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幕末の孝明天皇暗殺説を追う

前回は坂本龍馬の暗殺について2回に分けて書いたが、この前後の日本史の年表を見ていると、この時期に結構多くの志士が暗殺されている。

幕末英傑録」というホームページにはこの時期に暗殺された人物の名前が列挙されているが、文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではない。しかも遭難地は京都ばかりだ。

http://www.bakusin.com/eiketu/kill.html

もちろんリストの中には慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の名前があるが、その前年の慶応2年(1866)の 12月25日に「?」付きではあるが孝明天皇の名前が書かれているのに驚いた。

孝明天皇の暗殺説はかなり昔に読んだことがあるが、その時は「そんな説もあるんだ」程度であまり深くは考えなかった。 最近になって幕末から明治にかけての歴史に興味を覚え、先程紹介した暗殺された人物のリストに載っているのを見て何かありそうなので、孝明天皇について少し調べてみることにした。

孝明天皇

孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇ということになる。

嘉永6年(1853)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への関与を強め、大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶことに不快感を示し、文久3年(1863)には攘夷勅命を出して、これを受けて下関戦争や薩英戦争が起こっている。また異母妹の和宮親子内親王を14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだのだが、薩長を中心とする倒幕勢力は天皇を公然と批判するようになっていく。

第二次長州征伐の勅命が下されるも、坂本龍馬が仲介した薩長同盟により薩摩は出兵を拒否。慶応2年(1866)の6月に幕府艦隊の周防大島への砲撃が開始され長州征伐が始まるも、戦いのために上洛した将軍家茂は大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の若さで、大坂城で薨去されてしまう。

第二次長州征伐は9月に徳川幕府の全面敗北に終わるのだが、その後薩長が京都を制圧する前後に孝明天皇までもが36歳で崩御されるのだが、幕府の存在を認めていた天皇の突然の崩御は佐幕派の力をそぎ、勤王倒幕派の復活を招くという幕末史の大きな転換点になった。

徳川家茂

上の肖像画は将軍家茂だが、家茂の死因は典型的な脚気衝心で、ビタミンB1の欠乏により全身がだるくなり急激な心肺機能の停止を引き起こして死に至ったと解説されている。家茂は甘いものに目がなく、そのためにほとんどの歯が虫歯におかされていたことも遺体の発掘調査により確認されており、脚気衝心で亡くなったという説に異を唱える人はいないようだ。

しかし孝明天皇の死亡原因は、死亡直後から疱瘡による病死説と毒殺説が流布していた。

たとえば幕末から明治にかけて日本に滞在し外交官として活躍したアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)には

アーネスト・サトウ

「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私 (アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」と書かれているらしい。

通史では病死説になっているが、毒殺説とは一体誰が毒を盛ったというのだろうか。

中公新書の「戊辰戦争」(佐々木克)では、
『…近年、当時孝明天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見る限り明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、…親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。…岩倉自身は朝廷に近づけなかったが…大久保は…公卿の間にもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。…直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう。』
と書かれており、岩倉具視と大久保利通が黒幕だとしている。

岩倉具視

孝明天皇が疱瘡を患ったことは史実ではあるが、「幕末入門」(中村彰彦:中公文庫)に「伊良子光順日記」のポイントが引用されている。
簡単に書くと、16日に天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断されるのだが、疱瘡は患者が死に至らなければ、発疹が膨れ、発疹に膿が乗った後、膿が引いてかさぶたができて2週間以内で回復するそうである。
孝明天皇の病状は主治医が見立てた予定日のとおりに快方に向かい、24日には「天皇に御元気が出たことにはっきりと気づく。…女官達は静かな立居振舞の中で生色を取戻した」とあり、崩御された25日には「…少し食欲が出られた。御回復と表役所へ申上げてもいいくらいの御症状…」と書かれており、ほとんど平癒していたことになる。

ところが同じ25日、伊良子光順氏がほっとしてからわずか数時間後、天皇の病状は激変するのだ。
「七ツ時(午後4時)頃、御痰喘の御様子」となり天皇は血便を何度も洩らしになられて苦しまれ、その都度御治療申上げたが、夜の10時頃に崩御されたとのことである。

