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フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉

前回の記事で1584年にイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、日本のキリシタン大名を用いて中国を征服して植民地化することをスペイン国王に提案していたことを書いたが、同様な宣教師の当時の記録はいくつも存在する。

日本史の歴史教科書には何も記されていないのだが、スペインが1571年にフィリピンを征服した(「フィリピン」と言う地名はスペイン国王フェリペ2世に由来する)。
スペインは16世紀前半にアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼし、その後世界に植民地を拡大して「太陽の没することなき帝国」と言われた最盛期の時代を迎え、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去すると以後スペイン王がポルトガル国王を兼務し、植民地からもたらされた富でヨーロッパの覇権を握ったとされる。

1790年スペイン領土

フィリピンマニラの初代司教としてスペインから送りこまれたサラサールが、本能寺の変の翌年にあたる1583年(6月18日付)にスペイン国王に送った書簡が残されている。
ここにはこう記されているという。

「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)

サラサール司教はフィリピンの次は中国を征服すべきであり、そのために日本の武力を使えばよいと、前回の記事で紹介したイエズス会のフランシスコ・カブラルと同様な提案をしている。サラサールの文章で特に注目したいのは、「在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように」と指示すれば、キリシタン大名はそれに従うと考えていたという点である。わかりやすく言えば宣教師らは、秀吉や家康の命令がどうであれ、キリシタン大名はイエズス会修道士の指令に従って動くことを確信していたのである。

南蛮図屏風

一方、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョが、翌1584年にフィリピン・イエズス会の布教長へ宛てた書簡では、日本への軍隊派遣を求めて、先に日本を征服してから明を攻めることを提言したのだが、この案は採用されなかった。

コエリョの提言が採用されなかったのは当然であろう。わが国は鉄砲伝来した翌年には鉄砲の大量生産に成功していて、16世紀末には世界最大級の鉄砲保有国になっていたし、鉄砲だけでなく刀や鎧などの武器の性能も優れていた
スペインが海軍を送り込んで日本を攻めようとしても、わが国の武士の数や優秀な武器とその数量を考慮すればスペインが勝てる可能性は低かった。緒戦は有利な戦いが出来たとしても、長期化して銃弾や食糧が乏しくなった場合は、母国からの食糧や銃弾の補給は極めて困難であり、全滅を覚悟するしかなかっただろう。

マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルの考えは、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻める。明を征服すれば朝鮮半島は容易に手に入る。そして朝鮮半島に軍事拠点を置き、機が熟すのを待って最短距離で日本を攻め、かつキリシタン大名を味方につけて日本国を二分して戦う。
当時スペインが日本を征服するには、それ以外に方法はなかったのであろう。

FarEast_17c01.jpg

しかし、おそらく秀吉は宣教師らの魂胆を見抜いていたのだろう。
天正15年(1587)に『伴天連追放令』を出すきっかけとなった秀吉の九州平定は、その2年前にイエズス会のコエリョが秀吉に対し、大村・有馬のキリシタン大名の仇敵である島津を征伐するのなら高山右近らを秀吉の味方につけると進言したことにより実現した。イエズス会にとっては秀吉の九州攻めは願ってもないことであり、右近らの活躍で島津討伐に成功したのだが、秀吉は九州を平定すると、右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教を迫り、それに抵抗した右近を追放してしまった。
その一方で、征伐した島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵しているのである。
秀吉は、イエズス会に協力するように見せかけながら、実際は宣教師やキリシタン大名の勢力を弱めるために九州に来たとしか思えないのだ。

フロイス日本史4

イエズス会のルイス・フロイスの記録『日本史』には、『伴天連追放令』を出す直前に秀吉が家臣や貴族たちを前に述べた言葉が記されている。
伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.214)
フロイスがこのような書き方をしているということは、秀吉は宣教師がわが国を占領する目的で来日している認識があることを、フロイスも理解していたということだろう。

また、朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)には、秀吉はゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて恫喝している。特にフィリピンに関しては、3度も降伏勧告状を送っているのに注目したい。

学生時代に、秀吉の晩年の外交については「無謀な膨張主義」というニュアンスで学んだ記憶があるが、この当時のフィリピンにはわずかな兵士しかおらず、秀吉がその気になれば、大量の武器を準備できた秀吉軍は、容易にスペイン人をフィリピンから追い払っていた可能性が高い。

山田長政

以前このブログで書いたが、シャム国(現在のタイ)に渡った山田長政は元和七年(1621)には、日本人傭兵部隊を率いてスペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退け、その功績で国王の信任を得ている。当時は素人集団を率いていたとしても、日本の武器が大量にあればスペイン艦隊による侵略を撥ね退けることが可能だったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

