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日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代

前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。

中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。

以前このブログで、15世紀にローマ教会が相次いで異教徒を奴隷にする権利を授与する教書を出していることを書いた。

カトリック教会と奴隷貿易

カトリックの司祭である西山俊彦氏の著書『カトリック教会と奴隷貿易』に1454年1月8日に教皇ニコラス5世(在位:1447~1455)が出した『ロマーヌス・ポンティフェックス』が訳出されているので紹介したい。

「神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。…
 以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した
 …ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマ聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年」(『カトリック教会と奴隷貿易』p.76-77)

文中の「アルフォンソ」はポルトガル国王であったアルフォンソ5世(在位:1438~1481)だが、この教書の意味することは重大である。ポルトガル国王とその伯父のエンリケ航海王子に対して、異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利をローマ教皇が授与しているのである。

ローマ教皇は「キリストに敵対する者の奴隷化の許可」を記した一方で、「キリスト教徒の奴隷化の禁止」を明記した教書も出したのだそうだが、西山俊彦氏は著書でこれらの教書についてこう解説している。

「…『正義の戦争――正戦――』を行なうに当たっての『正義』の基準が『唯一絶対的真理であるキリスト教』に『味方するか、敵対するか』にあると理解すれば、論理は一貫しています。しかも正戦遂行は義務もともなって、戦争によって生じた捕虜を奴隷とすることは、キリスト教以前から認められてきた『正当な権限』をキリスト教も踏襲しただけということになります。もちろん『正義』にしろ『正当な権限』にしろ、それら原理自体には大いに問題ありと言わねばなりませんが、これが現実だったわけで、当時はイスラム教徒はキリスト教徒を、キリスト教徒はイスラム教徒を奴隷として、何ら不思議とは思われていませんでした。」(同上書 p.78)

キリスト教徒とイスラム教はいずれも一神教で、お互いが相手の宗教を異教として許容することができない関係にあるために、自国の領土だけでなく奉じる宗教とその文化を守り広げていくために、お互いが相手国の領土や富や人民を奪い合う争いを続けてきた。
ところが、大航海時代に、キリスト教国がわが国のような非イスラム教の国家と接するようになっても、イスラム教の国々と同様の異教徒として、わが国の敗残兵や民衆を奴隷として大量に買い込んだのである。

このブログで、日本男性の奴隷を傭兵として買うニーズが高かったことを書いたが、日本女性のニーズも高かった。

徳富蘇峰

徳富蘇峰の『近世日本国民史 豊臣氏時代.乙篇』に、レオン・パゼーが著した『日本耶蘇教史』の付録に載せた文書が引用されている。
この文章も、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されているが、これを読めば、多くの日本人が絶句するのではないか。

ポルトガル人の商人はもちろん、その水夫、厨奴らの賎しき者までも、日本人を奴隷として買収し、携え去った。而してその奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼らを無暗に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に籠居(ろうきょ)せしめ。而してその持ち主らが一たび病に罹(かか)るや――持ち主の中には、ポルトガル人に使役せらるる黒奴(こくど:黒人奴隷)も少なくなかった――これらの奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食糧さえも、与えざることがしばしばあったためである。この水夫らは、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いを逞しうして、あえて憚(はばか)るところなく、そのマカオ帰港の船中には、少女らを自個の船室に連れ込む者さえあった。予は今ここにポルトガル人らが、異教国におけるその小男、小女を増殖――私生児濫造――したる、放恣、狂蕩の行動と、これがために異教徒をして、呆然たらしめたることを説くを、見合わすべし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/214

なんと日本人少女が、ポルトガル人に使われていた黒人奴隷に買われていたケースが少なくなかったというのだが、それほど安く日本人が売られていたのである。
にわかにはこうような記録が事実である事を認めたくない人が少なくないと思うのだが、日本側にも奴隷にされた日本人がどのようにして運ばれたかを記録した文書が残されているので読み比べておこう。

ポルトガル国立小美術館にある桃山時代の「南蛮屏風」

豊臣秀吉の祐筆であった大村由己(ゆうこ)が、秀吉の九州平定時に同行して記した『九州御動座記』に、秀吉が『伴天連追放令』を発令した経緯について記した部分がある。この記録も徳富蘇峰の著書に引用されており、『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが可能だ。

