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朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか

1950年6月25日の午前4時に朝鮮半島の38度線で、突如北朝鮮による砲撃が開始され、10万を超える北朝鮮軍が38度線を突破した。

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米駐韓国大使のジョン・ムチオは、ワシントンの国務省に宛てて次のような報告をしている。
「1950年6月25日ソウル発
韓国軍事顧問団の資料によって、一部確認された韓国陸軍からの報告によれば、北朝鮮は今朝、韓国の領土に対し数ヵ所にわたって侵略を開始した。攻撃はほぼ午前4時に開始され、甕津(オングチン)は北朝鮮軍の砲火によって破壊された。午前6時ごろ、北朝鮮の歩兵隊は甕津、開城(ケソン)、春川(チュンチョン)各地方における38度線内に侵入し、伝えられるところによれば、東部海岸の南江陵に陸海軍による上陸が行われた。開城は午前9時、作戦を開始した10台の北朝鮮側戦車によって占領されたと言われる。また戦車を先頭にした北朝鮮軍は、春川を包囲しつつあるといわれる。江陵における戦闘の詳細はまだ不明であるが、北朝鮮軍によって主要道路は断たれた模様である。攻撃の性質、および攻撃開始の方法からみて、これは韓国に対する全面攻撃とみられる」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.232)

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その勢いで北朝鮮軍は勝ち進み、6月27日には韓国の首都京城(ソウル)が陥落してしまったというのだ。画像は「朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書」というサイトに豊富に紹介されている。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/1222ChoosenWar.html

ソウル占領

朝鮮戦争の緒戦でこんなに簡単に韓国軍が敗れたのは意外であったが、いろいろネットで調べていくと、当時の韓国軍の装備については、韓国軍は、総兵力10万、戦車ゼロ、大砲91門。一方の北朝鮮軍は、総兵力20万、戦車240両、大砲552門と北朝鮮軍の装備が韓国軍を圧倒していた。しかも韓国軍の91門の大砲は北朝鮮の戦車T34(ソ連製)の分厚い装甲を撃ち抜くことが出来なかったという。重戦車と歩兵との戦いでは勝負にならないことは誰でもわかる。
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-128.htm

またウィロビーの回顧録によると、戦闘が開始された時には、韓国軍には司令官がいなかったのだそうだ。
「…1950年6月当時、韓国軍の装備は北朝鮮側にくらべ哀れな状態であった。そのうえ戦いが開始されたときには司令官まで欠いていたのだから、押し寄せる北朝鮮軍の前に手もなくひねられ、敗走したにしても一般兵士たちを責めるにはあたらない。」(同上書 p.233)

ではなぜ、韓国軍の装備がかくも貧弱であったのか。
この点については、ウィロビーの回顧録に、当時の駐日大使でGHQ外交局長であったウィリアム・J・シーボルトの回想記が引用されている。シーボルトはこう書いている。
李(李承晩[イスンマン] 韓国大統領)は、常に好戦的な態度を見せていたので、米国顧問団は、この軍隊に戦車、重砲、軍用機などを与えるのを拒否していた。正規の攻撃兵器を与えれば、李はただちに38度線を突破して北進する恐れが十分にあったのだ。」(同上書p.234)
こんな理由で、アメリカが韓国の防衛を怠っていたとは信じがたいことである。

また1950年1月12日には米国のアチソン国務長官が「たとえ韓国が共産主義者に攻撃されても、アメリカは韓国防衛に対して消極的であろう」との演説をしたそうだが、このような発言が、北朝鮮による韓国侵略を決断させる要因の一つになったのであろう。

ウィロビーの回顧録を読み進むと、ウィロビー率いるG2(GHQの参謀第2部)は北朝鮮による攻撃が近いことを何度も国務省に報告しており、その特別報告のいくつかの内容が著書に紹介されている。それによると、北朝鮮の戦争準備の動きばかりではなく、38度線から3マイル以内に住むすべての民間人に退去命令が出ていることや、北朝鮮軍による韓国侵略が6月であることなども報告されていた
また韓国大統領の李承晩も、北の攻撃が予想される中で、戦えるだけの武器がないことをアメリカに訴えていたのだが、どういうわけかアメリカは韓国軍の装備が貧弱なまま放置していたのである
ウィロビーの記述が正しければ、朝鮮戦争は決して北朝鮮軍による不意打ちではなかったことになる。報告は受けていたのだが、何らかの理由があって動かなかったか、動けなかったのである。ワシントンの中枢部もソ連寄りの人物が主導権を握っていたのだろうか。

トルーマン

米大統領のトルーマンは、北朝鮮による侵略が開始されてまもなく、GHQのマッカーサーに韓国の防衛を命じている。また国連も米国に国連の代理としての行動をとるように要請し、マッカーサーが国連軍司令官に任命されている。

