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アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6

前回まで2度に分けてアメリカによるハワイ王朝打倒の話を書いたが、ハワイ以降のアメリカによる19世紀末の太平洋進出を理論的に正当化した人物として、A.T.マハンという人物がいる。彼は『海上権力史論』という著書の中で、欧米史においてシーパワーがいかに重要であったかを論証したのだが、そのA.T.マハンが、1897年の米上院外交委員会の報告書で次のように記している。

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「現下のハワイ紛争は、めざめつつある東洋文明の力と西洋文明の力との間の、きたるべき大闘争の前哨戦にすぎない。真の争点は『太平洋の鍵』を支配して優位を占めるのがアジアか、それともアメリカか、ということなのだ。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.176所収)

前回、前々回のこのブログの記事を読んで頂ければわかると思うが、マハンがここで「アジア」と書いているのはわが国のことを指している。マハンのこの文章は、すでにこの時点で、アメリカが後に日本と相争うことを予見しているかの如くである。

マハンはこの報告で『太平洋の鍵』という表現を使っているが、どの場所を支配すれば太平洋の制海権を握ることができるかという意味であろう。もちろんハワイは重要な『鍵』であったが、他にもいくつかの『鍵』があり、フィリピンもその一つであったようで、アメリカはハワイに続いて、フィリピンをかなり強引に獲りにいっている。今回はそのフィリピンのことを書いてみたい。

Wikipediaを読むと、1521年ヨーロッパ人として最初にフィリピンを訪れたのは、世界一周で名高いポルトガル人のマゼランのようだが、マゼランは強引なキリスト教の布教が原因で原住民の反撃を受け、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃されて戦死してしまっている。
人類初の世界一周の偉業は、正確にはマゼランが成し遂げたものではなく、マゼラン艦隊が成し遂げたものと言うことだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3

その後1565年にはスペイン人のミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を領有したのを皮切りに徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分が征服されてスペインの領土となったとある。
しかし19世紀末にフィリピン原住民の民族的自覚が高まり、特に1887年にホセ・リサールが書いた小説『ノリ・メ・タンヘレ(我に触るな)』がスペイン圧政下に苦しむフィリピンの諸問題を告発したことが、民族運動に強く影響を与えたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

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ホセ・リサールという人物は日本ではあまり知られていないが、医者でもあり、小説家、歴史家、芸術家としても知られ、語学は21か国語に通じた天才で、フィリピンではフィリピンの国父ともいうべき国民的英雄だそうだ。
彼の思想はスペインからの分離独立を志向するような過激なものではなく、フィリピン人の生活改善を願う改革者であったのだが、スペイン当局からは危険人物としてマークされ、当局から逃れるためにロンドンに向かう途中で、1888(明治21)の2月に日本にも立ち寄った。
日本には束の間の滞在のつもりであったのだが、すぐに彼は日本の魅力に取りつかれてしまい、出発を先延ばしにする。案内してくれた江戸旗本の武家の育ちであった臼井勢似子[おせいさん]にも魅了されて、東京や箱根など各地を精力的に見て回り40日以上も滞在したのだそうだ。
しかし世界各地にはフィリピンの独立のために戦う同志が待っている。断腸の思いで彼は日本を離れてヨーロッパに旅立つのだが、この時におせいさんに手渡した手紙にはこう書かれていたそうだ。

臼井勢似子

「日本は私を魅了してしまった。美しい風景と、花と、樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ! おせいさんよ、さようなら、さようなら。・・・
思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活ができる道が申し出されているのに。
私の青春の思い出の最後の一章をあなたに捧げます。どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。・・・
もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。 さようなら。さようなら。」

その後リサールは、ヨーロッパにわたって執筆活動をしたのち、1892年に危険を冒してフィリピンに戻って「フィリピン同盟」を結成するのだが、その直後に逮捕されミンダナオ島に流刑されてしまう。
1896年にフィリピンの革命軍が武器を持って立ち上がり、革命軍の蜂起に慌てたフィリピン総督は、リサールを逮捕してマニラに連れ戻して裁判にかけた。彼は暴動の扇動容疑で銃殺刑を宣告され、マニラ湾の見える刑場でスペイン兵により銃殺され35歳の短い人生を終えたという。

リサール公園

彼が処刑された場所はリサール公園として整備され、処刑日の12月30日フィリピンの祝日とされて、毎年フィリピンの国父であるリサールを追悼する儀式が行われているのだそうだ。

リサールが処刑された前後から独立派内部の対立が激化し、リサールの処刑の翌年5月に親米派のアギナルドは親日派のボニファシオを捕えて処刑して全権を掌握し、山中の根拠地にフィリピン共和国臨時政府を樹立し、6月に「フィリピン共和国独立宣言」を発表したが、植民地軍はスペイン本国からの兵力補給により優勢に転じた。

