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源義経が奥州平泉で自害したというのは真実なのか

源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で幼名を牛若丸と呼ばれ、父の源義朝が敗死した後に鞍馬寺に預けられ、その後奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護をうける。

義経

兄の頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で活躍し、平氏を滅ぼした最大の功労者であるのだが、その後頼朝と対立して朝敵とされ、再び義経は藤原秀衡を頼って奥州平泉に赴いた。しかし、義経を匿っていた秀衡は文治3年(1187)10月29日に病没してしまう。
源頼朝は、秀衡の死後秀衡の後を継いだ藤原泰衡に義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけ、泰衡は鎌倉の圧力に屈して、文治5年(1189)閏4月30日に義経主従のいる衣河館を襲い、義経は妻・娘とともに自害したことになっている。享年は31歳、妻は24歳、娘は4歳だったという。

しかし、義経がこの時に実は生き延びていたという説がかなり古い時代から存在する。
蝦夷地から大陸に渡り成吉思汗(ジンギスカン)になったという説まであるが、何になったかはともかくとして、生き延びていた可能性は多くの人が論じている。
今回は、この問題を追ってみることにしたい。

藤原秀衡

この問題に興味を感じることになったのは、義経を匿った藤原秀衡が「義経をもって主君となし、泰衡、国衡の兄弟はこれに仕えよ」との遺言を残していることを知ったからである。秀衡は、ただ単に幼少の義経を知っていたから助けたというのではなさそうだ。奥州平泉の運命を義経に託して、北条氏の支援を受けた頼朝と戦う政治的決断を下したと理解すべきだと思われるのだ。

藤原秀衡の遺言については当時の複数の記録が残っている。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の文治三年(1187)十月二十九日には、
「今日、秀衡入道、陸奥国の平泉の館において亡くなられた。最近、重病によって心細く思ったのか、前伊予守の義経を(奥州)の大将軍として、国務を執らせるように、泰衡以下に遺言していたという。」
とあり、また公家の九条兼実の日記『玉葉』の文治四年(1188)正月九日には
「ある人が言うには、去年(1186)の九月か十月頃、義経は奥州にあったが、秀衡はこれを隠して置いたという。去る十月二十九日、秀衡が死去の折り、秀衡の息子たち(兄は前妻に産ませた長男、弟は現在の妻の長男である)は、融和を計り、(秀衡は)先妻に産ませた長男に、当時の妻を娶らせたようだ。そして各自が秀衡の言いつけに逆らうつもりはありませんという起請文を書かせた。同じ起請文を義経にも書かせ、『いいか、義経殿を主君として、ふたりはこれに付き従うべし』との遺言を告げた。こうして三人は志を同じくする同士となり、頼朝の計略を襲う対抗策を練ったと言うのである。」
と書かれている。
http://www.st.rim.or.jp/~success/H_igon.html

通史では、義経は藤原泰衡に攻められて自害したことになっているのだが、通史が真実であったとすれば、泰衡が父である秀衡の遺言に背いたことになるのだ。

吾妻鏡

吾妻鏡』には、義経が自害したという第一報が鎌倉に伝えられた時のことがこのように書かれている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118905.html

「五月二十二日 辛巳
申の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月晦日、民部少輔(藤原基成)の館に於いて與州(源義経)を誅す。その頸(くび)送り進す所なりと。則ち事の由を奏達せられんが為、飛脚を京都に進せらる。御消息に曰く、
去る閏四月晦日、前の民部少輔基成の宿館(奥州)に於いて、義経を誅しをはんぬるの由、泰衡申し送り候所なり。この事に依って、来月九日の塔供養延引せしむべく候。この趣を以て洩れ達せしめ給うべし。頼朝恐々謹言。」

義経が自害したという第1報が鎌倉に着いたのが、事件から23日目というのはかなり遅く、義経の死を確認しようにも義経の首がない。あとで送るとは書かれているが、信用していいのかどうか。
しかも、報告の主は、秀衡の遺言により義経とともに奥州を治めよと言われた藤原泰衡本人である。藤原秀衡の遺言の内容については鎌倉の源頼朝らには周知のことであったから、この泰衡の報告を素直に受け取るとはとても思えない。

その後に、義経の首が届くことになる。その記録は『吾妻鏡』によるとこう書かれている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118906.html

