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薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス

元治元年(1864)3月にフランスの新公使ロッシュが日本に着任した。この人物は、前任のド・ベルクールがイギリス追随であったのに対し、イギリスと対抗しようとする姿勢で臨んでいる。

ロッシュ
【フランス公使 ロッシュ

鈴木荘一氏の『開国の真実』にこう解説されている。

ロッシュは、着任早々、幕府首脳陣に対し、
『アヘン戦争がはっきり示しているように、イギリスは工業製品の市場を拡大するためには他国を侵略して顧みない。これにひきかえフランスは天然の資源に富み、芸術・科学もそうであるように、軍事上でも偉大な、しかも正義を愛する国である』
と公言した。
当時57歳、老練な外交官ロッシュの指摘は、宣伝臭があるにしてもなかなか鋭い。
ロッシュは、就任早々から大見得をきってイギリスと一線を画し、イギリスに対抗した独自の対日政策を打ち出したのである。
当時、アメリカは南北戦争の終盤で対外的意欲はなく、ロシアもクリミア戦争でイギリス・フランス連合軍に負けたのち農奴解放問題など国内矛盾を抱えて対外的覇気は無く、世界の覇者イギリスに対抗しようという『元気印』はフランスぐらいだった。しかもフランスには『条約の締結相手であり日本の正統政府である徳川幕府と親交を深める』という大義名分があった。
また当時、対日貿易はイギリスが圧倒的なシェアを占め、フランスはアメリカ、オランダにも劣後していた。フランスにとってこの改善も課題だった。

とくに貴婦人が装う高級絹織物で世界一の生産量を誇ったフランスは、我が国の東日本で産出される高品質の原料生糸や蚕卵紙の独占的確保を希望した。…
フランスは貴婦人の為の絹織物工業という平和産業に必要な原料生糸を我が国から輸入しようとし、イギリスはわが国へ人殺しの道具である武器を輸出しようとした。
こうした通商政策の相違が、イギリスとフランスの対日政策の対立となったのである。」(『開国の真実』p.289-291)

しかもイギリスが我が国に輸出しようとした武器は極めて殺傷力の高い最新鋭のものであり、しかもそれを我が国の正統政府である幕府ではなく、それに敵対する薩摩藩、長州藩に輸出していたのである。
もし、イギリスが支援する薩摩藩・長州藩が、最新鋭の大量の武器で幕府を倒すことになれば、イギリスが対日貿易を独占してしまい、フランスは日本市場から締め出されることになりかねない。

イギリスを牽制するために、慶応元年(1865)5月にイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表を集めて、わが国に対する内政不干渉・密貿易禁止などを定めた『四国共同覚書』を取り交わしたのだが、イギリスはその取り決めを守らず、その後も薩摩藩・長州藩への武器輸出を続けたのである。

前回の記事で記したとおり第二次長州征伐は幕府軍が大軍を擁しながら三十六万石の長州藩に敗れてしまったのだが、徳川幕府はその直後の8月に、旗本の刀と槍を捨てさせて全員に銃を携行させ、少数精鋭で攻撃力強化をはかる軍制改革を断行した。

フランス軍事顧問団
【フランス軍事顧問団】

将軍徳川慶喜はフランス公使ロッシュの勧めでフランスから陸軍軍事教官を招き、軍の教育を要請している。再び鈴木荘一氏の解説を引用する。

「当時、フランスはナポレオン3世の時代で、全欧州を席巻したナポレオン1世の時代ほどではなかったが、それでもなお有力な陸軍国だった。慶応3年(1867)2月フランス陸軍士官シャノアン、ブリュネー以下18名の教官が来日し、横浜に設けられた伝習所で歩兵・騎兵・砲兵の教育が開始された。フランスから士官と兵士の軍服類も日本へ送られ、旗本たちはこれを着用した。その後、伝習所は江戸郊外の駒場野に移された。慶応3年(1867)6月には陸軍幹部養成のための三兵(歩兵、騎兵、砲兵)士官学校創設が決まり、旗本の子弟で14歳から19歳までの志願者を募集した。
 こうして徳川慶喜は慶応3年(1867)年末には歩兵7個連隊、騎兵1隊、砲兵4隊、計1万数千人の近代的陸軍を整備した。」(同上書 p.295-296)

Franco-JapaneseInfantryTraining.jpg
【幕府歩兵の調練風景 Wikipediaより】

かくして徳川幕府は、討幕勢力から畏怖されるまでに武力を整えたのだが、イギリスが長州藩を支援して上海―下関ルートで武器の密輸が行なわれていることを咎めることができない事情があった。