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形勢不利と判断したアギナルドは簡単に「独立」を反故にして、スペインから80万ペソを受取ることを条件に和平協定を結び、自発的に香港に亡命してしまった。

ところが翌1898年に米西戦争が勃発し、フィリピンを支配しているスペインとアメリカとの戦いが始まった。
この戦争が勃発する前後に米大統領がフィリピンのことをどう述べているかは注目してよい。

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マッキンレー大統領は1897年の教書ではこう述べている。
「(スペイン領土の)強制的併合などは、まったく思いもよらぬことだ。それは我々の道徳律に照らして、犯罪的侵略であろう。」
それがわずか二年後には次のように変わるのである。
「われわれのなすべき唯一のことは、フィリピン諸島をわがものとなし、フィリピン人を教育し、彼らを向上せしめ、文明化し、キリスト教化する…ことである。」 (ビーアド『アメリカ精神の歴史』)

1898年の米西戦争はアメリカの新型戦艦メイン号がキューバのハバナ港内で爆発・沈没し、将兵260名が死亡する事件が起こり、これをスペイン側の仕業と断定して「リメンバー・メイン(メイン号を忘れるな)」というスローガンで国民世論を対スペイン開戦論一色に染め上げることに成功し戦争に突入したのだが、今日ではメイン号を爆発させたのはスペインの機雷ではなかったという説が多数説となっており、原因が石炭の自然発火かアメリカの自作自演かのいずれかについて未だに結論が出ていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3_(ACR-1)
アメリカが「リメンバー」と高らかに唱えて世論を動かし、戦争に突入する事例はアメリカの歴史では過去に何度かあるのだが、アメリカがこの「リメンバー」という言葉が唱えて戦争に入る時は、開戦に導くためのプロパガンダであった臭いがあり、アメリカの主張をそのまま鵜呑みにすることは危険であることは過去の歴史が証明しているように思う。
http://onoderakouichi-truth.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-a425.html

話をフィリピンに戻そう。この米西戦争はスペイン領であったフィリピンにも波及し、米海軍のデューイ提督はマニラ湾のスペイン艦隊を撃破した。提督はその後、香港に亡命していたアギナルドに「独立運動を支援する」という触れ込みで接近し、もともと親米傾向のあったアギナルドは「決してフィリピンをアメリカの植民地にはしない」という約束を信じて米軍艦で帰還し、対スペイン独立戦争を再開した。

ここから、いままで何度か紹介した勝岡寛次氏の著書を引用する。

「5月24日、米国の勧めで独裁政府を樹立したアギナルドは、国民に向かって次のようによびかけた。
『フィリピン国民よ。偉大なる北米合衆国は真正な自由の揺籃(ようらん)であり、…かれらは保護を宣してわれらに手を差伸べた。これは決意に満ちた行為である。米国は、フィリピン国民が不幸な祖国を自治する能力を持つ十分に開花した民族であると做すが故に、わが住民にたいし微塵の私欲も抱くはずがない。寛大なる北米合衆国がわれらに与えた高き評価を維持するために、われらは、この評価を低めうる一切の行為を嫌悪すべく心掛けねばならぬ。』(レナト・コンスタンティーノ『フィリピン民衆の歴史』Ⅱ)」

…かうして、フィリピン独立に対する米軍の支持を取り付けたと信じたアギナルドは、破竹の勢いで、スペイン勢力を駆逐し、翌1899年1月、第一次フィリピン共和国(マロロス共和国、大統領アギナルド)が誕生した。ここに独立が達成されたかに見えたが、何ぞ知らん、米国は前年12月のパリ条約でスペイン側と勝手に取り引きし、フィリピンを2千万ドルで買収・割譲せしめることに合意してゐたのであった。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.184)

要するにアメリカはアギナルドを騙してスペインと戦わせ、スペインが敗れると安い価格でスペインからフィリピンを買い取った。そしてアメリカはフィリピン共和国の建国を認めず、今度は独立派を虐殺にかかる。

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Wikipediaによると
「アメリカ合衆国からは8月14日に11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカ合衆国はフィリピン侵略のために残虐の限りを尽くし、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。 この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである。(彼の三男がダグラス・マッカーサーである)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%AF%94%E6%88%A6%E4%BA%89

この米比戦争でどれだけのフィリピン人が虐殺されたかについては諸説があるようだが、抵抗するゲリラに味方したとして米軍が村々を焼き払い多くの農民を虐殺したことは事実であり、「フィラデルフィア・レジャ」紙は、米比戦争の二年間でルソン島住民の六分の一が殺されたと当時報道しており、これは約61万6000人にあたる数字なのだそうだ。

