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アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1

京都にいる親しい友人から、近所に「キスカ島撤退作戦」を体験した中村さんという方がおられるとの情報が入り、その方の話を友人と一緒に聞くことになった。

中村さんは大正14年(1925)のお生まれで91歳という高齢ではあるが、大変お元気で、言葉もしっかりしておられたのに驚いた。
2時間近くお話を伺ったが、私にとってはこんなに長時間にわたって戦争の体験談を直接聞いたのは初めての経験で、いろいろ勉強になることが多かった。しかしながら、中村さんは日本軍がキスカ島占領して8カ月後の昭和18年(1943)2月にキスカ島に派遣された方であり、キスカ島での任務は半年程度と短く、奇跡の撤退を経験した当時は18歳の海軍一等水兵であり、立場上知りえないことが多々あったことはやむを得ないことである。

キスカ島占領から撤退にいたるまでの詳細ならびに軍の方針や戦略的なことなどはこの本を読んで確認してほしいということで、キスカで任務にあたったメンバーの貴重な体験談や作戦に関与した幹部の証言等が綴られた『キスカ戦記』(原書房刊)を中村さんからお借りすることとなったのだが、この本の「まえがき」に、この本が昭和55年(1980)に発刊された経緯が記されている。

キスカ戦記

「…この間、幾多の日米両戦士の生命を失った死闘が続けられていましたが、僅かに公刊戦史がその経緯を述べ、個別の私記あるいは特定の戦闘に関する断面が喧伝さているのみで、大多数の人々の生々しい体験については記録されておらず、その全貌はあたかも霧の中に埋没された儘のようになっておりました。戦後この作戦に参加し生き残った人々が相集いキスカ会を結成、毎年恒例として東京を始めゆかりの地において慰霊祭を施行して参りましたが、年々当時の青年も壮年もやがて老年ともなり櫛の歯の抜けるようにこの世を去りつつあり何時かは消える運命にありますが、一昨年厚生省当局のお骨折りでアリューシャン列島戦跡慰霊巡拝団派遣を機に、特別会員徳永正三氏等から、元気な者が残っている間に各自の体験を記し、遺しておこうではないかとの強力な発案があり、総会出席者全員の同意する処となり、会の事業としてとりかかることになったのであります。…」(『キスカ戦記』p.5)

この本が出版されてからすでに36年が経過し、「奇跡」と言われるキスカ撤退を経験した最も若い世代にあたる中村さんがすでに91歳なのだから、この本を執筆したメンバーのほとんどは既にこの世を去っていることだろう。軍隊で責任ある立場にいた人の話を直接聞くことのできる時代はとうの昔に過ぎ去ってしまっているのだ。

しかも初版の定価が2600円というのは当時としてはかなり割高で、この本が一般の読者にどの程度売れたかについては良く分からない。

戦後の長きにわたり、わが国のマスコミは『軍隊は悪』とのイメージを拡散し続け、そのために私も含めて戦争を知らない世代の多くは、あの戦争の最前線で苦労をされた兵士のことについて関心を持たないまま過ごしてきた。新聞やテレビは、空爆や原爆の悲惨な体験談を紹介することはあっても、兵士としてこの戦争を体験した人の貴重な話を紹介することはほとんどなかったと言って良く、この『キスカ戦記』が出版された2年後(昭和57年)の宮沢談話以降は、マスコミと教科書の左傾化が進行していくばかりだった。

しかしながらキスカの作戦に加わった主要メンバーが『キスカ会』を立ち上げて、メンバーが健在なうちに体験談を本に纏めておいたことには意味があったと思う。
本というものはいわばタイムカプセルのようなもので、当時のマスコミが兵士の体験談を意図的に採りあげなかったにせよ、本にしておけばいずれ世の中が変わって誰かが読み、いくつかの文章が紹介される可能性が残る。『キスカ会』がこの本の出版を決意したのも、そのような思いが少しはあったのではないだろうか。

そして昨今、学校やマスコミを通じで戦後垂れ流され続けてきた歴史叙述に嘘が多いことが、ようやく国民に広く知られるようになり、通説とは異なる視点から太平洋戦争のことを考えようとする人が明らかに増加傾向にある。

このような時期に、91歳の中村さんが私にこの大切な本を預けられたことの意味を考えてみるのだが、中村さん自身は軍隊の責任ある立場ではなかったために、キスカ島で起こった出来事を、正確にその背景から語ることは難しい。しかしながらこの本には、然るべき立場の人が思いのたけを記しておられる。どうかこの本の内容の一部でもブログに紹介していただいて、キスカ島で国を守るために共に戦った兵士たちのことを若い人に伝えてほしい。そういう思いで中村さんは大切な本を私に託されたのではないだろうか。

私の筆力でどの程度のことが伝えられるかはわからないし、何回の連載になるかも不明だが、しばらくこのブログで、日本軍がキスカ島を占領してから奇跡の撤退を果たすまでの経緯を、この作戦に参加した兵士の手記などをなるべく引用しながら記すことにしたい。

キスカ島はアリューシャン列島西部のラット諸島に位置する島で1741年にヴィトゥス・ベーリングによって発見され、1867年にロシアからアラスカを購入した際にアラスカ本土と共にアメリカ領となっている。