話を元に戻そう。
秀吉がフィリピン総督(スペイン)に対して出した第一回目の降伏勧告状にはこう書かれていたという。
「…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃(ふ)せて来服すべし。もし匍匐膝行(ほふくしっこう)遅延するにおいては、速やかに征伐を加うべきや、必せり。悔ゆるなかれ、…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/34
意訳すれば、「降伏して朝貢せよ。ぐずぐずしていたら必ず征伐する。後悔するな。」というところだが、この国書を読んでスペインは驚いた。

当時の東南アジアには日本のように鉄砲を自国で大量に生産できる国はなかったので、スペインやポルトガルは僅かな鉄砲を持ち込むことで異国の領土を容易に占領し支配することが可能だったのだが、世界最大級の鉄砲保有国であった日本を相手にするとなるとそうはいかなかったのである。

秀吉の恫喝に対し、フィリピンのルソン太守であるダスマリナスは、わずか400名の兵士では日本軍と戦う自信がなかったために日本の使節を歓待し、日本の実情を探らせるために返書を持たせて使者を送るしかなかった。

さらにダスマリナスは、日本人のフィリピンへの侵入を非常に警戒して14項目もの対策を立案している。昭和17年に出版された奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』にその内容が出ているが、これを読むと、如何にスペイン人が日本人を怖れていたかがよく分かる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/36

フィリピン地図

ダスマリナスは、食糧や武器を可能な限り買い込むことを指示し、城塞の建設を命じたほか、如何なる市民も許可なくして財産や家族をマニラ市から移すことを禁じ、また許可なくしてフィリピンから船を出港出来ないようにし、とりわけ日本人を警戒することを縷々述べている。たとえば、6番目の対策は
マニラ在住の多数日本人はフィリピンにとって脅威なり。この脅威より免れるべく、これら日本人よりすべての武器を奪いたるうえ、市外特定の場所に移転せしめること。」とある。当時のフィリピンには、商人のほかにシャムやカンボジアと同様に奴隷として海を渡りこの地に住みついた日本人がかなりいたようである。

では、フィリピン国から秀吉に宛てた返書の内容はどのようなものであったかと言うと、要するに、秀吉の文書は果たして本物であるか、それを確かめるために使節を送るというものであったようだ。この国書の訳文は次のURLにあるがつまるところは時間稼ぎである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/40

さらにフィリピンから送られた使者のフレー・ジュアン・コボスはフィリピンを秀吉の支配下に置くことについては意思表明を避けたため、秀吉は再び書状を書いて原田喜右衛門をフィリピンのマニラに遣わしている。

豊臣秀吉

奈良静馬氏の著書に、この時に秀吉が記した第二回目の降伏勧告状が紹介されている。
「…この地球上、天が下に住む者はすべてわが家来なり。余に対して恭順の意を致す者は平和と安堵を得、何らの恐怖なくして住むことを得べし。しかしながら、余に恭順を表せざる者に対しては、余は直に我が将卒を送りて、先ごろ朝鮮王に対して為せるが如く武力を行使すべし。これ朝鮮王が余に恭順を表することを拒みたるが故にして、余は…朝鮮全土を平静に帰せしめたり。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/68

フィリピンは1593年の5月に原田の船で二度目の使節を日本に派遣し、その中に二人のフランシスコ会の修道士がいた。その一人のゴンザレスは、秀吉の服従要求に対しスペイン国王の返答があるまで日本に人質として留まることを乞うたのだが、このゴンザレスは日本滞在中に、フランシスコ会伝道の基礎を作ることを企んでいたという。ちなみに、先にわが国で布教活動を行なっていたイエズス会は、秀吉の『伴天連追放令』のあとで自由な布教活動ができなくなっていた。

徳富蘇峰の『近世日本国民 史豊臣氏時代. 庚篇』に、フランシスコ会がその後のわが国でどのような活動を為したかが記されている。
「スペイン太守の使節は、人質の名義にて、上方に滞在し。さらに伏見において秀吉に謁したる際、彼ら専用の家屋を構えんことを願った。秀吉は前田玄以をして、その地書を与えしめた。前田は諸教師に向かって、説教、および宣伝の事を禁ずる旨をつげ、旧南蛮時の敷地を与えた。然るに彼らはその訓戒をも顧みず、礼拝堂一宇、密教所一宇、僧院一宇を建築し、これをノートルダム、ホルチュウンキュルと称し、1594年(文禄3年)10月14日、初めてミサ教を誦し、爾後日曜日、及び祝祭日には、怠りなくおおっぴらに礼拝した
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960835/36