米比戦争

上の図はネットで見つけたものだが、当時ニューヨークジャーナルに掲載された風刺画で、フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵が描かれている。アメリカ兵の背後に”KILL EVERY ONE OVER TEN(10歳以上の者は皆殺し)”と書かれているのが読める。

アメリカに欺かれたアギナルドは、首都マロロス陥落後は正規軍を解散してゲリラ戦を展開するも1901年に米軍に逮捕されると、アギナルドは態度を一変しアメリカへの忠誠を誓い、仲間に抵抗の中止を呼びかけたという。その後抵抗運動は次第に下火となり、1902年に鎮圧されてフィリピンはアメリカの植民地支配下に置かれることとなったのだ。
独立派はよく戦ったが、選んだリーダーを誤ってしまったようだ。

この間の経緯を述べた次の論文は史実からすれば当たり前ことを書いているにすぎないのだが、引用部分がすべてGHQの検閲により削除されてしまっている。(木村毅「マッカーサー元帥」昭和21年1月『キング』第22巻第1号)
「私は實は、米西戰爭から引き続いての米比戰争は、アメリカ史の汚点だと思って、心からこれを惜しんでいる。…ヒリッピンに獨立を約束して、スペインに叛(そむ)かせ、後でその約束を踏みにじったのだけは、辨解(べんかい)の餘地(よち)がないだろう。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.185所収)

終戦直後のアメリカにとっては、今後日本が二度とアメリカに歯向かう事がないようにしたかったのは当然のことで、アメリカに騙されたり裏切られたりした国の歴史を日本人に知られてはまずいとの判断から、そのような記述を封印したということはわからないでもない。

しかし、終戦後66年以上が過ぎてもこのような歴史が日本人に知らされない状況が続いていることおかしなことだと思う。手元にある「山川の日本史」にはハワイのこともフィリピンのことも全く何も書かれていないのだ。
このような歴史を知らずして、どうして明治の日本人が軍事力強化を急いだかを正しく理解できようか。ハワイもフィリピンもアメリカに酷いやり方で侵略された事実があり、他の欧米列強各国も世界を侵略していた事実があるからこそ、わが国が自国を守るために富国強兵政策をとったのではないのか。

このブログで何度も書いていることだが、どこの国でもいつの時代も、歴史は勝者にとって都合の良いように書き換えられるものである。
我々が今まで学び、マスコミや出版物などで接してきた歴史はほとんどが、第二次世界大戦の勝者にとって都合の良い歴史であることを知るべきだと思う。

真実は、彼らが日本人に広めようとした歴史と、封印した歴史の双方をバランス良く学び、その違いを知ることによって少しずつ見えてくるのではないかと考えている。
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関連記事

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉

前回の記事で1584年にイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、日本のキリシタン大名を用いて中国を征服して植民地化することをスペイン国王に提案していたことを書いたが、同様な宣教師の当時の記録はいくつも存在する。

日本史の歴史教科書には何も記されていないのだが、スペインが1571年にフィリピンを征服した(「フィリピン」と言う地名はスペイン国王フェリペ2世に由来する)。
スペインは16世紀前半にアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼし、その後世界に植民地を拡大して「太陽の没することなき帝国」と言われた最盛期の時代を迎え、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去すると以後スペイン王がポルトガル国王を兼務し、植民地からもたらされた富でヨーロッパの覇権を握ったとされる。

1790年スペイン領土

フィリピンマニラの初代司教としてスペインから送りこまれたサラサールが、本能寺の変の翌年にあたる1583年(6月18日付)にスペイン国王に送った書簡が残されている。
ここにはこう記されているという。

「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)

サラサール司教はフィリピンの次は中国を征服すべきであり、そのために日本の武力を使えばよいと、前回の記事で紹介したイエズス会のフランシスコ・カブラルと同様な提案をしている。サラサールの文章で特に注目したいのは、「在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように」と指示すれば、キリシタン大名はそれに従うと考えていたという点である。わかりやすく言えば宣教師らは、秀吉や家康の命令がどうであれ、キリシタン大名はイエズス会修道士の指令に従って動くことを確信していたのである。

南蛮図屏風

一方、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョが、翌1584年にフィリピン・イエズス会の布教長へ宛てた書簡では、日本への軍隊派遣を求めて、先に日本を征服してから明を攻めることを提言したのだが、この案は採用されなかった。

コエリョの提言が採用されなかったのは当然であろう。わが国は鉄砲伝来した翌年には鉄砲の大量生産に成功していて、16世紀末には世界最大級の鉄砲保有国になっていたし、鉄砲だけでなく刀や鎧などの武器の性能も優れていた
スペインが海軍を送り込んで日本を攻めようとしても、わが国の武士の数や優秀な武器とその数量を考慮すればスペインが勝てる可能性は低かった。緒戦は有利な戦いが出来たとしても、長期化して銃弾や食糧が乏しくなった場合は、母国からの食糧や銃弾の補給は極めて困難であり、全滅を覚悟するしかなかっただろう。

マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルの考えは、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻める。明を征服すれば朝鮮半島は容易に手に入る。そして朝鮮半島に軍事拠点を置き、機が熟すのを待って最短距離で日本を攻め、かつキリシタン大名を味方につけて日本国を二分して戦う。
当時スペインが日本を征服するには、それ以外に方法はなかったのであろう。

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しかし、おそらく秀吉は宣教師らの魂胆を見抜いていたのだろう。
天正15年(1587)に『伴天連追放令』を出すきっかけとなった秀吉の九州平定は、その2年前にイエズス会のコエリョが秀吉に対し、大村・有馬のキリシタン大名の仇敵である島津を征伐するのなら高山右近らを秀吉の味方につけると進言したことにより実現した。イエズス会にとっては秀吉の九州攻めは願ってもないことであり、右近らの活躍で島津討伐に成功したのだが、秀吉は九州を平定すると、右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教を迫り、それに抵抗した右近を追放してしまった。
その一方で、征伐した島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵しているのである。
秀吉は、イエズス会に協力するように見せかけながら、実際は宣教師やキリシタン大名の勢力を弱めるために九州に来たとしか思えないのだ。

フロイス日本史4

イエズス会のルイス・フロイスの記録『日本史』には、『伴天連追放令』を出す直前に秀吉が家臣や貴族たちを前に述べた言葉が記されている。
伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.214)
フロイスがこのような書き方をしているということは、秀吉は宣教師がわが国を占領する目的で来日している認識があることを、フロイスも理解していたということだろう。

また、朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)には、秀吉はゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて恫喝している。特にフィリピンに関しては、3度も降伏勧告状を送っているのに注目したい。

学生時代に、秀吉の晩年の外交については「無謀な膨張主義」というニュアンスで学んだ記憶があるが、この当時のフィリピンにはわずかな兵士しかおらず、秀吉がその気になれば、大量の武器を準備できた秀吉軍は、容易にスペイン人をフィリピンから追い払っていた可能性が高い。

山田長政

以前このブログで書いたが、シャム国(現在のタイ)に渡った山田長政は元和七年(1621)には、日本人傭兵部隊を率いてスペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退け、その功績で国王の信任を得ている。当時は素人集団を率いていたとしても、日本の武器が大量にあればスペイン艦隊による侵略を撥ね退けることが可能だったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

話を元に戻そう。
秀吉がフィリピン総督(スペイン)に対して出した第一回目の降伏勧告状にはこう書かれていたという。
「…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃(ふ)せて来服すべし。もし匍匐膝行(ほふくしっこう)遅延するにおいては、速やかに征伐を加うべきや、必せり。悔ゆるなかれ、…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/34
意訳すれば、「降伏して朝貢せよ。ぐずぐずしていたら必ず征伐する。後悔するな。」というところだが、この国書を読んでスペインは驚いた。

当時の東南アジアには日本のように鉄砲を自国で大量に生産できる国はなかったので、スペインやポルトガルは僅かな鉄砲を持ち込むことで異国の領土を容易に占領し支配することが可能だったのだが、世界最大級の鉄砲保有国であった日本を相手にするとなるとそうはいかなかったのである。

秀吉の恫喝に対し、フィリピンのルソン太守であるダスマリナスは、わずか400名の兵士では日本軍と戦う自信がなかったために日本の使節を歓待し、日本の実情を探らせるために返書を持たせて使者を送るしかなかった。

さらにダスマリナスは、日本人のフィリピンへの侵入を非常に警戒して14項目もの対策を立案している。昭和17年に出版された奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』にその内容が出ているが、これを読むと、如何にスペイン人が日本人を怖れていたかがよく分かる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/36

フィリピン地図

ダスマリナスは、食糧や武器を可能な限り買い込むことを指示し、城塞の建設を命じたほか、如何なる市民も許可なくして財産や家族をマニラ市から移すことを禁じ、また許可なくしてフィリピンから船を出港出来ないようにし、とりわけ日本人を警戒することを縷々述べている。たとえば、6番目の対策は
マニラ在住の多数日本人はフィリピンにとって脅威なり。この脅威より免れるべく、これら日本人よりすべての武器を奪いたるうえ、市外特定の場所に移転せしめること。」とある。当時のフィリピンには、商人のほかにシャムやカンボジアと同様に奴隷として海を渡りこの地に住みついた日本人がかなりいたようである。