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々の宝物を山と積(つみ)、いよいよ一宗繁盛の計略を廻らして、すでに後戸(ごと:五島)、平戸、長崎などにて、南蛮舟つきごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず、黒船へ買取り、手足に鉄の鎖(くさり)を付け、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、その上牛馬を買い取り、生きながらに皮をはぎ、坊主も弟子も手づから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。見るを見まねに、その近所の日本人、いずれもその姿を学び、子を売り親を売り妻女を売り候よし、つくづく聞しめし及ばれ、右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/215

日本人奴隷はなんと、鎖に繋がれて、家畜の様に運ばれていたというのである。

完訳フロイス8

ルイス・フロイスの1588年の記録によると、薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は島原半島に連れて行かれて「時に四十名もが一まとめにされて、売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)と記されている。

キリシタン大名は日本人奴隷を売った金で、火薬の原料となる硝石を買い込んだようなのだが、その硝石が後に島原の乱で江戸幕府との戦いに使われたという。島原の乱については反乱軍の兵器の方が討伐軍よりもはるかに優位にあり、犠牲者も討伐軍の方が大きく、単純に農民一揆と分類されるような戦いではなかったのだが、この乱については別の機会に書くことにしたい。

話を元にもそう。
このように、わが国が西洋社会と接するようになって、多くの社寺仏閣が破壊され、多くの日本人が奴隷にされたのだが、宣教師たちはそれを止めようとした形跡は見当たらない。

今回の記事の最初に『ロマーヌス・ポンティフェックス』を紹介したが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。

イグナチウス・ロヨラ

イエズス会を創設した一人であるイグナチウス・ロヨラは、「私の意図するところは異教の地を悉く征服することである」と述べたのだそうだが、わが国に来た宣教師が残した文書には、東アジアの侵略事業を如何にして進めるかというテーマで書かれたものをいくつも見つけることができる。

たとえば、イエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルが1584年にスペイン国王へ宛てた書簡にはこう記されている。ここではイエズス会は、キリシタン大名を用いて中国を植民地化することをスペイン国王に提案していたようだ。
「…私の考えでは、この政府事業(明の植民地化)を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』p.95)

kirisitan.jpg

また1588年にアググスチノ会のフライ・フランシスコ・マンリーケがスペイン国王に送った書簡にはこう記されている。
「…もしも陛下が戦争によってシナに攻め入り、そこを占領するつもりなら、陛下に味方するよう、日本に於いて王*達に働きかけるべきである。キリスト教徒の王は4人にすぎないが、10万以上の兵が赴くことができ、彼らがわが軍を指揮すれば、シナを占領することは容易であろう。なぜなら、日本人の兵隊は非常に勇敢にして大胆、かつ残忍で、シナ人に恐れられているからである。」(同上書P.103)
*王:キリシタン大名の事

このように、宣教師たちはわが国の小西行長や松浦鎮信らキリシタン大名の軍事支援があればシナを征服することは容易だと考えていたのであるが、そのことは宣教師がキリシタン大名に出兵を要請した場合は、彼らが出兵に協力してくれることについて確信があったということであろう。もしキリシタン大名の協力を得てシナがスペインの領土となり、さらに朝鮮半島までスペインの支配が及んだとしたら、スペイン海軍はキリシタン大名とともに江戸幕府と戦うことになったであろう。

他の宗教と共存できない一神教のキリスト教を奉じる西洋諸国が、15世紀以降ローマ教皇の教書を根拠にして武力を背景に異教徒の国々を侵略し、異教徒を拉致して奴隷として売り払い、さらにその文化をも破壊してきた歴史を抜きにして、戦国時代から江戸時代にかけてのわが国の宗教政策や外交政策は語れない。

この時代のわが国に、キリシタン弾圧があったということをことさらに強調する本やテレビ番組などをしばしば見かけるのだが、このような弾圧があった背景に何があったかを一言も説明しないのは、どう考えてもバランスを欠いている。
戦国時代から江戸時代にかけての日本人にとって、キリスト教は、20年ほど前のわが国でテロ事件を繰り返した某宗教集団よりも、はるかに悪質な存在であったことを知るべきはないか。

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わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か

前回は、遭難したサン・フェリペ号の積荷没収事件と日本二十六聖人殉教事件について、イエズス会・ポルトガルとフランシスコ会・スペインとの主張が真っ向から異なり、前者は、両事件ともイエズス会・ポルトガルの関与はないと言い、後者はイエズス会の讒言により、フィリピンのサン・フェリペ号の荷物が没収されフランシスコ会の宣教師らが処刑されたと主張したことを書いた。