ゴンザレスは、1594年に秀吉からの第3回目の降伏勧告状を携えてマニラに戻っているが、この内容もすごい。秀吉は中国にまで領土を拡げたら、ルソンはいつでも行ける距離であると脅しているのだ。
「…余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くのわが軍を派遣せり。彼らにしてもしその言を破るがごときことあらんか。余は親しく軍を率いてこれが討伐に赴くべし。而してシナに渡りたる後はルソンは容易にわが到達し得る範囲内にあり。願わくば互いに永久に互いに親善の関係を保たん。カスティラ(スペイン)王に書を送り、余が旨を知らしむべし。遠隔の地なるの故をもってカスティラ王をして、余が言を軽んぜしむることなかれ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/71

南蛮屏風に描かれたイエズス会士とフランシスコ会士

ところで、フランシスコ会の宣教師たちは、大阪や長崎でも公然と布教活動を続け、マニラから仲間を呼び寄せ、大阪や長崎で教会堂を建て、信者を急激に増やしていった
一方、『伴天連禁止令』以降、おおっぴらな布教活動ができなくなっていたイエズス会は、フランシスコ会の布教の成功を見て喜べるはずがなかった。
イエズス会は、1585年にローマ法王が発布したフランシスコ会の日本渡航禁止令を持ち出して抗議したようだが、奈良静馬氏の前掲書によると、フランシスコ会は「自分達は宗教伝道者として日本に来たのではない。フィリピン太守の使節としてきたのであると嘯き、依然としてはばかるところなく布教に従事したので、1595年には8千人という多数の者が洗礼を申し出た。」のだそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/80

しかし翌年に、再び秀吉を激怒させたとされる事件が起こることになる。
この事件と、秀吉のキリスト教弾圧の事を書き始めるとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。

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16世紀以降多くの日本人奴隷が買い漁られた背景には、西洋による東南アジア侵略があります。日本人奴隷は、傭兵としてポルトガル、スペインの外シャムやカンボジアなどで活躍し、非常に重宝されていました。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html


シャムの山田長政は日本人傭兵隊を率い、元和7年(1621)に二度にわたるスペイン艦隊のアユタヤ侵攻を退けた功績でシャム国王の信任を得ました。傭兵隊の多くは奴隷としてシャムに渡った人々でした。

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html


オランダは寛永元年(1624)に台湾島を占領し、台南のタイオワンに帰港する外国船にいきなり10%の関税をかけ始めたのだが、朱印船の船長であった浜田弥兵衛は新参者の命令に命懸けで抵抗し勝利しました。

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html


江戸幕府の鎖国政策により朱印船貿易は終り、日本船が来なくなったことを好機としてオランダは台湾における貿易の全権を握った。そのオランダに立ち向かったのが、日本人を母に持つ中国人の鄭成功で、鄭成功はゼーランジャ城を包囲して籠城戦で勝利し、オランダ人を台湾から追い払っている。

台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-369.html




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サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件を考える

前回の記事で豊臣秀吉が、スペインの植民地であるフィリピンの太守のダスマリナスに対し、3度にわたり降伏勧告状を送ったことを書いた。

フィリピンでは、秀吉の3度目の降伏勧告状に対する返事をどうするかで議論があったようだが、協議の結果このような返事を提出することになったという。

「親和関係の継続は閣下の希望し給うところなるを知り、大いにわが本懐に適えり。なんとなれば閣下もわが国王も共に大なる者なり。よってその親和関係もまた大なり、従ってその結果は互いに大なり。」

そう書いておきながら、キリスト教徒としては、秀吉の臣下になることはどうしても拒絶したい。そこで、次のような表現が必要となってくる。

世界の全ての王が閣下に服従を申し出るとも、わが王およびその臣民がこれに倣うがごときは想像しえざるところなり。…
一度わが全知全能の主の偉大なることを知り給わば、閣下はわれらが全能の主に信頼を置くことの、いかに賢明なるかを了解し給うべし。余は閣下の不興を買わんがためにこの言をなすに非ず。ただ何ゆえにわれらが全知全能のわれらの主なる神およびわれらの最も偉大なるキリスト教王ドン・フィリップ王以外の他の国王、他の威力、他の主に帰順せざるかを知らしめんがために言えるのみ。」

一神教を奉ずる国はそれぞれが「絶対的正義」を掲げ、その正義を実現するために、異教徒世界と戦って勝利し、彼らの奉ずる宗教世界を拡大することを是として、後退することはあり得なかった。したがって、フィリピン太守が異教徒である秀吉の臣下となることを拒絶したのは、一神教的な考え方に立てば極めて当然のことであり、彼らは別に秀吉を挑発する意図を持っていた書いたわけではなかったのである。

昭和17年に奈良静馬氏が著した『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』と言う書物にフィリピン国の返書の全文が出ているが、この本の解説によると秀吉に対して刺激的なところは最後に削られて提出されたのだそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/72