アリューシャン列島

まず地図でこの島の位置を確認しておこう。アラスカのハイテン岬から髭のように長く伸びたアリューシャン列島の西部にキスカ島があり、さらに約300km西にアッツ島がある。
キスカ島の面積は277.7㎢で、わが国の西表島(289.6㎢)よりも狭いのだが、わが国はなぜこんな狭い島を攻略したのだろうか。その経緯を知るためには、太平洋戦争で日本軍の快進撃が続いた頃にさかのぼる必要がある。

わが国は昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃以降太平洋の西海岸に展開し、12月20日頃から潜水艦からの攻撃による連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開した。そして翌年の2月24日にはカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油精製所への砲撃に成功し、これまでほとんど本土を攻撃されたことのない米国政府・国民に大きな衝撃を与えたという。

このような状況を受けて米軍は首都東京を攻撃する計画を練るのだが、米陸軍航空軍の長距離爆撃機の行動半径内に日本を収める基地がないため、同盟国の領土に着陸させるプランが検討されるに至る。

昭和17年(1942)4月18日に米軍は航空母艦に搭載した米空軍のB-25爆撃機16機によって、日本本土に対する初めての空襲が実行され(ドゥーリットル空襲)、東京、川崎、横須賀、名古屋などが爆撃されて、民間人が87人死亡したほか、潜水母艦1隻が小破し、監視艇5隻が沈没する等の被害が発生した。

B-25爆撃機
【B-25爆撃機】

ドゥーリットル空襲で用いられたB-25爆撃機の航続距離は4300kmで、往復を考慮すると作戦行動範囲は2170kmとされるのだが、この空襲においてB-25は空母に戻らず、日本列島を横断して中華民国国軍の飛行場に着陸したのだ。

ドゥーリットル空襲の規模は決して大きなものではなかったのだが、日本陸軍は二度目の本土空襲を防ぐために、支那派遣軍に命じて浙贛(せっかん)作戦を実施。5月中旬から9月にかけて、中国側の着陸基地を破壊し占領した。

アリューシャン列島地図

またすでに内定していたミッドウェー攻略作戦の実行が急がれることとなる。
ミッドウェー島はハワイの北北西2100kmにある環礁で、その中に多数の島々がありミッドウェー諸島ともいう。ちなみにミッドウェー島から東京までの距離は4100kmである。

ミッドウェー島
【ミッドウェー島】

そして5月5日にミッドウェー作戦とアリューシャン諸島占領作戦が認可され、ハワイ攻略の前哨戦として山本五十六長官、宇垣纏参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成されたのである。

アリューシャン諸島占領作戦はミッドウェー作戦と同時に行われたのだが、その作戦を同時に実施した目的はどこにあったのだろうか。『キスカ戦記』にはこう記されている。

「陸、海それぞれの公刊戦史は、この間の事情を次のように伝えている。
『アリューシャン攻略作戦が決定された経緯については問題はなかったけれども、その作戦目的については関係者の回想は必ずしも一致していない
すなわち、福留繁軍司令部第一部長は『本作戦はミッドウェー作戦内定に付随して新たに企画されたもので、ミッドウェー作戦を実施しても米艦隊が出撃して来るとはからないので、その出撃強要を一層助長する手段として採用した』と回想しており、ミッドウェー作戦の補助作戦の意味を含めている。また、
 富岡定俊軍司令部第一課長は、戦術的にミッドウェー作戦の牽制作戦の意味を持たせたと回想している。また
 軍司令部第一課の航空主務であった三代辰吉部員は、米ソの連絡を妨害してシベリアを基地とする米航空部隊の本土空襲を予防する点を重視し、アリューシャン西部要地に大型機を進出させて哨戒すことは、気象などの関係から実施困難で、航空兵力の消耗が大きいことを予想して反対であったと回想している。
 連合艦隊司令部の関係者は、米国が大型機をアリューシャン西部に進め、わが本土を空襲する企図を先手を打って押さえるとともに、敵の北方進攻略を未然に防ぐのが目的で、ミッドウェー作戦の補助作戦とする考えは全くなかったと回想している』」(『キスカ戦記』p.7-8)

アリューシャン諸島占領作戦で日本軍が占領しようとしたのはアッツ島とキスカ島なのだが、アッツ島から東京までは3200km、キスカ島から東京までは3500kmだ。
太平洋には島らしい島はわずかしかなく、米軍機に日本本土への空襲をさせないために、日本列島に最も近いアメリカ領の島を押さえることは戦略上必要であるとの判断が優先されたのだが、占領期間はいつまでなのか、航空基地をつくるかどうかで意見が割れていた。

中沢佑
【中沢佑海軍中将】

当時第5艦隊参謀長であった中沢佑海軍中将はこの作戦に関しこう述べたという。
「…私は(要地占領を夏期のみ、航空基地を造成しないという連合艦隊参謀の案に承知せず)、自分の信念に基づいて根本方針を主張した。その結果、連合艦隊は、守備隊は冬季に入るも撤収しない、但し有力なる航空基地は置かず、僅かの水上航空兵力を置くこととした。<これが妥協の産物であった>
 連合艦隊司令部の幕僚にも、海洋中の島嶼(とうしょ)占領は恰(あたか)も陸戦における要地占領の如く考え、制空、制海権を確保するにあらざれば、占領の意義なきのみならず、却って、補給の負荷となることを理解していないものがあったことを遺憾に思う」(同上書 p.9)

