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なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか

先日このブログで、慶応元年(1865)に幕府が第二次長州征伐の軍を起こし、14代将軍家茂が大坂城に入って大本営とした頃に、長州藩では大量の武器弾薬を上海ルートから密輸入して戦争準備を進めたことを書いた。アメリカの南北戦争が終わって用済みとなった大量の最新鋭武器が、「死の商人」たちによって次の紛争地である中国に集められ、さらに幕末の日本にも流れて行ったわけなのだが、この第二次長州征伐の戦争準備のために長州藩は慶応元年(1865)5月にミニエー銃千八百挺、ゲベール銃二千挺を金額合計四万六千両で密輸入する契約をしたという。
すると内戦勃発の戦雲が漂い始めて、欧米の駐日外交官が動き出した。鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている。

開国の真実

「イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表は会談をもち、慶応元年(1865)5月『四国共同覚書』を作成した。四国共同覚書は長州藩のきたるべき幕長戦争に際し、
 第一 日本の内戦に対する厳正中立。
 第二 絶対不干渉。
 第三 密貿易(開港場以外での貿易)禁止。

を取り決め、わが国に対する内政不干渉を申し合わせた。当然の姿勢と言うべきである。
 四国共同覚書のなかで特に重要な意味をもつのは、第三番目の密貿易禁止条項である。
 というのは、当時の開港場は通商条約が定めたうち長崎、函館、神奈川(横浜)の三港であり、
『通商条約で定められた兵庫については勅許がおりないため…』
いまだ開港されず外交懸案事項となっていた。
だから四国共同覚書がうたった第三項の『密貿易禁止=開港場以外での貿易禁止』とは、イギリスの長州藩に対する下関における小銃等の武器密輸出を禁止したことを意味する
 イギリスが長州藩に心を寄せていることは他の三国に周知の事実だった。
 だから第一項の『日本の内戦に対する厳正中立条項』も、第二項の『絶対不干渉条項』も、イギリスが日本の正統政府であり開国方針を堅持する徳川幕府に敵対する長州藩を支援しないよう、フランス、オランダ、アメリカ三国が牽制したものである。」(鈴木荘一『開国の真実』p.250-251)

 かつて徳川幕府はオランダのみに貿易を認めていたのだが、安政期にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで通商条約を締結し、それぞれの国が平等にわが国と交易が出来る状態にあった。にもかかわらず、イギリスが通商条約で禁止されている武器を討幕勢力に密売する動きが出てきたことを各国が警戒したのは当然である。
以前このブログで書いたように、当時の最新鋭の銃は幕府軍が所有していた銃と比較して飛距離、命中精度、破壊力に格段の差があり、大量に保有していれば幕府に対し銃撃戦で勝てる可能性が高かったし、イギリスには各国から警戒されるだけの前科があった。鈴木氏の著書の解説を続けよう。

「それなのに幕長戦争でイギリスが長州藩を軍事支援し、最新鋭小銃を装備した長州藩が勝って幕府が敗れ、長州藩の天下になれば、対日貿易は長州藩を軍事援助したイギリスの独断場となりかねない
 …
 思い返せば結局のところ、清国市場は香港・上海を押さえたイギリスが統治してしまい、他の三国は清国市場から事実上締め出されてしまった
 とくにフランスは『苦い思い』があった。フランスはこれまでイギリス外交に追随してきたが、その結果、良い思いをすることは無かった。対清国外交では、当時の広東駐在イギリス領事パークスが仕掛けたアロー号事件に際し、フランスもフランス人神父が殺害されたことを理由にイギリスと共に安政4年(1857)に清国へ出兵し、更に万延元年(1860)にはイギリスと共に大軍を送って清国を屈服させたのだが…。結果をみると、イギリスが香港対岸の九龍の割譲を得るという戦後処理となって、イギリスが清国市場を独占してしまった
 フランスは、イギリスの外交に追随して『骨折り損』という結果に終わったのである。」(同上書 p.251)

ここで、イギリスが清国に対してそれまでどのような事をしてきたかを簡単に補足しておこう。
『もういちど読む 山川の世界史』にはこう記されている。

「中国では古くから物資が豊かで、日用品の輸入を必要としなかった。このため、イギリスは茶を買い入れるにあたって、中国に銀を支払わなければならなかったが、18世紀末ころから銀にかえてインド産のアヘンを持ち込むようになった。1830年代には中国ではアヘンの輸入が激増し、逆に大量の銀が流出して国内経済が不況におちいった。アヘンの害毒は大きく、清朝はしばしば禁令をだしたが改まらなかったので、ついに強硬な措置を取ることをきめ、1839年、林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣してとりしまりにあたらせた。彼はイギリス商人所有のアヘンを没収して廃棄し、一般の通商を禁じたため、イギリスは外交・貿易上の問題点を一挙に武力で解決しようとして翌年遠征軍を送り、アヘン戦争(1840~42年)がおこった。」(『もういちど読む 山川の世界史』p.191-192)