秀吉に対する返書が日本に向かう船に託されたすぐ後に、マニラ太守のダスマリナスはスペイン国王に対して軍隊の派遣を要請する手紙(1594/6/23付)を送っている。この全文も同上書に出ている。

メキシコより大部隊の分遣隊を送ることは決定的に重要にして、かつ刻下の喫緊事なれば、メキシコ太守をして至急これが配慮方命令あらせ給え。…もし日本人襲来するも援兵到着せざる場合には、日本軍は長期にわたり大軍を以て攻囲占領し、臣らをして極めて窮迫の状態に陥らしむるに至るべし。…願わくは神の神聖なる栄光の下、神の思召しのままに行動せん。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/77
しかし、メキシコからは、分遣隊が送られることはなかったようだ。

ペドロ・バプチスタ

前回の記事の最後に少しだけ触れたのだが、フィリピンから二度目の使節の一員として派遣されたペドロ・バプチスタらフランシスコ派の宣教師たちが、京都に新しい教会を建てて、1594年の10月から堂々と説教を始めている
秀吉の『伴天連追放令』が出たのは1587年であったが、秀吉は南蛮貿易の実利を重視したので、よほどおおっぴらな布教活動をするのでない限りは、宣教師たちが日本に留まる事を黙認していたという。しかし教会を建てたとなると黙っているわけにはいかなくなる。
彼らに土地を貸した前田玄以*はこのことを秀吉に報告し、その後玄以は、何度もバプチスタらに布教を中止させようとしたのだが、彼らは一向にそれに応じようとしなかった。
宣教師たちは玄以が次第に干渉しなくなったのを見て、秀吉が黙認するに至ったと勝手に解釈し、マニラの本部に要請してさらに三人の宣教師を増員させ、京都だけではなく大阪と長崎にも教会を建てて信者を急激に増やすことに成功している。記録によると1595年には8000人もの日本人が彼らに洗礼を申し出たのだそうだ。
*前田玄以(まえだ げんい):豊臣政権で朝廷との交渉役や寺社の管理などを任された。

年が明けて1596年に、フィリピン太守のダスマリナスが死んで、ドン・フランシスコ・テロ・デ・グズマンが新太守に就任し、新太守は同年の6月12日にメキシコのアカプルコ港にむけて、サン・フェリペ号を出帆させている。ところがこの船は、東シナ海で台風に遭遇して甚大な被害を受けてしまう。船員たちはメインマストを斬り倒し、400個の積荷を放棄して、なんとか土佐の浦戸沖にたどりついた

土佐地図

船長は土佐の長宗我部元親に救助を乞い、土佐の船に曳航されて浦戸港に入ったが、元親は漂流船の積載荷物を没収することは日本の法律に定めてあるとして積荷を没収し、船長の返還要求に応じようとはしなかった。

松田毅一氏の『秀吉の南蛮外交』に、秀吉が土佐に派遣した増田長盛に送った書状が引用されている。それには「彼等スペイン人は海賊であり、ペルー、ノビスパニア(メキシコ)、フィリピン諸島で行ったように、当(日本)国を奪うために測量を行なう目的をもってきたのである。このことは、このころ、都にいた3名のポルトガル人ほか数名が太閤に知らせたことである」という主旨のことが書かれていたらしい。(松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社p.227)

納得できない船長は二人の修道士らに贈り物を持たせて、大阪に向かって秀吉に直接請願させることにしたのだが、この使者たちは大阪でフィリピンから日本に来ているフランシスコ会の宣教師たちに接触して情報を取ろうとしたところ、それが叶わなかったという。しばらく松田毅一氏の著書を引用しよう。

秀吉の南蛮外交

一行はそこで、フランシスコ会の人たちを介して太閤様と交渉してはならぬ、彼らは太閤様の命により、捕えられ、十字架にかけられようとしていると聞かされた。25日(クリスマス)の昼間に、司令官らが多数の兵に護衛されて大阪のフランシスコ会修道院に赴くと、そこではすでにフライ・マルチン・デ・アギルレは、12人の番卒によって監禁されていた。
 以上は『サン・フェリーペ号遭難報告書』が述べている1596年12月25日までの経過である。後日の執筆であるから、多少の誤りはなしとしないが、客観的なその叙述は、まず信用してさしつかえあるまい。」(同上書 p.229)

少し補足すると、『サン・フェリーペ号遭難報告書』はサン・フェリペ号の船長であったマティアス・デ・ランデーチョが記したもので、現在、セビリアのインディアス古文書館に残されている書物である。そしてこの書に書かれている内容は、日本人に広く知られているこの事件の叙述とは随分異なる。