「六月十三日 辛丑
泰衡の使者新田の冠者高平、與州(源義経)の首を腰越浦に持参し、事の由を言上す。仍って実検を加えんが為、和田の太郎義盛・梶原平三景時等を彼の所に遣わす。各々甲直垂を着し、甲冑の郎従二十騎を相具す。件の首は黒漆の櫃に納れ、清美の酒に浸す。高平僕従二人これを荷擔す。昔蘇公は、自らその獲を擔う。今高平は、人をして彼の首を荷なわしむ。観る者皆双涙を拭い両の袂を湿すと。」

文治5年六月十三日を次のURLの計算式を使って西暦に変換すると、1189年8月3日だ。
http://can-chan.com/koyomi/qreki-seireki.html
いくら清酒に漬けていたにせよ、夏の暑い時期に腐敗が進まないはずがないではないか。死んでから43日も経った義経の首実検が行えるような状態であったとはとても思えない。

藤原泰衡は、源義経の首を差し出せば奥州平泉の平和は保てると考えたのか、義経とは違う首を送ったのか今となっては良くわからないが、鎌倉の頼朝は藤原泰衡を信用しなかったのか、初めから奥州を征伐するつもりであったのだろう。
7月19日に鎌倉は源頼朝自らが出陣し、奥州追討に向かうことになる。
8月11日に総大将の藤原国衡が敗れ、8月21日には奥州平泉は炎上し平泉軍は敗走し、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じることになる。

8月26日に源頼朝の宿所に泰衡の書状が投げ込まれている。『吾妻鏡』には、この書状がどのような内容であったかが記されている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118908.html
「伊豫国司(源義経)の事は、父入道(藤原秀衡)扶持し奉りをはんぬ。泰衡全く濫觴を知らず。父亡ぶの後、貴命を請け誅し奉りをはんぬ。これ勲功と謂うべきか。而るに今罪無くして忽ち征伐有り。何故ぞや。これに依って累代の在所を去り山林に交ゆ。尤も以て不便なり。両国はすでに御沙汰たるべきの上は、泰衡に於いては免除を蒙り、御家人に列せんと欲す。然らずんば、死罪を減ぜられ遠流に処せらるべし。もし慈恵を垂れ、御返報有らば、比内郡の辺に落とし置かるべし。その是非に就いて、帰降走参すべきの趣これに載す。」

要するに、義経のことは父秀衡が保護したものであり、自分はあずかり知らぬことである。父が亡くなったのちに、貴命に従い私が義経を討ち取ったことは勲功と呼ぶべきであり、なぜ私を征伐されるのか。自分を許して、御家人に加えてほしいと、命乞いをしている文書である。これを頼朝は受け入れず、泰衡は味方に殺害されて首を頼朝に届けられたとある。

しかし源氏方は、奥州藤原氏は片づけたものの、義経については死んでいることの確信がなかったのではないのか。

吾妻鏡』には、源義経らが兵を率いて鎌倉に向かうとの噂が立っている旨の記録がある。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118912.html
「12月23日 戊申
奥州の飛脚去る夜参り申して云く、與州 (源義経) 並びに木曽左典厩の子息及び秀衡入道の男等の者有り。各々同心合力せしめ、鎌倉に発向せんと擬すの由謳歌の説有りと。仍って勢を北陸道に分け遣わすべきかの由、今日その沙汰有り。深雪の期たりと雖も、皆用意を廻らすべきの旨、御書を小諸の太郎光兼・佐々木の三郎盛綱已下越後・信濃等の国の御家人に遣わさると。俊兼これを奉行す。 」
そして、その翌日は早速奥州に兵を送り込んでいることが書かれている。
「12月24日 己酉
工藤の小次郎行光・由利の中八維平・宮六兼仗国平等奥州に発向す。件の国また物騒の由これを告げ申すに依って、防戦の用意を致すべきが故なり。 」
これらの経緯を読めば、源頼朝がいかに義経を怖れていたかが見えてくるし、義経が生きているとの可能性を否定できなかったということではないだろうか。

『吾妻鏡』を読み進むと、年が明けて文治六年(1190)正月六日には、
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/119001.html
「奥州の故泰衡郎従大河の次郎兼任以下、去年窮冬以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲嫡男朝日の冠者と称し同国山北  郡に起ち、各々逆党を結ぶ。遂に兼任嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい首途せしむ。…」とある。

