HOME   »  シュペーラー極小期
Tag | シュペーラー極小期

戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由

学生時代に、応仁の乱ののち下剋上の風潮が生まれて、諸国には実力によって領地を支配する大名が次々と生まれて互いに争う時代になったと学んだのだが、なぜこのような戦争を繰り返す世の中になったのかが良く分からなかった。戦国時代の軍隊の大多数は足軽で、彼らのほとんどは農民で戦争のたびごとに駆りだされていたというのだが、農業という重要な仕事を持ちながら、多くの農民が戦いに参加したのはなぜなのか。

小説やドラマでは戦国時代を戦国大名の領土拡張戦のようにとらえ、歴史書も大名にスポットを当ててこの時代を描いているのがほとんどなのだが、そのような叙述が戦国時代の実態を伝えているわけではないと、最近では考えるようになった。

雑兵たちの戦場

以前このブログで紹介したが、立教大学名誉教授藤木久志氏が著した『雑兵たちの戦場』にこう記されている。

凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(『雑兵たちの戦場』p.7)

「雑兵(ぞうひょう)」というのは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったという。
雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多かったという。

引用した藤木氏の文章の冒頭に「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世」とあるが、この部分はこの時代を読み解くのに重要な部分だと考えている。

日本気象予報士会東京支部長の田家康氏の『【異常気象】小氷河期が戦乱を生んだ』という論文がネットで公開されている。ここにはこう記されている。

一四二〇年代から、冷夏・長雨による飢饉の記録が増えてくる。室町時代前期にあたる一三三〇年代から一四二〇年までの約九〇年間で冷害・長雨に由来する全国的な飢饉は一三五六年、一三九〇年、一四〇六年の三回しか起きなかったのに対し、シュペーラー極小期に相当する一四二〇年代から一五三〇年代の約一一〇年間で一一回発生している(表1)。日本の農業の歴史を振り返ると、灌漑設備や水利管理の充実によって干ばつ対策は進んできた。しかし、冷害には脆弱であり、この課題は今日でも引きずっている。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=4

東南アジアの夏の平均気温推移

シュペーラー極小期」というのは15世紀から16世紀にかけて太陽活動が低下した時期のことで、太陽活動が活発であったかどうかは古木の年輪に含まれる放射性炭素C14の測定値で分かるのだという。

シュペーラー極小期」の始期と終期については諸説があり、Wikipediaでは「1420年頃~1570年頃(1450年頃~1550年頃とも)」と書かれている。
太陽活動が低下すると穀物等の収穫量が減少し餓死者が増大することになるのだが、わが国における「シュペーラー極小期」は応仁の乱から戦国時代にかけての時代を含んでおり、この時代に各地で飢饉が発生し、土一揆が起ったり隣国同士が戦うなど、争いごとが頻発していた時期であることが容易に確認できる。

広域の飢饉発生年とその要因

飢饉の原因となるのは太陽活動の低下(冷夏)ばかりではない。干ばつもあれば大雨による洪水もあり、虫害もその原因となりうる。
たとえば天文8年(1539)に発生した大雨・洪水とイナゴの大量発生、さらに翌年の春には再び大雨・洪水が発生して食糧不足となって各地で餓死者が続出し、疫病も流行して多くの死者が出たという。

Wikipediaには、この「天文の飢饉」についてこう解説されている。
「醍醐寺理性院にいた僧侶厳助の日記『厳助往年記』によれば、京都では上京下京合わせて毎日60人ほどの遺体が遺棄されていたことや誓願寺にて非人施行が行われたことなどが記され、『七百年来の飢饉』『都鄙で数千万人の死者』と評している。数千万の死者は過大であるとしても、当時の社会に与えた影響の大きさを物語っている。
当時は戦国時代の最中で朝廷も室町幕府も飢饉の救済にあたるだけの政治的・財政的な措置を取ることが困難であった。そのため、朝廷では写経を実施し、幕府は北野社や東寺にて施餓鬼会などの祈祷を行わせる命令を出して、飢饉の対策とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89

いつの時代もどこの国でも、天候異変などで食糧が絶対的に不足した時には多くの餓死者が出るだけでなく、生き残るために食糧や財貨などを奪い取る争いが起こってもおかしくないだろう。
わが国において、この時代に「濫妨狼藉」が各地で何度も発生しているのだが、先ほど紹介した田家康氏の論文には、このように解説されている。