「…イギリスは『世界の覇者』である。幕府に、イギリスの不法行為を非難する力は、到底なかった。だから幕府は、イギリスと直接対決しないように細心の注意を払いながら長州藩を膺懲しようして、第二次長州征伐に踏み切り、あえなく返り討ちにあった。
 第二次長州征伐での幕府軍の敗北は、結局、長州藩とイギリス商人達の武器の密貿易を容認する結果となったのである。
 通商条約は『下関の開港』も『幕府以外の者による運上所への無届け武器輸入』も認めていない。
 それなのに世界の覇者イギリスは、通商条約違反を先頭に立って行っている

 …
 幕府はこの問題を軍事力によって解決する選択肢を持ち得なかった。
 第十五代将軍徳川慶喜は、この難問を外交によって解決するしか無かった。問題の焦点は、
『イギリスが、開港場以外の下関で、幕府以外の者に対する無届け武器密輸を行なっている』という『通商条約違反』である

しかし幕府にはイギリスの通商条約違反を強く論難できない事情があった。
それが、『兵庫開港問題』であった。
井伊大老が調印した通商条約は『兵庫開港』を定め、その実施時期はロンドン覚書により、『慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)まで』と対外公約していた。
しかし兵庫開港は朝廷から勅許が下りず、暗礁に乗り上げたまま手付かずの状態
にあった。

朝廷から兵庫開港の勅許が下りず『兵庫未開港という通商条約不履行』のままでは、幕府としても、『イギリスの通商条約違反を強く論難することは出来なかった』のである

だからパークス*は、幕府に兵庫開港を強く要求しつつ、一方ではイギリス商人達の『下関での密貿易という通商条約違反』を臆面もなく黙認した。」(同上書p.298-299)
*パークス:イギリス公使

この問題の解決のため、フランス公使ロッシュは幕府に対して兵庫開港の決断を促す書状を出している。慶応3年(1867)3月に徳川慶喜に謁見の際にロッシュが言上した内容が『徳川慶喜伝 巻3』に記されていて、この本は『国立国会図書館デジタルコレクション』に収められているので、誰でもネットで読むことができる。

条約は必ず履行せざるべからず。これを履行せざるは、政府が外交を好まざるか、または微力にして決行する能わざるかの二つにもとづく。外国政府はその目的を達せんがため、もし前者ならば兵力に訴うべく、後者ならば有力の諸藩と交を結ぶに至るべし。…薩長二藩はすでに英国と通じて公然幕府に反抗せんとす。この際宜しく処分の法を定めて、兵庫と新潟の代港を開き、江戸・大坂は人心不居合の故をもって注視し、更に下関・鹿児島の二港を開くべし。しからば二藩が流布したる幕府外交を好まずと言える説は自ずから消滅せん。また二藩にして領内の開港を拒まば、その奸計は暴露すべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953148/284

徳川慶喜
【徳川慶喜】

ロッシュの提案は、薩長の先手を打って幕府が兵庫を開港し、日本国の外交の主導権が徳川幕府に存することを諸国に示すことなど多岐にわたるが、徳川慶喜はさすがに下関・鹿児島の開港には賛同しなかったものの、兵庫の開港については対外公約したものであり、履行することをロッシュに明言し、すぐに行動に移している。

慶喜は4月に兵庫開港の勅許を朝廷に要請し、勅許が下りない状態で5月に四国(英仏米蘭)公使と正式に接見し、兵庫開港後の規則などを協議している。この接見は外国側に好印象を与えたことが記録されているようだが、慶喜が諸外国と親密な関係になることは、討幕勢力に肩入れしているイギリスにとっては望ましいことではなかったはずだ。

『国立国会図書館デジタルコレクション』に大熊真氏が著し昭和19年に出版された『幕末期東亜外交史』という本がある。その本に、その頃のイギリスと薩摩の動きが記されているので紹介したい。