26聖人

通説では、秀吉が派遣した増田長盛がサン・フェリペ号の船長に対し「どうしてスペインはそんなに多くの国々を征服し得たか」と尋ねたところ「まず征服せんと欲する国に宗教伝道者を送り、国民がキリスト教に傾いた頃を見計らって今度は軍隊を送り、新しいキリスト教徒をしてこれに援助させるから容易なのだ」と答え、驚いた増田長盛は秀吉に報告したところ、秀吉はそれを聞いて激怒し、バプチスタらフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じ、合計26人が長崎で磔の刑に処された、というストーリーなのだが、このようなサン・フェリペ号の船長の発言があったという記録は日本側には史料が存在せず、イエズス会がそう主張していたことのようだ。

秀吉が激怒した原因が、サン・フェリペ号船長が放言した内容を増田長盛が伝えた結果であるのか、「都にいた3名のポルトガル人ほか数名」が太閤に讒言した内容によるのか、その違いは重大である。前者の場合は26人のキリスト教徒の処刑に関して、ポルトガル人らの関与はなかったことになるが、後者の場合は、26人のキリスト教徒の処刑が決定した理由はポルトガル人らの讒言があって、秀吉がサン・フェリペ号の荷物の没収とスペイン人宣教師らの処刑を決めたということになるのだ

では、「都にいた3名のポルトガル人ほか数名」とは誰であったのか。松田毅一氏は前掲書の中で、断定することは難しいとしながらも、当時都にいたポルトガル人として秀吉と親交のあったジョアン・ロドリゲス、イタリア人のオルガンチーノらの名前を挙げておられるが、いずれもイエズス会である。

同じカトリックの宣教師とは言え、イエズス会フランシスコ会は相当仲が悪かったことを理解する必要がある
そもそもわが国のキリスト教布教はザビエル以降イエズス会が独占していたのだが、秀吉の『伴天連追放令』の発布後、積極的な布教活動ができなくなった矢先に、フィリピンからスペイン系のフランシスコ会修道士が渡来し、おおっぴらに布教活動を開始したことに、イエズス会は強い不快感を抱いていたらしいのだ。
松田氏が指摘されているが、ロドリゲスとオルガンチーノは、フランシスコ会が日本に渡来することに反対していた人物なのである。
長崎で処刑された26人を調べると、20人が日本人で、残りの6人はいずれもフィリピンから送られたフランシスコ会の司祭や修道士であることは、もっと注目して良いだろう。
「日本二十六聖人殉教」事件はイエズス会が、わが国におけるフランシスコ会勢力を弱めるために仕掛けたのではないだろうか

26seijin.jpg

ところで、26人のキリスト教徒の処刑の第一報がフィリピンに届いたのは1597年の5月のことであったという。
この時のフィリピンの反応が奈良氏の著書に記されている。

「住民はこの報道を受け取って悲歎に沈むとともに、秀吉を無道者として大いに憤った。サン・フィリップ号およびその積荷貨物は価格百万ペソと見積もられた。フィリピンに帰った船員は日本に於けるポルトガル人は、スペイン人が日本から放逐されることを希望して、彼らになん等の援助も与えなかったと憤慨して語り、また日本に於けるイエズス会宣教師が彼らに対して冷淡であったことを訴えた。またある者は秀吉をして、フランシスコ会司祭らを処刑せんとする決心を固まらしめた原因は、イエズス会の宣教師がことさらにフランシスコ会の宣教師を悪しざまに伝えたためであると言った。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/84

スペイン人が、イエズス会の事をこのように書いていることは非常に興味深い。
通史などでは、秀吉がキリスト教徒を迫害したというニュアンスで記されているのだが、秀吉をそこまで激怒させたのが、フランシスコ会宣教師を日本から追い出そうとしたイエズス会の工作活動にあったということになると、イエズス会も「日本二十六聖人殉教」に深く関与したことになるのだが、その可能性は決して低くないのである。
西欧には、「サン・フェリペ号事件」と「日本二十六聖人殉教事件」に関する膨大な史料があるそうだが、それらのすべてがポルトガルかスペイン、イエズス会かフランシスコ会かのいずれかの側に立っているという。
わが国では、主にイエズス会・ポルトガルの立場で書かれた資料をもとに叙述されているようなのだが、松田毅一氏の主張しておられるとおり、この事件については西欧側の史料だけでなく第三者である日本側の史料とも比較して、個々の動かし難い事実を明らかにしていく作業が必要なのだと思う。

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シーボルトと日本の開国
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シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
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シーボルトはスパイであったのか
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押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
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わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か

前回は、遭難したサン・フェリペ号の積荷没収事件と日本二十六聖人殉教事件について、イエズス会・ポルトガルとフランシスコ会・スペインとの主張が真っ向から異なり、前者は、両事件ともイエズス会・ポルトガルの関与はないと言い、後者はイエズス会の讒言により、フィリピンのサン・フェリペ号の荷物が没収されフランシスコ会の宣教師らが処刑されたと主張したことを書いた。