「一六世紀後半になると再び気温が大きく低下した。上杉謙信の関東出兵は一五六〇年から一五七四年にかけて一二回を数えたが、このうち八回は秋から冬に出陣し関東平野で越冬している。収穫期を狙ったもので、越後から連れてきた人馬の食糧確保が大きな目的であった。城を攻め落とすと戦場で人身売買も行われた。武田信玄も飢饉発生の直後に南信濃、北信濃への遠征を行っている。『甲陽軍鑑』には、侵略した地域での「乱取り」(掠奪)の状況が描かれている。
 西日本でも同様であった。一五七八年から一五八六年にかけての薩摩軍の豊後侵攻を目撃したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、この国の戦争はいつも「小麦や米や大麦を奪うためのものだ」と語っている。町や村を破壊して財貨は略奪され、「苅田」により農作物が刈り取られる光景に驚きを隠さなかった。
 室町時代後期から安土桃山時代の間、武力を用いて自力救済をはかるという発想は、日本全国で支配者層から農民・流民に至るまで満ち満ちていた。天下を統一した豊臣秀吉は、この高ぶるエネルギーの鎮圧を目指した
。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=5

甲陽軍鑑

武田軍が信州に攻め込み、大門峠を越えて敵地に入り、ここで7日間の休養が告げられて陣中の者が喜び勇んで「乱取り」した状況が甲斐・武田家の軍書『甲陽軍鑑』に記されている。『甲陽軍鑑』は、国立国会図書館デジタルコレクションで読み下し文が公開されているので該当部分は誰でもネットで読むことが可能だが、ちょっと読みづらい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240963/95

要するに武田軍の雑兵たちは一帯の民家を襲って「乱取り」を働き、田畑の作物を奪う「苅田」に熱中し、初めの3日間で近辺を荒らし回ると、4日目からは遠出をして朝早く陣を出て夕方に陣に戻るという大がかりな乱取りを始めたのである。
しかし武田軍の三人の侍大将の夢枕に諏訪明神の使いという山伏が現われて、「乱取り無用」という信託を告げ、侍大将達は以降「乱取り禁止」を命じたので、それ以降信濃の人々は被害を免れたと書かれている。

このような「乱取り」は信州だけでなく全国各地で起こっている。たとえば、九州に関して藤木久志氏は前掲書にこのような事例を挙げている。
「(島津家家老の上井覚兼は)…天正10年(1582)末、肥前で有馬氏を助けて、龍造寺の千々岩城を攻め落としたときの戦果報告を、『敵二、三百討ち捕る』『執る人などは数を知らず』『分捕りあまた』と書き留めていた。
 その時の島津軍の動きを(イエズス会宣教師の)フロイスも同じように記していた。『彼らは大勢の敵兵を殺し、捕虜にし、その地を蹂躙し掠奪した。だが山頂にいた指揮官と若干の兵士たちは(早く)戦利品をもって帰りたいと野望するのあまり、(敵を)思う存分に撃破するに必要な一両日を待ちきれず、最良(の獲物である城)を放棄したまま…目標を達することもなしに、引き揚げてしまった。』と」(『雑兵たちの戦場』p.16)

このような記録を読むと、雑兵たちの中には、戦いに勝つことよりも戦利品を持ちかえることの方を優先していた掠奪集団が少なからずいたことが見えてくる。

では、彼らがどのようなものを戦利品にしていたかというと、食糧以外にも武具や財貨や家財や牛馬のほか人間も対象にされていた記録が各地に残されている。人間を拉致したのは、自分の召使いにしたり、身代金を獲ることが主な目的で、女子供が狙われることが多かったようだ。

また九州では、以前このブログでも書いたように、島原半島に人身売買の市場が存在し、そこから東南アジアやヨーロッパ、南米に送られていたことを知らねばならない。特に東南アジアでは日本人男子は傭兵として高く評価され、ポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが多数の日本人を購入していたこの時代の記録が多数残されているのだ。

しかしながら「シュペーラー極小期」は終りを告げて、穀物の収穫も改善の兆しが出てきた。にもかかわらず濫妨狼藉が続いて、これをいつまでも放置していれば人々は安心して生きていけないし、争いが続いて国力が衰えていくことは誰でもわかる。当時のポルトガルやスペインはわが国を植民地化することを虎視眈々と狙っていたので、国を守るためにはこのようなつまらぬ争いを誰かが止めなければならなかった。

豊臣秀吉

豊臣秀吉は天正15年(1587)頃、武器の使用による村の紛争の解決を全国的に禁止し(喧嘩停止令)、さらに『伴天連追放令』を出して海外に日本人を売ることを禁止している。(『天正十五年六月十八日付覚』)
また天正16年(1588)に『刀狩令』を出して農民の帯刀を禁止して没収し、天正18年(1590)には『浪人停止令』で、農村内の武家に仕える定まった奉公人以外の雑兵農民を禁止し村から追い出す指令を出し、その第3条で奉公人以外の百姓から武装を取り上げるように指示している