幕末期東亜外交史

「慶喜の四国公使接見は、外国側に非常な好印象を与えた。諸公使の記述は、その点で一致している。『大君*陛下は31歳で極めて交換を持たせる容子の持主であった…』とファンケンブルグ**は慶喜をほめそやし、サトウ***も『彼は余の見たうちで最も貴族的な容貌をしていた。その額は高く、その鼻は姿よく隆起し―申し分なき紳士であった…』といっている。こうして諸国と幕府とが、しっくりと結び合おうとしている形勢が、薩長にとっては焦慮の的となった。この前後、サトウは、西郷隆盛らの訪問を受けた。サトウは書いている。
余は西郷に言った。革命の機会を逃してはいけない。もし兵庫が開かれてしまったら、諸大名にとっての機会は永遠に去るであろう。』(Satow, Diplomat, p.200)
 兵庫・大坂が幕府の手で開かれてしまえば、その地の平和と安全とは、諸外国の関心事となるから、これらの土地の争奪、これらの土地での戦闘は、諸外国が、艦砲と陸戦隊との力にかけて、防止するであろう。…サトウは、そういうことを念頭において、西郷らに『やるなら今のうちだ、機会を失すれば、諸侯はつぶされるぞ』と警告したのであろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/139
*大君(タイクーン):徳川幕府将軍
**ファルケンブルグ:アメリカ公使
***サトウ:イギリス公使館の通訳官のアーネスト・サトウ


そして慶喜は、慶応3年(1867)5月23日の朝議の場で、兵庫開港の勅許を要請した。

慶喜は勅許を得るまでは帰らないことを決心して朝議に臨み、夜8時より始まった会議は翌朝まで続いたが結論が出ず、さらに翌日の夜まで続いたという。朝彦親王御日記によると、朝議の時間がかかった主な理由は、近衛忠熙、近衛忠房の父子が薩摩藩の意見を確認するためにことさらに議論を引き伸ばし、近衛忠房は非蔵人口で薩摩藩士と談合していたというのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228700/72

しかしながら慶喜は一昼夜の議論に打ち勝って、24日の夜8時になって兵庫開港の勅許を獲得している。

開港したばかりの神戸港
【開港したばかりの神戸港】

慶喜は6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出している。

かくして徳川慶喜はフランス公使ロッシュの献策のとおり、兵庫開港の勅許を得て井伊大老の調印した通商条約の不備を補完し、これによって諸外国からの苛烈な要求を封じることができたのである。しかしながら、アーネスト・サトウが西郷に語った「もし兵庫が開かれてしまったら、諸大名にとっての機会は永遠に去る」ということにはならなかった。
その点については次回以降に記すことにしたい。

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フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか

前回の記事で、フランス公使ロッシュの献策により、慶応3年(1867)5月に朝議の場で徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得、井伊大老の調印した通商条約の不備を補完して対外公約を果たし、これにより幕府は、諸外国から苛烈な要求をする原因を封じることに成功したことを書いた。

徳川慶喜はその2ヶ月前に大坂で各国の公使と謁見しその席で兵庫開港を確約したのだが、この時の慶喜は各国公使に好印象を与え、これまで討幕勢力を支援してきたイギリスの公使・パークスも慶喜を高く評価して次のような感想を書きとめている。

イギリス公使・パークス

わたしは将軍がどのような地位をしめることになろうと、可能な限りかれを応援したいと思っている。」
「この大阪訪問によって、とりわけつぎのような好ましい結果が生まれることを、わたしは信じて疑わない。それは、われわれ諸外国の代表が、以前よりもいっそう深い関心を将軍に対してもつようになることである。」
じっさい、将軍は、これまでわたしが知り合った日本人の中で、もっともすぐれた人物であるように思われる。おそらく、かれは、歴史にその名をとどめることになるであろう。」
(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4 慶喜登場』p.409より)

これまで討幕派を支援していたイギリスの公使が、徳川慶喜という人物に謁見した途端に幕府・将軍に心を寄せることになることは、薩長にとっては面白くないことであることは言うまでもない。

この謁見のあと、西郷隆盛らがイギリス公使館の対日政策に関わっていたアーネスト・サトウを訪ねている。サトウの著書にはこう記されている。

アーネスト・サトウ

「私は、西郷やその一派の人々の訪問をうけたことを覚えている。彼らは、我々と将軍との接近について、大いに不満であった。私は、革命の機会がなくなったわけではないことを、それとなく西郷に言った。しかし、兵庫が一たん開港されるとなると、その時こそ、大名は革命の好機を逸することになるだろう。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.255)

慶喜は慶応3年(1867)6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出しているのだが、いったん兵庫港が開港されて外国人が居留するようになれば、諸外国は平和を求めることになり、薩長の討幕運動は外国からの支持を得られなくなってしまうことをサトウは西郷らに伝えたのであろう

その後の薩摩藩の動きを見ていると、このサトウの言葉に触発されたことが窺えるのだ。
徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得ようとした5月の朝議(四候会議)で結論を先延ばしにする工作を行っていたのだが慶喜に押し切られてしまい、その会議の直後に薩摩藩は武力討幕の方針を固めている