6月29日の早朝にマッカーサーは羽田を出発して韓国における戦場の上空を視察し、帰日後ワシントンにこうレポートしている。
「…敵の侵攻を防止するのが第一の問題である。さもないと敵が朝鮮全域を支配するかもしれない。韓国軍には反撃する能力が全くないので、北朝鮮軍がさらに侵攻する危険性は大きい。もし敵の進撃が続けば韓国は危険にさらされる。現在の戦線を維持し、さらに失地を回復するための唯一の道は、朝鮮戦線にアメリカ地上軍を投入することである。有効な地上兵力なくして、空軍と海軍とだけを用い続ければ決定的なものになりえない。…」(同上書p.242)

翌日にワシントンは米地上軍の韓国投入を許可し、マッカーサーに彼の指揮下にある兵力を使用する全権が与えられたのだが、マッカーサーが使える兵力は、北海道から九州までに散らばっていた勢力不足の占領軍4個師団とオーストラリア軍1個大隊だけで、到底敵戦力とつり合いのとれる水準ではなかったという。

ウィロビーはこう書いている。
「8月から9月初旬にかけて、米軍はもっとも苦しい戦いを強いられていた。8月15日、当時の北朝鮮首相・金日成は、あたかも勝利はわが掌中にありとばかりに、次のように語った

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いま、米軍と李承晩敗残部隊は、わが共和国南半部(韓国)全地域の約8パーセントを維持しているにすぎない。わが祖国の全地域が、アメリカの武力干渉者どもから完全に解放され、自由と独立の旗が全朝鮮の津々浦々にいたるまでひるがえる日もそう遠くはないだろう。』…」(同上書p.247)
と、この時点で韓国領土の92%は北朝鮮軍に制圧されていたのである。
しかしウォルトン・H・ウォーカー中将率いる米国第8軍が釜山周辺地区で背水の陣を敷きながらなんとか踏ん張っていたという。

そこでマッカーサーは戦況を一転させるために「仁川(インチョン)上陸作戦」を計画し断行する。
今回の記事の最初に添付した朝鮮半島の地図をもう一度見て頂きたい。
北朝鮮軍は快進撃を続けて韓国領土の大半を支配したのだが、最前線の兵士に燃料や弾薬・食料などの補充を行ない続けなければ戦いを継続することが出来ないことは言うまでもない。マッカーサーのこの作戦は、北朝鮮軍の大半が釜山攻防に配置されているタイミングで、仁川を攻撃し北朝鮮軍への補給路を断つというものであった。

マッカーサー

マッカーサーは8月20日に東京の第一生命ビルで開かれた仁川上陸作戦に関する戦略会議でこう述べたという。
敵の弱点は補給にある。敵は南に進めば進むほど輸送線が伸び、それだけ危険も増大する。敵の主要補給線は、いずれもいったんソウルに集まり、ソウルから戦線のあちこちに伸びているから、ソウルをおさえれば、敵の補給網を行きも帰りも完全に麻痺させることができる
弾薬と食料の補給がとまれば、敵はたちまち手も足も出なくなって混乱し、われわれの小さくとも補給充分な兵力で簡単に圧倒することができる。作戦の成功については、私はこれを確信する。」(同上書 p.253-254)

この作戦にはなぜかワシントンでは根強い反対があったようだがマッカーサーが押し切り、9月15日に実行に移された

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マッカーサー率いる国連軍は仁川上陸に成功したあとソウルを攻め、敵軍は補給がとまったところへ挟み撃ちにあい、退却の道も断たれて総崩れの状態となった。北朝鮮軍の兵士の投降が相次ぎ、1か月以内の捕虜総数は13万人にも達したという

9月28日に国連軍はソウルを奪還し、翌日には韓国政府がソウルに入城したのだが、この時にマッカーサーは、米国首脳の考え方に不安を感じていたらしく、尊敬していたウォーカー将軍に次のように打ち明けたという。

「…犠牲を払って軍事的勝利をおさめても、それから政治的に有利な平和が導き出されるのでなければ、何のための犠牲かわからない。
 いまは北朝鮮軍を壊滅させた仁川での勝利をただちに政治的平和にすりかえる、つまり軍事的に勝ったのを機に、ここで戦争を終結させてしまう絶好の機会だ。これはなにも敗北した北朝鮮軍に、われわれの意志を強引におしつけるという意味ではない。われわれは北京とモスクワに、米国は何の野心もなく、韓国から敵兵を一掃して独立国として存在を保てるような状態にすること以外には、何の使命も帯びていないということを納得させるだけの外交的能力が必要だ
 ところが、われわれの外交陣はまことに不活動的で、この勝利を活用して朝鮮に平和と団結を回復させるための素早い、ダイナミックな外交活動を起こすということがさっぱり行われていないようだ。戦争を終結して、太平洋にもっと永続的な平和を生み出す方向へ大きく動き出す絶好の機会が訪れているのに、それをつかみ損ねるという大変な政治的失敗が犯されているような気がしてならない。われわれが政治的、外交的に不活発であるため、相手がそれをためらいや譲歩と取るだろう。こんな状態では戦争は終わるどころか、道は長引く。」(同上書p.276)