わが国を統一してしかるべき地位に就いた者しか為し得ないことを、豊臣秀吉が適切に実施したことで、誰もが安心して暮らせる社会を実現させる道を開いたことはもっと高く評価して良いと思う。

大坂夏の陣図屏風

しかしながら、秀吉の出した一連の命令で濫妨狼藉が完全に消滅したわけではなかったようだ。
大阪城に展示されている『大坂夏の陣図屏風』の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。戦いのどさくさで他人の財物を奪うことの味を占めた者を矯正することは、いつの時代もどこの国でも容易ではなさそうである。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html



関連記事

応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える

前回の記事で、1420年頃から太陽活動が極端に低下する『シュペーラー極小期』が始まっていて、それから冷夏・長雨による飢饉の記録が増加していることを書いた。

東南アジアの夏の平均気温推移

このような異常気象は100年以上続いて、わが国の各地で穀物等の収穫量が減少して餓死者が続出したのだが、この時期に各地で土一揆が起ったことや応仁の乱(1467年)が起こったことは、冷夏が続いて穀物の収穫量が減ったことと無関係ではなかったと思うのだが、そのような視点からこの時代を叙述している歴史書は少ない。

山川日本史

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』に、『シュペーラー極小期』の初期に土一揆が頻発したことについてどう記されているか気になったので調べてみると、こう書かれている。

惣村の形成
守護大名が大きな勢力をきずいてきた14世紀後半には、荘園領主や国人の支配する農村で、惣(そう)や惣村(そうそん)とよばれるむすびつきが発達していた。このむすびつきは、戦乱から村落をまもり、国人・荘園領主に抵抗するために、有力農民が、成長してきた小農民を構成員にいれてつくったもので、自治的性格をもち、沙汰人(さたにん)・乙名(おとな)とよばれる地侍(じざむらい)の指導者を選出し、警察・裁判などもみずからおこない、武力もそなえていた。
 惣村を維持するため、その構成員である惣百姓は会合(寄合)をひらいて規約(村掟・惣掟)を定め、財産として共有地(惣有地・入会地)をもっていた。また領主と交渉して、責任をもって年貢を請け負う百姓請(地下請)を実現したり、年貢の免除や引き下げをもとめた。
 こうした惣村の動きに対抗するため、荘園領主や国人は守護大名の力にたよった。これに応じて守護大名は半済や守護請をおこなって荘園の支配を強め、さらには一国内を領国として支配し、惣村に対しても田別に段銭、人別に夫役を課していった。

土一揆
 農民たちは、はじめのうちは領主に抵抗するのに、領主のもとにおしかけて訴える愁訴(しゅうそ)・強訴(ごうそ)や、山林ににげこんで耕作を放棄する逃散(ちょうさん)などの消極的な手段をとっていた。
 しかし守護の領国支配がすすむと、彼らは周辺の村々と連合して郷や組という連合組織をつくるようになり、一致団結した集団行動の一揆や、逃散といっても他村ににげこむ積極的な行動もとるようになった。そして地域的にひろいつながりをもつ土一揆という武力蜂起をおこすようになると、経済的にも地域のつながりがふかまるなかで、守護大名と実力で対抗するまでに成長していった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.117-118)

と、この時期に異常気象が相次いで何度も飢饉が起こり多くの餓死者が出たことを一言も書いていない。普通に読めば、農民が実力を蓄えて守護大名に対抗する勢力になったと理解するしかないのだが、農民が守護大名に抗して武力蜂起をおこすというのはどう考えても異常事態であり、この教科書のような説明に違和感を覚えるのは私だけではないだろう。

広域の飢饉発生年とその要因

前回の記事で紹介した田家 康氏の『【異常気象】小氷河期が戦乱を生んだ』には、土一揆が多発した経緯についてこう記している。

「まず一四二三年に京都、越中、山城、大和で、そして一四二七年に、京都、会津、武蔵、下野、伊勢、丹波、豊前と各地に長雨や洪水の記録がある。一四二八年前半に三日病とよばれる疫病が発生し、応永から正長(しょうちょう)へと改元した理由となった。