専門書によると死に至るほどの重篤な疱瘡は「出血型疱瘡」といい、激しい頭痛、背痛を伴う高熱ではじまり、発病後数日以内に眼瞼や血尿等を起こして死亡するそうなのだが孝明天皇の病状は明らかにこれと異なる。

疱瘡で法医学者の西丸與一氏はこのような末期症状はヒ素中毒によるものと判断され、伊良子光順氏の曾孫で医者の光孝氏も同じ見解を述べておられる。
「兎も角、天皇は…御回復が決定的になった。この時点で暗殺を図る何者かが、“痘毒失敗”を知って、飽くまで痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入した、という推理が成り立つ」
「天皇は一日三回薬を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものと見て間違いないだろう」と伊良子光孝氏が書いておられるそうだ。

「痘毒失敗」という言葉は、孝明天皇暗殺犯はまず初めに天皇を「痘毒」に感染させ、それが不成功と知って砒素を盛ったという説から来ているらしい。
当時砒素は「石見銀山」として殺鼠剤に用いられ、容易に入手できたらしいのだ。

しかし誰がその毒を盛ったのか。そこには岩倉具視も大久保利通もいなかったはずだ。
しかしネットでいろいろ調べると、京都御所には岩倉具視の近親者がいたのである。

孝明天皇の側室で岩倉具視の実妹の堀河紀子(もとこ)の可能性が高いとする人が多いが、岩倉具視の孫で当時16歳になっていた具定(ともさだ)も孝明天皇の近侍だったので下手人であった可能性があると書いてあるのもある。

いろいろ調べると、岩倉具視はかなり怪しいとは思うのだが、動かぬ証拠があるわけではない。いつの時代も、またどこの世界においても、正史や通史として書き残された歴史の大半は、勝者にとって都合の悪いものが排除され、都合のよい解釈だけが残されたものなのだと思う。
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生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか

文久2年(1862)8月21日、4人の英国人が生麦村で薩摩藩の島津久光の行列と遭遇した。その時英国人は騎乗のまま行列を横切ろうとし、薩摩藩士はこれを止めようとしたにもかかわらず、それを無視してそのまま進んだので、激昂した藩士が英国人に斬りかかり、1人が死亡し2人が負傷したという事件があった。世に言う「生麦事件」である。

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学生時代にこの事件のことを学んだ時は、当時は攘夷の気運が高まり外人殺傷事件がしばしばおこり、その事例として「生麦事件」が説明された記憶がある。

通説では4人の英国人は島津久光の行列を「横切ろうとした」ことになっているが、当時英国公使館の通訳で、のちに駐日公使を務めたアーネスト・サトウの著書を読むと、英国人は決して隊列を横切ろうとしたのではないようだ。

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「(リチャードソン)は、香港のボラデール婦人およびウッドソープ・C・クラークとウィリアム・マーシャルという二人とも横浜に住んでいる男と一緒に、神奈川と川崎の間の街道を乗馬でやって来たところ、大名の家来の行列に出会い、わきへ寄れと言われた。そこで道路のわきを進んでゆくと、そのうちに薩摩藩主の父、島津三郎(久光)の乗っている駕籠が見えてきた。こんどは引返せと命ぜられたので、その通りに馬首をめぐらそうとしていたとき、突然行列中の数名の者が武器を振るって襲いかかり、鋭い刃のついている重い刀で斬りつけた。リチャードソンは瀕死の重傷を負って、馬から落ちた。…」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.60)

生麦事件

Wikipediaに事件当時の生麦村の写真が出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

島津久光がこの時に率いていた軍勢は400人以上だったというが、こんな狭い道で島津久光の行列と遭遇し、4人の英国人は騎乗のままで久光の駕籠に近づいていったことになる。
当時のわが国では『公事方御定書』に、武士が「無礼」を受けた時は斬殺されても処罰されないことが定められていた。
しかしリチャードソンらのやったことは、ただ無礼なだけではなく、制止したにもかかわらず騎乗のまま藩主の父親である久光公に接近していったのである。現代でもパレードの最中に、中央にいる大統領や国王に向かって、制止されても接近していく人物がいたとしたら、国によっては射殺されてもおかしくない。
日本語が分からなかったのだろうと書いている人もいるが、ものものしい警護の行列で、何度も「止まれ」「馬を降りよ」と言われれば、日本語が理解できようができまいが、どうすればよいかは、場の空気で分かって当然ではないのか。