この時点で義経が生きているかどうかは分からないが、義経と名乗る人物や木曽義仲の嫡男の朝日冠者と称する人物が、反頼朝で決起したことが書かれているのだ。

反頼朝勢力からすれば、義経が生きているにせよ死んでいるにせよ、生きていると思わせることが、戦略上都合の良い事であったことは誰でもわかる。作り話でいくらでも相手を攪乱することができるし、自らを「義経」と名乗れば、相手はそれだけで警戒することになるし勢力を分散させることも可能だ。
だから、東北には義経が生き延びて逃避行を続けたという伝説があちこちに残ることになったと考えることはできないか。

また江戸時代になると、いろいろな書物で義経が蝦夷地に渡ったことが書かれるようになる。次のURLが良く調べておられて非常に参考になる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/yositune.html

林羅山・鵞峯父子が徳川幕府の命令で編纂した『本朝通鑑』(1670年)の義経の条に、異説と断った上で「衣河ノ役、義経死セズ、逃レテ蝦夷ケ島ニ至ル、其ノ遺種今ニ存ス」と記されているそうだ。

徳川光圀

また徳川光圀が著した『大日本史』の義経列伝の中で「世に伝う、義経、衣川の館に死せず、遁れて蝦夷に至る。」と書き、さらに「相距ること四十三日、天時に暑熱、函して酒に浸すといえども、いずくんぞ壊乱腐敗せざるを得んや。たれか能くその真偽を弁ぜんや。然れば則ち義経偽り死して遁れ去りしか。今に至るまで夷人義経を崇奉し、祀りて之を神とす。けだし或いはその故あるなり。」と、『吾妻鏡』の記述を批判している。

さらに新井白石も『蝦夷記』の中で、「アイヌ人等は祀壇を設け義経を祀り、これをオキクルミといい、飲食する毎にいのりをささげている。」また「蝦夷地の西部の地名に弁慶崎というのがある。一説によると義経はここから北海を越えて去った…」と記しているそうだ。

チンギスハン

子供の頃に、源義経が成吉思汗になったという説を読んだことがある。この説は今では完全に否定されているが、最初に唱えたのは、幕末に日本に来たドイツ人医師のシーボルトだそうだ。彼の著書の『日本』(1832年)には、こう書かれているのだそうだ。

シーボルト

「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸への脱出の年は蒙古人の歴史では蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期にあたっている。『東蒙古史』には「豪族の息子鉄木真が28歳の年ケルレン川の草原においてアルラト氏によって可汗として承認された。…その後間もなくチンギス・ハーンははじめオノン河のほとりに立てられた九つの房飾りのついた白旗を掲げた。…そしてベーデ族四十万の支配者となった。」
この説は江戸時代ではあまり広がらなかったが、大正から昭和初期にかけて急速に広がることになるのが面白い。

上記URLに非常に鋭い指摘がなされている。
「そもそも、義経の蝦夷脱走説自体が、徳川幕府のアイヌ統治政策に利用されてきた経緯がある。1799年に北海道の平取に義経神社ができているが、その創建者は幕府の蝦夷地御用係近藤重蔵であった。」
「1932年は満州国建国の年である。日本が南下を狙うロシアとの長年にわたる抗争の末、何万人もの犠牲の上にようやく手に入れた領土である。しかし、五族協和の謳い文句とは裏腹に、中国における排日運動、国際的な孤立を生む。義経=成吉思汗の伝説が、大陸侵略を正当化するために利用されたのである。」
「義経伝説は「判官贔屓」の日本人の心情をうまく利用しながら、その裏側で常に北方国策の影を引き摺りながら成長していったのである。」

要するに、江戸時代にはアイヌ統治のためには義経が蝦夷を統治したという話が広められ、昭和初期に満州統治の為に義経=成吉思汗説が広められ、このようにして、義経北行伝説がどんどん大きな話になっていったということのようなのだ。

歴史にロマンを感じるのはいいが、時代によっては権力者は、権力にとって都合の良いようにそのロマンを利用することがある。
単純に面白い説をただ鵜呑みにするのではなく、真実なのか偽史なのかを史料などを確認しながら見抜く力を持つことが、重要なのだと思う。
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シーボルトと日本の開国

