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秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。

豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと)

学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかったので、この点について調べてみた。

豊臣秀吉

まず秀吉が博多にいたのは、秀吉は京都を前田利家、大阪城は秀次に守らせて九州を平定するために出陣したためだ。
その先陣は切支丹大名の高山右近で、その家臣には切支丹がかなりいて、十字が付いた旗などを携えた兵が多数右近の軍に参加していた記録が残されている。
そもそもこの九州平定は、そもそも2年前にイエズス会の日本準管区長*のガスパル・コエリョが秀吉に、切支丹大名を秀吉の味方につけると進言して実現したようなものである。 (日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者)

大村・有馬の切支丹大名は島津に何度も脅かされていたので、イエズス会には秀吉の九州攻めは願ってもないことであったはずだ。だから高山右近も献身的に働いた。

ところが、切支丹大名の活躍により九州平定に成功すると、秀吉は右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教をせまり、それに抵抗した右近を追放しているのだ。いったいどういうことなのか。

高山右近
<晩年の高山右近>

この経緯については、ポルトガル出身のイエズス会宣教師で当時日本に滞在し、信長や秀吉とも会見したルイス・フロイスが詳細な記録を残しており、中公文庫でその翻訳を読む事が出来る。(ルイス・フロイス「日本史4」豊臣秀吉篇Ⅰ)

それを読むと、秀吉は7月24日に怒り狂い、夜にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して、次の様な太閤の言葉を伝えさせている。

「その第一は、汝らは何ゆえに日本の地において、今まであのように振舞ってきたのか。…仏僧たちは、その屋敷や寺院の中で教えを説くだけであり…汝らのように宗徒を作ろうとして、一地方の者をもって他地方の者をいとも熱烈に扇動するようなことはしない。よって爾後、汝らはすべて当下九州に留まるように命ずる。…もし、それが不服ならば、汝らは全員シナ(マカオ)へ帰還せよ。…」

「第二の伝言は、汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。…馬は、道中、人間の労苦を和らげ、荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は、百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれを食するならば、日本の諸国は、人々にとってはなはだ大切な二つの助力を奪われることとなる。…」

「第三は、予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)

これらの太閤の言葉に対し、三つ目の日本人奴隷の問題に関してイエズス会準管区長のコエリョが答えた内容については同書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211)
と、奴隷売買は九州だけでおこっていることで、我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えたのである。
「外国船が貿易のために来航する港の殿たち」とは、九州の切支丹大名を遠回しに述べたものである。

翌朝秀吉の怒りはさらに激しくなり、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」との伝言を持たせて、再びコエリョに使者を送った。

そこでコエリョが答えた内容は
「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、…神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215)

そのコエリョの回答を聞いて、太閤がさらに激怒したことは当然である。
秀吉は「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を司令官ドミンゴス・モンテイロに手交したのである。

伴天連追放令
<伴天連追放令>

コエリョは九州での奴隷売買を廃止させるために努力したというのだが、どこまで本気で努力したかは疑わしい。藤田みどりさんの「奴隷貿易が与えた極東への衝撃」という論文には、イエズス会日本準管区長のコエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した事実が書かれているそうだ。

「伴天連追放令」の原文とは次の通りで、現代語訳はURLで読む事が出来るが、この時に手交した文書には、奴隷売買を禁止する条項は記されていないことがわかる。
ルイス・フロイスの「日本史」にも「伴天連追放令」の内容が書かれているが、やはり奴隷売買の事は書かれていない。
<原文>
一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ 曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事
已上
天正十五年六月十九日 朱印

<現代語訳>
http://www2.ocn.ne.jp/~hiroseki/shiryou/bateren.html

しかし、国内向けに出された「伴天連追放令」においては、寺社の破壊や奴隷売買を禁止する条項が書かれているようである。奴隷売買禁止に関しては原文では、
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
となっている。

ルイスフロイス像
<ルイス・フロイス像>

またルイス・フロイスがいみじくも書いているように、秀吉が九州に来た目的は島津と戦うことではなく、当初から高山右近や切支丹宣教師を追放することにあったと思われる。なぜなら、九州の戦いを終えても島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵されているのはそう考えないことには理解できないからだ。

以上、やや長くなったが、秀吉を暴君と呼び悪魔と呼ぶイエズス会のルイス・フロイスが「伴天連追放令」をどう捉えたかについてまとめてみた。

「伴天連追放令」については秀吉の側近の記録が残され、外国人の書いた文章でも日本人奴隷の実態を書いている文書などもあるようだ。
文章が長くなるので次回以降に紹介することするが、秀吉がキリスト教の独善性と宣教師の野望に早い時期に気付きその拡大を許さなかったことが、この時期に日本が植民地にならず独立国を維持できた要因の一つだと思っている。
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2

前回は秀吉が伴天連追放令を出した経緯を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記録から纏めてみた。では、日本側の記録ではどうなっているのか。

秀吉の側近に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいる。この人物は以前にこのブログで、天神祭のことを書いた時に、大阪天神宮の神宮寺の別当であったと紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html

この人物は豊臣秀吉に近侍して秀吉の軍記などをいくつか残しているが、秀吉の九州平定の時にも同行して「九州御動座記」という記録を残しており、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯が短い文章にまとめられている。それには、

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」

slaves510x492.gif

手足に鎖を付け、船底に追い入れるような奴隷の扱い方は、黒人奴隷の場合と全く同じである。秀吉はこのような状況が日本を「外道の法」に陥れることを歎き、伴天連を追放することを決断したということになる。

日本人奴隷はどのような扱い方をされたのか。今度は西洋人の記述を見てみよう。 徳富蘇峰の「近世日本国民史」にパゼー「日本キリスト教史」という本の一部が紹介されている。

南蛮船

「葡萄牙(ポルトガル)の商人は勿論、其の水夫、厨奴(ちゅうど)等の賤しき者迄も、日本人を奴隷として買収し、携へ去つた。而(しか)して其の奴隷の多くは、船中にて死した。 そは彼等を無闇に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に篭居せしめ、而して其の持主等が、一たび病に罹るや――持主の中には、葡萄牙(ポルトガル)人に使役せらるる黒奴も少なくなかつた――此等の奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食料さへも、與へざることがしばしばあつた爲である。此の水夫等は、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にて其の醜悪の行ひを逞しうして、敢て憚かる所なく、其の澳門(マカオ)歸航(帰航)の船中には、少女等を自個の船室に連れ込む者さへあつた。」

なんと、日本人の一部は奴隷に買われていたケースもあり、水夫らの性奴隷としても買われていたのだ。

なぜ、ポルトガル人が大量の奴隷を買ったか。これは前々回に紹介した中隅哲郎さんの「ブラジル学入門」がわかりやすい。

「大航海時代とそれに続く植民地進出時代のポルトガルの泣きどころが、人口の少なさにある…。少ない人間でいかに海外の植民地を維持し、収奪するかはポルトガル王室の直面する歴史的命題であった。そのため、囚人だろうが捕虜だろうが、どんどん海外に送った。ところが、送った人間のほとんどすべては男だった…。
海外進出に武力はつきものだが、ポルトガルは兵隊の数も足りなかった。そのため、現地では傭兵を募集した。アジア各地では日本人の傭兵が多かった。日本人は勇猛果敢で強かったから、傭兵には最適であったのである。」(同書p.163)と記されている。

確かにポルトガルの広さは日本の4分の1程度で、人口は当時100万人程度だったと言われている。そんな小さな国が、1494年にスペインとトルデシリャス条約を結んで、ヨーロッパ以外の世界の二分割を協定し、ポルトガルは東回りに、スペインは西回りに征服の途につくのだが、スペインの一割程度の人口しかないポルトガルが世界の半分を征服するためには、よほど大量の奴隷が必要だったということだろう。

次に日本人が奴隷として売られた時期はいつ頃なのか。

岡本良知さんの「16世紀日欧交通史の研究」という本には、ポルトガル側の資料では1555年11月のマカオ発のパードレ・カルネイロの手紙の中に、大きな利潤と女奴隷を目当てにするポルトガル商人の手で、多くの日本人がマカオに輸入されていると書かれていることが紹介されているそうだ。中国のマカオといえば、ポルトガルの日本貿易の拠点であり、日本貿易の初期の段階から日本人が奴隷として売られていたことになる。1555年は「伴天連追放令」の32年も前の話である。

また、日本イエズス会からの要請を受けてポルトガル国王は何度も「日本人奴隷取引禁止令」を出しているが、東南アジアに暮らすポルトガル人は、国王の禁令はわれわれに致命的な打撃を与えると抗議し、奴隷を買ったのは善意の契約であり、正義にも神の掟にも人界の法則にも違反しないと主張し、この勅令は無視されたそうだ。
しかし、そのような奴隷商人に輸出許可を与えていたのもイエズス会であり、もともとイエズス会が奴隷輸出禁止にどれだけ尽力したかはかなり疑問である。むしろ積極的に関与した可能性がある。
ネットでいろいろ調べると、奴隷貿易に熱心であった宣教師の名前が出てくる。たとえばアルメイダは大友宗麟に医薬品を与え、大分に病院を作ったイエズス会の宣教師だが、奴隷貿易を仲介し、日本に火薬を売り込み、海外に日本女性を売り込んだ人物と書かれている。

ポルトガル国立小美術館にある桃山時代の「南蛮屏風」
<ポルトガル国立小美術館/日本の桃山時代の「南蛮屏風」…黒人奴隷が描かれている>

当時のキリスト教の考え方では、キリスト教を広めるために、異教徒を虐殺することも奴隷にして売買することも神の意志に叶った行為と考えられており、1455年にローマ教皇ニコラウス5世が勅書により奴隷貿易を認め、さらに教皇アレキサンドル6世がこれに追随して神学的に奴隷制度を容認したことから、イエズス会の海外布教戦略が展開していくことになるのだ。イエズス会が、教皇が認めた奴隷貿易を容易に手放すことは考えにくいのではないか。
そもそもキリスト教の「聖書」レビ記25章には、異教徒を「奴隷として買う」ことも「永遠に奴隷として働かせることもできる」と書かれているが、このような考え方で布教されては、他の宗教を奉ずる国にとっては社会も文化も破壊され若い世代の多くが連れ去られてしまって、甚だ迷惑な話である。
http://www.bible.or.jp/read/aidoku.cgi?day=20110818

奴隷を買う側の事情は何となくわかったが、しかし売る側の日本の事情はどうなっているのだろう。どういう経緯で大量の日本人が九州から奴隷船に乗せられたのか。
外国人により拉致されたのか、貧しい日本人が家族を売り飛ばしたのか、あるいは戦国大名が捕虜を売ったのか、住民を拉致して売ったのか。また、何のためにポルトガル人に売却したのか。

そのことを書きだすとまた長くなるので、日本側の事情は次回に記すことにするが、平和な時代しか知らない我々には到底想像もできないような戦国時代の凄まじさが見えてくるのだ。

<つづく>
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。

この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。

イエズス会士とフランシスコ会士

たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。彼らの多くは、二束三文の安価で売却された。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。彼らは互いに殺し略奪し合っていた。」(同書p.314)…1589年

フロイスは日本の戦国時代末期の三十年以上を九州や畿内で暮らした人物であり、誰が売ったかという点について記述している内容はかなり信頼できると考えて良いだろう。豊後とは今の大分県で、肥後とは今の熊本県と考えて良いが、太閤検地の頃の豊後国の人口は418千人であるから、フロイスが「おびただしかった」と書いた、島原まで連行された豊後の婦人や男女の子供たちの数がどれくらいの数字になるかは、人によってイメージする数字が異なるだろうが、人口の5%~10%と考えても20~40千人という数字になってしまう。

狩野内膳筆南蛮屏風

フロイスは口を閉ざして語らないが、それらの人々の多くが島原でポルトガル商人に奴隷として売られていったと考えてまず間違いないだろう。
島原半島の南にある口の津は南蛮貿易の拠点であった港で、口の津の約10km東に原城があり、そこに爆薬に使われる硝石の集積場があった。硝石(硝酸カリウム)は爆弾を製造するに不可欠な原料なのだが、湿潤気候の日本国内では天然に産出しないため当初は南蛮貿易で入手するしかなかった。それを入手するための対価のかなりの部分が、奴隷を売ることによって作られたと考えられている。

硝石の価格について、Wikipediaには「バチカンにある過去の日本の記録には、アフリカ人奴隷に掘らせたチリの硝石1樽で日本人女性が50人買える」と書かれている。同様の記述はネットで多くの人が書いているが、バチカンの記録の原典を引用しているものはなく、どこまでこの記述が信頼できるのかは良くわからない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
もっとも、フロイスの記述のとおりに日本人がよほど安価で売られていたなら、その可能性が考えられないわけでもないが…。

島原地図

口の津のある島原半島は、当時切支丹大名の有馬晴信の領地であった。結局この硝石は後に島原の乱で天草四郎が江戸幕府軍との戦いで使われることになる。原城に立て籠った天草四郎らの反乱軍が長らく持ちこたえられた理由は、キリスト教の信仰もあったのだろうが軍事力の観点からすれば、貯め込んだ大量の火薬の存在を無視できないのだと思う。

日本人奴隷を買ったポルトガル商人がいて、またポルトガル商人に売った有馬晴信に近い商人がいる。しかしその商人に売るために、はるばる島原にまで住民を連行して行った人間集団はどういう連中なのか。どこかの藩の正規軍なのか。

立教大学名誉教授藤木久志氏が著した「雑兵たちの戦場」(朝日新聞出版)という本を読むと、この時代を読み解くうえで「雑兵(ぞうひょう)たちの戦場」という視点が極めて重要であることを痛感させられる。

「雑兵(ぞうひょう)」とは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったそうだ。

「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(「雑兵たちの戦場p.7」)

雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多く、フロイスが詳細に記述した薩摩のほかにも全国各地で同様な記録が残されている。
人を奪うケースの多くは身代金目当てで行われていて、「雑兵たちの戦場」にはそのような記録が数多く紹介されている。

例えば甲斐国の年代記である「勝山記」という書物には、武田信玄軍に生け捕られて甲府へ連れ去られた男女のうち「身類(親類)アル人」は二~十貫文ほどの身代金で買い戻されていたという記述があるそうだ。(一貫文=1000文)

また、永禄九年(1566)に小田氏治の常陸小田城が長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の指図で、春の二月から三月にかけて二十~三十文ほどの売値で、人が売られたという記録があるそうだ。折から東国はその前の年から深刻な飢饉に襲われており、時代や地域によってその価格は異なる。

本州や四国での人身売買については海外に売られていくことはなかったのだろうが、九州で分捕られた場合は、親族の引き取りがなければ安値で海外に売られていくルートが存在した。
薩摩軍が分捕った人の売値は、フロイスの記録では、飢饉の時代とは言え「二束三文」でタダ同然だった。

この時期の貨幣価値については、永禄2年(1559)相模国の北条氏康に納められていた魚の価格が鰯二匹が1文、大あじが2文、鯛6~7寸で10文、1尺で15文といった記録があるが、九州では魚と変わらない価格で人間が取引されていたのだろうか。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J020.htm

私自身が最近までイメージしていた戦国時代は、英雄と英雄との戦いであり武士の世界でしか見てこなかったのだが、藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」を読んで、今までの戦国時代の見方は歴史の表面だけを見ていただけだということに気がついた。この時代に興味のある方は是非お勧めしたい本である。

大阪城

ところで、このような濫妨狼藉による人身売買を禁止したのも豊臣秀吉なのである。
前々回に「伴天連追放令」国内向けの条文の中に人身売買の禁止が明記されていることを書いたが、①人の売り買いはすべて停止せよ。②去る天正16年以降の人の売買は破棄する③だから買い取った人は元へ返せ④以後は、人の売買はともに違法だという趣旨の命令を、相次いで全国に秀吉が出している。

秀吉がただ全国を統一しただけで、平和な世の中になるのではなかった。このような人身売買を固く禁じてはじめて、人々が安心して暮らせる社会が実現できたのだと思う。

しかし秀吉の命令も、残念ながら東国までには行き渡らなかった。「大坂夏の陣図屏風」の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。

大阪夏の陣図屏風
<大阪夏の陣図屏風(部分)>

秀吉のやったことは正しかった。東国には人身売買の禁止を徹底できなかったが、秀吉は権力を握った者にしかできないことを適切に実施し、九州で日本人が奴隷として海外に流出していくのを止め、日本が植民地化していく危機を救ったと評価できるのではないか。
もし秀吉が南蛮貿易の利権を選択して、キリスト教を保護し、雑兵の濫妨狼藉を放任し日本人奴隷の海外流出も放置するような馬鹿な男であれば、今の日本がキリスト教国で白人が支配する社会になっていてもおかしくなかったと思う。

信長、秀吉、家康の3人の中で昔から秀吉が庶民から最も親しまれてきた存在であるのは、下層階級の出身でありながら全国を統一したということもあるだろうが、庶民が一番嫌う人身売買と言う悪弊を断ち切って、誰もが安心して暮らせる平和な社会を実現させる道を開いたということも、庶民から評価されてきた要因の一つではないかと考えている。
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戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日本人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。

「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日本準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬を食べることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。
それよりも、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」という秀吉の問いの方が私には気になった。

秀吉

秀吉の質問に対するコエリョの回答では「彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅した。」とキリスト教信者が勝手にやったことだと言っているのだが、キリスト教の信仰を始めたばかりの信者が、子供の頃から信仰してきた寺社を自発的に破壊することがありうるのだろうか。常識的に考えて、誰かが命令しない限り起こり得ない話だと思う。