では、フィリピン国から秀吉に宛てた返書の内容はどのようなものであったかと言うと、要するに、秀吉の文書は果たして本物であるか、それを確かめるために使節を送るというものであったようだ。この国書の訳文は次のURLにあるがつまるところは時間稼ぎである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/40

さらにフィリピンから送られた使者のフレー・ジュアン・コボスはフィリピンを秀吉の支配下に置くことについては意思表明を避けたため、秀吉は再び書状を書いて原田喜右衛門をフィリピンのマニラに遣わしている。

豊臣秀吉

奈良静馬氏の著書に、この時に秀吉が記した第二回目の降伏勧告状が紹介されている。
「…この地球上、天が下に住む者はすべてわが家来なり。余に対して恭順の意を致す者は平和と安堵を得、何らの恐怖なくして住むことを得べし。しかしながら、余に恭順を表せざる者に対しては、余は直に我が将卒を送りて、先ごろ朝鮮王に対して為せるが如く武力を行使すべし。これ朝鮮王が余に恭順を表することを拒みたるが故にして、余は…朝鮮全土を平静に帰せしめたり。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/68

フィリピンは1593年の5月に原田の船で二度目の使節を日本に派遣し、その中に二人のフランシスコ会の修道士がいた。その一人のゴンザレスは、秀吉の服従要求に対しスペイン国王の返答があるまで日本に人質として留まることを乞うたのだが、このゴンザレスは日本滞在中に、フランシスコ会伝道の基礎を作ることを企んでいたという。ちなみに、先にわが国で布教活動を行なっていたイエズス会は、秀吉の『伴天連追放令』のあとで自由な布教活動ができなくなっていた。

徳富蘇峰の『近世日本国民 史豊臣氏時代. 庚篇』に、フランシスコ会がその後のわが国でどのような活動を為したかが記されている。
「スペイン太守の使節は、人質の名義にて、上方に滞在し。さらに伏見において秀吉に謁したる際、彼ら専用の家屋を構えんことを願った。秀吉は前田玄以をして、その地書を与えしめた。前田は諸教師に向かって、説教、および宣伝の事を禁ずる旨をつげ、旧南蛮時の敷地を与えた。然るに彼らはその訓戒をも顧みず、礼拝堂一宇、密教所一宇、僧院一宇を建築し、これをノートルダム、ホルチュウンキュルと称し、1594年(文禄3年)10月14日、初めてミサ教を誦し、爾後日曜日、及び祝祭日には、怠りなくおおっぴらに礼拝した
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960835/36

ゴンザレスは、1594年に秀吉からの第3回目の降伏勧告状を携えてマニラに戻っているが、この内容もすごい。秀吉は中国にまで領土を拡げたら、ルソンはいつでも行ける距離であると脅しているのだ。
「…余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くのわが軍を派遣せり。彼らにしてもしその言を破るがごときことあらんか。余は親しく軍を率いてこれが討伐に赴くべし。而してシナに渡りたる後はルソンは容易にわが到達し得る範囲内にあり。願わくば互いに永久に互いに親善の関係を保たん。カスティラ(スペイン)王に書を送り、余が旨を知らしむべし。遠隔の地なるの故をもってカスティラ王をして、余が言を軽んぜしむることなかれ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/71

南蛮屏風に描かれたイエズス会士とフランシスコ会士

ところで、フランシスコ会の宣教師たちは、大阪や長崎でも公然と布教活動を続け、マニラから仲間を呼び寄せ、大阪や長崎で教会堂を建て、信者を急激に増やしていった
一方、『伴天連禁止令』以降、おおっぴらな布教活動ができなくなっていたイエズス会は、フランシスコ会の布教の成功を見て喜べるはずがなかった。
イエズス会は、1585年にローマ法王が発布したフランシスコ会の日本渡航禁止令を持ち出して抗議したようだが、奈良静馬氏の前掲書によると、フランシスコ会は「自分達は宗教伝道者として日本に来たのではない。フィリピン太守の使節としてきたのであると嘯き、依然としてはばかるところなく布教に従事したので、1595年には8千人という多数の者が洗礼を申し出た。」のだそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/80

しかし翌年に、再び秀吉を激怒させたとされる事件が起こることになる。
この事件と、秀吉のキリスト教弾圧の事を書き始めるとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました
良かったら、覗いて見てください。

16世紀以降多くの日本人奴隷が買い漁られた背景には、西洋による東南アジア侵略があります。日本人奴隷は、傭兵としてポルトガル、スペインの外シャムやカンボジアなどで活躍し、非常に重宝されていました。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html


シャムの山田長政は日本人傭兵隊を率い、元和7年(1621)に二度にわたるスペイン艦隊のアユタヤ侵攻を退けた功績でシャム国王の信任を得ました。傭兵隊の多くは奴隷としてシャムに渡った人々でした。