ドイツ人のシーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日したのは文政6年(1823)、27歳の時であった。彼は、来日した翌年に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた医者や学者たちに講義をし、高野長英、二宮敬作、伊藤玄朴ら、多くの弟子を育て、文政9年(1826)にはオランダ商館長の江戸参府に随行し、将軍徳川家斉に謁見したほか、最上徳内や高橋景保ら多くの学者と交流したという。

シーボルト

そのシーボルトが文政11年(1828年)9月、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けた。

シーボルトにより複製された伊能図

この事件を「シーボルト事件」と呼び、学生時代にこの事件を学んだ時は、シーボルトはスパイであったという説に納得してしまったのが、いろいろ調べていくと、シーボルトは安政の開国で追放が解除されたのち安政6年(1859)に再来日し、後に江戸幕府の外交顧問に就任している。
普通に考えると、江戸幕府が過去スパイ容疑で国外追放処分をした人物の再来日を認め、後に幕府が彼を外交顧問としたというのは、容易に納得できる話ではない。

シーボルトがどんな人物であったのかをネットで調べていくと、長崎市の諏訪公園にある『シーボルト君記念碑』という石碑の内容が眼に止まった。この碑文は明治12年に漢文で記されたものであるが、次のURLで現代語に訳されて紹介されている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/kinenhi/

シーボルト君記念碑

碑文の冒頭にはこう書かれている。
「欧州各国をして、日本あるを知らしめし者シーボルト君の功なり。日本をして欧州各国あるを知らしめる者亦シーボルト君の功なり。蓋し我邦久しく交を外国に絶つ。君我邦に来てより、我邦の名大いに彼の国に顕れる。」
わが国のことを欧州各国に知らしめたのも、わが国に欧州のことを知らしめたのもシーボルトのおかげであるだと書いているのだが、シーボルトは鳴滝塾でわが国の俊秀に欧州の先端知識を伝えただけではなく、江戸幕府による国外追放後に彼は全7巻の大著『日本』を公刊し、わが国のことを世界に伝えた人物である。

そして碑文の最後にはこう記されている。
「ああ、君が長崎に身を寄せ、医学植物の学を受けた者は、戸塚、伊東 二先輩の後を追い、特に優れた者たちがその後を継ぎ、我国の洋学はすぐさま盛んになった。
欧州の外交制度・学術は嘉永安政年間をその夜明けとし、鎖国・攘夷の論を排して和親条約を結んだ。 それはどうして洋学家に頼ることなくしてできたであろうか。そして、今日の文化に次第に慣れ親しんだのは、結局君の功績と分けて考えることはできない。欧州の学者は君を称えて、日本の学術の上で発見したと言い、人は誠にこれを謗ることはない。この為ここに銘記する。
 我が国の華を観て
 これを欧州に伝える
 偉大な功績はつとに成り
 その名は永遠である
 これを石碑に刻み
 永く瓊浦(けいほ:長崎の古地名)の地にとどめる」
シーボルトのおかげで鎖国・攘夷の論を排して開国が出来、西洋文化に親しむことが出来たのもシーボルトの功績が大きいと書いているのだ。

この碑文の中に、この碑を建てることになった経緯が記されている。
シーボルトが1866年にミュンヘンで没し、その7年後に各国の農学者たちがシーボルトの生地のビュルツブルクに建てることとなり世界の農学者に資金援助を募ったところ、わが国は865円が集まりそれを送金しようとしたところ、オランダ公使が
「その資金を欧州に送るより、むしろ別に碑を日本に建立し、この国の人に功績を永く忘れ させないようにするのがいいのではないか。碑が日本にあるということがそもそも君の志である」
と述べ、600円を欧州に送り、残ったお金でこの碑を建てることになったというのである。
明治の初めの頃の1円は現在の2~3万円程度の価値があったと言われるが、明治12年当時の865円の現在価値は10~20百万円程度と考えればいいのだろうか。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000026844

シーボルトがわが国に滞在した年数は第1回目の来日時が5年。第2回目の来日は3年にもならず、帰国したのは1862年のことだ。その4年後の1866年にシーボルトがこの世を去り、死後7年後にシーボルトを顕彰しようとわが国でこれだけのお金が集まったというのは、尋常なことではない。
わが国の多くの人々から相当感謝されていた人物であったことを窺い知ることができるのだが、いろいろ調べていくと、シーボルトが多くの日本人から感謝されたのは、単に学問上の師弟の関係だけではないことが見えてくる。シーボルトは国外追放されてから、わが国が西洋列強に呑み込まれないように、わが国の為に活動していたのである。