この問題は日本史の教科書などではキリシタン大名が寺社を破壊したように書かれているのだが、もしそうならば「伴天連追放令」の中になぜ寺社の破壊を伴天連追放理由の中に入れたのであろうか。少なくとも秀吉は、寺社や仏像の破壊は宣教師の教唆によるものと考えていたはずである。

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今まで何度も紹介させていただいた、ルイス・フロイスの「日本史」を読むと次の様に書かれている。しばらく引用させていただくことにする。

以下の文章の中で、「殿」とは肥前(長崎)国の切支丹大名である大村純忠で、「司祭」とはイエズス会日本準管区長のコエリョである。大村純忠が伊佐早との戦いに勝利した時にコエリョが純忠を説得する場面である。

「…殿がデウス(神)に感謝の奉仕を示し得るには、殿の所領から、あらゆる偶像礼拝とか崇拝を根絶するに優るものはない。それゆえ殿はその用に努め、領内には一人の異教徒もいなくなるように全力を傾けるべきである。
 …殿は、さっそく家臣団あげての改宗運動を開始すべきである。ただしそれは、その人々が自由意思によって、道理と福音の真理の力を確信し、自分達が救われる道は、絶対にこの教え以外にないのだということを判らせるようにせねばならない、と。

…大村の全領域には、いともおびただしい数の偶像とか、実に多数かつ豪壮な寺院があって、それらすべてを破壊することは容易にできることではなかった。」(「完訳フロイス日本史10」大村純忠・有馬晴信編Ⅱ[中公文庫p.12])

「その地の住民たちは説教を聴きに来た。ところで日本人は生まれつきの活発な理性を備えているので、第一階の説教において、天地万物の根元であり創造者、また世の救い主、かつ人間の業に報いを与える御方であるデウスと、彼らの偶像、偶像崇拝、欺瞞、誤謬等の間にどれほどの差異があるかについて述べられたところ、人々は第二の説教まで待ってはいなかった。そしてあたかも司祭が、『寺を焼け、偶像を壊せ』と彼等に言ったかのように、彼らは説教を聞き終えて外に出ると、まっしぐらに、その地の下手にあったある寺院に行った。そしてその寺はさっそく破壊され、何一つ残されず、おのおのは寺院の建物から、自分が必要とした材木を自宅に運んだ。
 仏僧たちはきわめて激昂し、ただちに司祭のもとに二人目の使者を遣り、『神や仏の像を壊すなんて、一体全体、これはどういうことか』と伝えた。司祭は仏僧たちにこう答えた。『私が彼らにそうするように言ったのではない。ところで、説教を聞いた人たちは皆あなたの檀家なのだから、あなた方がその人たちにお訊ねになるべきです』と。…」(同書p.14)

上の文章で何度も出てくる「偶像」とは仏像のことだが、この文章を読んで宣教師の教唆がなかったと思う人は誰もいないであろう。

フロイスの本を読んでいると、宣教師が寺院を焼くことを信者に指示している場面がある。 つぎにその部分を引用しよう。

「…たまたまあるキリシタンが、ガスパル・コエリョ師のところにやって来て、司祭にこう頼んだ。『今はちょうど四旬節でございます。私は自分がこれまで犯して来た罪の償いをいたしたいと存じますので、そのためには、どういう償いをすることができましょうか。どうか伴天連様おっしゃって下さい』と。司祭は彼に答えて言った。『あなたがデウス様のご意向になかってすることができ、また、あなたの罪の償いとして考えられることの一つは、もしあなたが良い機会だと思えば、路上、通りすがりに、最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです』と。この言葉を、そのキリシタンは聞き捨てにしなかった。そして彼は、いとも簡単で快い償いが天から授かったものだと確信して、自分がそれによって、どんな危険に曝されるかも忘れ、さっそく帰宅の道すがら、ある大きく美しい寺院の傍らを通り過ぎた時に、彼はそれに放火して、またたく間にそれを全焼してしまった。…」(同書p.22-23)

南蛮船

寺社破壊に関してフロイスの著作には、領主の大村純忠は「そ知らぬふりをして、不快としてはいないことを明らかに示して」いただけで、破壊を領民に命じたとはどこにも書いていない。
このキリシタンの行動がきっかけとなり大村領の神社仏閣が破壊されて、大村領は6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。

次に肥前国有馬晴信の所領を見てみよう。加津佐の海岸近くにある岩石の小島の洞窟中に建てられていた祠に、領内から追放された僧侶達が大量の仏像を隠していたのをイエズス会の宣教師が発見する。それらの仏像を取り出していくと、大きい仏像だけが残ってしまった、という場面から引用する。

「それらは分断しなければ、そのまま入口から外にだすことが出来なかった。だが我らは、仕事を早めるためにそれらに火を付けた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。
 副管区長の司祭(ガスパル・コエリョ)は、…少年たちを招集させた。少年達は…それらの仏像を背にして運んだ。…教理を教わっている少年たちは、仏像を曳きずって行き、唾を吐きかけ、それにふさわしい仕打ちを加えた。
 折から寒い季節のことで、口之津の我らの司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこでそれらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役だった。」(同書p.208~209)

と、九州の寺社を破壊し仏像を焼却させたのは、明らかにキリスト教の宣教師である。記録を残したフロイス自身も、寺社を破壊し仏像などを焼却することは正しいことだと思っているからこそ、これだけ詳細に書いているのだ。
彼ら宣教師のために、この時代にどれだけの貴重な我が国の文化財が灰燼に帰したかわからない。

穴観音

フロイスが記述した場所は特定されており、多くの人がネットで紹介している。場所などが知りたければ例えばつぎのサイトなどに書かれている。上の写真は、大量の仏像が隠されていた穴観音という場所の写真である。
http://himawari-kankou.jp/spot/5/34/

フロイスの記録などを読むと、秀吉の「伴天連追放令」は、このまま放置すると日本人の信仰の対象であった寺社の文化財が破壊されてしまうという観点からも当然の措置であったし、何故キリスト教が日本で広まらなかったかということも当然のように思えてくる。今の日本で、評判の悪い新興宗教ですらしないようなことを、当時のキリシタンは平気で実行していたのだ。

宣教師らにとっては正しい行為をしているつもりなのかもしれないが、一般の日本人にとっては迷惑な話ばかりだし、このような布教のやり方をすれば、日本に限らずどこの国でも異教徒である一般民衆は反発し、衝突が起こって当たり前だと思う。
他の宗教や価値観を許容しない考え方や宗教は、異質なものとの共生ができない未熟さがある。そのような宗教や価値観が今も世界をリードしているから今も争いが絶えないのだと思う。

ニーチェ

ドイツの哲学者であるF・Wニーチェは晩年に「アンチキリスト」(邦訳「キリスト教は邪教です!」講談社+α新書)を著し、キリスト教が多様な文化を認めず徹底的に迫害し、戦争を必要とする宗教であるとの本質を見抜いている。わかりやすい訳文で、この本はニーチェの本にしては誰でもすぐに読了できる。

世界全体でキリスト教の信者が現在20億人いて、キリスト教が世界で最も信者数が多い宗教であることは周知の事実だが、これはキリスト教の教義が素晴らしかったから全世界の民衆に支持されて広まったというわけではなく、侵略国家の宗教であったから住民に押し付けて広められたという側面を無視できないのではないか。

西洋が全世界を侵略しその固有の文化を破壊していた時代に、日本はキリスト教の危険性を察知するだけの為政者がいて、侵略の先兵となっていた宣教師を斥けるだけの武力があったから日本固有の文化を守ることが出来たのだ。多くの国ではそうはいかなかったから世界中にキリスト教徒が多くなったというだけのことだと思う。
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永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか

以前このブログで、江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)の3回落ちたということを書いていることを紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-120.html

東大寺と郡山城の桜 045

最初の斎衡2年の時は地震で、治承4年の時は平重衡による南都焼討、永禄10年は松永久秀が夜襲をかけたのが原因とされているが、永禄10年については異説があることを記事に少しだけ触れておいた。

その異説とは、松永久秀の敵方である三好三人衆にいたキリシタンの誰かが東大寺に火を付けたという説なのだが、その記録が今まで何度か紹介させていただいたルイス・フロイスの「日本史」の中に出ているのである。

この時代の歴史に興味を持ったので、ルイス・フロイスの本を取り寄せて、どこに書いてあるか調べたところ、意外と早く該当箇所を探しあてることが出来た。

中公文庫の「完訳フロイス日本史」第1分冊の第20~22章(原書では第1部59~61章)に、ルイス・デ・アルメイダ修道士の書簡が紹介されていて、22章に東大寺に関するアルメイダの記述がなされている。

文章を引用する前に、ルイス・デ・アルメイダについて簡単に紹介しておく。

アルメイダ

アルメイダは1525頃にポルトガルのリスボンに生まれ、1552年に貿易目的で来日したが、医師の免許も持っていて西洋医学を日本に導入し、大分に日本で最初の病院を建てた人物でもある。上の写真は大分市にある西洋医術発祥記念像で中央の人物がアルメイダである。 彼は学識もあったことから、僧侶など知識人の欲求に良く答えて改宗に導き、医師として貧しい人を助けたので多くの信者を獲得したと言われている。

アルメイダ修道士は、永禄10年に大部分が焼失する前の東大寺を訪れ、東大寺に関して様々なことを書いているが、内容の多くは建物の大きさや仏像の大きさ、梵鐘の大きさなどで、大仏に関しては次の様な感想を書いている。

「…私達は、日本のあらゆる遠隔の地方から人々がこの寺院に参詣する盲目さ、ならびに彼らが拝む悪魔や偶像によるほかになんの救いもないかのように、こうして誤った救いを渇望している有様に接しては、涙し、同情せずにおれません。そして私どもがもっとも驚かざるを得ないのは、日本人は、シナ人やインド人とはすべてにおいて非常に異なっているにもかかわらず、かくも賢明、清潔、優秀な国民の許でなおかつこうしたひどい無知を見出す事なのです。」(中公文庫「完訳フロイス日本史」第1分冊p279)
とあるように、キリスト宣教師にとっては異教である仏教の仏像は、いかなるものも排除すべき対象物であるにすぎないのだ。

この文章に続いて鐘楼の鐘の大きさについて驚いたとの記述があり、そこで一旦アルメイダの書簡の引用を中断し、ルイス・フロイス自身が次の様な文章を書き込んでいる。

「今から二十年くらい以前のことになるが、ルイス・デ・アルメイダ修道士が下(シモ:九州)へ帰った数年後に、(松永)弾正殿は、同修道士が先に述べた、かの豪華な城で包囲された。その多聞山城(タモンヤマ)を包囲した軍勢の大部分は、この大仏の寺院の内部とこの僧院(東大寺)のあらゆる場所に宿営した。その中には、我らイエズス会の同僚に良く知られていた一人の勇猛な兵士もいたのであるが、彼は、世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心なあまり、誰かにたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、密かにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠く離れた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘楼以外はなにも残らず全焼してしまった。丹波および河内の国では、同夜、火の光と焔が大和国との間に横たわる山々の上に立ちあがるのが見られた。」(同書p279-280)

東大寺と郡山城の桜 006

永禄10年(1567)の松永弾正と三好三人衆・筒井順慶連合軍との戦いは、「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれ、通史では松永弾正が、東大寺に布陣している三好三人衆・筒井順慶連合軍に夜襲をかけて、その時に東大寺に火を付けたのは松永弾正軍だということになっている。

では、通史で松永弾正軍が火を付けたという根拠は何なのか。
前回でも紹介したが、興福寺の塔頭多聞院で文明10年(1478)から元和4年(1618)までの出来事を記録された「多聞院日記」の口語訳がWikipediaに紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻に は大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

と、ここには松永弾正軍がやったとは書かれていない。

松永弾正太平記

午後11時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたいだ翌10月11日午前2時には大仏殿が焼失したようである。また『東大寺雑集録』によると、

「四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした。」

と記されているのだが、普通に読めば松永軍が火を放ったとなるので、これが通説の根拠であろう。しかし、これを書いた僧侶は誰かが東大寺に火を放った現場を見たのであろうか。

ルイス・フロイスが書いているように、三好三人衆側のキリスト教徒が「自分が警護していた間に、密かにそれに火を放った」のであれば、どちらが火を放ったかがわからず、恐らく攻めてきた側の松永軍が多分火を付けたと考えただけだと思われる。

紹介したWikipediaの記事では、日本側の記録も紹介している。

『大和軍記』という古文書には「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されているそうだし、『足利李世紀』という古文書には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されているそうだ。
とすれば、松永弾正が東大寺を焼失させたという通説はおかしい、ということになる。

確かに松永弾正軍は過去も火を用いて寺を焼いたことがあり、将軍足利義輝の暗殺も主導した人物でもあり、その連想から松永軍が火を放ったと思われても仕方がなかった面もあるが、史料を読む限りでは松永弾正は、東大寺に関しては無実である可能性が高いと思われる。

しかしながらなぜ通史では、ルイス・フロイスが「日本史」に三好軍のキリシタンが火を付けたとわざわざ書き込んでいることを無視し、「大和軍記」や「足利李世紀」の記述をも無視するのか。私にはこのことは非常に不自然に思える。
せめて教科書や通史には両論を併記すべきではないのかと私は思うのだが、皆さんはどう思われますか。

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永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。

東大寺と郡山城の桜 040

松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を相次いで焼いている。
松永弾正、三好三人衆のうち、三好長逸はキリスト教に寛容なところがあったそうだが、全員が仏教を信仰する武士であった。それなのになぜ仏教施設に火を付けさせたのだろうか。あるいは配下の兵士達が自発的に火を付けて焼き払ったのか。

いろいろ調べると、松永弾正の配下にも、三好三人衆の配下にも、かなりのキリシタンがいたらしいのだ。
実は松永弾正は、東大寺が焼失した2年前の永禄8年(1565)に将軍足利義輝を攻め滅ぼした際に、キリシタンの宣教師を京から追放した人物である。また後に、織田信長によって京に宣教師が戻された時に、「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である」と信長に進言した人物でもあり、ルイス・フロイスから「悪魔」とまで呼ばれたキリスト教嫌いの人物でもあるのだ。

その松永弾正が率いる軍隊においてもキリスト教の信者が多くいたことに、多くの人が違和感を覚えるのではないか。また松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に両軍がミサのために休戦したということが、今まで何度か紹介したルイス・フロイスの「日本史」に記録されていることを知って驚いてしまった。両軍の指導的立場にある武士に、相当数のキリシタンがいなければこのようなことはあり得ないはずだ。

しばらくこの戦場のクリスマス休戦の場面を引用しよう。

img20110304000858513.jpg

「降誕祭になった時、折から堺の市(まち)には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見受けられた。ところでキリシタンたちは、自分達がどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所に宛てていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。
 ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。祭壇の配置やそのすべての装飾をみようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らはその中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。」(中公文庫「完訳フロイス日本史2」p.55)
と、両軍の内訳については書かれていないものの、両軍で70名ものキリシタンの武士がいて、戦争では敵として戦いながら、信仰ではしっかり繋がっていたということは驚きである。このことはどう考えればいいのだろうか。

前回までの私の記事を読んで頂いた方は理解いただいていると思うのだが、イエズス会の日本準管区長であったコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。

京都を中心に活動したイタリア人のイエズス会宣教師であるオルガンディーノも、巡察師ヴァリニャーノに送った書簡の中で、寺社破壊を「善き事業」とし「かの寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望んでいる」と書いているようなのだ。とすれば、彼らは両軍にキリシタンの武士を増やして、寺社破壊を意図的に仕組んだということも考えられるのだ。

すなわち、キリスト教の宣教師は日本でキリスト教をさらに弘めるために、日本の支配階級である武士をまずキリスト教に改宗させて、戦国時代を出来るだけ長引かせ、キリシタンである大名や武士に神社仏閣を徹底的に破壊させ、彼等の力により領民を改宗させていくことをたくらんではいなかったか。

宣教師が戦争で戦っている両軍のキリシタンに寺社の破壊を吹きこんだとしたら、両軍の指導的地位にある彼らは大きな寺の境内に陣を構えて積極的に火を使えば、容易に宣教師の希望を実現することが出来ると考えても何の不思議もない。

高山右近

キリシタン大名として有名であった高山右近は高槻城主であった時に、普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、八幡大神宮、濃味神社といった結構大きな寺社を焼き討ちにより破壊したといわれているが、私にはこれなども宣教師の教唆が背景にあるように思えるのだ。また織田信長も多くの寺院を焼き討ちしたが、信長の配下にはこの高山右近などキリシタン大名が多かったことと関係があるのかもしれない。

ルイス・フロイスの「日本史」の次の部分を読むと、三好軍にいたキリスト教の信者が、偶像崇拝を忌むべきものであることを宣教師から吹き込まれていたかがよくわかる。 ここに出てくる「革島ジョアン」は、三好三人衆の中でキリスト教に対して比較的寛大であった三好長逸の甥にあたる人物である。

「…彼(革島ジョアン)はどこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。この殿たちが皆、津の国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、彼らとともに西宮という非常に大きい神社に赴いた。そこには多くの人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている霊場であった。

他の若い同僚たちは、キリシタンになったそのジョアンを愚弄して、彼にこう言った。『貴殿はあのような邪悪な宗教を信じたし、また貴殿は日本の神々を冒涜する言葉を吐いたことだから、近いうちに神々の懲罰を受けるであろう』と。