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html


オランダは寛永元年(1624)に台湾島を占領し、台南のタイオワンに帰港する外国船にいきなり10%の関税をかけ始めたのだが、朱印船の船長であった浜田弥兵衛は新参者の命令に命懸けで抵抗し勝利しました。

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html


江戸幕府の鎖国政策により朱印船貿易は終り、日本船が来なくなったことを好機としてオランダは台湾における貿易の全権を握った。そのオランダに立ち向かったのが、日本人を母に持つ中国人の鄭成功で、鄭成功はゼーランジャ城を包囲して籠城戦で勝利し、オランダ人を台湾から追い払っている。

台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-369.html




関連記事

徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える

元和9年(1623)7月に家光が20歳で徳川三代将軍となったが、家光の対外政策やキリスト教に対する政策は、第二代将軍の秀忠の時代よりも一段と厳しいものになっている。

徳川家光

家光は将軍に着任したその年から、スペインとポルトガルの船の入港時機を制限し、邦人のキリスト教信徒の海外往来を禁じ、翌寛永元年(1624)には在留しているスペイン人を国外に退去させ、あわせてスペイン人およびフィリピンとの通商を禁止している。かくしてわが国に在留する外国人は長崎(ポルトガル人)と平戸(オランダ人)に限られることとなった。

では家光は、日本人のキリスト教に対してはどのような施策をとったのか。
家光が将軍の位についた年の12月4日に、江戸の札の辻(東京都港区)で多くのキリスト教信徒の処刑が行われている。

原主水

その処刑の中心人物は原主水(はらもんど)という武士で、以前は徳川家康に仕えていたのだが、慶長17年(1612)に江戸・京都・駿府をはじめとする直轄地に対してキリスト教禁教令が出され、キリスト教徒であった原主水は10名の旗本とともに殿中を追われることになった。しかしその後も布教を続けたために慶長19年(1614)に捕えられ、その時も棄教を拒んだために手足の指が切られた上に額に十字の烙印を押される身となったのだが、その後は教会に出入りして神父らを助けて、非合法活動であったキリスト教の布教に従事していた。

原主水らの殉教

ところが密告者があり、原主水、外国人宣教師をはじめ約50名が捕えられ、処刑の日には3つの組に分けられて江戸の町を引き回された後、火刑に処せられることとなった。
処刑される前に原主水は「キリストの為に死する時きたり、天国に行くことを喜び、進んで刑場に着す。これ我が勝利を得たる者にて、こよなき幸福なり」と述べたそうだが、他のキリシタンもほとんどが同様な態度で死んでいったという。(ヴイリヨン 著『日本聖人鮮血遺書』)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019243/206

キリスト信徒の世界では、あらゆる迫害を耐えて信仰を守り、キリストの為に命を捧げることを「殉教」と呼ぶのだが、家光の時代には数多くのキリシタン殉教者が出ている。
彼らの多くが処刑に抵抗せず従容として死に就いていった理由は、「殉教者」が聖なるものとして信徒から非常に尊崇されていたからである。だから処刑の後に多くのキリスト教信徒が、殉教者の遺骸や遺品を持ち去ろうとするので、またまた信徒が捕えられて処刑されることになる。
江戸では12月29日にはさらに37人が火炙りなどで処刑された記録があるが、この様にしてキリスト教信徒が各地で処刑されたようだ。この年には一説では天領だけで4~500人が殉教したというが、詳しい記録が残っているわけではなさそうだ。

学生時代に鎖国に至る歴史を学んだ際に、江戸幕府がキリスト教を禁教にした理由も、また鎖国に踏み切った理由も、いま一つ納得できなかった。

教科書などを読んで分かりにくい主な原因は、戦後の書物は西洋諸国の暗部を記述しない点にあると思うのだが、その理由は、その点を詳述してしまうと戦後に戦勝国が広めようとした歴史観と矛盾することになり、それでは困る勢力が今も内外に強い影響力を保持しているからではないかと考えている。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

では、戦前の書物ではどう解説されているのか。
やや長文だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』(昭和10年刊)の解説を引用したい。