Wikipediaを読み進むと、このような記述がある。
事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており、『彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である』とイギリス人4名を非難する意見を述べている
また当時のニューヨーク・タイムズは『この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。』と評している
また、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルースは、本国の外務大臣ラッセル伯爵への半公信の中でこう書いている。『リチャードソン氏は…わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である』

よく大名行列で通行人が土下座を強いられる場面を時代劇などでよく見るのだが、Wikipediaによると、土下座を強いられるのは徳川御三家の場合のみで、それ以外の場合は、通行人は脇に下がるだけで良かったのだそうだ。だから米商人のヴァン・リードは、道を譲り脱帽して敬礼するだけで問題がなかったということになる。

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また当時のわが国では、安全のために、武士であっても狭い市中での乗馬は禁止されていたそうだが、外国人は意に介さずに乗りまわっていたという。そのように外国人がやりたい放題にしていたのは、安政の不平等条約で治外法権が認められていたために、わが国には外国人を裁く権利が存在しなかったことが大きかったようだ。
しかしながら、治外法権を認めたということは、わが国は彼らに対して日本の法や慣習を犯す権利を与えたというわけではない。そう考えると、本来謝罪すべきなのはわが国の法律や慣習を無視して、騎乗のまま貴人の駕籠に向かっていったイギリス人にあったという考え方も成り立つのである。

またWikipediaは、事件直後に現場に駆けつけた英人医師のウィリス博士が、兄に宛てて書いた手紙の内容を紹介している。
誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君*が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです
*大君(タイクーン):徳川将軍の外交称号

当時、このような意見を持つ外国人がどれだけいたかはわからないが、彼等の振舞いに問題があったと指摘している外国人の記録が、このようにいくつも存在することは注目して良いだろう。

東禅寺事件

この事件が起きる1年前の文久元年(1861)に水戸藩脱藩の浪士14名が江戸高輪東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した事件(第1次東禅寺事件)や、文久2年(1862)に東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件(第2次東禅寺事件)があったが、外国人が狙われた単純な攘夷事件と、この生麦事件とは本質的に異なる東禅寺事件で襲撃されたイギリス人は、わが国の法律や慣習に照らして問題のある行為をしたわけではなかったが、生麦事件の場合は、もし同様のことを日本人が行なえば、確実に切り捨てられていた事案である。

しかしながらこの生麦事件は、わが国の通史においては、攘夷殺人事件の事例として分類されている。
この理由は、徳川幕府がイギリスとまともな交渉をしないまま、外圧に負けて賠償金の支払いに応じたことと関係があると考えている。
普通に考えれば、紛争の相手国に対して謝罪したり賠償金を支払うという行為は、自国の方に非がある事を、公式に認めたということになる。
ということは、その紛争に関する歴史記述において、自国側に非がある事を誇大に書かれたとしても、公式に認めた以上は文句が言えないことになる。
歴史にifは禁物かも知れないが、もし江戸幕府が生麦事件の賠償金を拒絶していたら、この事件が「攘夷殺人事件」に分類されることはなかったと思う。

ところで、江戸幕府に謝罪させて賠償金を手に入れたイギリスのやり方は、相当強引なものであった。いわゆる「砲艦外交」で江戸幕府に圧力をかけたのである。
翌文久3年(1863)に、イギリスは江戸幕府に対して生麦事件に対する謝罪と賠償金10万ポンドを要求し、薩摩には犯罪人の処罰と賠償金2万5千ポンドを要求することを通告し、さらに幕府に圧力を加えるため、英仏蘭米の4か国艦隊を横浜に入港させている

当時江戸幕府は、東禅寺事件の賠償金の支払いについて英国と交渉中であったのだが、2人のイギリス兵が斬殺されたこの事件の賠償金は、のちに生麦事件の賠償金と同時に支払われ、その金額は1万ポンドであったという。どう考えても生麦事件の幕府に対する賠償要求額の10万ポンドは高すぎる

当時、将軍徳川家茂は京都を動けない状況にあり、イギリスとの交渉にあたったのは老中格の小笠原長行だったが、この生麦事件の賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾した。一旦は支払うことで決したのだが、将軍後見職・徳川慶喜が京都から戻り賠償金支払い拒否を命じたことから事態が流動化し、支払期日の前日になって支払延期が通告されたために英国が激怒。ニール代理公使は艦隊に戦闘の準備を命じたという。
しかし、再び江戸で開かれた評議においては、尊攘派の水戸藩が介入して逆に支払い拒否が決定されてしまう。
そこで江戸の閣老たちは、事態収拾のためにフランスの代理公使と司令官に調停を依頼したが、フランスは江戸幕府からの仲裁の依頼を拒絶してイギリスの要求に従うように勧告し、さらに横浜の防御をフランスの手に委ねるように要求したという。

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冒頭で紹介したアーネスト・サトウの著書の文章をしばらく引用しよう。
日本政府がフランスの当局者を説いて日本側のために仲裁に立たせようとしたことは、完全に失敗した。もっとも、この仲裁の依頼と同時に、外国人はみな直ちに横浜から退去すべしというばかげた要求が行なわれたのだから、仲裁のできるわけはなかったのだ。日本政府は、6月24日にニール大佐に通知書をおくり、賠償金を支払うから受領の時刻を知らせてくれといってよこした。これに対するイギリス側の回答は、分割払いという先般の協定は、日本政府の方で破ったのだからすでに無効であり、今日中にその全額を支払わねばならぬというのであった。
 これはその通りに実行された
。…」(同上書 p.98)

この賠償金支払いは老中格小笠原長行が幕府に無断で行ったという説と、将軍後見職の一橋慶喜の了解を得ていたという説があるが、いずれにせよ、責任ある立場にありながらイギリスと交渉らしい交渉もせず、相手の要求した全額を支払ったことは情けない話である。

江戸幕府が支払った賠償金は、東禅寺事件の賠償金と合わせて11万ポンドだが、当時の為替相場は1ポンドが2.5両だったと、次のURLに書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6
とすると、11万ポンドは275千両。ちなみに通訳生として採用されたばかりのアーネスト・サトウの年俸は200ポンドで500両、新撰組の近藤勇の年俸は480両だったという。

ただ、江戸幕府はこの賠償金を無条件で支払うつもりではなかったらしく、アーネスト・サトウの著書によると、老中格小笠原長行は同じ日に、諸港を閉鎖して外国人をことごとく国外に追放せよという将軍の命令を伝達したというのだが、当然のことながらイギリスがそのような命令に応じるような国ではなかった。

同日付のイギリスの回答を読むと、その強圧的な姿勢に多くの読者が驚かれるのではないだろうか。ポイントとなる部分を紹介したい。
「…ただ今閣下を通じて行われた軽率な通告は、文明国と非文明国とを問わず、あらゆる国の歴史に類を見ざるところであります。それは実際上、条約締結国全体に対する日本自身の宣戦布告にほかなりません。直ちにこれを取り止めなければ、その結果は最も苛酷かつ最も効果的な懲罰によって、その罪を償わなければならぬでしょう。この旨、閣下より大君陛下の上聞に達せられ、さらに大君によって確実に天皇に奏上せらるべきものと愚考いたします。…」(同上書 p.102)
要するに、「賠償金は頂戴しておくが、国外に出ていけという命令を撤回しないならば、貴国との戦争が避けられない。その代償は高くつく。」と脅しているのだ。

アーネスト・サトウはこの著書の中で、この時期に江戸幕府がイギリスに接近してその支援を受けたり、横浜の防御をフランスに委ねていたとしたら明治維新は為し得なかったという意味のことを書いているので紹介したい。裏を返すと、幕末期においてはイギリスもフランスも、わが国の一部でも植民地化するチャンスを窺っていたということだろう。