アヘン戦争

林則徐はアヘン吸飲者・販売者の死刑執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求したのだが、それが履行されないために貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し焼却したのだが、イギリスは清に対して焼却されたアヘンの賠償を要求し、それが容れられないために海軍を派遣し中国海岸を北上して1840年に戦端を開いた。
イギリスはこのアヘン戦争で清国を圧倒し、1842年に南京条約が締結されて、清国は上海などの五港の開港および香港島の割譲と賠償金の支払いを余儀なくされたのである。

 このようなとんでもないやり方でイギリスは清国との貿易を開始したものの、その後も綿布などのイギリスの工業製品の中国への販売が伸びなかったため、イギリスはさらなる利権の拡大を武力によって勝ち取ろうと動いている。
再び『もういちど読む 山川の世界史』の解説を引用する。

「たまたま1856年広州港でおこったアロー号事件(イギリス船籍であったアロー号の中国人船員を逮捕した事件)が契機となって、英仏(フランスはカトリック宣教師の殺害事件を口実にした)両国と清とのあいだに戦争がおこった。これをアロー号戦争(第2次アヘン戦争、1856~60年)といい、英仏軍が北上して天津にせまったので、1858年天津条約が結ばれていちおう講和できたが、清が批准を拒絶したため、60年英仏連合軍は北京に進撃し、清は敗れて北京条約を結んだ。天津条約・北京条約によって清はイギリスに九竜(きゅうりゅう)割譲するほか、天津など11港の開港、外国公使の北京駐在、キリスト教の信仰と布教の自由、外国人の中国内地旅行の自由などを認めた。その結果、欧米諸国の中国における権利は、南京条約にくらべ一段と大きくなった。」(同上書 p.194-195)

アロー号事件

教科書には何も書かれていないのだが、アロー号はアヘンの密輸船でありその船に清朝の官憲が海賊容疑の立入りの検査を行い船員を逮捕した。ところが、イギリス領事のパークスはアロー号はイギリス領香港船籍の船であり、掲げていたイギリス国旗が引きずりおろされたことはイギリスへの侮辱であるとして清国に対し開戦に踏み切ったのである。実際のところアロー号の香港船籍は期限が切れていたらしく、イギリス国旗が降ろされたというのも事実かどうかはっきりしていないというからひどい話である。

こんな理由でイギリスは清国と開戦し、かくしてイギリスは清国を半植民地状態に陥れたわけだが、イギリスがこのようなひどいやり方をしたのは清国に対してだけではなかった。

インド大反乱

イギリスの植民地であったインドで、1857年にムガール帝国の皇帝を担ぎ出してイギリスの植民地統治に反対する大反乱*が全土で拡がったのだが、イギリスはこの反乱を鎮圧するためにイスラム教徒と対立関係にあったパンジャブのシーク教徒を味方につけ、射程距離が長く命中精度も高い新式の銃で、旧式の銃を持つ反乱軍を圧倒し、みせしめのために捕虜となった反乱軍の兵士たちを、大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して体を四散させるといった極めて残虐な方法で処刑している。

インド大反乱 反乱軍の処刑

このようにアジアの国々でひどい事をしでかした国が、わが国に対してだけは例外的に悪意を持っていなかったかのような幕末の歴史叙述はあまりに不自然で、そのまま鵜呑みにして良いとはとても思えないのは私だけではないだろう。
イギリスは、わが国に対しても清国と同様に、武力を用いてわが国を混乱させ疲弊させて、最後に半植民地化することを考えていたのではないのか。
*大反乱:以前は「セポイの反乱」と呼ばれていたが、最近では「インド大反乱」。インド側では「第一次インド独立戦争」と呼ばれている。

再びイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表が合意した『四国共同覚書』の話題に戻そう。
この覚書は、前述したとおり幕府に敵対する長州藩を支援するイギリスをフランス、オランダ、アメリカの三国が牽制するために交わされたものなのだが、イギリスはこの覚書があるにもかかわらず、長州藩に対する武器の供給を続けているのだ。

江戸幕府は長州藩が密貿易で最新鋭の銃を密輸入していたことを把握しており、幕府探索方が眼を光らせていた。また、長州藩は武器代金を特産物などで支払おうとしたくらいだからそれほどの資金があるわけではなかったようなのだが、では長州藩はどうやってイギリスから大量の武器を手に入れたのだろうか。