 一四二八年には、京都、会津、下野、武蔵、伊勢、丹波、豊前で飢饉が発生した。そして同年八月、正長の土一揆が勃発するのだ。興福寺別当の尋尊が編集した『大乗院日記目録』には、「天下の土民蜂起す。徳政を号して、酒屋、土倉、寺院等を破却し、雑物等を恣(ほしいまま)にこれを取り、借銭等を悉(ことごと)く破る。管領これを成敗す。凡(およ)そ亡国の基であり、之に過ぐるべからず。日本開闢(かいびゃく)以来、土民蜂起の初めなり」と書かれている。もともと農業生産を向上させるための鉄製農具や農耕馬が、農民叛乱において武器と化していった

 一四三七年から二年続きの飢饉が発生し、嘉吉の徳政一揆の遠因となる。一四四一年六月に足利義教が赤松満祐(みつすけ)によって暗殺されると、新しい将軍はまず善政を示すべきとして、借入金の返済を見直す『代替りの徳政』を求める声が高まった。九月に入って、一揆の軍勢は近江から京都に乱入したのだ。室町幕府は、正長の土一揆では拒否した徳政要求に屈し、閏九月一〇日に徳政施行を発した

 一四四五年から一四四六年にかけても、洪水は加賀、能登、近江で起き、京都で『止雨奉幣』が祈られた。そして、一四四七年(文安四)に諸国の牢籠人が洛中に集まり、暴徒や悪党と結託して文安の土一揆が発生した。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=4

このままでは飢えて死ぬしかない瀬戸際に土一揆が起こっているのであって、農民が階級闘争をはじめたかのような『山川日本史』の歴史叙述が正しいとは思えないのだ。

京都で武装蜂起した土一揆はどんな人々が結集し誰が主導したかというと、田家 康氏の論文によると当時の文献からは2つのパターンがあるという。
1つは惣村が関与した土一揆で、京都の酒屋や土倉といった金融業者に押し入り、借入証文の破棄という私徳政を要求したもの。
もう一つのパターンは村主導のものだけでなく、飢饉の発生によって村を離れて流民となった人々が、自力救済の行動として食糧や物資を強奪したものである。

田畑を耕して家族の生活が維持できるのであれば、農民が村を離れることは考えにくい。農民が耕地を捨てて流民となるのは、余程の飢饉が起きたか、刈り取る前に作物を奪われるなどして、村にいても生きていくことが出来なくなるような事態に陥ったということだろう。

「シュペーラー極小期」の始期とされる応永27年(1420)に大規模な旱魃が起こり、畿内と西国が大凶作となり、また翌年には各地で深刻な飢餓と疫病に襲われて、さらに応永28年(1421)には飢えた人々が難民となって京に殺到したという。しかしながら、京の人々も食べるものが無くなって、餓死者が続出するに至る。

飢餓と戦争の戦国を行く

そして嘉吉3年(1443)に「嘉吉の大飢饉」が起こっている。しばらく藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』を引用させていただく。

「この年も京では『天下飢饉し、悪党充満す』(『看聞日記』)といわれ、大飢饉のため夜ごと高利貸が襲われ放火され、『みな強盗のせいだ』と言われます。『辺境』の村が飢えると、生き延びるため『京中』をめざし、ときには京の高利貸(土倉・酒屋・寺院など)や富商を襲います。諸国の領主や京の政権に、ほとんど危機管理の力量がなかった時代のことです。だから、かれら悪党や強盗の多くは、物乞いとならんで、周縁から京に流れ込んだ飢餓難民たちが、自力で生き延びる必死なサバイバルの道だったと私はみるのです。」(同上書 p.50-51)

さらに文安2年(1445)には各地を大きな台風が襲い、文安3年(1446)には大洪水があり、翌文安4年(1447)にも大風・洪水・旱魃から凶作となったために飢餓難民が京に流入し、さらに「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も各地から京都を目指したという。

そして13年経って、長禄4・寛正元年(1460)冬から翌年春にかけて、「寛正の大飢饉」が起こり、この時も諸国の人々が食を求めて京に流入し、米穀の蓄えが底をついた寛政2年の春に、将軍足利義政が錢100貫文を放出して食物の施しを始めたが、多数の飢饉難民を前にほとんど効果なく、わずか6日ほどで打ち切ったという記録がある(『臥雲日件録抜尤』)。
また願阿(がんあ)という民間の僧が、「勧進」といって京の人々から金品の喜捨を募り、六角堂の一帯に仮小屋を立てて難民を収容し、日に二度、八千人もの規模で粟粥などの施しを始めたが、この施しも効果が乏しく20日ばかりで止めてしまった記録がある(『碧山日録』) 。
餓死者は鴨川にあふれて流れをふさぐほどで、五条の河原に300mもの長い堀を掘って埋葬したという。