イギリス側か大君に与えようという物質的援助…政策がうまく実行されれば、大君は祖先伝来の地位に安定し、その後継者を転覆させた1868年の革命は困難となり、おびただしい流血なしには成就しなかったであろうし、また日本国民は、外国の援助で日本の地位を強化した支配者を嫌悪するに至ったであろう。そうなれば大君は苛酷きわまる抑圧手段によらなくてはその地位を保ち得なくなり、国民は恐るべき永久の独裁政治下に屈服を余儀なくされたであろう。大君の閣老が、外国からの援助申し出を拒否するだけの充分な愛国心を持ち合わせたことは、まことに喜ぶべきことであった。かくして、日本人は自己の力で自分の救済を行なうようになり、革命が勃発した時も、生命財産の損失をわずかの範囲に食い止めることが出来たのである。…もし日本人がヨーロッパの某国人(訳注 フランス人)の提言を受け入れたとしたら、それは永久に阻止される結果になったかもしれない。」(同上書 p.102-103)

話を生麦事件に戻そう。
イギリスは生麦事件の賠償金を、江戸幕府からだけではなく、薩摩藩からも獲ようとしていた。
江戸幕府は、イギリスの要求する賠償金を全額支払ったのだが、薩摩藩の場合は、薩摩側には何も落ち度はないので、イギリスが要求した犯人の処罰にも2万5千ポンドの賠償金の支払にも応じるつもりはなかったのである
そこでイギリス公使代理のニールは、クーパー提督率いるイギリス東洋艦隊7隻を錦江湾に派遣して、砲艦外交によって薩摩藩からも賠償金を獲ろうとしたのである。

薩英戦争のことを書くとまた長くなるので次回に記すことにしたい。

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薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった

前回は生麦事件における江戸幕府の対応を書いたが、今回は薩摩藩の対応を書くことにする。

イギリスは江戸幕府から、得意の砲艦外交により10万ポンドの賠償金の獲得に成功し、次いで鹿児島の錦江湾に7艘の大艦隊を回航せしめ、薩摩藩からも2万5千ポンドの賠償金を獲ろうと企てたのだが、薩摩藩は一歩も引かなかったのである。

国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、薩英戦争に関する記述がありそうな本を探す。「薩英戦争」で検索すると、ネットで閲覧可能な26冊の古書がヒットする。
昭和16年に出版された『維新史第3巻』(維新史料編纂事務局)を読むと、薩摩藩がこの日の来ることを想定して、周到な準備をしていたことがわかる。次のURLにその該当部分がある。(原文は旧字旧かな。以下同じ)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242358/265

canonhou.jpg

「…生麦事件勃発以後は、早晩英国艦隊の鹿児島来襲を予想し、外夷屠(ほふ)らずんば已まずという意気を以て、愈々(いよいよ)武備を厳重にした。或は砲台を増築し、備砲を強化し、或は遠見番所、狼火(のろし)台を各地に設け、弾薬の製造を盛んにし、兵糧の貯蔵に力めた。英艦来襲を想定した模擬戦もまたしばしば行われ、藩主茂久はみずからこれを瞥し、一藩を挙げて日夜英艦撃攘の訓練を怠らなかった。されば6月27日、英国の大艦隊が鹿児島に迫るや、予(かね)てその事あるを期待していた事なれば、沿岸の狼火台は直ちに合図の狼火を打ち揚げ、警報は八方に伝えられて、各砲台守衛の士はもとより、城下の士卒はそれぞれ迅速に部署に就いた。」

薩英戦争の砲弾

薩摩藩の砲台は先代の島津斉彬の時代より錦江湾沿岸の要所に設置されたものだが、薩摩藩の大砲は砲弾が円くて、細長いイギリス艦隊のアームストロング砲と比べると射程距離が短く、破壊力も劣っていた。

徳富蘇峰の『近世日本国民史〔第50〕』に薩摩藩の砲台をみた英国側の記録が引用されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228685/121

「鹿児島付近の西岸、ならびに島嶼には砲台を構え、その砲台の多数は市街の前面に連接し、専ら市街防御を為し、守備頗る厳重だ。市街付近の高所には、陣地を卜(ぼく)し、柵を繞(めぐ)らし、薩藩の旗章を翻し、その周囲には、多数の兵士立ち並び、扇子を扇ぎて、艦隊の進航に注目するの挙動を察するに、必定一発の相図(あいず)あらば、一斉に砲火を開くもののごとし。」