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高橋弘一郎氏の『キリシタン時代の研究』に、イエズス会東インド管区の巡察師*であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノがイエズス会フィリピンの準管区長ライムンド・プラドに書き送った書翰の一節が紹介されており、ここではフィリピンの修道士(フランシスコ会士)は日本に来るなと述べている。ヴァリニャーノはイタリア人だが、フランシスコ会のようにヨーロッパのやり方を押し通すような手法には批判的であったという。ちなみに、この書翰は長崎で二十六聖人が処刑された日からおおよそ9カ月後の、1597年11月19日付で記されたものである。
*巡察師: イエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師

「私は自分の良心の重荷をおろすために、そしてまたフィリピンにおいて真実を知ってもらうために尊師に申述べたいが、われわれ日本イエズス会や日本に関することは別において、一般的に言って、フィリピンの修道士は何人もシナ、日本、およびその他のポルトガル国民の征服に属する地域において、主への奉仕、霊魂の救済、更には国王陛下への奉仕を願い、それに沿った行動をしてはならない。それどころか彼らがそれらの国に行こうとすればするほど、ますます大きな弊害が生じ、その目的を達するのが困難になるであろう。
その主な理由は、これらの地域の王や領主は、すべてフィリピンのスペイン人に対して深い疑惑を抱いており、次の事を知っているからである。即ち、彼らは征服者であって、ペルー、ヌエバ・エスパーニャ*を奪取し、また近年フィリピンを征服し、日々付近の地方を征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。そしてその近くの国々にいろいろ襲撃を仕かけており、何年か以前にボルネオに対し、また今から2年前にカンボジャに対して攻撃を加えた。…日本人やシナ人も、それを実行しているスペイン人と同様にその凡てを知っている。なぜなら毎年日本人やシナの船がマニラを往き来しており、見聞していることを良く語っているからである。このようなわけで、これらの国々は皆非常に疑い深くなっており、同じ理由から、フィリピンより自国に到来する修道士に対しても疑念を抱き、修道士はスペイン兵を導入するための間者として渡来していると思っている。このため彼らを自国に迎えるのを望まないばかりか、彼らとポルトガル人が同じ国王の下にある事**を知っているので、我々に対しても疑念を抱いており、それは現在われわれが日本で見ている通りであり…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.132)
*ヌエバ・エスパーニャ:1519~1821までの北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の領地
**『ポルトガル人が同じ国王の下にある事』:1580年にポルトガルのエンリケ1世が死去し、以後スペイン国王がポルトガルの国王を兼ねた。その後、ポルトガル人はスペインの苛政に反発し1640年にポルトガルはスペインからの独立を果たしている。


この文章の中にある『シナ、日本、およびその他のポルトガル国民の征服に属する地域』という言葉の意味は、少し補足が必要だ。
高瀬弘一郎氏によると、このような表現は「当時のカトリック宣教師や貿易商人、植民者が頻繁に用いた常套の表現」であったようだが、当時においてはスペインやポルトガルに征服されていない国々についても、どちらの国が征服事業に手を付けるかが予め決められていたことを知る必要がある。
わが国は、中国大陸と同様に、ポルトガルが布教をし征服をする権利を有していたのである。

以前このブログで記したことがあるのだが、1494年にローマ教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線(デマルカシオン)が定められた。下図のサラゴサ条約におけるデマルカシオンを確認すると、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。

デマルカシオン

その取り決めによりスペインは西回りで侵略を進め、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服し、そして1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本に上陸しキリスト教の布教を開始している。

日本におけるキリスト教の布教については、ローマ教皇はポルトガルの事業であるとし、ポルトガル国王がイエズス会に布教を許可したのだが、一方スペインは、豊臣秀吉がフィリピンに対し降伏勧告状を数回にわたって突きつけたことに対し、その2度目の交渉でフィリピンからわが国に送り込んだ使節のメンバーに、ペドロ・バプチスタらフランシスコ会の宣教師をわが国に紛れ込ませている。
そしてフランシスコ会は、『伴天連追放令』が出されて以来おおっぴらな布教活動を自粛していたイエズス会を尻目に3つの教会を相次いで建築し、わが国で本格的な布教活動を開始したのである。

このことにイエズス会が強く反発したのだが、イエズス会とフランシスコ会の対立は、1580年にスペインがポルトガルを併合し、サン・フェリペ号事件および日本二十六聖人殉教事件があった後にはさらに尖鋭化していったようである。

この両派の対立をわかりやすく言うと、日本という国の領土を「ポルトガル国民の征服に属する地域とするのか、スペインにも一部地域の征服を認めるのか」、あるいは「ポルトガル国王の許可を得たイエズス会のみが布教をするのか、スペイン国王の許可を得たフランシスコ会等の布教をも認めるのか」という対立である。

アウグスチノ会所属のポルトガル人、フライ・マヌエル・デ・ラ・マードレ・ディオスは、日本二十六聖人殉教事件が起こった年である1597年に、次のように書いてイエズス会を擁護している。

「昨年司教ドン・ペテロ・マルティンスは、上述の跣足修道会遣外管区長[26聖人となったフランシスコ会のバプチスタのこと]に書き送り、全く友好的かつ敬虔な表現で、日本に於いて原住民改宗のために聖福音を説く聖務は、教皇聖下の大勅書、ことに教皇グレゴリウス13世の大勅書、及びポルトガル国王の勅命よってイエズス会のパードレ*に指定されているので、この政務を行なうことを尊師に許可するわけにはゆかないという点を了承してもらいたい。というのは、それは教皇聖下の命令にそむき、教皇や権威ある地理学者達がポルトガルとカスティーリヤ(スペイン)の両王位の間で二分した征服の全体的な分割を侵すことに外ならないからである、と懇願した。」(高瀬弘一郎 同上書 p.5-6)
*パードレ:神父、司祭のこと

しかし、よくよく先ほどのデマルカシオンの地図を見て頂きたいのが、スペインが1571年に征服したフィリピンは「ポルトガル国民の征服に属する地域」に入っているし、今回の記事の冒頭で紹介したアレッサンドロ・ヴァリニャーノの書状では、ボルネオやカンボジアにも近年攻撃を加えており、日本と中国も狙っている趣旨の事が書かれている。なぜスペインはサラゴサ条約で定められたルールを無視したのであろうか。

理由はいろいろあるのだろうが、貿易上のメリットという観点から考察すると、スペインの西回りのルート上の国々よりも、中国やインドや日本との交易が可能なポルトガルの東回りのルートの方がはるかにメリットが大きかった。だからスペインは、再三にわたり、日本や中国がポルトガルのデマルカシオンに入る教皇文書を取り消させようとし、同時に、教皇文書を無視して、フィリピンを足場に日本や中国との貿易を開始し、布教をも敢行してきたのである。
ポルトガル商人からすれば、もしスペインが日本や中国との貿易に割り込んでくるのを放置していたら、日本貿易に対する依存度の高いポルトガル領マカオに甚大な打撃を与えることになる。そのために、イエズス会士やポルトガル植民地関係者が大反対したのだが、当時の文書を読むと、この対立関係はかなり根深いものがありそうである。

例えば1597年にマカオのイエズス会士からゴアのインド副王に宛てた書状にこのようなものがある。

イエズス会士でない修道士が日本に渡ることを禁じた教皇聖下の小勅書に反し、また世俗の者であれ修道士であれカスティーリャ(スペイン)の征服の地からポルトガルの征服の地に赴くことを禁じた国王陛下の勅令を犯すものである。教皇聖下は修道士であれ世俗の者であれカスティーリャ(スペイン)人に対してはこの門戸を鎖し、もう決して彼らが日本およびそれに隣接したすべての島、シナの全海岸…に入国することがないようにしなければならない。…
…そして次のように厳罰を以てルソンの総督に命じてもらいたい旨このインド領国の名で国王陛下に要請しなければならないと思う。…」(高瀬弘一郎 同上書p.26)

また、この時代の宣教師の書翰を読んでいると、わが国の布教を推進するために、わが国を武力で征服すべきだという内容のものが少なくないことに驚く。

前回および前々回の記事で、マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻めることをスペイン国王に提案したことを書いたが、1599年2月25日付けでスペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰には、日本の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとするかなり詳細なレポートが記されている。一部を紹介したい。

クルスは、わが国をこう攻めるべきだと進言している。
日本人は海軍力が非常に弱く、兵器が不足している。そこでもし国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことができよう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(しも:九州)、または四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るだろう。

隣接する領主のことを恐れているすべての領主は、自衛のために簡単によろこんで陛下と連合するであろう

金銭的に非常に貧しい日本人に対しては、彼らを助け、これを友とするのに僅かのものを与えれば充分である。わが国民の間では僅かなものであっても、彼らの領国にとっては大いに役立つ。