一方徳川幕府は、前回記事で記したとおり、フランス陸軍の指導により近代的陸軍を整備していた。幕府軍は第二次長州征伐で大敗した頃とは様変わりしており、フランスはこの軍隊で薩長を倒すことを考えていたようである。

慶応3年(1867)8月に薩摩藩の西郷隆盛らが再びアーネスト・サトウを訪ねてきた際に、サトウが西郷らに話した内容が前回紹介した『幕末期東亜外交史』に出ている。フランスは、イギリス大使のパークスが慶喜びいきになったのを見て、共同で薩長を倒そうとサトウに持ちかけてきたというのだ。その本にはこう記されている。

仏人はサトウに、幕府の薩長取り潰しを仏英協力して援助してやろうではないかと、話を持ち掛けてきた。サトウは『串戯(じょうだん)でしょう。長州一藩さえ抑え切れぬ幕府など、援助しようにも方法がつかぬではないか。』とやりかえしたので、仏人も二の句がつけなかったようなわけです。しかしかかる論を公然とイギリス人にもちかける位ですから、フランスは、きっと幕府を援けて、諸侯をつぶす策をめぐらしていることは勿論で、幕府は『両三年のうち、金を集め機械を備え、仏(フランス)の応援を頼み、戦を始め候所存』とみえる。その時は、仏は、軍隊をくり出して幕府を援助するだろうから、諸侯の方でも、仏に負けない大国を背後に備えないと、危ないことになろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/141

「仏に負けない大国」とは、イギリスを指していることは言うまでもない。
そうサトウが述べた後に西郷らに対してイギリスに相談したいことがあれば言ってもらいたいと持ちかけた際に、西郷隆盛が語った有名な言葉がある。
日本政体変革の処は、いずれとも、我々尽力致すべき筋にて、外国の人に対し、面皮もなき訳と返答いたし置き申し候。」
要するに、日本の革命はわれわれ自身の手で行うことをサトウに宣言したのだ。

西郷隆盛

西郷が国許の桂に宛てた手紙に、この会談でサトウが西郷らに何を言い西郷がどう考えたかについて、こう記録されている。
譬(たと)え仏の援兵を相発し候時は、英国より押し付け候儀は相調(ととの)い申すべく、その節は英国においても戦争のため警護出兵いたすと申し触らし、同敷(おなじく)軍兵を差し出し候えば、必ず仏国の援兵は差し出し候儀は相叶い申さず候に付き、右のご相談も候わば承るべしと、却(かえ)って彼(サトウ)の方より申し出候に付、是は大幸の訳、其の時機に至りては御相談申すべしと相答え候ては、又英国に使役せらるる訳に相成り候のみならず、全く受太刀に落ち来り、議論も鈍り、此の末の処下鳥(したどり。負け犬というほどの意)に相成り候儀、自然の勢いに御座候故…」(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄5 外国交際』p.273-274)

サトウの言う通りに幕軍に対抗するためにイギリスの出兵を依頼してしまっては、たとえ幕府軍に勝利しても、わが国はイギリスに支配される国になってしまうことは西郷にはわかっていたのだ。しかしながらイギリスは、わが国が内乱状態に陥ることを期待していたからこそ、薩長を挑発し続けたのではなかったか。

大政奉還

そしてその2カ月後には、徳川慶喜は朝廷に政権を返上しているのだが、この時代の歴史はいくら教科書を読んでも、なぜ慶喜が大政奉還を選択したかがさっぱりわからない。

たとえば、標準的な高校の教科書である『もう一度よむ山川日本史』では、その前後の歴史についてこう記されている。

「長州再征の失敗後、徳川(一橋)慶喜が15代将軍となったが、幕府の力はすっかり衰えた。土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎らは、欧米列強と対抗するためには、天皇のもとに徳川氏・諸大名・藩士らが力をあわせて国内を改革する必要を強く感じた(公議政論)。彼らのはたらきかけで、前土佐藩主山内豊信(容堂)は、将軍慶喜に政権を朝廷に返上するよう進言した。慶喜もこれを受け入れ、1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出た。しかし同じころ、薩長両藩の武力討幕派は、岩倉具視ら急進派の公家と手をむすんで討幕の密勅をえた。そして彼らの主導によって、同年12月9日、いわゆる王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士などからなる新政府が発足し、二百数十年つづいた江戸幕府は滅亡した。」(『もう一度よむ山川日本史』p.216)