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高橋弘一郎氏の『キリシタン時代の研究』に、イエズス会東インド管区の巡察師*であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノがイエズス会フィリピンの準管区長ライムンド・プラドに書き送った書翰の一節が紹介されており、ここではフィリピンの修道士(フランシスコ会士)は日本に来るなと述べている。ヴァリニャーノはイタリア人だが、フランシスコ会のようにヨーロッパのやり方を押し通すような手法には批判的であったという。ちなみに、この書翰は長崎で二十六聖人が処刑された日からおおよそ9カ月後の、1597年11月19日付で記されたものである。
*巡察師: イエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師

「私は自分の良心の重荷をおろすために、そしてまたフィリピンにおいて真実を知ってもらうために尊師に申述べたいが、われわれ日本イエズス会や日本に関することは別において、一般的に言って、フィリピンの修道士は何人もシナ、日本、およびその他のポルトガル国民の征服に属する地域において、主への奉仕、霊魂の救済、更には国王陛下への奉仕を願い、それに沿った行動をしてはならない。それどころか彼らがそれらの国に行こうとすればするほど、ますます大きな弊害が生じ、その目的を達するのが困難になるであろう。
その主な理由は、これらの地域の王や領主は、すべてフィリピンのスペイン人に対して深い疑惑を抱いており、次の事を知っているからである。即ち、彼らは征服者であって、ペルー、ヌエバ・エスパーニャ*を奪取し、また近年フィリピンを征服し、日々付近の地方を征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。そしてその近くの国々にいろいろ襲撃を仕かけており、何年か以前にボルネオに対し、また今から2年前にカンボジャに対して攻撃を加えた。…日本人やシナ人も、それを実行しているスペイン人と同様にその凡てを知っている。なぜなら毎年日本人やシナの船がマニラを往き来しており、見聞していることを良く語っているからである。このようなわけで、これらの国々は皆非常に疑い深くなっており、同じ理由から、フィリピンより自国に到来する修道士に対しても疑念を抱き、修道士はスペイン兵を導入するための間者として渡来していると思っている。このため彼らを自国に迎えるのを望まないばかりか、彼らとポルトガル人が同じ国王の下にある事**を知っているので、我々に対しても疑念を抱いており、それは現在われわれが日本で見ている通りであり…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.132)
*ヌエバ・エスパーニャ:1519~1821までの北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の領地
**『ポルトガル人が同じ国王の下にある事』:1580年にポルトガルのエンリケ1世が死去し、以後スペイン国王がポルトガルの国王を兼ねた。その後、ポルトガル人はスペインの苛政に反発し1640年にポルトガルはスペインからの独立を果たしている。


この文章の中にある『シナ、日本、およびその他のポルトガル国民の征服に属する地域』という言葉の意味は、少し補足が必要だ。
高瀬弘一郎氏によると、このような表現は「当時のカトリック宣教師や貿易商人、植民者が頻繁に用いた常套の表現」であったようだが、当時においてはスペインやポルトガルに征服されていない国々についても、どちらの国が征服事業に手を付けるかが予め決められていたことを知る必要がある。
わが国は、中国大陸と同様に、ポルトガルが布教をし征服をする権利を有していたのである。

以前このブログで記したことがあるのだが、1494年にローマ教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線(デマルカシオン)が定められた。下図のサラゴサ条約におけるデマルカシオンを確認すると、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。

デマルカシオン

その取り決めによりスペインは西回りで侵略を進め、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服し、そして1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本に上陸しキリスト教の布教を開始している。

日本におけるキリスト教の布教については、ローマ教皇はポルトガルの事業であるとし、ポルトガル国王がイエズス会に布教を許可したのだが、一方スペインは、豊臣秀吉がフィリピンに対し降伏勧告状を数回にわたって突きつけたことに対し、その2度目の交渉でフィリピンからわが国に送り込んだ使節のメンバーに、ペドロ・バプチスタらフランシスコ会の宣教師をわが国に紛れ込ませている。
そしてフランシスコ会は、『伴天連追放令』が出されて以来おおっぴらな布教活動を自粛していたイエズス会を尻目に3つの教会を相次いで建築し、わが国で本格的な布教活動を開始したのである。

このことにイエズス会が強く反発したのだが、イエズス会とフランシスコ会の対立は、1580年にスペインがポルトガルを併合し、サン・フェリペ号事件および日本二十六聖人殉教事件があった後にはさらに尖鋭化していったようである。

この両派の対立をわかりやすく言うと、日本という国の領土を「ポルトガル国民の征服に属する地域とするのか、スペインにも一部地域の征服を認めるのか」、あるいは「ポルトガル国王の許可を得たイエズス会のみが布教をするのか、スペイン国王の許可を得たフランシスコ会等の布教をも認めるのか」という対立である。