一旦はミッドウェー、アリューシャン両作戦は海軍だけで実施することが決定されたのだが、ドゥーリットル空襲によって再び方針が変更される。

「軍令部はこれが対策として本土東方哨戒を厳にするため、哨戒基地を前進するにはミッドウェー攻略を最も有効な手段と認め、連合艦隊のミッドウェー作戦に釈然としていなかっ作戦課も、一転してその攻略ならびに攻略後の保持対策に熱心になった。
 一方、陸軍部は両作戦〈ミッドウェー、アリューシャン〉に陸軍兵力を出さない方針であったが、この空襲により哨戒基地前進の必要を認め、なるべく早く返すよう考慮する条件で陸軍兵力の派出を海軍部に通告し、21日それを決定した。」(同上書 p.10)

この度重なる方針変更が、両作戦の準備にかなりの混乱を招いたようだ。

『キスカ戦記』に海軍少佐の向井一二三氏の手記がある。向井氏は施設本部から『キスカ島基地設営計画』なる機密文書を手渡されて驚いたという。
「そこにはGF(連合艦隊)司令部の短期進駐の方針とは全くかけ離れて、半永久的根拠地設営ともいうべき厖大な資材と施設計画が用意されていた。陸戦隊固有の兵器・弾薬・糧食・医療品、その他の軍需品と併せて1万屯(トン)級と7千屯級と二隻の輸送船が充当されているのを見ても如何に厖大な計画であったかがうかがえるだろう。熾烈な敵の砲爆撃を顧慮して案画されたものとは到底思えない」(同上書 p.21)

また海軍軍医大尉としてキスカ島に向かった小林新一郎氏の手記には、
「…1千名もの兵器、器材から被服糧食その他およそ戦いと人間生活に必要な、ありとあらゆる物資の、しかも幾月分かを準備しなければ、不毛の地と予想される彼地において生きていくこともできない。
 これらの夥(おびただ)しい量の物資を、短時日で搭載することがいかに困難であるか、まったく想像を絶するものがあった
。直接その任にあたった甲板仕官、浅井少尉らの苦労たるや到底筆舌に尽くし得ない所であった。

目指す敵地!勿論攻略せずにはおかない。しかし、…果たして補給は完全に出来るだろうか。余りにも飛び出した部隊は全体としての戦略的弱点を形成しはしないだろうか。戦術の何物かを生かじった私はふっとそんな不安が胸に湧いて、じーっと地図を見つめたまま動かなかった。…」(同上書p.28-29)

米軍の空母や大型機の基地を撃滅して本土空襲を防止することが当初の目的であったはずなのだが、ミッドウェー島やアッツ島、キスカ島を攻略し占領して基地を設営するとの色彩が強められていったのである。

『キスカ戦記』では、両攻略作戦発動についてこう纏めている。
わが戦争指導部と実戦部隊は、根本的思想の統一と理解を欠いたまま、戦場方面に対する貧弱な智識――敵情、兵要地誌、天候、気象など――を克服できぬまま、あわただしく両作戦の準備に着手し、相当な無理を押して兵力特に水上部隊、航空部隊の移動、集中を行い、5月25日を先陣に両作戦部隊は基地を出撃、運命の大作戦の幕を切って落としたのである。連合艦隊司令長官山本五十六大将も、海軍記念日の5月27日、主隊を率いて出撃した。」(同上書 p.10)

一方、米軍は日本軍の暗号電文を解読し、ミッドウェーとアリューシャン列島に日本軍が進撃するとの情報がいち早くニミッツ太平洋艦隊司令長官に報告されていたのだが、そのような事態を知る由もなく、わが国の攻略部隊は必勝の意気に燃えて次々と出撃して行ったのである。
<つづく>
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【ご参考】
太平洋戦争関連はいろいろな記事を書いてきました。マスコミなどで伝えられていない歴史に興味のある方は、ちょっと覗いてみてください。

太平洋戦争緒戦の日本軍の強さは米英軍の予想をはるかに超えていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-222.html

なぜ日系人だけが強制収容所に送られたのか~~米国排日8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-268.html

強制収容所の日系人が米軍を志願した理由は何だったのか~~米国排日9
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GHQ情報部長が、日米は戦うべきではなかったと述べた理由
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尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-280.html

戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-406.html

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
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関連記事

ミッドウェー海戦大敗後、キスカ島上陸に意味はあったのか~~『キスカ戦記』を読む2

アリューシャン列島の西部にあるキスカ島、アッツ島等の攻略はミッドウェー作戦と同時に行われた。
キスカ上陸作戦の前に、第二機動部隊によるダッチハーバー航空攻撃が昭和17年6月4・5日に行われ、日本軍は七機を失ったが、米軍の哨戒飛行艇PBY六機、陸軍重爆B26、B17三機、P40戦闘機二機を葬っている。

ミッドウェー・アリューシャン列島攻略概念図

しかしながら、前回の記事の最後に触れたとおり米軍は日本軍の暗号電文を解読しており、アリューシャン方面には最低限の戦力を送るにとどめて、主力をミッドウェーに集中して日本軍を待ち構えていた
ミッドウェー海戦のことは別の機会に書くこととして、この戦いの結果をキスカ島に向かう船上で知らされた海軍軍医大尉・小林新一郎氏の手記を紹介しよう。