このようなマッカーサーの思いとは裏腹に、国連軍がソウルを奪還した9月28日に、米統合参謀本部は、北進攻撃の許可と詳細な指令を東京のマッカーサーに送っている。
貴官の軍事目標は、北朝鮮軍を壊滅させることにある。この目標を達成するため、貴官が朝鮮の38度線以北で軍事行動をとることを許可するものである。ただし、いかなる場合にも中国およびソ連との国境を越えてはならない。…」(同上書 P.277)

通説では、トルーマン大統領や米統合参謀本部の命令を無視して韓国軍と国連軍が38度線を越えて北上したとなっているのだが、ウィロビーの回顧録によれば、38度線を超えて北上する指示は米統合参謀本部がマッカーサーに出していることがわかる。
しかし、後日「マッカーサーは自分勝手に上層部を無謀にも無視して38度線を突破し、北朝鮮に進攻した」という作り話が新聞に載って全世界にばら撒かれたために、事実でないことが通説になってしまったのだが、どこの国でもいつの時代もこのような方法で、権力者にとって都合の悪い真実が都合の良い歴史に書きかえられて国民に広められることがよくある。

かくして韓国軍と国連軍は38度線を突破し10月20日には北朝鮮の首都平壌を制圧し、さらに北朝鮮軍を追って破竹の勢いで中国国境に近い鴨緑江近辺まで進軍したのだが、ここで国連軍は中国軍の猛反撃に遭遇することになる。中国軍は国連軍をはるかに上回る規模であったのだが、その後の戦いについては次回に記すことにしたい。
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朝鮮戦争で、国連軍を勝たせないようにしたのは誰なのか

仁川上陸作戦で北朝鮮軍の補給路を断ち攻勢に出た国連軍を指揮するマッカーサーに対し、米統合参謀本部は北進攻撃の許可と詳細な指令を1950年9月28日に出し、いよいよ38度線を超える北進攻撃が開始された
しばらくウィロビーの回顧録を引用する。

「連合国軍による38度線を突破しての北進攻撃は、まず韓国軍の二個師団によって開始された。1950年9月30日、これらの部隊は東海岸沿いの道路を一挙に北上、10月3日には38度線を突破して100マイル近くも前進していた。そして10日後には、これらの師団は軽い抵抗を受けただけで元山を攻略していた。
一方、西海岸沿いでは米第8軍が国連決議を待つかのように、10月8日に38度線を突破し、平壌の南部近郊へと一直線に攻め込んだ。第187空輸部隊は平壌の北25マイルにパラシュート部隊を降下させ、マッカーサー元帥と第8軍司令官ウォーカー中将も、この落下傘部隊を追うように平壌の飛行場にその姿を現わした。」(知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.278)

国連軍は北朝鮮の首都平壌を占領し、破竹の勢いで鴨緑江近辺まで進軍したが、ここで868千人の中国軍の大軍に遭遇することになる
再びウィロビーの回顧録を引用する。

鴨緑江地図

「この危機的局面に直面しているマッカーサーの部隊はといえば、残余の北朝鮮軍を壊滅させ、北朝鮮全域に秩序を回復するだけの能力は十分持っていた。…だが、中共軍が本格介入した場合、その兵力比は5対1の割で敵の方が圧倒的に多く、おそらく今年の終わりには10対1にまで開く可能性さえある。しかしワシントンは、すでにマッカーサーにはこれ以上兵力を増やすことはないと知らせてきたのだ。
1950年11月26日、中国軍司令官・林彪は全兵力を挙げて鴨緑江を渡り、攻撃を開始した。かくして中国は、米国その他の連合諸国とおおっぴらな戦争状態に突入したのであった
。」(同上書 p.292-293)

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国連軍は中国軍の兵力に圧倒されて12月4日に平壌を放棄して後退し、1951年1月4日には再びソウルを共産軍に奪われてしまう