「…当時の耶蘇(キリスト)教徒が、ややもすれば日本主権者の命令を無視して、独自勝手の運動をしたのは、当局者の目に余る事実であった。いわば当時の宣教師そのものが、この点について、甚だ不謹慎であった。されば耶蘇教徒の災難は、半ば自ら招きたるものであるというのが、むしろ公平の見解であろう。
[耶蘇教禁圧の主な理由]
(第一)耶蘇教は、日本の国法を無視すること
(第二)耶蘇教は、日本の神仏を侮蔑、攻撃し、平地に波乱を起こさしむること
(第三)耶蘇教は、社会の落伍者を収拾し、自然に不平党の巣窟となること
(第四)耶蘇教は、スペインの手先となりて、日本侵略の間諜となること
(第五)外国の勢力を利用せんとする、内地の野心者の手引きとなるのおそれあること。
以上はおそらくは幕閣が耶蘇教禁圧のやむべからざるを認めた理由であろう。これは幕閣としては杞憂であったか、真憂であったか。いまにわかに断言すべきではないが、しかもこれを一掃的に杞憂であると抹去すべきではない。
[宣教師らの反抗運動]
特に幕閣をして、禁教の手を厳重ならしめたのは、宣教師らの反抗運動であった。彼らは退去を命じられればたちまち逃走した、隠匿した。しからざれば一たび退去し、更に商人の服装をして渡来した。しかして彼らを厳刑に処すれば、信者は踴躍(ようやく)してこれに赴き、しかして就刑者の或る者は、直ちに天子に等しき待遇を受け、しからざるも、殉教者として尊崇せられた。信徒らはその流したる一滴の血さえも、これを手巾(ハンカチ)に潤し、神聖視した
[不得止一切無差別渡航禁止]
かかる状態に際しては、幕閣たるものは、根本的にこれを杜絶(とぜつ)するの策を考えねばならぬ。いやしくも船舶が交通するにおいては、如何に宣教師渡航禁止の法律を励行するも、これを潜る者あるは、事実の証明するところで、今さら致し方がない。商売は商売、宗教は宗教との区別は、秀吉以来、家康以来、既にしばしば経験したところだ。しかもそれがことごとく水泡に帰した。こちらでは区別をするが、あちらでは区別をせぬ。さればその上は、一切無差別に、通航を禁止するしか他はないのだ
[余儀なき鎖国]
必ずしも徳川幕府の為に、耶蘇教禁止の政策を弁護するのではない。しかも彼等の立場として、まことに余儀なき次第と言わねばならない。しかしてさらに、より以上の必要は、幕府自身の自衛だ。幕府の憂いは、内には不平党の召集だ。ほかには外国の干渉、および侵襲だ。しかしてこの両者の導火線は、いずれも耶蘇教と睨(にら)んだからには、これを禁止するは、幕府の自衛策として必須である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/138

戦後の歴史書が分りにくい理由は、わが国を植民地化することを執拗に狙っていた国のことがほとんど紹介されていない点にあるからだと考えているが、江戸幕府が自衛のために、また、外国の干渉を排除するためにキリスト教の禁教が不可欠であったことは、この点を理解しないと見えてこないのである。

この当時わが国と接触があった西洋諸国は、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの4か国であるが、この中で最大の恐怖は、メキシコやフィリピンを植民地化したスペインであろう。

Spanish_Empire_Anachronous_0.png

スペインがわが国に対してどの程度の野心があったかについてはスペインの公文書で明記されている訳ではなさそうだが、その敵国であるオランダやイギリスから、スペインに野心があることをわが国に警告していた記録がある。
また、スペインも、わが国の沿岸を勝手に測量したり、わが国の禁令を破って宣教師を潜入させるなど、スペイン人の野心を疑わせる行為を繰り返していたので、江戸幕府が警戒したことはむしろ当然の事であった。

徳富蘇峰はこうも述べている。
禁教と鎖国は至近至切の関係がある。鎖国せねば禁教が徹底的に行われず、禁教するには鎖国が第一要件だ。しかし鎖国は禁教のためと思うべきではない。世間に発表したる理由は、耶蘇教禁圧のためというが、その実は決してそれのみではない。徳川幕府は、日本の大名もしくは個人が、外来の勢力と接触するを甚だ危険に思った。そはその勢力をもって、幕府に当たらんことを懼(おそ)れたからだ。これは幕閣としては杞憂であったか、否か。当時の大名には、それほどの気力あるものもなかったようだが、しかも幕閣の立場としては、相当の遠慮というべきであろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/144

家康の時代に、幕府は鉱山採掘や、航海、造船の技術をスペインから得ようとしたことがあったが、彼らは宣教師ばかりを送り込んできた。江戸幕府から禁教令が出されても、スペイン人はフィリピンのルソンから宣教師を送り続けたという。

そこで、フィリピンからの宣教師の潜入をストップさせるために、江戸幕府がフィリピンの征伐を検討していたことが2度ばかりあったようだ。

再び徳富蘇峰の文章を引用する。文中の「彼」というのは、関ヶ原の戦いや大坂の陣で功があり、肥前島原領主となった松倉重政のことである。

松倉重政

「彼は寛永7年(1630)、自力にてルソンを征服せんと幕府に請うた。彼は耶蘇教の根本療治は、ルソンを退治するにある。もし某(それがし)に十万石の朱印を賜い、ルソンを領することを許されなば、独力にてこれに当たらんと申し出でた。かくて彼は吉岡九左衛門、木村権之丞に20人の足軽をつけ、絲屋随右衛門の船に乗せて、偵察に赴かしめた。彼らは11月11日に出帆し、木村は途中に死し、吉岡はマニラに入り、翌年6月に帰朝したが、松倉は前年吉岡らの出帆後いくばくもなく、11月16日に逝き、壮図は空しく彼とともに葬り去られた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/145