Wikipediaにはこう書かれている。

「1830年、オランダに帰着する。翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。

オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。…

日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請する。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

シーボルト日本


ではシーボルトがわが国の開国を促すために具体的に何をしたというのか。1844年にシーボルトが起草したというオランダ国王の徳川将軍への親書の内容が、『シーボルトと日本の開国近代化』という学術書に要約されている。Googleブックスで親書の概要を読むことが出来る。(p.289)
http://books.google.co.jp/books?id=80S_1lmb3jgC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

シーボルトと日本の開国近代化
「従来の慣例を破りあえて国書を上呈するのは現在の世界情勢が貴国の内政にも患い(わざわい)を及ぼす恐れのあることを慮ってのことだと前置して、近年のイギリスと『支那帝国』との阿片戦争にふれ、日本にもそういう災害の及ぶ恐れがあること、シーボルト来日直後の文政8年(1825)における異国船打払令を改めた天保13年(1842)の同打払令の緩和は結構な措置ではあるが、外国の漂着船、或いは接近船に対しては、寛大の取扱いのあるべきことを要請する。(これは後の日米和親条約の一つを先取りしたもの)。次にこの勧告書中で最も説得力を持つ蒸気船の発明による世界交通上の激変(遠国も近国も変わらなくなった)を述べ、懇親的態度で交易を熟計されるべきを希望している。」

ペリー

以前このブログでも書いたが、アメリカのペリーは中国に向かう戦略上の日本列島の要衝の地を、イギリス政府が触手を伸ばす前に力づくで抑えようという考えであった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-157.html

そしてシーボルトは、アメリカの遠征計画が、日本国内の攘夷運動の高まりによって武力衝突が起こることを危惧していたことが、当時のシーボルトの書簡(『シーボルトと日本の開国近代化』p.222所収)に書かれている。
アメリカがペリー来航直前のわずか8年間で北米大陸の西半分を獲得し、ハワイに併合要求を突き付けた経緯などは、今の中国よりもはるかにひどいやり方であった。アメリカが武力で日本をも奪おうとすることを、シーボルトが危惧したことは当然のことだと思う。

在NY日本国領事館のHPによると、ペリー提督が遠征隊の司令官に任命されたのち、シーボルトはその遠征隊の一員として雇われたいと申し出たことが書かれている。その時、ペリーは、日本を追放された人物を連れて行くことはできないと拒絶したのだそうだ。
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/exepi7.htm
このHPでは、シーボルトが遠征隊に日本に行きたいので遠征隊に加わろうとしたと書かれているが、そんな単純なものではないだろう。恐らくシーボルトはペリーに武力による示威行為を起こさせないために、自ら遠征隊に入り込んでペリーを説得しようとしたのだと思う。

日米交渉の歴史を詳しくまとめたサイトに、シーボルトの名前が出てくる。

該当部分を引用させて頂く。
「アメリカ政府は1852年2月全権使節としてペリー提督の日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じた1852年7月2日付けの書簡で、アメリカから日本に向けた通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。

…日本向けアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として、オランダ国王の許可のもと、かって出島の医師だったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの私案を基にしたといわれる、「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。これらはオランダ政府が細心の注意を払って準備したものだが、老中首座・阿部伊勢守の命により長崎で翻訳され、江戸に急送され、嘉永5年9月(1852年10月、ペリー初回来航の約9ヶ月前)には幕閣に届いた。」
http://www.japanusencounters.net/amitytreaty.html

また、先程紹介した『シーボルトと日本の開国近代化』のp.185には、「日露通商航海条約」も、シーボルトの助言を参考にして起草されたものであることが書かれている。
http://books.google.co.jp/books?id=80S_1lmb3jgC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

開国に際して、わが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、当時わが国と交流していた唯一の国であるオランダにシーボルトがいて、彼がわが国のことを愛し、また「日本学」の権威として欧米列強の求めに応じて献策していたことが大きかったのではないか。

ロジャーズ司令長官

お隣の朝鮮半島では、1871年にアメリカ極東艦隊司令長官ロジャースは、鎖国朝鮮の扉をこじ開けるべく、ペリーと同様に5隻の軍艦を率いて江華島に現われた。その時にアメリカは、抵抗する朝鮮軍を砲撃し、米軍は殆んど損害がなかったが、朝鮮軍は240名以上の戦死者を出している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E6%9C%AA%E6%B4%8B%E6%93%BE
もしシーボルトがいなかったら、わが国でも同様のことが起こっていてもおかしくなかったと思うのだ。

わが国が欧米の主要国と和親条約、修好通商条約を締結した後、シーボルトは日本への再入国を許され、オランダ商事会社の顧問として二度目の訪日をしている。

シーボルトが幕府の外交顧問になった経緯については、先ほど紹介した『シーボルトと日本の開国近代化』にこう書かれている。
「シーボルトは、長崎にしばしば入港するロシア東洋艦隊の司令官や艦長らと交際し、かれらから入手した中国情勢や英仏の対日政策についての情報を、長崎奉行を通して幕府首脳に伝え、ロシアに強い影響力を持っている学者として自らを売り込むことに成功する。
こうしてシーボルトは、1861年夏、幕府の政治外交顧問になり、東禅寺事件(水戸浪士ら十数人が深夜にイギリス公使館を襲い、イギリス人外交官を負傷させた)や露艦対馬停泊事件解決のために努力した。日本の国難に際してシーボルトは、日本人に近代的外交とは何かについて実践的に教えたのである。…」p.199

わが国がこの国難のなかで辛うじて独立国を維持できたことは、ほかにもさまざまな要因があったとは思うが、シーボルトの貢献が大きかったことは確実ではないか。
では、このような重要な史実をなぜ日本人に広めようとしないのだろうか。

このブログで何度も書いてきたように、わが国で広められている歴史は「戦勝国にとって都合の良い歴史」であり、日本人はその歴史観に洗脳されてしまっている。
当時の欧米にアジアを武力侵略する意思が確実にあったのだが、シーボルトが欧米の侵略からわが国を守ったことを書けば、「欧米諸国は良い国であった」とする歴史観と矛盾し、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が成り立たなくなってしまう。
だからわが国の教科書の叙述では、シーボルトについて鳴滝塾と帰国の際に日本地図を持ち帰ろうしたことしか書かれることがないのだろう。
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シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか

前回の記事で、開国に際してわが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、シーボルトの貢献が大きかったのではないかという事を書いた。

シーボルトの第1回目の来日は文政6年(1823)の6月で27歳の時であった。そして文政11年(1828)の9月に有名な「シーボルト事件」が起こり、その翌年に国外追放となっている。

その短い滞在期間の間に、若きシーボルトのことを記した古文書が長崎にあるという。

丸山遊郭

『寄合町諸事書上控』という古文書は、長崎にあった丸山遊郭の出来事を記録したものだそうだが、その文政10年(1827)の5月7日付の文章が『長崎のおもしろい歴史』というホームページで紹介されている。当該のページのURLは次の通りである。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

「恐乍口上書 引田家卯太郎抱遊女そのぎ21歳 上記の者去る未年より外科阿蘭陀人シーボルト呼入候処、懐妊仕りに付、御届申上候処 銅座跡親佐平方に於、昨夜女子出産仕り候段、抱主卯太郎申出候に付、此の段書付を以って御届申上候、 以上。」

なんとシーボルトに女児が誕生したのである。
記録では「遊女そのぎ」とあるが、上記URLでは
「シーボルトは来日草々長崎奉行の特別の計らいで、出島を出て蘭医吉雄、楢林家へ出帳し、日本人の患者を診察し治療した。
そのためオランダ商館に名医来るの評判が直ちに長崎の街中に広がった。
楠本瀧はこの時シーボルトの診察を受け、シーボルトと恋におちたと推測される。
二人は、程なくして、寄合町の引田家卯太郎宅へ赴き、何がしかの金子を支払い、瀧は遊女『そのぎ』の名義を借り、出島へ入ったのである」と解説している。

楠本瀧

遊女『そのぎ』の本名は楠本瀧だそうだが、古文書の通り遊女だったとする説と、遊女でなかったという説とがありどちらが正しいのだろうか。
いずれにせよ、シーボルトが瀧を本気で愛していたことは、シーボルトが出島に上陸した3カ月後の1823年11月15日に書いた伯父のロッツへ宛てた手紙を読めばわかる。
ハンス・ケルナー著「シーボルト父子伝」にその手紙が引用されていて、その翻訳文が上記URLで読める。

「小生もまた古いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の 日本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」
そして同様の手紙を、母親のアポロニアにも出しているという。

そして文政10年(1827)の5月7日に二人の間に女の子が生まれてイネと名付けた。
このイネはどうやら出島で生まれたと考えるべきだろう。
唐人の見張り役をしていた倉田という役人が、出島で起きた事件などを日記に記していて(「唐人番倉田氏日記」)、その文政10年7月9日の記録では、
出島に居住している遊女そのぎが女子を出産したが、乳の出が悪いので、乳の出る遊女を出島へ入れるよう通事に相談した。しかし、通事は前例がないので、町年寄に申し上げた。その結果、乳の出る女性を遊女の振りをして出島へ入れることになった。」
と書かれているそうだ。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/oine/index.html

出島は遊女以外に女性の出入りを禁止されていたために、乳の出る女性を遊女の振りをして入れざるを得なかったというのは面白い。こういう抜け道があるから、シーボルトが惚れた楠本瀧を妻としてではなく、遊女として出島に入れた可能性を感じさせる古文書でもある。

唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図

長崎歴史文化博物館に、当時出島に出入りしていた絵師の川原慶賀が描いた「唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図」という絵がある。この絵の中で緑色の帽子をかぶった男性がシーボルトで、後ろに立つ着物の女性は瀧で、抱かれている子供はイネだと言われている。
他にも川原慶賀がオランダ商館員たちの生活を描いた絵があり、長崎市立博物館に「宴会図」「玉突の図」にシーボルトと瀧が描かれているとされている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

シーボルトは、事件のあとオランダに帰国した際に、日本で採集した植物や動物の膨大な標本や絵図を持ち帰り、『日本植物誌』『日本動物誌』を著している。サクラソウ、スズキ、イセエビなど彼が命名したことにより、学名が確定したものが少なくないそうだが、彼が命名した中に妻の瀧の名前を入れた植物があるという。

Hydrangea otaksa

上の画像はシーボルトが『日本植物誌』に掲載したホンアジサイの図だが、これを彼はHydrangea otaksaと分類している。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10595694473.html

「お瀧さん(otakisan)」が”otaksa”となったのは、長崎の方言では「キ」が無声化するらしく、また最後の”n”がないのは、学名はラテン語を用いるのだが、ラテン語では語末が”a”で終わらないと、女性の名前にならないということらしい。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10596656979.html

シーボルト妻子像螺鈿合子

長崎市の鳴滝2丁目に『シーボルト記念館』があり、そこに国の重要文化財に指定されている「シーボルト妻子像螺鈿合子」が常設展示されているようだ。
瀧とイネの像を蓋の表裏に青貝で細工したものなのだが、シーボルトはわが国を追放された後、30年後に再来日するまでこれを肌身離さず持っていたという。そして再来日した時に瀧と再会し、この合子を瀧に手渡したのだそうだ。

直径11cmの小さな合子だが、よく見ると瀧とイネの着ている紫色の着物には家紋が描かれている。これはシーボルト家の家紋で「メスを持った手」を表しているのだそうだ。シーボルト家はドイツ医学界の名門で、祖父の代から貴族階級に登録されていたシーボルト家らしい図柄である。次のURLの「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」という論文のp.14にこの合子の拡大写真がでている。
http://www.geidai.ac.jp/~s1306937/KautzschMAthesis.pdf

こう言う事を知ると、なぜシーボルトがオランダに帰国してからも、わが国が西洋列強に呑まれないように奔走したかがなんとなく見えてくる。
彼が日本に滞在した期間は決して長くはなかったが、瀧とイネを愛し、瀧の育った日本という国の文化や自然に魅了されたということではなかったのか。

Wikipediaによると、シーボルトが集めた植物の押し葉標本だけで12000点で、『日本植物誌』で記載されている種は2300種にも及ぶという。『日本動物誌』や大著『日本』もそうだが、日本という国を好きにならずして、そのような研究が出来るとはとても考えられないのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