アウグスチノ会所属のポルトガル人、フライ・マヌエル・デ・ラ・マードレ・ディオスは、日本二十六聖人殉教事件が起こった年である1597年に、次のように書いてイエズス会を擁護している。

「昨年司教ドン・ペテロ・マルティンスは、上述の跣足修道会遣外管区長[26聖人となったフランシスコ会のバプチスタのこと]に書き送り、全く友好的かつ敬虔な表現で、日本に於いて原住民改宗のために聖福音を説く聖務は、教皇聖下の大勅書、ことに教皇グレゴリウス13世の大勅書、及びポルトガル国王の勅命よってイエズス会のパードレ*に指定されているので、この政務を行なうことを尊師に許可するわけにはゆかないという点を了承してもらいたい。というのは、それは教皇聖下の命令にそむき、教皇や権威ある地理学者達がポルトガルとカスティーリヤ(スペイン)の両王位の間で二分した征服の全体的な分割を侵すことに外ならないからである、と懇願した。」(高瀬弘一郎 同上書 p.5-6)
*パードレ:神父、司祭のこと

しかし、よくよく先ほどのデマルカシオンの地図を見て頂きたいのが、スペインが1571年に征服したフィリピンは「ポルトガル国民の征服に属する地域」に入っているし、今回の記事の冒頭で紹介したアレッサンドロ・ヴァリニャーノの書状では、ボルネオやカンボジアにも近年攻撃を加えており、日本と中国も狙っている趣旨の事が書かれている。なぜスペインはサラゴサ条約で定められたルールを無視したのであろうか。

理由はいろいろあるのだろうが、貿易上のメリットという観点から考察すると、スペインの西回りのルート上の国々よりも、中国やインドや日本との交易が可能なポルトガルの東回りのルートの方がはるかにメリットが大きかった。だからスペインは、再三にわたり、日本や中国がポルトガルのデマルカシオンに入る教皇文書を取り消させようとし、同時に、教皇文書を無視して、フィリピンを足場に日本や中国との貿易を開始し、布教をも敢行してきたのである。
ポルトガル商人からすれば、もしスペインが日本や中国との貿易に割り込んでくるのを放置していたら、日本貿易に対する依存度の高いポルトガル領マカオに甚大な打撃を与えることになる。そのために、イエズス会士やポルトガル植民地関係者が大反対したのだが、当時の文書を読むと、この対立関係はかなり根深いものがありそうである。

例えば1597年にマカオのイエズス会士からゴアのインド副王に宛てた書状にこのようなものがある。

イエズス会士でない修道士が日本に渡ることを禁じた教皇聖下の小勅書に反し、また世俗の者であれ修道士であれカスティーリャ(スペイン)の征服の地からポルトガルの征服の地に赴くことを禁じた国王陛下の勅令を犯すものである。教皇聖下は修道士であれ世俗の者であれカスティーリャ(スペイン)人に対してはこの門戸を鎖し、もう決して彼らが日本およびそれに隣接したすべての島、シナの全海岸…に入国することがないようにしなければならない。…
…そして次のように厳罰を以てルソンの総督に命じてもらいたい旨このインド領国の名で国王陛下に要請しなければならないと思う。…」(高瀬弘一郎 同上書p.26)

また、この時代の宣教師の書翰を読んでいると、わが国の布教を推進するために、わが国を武力で征服すべきだという内容のものが少なくないことに驚く。

前回および前々回の記事で、マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻めることをスペイン国王に提案したことを書いたが、1599年2月25日付けでスペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰には、日本の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとするかなり詳細なレポートが記されている。一部を紹介したい。

クルスは、わが国をこう攻めるべきだと進言している。
日本人は海軍力が非常に弱く、兵器が不足している。そこでもし国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことができよう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(しも:九州)、または四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るだろう。

隣接する領主のことを恐れているすべての領主は、自衛のために簡単によろこんで陛下と連合するであろう

金銭的に非常に貧しい日本人に対しては、彼らを助け、これを友とするのに僅かのものを与えれば充分である。わが国民の間では僅かなものであっても、彼らの領国にとっては大いに役立つ。

われわれがこの地で何らかの実権を握り、日本人をしてわれわれに連合させる独特な手立てがある。即ち、陛下が…われわれに敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者、あるいは寺領にパードレ(司祭)を迎えたり改宗を許したりしようとしない者には、貿易に参加させないように命ずることである。」(同上書p.140-142)

この様にして、キリスト教を受け入れた領主だけを支援し、貿易のメリットを与えることによって日本国を分裂させれば、九州や四国は容易に奪えるとしている。少なくとも当時の九州には、有馬晴信、大村喜前、黒田長政、小西行長など有力なキリシタン大名が大勢いたことを考えると、それは充分可能であっただろう。