0105共産軍ソウル占領

ウィロビーの回顧録を読み進んでいくと、大量の中国軍が国境付近に集結し北朝鮮支援のために参戦する可能性が高いことを、ウィロビー率いるGHQ参謀第2部(G2)が何度もワシントンに詳細に報告していたことや、台湾の国民党筋も1950年8月27日に中共の介入をアメリカに警告していたことなどが縷々述べられている。そのような重要情報を入手していながら米統合参謀本部は、「中共が本格的攻勢をかけようとしているか確認できない」として、マッカーサーに対し北進を指令したのだが、それは何故なのか。
また中共軍が参戦して国連軍が敗走し再びソウルを失うと、自らの状況判断ミスを棚に上げて、結果責任をもっぱらマッカーサーに擦り付け、「わが部隊は中国の農民兵を前にして敗走したが、これは米国戦闘史上にあってもっとも恥ずべき敗北である」とマッカーサーを非難したという。

前回の記事でもいくつか紹介したが、米統合参謀本部はマッカーサーにとってプラスになるような有用な情報を伝えるどころか秘匿し、マイナスになるような命令を何度も出した。またマッカーサーが敵軍の補給路を断って緒戦の戦況を一変させた「仁川上陸作戦」には、何故か根強く反対したのである。
米統合参謀本部の中枢には、少なくともマッカーサーが活躍することを喜ばず、できれば失敗をさせることによってマッカーサーを失脚させたいと考える人物が中枢にいて指示を出していた可能性を感じる人は私だけではないだろう。その問題については後で書くことにしよう。

話を中国軍と国連軍との戦いに戻す。
兵力では圧倒的に中国軍の方が優勢であったのだが1951年の2月ごろから不思議なことに中国軍の戦闘力が低下していった。

ウィロビーはこう解説している。
「1951年2月10日には奪われていた仁川港を再び攻略したわが軍は、態勢を立て直して反撃を開始し、共産軍にカウンターを食らわせつつあった。
 とはいえ、共産軍の猛攻が失敗に帰して、2月以降、その戦闘力が低下したことは、わが軍がすばらしい戦闘能力を示したというだけでは説明がつかない。なぜなら、わが兵力は数の上で圧倒的劣勢に立たされていたからである。これには別の要因も働いていた。つまり流行病という天罰が敵に下っていたのである。天然痘、腸チフス、発疹チフス、回帰熱等の流行病が北朝鮮全域に蔓延したのである。…」

かくして国連軍は態勢を建て直し、3月14日には再びソウルを奪還している。そして戦いは膠着状態に入ったと言われているのだが、武力においてはすでに国連軍のほうが優勢であったと言われている。
ところがトルーマン米大統領は4月11日にマッカーサーを突然解任し、彼のすべての指揮権を剥奪してしまったのだ

マッカーサー解任毎日新聞

ウィロビーの回顧録にはこう記述されている。
トルーマン大統領は、新たな勝利が朝鮮戦争でもたらされようとしていたその矢先、彼の最高の野戦司令官を解任するという暴挙に出た。その結果、トルーマンは敵が恐れていた一人の男を取り除くことになった。
 当時、マッカーサーは中国内の聖域を攻撃する決定を下すように、強硬に主張していた。彼はワシントンに、わが軍に対して活発に展開していた鴨緑江以北の軍事施設を空爆し、敵の補給をたつために中国の海岸を封鎖することの許可を求め、さらに台湾の国府軍を使わせてほしいとの要求を再三再四行った。だが国防長官のマーシャル、国務長官のアチソン、それにトルーマンはこれを握りつぶしてしまった。おかげでわれわれは陣地戦で行き詰まり、消耗多くして実りの少ない戦争を継続する羽目に陥った。
 トルーマンは、中国内の聖域どころか鴨緑江にかかる橋を空爆することさえ許可しようとしなかった。中国軍が鴨緑江を渡ってきたとき、マッカーサーは河にかかる6つの橋を空軍で破壊するよう命じたが、彼の命令はたちどころに飛んできたワシントンからの電報で撤回されてしまった。鴨緑江の橋はいまも相変わらず架かっている。その橋桁には、共産軍を増強して国連軍を撃破しようと、何十万という兵士たちの足音がとどろきわたり、何百万トンという補給物資と弾薬が車輪の音を響かせたのである。」(同上書p.320-321)

普通に考えれば仁川上陸作戦で敵軍の補給路を断つのに成功したならば、鴨緑江に渡る橋を破壊すれば、北朝鮮軍の全面的敗北は確実であったと思われる。ところが、それをさせじとする勢力がワシントンの中枢部にいたことは極めて重要である