ジョアンはそれに答えて言った。『予が、死んだ人間や、木石に過ぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。ところで予がそれらをどれほど恐れてはいないか、また悪魔の像を表徴しているにすぎない彫像を拝むことがどんなに笑止の沙汰であるかをお前たちが判るように、これから予がそれらをどのように敬うかを見られるがよい』と。

こう語ると彼は、非常に高く、すべて塗金されている偶像の上に登り、その頭上に立ち、そこで一同の前で偶像の上に小便をかけ始めた。…」(同書p.70-71)

この事件があってからは三好長逸も、司祭や教会のことには一切耳を貸さなくなったそうであるが、当時のキリスト教信者にとって仏教施設はすべて愚弄し破壊すべき対象物にしか過ぎなかったのだ。

十日戎

ここに出てくる「西宮」とは、毎年1月10日の本えびすの朝に「開門神事福男選び」が行われる有名な西宮神社だが、廃仏毀釈で仏教施設が破壊されるまでは、神仏習合でお寺も仏像も存在していたのだ。今は西宮社にあった大般若経が播磨三木市吉川にある東光寺というお寺に残されているようだが、仏像や寺院がどうなったかはネットで調べても良くわからなかった。

戦国時代にキリシタンの武士がさらに増えていれば、また戦国時代がもっと長引いていれば、もっと多くの日本の文化財がこの時代に破壊されていたことは確実だろう。

以前にも書いたが、豊臣秀吉が伴天連を追放し全国を統一して平和な社会を実現させたことが日本人奴隷の海外流出と寺社の破壊に歯止めをかけた。
もし秀吉がキリスト教を信奉していたら、あるいはキリスト教宣教師の野心を見抜けず何の対策も打たなければ、日本はこの時期にキリスト教国になっていてもおかしくなかったと考えるのは私だけなのだろうか。
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若狭湾の400年前の津波の記録と原子力発電所の安全性について

5月27日の日経の朝刊に、今から400年以上前に若狭湾津波とみられる大波で多数の被害が出たとの記録があるという記事が目にとまった。

記事によると、
「…敦賀短期大学の外岡慎一郎教授(日本中世史)が4月上旬、敦賀市の依頼を受けて調べたところ、京都の神社の神主が戦国~江戸時代に書きつづった日記『兼見卿記(かねみきょうき)』に、1586年に『丹後、若狭、越前の海岸沿いで家々が波に押し流されて人が死亡した』といった内容の記述があった」
「…また当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にも『山のような波が押し寄せて家や人が流された』といった記述が見つかった。」と書いてある。

早速この時の地震に関するルイス・フロイスの記録を探してみた。

3フロイス日本史

該当部分は「完訳フロイス日本史3」(中公文庫)の第60章にあった。
少し長くなるが、重要な部分であるので紹介したい。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、…突如大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫p196-197)

とここまでは、フロイス自身が体験した地震のことを書いている。フロイスは主に堺に居住していたので津波については体験していない。この文章に続いて、フロイスらが目撃者などから聞いた近江や京都や若狭や美濃や伊勢などの情報が付記されている。

それぞれ興味深いのだがすべてを引用すると長くなるので、若狭の津波に関する記録だけを紹介したい。
「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198)

東京大学の「大日本史料総合データベース」にアクセスすると、同時期の様々の史料を記録された日付けを絞込んで読む事が出来る。この地震の記録は新聞で紹介された「兼見卿記」だけではなく多くの史料で確認できるので、もし興味のある方は次のURLで確認することができる。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
このデータベースで、フロイスがイエズス会のインド管区長ヴァリニャーノに宛てた書簡が「イエズス会日本書簡集」にでているが、ほぼ上に紹介した「フロイス日本史」と同様の文章だ。フロイスは地震の日付けを11月1日と書いているが訳注では(11月29日の誤記)と書かれ、若狭の記述部分の「長浜」は「(小浜」の誤記か)と訳注が付されている。

Wikipediaによると、この日の地震は「天正大地震」とよばれ、震源地は岐阜県北西部でマグニチュードは7.9~8.1と推定されている。現在の愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県に相当する地域に跨って甚大な被害を及ぼしたと伝えられ、この地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。
具体的な被害として紹介されているのは、越中国木舟城が倒壊、飛騨国帰雲城が山崩れで埋没、美濃国の大垣城が全壊焼失、近江長浜城が全壊など城郭の損壊が中心である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87

敦賀原発

フロイスの若狭国についての文章に戻るが、この現象は地震による「津波」であることは、誰でもわかる話だと思う。しかし、関西電力はこの記録が存在するのを知りながら「信憑性がない」と社内で判断し、地元民には「若狭湾は、津波による大きな被害の記録がない」と説明して、14基もの原子力発電所若狭湾に建設してしまった。
これでは関西電力は、近隣住民の安全よりも、原子力発電所を建てることにすべてを優先させたと言われても仕方がないだろう。また建設を許可した国にも、このような重要な史実を看過した責任はないのだろうか。

福井県の原子力発電所

若狭湾に限らず、他の原発においても今後何も起こらないという保証は何もない。本来原子力のような、万が一の事態が発生した場足に国全体あるいは世界全体に多大な影響を及ぼすような物質を扱う場合には、過去の地震や津波などの記録を調査してそのレベルの災害にも耐えられる設計をしておくことが基本だと思うのだが、どこの原発も充分な検証がなされているのか。 過去の自然災害が耐えられる設計がなされていたとしても、もし「想定外」の地震や津波や火災があった場合においても、住民に被害を及ぼさないための二重三重の安全対策がなされているのだろうか。

今年度における政府全体の原子力予算は4330億円で、内約2300億円が研究開発などの原子力推進のために使われ、その内の核燃料サイクル関連の予算は520億円。一方で安全関連の予算は570億円なのだそうだが、この数字を見ても原子力推進にお金をかけ過ぎているように見える。

以前、他国と日本の原子力関連予算を調べて驚いたことがある。

原子力予算問題点

原子炉の数が多い国は①アメリカ104基②フランス58基③日本54 基の順なのだが、原子力を考える会の「よくわかる原子力」というHPを見ると日本の原子力関連研究開発予算が他国比突出している。何故原子炉の多い国よりも日本の予算がべらぼうに多いのか。次のデータはやや古いが、日本の予算はアメリカの約8倍、フランスの約7倍もあるのだ。
http://www.nuketext.org/mondaiten_yosan.html

慶応大学の岸博幸氏は、今回の福島の原発事故については東電に責任があることは言うまでもないが、政府にも重大な責任があり、双方の責任を安易な電気料金の値上げや増税で処理するのではなく、東電は徹底的なリストラをし、政府も今まで蓄積してきた「原子力埋蔵金」を放出して返済原資に充てるべきであると説いている。
http://diamond.jp/articles/-/12124

岸博幸

その「原子力埋蔵金」は岸氏によると、「政府が原子力推進を当面の間棚上げにすれば、そして特にもんじゅや六ヶ所村再処理工場に代表される“核燃料サイクル”を断念すれば、数兆円単位の資金」があるのだそうだ。ほかにも「(財)原子力環境整備促進・資金管理センターには、電力会社が積み立ててきた2種類の積立金(再処理積立金、最終処分積立金)が合計約3兆5千億円」あり、さらに原子力関連の独立行政法人や公益法人は様々あって、それら法人の剰余金は賠償金に使えるとしている。

岸氏は続けて「甚大な原発事故が起きた以上、国民感情を考えれば原子力推進などとても無理なはずですので、予算の執行を停止して、原子力推進のための予算のうち全額は無理でも例えば半分を賠償に転用するのは、原発事故の責任を負うべき政府として当然の対応ではないでしょうか。」と説いているが、全く正論だと思う。

今回の原子力災害に関しては消費者には何の責任もなく、ただの被害者にすぎない。したがって、電力料金の値上げや増税で被災地の被害者の賠償金原資の捻出をはかるというの議論はどう考えてもおかしい。
ペナルティを課すべき対象は、第一義的には原子力推進を図って来た東電や政府ではないのか。この際原子力利権そのものに大きなメスを入れなければ、問題解決をすることにはならないと思う。
岸氏が主張する通り、政府さえその気になれば数兆円単位の賠償原資の供出が可能であり、東電も役員報酬や管理職の給与カットや厚生施設売却などまだまだやるべき事がある。また、既存の原発の安全対策にも大きな追加投資が早期に必要なはずだ。
そういう議論をほとんどせずして、電気料金の値上げや消費税増税の議論が先行すべきではないと思う。

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日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3

前回は、大航海時代以降に西洋諸国が世界各地を侵略し地球規模で奴隷貿易を開始したのは、ローマ教皇の教書に則った活動であることを書いた。
インカ帝国が滅亡した事例で、キリスト教の神父が重要な役割を演じていることを紹介したが、わが国の場合はキリスト教の宣教師に日本を侵略する意思や、日本人を奴隷化する意思はあったのだろうか。表題のテーマからすれば、日本も例外ではなかったことを、当時の記録から論証する必要がある。

ルイスフロイス

大量に日本人奴隷が海外に輸出された事実は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記録を読めばわかる。以前私のブログで引用した部分だが、

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。」(同書p.314)…1589年の記述

という記録もあり、数千人レベルではなさそうだ。
太閤検地の頃の豊後の人口が418千人であったことから勘案すると、鬼塚英昭氏が『天皇のロザリオ』という本で書いた50万人説は、豊後以外の人々が奴隷にされていたとしても多すぎると考える。
史料を読む人によってイメージする数字が異なるのだろうが、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の会話録の中で、彼らが世界各地で日本人奴隷を見て驚愕した記録や、インドのゴアにはポルトガル人よりも日本人奴隷のほうが多かったという記録があることなどからしても、数万人程度は海外に奴隷として送られたと考えてもおかしくはないだろう。

日本人奴隷は鎖につながれて数百人が奴隷船に積み込まれた記述がある。
秀吉の祐筆であった大村由己(おおむらゆうこ)が『九州御動座記』に、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯をまとめている。

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」

奴隷船

手足に鎖をつけて、数百人も船に積み込むのはアフリカの奴隷船と全く同じやり方だ。 アフリカで実際に使われた100tクラスの奴隷船は全長が約30mで414人の奴隷を乗せたという記録があるそうだが、船底の3~4段のスペースに身動きできない程ぎっしりと詰められた暗くて狭い空間で、何か月もろくな食事も水も与えられずに波に揺られて運ばれていたかと思うとぞっとする。

当時日本にいたキリスト教宣教師のトップであるイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョと秀吉のやりとりが、ルイス・フロイスの記録に残されている。

hideyoshi_koudaiji.jpg

「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)

秀吉が、奴隷を連れ戻すために必要な金を払うとまで言ったのに、コエリョは我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えて秀吉を激怒させ、『伴天連追放令』を出すこととなる流れだ。
前回の記事でも書いたように、コエリョ自身が署名した奴隷売買契約書も発見されている。コエリョはローマ教皇教書によって認められていた、異教徒を奴隷にする権利を行使していたことは間違いがない。

しかしながら、途中から日本での奴隷貿易を廃止させようと動いたこともまた事実である。
Wikipediaによると、「1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.A5.B4.E9.9A.B7.E3.81.AE.E8.B2.BF.E6.98.93

ここで、前回の記事を思い出してほしい。
ローマ教皇パウルス3世が異教徒を奴隷とすることを禁止する教書を出したのは1537年。しかし、それが翌1538年に教皇パウルス3世自身により撤回されて異教徒を奴隷にする権利が元どおりに復活しているのだ。
当時のローマ教皇はキリスト教世界の首長として絶大な影響力を持っており、その決定はヨーロッパのキリスト教国王に対しても拘束力があった。したがってローマ教皇の教書で異教徒の奴隷化を全面禁止としない限り、奴隷貿易がなくなるはずがなかったのだ。

上記のWikipediaの記事には秀吉が『伴天連追放令』を出した9年後の1596年(慶長元年)に、「長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している」ことが書かれているが、ガスパル・コエリョがそのような通達を早い段階から出していれば、日本のキリスト教の布教がその後も拡大した可能性はあったかもしれない。しかしながら、自らが奴隷貿易に関与していた男が、ローマ教皇の教書によって与えられた権利を捨ててまでしてそのような通達を出すことはなかっただろう。

日本の歴史の教科書にはほとんど何も書かれていないので、中学高校時代にはイエズス会の宣教師はキリスト教を広めるためにわざわざ日本にやってきたとしか考えなかったのだが、私がスペインやポルトガルにわが国を侵略する意図があったことを知ったのは数年前のことである。
この頃の日本は「戦国時代」で、どの大名も軍事力を大幅に増強していた時期であったことは幸運なことだった。だからこそわが国は、この時にスペインやポルトガルに征服されずに済んだのだと思う。最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で日本を占領することは無理だと報告している。

ザビエル

「…貴兄に、我らの国王と王妃とに、次の献言をして頂きたいためである。即ち此の御ニ方は、その良心を軽くせんがため、カスチリヤ(スペイン)の艦隊を、ノヴ・イスパニヤ経由で、*プラタレアス群島の探検のために、送らないようにと、皇帝やカスチリヤ国王達に知らせなければならないことである。何となれば、幾つの艦隊が行っても皆滅びてしまうからである。そのわけは、海底に沈没しなくても、その島々を占領するならば、日本民族は甚だ戦争好きで貪欲であるから、ノヴ・イスパニヤからくる船は、皆捕獲してしまうに違いないからである。他方日本は、食物の頗る不作の土地であるから、上陸しても皆飢え死にするであろう。その上、暴風が激しいので、船にとっては、味方の港にいない限り、助かるわけは一つもない。
…日本人は貪欲であるから、武器や品物を奪うために、外人のすべてを殺すであろう。…」
*プラタレアス群島:「銀の島」。日本はそう呼ばれていた。
(岩波文庫『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄(下)』p172-173)

同様のことを織田信長とも親交のあったイエズス会の東インド巡察師ヴァリヤーニも1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡に書いている。本能寺の変から半年後に次のような書簡が書かれたことに注目したい。当時のフィリピンはすでにスペインの植民地であり、スペインが次にどの国に向かうべきかがこの書簡の主題である。

ヴァリャーニ

「これら東洋における征服事業により、現在いろいろな地域において、陛下に対し、多くのそして多き門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところである。…それらの征服事業の内最大のものの一つは、閣下のすぐ近くのこのシナを征服することである。…
私は3年近く日本に滞在して、…霊魂の改宗に関しては、日本の布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言することが出来る。何故なら、国民は非常に高貴且有能にして、理性によく従うからである。尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.81-83)
と、まずシナから征服すべきであるとし、日本は武力征服が成功する見込みがないし国土が不毛でメリットがないということを書いているのだ。
イエズス会の巡察師というのはイエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師と理解すればよい。彼ら宣教師の目的が布教だけでなかったことは彼らの書簡を読めば明らかなことである。

また、フィリピンのマニラ司教のサラサールが1583年6月18日付でスペイン国王宛にシナに対する武力征服の正当性を主張した報告書が残されている。この報告書は当時のスペインの征服事業が、前回の記事で記したローマ教皇の教書に基づいたものであることを裏付けているし、日本をどうするかについても書かれている。
「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国に攻め入ることの出来る正当な理由になることを、陛下に知らせるためである。…
…もしも迅速に遠征を行うなら、シナ人がわれわれを待機し、われわれに対して備えをするのを待ってから事を起こすよりも、はるかに少数の軍勢でこと足りよう、という点である。そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くにいる日本人がシナ人の仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されると良い。
そしてこれが効果を上げるための最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」(同書p.85-88)

キリスト教の布教に協力しないということだけで宣戦布告できるというのは、前回の記事で書いたインカ帝国を滅ぼした手口と同様である。
これはローマ教皇アレキサンデル6世が1493年に出した『贈与大勅書』により、異教徒であることが認定されればすべての権利がスペインに帰属するという解釈により、「福音の宣布を妨害している」ことを口実にシナも攻め入ることができると進言しているのだ。

この2年後の1585年3月3日にイエズス会日本準管区長のコエリョは、フィリピンイエズス会の布教長に対し、日本への軍隊派遣を求め「もしも国王陛下の援助で日本66か国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層にシナを征服することができるであろう」と書いている。すなわちコエリョは、日本人をキリスト教に改宗させたうえで、その軍事力を使ってシナ征服にとりかかろうという考えであったのだ。

これらの書簡を読めば、キリスト教の布教は単に信者を増やすというレベルの問題ではなく、スペインが海外を征服していくための国家戦略に組み込まれていて、宣教師は世界征服のための先兵のようなものであったことが誰でもわかるだろう。

当時のわが国で、カトリックに本気で帰依したキリシタン大名はすでに何名もいた。彼らは秀吉の統制の外にいて、いずれスペインが明を征服し朝鮮半島から最短距離でわが国に向かったとすれば、キリシタン大名の銃口は秀吉に向かい国内は内乱状態になっていたはずだ。

彼らの意図を察知した秀吉の動きは早かった。天正15年の5月4日に、秀吉は自らの明征服計画をコエリョに被瀝し、キリスト教布教を認める代わりにポルトガルの軍船2隻を所望している。さらに秀吉は、天正19年(1591)にはゴアのインド副王とマニラのフィリピン総督に降伏勧告状をつきつけ、応じなければ明征服のついでに征服するから後悔するな、と恫喝している。
その秀吉のフィリピン総督宛ての書状には、「今や大明国を征せんと欲す。…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃せて伏(降伏)すべし。若し、匍匐膝行(ぐずぐすして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必せり。悔ゆる勿れ…」と書かれているという。

以前に私のブログで、秀吉の朝鮮出兵は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとしたと考える方がずっと自然ではないかと書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html