鈴木荘一氏は著書でこう解説しておられる。
長州藩がイギリスから密輸入する武器類は薩摩藩名義にして幕府探索方の眼を盗むと同時に、慢性的な米不足に薩摩藩は長州藩からの米の融通を受けて米不足を補い、また長州藩の資金不足を救ったのである。長州藩の武器輸入が『薩摩藩名義』で行われることになると、四国共同覚書によって禁止された長州藩の武器密輸入は法の網をかい潜ることが可能となった。長州藩が薩摩藩名意義で購入した銃火器類は、薩摩藩の船や長州藩が薩摩藩から購入した船で、長州藩内に搬入された。
 代わりに長州藩は米不足の薩摩藩に軍糧米を融通した。…こうして長州藩は近代兵器を揃えてますます強くなり、薩摩藩も農村の疲弊を顧みることなく強兵政策を推進しますます強くなった。」(同上書 p.256-257)

強兵政策に走ったことで農業生産者が兵士に取られたために薩摩藩では米が不足していた一方、薩英戦争講和後は、薩摩藩は大手を振ってイギリスから最新武器を購入できるようになっていた。そこで薩摩藩名義で長州藩の武器購入契約が結ばれて、薩摩藩の船で武器を長州藩に運び、長州藩の米と交換することで、長州藩の武器密輸入は法の網をかい潜ることが出来たのだが、その長州藩の武器の取引に土佐郷士の坂本龍馬が関与している

坂本龍馬

坂本龍馬が薩摩藩や商人の援助を得て亀山社中を結成したのが慶応元年(1865)閏5月で、その頃に『四国共同覚書』フランス、オランダ、アメリカの三国がイギリスと長州との密貿易を牽制している。
そして、7月には坂本龍馬の周旋により長州藩の伊藤博文・井上馨が薩摩藩名義でグラバーとミニエー銃四千三百挺、ゲペール銃三千挺、金額にして九万二千四百両の購入契約を結んでいるのだが、出来たばかりの亀山社中にこんな巨額の取引が周旋出来たのは不自然だと思うのは私ばかりではないだろう。

パークス

注目したいのは、清国でアロー号事件を仕掛けたパークスが、同年の閏5月に駐日公使として来航し着任している点。パークスは幕末から明治初期にかけて18年間駐日公使を務めたのだが、着任当初からグラバーらが通商条約と四国共同覚書に違反する取引を黙認しただけでなく、同年9月に幕府が第二次長州征伐を開始しようとした矢先に、幕府に対して『下関戦争賠償金第二回以降支払延期要請は、朝廷から通商条約勅許を得ない限り認めない』と突っぱねて、第二次長州征伐の開始を9か月遅らせたのである。
そのおかげで、長州藩はイギリスの支援を得て戦争の準備を整え、翌慶応2年(1866)の1月に坂本龍馬の活躍で薩長同盟が成立するという流れだが、鈴木荘一氏の同上書にはこう解説されている。

薩長両藩の連携は、薩摩藩が長州藩に武器輸入の名義を貸し、長州藩が薩摩藩に軍糧米をを融通する『三角貿易の商取引』がベースになったことは言うまでもない
 イギリス公使パークスとイギリス武器商人グラバーは、反幕府の旗印を鮮明にする長州藩と我が国最強の戦闘集団薩摩藩を合力させ、第二次長州征伐に備えた。こうした事情についてグラバーは、
『つまり自分の一番役に立ったのは、パークスと薩長の間にあって壁をこわしたことで、これが自分の一番の手柄だったと思います(史談会雑誌)』
と率直に告白している
。」(同上書 p..265-266)

パーマストン子爵

ついでに言うと、当時のイギリスの首相はアロー号事件、インド大反乱の反乱軍処刑に関わり、以前には外相としてアヘン戦争を主導したパーマストン子爵なのである。こんな人物がイギリスの政治や外交の主導権を握っていた時代にわが国の明治維新が起きていることは、とても偶然とは思えないのだ。

以前このブログで、イギリスのハモンド外務次官が1866年4月26日付でイギリス公使ハリー・パークスに宛てた文書の一節に「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」と書かれていることを紹介したが、明治維新が「日本人だけから端を発しているように見え」るためには、イギリスが討幕勢力に最新鋭武器の密貿易に加担したように見えては拙いことは言うまでもないだろう。
イギリスには、自国あるいはグラバー商会の意向に沿って動く日本人がどうしても必要になってくるのだが、その人物が坂本龍馬だったという説がある。私はその可能性がかなりあると考えるのだが、みなさんはどう思われますか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-26.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-28.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-29.html

坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-87.html



関連記事

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか

前回の記事で、フランス公使ロッシュの献策により、慶応3年(1867)5月に朝議の場で徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得、井伊大老の調印した通商条約の不備を補完して対外公約を果たし、これにより幕府は、諸外国から苛烈な要求をする原因を封じることに成功したことを書いた。

徳川慶喜はその2ヶ月前に大坂で各国の公使と謁見しその席で兵庫開港を確約したのだが、この時の慶喜は各国公使に好印象を与え、これまで討幕勢力を支援してきたイギリスの公使・パークスも慶喜を高く評価して次のような感想を書きとめている。

イギリス公使・パークス

わたしは将軍がどのような地位をしめることになろうと、可能な限りかれを応援したいと思っている。」
「この大阪訪問によって、とりわけつぎのような好ましい結果が生まれることを、わたしは信じて疑わない。それは、われわれ諸外国の代表が、以前よりもいっそう深い関心を将軍に対してもつようになることである。」
じっさい、将軍は、これまでわたしが知り合った日本人の中で、もっともすぐれた人物であるように思われる。おそらく、かれは、歴史にその名をとどめることになるであろう。」
(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4 慶喜登場』p.409より)

これまで討幕派を支援していたイギリスの公使が、徳川慶喜という人物に謁見した途端に幕府・将軍に心を寄せることになることは、薩長にとっては面白くないことであることは言うまでもない。

この謁見のあと、西郷隆盛らがイギリス公使館の対日政策に関わっていたアーネスト・サトウを訪ねている。サトウの著書にはこう記されている。

アーネスト・サトウ

「私は、西郷やその一派の人々の訪問をうけたことを覚えている。彼らは、我々と将軍との接近について、大いに不満であった。私は、革命の機会がなくなったわけではないことを、それとなく西郷に言った。しかし、兵庫が一たん開港されるとなると、その時こそ、大名は革命の好機を逸することになるだろう。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.255)

慶喜は慶応3年(1867)6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出しているのだが、いったん兵庫港が開港されて外国人が居留するようになれば、諸外国は平和を求めることになり、薩長の討幕運動は外国からの支持を得られなくなってしまうことをサトウは西郷らに伝えたのであろう

その後の薩摩藩の動きを見ていると、このサトウの言葉に触発されたことが窺えるのだ。
徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得ようとした5月の朝議(四候会議)で結論を先延ばしにする工作を行っていたのだが慶喜に押し切られてしまい、その会議の直後に薩摩藩は武力討幕の方針を固めている

一方徳川幕府は、前回記事で記したとおり、フランス陸軍の指導により近代的陸軍を整備していた。幕府軍は第二次長州征伐で大敗した頃とは様変わりしており、フランスはこの軍隊で薩長を倒すことを考えていたようである。

慶応3年(1867)8月に薩摩藩の西郷隆盛らが再びアーネスト・サトウを訪ねてきた際に、サトウが西郷らに話した内容が前回紹介した『幕末期東亜外交史』に出ている。フランスは、イギリス大使のパークスが慶喜びいきになったのを見て、共同で薩長を倒そうとサトウに持ちかけてきたというのだ。その本にはこう記されている。

仏人はサトウに、幕府の薩長取り潰しを仏英協力して援助してやろうではないかと、話を持ち掛けてきた。サトウは『串戯(じょうだん)でしょう。長州一藩さえ抑え切れぬ幕府など、援助しようにも方法がつかぬではないか。』とやりかえしたので、仏人も二の句がつけなかったようなわけです。しかしかかる論を公然とイギリス人にもちかける位ですから、フランスは、きっと幕府を援けて、諸侯をつぶす策をめぐらしていることは勿論で、幕府は『両三年のうち、金を集め機械を備え、仏(フランス)の応援を頼み、戦を始め候所存』とみえる。その時は、仏は、軍隊をくり出して幕府を援助するだろうから、諸侯の方でも、仏に負けない大国を背後に備えないと、危ないことになろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/141

「仏に負けない大国」とは、イギリスを指していることは言うまでもない。
そうサトウが述べた後に西郷らに対してイギリスに相談したいことがあれば言ってもらいたいと持ちかけた際に、西郷隆盛が語った有名な言葉がある。
日本政体変革の処は、いずれとも、我々尽力致すべき筋にて、外国の人に対し、面皮もなき訳と返答いたし置き申し候。」
要するに、日本の革命はわれわれ自身の手で行うことをサトウに宣言したのだ。