通説では、マッカーサーが原爆を投下したいと主張したので、トルーマンが反対してマッカーサーを解任したという事になっている。
しかし、ソ連朝鮮戦争が始まる前年の1949年に原爆実験を成功させていた。もし国連軍が原爆を使えば、ソ連も使う可能性が高いだろう。それでは戦争は終わるはずがないし、世界を巻き込む大戦争になることは誰でもわかる。 しかし原爆を使わないと宣言してしまっては、保有することによる抑止力を失ってしまうので、マッカーサーがそれを「使わない」とは宣言するはずがない。かといって「使う」と言ったとしても、余程のことがない限り使わないのが原爆なのではないか。
マッカーサーが原爆を使うということを強く主張したことがわかる当時の史料が存在するなら撤回するが、私はマッカーサーがそう主張したために解任されたという説は、マッカーサーの評判を落とすための作り話だと考えている。

ウィロビーの回顧録に当時の記録がいくつか紹介されているのだが、マッカーサーの解任理由を語っているくだりには、トルーマンもマッカーサーも原爆のことを語っていないことがわかる。

トルーマン

トルーマンは『エスクァイア』誌のインタビューに対しこう答えたという。
「『…マッカーサーが大統領の権威を尊重することを拒否したのだ。彼はわが国政府における文民優位の伝統に挑戦したのだ。…』
 『2つの基本的問題があった。第一は蒋介石と彼の軍隊に関するもので、私はその使用につねに反対だったが、マッカーサーは逆だったのだ。』…
さて、戦線では中共介入後、2ヶ月間にわたる残酷なほどの冬季戦闘ののち、38度線まで敵を押し戻すにいたったのだが、マッカーサーは3月初旬、それ以上北進するなとのワシントンの命令に関わらず、シーソーゲームをくりかえしていることにはもう厭気がさしたと公然と不平を言いながら、その地点にとどまっていようとはしなかった
『あいつはとんでもないヤツだ。もしマッカーサーのいい分を聞いていたら、アメリカは中共ばかりかソ連とも戦うようになり、第三次世界大戦が起こったかもしれないのだ。』」(同上書 p.314-317)
ウィロビーの記述によれば、38度線を越える北進の命令を下し国連軍を中国の大軍と戦わせことも、鴨緑江の6つの橋の破壊を許さず、中国軍の補給路を断つことを認めなかったこともワシントンの指令であった。
マッカーサーに勝利させることを許さず、シーソーゲームになるようにしたのはワシントンの中枢部ではなかったか。そもそもマッカーサーには中国全土を敵に回す意図はなく、北朝鮮軍の補給や通信地点を破壊することで第三次世界大戦になるというのは論理の飛躍であるように思えるのだ。

次にマッカーサーの発言を紹介しよう。
「解任は出し抜けになされた。私は、台湾が共産主義者の手に落ちる危険性について警告していた。これは当時の権力と意見を異にするものだと言われた。だが国務省は、私の解任以後、そんなことは合衆国の長年の変わらぬ政策だったと言明している。
 申し渡された第2の理由は、私が敵の司令官に軍事事項の話し合いを呼び掛けた点だった。(3月24日、大統領の許可を受けずに、むしろ大統領に対抗して、マッカーサーは休戦協議の声明を発表している)。ところが、同じような提案がソ連についてなされるや、これは熱烈に歓迎されたのである。
 第3の理由は、ある下院議員に対する私の書簡であった。軍役に服しているものの誰一人として、下院議員と連絡することを制限されない、という法律が立派にあるのに。」(同上書p.322-323)

マッカーサーの電撃的解任には日本人も驚かされたが、米国人も驚いた。そしてそれは、次第にトルーマンに対する怒りに変わったという。

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4月17日にマッカーサーはサンフランシスコに到着し、50万人の人々が彼を出迎え、300万人の人々が彼の帰国を見守り、カリフォルニア、フロリダ、ミシガン、イリノイの各州議会は、マッカーサーを罷免したトルーマン大統領を非難する決議を採択したという。

マッカーサーはワシントンでも熱狂的歓迎を受けたのち、上下両院の合同会議上で議員の前で演説を行い「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ(Old soldiers never die,they just fade away)」という歌の一節を引用して演説を締めくくり、議場の歓呼に応えて演壇を降りて軍歴を閉じたのだった。

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トルーマンの言っているのが正しいのか、マッカーサーやウィロビーの言っていることが正しいのか。
今では朝鮮戦争以降のマッカーサーが悪者にされて歴史が綴られているのだが、いつの時代もどこの国でも、往々にして歴史は勝者にとって都合の良いように書きかえられてきたものである。通説では説明できないことが書かれている当時の記録が多数残されている場合や、通説の根拠となる当時の史料が見つからない場合には、通説をまず疑ってみるべきだと考えている。

以前このブログで、『ヴェノナ文書』(ソ連情報部暗号文書)の解読が進んで、アメリカのルーズベルト政権(民主党)には、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが今では判明していることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html" target="_blank" title=" http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html"> http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html