次に、攻撃をする正当理由はどこにあったかというと、前回の記事で記したサン・フェリペ号の荷物没収とフランシスコ会士とその使者を殺害(日本26聖人殉教事件)したことで充分だという。

ではどうやって勝利するのか。そのためには軍事拠点が不可欠だが、クルスはその港まで指定している。38年後に島原の乱が起きた場所が指定されている点に注目したい。

島原の乱

このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。」(同上書 p.144)

さらにクルスは、どこかの港(薩摩、四国、関東)に、スペインの都市を建設し、スペイン国王が絶対的な支配権を確立することを述べた後、シナを武力征服しない限り、シナを改宗させることは出来ないとし、その武力と武器の調達は、安価でそれが可能な日本で行う以外はあり得ないと書いている。彼等は、キリシタン大名を使ってシナを攻めようと考えていたようである。

小西行長

また、ポルトガル人も都市を建設し基地を作るべきであるとし、小西行長が志岐の港を宣教師に提供することは間違いがないとまで記している。もしスペインが基地の取得に失敗したとしても、ポルトガルならば、従来の経緯から容易にそれが可能だとする意見を述べている。

その上で、最後にわが国の領土をスペインとポルトガルにどう分割するかということまで触れている。文中の「下(シモ)」とは九州の事である。

「…日本の分割は次のようにするのが良い。即ちポルトガル人はこの下(例えば上述の志岐または他の適当な港)に基地を得、一方スペイン人の方はヌエバ・エスパーニャに渡ったり、フィリピンを発ったナウ船が寄港したりするのに適した四国または関東といった…地域に基地を置くと良い。…教皇アレクサンデル6世が行なった分割において、その『東方』と『西方』のいずれに日本が属するかについて意見が分かれている。…このような分割が行なわれたのは、両国が協力し合って布教等を行なうためのものであった。まして同一国王のもとにあるなら尚更それは当然のことである。」(同上書 p.154)

ペドロ・デ・ラ・クルスが指摘したような、良港を手に入れて軍事と貿易の拠点として、布教を進めて領土を拡大する手法は、スペインやポルトガルが世界の植民地化を進めてきた常套手段ではなかったか。
彼らが目の敵にしていた豊臣秀吉が死んだのが1598年(慶長3年)で、クルスの書翰はその翌年に記されたものである。侵略する側の視点に立てば、絶好のタイミングでこの書翰が記されたと言って良い。

もし、関ヶ原の戦い以前にスペインがわが国に攻撃を仕掛けたとしたら、果たしてわが国は一枚岩で戦うことが可能であっただろうか。
豊臣秀頼

秀吉の遺児・秀頼は大のキリシタンびいきであり、もし豊臣家がキリシタン大名と共にスペインの支援を得て徳川連合軍と戦っていたら、徳川の時代はなかったかもしれないし、わが国の一部がスペインの植民地になっていてもおかしくなかっただろう。もしわが国がスペインの勢力を撥ね退けることができたとしても、相当な犠牲が避けられず、国力を消耗していたことは確実だ。

わが国の政局が極めて不安定であった時期に、サン・フェリペ号積荷没収事件と日本二十六聖人殉教事件が起こり、スペインにとってはわが国に対する復讐としてわが国を攻撃する絶好期であった。スペインの宣教師たちも再三そのことを催促していたにもかかわらず、スペインが攻めて来なかったことはわが国にとって幸運なことであったのだが、この背景を調べると、スペインはそれどころではなかったお家の事情があったことが見えてくる。
Wikipediaに詳しく書かれているが、この時期にスペインは地中海全域で戦火を交え、国内ではオランダやポルトガルが独立のために反乱を起こしていたのだ。

Battle_of_Lepanto_1571.jpg

ネーデルラント(オランダ)の反乱(八十年戦争)(1568~1648)、オスマン帝国との衝突(レパントの海戦, 1571)、英西戦争(1585~1604)、モリスコ追放(1609)、三十年戦争(1618~1648)フランス・スペイン戦争(1635~1659)、ポルトガル王政復古運動(1640)…
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3

これだけ国内外で戦っていては軍事資金の調達も厳しかったはずだし、そのための増税や兵役に対する不満が各地で反乱の種となる。スペインが遠方のわが国に軍隊を派遣する余裕などは到底なかったであろう。

前回記事で記したサン・フェリペ号事件日本二十六聖人殉教事件における、イエズス会・ポルトガルとフランシスコ会・スペインの対立も、ポルトガル勢力がスペイン勢力に対して反発を強めて行った大きな流れの中で捉えるべきなのだろう。
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東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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