頻発する紛争解決に負われる選択は避けたかったのだと思う。一方千島列島をわが国が領有すれば、豊富な水産資源も魅力の一つだが、周囲が海なので防衛しやすく、地政学上の観点からはロシア海軍をオホーツク海に封じ込め、将来太平洋に進出することを封じることが出来る。このことを駐日英公使のハリー・パークスが大久保利通に働きかけたという話もあるようだ。
http://www.sankei.com/premium/news/161125/prm1611250007-n4.html

国際法に強い榎本はロシアと対等に渡り合い見事に交渉をまとめて、樺太千島交換条約』が締結されたのだが、この条約に於ける「千島」には国後、択捉、歯舞、色丹の「北方4島」が含まれていないことを忘れてはならない。「北方4島」は過去において外国の領土に一度もなったことがない、わが国の固有の領土なのである。


Senryou.gif

第二次世界大戦の終戦間際である昭和20年(1945)8月9日にソ連は日ソ中立条約を無視して我が国に対し宣戦布告し、我が国のポツダム宣言受諾後の8月18日に千島列島に侵攻し、その後28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島、9月3日から5日までの間に歯舞群島を占領し、一方的に自国に編入してしまった。

樋口季一郎
【樋口季一郎】

このソ連軍の千島列島侵攻に抗し、自衛のために千島列島の最北にある占守(シュムシュ)島で7日間戦った樋口季一郎中将のことを以前このブログで書いたが、この戦いがなければソ連は北海道まで攻め込んできたはずだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

北海道分割

モスクワの公文書館に保存されていた極秘文書のコピーを大量に持ち帰られた斉藤六郎氏の資料の中に『北海道・北方領土占領計画書』があり、そこには北海道の北半分と北方領土の占領が、ソ連極東軍・太平洋艦隊の任務であることが明記されているという。

我が国の終戦記念日は8月16日だが、ロシアの終戦記念日は9月2日で、旧ソ連では9月3日であったようだ。9月2日は我が国が東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上において降伏文書に調印した日であるが、それまでにソ連は北方領土の大半を占領してしまったのである。

我が国は1951年のサンフランシスコ平和条約で我が国は「千島列島」に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したのだが、「千島列島」には「北方4島」を含まないことは歴史的に明らかである。
しかしながらソ連はこの講和会議に出席したものの講和条約には署名しなかった。
ソ連からすれば、この条約に署名するよりも、署名しないまま「北方4島」の実効支配を継続した方が得策だとの判断があったのではないか。

かくして我が国の固有の領土であるはずの「北方領土」は、終戦後72年以上にわたりソ連あるいはロシアに占拠されたままの状態が続いているのだ。

北方領土に限らず竹島問題も尖閣問題も同様なのだが、国の領土に関わる重要な情報が国民に十分に知らされているとはとても思えない。教育機関やマスコミがどこかの国に忖度しているようでは、いつまでたっても領土問題の解決は困難だ。このままでは沖縄や対馬や北海道も、将来どこかの国に実質的に支配されることになるのではと心配するのだが、そうならないことを祈るばかりである。
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【ご参考】
このブログで樋口季一郎についてこんな記事を書いてきました。

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-299.html

補給に苦しみながら敵の上陸を許さなかったキスカ島の兵士たち…『キスカ戦記』を読む4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-472.html

戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-406.html

樋口の決断で開始した占守島の自衛の戦いは、秦関東軍参謀長の命令で止められてしまったのだが、この命令がなければ北方領土の問題は今は存在しないか、今よりもはるかにスケールの小さいものになっていたと思われる。
このブログでいろいろ書いてきたとおり、終戦時期には政治家や官僚や軍の上層部にはソ連に協力する者が少なからず存在したのだが、興味のある方は『戦争と共産主義』カテゴリーの記事も覗いていただくと嬉しいです。






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