松倉重政は、吉岡九左衛門らを乗せた船が出帆してわずか5日後に亡くなったために、この計画は消滅してしまったのだが、この7年後に江戸幕府は再びフィリピン征伐を計画している。

寛永14年(1637)に、幕府はルソン征伐を企てた。これは宣教師の根拠地を覆すと同時に、彼らが琉球を経て、密貿易を行なうを杜絶するためであった。而して幕府は、寛永15年(1638)」の冬、遠征軍を出す計画を立て、末次平蔵をして、兵士輸送の為に、蘭(オランダ)人から船舶を借るべく交渉せしめた。蘭人もその相談に乗りかかり、さらに戦艦をも供給すべく準備したが、島原の一揆の為に、中絶した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/146

では、もし江戸幕府がフィリピン征伐に動いていたとしたら、江戸幕府が勝利した可能性はどの程度あったのだろうか。

当時スペインやポルトガルが多くの国々の領土を簡単に侵略できたのは、弓矢しか武器を持たない国が大半であったからなのであって、わが国だけは鉄砲伝来の翌年に鉄砲の大量生産に成功し、16世紀の末期には世界最大の鉄砲保有国になっていたし、フィリピンの国防は日本人の傭兵部隊に頼り、武器も日本から輸入していたことを知る必要がある。
もし日本から傭兵と武器を調達できなければ、スペイン人はそう長くは戦えなかっただろうし、徳川幕府軍が日本人傭兵やフィリピンの原住民と繋がれば、スペイン人を追い出すことは、それほど難しくはなかったと考えられる
のだ。
なぜなら、当時のスペインは地中海全域で戦火を交え、国内ではオランダやポルトガルが独立のために反乱を起こしており、フィリピンを守るためにわざわざ本国から軍隊を派遣するような余裕は考えにくく、もし長期戦になった場合に武器の補充は容易ではなかったからである。

以前このブログで書いたが、フィリピンでは1603年にスペイン人数名が日本人傭兵400人を引き連れて、支那人1500人以上の暴動の鎮圧に成功した記録がある。しかし、その3年後の1606年には、スペイン人は強すぎて多すぎる日本人を警戒するようになり、フィリピンから日本人を放逐しようとする動きが起こっている。

山田長政

シャム国では1621年に山田長政率いる日本人を中心とする部隊が、スペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退けている
また同じ1621年には、オランダとイギリスの艦隊が日本行のポルトガル船とそれに乗っていたスペイン人宣教師を江戸幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めている
この時2代将軍秀忠は、このオランダ・イギリスの申し出を拒否したばかりではなく、逆に『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』との禁令を発し、オランダ・イギリス両国に大きな衝撃を与えることになったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html
この様な史実を知ると、「日の沈むことのない帝国」と言われたスペインも、またオランダもイギリスも、それほどの強国であったとは思えなくなる。

93-se-kaigainiyuhi1.jpg

菊池寛の『海外に雄飛した人々』(昭和16年刊)という書物に、英国人のバラード中将が、次のような発言をしていることが紹介されている。

ヨーロッパ諸国民の立場から言えば、徳川幕府が300年間日本人の海外発展を禁じてしまったのは、もつけの幸いであるというべきである。もし、日本が、秀吉の征韓後の経験にかんがみ、盛んに大艦や巨船を建造し、ヨーロッパ諸国と交通接触していたならば、スペイン・ポルトガル・オランダなどの植民地は、あげて皆日本のものとなっていたであろう。否、インドをイギリスが支配することも出来なかったかもしれない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/72

現在はともかくとして、少なくとも当時の日本人は非常に勇敢であり、江戸幕府がその気になればこの時期に東南アジアから白人勢力を排除できたということを、英国の軍人が述べていることは驚きだ。

江戸幕府がキリスト教を禁じ鎖国に至る流れについての歴史叙述については、戦前に出版された書物の方が、当時の世界の動きを良く伝えていてはるかにわかりやすい。
戦後の書物では世界の動きをほとんど触れずに、キリスト教徒を激しく迫害したことや江戸幕府の偏狭さを記して禁教から鎖国が論じられることが多いのだが、これではなぜ江戸幕府がキリスト教を禁じ、鎖国するに至ったのかがスッキリ理解できるはずがないと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら、覗いてみてください。

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html


台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-369.html


日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html


日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html


わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html




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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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