秀吉の朝鮮出兵【文禄の役(1592)、慶長の役(1597)】については教科書や通説ではロクな評価がなされていないのだが、以上のような歴史的背景を知らずして、その意義を正しく理解できるとは思えないのだ。

われわれが学校で学んできた歴史は、西洋にとって都合の良い内容を押し付けられてきたのではなかったか。西洋の世界侵略や奴隷貿易のことを知らずに日本史を理解しようとするために、戦国時代以降近現代の歴史理解が随分歪んだものになってはいないだろうか。

西尾幹二氏の著書で『GHQ焚書図書開封』というシリーズ本があり、すでに6巻まで刊行されている。

焚書図書開封

その第1巻の第1章には、第二次大戦後GHQが日本を占領していた時代に7769タイトルの単行本を全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構で輸送中のものも含めて没収し廃棄されたことが書かれている。幸い国会図書館の蔵書と個人が購入していた本までは没収されておらず、西尾氏が入手した本を解説しているのが上記のシリーズだ。
焚書処分された本の中には、国粋主義的なタイトルのものもあるが、西洋の侵略の歴史や奴隷貿易にかかわる研究書や学術書などがかなり含まれている事がわかる。
またGHQは、焚書とは別に、昭和20年9月からの占領期間中に新聞、雑誌、映画、放送内容をはじめ一切の刊行物から私信に至るまで、徹底した「検閲」を実施している。
次のURLに昭和21年11月25日付の占領軍の検閲指針の30項目が出ている。
http://www.tanken.com/kenetu.html

この検閲指針を読めば、東京裁判を批判したり、SCAP(連合国最高司令官=マッカーサー)が日本国憲法を起草したことを批判したり、米国、英国、ロシアや中国を批判したり、韓国人を批判することなどが禁止されていたことがわかる。
しかし終戦後67年目にもなるのに、これらの指針が今も活きているように錯覚してしまうことが少なからずあるのはなぜなのだろうか。
なぜマスコミは、東京裁判史観を否定する論拠となる史実を伝えようとせず、またアメリカや中国や韓国などに主権が侵害されていても充分な抗議をしようともしないのだろうか。

GHQに代わってこれらの検閲基準を今も守らせようとする勢力が国内外に存在して、大手のマスコミや出版界がその勢力とのトラブルを避けるために、未だに自主規制をしているということなのだろうか。
そんな自主規制のようなものが存在しないというのなら、少なくとも主権を侵害されているような事案に関して堂々と抗議してくれなければ、一体どこの国の会社なのかと問いたくなるところだ。
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戦国時代の祇園祭を見た宣教師の記録を読む

以前何度かこのブログで紹介したが、戦国時代の日本にイエズス会の宣教師として来日したルイス・フロイスが当時のわが国の記録を詳細に残しており、中公文庫の『フロイス日本史』でその日本語訳を読むことができる。

フロイスのこの著書の第1分冊に、今年ももうすぐ山鉾巡行が行われる京都『祇園祭』の記録を見つけたので紹介したい。イエズス会が我が国に派遣したポルトガル人宣教師ガスパル・ヴィレラについての1562年の記録の一節を引用する。

「この都の市内では、古来、神や仏に対する畏敬から盛大な祭りが行われた。それらのいくつかは、人々が語るように、華麗さ、外面的な費用においてはなはだしく以前に比べて劣るとはいえ、今なお行われていた。第六月の十五日には、祇園と称せられる偶像を敬う祭りが催されるが、それは、都の郊外に、多数の人が訪れる霊場を有し、次のようにして行われる。」(中公文庫『フロイス日本史1』p.146)

祇園感神院

今では、京都「祇園祭」は「八坂神社」のお祭りとして知られているが、「八坂神社」は明治の「廃仏毀釈」により神社にさせられるまでは「神仏習合」のお寺(天台宗)であり、「感神院祇園社(かんしんいんぎおんしゃ)」あるいは「祇園社」と呼んでいた。
歌川広重(1797-1858)の絵で「京都名所之内」より、「祇園社雪中」という絵があるが、この鳥居の扁額には「感神院」と書かれているのが読める。

祇園社

また以前私のブログで紹介したとおり「都名所図会」巻三には多宝塔や薬師堂などの仏教施設の絵が描かれている。ただしこの多宝塔は、「廃仏毀釈」とは関係なく、寛政年間に焼失したようだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

京都ガイドブックのサイトによると「祇園祭」のルーツは9-10世紀に始まった祇園社の御霊会「祇園会(ぎおんえ)」で、中世前期までは、三基の神輿、十三本の馬上鉾、五匹の神馬、獅子舞、巫女の神楽、田楽の行列が、旧暦の6月7日に祇園社からお旅所へ渡り、14日に祇園社に戻るという日程で行われていたそうだ。
http://kyoto.nan.co.jp/knowledge/gion.html

年中行事絵巻

以前私のブログでも紹介したが、平安時代の「祇園会」の様子が「年中行事絵巻」(京都芸術大学蔵)の第九巻に描かれている。この絵巻物には行列の先頭に鉾を担いでいる人物がいて神輿や牛車が描かれ、山鉾がどこにも見当たらないことに誰でも気づく。[絵をクリックすると拡大されます]

山鉾巡行が始まるのは14世紀の半ば以降のことで、応仁の乱(応仁元年[1467]~文明9年[1477])の前には山鉾の数は58基にもなったそうだが、応仁の乱後しばらく中断され、明応9年(1500)に山鉾38基で復活されたという。ちなみに現在の山鉾数は33基だ。

ガスパル・ヴィレラやフロイスらが日本にいた時代には、祇園祭の山鉾巡行は(太陰暦の)6月7日と14日の年2回行われていたはずなのだが、フロイスはどういうわけか祭りの日を6月15日と書いている。フロイスの記述では「祇園社」から神輿が出ていることから、7日に行われた祭りの日を間違えたものと考えられる。

明治5年の11月に明治政府が暦を太陰暦から太陽暦に変更することを発表し、明治10年以降は山鉾巡行の日程が7月の17日と24日に移されたのだが、昭和41年以降は人手不足から、7月17日の一回に変更されて現在に至っている。

フロイスの記述では「祇園と称せられる偶像を敬う」と書いているが、「感神院祇園社」が祀っていたのは「牛頭天王(ごずてんのう)」で、これはインドの釈迦の生誕地にちなむ祇園精舎の守護神であり疫病を防除する神と信仰され、「神仏習合」の考え方では薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体だと考えられてきた。
近世の神道家や国学者にとっては、記紀の中でヒーロー的存在であるスサノオと習合している「牛頭天王」は目障りであったらしく、明治政府は「神仏分離」政策を推し進める中で、「牛頭天王」を祭神とするすべての神社について、祭神をスサノオノミコトに代えさせているのだそうだ。

このような経緯で、明治時代の初めに「感神院祇園社」の仏教施設は撤去され、名前は「八坂神社」に改名されて、祭神はスサノオノミコトとされたのである。

フロイスの記録の続きを読んでみよう。

「祭りの数日前に、各町内とその職人たちに、祭りの当日持ち出さねばならない出し物が割り当てられる。次いで当日になると、朝方、無数の群衆が、この祭りを見物するために都に殺到して来る。また別の人たちは祭りに参加することを誓約したためにやって来る。
そして一同は行列のようにして繰り出す。その行列では、まず上部にはなはだ高い舞台が設けられた15台、またはそれ以上の車が行く。それらの車は、絹の布で掩われているが、すでに古く、長く使用されたものである。そして舞台の真中には非常に高い一本の柱がある。その車は二階、または三階で、その各階には高価な絹衣をまとった、都の市民の子供たちである大勢の少年がいる。彼らは楽器を携えており、そうした装いで演技したり大声で歌ったりする。その一台一台の後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み、皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく。これらの大きい舞台付の車が通過すると、他の、より小さい車が続く。その上には、立像によって日本の古い歴史上の幾多の故事や人物が表徴されている。[日本人は、それらを非常に上手に製作する。すなわち、彼らは万事において非常に器用であり、はなはだ完全で精巧な仕事をする。彼らは自然の偉大な模倣者であって、そのような仕事にたずさわるのである。]かくて彼らは、これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごすのである。」(同上書p.147-148)

鶏鉾
フロイスが「一同は行列のようにして繰り出す」と書いているのは「山鉾巡行」のことであるが、「山鉾」が「鉾」と「山」に分かれているということは、当時の外国人宣教師には理解できなかったのかもしれない。
油天神山

「鉾」というのは屋根に長大な鉾を戴き、直径2メートル程の車輪が付き、2階にお囃子が乗っているもので、「山」というのは、鉾の代わりに松の木を戴き、山の上で出し物を演じる数人の者が乗ることはあっても、お囃子ほどの大人数は乗っておらず、「鉾」よりも一回り小さいものをいう。今年は142年ぶりに「大船鉾」が復活し、巡行する山鉾の総数は33となっている。

祇園囃子

フロイスは「楽器を携え…大声で歌ったり」と書いているが、「祇園囃子」のことを書いているのであろう。実際は鉦(カネ)と笛と太鼓で奏でられている。注意深く聞くと、同じ鉾の囃子には何種類かあり、また鉾によっては囃子の旋律やリズムが異なることがわかるのだが、西洋のような五線紙はなく、この伝統を何百年に亘り継承してきたことは大変な事なのだ。
http://w3.kcua.ac.jp/jtm/archives/resarc/gionbayashi/niwatoriboko/10.html

また、フロイスは「後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み」と書いている。現在は町内単位の山鉾ばかりだが、昔は職業組合が出す山鉾もあったらしいのだ。
続けて「皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく」とあるが、今では山鉾巡行の行列で武具を携えて歩く人はいない。

また、フロイスが「これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごす」と書いているのは、事実を確認して書いたものとは思えない。重たいものでは12トンもあると言われる山鉾が人を乗せて坂を上ることは考えにくいことだしし、今もそうだが江戸時代の「都名所図会」の記録でも、山鉾のルートは「感神院祇園社」に行くことにはなっていない。

「祇園という偶像」と書いているのは「牛頭天王」の事だと思われるが、そもそもキリスト教は偶像崇拝を禁止する宗教であり、内心では仏像などに対する祈りの行為を認めたくなかったはずだ。

フロイスの文章は続いて山鉾巡行の後に行われる「神幸祭」の記述となる。しばらく引用する。

「午後、彼らは非常に立派に飾られた大きい輿(みこし)を持って神社から出る。多数の者がその輿を肩に担ぐが、その中にかの偶像があると言われる。民衆は皆頭を下げつつ、双手を挙げてこの輿を拝む。そしてその時には、たとえ酷暑であっても、輿が通過する間、誰も頭に帽子をかぶったり扇子を使ったりすることは許されない。なぜなら輿に先行している下賤の者がそうした人を見つけるとその頭を棒でなぐりつけるからである。その後方から別の一台の輿が来るが、人が語るところによると、それは祇園の妾の輿だと言われ、それから銃の一射程離れて一定の位置に、続いて祇園の正妻の輿と言われるものが来る。ここにおいて、正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴して、幾つかの滑稽な儀式が行われる。彼らはこのような盲目的な愚行を演じて、その午後を過す。そして日本人は自負心が強く、また群集の数がおびただしいので、この行列の際には、ごく些細なくだらぬことから喧嘩や騒動が起り、その際通常は多数の負傷者が出、幾人かの死者も出る。」(同上書p.148)

神幸祭の神輿

「神幸祭」のことは2年前に見に行ってこのブログに書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-16.html
八坂神社から三つの大きな神輿が繰り出すのだが、最初に出発するのは写真の真ん中の「中御座」と言う六角形の神輿で、スサノオノミコトを祀っている。

次いで出発するのは「東御座」という四角形の神輿で、スサノオの妻であるクシナダヒメを祀っている。
最後に出発するのは「西御座」という八角形の神輿で、スサノオの8人の子供であるヤハシラノミコガミを祀っている。
フロイスの記述を評価する前に、廃仏毀釈で主祭神が変わったことを知る必要がある。

明治時代の廃仏毀釈以前の主祭神は以下の3柱であった。
(中の座) 牛頭天王 (ごずてんのう)
(東の座) 八王子 (はちおうじ)
(西の座) 頗梨采女 (はりさいにょ)
頗梨采女は牛頭天王の后神であることからスサノオの后であるクシナダヒメと同一視された。クシナダヒメは方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定されていたのだそうだ。

神幸祭2

ここまで調べると、フロイスが「正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴し」と書いているのは全く根拠のない偏見にすぎないことがよくわかる。

宣教師からすれば意味のない「偶像」が中に入った神輿を担ぐことが「滑稽な儀式」に見え、この神輿を見るために大勢の群衆が集まって盛り上がることは「盲目的な愚行」にしか思えなかったという事なのか。
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関連記事

安土城を絶賛した宣教師の記録を読む

安土城は天正4年(1576)に織田信長によって琵琶湖東岸の安土山に築城された山城で、わが国で最初に大型の天守閣を持った城なのだが、建造後わずか6年後の天正10年(1582)に天守閣が焼失し、その後天正13年(1585)に廃城となっている。
下の図は大阪城天守閣所蔵の「安土城図」で、当時は琵琶湖に接していたのだが、昭和期に周囲が干拓されて今では湖岸から離れた位置に城址が残っている。

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前回の記事で紹介した『フロイス日本史』の第3巻に、安土城が焼失する前年の1581年に、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノがこの安土城の天守閣を訪問した記録がある。
結構興味深いことが書かれているので、今回はこの内容を紹介したい。

「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモを超える―それを上回るものも多かった―石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。
そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我等ヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層) の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられる漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。
この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人面が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰でつくられているかのようである。」(中公文庫『フロイス日本史3』p.112-113)

「パルモ」というのは掌を拡げた時の親指から小指の長さをいい、ポルトガルでは1パルモは約22cmであるから、石垣の高さが13メートルを超えていたことになる。
フロイスが、安土城をヨーロッパのどこの城と比較して書いているかはよくわからないが、この当時に建築された城を探すと、世界遺産のフランスのユッセ城は1485年から1535年に建築され、ヴァリニャーノ(1539-1606)やフロイス(1532-1597)の時代に近い建築物である。

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今ではこのようなヨーロッパの城に憧れる日本人が多いのだが、フロイスが安土城の天守閣を「これ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄え」と書き「内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営され」「全体が堂々たる豪華で完璧な建造物」と書いていることから、わが国の建築は世界でもかなり高い水準にあったことは間違いないだろう。

フロイスの文章は続く。

「信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参加者に格別の驚愕を与えていた。
この城全体が、かの分厚い石垣の上に築かれた砦に囲まれており、そこには物見の鐘が置かれ、各砦ごとに物見が昼夜を分かたずに警戒に当たっている。主要な壁はすべて上から下まで見事な出来栄えの鉄で掩われている。…」(同上書p.113)

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と、本丸御殿、二の丸御殿も素晴らしい出来栄えであったことがわかる。

以前このブログで書いたが、当時の宣教師の役割は単にキリスト教を広めることだけではなかった。彼らは侵略の先兵として派遣されていたことは、彼らが本国に送っている書状をみれば読めば誰でもわかる。
最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で、ポルトガルが日本を占領することは無理だと報告しているし、安土城を訪れたヴァリニャーノも、1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡で「日本は…国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではない。」と書き送り、まずシナから征服することを進言しているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

宣教師に城の内部を公開することは、今から思えば、敵に軍事機密をオープンにしてしまうようなものであるのだが、信長は秀吉とは異なり宣教師に対しては無警戒に近かった。ヴァリニャーノは別の目的があって安土に来たのだが、信長がヴァリニャーノに安土城の内部を見せたのは、ヴァリニャーノ(下画像)から要請されたわけでもなく、信長からの招待によるものである。

ヴァリニヤーノ

「巡察師(ヴァリニャーノ)が安土山に到着すると、信長は彼に城を見せたいと言って召喚するように命じ、二名の身分ある家臣を派遣して往復とも随伴せしめた。なお信長は、修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たちにも接したいから、いっしょに来るように命じた。彼らが着くと、下にも置かぬように歓待し、城と宮殿を、初めは外から、ついて内部からも見せ、どこを通り何を先に見たらよいか案内するための多くの使者をよこし、彼自らも三度にわたって姿を見せ、司祭と会談し、種々質問を行ない、彼らが城の見事な出来栄えを賞賛するのを聞いて極度に満足の意を示した。事実、同所には、見なくても良いようなものは一つとしてなく、賞賛に値するものばかりであった。…
城から出ると、ようやく通過できるほどの異常な人出であった。キリシタンたちは、彼ら司祭らが、このように名誉ある慰め深い好意と待遇を受けたのを見て、喜びを隠すことができなかった。」(同上書p.115)

信長

読み進んでいくと、信長が宣教師に対して非常に好意的であったことがいろいろ書かれている。
ヴァリニャーノが安土に1か月ほど滞在したのち九州に行くこととなり、信長に別れを告げに来た際に、信長は餞別に安土城を描いた屏風を与えている。

「巡察師がまもなく出発することになったことを知ると、信長は側近の者を司祭の許に派遣し『伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ね来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい。ついては実見した上で、もし気に入れば受理し、気に入らねば返却されたい』と述べさせた。ここにおいても彼は司祭らに抱いている愛情と親愛の念を示したのであった。
 巡察師は自らになされた恩恵を深く感謝し、それは信長の愛好品であるから、また特に安土山に関して言葉では説明しかねることを、絵画を通じ、シナ、インド、ヨーロッパなどにおいて紹介できるので、他のいかなる品よりも貴重である、と返答した。」(同上書p.117)