われわれがこの地で何らかの実権を握り、日本人をしてわれわれに連合させる独特な手立てがある。即ち、陛下が…われわれに敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者、あるいは寺領にパードレ(司祭)を迎えたり改宗を許したりしようとしない者には、貿易に参加させないように命ずることである。」(同上書p.140-142)

この様にして、キリスト教を受け入れた領主だけを支援し、貿易のメリットを与えることによって日本国を分裂させれば、九州や四国は容易に奪えるとしている。少なくとも当時の九州には、有馬晴信、大村喜前、黒田長政、小西行長など有力なキリシタン大名が大勢いたことを考えると、それは充分可能であっただろう。

次に、攻撃をする正当理由はどこにあったかというと、前回の記事で記したサン・フェリペ号の荷物没収とフランシスコ会士とその使者を殺害(日本26聖人殉教事件)したことで充分だという。

ではどうやって勝利するのか。そのためには軍事拠点が不可欠だが、クルスはその港まで指定している。38年後に島原の乱が起きた場所が指定されている点に注目したい。

島原の乱

このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。」(同上書 p.144)

さらにクルスは、どこかの港(薩摩、四国、関東)に、スペインの都市を建設し、スペイン国王が絶対的な支配権を確立することを述べた後、シナを武力征服しない限り、シナを改宗させることは出来ないとし、その武力と武器の調達は、安価でそれが可能な日本で行う以外はあり得ないと書いている。彼等は、キリシタン大名を使ってシナを攻めようと考えていたようである。

小西行長

また、ポルトガル人も都市を建設し基地を作るべきであるとし、小西行長が志岐の港を宣教師に提供することは間違いがないとまで記している。もしスペインが基地の取得に失敗したとしても、ポルトガルならば、従来の経緯から容易にそれが可能だとする意見を述べている。

その上で、最後にわが国の領土をスペインとポルトガルにどう分割するかということまで触れている。文中の「下(シモ)」とは九州の事である。

「…日本の分割は次のようにするのが良い。即ちポルトガル人はこの下(例えば上述の志岐または他の適当な港)に基地を得、一方スペイン人の方はヌエバ・エスパーニャに渡ったり、フィリピンを発ったナウ船が寄港したりするのに適した四国または関東といった…地域に基地を置くと良い。…教皇アレクサンデル6世が行なった分割において、その『東方』と『西方』のいずれに日本が属するかについて意見が分かれている。…このような分割が行なわれたのは、両国が協力し合って布教等を行なうためのものであった。まして同一国王のもとにあるなら尚更それは当然のことである。」(同上書 p.154)

ペドロ・デ・ラ・クルスが指摘したような、良港を手に入れて軍事と貿易の拠点として、布教を進めて領土を拡大する手法は、スペインやポルトガルが世界の植民地化を進めてきた常套手段ではなかったか。
彼らが目の敵にしていた豊臣秀吉が死んだのが1598年(慶長3年)で、クルスの書翰はその翌年に記されたものである。侵略する側の視点に立てば、絶好のタイミングでこの書翰が記されたと言って良い。

もし、関ヶ原の戦い以前にスペインがわが国に攻撃を仕掛けたとしたら、果たしてわが国は一枚岩で戦うことが可能であっただろうか。
豊臣秀頼

秀吉の遺児・秀頼は大のキリシタンびいきであり、もし豊臣家がキリシタン大名と共にスペインの支援を得て徳川連合軍と戦っていたら、徳川の時代はなかったかもしれないし、わが国の一部がスペインの植民地になっていてもおかしくなかっただろう。もしわが国がスペインの勢力を撥ね退けることができたとしても、相当な犠牲が避けられず、国力を消耗していたことは確実だ。

わが国の政局が極めて不安定であった時期に、サン・フェリペ号積荷没収事件と日本二十六聖人殉教事件が起こり、スペインにとってはわが国に対する復讐としてわが国を攻撃する絶好期であった。スペインの宣教師たちも再三そのことを催促していたにもかかわらず、スペインが攻めて来なかったことはわが国にとって幸運なことであったのだが、この背景を調べると、スペインはそれどころではなかったお家の事情があったことが見えてくる。
Wikipediaに詳しく書かれているが、この時期にスペインは地中海全域で戦火を交え、国内ではオランダやポルトガルが独立のために反乱を起こしていたのだ。