ほとんどの教科書には、イギリスやフランスの動きにも兵庫開港問題にも何も触れておらず、これではなぜ薩長が討幕を急いだかが見えてこないし、幕府と討幕派との内戦が始まってもおかしくない緊迫感が全く伝わってこない。これでは慶喜が朝廷から兵庫開港の勅許を得てからわずか5カ月で大政奉還を申し出たかが理解できないのは当然だと思う。

そもそも将軍慶喜が土佐藩の大政奉還建白を受けいれた意図はどこにあったのだろうか。

徳川慶喜

次のURLに徳川慶喜の『大政奉還上表文』の原文と現代語訳が出ている。
http://www.geocities.jp/sybrma/259taiseihoukan.html
重要なのは次の文章である。
「最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。」
内容的には、慶応4年(1868)3月に公布された明治天皇の『五箇条の御誓文』の内容によく似ているのである。

開国の真実

今まで何度か紹介した鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう解説されている。
「大政奉還1ヶ月前の慶応三年(1867)九月には、幕府開成所教授津田真道が著書『日本国制度』を提出し、大政奉還後の政治体制のあり方について論じている。徳川慶喜が考えた大政奉還とは。『自らの力で開国を成し遂げ、慶喜が中心となってイギリス型の近代的議会主義へ転換すること』だったのである。
 イギリスは、共和国のフランスやアメリカと異なり、国王を元首とする立憲君主制で、国王は『君臨すれど統治せず』の原則により政治責任をおわない。首相が政治上の指導者である
 イギリス立法府は上院と下院からなる二院制で、上院は世襲議員や僧侶から構成され、イギリスには今も貴族制度が残っている。
 だから、当時の日本が天皇制や公家制度など古(いにしえ)からのしがらみを遺しながら近代化を図るには、イギリスを手本として、天皇を国家元首とし、大君(将軍)を政治上の指導者とし、一万石以上の大名を世襲の上院議員とすれは、容易にイギリス型公議政体に移行できる。
 徳川慶喜は『刀槍の時代の次は議会の時代』と考えた
のである。」(『開国の真実』p.308-309)

アーネスト・サトウが予想していたように、徳川幕府がフランス軍の協力を得て、薩長等の討幕勢力を征伐する選択もあったのだろうが、徳川慶喜はそれを選択せず、平和的に政治体制を変革することを選んだのである。
慶喜は、大政奉還を奏上しても朝廷には政権を運営する能力も体制もないので、徳川家が天皇の下で新政府に参画すれば実質的に政権を掌握することができると考えていた可能性が高い。事実朝廷からは、上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら、緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとされている。つまり慶喜による政権掌握が実質的に続くことになったのである。

もし、慶喜が大政奉還ではなく倒幕勢力を征伐することを選択していたとしたら、恐らくイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する大規模な戦いが始まっていたことであろう。
以前にこのブログで書いたが、幕末期にわが国に大量に輸入されたミニエー銃は、従来のゲペール銃と較べ、飛距離と命中精度と破壊力が飛躍的に向上し、アメリカの南北戦争では62万人もの戦死者が出たという。
幕府軍と薩長との間で本格的な内戦が起こってしまっていたら、殺傷力の高い武器で多くの人命が失われていただろうし、国土は荒廃し人々は疲弊して、どちらが勝利しても我が国が独立国であり続けることは難しかったと考える。

英邁な徳川慶喜はそのような事態になることが分かっていたからこそ、討幕派の機先を制して「大政奉還」を奏上し、討幕の名目を奪って内乱が起こることを防ごうとしたのではなかったか。

一方の討幕派は、大政奉還に対抗して薩摩藩および長州藩に宛てて秘密裏に徳川慶喜討伐の詔書を下している。
この「討幕の密勅」について書き出すとまた長くなってしまうので、次回に記すことといたしたい。

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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
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中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
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ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
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アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争

前回の記事で、西郷隆盛の命を受けて東征軍参謀の木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)がイギリス公使のパークスを訪ねて、江戸城総攻撃の際に新政府軍の負傷兵の手当てをする病院の世話をして欲しいと依頼したところ、パークスが激怒したことを書いた。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に、パークスと直接交渉した木梨精一郎の話(『維新戦役実座談』)の一節が引用されているので紹介したい。