小林氏は昭和17年(1942)6月6日に船が反転して西に(キスカ島と反対方向に)向かっていることに気付いたのだが、どうしたことかと思っていると、先任副官の柿崎大尉がいきなりノックもせずに小林氏の部屋に入ってきた。

「…副官は部屋に入るなり荒々しく、
『寝ちゃおれんよ! 軍医長!』と言った。その顔はこわばり、眼は血走っていた。
『どうしたんだい! 一体!』」と起き上って聞いた。
向かい合った副官の顔から容易ならぬことが起きたに違いないと直感して、息を飲んで次の言葉を待った。
ミッドウェー沖で大海戦だ。しかも思いがけないことばかりだ。これを見ろ!』といって差し出した電報綴に軍機の朱書が目についた。しかもその内容は、
赤城沈没。加賀大破炎上。蒼龍大破。飛龍被弾。』
 と思いがけない悲報である。断片的な戦況報告から全体の様子を判断することは不可能であるが、ミッドウェーへ向かったわが空母部隊が全滅に瀕していることは確かだ。…我らが精鋭中の精鋭空母部隊が致命的な損害を受けたことを知って、心臓の凍る思い、目の前が真っ暗になる思いがした。

 ハワイ空襲もこの精鋭があったればこそ、印度洋作戦もまた然り、今次の東太平洋作戦も頼むはこの4隻の空母部隊であった。その精鋭が、われわれの頼みの綱がミッドウェーの海底深く消えてしまったのだ。…『誰にも言わないでくれよ』といって先任副官は出て行った。彼も余りのことに呆然となって度を失い、自分の胸一つに包み切れず、せめて私の所へ苦しみを分けに来たのであろう。誰にこんなことが話せるものか。話したりして何になろうか。ただ心配させ、士気を沮喪させるに過ぎない。つつみ切れないほどの重荷であるけれど、われわれ幹部だけの胸に秘めておこうと決心した。」(『キスカ戦記』p.46)

炎上する空母加賀
【炎上する空母・加賀】

ミッドウェー海戦で大敗をしたことが判明した時点で、アリューシャン攻略に意味があるのかと誰でも考えるところだが、この点については『キスカ戦記』にこう記されている。

「…空母全滅、機動部隊大損害の大敗を喫した状況が明白となるや、山本連合艦隊司令長官は、ミッドウェー攻撃を中止するとともに、アリューシャン攻略の延期を決意し『直ちに反転西航しつつ後命を待て』と下命したのである。」(同上書 p.36)

小林新一郎氏の手記にあるように、北方部隊はこの命令により反転して西に向かって進んだのであるが、翌日になってこの命令が覆されたという。

「明けて6日8時、中沢第五艦隊参謀長は①ミッドウェー作戦が不成功に終わった今、西部アリューシャンだけを攻略しても哨戒戦の前進には無意味であり、②有力な兵力を失った現在、アリューシャンに手を広げるのも意味がない、との判断から、連合艦隊司令長官宛
『AL作戦*は此の際中止し、捲土重来のことと致したし』と作戦の中止を具申
した。
 これに対し、連合艦隊参謀長は残存鑑定の中から有力な部隊を増援してAL作戦をしたいとの意思表示と意見を求められ、連合艦隊司令部の意向を知った第五艦隊司令長官細萱中将は、AL作戦の再興を決意し、増援部隊の来着を待たずに作戦実施を下命した。このため攻略作戦実施は当初の予定より一日遅れることになった。
 かくして北方部隊は急ぎ再び反転、目的地に急進した。

 このような事態から、当初予定したアダック島に対する攻撃破壊作戦は取り止められ、水上機動部隊はアッツ攻略指揮官の指揮を解かれてキスカ方面に進出し作戦周辺海域(ベーリング海と推定…公刊戦史)の索敵を命ぜられた」(同上書 p.36-37)
*AL作戦:アリューシャン攻略作戦のこと

中沢第五艦隊参謀長の指摘の通り、ミッドウェー海戦で大敗してしまったのなら西部アリューシャン列島を攻略してもあまり意味がないと思えるのだが、なぜそのような考えが覆されるに至ったのか。

キスカ戦記

この点について、第五艦隊参謀の久住忠男氏は『キスカ戦記』の序文でこう述べている。
「私にとってもっとも強い印象が残っているのは、ミッドウェーの悲報から、アリューシャン攻略作戦決行に至るまでの那智作戦室での運命の岐路に立った約12時間だった。大本営、連合艦隊、第五艦隊の間の意見交換は、二転三転の末、決行することに決まった。この決定を待ちあぐんでいた私は、『壮烈無比』(アリューシャン作戦第五法の隠語)の発信を力を込めて電信室に命じた。いまも、あのときの情景がありありと思いだされる。もしあのときミッドウェーのショックで全軍が退却していたとすると、戦局はどうなっていたであろうか。機をみるに敏なアメリカはもっとも距離が短く、抵抗力の少ない北方の作戦ルートをとって、もっと早く、直接日本本土に進攻し、ソ連もこれに呼応してもっと早く参戦していたかもしれない。」(同上書 p.1-2)