トルーマンはF.ルーズベルト大統領の急死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格した人物だが、トルーマン政権(民主党)を支えたスタッフはルーズベルトのスタッフの多くを引き継いでいたのである。トルーマンがソ連に有利な判断に傾く謎はそのことを無視しては語れないのだと思う。

マッカーシー

朝鮮戦争のはじまる4か月前の1950年2月9日に、アメリカ上院で共和党議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーが、「205人の共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発していることがWikipediaに記述されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC

マッカーシー議員の情報源は『ヴェノナ文書』ではなく、FBIから情報を入手したと言われているのだが、その後『ヴェノナ文書』の解読が進み、ソ連のスパイ行為はマッカーシー議員の見積もりよりもさらに大規模なものであったことが判明しているという。
とすると、アメリカのルーズベルト政権からトルーマン政権までの20年間(1933-1952)は、アメリカの政権中枢はソ連によるスパイ活動の影響を相当受けていたことになる

この2人の民主党の大統領の時代にアメリカがソ連を敵に回したことがほとんどなく、共産主義勢力に対して甘い対応を取りつづけたのは、このような背景を知らなければ理解できないと思うのだ。
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『ポツダム宣言』の各条項が決まるまでの経緯と公表後の日本の反応~~ポツダム宣言2

前回の記事で、『ポツダム宣言』がわが国に対し戦争を終結させるための条件を提示した文書である事を書いた。 実はこの『ポツダム宣言』が公表される前に、連合国側がわが国に提示しようとしていた天皇制維持に関する重要な部分が削除されたことを最近知った。
しばらく鳥居民氏の解説を引用する。

鳥居民

ポツダム宣言は公表に先立ち、削除した箇所があることはだれもが承知している。全13節あるうちの第12節の後半の部分が取り除かれた。つぎのくだりである。
ソノ政府が侵略ノ野心ヲ二度ト抱カナイコトヲ世界ニ完全ニ納得サセルニイタッタ場合ニハ、現在ノ天皇家ノモトデ立憲君主制ヲ維持スルコトガデキルモノトスル
 これをつくったのは国務長官代行のジョゼフ・グルーと言われているが、ヘンリー・スティムソン陸軍長官の部下が作成したのであり、スティムソンの案だった。グルーの考えそのものだったから、グルーは『われわれの案』だと言い、ジェームズ・フォレスタル海軍長官もその第12節後半の文章に賛成した。
 陸軍省がつくり、国務省と海軍省の首脳が支持した対日宣言案がそのまま公表となれば、鈴木貫太郎首相から阿南惟幾陸相まで、だれひとり反対せず、その宣言を受け入れ、原爆投下前に日本は降伏することになる
ところでハリー・トルーマン大統領の唯一の相談相手になっていたジェームズ・バーンズは、ソ連を脅かそうとして、どうあっても日本の都市に原爆を落とすつもりでいた。自分に代わって、第12節の後半を削ってくれる人物を探した。ポツダムへ向う前日、かれは元国務長官のコーデル・ハルにその宣言案を送り、第12節の是非を問うた。…ルーズベルトに疎んじられていたハルは、原爆の製造を知らなかった。もちろん、投下の計画を知るはずはなく、アメリカが直面する国際情勢にも無知だった。第12節後半を削除し、ソ連の対日参戦を待つべきだと元国務長官は新国務長官バーンズに打電した
バーンズは自分の手を汚すことなく、原爆投下のお膳立てをつくったのである。」(文春文庫『日本よ、「歴史力」を磨け』p.232-233)

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少し補足すると、ジェームズ・バーンズは1945年7月3日に米国国務長官に就任した人物で対日強硬派であった。そして着任早々の7月6日に国務省はスティムソン案のさらなる改定を要求し、7月7日の幹部会で紛糾したのちに、バーンズが元国務長官のコーデル・ハルに相談したようである。
では、元国務長官のハルがバーンズに対し、第12節後半を削除しソ連の対日参戦を待つべきだと打電した意図は何だったのか。
もし日本に立憲君主制の継続を容認するような和平勧告を出せば日本は受諾して戦争が終わってしまう可能性が高かった。それでは都合が悪いとバーンズが考えたのでハルに相談したのだろうが、ハルの回答に少なからず違和感を覚えるのは私だけだろうか。なぜハルは、原爆開発の情報を入手したにもかかわらず「ソ連の対日参戦を待つべきだ」と答えたのか