木梨精一郎
【木梨精一郎】

「その時にパークスが言うには、今日の政府は徳川にある。王政維新になったと言っても、いまだ外国公使へ通報もなし。私はどこまでも前条約を以て、徳川政府を政府と見ている
 なるほど内部を見れば、天子朝廷の命令というものは重きものなれども、条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬというのは、本国に報知することが出来ぬ。すなわち条約面によって、今ここへ兵を多く繰り込めば、自然フランスの一大隊、オランダの二大隊、あるいは衝突を起こすかも知れぬからという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/188
そこで木梨は「徳川幕府の政令は朝廷に奉還して、外国奉行というものは存在しても名前だけで実体はない」と答えたところ、パークスは「今の朝廷から、表方ご通知があったなら、私どもの方も、陸へ上げた兵を艦へ乗せ、国へ返しもしようが、その命のあらざる間は砲撃などのことは、暫らく見合わせてくれ」と答えたという。

このパークスの言葉は一般の歴史書などではほとんど無視されているのだが、非常に重要なことを述べている。

もしある国で革命政権が樹立された場合に、前政権による対外債務や条約がそのまま自動的に引き継がれるというわけではない。
欧米諸国がわが国と条約を結んだ相手は徳川幕府であり、その徳川幕府が朝廷に政権を返上したとはいえ内戦状態に突入してしまって、現段階ではどちらが勝利するかはわからない。イギリスとしては、内戦が終結して書面上でもその権利の承継の手続きがなされるまでは、従来の条約の相手方である幕府を重視することは当然の事なのだ。

そもそも朝廷には外交問題を仕切れる人材は皆無であった。したがって、徳川慶喜が大政奉還を奏上しそれが決定した8日後の慶応3年10月23日に、朝廷は外交に関しては引き続き幕府が中心となって行うことを認める通知を出している。そのため11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告や28日のロシアとの改税約書締結は徳川幕府が行なっているのである。

パークスが、木梨に対して「条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬ」と言っているのはそのことを意味するが、普通に考えれば、わが国で政権が朝廷に移ったにもかかわらず外交だけは今まで通り徳川幕府というのは、欧米諸国にとっては理解し難いことでであったと思われる。だからパークスは「(このことは)本国に報告することは出来ぬ」と述べたのであろう。

外国人の立場で考えればわかる事なのだが、日本でクーデターが起こり、これから新政府軍が幕府勢力との間で本格的な内戦に発展してもおかしくない情勢になってきたのであれば、彼らにとっての最大の関心事は、幕府の瓦解によって無政府状態に陥っている中で、多数の外国人居留民がいる横浜などの治安をいかに確保するかであったはずだ。

遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城

萩原延壽氏の『遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城』に、イギリス公使パークスが本国のスタンレー外相に宛てた手紙が引用されている。手紙日付の西暦1868年4月9日は、和暦(陰暦)慶応4年3月17日で、西郷と勝が江戸無血開城の談判を行なった3日後のことである。

パークスはこう記している。
「横浜に上陸してみると、ミカドの軍隊の先遣部隊が、東海道と呼ばれる公道の、江戸まで10マイル(約16km)ないし15マイルの地点に進出していた。そして、この部隊からはぐれたかなりの数の武装した兵士が、横浜に入り込んできた。」
「私が帰還する2日前、ロコック氏(公使館書記官)はサンキー陸軍大佐(第9連隊)に要請して、この町に通じる主要な入口である橋に衛兵を配置したが、これは賢明な措置であった。此の武力の誇示は、2つの目的にかなうものであった。ひとつは、大君(たいくん)*政府の役人と警吏に対して、それぞれの部署にふみとどまる勇気を与え、かくして恐慌状態の下で日本人が掠奪と混乱に襲われるのを防止することであり、もうひとつは、ミカドの軍隊の乱雑な、規律が整然としているとはいいがたい兵士に対して、この町が大君政府以外の兵(外国軍隊)によっても防衛されていることを明示することであった。」
「4月1日(陰暦3月9日)、神奈川奉行が訪ねてきて、この町の行政をミカドの政府が任命した役人に引き渡す用意ができているが、まだそのような役人が到着したという通知を受け取っていないと語った。さらに奉行は、町に入り込んでいる武装した兵士を取締る力が彼にはないことを認め、且つこの町の外国人と日本人に対する彼らの態度には遺憾な点があると述べた。」(『遠い崖 7 江戸開城』p.8-9)
*大君(たいくん:江戸時代に対外的に用いられた征夷大将軍の外交呼称。ここでは徳川慶喜を指す。「大君政府」は徳川幕府。)

横浜の治安については、大政奉還されたのであれば幕府から朝廷側に引き継がれていなければならないところだが当時はまだ実施されておらず、訪ねてきた神奈川奉行はこれから大挙してやってくる新政府の東征軍から横浜の外国人や日本人を守る力がないと述べたという。ならば、自力で横浜を守るしかないではないか。