西郷隆盛

西郷が国許の桂に宛てた手紙に、この会談でサトウが西郷らに何を言い西郷がどう考えたかについて、こう記録されている。
譬(たと)え仏の援兵を相発し候時は、英国より押し付け候儀は相調(ととの)い申すべく、その節は英国においても戦争のため警護出兵いたすと申し触らし、同敷(おなじく)軍兵を差し出し候えば、必ず仏国の援兵は差し出し候儀は相叶い申さず候に付き、右のご相談も候わば承るべしと、却(かえ)って彼(サトウ)の方より申し出候に付、是は大幸の訳、其の時機に至りては御相談申すべしと相答え候ては、又英国に使役せらるる訳に相成り候のみならず、全く受太刀に落ち来り、議論も鈍り、此の末の処下鳥(したどり。負け犬というほどの意)に相成り候儀、自然の勢いに御座候故…」(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄5 外国交際』p.273-274)

サトウの言う通りに幕軍に対抗するためにイギリスの出兵を依頼してしまっては、たとえ幕府軍に勝利しても、わが国はイギリスに支配される国になってしまうことは西郷にはわかっていたのだ。しかしながらイギリスは、わが国が内乱状態に陥ることを期待していたからこそ、薩長を挑発し続けたのではなかったか。

大政奉還

そしてその2カ月後には、徳川慶喜は朝廷に政権を返上しているのだが、この時代の歴史はいくら教科書を読んでも、なぜ慶喜が大政奉還を選択したかがさっぱりわからない。

たとえば、標準的な高校の教科書である『もう一度よむ山川日本史』では、その前後の歴史についてこう記されている。

「長州再征の失敗後、徳川(一橋)慶喜が15代将軍となったが、幕府の力はすっかり衰えた。土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎らは、欧米列強と対抗するためには、天皇のもとに徳川氏・諸大名・藩士らが力をあわせて国内を改革する必要を強く感じた(公議政論)。彼らのはたらきかけで、前土佐藩主山内豊信(容堂)は、将軍慶喜に政権を朝廷に返上するよう進言した。慶喜もこれを受け入れ、1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出た。しかし同じころ、薩長両藩の武力討幕派は、岩倉具視ら急進派の公家と手をむすんで討幕の密勅をえた。そして彼らの主導によって、同年12月9日、いわゆる王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士などからなる新政府が発足し、二百数十年つづいた江戸幕府は滅亡した。」(『もう一度よむ山川日本史』p.216)

ほとんどの教科書には、イギリスやフランスの動きにも兵庫開港問題にも何も触れておらず、これではなぜ薩長が討幕を急いだかが見えてこないし、幕府と討幕派との内戦が始まってもおかしくない緊迫感が全く伝わってこない。これでは慶喜が朝廷から兵庫開港の勅許を得てからわずか5カ月で大政奉還を申し出たかが理解できないのは当然だと思う。

そもそも将軍慶喜が土佐藩の大政奉還建白を受けいれた意図はどこにあったのだろうか。

徳川慶喜

次のURLに徳川慶喜の『大政奉還上表文』の原文と現代語訳が出ている。
http://www.geocities.jp/sybrma/259taiseihoukan.html
重要なのは次の文章である。
「最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。」
内容的には、慶応4年(1868)3月に公布された明治天皇の『五箇条の御誓文』の内容によく似ているのである。

開国の真実

今まで何度か紹介した鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう解説されている。
「大政奉還1ヶ月前の慶応三年(1867)九月には、幕府開成所教授津田真道が著書『日本国制度』を提出し、大政奉還後の政治体制のあり方について論じている。徳川慶喜が考えた大政奉還とは。『自らの力で開国を成し遂げ、慶喜が中心となってイギリス型の近代的議会主義へ転換すること』だったのである。
 イギリスは、共和国のフランスやアメリカと異なり、国王を元首とする立憲君主制で、国王は『君臨すれど統治せず』の原則により政治責任をおわない。首相が政治上の指導者である
 イギリス立法府は上院と下院からなる二院制で、上院は世襲議員や僧侶から構成され、イギリスには今も貴族制度が残っている。
 だから、当時の日本が天皇制や公家制度など古(いにしえ)からのしがらみを遺しながら近代化を図るには、イギリスを手本として、天皇を国家元首とし、大君(将軍)を政治上の指導者とし、一万石以上の大名を世襲の上院議員とすれは、容易にイギリス型公議政体に移行できる。
 徳川慶喜は『刀槍の時代の次は議会の時代』と考えた
のである。」(『開国の真実』p.308-309)

アーネスト・サトウが予想していたように、徳川幕府がフランス軍の協力を得て、薩長等の討幕勢力を征伐する選択もあったのだろうが、徳川慶喜はそれを選択せず、平和的に政治体制を変革することを選んだのである。
慶喜は、大政奉還を奏上しても朝廷には政権を運営する能力も体制もないので、徳川家が天皇の下で新政府に参画すれば実質的に政権を掌握することができると考えていた可能性が高い。事実朝廷からは、上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら、緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとされている。つまり慶喜による政権掌握が実質的に続くことになったのである。

もし、慶喜が大政奉還ではなく倒幕勢力を征伐することを選択していたとしたら、恐らくイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する大規模な戦いが始まっていたことであろう。
以前にこのブログで書いたが、幕末期にわが国に大量に輸入されたミニエー銃は、従来のゲペール銃と較べ、飛距離と命中精度と破壊力が飛躍的に向上し、アメリカの南北戦争では62万人もの戦死者が出たという。
幕府軍と薩長との間で本格的な内戦が起こってしまっていたら、殺傷力の高い武器で多くの人命が失われていただろうし、国土は荒廃し人々は疲弊して、どちらが勝利しても我が国が独立国であり続けることは難しかったと考える。

英邁な徳川慶喜はそのような事態になることが分かっていたからこそ、討幕派の機先を制して「大政奉還」を奏上し、討幕の名目を奪って内乱が起こることを防ごうとしたのではなかったか。

一方の討幕派は、大政奉還に対抗して薩摩藩および長州藩に宛てて秘密裏に徳川慶喜討伐の詔書を下している。
この「討幕の密勅」について書き出すとまた長くなってしまうので、次回に記すことといたしたい。

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このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-156.html

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-157.html

幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-158.html

中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-178.html

アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
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江戸無血開城の真相を追う

慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れて、徳川慶喜は大坂城を離れて江戸に還るのだが、江戸城の家臣も大坂城と同様に主戦論を主張する者が大半であった。

渋沢栄一の『徳川慶喜公伝 巻4』にはこう解説されている。
陸海軍人殊に海軍副総裁榎本和泉守(武揚)、陸軍奉行並小栗上野介(忠順)、歩兵奉行大鳥圭介(純彰)及新選組の人々などは概ね戦を主とし(戊辰日記、彰義隊戦史)、兵を箱根、笛吹に出して、官軍を待たんというものあれば、軍艦を以て直に大阪を衝かんというものもあり(海舟日記)、又関八州占拠の策を献じ、軍隊の新組織法を建白し(七年史所載陸軍調役並伴門五郎・同本多敏三郎等嫌疑)、或は輪王寺宮(公現親王、後に北白川宮能久親王)を奉じて、兵を挙げんというものもあり(彰義隊戦史)、或は君上単騎にてご上洛あらば、士気奮いて、軍機忽ちに熟せんと激語する者もあり(海舟日記)。老中等も是等の説にや同じけん。…
主戦派の人々は激論に激論を重ねて、いつ果つべしとも見えず。有司はこもごも公に謁して其説を進め、論談往々暁に達し、諸士相互の議論に至りては鶏声を聞かざれば已まず。(海舟日記)。正月17日若年寄堀内内蔵頭(貞虎、信濃須坂藩主)は、身要路に居て此の難局を処理する力なく、御委任を全くすること能わずとて、遂に殿中に自刃せり。其の意、死を以て幕議を恭順に定めんとするにありという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/214

小栗忠順
【小栗忠順】

またWikipediaにはこう記されている。
「慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗(忠順)は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は『新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する』という挟撃策を提案した…。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86

小栗上野介らが提案した策は、後にこの策を聞いた長州藩の大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかった」と恐れたほどのものであったようなのだが、徳川慶喜は小栗の案をしりぞけ、15日には小栗を罷免してしまっている
江戸城では朝敵とされようが、錦の御旗が敵方にあろうがかまわず薩長を討つべしとの考え方が大半であったようなのだが、そのなかで徳川慶喜はともかくも恭順論を貫き通したのである。

福地源一郎
【福地源一郎】

主戦論者の中には、外国の支援を得て戦おうとする意見も少なくなかったようだ。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に福地源一郎の回顧録である『懐往事談』の文章が引用されている。
故に或は仏国に税関を抵当として外債を起こし、以て軍資に充て、援兵を乞うべしと言えば直に同意し、米国より廻船の軍艦を、海上にて歎き受取るべしと言えば、異議なく左袒*し、横浜の居留地を外国人に永代売渡にして、軍用金を調達すべしと言えば、これ以て名策なりと賛成したるが如き、今日より回顧すれば、何にして余はここまで愚蒙にてありしかと、自から怪しまるる程なりき。」
*左袒(さたん):同意して味方すること
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/41

わが国の領土を売却して軍資金を捻出し、フランスやアメリカとともに薩摩・長州と戦おうというのだが、薩摩・長州にはイギリスがついていた。そんなことをしていれば、両軍から多数の死傷者が出たことは確実で、またどちらが勝利したとしても借金の返済が出来ないために多くの国富や領土を外国に奪われるところであったのだが、こんなバカな話が江戸城で真面目に議論されていたことを知るべきである。

ロッシュ
【仏公使 ロッシュ】

もちろんフランスは黙ってはいなかった。フランス公使ロッシュは1月18日に将軍に謁見を申し入れ、19日に登城している。この時の慶喜との会話が如何なるものであったのか。徳富蘇峰の同上書に徳川慶喜の『昔夢会筆記』が引用されている。

「…(ロッシュ曰く)『此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし』と、いとも熱心に勧告したり。予は『好意は謝するに余りあれども、日本の国は他国に異なり、たとい如何なる事情ありとも、天子に向かいて弓ひくことあるべからず。祖先に対して申し訳なきに似たれども、予は死すとも天子には反抗せず』と断言せしに、ロッシュ大に感服したるさまにて後言う所なかりき。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/45

また慶喜は、19日に在江戸諸藩主を恭順の意を伝えて協力を要請し、20日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請を行い、23日には、徳川家人事を大幅に変更し、庶政を取り仕切る会計総裁に恭順派の大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁に同じく恭順派の勝海舟を抜擢している。
そして27日には、慶喜は紀州藩主の徳川茂承らに、朝廷に隠居。恭順を奏上することを告げ、2月9日には鳥羽伏見の戦いの責任者を一斉に処分し、翌日には松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じ、そして12日には江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺に移って、その後謹慎生活を送っている

では、新政府軍の西郷隆盛や大久保利通は慶喜をどうするつもりであったのだろうか。
西郷が大久保宛に書いた2月2日付の書状を見ると、「…慶喜退隠の歎願、甚以不届千万。是非切腹迄には、参不申候ては不相済」とあり、西郷は慶喜を生かしておくつもりはなかったようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/93

また、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした新政府の東征軍は、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍し、駿府で行われた3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日と決定している。
そして勝海舟は、差し迫る東征軍との江戸における内戦を避けようと、西郷との交渉を考えていた。勝は、西郷が徳川家の歎願を受けいれなかった場合や、屈辱的な条件を要求してきた場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防ぎ、焦土とする作戦であったようだ。

勝海舟
勝海舟

3月10日付の『海舟日記』にはこう記されている。
「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を挙て進まんとせば、城地灰燼、無辜死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼暴挙を以て我に対せんには、我もまた彼が進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177471/75

勝は江戸湾にあらかじめ船を用意して、火災が起こった際に避難民を救出する計画まで立てていたようだが、ここまで覚悟して西郷との交渉に臨もうとしていたのである。

一方の新政府軍だが、不案内な江戸城下で戦うとなると大量の負傷者が出ることが想定されるので、西郷の命を受けて、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)が横浜の英国公使官へ向かい、公使パークスに面会をして傷病兵の為に病院の世話を依頼している。薩摩藩からすれば、これまで英国の支援により最新鋭の武器を大量に購入してきた経緯があり、京都で負傷者の治療を要請したこともあるので、今回の戦いの負傷者のための病院の世話ぐらいなら引き受けてくれるだろうと軽く考えていたのだが、この時のパークスの反応は西郷の想定を大きく越えるものであったようだ
徳富蘇峰の前掲書に、渡辺清の談話が紹介されている。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス

パークスは如何にも変な顔つきを致して、これは意外なることを承る。吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は、恭順ということである。恭順している者に、戦争を仕掛けるとは、如何という
 木梨いう、それは貴君の関する所ではない。吾々はどこまでも戦えという命令を受けてきた。ともかく用意してくれといったところが、そんなことは出来ませぬ。いずれの国でも恭順即ち降参という者に向かって戦争せねばならぬということは無いはず。その上いったい今日は誰から命を承けて来られたか。大総督から。それは如何なることか。…いったい今日貴国に政府は無いと思う
…もし貴国で戦争を開くなら、居留地の人民を統括している領事に、政府の命令が来なければならぬ。それに今日まで何の命令もない。また素より命を発するに際しては、居留地警衛という兵が出なければならぬ。その手続きが出来た以上に、戦争を始むるべき道理。かくありてこそ、始めて其国に政府があるというものである。しかるに、それらの事は一つもしてない。それゆえ、自分は無政府の国と思う。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/178