1945年2月のヤルタ会談で、ソ連はドイツ降伏後3ヶ月での対日参戦を約束していた。そしてドイツは5月8日に降伏した。したがって、ソ連は8月上旬には参戦するものと考えられていたが、その具体的日程についてはソ連からはまだ回答がなかった
一方アメリカは、7月上旬には原子爆弾をほぼ完成させており、実験に成功すれば太平洋戦争にアメリカが単独で勝利できる可能性が一気に高まることは言うまでもない。もし原爆実験が成功した後にソ連を参戦させてしまうと、ソ連を戦勝国の仲間に入れるということであり、アメリカはほとんど血を流さなかったソ連にも勝利の配当を分け与えなければならないことになってしまう。
アメリカが原爆開発を急いだ理由や、広島・長崎に相次いで原爆を落とした理由は、ソ連に漁夫の利を得させないという米国の強い意志の表れではないのか


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ところでコーデル・ハルといえば、彼が国務長官であった1941年11月に日米交渉において「ハル・ノート」を提示し、それが日本側の外交交渉断念を招いて開戦のきっかけを作ったことで知られている人物だ。そして、「ハル・ノート」を起草したのは、財務次官であったハリー・ホワイトで、この人物がコミンテルンのスパイであったことが、戦後に解読されたソ連の暗号文書(「ヴェノナ文書」)で判明している
ルーズベルト、トルーマン政権下のアメリカの国務省には多数の共産主義者が勤務していたことも「ヴェノナ文書」で明らかになっているが、バーンズ国務長官がハルに相談した内容の多くはソ連に筒抜けだったのではないか。当時、原爆がほとんど完成していたという情報はアメリカにとっては重要機密であったはずなのだが、このような情報がポツダム会談の直前に、ハルに近い人物を通じてソ連に流れた可能性を感じている。

ポツダム会談

というのは、7月17日からドイツベルリン郊外のポツダムで米英ソ3か国の首脳が集まってポツダム会談の、会議の始まる直前にスターリントルーマンに8月15日頃の対日参戦の意を伝えているからだ
トルーマンはこれで日本に勝利できると喜んだそうが、その翌日に原爆実験 (トリニティ実験) 成功の知らせを受け、それ以降のトルーマンは会議で豹変したという

ポツダム会談について詳述されている山下祐志氏の論文の一部を紹介したい。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980158.pdf?id=ART0001156844&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1386988410&cp=

トルーマン,_1945

「…『原爆実験成功』の報告を受けたトルーマン大統領は、瞬時にして完全に連合国の支配者になったチャーチル首相の見たトルーマン大統領は『別人のようになり』、『ロシア人に対し、かれらが、どこで乗り、どこで降りるかを指示するように話だしたし、全体として会議そのものを支配した』という。なぜならば、ポツダムにおいて、『つねに自己の利益ばかりを強引に計る冷酷な駆け引き人』という印象をスターリン首相に対して抱いた大統領は、『ロシアを日本管理にいささかも加わらせまいと決意した』からである。さて、かかる決意を固めた米首脳部にとって、残された課題は、日本の早期降伏(できればソ連参戦以前に)を誘導することであり、手段として原爆使用と対日声明発出のタイミングが論議の対象となった。
 スティムソン陸軍長官は、日本の和平の動き(対ソ工作)を見て、先ずこの会談で直に対日声明を発することを決意した。日本がソ連の懐に飛び込むことを嫌ったからである
。そして、それでも日本が受諾しない場合には、『新兵器』の行使と『ロシア実際の参戦』を背景に、いっそう強力な警告を再度発することを提言した。一方、バーンズ国務長官は、原爆の威力を誇示した上で対ソ外交を展開しようと考えており、声明の発出を時期尚早としてこれに反対した。そこでトルーマン大統領は、JCS(統合参謀本部)の意見を求めた。リーヒJCS議長は18日、対日声明の即時発出に賛意を表しつつ、ただ『立憲君主制』のくだりは、抽象的に『日本国民は自らの政治形態を選択する自由をあたえられる』と改めることをもとめ、この点で先の国務長官の見解を支持した。陸軍長官は20日、この修正に同意するとのメモを大統領に送るが、同時に、7月2日付草案第2項の『日本の無条件降伏まで』を、『日本が抵抗をやめるまで』と改めることを申し出た。これにより、国家の無条件降伏を示す箇所は消え、13項の「全軍隊」のそれのみが文面にのこることになった。」(『アジア太平洋戦争と戦後教育改革(11)――ポツダム宣言の発出』p.16)

それから7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。
かくしてポツダム宣言』は、ソ連側に何の口を差し挟むことが出来ないうちに、7月26日、突如として全世界に向けて発信されたのである。

ところでトルーマンの7月25日付の日記には「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と書かれているそうだ。トルーマンの頭の中では、天皇制に関する条項を削除したことにより、日本はこの『ポツダム宣言』に反応せず、それによって原爆を落とすことが出来ると考えていたことになる