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ネーデルラント(オランダ)の反乱(八十年戦争)(1568~1648)、オスマン帝国との衝突(レパントの海戦, 1571)、英西戦争(1585~1604)、モリスコ追放(1609)、三十年戦争(1618~1648)フランス・スペイン戦争(1635~1659)、ポルトガル王政復古運動(1640)…
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3

これだけ国内外で戦っていては軍事資金の調達も厳しかったはずだし、そのための増税や兵役に対する不満が各地で反乱の種となる。スペインが遠方のわが国に軍隊を派遣する余裕などは到底なかったであろう。

前回記事で記したサン・フェリペ号事件日本二十六聖人殉教事件における、イエズス会・ポルトガルとフランシスコ会・スペインの対立も、ポルトガル勢力がスペイン勢力に対して反発を強めて行った大きな流れの中で捉えるべきなのだろう。
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宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

前回の記事で、秀吉の死の半年後である1599年2月に、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがわが国におけるキリスト教の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとの書翰をイエズス会総会長に送っていることを書いた。

キリスト教宣教師たちにとって天敵とも言うべき秀吉が死んだあとに生じたわが国における混乱は、スペインにとってはわが国を武力征伐する絶好のチャンスであったはずだったのだが、この時期のスペインはイギリスとの戦争(英西戦争)の真っ最中であり、国内ではネーデルランド(オランダ)の反乱が続いていて、わが国を攻めるどころではなかったと思われる。

しかしわが国に滞在していた宣教師たちは、秀吉の死を、日本に再びキリスト教を広める好機だと捉えて布教活動を活発化させたことが記録に残されている。五大老の筆頭であった徳川家康は、当時はキリスト教に比較的寛容であったことから、秀吉が出した『伴天連追放令』は有って無きがごとくのようだったという。

日本切支丹宗門史

フランスの日本史家のレオン・パジェスは1598-1599年の情勢をこう述べている。
「…家康は政治的の見地から、異国との通商をかち得んがために、決して(キリスト教に対して)不愛想にはしなかった。政策や一般の取締りを変更したり、太閤様の遺命を蹂躙したことが際立たないように、彼は、正式に認可を与えた訳ではないが、宗教上の事には故意に目をつぶった。そこで京都の付近のキリシタンは、自由になったものと考えて、あるいは天主堂を復興したり、あるいは公然儀式を行なった。」(岩波文庫『日本切支丹宗門史 上巻』p.25)

徳川家康

このように家康は海外貿易の利権を重んじたために、当初はキリスト教に対して寛大であり、その当然の帰結として、この時期にキリスト教信者が各地で激増したという。

「当時、帝国全土宗門は目覚ましい勢いで拡がりつつあった。数多の宣教師たちは、秘かに旧の伝道所に帰っていた。有馬や大村の領内には天主堂が再興され、各所に新しい信者の団体が出来た。1599年の2月から9月までの8ヶ月間に、約4万人の未信者が洗礼を受けた。」(同上書 p.29)

そして関ヶ原の戦いが起こった慶長5年(1600)の頃の情勢については、パジェスはこう記している。
当時、日本にはイエズス会の司祭・修士合わせて109人あり。うち14人は本年到着した者であった。彼等は30か所の駐在所、また伝道所に分散していたが、うち6か所が主要なるものであった。彼等の肝煎りで50か所の天主堂が再建され、5万人の新しいキリシタンが洗礼をうけた
長崎教区の大駐在所には、伝道所の教師を加えて30人の宣教師がいた。…
大駐在所の大村と、それに付属する伝道所には4人の司祭と7人の修士とがいた。国中あげてカトリック教信者で、他国から来て洗礼を受けた者が600人あった。…
5つの伝道所の付属する大駐在所のある有馬には、14人の伝道師がいた。この地は人口7万、全部がキリシタンであった。なお600人の他国者が洗礼を受けた。…
志岐と天草の島では、当時司教のいた志岐の駐在所とこれに付属して3箇所の伝道所があって、6人の司祭と10人の修士がいた。国中あげてキリシタンで、他国者300人が洗礼を受け、諸方の伝道所のあるところに新しい7つの天主堂が建立された。…
肥後では、宇土の大駐在所に、いくつかの伝道所が付属していて、5人の司祭と7人の修士がいた。既に1万人の信者がいたが、更に17千人の新受洗者ができた。…」(同上書 p.37)