薩摩藩主島津忠義は、軍役奉行折田平八らを旗艦に遣わし、その来意を問わしめている。
英国は折田らに国書を手交した。
かなり長文だが、その要求している内容は、生麦事件の犯人を捕らえて、英国将校12名の目前で死刑に処することと、2万5千ポンドの支払うことの2点であるが、「之を拒まば、その他軍艦の到着を待ちて、直ちに戦端を開くべし。」といった脅しの文句がいくつも書かれている。徳富蘇峰の前掲書に、英国の国書の全文が紹介されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228685/124

まず薩摩藩は、書面の往復は談判に不便であるとし代表者の上陸を求めたのだが、『近世日本国民史〔第50〕』の続きを読めば、次々と繰り出す薩摩藩の奇策に、多くの日本人は驚くことだと思う。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118156/138

「『(ニール代理公使等が)上陸せば、城内の釣橋を引き揚げて彼等を捕虜となす可き設計は準備せられた。此れは確定せられた内議であった。若し此の奸計成功し、而して英艦より発砲するが如きことあらば、此の俘虜を斬首すべき旨を、艦隊に通告し、而して霧島の堅固なる牢屋に幽閉せられたであろう。』
と7月13日横浜発行の英字新聞に公表せられた。それは余りにも穿ちすぎたる想像説ではあるが、その実薩摩でも、若し代理公使、水師提督等が、藩の請求に応ぜざるに於いては、彼等を御春屋内に幽閉し、同所を焼き討ちする計画であったと言う。[男爵本田親雄談話]」

英国は薩摩の謀計を危惧してこの誘いには乗らなかったのだが、次に薩摩藩は決死隊を募り、1艘は返書を持参し、他は西瓜などを積んで売り込むように見せかけて艦隊にうまく乗り込み、合図とともに斬りこみをかけ、7艘の軍艦を奪い取ろうとしている
このことは、『維新史第3巻』や『近世日本国民史〔第50〕』にも書かれているが、その時に錦江湾の英軍艦に乗っていた通訳士のアーネスト・サトウの著書にも同様の記録を残している。これは、薩摩の使者に英国の要求書を手交した翌日の午後の出来事である。

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「…別の役人が数名旗艦へやってきて、回答の期限については何とも言明はできぬと言った。その際ニール大佐を訪れた重役の名前は伊地知正治といった。…この男とこれに従う40名の者が、イギリスの士官を急襲して重だった者を殺害せんものと、充分な計画の下に主君と別盃を酌みかわして来たのである。彼らは、こうした方法で、旗艦を奪取しようとしたのだ。それは大胆至極な考えではあったが、当方で前もって警戒していなかったら、あるいは成功したかもしれない。それらの者は2、3名しか提督の室に入ることを許されず、一方水兵たちは、後甲板に居残った者たちを警戒の目で中止していた。
 これらの日本人がまだ艦上にいる間に別の船が到着したが、それは援兵を乗せてきたものか、計画的殺戮の取消し命令を持ってきたものか、私には判断できなかった。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.105)

『近世日本国民史〔第50〕』によると、40名は船に上がることが出来たものの、銃剣を構えた英海兵隊が整列して監視していたために、何もできなかったようだ。

またWikipediaによると、薩摩藩は桜島と沖小島の間に地上管制式の水雷3発を敷設したとの記録も残っているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E9%9B%B7%E6%88%A6

翌日薩摩藩はその回答書を届けている。その回答書は、かなり長文で挑戦的なものである。
内容については、犯人は捜しているが未だに捕まっていないことを記したうえで、生麦事件については薩摩には罪はない。このような国法があることを織り込まないまま条約を締結した幕府にこそ問題があると述べて、巧みに英国の要求を拒絶している。英国の砲艦外交は薩摩藩には全く通用しなかったのである
薩摩藩の回答書の原文は『近世日本国民史〔第50〕』に出ているが、英国をまるで相手にしていないような文章である。次のURLに回答書の原文とその解説があるが、回答の一部を紹介しておこう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118156/142

「…数年来頻りに探索すれども未だ捕獲せず。かつ人数も一人にあらずして、種々遁避の術を盡(つく)すと見えたり。固より江戸と京都を親睦のために往来する者にて、私意毛頭なければ、主人より命じたるにあらざるは疑いなかるべし。…」
「(貴国においても)我が国法の如く数多の従者を従えて往来する時は、兼て制禁あるにも拘(かかわ)らず、是を犯さば、衝き倒すか、または打ち殺すかせざれば其の国主の往来も成り難かるべし。…諸候を指揮せる江戸の政府にて、従来重き国法のことを条約に載せずして、猥りに諸候の過とするは、政府の不行届なるべし。」