こんな調子でパークスは激怒して途中で面談を中止してしまい、木梨と渡辺は品川に戻ってこのことを西郷に報告したのだが、さすがに西郷も、官軍側に手落ちがあったことを認めざるを得ず、渡辺にこう述べたという。

「自分も困却している。かの勝安房が、急に自分に会いたいと言い込んでいる。これは必ず明日の戦争を止めてくれというじゃろう。彼じつに困っている様子である。そこで君の話を聞かせると、全くわが手元に害がある。故にこのパークスの話は、秘しておいて、明日の打ちいりを止めねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/181

西郷隆盛
西郷隆盛

江戸城無血開城については西郷隆盛勝海舟の二人がクローズアップされて、まるでわが国を救った英雄のように描かれることが多いのだが、実は西郷はパークスが激怒したことを知って考え方を改め、二人が談判を始める前から江戸城総攻撃を中止する肚を固めていて、勝と談判に及んだということなのである。

以前このブログで、イギリス公使館のアーネスト・サトウが西郷に対し、『兵庫・大坂が幕府の手で開かれてしまえば、その地の平和と安全とは、諸外国の関心事となるから、これらの土地の争奪、これらの土地での戦闘は、諸外国が、艦砲と陸戦隊との力にかけて、防止するであろう』と述べたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

兵庫港はすでに慶応3年12月7日に開港しており、サトウの言葉を借りると、諸外国のわが国における関心事は、開港地における平和と安全の維持に関心が移っていたのである。
したがって、横浜や神戸など開港地に近い場所で幕府軍と新政府軍が戦う状態が長引くことは外国の干渉を招く危険が高かったのだが、前述したとおり、幕府軍にはフランスの支援を得て新政府軍と戦おうと考える者が少なからずいた事実がある。
当時神奈川にはイギリス兵2大隊、フランス兵1大隊がいたという。もし幕府が正式にフランスの軍事支援を要請していたら、イギリス軍はおそらく新政府軍を支援したことであろう。もしそうなっていたらわが国は、それから後も独立国家であり続けることは難しかったのではないだろうか。

『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 
【『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 】

西郷隆盛勝海舟の談判によって江戸城の無血開城が決定し、当時人口100万人を超えていた世界最大級の都市であった江戸が、戦火に巻き込まれることから救われたことは間違いがない。二人とも立派な人物であったことは私も同意するところなのだが、江戸無血開城はこの二人の歴史的大英断によって成し遂げられたという見方は単純にすぎる。そもそも徳川慶喜という人物が最後の将軍でなければ、江戸城無血開城が実現することはなかったのであり、慶喜にもっと着目すべきだと思う。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

慶喜は、自らをそして徳川家を犠牲にして大政奉還したのち、ひたすら朝廷に恭順し、大坂城、江戸城で徹底抗戦を主張する大多数の幕臣達に抗し、鳥羽伏見の戦いを止めることは出来なかったが、江戸に入ると主戦派の幹部を罷免し、恭順派の勝海舟らを幹部に抜擢し、またフランスの支援の申し出を断り、一貫して戦うことを避けようとしたことは何のためだったのか。
英仏軍が駐留するなかでその両国の干渉を排除して平和裏に政権交代を成し遂げさせるということは、当時の世界においては奇跡に近い出来事であったと思う。それが実現できたことは、徳川慶喜の決断によるところが極めて大きかったと私は考える。
慶喜が徳川幕府の最後の将軍であったことはわが国にとっては非常に幸運なことであり、彼のお蔭でわが国は独立を維持できたという見方はできないか。

鈴木荘一氏は著書『開国の真実』の最後をこう締めくくっている。

「確かに幕府主戦派の主張どおり、幕府は全力で戦えば決して簡単には負けなかったかも知れない。
しかしイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する構図の下での内戦が激化すれば、やがてイギリスやフランスをはじめ外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても、わが国の独立は制約を受けただろう。
徳川慶喜はそのことに気付いていたようである

条約勅許を獲得し兵庫開港を実現して『第一の開国』を完成させ、更にイギリス型議会制度を想定して大政奉還を断行した徳川慶喜としては、人情においては、自分の手で日本近代化を成し遂げたかっただろう。
しかし徳川慶喜は自分に課された最大の政治課題である開国の大業を成し遂げた後、みずから恭順謹慎して政権を捨てた。
徳川慶喜のこの無欲の心こそ、1860年代当時の厳しい国際情勢下において、わが国が独立を護る唯一の道だった
のである。」(『開国の真実』p.334)

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-164.html

明治維新と武士の没落
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明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
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静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
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徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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