この様に九州では、秀吉の死後にキリスト教が急激に広まっていったのだが、この年大阪にも駐在所が2箇所出来、京都にも天主堂と駐在所が出来、近隣各地からも宣教師の要望があったが、新たに派遣する余裕がなかったために、京都、大阪の宣教師を訪問させたことなどが記されている。                                                 
関ヶ原合戦屏風

しかし、豊臣政権下で秀吉の側近として政務を取り仕切っていた石田三成ら(いわゆる文治派)と加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興ら(いわゆる武断派)との対立が激化し、この年の9月15日に美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として、両派が激突した(関ヶ原の戦い)。
この戦いの結果次第で今後のキリスト教の布教に大きな影響が出ることは確実な情勢であり、キリシタン大名たちは、徳川家康を総大将とする東軍につくか、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍につくか、あるいは中立の立場を取るか、相当迷ったはずである。

歴史の教科書などでは「キリシタン大名」といえば、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、高山右近ぐらいしか名前が出てこないのだが、実際はキリシタン大名は驚くほど多かった。

日本基督教史

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で大正14年に出版された山本秀煌著『日本基督教史. 上巻』という本が公開されていて、この本に、当時のキリシタン大名がこの関ヶ原の戦いにどちらの側についたかが纏められているので引用しておく。

「 西軍に属せる者。  藩翰譜、三河風土記、切支丹大名記による
美濃岐阜の城主、  織田秀信。  信長の嫡孫三法師
肥後宇土の城主、  小西行長。  関ヶ原にて奮闘
丹波福知山の城主、 小野木縫殿。 丹後田邊の城を囲み細川藤孝を攻む
筑後久留米の城主、 毛利秀包。  輝元の叔父、大津に京極高次を攻む
筑後山下の城主、  筑紫廣門。  大津を囲み、京極高次を攻む
対馬列島の領主、  宗 義智。  その陣代柳川某伏見攻撃に加わる
阿波徳島の城主、  蜂須賀家政。 その子至鎮東軍に従う
豊後佐伯の領主、  毛利高政。  本姓森大阪城に在りて濱の櫓を守る
元の府内の領主、  大友義統。  九州豊後に至り故旧を集めて東軍と戦う

東軍に属せる者
近江大津の城主、  京極高次。  大津城を守るのち開城
信州高遠の城主、  京極高知。  関ヶ原にて奮闘す
伊賀上野の城主、  筒井定次。  同上
豊前中津の城主、  黒田長政。  同上
同  長政の父、  黒田孝高。  九州において西軍に属する諸城を降す
下野宇都宮の城主、 浦生秀行。  居城において上杉に当たる
田邊城主忠興の嗣子、細川忠隆。  関ヶ原にて奮闘す
丹後峰山の城主、  細川興元。
陸奥弘前の城主、  津軽為信。  上杉軍を牽制するの任に当たる
肥前唐津の城主、  寺澤廣高。  関ヶ原にて奮闘す
日向飫肥の城主、  伊東祐岳。  九州において島津氏を撃つ

中立の態度を取りし者 
丹波篠山の城主、  前田玄以。  その長子右近秀似は西軍に属せしと言う
肥前大村の城主、  大村喜前。  本国にあり
肥前有馬の城主、  有馬晴信。  本国にあり
若狭小浜の城主、  木下勝俊。  本国にあり
五島宇久の城主、  五島純玄。  その伯父玄雅なりという説あり。

以上列挙するところによって観れば、東軍に与せるキリシタン大名はその数においても戦闘力においてもはるかに西軍に属せるそれに勝っていた。さればこれをもって禁教令の遠因と為すのは根拠なき妄説と言わざるべからず、而して西軍敗戦の結果、織田信秀、毛利秀包、筑紫廣門、木下勝俊は改易もしくは遠流、大友義統は死一等を減じて常陸へ流され、小西行長、小野木縫殿は梟首せられた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/226

宣教師らは、キリシタン大名が東軍に付くにせよ、西軍に付くにせよ、どちらかが敗れることによって、敗れた側のキリスト教布教の基盤の多くを失ってしまう可能性がある一方、勝利した側には加増されることぐらいのことはわかっていただろう。どちらが勝利するかわからない場合は、一方に偏り過ぎずリスク分散を図るのが鉄則だと思うのだが、関ヶ原の戦いでキリシタン大名が見事に3つのグループに分散したことは、偶然であったのか、それとも宣教師たちの関与があったのかはよくわからない。