薩摩藩はもちろん英人を斬った人物は分かっていたが、英国に差出す意思は全くなかった。
リチャードソンに最初に一太刀浴びせたのは奈良原喜左衛門で止めを刺したのは海江田信義であったとされているが、両名とも、7艘の英軍艦を奪い取ろうとした決死隊に志願したメンバーであったのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
また、決死隊には、後に第二代の内閣総理大臣となった黒田清隆や陸軍大臣などを歴任した大山巌も参加していたようである。

アーネスト・サトウ22-23歳

もちろん英国はこんな回答で納得できるはずがない。アーネスト・サトウの著書で、英国側の反応が如何なるものであったかを述べている部分があるので引用したい。

「…(薩摩藩の)使者が到着したとき、わが方は使者に向かって、回答は不満足なものと考えられるから、もはや一戦を交えたあとでなければ日本人との交渉には断じて応じられぬと告げた。それから提督は、湾の上の方を暫時遊弋(ゆうよく)し、図面にあるウィルモット岬(訳注 大崎ノ鼻、図面省略)の沖合に投錨している外国製の汽船数隻を偵察し、また遥かかなたの湾頭で数回の測量を行なった。当方には砲台を即時攻撃するつもりはなかった。数隻の汽船を拿捕するという報復措置をとれば、薩摩人は前回持ってきたものよりも満足すべき回答を持参するに違いないと、提督は考えたようだ
 この計画にしたがって、…15日払暁(ふつぎょう:明けがた)汽船の拿捕を開始した。汽船に近づくにつれて、もちろん私たちは大いに興奮し、任務に従って各自忙しく立ち働いた。

われわれは、拿捕した船を艦の舷側につないで、桜島の下にある碇泊所へ帰った。…
しかし正午になると、突如一発の砲声が聞こえた。それと同時に、全砲台がわが艦隊に向かって火ぶたを切ったのである。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.106-107)

薩英戦争戦闘図

攘夷の薩摩藩が先に英国に戦争を仕掛けたというイメージがあったのだが、薩摩は英国の敵対行為を確認してから砲撃を開始していることは注目して良いと思う。

そもそも英国が、その武力を背景に高価な汽船を拿捕する根拠はどこにあるのだろうか。英国がやったことは、相手にライフル銃を突き付けて「金を出せ。出さないなら命はないぞ」と言っても相手が動かないので、近くにいた家族をつかまえて「こいつの命が惜しけりゃ、俺の言う通りにしろ。」と言っているようなものである。当時のイギリスは、このような野蛮な方法で世界の多くの国を植民地化していったのだろう。

このように、戦前の本を探せば同様の論調の書物は容易に見つけることが出来るのだが、戦後出版された書物に、欧米諸国の世界侵略の真実を詳しく書いているものがどれだけあるのだろうか。

このブログで何度も書いているのだが、歴史の叙述はいつの時代もどこの国でも勝者にとって都合の良いものに書きかえられるものである。
特にわが国においては、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い真実は、わが国の教科書などにはほとんど伏せられているのが現実で、たとえば『もう一度読む 山川日本史』では、
「1862年(文久2年)には神奈川に近い生麦で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件がおこり、翌年イギリス艦隊がその報復として鹿児島を砲撃するという事態に発展した(薩英戦争)」
と書かれているだけだ。
こんな文章を読めば、薩英戦争にイギリスに正義がなかったことを理解することは不可能だろうし、薩英戦争は攘夷事件を起こした薩摩藩に責任があり、薩摩は薩英戦争で英海軍の前に完敗したとしか読めないだろう。

では、薩英戦争は、薩摩軍はどのように戦い、結果はどうであったのか。
実際には薩摩藩はかなり善戦したのだが、その点については、次回に記すことにしたい。

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【ご参考】
このブログで、「戦勝国にとって都合の悪い真実」について多くの記事を書いてきました。
いくつか紹介しますので、良かったら覗いて見てください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-181.html

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html



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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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