この安土城図は天正遣欧使節とともにヨーロッパに運ばれ、1585年3月にローマ法王グレゴリオ13世に献上されたことまでは分かっているようだが、今ではどこにあるかわからないのだそうだ。

フロイスはただ日本の木造建築技術を絶賛しているだけではない。このような素晴らしい建築物を造りだす大工の仕事を良く観察して、その手際の良さに感心している。

「日本の大工はその仕事にきわめて巧妙で、身分ある人の大きい邸を造る場合には、しばしば見受けられるように、必要に応じて個々に解体し、ある場所から他の場所へ運搬することができる。そのため、最初に材木だけを全部仕上げておき、三、四日間組み立てて打ち上げることにしているので、一年がかりでもむつかしいと思われるような家を、突如としてある平地に造り上げてしまう。もとより彼らは木材の仕上げと配合に必要な時間をかけてはいるが、それをなし終えた後には、実に短期間に組み立てと打ち上げを行なうので、見た目には突然出来上がったように映ずるのである。」(同上書p.114)

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フロイスが絶賛したわが国の木造建築技術は承継され、今もなお世界に誇れるものだと思うのだが、釘もボルトも使わずに頑丈な建築物を組み立てる高度な技術が次世代にうまく承継されているのだろうかと思うと心配になってくる。
大学では近代的な建築技術ばかりが教えられ、伝統的日本建築技術の承継は現場の宮大工に委ねられていて先細りしてはいないか。世界に誇れる日本の技術を次の世代に承継できずして、どうやって、各地に存在する素晴らしい木造建築物の価値を減じることなく未来に残すことが出来ようか。
宮大工ばかりではない。木造住宅の新築が減り、従来工法の大工も仕事が激減してきている。伝統芸能や工芸などの承継者は国や地方からの補助が出ているが、宮大工や大工は仕事がなければ生きていけない。
彼等の仕事がこれからも少なくなるようだと後継者を育てることが出来ず、各地に残っている古い街並みや地域の風情を残すことが次第に難しくなっていくのではないか。

これからのわが国は人口が減少していくのだから、高層マンションばかりを建てては空き地と空き家をあちこちに増やして、地域の景観を悪化させるばかりではなく治安の悪化にもつながっていくことになる。
これからは多くの地域で、土地の効率的利用よりも、空き地を減らしていく施策や、土地を広く使う大きな住宅建設を推進することの方が求められていくのではないだろうか。

富田林寺内町

その流れの中で、土地の価格が下がり庭付き一戸建ての家が増えて、伝統的工法が見直される日が来ないものだろうか。各地に今も残る日本らしい街並みや地域の風情を次世代に残していくためには、昔ながらの大工が忙しくなることが必要なのだと思う。
(上画像:富田林市寺内町)

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日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える

前々回の記事で、1604年に朱印船制度が創設され、それ以降1635年まで、350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航したことを書いた。渡航先は安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャムなどの東南アジア諸国であったのだが、それらの地域には多くの日本人が移り住んで日本人町ができたという。

朱印船貿易と日本人町

「移り住んだ」と書くと、如何にも日本人全員が自分の意志で海外に渡っていった印象を受けるのだが、もう少し正確に言うと、少なからずの日本人が奴隷として売られて行って住み着いたということだ。

以前このブログで3回に分けて、豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯について書いたことがある。
当時わが国に滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスがその点について詳細な記録を残しているのだが、それによると、九州征伐で博多にいた秀吉は、天正15年(1587)7月24日にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し、使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。何点かあるのだが、3つ目の伝言が日本人奴隷に関する内容である。

「第三は、予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207~208)

秀吉が、金を払うから日本人奴隷を連れ戻し自由放免せよとまで述べたにもかかわらず、コエリョは協力する意思を全く示さなかったばかりか、取締まらない日本側に問題があると答えてさらに秀吉を激怒させてしまい、「伴天連追放令」が出されることになるのだが、詳しく知りたい方は是非次のURLを読んで頂きたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

フロイスのこの記録で私が注目したいのは、ポルトガル人だけでなくシャム(タイ)人もカンボジア人も多数の日本人を買っていたという点である。なぜこの2国が、多数の日本人奴隷を購入していたのだろうか

この時代にシャムの日本人町で活躍した山田長政に従っていた智原五郎八という人物が著したと伝えられる『暹羅(シャム)国風土軍記』という書物のなかに、シャム国がどのような日本人を、何のために買い求めたかについて述べている部分がある。昭和16年に出版された柴田賢一の『南洋物語』に該当部分が引用されているので紹介したい。

「元和年中より寛永の末*に至るまで、大阪落ちの諸浪人、あるいは関ヶ原、または天草落人ども賈人(こじん:商人)となりて多く暹羅(シャム)に逗留す。もし海賊強盗あれば武勇をもって追い払うゆえに、暹羅国王もこれを調法(ちょうほう)に思い、地を貸して日本人を一部に置く。日本人町と号し、海辺に数百件の町屋あり。永く留まる者は妻妾ありて子を設く。この時に住居する者8千余人ありしとかや」
*元和(げんな:1618~1624年)、寛永(かんえい:1624~1644年)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276416/102

住居数に対し住民が8千余人というのは多すぎるのだが、この数字はタイ族の使用人などが含まれた数字だと考えられる。

また、続けて柴田氏はこう解説している。
彼らは一部分商人として貿易に従い、一部分その武勇を高く買われて王室に仕えていた。日本からタイへの輸出品は、傘、蚊帳、扇子、屏風、畳、銅、鉄、塗物碗、樟脳、銅器、金銀器、鎧、太刀、弓矢、槍などであり、タイから日本への輸入品は象牙、白絹、孔雀、豹皮、紫檀、蘇木、鹿皮、支那布、鮫皮、鉛、籐、檳榔子実、牛皮、ナムラック、黒砂糖、水牛角、ガムラック、チーク、犀角等であった。」

Ayutthaya-Map.gif

Wikipediaにタイ国にあったアユタヤ日本人町の記述がある。
アユタヤを流れるチャオプラヤー川沿いを南に下った西岸に、最盛期で1000~1500人の日本人(タイ族などの使用人を除く)が住んでいて、アユタヤ日本人町の住民は、傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の使用人などで構成されていた、とある。
さらに読み進むと、日本人傭兵隊についてこう書かれている。

「この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、政治的にも大きな力を持つようになった。このアユタヤでは基本法典である『三印法典』に日本人傭兵隊の政治的位置が明確に示されるようになった。『三印法典』では、日本人傭兵隊はクロム・アーサーイープン(日本人義勇兵局)と名付けられ、その最高責任者にはバンダーサック(官位制度)の第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック( ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられた。これは山田長政にも下賜された名前である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%83%A4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%94%BA

『暹羅国風土軍記』にもWikipediaの解説にも『三印法典』にも、どこにも「奴隷」という表現は出て来ないのだが、ルイス・フロイスは明確に、豊臣秀吉が「九州で、シャム人らが多くの日本人奴隷を買っていた」ことを指摘したことを書いている。それに対してイエズス会のコエリョは秀吉の指摘を否定していない。イエズス会にとって都合の悪い出来事をフロイスがわざわざ書いているのだから、シャム人が日本人奴隷を大量に購入したことが嘘であるとは考えにくい。
では彼らが日本人奴隷を買う目的は何であったかと言うと、タイの『三印法典』の記録を読んで見えてくるのは、少なくともシャム人には国王家を中心に、日本人武士を傭兵として用いる強いニーズがあったという点である。アユタヤの日本人町の住民の中には、奴隷として買われて住み着いた日本武士が少なからずいたと考えるのが自然ではないだろうか。

またカンボジアも同様の目的で、日本の武士を買い集めていたことがわかる史料が存在するようだ。
先程紹介した柴田賢一氏の著書によると、元和9年(1623)にタイ国の施設が徳川幕府を訪れた際に持参した国書に、「カンボジア軍の中には日本兵が混じっているらしいから、しかるべく取締ってもらいたい」という内容が書かれていたという。
それに対して徳川幕府の返書には「海外に出かけて商売を営むような輩はどうせろくなものではなく、利益のためには何でもやるだろう。そんな連中を取り締まるなどもってのほかで、罪に応じ貴国で自由に征伐したがよかろう」と冷たかったそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276416/104

シャム国といえば山田長政が活躍したことが有名だが、この人物の生国について史料にみえるものとして伊勢説、尾張説、長崎説、駿府説の4つがあり、古くから出自が不明である事や、内容について信頼できるわが国の文献が乏しいとされ、タイ側の記録にも該当する人物名が見当たらないことから、実在しなかったという説まであるようだ。
http://www.mekong.ne.jp/database/person/yamadanagamasa/19870304.htm

しかし、シャム国から何度かわが国に使節が来ておりその親書に山田長政の署名が確認できるし、金地院崇伝の『異国日記』にも彼の名前が確認できる。オランダ東インド会社の商館長のエレミヤス・ファン・フリートの報告(『シャム革命史話』)の中にも彼に関する記録があるようで、山田長政という人物がシャム国のアユタヤ王朝で認められ、活躍した人物であったことは確実である。出自について諸説があるのは、もしかすると、彼も奴隷として売られた過去があり、それを隠そうとしたのではないかと考えてみたりもする。

山田長政

では、シャムに渡ってからの彼の活躍について簡単に振り返ることにしたい。

山田長政がシャムに渡ったのは慶長17年(1612)頃とされているが、当時のシャム国のアユタヤでは日本人がソンタム国王の護衛兵を勤めていて、彼はその後日本人義勇兵を指揮するようになり、シャム国の内戦や隣国との紛争の鎮圧に活躍して、次第に頭角を現していったという。

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特に元和七年(1621)には、スペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退けた功績で国王の信任を得、オークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック(ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を取得したのだそうだ。

前回紹介した菊池寛の書物によると、その頃、アユタヤのオランダ商館長ヨースト・スハウテンがこのように書き記しているのだそうだ。
「国王の水陸両軍の有力なる兵員は、諸侯と国民とより成り立っているが、またモール人、マレイ人、その他少数の外国人も混成している。そのうちでも、5-6百人の日本人は、最も主なる者で、周囲の諸国民より、その男性的信義の評判を得て特に重んぜられ、暹羅国王からも尊敬されている。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/93

戦艦図絵馬

寛永3年(1626)に長政は静岡の浅間神社に奉納した『戦艦図絵馬』を奉納したのだそうだが、残念ながらその絵馬は天明8年(1788)の火災で焼けてしまったそうだ。しかし、その模写が残されていたので、翌寛政元年(1789)に制作されたものが奉納されたという。
http://sengendori.com/nagamasa/nagamasagoods.html

ワット・プラ・シーサンペット

ところが、山田長政を信任したソンタム国王が1628年に亡くなってしまう。
国王の遺言により15歳のチェーター王が即位し、長政も若い新国王を支える側についたのだが、新王がシーウォーラウォン(のちのプラサート・トーン王)の陰謀を嗅ぎ付け、その人物を排除しようとして失敗し、逆にシーウォーラウォンに殺されてしまう(1629年)。
同年に、チェーターの弟でわずか10歳のアーティッタウォン王が即位したが、シーウォーラウォン(当時はチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していた)が摂政となって政治の実権を完全に掌握し、それに抵抗した山田長政を六昆(リゴール:ナコーンシータンマラート王国)の防衛を理由に六昆国の総督に左遷してしまう。

長政は日本人三百人とシャム人三、四千人を率いて六昆国に行き、反乱軍を難なく平定したのだが、その間アユタヤではシーウォーラウォンがアーティッタウォン王をわずか38日で廃位させ、自らが王位に登りプラサート・トーン王と名乗っている。

そして新国王は、六昆国の反乱を直ちに平定した長政を怖れて、その排除に乗り出すことを決意した。
1630年にプラサート・トーン王は密命を出して山田長政を毒殺させ、さらに、アユタヤの日本人に「謀反の動きあり」として、四千人の兵を以て日本人町の焼き打ちを命じている。

この計画を事前に察知した日本人達は、攻撃が始まる寸前に数艘の商船に600人全員が乗り込んで出航したという。シャム兵が約百艘の船に乗って追撃してきたため、日本人も少なからぬ死傷者が出たが、なんとかカンボジアに遁れている。

その後、シャム国のプラサート・トーン王は日本人を再びアユタヤに呼び戻して、日本人町の復興にあたらせたのだが、寛永16年(1639)に江戸幕府の鎖国例が出たために日本人の海外渡航が禁止され、母国との連絡を絶たれたアユタヤの日本人町はその後衰退の一途をたどり、享保の初めごろには消滅してしまったという。

アユタヤ日本人町

かつて日本人町があった場所には、今では日本人が作った建物など以前の名残は全く残っていないのだが、記念公園とされた敷地内に「アユタヤ日本人町の跡の碑」と日本語で彫られた石碑が建てられているのだそうだ。
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【ご参考】
このブログで、日本人奴隷に関してこんな記事を書いています。よかったら、覗いて見てください。

400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html


関連記事

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代

天正15年(1587)の7月、豊臣秀吉が『伴天連追放令』を出す直前に、イエズス会の日本準管区長コエリョに使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。
そのうちの一つが日本人奴隷の大量流出問題であり、前回及び前々回の記事では、大量の日本人奴隷が売買されて、東南アジアでは傭兵としてかなり重宝されたことを書いた。

豊臣秀吉

しかし、秀吉が問題としているのは日本人が奴隷として売られている問題だけではなかった。
当時わが国に滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスは、コエリョが秀吉の出した質問に回答した翌日の朝に、秀吉は家臣や貴族を前にしてこう述べたと記している。

「…奴ら(キリスト教徒)は一面、一向宗徒に似ているが、予は奴らの方がより危険であり有害であると考える。なぜなら汝らも知るように、一向宗が弘まったのは百姓や下賤の者の間に留まるが、しかも相互の団結力により、加賀の国においては、その領主(富樫氏)を追放し、大阪の僧侶を国主とし主君として迎えた。(顕如)は予の宮殿(大阪城)、予の眼前にいるが、予は彼に築城したり、住居に防壁を設けることを許可していない。たがいっぽう伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。なぜならば、同宗派の全信徒は、その宗門に徹底的に服従しているからであり、予はそれらすべての悪を成敗するであろう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.213-214)

秀吉はそう述べた後に、別の伝言を申し渡すために二名の家臣を呼んで司祭の許に派遣した。その伝言は、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院を破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」というものであった。
その質問に対するイエズス会の回答書は、フロイスの記録するところでは次のようなものであった。

「御身らは殿下に告げられよ。われら司祭は、神、仏、またその像とはなんら関わりなき者である。だがキリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、坊主たちと同様、日本人であり、幼少時からその宗派と教義の中で育ってきた人たちであるが、神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、キリシタンになってからは、デウスから賜った光と真理を確信し、なんら我等から説得や勧告をされることなく、神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215)

日本西教史

イエズス会の秀吉への回答書に関して、同じイエズス会のジアン・クラッセが1689年に著した『日本西教史』にも記録が残されている。この書物は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で読むことができるので、秀吉に対する回答部分を引用しておこう。クラッセはフロイスの書いている内容とは異なることを書いている。

「…関白殿下かつて書を下し、キリストの法教を国内一般に説法するを許せり。キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359

偶像崇拝を禁じているキリスト教の布教を秀吉から許されたということは、異教である仏教の寺や仏像、神社を破壊することも許されたことになると解釈するのは、多神教の日本人にはなかなか理解しがたいところだが、キリスト教以外の宗教を認めず異教はすべて根絶すべきものと考える人々の発想は、所詮こういう単純なものなのだろう。だが、このような善悪二元論的な考え方では、異教を根絶する日が来るまで、その地域の人々との共存はありえないことになる。

伴天連追放令

話を元に戻そう。
イエズス会の回答を確認した後に秀吉は、「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を出している。

秀吉を激怒させたのは、大量の日本人が奴隷として売られていたこともあるのだが、それ以外にキリシタンが大量の神社仏閣を破壊したことも大きかったようだ。
明治維新期の廃仏毀釈もひどかったが、この時代のキリシタン大名の領地では、それ以上の激しい破壊活動が行なわれたのではないだろうか。

以前このブログで、イエズス会のルイス・フロイスの記録を追って、九州地区の文化破壊のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html
ここで紹介したフロイスの詳細な記録を読めば、イエズス会の宣教師が神社仏閣や仏像等の破壊を先導したことは明らかであるが、ここでは繰り返さない。

長崎の神社仏閣の破壊に関して、大正12~14年に編纂された『長崎市史』の記述を紹介したい。
その『地誌編 仏寺部 上巻』の第1章が「総説」となっていて、長崎市の仏教史を7期に分けて概括しているのだが、第1期がいきなり「仏寺破滅時代」となっていて、それ以前の仏教史がないのは驚きである。この本も「近代デジタルライブラリー」でPCで読むことができる。

「第1期 仏寺破滅時代
  この時期においてはキリスト教が長崎およびその付近に伝道せられ、住民はこれに帰すべく強いられ、神社仏閣はことごとく破却せられ、長崎はいわゆる伴天連の知行所となり、政教の実権がことごとく耶蘇会(イエズス会)の手に帰したる時代で、年代で言えば開港の当初から天正15年までである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/25

ちなみに、天正15年(1587)というのは、秀吉が「伴天連追放令」を出した年である
「ことごとく破却せられ」ということは神社仏閣の全てが破壊されたということである。さらに本文にこう解説されている。

「…長崎およびその付近においては神仏両道は厳禁せられ、住民は皆キリスト教、すなわち当時の切支丹宗門に転宗を強いられ、これに従わざるものは皆領外に退去を命ぜられ、神社仏閣のごときは布教上の障害として皆焼き払われた。かくして…神宮寺、神通寺、杵崎神社などは皆破却せられて烏有に帰し、神宮寺の支院たりし薬師堂、毘沙門堂、観音堂、萬福寺、鎮通寺、齊通寺、宗源寺、浄福寺、十善寺などもまた皆これと相前後して同一の運命に陥ったと伝えられる。かくして長崎およびその付近の仏寺は天正中*に全滅し、これに代りてキリスト教の寺院会堂、学校、病院などが漸次設立せらるることになり、…長崎は耶蘇会の知行所となりて政教の実権はその手に帰し、南蛮人らは横暴を極め、奴隷売買の如きも盛んに行われたけれども、日本に実力ある主権者なかりしためこれを如何ともすることは出来なかった。」
*天正中:天正年間中の意。1573~1593年
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/28

このブログで明治維新期の薩摩藩や苗木藩などで激しい廃仏毀釈が起こったことを書いてきたが、戦国時代の長崎の社寺破壊も同様であった。『長崎市史』によると、こんなに激しい文化破壊が行なわれたきっかけとなったのは、南蛮貿易の利益のためであったということである。

「当時耶蘇会宣教師とポルトガル商人との間には非常に密接な連絡があって、たがいに相援けてその勢力利権の拡張に努めつつあったので、キリスト教と無関係でポルトガル貿易のみを営まんことは当時にありては絶対的に不可能なことがらであった。現に薩摩の島津氏や平戸の松浦氏はこの不可能事を行なわんとして、ついに貿易の利を失ったのである。
されば大村純忠の横瀬浦を開くや、その付近二里四方の地を無税地としてポルトガル人に交付し、宣教師の許可なくして異教徒のその地位内に入るを禁じ、盛んに伴天連を保護崇拝した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/28

少し補足すると、天正5年(1577)大村純忠が龍造寺隆信と戦うために、宣教師から軍資金として銀百貫文を借受け、その時に所領の一部をその担保としたことがきっかけだったようだ。かくして長崎は天正8年(1580)以来イエズス会に寄進されてしまったのだが、この地域には仏教徒である一般の日本人は、宣教師の許可がなくては立入ることを禁じられてしまったという。

有馬晴信

同様に有馬晴信も龍造寺隆信と戦う際に大砲を提供されたことから、勝利の恩賞としてイエズス会に長崎の浦上村を寄進したそうだ。こんなことがいつまでも放置されては、イエズス会の支配する地域がどんどんわが国で広がっていくことになる。

キリシタン大名達は海外貿易の利権を得ただけではなく武器や戦費の援助を得て、宣教師たちの指示に重きを置くようになっていったのだが、この問題のおそろしさは、キリシタン大名が自国の武力をわが国の為政者よりも外国勢力のために動かす可能性を考えればよく分かる。
秀吉は、キリシタン大名の領国がいずれ天下統一の妨げになるばかりではなく、いずれ外国勢力は彼等の武力を利用してわが国を占領していく魂胆があることを認識していたのである。
今回の記事の最初に引用した、ルイス・フロイスが秀吉の言葉として記した「伴天連らは、…日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ」という言葉は、そのことを秀吉が強く警戒していた証左だと考えられる。

しかし困ったことに、秀吉が『伴天連追放令』を出しても、長崎にいた宣教師たちはほとんど帰国しなかったのである。彼らは九州にいたキリシタン大名たちが保護してくれることを信じ、6カ月の猶予期限経過後も長らく長崎に留まっていた。期限までに帰国したのは、司祭になるためにマカオに向かった者が3人いただけだったようだ。

天正16年(1588)にコエリョは秀吉に書を送り「今年は貨物が多いため、多くの宣教師を送還することができない。来年は必ず送還する。」と伝えたのだが、これを読んで秀吉は激怒し、近畿のキリシタン寺22箇所を破却し、長崎のイエズス会の所領を没収して直轄地とし、長崎代官を置いたという。

その後宣教師らは秀吉を刺戟しないようにし、法服を脱ぎ、商人の姿で布教活動に努めたのだそうだが、その結果、長崎のキリスト教信者はさらに増加し、文禄元年(1592)に長崎奉行に寺沢広高(肥前唐津城主)が任地に就いた頃には、長崎の住民は悉くキリスト教徒であったという。
秀吉は南蛮貿易の実利を重視していて、一般庶民にまでは禁教を求めていたわけでもなかったので、キリスト教徒が増加したことについては黙認していたようなのだ。

このような経緯で長崎の社寺仏閣が破壊され、キリスト教が庶民にいたるまで広まっていったのだが、他のキリシタン大名の領地でも良く似たことが起こっていたようだ。

ルイス・フロイスは、肥前国有馬晴信の所領においても、領内から僧侶を追放して、寺の僧侶が隠していた仏像に火を点けたり、割って薪にしたことなどを詳細に記している。この点については、以前このブログで書いた記事を参考にしていただきたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

高山右近

では高山右近についてはどうであったか。
ルイス・フロイスの記録に、秀吉が右近に棄教を迫る場面の叙述がある。フロイスは秀吉の言葉をこう記している。

「予はキリシタンの教えが、日本において身分ある武士や武将たちの間においても弘まっているが、それは右近が彼らを説得していることに基づくことを承知している。予はそれを不快に思う。なぜならば、キリシタンどもの間には血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に類を及ぼすに至ることが案ぜられるからである。
 同じく予は、右近が先には高槻の者を、そして今は明石の者をキリシタンとなし、寺社仏閣を破壊せしめたことを承知している。それらの所業はすべて大いなる悪事である。よって、今後とも、汝の武将としての身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ。」(中公文庫『完訳フロイス 日本史4』p.221)

それに対し右近は、高槻や明石の家来たちをキリシタンにしたのは自分の手柄であるとし、キリスト教を棄教することについては断って領地と財産を捨てることを選んだ。その後右近はキリシタン大名の小西行長に庇護され、天正16年(1588)に加賀の前田利家に招かれて暮らしたが、慶長19年(1614)徳川家康による国外追放令を受けて国外追放でフィリピンに渡り、翌年マニラで病死したという。

フロイス日本史4

高山右近が高槻城主であった時に、寺を焼いた経緯がフロイスの著書に記されているので紹介しておこう。文章中フロイスが「偶像」とか「悪魔の像」と書いているのは「仏像」のことである。

「…(高山)右近殿は彼ら(仏僧)のところにあれこれ使者を遣わして説教を聞くようにと願い、もしまったくその気持ちがければ、予は貴僧らを領内に留め置くわけにはいかぬと伝えた。そこで遂に彼らは説教を聞くに至り、百名以上の仏僧がキリシタンとなり、領内にあった神と仏の寺社はことごとく焼却されてしまい、そのうち利用できるものは教会に変えられた。それら中には摂津国で高名な忍頂寺と呼ばれる寺院があった。この寺は今でも同地方でもっとも立派な教会の一つとなっている。そこでは大規模に偶像が破壊された。すなわちかの地には多数の寺院があり、仏僧らは山間部にこれらの悪魔の像を隠匿していたが、それらは間もなく破壊され火中に投ぜられてしまった。」(同上書 p.17)

大阪の「北摂」と呼ばれる地域には千年以上の歴史のある寺社がいくつもあるのだが、現在残っている建物で戦国時代よりも古いものは皆無であり、高山右近に焼かれたとの伝承のある寺院が多数存在する。
これらの寺の一部は戦火に巻き込まれて焼けたのかもしれないが、山奥にある寺院までもがことごとく焼けたのは不自然だ。多くはこの時期にキリシタンによって放火されたのだろう。

忍頂寺

フロイスが記録している忍頂寺という寺は、聖武天皇の時代(724-748)に行基が創建した頃は「神岑山寺(かぶさんじ)」と称したとされ、貞観2年(860)には清和天皇より「忍頂寺」の寺号を贈られ勅願寺となったという由緒のある寺である。
最盛期には23もの寺坊を有する大寺院であったようだが、今では、支院の1つであった寿命院が忍頂寺の本堂となっている。
境内にあるもので戦国時代よりも古いものはただ一つ、元亨元年(1321)建立の五輪塔が本堂の右後方に残されているのみである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。


ルイス・フロイスの記録をもとに、キリスト教徒による九州地区の神社仏閣の破壊をまとめた記事です。

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html


永禄10年(1567)に東大寺大仏殿が焼失した原因は、切支丹の兵士による放火であることをルイス・フロイスが書き残しています。

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html


戦国時代に、たがいに敵味方に分かれて戦っていながら、永禄9年(1566)に敵味方合同でクリスマスのミサを行っています。これもルイス・フロイスが書いています。

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html


高山右近に焼かれた伝承の有る古い寺を巡りました

1300年以上の古い歴史を持つ神峰山寺と本山寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-139.html



関連記事

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代

前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。

中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。

以前このブログで、15世紀にローマ教会が相次いで異教徒を奴隷にする権利を授与する教書を出していることを書いた。

カトリック教会と奴隷貿易

カトリックの司祭である西山俊彦氏の著書『カトリック教会と奴隷貿易』に1454年1月8日に教皇ニコラス5世(在位:1447~1455)が出した『ロマーヌス・ポンティフェックス』が訳出されているので紹介したい。

「神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。…
 以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した
 …ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマ聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年」(『カトリック教会と奴隷貿易』p.76-77)

文中の「アルフォンソ」はポルトガル国王であったアルフォンソ5世(在位:1438~1481)だが、この教書の意味することは重大である。ポルトガル国王とその伯父のエンリケ航海王子に対して、異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利をローマ教皇が授与しているのである。

ローマ教皇は「キリストに敵対する者の奴隷化の許可」を記した一方で、「キリスト教徒の奴隷化の禁止」を明記した教書も出したのだそうだが、西山俊彦氏は著書でこれらの教書についてこう解説している。

「…『正義の戦争――正戦――』を行なうに当たっての『正義』の基準が『唯一絶対的真理であるキリスト教』に『味方するか、敵対するか』にあると理解すれば、論理は一貫しています。しかも正戦遂行は義務もともなって、戦争によって生じた捕虜を奴隷とすることは、キリスト教以前から認められてきた『正当な権限』をキリスト教も踏襲しただけということになります。もちろん『正義』にしろ『正当な権限』にしろ、それら原理自体には大いに問題ありと言わねばなりませんが、これが現実だったわけで、当時はイスラム教徒はキリスト教徒を、キリスト教徒はイスラム教徒を奴隷として、何ら不思議とは思われていませんでした。」(同上書 p.78)

キリスト教徒とイスラム教はいずれも一神教で、お互いが相手の宗教を異教として許容することができない関係にあるために、自国の領土だけでなく奉じる宗教とその文化を守り広げていくために、お互いが相手国の領土や富や人民を奪い合う争いを続けてきた。
ところが、大航海時代に、キリスト教国がわが国のような非イスラム教の国家と接するようになっても、イスラム教の国々と同様の異教徒として、わが国の敗残兵や民衆を奴隷として大量に買い込んだのである。

このブログで、日本男性の奴隷を傭兵として買うニーズが高かったことを書いたが、日本女性のニーズも高かった。

徳富蘇峰

徳富蘇峰の『近世日本国民史 豊臣氏時代.乙篇』に、レオン・パゼーが著した『日本耶蘇教史』の付録に載せた文書が引用されている。
この文章も、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されているが、これを読めば、多くの日本人が絶句するのではないか。

ポルトガル人の商人はもちろん、その水夫、厨奴らの賎しき者までも、日本人を奴隷として買収し、携え去った。而してその奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼らを無暗に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に籠居(ろうきょ)せしめ。而してその持ち主らが一たび病に罹(かか)るや――持ち主の中には、ポルトガル人に使役せらるる黒奴(こくど:黒人奴隷)も少なくなかった――これらの奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食糧さえも、与えざることがしばしばあったためである。この水夫らは、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いを逞しうして、あえて憚(はばか)るところなく、そのマカオ帰港の船中には、少女らを自個の船室に連れ込む者さえあった。予は今ここにポルトガル人らが、異教国におけるその小男、小女を増殖――私生児濫造――したる、放恣、狂蕩の行動と、これがために異教徒をして、呆然たらしめたることを説くを、見合わすべし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/214

なんと日本人少女が、ポルトガル人に使われていた黒人奴隷に買われていたケースが少なくなかったというのだが、それほど安く日本人が売られていたのである。
にわかにはこうような記録が事実である事を認めたくない人が少なくないと思うのだが、日本側にも奴隷にされた日本人がどのようにして運ばれたかを記録した文書が残されているので読み比べておこう。

ポルトガル国立小美術館にある桃山時代の「南蛮屏風」

豊臣秀吉の祐筆であった大村由己(ゆうこ)が、秀吉の九州平定時に同行して記した『九州御動座記』に、秀吉が『伴天連追放令』を発令した経緯について記した部分がある。この記録も徳富蘇峰の著書に引用されており、『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが可能だ。

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々の宝物を山と積(つみ)、いよいよ一宗繁盛の計略を廻らして、すでに後戸(ごと:五島)、平戸、長崎などにて、南蛮舟つきごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず、黒船へ買取り、手足に鉄の鎖(くさり)を付け、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、その上牛馬を買い取り、生きながらに皮をはぎ、坊主も弟子も手づから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。見るを見まねに、その近所の日本人、いずれもその姿を学び、子を売り親を売り妻女を売り候よし、つくづく聞しめし及ばれ、右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/215

日本人奴隷はなんと、鎖に繋がれて、家畜の様に運ばれていたというのである。

完訳フロイス8

ルイス・フロイスの1588年の記録によると、薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は島原半島に連れて行かれて「時に四十名もが一まとめにされて、売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)と記されている。

キリシタン大名は日本人奴隷を売った金で、火薬の原料となる硝石を買い込んだようなのだが、その硝石が後に島原の乱で江戸幕府との戦いに使われたという。島原の乱については反乱軍の兵器の方が討伐軍よりもはるかに優位にあり、犠牲者も討伐軍の方が大きく、単純に農民一揆と分類されるような戦いではなかったのだが、この乱については別の機会に書くことにしたい。

話を元にもそう。
このように、わが国が西洋社会と接するようになって、多くの社寺仏閣が破壊され、多くの日本人が奴隷にされたのだが、宣教師たちはそれを止めようとした形跡は見当たらない。

今回の記事の最初に『ロマーヌス・ポンティフェックス』を紹介したが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。

イグナチウス・ロヨラ

イエズス会を創設した一人であるイグナチウス・ロヨラは、「私の意図するところは異教の地を悉く征服することである」と述べたのだそうだが、わが国に来た宣教師が残した文書には、東アジアの侵略事業を如何にして進めるかというテーマで書かれたものをいくつも見つけることができる。

たとえば、イエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルが1584年にスペイン国王へ宛てた書簡にはこう記されている。ここではイエズス会は、キリシタン大名を用いて中国を植民地化することをスペイン国王に提案していたようだ。
「…私の考えでは、この征服事業(明の植民地化)を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』p.95)

kirisitan.jpg

また1588年にアググスチノ会のフライ・フランシスコ・マンリーケがスペイン国王に送った書簡にはこう記されている。
「…もしも陛下が戦争によってシナに攻め入り、そこを占領するつもりなら、陛下に味方するよう、日本に於いて王*達に働きかけるべきである。キリスト教徒の王は4人にすぎないが、10万以上の兵が赴くことができ、彼らがわが軍を指揮すれば、シナを占領することは容易であろう。なぜなら、日本人の兵隊は非常に勇敢にして大胆、かつ残忍で、シナ人に恐れられているからである。」(同上書P.103)
*王:キリシタン大名の事

このように、宣教師たちはわが国の小西行長や松浦鎮信らキリシタン大名の軍事支援があればシナを征服することは容易だと考えていたのであるが、そのことは宣教師がキリシタン大名に出兵を要請した場合は、彼らが出兵に協力してくれることについて確信があったということであろう。もしキリシタン大名の協力を得てシナがスペインの領土となり、さらに朝鮮半島までスペインの支配が及んだとしたら、スペイン海軍はキリシタン大名とともに江戸幕府と戦うことになったであろう。

他の宗教と共存できない一神教のキリスト教を奉じる西洋諸国が、15世紀以降ローマ教皇の教書を根拠にして武力を背景に異教徒の国々を侵略し、異教徒を拉致して奴隷として売り払い、さらにその文化をも破壊してきた歴史を抜きにして、戦国時代から江戸時代にかけてのわが国の宗教政策や外交政策は語れない。

この時代のわが国に、キリシタン弾圧があったということをことさらに強調する本やテレビ番組などをしばしば見かけるのだが、このような弾圧があった背景に何があったかを一言も説明しないのは、どう考えてもバランスを欠いている。
戦国時代から江戸時代にかけての日本人にとって、キリスト教は、20年ほど前のわが国でテロ事件を繰り返した某宗教集団よりも、はるかに悪質な存在であったことを知るべきはないか。

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関連記事

わが国で最初のキリシタン大名となった大村純忠の『排仏毀釈』

天文18年(1549)8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えた頃のことを以前このブログで記したことがある。

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.html
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.html

そもそも、宗教の自由だとか、信教の権利だとかいう考え方はこの時代のわが国には存在しなかった。
当たり前のことなのだが、わが国においてキリスト教を布教するということは、人々に神仏への信仰を棄てさせなければ始まらないのだが、それは容易なことではなかったことはザビエルの文章を読めばわかる。

ザビエル
フランシスコ・ザビエル像】

岩波文庫の『聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)』に、ザビエルがわが国で布教活動した頃のさまざまな記録が残されているが、キリスト教においては亡くなった異教徒の霊は地獄に堕ちて救われないとザビエルが説くと、多くの日本人が嘆き悲しんだという。(同上書p.119-120)
キリスト教に入信するためには祖先との関係を一旦リセットしなければならないために、祖先を大切にする日本人にとっては、神仏への信仰を棄てさせることのハードルはかなり高かったようなのだ。
にもかかわらず、一部の地域でキリスト教が拡がっていったのだが、どのようにしてこの宗教が広まっていったのだろうか。

わが国の戦国大名で、最も早くキリスト教の信者となったのは肥前大村の領主・大村純忠で、洗礼を受けたのは永禄6年(1563)というから、ザビエルが来日してから14年も経過してからのことである。
今回は大村純忠がキリスト教に入信し、領国でのキリスト教がどのようにして布教されたかを記す事としたい。

九州地図
【戦国時代の九州地図】http://tugami555syou.blog94.fc2.com/blog-entry-384.html

大村純忠は肥前有馬氏の当主・有馬晴純の次男で、天文7年(1538)に大村純前の養子に迎えられ、天文19年(1550)に大村家の家督を継いだのだが、実は大村純前には実子・又八郎がいたのである。又八郎は武雄に本拠を置いていた後藤家に養子に出されて後藤貴明と名乗ることとなったのだが、自分を追い出して大村家の家督を継いだ純忠に対して、終生敵意を持ちつづけ、また大村家の家臣の中にも後藤貴明に心を寄せる者が少なからずいたという。
普通に考えれば、周囲に敵が多い中で神仏を棄ててキリスト教を信仰することは領民の支持を余計に失うことになりかねない。
日本キリスト教史研究の先駆者・山本秀煌(ひでてる)氏が大正15年に著した『西教史談』には、こう記されている。

 西教史談

「しかるに、かかる困難な境遇にありながら、かりにも新宗教を奉ぜんか、領内の民心を失うは勿論、この機会を利用して如何なる謀計をなす者があるかもわからない。少なくとも、平常純忠に帰服しておらなかった輩に、有力なる反抗の口実を与えることは勿論である。故にかかる困難なる事情の下にある者は、たといキリスト教を信ずるの信仰があったとしても、之を心中に秘して世に公にしないのが賢明な態度である。大友宗麟をはじめ、その他の大名が信仰を告白するのを久しく躊躇しておったのはこれがためである。しかるに純忠は、単に宣教師の意を迎えんために、心にもなき信仰を殊更に標榜して洗礼を受けるが如きことを敢えてなしたとするならば、そは好んで身を難境の中に投ずる者であって、愚の極みと言わなければならない。故に純忠が洗礼を受けたのは、心中深くキリスト教に帰依し、その信念牢固として抜くべからざるものがあったのは知るべきである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/41

山本秀煌氏は大村純忠が純粋にキリスト教を信奉したことを強調しておられるのだが、当時の記録を読むと、別の意図が見え隠れする。

純忠は永禄5年(1562)に自領にある横瀬浦(現在の長崎県西海市)をイエズス会に提供しているのだが、この時に結んだ約定が、同じ山本秀煌氏が大正14年に著した『日本基督教史. 上巻』に引用されている。

日本基督教史

「一 キリスト教の寺院を創設し、宣教師を十分に給養し、ポルトガル人のために横瀬浦の一港及びその周囲二里四方の地を開き、諸税を免じ、またキリシタン僧侶の許諾なき異教者は一人も港内に住するを得ざらむべし
 一 ポルトガル人等港内に在住するものへは何人に論なく、諸税を免除し、自今十ヶ年間ポルトガル人と貿易を営む諸人へも課役一切を免除すべし
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/88

大村純忠がこのような破格の条件を提示した経緯を調べると、その前年である永禄4年(1561)に平戸においてポルトガル商人と日本人との間で暴動事件が起こり(宮ノ前事件)、領主の松浦隆信は日本人への処罰を行なわなかったことから、日本教区長のコスメ・デ・トーレスは、平戸での貿易を拒絶することに決めている。その直後に大村純忠イエズス会に接近しているのである。
大村純忠の提案を受け、当時隣国の平戸港に集まっていたポルトガル商人たちは、翌永禄5年(1562)に横瀬浦を新貿易港として対日貿易を再開し、商人たちが平戸から次々と移住したことにより横瀬浦は繁栄し、肥前大村は財政的に大いに潤ったという。

南蛮人来朝之図

そしてその翌年の永禄6年(1563)に純忠は洗礼を受けることを決心し、重臣二十五名とともにコスメ・デ・トーレス神父のもとを訪れている

イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見したルイス・フロイスが著した『日本史』に大村純忠が洗礼を受けた経緯が記述されているが、これを読めば、純忠はキリスト教徒となるのと引き換えに、領地にあるすべての神社仏閣を焼くことを神父から求められていたことが分かる。純忠が、自分の思いを神父にこう伝えてくれと使いの者に述べ、その使いがトーレス神父に報告する場面を引用させていただく。

大村殿は、尊師が彼に一つのことを御認めになれば、キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならびにそこの領民の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄・義貞様をいただいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも:九州のこと)においても最も身分の高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師にこういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら仏僧らの面倒は見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは自滅するでしょう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史6』p.279)

有馬義貞は13年後の天正3年(1576)年に洗礼を受けてキリスト教徒となっているが、当時は仏教徒であった。弟の大村純忠は、仏教を信奉する兄がいるので、神社仏閣の全てを焼き払うことは出来ないが、今後一切寺社の援助しないことを代わりに司祭に約したのである。援助をしないのであれば、寺も神社はいずれ廃れていくことになる。
この報告を受けて司祭は純忠にこう答えたという。

時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授けしましょう」(同上書p.279)

この文脈では、司祭が述べた「なし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向」とは、神社仏閣のできる限りを破壊したり、一切支援せずに荒廃させることと解釈するしかないだろう。

大村純忠が洗礼を受けた日に、実兄の有馬義直が龍造寺隆信と開戦したとの報が入ったという。その直後の純忠の行動が『西教史談』にこう記されている。

摩利支天

「翌日出陣の際兵士を率い、軍神摩利支天の社殿に参詣した。兵士は思った。これはいつもの慣例と同じく戦勝をここに祈禱するのであろうと。然るに何ぞはからん。それは軍神を尊敬するにはあらで侮蔑するためであった。即ち純忠は命じて摩利支天の神殿を拝殿より引き出さしめ、剣をもってその首を斬り、惨々に打ちたたいてその面部をめちゃめちゃに破毀してしまった。曰く、
『嗚呼、汝軍神よ、汝我を欺くこと幾許なりしぞや、汝は実に偽神なり。我れ汝の偽りに報いること此の如し』と。
 よって直ちに火を放ってこの社殿を焼き、その跡に美麗なる十字架を建て、跪いてこれに向かい、恭しく三拝したので、軍兵皆その例にならい、謹んで十字架を拝した
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/44

そして純忠はこの戦いに勝ち、この勝利はキリスト教を信奉したことのお蔭であることを確信したことから、ますます排仏施策を推進していくことになる。

ルイス・フロイスは同上書でこう記している。
「(大村純忠は)主なるデウスの御奉仕において、自ら約束した以上のことを行ない示そうとして、戦場にいて、兄を助けて戦っていた間に、数名を自領に派遣して、幾多の神仏像を破壊したり焼却させたりした。そして殿は家臣の貴人たち数名とかたるときにはいつも、汝ら、キリシタン信仰のことで疑わしいことがあれば、予に訊ねるがよい。予がそれらを解き、汝らを満足させるだろう、と言っていた。」(同上書 p.281-282)

大村純忠は、このように戦の最中に何名かを派遣して仏像等を焼却させるようなことを繰り返しただけでなく、領内の仏教の禁止を宣言し、天正2年(1575)正月には仏教僧らを引見し、
予は諸君らが速やかに仏教より転じてキリスト教に帰依さられんことを願う。もしキリスト教に転ずることを肯んじられないならば、一定の時期を画して、我が領内より退去せらるることを願う
と述べて棄教をせまったという。

大村純忠
【大村純忠像】

山本秀煌氏は大村純忠による仏像等の破壊行為を「排仏毀釈」と表現して、こう纏めておられる。
「かくて仏寺は変じて切支丹寺となり、伝道隊は組織せられて、町々村々に布教せられ、新たに四十個の切支丹寺院は建設せられ、五万人(或いは三万五千人ともいう)の新たなる信者は加えられた。かくの如くにして大村領内には一人の仏教僧徒もなきに至った。まことに偉大なる功績と称すべきである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/49

キリスト教信者である山本氏にとっては「偉大なる功績」なのであろうが、キリスト教を信奉しない普通の人々にとっては「徹底的な文化破壊」以外の何物でもない。

このブログで何度か紹介してきたのだが、当時のキリスト教宣教師が大名や信徒たちに寺を焼き仏像を破壊せよと教唆していたことをイエズス会ルイス・フロイスが具体的に記録している。

フロイスの『日本史』を読み進むと、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に、松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、両軍がミサのために休戦したという信じられない記録がある。そしてその翌年に三好三人衆の軍隊の中にいたキリシタンの武将が東大寺に火を点けたことが記されている。
当時は九州や畿内で多くの寺社が焼かれたのだが、キリスト教の宣教師からすれば、戦国時代で争っている両軍の兵士に教唆すれば、寺社を焼いたり破壊したりすることは容易であったろう。この時代には、それほど多くのキリシタンの武将が、敵方にも味方にも存在したのである。
織田信長が命じたとされる元亀2年(1571)の叡山の焼き討ちも、軍事的に意味のないような多くの寺が焼かれているようなのだが、すべてが宣教師の教唆と無関係に行われたばかりなのだろうか。

日本西教史

フロイスと同様に日本にいたジアン・クラッセが1689年に著した『日本西教史』に、イエズス会日本準管区長コエリョの言葉として、寺社を破壊した理由についてこう記している。

「キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359

文中の「殿下」は伴天連追放令を出した秀吉のことだが、これを大村純忠に置き換えても同じことである。
領主がキリスト教の布教を許したということは、その領地内で、キリスト教にとって異教である仏教の寺や仏像・神社のすべてを破壊することも同時に許したことになると、当時わが国にいたイエズス会のトップがそう考えていた事を知るべきである
多神教を奉ずる日本人には、こういう考え方は理解しがたいところなのだが、一神教であるキリスト教では異教はすべて根絶すべきものと考え、その破壊を実行することは正しいことであると、単純に考えてしまうところにその怖さがある。そのことは他の一神教においても同様のことだが、このような考え方では、理論的には異教を根絶する日が来るまで徹底して破壊し戦い続けなければならないということになってしまう。
そして一神教を奉ずる国々では、今も世界の各地で、同様な争いが続いているのである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
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永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
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キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
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「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
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明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
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ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
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関連記事

薩摩に敗れて捕虜にされた多くの豊後の人々は南蛮船に乗せられてどこへ向かったか

前回の記事で島津義久の攻撃で大友氏が滅亡寸前まで追い詰められたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉・秀長が九州に出兵して島津軍を破り、大友氏は辛うじて豊後一国を守ることが出来たことを書いた。豊後国とは今の大分県と考えて良い。

前回あまり詳しく書かなかったが、薩摩の島津氏と豊後の大友氏との争いは随分長く続いている。

耳川合戦図屏風 京都市相国寺蔵
【耳川合戦図屏風】

天正6年(1578)に大友宗麟・義統父子が、日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて南下を開始したのだが、耳川(みみかわ)の戦いで島津義久軍に大敗している。

その大敗で、それまで大友家に従属していた肥前の龍造寺隆信が離反して自立し、筑前でも秋月種実や筑紫広門が離反して島津方についた。また大友庶家の重鎮である田原親宏や田原親貫、田北紹鉄らも大友家に対して反乱を起こし、これまで豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こったという。

一方島津家は、耳川の大勝を機に薩摩・大隅・日向を制圧し、肥後にも手を伸ばすなど、大友家に対する圧迫を強めていた。それに対し大友家では、領内の叛乱を抑えきれないために織田信長に接近し、信長の仲介で島津義久との間で『豊薩和睦之儀』を成立させたものの、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が死去すると両国間の和睦は雲散霧消してしまう。

島津義久
島津義久像】

天正12年(1584)から13年(1585)にかけて島津義久は大友家に従属する肥後の阿蘇家を滅ぼしてさらに筑後に兵を向けたため、大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請したという。秀吉も信長と同様に薩摩との和睦を成立させようとしたが、今度は島津義久が断っている。

戸次川の戦い
【戸次川の戦い】

天正14年(1586)に島津義久による豊後侵攻が始まると、大友宗麟・義統父子への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反して、島津軍は筑前に兵を向けて岩屋城を落城させたのち、12月には戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊に大勝し、その勢いで大友氏の本拠地である豊後府内を攻略にかかった。臼杵城に籠城していた大友宗麟は、南蛮貿易で手に入れた大砲を使って臼杵城を死守し、戦国大名としての意地を見せたという。

臼杵城
【臼杵城】

天正15年(1587)になって大友氏が滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が到着し、さらに秀吉も10万の兵を率いて九州平定に出陣し各地で島津軍に勝利して、3月にようやく島津軍が退却を始めるという流れである。

九州平定後秀吉が博多を出発する際に、大友宗麟の嫡男・義統(よしむね)に対して秀吉が一通の書状を送り、キリシタン信仰を棄てるようにと命じたという。そして義統は、関白に従うと答えたのだそうだ。

調べると大友義統が黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けたのは天正15年(1587)の4月なのだが、6月に秀吉が『伴天連追放令』を出したために、義統は正式にキリスト教となってわずか2ヶ月でキリスト教を棄教したことになる。

この薩摩と豊後との長い争いで、両軍に相当な犠牲者が出たことは言うまでもないが、特に長い間戦場となった豊後の人々は、相当悲惨な状態に陥ったことが、当時わが国にいたイエズス会のルイス・フロイスの記録に残されているので引用したい。

完訳フロイス日本史8

「豊後の事情は今まで惨憺たる有様であった。すなわち、かの地から来た土地の人々が一様に語っているところによると、その国の人々は次の3つのうちいずれかに属していた。
その一つは薩摩軍が捕虜として連行した人々、他は戦争と疾病による死亡者、残りの第三に属するのは飢餓のために消え失せようとしている人々である
。彼らは、皮膚の色が変わってしまい、皮膚に数えることができそうな骨がくっついており、窪んだ眼は悲しみと迫りくる死への恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは思えぬばかりであった。どの人もひどく忌まわしい疥癬に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、遺体の眼とか内臓には鴉とか山犬の餌と化するのみであった。彼らは生きるのに食物がなく、互いに盗賊に変じた。既述のように蔓延した病気はいまだに収まっていなかった。主なるデウスはさらに彼らの上に正義の鞭を下そうとなされ、臼杵の村落は前年の薩摩軍の包囲によって城を残すだけですべて焼失してしまったが、その後、豊後の新たな国主*は、焼き払われ破壊されたその国を再建しようと全力を尽くした。国主の要請に基づいて、持てる者も持てざる者もその力に応じて再建にいそしんだ結果、[人々の談によれば]豊後の国は当初の規模と外観に劣らぬほどになったという。…そのうちに、かの地から一人の司祭が我らの許に届けてきた通信によると次の事態が発生した。
本年の1月2日の正午近く、臼杵の主要な街路(ルア)で火災が発生した。火元はある貧しい男の家であった。火災は猛烈な勢いでその街路に燃え拡がり、折からの強風に煽られてほとんどことごとく焼き尽くした。…人々が証言するところによると、この火災は家財を盗もうとした人によって人為的に点火されたものだという。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.266)
*豊後の新たな国主:大友義統(おおともよしむね)のこと。大友家第22代当主・大友宗麟の嫡男。後に秀吉から偏諱(「吉」の1字)を与えられて義統から吉統へと改名した

この戦いで多くの人々が亡くなり、あるいは薩摩の捕虜となったとなったのだが、残った人々はほとんどすべてが飢餓状態にあったというからひどい話である。
1月2日の火事で大友氏の居城である臼杵城も焼け、国主の蔵1つだけが焼け残ったのだそうだが、この日は出陣中であっため消火に駆けつけた人々は少数で、そのことが火災の被害を大きくしてしまったという。

飢えで苦しんだ人々も悲惨だが、捕虜にされた人々も悲惨な運命を辿ったようだ。フロイスは同上書でこう述べている。

薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.268)

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、太閤検地の頃の豊後の人口が418千人だったことから勘案すると、その2割程度は捕虜として売却されたと考えてもおかしくないだろう。

島原半島の島原や三会の港に運ばれたということは、買ったのはポルトガル人であったと考え良い。ではポルトガル人は、それから彼らをどう用いたのか

ルイスフロイス
ルイス・フロイス像】

フロイスの記録を辿っていくと、多くの日本人が奴隷として海外に売飛ばされている事実を突き止めて、豊臣秀吉がイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョとやりあったことが記されている部分がある。

「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.207-208)

この太閤の提起した問題に関してコエリョが答えた内容について、前掲書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211)

このようにコエリョは、奴隷売買についてはこれを取締らない日本側に問題があると答えたことに秀吉は激怒するのだが、コエリョがこのように回答したのには理由がある。当時においては、異教徒ならびにキリスト教に敵対する勢力を攻撃してあらゆる所蔵物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶める権利をローマ教皇が認めていたことを知る必要がある。そもそも、当時わが国に来ていた宣教師がローマ教皇の教書の内容を否定できる筈がなく、彼らにとっては間違ったことは何もしていない認識でいたと考えられる。

カトリック教会と奴隷貿易

その教書の内容についてはカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある西山俊彦氏の著書である『近代資本主義の成立と奴隷貿易』に出ているが、著書の一部をネットでも読むことが出来る。次のURLで紹介されている論文のp.6「Ⅱ.一層明白な教会の関与 ~キリスト教徒は禁じ、敵対者は奴隷化を奨励する諸教書」で確認願いたい。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/doreimondai_2.pdf

同上書には1454年に出された「ロマーヌス・ポンティフェックス」が訳出されているが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。

西山氏の著書によると、それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だという。このようなキリスト教の負の歴史は、戦後のわが国では未だにタブーとされていると言って良い。

わが国の歴史家はこの時代を「大航海時代」などというピント外れの言葉を使って問題の本質を隠しているのだが、ローマ教皇が「ロマーヌス・ポンティフェックス」のような教書を相次いで出していたからこそ、スペイン・ポルトガルが罪の意識を持たずして世界を侵略し、原住民を奴隷にして世界各国に売飛ばしつつ、植民地を拡大していったことを知らねばならない。
このような教書が存在したこの恐ろしさは、宣教師が布教に訪れた国が、キリスト教と異なる宗教を持つということだけで、スペイン・ポルトガルがその国を侵略したり住民を奴隷にする権利を付与していた点にある。
そして戦国時代以降のわが国は、スペインやポルトガルがその権利を行使できる対象国になっていたことを知らなければ、わが国に相次いで宣教師が来た理由を正しく理解したことにはならないだろう。

鉄砲を棄てた日本人

では、なぜわが国がこの時代に国を奪われずに済んだのか。
この点については以前もこのブログで記したように、この当時のわが国は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、キリスト教が伝来する6年も前の天文12年(1543)に西洋の鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。ノエル・ペリン氏の『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)には、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたことや、当時日本に訪れた宣教師オルガンティノ・グネッチや、前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロは、母国よりも日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

スペインもポルトガルも日本よりも軍事的劣勢であっただけでなく、本国から遠く離れていたので武器・火薬等の補給が困難であったことから、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、わが国には容易に手を出せなかったのである。
だから彼らはキリシタン大名や武将を育てて国を割り、最後にキリシタン大名に勝利を導こうと画策したのだが、わが国の為政者がその侵略の意図を認識し適切に対応したことや、スペイン・ポルトガル国内事情もあって失敗に終わったと理解している。その点については以前このブログで述べたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

戦国時代以降のわが国の歴史は、西洋史の大きな流れの中で捉えるべきだと考えるのだが、戦後のわが国の歴史叙述では、なぜかこのような視点が根本的に欠落していると思われる。
豊後の人々が島原半島で南蛮船に乗せられて奴隷として売られていったことも、前回及び前々回に記したキリシタン大名の領国で徹底的に神社仏閣が破壊されたことも、ローマ教皇の教書によって異教徒の全ての領土と富を奪い取り住民を終身奴隷にすることが認められていたことを知れば納得できる話なのである。
彼らは世界中の異教国を侵略し、異教徒の文化を破壊し、住民を奴隷化してその土地から追い出し、そこに白人を植民してキリスト教国化する手法で、キリスト教世界を拡げようとしていたのだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html



関連記事

農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令

前回の記事で、凶作と飢饉が相次いだ戦国時代に、農民たちは「足軽」として雇われて戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたことを書いた。

真如堂縁起絵巻

このブログで何度か紹介した『真如堂縁起絵巻』には戦場で稼ぐ足軽たちが描かれているが、この絵巻のほかにも、彼らが武器を用いて寺社だけでなく村の人々を脅して食糧や家財などを奪い取っていたことが数多く記録されている。当然の事ながら、何度かこのような被害を受けた側は、武器を持って自衛することを考えざるを得なくなるだろう。16世紀には農民といえども普通に帯刀していたことは、当時の記録などで確認できる。

刀狩り

藤木久志氏の『刀狩り』に、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日本史』の一節が紹介されている。

「日本では、今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると、大刀(エスパーダ)と小刀(アガダ)を帯びることになっており、彼らはこれを刀と脇差と呼んでいる。彼らは、不断の果てしない戦争と反乱の中に生きる者のように、種々の武器を所有することを、すこぶる重んじている。」(藤木久志『刀狩り』(岩波新書)p.8)
フロイスによると、男たちは耕作にはあまり熱心ではなかったが、年少の頃から大小の刀を帯び、眠る時だけ枕元に置いたという。

またWikipediaにはこう解説されている。
16世紀には、近畿や関東で庶民にも15歳の成人祝いを『刀指』と呼んで脇差を帯びる事が習俗となっていた。戦国時代の村では『おとな百姓』の家は村の3分の1に上る場合もあるが、名字もあり帯刀する別の階級で農業は他の『小百姓』に任せて、たえず戦争に参加し落ち武者狩りも行っていた。関東でも後北条氏の動員令でも、弓、槍、鉄砲は自弁で、村の武装は参戦可能で当然としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9

上記の解説にある後北条氏の動員令の事例が、藤木久志氏の『刀狩り』にもう少し詳しく書かれている。
「村人をにわかに民兵として動員しようとした時、関東の戦国大名北条氏は『民兵として出陣するのは、侍(上層の村人)でも凡下(一般の村人)でもいい。自分で用意する武器は、弓・鑓(やり)・鉄砲の三種のうちなら、どれでもいい』とか『百姓はもとより、町人・商人・職人までも、弓・鑓・鉄砲・小旗などを支度して参陣してほしい』などと呼びかけていた。民兵には弓・鑓・鉄砲のうち、どれかの自弁をとくに重視していた。戦国関東の村には、弓も鑓も鉄砲も自弁できるだけの用意がある、とみられていたことになる
 国の危機が迫ると、北条氏は、村に住む十五歳から七十歳までの成人男子を、根こそぎで徴兵検査に出頭させようとした。そのとき、大名は、『弓・鑓を持てないような男は、鍬・鎌でもいい』とか、『弓・鑓を持たないものは、鎌を持って』とか『道具を持たぬ者は、棒をもって』といい、さらには『得道具(武器)のない者は手ぶらでもいい』とまでいって、徴兵検査には成人の男子がこぞって出頭するよう、けんめいに呼びかけていた。村や町の人々が持つ武器は、弓・鑓・鉄砲から、鍬・鎌・棒まで、おそらく階層によって、じつに多様であった。それだけ多彩な、しかも、戦闘にも使えるほどの武器が、村や町には日常的に蓄えられていた
 一方で目を引くのは、これら村にあてた大名の徴兵検査令はどれも、村人の装備に強い関心を示しながら、村人に刀や脇差で武装せよとは、まったく要求していない、という事実である。それらを身につけるのは当然とみて、ただ『腰さしの類のひらひら、武者めくように』と、その見てくれだけを気にしていた。武者の刀と百姓の刀は見かけが違うから、なんとか武者風に、というのであろう。」(同上書 p.28~29)

このように戦国時代の農民たちは帯刀しているのが普通で、中には高価な鑓や鉄砲などを持っていた者もいたのだが、おそらくこれらの武器は、落ち武者狩りや、そのあとで開かれる日市などで安く手に入れたものが大半ではなかったか。

椎葉村

国立国会図書館デジタルコレクションに昭和6年に出版された柳田国男の『日本農民史』が公開されている。日向の山奥にある椎葉村*(しいばそん)の戦国時代の様子が描かれているので紹介したい。文中の「サムライ」は名字もあり刀を指す、おとな百姓を意味している。椎葉村には、おとな百姓たちの家は3分の1ほどあったという。
*椎葉村:宮崎県内陸部の九州山地、耳川上流部の源流域に位置する村。日本三大秘境の一つ。

日本農民史

戦国時代に入って戦争が忙しく、サムライは傍ら農業を営む余裕が無く、また分捕り高名の方が楽で面白くて利益が多かったので、耕作は老幼婦女と下人の最も貧弱なる者に一任し、自分等は武器を執って、常に近傍の攻め取っても差し支えない者の領分を侵略することばかり心掛けた。彼らの上に戴く総領主の実力が、一々彼らを統制することが出来なくなると、この種無名の小さな戦争が愈々(いよいよ)多くなった。今日伝わっている多くの合戦記、関東地方で言えば関東古戦録の類、または…続群書類従の合戦部にあるような地方史に、野武士という無茶者の出て来るのは、即ち農を怠り武道に専らになった地士(じざむらい)のことで、彼らは概して名分に疎く、通例は大戦の後などに、負けて落ち行く者を苦しめて、首を取ったりした。言わば追いはぎを兼業したようなものであった。…此の如き連中までも勘定に入れると、足利時代の末頃には、実は非常なる武士の数であった。それが何れも居村に還ればトノサマと呼ばれ、それ程ではなくとも一領の主であった。但し、彼らの生活は至って質素なものであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181083/44

ここには、教科書や通史をいくら読んでも見えてこない戦国時代の本質が、わかりやすく描かれている。この時代については時代小説や映画などのイメージが強烈で、どうしても戦国大名同士の争いにばかり着目してしまうところなのだが、大名が一切関与していない世界で近傍の村同士が分捕り合戦を繰り返すような小さな争いごとが、あちこちで発生していた時代であったようなのだ。
また、この時代に各地で起った百姓一揆や一向一揆には、彼らの持つ大量の武器を用いて暴動を起こしていたことを知らないと、本質を見誤ってしまうことになる。

相手の物を奪い取る意思を持つ人間同士が武器を持って争う戦いや、武力を背景に自らの要求を押し通そうとする動きに対して為政者側が抜本的対策をとらないでいると、より武力を強化しながらエスカレートしていくことになる。
このような勢力を抑え込むためには、より強力な武力を背景にして、相手の武器を没収するなどして無力化させることがどこかで必要となるはずだが、戦国時代は大名同士が戦っていてそれぞれが大量の足軽を必要としていたので、自国の一国だけで実施しても自国の軍事力を弱めてしまうことになるだけだ。誰かが全国一斉に武士以外の武器の利用を統制することが必要だったのだが、それを成し遂げるためには全国統一の目途がたてることがまず必要で、それを成し遂げたのが豊臣秀吉であることは言うまでもない。

刀狩令

秀吉の刀狩令は天正十六年(1588)七月に出され、北は北陸の加賀前田家から南は九州の薩摩島津家まで、当時の秀吉の勢力圏ほぼ全域に令書の原本や写しなど約20点ほどが今に伝えられているという。

Wikipediaに、その内容が紹介されているが、教科書などで紹介されているのはこの部分である。
「第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する
第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9

この刀狩令は大名や領主に対して出されたものであるが、原文には第1条のあとに、なぜ百姓の武装を禁止するのか、大名らにその必要な理由を説得している部分がある。藤木久志氏の前掲書に現代語訳で紹介されている。
諸国の百姓たちがよけいな武具をたくわえて、年貢を納めるのを渋ったり、一揆を企てたり、領主たちに向かって不法をたくらむ。そんな百姓はもちろん秀吉が成敗(処刑)する。それにしても、百姓たちが武具をもてば、つい田畠を作るのを怠けるようになって、それだけ領主の取り分(知行)が減ることになる。それでは困るだろう。だから、そうならないよう、大名(国主)や領主(給人)や秀吉領の役人(代官)は、それぞれ責任をもって、百姓たちから武具をすべて没収して、秀吉のもとへ進上せよ。」(同上書 p.40)

この刀狩令は、大名・領主にとってはともかくとして、農民にとっては自衛のための武装権が奪われて、村の防衛については大名や領主を信頼して委ねることを意味し、武器を使って何度も掠奪行為などを繰り返してきた者に対しては、稼ぎの手段を奪われることでもある。天正10年(1582)や天正12年(1584)には各地で飢饉が発生した記録があり、武器を奪われることに関して農民側の抵抗はかなりあったはずなのだが、実態はどうであったのか。

徳富蘇峰

徳富蘇峰は『近世日本国民史』で、秀吉の刀狩令を以下のように高く評価している。
「…天下の百姓は、何時でも土匪(どひ)となり、強賊(ごうぞく)となる便宜を持っていた。この弊風が一掃せられたのは、もとより鉄砲の流行が、その重(おも)なる原因の一であったに相違ない。されど秀吉の刀狩りも、またあずかりて力ありだ。
 刀狩は単に百姓、町人より武器を取り上ぐるのみでなく、彼らをして、野武士の気分を蝉蛻*(せんぜい)せしめ、純乎(じゅんこ)**たる農夫の気分たらしめた。すなわちこれがために、城下に集まり、食禄を得て、ひたすら戦争の業に従う武士と、地方に散在して、農業に従う百姓と、截然(せつぜん)区別せられてきた。すなわち秀吉の所謂(いわゆ)る『諸奉公人は、面々恩給をもってその役を勤むべし。百姓は田畠開作を専らにつかまつるべき事』との、両者の分業を画定(かくてい)した、法規となった。徳川幕府は、要するに秀吉のこの遺制を拡充し、徹底せしめたにほかならぬ。

およそ秀吉の平和促進運動中、未だかくの如き痛快に、かくの如き有効なるものはなかった。惟(おも)うに秀吉は、信長に負うた債務を、利息を付けて、家康に弁済した。秀吉が信長に負う所あるが如く、家康の秀吉に負う所は、尚より多大であった。徳川幕府は、一から十迄、ほとんど秀吉の踏襲者たるに過ぎなかった。」
*蝉蛻:外形のみで中身のないこと。迷いから覚め悟りの境地に達すること。
**純乎:全く混じりけのないさま

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960831/32

ルイスフロイス像

ルイス・フロイスの記録によると、秀吉はキリシタンの叛乱を警戒して九州地区では厳しく武器を没収していたと記されているようだ。
藤木久志氏の『刀狩り』に、フロイスの『日本史』の記述が紹介されている。
「①暴君関白(秀吉)は、かねてよりこうした(叛乱の)恐れを抱いていたので、彼は長崎の住民からだけではなく、下(シモ:九州)の全地方の兵士以外の全員から、武器を接収するように命じた。そのために、おびただしい数の役人を投入して、その実行に当たらせ、皆の者が一つも隠すことなく、あるだけの武器を差し出すように、また、それを拒む者は、磔(はりつけ)にし処刑する旨、大々的に触れ歩かせた。この命令は、非常な厳しさをもって遂行され、当時(人々を)襲った最大の不安の一つ(と見なされる)ほどであった。こうして無数の武器が徴収された
関白のこれらの役人が徴集した刀・脇指・槍・鉄砲・弓・矢は、長崎の村で発見されただけでも、刀剣が四千振り、槍が五百本、弓が五百張以上、矢は無数、鉄砲三百挺、および鎧百領以上(に達し)、有馬領からは、一万六千以上の刀剣と、その他無数の武器が(徴集された)。
③こうして下地方のキリシタンたちは、彼らがもっとも重んじていたもの、すなわち武器を失うことになった。彼らはこのことを無上に悲しんだが、結局どうにもならなかった。」(同上書 p.100-101)

藤木久志氏の著書に各地の事例が紹介されているが、地域によって没収された武器はさまざまで、薩摩の島津領では刀・脇指三万腰が秀吉に納められたという。キリシタンの多い大村領や有馬領だけ特別に厳しかったかどうかについてはよく判らないが、多くの地域では農民の保有するすべての武器を調べ上げて、根こそぎ没収するというものではなかったようである。
藤木氏によると「ごく機械的に形だけ行われたかに見えた、一人あたり大小一腰を出せという方式は、実は中世百姓の帯刀権を原則として剥奪する(帯刀を原則として武士だけにかぎる)という、象徴的な行為であったことになる。刀狩りを画期として、百姓の帯刀を原則として免許制にする。このたてまえを創り出すことに、刀狩令の真の狙いがあった」(同上書p.86)とあり、実際には農村にはかなりの武器が残されたという。

では、刀狩令後も足軽・雑兵たちによる掠奪は続いたかどうか気になるところだ。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の前に戦場となった伏見城周辺の村に、城攻め用の竹木を調達するのだといって、戦場で掠奪をこととする「濫妨人(らんぼうにん)」という雑兵たちが、集団で押しかけて来たことが醍醐寺の日記に記されているのだという。藤木氏はこう記している。
「『濫妨(雑兵たち)に、地下人(じげにん:村人)が武具をもって(集団で)出合い、これを防ぐ』とか『南里の竹伐りを、郷民が発起(一揆)して取り返す』というのがその一例である。また『濫妨人百四、五十人が、伏見の城攻め用だから、竹を伐らせろといって押しかけてきたが、村の侍たちが出動して、寺の門を閉めて戦い、早鐘を撞くと郷民が武器をとって蜂起した。これに恐れをなした賊徒どもが、助けてほしいと懇望したので、危害を加えず見逃してやった』という。」(同上書 p.107)

刀狩令によれ雑兵たちによる略奪が減って農民たちは豊かになり、武器を持って賊徒を自力で追い払うだけの実力と武器が蓄えていたのである。藤木氏によると、秀吉の刀狩令を単純に百姓の武装解除令とみる通説は、根底からの見直しが求められているという。戦国時代の歴史が抜本的に書き替えられる日は来るのだろうか。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

源頼朝が挙兵後約2ヶ月で南関東を制圧し、その後争いが鎮静化した理由を考える
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大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか
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源平両軍の兵士による掠奪から民衆は如何にして食糧や家財を守ろうとしたのか
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応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える
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飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
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室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
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戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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