諸外国の代表は対応策を協議して、新政権が横浜の治安の維持にあたるまでの間、各国の軍隊を出動させて横浜の要衝を占拠し、幕府軍と協力して東征軍兵士の横浜立入を阻止することを申し合わせ、4月3日(陰暦3月11日)からそれを実施したという。

パークスが横浜の自国居留民を守ることに動き回っていた矢先に、東征軍参謀・木梨精一郎と渡辺清がのこのこと現われて、これから内戦が始まるので傷病人の面倒を見て欲しいと依頼にきたことになるのだが、このような経緯を知るとパークスが激怒した理由が見えてくる。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス】

またパークスは、同じ4月9日付(陰暦3月17日付)でハモンド外務次官あての手紙にこう記している。
江戸のもめごとに対処するのに手遅れでなかったことを知って、ほっとしている。しかし大君は抵抗の意思を放棄しているので、このもめごとも、たぶん1ヶ月で解決するであろう。そして、戦闘は相互に憎み合っている大名の家来たちや、この国に多大の害毒を流している『浪人』たちのあいだの、不正規な小ぜりあいに限られるであろう。われわれは、横浜の安全を確保することが出来たと思う。」(同上書 p.21)

このように、パークスは横浜を守れたことに安堵するとともに、内戦はあと1ヶ月で終るだろうと予想したのだが、実際には戊辰戦争はあと半年も続いたのである。パークスの考え方は、概ねイギリス人の代表的な考え方であり、彼らにとってはこれからしばらく小競り合いが続こうが、慶喜に戦意がなくて新政府が勝つことが自明であるような戦争にはそれほど関心がなく、居留地の治安が守られていることが最大の関心事であったようだ。

一方フランスは、薩長を裏で支援してきたイギリスに対抗してこれまで一貫して徳川幕府を支援し、そうすることで対日貿易の拡大を図ろうとしてきたのだが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したためにその目論見が大きく崩れてしまった。もし幕府が敗れることになれば、フランスの対日貿易は激減することになる。フランス公使のロッシュは、そうなっては困る立場にいたのだ。

鳥羽伏見の敗戦の後、フランス人が相次いで日本人に襲われているのだが、その事件が外国勢力を巻き込む内戦に発展する可能性はなかったのか。一般の歴史書には触れられることの少ない事件を振り返っておこう。

最初の事件は、慶応4年1月11日(旧暦)に起きた神戸事件である。
1月3日(旧暦)に鳥羽伏見の戦いが始まり、徳川方の尼崎藩を牽制するために、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警護を命じていた。

滝善三郎切腹の図
【滝善三郎切腹の図】

Wikipediaの解説によると神戸事件とは、
神戸三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

簡単にまとめればそうなるのだが、この事件直後の諸外国の怒りは尋常のものではなかった。徳富蘇峰の『近世日本国民史 第67冊』に彼らが提出した威嚇的な文章が引用されているが、この事件の対応次第では日本は諸外国の敵とみなし報復措置をとると宣言されている。
“You must immediately come forward and explain this matter. If full reparation be not given, it will be assumed that you are the enemy of foreign nation, who will take measure to punish the outrage.”
“It must be borne in mind that this matter will then concern not only the Bizen clan, not may also cause grave trouble to the whole of Japan.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/132

そして神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕したのである。
この時点では、諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、朝廷は1月15日(旧暦)に急遽幕府から新政府への政権移譲を表明したのだが、諸外国は在留外国人の身柄の安全保障と日本側責任者の厳重処罰を要求したという。

Wikipediaには、「この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされた」と解説されているが、先ほど英語で引用した文章を読めば、おおげさな話ではないことが理解できる。

この事件は鳥羽伏見の戦いで幕府軍がわずか4日で惨敗した直後に起こったのだが、これまでイギリスに対抗して幕府を支援してきたフランス公使のロッシュは失意のどん底にあり、諸外国の中で新政府との交渉をリードしたのはイギリス公使のパークスだったようだ。

しかしながら、フランスがイギリスと同一歩調で動いてもチャンスは生まれない。対日貿易を拡大するためにはやはり幕府と組んで新政府と対抗するしかない。
そう考えてロッシュ神戸事件から1週間後の1月18日(旧暦)に慶喜に謁見を求めて、「此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、フランス軍が新政府軍と共に戦う力になることを提案したのだが、慶喜は「天皇に向かっては弓を引くことはあってはならない」と述べ、ロッシュの提案を断っている。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)
堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)】