一方で、京に流入した飢餓難民に仕事を与えてうまくいった事例もある。藤木氏は同上書でこう記している。

「15世紀の初め『天下大飢渇』といわれた飢饉のさなか、京の慈恩という金持が錢二百貫文もの私財を投げ出して、五条の大橋のかけ替えを始めると『富者は財(金銭)を施し、貧者は力(労働)を施し』たため、飢えた人々も仕事と食べ物にありつき、ぶじに大橋の再建も成った、といいます(『仲方和尚語録』)。また苔寺で知られる京都の西芳寺でも、同じころの大飢饉のさなか、難民を救うために『ただ人に物を食わせ、何のなすことも無うては、その身のためも悪い』と考えた僧が、荒れた庭を復旧しようと、飢えた人々をやとい、日ごとの働きに応じて食べ物を与え、めでたく庭もできた、といいます(『三体詩抄』)。」(同上書 p.55)

足利義政
【足利義政像】

将軍の足利義政は長禄・寛正の飢饉のさなかに「花の御所」の復旧をはたし、ついで六千万貫文もの資金を投じて、母のための御所の建造にとりかかったことについて、人民の苦しみをかえりみぬ暴挙として、天皇に批判されたという記録(『新撰長禄寛正記』)があるそうだが、藤木氏は飢饉であったからこそ、将軍は雇用創出の為に公共事業を起こして、難民たちに仕事を与えたという可能性を示唆しておられる。事実、将軍義政は寛正2年の春に五山の寺々に指示し、四条・五条の大橋で大がかりな「施食会」も開かせており、難民対策もしっかりと実施していたのである。

花の御所
【上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた『花の御所』】

将軍の御殿造りも、寺の再興も、公共の橋のかけ替えも、金持の豪邸つくりも、みなこの生き残りの仕組みをうまく駆使した事業でした。それは、権力者や寺院や豪商が強引に手元へかき集めた巨富を、危機の世に放出し再配分するための装置だった、ともいえるでしょう
その結果、なにがしかの働き口と食べ物にありついた難民たちの一部は、かつがつ餓死をまぬがれ、彼らを救った坊さんは世に名僧と仰がれ、金持ちは『有徳の人』(徳のある人)と敬われ、その社会で地位を固めました。世の危機に私財を投じて事業を起こすのは、世の金持ちのとうぜんの務めで、それこそ『有徳の人』といわれたのです。」(同上書 p.57-58)

このような事例のある一方で、土一揆で多くの建物が襲われて取り壊されたりしたのだが、では、どのような建物が破壊のターゲットとされたのか。藤木氏の解説を続けよう。

「しかし、もしひどい不況や飢饉になっても、金持が蓄財をだし惜しんで『有徳の人』らしい務めを果たさなければ、世の中はだまっていませんでした。『有徳の人』に『徳』のある行いをつよく求め、実力で富をもぎとる行動に出たのです。その典型が、つぎにみる『徳政』をさけんだ土一揆で、その標的になったのは、土倉・酒屋・寺院など、京の富豪(分限者)たちでした。あいつぐ飢饉を背景に断続した徳政の土一揆というのは、世のサバイバルシステムを力ずくで作動させようとした、いかにも『自力』第一の中世らしい、自力救済の運動だった、と私はみるのです。」(同上書 p.58)

では、なぜ食糧の生産地である農村が先に飢えて、消費地である京に飢餓難民が殺到したのか。この謎について藤木氏は都市社会学者の藤田弘夫氏が提起した仮説を紹介しておられる。

もはや中世の村は、その生産物でまず自分の暮らしを立て、その余りを首都に移出するという、自然な自給自足の村ではなかった。ことに周縁の村々は、政権都市であり荘園領主の拠点都市である首都に早くから従属し、京に食糧や物産を供給する基地として、地域ごとにきまった作付け(モノカルチャー)が強制され、それを上納し販売することで、ようやく村の暮らしも保証されるようになっていた。
 だから、いったん凶作になると、この偏った需給システムをもつ生産地がまず飢えに襲われ、食を求めて生き延びるために、権力があらゆる富を集中させていた、首都をめざすことになったのだというのです。」(同上書 p.58-59)

藤木氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』における15世紀のわが国の記述は、『山川日本史』よりもはるかに説得力を感じるのだが、残念なことながらこの本は絶版になってしまっているようだ。
近い将来、この時代の通史が階級闘争史観から全面的に書き改められる日は来るのだろうか。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

金閣寺と足利義満の野望
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-112.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html

後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-455.html

後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-456.html


関連記事
FC2カウンター 
アクセス累計
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル