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尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる

前回の記事で近衛文麿が、軍部内の革新論に立つメンバーが、わが国を共産革命に引きずり込もうとする官僚などに踊らされて、満州事変、支那事変を起こし、事変を拡大させて大東亜戦争に導いたのは計画的なものであったことは明らかであると述べていることを紹介したが、一人だけだとあまり信用していただけないと思うので、今回は軍部を動かしていた側の文書を紹介してみたい。

共産主義者に軍部を動かす動機があったことを知るためには、レーニンの「敗戦革命論」を知る必要がある。レーニンは1920年のモスクワ共産党細胞書記長会議でこのように述べている。

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「全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間にわたってわれわれの基本的原則となるべき規則がある。その原則とは、資本主義国間の矛盾的対立を利用して、これらの諸国を互いにかみ合わすことである。われわれが世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在われわれは敵国に包囲されている。もし敵国を打倒することができないとすれば、敵国が相互にかみ合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして、われわれが資本主義諸国を打倒し得る程強固となり次第、直ちにその襟首を掴まなければならない。」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.37)

このレーニンの考え方が、8年後の1928年コミンテルン第6回大会ではもっと過激で具体的なものとなっている。
「現代の戦争は、帝国主義国家相互間の戦争、ソ連及び革命国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、プロレタリア革命軍の帝国主義国家に対する革命戦争の三つに分類し得るが、…、右の分類による第二の戦争は一方的反動戦争なるが故に勿論断固反対しなければならない。また第三の戦争は世界革命の一環としてその正当性を支持し帝国主義の武力行使に反対しなければならないが、第一の帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。

(現在の帝国主義国家の軍隊の)最近の傾向は、第二次大戦の危機を前にして各国共に、人民の全部を軍隊にする傾向が増大して来てゐる。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内に発生せしめるものであって、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(同上書 p.38-40)

コミンテルンは共産主義者に対し、資本主義国家間の戦争に対しては、自国の軍隊に進んで参加して自己崩壊の内乱戦とし、自国政府の敗戦に導くことによりプロレタリア革命を遂行せよと指令し、ソ連に対する戦争は反革命であり断固反対せよと指令しているのだ。

ゾルゲ事件の首謀者として昭和19年に絞首刑となった尾崎秀実は、生前に残した手記でこのように書いているが、この内容はコミンテルンの方針とよく符合しており、コミンテルンの方針に沿ったものであることは読めば明らかである。ポイントとなる部分を少し紹介してみよう。

尾崎秀実

「我々のグループの目的任務は、特にゾルゲから聞いた訳ではりませぬが私が理解する所では、広義にコミンテルンの目指す世界共産主義革命遂行の為、日本における革命情勢の進展と之に対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報竝びに之に関する正確なる意見をモスコー(モスクワ)に諜報することにあり。狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にして其の支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛する為、日本の国内情勢、殊に政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道し且つ意見を申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるに在るのであります。」(同上書 p.214)
我々のグループと言うのは「ゾルゲ諜報団」のことだが、このグループはコミンテルンの目指す世界共産主義革命の実現のため、また日本帝国主義からソ連を守るために情報を流す活動をしていたことを明確に書いている。

また、尾崎が当時の世界情勢をどう考えていたかという点についてはこう書いている。
「私はこの第二次世界戦争の過程を通じて世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。その理由は、
第一に、世界帝国主義国相互間の戦争は、結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊せしめるに至るであろうと云ふことであります。…敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が勝ち残つた場合でも、戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とによつて社会革命勃発の可能性なしとしないのであります。
第二には、共産主義国家たるソ連邦の存在してゐる事実であります。私はソ連邦はあくまで帝国主義諸国家間の混戦に超然たるべきものであると考へ、その意味においてソ連邦の平和政策は成功であると考えていたのであります。…
第三には、植民地、半植民地が此の戦争の過程を通じて自己解放を遂げ、その間に或る民族に於いては共産主義的方向に進むであらうと言ふことであります。少なくとも支那に対しては斯る現実の期待がかけ得られると思はれます。」(同上書p.223)
と、尾崎は第二次世界大戦の過程を通じて、世界共産主義革命が完成に近づくものと考え、中国については特に期待していたと書いている。

そして尾崎自身は第二次世界大戦は次のようなものになると思い描いていたという。
「…私がしきりに心に描いていたところは、次の如きものでありました。
第一に、日本は独逸と提携するであろうこと。
第二に、日本は結局英米と相戦ふに至るであろうこと。
第三に、最後に我々はソ連の力を借り、先づ支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連において日本自体の社会主義国家への転換を図ること。」(同上書p.227)
そして尾崎が考えていた通りに、その後日本はドイツと同盟を結び、英米との戦いに突入する。

次が重要な部分である。
「私の立場から言へば、日本なり独逸なりが簡単に崩れ去つて英米の全勝に終わるのは甚だ好ましくないのであります。(大体両陣営の抗戦は長期化するであらうとの見通しでありますが)万一かかる場合になつた時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会体制の転換を以て、ソ連、支那と結び別な角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考へました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつゝある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を「東亜新秩序」創設の絶対要件であるといふことをしきりに主張しておりましたのはかゝる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾することなく主張されている点であります。」(同上書p.227)
共産主義者の尾崎からすれば、この戦争で日本やドイツが簡単に敗れて英米の勝利に終わることは望ましい事ではなく、コミンテルンの指導の通りこの戦争を機に世界の共産革命に持ち込むことを望んでいたことが分かる。
また独ソ戦勃発以降、日本はドイツを助けるため北進してソ連と戦うか(北進論)、欧米の援蒋ルートを絶ち、資源確保のために仏印に進駐するか(南進論)の選択を迫られたのだが、わが国が南進論を選択したのは、尾崎の影響が大きかったと言われている。
「大東亜共栄圏」「八紘一宇」という崇高な理想を掲げたスローガンも、一部は「国粋的南進主義者」が作ったものかもしれないが、尾崎グループが日本軍をソ連と戦わせないよう、皇軍を南進に導くために何度も主張したことが書かれているのだ。

大東亜戦争とスターリンの謀略

今回の記事ですでに何度か引用させていただいた三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』という本には、このような当時の史料が満載で、第二次世界大戦にコミンテルンがどう関わったかを学ぶことができる良書なのだが、昭和25年にGHQにより販売禁止とされて長い間埋もれてしまっていた。遠山景久氏の努力により昭和62年に復刊されてその後何度か再版されているが、一般の書店には出回っていない書物である。

第56-57代内閣総理大臣の岸信介はこの本の序文にこう書いていることは注目に値する。

岸信介

「…支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。
 近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなればスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。
私が東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事を務めたのだから、まことに茶番と言うほかない。

この本を読めば、共産主義者が如何に右翼・軍部を自家薬篭中のものにしたかがよく判る。なぜそれができたのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)は共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同じである。当時戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している。ここに先述の疑問を解く鍵があるように思われる。…」(同上書 p.319-320)

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三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』はGHQが我が国での販売を禁止した本なのだが、英訳されてGHQの情報部長であったウィロビーの眼に止まり、米国で「ゾルゲ捜査」を始めるきっかけとなり、その後ルーズベルト政権や戦前の日本政府に入っていた共産主義者の追及につながったと言われている。

いつの時代もどこの国でも情報工作活動を伴う出来事については、工作を仕掛けた側から動機や経緯などが詳細に書かれた史料が公表されることがほとんどないために、記述にはある程度著者の推測が伴うことは已むを得ないが、この三田村氏の著作については特に共産主義者の立場からの考察は説得力があり、かなり核心を突いた記述であると思うのだ。

多くの人に読んでほしい一冊なのだが、出版社側も通常の販売ルートに乗せられない事情があるのか書店での入手は出来ず、私は「GHQ発禁図書刊行会」というところから数年前に入手した。
この書が国民に幅広く読まれたら、『東京裁判史観』が崩壊することは確実だと思うのだが、そうさせたくない勢力が、わが国のマスコミや出版界、教育界などに未だに根強く残っているということなのだろう。
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「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図

国会図書館所蔵の興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料の中に、入手経路が不明なるが故に怪文書とされているものがある。偽書なのか本物なのかは今となっては判断できないのだろうが、そこに書かれていることは極めて重大なことである。
入手ルートは秘匿されても、国会図書館に所蔵されていることは、当時としては信頼できる筋から入手したものなのだろう。
そこに書かれているのは、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説で、重要な部分は次の部分である。

スターリン

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

有名な『砕氷船のテーゼ』と呼ばれているものだが、この内容は、前回書いたレーニンの「敗戦革命論」や尾崎秀実の手記や近衛文麿の上奏文の内容とも符合し、かつ歴史的経過から見ても納得できる内容である。
第二次世界大戦において、日本とドイツが砕氷船の役割を演じさせられて、日独の砕氷船が沈没した後に、ソ連と毛沢東の中国と米国の三社がうまく分け前を取り合った。日本を砕氷船に仕立てるために多大の貢献をしたのが、ゾルゲや尾崎秀実であるということになる。
今では、全てわが国とナチス・ドイツが悪者にされてしまったまま歴史が固定化されようとしているのだが、実際はほとんどがコミンテルンによる仕掛けで行われたものではなかったのか。

スターリンの演説の内、最後の一行に書かれている我が国の共産化だけは実現しなかったが、その要因は前々回に書いた通り、米軍による広島・長崎の原爆投下とソ連の対日参戦の直後に、昭和天皇のご聖断で終戦に導いたことが大きいのだと思う。あの時の天皇陛下のご聖断がなければ、樺太や千島以外の国土が、スターリン演説のとおり共産化していた可能性が高かったと思うのだ。

では、このスターリンの演説が行われたという第7回コミンテルン大会はどのような大会であったのか。

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ネットで調べると、『近代デジタルライブラリー』に決議内容が書かれた文書があるが、ここには先ほどの『砕氷船のテーゼ』に関わる内容については非公開の決議ゆえに記されていないのはやむを得ない。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460513/4

故・倉前盛通氏の著書でベストセラーとなった『悪の論理』にはこう書かれている。

悪の論理

「昭和十年に、モスクワで第7回コミンテルン大会が開かれ、全世界の共産党が集まって、直面する重大問題『日本とナチス・ドイツによって、ソ連が挟み撃ちされる危機を、いかにして防止するか』というテーマを討議し、そこで再びレーニン地政学の『砕氷船テーゼ』がとりあげられたという。
 この第7回コミンテルン大会の表面上のテーゼは『人民戦線の結成』であり、そのように公表されたが、それはあくまでも表のテーゼであり、裏の本当のテーゼは非公開の『砕氷船テーゼ』であるということは、昭和十年代に、心ある人が警告していたことであった。
 しかし、コミンテルンの表面上のテーゼとして『共産主義者は自由主義者と連携して人民戦線を結成し、反ファッショ、反戦の運動を展開しよう』と大々的に宣伝され、一部の進歩的人士がそれに同調する動きを示すような情勢下では、『コミンテルンの本当の狙いは日中を長期戦にひきずりこむことにあるのだ。蒋介石相手の長期戦は国力を消耗するだけであり、ただちに終結せしめるべきだ』という正論は全く世間から相手にされなかった。
 そればかりか、新聞が書きたてる『蒋介石討つべし』との強硬論(これを最も強く主張したのは朝日新聞であった)に煽られた民衆の白眼視を買ったばかりではなく、頭に血の昇った軍部からは、『米英の第五列、人民戦線のスパイ、反戦反軍通敵行為』という名で、弾圧の対象にされた。憲兵隊は、こういう正論をことごとくつぶしてしまったのである。
 まことに、人民戦線テーゼは、軍部の目をあざむく『おとり作戦』であった。本当のソ連のエージェントは、右翼や愛国主義者の仮面をかぶり、軍部に接近して、対支強硬論を煽っていたのである。その代表人物が尾崎秀実であった。彼は近衛文麿の秘書にまでなって、国家の中枢部に食い込んでいたのである。」(角川文庫『悪の論理』p.62-63)

尾崎秀実は昭和12年7月に朝日新聞を退社しているが、それまでは『蒋介石討つべし』の論陣を張って日中戦争に持ち込む世論誘導をしていたのであろう。
尾崎が朝日新聞社を退社する前月の昭和12年6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立し、尾崎は翌月に近衛内閣の嘱託になっている。そして、盧溝橋事件が起きたのはその間の7月7日である。

盧溝橋事件記事

この事件から日中戦争が始まり、ドロ沼化していくことになるのだが、盧溝橋事件とはどんな事件であったかを振り返っておこう。

『もう一度読む山川の日本史』では「1937年7月7~8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突が起こった(盧溝橋事件)。」とわずか1行で書かれているだけだが、この表現では両軍とも一触即発の状況であったと錯覚してしまう。

実はこの時の日本軍は「丸腰」(演習の為、実弾を携行していなかった)であり、日本側には戦う意思などは毛頭なかった。
橋本群・陸軍中将(駐屯軍参謀長)は当時の状況を、「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」と証言しており、日本側は何者かに仕掛けられたのである。

では、どこが仕掛けたのか。
実はこの時に、国民党軍も、日本軍同様、銃撃を受けている。

盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は国民党軍によるものと思い込み、反対に国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んで、この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入したのだが、双方共、腑に落ちない点があり、事件発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結んでいる。つまり、日本軍は中国との全面戦争を、最初から欲してはいなかったのである。

誰がこの戦いを仕掛け、拡大させたのか。その答えは中国共産党であったことがわかっている。

周恩来

昭和24年(1949) 10月1日、「中華人民共和国」成立のその日、周恩来首相が、「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言していることから明らかな事であり、中国共産党軍の兵士パンフレットにも「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」と書かれているというから、中国共産党が謀ったことは疑いようのない事なのだ。
http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/rokokyo.html

では、日中間で一旦停戦協定を結んだにもかかわらず、なぜ争いが拡大していったのか。

Wikipediaには、中国共産党が事件拡大にどう関わったかが詳しく書かれている。
「7月8日、全国に通電して、局地解決反対を呼びかけ、7月9日、宣伝工作を積極化し、各種抗日団体を組織すること、必要あれば抗日義勇軍を組織し、場合によっては直接日本と衝突することを、各級党部に指令した。…11日の周恩来・蒋介石会議で、周恩来は抗日全面戦争の必要を強調した。そして国民政府が抗日を決意し、民主政府の組織、統一綱領を決定すれば、共産党は抗日の第一線に進出することを約束した。7月13日、毛沢東・朱徳の名で国民政府に即時開戦を迫り…」などと、中国側に戦争を終結させる意思はどこにもない。

蒋介石抗戦記事

停戦協定は中国によって何度も破られて、19日に蒋介石は抗戦の覚悟を公式に明らかにした以降、25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日には北支における日中両軍の全面衝突が開始してしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

我が国はこの中国の謀略に気付いていなかったのではなかったようだ。
前掲の倉前氏の書物にはこう書かれている。
「…巧妙な挑発に成功した劉少奇が、この旨を延安へ秘密の電波で通報したところを、千葉県の大和田にあった海軍通信所がキャッチして暗号を解読し、『これはおかしい。今回の事件は謀略だ』と海軍側は考えたと言われる。しかし、何分にも、陸軍の主流は、『支那大陸の支配』を夢見るグループによって握られており、中国内部も、国共合作による対日抗戦を決定している状況下では、いくら、良識ある政治家や軍人が、事変の不拡大に努力しても無駄であった。その上、米ソ両国の筋も、日本のマスコミに潜入していたコミンテルン筋も、日中戦乱の拡大を歓迎して、裏面で『戦火の拡大』を煽ったのであるから、とても戦乱を止めることができなかったのであろう。」(同上書 p.65-66)

それにしてもソ連とは恐ろしい国である。第7回のコミンテルン大会で、日本、ドイツ、イタリアを最も危険な戦争扇動者として、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、漁夫の利を占める戦略を立てて、日本の敗戦が近いと分かった時点で、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告している。
これは『砕氷船のテーゼ』のシナリオ通りで、初めからそうするつもりであったと考えるしかないのだ。

倉前氏は盧溝橋事件をこう纏めている。
「日本と中華民国との全面武力衝突は、米国もソ連も大いに歓迎するところであったし、日本の本物の左翼も、中国共産党も大歓迎であった。巧妙なワナにはまったとも悟らず、暴走したのは愚かな日本の軍部と何も知らぬ日本人大衆だけだったわけである。」(同上書 p.64)

私は、コミンテルンを知らずして20世紀の歴史は語れないと考えるようになったのだが、このような史実に言及している論文や著書は極めて少なく、こういう史実を語ることが、未だにマスコミや歴史学会ではタブーになっているかのごとくである。
少なくとも、盧溝橋事件については中国共産党が、自らがやったことを表明しているのであるから、せめて教科書には「中国共産党の謀略により」と、堂々と書いて欲しいものである。

現在のように、諸外国の圧力を怖れるあまりに自国の歴史記述を歪めるような行為を続けることは、わが国に対しては嘘の歴史であっても何度も繰り返し圧力をかけておけば、いずれはその嘘が認められて我が国の教科書にも載るようになるとの誤ったメッセージを諸外国に発することになってしまう。

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我が国の立場と異なる歴史を広めることによって、いままでどれだけ多くの国益が失われてきただろうか。嘘の歴史記述を押し付けてくるような国に対しては、政治家はもっと毅然とした態度をとって欲しいし、有権者はそういう政治家を選ばなければ国が危うくなるばかりである。
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太平洋戦争緒戦の日本軍の強さは米英軍の予想をはるかに超えていた

前回まで2回に分けて日米開戦の経緯について書いた。
真珠湾攻撃のことはあまり書かなかったが、アメリカ側は、戦艦8隻の内5隻が沈没され3隻が損傷により航行不能となったほか、航空機188機が破壊されて、戦死者が2345名など米軍の被害はかなり大きかった。一方日本軍の損害は、航空機29機、戦死者55名と少なく、日本軍の奇襲は大成功に終わっている。

アメリカは目論見通りに挑発によって日本軍に真珠湾を奇襲させたのだが、ここまで損害がでることは予想していなかったはずだ。
というのは、既にドイツとイギリスとの戦争は始まって約2年も経過しておりながら、ドイツ空軍はイギリス海軍に対して、有効な打撃を与えていなかったからだ。
ドイツの潜水艦は主に通商破壊のために商船を攻撃することを主任務としていたこともあるが、当時の魚雷は、海中から発射しても、厚さが数十センチもある戦艦の甲板の鋼板を貫くことは出来ず、戦艦を撃沈することはできなかった。
また上空から爆弾を落とす場合も、時速25ノット(時速約50km近い)で進む戦艦に命中させることは極めて困難であり、命中精度を上げようと低空から爆弾を落とそうとすると、戦艦の対空火砲によって撃ち落される可能性が高く、運よく撃ち落されずかつ爆弾が命中したとしても、加速度がついていないから甲板を貫くことができない。
そのような理由からドイツ空軍は、イギリスの戦艦に手も足も出なかったことが、以前紹介した倉前盛通氏の『悪の論理』に書かれている。

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上の画像は真珠湾攻撃前の2か月ほど前のものだが、真珠湾は湾の入り口が狭く、真ん中に島がある湖のような地形になっている。湾の深さは12メートル程度と浅く、この場所では雷撃機から魚雷を投下しても真珠湾の海底に魚雷の頭が突っ込んでしまうし、それを避けようと低空に降下してから魚雷を投下しようとすれば、ドーナツ状の湾内で投下しなければならないのだから相当戦艦に接近しなければならず、戦艦の対空火砲の餌食となりに行くようなものだ。
だから、もしドイツの空軍が同じ条件で真珠湾を奇襲しても魚雷は使えず、とても日本軍ほどの戦果を上げることはできなかったことは確実なのだ。
アメリカも、日本軍に奇襲をさせたところで、すべての戦艦が使えなくなるほどの被害が出ることは全く想定していなかっただろう。

ではなぜ、日本軍は真珠湾でこれだけの戦果を挙げることができたのだろうか。
倉前氏の『悪の論理』の説明がわかりやすいので、しばらく引用する。

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「真珠湾に並んでいた米主力艦が何故、あのように、脆くも沈んだのか。それは日本の海軍機の爆弾が戦艦の主砲弾を改造して爆弾につくり変えていたからである。強力な装甲板を突き破る目的でつくられた戦艦の口径、三十六センチもしくは四十センチ砲弾を改造した、硬い弾頭をもった爆弾が急降下攻撃によって、絶対貫けないと思われていた米戦艦の装甲甲板をつき抜いたのである。ドイツ空軍も考えなかったアイデアであった。

また、真珠湾は水深が浅いため、雷撃機から魚雷を投下しても、いったん魚雷が深く沈んでから前進するので、真珠湾の海底に魚雷が頭を突っ込んでしまう。それゆえ、真珠湾に入っている艦船は、敵の飛行機から魚雷攻撃を喰らう心配はないと考えられていた。

ルーズベルトも、米海軍も、このような前提のもとでことを考えていたのである。だからこそ、11月26日、ハル・ノートという最後通牒を日本に突きつけ、11月27日には前線指揮官に戦争開始の指示を与えておきながら、それから2週間もすぎているのに、のうのうと真珠湾に全艦隊が入港して休息していた。これは、よほど油断していたのか、日本をおびき寄せるオトリに使うつもりであったのか。いずれにせよ、たとえ、日本の航空艦隊の襲撃をうけても、かすり傷ですむとタカをくくっていたことを意味する。

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だが、爆弾ばかりではなく、日本は魚雷にも新しいアイデアをこらしていた。雷撃機から投下した魚雷が、深く沈まないように、翼のようなものを魚雷につけていたのである。しかも魚雷の威力は、ドイツが『涎』を流して欲しがり、ドイツ自慢のUボートとの交換を申し入れてきたほどのもので、米英海軍の魚雷とはケタ違いであった。それゆえ、戦艦の舷側に張られている、幾層もの強力無比な防御壁を一撃で粉砕し、あたりどころがよければ、一発で戦艦が二つに折れるほどの威力であった。

それにくらべ、米国の方は、開戦後まもなく、米潜水艦が当時軍事輸送に使われていた図南丸に魚雷攻撃を加えた時、六発命中させたが、一発も爆発しなかった。驚いた艦長はすぐに基地に帰り、こんな魚雷では戦争はできないと文句を言ったという。米国は大あわてで魚雷の全面改良をおこない、それに一年以上の時間をついやしたといわれている。」(倉前盛通『悪の論理』p.96-98)

この時代の魚雷は、雷撃機から投下すると一旦水深60m程度まで沈み、それから浮上し前進していくものだったそうだが、日本軍は短期間の間にそれを改良し、投下後水深10メートル以内で浮上する魚雷を開発したのだそうだ。

前々回のこのブログの記事で、真珠湾攻撃のニュースを聞いて、英国のチャーチル首相がこれによってアメリカが参戦し、イギリスの勝利を確信して喜んでいる旨の文章を書いていることを紹介した。しかしながら、真珠湾攻撃の2日後にイギリス軍の自慢の戦艦が日本軍と、マレー沖で戦うことになる。再び倉前氏の著書を引用する。

「チャーチルにも、喜びに満ちて安眠したあととすぐ、顔面蒼白になる悲報が届いた。ハル・ノートが突きつけられた後、行動を開始した日本の大輸送船団数十隻を、南シナ海の洋上で全滅させる目的で、シンガポールにいた英国自慢の不沈戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と、もう一隻の戦艦『レパルス』の二隻および随伴の駆逐艦は、戦闘機の護衛もつけずに北上した。そして12月10日、ベトナムのフコク諸島から発信した日本の海軍航空隊から攻撃をうけた。英国海軍首脳は、ドイツ空軍でさえ、手の出せない英国不沈戦艦に、日本空軍が何ができるものかという思い上がりがあった。

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ところが、80機の日本海軍の投下する爆弾と魚雷によって、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』の二隻はたちまち撃沈され、日本側は三機を失ったのみであった。

チャーチルは驚愕して議会に駆け込み、不沈戦艦がいまや不沈でなくなったことを報告して泣いた。シンガポールにいた英国海軍将校など、ショックのあまり失心する者まで出たと言われている。

かくして、開戦後わずか3日でアメリカ太平洋艦隊とイギリス極東艦隊は全滅し、それ以後、約2年間、西太平洋と東インド洋の制海権は日本の掌中に帰した。」(同上書p.99-100) このように、日本軍はきわめて幸先の良いスタートを切ることができたのである。

ゼロ戦

この日本の快進撃がアメリカにとっていかに「想定外」の出来事であったことは、その直後のアメリカの動きを見ればわかる。

日本海軍は太平洋のアメリカ西海岸で潜水艦による通商破壊作戦を実施し、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を10隻以上撃沈していた。
アメリカでは1942年の初頭にかけて日本軍によるアメリカ本土への上陸の可能性が高いと考えられるようになり、アメリカ西海岸の主要な港湾においては、機雷の敷設が行われたり、他の都市でも爆撃を怖れ、防空壕を作ったという。

そのような厳戒態勢下にあったにもかかわらず、1942年2月24日未明に日本軍はカリフォルニア州サンタバーバラの石油製油所を潜水艦による砲撃作戦を成功させるのだが、翌25日深夜にカリフォルニア州ロサンゼルスで面白い事件が起こっている。

日本海軍の艦載機による空襲を信じたアメリカ陸軍が対空砲火を中心とした迎撃戦を展開し、その模様はラジオ中継されアメリカ西海岸をパニック状態に陥れた(ロサンゼルスの戦い)というのだが、日本軍が空襲を行った記録はどこにもなく、真相はいまだに不明で、アメリカではUFOが飛来したのではないかと真面目に議論されているという。

この事件で米軍は同士討ちで6名を失ったというのだが、それほど日本軍の快進撃はアメリカ人を恐怖に陥れていたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

最近になって知ったことだが、植村峻氏の『お札の文化史』という本に、アメリカはこの真珠湾攻撃の大敗北のあと、ハワイだけで通用する紙幣を刷りはじめたことが書かれているという。これは、ハワイ8島を放棄せざるを得ない局面もあり得ると考えてのことだと言われているが、アメリカ人はそれほど日本軍の快進撃にショックを受けながら、そしてハワイ陥落という最悪の事態をも想定していたというのだから、実にアメリカ人は抜け目のない人種である。その点は、最悪の事態を「想定外」として思考停止するどこかの国の人々は見習わなければならないと思う。
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4871883167/ref=dp_db_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1

トインビー

イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーは、毎日新聞1968年3月22日付にてこう述べている。
「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである。」

太平洋戦争でわが国は敗れたが、緒戦とはいえ日本軍が米英軍を相手に圧倒的な勝利を得たことが、当時白人に支配されていたアジア・アフリカ諸国に、白人が無敵でない事を示したことは大きかった。
原材料に乏しいわが国が戦いに勝ち続けることはできなかったが、この戦争の後に、これらの諸国が次々と独立し白人の支配から解放されていくことになる。
もし日本がハル・ノートを受け容れて対米戦争を回避していたら、現在のような人種平等の世界が来ることはなかったであろう。そうすればわが国も、その後白人の支配下に置かれていたとしてもおかしくなかった。あの戦争の前の非西洋諸国は、日本とタイとエチオピアを除いたすべてが西洋の植民地であったことを忘れてはいけない。

西洋諸国は300年以上の長きにわたり支配してきたアジア・アフリカの植民地のほとんどを第二次世界大戦の後で失った。その意味で、我が国が戦争の目的とした「東亜諸民族の解放」は実現したという主張をすることも可能だが、終戦後に独立した国の多くは共産国となったので、終戦後実質的に勢力を伸ばしたのはソ連ではなかったかと思うのだ。ひょっとすると、「東亜諸民族の解放」というスローガンも、共産主義者から吹き込まれたものではなかったのだろうか。資源のない我が国が他国の白人支配からの解放を手助けする余裕があったとは思えないのだ。

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このブログで何度かスターリンの『砕氷船のテーゼ』を紹介したが、もう一度、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を引用しておきたい。

スターリン

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

先進国同士を戦わせて消耗させ、最後に参戦して漁夫の利を得るスターリンの戦略は、世界に根を張っていた工作員や協力者によって、主要国でほとんどそのテーゼの通りに実行されていたのではないか。
アメリカは、言わば共産主義の脅威を作り出すために参戦したようなもので、つまるところスターリンの手の内で動いていたのではなかったか。ルーズベルト政権の中枢やその周りには500人以上のコミンテルンのスパイや協力者がいたことがわかっているのだ。
イギリスも、ナチの徹底的破壊を志向したために、結局はソ連の東欧進出を許したばかりか、植民地の全てを失って二流国に転落した。これもスターリンの戦略通りであったのではなかったか。
ルーズベルトもチャーチルも謀略家ではあったが、スターリンの方がはるかに上であったと思うのだ。

では、何故わが国は共産国化を免れることができたのであろうか。
これには、いろんな理由が考えられるのだが、以前にも書いたように、昭和天皇が、広島・長崎に原爆が投下されソ連が我が国への侵攻を開始した極めて適切なタイミングで終戦のご聖断を下されたことが大きかった。もしこの御聖断がなければ誰もこの戦争を止めることが出来ず、アメリカとの本土決戦となれば米軍もソ連軍の協力を要請していた可能性が高いと思われる。
もしそうなっていれば、ドイツや朝鮮半島と同様に、わが国も終戦後に、北海道や本州の一部が共産化することが避けられなかったと考えている。
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【ご参考】
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「大東亜共栄圏」の思想が広められた背景を考える

昭和前期の「日本史」を学んだ際に、資源の乏しいわが国がアメリカにより経済封鎖されながら、「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」というスローガンを掲げて、植民地となっていたアジア諸国を解放するために戦おうとしたことにずっと違和感を覚えていた。資源のないわが国には、他国の為に貴重な資源と富を費やして戦うほどの余裕があるはずがないと考えていたからだ。

いつの時代でもどこの国でも、戦争を始めるには国民を納得させるだけの理由が不可欠だ。
アメリカの場合は「リメンバー、○○」と、嘘でもいいから国民に復讐心を煽ることで紛争に介入して何度も自国の権益を拡大してきた歴史があるのだが、そういう単純な世論誘導が出来たのは、アメリカにはいつでも戦争ができるだけの資源が国内に豊富にあり、周辺諸国よりも軍事力で圧倒的に勝っていたことが大きいのだと思う。
一方、わが国には長期にわたり戦争を継続できるだけの資源がないので、近隣諸国との問題が発生した場合は、まずは外交で問題の解決を図ることを優先してきたことは当然である。
いくら相手国が理不尽な要求をしてきた場合でも、勝算もなしに参戦したところで長期戦に持ち込まれれば敗戦が確実で、そうなれば国民を塗炭の苦しみに陥れてしまうことになってしまうからだ。

当時の日本軍の戦闘機や武器の性能がかなり高かったことを前回の記事で書いた。しかしそれらの性能が世界のトップレベルであったとしても、鉄や石油などの資源がなければ新たな兵器の製造も、飛行機や戦艦の製造も修理も困難となり、いずれは日本軍としての戦力が急低下していくことは明らかである。
だから、わが国が戦争する場合は、短期間で決着をつけるような戦い方しかできないはずなのだが、なぜか日中戦争に巻き込まれ、その上にアメリカとも戦わざるを得なくなってしまった。
その背景に何があったのかを掴もうとすると、通史をいくら読んでもピンと来るものがなかった。国益と国益がぶつかり合う世界で、ドロドロとしたものがあって当然であるのに、なぜかわが国だけが侵略国だったと片づけてられてしまうことが納得できなかった。

レーニン

レーニンの「敗戦革命論」やスターリンの「砕氷船のテーゼ」を知ったのは比較的最近のことなのだが、レーニンスターリンの言葉を読むと、この時代はこの二人の言葉通りに世界が動くように共産主義者とその協力者が工作活動をしていたと考えたほうが、納得できることが多いと思うのだ。少なくともわが国の昭和史についてはそう考えたほうが自然なのである。

レーニンの考えにもとづき1928年のコミンテルン第6回大会でこのように決議されている。

「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)

当時の日本はマルクス・レーニンの著作などがバカ売れした時代であり、生まれてまだ日も浅い社会主義国であるソ連を理想国家と考える日本人が少なくなかったことをこのブログで書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

レーニンは、自国を敗北させて戦争を通じてプロレタリア革命を遂行せ、共産主義者は進んで軍隊に入隊して内部から崩壊させよ、などと恐ろしいことを述べていたのだが、この思想に共鳴したメンバーが実際に政府の中枢に実在し、軍隊にもかなり存在していたことがわかっている。
何故軍隊という規律が正しいはずの組織がわが国で暴走したか、何故日中戦争がズルズルと泥沼化していったかが長い間納得できなかったのだが、わが国の軍隊の中に、レーニンのこの敗戦革命理論を実践しようとする勢力が少なからずいたと考えればすっきりと理解できるのだ。

スターリン

また1935年(昭和10年)の第7回コミンテルン大会ではスターリンが、第二次世界大戦を機に世界の共産化を推進させる具体的な方法を述べている。
前回の記事で、そのスターリンの演説を引用したが、彼の戦略をまとめると、ドイツはフランスとイギリスと戦わせ、日本は中国に向けさせた後アメリカと戦わせ、日・独の敗北のあとにその荒らしまわった域と日独両国を共産化することを狙うというものだが、その後の歴史は、前回の記事で触れたとおり、途中までその目論見通りに進んでいくことになる。

今までこのブログで当時の記録を紹介しながら縷々述べてきたが、わが国はソ連の工作により、日中の戦いにひきずりこまれ、次いでアメリカとの戦いにも参戦させられたのであって、自らが侵略する目的で参戦したものではないと考えた方が当時の記録や史料と矛盾することがなく、すっきりと理解できるのだ。

開戦の詔書

真珠湾攻撃の日に昭和天皇が国民に向けて「開戦の詔書」を出しておられる。
この詔書にはどこにも「大東亜共栄圏」や「東亜諸民族の解放」などという勇ましい言葉がなく、戦うことは(昭和天皇の)本意ではないが自衛のためにやむなく参戦するしか道はないと書かれている。
原文では読みにくいので口語訳の一部を紹介する。全文の原文、読み下し文、口語訳は次のURLで読むことができる。
http://www.geocities.jp/kunitama2664/daitoua1208.html

昭和天皇

ここで昭和天皇は、わが国が戦わざるを得ない理由についてはこう述べておられる。

「…今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)

…余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

 このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。…」

と、この戦いが自衛のためのものであることを明確に書いておられる。この内容は今まで私がこのブログで書いてきたわが国の出来事やの交渉経緯と矛盾することがなく、すっきりと理解出来る内容になっているのだが、この詔書が通史や教科書で紹介されていることはほとんどない。

ところが、4日後の12月12日に、東條内閣での閣議決定でこの戦争の名称を「大東亜戦争」と呼ぶことが決定し、同日情報局が「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味にあらず」と発表し、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定されている。

「情報局」というのは戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に設置された日本の内閣直属の機関であるが、この文章には不思議なことに「自衛戦争」とのニュアンスが消えてしまっている。なぜ「情報局」が、昭和天皇の「開戦の詔書」の主旨と異なる発表をしたのであろうか。

そもそも、「大東亜共栄圏」とか「大東亜新秩序」という言葉はいつ頃誰が創ったのだろうかと調べると、昭和10年の第7回コミンテルン大会の後だということがわかる。
ネットで調べると昭和13年1月に「東亜新秩序」声明があり、それ以降「昭和研究会」のメンバーが中心となって東亜共同体の理論体系を展開していったとある。
ソ連のスパイであった尾崎秀実が手記に書き残した「昭和研究会」のメンバーには、後の「企画院事件」で検挙された革新(共産主義)官僚が数多くいたことがわかるし、それ以外のメンバーも、戦後には社会主義者・共産主義者として知られているメンバーが少なくない。
http://www.asyura2.com/0411/senkyo7/msg/981.html

以前このブログでも書いたように、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということがアーサー・ケストラーの手記に書かれているが、コミンテルン工作の最重要のテーマはソ連の防衛と、共産圏の拡大にあったことは言うまでもない。

ドイツソ連に宣戦布告

昭和15年(1940)9月にわが国は日独伊三国聯盟を締結し、翌年の昭和16年(1941)6月に、日本の同盟国であったドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、当時の近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする松岡洋右外務大臣と近衛文麿首相との間で閣内対立が起きている。近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認し、7月に南部仏印への進駐を実行するのだが、この時期から「大東亜共栄圏」という言葉が流行しはじめ、公式文書に登場するのは昭和16年(1941)1月30日の「対仏印、泰施策要綱」が初出なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F

尾崎秀実

この時期に、尾崎秀実は「シベリア作戦で国力を消耗したところを背後から米国につかれる恐れがある。…南方には日本が戦争を完遂するに必要な資源(ゴム、錫、石油等)が豊富に存在する。だから、我々は今こそ、断乎、英米を討って南方に進むべきである」などと主張していたようだ。

この時にわが国がもし「北進論」を選択していれば、わが国はドイツとソ連を挟み撃ちすることができ、そうすればソ連の息の根を止めることができたのだろうが、それを阻止する勢力がわが国に多数いたことは確実だ。
昭和16年(1941)9月6日の御前会議で、わが国は日独伊三国同盟よりも日ソ不可侵条約を優先することが決定したのだが、その直後に満州国境にいたソ連軍は一斉にヨーロッパに移動し始め、独ソ戦線に向かったのだそうだ。このことは、御前会議の決定がソ連に筒抜けになっていたことを意味した。

ドイツからの照会を受けてこの重大情報漏洩の追及の結果、ゾルゲ尾崎秀実が1か月後に逮捕されることになるのだが、参考人として取調べを受けた関係者は数百人にも及んだという。

ゾルゲ

しかしゾルゲと尾崎が情報工作により日本を対ソ不戦に導き、その情報をいち早く伝えたことはソ連にとっては極めて貴重なものであった。
ソ連はゾルゲに対して、1964年11月5日に「ソ連邦英雄勲章」を授与している。また歴代の旧ソ連駐日大使やソ連崩壊後のロシアの駐日大使は、日本に赴任した時に東京の多磨霊園にあるゾルゲの墓参をすることが慣例となっているそうだ。
また尾崎もソ連のスパイとしての功績が高く評価され、2010年1月にロシア政府から、尾崎の親族からの申し出があれば、勲章と賞状を授与するとの発表が出ているらしいのだ。

大東亜共栄圏

「大東亜」と呼ばれた地域の多くが昔の英米仏蘭の植民地であり、「大東亜共栄圏」という言葉は白人に支配されている住民を解放するためにわが国が戦うことを暗示し、そのことが「対ソ不戦」を意味するということを今まで考えたことがなかったのだが、最近になってこの言葉が、尾崎をはじめとする「南進論」を唱えるメンバーにより広められたことに気が付いた。

「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉は、つい最近まで、この時期に右傾化した日本で広められたスローガンだとばかり思っていたのだが、このブログで記事を書いているうちに、これらの言葉は、レーニンの「敗戦革命論」やスターリンの「砕氷船のテーゼ」の考え方の中から、共産主義者やそのシンパによって編み出されたのではないかと考えるようになってきた。

尾崎やゾルゲらは、日本をソ連とは戦わせずに中国、ついでアメリカと戦わせ、わが国の国力を消耗させたのちに、世界の多くの国を共産国化させる戦略を練っていた。
最初に書いたように、我が国が戦争に参加するにあたっては、国民を納得せる理由が不可欠だ。しかし単なる「自衛戦争」では「敗戦革命」を実現し、あわせて世界の共産化を図ることは難しいと考えたのではないか。全世界の共産革命のためには、戦争はより大きくて複雑なほど都合が良いはずだ。
そこで、当時白人に支配されていた東亜諸民族の解放という崇高な目的が付け加えられ、マスコミによる世論工作が繰り返しなされて、わが国が無謀な戦争に突き進むように巧妙に仕掛けられたということではなかったのだろうか。
第二次世界他大戦後に、「大東亜共栄圏」にあった国々が西洋からの独立を果たしている。それは我が国が白人勢力を一時的にせよ追い払ったことがなければ実現しなかったことではあるのだが、それは、我が国の国力を消耗させ、わが国の敗戦の後でそれらの国を共産化させるというスターリンの謀略そのものではなかったのか。
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昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと

昭和20年8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇が「終戦の詔書」をラジオを通じて発表され、全日本軍は一斉に戦いを止めて連合国に降伏した。

終戦の詔書

この8月15日が『終戦の日』で、この日に戦争が終わったものと子供の頃から思っていたのだが、樺太や千島や朝鮮半島ではその後もソ連軍と激しい戦いが続き、多くの犠牲者が出たことを知ったのは比較的最近のことである。

日本人の多くがそのことを知らないのは当然のことである。このことはGHQの検閲の為に、またその後のマスコミ・出版社の自己検閲の為に、その事実を日本人広く伝えられることがほとんどなかったからだ。

前回の記事で少しだけ触れたが、8月8日にソ連日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦を布告し、満州・北朝鮮・南樺太・千島列島の侵略を開始している。

このブログで何度か引用している勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』の解説をしばらく引用する。
ソ連軍は、総員百七十四万人、火砲三万門、戦車五千二百五十両、飛行機五千機の圧倒的兵力で、八月九日午前零時を期して、満州・北朝鮮・南樺太になだれ込んだ。満州国を守備する関東軍は七十万人、火砲千門、戦車二百両、飛行機二百機と、兵数こそ三対一であったが、兵器は三十対一、全くお話にならない装備の貧弱さであった。(中山隆志『ソ連軍侵攻と日本軍』)。その上“弱り目に祟り目”ではないが、不意を突かれた関東軍は大本営の命令(朝鮮防衛・満州放棄策を採った)により、軍司令部を首都新京から通化に移したので、最後まで民間人を守るべき軍が、我先に逃げ出したとの悪印象を、後々まで与えることになった。」(『抹殺された大東亜戦争』p.416-417)

関東軍の兵器が少なかったのは、日本とソ連との間には『日ソ中立条約』が締結されており、ソ連軍がこんな時期に条約を破棄して攻めてくることを、政府・日本軍が想定していなかったからだ。
よく「ソ連が『日ソ中立条約』を一方的に破棄して攻め込んできた」という話を聞くのだが、Wikipediaの記述を読むと当時のわが国の政府や軍関係者がソ連の対日参戦の意志を読み取れなかった情報力不足にもかなり問題がありそうだ。

スターリン

1944年(昭和19年)にスターリンは革命記念日の演説で日本を「侵略国」と非難する演説を行っている。
また1945年2月のヤルタ会談の秘密協定でスターリンはルーズベルト、チャーチルに対してドイツ降伏後3か月以内に参戦することを密約している。
そして、昭和20年4月6日にソ連は、「情勢が締結当時と一変し、今日本はソ連の敵国ドイツと組んで、ソ連の盟友米英と交戦しており、このような状態において日ソ中立条約の意義は失われた」ことを理由に『日ソ中立条約』を延長しないことをわが国に通告し、その後5月8日にドイツが無条件降伏し、ソ連軍は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に軍事力を集積させていたのだ。

このような状況であればわが国は、ソ連軍の日本侵略を警戒しなければならなかったと思うのだが、『日ソ中立条約』の期限である昭和21年4月25日にはまだ十分に日数があり、ヤルタの秘密協定の内容についての情報も入っていなかったことから、ソ連の対日宣戦の意志を読み取ることができなかったようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%AE%A3%E6%88%A6%E5%B8%83%E5%91%8A

こともあろうにわが国は、このソ連に対して6月に連合国への和平工作の仲介を依頼し、終戦の模索を始めているのだが、この時点でソ連は対日勝利を確信したはずだ。わが国は、侵略しようとする国に対して、今が準備するタイミングであることを伝えたのと同じである。日本外交の間抜けさは今も昔も変わらない。

そしてソ連軍は8月8日に日ソ中立条約を破棄し、わが国への侵略を開始する。
再び勝岡寛次氏の著書を引用させていただく。

「8月14日の日本降伏後も、ソ連軍は進撃を止めず、九月初旬には北方四島を略取し、一旦合意した関東軍との停戦条項も無視して、略奪・暴行いたらざるなしといふ有様であつた。火事場泥棒よろしく手当たり次第に略奪し、女性とみては手当たり次第に強姦を続けるソ連軍によつて、百五十万在留日本人は恐怖のどん底に陥つた。そのやうな地獄の日々を綴つた手記は枚挙に暇(いとま)がないが、冷戦開始以前の占領軍は、検閲によってこれを悉く削除させたため、民族の苦難の体験は戦後世代には十分には伝はつてゐないのを遺憾とする。」(『抹殺された大東亜戦争』p.417)

勝岡氏の解説に驚かれた方も多いと思うのだが、これは史実である。同氏は、GHQの検閲により削除された事例を、前掲書のp.417-418で、いくつか紹介しておられる。削除理由はどちらも「ロシア」批判だそうだ。前回の記事でも書いたが、占領軍はたとえ事実であっても戦勝国に対する批判につながる記述を許さなかったのだ。

「突然、ソ聯軍が進駐してきてから、この幸福な町は急に恐怖のどん底にたゝき込まれた。
目ぼしい家に押し入つては、金を巻きあげ、好みの品は何であろうが掠奪し、なかには着ている着物さえもはぎとつてゆく者が現われてきたからである。しかも手むかいでもしようものなら、「ドン」と、一弾の下にもとにやられるばかりである。しかし、それ迄はまだよかつた。最後には、…女の大事な黒髪さえも切り落として、男装をしなければならない、實に悲惨な状態におちいつてきたのである。(中略)
突然『うわあ、うわあ』という声に、人々の顔からはさつと血の氣がひいていつた。(中略)私はもう、何がなんだかわからなかつた。唯、素裸にされたうら若い婦人が肩からしたたる眞赤な血潮をぬぐおうともせず…狂氣の如くよびまわつている悲惨な姿が、やけつく様に瞼に残つているばかりである。」(柳内孝子「私は犬です」『かたはま』第6号昭和23年3月)

「この第一夜から町のいたるところに泥酔兵士の暴行が始つた。婦女子の劣辱事件は頻々として巷間に傳はる、…。一方時計一個を拒否したゝめに拳銃彈數發を受け紅(くれない)に染つて絶命した有志、…娘の暴行現場に飛び込んで絶命する男、…大泊(おおどまり)においてのみでも數十名の犠牲者を出すに至り戰々兢々(せんせんきょうきょう)たる數日を經た。」(榎島伸二「樺太を回顧する」『新世紀』第1巻第1号、昭和23年1月)

この様な体験者が残した記録について、マスコミや出版社がほとんど採りあげてこなかったために、多くの日本人がソ連軍の戦争犯罪の犠牲者になったことを知る人は少ないだろう。私の世代は、子供の頃に大人から少しばかり聞く機会があったが、大人が子供に伝えることを憚ることも少なくなかったのだろう。私が、この時のソ連軍の実態がこんなにひどかったことを知ったのはつい数年前のことだ。

ソ連対日参戦による日本軍の戦死者や行方不明者は良くわかっていないが、戦死者だけで8万人以上と言われている。また、シベリア抑留の犠牲者についてはWikipediaにこう説明されている。
「終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99

ようやくソ連崩壊後に、ソ連占領地区から引き揚げてきた人々の筆舌に尽くせぬ悲惨な経験をされたことを記した書物がいくつか出版された。次のURLでその一部を読むことができるが、日本人なら、少し読むだけで怒りが込み上げてくるだろう。なぜこのような史実が、長い期間にわたって伏せられてきたのか。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

満州ではソ連軍は日本人を暴行し虐殺しただけではなく、中国住民に対しても暴行を働いたようだ。上記URLに中国人の徐焔氏が著した『一九四五年 満州進軍―日ソ戦と毛沢東の戦略』(三五館)という本が紹介されている。その本にはこう書かれている。

1945年満州進軍

「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数というべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」

この徐焔氏の文章の中で著者がソ連のことを「同盟国」と呼んでいることについて補足すると、ソ連は8月8日に日ソ中立条約を破棄した後に、8月14日に「ソ華友好同盟条約」を結んでいる。満州の出来事はその直後のことである。

ソ連軍はヨーロッパでも同様に、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアなどで暴行・虐殺のかぎりを尽くした報告が残されていることがWikipediaに書かれているが、ソ連という国はどこの国に対しても野蛮な行為を行っていたことを知るべきである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%8A%AF%E7%BD%AA

話をソ連軍の対日宣戦に戻そう。
ソ連は8月8日の対日宣戦布告の翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻し、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取した。

北方領土略図

南樺太では、8月11日に日ソ国境を侵犯し、ソ連軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。
南千島についてはソ連の樺太占領軍の一部が8月26日に樺太・大泊港を出航し、28日には択捉島に上陸。9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領している。

占守島

北千島については、8月18日にソ連軍が千島列島の最北の占守島(しゅむしゅとう)に上陸。日本軍と激戦となり日本軍が優勢であったが、日本政府の意向を受け同日16時に戦闘行動の停止命令が出て21日に停戦となり、23-24日に武装解除がなされた。それ以降ソ連軍は25日に松輪島、31日に得撫(ウルップ)島を占領している。

北方領土

ソ連との戦いに関しては、わが国がポツダム宣言を受諾し、昭和天皇の「終戦の詔書」が出ていることを完全に無視して日本の領土を掠奪し、今も北方領土(国後島、択捉島、歯舞諸島、色丹島、南樺太)を不法占拠しているままだ。
それだけではない。ソ連は武装解除した日本軍将兵約60万人をシベリアに拉致・抑留し、極寒の地で強制労働に従事せしめ、多くの日本人を死に至らしめた。
この悲劇はアメリカの原爆投下とともに、日本人が絶対に風化させてはならない史実だと思うのだが、いずれも占領軍の検閲により徹底的に排除され、占領軍の検閲が終わっても外国と国内の反日勢力の圧力で、たとえ史実であっても戦勝国の批判が書けない時代が長く続いてきた。

以前このブログで『氷雪の門』という映画のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

氷雪の門

昭和20年(1945)8月20日に樺太の真岡の沿岸に突如ソ連艦隊が現われ艦砲射撃を開始し、上陸したソ連兵は町の角々で機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く撃ち殺していった。この映画は、ソ連兵の機銃掃射が続く中で、ソ連兵が近づく直前まで通信連絡をとり、若い命をなげうった真岡郵便局の電話交換手の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。

昭和49年にこの映画が完成し公開直前になってソ連から「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対して非友好的」との圧力がかかり、公開中止に追い込まれてしまった。

この時代はまだソ連という社会主義国が存在していたのだが、終戦後29年という歳月が経過しても、わが国はソ連の圧力に屈したことを忘れてはならないと思う。この時に、圧力に抗して上映していたら、北方領土問題は、今よりも少しは良い方向に動いていたのではないだろうか。

img20120815192623701.jpg

前回はアメリカのことを書いたが、アメリカは都市空襲と原爆投下、ソ連は我が国のポツダム宣言受諾後の日本侵略とシベリア抑留と、どちらも世界史上特筆すべき戦争犯罪に手を染めた国なのである。そのことが追及されないために、わが国に対して検閲や焚書という手段でその史実を封印し、戦勝国に都合の良い歴史を強引にわが国民に押し付けたのだろう。
彼らにとっては我が国に押し付けた「自虐史観」の洗脳が解けてしまっては、今度は自国に「犯罪国家」のレッテルが貼られることになりかねないのだ。だから、わが国のマスコミや政治家に圧力をかけて、中国や韓国にも参戦させて、わが国に「自虐史観」の歴史認識を問い続けているのではないだろうか。

世界の多くの国は「国益」追及の為なら嘘もつくし、下手に謝罪をすればわが国に罪を押し付けて金まで要求してくる国がいくつも存在する。相手国の圧力が大きいと安易に謝罪する政治家が多いのは、「自虐史観」が本気で正しいと信じているからか、裏取引があるか、強いものには媚びを売って一時凌ぎをする事しか考えていないかのいずれかだろう。
政治家が歴史を知らないのは、戦後の歴史教育もマスコミも出版物も、戦勝国にとって都合の良い歴史しか伝えてこなかったのである程度は仕方がないのだが、戦勝国は良い国で日本だけが悪い国という歴史しか知らないで、どうしてわが国が、大国と対等に渡り合えることができようかと思う。
相手から抗議されて謝罪することは、相手の言い分を対外的に認めることと同じだから、このまま政治家が安易な謝罪を続ければ、わが国は中長期的に、国益や領土を侵害され続けることになるだろう。

その流れを止めるのは、やはり歴史の真実を知り相手国の嘘をきちんと見破り反論することしかないのだと思う。真実を知れば、相手が主張する歴史の嘘が通用しなくなる。
そして、国民もマスコミの嘘や露骨な世論誘導を見破る力が必要だ。どんな実力ある政治家も、マスコミを敵に回してはいい仕事ができず、世論の後押しが不可欠だからだ。
戦後の占領国による検閲と焚書により、戦勝国にとって都合の悪い真実のほとんどが埋もれてしまったのだが、その歴史を少しずつ取り戻し、それを広めていくことが重要なのだと思う。
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関連記事

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む

前回の記事でソ連によるシベリア抑留のことを書いた。

シベリア抑留を体験された斉藤六郎氏が国を相手の補償要求裁判をされて「全国抑留者補償協議会(全抑協)」という会を立ち上げられ、その裏付けのためにモスクワに何度も足を運ばれてモスクワの公文書館に保存されていた極秘文書のコピーを大量に持ち帰られたのだそうだが、その資料の中にはわが国にとっても、かなり貴重なものが含まれているという。
以前は山形県の「シベリア資料館」に公開・展示されていたようだが、残念なことに斉藤氏は平成7年に他界され、「シベリア資料館」にあった膨大な史料は遺族のトラブルに巻き込まれて展示されなくなっているようだ。そして昨年5月には「全抑協」も解散されてしまった。

斎藤氏が集められた史料の中には旧ソ連軍の「北海道と南千島占領計画書」があるのだそうだ。
この文書はジャーナリストで近現代史研究家の水間政憲氏が、「シベリア資料館」の史料を調べられた時に発見されたものである。

領土問題の真実

文書の日付は1945年8月18日で、ソ連軍極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥からスターリン、ブルガーニン、アントーノフの3名に宛てられたもので、この文書の全文が、水間氏の『領土問題の真実』(PHP刊)のp.60~p.62に翻訳されている。
この文書の冒頭で、日本軍の降伏と武装解除が順調に進んでいることを述べたあと、ワシレフスキー元帥はこのように記している。

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「全満州、内モンゴル、遼東半島(大連港、旅順を含む)、北緯38度線までの朝鮮、サハリン(樺太)の南半分、釧路から留萌までの線から北の北海道の半分(釧路、留萌を含む)、クリル(千島)列島の全島の占領という、極東軍、太平洋艦隊に提起された任務に基づき、各方面軍には、即刻、任務が与えられた。」

と、北海道の北半分と北方領土の占領が、ソ連極東軍・太平洋艦隊の任務であることを明記している。

次いで、ザバイカル方面軍については、モンゴル人民共和国軍と共同で満州、遼東半島、関東半島の等の占領計画が書かれている。
続いて、重要な部分に入る。

北海道分割

「第一極東方面軍の任務は、ボーリ、ハルピン(含む)の線から南、チャンチュン、トゥンホゥア、ヤルツヤン川の線の東、北緯38度までの朝鮮領の占領である。ハルピン市とギリーン(吉林)市占領の時期は8月21日の朝までに、北朝鮮に関しては9月1日までとする。… 同時に、…釧路市から留萌市までの線の北側の北海道の半分と、シムシル島まで(含む)のクリル列島の南部の占領を委ねた。この目的のために、方面軍司令部は、太平洋艦隊と商船隊の船の援助を受け、1945年8月19日から9月1日までの期間に順次、クセノフォーントフを軍団長とする第87狙撃軍団のうち3個狙撃師団を送り込む。それらのうちの2個師団は北海道に、1個師団はクリル列島に配置する。軍団参謀本部は、北海道に置く。この同じ時期に、第87狙撃軍団とともに第9空軍のなかから1個駆逐航空師団と1個爆撃航空師団が基地移動する。」

シムシル島(新知島)はクリル(千島)列島のほぼ中央にある長さ59kmの島である。

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続いて第2極東方面軍の任務について述べている。

「第2極東方面軍の任務は、…北満州の占領を1945年8月20日までに行うことである。 同時に、…、サハリン島の南半分、シムシル島(除く)までのクリル列島北部を占領する任務が課せられた。
サハリン島の南半分の占領のためには、現在ここにある軍を使用する。今後、補足的にさらに1個狙撃師団を送り込む。占領は8月18日の朝から着手される。クリル列島北部の占領のためには、8月18日にかけての夜に、カムチャトカに配備されている第101狙撃師団から2個狙撃連隊を列島に送り込む。今後、カムチャトカ区域とクリル列島の北部を、さらに1個の狙撃師団で強化する。ここのすべての軍の監督を、カムチャトカ防衛区域の長に委ねる。」

その上で、太平洋艦隊の一部をペトロハヴロフスク・ナ・カムチャトケに、主力部隊をオートマリ(サハリン南部)に基地移動することの許可を求めている。
そして最後にこう結んでいる。

「当計画に関するすべての予備命令は、各方面軍司令官に宛てられた。
太平洋艦隊司令官への指示は、大将クズネツォーフとともに、8月18日にウラジヴォストークで直接与える。

当計画によって決められた任務の遂行と同時に、押収した兵器、食料および工業企業の設備類の、早急な登録とわが領土内への搬出の組織化を、各方面軍に断固として要求する。

当計画に関する貴殿の承認か、あるいは指示をお願いする。」

この文書とは別に、同じ日付でソ連軍極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥から第1極東司令官に宛てた文書がある。おそらくこの文書は、上記の文書に対するモスクワからの回答を入手したのち作成されたものなのだろう。そこには北海道占領計画に関する記述が、より詳細に書かれている。

「上記の命令の遂行と同時に、1945年8月19日から9月1日までの期間に北海道の半分、すなわち、釧路市から留萌市までを結ぶ線から北半分と、シムシル島までのクリル列島南部を占領すること。この目的のために、太平洋艦隊の船と部分的に海洋商船隊の援助を受けて、1945年8月19日から、9月1日の期間に、第87狙撃軍団の二個狙撃師団を投入すること。また同時期に、第九空軍の1個駆逐飛行師団と一個爆撃飛行師団を北海道とクリル列島に基地移動すること。」(水間政憲『領土問題の真実』p.63)

前回の記事に書いたが、ソ連軍は8月25日までに南樺太を占領し、南千島は歯舞群島については9月3~5日に占領となったが、他の島は9月1日までに占領している。また北千島は8月31日までに占領と、概ね計画通りに領土を奪っていることがわかる。
ところが、ソ連の計画では9月1日までに北海道の北半分を占領することになっていたのだが、幸運なことに北海道については手つかずで終わっている。それはどういう経緯であったのか。

米国は8月15日にマッカーサー元帥の命により、一切の戦闘行動を中止している。その3日前の8月12日にソ連は日本の武装兵力の全面降伏を受理し、調整・実行するために、連合軍最高司令官としてマッカーサーが任命されることを合意していた。
ところが、マッカーサーがソ連軍統帥部に攻撃作戦停止を要求してもソ連軍は無視し、むしろソ連軍の本格攻撃は終戦後から始まった。このような行動をとったのは、連合国ではソ連だけなのだ。

ソ連は自国の歴史では、どう説明しているのだろうか。
水間氏の著書によると、ソ連の『大祖国戦争史』には、
「8月14日、天皇の行った日本の降伏についての発表は、一般的な無条件降伏にすぎない。軍隊に対する戦闘行動停止命令はまだ出ていないし、日本軍は依然抗戦を続けている。したがって、日本軍の降伏はまだないのである。」(水間政憲『領土問題の真実』p.64-65)
と書かれているそうだ。

しかし、このソ連の『大祖国戦争史』の記述は嘘である。8月15日に昭和天皇の「終戦の詔書」が発表され、大本営は各方面軍に対し戦闘行動の停止を命令していたのだ。

そもそもわが国が徹底抗戦を続けていたら、ソ連軍がこんな短期間に領土を奪えるはずがなかった。ソ連軍の侵略は、日本軍の戦闘行動の停止命令が出て、日本軍の武装解除が進んでいることを確認してからその計画が策定されている。だからこそ、わずか2週間足らずで、南樺太も千島列島も北北海道も一気に占領できると判断したのだろう。このソ連軍の『北海道・北方領土占領計画書』は、ソ連という国が、いわば『火事場泥棒』的に、わが国の抵抗がほとんどない事を前提に、領土を奪い取る計画を策定したようなものだ。

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しかし、ソ連軍の侵攻を頓挫させる戦いが起こった。
千島列島の最北にある占守島(しゅむしゅとう)での日本軍の戦いは特筆すべきだと思うのだが、こういう史実が伝えられないのは残念なことである。
占守島守備隊の村上大隊長は「軍使が来たら紛争を起こさず、直ちに連絡せよ」「敵軍が攻撃してきたら自衛戦闘は妨げず、ただし停戦は18日16時とする。」との指令を受けていたのだが、深夜に来たのはソ連軍の軍使ではなく砲弾だった。

樋口季一郎

第五方面軍司令部の樋口季一郎中将は、ソ連軍奇襲の報告を受けて、自衛のための戦いを決断したのである。

水間氏は前掲書でこのように書いている。
占守島守備隊は、竹田浜からの上陸を想定し、長い訓練の結果として、夜中でも竹田浜に上陸してくる敵を砲撃できるように鍛え抜かれていた。また竹田浜をはさんだ国端崎、小浜崎の両陣地は、洞窟陣地であり、敵艦の艦砲射撃にも微動だにしなかった。
そして、両陣地から砲撃が開始されると、反撃は激烈を極めた。
その結果、ソ連軍艦船は、撃沈、擱座して、竹田浜にはおびただしい兵士の遺棄死体が累々と晒されたのである。
日本軍の損害は、死傷者600名、破壊された砲6門、擱座した戦車20両であった。それに引き替え、ソ連軍の損害は甚大だったのである。
それは『戦艦撃沈破十四、舟艇二十』『破壊、水没した火器五十数門』『戦死二千五百人、戦傷行方不明二千人』だったのだ。」(水間政憲『領土問題の真実』p.69)

この記述は決して誇張されたものではない。ソ連政府機関紙『イズベスチャ』は「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日である。」と報道したそうだ。

このまま第五方面軍が攻撃を続ければソ連軍を水際で殲滅していたかもしれないが、この自衛の戦いを終息させた人物がいた。それが関東軍参謀長であった秦彦三郎中将である。

秦関東軍参謀長が第5方面軍参謀長に宛てた8月20日付の公文書が、水間氏の前掲書に紹介されている。そこに書かれていることは重大だ。
「小官本十九日東蘇軍最高司令官「ワ」元帥ト會見ノ際北東方面ノ戰闘未ダ終熄セザルヲ心痛致シ在ル旨述ベ小官ノ斡旋方依頼アリタリ至急処置相成度」

第五方面軍の抗戦によりソ連側の被害が甚大となり、急遽ソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥が仲介を求めてきたのだが、秦は相手の申し入れを真に受けて、直ちに停戦することを日本軍に要請しているのだ。そのために日本軍は優勢であったにもかかわらず、武装解除を余儀なくされ、シベリアに送られることになってしまった。

ところで秦参謀長の「心痛」とは、ソ連軍が計画書通りに9月1日までに北方領土と北北海道を占領できないことを心配したということなのか。
以前このブログで、当時わが国の政治家や官僚・軍人の中に、この戦争の混乱を機にわが国に社会主義革命を起こそうと考え、ソ連に協力する人物が少なからず存在したことを書いたが、秦参謀長もそのような男であったのか。この男がこのような指令を出さなければ、北方領土の問題は今は存在しないか、全く異なるスケールのものであったのではないだろうか。

秦関東軍参謀長とソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥の19日の会談の翌日に、ワシレフスキーはモスクワのスターリンに宛ててこんな文書を発信している。
「現在、私と第一極東方面軍司令部は、北海道への上陸作戦の準備に真剣に取り組んでいる。現在、海洋からの偵察を行ない、空軍、砲兵隊、輸送手段を準備しているところである。1945年8月22日頃になるだろうと思われるが、サハリン南部の占領の後、貴殿の許可が下り次第、ただちに海からの作戦を開始する。」
秦参謀長の停戦命令により、ようやくサハリン南部の占領に取り掛かれることになり、北海道の上陸作戦にも取り組めるようになったということだろう。

スターリン

しかしスターリンからは、北海道への侵攻の命令は出されなかった。
樺太南部の豊原、大泊をソ連軍が占領したのは8月25日だが、ソ連軍の侵攻を予定より遅らせたのは南樺太を守っていた日本軍の抵抗によるものだったと考えて良い。

しかしスターリンが南樺太占領後、北海道への侵攻をあきらめたのは何故か。
この経緯については伊勢雅臣氏の「国際派日本人養成講座」の記事が参考になる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h13/jog203.html

スターリンは我が国の1945年8月16日付のトルーマン米大統領宛の書簡で、北北海道の割譲を要求したが、トルーマンは8月18日付の返書でそれを拒絶している。
そこで、ソ連極東軍ワシレフスキー元帥は、8月25日までに樺太全島と千島列島の北部 諸島、9月1日までには千島列島の南部諸島と北海道北半分を占領するよう命令を変更している。

しばらく伊勢雅臣氏の記事を引用させていただく。
「8月22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北海道占領を断念する旨の回答を送り、ワシレフスキー元帥は「連合国との間に紛争や誤解が生じるのを避けるために、北海道方面に一切の艦艇、飛行機を派遣することを絶対的に禁止する」という電報を打った。

22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つかずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であった。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえない状況に追い込まれたのである。」

かくしてソ連軍は南千島の占領に勢力を集中させて、北北海道はソ連の侵略から守られたのである。

トルーマン

トルーマンが北北海道の割譲に反対したことのインパクトもあったとは思うが、トルーマンがソ連の千島や南樺太の侵略行為に対して戦う意思を示したわけではない。
ならば日本軍が領土を守るために奮戦したことを、なぜ正当に評価しないのか。

もし日本軍がさしたる抵抗をせず、早い段階でソ連の北北海道占領を許していたらどうなっていたであろうか。
トルーマンがいくらソ連を批難しても、北北海道は今の北方領土と同様にソ連に奪われたままとなった可能性が高かったのではないか。そして満州や南樺太と同様に、北北海道の多くの民間人が虐殺されたり、シベリヤに送られたと思うのだ。

このような史実を教科書にはもちろん、普通の歴史書にはほとんど書かれていないし、テレビで解説されることもほとんどない。このままでは、戦勝国にとって都合の良い話だけが史実として固定化されてしまいそうなのだが、戦後のソ連軍による日本侵略にはどこに正当性があろうか。婦女暴行やシベリア抑留にいたっては世界史上特筆されるべき戦争犯罪であろう。

北方領土と住民を守るために命を捧げた日本兵士がいて、その後シベリアに抑留された兵士が多数いて、多くの人の犠牲によって日本の国土が守られてきたことを忘れてはならない。
『自虐史観』では、彼らは国家のために意味のない戦争に参加させられて「犬死に」したと蔑まれるのだが、彼らが領土と国民を守ってくれたことの意義を忘れてしまう事こそが、彼らの死を「犬死に」に貶めてしまうことであり、ロシアを「高笑い」させることではないのだろうか。
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GHQ情報部長が、日米は戦うべきではなかったと述べた理由

以前このブログで、三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』という書物が英訳されて、当時GHQ(連合国総司令部)の情報部長であったウィロビーの眼に止まったことが、米国で「ゾルゲ捜査」を始めるきっかけとなったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

マッカーサーはこのウィロビー将軍のことを、「在任中に出会った最も優れた知性派の将校であり、陸軍広しといえども将軍に続く人物を探し出すのが全く困難なほどずば抜けた人物であった」と言っていたようだが、このウィロビーが40年以上前に回想録を残しており邦訳もされている。
この回想録は1973年に『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』という書名で番町書房から刊行されたのだが長い間絶版となっていて、一昨年に山川出版社から『GHQ 知られざる諜報戦 新版ウィロビー回顧録』という書名で、再刊されていることを知った。
この回顧録を取り寄せて読むと、我々日本人がマスコミなどで知らされてきた歴史とは全く異なる見方が描かれおり興味深い。今回は、冒頭の部分を紹介したい。

知られざる日本占領 ウィロビー回顧録

「この回想録をまとめるにあたって、私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。歴史の歯車がほんの少し狂ったせいで、本来、戦うべきではなかった米日が凄惨な戦争に突入したのだから。
 私が書いたもののすべての基調となるのは、日本との戦争、あるいはドイツとの戦争は西側の自殺行為であったということである。たとえ日本がどんな誤りを犯すとしても、どんな野望を持つとしても、米国が日本を叩きのめすなら、それは日本という米国にとっての最良の防壁を自ら崩してしまうことになるのである。ところが、あの不幸な戦争の結果、ロシア、中国を牽制してあまりあったはずの日本およびドイツの敗戦のゆえに、現在(編注:1971年現在)では、共産主義国家とされているソ連、かつてのツァーリ支配下のロシアそのままの圧政をしくソ連の指揮による破壊転覆の異常な発達が、今日われわれにとっての頭痛のタネとなっているのである
 共産主義国家のいわゆる『革命の輸出』と呼ばれる破壊工作は、もし、わが国が日本を東洋の管理者、ドイツを西洋の管理者にしていたなら、けっして現在のような脅威の対象にはならなかったはずである。わが国はこれら二国と協働戦線を組むかわりに、破壊してしまった。…」(『GHQ 知られざる諜報戦』p.16)

ソ連という国家が崩壊してしまったので、若い世代の方には分りにくいかもしれないが、ウィロビーの主張を一言でいうと、米国にとっても日本にとっても、本当の敵はソ連であり共産主義であったということなのだ。

アメリカは日本との戦いに勝利したが、5年後の1950年には朝鮮半島の38度線を挟んで共産主義勢力と対峙し戦うこととなってしまった。
その朝鮮戦争終戦後もソ連との冷戦が長く続くことになったのだが、冷静に歴史を振り返ってみると、ウィロビーの述べていることが正しいように思えるのである。

このブログでも以前書いたことがあるが、1928年コミンテルン第6回大会議でこのような決議文が採択されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること

(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること

帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。」

このような考え方はレーニンが最初に主張した「敗戦革命論」と呼ばれるものだが、要するに、列強国同士が戦うことになれば、共産主義者は戦争に反対するのではなく、戦争によって自国政府が敗北し崩壊に向かわせて、共産主義革命を導けと言っているのだ。

さらに昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会で、スターリンがこのように述べている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

スターリン

ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

ソ連は反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占める戦略を立てて、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で、条約を破棄してそれぞれ宣戦布告している。
これは「砕氷船のテーゼ」のシナリオ通りで、最初から強国同志を争わせて疲弊させ、日・独が荒らしまわった地域と日独両国を共産主義陣営に取り込もうと考えていたのではないか。
ソ連は、わが国のみならず欧米諸国に多数の工作員を潜り込ませ、さまざまな工作活動を行っていたことが次第に判明しつつある。その目的は、世界の多くの国で共産主義革命を実現させるためということになるのだが、ソ連側の資料が公開されなければその立証が難しいことは誰でもわかる。

ヴェノナ

以前にも書いたが、アメリカが傍受していた大量のソ連の暗号文書 (「ヴェノナ文書」) が戦後になって解読されて、当時のルーズベルト政権では常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが判っているという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html

そもそも、わが国に日米開戦を決断させたとされる「ハル・ノート」を書いた米国財務省次官のハリー・ホワイトが、ソ連のスパイであったことが今ではわかっているのだ。

アメリカの政権中枢部にそれだけソ連の工作員、スパイやエージェントが暗躍していたなら、わが国はアメリカと同等かそれ以上にいてもおかしくないのだが、その証拠となる史料が乏しかった。
史料が乏しいという事は、そのような人物か余程少数であったということも考えられるが、そのようなメンバーが多数派を握っていて証拠を握りつぶすのが容易な状況であったこともあり得るのである。

尾崎秀実

独ソ戦勃発後、わが国はドイツを援けるために北進してソ連を挟撃する北進論と、欧米の援蒋ルートを絶ち、資源確保のために仏印に進駐する南進論との選択を迫られ、わが国は南進論を選択したのだが、そのことは日独伊軍事同盟を無視して、日ソ不可侵条約を優先したことを意味する。この決定については近衛首相の側近でありコミンテルンのスパイで、ゾルゲ事件で逮捕されて死刑に処せられた尾崎秀実の影響が大きかったとされるのだが、死んだ人物にすべての責任を被せることは歴史上よくある話で、実際にはもっと大がかりのものであった可能性が高い。

konoefumimaro.jpg

以前このブログで、近衛文麿が昭和20年2月に天皇陛下に対して戦争の早期終結を唱えた『近衛上奏文』について記事を書いたが、この上奏文で近衛は、わが国の軍部や官僚などに左翼分子がかなりいて、彼らが主導して我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

残念ながらこの上奏文には実名はなく、わが国の政権や軍部の中枢部にまでソ連の工作が浸透していたことの状況証拠にはなっても、そのことを裏付けるような史料が今までなかった。

ところが最近になって、重要な史料が出てきたのである。
8月11日の産経新聞に、わが国の政権や軍部の中枢部にまでソ連の工作が浸透していたことを裏付ける史料が出たことを伝える記事が掲載されていて、次のURLで読むことが出来る。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130812/chn13081209400000-n1.htm

この記事にはこうかかれている。
「終戦間際の昭和20(1945)6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった。戦局が厳しい状況に追いこまれる中、日本がソ連に接近して和平仲介を進めたのは、ソ連およびコミンテルン国際共産主義が日本中枢に浸透していたためとの説を補強するものとして論議を呼びそうだ。」

当時英国は交戦国であったドイツ、日本だけでなく、中国など同盟国を含め三十数カ国の電報を傍受、解読していたのだそうだ。

産経0811

さらに記事はこう解説している。
「電報の内容は『米国から得た最高機密情報』として、『国家を救うため、日本政府の重要メンバーの多くが日本の共産主義者たちに完全に降伏(魂を明け渡)している』と政権中枢がコミンテルンに汚染されていることを指摘。そのうえで、『あらゆる分野で行動することを認められている彼ら(共産主義者たち)は、全ての他国の共産党と連携しながら、モスクワ(ソ連)に助けを求めている』とした。
そして『日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者たちに取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと(米英との和平工作を)提案している』と解説している。

 敗色が色濃くなった日本では同年5月のドイツ降伏を契機に、ソ連を仲介とする和平案が検討され、電報が打たれた6月には、鈴木貫太郎内閣による最高戦争指導会議で国策として正式に決まった


さらに記事は
「(鈴木貫太郎の)首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、(昭和20年)4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』」では「『戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる』として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしている。」
という話や、
同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書かれている。」
という話など、軍部の上層部にソ連の工作が浸透していたことを覗わせる史実をいくつか紹介している。

終戦後68年にもなって、このような共産主義の工作がわが国で浸透していたことを裏付ける第一級史料が公開されたことには、何らかの意図があるのだろう。
第二次世界大戦の戦勝国のなかには、これからアメリカと中国が接近して世界の覇権を握ろうとする動きを好まない勢力や、ロシアの勢力拡大を好まない勢力があるのだろう。
その動きを牽制するには武力も外交交渉も必要ではない。ただ古い史料が出てきたと少しずつ公表するだけで中国やロシアに大きなダメージを与えることが出来るし、アメリカの親中派も動けなくなる。
もし、このような第一級史料が今後どんどん公開されていけば、わが国だけが悪かったという歴史観はいずれ破たんすることになるだろう。
中韓が声高に唱える歴史が嘘だらけである事が世界の常識になる日は来るのか。
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終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える

昭和20年(1945)8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、わが国政府はこれを連合国に通知し、翌15日の正午に昭和天皇自らの肉声による『終戦の詔書』が全国に放送された。

終戦の詔書

わが国が敗戦した当時、国外にいた軍人・軍属がおよび民間人はそれぞれ約330万人で、合わせて660万人と見られているのだそうだが、帰還事業は米国から約200隻の船舶の貸与を受けるなど米国の援助を得て急速に進み、敗戦の翌年までに約500万人が海外から戻ってきたという。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html

上記サイトでは、「ソ連に抑留されたり、中国内戦で留用されたり、帰還が遅れた者もいた」とさらりと書いているのだが、蒋介石配下の中国大陸からの復員と引き揚げは順調に進んだものの、ソ連については多くの日本人を捕虜収容所に入れたまま、なかなか返さなかったし、実態は奴隷同然に扱われて多くの死者が出たのだ。いまだに「抑留」などという生易しい言葉で表現するのはロシア(旧ソ連)に対するわが国の外交的配慮なのか。

前回の記事で紹介したウィロビー回顧録にはこう書かれている。
「1949年4月の時点で、まだ五十万に近い日本軍兵士が未帰還になっていた。このうち三十万名以上がシベリアに連れ去られたままであり、ほぼ十万名が樺太や千島列島で姿を消したままだった。そして約五万名が毛沢東の支配地域で『行方不明』になっていた。…
GHQは1946年から1949年にかけて、どこかに消えてしまったこの50万名の兵士を帰国させるようにと、ことあるごとにソ連に圧力をかけ、必死の努力を払ってきた。…」(『GHQ 知られざる諜報戦 新版ウィロビー回顧録』p.93-94)

わが国は引揚者のために、呉、佐世保、博多など全国各地に引揚港を設置したのだが、他の引揚港の業務が終了していくなかで、主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港だった舞鶴港だけは、ソ連のために昭和33年(1958)まで引揚業務を終えることが出来なかったのである。

その舞鶴港の近くに「舞鶴引揚記念館」という施設がある。
数年前に一度訪問したことがあるのだが、ここにはソ連の捕虜収容所や引揚船の模型、シベリアの収容所内の生活で用いられた食器や衣類などが展示されていた。

丹後半島旅行 003

舞鶴引揚記念館HPの解説では、日本人捕虜は酷寒の中、森林伐採や石炭採掘などの強制労働に従事させられ、食事は「黒パン」が一切と極度に栄養価の低い「カーシャ(水粥)」と呼ばれる粥のみが与えられる悲惨な食糧事情であったことが書かれているが、ソ連が何のために大量のわが国の兵士を捕虜にして、この場所でどれだけ多くの命が失われたかについてはほとんど書かれていないのは残念なことである。なぜ、ソ連の戦争犯罪に触れようとしないのだろうか。
http://m-hikiage-museum.jp/index.html

まずわが国の犠牲者の数について考えてみる。
ウィロビーの回想録には、GHQがシベリアから帰還した日本兵にヒアリングをして、ソ連における日本人捕虜の実態を把握しようとしたことが書かれている。

「ついに故国の土を踏んだ生き残りの引き揚げ者たちが、決してウソは言わぬと誓い、涙ながらに語った証言によれば、100ヶ所以上のソ連収容所にいた209,300名の捕虜のうち、51,332名が栄養失調や伝染病で死亡したという。その死亡率は24.5%に達する。さらにある地域では死亡率は60%にも達していた。
地方病院の墓堀りとして働かされていた引き揚げ者の、次のような報告は典型的なものであろう。
『飢えと疾病のためあまりに多くの人が死んだので、50名からなる屍体処理班は、死者を焼く仕事を遅滞なく果たすことができなかったほどです。軍医の話だと、1945年から1947年にかけての死者の数は、その地域では30%の高率に達したそうです』
その証言者はそう語ると、しばし絶句してしまった。」(同上書p.95-96)

GHQの報告にはバイアスがあって当然だと考える読者もいると思うので、次にわが国の厚生労働省の数字を紹介しよう。
厚生労働省のHPには
a.旧ソ連地域に抑留された者         575千人
b.帰還した者                473千人
c.死亡と認められるもの            55千人
d.病弱の為入ソ後旧満州、北朝鮮に送られた者  47千人
と書かれている。
数字のまとめ方としてはおかしな書き方だが、a=b+c+dの関係になっているので、aが総数で、b,c,dがその内訳だということになるのだが、この数字ならば死亡率は9.6%にすぎない。
http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/11/01.html

しかし、この厚生労働省の数字にはトリックがあり、「行方不明者」が初めから除外されてしまっている。ソ連との戦いで命を失ったものや、ソ連に送られる途中で死んだ者もいるだろうが、終戦後ソ連管轄地域にいたはずの日本人はもっと多かったと思われる。「行方不明者」の数を隠すことで「旧ソ連地域に抑留された者」の総数を意図的に減らされてもわからないし、そうすることによって「(旧ソ連地域で抑留後)死亡と認められる者」の人数を小さく見せることが出来ることは誰でもわかる。
シベリアにおける日本人犠牲者については、次のサイトが良く調べておられて資料も豊富なので、一度目を通されることを薦めたい。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/026s320212dai2gou.html

上記サイトを読んでいくと、平成21年(2009)にロシアの国立軍事公文書館で、第2次大戦後に急ソ連で抑留された軍人や民間人が最大で76万人の新資料が発見され、日本政府に提供することで原則合意したという東京新聞の朝刊(2009/7/24)記事が紹介されている。

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それからどうなったのかがさっぱりわからないが、ソ連で捕虜とされた日本人も、捕虜となった後に死亡した日本人も、厚生労働省の数字をはるかに上回る数字になることは間違いがないだろう。

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また昭和25年(1950)12月11日に外務省は、37万人がソ連から未帰還であると公式に発表しており、うち31万名は、氏名も判明しているとまで述べたのだが、それから後にわが国に帰還してきたものはわずかに2594人だったという。とすると、旧ソ連地域からの最終的な未帰還者は、戦死者も含めて30万人をはるかに超えていたことになる。(上の画像は1950/12/12読売新聞朝刊)

では、ソ連は何のために大量の日本人を捕虜とし、強制労働をさせたのだろうか。
ウィロビーはこう書いている。
「ソ連の捕虜収容所で、日本軍捕虜たちがいかなる扱いを受けてきたか、…帰還兵たちを尋問したG2(連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部)の情報員たちでさえ、驚くほどの実情だった…。
『われわれは、まるで奴隷のように重労働を課せられ、多くの仲間が栄養失調と病に倒れ、そして死んでいった』
帰ってきた兵士たちの多くは口をそろえた。それでも早い時期に帰れた捕虜たちは恵まれていた。多くは一日、また一日と帰還を延ばされていた。ソ連当局はこれら日本人捕虜のなかから慎重に人選し、これを日本に帰したのち、第五列(国内事情を、特定国または敵軍に通報するいわゆるスパイ行為をする一群の人々を指す)の指導的任務につかせるために『洗脳教育』をしていたのだった。」(同上書p.97)とある。

img20120815192623701.jpg

ではどんな『洗脳教育』がなされていたのだろうか。
簡単に言うと、ソ連は日本人捕虜に対して、搾取者であるアメリカの支配下に置かれた日本での生活に恐怖を抱かせた後、天皇制を崩壊させ日本に共産主義政権を樹立し日本共産党に入党して支援する旨の誓約をさせる。
その上でやがて日本における将来の任務のための特殊訓練を施され、要求するレベルに達しなければ、強制労働の世界に戻されるという仕組みだったそうだ
。日本人たちは、故国に帰るためには、他たとえ表面的にでも、ソ連の言いなりになるしかなかったのだ。
要するにソ連は、わが国を共産主義国家とするための工作員を大量に育てて送り込もうとしたということだろう。

シベリア帰還兵の手記を読んでも、ソ連が洗脳教育を行なったことを確認できる。たとえば、福井県の馬橋正氏は、
「日本の兵士、特に日本で貧困生活を味わった兵士は、資産家育ちの兵士とは別に共産主義を指導して帰還兵を乗船させる前に洗脳して日本へ帰す、そして日本での共産主義を拡大させようと企画したことは間違いなかったと思います」と書いておられる。
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13yokuryu/S_13_124_1.pdf

そしていよいよソ連は昭和24年(1949)に、95千名の「教化済み」引揚者を日本に注入する計画を実際に行動に移したのである。

ウィロビーの回顧録に、1949年8月5日付『ジャパン・タイムズ』紙のソ連からの帰還兵の記事が出ており、興味深いので紹介したい。

ソ連がその捕虜収容所から日本へと帰国させてくる連中は、人間なのか、それとも獣なのか
 長い間、息子の帰りを待ちわびていたある母親が、苦悩の色を浮かべながら『あそこでは、息子になんていうことをしてくれたのだろう?』と悲嘆の叫びを上げている。こうした叫び声は、9年になって引き揚げ業務が開始されて以来、何度も何度もこだまとなって響いたものである。
 こういう叫び、こういう疑問を発しなければならなかったのは、引き揚げ者たちが、人間を獣と分かつ、あの感情や感覚を些かも持ち合わせていないことが、ひとたびならずあらわにされたからである。故国を眼の前にして、しかも愛する人が待っているというのに、港について一週間以上も、引き揚げ者たちはかたくなに上陸を拒否した。
 そうかと思うと、温かい歓迎の言葉に野次を飛ばし、心からの同情のうちに差し伸べられた手をむげにはねつけたりしたのである。そのうえ数年もの間、彼らの帰りを待ちわび、ひとつ屋根の下で生活することを切望していた家族を冷たくあしらう連中すらいた。獣の群れのように行動する彼らは、群れのリーダーの言いなりに振る舞ったのである。…
 …いまや日本人は過去においては知らなかったかもしれないが、共産主義が人間をどうしてしまうのかを理解した。自由を愛する国民は人間からその人格と人間としての資質を奪い取ってしまうイデオロギーをまざまざと見せつけられたのである」(同上書 p.101-102)

下山事件

この記事を読む限りでは、ソ連からの引き揚げ者たちが筋金入りの共産主義者になっていたかどうかまでは読み取れないのだが、この年の7月5日に下山事件(国鉄総裁が失踪し遺体で発見)、7月15日に三鷹事件(無人列車暴走で6人死亡、20名負傷)、8月17日に松川事件(列車脱線て転覆で3人死亡)という奇怪な事件が相次いで起こっている。
この3つの事件は「国鉄の三大ミステリー」とされて、共産主義勢力が仕掛けたものなのか、アメリカが共産主義勢力を弱体化させるために共産主義者の仕業のように見せかけたものなのか、今もわかっていない。
いずれにせよこれらの事件が発生して以降、「共産主義者がわが国で革命を起こそうとしている」とか「ソ連からの引き揚げ者は共産主義者だ」という噂が広まっていったようなのである。
そのためにソ連からの引き揚げ者はかなり警戒されて、それぞれの郷里に引き渡すまでは軍事的コントロール下に置かれるようになったという。

埼玉県朝霞市の高橋秀雄氏が『私のシベリア抑留記』という文章をネットで公開しておられるがそれを読むと、舞鶴は「シベリアの収容所そのものだった」と書いていることに誰しも驚いてしまうことだろう。ちなみに高橋氏が引き揚げ船で舞鶴に到着したのは、松川事件が起きた44日後の10月1日であった。しばらく高橋氏の文章を引用する。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/6296/siberia_f.htm

「我々は信じられぬ光景を目にすることとなった。
上陸直後、吾々の宿舎となった舞鶴援護局の周辺には、新しい鉄条網が張り巡らされていた。さらに武装した警官隊が鉄条網の外に、中を監視するように配置していた。

あのシベリアの収容所そのものだった。

出迎えた家族との再会の場は二〇メートルも離れたフェンス越しであった。さらに、帰還者を京都へ運ぶ国鉄当局は、ダイヤまでも組み替えて、乗換駅での滞在時間を短くし、帰還者たちだけが一つに集まらぬよう一般客のあいだに分乗させた。少人数ごとに京都駅まで運び、出向かえた家族に引き渡す方法をとった。
シベリア帰りは共産主義者というこの噂を真に受けたのだろう、親兄姉までが惑わされていたようだ

故郷に帰り着いた後も、警察が、シベリア帰りの者のいる家々に調査に来たこともある。
日本の世情が飲み込めない吾々は、復員した戦友たち同士無事を確認し合うためによく互いの家を行き来した。生きて帰った喜びを吾々は、手拍子を叩きながらシベリアでおぼえた平和の歌を歌い、底抜けに明るくソーラン節を踊った。…」

シベリアで捕虜になり生きて帰ってきた日本兵を、決してわが国は温かく迎えたのではなかったのである。実家に戻ってからも周囲から冷たい視線を浴びて、本人だけでなくご家族の方も、長い間苦しまれたことであったろう。

前回の記事でソ連がわが国の中枢に浸透していて、ソ連主導で戦争を終結させようとしている旨の英国立公文書館所蔵の最高機密文書を紹介したが、その文書によるとソ連はわが国を共産主義勢力に取り込む寸前のところまで来ていたことになる。
アメリカがわが国に原爆を落としたのは、早期に戦争を終結させてソ連の野望を挫き、主導権を掌握しようという意図があったのではないか。
わが国がすぐに敗戦すれば、ソ連は「戦勝国」という立場にはなりえない。慌てて対日参戦するが、千島や樺太の日本軍の抵抗にあい、北海道の領有をも断念することとなる。 わが国の共産国化に失敗したスターリンは、今度は大量の日本兵を捕虜とし共産主義革命の戦士に育て上げ、日本に帰還させた後に内乱を仕掛けて再度わが国を取り込もうとしたのだが、日米が協力してそれを阻止したという流れではなかったか。

スターリン

先程紹介した高橋秀雄氏の『私のシベリア抑留記』には、驚くべきことが書かれている。
スターリンは…強硬に北海道占領を要求した。
が、トルーマンは強引に退けた。スターリンは怒り、北海道占領に代えて日本軍兵士六十三万余のシベリア移送命令を出し、労働現場に配置した。
また「日本軍将兵は武装解除の後に平和的に家庭に帰す」と宣言した「ポツダム宣言」が有るにも関わらず、日本政府からは、将兵の帰国要求申し入れは全くなかった、という。むしろ「貴軍経営のためどうぞお使いください」と日本人将兵の労務特供給の申し入れをしたのは他ならぬ日本政府・大本営であったという
このことは共同モスクワニュースが詳細に伝えた。
このために、六十三万余の将兵が長年に渡って、酷寒の地シベリアでの強制労働、飢餓を味わうことになった。」

共同モスクワニースの記事をそのまま信用することはできないが、結論めいたことを言うと、シベリアで捕虜にされた人々は、わが国を共産主義陣営に取り込もうとするソ連と、それを許さないアメリカの水面下の駆け引きが続くなかで、その双方の犠牲者であったということだ。
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朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか

1950年6月25日の午前4時に朝鮮半島の38度線で、突如北朝鮮による砲撃が開始され、10万を超える北朝鮮軍が38度線を突破した。

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米駐韓国大使のジョン・ムチオは、ワシントンの国務省に宛てて次のような報告をしている。
「1950年6月25日ソウル発
韓国軍事顧問団の資料によって、一部確認された韓国陸軍からの報告によれば、北朝鮮は今朝、韓国の領土に対し数ヵ所にわたって侵略を開始した。攻撃はほぼ午前4時に開始され、甕津(オングチン)は北朝鮮軍の砲火によって破壊された。午前6時ごろ、北朝鮮の歩兵隊は甕津、開城(ケソン)、春川(チュンチョン)各地方における38度線内に侵入し、伝えられるところによれば、東部海岸の南江陵に陸海軍による上陸が行われた。開城は午前9時、作戦を開始した10台の北朝鮮側戦車によって占領されたと言われる。また戦車を先頭にした北朝鮮軍は、春川を包囲しつつあるといわれる。江陵における戦闘の詳細はまだ不明であるが、北朝鮮軍によって主要道路は断たれた模様である。攻撃の性質、および攻撃開始の方法からみて、これは韓国に対する全面攻撃とみられる」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.232)

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その勢いで北朝鮮軍は勝ち進み、6月27日には韓国の首都京城(ソウル)が陥落してしまったというのだ。画像は「朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書」というサイトに豊富に紹介されている。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/1222ChoosenWar.html

ソウル占領

朝鮮戦争の緒戦でこんなに簡単に韓国軍が敗れたのは意外であったが、いろいろネットで調べていくと、当時の韓国軍の装備については、韓国軍は、総兵力10万、戦車ゼロ、大砲91門。一方の北朝鮮軍は、総兵力20万、戦車240両、大砲552門と北朝鮮軍の装備が韓国軍を圧倒していた。しかも韓国軍の91門の大砲は北朝鮮の戦車T34(ソ連製)の分厚い装甲を撃ち抜くことが出来なかったという。重戦車と歩兵との戦いでは勝負にならないことは誰でもわかる。
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-128.htm

またウィロビーの回顧録によると、戦闘が開始された時には、韓国軍には司令官がいなかったのだそうだ。
「…1950年6月当時、韓国軍の装備は北朝鮮側にくらべ哀れな状態であった。そのうえ戦いが開始されたときには司令官まで欠いていたのだから、押し寄せる北朝鮮軍の前に手もなくひねられ、敗走したにしても一般兵士たちを責めるにはあたらない。」(同上書 p.233)

ではなぜ、韓国軍の装備がかくも貧弱であったのか。
この点については、ウィロビーの回顧録に、当時の駐日大使でGHQ外交局長であったウィリアム・J・シーボルトの回想記が引用されている。シーボルトはこう書いている。
李(李承晩[イスンマン] 韓国大統領)は、常に好戦的な態度を見せていたので、米国顧問団は、この軍隊に戦車、重砲、軍用機などを与えるのを拒否していた。正規の攻撃兵器を与えれば、李はただちに38度線を突破して北進する恐れが十分にあったのだ。」(同上書p.234)
こんな理由で、アメリカが韓国の防衛を怠っていたとは信じがたいことである。

また1950年1月12日には米国のアチソン国務長官が「たとえ韓国が共産主義者に攻撃されても、アメリカは韓国防衛に対して消極的であろう」との演説をしたそうだが、このような発言が、北朝鮮による韓国侵略を決断させる要因の一つになったのであろう。

ウィロビーの回顧録を読み進むと、ウィロビー率いるG2(GHQの参謀第2部)は北朝鮮による攻撃が近いことを何度も国務省に報告しており、その特別報告のいくつかの内容が著書に紹介されている。それによると、北朝鮮の戦争準備の動きばかりではなく、38度線から3マイル以内に住むすべての民間人に退去命令が出ていることや、北朝鮮軍による韓国侵略が6月であることなども報告されていた
また韓国大統領の李承晩も、北の攻撃が予想される中で、戦えるだけの武器がないことをアメリカに訴えていたのだが、どういうわけかアメリカは韓国軍の装備が貧弱なまま放置していたのである
ウィロビーの記述が正しければ、朝鮮戦争は決して北朝鮮軍による不意打ちではなかったことになる。報告は受けていたのだが、何らかの理由があって動かなかったか、動けなかったのである。ワシントンの中枢部もソ連寄りの人物が主導権を握っていたのだろうか。

トルーマン

米大統領のトルーマンは、北朝鮮による侵略が開始されてまもなく、GHQのマッカーサーに韓国の防衛を命じている。また国連も米国に国連の代理としての行動をとるように要請し、マッカーサーが国連軍司令官に任命されている。

6月29日の早朝にマッカーサーは羽田を出発して韓国における戦場の上空を視察し、帰日後ワシントンにこうレポートしている。
「…敵の侵攻を防止するのが第一の問題である。さもないと敵が朝鮮全域を支配するかもしれない。韓国軍には反撃する能力が全くないので、北朝鮮軍がさらに侵攻する危険性は大きい。もし敵の進撃が続けば韓国は危険にさらされる。現在の戦線を維持し、さらに失地を回復するための唯一の道は、朝鮮戦線にアメリカ地上軍を投入することである。有効な地上兵力なくして、空軍と海軍とだけを用い続ければ決定的なものになりえない。…」(同上書p.242)

翌日にワシントンは米地上軍の韓国投入を許可し、マッカーサーに彼の指揮下にある兵力を使用する全権が与えられたのだが、マッカーサーが使える兵力は、北海道から九州までに散らばっていた勢力不足の占領軍4個師団とオーストラリア軍1個大隊だけで、到底敵戦力とつり合いのとれる水準ではなかったという。

ウィロビーはこう書いている。
「8月から9月初旬にかけて、米軍はもっとも苦しい戦いを強いられていた。8月15日、当時の北朝鮮首相・金日成は、あたかも勝利はわが掌中にありとばかりに、次のように語った

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いま、米軍と李承晩敗残部隊は、わが共和国南半部(韓国)全地域の約8パーセントを維持しているにすぎない。わが祖国の全地域が、アメリカの武力干渉者どもから完全に解放され、自由と独立の旗が全朝鮮の津々浦々にいたるまでひるがえる日もそう遠くはないだろう。』…」(同上書p.247)
と、この時点で韓国領土の92%は北朝鮮軍に制圧されていたのである。
しかしウォルトン・H・ウォーカー中将率いる米国第8軍が釜山周辺地区で背水の陣を敷きながらなんとか踏ん張っていたという。

そこでマッカーサーは戦況を一転させるために「仁川(インチョン)上陸作戦」を計画し断行する。
今回の記事の最初に添付した朝鮮半島の地図をもう一度見て頂きたい。
北朝鮮軍は快進撃を続けて韓国領土の大半を支配したのだが、最前線の兵士に燃料や弾薬・食料などの補充を行ない続けなければ戦いを継続することが出来ないことは言うまでもない。マッカーサーのこの作戦は、北朝鮮軍の大半が釜山攻防に配置されているタイミングで、仁川を攻撃し北朝鮮軍への補給路を断つというものであった。

マッカーサー

マッカーサーは8月20日に東京の第一生命ビルで開かれた仁川上陸作戦に関する戦略会議でこう述べたという。
敵の弱点は補給にある。敵は南に進めば進むほど輸送線が伸び、それだけ危険も増大する。敵の主要補給線は、いずれもいったんソウルに集まり、ソウルから戦線のあちこちに伸びているから、ソウルをおさえれば、敵の補給網を行きも帰りも完全に麻痺させることができる
弾薬と食料の補給がとまれば、敵はたちまち手も足も出なくなって混乱し、われわれの小さくとも補給充分な兵力で簡単に圧倒することができる。作戦の成功については、私はこれを確信する。」(同上書 p.253-254)

この作戦にはなぜかワシントンでは根強い反対があったようだがマッカーサーが押し切り、9月15日に実行に移された

Battle_of_Inchon.png

マッカーサー率いる国連軍は仁川上陸に成功したあとソウルを攻め、敵軍は補給がとまったところへ挟み撃ちにあい、退却の道も断たれて総崩れの状態となった。北朝鮮軍の兵士の投降が相次ぎ、1か月以内の捕虜総数は13万人にも達したという

9月28日に国連軍はソウルを奪還し、翌日には韓国政府がソウルに入城したのだが、この時にマッカーサーは、米国首脳の考え方に不安を感じていたらしく、尊敬していたウォーカー将軍に次のように打ち明けたという。

「…犠牲を払って軍事的勝利をおさめても、それから政治的に有利な平和が導き出されるのでなければ、何のための犠牲かわからない。
 いまは北朝鮮軍を壊滅させた仁川での勝利をただちに政治的平和にすりかえる、つまり軍事的に勝ったのを機に、ここで戦争を終結させてしまう絶好の機会だ。これはなにも敗北した北朝鮮軍に、われわれの意志を強引におしつけるという意味ではない。われわれは北京とモスクワに、米国は何の野心もなく、韓国から敵兵を一掃して独立国として存在を保てるような状態にすること以外には、何の使命も帯びていないということを納得させるだけの外交的能力が必要だ
 ところが、われわれの外交陣はまことに不活動的で、この勝利を活用して朝鮮に平和と団結を回復させるための素早い、ダイナミックな外交活動を起こすということがさっぱり行われていないようだ。戦争を終結して、太平洋にもっと永続的な平和を生み出す方向へ大きく動き出す絶好の機会が訪れているのに、それをつかみ損ねるという大変な政治的失敗が犯されているような気がしてならない。われわれが政治的、外交的に不活発であるため、相手がそれをためらいや譲歩と取るだろう。こんな状態では戦争は終わるどころか、道は長引く。」(同上書p.276)

このようなマッカーサーの思いとは裏腹に、国連軍がソウルを奪還した9月28日に、米統合参謀本部は、北進攻撃の許可と詳細な指令を東京のマッカーサーに送っている。
貴官の軍事目標は、北朝鮮軍を壊滅させることにある。この目標を達成するため、貴官が朝鮮の38度線以北で軍事行動をとることを許可するものである。ただし、いかなる場合にも中国およびソ連との国境を越えてはならない。…」(同上書 P.277)

通説では、トルーマン大統領や米統合参謀本部の命令を無視して韓国軍と国連軍が38度線を越えて北上したとなっているのだが、ウィロビーの回顧録によれば、38度線を超えて北上する指示は米統合参謀本部がマッカーサーに出していることがわかる。
しかし、後日「マッカーサーは自分勝手に上層部を無謀にも無視して38度線を突破し、北朝鮮に進攻した」という作り話が新聞に載って全世界にばら撒かれたために、事実でないことが通説になってしまったのだが、どこの国でもいつの時代もこのような方法で、権力者にとって都合の悪い真実が都合の良い歴史に書きかえられて国民に広められることがよくある。

かくして韓国軍と国連軍は38度線を突破し10月20日には北朝鮮の首都平壌を制圧し、さらに北朝鮮軍を追って破竹の勢いで中国国境に近い鴨緑江近辺まで進軍したのだが、ここで国連軍は中国軍の猛反撃に遭遇することになる。中国軍は国連軍をはるかに上回る規模であったのだが、その後の戦いについては次回に記すことにしたい。
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スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている

前回は、トルーマン政権が朝鮮戦争で国連軍を勝たせないようにしたのではないかということを書いたのだが、その後スターリンの極秘文書の中から、スターリンがアメリカを朝鮮戦争に誘導したと記述している書簡が発見されているので紹介したい。

韓国の新聞である『中央日報』が2008年6月に報じた記事を、その日本語版のホームページで誰でも読むことができる。ちょっと長いが、全文を引用させていただく。
韓国の新聞なので「朝鮮戦争」とは呼ばず「韓国戦争」と書かれているが、同じ意味である。
http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=101713&servcode=200§code=200
http://japanese.joins.com/article/714/101714.html?sectcode=&servcode=200§code=200

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スターリンが米に韓国戦争参戦を誘導していた…極秘文書発見
派兵しやすいよう、安保理拒否権を行使せず

ヨシフ・スターリン・ソビエト連邦(現ロシア)書記局長が1950年、韓国戦争に米国を参戦することを希望、戦争勃発直後に招集された国連安全保障理事会にソビエト連邦が参加しなかったのも、米国の参戦を誘導するための緻密な計算であったことを示す文書が公開された。
またスターリン書記長は中国も戦争に加担させることにより、米国と中国が韓半島に踏みとどまざるを得ない状態をつくる戦略を立てていたことが明らかになった。
このような事実は1950年8月27日、スターリン書記局長がチェコスロバキアのクレメント・ゴットワルト大統領に送った極秘文書を通じ、明らかになった


文書でスターリン書記局長は、この年の7月初旬に開催された国連安保理でソビエト連邦が国連軍派兵に拒否権を行使しなかったことに対するゴットワルト大統領の問題提起に対し『安保理で、米国が多数決決議を得られやすくしたもの』と説明した。またスターリン書記局長は『これによって、米国は韓国での軍事介入に巻き込まれ、軍事的威信と道徳的権威を失いつつある』と主張した。

スターリン書記局長は特に『米国が韓国戦争の介入を続け、中国まで韓半島に引き込まれる事態になればどんな結果になるのか考えてみよう』とし『ヨーロッパで社会主義を強化する時間を稼ぎ、国際勢力の均衡により、私たちに利益を抱かせるだろう』と強調した

スターリン書記長の文書は、北京大学歴史学部のキム・ドンギル教授が2005年にロシアの3大国立文書保管所のひとつである社会政治史文書保管所(RGASPI)から入手した旧ソビエト連邦の資料(文書番号fond 558、opis 11、delo 62、listy 71~72)に含まれていた。スターリン書記局長が韓国戦争について開戦前後の国際情勢と、自分の戦争構想を具体的に言及した文書が公開されたのは今回が初めてだ。この文書はスターリン書記局長が米国の介入を懸念し、金日成(キム・イルソン)主席の南下侵略の計画に反対したという通説を覆す内容が含まれている

文書の最後に、スターリン書記局長は撤収した国連安保理にソビエト連邦が復帰すると言い『これは米政府の好戦的な政策を暴露し、米国が安保理を利用するのを防ぐために効率的だったからだ』と書かれている。
スターリン書記局長は一級機密に分類された文書の保安維持のため、暗号名“Filippov”(フィリッポフ)を用い、プラハ駐在のソビエト連邦大使に『口頭で、ゴットワルトに伝えろ』と指示した。

文書を分析し『ゴットワルト大統領に送ったスターリンの文書と韓国戦争の起源』という研究論文の執筆を終えたキム教授は『スターリンが戦争を認めた背景を含め、韓国戦争の起源を新しい角度から説明する文書だ』と話した。キム教授の研究結果は、キム教授が客員研究員であった米国のワシントンにあるウッドロー・ウィルソンセンターの『国際冷戦史プロジェクト』論文集に今月25日、発表される予定だ。

◇スターリン
ロシア社会主義革命を率いたレーニンの後継者でソビエト連邦共産党の書記局長を務めた。1922年から亡くなるまで(1953年)、31年間にわたりソビエト連邦を独裁統治した。第2次世界大戦終戦後、米国と対立しながら冷戦の象徴人物となった。」(引用終わり)

  ネットで検索していくと、この記事に書かれているウッドロー・ウィルソンセンターのサイトにキム教授の該当論文が見つかったが、英語は弱いのでとりあえずURLだけ紹介しておく。どこかに邦訳があれば、ご教示いただければありがたい。
http://wilsoncenter.org/sites/default/files/NKIDP_eDossier_1_Origins_of_the_Korean_War.pdf

少しだけ補足と、私なりの解釈を書かせていただく。

ゴットワルト

スターリンの極秘文書の宛先であるゴットワルトは、1921年にチェコ共産党の創設に関わり、1945年以降チェコ共産党委員長となり、1948年から1953年まではチェコスロバキアの大統領を兼務した人物である。スターリン主義者で知られ、多くの政敵を粛清したが、1953年3月にスターリンの葬儀から帰国した5日後に病死している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%88

前々回の記事には書かなかったのだが、米英仏露の4か国は国際連合の安全保障理事会で拒否権を有していた。したがって、1950年7月に開催された国連安保理でソ連が拒否権を発動していれば国連軍の派遣はなかったし、戦車や重火器を大量にもつ北朝鮮軍が、僅かな大砲を持つだけで兵力の劣る韓国軍を緒戦で圧倒し、簡単に勝利することは確実であった。

では何故、ソ連は国連安保理で拒否権を発動せずに、安保理を欠席したのか。

冒頭で紹介した『中央日報』の2008年6月に報じた記事は、ゴットワルトがスターリンにソ連が安全保障理事会で拒否権行使せずに欠席した理由を質問したことに対するスターリンの回答文書が発見されたことを書いているのだが、その記事によるとスターリンの回答は、安保理を欠席することで米国が多数決で国連軍の朝鮮戦争参入を決め、朝鮮戦争に介入させて中国まで引きずり込めば、ヨーロッパで社会主義を強化でき、社会主義国家にとってメリットがあるという趣旨のものであったようだ。

よくよく考えると、このスターリンの回答は、ソ連側が米国の中枢部をコントロールできるという確信がなければ絶対に書けないことを書いている
もしアメリカが韓国に、充分な兵士とともに最新鋭の武器や弾薬や戦車を送り込んでいたら、北朝鮮軍の勝利ははじめからあり得ない話なのだ。ではなぜスターリンは、国連軍が朝鮮戦争参入を決定すれば、国連軍を中国までひきずり込むことができると考えたのか、それが問題だ
前回および前々回の記事に書いたとおり、トルーマン大統領のスタッフには数百名のソ連の工作員、スパイやエージェントがいたことが、『ヴェノナ文書』の解読が進んで明らかになっているのだが、そのことを抜きにしてはこの謎は説明できないと思うのである。

一般的な日本史の教科書である『もう一度読む 山川日本史』には、「朝鮮戦争」についてこう書かれている。

「1950年6月、朝鮮半島では北朝鮮軍が北緯38度線をこえて韓国に侵攻を開始した(朝鮮戦争)。国際連合の安全保障理事会は北朝鮮を侵略者として武力制裁を決議し、アメリカ軍を中心とする国連軍が韓国側に立って参戦した。一方、北朝鮮側には中国人が人民義勇軍の名で加わり、はげしい戦闘がくりかえされたが、1953年7月、板門店で休戦協定がむすばれた。」(p.322)

淡々と史実だけが記されているような印象をほとんどの人が受ける文章なのだが、ソ連については一言も書かれていないのはフェアではないだろう。
少なくとも、北朝鮮軍の兵器や戦車はソ連から支援を受けていたことや、国際連合の安全保障理事会でソ連が拒否権を行使すれば国連軍の組成は出来なかったはずであったにもかかわらず、ソ連は安全保障理事会を欠席したために国連軍の派兵が決定したという史実は書くべきではないかと思う。

それと、もう一つ教科書に書くべき重要なことがある。この朝鮮戦争における死傷者が半端ではなかったことだ。
Wikipediaによると、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷し、中共の公式発表による中国人民志願軍の戦死者は11.4万人、戦闘以外の死者は3.4万人、負傷者34万人と書かれているが、この戦争の犠牲者は兵士よりも民間人の方がはるかに多かったという。
朝鮮戦争でアメリカ空軍および海軍航空隊が投下した爆弾の総重量は60万トン以上で、第二次世界大戦でわが国に投下された16万トンの3.7倍なのだそうだが、100万人から200万人の民間人犠牲者が出たと言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89#cite_ref-39

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また韓国の李承晩大統領は、朝鮮戦争勃発を受けて共産主義からの転向者やその家族を再教育するための「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人以上を虐殺した(「保導連盟事件」)というし、北朝鮮の金日成も韓国の一般市民数十万人を「反共産主義の反動分子」との罪名で大量虐殺している。
ソウルのように北朝鮮軍と国連軍が入れ替わり立ち代わり占領したところでは、見境のない殺害と報復が繰り返されたという。
次のURLで、朝鮮戦争時の韓国軍や北朝鮮軍による虐殺現場の写真を見ることが出来る。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/1222ChoosenWar.html

全体では400万人から500万人の犠牲者が出たという話もあるが、その数字だと当時の朝鮮半島の人口は約3000万人だから、全人口の13%~16%程度の人々が犠牲になったことになる。

お隣の国では、これだけの民間人の犠牲者が出ているにもかかわらず、未だに追悼碑を設置する動きがないのだそうだ。このような史実は民族の歴史には残したくないものなのかもしれないが、これでは朝鮮戦争の犠牲者はいつまでたっても浮かばれないことになる。

ところで朝鮮戦争は1953年に休戦に至り北緯38度線を軍事境界線として南北に分断されたが、両国の間に平和条約は結ばれておらず、国際法上ではこの戦争は終わったことになっておらず、長い間「休戦中」の状態にあった。しかるに今年になって、東アジアの状勢が怪しくなってきている。

習近平オバマ

今年の3月11日に北朝鮮は朝鮮労働党機関紙の労働新聞で、国連や中国との間で結んだ朝鮮戦争の休戦協定を白紙に戻すと言明したと報道され、6月7-8日には中国の習近平国家主席はオバマ米大統領との首脳会談で今後の米中関係について「新型の大国関係」を主張し、「太平洋には米中両大国を受け入れる十分な空間がある」と語ったという。この言葉は、中国が韓国や日本や台湾などで紛争しても、アメリカは口出しするなと言っているのと同じだ。
また10月2日にはアメリカのヘーゲル国防長官と韓国のキム・グァンジン国防相がソウルで会談し、北朝鮮が核兵器を使用する確実な兆候をつかんだ場合には、米韓両国の軍があらゆる戦力を動員して先制攻撃を行うことで合意したという報道があり、10月3日のTHE WALL STREET JOURNALのサイトには、北朝鮮は日本での情報収集能力を高めるため、ベテラン工作員を事実上の在日大使館の幹部として起用したとのニュースが流れている。
http://realtime.wsj.com/japan/2013/10/03/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%80%81%E5%AF%BE%E6%97%A5%E8%AB%9C%E5%A0%B1%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%82%92%E5%BC%B7%E5%8C%96%E2%80%95%E3%83%99%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%B3%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E5%93%A1%E3%82%92/

李鵬

1993年に中国を訪問したポール・キーティング豪首相(当時)に対して、李鵬首相(当時)が「日本は取るに足るほどの国ではない。20年後には地上から消えていく国となろう」と語ったことは有名な話だが、今年はちょうどその言葉が発された20年後の年になる。
世界の先進国の中でスパイ防止法がないのはわが国だけなのだと言われており、わが国には北朝鮮や中国だけでなく米韓ロなどの「工作員」がマスコミや教育機関などで多数活動していて、「スパイ天国」とも言われている状態だ。
青山繁晴氏が日本の公安当局に北朝鮮の工作員の数を以前質問したことがあり、その数はおおよそ2万人程度でコアなメンバーは500人程度との回答であったと述べているが、米中韓ロにはもっと多くの工作員がわが国にいてもおかしくないだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=b9XLubXKrsI

尖閣列島

今年に入って尖閣諸島の日本領海への中国側艦艇の侵入がますます頻繁になってきた。韓国も反日を煽り続け、北朝鮮も対日工作を強化しようとしている…。20年前の李鵬の言葉と今年6月の米中首脳会談における習近平の発言とどこかつながりがあるのではないかと気になるのだが、中国と周辺国の工作員が今年をターゲットにしていて、具体的にわが国の領土を奪い取ろうとしている可能性を感じるのである。

これから先、いつか東アジアできな臭い事が起こるのではないかと心配だが、わが国はいつまでも自国の防衛の過半をアメリカに頼って大丈夫なのか。資金不足で自国の政府機関をも一部閉鎖せざるを得なくなったようなアメリカで、同盟国を守るために自国の軍隊を派遣することについて米国民の支持が得られないことも考えておく必要がある。
わが国も他国と同様に、わが国における他国のスパイ活動を取り締まり機密情報を守る一方、他国の情報は自前で集めて、自分の国のことは自分で守る体制に次第に移行していくことが、これからますます必要になっていくのだと思う。
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『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか

前回まで、わが国が連合軍に占領されていた時期から朝鮮戦争までの歴史を追ってみた。
ウィロビー回想録の文章を引用しながら当時の雑誌などの記事をいくつか紹介してきたが、これらを読んでいくと、今までわが国の教科書やマスコミなどで広められてきた現代史の知識はかなり一面的なもので、一番重要なソ連の関与には全く言及していないことに気づくことになる。

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以前このブログで1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容のことを書いたが、再び引用させていただく。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-223.html

帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること

(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること

… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)

このような考え方はレーニンが最初に考えた『敗戦革命論』と呼ばれているものだが、共産主義者は革命を成功させるために進んで軍隊に入隊し、国家を内部から崩壊せしめる力とし、自国政府の敗北を導けという考え方である。
その考え方だけでも恐ろしいのだが、その方法については、レーニンはこう記している。
「『政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である』… 『共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。』…
『党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない
共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到るところに作らねばならない。』」(同上書 p.41-42)

要するに、国家を内部崩壊させて共産革命に導くための手段は問わない。非合法行為もかまわないし、真実を隠蔽しても良いと言っているのだ。
この時代においては、このような恐ろしいレーニンの思想がインテリ層や若い世代を中心に全世界に拡がっていて、わが国もマルクス・エンゲルスやレーニンなどの全集が飛ぶように売れていたのである。

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『軍国主義』『青年将校』というと、私も長い間『極右』をイメージしてきたのだが、上記のコミンテルン第6回大会から4年後の昭和7年(1932)5月15日に青年将校が首相官邸に乱入し、犬養毅首相を殺害する事件が起こった。この五・一五事件の首謀者が書いた檄文を数年前に読んで、私の青年将校に対する認識が一変した。
次のURLにこの時の檄文の全文が出ているが、最後の部分だけ引用させていただく。
http://mid.parfe.jp/kannyo/itinichikai/siryou/H19-5-31-515/top.htm

「… 国民諸君よ!
 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
 横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ
! 
 祖国日本を守れ
 而して
 陛下聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用して朗らかな維新日本を建設せよ
 民衆よ!
 此の建設を念願しつつ先づ○○(不明)だ!
 凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ 盛大なる建設の前には徹底的な破壊を要す
 吾等は日本の現象を哭(こく)して赤手世に魁(さきが)けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの 素より現存する左傾右傾の何れの団体にも属せぬ
 日本の興亡は吾等(国民前衛隊)決行の成否に非ずして吾等の精神を持して続起する国民諸君の実行力如何に懸る
 起て!
 起つて真の日本を建設せよ!
 昭和七年五月十五日    陸海軍青年将校」

右翼が一般の労働者に対して、体制の破壊のために蹶起を促すことはあり得ないことだ。この檄文は、彼ら青年将校の中心人物の中に、マルクスやレーニンの影響を受けていた者が少なからずいたことを物語っている。彼らの多くはレーニンの言う『敗戦革命』を実現させるべく、自国政府を敗北に導くために進んで入隊したのではなかったか

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以前このブログでも書いたが、昭和20年になって昭和天皇が終戦を決意され、いよいよ8月15日に国民に向かって「終戦の詔勅」を放送される直前の8月14日深夜から15日にかけて、天皇陛下が吹き込まれた玉音放送のレコード盤を奪い取って終戦を阻止しようとした陸軍の将校らのメンバーがいた。彼らは近衛第一師団長森赳中将を殺害し、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠したのだ。(宮城事件)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html
そもそもわが国の軍人でありながら、大日本帝国憲法下で最高権力者である天皇陛下のご聖断に従おうとしないメンバーが右翼であるはずがないだろう
彼らの一部は上官の命に従っただけの者もいただろうが、リーダー格には共産主義者が少なからずいて、レーニンの『敗戦革命論』を実践してわが国の体制を徹底的に破壊して共産革命に導こうとしたと考えて初めて腑に落ちるのである。
ソ連は8月9日に対日宣戦布告を行ない、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻を開始したのだが、共産主義者からすれば、ソ連軍が日本列島の主要な部分を占領できないままに戦争を終わらせてしまっては困るのである。だから彼らは宮城を占拠して、玉音放送のレコード盤を奪い取り、戦争を長引かせようとしたのではないのか。

近衛文麿

以前このブログで、日中戦争勃発時から開戦直前まで首相を務めた近衛文麿が終戦の年(昭和20年[1945])の2月に昭和天皇に上奏し、戦争の早期終結を唱えた『近衛上奏文』という文書を紹介した。
この上奏文の中で近衛はわが国の左翼分子が我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

「…翻(ひるがえ)つて国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後から操る左翼分子の暗躍等々に御座候
 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。…

 抑も(そもそも)満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂(いわゆる)右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。…

昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加へつつありと存候。かかる主張をなす者はいわゆる右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。…」

近衛文麿は学生時代から社会主義思想に深く共鳴した人物で、昭和8年(1933)に「昭和研究会」という政治・経済・社会に関する研究会を発足させ、その中心メンバーが後に近衛のブレーンとして彼の内閣を支えることになったのだが、その中にはのちにゾルゲ事件の首謀者として昭和19年に絞首刑となった尾崎秀実や、左翼活動の嫌疑により治安維持法違反で検挙起訴された人物が少なからずいたのである。
そして第一次近衛内閣の時に日中戦争に引き摺り込まれて戦線を拡大し、第二次近衛内閣の時には日独伊三国同盟を締結し日ソ中立条約を結び、第三近衛内閣の時には日米交渉が不調に終わり政権を投げ出した。

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近衛が政権を握っていた時代に実際に起こったことは、このブログでも何度か引用した昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリンの演説内容とぴったりと符合するのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。…」

近衛はソ連が世界の共産化のために工作を続け、軍部や官僚に多くの共産分子がいることに思い至り、この上奏文の中で「彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所」と書いて昭和天皇に謝罪し、このまま勝利の見込みのない戦いを継続することは共産主義者の思うつぼとなるので一日も早くこの戦争を終結させるべきであると述べている。この上奏文の全文は次のURLで読むことが出来る。
原文     http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/konoejousou.html
読み下し   http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm#konoezyousyoubun

スターリンの戦略は、資本主義国同士を戦わせて双方を疲弊させたのちに革命を仕掛けて共産陣営に組み込むことだった。そしてわが国やアメリカの政権の中枢部に、ソ連と繋がる人物が多数送り込まれていたということは、今では多くの史料で確認できるのである。
こういう話をすると、すぐに『陰謀論』と一笑に付して思考停止する専門家が多いのだが、本当に怪しいのは、共産国にとって都合の悪い史実を一切語らず、中韓が捏造した物語を充分な検証もせずに「正しい」と声高に叫び続ける連中の方ではないのか。
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関連記事

尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる

前回および前々回の記事で、1928年以降アメリカだけでなくわが国においても、政府や軍部の中枢部にソ連の影響が大きかったのではないかということを述べてきた。

今回はゾルゲ事件の首謀者の一人として昭和16年10月に逮捕された尾崎秀実が昭和17年(1942)3月か4月頃に獄中で執筆した手記を紹介したい。

尾崎秀実を取り調べた宮下弘氏の著書によると、尾崎は10月15日の早朝に逮捕され、正午から取り調べが始まり、先に逮捕されていた宮城与徳*との関係を追及していったところ夕方にはスパイ行為を認めたと書かれている。そして翌日の16日に近衛文麿が政権を投げ出し18日に内閣を総辞職している。尾崎のスパイ行為による逮捕は、近衛にとっては驚天動地の出来事であったに違いない。
*宮城与徳:米共産党員。10月10日に逮捕され、宮城の自供により尾崎秀実やゾルゲソ連のスパイであることが判明した。

尾崎秀実はわずか数時間の取調べで、ソ連へのスパイ行為を自白した点について、取調べで尾崎にはひどい拷問がなされたと書いている人もいるのだが、宮下弘氏は
「わたしはそういうやりかたは性格的にも反対ですし、いやしくも近衛さんの大事な人なんだから、拷問なんぞやりませんよ。」(宮下弘特高の回想』p.216)
と書いている。ということは、どちらかが嘘を言っていることになる。

ひどい拷問があったと書く人は、「尾崎の回想録は特高に書かされたものなので史料価値が乏しい」と信じたいのだろうが、この回想録を普通に読めば、尾崎しか知りえない事柄がかなり詳しく、具体的に書かれており、しかも長くて論旨が明快であり、すでに判明している史実と矛盾することもない。

そもそも尾崎が逮捕された時にはアメリカ共産党員の宮城与徳が逮捕されていて、宮城の自供により、尾崎が諜報活動をしていたことや、尾崎と宮城が会っていたことはすでに特高が把握していた。
宮下弘氏の著書によると、何度も会っているはずの宮城の名前が尾崎のアドレスブックになかったのだが、その点を巧妙に衝いて尾崎を観念させている。ちょっと面白いので、しばらく宮下氏の著書を引用する。

特高の回想

「…あなたがしばしば会っているはずの人物がいる。しかしその人物の名前は、あなたのアドレスブックにもないし、交友関係その他の供述のなかにも出てこない。これはいったいどういうことですか、いうと、尾崎は黙って下を向いて答えない。

そこで、わたしは机を向いて脅しつけたんです。君の論文や何かで調べているのではない。ソ連あるいはコミンテルンのスパイとして、いま君を調べているんだ。日本が戦争している時に、スパイをやっている人間を容赦するわけにはいかんのです! と。
そうしたら、彼はシューンとして、椅子からくずれるように、ずり落ちましてね、真っ青になった。そうして三十分くらい、黙っていましたよ

それから、スパイ、スパイとそうきめつけないでください。ようやくそう言って、椅子に這いあがってね。私はただスパイをやった人間といわれたのでは浮かばれない。私は政治家です。政治家であることをまず認めてください、と言う
そりゃあ、君の内心はどうであったかは知らないが、取調べるほうは君が政治家だから取調べるのではない。君が治安維持法、国防保安法、あるいは軍機保護法に違反しているという、法のタテマエから調べるのだ。だから君が政治家であるというのは君の主観的な事であって、それはそうおもっておればよろしい。とにかく君は自分が検挙されたほんとうの理由を知っているはずだ。君はどうやら観念したように見えるが、どうだ、話さないか、ということで、ここではじめて宮城与徳の名前を、わたしから出したわけです。宮城とはどういう関係か、と。ブーケリッチという人物もわかっているし、背後にいるドイツ人もつかんでいる、と
ま、こういうことでやったのですが、わりあいに簡単でした。」(同上書p.215-216)

宮下氏の文章には誇張もあるだろうが、尾崎としてはこれだけ周りを固められていたら、観念するしかなかったのではないだろうか。尾崎の取調べは途中で宮下氏から高木警部に代わっているが、初日に観念して自供した人物に対しては拷問などは必要ないのではないか。

冒頭に記したように、尾崎秀実は昭和17年(1942)3月か4月頃に手記を執筆している。
尾崎の手記の内容に入る前に、尾崎がこの手記をどのような心境で書いたかがわかる部分を引用しておこう。まずこの部分を読んで頂いて、この尾崎の手記がひどい拷問によって意に沿わぬものを書かされたものであるかどうかを読者の判断に委ねることにしたい。(原文は旧字・旧仮名遣い)

尾崎秀実と娘

「…私を最も苦しめたことの一つは私が是まで普通の社会人として接してきた仲間の人々に対しその完全な好意と善意を裏切らねばならぬ立場にはじめから立っていたことであります。これは専ら私の仕事の特異性に基づくことで客観的には私が平常接触をもつ人々を利用することによって私の主たる仕事が成立つのであります。…それらを利用しそれらから諜報の材料を得ることはコンミュニスト(共産主義者)としての活動に当然内在する筈ではないかとも云い得るところでありましょう。しかしながら、これらの人々のいずれも完全に私を信頼し友誼を以て遇してくれた人々であります。しかも今や事ここに至ると最も惨酷なる形で彼等を裏切りかつ迷惑をかける結果となったのであります。この点の心苦しさから私はなかなか脱却できないので居ります
肉親に対する愛情も私は元来強い方であります。…私に裏切られて突然不幸を与えられた妻や子供が私に尽くす真情には筆舌に云い難いものがあります。それだけに心苦しく感じるわけであります。私にはなお一人の老父と実兄とがあります。これらの人々の心中などを考えることは耐えられぬところでありますから強いて考えないことにして居ります。 …私自身は早くからこの日のあることは覚悟したことでもあり、人間も元来あきらめの良い方でありましたから、実は割合いに落ち着いて居るのであります。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.234-235)

尾崎はこのように、自分を信頼して重要情報を伝えてくれた人々を裏切りかつ迷惑をかけたに心を痛めたことは述べているものの、ソ連にわが国の重要情報を伝えたことについては詫びている訳ではない。しかし許されないことをやっていたことは分かっており、いつかは逮捕されることを覚悟していたのである。
では、具体的にどのような諜報活動をしていたのか。尾崎はこう述べている。

「吾々のグループの目的任務は…広義にコミンテルンの目指す世界共産革命遂行のため 日本における革命情勢の進展とこれに対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報ならびにこれに関する正確なる意見をモスコー*に諜報することにあり、狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にしてその支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛するため 日本の国内情勢ことに政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道しかつ意見を申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるにあるのでありますしたがってこの目的のためにはあらゆる国家の秘密をも探知しなければならないのでありまして、政治外交等に関する国家の重要な機密を探り出すことは最も重要な任務として課せられているのであります。」(同上書p.214-215)
*モスコー:モスクワ(ソ連の首都)

尾崎が逮捕されたのは日米開戦の2ヶ月前であるが、この手記を書いたのは太平洋戦争が始まって日本軍が陸海軍とも連戦連勝の破竹の勢いであった頃である。

シンガポール陥落

日本軍は2月にはイギリスの東南アジアの最大拠点であるシンガポールを陥落させ、3月にはバタビア沖海戦でも連合国に圧勝。ジャワではオランダ軍を、フィリピンではアメリカ軍を、ビルマのラングーンではイギリス軍を追い出し圧倒的に強かった。
このような時期に尾崎が、この戦争がその後どうなるかについて述べている部分は非常に興味深い部分である。

「…日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によって決するのではなく 枢軸全体として決せられることになるであろうと思います。日本は南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうが その後の持久戦により消耗が軈(やが)て致命的なものになって現われ来るであろうと想像したのであります。しかもかかる場合において 日本社会を破局から救って方向転換乃至体制的再建を行なう力は日本の支配階級には残されていないと確信しているのであります。結局において身を以て苦難にあたった大衆自体が自らの手によって民族国家の再建を企図しなければならないのであります。
ここにおいて私の大雑把な対処方式を述べますと、日本は破局によってその不必要な犠牲を払わされることなく立直るためにも、また英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行ない、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。…」(同上書p.224-225)

このように尾崎は、日本軍が連戦連勝でいた時に日本軍の敗北を予想し、その後はソ連の傘下に入り社会主義国に転換すべきであると述べている。
その一方、日本が英米と戦って敗れたとしても簡単に敗れては好ましくないとも言っている。この点が重要な部分である。

「…私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのでは甚だ好ましくないのであります。(大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見通しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考えました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧さられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を『東亜新秩序』創建の絶対要件であるということをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。…」(同上書 p.228-229)

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以前このブログで書いたが、昭和16年6月に日本の同盟国であったドイツがソ連に侵攻すると、当時の近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする松岡洋右外務大臣と近衛文麿首相との間で閣内対立が起きた。
近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認したのだが、この「南進論」の論陣を張ったのが尾崎秀実らのグループである。
「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉は、「南進論」を進めるために尾崎をはじめとする近衛内閣の「左翼」ブレーンたちが造ったスローガンなのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-223.html

もしこの時にわが国が北進を選択していれば、ソ連は日独に挟撃されて息の根を止めていただろう。それはソ連にとって最悪の選択だ。
ソ連にとって望ましいのは、世界大戦で列強同志を戦わせて消耗させ、将来革命を仕掛けて共産圏を拡大させる条件を整えることである。
そこで、今まで欧米諸国の植民地であった南方諸民族を日本が解放するという崇高なストーリーを描き、日本に欧米諸国と戦わせて欧米勢力を南方諸国から追い出させる。しかし日本は資源不足のためいずれ消耗戦に耐えられずに敗北する。そして南方諸民族は再び西欧諸国の再植民地化を選択しないようにすれば、いよいよ世界を共産主義化するチャンスが生まれると考えていたのではないか。尾崎はこうも書いている。

「…私達は世界大同を目指すものでありまして、国家的対立を解消して世界的共産主義社会の実現を目指しているのであります。従って我々がソ連を尊重するのは以上の如き世界革命実現の現実過程に於いてソ連の占めている地位を意義あるものとしての前進の一里塚として少なくともこの陣地を死守しようと考えているにすぎないのであります。…社会主義は一国だけで完全なものとして成立するものではありません。世界革命を待って始めて完成するのであります。全世界に亘る計画経済が成り立って初めて完全な世界平和が成り立つものと思われます。…」(同上書 p.232-233)

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前回の記事で、スターリンの第7回コミンテルン大会における演説の言葉を紹介した。
「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。…」
ゾルゲや尾崎をはじめとする、世界に散らばったソ連の工作員たちは、列強の国力のバランスをはかりながら、このスターリンの『砕氷船のテーゼ』を忠実に実現させようと動いていたのではなかったか。

実際に第二次世界大戦後に、「大東亜共栄圏」にあった国々が西洋からの独立を果たしている。それは我が国が白人勢力を一時的にせよ追い払わなければ実現しなかったことは事実ではあるのだが、一部の歴史家が言うように第二次世界大戦の真の勝利者は南方の西洋植民地解放を実現したわが国であるかのような考え方は、この時代の本質を衝いているとは思えない。
わが国に南方諸民族を解放させることによって我が国の国力を消耗させ、わが国の敗戦の後でそれらの国を共産化させ、あわよくばわが国も共産化させるというスターリンの謀略に、わが国がまんまとかかってしまったというのが真相ではなかったか。
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『ポツダム宣言』の各条項が決まるまでの経緯と公表後の日本の反応~~ポツダム宣言2

前回の記事で、『ポツダム宣言』がわが国に対し戦争を終結させるための条件を提示した文書である事を書いた。 実はこの『ポツダム宣言』が公表される前に、連合国側がわが国に提示しようとしていた天皇制維持に関する重要な部分が削除されたことを最近知った。
しばらく鳥居民氏の解説を引用する。

鳥居民

ポツダム宣言は公表に先立ち、削除した箇所があることはだれもが承知している。全13節あるうちの第12節の後半の部分が取り除かれた。つぎのくだりである。
ソノ政府が侵略ノ野心ヲ二度ト抱カナイコトヲ世界ニ完全ニ納得サセルニイタッタ場合ニハ、現在ノ天皇家ノモトデ立憲君主制ヲ維持スルコトガデキルモノトスル
 これをつくったのは国務長官代行のジョゼフ・グルーと言われているが、ヘンリー・スティムソン陸軍長官の部下が作成したのであり、スティムソンの案だった。グルーの考えそのものだったから、グルーは『われわれの案』だと言い、ジェームズ・フォレスタル海軍長官もその第12節後半の文章に賛成した。
 陸軍省がつくり、国務省と海軍省の首脳が支持した対日宣言案がそのまま公表となれば、鈴木貫太郎首相から阿南惟幾陸相まで、だれひとり反対せず、その宣言を受け入れ、原爆投下前に日本は降伏することになる
ところでハリー・トルーマン大統領の唯一の相談相手になっていたジェームズ・バーンズは、ソ連を脅かそうとして、どうあっても日本の都市に原爆を落とすつもりでいた。自分に代わって、第12節の後半を削ってくれる人物を探した。ポツダムへ向う前日、かれは元国務長官のコーデル・ハルにその宣言案を送り、第12節の是非を問うた。…ルーズベルトに疎んじられていたハルは、原爆の製造を知らなかった。もちろん、投下の計画を知るはずはなく、アメリカが直面する国際情勢にも無知だった。第12節後半を削除し、ソ連の対日参戦を待つべきだと元国務長官は新国務長官バーンズに打電した
バーンズは自分の手を汚すことなく、原爆投下のお膳立てをつくったのである。」(文春文庫『日本よ、「歴史力」を磨け』p.232-233)

200px-James_Francis_Byrnes,_at_his_desk,_1943

少し補足すると、ジェームズ・バーンズは1945年7月3日に米国国務長官に就任した人物で対日強硬派であった。そして着任早々の7月6日に国務省はスティムソン案のさらなる改定を要求し、7月7日の幹部会で紛糾したのちに、バーンズが元国務長官のコーデル・ハルに相談したようである。
では、元国務長官のハルがバーンズに対し、第12節後半を削除しソ連の対日参戦を待つべきだと打電した意図は何だったのか。
もし日本に立憲君主制の継続を容認するような和平勧告を出せば日本は受諾して戦争が終わってしまう可能性が高かった。それでは都合が悪いとバーンズが考えたのでハルに相談したのだろうが、ハルの回答に少なからず違和感を覚えるのは私だけだろうか。なぜハルは、原爆開発の情報を入手したにもかかわらず「ソ連の対日参戦を待つべきだ」と答えたのか

1945年2月のヤルタ会談で、ソ連はドイツ降伏後3ヶ月での対日参戦を約束していた。そしてドイツは5月8日に降伏した。したがって、ソ連は8月上旬には参戦するものと考えられていたが、その具体的日程についてはソ連からはまだ回答がなかった
一方アメリカは、7月上旬には原子爆弾をほぼ完成させており、実験に成功すれば太平洋戦争にアメリカが単独で勝利できる可能性が一気に高まることは言うまでもない。もし原爆実験が成功した後にソ連を参戦させてしまうと、ソ連を戦勝国の仲間に入れるということであり、アメリカはほとんど血を流さなかったソ連にも勝利の配当を分け与えなければならないことになってしまう。
アメリカが原爆開発を急いだ理由や、広島・長崎に相次いで原爆を落とした理由は、ソ連に漁夫の利を得させないという米国の強い意志の表れではないのか


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ところでコーデル・ハルといえば、彼が国務長官であった1941年11月に日米交渉において「ハル・ノート」を提示し、それが日本側の外交交渉断念を招いて開戦のきっかけを作ったことで知られている人物だ。そして、「ハル・ノート」を起草したのは、財務次官であったハリー・ホワイトで、この人物がコミンテルンのスパイであったことが、戦後に解読されたソ連の暗号文書(「ヴェノナ文書」)で判明している
ルーズベルト、トルーマン政権下のアメリカの国務省には多数の共産主義者が勤務していたことも「ヴェノナ文書」で明らかになっているが、バーンズ国務長官がハルに相談した内容の多くはソ連に筒抜けだったのではないか。当時、原爆がほとんど完成していたという情報はアメリカにとっては重要機密であったはずなのだが、このような情報がポツダム会談の直前に、ハルに近い人物を通じてソ連に流れた可能性を感じている。

ポツダム会談

というのは、7月17日からドイツベルリン郊外のポツダムで米英ソ3か国の首脳が集まってポツダム会談の、会議の始まる直前にスターリントルーマンに8月15日頃の対日参戦の意を伝えているからだ
トルーマンはこれで日本に勝利できると喜んだそうが、その翌日に原爆実験 (トリニティ実験) 成功の知らせを受け、それ以降のトルーマンは会議で豹変したという

ポツダム会談について詳述されている山下祐志氏の論文の一部を紹介したい。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980158.pdf?id=ART0001156844&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1386988410&cp=

トルーマン,_1945

「…『原爆実験成功』の報告を受けたトルーマン大統領は、瞬時にして完全に連合国の支配者になったチャーチル首相の見たトルーマン大統領は『別人のようになり』、『ロシア人に対し、かれらが、どこで乗り、どこで降りるかを指示するように話だしたし、全体として会議そのものを支配した』という。なぜならば、ポツダムにおいて、『つねに自己の利益ばかりを強引に計る冷酷な駆け引き人』という印象をスターリン首相に対して抱いた大統領は、『ロシアを日本管理にいささかも加わらせまいと決意した』からである。さて、かかる決意を固めた米首脳部にとって、残された課題は、日本の早期降伏(できればソ連参戦以前に)を誘導することであり、手段として原爆使用と対日声明発出のタイミングが論議の対象となった。
 スティムソン陸軍長官は、日本の和平の動き(対ソ工作)を見て、先ずこの会談で直に対日声明を発することを決意した。日本がソ連の懐に飛び込むことを嫌ったからである
。そして、それでも日本が受諾しない場合には、『新兵器』の行使と『ロシア実際の参戦』を背景に、いっそう強力な警告を再度発することを提言した。一方、バーンズ国務長官は、原爆の威力を誇示した上で対ソ外交を展開しようと考えており、声明の発出を時期尚早としてこれに反対した。そこでトルーマン大統領は、JCS(統合参謀本部)の意見を求めた。リーヒJCS議長は18日、対日声明の即時発出に賛意を表しつつ、ただ『立憲君主制』のくだりは、抽象的に『日本国民は自らの政治形態を選択する自由をあたえられる』と改めることをもとめ、この点で先の国務長官の見解を支持した。陸軍長官は20日、この修正に同意するとのメモを大統領に送るが、同時に、7月2日付草案第2項の『日本の無条件降伏まで』を、『日本が抵抗をやめるまで』と改めることを申し出た。これにより、国家の無条件降伏を示す箇所は消え、13項の「全軍隊」のそれのみが文面にのこることになった。」(『アジア太平洋戦争と戦後教育改革(11)――ポツダム宣言の発出』p.16)

それから7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。
かくしてポツダム宣言』は、ソ連側に何の口を差し挟むことが出来ないうちに、7月26日、突如として全世界に向けて発信されたのである。

ところでトルーマンの7月25日付の日記には「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と書かれているそうだ。トルーマンの頭の中では、天皇制に関する条項を削除したことにより、日本はこの『ポツダム宣言』に反応せず、それによって原爆を落とすことが出来ると考えていたことになる

次に『ポツダム宣言』に対するわが国の反応を見てみよう。

ポツダム宣言記事

これについてはWikipediaに詳細に書かれているが、この宣言の発表を受けてわが国政府は、その内容について公式報道はしても内容についての公式な言及をしないということが閣議決定され、7月27日に宣言の存在を公表した。翌日の新聞報道では読売新聞では「笑止、対日降伏条件」という見出しだが、このように主要各紙はこの宣言を黙殺して断固戦争完遂に邁進するのみといった論調だったようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80

しかしながら政府がこの宣言に対し何も言及しないのでは兵士の士気にかかわるとの軍部の圧力に押され、7月28日に鈴木首相は新聞記者団との会見において、閣議決定を無視して「政府としては何ら重大な価値あるとは考えない、ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまでも邁進するのみである」と答えてしまう。この発言が連合国においては日本側の拒絶回答と解釈されて、原爆投下やソ連参戦の口実を与えてしまうことになるのだ

ではなぜわが国は、『ポツダム宣言』に対して公式な言及をしないことを閣議決定したのだろうか。
この理由は、この期に及んでもわが国政府は、ソ連に和平の仲介を期待しその回答を待っていたからだというのだ。

ポツダム会談が開かれる少し前の6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を行うよう政府首脳に要請し、7月12日に近衛文麿が正式に特使に任命され、外務省から特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連に申し入れていたのだが、ソ連はヤルタ会談でドイツ降伏後3か月以内の対日参戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかったようだ。
そもそも、米英ソ3国の首脳が集まって、ポツダム会談であのような宣言が出た段階でもソ連の回答に期待するというのは信じがたい話で、わが国の外交センスのなさと情報収集力の弱さは昔も今も変わらない。

もしわが国が早期に『ポツダム宣言』受諾を決意していれば、戦後の歴史は相当違ったものになっていたはずなのだが、原爆が投下されてからも、マスコミの動きも軍部の動きもどこかおかしいのだ。
山下祐志氏の別の論文で、『ポツダム宣言』を受諾するまでのわが国の動きが詳述されている。しばらく引用させていただく。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980223.pdf?id=ART0001156933&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1387097098&cp=

「ポツダム宣言発表以来、これといった策を打ち出せないまま、一途にソ連の回答を鶴首していたところ、8月6日午前8時過ぎ広島に原子爆弾が投下された。7日朝、米側ラジオはトルーマン大統領の声明として、『6日広島に投下した原子爆弾は戦争に革命的な変化を与えるものだ。日本が降伏しない限り、さらに他の場所にも投下する』と伝えてきた。しかし、わが国軍部は原爆の開発は技術的にまだ不可能と信じていたこともあり、敵の謀略宣伝かも知れぬと主張して発表を禁じた。原爆であることが確認された(8日夕刻)後にも、軍部は国民の反応を恐れ、事実を覆い隠そうと画策した。すなわち、公的に『原子爆弾』との発表は終戦までなく『新型の特殊爆弾』と銘打ったまま、トルーマン声明に『迷ふことなく各自はそれぞれの強い敵気心をもつて防空対策を強化せねばならぬ』とか『新型爆弾決して怖るに足らず』と逆宣伝に躍起となった

昭和天皇

 国民に事実を隠蔽したまま、いち早く8日午前、東郷外相は宮中地下室で天皇に原爆についての外国報道の詳細と『ポツダム宣言』を受諾するほかないとの判断を上奏した。天皇は『この種武器が使用せらるる以上戦争継続は愈々不可能となれるにより、有利なる条件を得んがために、戦争終結の時期を逸するは不可なり』、『成るべく速かに戦争の終末を見るよう努力せよ』と沙汰を下した。…
 同日午後5時、モスクワの佐藤大使は、ポツダムから帰ったモロトフ外相とようやく会見を許された。モロトフ外相は、和平依頼の返答を求めに赴いた佐藤大使の発言を制して、わが国がポツダム宣言を拒否したために、ソ連政府は連合国の要請を受けて『明日即ち8月9日よりソヴエート連邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する』と対日宣戦の布告文を読み上げた。原爆投下に対して、ソ連政府はわが国よりも機敏に対応し、予定よりも6日早い参戦であった。佐藤大使はただちに本省宛至急電を打ったが、それはソ連政府に妨害されて届かなかった。数時間後、ソ連極東軍は国境を越えて満州に侵入し、関東軍に襲い掛かった。ここに、ソ連に託した和平工作の一縷の希望は、ものの見事に吹き飛んだ。」(アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾 p.4)

では、ソ連が参戦してわが国は『ポツダム宣言』の受諾の意思をすぐに固めたかというと、そうでもなかったのである。アメリカと同様にわが国の中枢にも、ソ連に対日参戦させて日本の領土を奪わせようとした人物が少なからずいたと思われるのだ。

受諾に至るまでの経緯は、次回に記すことにする。

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政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5

前々回の記事で、昭和3年(1928)5月24日付のプラウダ (ソ連共産党機関紙)に、日本の陸海軍の軍人に対し「諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」と書いていることを紹介した。このような記事がプラウダに掲載されていたということは、昭和初期には日本軍人の中に、ソ連の共産主義に共鳴するメンバーが少なからずいたと考えるべきである。

さすがに昭和初期には軍の幹部にそのような人物は少なかったかもしれないが、終戦の頃には共産主義者が日本軍の枢要な地位を獲得していたようなのだ。

日本が共産主義に降伏

以前このブログで紹介したが、昨年8月11日の産経新聞に「昭和20年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった」という記事が出た。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html

この記事は、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受し、英国に最高機密情報として伝えたという内容なのだが、産経新聞はこの記事の中で、こう解説している。
松谷大佐

「(鈴木貫太郎の)首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、(昭和20年)4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』」では「『戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる』として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしている。」
という話や、
「同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書かれている
。」

記事に出てくる松谷誠・陸軍大佐は、解説記事を読むだけで共産主義者であることが分かる。種村佐孝・陸軍大佐については後述するので、ここではこの人物は戦後に日本共産党に入党した人物であることだけを補足しておこう。

この記事に出てくる最高機密の電報がベルンから重慶に打たれた日付は1945年6月22日なのだが、この日にわが国でどのような出来事があったのか気になるところである。
この点についてはこの記事を書いた産経新聞編集委員の岡部伸氏が、『正論』平成25年10月号の「日本を赤化寸前まで追い込んだ『敗戦革命』工作」という論文に詳しく書かれている。次のURLに全文がある。
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/NihonWoSekikaSunzenmadeOikondaHaisenKakumei.html

正論2013年10月

「この電報がベルンから重慶に打たれた日付に注目していただきたい。1945年6月22日、東京では最高戦争指導者会議が開催され、鈴木貫太郎首相が4月から検討して来たソ連仲介和平案を国策として正式に決め、近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣する計画が具体化した。奇妙にもソ連仲介案が正式決定したその日に、ベルンから『共産主義者たちに降伏した日本がソ連に助けを求めている』と報告しているのである。スイス・ベルンは日本から夏時間で7時間遅れの時差があることを差し引いても、国策が決まった直後に打電されていることには、アメリカの素早い情報のキャッチとともに驚くしかない。しかも中国は以前から『迷走』する日本の動きを正確に捉えていたのである。」

このように、わが国の最高戦争指導者会議における重要決定事項がその直後に中国に把握され、そのことを伝えた機密電文がアメリカに傍受され、英国にも伝えられているのである。わが国の機密が奪われていたのはゾルゲグループばかりではなかったのだ。当時のわが国は主要国に対してほとんど丸裸の状態になっていたと言って良い。

しかし、なぜソ連仲介和平案を国策として正式に決定したその日に、わが国の政権中枢が「共産主義に降伏している」と中国陸軍の武官が重慶に打電したのだろうか。そもそも、この機密電文の内容は信頼に値するものなのかとまず疑問に思うところだ。

大戦時に政府中枢の主導権を握っていたのは陸軍の統制派だと言われているが、岡部論文を読み進むとそのことを匂わせる文書が、英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAの中にあり、その内容の紹介とともに解説がなされている。しばらく岡部論文を引用する。

「…ヤルタ会談が終わった直後の45年2月14日にベルリン駐在ポーランド外交官が、ベルンの日本外交官談話として、ロンドンの亡命ポーランド政府に送った電報である。
『日本はドイツ敗戦後中立国との外交が一層重要になる。ソ連との関係がカードとして身を護る保険として重要になる。日本とソ連は結合してアングロサクソンに対抗、アジアの影響力と利害を分け合う関係に変わるかもしれない。日本の軍部では、いまだに、東京-ベルリン-モスクワで連携して解決する幻想を抱いている。ここでベルリンとは、共産党政府もしくはソ連に共感を抱く政府のことである
 軍部が、なお日独ソの連携に幻想を抱き、共産主義に共感を抱いているというのだ。アングロサクソンに対抗するためソ連と結合してアジアの利権を分け合うというのは実現性に乏しい白日夢だろう。ソ連はヤルタで対日参戦の密約を交わしている。ポーランド外交官が日本公使館員から聞いた情報として伝えているので、日本の外務当局が『軍部は共産主義に共感を抱き、ソ連に幻想を抱いている』と理解していたとも考えられる。中国の電報が指摘した日本政府の指導層とは、軍部とりわけ陸軍統制派であったに違いない。
 ここまで来れば合点が行くことだろう。日本は早くからソ連が中立条約を破って参戦してくることを察知していた。1945年2月、クリミア半島ヤルタでソ連が対日参戦を正式に決めた密約を会談直後にストックホルムから陸軍武官、小野寺信少将が参謀本部に打電していた。さらに同3月に大島浩駐ドイツ大使が『ロシアが適当な時期に参戦する』と外務省に打電。5月以降は、ベルン海軍武官やリスボン陸軍武官らもソ連参戦を機密電報で報告している。6月22日の最高戦争指導会議でソ連仲介和平を決定する時点で、陸軍、海軍、外務省ともソ連参戦情報は掴んでいたのだ。にもかかわらずソ連が『最後は助けてくれる』『交渉で参戦阻止できる』と希望的観測を抱き、ソ連に擦り寄り、和平交渉を委ねたのである。この様な非論理的行動も、政府中枢にコミンテルンが浸透し、水面下でソ連と気脈を通じる人物がいたのなら理解出来よう。愚策ではなく、共産主義国家建設に向けた『敗戦革命』工作だったと解釈すれば筋が通るのだ。」

東郷茂徳

上記岡部論文のなかで、この年の4月に鈴木貫太郎内閣が成立しソ連に和平仲介を依頼するために、参謀本部が東郷外相を訪ねたことが記されている。その後に参謀本部が提出した、ソ連に仲介を依頼するに際して提出された意見書は、冒頭に紹介した産経新聞の記事に出てきた種村佐孝大佐が作成したものであったが、その内容は『ソ連の言いなりに従え』という、とんでもないものであった。再び岡野論文を引用する。

「陸軍は本土決戦準備と沖縄戦で奔走する中、22日午後、参謀本部の新任次長、河辺虎四郎中将は、有末精三第二部長を伴って外相官邸に新任の東郷外相を訪問、対ソ仲介による和平工作を持ちかけ、渋る東郷を河辺は説得した
『特使は大物中の大物・・・出来れば外相ご自身か近衛公・・・。大物が直接スターリンに会って、欲するものを欲するままに与えるという条件ならば動きます。一世一代の大工作に賛成して頂けませんか。ソ連への引き出物は書類にしてお目にかけます
しばらくして参謀本部から、東郷外相に4月29日作成の『今後の対『ソ』施策に対する意見』と『対ソ外交交渉要綱』がもたらされた。作成したのは参謀本部第二十班(戦争指導班)班長、種村佐孝大佐だった。対ソ和平の意見書は、『ソ連と結ぶことによって中国本土から米英を駆逐して大戦を終結させるべきだ』という主張に貫かれていた。全面的に対ソ依存して、日ソ中(延安の共産党政府)が連合せよというのである
対米戦争継続には『日ソ戦争を絶対に回避すべき』で、そのために、『ソ連側に確約せしむ条件は日「ソ」同盟なり』と主張、日本の対ソ交渉は『ソ連側の言い分を持ってこれに応ずるという態度』(ソ連の言いなりに従え)、ソ連が寝返ってソ連の干渉(仲介もしくは恫喝)で戦争終結が余儀なくされる場合には、『否応なしに仲介もしくは恫喝に従わざるをえない』と唱えた。ソ連に与える条件は、『ソ連の言いなり放題になって眼をつぶる』前提で、『満州や遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対英米戦争を完遂せよ』としている
ソ連と日本列島との間にある北側の領土と日本の南側の台湾、沖縄までソ連に差し出せば、日本はソ連に包囲され、東欧が辿ったように共産政権によるソ連の衛星国になっただろう。沖縄まで献上するというのは、ヤルタ密約にさえない。
さらに『対ソ外交交渉要綱』は、『対米英戦争を完遂のため、ソ連と中国共産党に、すべてを引き渡せ』と述べている。米英の『世界侵略』の野望に対して、日・ソ・支三国が『善隣友好相互提携不侵略の原則の下に結合し、以て相互の繁栄を図る』ため、ソ連との交渉役として外相あるいは特使を派遣し、『乾坤一擲』を下せと進言している。支那との交渉相手は延安(共産党)政権として、同政権の拡大強化を計り、希望する地域から日本軍を撤退させ、必要ならば国民政府を解消せよとも主張。ソ連には、北支鉄道も満鉄も漁業条約も捨て、満州国も遼東半島も南樺太も割譲し南方占領地域の権益を譲渡せよと訴えていた。」

このような史料が教科書などに引用されていたら、終戦の少し前には参謀本部が共産主義者に主導権を握られていたことが誰でもわかる。
しかし、このような史実がもし国民に広く知られていてら、「日本だけが悪かった」という偏頗な歴史観が通用しなくなってしまうに決まっている。そうなっては困る勢力が国内外にいるからこそ、公教育やマスコミに圧力をかけて今も『自虐史観』を垂れ流し、日本人をいつまでも洗脳し続けようとするのだろう。

ソ連が参戦することが分かっていながら、『ポツダム宣言』が出た後もソ連の和平工作の回答を待ち続けようとしたわが国の不可解な動きは、ソ連軍にわが国土を存分に占領させるところまで戦争を終わらせたくなかった共産主義者たちが、この時期にわが国の主導権を握っていたことを知ってはじめて腑に落ちる話なのだ。

こういうことを書くと、「共産主義者が判明していると言っても、たった数名で主導権が握れるはずがない」などと考える人もいるだろう。
しかし、わが国の政治や外交に影響を与えるような参謀本部の重要なポストにこの様な人物が就いていたことは、その背後には相当数の共産主義者がいたと考えるのが自然だと思う。ほかにもソ連に忠誠を尽くそうとした幹部メンバーの固有名詞がわかっているのでついでに挙げておこう。

昭和29年(1954)に在日ソ連大使館の二等書記官という肩書を持つラストヴォロフKGB中佐が東京から米国に亡命した事件があった。(ラストヴォロフ事件)
彼はソ連の工作員で日本の共産化のための工作を行なっていたのだが、亡命先のアメリカで、36人の日本人エージェントを有していたと証言したことがマスコミに報じられ、エージェントのうち元関東軍第三方面軍情報参謀・志位正二少佐と元参謀本部作戦課参謀・朝枝繁春中佐が警視庁に自首したという。志位正二少佐という人物は現在の日本共産党委員長・志位和夫の叔父だという。

ラストヴォロフは米国で、モンゴルのウランバートルにあった「第七〇〇六俘虜収容所」という偽装看板の特殊学校で、11名の厳格にチェックされた共産主義者の日本軍人を、共産革命のための工作員として養成したという証言もしているようだ
その11名のうち氏名が判明しているのは、志位、朝枝のほかには、帰国後総合商社伊藤忠商事の会長や中曽根康弘総理のブレーンを務めた瀬島龍三、先ほどの対ソ和平仲介工作で名前の出てきた種村佐孝がいる。種村は帰国後、日本共産党員となっている

読売報知S200315

『一億玉砕』と本土決戦を国民に呼びかけたことも種村や松谷が作成した「終戦構想」にあるようなのだが、こういう史実を追っていくと、われわれには重要な真実が戦後の長きにわたって封印されてきたことを知らざるを得ない。真の戦争犯罪人はソ連のスターリンではなかったか。

岸信介

第56-57代の内閣総理大臣を務めた岸信介は、三田村武夫氏の著書『大東亜戦争とスターリンの謀略』の序文でこう記している。

近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うならば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる
私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから、まことに茶番というほかない

スターリン

何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼・左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当然、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制(筆者註:昭和25年)と酷似している。ここに先述の疑問を解く鍵があるように思われる
…日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、間断なく続いていることを知らねばならない。…」(『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.319-320)

わが国が国益を考えて何か新しい動きをしようとすると、必ずマスコミが「軍国主義の足音が聞こえる」などと言うフレーズを繰り返し国民を思考停止に陥れてきたのだが、史実に照らして日本人が真に警戒すべきものは、「軍国主義の足音」ではなく「共産主義の足音」であると言いかえるべきなのではないのだろうか

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関連記事

帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9

前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、昭和天皇による『御聖断』のあとに、陸軍の異常な動きが際立っていることが理解して頂けたと思う。
彼等の動きを見ていると、陸軍の中枢にはわが国の敗戦を機に、陸軍主導で共産主義革命を起こそうとしたメンバーがかなりいたと考えざるを得ないのだ。

張作霖爆殺事件

一番わかりやすいのは、関東軍だろう。
以前このブログで、関東軍が独断で実行したことになっている昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪の責任があると記されていることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

通説では関東軍はこの事件を自らの判断で実行したと描かれているのだが、ソ連の工作に協力したというのがどうやら真相のようである。
柳条湖事件も、最近の研究では日本軍主犯説を否定する議論があるようだが、いずれにせよ関東軍は中国大陸で暴走してわが国を戦争へと巻き込んだ可能性が高いのである。

ところが、太平洋戦争末期にソ連が対日参戦した直後に、前回の記事で書いた通り、好戦的であるはずの関東軍の秦彦三郎総参謀長が、「ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請」したというのである。

ここで、このブログで以前紹介した、1935年(昭和10)に開かれた第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を思い出してほしい。
スターリン

ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

スターリンは、日中を戦わせて長期戦で消耗させ、日本の敗戦が確実なタイミングで参戦して共産陣営に取り込む戦略であったのだ。関東軍のとった行動は、わが国を中国との戦争に巻き込み、最後に満州をソ連に献上したのだから、スターリンの戦略と見事なまでに一致しているのだ
ソ連が対日参戦した際にワシレフスキー元帥には満州、北朝鮮、南樺太、千島全島、北海道の半分まで占領する任務が与えられていたそうだが、北海道まで兵を進めることが出来なかったのは、第五方面軍司令部の樋口季一郎中将が、ソ連軍奇襲の報告を受けて、自衛のための戦いを決断し、千島列島の最北にある占守島でソ連軍の進軍を阻んだことが大きい。
樋口季一朗

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

ところが、関東軍参謀長の秦彦三郎中将は、ワシレフスキー元帥からの要請により、第五方面司令部に武装解除を命じて、千島や樺太におけるわが国の自衛の戦いを終息させてしまっている。停戦命令が出ていても、邦人に対する攻撃がある限り法人の生命と財産を護るために軍隊が戦う事は国際法で認められているにもかかわらずである。
そのためにソ連軍による邦人の無差別殺戮が8月28日頃まで続き、多くの兵士がシベリアに送られたのだ。この史実をどう読めばよいのか。

私も長い間『軍国主義』が怖ろしいものだとイメージしていたのだが、よくよく考えると軍隊と言う組織は、国民の生命と財産を護る存在である限りは怖ろしいものではありえない。ところが、その組織の中に、わが国以外の国の為に動こうとしたり、革命を夢見て権力を掌握しようとするメンバーが存在し、その目的のために組織的に武力を用いる意思があれば、どこの国にとっても怖ろしい存在となりうるものなのだ。そしてわが国の場合においては、本当に怖かったのは正確に言えば「ソ連に忠誠を誓い、わが国を戦争に巻き込み、最後に共産主義革命を起こそうとした軍隊」なのではなかったか

いつの時代もどこの国でも、自国と敵対する国の工作員にとっての重要な工作対象は、政治家やマスコミも重要だろうが、一番重要なターゲットはその国の軍隊だと思うのだ。なぜなら、その工作が成功すれば、さしたる武力を使わずとも相手国を倒すことが容易になるからだ

以前このブログでも書いたが、1928年(昭和3)のコミンテルン第6回大会に採択された決議内容には「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」と書かれていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html
わが国は、帝国陸海軍がコミンテルンの工作対象になっていることに対し、あまりにも危機感が乏しく、リスク管理が甘かったと言わざるを得ないのだ

話を元に戻そう。
いろいろ調べていくと、張作霖爆殺事件について事件にかかわったメンバーは処分されていない。同様に『玉音放送』を阻止しようとし、多くの人命が失われた『宮城事件』についても誰も処分されず、クーデターに加わったことが明らかなメンバーも、戦後をのうのうとして生きたのである。彼等の多くは防衛庁や自衛隊に入っているが、戦後しばらくは再び共産主義革命のチャンスをうかがっていたのではないか。
思想安全地帯に赤化分子

前回の記事で、昭和7年の2月に陸軍士官学校に赤化運動が起こり4名が放校処分されたという新聞記事を紹介したが、この記事の出た前後の卒業生に『宮城クーデター』を実行した中心メンバーや、ソ連とつながりがある人物が少なくないことが分かる。ソ連の特殊工作員となったということは、ガチガチの共産主義者でなければありえないはずだ。
私の記事で名前の出てきた共産主義者と宮城クーデターに参加した人物を、卒業年次順に並べてみると次のようになる。
陸軍士官学校

【33期】大正10年(1921)7月卒業
水谷一生大佐(近衛師団参謀長:宮城事件で竹下中佐に協力を約していたが、東部軍司令部に説得される)
【35期】大正12年(1923)7月卒業
荒尾興功大佐(軍務局軍事課課長:宮城事件首謀者の1人。戦後は復員庁に勤務)
【39期】昭和2年(1927)7月卒業
不破博大佐(高級参謀: 宮城事件に参加を約していた。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
【42期】昭和5年7月卒業
稲葉正夫中佐(宮城事件計画立案者。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
竹下正彦中佐(宮城事件首謀者の1人。阿南陸相の義弟。戦後、陸上自衛隊東部方面総監)
【44期】昭和7年(1932)7月卒業
瀬島龍三中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。後に伊藤忠会長)
【45期】昭和8年(1933)7月卒業
朝枝繁春中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後商社勤務)
井田正孝中佐(宮城事件首謀者の1人。戦後は在日米軍司令部戦史課に勤務後電通に入社)
椎崎二郎中佐(宮城事件に参加。昭和20年8月15日自決)
【46期】昭和9年(1934)7月卒業
畑中健二少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与。昭和20年8月15日自決)
【47期】昭和10年(1935)6月卒業
石原貞吉少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加を約していた。)
【50期】昭和12年(1937)12月卒業
窪田兼三少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)
【52期】昭和14年(1939)9月卒業
古賀秀正少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加。昭和20年8月15日自決。東条英機の女婿)
志位正二少佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後外務省、海外石油開発株式会社勤務。日本共産党委員長志位和夫の伯父)
【54期】昭和15年(1940)9月卒業
北畠暢男大尉(近歩二第一大隊長:古賀少佐の依頼により宮城事件で兵力投入)
佐藤好弘大尉(近歩二第三大隊長:宮城事件でNHK会長ら18人を拉致)
【55期】昭和16年(1941)7月卒業
上原重太郎大尉(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)

『宮城クーデター』に関与した将校クラスのメンバーはまだまだあるが、興味のある方は別宮暖朗氏の『終戦クーデター』のp.4~7にリストが出ているので参考にしていただきたい。
阿南惟幾大将は陸軍士官学校18期(明治38年[1905]卒業)であるが、このような過激なメンバーを将校クラスに多数抱えた陸軍大臣であったわけである。

阿南陸相は『ポツダム宣言』を受諾するかどうかで、会議では最後の最後まで徹底抗戦を主張していたのだが、これは陸相の『腹芸』で、本心は別のところにあったという説がある。

その説を一笑に付す論者が多いのだが、終戦を決めた鈴木貫太郎内閣当時の内閣書記官長であった迫水久常氏の『終戦の真相』と言う論文を読んで、私も『腹芸』の可能性を感じるようになった。迫水論文の重要な部分を引用する。
迫水久常

当時の陸軍の状況から申しますと、若し(もし)阿南さんが終戦に賛成されたら、必ず部下に殺されていたと思います。若し阿南さんが殺されたら内閣としては、陸軍大臣を補充しなければなりません。当時の陸軍大臣は陸軍の現役大・中将ということになって居りましたので、その補充について軍が承諾しない限り出来ないのであります。若し陸軍大臣を補充できなければ、鈴木内閣は総辞職する外(ほか)ありません。あの場合、鈴木内閣が総辞職したらどうなりますか。終戦は出来なかったでしょう。阿南さんはこのことを知って命を保って、鈴木内閣をして終戦を実現さるために、あの腹芸をなされたのです。若し心から終戦反対なら辞職されて了(しま)えばやはり鈴木内閣はつぶれて終戦は出来なかったでしょう。」(正論臨時増刊号 終戦60周年記念『昭和天皇と激動の時代』p.90)

少し補足しておこう。
当時には、軍部大臣(陸軍、海軍)の補任資格を現役武官の大将・中将に限っていた『軍部大臣現役武官制』という制度があり、そのために内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な倒閣を行うことが可能であったのだ。
過去、陸軍が組閣に協力しなかったために内閣が総辞職した事例として、第37代の米内内閣が有名だ。米内光政首相は日独伊三国同盟反対論者であったために陸軍から不評を買い、陸軍は畑俊六陸相を単独辞職させたのち、後任の陸相を推薦しなかった。そのために、米内内閣はわずか半年で総辞職に追い込まれている。(昭和15年[1940])
他にも昭和12年(1937)に広田内閣の寺内陸相が衆議院解散を要求し、広田首相が内閣総辞職を行ない、後任として組閣大命を受けた宇垣一成に対して、陸軍が陸軍大臣の候補者を出さなかったために組閣ができなかった事例がある。
阿南陸相

迫水氏が指摘している通り、阿南陸相がもし本気で徹底抗戦を考えていたのなら、自ら辞表を出せば簡単に鈴木内閣を総辞職に追い込むことが出来たのである。ではなぜ、阿南は辞任しなかったのか
実際に阿南陸相は、14日正午過ぎに首相官邸閣議室において、クーデターを起こした義弟の竹下正彦中佐らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められたが、阿南はこれを退けたことがWikipediaにも書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
機関銃下の首相官邸

迫水氏は別の著書でこう述べている。
「…終戦の際、陸軍はクーデターの準備をして、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから自分にまかせよといわれたという。当時の状勢において、私たちの最も恐れたものは、陸軍の暴発であった。阿南大将は、戦争を終結し、一身を無にして、国民のみならず世界の人々を救おうとせられる天皇陛下のみ心を体し、終戦を実現せんと心に誓っておられたに違いない。かかるが故に軍の暴発を最も恐れ、これを抑止するに心肝をくだかれて、苦肉の策として、クーデターの指揮を自ら引受け、一面、大詔の公布まで内閣の閣僚たる地位を保持するため中途で殺されるが如きことなきよう苦心されたものと私は考える。『一死ヲ以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル*』とは心にもなき抗戦論を唱えて、天皇陛下のみ心を悩ましたてまつった罪を謝するとともに純真一途国体護持の精神によって手段を選ばず、抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、だましてひきずって遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心持ではなかっただろうか。阿南大将のみずからの生命を断つことによる導きによって軍の暴発は抑止せられて、日本の国家は残ったのである。…」(ちくま学芸文庫『機関銃下の首相官邸』p.334-335)
*阿南陸相の遺書

迫水氏によると、14日に阿南陸相は終戦の詔書の署名したのち鈴木貫太郎首相を訪れて、涙を浮かべながら首相にこう謝罪したという。
「終戦についての議がおこりまして以来、私はいろいろと申し上げましたが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。ここにつつしんでお詫び申し上げます。私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものではございません。この点どうぞご了解くださいますように。」
鈴木首相はうなづきながら、阿南陸相に歩み寄られて「そのことはよく判っております。しかし、阿南さん皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご自身で熱心におつとめになっておられますから。」と述べたという。そして陸相が丁寧に一礼して部屋を去った後に、総理は迫水氏に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいたという。

阿南陸相は昭和4年(1929)から昭和8年(1933)までの4年間は侍従武官を務めており、当時の侍従長が鈴木貫太郎であったそうだ。また昭和11年(1936)の2.26事件の時に鈴木侍従長が襲撃され重体になった時には阿南は陸軍幼年学校長であり、阿南校長はこの時の生徒への訓話の中で叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわるべきでないと説いたという。
そして昭和20年4月、昭和天皇のご意志により、鈴木貫太郎が首相を拝命し、鈴木は即座に陸軍省に赴いて、阿南の陸相就任をとりつけたそうだ。陸相就任の数日後に阿南は友人にこう語ったという。
大臣が自ら責任を負わねばならぬことがあっても、辞職さえすればその責を逃れたとするような態度は私は絶対にとらない。将来、責任を負わねばならぬようなことに遭遇したら、本当に腹を切って、お上にお詫び申し上げる覚悟だ。」
こういう経緯を知れば、鈴木首相と阿南陸相とは強い信頼関係があったことがわかる。
阿南はわが国が『ポツダム宣言』を受諾し、終戦に至るぎりぎりのところまで鈴木内閣を支え、そして最後の最後にクーデター派を裏切ったのだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog151.html

8月15日未明、阿南陸相は『ポツダム宣言』の最終的な受諾返電の直前に、陸相官邸で切腹した。介錯を拒み早朝に絶命したと記録されているそうだ。
anami_isho.jpg

靖国神社の遊就館の中に、阿南陸相の血染めの遺書や自決時の軍服が展示されているという。
遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記され、
大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし
という辞世の句を残している。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ziketu-anami.htm

この阿南陸相の自決が、陸軍に強い衝撃を与えたことは言うまでもない。
阿南が終戦処理を託した荒尾興功軍事課長は次のように述べたという。
「全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最もつよいショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。之により全陸軍は、戦争継続態勢から、ポ ツダム宣言受諾への大旋回を急速に始めた。…換言すれば、大臣の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった。」

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節分の不思議
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幻の映画、「氷雪の門」
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ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

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アメリカは当初、京都を原爆投下の第一のターゲットにしていた

私は京都に生まれて京都で育ったが、子供の頃に何度となく「京都の文化遺産を守るために、アメリカは京都の空襲を控えた」という話を聞かされていて、単純にそう信じていた。しかし、ネットでいろいろ調べると、京都でも昭和20年(1945)に何度かアメリカ軍による無差別爆撃がなされていることがわかる。

ネットでは諸説があり、あるサイトでは空襲回数は合計20回を超え、死者302人、負傷者561人と書いているのだが、残念ながらそのサイトでは、いつどこで、どの程度の規模の空襲があったかが良く分からない。

京都馬町空襲

ネットで探すと、1月16日の東山区馬町の空襲の写真を容易に見つけることが出来る。
Wikipediaの「京都空襲」によると5回の空襲があり、日付と場所が具体的に記されている。

「第1回 1月16日23時23分頃、東山空襲(東山区馬町)被災家屋140戸以上
第2回 3月19日、春日町空襲(右京区)
第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)
第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区)
第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死傷者100人以上
報道管制が敷かれたため被害の詳細は判明していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%A9%BA%E8%A5%B2

そして極めて重要なことが、そのあとにサラリと記されている。

第5回の空襲以降、京都への空襲は停止された。原爆投下目標だったからとされる。」

この文章を普通に読めば、もうすぐ完成する原爆の威力を確認するためには、原爆を投下する前に通常爆撃で京都を焼け野原にしてしまうわけにはいかないので、アメリカは意図的に6月26日以降の空襲を停止したということになる。
米軍の資料によると京都市内の梅小路機関車庫が原爆投下予定地点であったという。

radius4km.jpg

次のURLにその場所と、その地点を中心に半径4kmの同心円が描かれているが、こんな場所に落とされては、広島以上の犠牲者が出たことは確実で、さらに東寺や西本願寺、東本願寺、三十三間堂をはじめとする多くの歴史的建造物と文化財を焼失させていたことだろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/j_map/umekouji.html

話を京都の空襲規模に戻そう。5回あったとされる京都市の空襲は他の都市と比べて、極端に少なかったと言えるのだろうか。

Wikipediaによると、昭和19年(1944)末頃から米軍機による空襲が熾烈となって、翌年8月15日の終戦当日まで続けられたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

全国(内地)で200以上の都市が被災し、死傷者数は各説あるが100万とするものもあり、被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。その他、多くの国宝・重要文化財が焼失した」とある。

b-29s_dropping_bombs.jpg

上記URLに『都道府県別被害数』がまとめられているのだが、それを見ると京都府の空襲被害は人口や世帯数の割に極めて少なく、大阪府や兵庫県と比べると死傷者の数は2ケタ違う。アメリカが意図的に京都を温存していた可能性を感じざるを得ない。

ではどういう経緯で京都が原爆投下の対象とされることになったのか。またなぜ途中で京都が候補から外されて、広島と長崎に投下されることになったのか。その経緯について述べる前に、アメリカの原爆開発から原爆投下までの歴史をおさらいすることにしたい。

第2次世界大戦中の1941年に、アメリカで核兵器開発を計画する部署が設立され、1942年に物理学者ロバート・オッペンハイマーほか当時最高レベルの科学者、技術者を一堂に集められ、マンハッタン計画という名の本格的な核兵器開発のプロジェクトが始まった。

この計画に対してアメリカは当時の額面で19億ドルもの資金を投入して秘密裏に研究が進められ、そして1945年7月上旬には原子爆弾を完成させて、7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)に成功している。この実験は、米英ソの首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理を決定するために開かれたポツダム会議の前日に実施されたのだが、この実験に成功したニュースがポツダムにいたトルーマン米大統領に伝えられたのは7月18日だという。

ヤルタ会談

実は、アメリカは1941年の開戦当初から、ソ連に対して対日参戦要請をしていたようだが、スターリンがようやく対日参戦の時期に言及したのは、1945年2月に開かれたヤルタ会談においてであった。その会談でスターリンは、樺太南部の返還と千島列島の引渡しなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月での対日参戦を米英首脳に密約したとされる。

そしてドイツは同年の5月8日に連合国に対し無条件降伏したのが、この時点でアメリカは、ソ連が約束通り8月までに対日参戦することを期待したはずである。

ポツダム会談三首脳

7月15日にポツダム会議に出席したトルーマンは、スターリンから、8月15日に対日参戦する旨の確約を得たのだが、その翌日に原爆実験成功のニュースが伝えられてトルーマンは豹変したという。

ポツダム会談の席上で原爆実験成功のニュースを聴いたトルーマンについて、オリバー・ストーンは著書でこう解説している。

トルーマン、バーンズ、グローヴス*は、これでソ連の手を借りずともアメリカが望む条件で日本の降伏を早期に実現でき、ソ連に確約していた領土と経済上の譲歩もする必要がなくなったと考えた。スティムソンは述べている。『大統領は報告書に浮かれたようになり、会うたびに何度もそのことを口にした。彼は依然とまったく異なる自信を得たと語った』。トルーマンはそれまでの会談はチャーチルやスターリンに主導権を握られていたが、以後は審議を牛耳るようになった。ウィストン・チャーチルが実験後初の本会議での様子について、『私には合点がいかなかった。報告書を読んだあとの彼は別人だった。ロシア人たちにあれこれ指示し、会議をおのれの意のままに進めた』と書いている。」(ハヤカワ文庫『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史 1』p.367)
*トルーマン米大統領、バーンズ米国務長官、グローヴス陸軍少将(マンハッタン計画責任者)

ポツダム会談

原爆実験が成功した以上、トルーマン、バーンズ、スティムソン*はもはやソ連の参戦を望まなかった。ソ連が参戦すれば、ルーズベルトがヤルタ会談でソ連に約束した譲歩を実施に移さなければならないからだった。7月23日、チャーチルは『アメリカが現段階でソ連の対日戦争参戦を望んでいないのは歴然としている』と述べた。バーンズは『今回の実権が成功したと知った以上、大統領も私もソ連の参戦を望まない』と記している。…トルーマンと顧問たちにとって、これ(日本の降伏)を達成する方法は明らかだった。原爆を落せばよいのだ。トルーマンは述べている。『ソ連が参戦する前に日本は折れるだろう。マンハッタン計画の産物が頭上で炸裂すれば、日本は間違いなくそうすると私は確信している』。」(同上書 p.370)
*スティムソン:陸軍長官

このようにアメリカは、日本を早期に降伏させるために、はじめから原爆を落とすことを考えていた。ではどこに落とそうと考えていたのだろうか。

原爆投下場所についての検討はかなり以前からなされていたらしく、1945年5月12日付のアメリカの極秘文書に、京都が第一候補に書かれていることが確認できる。(英文)
http://www.dannen.com/decision/targets.html
その訳文は次のURLにある。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/genbaku.html

その文書によると、京都が選ばれたのは、まだあまり破壊されていない大都市であることと、「他の地域が破壊されていくにつれて、現在では、多くの人々や産業がそこへ移転しつつある。心理的観点から言えば、京都は日本にとって知的中心地であり、そこの住民は、この特殊装置のような兵器の意義を正しく認識する可能性が比較的に大きいという利点がある」という点。すなわち、米軍の新型爆弾の恐ろしさを認識するだけの知的レベルがあり、日本が降伏を決断するきっかけとなり得るということを述べているようだ。

大阪空襲
【大阪空襲】

また、トルーマンがポツダムで原爆実験のニュースを聞いた5日後の7月21日に、米軍陸軍第20航空部隊が対日爆撃の中間総括を試みる報告書『中小工業都市地域への爆撃』を作成している。その報告書には、6月15日の大阪への空襲(第4回大阪大空襲)を以って第20航空軍によって優先目標と認められた「指定工業集中地区」の実質的な破壊を完了したとし、さらなる破壊効果増大のために攻撃目標として中小都市を含む180都市を人口に基づいて順位付けしたリストがあるという。

Wikipediaでそのリストが紹介されているが、それによると京都市は、東京都、大阪市、名古屋市に次いで攻撃すべき都市の4番目にリストアップされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

そのうち、名古屋市については過去5回の攻撃を実施しておりこれ以上の攻撃は不要であるとし、さらに東京都、大阪市も5回の攻撃を行なっており、あと1回の攻撃を行なえばよいと書かれているのだそうだ。では京都市についてはどう書かれているのか。

その報告書の中で都市爆撃を免除する3つの例が示されていて
 1. 原子爆弾の投下目標として、爆撃対象から除外された4都市。
    ・京都市、広島市、
小倉市(現北九州市小倉北区、小倉南区)、新潟市
  2. レーダーが作用しにくい地形であるために、夜間や悪天候での爆撃を免除されていた15都市
    ・八幡市、山形市、福島市、会津若松市、郡山市、川口市、瀬戸市、高山市、吹田市、長崎市、布施市、久留米市、若松市、戸畑市、都城市
  3.  北緯39度以北にあるため、硫黄島を基地として使用するまでは目標がサイパン島から遠すぎて攻撃不可能であった17都市。
    ・札幌市、函館市、小樽市、室蘭市、青森市、秋田市、盛岡市、旭川市、八戸市、釧路市、弘前市、釜石市、帯広市、池田町、川内町、能代市、宮古市」

とあり、京都市は原爆投下の最有力候補であったことがわかるのである。

しかしながら、京都を原爆のターゲットすることについては当時陸軍長官であったヘンリー・スティムソンが強力に反対して最終的に外されたようなのだが、彼が反対した理由はどのようなものであったのか。

ヘンリー・スティムソン

スティムソンの7月24日付けの日記には、彼がトルーマン大統領に進言した内容が記されているが、これを読めば彼が京都の文化財を守るために進言したわけではなかったことが誰でもわかる。

「私は大統領に対し、提案されている目標のなかの一つ(京都)を除外すべきであると私が考える理由を再び述べた。大統領は、この問題について大統領自身の賛成の考えを、この上なく力をこめて繰り返し述べた。私が、もし除外しない場合には、そのようなむちゃな行為は反感を招き、戦後、長期にわたってその地域で日本人に、ロシア人に対してではなく、むしろわれわれに対して友好的な感情をもたせることが不可能になるのではないか、と提言したところ、大統領は、とくに力をこめてこれに賛同した」(『スチムソン日記(抄)』1945年7月24日付)
http://www.chukai.ne.jp/~masago/genbaku.html

アメリカは、わが国がソ連を仲介とする和平工作に動き出しており、ソ連に期待をかけていた勢力が政界にも軍部にも少なくなかったことはわかっていた。もしアメリカが京都に原爆を投下したとしたら日本人を怒らせて、戦後日本がソ連に接近するようになってしまっては、アメリカがアジアにおいて主導権を取ることが難しくなることを懸念したのであろう。
スティムソンの説得が功を奏して、最初の原爆の投下地は広島に変更され、長崎が候補地に追加されることになった。
そして7月25日にトルーマン大統領が原爆弾投下の指令を承認しているのである。ポツダム宣言が出る以前に、アメリカはわが国に原爆を投下することを決断していたことは重要なポイントなのだが、例えば『もういちど読む 山川日本史』では、こう記されている。

「1945年7月、米英ソ3国首脳はふたたびポツダムで会談し、その機会に米英中3国(のちにソ連も参加)でポツダム宣言を発し、日本に降伏を呼びかけた。
 しかし、ソ連を仲介とする和平の実現に期待していた日本政府は、はじめポツダム宣言を黙殺する態度をとった。これに対してアメリカは、同年8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下し、一瞬のうちに市街地を壊滅させ、多数の一般市民を死亡させた。…」(『もういちど読む 山川日本史』p.313)

この文章を普通に読むと、わが国がポツダム宣言を黙殺したから原爆が落とされたかのような書き方になっているのだが、真実はポツダム宣言が出る前に原爆投下が決定されていたのである。

長崎原爆

わざわざ原爆を落とさなくとも日本の敗北は必至だったのだが、ではなぜアメリカは軍事的にあまり必要と思われない原爆をわが国に落としたのだろうか。この点については、前掲のオリバー・ストーンの著書がわかりやすい。

ソ連の指導者は喜ぶどころの騒ぎではなかった。すでに瀕死の状態にある国家を叩きのめすのに原爆は必要ないと承知していたことから、彼らは真の標的がソ連であると結論付けた。アメリカは原爆投下によって日本の降伏を早め、ソ連がアジアの覇者になるのを阻もうとしたと考えたのである。さらに彼らの不安を煽ったのは、アメリカが明らかに無用と思われる局面で広島の原爆を投下したのは、仮にソ連がアメリカの国益を脅かすようなことがあれば、アメリカはソ連に対して原爆を使用することも辞さないという意志の現われと推測できることだった。」(前掲書 p.383-384)

トルーマンもスティムソンも、早期に戦争を終結させるためだけに原爆を用いたのではない。終戦後の戦勝国間において、アメリカがソ連よりも優位な地位に立つことまで考えていたことを理解しなければ、終戦から冷戦に至る歴史を正しく読み取ることは出来ないのだと思う。

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軍部や官僚の重要メンバーの中にソ連に繋がる者がかなりいたことが今では明らかになっていますが、戦後の歴史叙述ではほとんどそのことが無視されています。しかし、この史実を押さえておかなければ、なぜ関東軍がソ連の対日参戦に抵抗せずに満州をソ連に差出したのか、なぜ昭和天皇の終戦の詔勅の後にクーデターを起こそうとした軍部の動きを理解することは困難です。
興味のある方は、こんな記事を覗いてみてください。

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html

昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-297.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-299.html

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なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか

前回の記事で、ソ連が対日参戦したため満州(現在の中国東北地方)から引き揚げてきた日本人の悲劇の事を書いた。民間人を銃殺したり強姦したりしたソ連軍に非があることは言うまでもないが、日本人としては、関東軍がソ連の対日参戦直前に南方に移動したことが許せない。
なぜ関東軍は、満州国境で民間人を護らなかったのか。

ソ連対日参戦

ソ連が参戦した8月9日に日本陸軍が、最初に発した命令はこのようなものであった。

「大陸命第千三百七十四号
命 令
一 「ソ」連は対日宣戦を布告し九日零時以降日「ソ」及満「ソ」国境方面諸所に於て戦闘行動を開始せるも未た其規模大ならす
二 大本営は国境方面所在の兵力を以て敵の進攻を破砕しつつ速に全面的対「ソ」作戦の発動を準備せんとす
三 第十七方面軍*は関東軍の戦闘序列に入るへし隷属転移の時機は八月十日六時とす
四 関東軍総司令官は差当り国境方面所在の兵力を以て敵の進攻を破砕しつつ速に全面的対「ソ」作戦の発動を準備すへし
右作戦の為準拠すへき要綱左の如し
  左記
関東軍は主作戦を対「ソ」作戦に指向し皇土朝鮮を保衛する如く作戦す
此の間南鮮方面に於ては最少限の兵力を以て米軍の来攻に備ふ
… 」
*第十七方面軍:昭和20年に朝鮮軍の廃止に伴い創設され、朝鮮方面の守備を主な任務としていた。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/1945Tairikumei74_80.html

よく読めばわかるのだが、「対ソ作戦」などと名付けられてはいるものの、関東軍は満州国境を守るのではなく「皇土朝鮮」を守るために第十七方面軍とともに朝鮮半島を守れと命じており、わかりやすく言えば、ロシアの国境から朝鮮との国境付近まで後退することを意味しているのである。そして17方面軍に対して8月10日の6時に関東軍の戦闘序列に入れということは、その日までに関東軍は朝鮮国境付近に移動せよと命じていることと同じだ。

その当時旧満州には約155万人の日本人居留民がいたとされるが、彼らを守ってくれるはずの関東軍がソ連侵攻を前に突如姿を消したことを、彼らはどうとらえたのだろうか。

藤原作弥

子供の頃に満州興安からの引き揚げを体験された元日銀副総裁・藤原作弥氏の『満州、少国民の戦記』(新潮文庫)を取り寄せて読み進むと、興安で実際に起こった『葛根廟事件』の貴重な資料である佐村恵利氏の『ああホロンバイル---元満州国興安総省在留邦人終戦史録』の内容を紹介している部分がある。少し引用させていただく。

満州、少国民の戦記

「同史録によれば、ソ連参戦後の興安街在住邦人の疎開対策(俗称、興蒙対策)は、全邦人を、北方のオンドルにひとまず避難、集結させることを目的としていた。もちろん、この『興蒙対策』は関東軍や陸軍興安軍官学校学生隊による護衛を前提条件としていたが、興安地区在留邦人が唯一の頼りにしていた関東軍四十四軍三個師団は、新京司令部の命令により8月10日いちはやく、しかも秘密裡に新京、奉天方面に撤退してしまったのである。
 満蒙からの引揚者たちが、いまだに関東軍を恨んでいるのは、在留邦人の保護、救出もせず敵前逃亡したことと、それにより日本人民間人が随所で大惨劇に遭遇したことが最大の理由となっている
。もう一つの頼みの綱だった軍官学校学生隊は、ソ連侵攻とともに叛乱を起こし撤退した。」(新潮文庫『満州、少国民の戦記』p.323-324)

このように佐村恵利氏は、引揚者達が関東軍は敵前逃亡したと認識していたことを記しているのだが、藤原作弥氏もまたこのように述べている。

「実は、関東軍は、興安街の民間在留邦人や開拓民よりも一足先に、南方へ撤退したという。かねてから興安街は『防備が手薄になればホロンバイルの草原の中で陸のサイパンになる』と軍事上の危険が指摘されていたが、その怖れが現実のものとなった。興安街在住3500人のうち廃墟の無防備都市からの脱出が遅れた約千人が草原をさまよい、ソ連軍戦車の犠牲となったのである。」(同上書 p.66)

この事件が『葛根廟事件』で、避難のため興安街から脱出しようと歩いているところを、15台のソ連戦車軍団による1時間半にも及ぶ無差別の機銃掃射を受け、1,000名以上の日本人居留民が命を落としたのである 。

旧満州では同様な事件が他にもいくつかあり、多くの日本人がソ連軍の犠牲になり、満州からの引揚の途上で約20万人が命を落としたと言われている。
当時の満州は、若い男性が根こそぎ軍に召集されていたため、犠牲になったのは、無防備、無抵抗の老人や婦女子がほとんどであったという。関東軍はそのような事態になることを予測できなかったはずがないだろう。

ソ連軍の満州侵攻

前回の記事で大本営陸軍部の高級参謀、朝枝繁春陸軍中佐の『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』の内容の一部を引用したが、今回はその冒頭の部分を紹介しよう。
「第一 全般概況
一、 満鮮方面対『ソ』停戦は、『ソ』側の絶大なる好意と、関東軍総司令部の努力とに依り、極めて順調に進捗し、8月26日現在、安東、錦州を除く全満及び北緯38度以北の朝鮮に於ける停戦ならびに武装解除は完了し、安東、錦州に於いては随時武器引渡しを実施し得る準備にありて…」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

と、満州に居住していた日本人がどんなひどい目に遭ったかを、何も知らないような書き方をしている。ちなみに、1000人が虐殺された『葛根廟事件』は8月14日、ソ連機械化部隊に追撃され、日本人開拓団約1,300名のうち、400名の婦女子が集団自決に追い込まれた『麻山事件』8月12日なのである。

そして朝枝参謀は、この文書の「第四 今後の処置」の中でこう書いている。

「一、一般方針
既定方針通り、大陸方面においては、在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす

普通に読めば、この大本営参謀は満州の日本人は初めからソ連に献上する方針でいたことになる。だからいちはやく関東軍が南下し、8月11日には朝鮮国境に近い通化に総司令部を構えたのだと理解できる。

関東軍がソ連と戦うつもりはなく、満州国領土と居留民を早々にソ連に差し出したことが史実であることを裏付ける証拠はソ連側にも残されている。

関東軍総司令部が1945年8月26日 にソ連軍に提出した「ワシレフスキー元帥二對スル報告」の中で、「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の經營に協力させ、そのほかは逐次内地に歸還させてほしい。歸還までは極力貴軍の經營に協力するよう使っていただきたい」という正式な申し入れを行っていたというのだ。この文書は元関東軍参謀(作戦班長)草地貞吾大佐が数人の参謀と合議の上取りまとめ、山田乙三総司令官、秦総参謀長の決裁を受けてソ連側に提出したことが、近年の草地証言で確認されているという。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees1993/1994/23/1994_23_33/_pdf

ワシレフスキー元帥

またワシレフスキー元帥がモスクワに打った電文(8月20日付)も同様なことが記されている。
「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。…」

http://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/63b131d3e8a160d75230a4c62f6bf71d

このように、関東軍は満州としの居留民をソ連のために差し出そうとしたことは確実な事なのだが、このような史実は戦後のわが国では徹底的に封印され、一部の研究者が論文などで引用しておられるものの、ほとんどの日本人には知らされていない。それどころか、真実とは程遠い内容で伝えられているのが現状だ。

日本の証言

元伊藤忠会長で当時関東軍の参謀であった瀬島龍三氏は、平成14年(2002)に放送された『新・平成日本のよふけスペシャル』というテレビ番組で、インタビュアーの「昭和20年7月1日付けで関東軍参謀になられ、この時期の関東軍のおもな任務は『本土決戦に即応する』ことと『朝鮮の保衛』だったそうですが」という質問に対してこう述べている。

「この時期、日本とアメリカは4つに組んで、太平洋で死闘を繰り返していました。そんな時に、ソ連が満州に攻めてきたならば、日本は腹背に敵を受けることになるので、ソ連を押さえることが『本土決戦に即応する』関東軍の役割でした。外交的には日ソ中立条約を守らせるようにし、軍事的には関東軍がソ連軍に対する警戒と抑止にあたるということです。
 それに、当時の朝鮮は本来の領土、すなわち本土ですから、これの『保衛』も、関東軍司令官の任務でした。保衛とは軍事だけではなく、警察をもってする国内の治安の維持なども含まれていたわけですね。」(フジテレビ出版『日本の証言』p.127-128)

番組の司会の笑福亭鶴瓶や南原清隆あたりではこれ以上の突込みを期待しても仕方がないところだが、瀬島氏は肝腎なことを何も語っていない。
そもそもソ連が対日参戦した時期は、既に広島、長崎で原爆が投下された後でアメリカとの戦いはほとんど勝負がついていた。朝鮮半島には第十七方面軍がいたにもかかわらず、なぜ関東軍が朝鮮国境まで引き下がらなければならなかったのか。関東軍が急に南下したために、多くの日本人が犠牲になったことについて、何も語らないのは卑怯だと言わざるを得ない。

前回の記事で、1954年に米国に亡命したKGB中佐・ラストボロフが、ソ連で特殊工作員として訓練を受けた11名の日本人がいたと述べたことを書いたが、『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』を書いた朝枝繁春陸軍中佐も、関東軍参謀の瀬島隆三中佐も、また終戦工作の原案でソ連に可能な限り領土を与えよと書いた種村佐孝陸軍大佐も、いずれもラストボロフ証言でソ連の特殊工作員として訓練を受けたと指摘された人物なのである。ちなみに種村陸軍大佐は戦後、共産党に入党していることを付け加えておく。

いつの時代でもどこの国でも同じことが言えるのだが、自国のためではなく他国のために動こうとする人物が政治や軍隊の中枢に紛れ込めば、国を滅ぼすことはそれほど難しいことではないだろう。
終戦直後のわが国において、わが国の領土の大半がソ連に占領されることを望んでいた者が軍の幹部に何人もいて、終戦工作を立案する立場にいたことを知るべきである
。そして満州にいた日本人は、そういう連中によって領土とともにソ連に差し出されたと言えば言い過ぎであろうか。

スターリン

1935年の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を思い出してほしい。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

関東軍はスターリンの言葉通りに、「暴走」して蒋介石の中国との泥沼の戦いに巻き込まれ、その後の日米との戦いで国力を消耗させ、アメリカが広島と長崎に原爆投下した直後にソ連が参戦すると、ソ連に矛先を向けることなく朝鮮半島まで兵を引き、満州をソ連に差出したというのが真相ではないか。

前回の記事で、満州からの引揚者の多くが引揚途上で亡くなり、大変苦労して日本に帰国したことを記したのだが、生き残った日本人の中で少なからずの日本人が大陸に残されたことも書かなければならない。

Wikipediaではこう解説されている
「ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は同様に中国人の妻となって生き延びることになった(残留婦人)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%AE%8B%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA

満州からの集団引上げが1946年の春から開始されて、それにより100万人以上の日本人が帰国したのだが、その後国共内戦が再開したために残された日本人の多くが徴兵されたり、労働者として働かされたという。
その後1949年に共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が誕生し、日本政府は同国と国交を結ばないまま1958年に集団引揚を打ち切っている。
そして文化大革命などの混乱期が過ぎたのち、1972年に日中国交正常化がなされたのだが、日中両政府とも中国残留日本人の問題解決に熱心ではなかったという。