次に『ポツダム宣言』に対するわが国の反応を見てみよう。

ポツダム宣言記事

これについてはWikipediaに詳細に書かれているが、この宣言の発表を受けてわが国政府は、その内容について公式報道はしても内容についての公式な言及をしないということが閣議決定され、7月27日に宣言の存在を公表した。翌日の新聞報道では読売新聞では「笑止、対日降伏条件」という見出しだが、このように主要各紙はこの宣言を黙殺して断固戦争完遂に邁進するのみといった論調だったようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80

しかしながら政府がこの宣言に対し何も言及しないのでは兵士の士気にかかわるとの軍部の圧力に押され、7月28日に鈴木首相は新聞記者団との会見において、閣議決定を無視して「政府としては何ら重大な価値あるとは考えない、ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまでも邁進するのみである」と答えてしまう。この発言が連合国においては日本側の拒絶回答と解釈されて、原爆投下やソ連参戦の口実を与えてしまうことになるのだ

ではなぜわが国は、『ポツダム宣言』に対して公式な言及をしないことを閣議決定したのだろうか。
この理由は、この期に及んでもわが国政府は、ソ連に和平の仲介を期待しその回答を待っていたからだというのだ。

ポツダム会談が開かれる少し前の6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を行うよう政府首脳に要請し、7月12日に近衛文麿が正式に特使に任命され、外務省から特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連に申し入れていたのだが、ソ連はヤルタ会談でドイツ降伏後3か月以内の対日参戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかったようだ。
そもそも、米英ソ3国の首脳が集まって、ポツダム会談であのような宣言が出た段階でもソ連の回答に期待するというのは信じがたい話で、わが国の外交センスのなさと情報収集力の弱さは昔も今も変わらない。

もしわが国が早期に『ポツダム宣言』受諾を決意していれば、戦後の歴史は相当違ったものになっていたはずなのだが、原爆が投下されてからも、マスコミの動きも軍部の動きもどこかおかしいのだ。
山下祐志氏の別の論文で、『ポツダム宣言』を受諾するまでのわが国の動きが詳述されている。しばらく引用させていただく。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980223.pdf?id=ART0001156933&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1387097098&cp=

「ポツダム宣言発表以来、これといった策を打ち出せないまま、一途にソ連の回答を鶴首していたところ、8月6日午前8時過ぎ広島に原子爆弾が投下された。7日朝、米側ラジオはトルーマン大統領の声明として、『6日広島に投下した原子爆弾は戦争に革命的な変化を与えるものだ。日本が降伏しない限り、さらに他の場所にも投下する』と伝えてきた。しかし、わが国軍部は原爆の開発は技術的にまだ不可能と信じていたこともあり、敵の謀略宣伝かも知れぬと主張して発表を禁じた。原爆であることが確認された(8日夕刻)後にも、軍部は国民の反応を恐れ、事実を覆い隠そうと画策した。すなわち、公的に『原子爆弾』との発表は終戦までなく『新型の特殊爆弾』と銘打ったまま、トルーマン声明に『迷ふことなく各自はそれぞれの強い敵気心をもつて防空対策を強化せねばならぬ』とか『新型爆弾決して怖るに足らず』と逆宣伝に躍起となった

昭和天皇

 国民に事実を隠蔽したまま、いち早く8日午前、東郷外相は宮中地下室で天皇に原爆についての外国報道の詳細と『ポツダム宣言』を受諾するほかないとの判断を上奏した。天皇は『この種武器が使用せらるる以上戦争継続は愈々不可能となれるにより、有利なる条件を得んがために、戦争終結の時期を逸するは不可なり』、『成るべく速かに戦争の終末を見るよう努力せよ』と沙汰を下した。…
 同日午後5時、モスクワの佐藤大使は、ポツダムから帰ったモロトフ外相とようやく会見を許された。モロトフ外相は、和平依頼の返答を求めに赴いた佐藤大使の発言を制して、わが国がポツダム宣言を拒否したために、ソ連政府は連合国の要請を受けて『明日即ち8月9日よりソヴエート連邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する』と対日宣戦の布告文を読み上げた。原爆投下に対して、ソ連政府はわが国よりも機敏に対応し、予定よりも6日早い参戦であった。佐藤大使はただちに本省宛至急電を打ったが、それはソ連政府に妨害されて届かなかった。数時間後、ソ連極東軍は国境を越えて満州に侵入し、関東軍に襲い掛かった。ここに、ソ連に託した和平工作の一縷の希望は、ものの見事に吹き飛んだ。」(アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾 p.4)

では、ソ連が参戦してわが国は『ポツダム宣言』の受諾の意思をすぐに固めたかというと、そうでもなかったのである。アメリカと同様にわが国の中枢にも、ソ連に対日参戦させて日本の領土を奪わせようとした人物が少なからずいたと思われるのだ。

受諾に至るまでの経緯は、次回に記すことにする。

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