わが国は「オランダ風説書」により世界の情勢についての知識を入手していたことを学生時代に学んだ記憶があるが、Wikipediaによるとオランダが「阿片戦争」に限らず世界的な情報が提供されるようになったのは、1846年からだというが、このことは、オランダにシーボルトがいたのと無関係ではないような気がする。

前回の記事で、1844年にシーボルトが起草したというオランダ国王の徳川将軍への親書の内容を紹介したが、この文書を書いたシーボルトに日本を列強の侵略から守りたいという気持ちがあったと私は考えている。

シーボルトは江戸幕府から国外追放処分を受けている。瀧やイネに再開したいと思っても、日本国の鎖国が続くかぎりはそれが難しいことは少し考えればわかることだ。
シーボルトが再度日本の土を踏むためには、日本が外国に門戸を開かねばならず、しかもわが国が西洋列強に呑みこまれることなくそのことが実現できなければ意味がない。
シーボルトはそのために尽力したのではなかったのか。

安政5年(1858)に日蘭通商条約が結ばれ、江戸幕府のシーボルトに対する追放令も解除される。そして翌安政6年(1859)、シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日を果たし、文久元年(1861)5月15日に江戸幕府の外交問題の顧問として雇われている。しかしながらわずか4か月後の9月16日に幕府により解雇されているのだ。いったい何があったのか。
http://space.geocities.jp/kamito_ken/Calendar1861.html

調べると、外交問題の顧問に就任した13日後の5月28日に水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使らを襲撃した事件(東禅寺事件)が起きている。

東禅寺事件

この事件でシーボルトは負傷した浪人を手当てし、無意味な殺傷は中止するように強く幕府に意見を述べたという。しかし、このシーボルトによる幕府寄りの指導が、オランダをふくめた米英仏露の西洋諸国の反発を買ったためにオランダ領事館から解雇処分を受けてしまったとされている。文久2年(1862年)3月12日に失意のうちにライデンに帰国し、その翌年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰ったという。
そして1866年10月18日、ミュンヘンで70歳の人生の幕を閉じた。

楠本イネ

シーボルトの娘の楠本イネは後に医学を志し、日本人女性で最初に産科医として西洋医学を学んだという。そのイネには娘がいて、その写真が今も残されている。シーボルトの孫娘でもある楠本高子は、今でも美人で十分通用する女性である。

楠本高子

慶応2年(1866)にシーボルト門下の三瀬諸淵と結婚するも明治10年(1877)に夫に先立たれ、その後医師の山脇泰助と再婚し、一男二女を生むが、結婚7年目にまたもや夫に先立たれている。
彼女の身の上話が、最初に紹介した『長崎のおもしろい歴史』というホームページに掲載されている。当時は今以上に混血児として生きることは今よりもはるかに厳しい時代であったろう。イネも経験しただろうが、高子も何度も辛い思いをしたことが書かれている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/kinenhi/metaka.html

その文章の前半に、シーボルトが2度目の来日を果たし、江戸幕府の顧問となった時に高子の夫である三瀬を連れて行ったという記述に注目したい。

「祖父が江戸に招かれました時も三瀬はついて行きました。
祖父が江戸のエライ方々とお話をいたします時に、福地源一郎さまや、福沢諭吉さまが通弁に当たられましたが、どうにもよく話が通じません。祖父もやきもきいたしましたが、そのような時に三瀬が通弁をいたしますと、忽ち話が通じまして、幕府の方々とスラスラと話が通じたということもうかがっております。
ところが、やはりそうした出過ぎたことが宜しゆうございませんでしたようで、公儀の役人を差しおいて僭越の段不都合とお思いの方もあったものと見えます。
祖父が江戸を去りますと、三瀬は町家の出でありながら身分を弁えず、宇和島藩士と称して帯刀をしたという廉で佃島(つくだじま)に永牢申しつくということに相成りました。
しかし、三瀬は獄中でも医者としての本分を忘れず、役人の病を治療したりいたしまして、それに宇和島の伊達さまのお力添えもございまして、元治元年(1864)に出獄となりました。…」

幕府の偉い役人たちがいくら外国人と話をしても通じず、三瀬が通訳すると相手に通じたということが妬まれて、些細なことで牢屋に入れられてしまった。ようやく再来日を果たしたシーボルトを追い出したのも、こういう役人連中ではなかったか。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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