確かに、ミッドウェー海戦で敗れた日本軍がアリューシャン作戦を中止してしまえば、アメリカに太平洋の制空権、制海権を手中にし、日本列島の近くまで空母を近づけることがさらに容易となる。前回記事で書いたが、ミッドウェー島から東京までの距離は4100km、アッツ島から東京までは3200km、キスカ島から東京までは3500kmで、ドゥーリットル空襲で用いられたB-25爆撃機の航続距離は4300km*だ。
もし米軍に制空権、制海権を奪われてしまえば、米軍は太平洋上の空母から爆撃機を飛ばしてわが国の主要各都市に空襲を行い、いずれ上陸し進攻してくることを覚悟せねばならない。
*のちのB-29爆撃機の航続距離は6600km

そうさせないために、アリューシャン作戦を予定通り実行することが決定したのだが、キスカ島の占領に関しては、米軍とどのような戦いがあったのだろうか。
再び海軍軍医大尉・小林新一郎氏の手記を引用することとしたい。

大発

「6月7日午後9時。…『陸戦隊集合!』は令せられた。第三種軍装に鉄兜、小銃そのほかそれぞれの武装を整えた舞三特600の将兵は、まったくの暗闇の中を音もなく混雑もなく粛然として所定の上中甲板に整列した。…司令向井少佐は階段の中途に立ち止まって、荘重なさびのある声で、
『大命を奉じてキスカ島を攻略するッ!』『各隊予定の通り行動せよ!』と命令された。…大きなデリックが動き、器械がガラガラと回っては大発*を釣り上げて舷外へ下ろしていく。ガラガラと回る機械の音は闇の海上に響き渡り、蒸気を噴出する。あたりは余りにも静寂である。それを破っての騒音はあまりにもよく響き渡る。陸地はすぐそこである。この物音に敵が気付はしないかとひやひやする。…特務隊長天野大尉の乗っている一号艇を見つけて二号艇、三号艇<私の艇>と順にその背後につく。われわれの背後には主計隊の乗った四号艇がいつの間にか就いていた。四隻単縦陣を作ったまま陸地に向かう。
 闇の中に目をならして見ると、左手に岩山がある。あれが左方の突出端で、その入江がわれわれの上陸地点レナード・コープ(白糸浜と命名した)である。思ったより狭い入江である。針路を真っ直ぐにそこにとる…真正面の海岸で闇を貫いて青い信号火箭(や)がパーッと打ち上げられた。
 ああ、上陸成功!時に〈午後〉10時29分」(同上書 p.46-47)
*大発:大発動艇の略(上画像)

要するに、日本軍は米軍からは何の抵抗もなく無血で上陸したのである。キスカから約300km西にあるアッツ島も、日本軍は無血上陸を果たしたという。

では、ミッドウェー海戦の敗北とキスカ島、アッツ島の無血上陸のことを、わが国の新聞などではどう報じたのだろうか。

ミッドウェー新聞報道

上の画像は昭和17年6月11日付の朝日新聞だが、見出しは「東太平洋の敵根拠地を強襲」「ミッドウェー沖に大海戦 アリューシャン列島猛攻」とあり、この記事を読んで日本軍がミッドウェーで完敗したとは誰も思わないだろう。

ミッドウェー海戦で日本軍が大敗北を喫したのは6月6日なのだが、この戦いの報道はその5日後のことで、それまではミッドウェー海戦における日本軍の敗北が伏せられていたことを意味する。
前述したとおり、アリューシャン攻略作戦においては戦いらしい戦いは無く、6月6日にアッツ島、6月7日にキスカ島に上陸し無血占領に成功したのだが、この成功が無ければどのような新聞紙面になっていたかを想像してみよう。

もし、ミッドウェー海戦で大敗北を喫したのち、山本五十六連合艦隊司令長官や中沢第五艦隊参謀長の意見が通って北方部隊を帰国させていたとしたなら、戦わずして北方部隊が戻ったかの説明がつかなくなり、ミッドウェー海戦の大敗北を長い間隠蔽し続けることは難しかったと私は思う。

大本営が、どうしても国民にミッドウェー海戦での大敗北を隠したいのであれば、アリューシャン攻略だけでも成功させるしかなかったであろう。第五艦隊参謀の久住忠男氏は『キスカ戦記』の序文には一言も述べていないのだが、そのような観点からの判断もあったのかもしれない。

しかしながらキスカ島もアッツ島も米国領であり、自国の領土がわが国に占領されている状態をアメリカがいつまでも放置する筈がなかった。わが国が占領してわずか4日目の荷揚げ作業が続く最中に米軍機による最初の集中爆撃があり、その後何度も米機の空襲を受けることとなる。こんな極寒の孤島で空襲が続けば、食糧などの補給活動が困難となることは言うまでもないだろう

キスカ島の兵士たちは、補給が厳しいこの島で、どうやって生き延びることが出来たのか。その点については、次回以降に記すこととしたい。

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【ご参考】
戦争関連はいろいろな記事を書いてきました。マスコミなどで伝えられていない歴史に興味のある方は、ちょっと覗いてみてください。

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

アメリカのルーズベルト政権に垣間見えるコミンテルンの影
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「ハル・ノート」は、アメリカが日米開戦に持ち込むための挑発だったのか
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スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている
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アメリカがGHQの中の左翼主義者の一掃をはかった事情
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スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応
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関連記事

キスカ上陸後、すぐに米軍の反撃が始まった~~『キスカ戦記』を読む3

前回は昭和17年(1942)6月7日に日本軍がキスカ島に無血上陸したことを書いたが、米兵がいなかったわけではなかった。上陸後2名がすぐに捕まり、残りの8名も大浜海岸に投降してきて捕虜としたが、全員戦意はなかったという。

上陸したのち、すぐに機材の陸揚げがはじまったのだが、これが大変だったようだ。
海軍大尉の柿崎誠一氏の手記によると、
揚陸海岸はたちまち物資の山となり、それを内陸に運ぼうにも湿地のため堅固な道路を開設せねばならなかった
 それこそ、陸戦隊員・設営隊員さらには捕虜まで総動員し、昼夜兼行で作業を実施したが、なかなか思う通りには進まなかった。」(『キスカ戦記』p.40)

「昼夜兼行」といっても、6月のキスカ島の昼は長い。設営隊員であった北村富造氏の手記には、
白夜のキスカ島は夜でも明るく、午前二時には起床である。それから十六、七時間というもの荷揚げ作業の連続であった。食事は一日四回。眠る時間は四時間」(同上書 p.57)
と記されている。

では、キスカ攻略部隊の兵士たちは具体的にどんな作業をしていたのだろうか。兵装隊長・海軍少尉であった菅恭彦氏の手記を紹介しよう。
現地はいわゆるツンドラ地帯で、木は一本もなく、野菜も育たず、全部内地から運ばねばならなかった
 木柱をつないで無線のアンテナを立て、長波・中波・短波のアンテナを張り、多数の無線機を設備した。
 谷あいにディーゼル発電所を造り、配電設備を架設して、指揮所・無線通信所・電波探信儀・兵舎等に電気を供給した。発電所は占領期間中、一度も爆撃の被害を受けず完全に任務を全うした。
 敵の無電をキャッチして敵の方位を測定するため無線方位探知機を山上に設備したが、この建物は金属を一切使用しない木造であった

 また、キスカ湾の入口には、敵潜水艦の侵入に対する警戒のため水中聴音機を設置した。」(同上書p.55)

軽巡洋艦 木曽
【軽巡洋艦 木曽】

しかしながら、キスカ島を占領して5日目の6月12日に、早くも米軍機による集中爆撃を受け、それ以降何度も空からの攻撃が行われて、基地を整備する作業は中断されてなかなか進まない。しかも、難を避けるために軽巡洋艦の木曽をはじめとする水上艦隊は18日にキスカを去って北千島に戻ってしまい、キスカ島にはわずか数隻の輸送船と陸上部隊だけが残されたという。
そして6月19日には油槽船日産丸が爆撃されるに及んで、20日には大型輸送船白山丸、球磨川丸2隻についても揚陸作戦を中止して内地に引き揚げることとなり、食糧は陸揚げしたものの、この離島で守備に当たる防備部隊には不可欠の資材を積み残したまま帰投してしまった。キスカ湾に残されたのは爆撃で焼けた日産丸と、三隻の駆潜艇のみとなったという。

海軍は兵士を避難させる事よりも船を避難させることを優先させたわけだが、このことは兵士たちにとっては、さぞ不愉快でありまた心細かったことだろう。海軍主計大尉の小林亨氏の手記には、表現は抑えられているが素直な思いが書かれている。

戦いで守ること〈防御〉、防御力のない地上部隊の対空専守防衛ほど人的心理を害するものは無い。戦いは、まさに死を知らずして猛烈に勇奮することに〈こそ真骨頂が〉あると思われる
 21日。曇天時々晴。荷揚げ作業が〈したくても〉無いので、全員防空壕掘りに力を注ぐ
 土中生活に徹底することが目下の急務である。意思なき敵爆弾によって不可抗力的に聖天せしめられては、なんとしても死にきれぬ。」(同上書 p.76)

軽巡洋艦の木曽をはじめとする水上艦隊や2隻の輸送船が去っていった後のキスカ島には、どれだけの兵力が残されていたのだろうか。
軍医の小林新一郎氏の手記にはこう記さている。

兵力としてはわが舞三特が600の1コ大隊で、これが陸上兵力として計算に加えることのできる唯一のものであった。
 東港空支隊の基地員も約200はいた、が飛行機のない航空隊くらい意味のないものはないし、地上火器を持たない素手の基地員は陸上兵力としては加算できない。そのほかに、舞三特付属として基地設営のための工員が約300名いたが、これとても全くの丸腰で兵力としての数に入れることはできない
 有する兵器はどうか。
 まず飛行機であるが、神川丸〈特設水上機母艦、キスカ攻略部隊協力の水上機部隊に編入され、16日キスカに入港した〉の観測機4機――内1機は不時着して修理中を更に爆撃され大破――であるが、これがボーイング等の大型機に対しては全く無力である
次に大切な対空火器であるが、これも誠に心細いもので、舞三特米岡高射隊の有する四門の中、何とか射撃できるようになっているのが僅かに二門である。…
 高杉山の十三粍(ミリ)機銃四門が景気よく火を吹いて頼もしげであった。ところがこれが〈後日〉撃墜された大型機の装甲板に対して300米(メートル)の距離で射撃してみて、これを貫通し得なかったのにまったく驚いた。
 こうした心細い状態で、しかも敵中に深く突出して孤立無援の状態に取り残されたのが当時のキスカ島部隊であった。
 頼みとする友軍は遠く後退し、自らの実力は言うに足りず、後援続かざる絶海の孤島に、待つあるを恃(たの)む能わずして、ただ 来たらざるのみを恃まざるを得ない状態になってしまった
。」(同上書 p.73-74)