この戦いにおいて徳川家康が率いる東軍が勝利し、家康は、西軍に加わった大名を徹底的に厳しい処分を下している。改易 (領地を取り上げる)、転封 (国替――領地を他に移す)という方法で、家康が西軍大名の全員から取り上げた領地はおよそ90家、590万石にも及んだという。例えば毛利輝元は大阪城にとどまっていて関ヶ原の戦いには加わらなかったのだが、それでも8ヶ国・120万石の領地の大部分が取り上げられ、長門・周防の2ヶ国・36万石に減らされている。

小西行長

西軍に加わったキリシタン大名については先程引用した『日本基督教史. 上巻』に記されている通りだが、なかでも小西行長の運命は、武将としては悲惨なものであったようだ。

「関ヶ原の役、西方総敗軍の日、行長の兵もまた潰ゆ。行長遁れて伊吹山中に匿(かくれ)る。人あり此の落ち武者こそは西軍にその人ありと知られたる小西行長の成れの果てで在ると聞き、小西殿とは異国、本朝に名を轟かしたる名将ではないか。勝負は時の運で負けたりとて恥ずべきではない。然るに、何故この場合いさぎよく自殺せずして、かく見苦しき様にておはするぞいう。行長聞きてわれ…耶蘇の門徒にて天主の教を尊信するのであるが、この宗は自殺を重く戒むるをもってかくながらえて居るのだが、如何せん四面皆敵に塞がるれば逃げ行く方もなし。いざ速やかに我に縄かけて領主に引渡したまえとて、キリストの教えに悖って自殺するよりも、キリスト教の為には寧ろ甘んじて武士にあるまじき恥辱をも受けんと決心して捕虜となったのはいと憫なる次第である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/230

自殺を戒めるキリスト教を奉ずるが故に切腹できず、捕えられた行長は市中引き回しののち京都の六条河原において三成・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と共に斬首され、そして、徳川方によって首を三条大橋に晒されたという。

では行長の家族や家臣たちはどうなったのか。引き続き、『日本基督教史. 上巻』の文章を引用したい。
「関ヶ原の敗報至るや、家臣等これ(行長の子)を広島に送り、毛利氏に帰宅してこれが保護を乞うた。しかるに、毛利輝元は西軍の総大将として12州の大兵を擁し、大阪城にありながら、上方勢破るると聞くや、狼狽為すなく、一戦をも交えずして、直ちに家康に降参し、その領地広島に退いて、恭順の意を表し、戦慄恐懼措くにあたわずといった風で、ひたすら意を用いて家康の恩命に接せんことを嘆願しつつあった折だから、家康の意を迎えるに急にして、…卑劣にも行長の遺孤(子供)を欺き、…安全の地に移すと声言して、広島をつれ出して、家臣をして道にてこれを殺害せしめた。そうしてその首を家康に献じた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/232

一方東軍に加わったキリシタン大名は、家康からその功を賞せられ、例えば黒田長政父子は豊前中津180千石から筑前525千石と大幅に増封され、以後福岡を居城として小西行長に代わりキリスト教の保護に努めた。また浅野幸長、寺澤廣高、京極高次、京極高知も増封されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/235

では、関ヶ原で中立の態度をとったキリシタン大名はどうなったのか。
Wikipediaによると、前田玄以は、石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行っている。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかったことで、丹波亀山の本領を安堵されたようだ。
また有馬晴信は、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵されたという。
大村喜前の場合も、西軍の小西行長の宇土城を攻めたことが、本領安堵につながったようだ。

南蛮屏風

キリスト教宣教師たちにとっては、関ヶ原の戦いで布教基盤の多くを失ってしまう可能性があったのだが、キリシタン大名が東軍、西軍、中立派にうまく勢力が分れた上に、中立派を装っていた有馬晴信と大村喜前が、同じキリシタン大名である小西行長の居城を、関ヶ原の戦いの直後に攻撃したことが幸いして、結果として大きなダメージを受けずに済んだのである。
彼らは、天下分け目の戦いの後でも、九州地域におけるキリスト教が優勢な状況を維持することができたのだが、このような彼らにとって望ましい状況が、多くのキリシタン大名がそれぞれの判断で行動した結果なのだとすると、少々出来過ぎた感がしないでもない。
もしかすると、彼ら宣教師の中にこのような結果を生むための戦略を練った知恵者がいて、キリシタン大名の何人かはその指示に従って動いたということではなかったのだろうか。

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