山本慈昭

その後、長岳寺住職の山本慈昭を中心とした肉親の活動により、1981年からようやく中国残留孤児・訪日肉親捜しが開始され、6700人以上の日本人が帰国できたのだが、わが国政府の取組みはあまりにも遅かった。
帰国出来たとはいえ、孤児の多くは幼少の頃から充分な教育を受けないまま何十年も経過して壮年となっており、現在でも約9割が未だに日本語が習得できていない状況だという。当然のことながら日本での社会適応力は乏しく、帰国者の8割以上が生活保護を受けて、ボランティア団体の寄付金などで生活をしているのが現状なのだそうだ。

中国・樺太残留邦人

厚生労働省のホームページの中国残留邦人、樺太残留邦人の統計が纏められている。
これを見ると残留邦人が問題となったのは中国大陸がほとんどで、特に樺太では残留孤児問題がほとんど存在しないことがわかる。
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/bunya/engo/seido02/kojitoukei.html

ソ連占領前は南樺太に40万人の日本人民間人が居住していていたのだが、関東軍とは異なり樺太では、日本軍は19日に武装解除命令が出るまでソ連軍とよく戦ったのである。
そして、居留民は65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女を優先的に船に乗せて北海道に避難させ、ソ連軍に占領されるまでに10万人以上が船で島外避難に成功している。

大津敏男

その後も樺太庁長官の大津敏男が、樺太住民の生命と安全を守るべく奔走したそうだが、樺太に残留孤児がいないのはそういう努力が実を結んだことによるという。ちなみに、樺太庁長官の大津敏男は、1945年12月30日にソ連軍によって逮捕され、ハバロフスク裁判を経て、ハバロフスクに抑留され、1950年に帰国のあと、1958年に心不全で亡くなったという。こういう人物の名前は永く記憶にとどめておきたいものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E6%95%8F%E7%94%B7

樺太は満州よりも日本本土に近かったという地の利もあるが、軍隊も役人も、居留民の命を守るために必死に戦った事を知れば、満州における関東軍の異常さが誰でもわかると思うのだ。
日本軍の中枢がソ連と繋がっていて、関東軍は大本営の命令により、満州の土地だけでなく居留民をもソ連に差し出したという真実が、わが国で広く知られる日は来るのだろうか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

幻の映画、「氷雪の門」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-300.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

関連記事

ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか

前回は、日本の軍部が左傾化していることを報じている当時の新聞記事を紹介したが、今回は、いかにしてソ連は、わが国だけでなく世界に共産主義を拡げていったかについて書かれている記事をいくつか紹介したい。

1917年(大正6)にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、国内では反革命勢力(白軍)との内乱が続き、外債を踏み倒された独英仏などは反革命勢力を支援した。
そこでソヴィエト政権は、白軍と対抗するため義勇軍を中心とした赤軍を組織し、さらに反革命派を取締まるためにチェカ(非常委員会)を置き、対外的には1919年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル、第三インターナショナルともいう)を結成して、全世界の左翼勢力をソ連共産党の指導下として、レーニンの『敗戦革命論』の考え方に則った世界の共産主義化をはかろうとした。ちなみにわが国に、コミンテルン日本支部として日本共産党が結成されたのが大正11年(1922)である。

敗戦革命論』についてはこのブログで何度も書いてきたが、要するに資本主義国家間の矛盾対立を煽って、複数の資本主義国家が戦争をするように仕向け、そして自国を疲弊させて敗戦に導き、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するという革命戦略である。

前回同様に『神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫』という新聞記事のデータベースを使って、「赤化」「共産党」というキーワードで検索すると402件の記事が引っかかり、記事を発行日順に並べて見出しを読み、面白そうな記事をピックアップしていく。

最初に紹介するのは大正15年(1926)4月7日付の「中外商業新報」だが、『赤化運動の10年』という連載記事の1回目に、小松緑氏はこう記述している。

大正15 赤化運動の10年

「…共産党本部が、白人諸国における従来の失敗に鑑み更に方向を一転して、先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略である。これは、カラハン氏*がポーランドから極東に転任した時分から決定したものであるがやがてカラハン氏は、露支条約及び日露条約の成功に狂喜し、極東の赤化は一二年を出でざるべしと豪語して、大仕掛けの赤化運動に着手したのである
 先月十八日、北京において国民党を首脳とする総工会、学生団等の代表者二千名が大会を開き先ず革命歌を高唱し『帝国主義を撲滅せよ』『段祺瑞を打倒せ』『不平等条約を破棄せよ』『八国格子を駆逐せよ』などと不穏の言辞を弄し国務院の門内に乱入し、終に衛隊と衝突して、死者三十名、傷者八十名を出すという宛然たる革命騒動を演出し、その主謀者たる徐謙、顧孟余、李石曾等が、逮捕を恐れて、露国公使館に遁げ込みしが如き、また永らく共産党の傀儡となって、ロシアから武器、軍資の供給を受けつつありし憑玉祥が近々モスコウに赴き、自ら一職工となりてまでも、ソヴィエット制度を根本的に研究すると公言しているが如き、また近頃広東はおいても純然たるソヴィエット政府を組織せんとする陰謀の起れる際、関係露国人十名並に政府部内及び軍隊中より六十名の連類を逮捕せしが如き、孰(いず)れの一を見ても、赤露の魔手が如何に辛辣に動きつつあるかを立証して余りある」
*カラハン氏:レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン。ロシアの革命家 。1923~1926に中国大使を務めた。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10101841&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

引用部分の冒頭で「先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略」と書かれているのだが、ソ連は全世界の共産主義化を推進するために、白人と有色人種との人種問題を焚きつけて、その対立を煽って世界を戦争に巻き込む戦略を立てて着手したという点は注目してよいだろう。

151837.jpg

アメリカで排日運動が起こったのは日露戦争以降のことだが、特に激化したのは第一次世界大戦以降のことで、白人対有色人種との対立の煽りかたが次第にひどくなって、アメリカでは日本人を猿やネズミと同様に描いたポスターが多数作られている。この背景には、日米の対立を煽って、両国を戦争に巻き込むというソ連の工作があったというのである。

また同じ年の大正14年(1925)5月30日に、中国・上海の租界(外国人居留地)で起こったデモに対して租界警察が発砲したため、13人の死者と40人以上の負傷者が出た暴動事件が起こっている。(「五・三〇事件」)
この事件は、5月15日に上海にある日系資本の内外綿株式会社の工場で暴動が発生し、工場側当事者が発砲し、共産党員の職工が死亡して10人以上の重軽傷者が出た。その後、各都市でその抗議活動がおこり、5月30日に上海で数千人規模のゼネストに発展したのだが、同年6月6日の「大阪毎日新聞」に、この五・三〇事件に関する各国の新聞の論調が紹介されている。

大正14 上海暴動と各国世論

いくつかの新聞でソ連の関与を明確に指摘しているのだが、たとえば米国のニューヨーク・イヴニングポスト紙はこう解説している。
支那における最近の排外運動の裏面にロシア共産党領袖連が飛躍して来たことは明白で、これを単なる想像と見なすには余りに証跡歴然たるものがある。最近 数ヶ月間にロシア政府の使命をおびた共産党員が多数支那に入り込んでいる…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00502972&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

昭和3 日本共産党の大検挙

次に、昭和3年(1928)の記事を紹介しよう。
最初に紹介するのは4月11日付の大阪朝日新聞の記事で、3月15日に日本共産党の党員が千名以上検挙された事件ことを報じている。報道が遅れたのは、全国一斉に大検挙が行なわれてすぐに記事掲載が禁じられ、ようやく4月10日に一部解禁となったことが正直に記されている。
では、当時の日本共産党は何をしようとしていたのか。司法当局がこの事件の概要を説明したことを報じているが、一部を紹介しよう。

「(1)…現在における党員は数百名に達し、関東、関西、九州、北海、信越等に潜居し、進んで青年及び軍隊の赤化に労力しおれり
(2) 日本共産党は革命的プロレタリヤ等の世界党第三インターナショナル日本支部としてわが帝国を世界革命の渦中に誘致し、金甌無欠の国体を根本的に変革して労農階級の独裁政治を樹立し、その根本方針として力をソウェート・ロシヤの擁護、各植民地の完全なる独立等にいたしつつ共産主義社会の実現を期し、当面の政策としては革命の遂行を期したるものとす。…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070605&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

この程度の内容で「一大陰謀」との見出しをつけたことに尋常でないものを感じるのだが、具体的にどのような計画があったのかは記されていないのでわからない。

そして、同じ年の昭和3年(1928)の7月から9月にかけて、モスクワでコミンテルン第6回大会が開かれ、この会議において共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」などと書かれた決議が採択されたのだが、すでにソ連はこの大会の前から、わが国の軍隊に工作をかけることに着手していたことが新聞記事に記されている。

昭和3 露国共産党巧みに我が軍隊に赤化宣伝

10月19日の『国民新聞』の記事だが、
「露国の対日赤化宣伝は…最近極東局長メリニコフ氏を極東赤化の根拠地たるハルビン総領事に任命し、…再び巧妙なる方法を以て対日宣伝に著手するに決し、…直接日本軍隊に宣伝を行い以て革命を勃発せしむるの方針を執るに決し、去る七月初旬以来、先ず以て在満日本軍隊に対し前後二回に亘り
 (一)善良なる無産者、親愛なる日本軍人同士に檄す
 (二)虐げらるる無産者、親愛なる日本軍人同士へ
と題し世界革命労働軍連盟の名を以て軍閥資本閥に反抗して階級闘争を激成し、以て一路革命の勃発に邁進せしめんとする過激なる言辞を連らねた長文の邦語宣伝文を配布し、更に引続き第三、第四の宣伝に著手せんとするの外、一歩を進めて我国内地の軍隊全部に対しても宣伝網を拡張するの計画を定め、本月上旬既に其の宣伝員は我国に潜入したる形跡ありとは屡々(しばしば)其筋に達した確報に依って明らかであり、我国礎(いしずえ)を危くする重大問題として政府当局は極度の警戒を加 えて居る…」
とある。
ソ連は6月にすでに調査員を派遣しており、彼らは日本軍隊をこう評価したという。
在満日本軍隊に対する宣伝は可能性ありと認める、出張中種々の機会に於て下士階級以下と飲食を共にして談話したる所、彼等の思想も相当進歩し居り、階級論争を理解して居る、然れ共今急激に皇室を云々するが如き或は帝国主義打倒の如き宣伝を行うは尚早である、階級革命、国民自由平等を標榜する宣伝を行う時は確実に効果あるものと認める…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071350&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

かくして、7月2日に宣伝文書を約3千部用意し、日本語に堪能な中国人を使って、6日、7日の両日に長春、奉天、鉄嶺、安東の日本軍に配布し、7月24、25日には第2回目の宣伝文書を配布したという。

ソ連による工作活動は多岐にわたり、かなり執拗なものであったようだ。

昭和3 赤化宣伝の密謀に政府神経を尖らす

次に9月21日の「時事新報」の記事を紹介しよう。
「政府は過般の共産党事件以来特に露国の赤化運動を重大視し、その防圧に関して種々対策を講じているが、其後も第三インターナショナルの赤化運動は隠然猛威を逞しうし、聊(いささ)かも緩和の色なきのみか、共産党事件の取調べ進捗するに従い、漸次其背後に第三インターナショナルの支援ある事実が顕著になって来た。殊に最近政府側の探知し得たるところに依れば、第三インターナショナルは今秋を期し、大いに赤化宣伝に努めんと陰密に計画を廻らし、我国の共産党員中の有力なる注意人物も之と策応せるの事実明かなるものあるので政府でも座視する能わずと為し、寄々その適当なる処置について協議し政府部内の一部に両国の国交を賭しても危険思想の流入を防止すべしとて極論するものあるから、場合に依っては近く露国政府に対し厳重なる警告を発する段取になるであろうと。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070801&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

日本共産党はコミンテルン(第三インターナショナル)の日本支部であるので、ソ連の関与があることは当然のことなのだが、新聞記事で「隠然猛威を逞しうし、聊かも緩和の色なき」と書かれているレベルというのは、余程のひどい事を画策していない以上はありえない表現である。3年後の昭和6年(1931)にはわが国でクーデター未遂事件が2件[三月事件、十月事件]起こり、その翌年の昭和7年(1932)には5.15事件が起こっているのだが、このような企みがこの時期からあったのではないだろうか。

昭和3 帝都に潜む左傾的学生

また、ソ連は軍隊だけでなく、大学にも工作をかけていたようだ。
同じ年の12月30日付けの「台湾日日新報」には東京を中心とする極左学生813名のうち約半数を検挙したと報道されており、大学別の人数まで報道されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071122&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

昭和3 米国で行われた赤化宣伝の跡

もちろんソ連はこのような宣伝工作をわが国だけに実施したのではない。
同じ昭和3年(1928)10月8日の時事新報には、米国でソ連の工作が行われたことが記されている。アメリカでは数百回にわたって共産党大会が開かれ、大量の共産文書が配られたようだ。
「米国軍隊が支那に出発する時紐育(ニューヨーク)、フィラデルフィア及び沙市の海軍造船所では示威運動が行われ又乗船中の海兵団や軍隊内にまで宣伝ビラが撒かれたのである、因(ちなみ)に米国海兵団が自国政府に反抗せよと煽動されたのは米国労働史上今回が始めてである」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071254&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

昭和3 各国の赤化宣伝

さらに10月21日の「京城(ソウル)日報」には、ソ連による主要国に対する工作活動の内容と、各国の取締り状況が纏められている。
例えばスウェーデンとインドについてはこう記されている。
【スウェーデン】
「サウェート密偵の動静に関する警察署の報告書が公表されたが、それによると労農大使館員ミトケーウキチは常に瑞典(スウェーデン)の機密をロシヤに報告しておったのみならず、ロシヤとの開戦の場合、瑞典が暴動を起こすべく各所に多数の武器を隠匿していた事も発覚した。なおこれが操従者アレキサンドルの家宅捜索の結果、ヤチェイカの組織、罷業の計画に関する書籍も出た、右アレクサンドルはモスクワよりの命令を受け活動したものであるが、国籍が瑞典にある事とて退去さるとも恐れなく思い切って密偵任務に服しつつあったものだと」
【インド】
ポンペイ製粉工場を起こった罷業は、モスクワよりの資金で行われた事が発覚した、先週莫大な金がモスクワから送って来、罷業の首謀者ドゥユーリ個人の分として二千ループカの送金があった労働者等は毎月モスクワより保助金がくるのだと公言している。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071140&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

このようにソ連は、わが国だけではなく、世界各国で共産主義革命のための工作を行なっていたことが明らかなのである。

次に昭和10年(1935)の記事を紹介したいのだが、この年の7月25日から8月20日にかけてモスクワで第7回コミンテルン大会が開催され57か国、65の共産党から510名の代表が集まっている。この大会で決議されたことがわが国にとっては非常に重要なことであるので、Wikipediaの解説を引用しておく。

「決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中国を重用することが記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3

何度かこのブログで、この大会でスターリンがこう演説したことを書いてきた。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ

昭和10 わが国も抗議

この大会の後、英米に続いてわが国もソ連に抗議し、「厳重警告」を発したようだが、検閲で記事の大半が白抜きになっているのは残念だ。しかし、世界がいくらソ連に抗議しても、この国は各国の抗議に耳を傾けるような国ではなかった。おそらくソ連にとっては、資本主義の大国は工作の対象でしかなかったのだろう。

昭和10 ソ連テロ計画

この会コミンテルン大会の少し前の7月17日には『大阪時事新報』には、ソ連共産党委員会が恐るべき内容の対満州謀略の方針を決定したことが記されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071603&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

その後のソ連の動きを見てみると、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて疲弊させ、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で、条約を破棄してそれぞれ宣戦布告し、そして第二次大戦後に多くの国々を共産圏に取りこんだのである。

この動きはスターリンの描いたシナリオ通りだと読めるのだが、通説ではソ連の謀略は存在しなかったことになっている。しかしながら当時の新聞記事を少し検索するだけで、通説と矛盾するような記事をいくらでも容易に見つけることができる。このように通説に矛盾する史実が膨大に存在する場合は、通説が誤っていると考える方がずっと自然だと思うのは私ばかりではないだろう。

コミンテルンの世界戦略を中心に、ロシア革命以降の歴史が全面的に書き替えられる日は来るのだろうか。

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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
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義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
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日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか
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なぜ米国は日露戦争開戦当初から日本の勝利を確信したのか
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日露戦争の原因となったロシアの朝鮮侵略をけしかけた国はどこの国か
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ポーツマス会議のあと、講和条約反対・戦争継続の世論が盛り上がった事情
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関連記事

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか

戦後の混乱期に読売新聞記者としてGHQ等を担当し、その後日本テレビ設立に関わり正力松太郎の懐刀と呼ばれた柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』を読んでいくと、松前重義氏(後の東海大学総長)が三田村武夫代議士を連れて読売新聞社の馬場恒吾社長を訪ねる場面がある。

大東亜戦争とスターリンの謀略

三田村代議士はこのブログで何度か紹介した『大東亜戦争とスターリンの謀略』を著した人物だが、この二人の話を聞いて柴田氏は身震いするほど興奮したという。しばらく引用させていただく。

柴田秀利

「三田村代議士と松前氏の持ち込んだテーマは、実に驚嘆に値するものだった。
『馬場さん、ソ連のスパイであった尾崎・ゾルゲ事件を御記憶でしょう。私どもは警保局でこの事件を担当して以来、一貫してその内容の分析、調査をしてききましたが、ようやくことの真相を突き止めることができました。実をいうと、彼らは単なるスパイではなかったんです。コミンテルンの世界革命計画に従って、敗けると決まっている戦争に日本を駆り立て、敗戦に導くことによって、一挙に暴力革命を達成しようという、大変な戦略、つまりこれを名付けて『敗戦戦略』といいますが、この大ワナに日本をはめ込んだ、とんでもない、壮大な政治謀略家だったんです。愚かにも日本は、ウマウマとその手に乗っかかって、今日の惨状を招くに至ったということに、目を開かせなきゃいかんと思ってお伺いしたわけです。』」(中央公論社『戦後マスコミ回遊記』p.35)

ゾルゲ

少し補足しておこう。
「尾崎・ゾルゲ事件」というのはこのブログでも何度か触れたが、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報・謀略活動を行なっていたとして、昭和16年(1941)9月から翌年4月にかけてその構成員が逮捕された事件をさしている。
その中に近衛内閣のブレーンであった元朝日新聞記者の尾崎秀実がいて、ゾルゲと尾崎が死刑に処せられた。尾崎は近衛内閣嘱託の立場を利用してわが国の国家機密や会議の内容などをゾルゲに提供していたのである。
コミンテルン」というのは、1919年にモスクワで結成された共産主義政党による国際組織で、モスクワからの指令により世界各国で共産革命を起こそうとしていた。
わが国でも大正11年(1922)7月に日本共産党が設立され、その年の11月に日本共産党がコミンテルン日本支部となり、昭和2年(1927)にモスクワから次のような「日本に関する決議(27年テーゼ)」を受けている。
「日本の資本主義は既に末期的段階に達し、崩壊の前夜にある。日本共産党はその革命的指導力を急速に強化し、プロレタリア暴力革命に突入して君主制を廃止し、共産党独裁政権を樹立せよ。」

日本共産党は非合法の地下活動やテロ活動を行なうも、相次ぐ弾圧で主要な多くのメンバーを失い、5年後の昭和7年(1932)に方針が変更されるに至る(32年テーゼ)。

「日本にはプロレタリア革命に突入する客観的条件がまだ整っていない。当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階である。(二段階革命論)

戦後マスコミ回遊記

ふたたび柴田氏の著書を引用する。
「この急がばまわれの二段革命論に活用されたのが、レーニンの世界革命戦略の基本綱領だった。つまり、究極の世界革命達成のためには、まず、資本主義国同士を戦わせ、その負けた国から一つずつ革命していき、大勢のきまったところで一挙に世界暴力革命に突入する――という筋書きだという。それを彼らは敗戦謀略と名付け、日本をその絶好の生贄と見てとったのだった。
 幸か不幸か、時の宰相近衛文麿公爵は、学生時代から公卿には珍しい進歩主義者で、…彼の側近には、…そのほとんどがいうところの進歩主義者で埋め尽くされ、モスクワの使者尾崎が潜入するには、何の障壁もなかった
 ゾルゲの指示に従って近衛内閣の嘱託となり、近衛を取り巻くブレーン・グループが構成していた、いわゆる『朝飯会』の有力メンバーとなった。その主な顔ぶれを見ただけでもゾッとする。
 風見章、富田健治、西園寺公一、笠信太郎、原貞蔵、松本重治、田中慎太郎、犬養健、牛場友彦
 身近な秘書官から大臣、書記官長(今の官房長官)に加うるに、親戚、縁者、ジャーナリストから学者を加え、揃いも揃ったり、といいたいところだが、これだけ集まれば、国の最高機密だって、何でも取れる。また国政を左右しようとすれば、何でもできる。スパイにとって、これ以上の宝庫はなかった。…」(同上書 p.36-37)

第一次近衛内閣

柴田氏の著書には詳しくは記されていないが、第一次近衛内閣の時にわが国は中国との戦争に巻き込まれている。
日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件(昭和12年[1937]7月7日)は、近衛内閣が成立してわずか33日目に起きたのだが、その事件を仕掛けたのは中国共産党であったことが今では明らかになっている。
わが国の陸軍中央と外務省は事件の翌日に不拡大方針を決め、2日後に現地停戦協議成立の報告が入って派兵提案を見送ったのだが、中国側は停戦協議で約束した撤退を実行せず、3週間にわたりわが国に挑発を続け、7月13日には「大紅門事件」で4名の日本兵士が爆殺され、ほかにも日本人が支那軍から包囲され、銃撃される事件が相次いだ。(「廊坊事件」「広安門事件」など)

通州事件

日本軍は、盧溝橋事件以来3週間にわたって隠忍自重に努めてきたのだが、ここに至っては武力不行使の大方針を放棄するほかなく、7月28日に天津軍は中国二九軍に開戦を通告し全面攻撃を開始し中国兵を敗走させている。しかしながら翌7月29日に、通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件(「通州事件」)が起こり、260名の日本人居留民が極めて残酷な方法で虐殺されるに至る。

第一次近衛声明

このような卑劣なやり方でわが国は日中戦争に引きずり込まれていき、日本軍はその年の12月に南京を攻略して講和に持ち込もうとしたのだが、アメリカ、イギリス、ソ連の後ろ盾を得ていた蒋介石はあくまで徹底抗戦する姿勢であった。
翌年1月16日に近衛は「国民政府(蒋介石)を対手とせず」の声明を発表し、蒋介石政府との講和の芽を自ら摘んでしまって、汪兆銘を担いで南京政府を樹立させて支援しようとしたのだが、中国で汪に呼応する有力政治家は現れず、早期停戦はますます遠のいてしまうことになる。その一方で、近衛の足下では彼のブレーンたちによって本館的な臨戦態勢が打ち出されていくことになる。

大政翼賛会

再び柴田氏の著書に戻ろう。
まず『近衛新体制』と称して『翼賛政治会』の名のもとに、政党は解体統一された。相前後して『大政翼賛会』の名のもとに、下は下町の片隅にまで隣組組織がくまなく網をはりめぐらされ、またたく間に日本は全体主義的統一国家へと変貌していった。近衛自らの達筆になる『上意下達、下意上達』の迷文句が、氏神様のお札のように、全国至るところにベタベタと張られ出したのもこのころだった。それにもかかわらず、議政壇上で『なぜにかかる全体主義的な非民主的国家統一、独裁体制を作るのか』と政党代表に詰問され、追いつめられたとき、一国の、しかも非常時を背負う総理大臣が、『実は私にも、どうしてこうなったか、全く何もわからぬままに来てしまったのです…』といって絶句し、白いハンカチで眼を拭って、泣き出してしまったのを、駆け出しの記者の私も目撃している。世の中にこんな不思議なことがあってたまるものかと、憤激を覚えたことが、昨日のことのように想い出される。彼がいかに目隠しされた操り人形であったかを如何に物語るシーンだった。」(同上書 p.39)

昭和13年(1938)に労働力・物資・価格・金融・事業を国家が統制できる「国家総動員法」が成立したのだが、明治憲法が定める議会制民主主義と「天皇の大権」のいずれをも無視するような法律がなぜ成立したのか。
この法律は衆議院の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれたのだが、そのような法律を通すためには、日中戦争が長期化する情勢が必要だったことは誰でもわかる。近衛は蒋介石政府と断交したのはそのためであったと考えるのだが、おそらく近衛の周囲に集まった左翼のブレーンたちが近衛にそう言わせたのである。その後「大東亜共栄圏」とか「大東亜新秩序」などという勇ましい言葉が新聞の見出しに躍るようになるだが、このような言葉は尾崎に近いグループが考案したものと考えて良い。

柴田氏の著書にこう記されている。

「三田村・松前両氏の説明によると、尾崎の筋書に近衛の親友、後藤隆之助たちが乗って『昭和研究会』とか『国策研究会』をつくり、そこでこれら新体制なるものの綿密な全体計画が練り上げられていったという。しかも表面上は、日増しに強くなってきた軍閥の力を抑制するには、これ以外にないというのが、ここに集まった進歩主義者たちの言い分だった。しかしそれらすべてが裏を返せば、近衛なきあと、軍閥が政権をとれば、そのままヒットラーやスターリンと全く同じ、軍事独裁政権確立のための巧みなお膳立てとして着々と進んでいたことになる。」(同上書 p.39)

そして1941年6月に、ドイツのヒットラーが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻を開始する。ヒットラーは同盟国のわが国に対して日本軍のシベリア出兵を何度も催促し、軍はそれにこたえて7月に関東軍を満州と朝鮮半島に集結させたという。そのまま関東軍が北に進めばソ連は潰滅していた可能性が高かったのだが、この時にソ連を危機から脱出させたのがゾルゲグループによる情報収集と工作活動なのである。

尾崎秀実

先ずアメリカが対日全面禁輸に踏み切ったのだが、当時のわが国の石油備蓄は平時で2年分、戦時で1年半分しかなかったという。そこで、尾崎秀実が『北方傾斜論』を書き、次のように主張したことが柴田氏の著書に引用されている。

今北進すれば、シベリアは苦もなく手中のものとなろう。だがツンドラのシベリアを手に入れて何になるか。そこからは日本が必要とする石油の一滴すら取れないではないか。それよりも、北方にいささかの懸念もなくなった今こそ、進んで軍を南に向け、豊かな石油資源を手に入れる絶好のチャンスであり、その方がとどれほど賢明か。…今日本を真に敵視しているのはソ連ではない。米英である。米英は、日本が北進作戦で、なけなしの石油と鉄を使い果たすのを見届けた上で、必ず日本を討って出るに違いない」(同上書 p.40)

この尾崎の主張が採用されてわが国は「南進論」に舵をきることになるのだが、そのことによってわが国は米国と戦うことを余儀なくされることになる。驚くべきことに、そのことはスターリンがその6年前に描いた『砕氷船のテーゼ』の筋書きの通りなのである。

スターリン

昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会においてスターリンはこのような演説をしたという。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

コミンテルンはこの大会で、日本、ドイツ、イタリアを最も危険な戦争扇動者として、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
その上で、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、漁夫の利を占める戦略を立て、日本の敗戦が近いと分かってから日ソ中立条約を破棄して宣戦布告している。
そうすることによってソ連は「ドイツと日本が荒らし回った」多くの地域を共産化することに成功し、ドイツについては東ドイツを共産国化し、日本については千島列島をソ連領とし、北方4島と南樺太の占拠が今も続いているのだが、第二次世界大戦後にスターリンの計画に近い状態が現実のものとなったことが、ソ連による工作活動と無関係であったとは到底思えない。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html


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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

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