水上戦闘機
【水上戦闘機】

しかしながら、しばらくしてキスカ島に増援部隊が送られることとなり、7月5日に水上機母艦千代田と輸送船アルゼンチナ丸が濃霧の中を入港した。千代田には水上戦闘機が6機搭載され、アルゼンチナ丸には、ミッドウェーに上陸予定であった800名の将兵が新鋭の高角砲や重砲を携えていたという。ところが、そのあとに続く駆逐艦3隻が、入港を目前にして米潜水艦の砲撃を受けて1隻は沈没し、2隻は現地では修理不能のために濃霧の中を北千島に戻されたという。
その後も、毎月のように輸送船・潜水艦など数隻が米軍の攻撃を受けて沈没させられたり破壊されたりしている。

水上機母艦 千代田
【水上機母艦 千代田】

『キスカ戦記』の第7章に孫子の兵法書地形篇の一節が紹介されている。

「『地形には…挂(かい)なるものあり…挂なる形には、敵に備えなければ出でてこれに勝ち、敵もし備えあれば出でて勝たず、以て返り難くして、不利なり』と、また
『遠なる形には、勢い均しければ以て戦いを挑み難く、戦わば而ち不利なり』と。
 つまり、挂(かい)というのは、敵が無防備ならば遠征して勝利を得られるが、敵が防備を固めている場合の遠征はまず勝ち目がない。特に、敵に主導権がある場合は撤退困難で不利である。また本国から遠く離れている戦場には、彼らの戦力が同等ならば決して戦いを挑んではならない。遠隔であることの不利が、われに苦戦を強いるからである。
 アリューシャンの戦場はまさに挂(かい)なる形であり、遠なる形であった。無血占領は容易であったが、反攻の度合いが増大するに比例して撤退は困難となり、本国を遠く離れ、有勢なる敵と対戦するの不利は顕著となり、味方航空、艦艇戦力の衰えるにしたがって戦場は益々遠くなり、苦戦敗色の濃くなるのを如何ともすることができなくなっていった
。」(同上書 p.154)

孫子の兵法では、わが国の本土から遠く離れた絶海の孤島を占領することは、戦いを敗北に陥れる要素として戒めているのだが、大本営は、船の損害が多数出ているにもかかわらず、占領した2島を長期確保してわが国の北辺の防衛体制を強化するために、キスカ・アッツの2島に飛行場を建設する方針を決定し、地上防備兵力特に防空部隊の増強をはかりだしたという。

『キスカ戦記』に海軍水兵長の中村秀雄氏がキスカ島の飛行場建設のことを書いている。
昭和18年2月頃から飛行場建設が始まり、設営隊だけでなく、われわれも作業に出かけ、元気まかせに突貫工事に精を出した。今思えば時代遅れの工法で、いわゆるツルハシとスコップにモッコ、辛うじてトロッコで土砂運搬だから作業は遅々として進捗しない。」(同上書 p.142)

先日に私が友人と話を伺った中村さんは、昭和18年2月に対空防空部隊としてキスカ島に派遣され、武器弾薬の運搬と防空隊本部の防空壕掘りと弾庫掘りの作業などを行ったという。この季節のキスカ島は、日照時間はわずかしかなく、寒さが特に厳しかったという。

中村さんと同じ時期にキスカ島に入った、海軍一等水兵の芝田耕氏はこう書いている。

「上陸第一日目は機銃弾の運送作業で、吐く息が防寒帽の前の部分の毛の所一面に凍結して氷柱(つらら)が下ってくる。午後3時頃になると、あたりが暗くなり早くも夕方になる。朝、明るくなるのが9時過ぎで昼間が非常に短いので、作業時間が少ないために陣地構築は捗らず、居住のための幕舎の設営も出来ないので、キスカ湾大浜海岸の水上飛行機の木造格納庫で夜を明かすことになった。コンクリートの床の上に毛布を敷き、全員に配給された焼酎を飲み身体が温まった勢いで寝た。朝、目覚めると、格納庫の隙間から入った雪が、寝ている毛布の上に白くなって積もっている。」(同上書p.97)

その翌日はすごい吹雪で、格納庫がミシミシと音を出して揺れ出したので、風呂場に退避したのだが、朝起きて格納庫を見てみると、強風で屋根が吹き飛ばされて完全に倒壊していたことが芝田氏の手記に書かれているが、このことは中村さんも話しておられた。