そして2月15日(旧暦)にまたフランス人が犠牲になる事件が起きた
フランス海軍のコルベット艦デュプレクスが堺港に入り、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわり近隣の苦情が出たことから、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとしたが逃げられたために咄嗟に発砲し、そのために11名の仏水兵が死亡してしまったのである。(堺事件)
当然のことながら、フランス公使のロッシュはこの事件に激怒した。

ロッシュ
【ロッシュ】

Wikipediaの解説がわかりやすい。
ロッシュは、…2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

15万ドルといっても、できたばかりの明治新政府にそんな大金を支払う余裕があるわけではなかったのだが、昭和6年出版の『摘要堺市史』によると市民や酒造組合等が募金を献じてその金を工面したという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212616/71

英国外交官の見た明治維新

新政府はフランスの要求を全て飲んで、2月23日に堺の妙国寺で土佐藩士20名の切腹が行なわれることとなったのだが、切腹の場で藩士たちは自らの腸を掴み出して、居並ぶフランス水兵を大喝したという。
当時イギリス公使館の二等書記官であったアルジャーノン・ミットフォードは『英国外交官の見た幕末維新』のなかで、こう記している。

「最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地をけがした忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで―――これは殺されたフランス人の数であったが―――フランス人たちは耐えきれなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を除名するように頼んだ。彼はこの場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。」(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』p.153-154)

フランス人たちはあまりに壮烈な土佐藩士の割腹に目も当てられなくなり、その場で9人の助命を申し入れたという。そして翌24日に外国事務局総督山階宮晃親王がロッシュを訪ねて堺事件についての明治天皇からの謝意を伝え、ロッシュは9名の助命を公式に了承した。又ロッシュは宮中への招待を受けて30日に御所に参内し、天皇からの謝意をうけてこの事件は解決したのである。

このように、フランスが挑発するつもりで厳しい要求をしても新政府はその要求を飲み、軍事行動を起こす口実を与えなかったし、慶喜も戦意が無かった。
幕府を援けて対日貿易を拡大するロッシュの対日政策は完全な失敗に終わったために、フランス本国においてこれまでの佐幕派支援政策が全面的に見直され、ロッシュは公使を罷免されて、5月4日にはわが国を離れて帰国の途についている

ところがロッシュが徳川幕府を支援するために送り込んだフランス人軍事顧問団の一部がわが国に残り、フランス軍籍を離脱して戊辰戦争に参加し旧幕府軍とともに戦っている。


榎本武揚
【榎本武揚】

以前このブログで書いたことがあるが、新政府は5月に徳川家に対する処分として、駿河、遠江70万石への減封を決定した。それまでは800万石であったので、これでは徳川家の膨大な家臣団を養うことは不可能だ。多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させようとした

ジュール・ブリュネ
【ジュール・ブリュネ】

フランス人軍事顧問団のメンバーは日本を離れるようにとの勅命が出ていたのだが、ジュール・ブリュネ大尉以下5名は、軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んだのである。
Wikipediaによると、彼らは「イタリア公使館での仮装舞踏会の夜に侍の扮装のまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流」し、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」の創設を支援したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D

旧幕府軍は明治元年(1868)12月15日には蝦夷地を平定したものの軍資金は乏しく、翌年春から本格化する新政府軍の進軍に押されて、明治2年5月18日(新暦1869年6月27日)に土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争は終りを告げた。ジュール・ブリュネらフランス人兵士は五稜郭陥落前に碇泊中のフランス船に逃れたようだ。

その後ブリュネは6月に帰国し、軍に復帰が認められたのち普仏戦争などで活躍し1898年にはフランス陸軍参謀総長にまで登りつめたという。

陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ
【陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ】

また、軍事顧問団の隊長であったシャルル・シャノワーヌは、ブリュネのように旧幕府軍と共に戦う道を選ばなかったが、フランス帰国後は陸軍大将まで昇進し、1898年にはアンリ・ブルッソン内閣の陸軍大臣に就任している。
ロッシュが徳川幕府の軍事力強化のためにフランス陸軍の超一級の人物を送り込んだことは紛れもない事実である。その後この二人は日清戦争においてわが国に貢献したことが認められ、明治政府からシャノワーヌに勲一等旭日重光章、ブリュネに勲二等旭日重光章が授与されたことは記憶に留めておきたいところである。

慶喜が幕府を守るために新政府軍と戦う意志を最後まで持たなかったことは、ロッシュにとっては想定外のことであったろう。彼がこれまで推進してきた対日戦略が大失敗に終わり、フランス公使を罷免されたロッシュは、帰国後外交官を辞して58歳の若さで引退したという。
そして1901年6月23日、ボルドーにおいて91歳の長寿で没したのだそうだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
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江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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