このような作業をしている時に米軍機に襲われて被害が出たことも何度かあったようだが、中村さんの話ではキスカ島は雲や霧に覆われて視界が悪いことが多く、米軍機からも攻撃目標を確認できないまま適当に爆弾を落としていくようなことが多かったという。
今の爆撃機なら悪天候の中でも目的物を狙って破壊することが可能なのだろうが、当時の爆撃機は操縦士の視力に頼らざるを得なかったようで、「天気の悪い日には空襲は少なく、視界の良い日には空襲があると警戒した」のだそうだ。また、飛行機から爆弾が投下された時には、「(飛行機の飛ぶ方向で)自分のいる場所が安全かどうかある程度わかる」とのことで、危ないと判断した際には防空壕に入って敵機が去るのを待ったという。

キスカ島空襲回数
【キスカ島に対する敵空襲一覧表(一部)】B:爆撃機、P:戦闘機、Y:飛行艇 xは不明を示す

『キスカ戦記』の巻末に水上機母艦君川丸飛行長、古川明氏の提供資料により作成された「キスカ島に対する敵空襲一覧表」があり、キスカ島上空に現われた爆撃機、戦闘機の来襲機数と来襲回数が日別に出ている。この記録を見ていると、昭和18年3月以降にアメリカの爆撃機、戦闘機による空襲が激増していることがわかる。

キスカ島でツルハシやモッコを使って飛行場を造るのに手間取っている間に、米軍は隣のアムチトカ島に飛行場を完成させたことがその理由である。

B-25爆撃機
【米軍B-25爆撃機】

飛行場づくりに携わった海軍水兵長の中村秀雄氏はこう記している。
「…すぐ近くのアムチトカ島に米軍もまた飛行場を造っているとのことで…、悲しいかな、物量と機械力に物を言わせた敵は、あっという間に飛行場を造り上げ、われわれより一足先に一度に十機以上の戦闘機で襲ってくるようになった。長い間のわれわれの念願も全く無駄に終わってしまった
 …
 さて空襲はますます熾烈となり、時には眼前で艦砲射撃もしてくる。今思えば恐ろしいことだが、当時は全く捨身の心境であった。
 米軍機はB25、B24、B17爆撃機、戦闘機はカーチスP40、ロッキードP38などは、特にP38は奇襲で機銃掃射、小型爆弾攻撃を散々やった奴だ。
しかし、なんといっても艦砲射撃が一番気味悪かった。どこを狙っているのか、着弾しないと分からないのだから。次に恐ろしいのが時限爆弾だった。1トン爆弾級になると、一発で直径十メートル、深さ五メートルくらいの穴を作る代物だった。触発信管付の人馬殺傷用の小型爆弾も厄介者で、深さは僅か10センチメートルぐらいだが、破片が地表面十数メートルに四散する。」(同上書 p.142-143)

アリューシャン列島

日本軍より先に米軍がアムチトカ島に飛行場が完成させたことは重要である。アムチトカ島からキスカ島は110km、アッツ島へは440km程度と近く、3月からの米機の空襲は猛烈さを増すばかりであった。海軍主計大尉の小林亨氏の3月10日の日記には「敵戦爆28機来襲、飛行場にほとんど全弾命中せしめられ、戦死2、重軽症あわして約17、8名を出せり」(同上書 p.193)とある。

制空権、制海権を失えば、アッツ島やキスカ島に食糧や武器弾薬等を送り込むことがますます困難となることは誰でもわかる。

アッツ島沖海戦
【アッツ沖海戦】

3月27日には輸送作戦中の日本艦隊とアメリカ艦隊がコマンドルスキー諸島近海で遭遇し、アッツ島沖海戦が起こる。この本海戦に日本軍は敗れて、以後アッツ島は食糧不足が深刻化することとなる。
小林亨氏の日記を読み進んでいくと、4月14日にキスカ島からアッツ島へ潜水艦で食糧を送る指令が出たことが記されている。文中の「熱田島」はアッツ島であり、「鳴神島」はキスカ島のことを意味している。

「熱田島は糧食の不足に相当の逼迫を来たし、五艦司令部より鳴神島から潜水艦により〈熱田へ〉輸送するようにとのこと」(同上書 p.194)

キスカ島への補給も何度も米軍に襲われていたので、アッツ島に食糧を回すほどの余裕があったとはとても思えないのだが、アッツ島の食糧不足はそこまで深刻な状況になっていたということだろう。

そしてこのアッツ島海戦以降、日本軍は輸送船が米軍の北太平洋艦隊に攻撃を受けることを警戒し、霧の発生する季節までは、物資の輸送を潜水艦に託すことになったという。

『キスカ戦記』にはこう解説されている。文中の「集団輸送」というのは輸送船団を艦艇で護衛しながら物資を輸送することである。

「…細々とした潜水艦輸送に頼るほか無くなったわが輸送作戦は、ここに至って末期的様相を呈してきた。
霧の時期は6、7月せいぜい9月までである。だから、潜水艦輸送に転換してからは、補給のための集団輸送は遂に行われず、皮肉なことに霧を利用しての集団輸送が発動されたのは、キスカ撤収作戦においてであった。
 アリューシャンの要地占領から、撤収までの13ヶ月の間に失われた艦艇8隻、中・大破した艦艇10隻、沈没、擱座した輸送船9隻、人員の犠牲2000人以上に及び、海没した物量は数万トンに達したのである。
 正に血みどろの輸送作戦であった
。」(同上書 p.156-157)

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第二次世界大戦についてこのブログでいろいろな記事を書いてきました。良かったら、ちょっと覗いてみてください。

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
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『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
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スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応
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なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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