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伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。
改めて「もう一度読む 山川の日本史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。

しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。

幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務付けられている。もちろん伊達政宗の仙台藩も例外ではなく、この禁教令により長崎と京都にあった教会は破壊され、修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されたり処刑されたりしているのだ。

伊達政宗

伊達政宗慶長遣欧使節を派遣した時期は、教科書には慶長18年(1613)と書かれていて幕府の禁教令公布の直後のことなのだが、この使節が派遣された背景などを詳しく知りたくなっていろいろ調べてみた。

ネットではWikipediaなどで慶長遣欧使節やその関連人物について詳しく記述されているし、関連した書物もいくつか出ているので、それらを参考にして簡単に纏めてみよう。

まず最初に、慶長14年(1609)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がメキシコへの帰路で台風に遭遇し、上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、地元民に救助された一行に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦按針)の建造したガレオン船(サン・ブエナ・ベントゥーラ号)を贈って、メキシコに送還させたという出来事があった。

続いて、慶長16年(1611)に、その答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがスペイン国王フェリペ3世の親書を携えてサン・フランシス号で来日した。そこには外交を開く条件としてカトリックの布教を認め、プロテスタントを排除することなどが記されていたらしい。
しかし家康は、スペイン側の条件を受け入れればわが国が植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかったという。

慶長17年(1612)9月にセバスティアン・ビスカイノは家康・秀忠の返書を携えて帰途に就いたが、11月14日に暴風雨に遭遇し、座礁して乗船(サン・フランシスコ号)を失ってしまった。メキシコに戻るために船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが、日本の外交方針の変更により受け入れられなかったという。

このような状況のなか、伊達政宗は家康から「外交権」を得ることに成功する。スペインやメキシコと通商条約締結のためには、どうしてもスペイン国王に使節を派遣すべきであると伊達政宗に説得し、さらに家康に説得してそれを認めさせた人物がいた。その人物がフランシスコ会の宣教師であるルイス・ソテロである。

当時は500トン以上の船を国内で造船することが禁止されていたので、政宗にすれば、幕府が関与することでその造船許可を得ることも、海外渡航証明の朱印状も発行してもらうこともできる。
また幕府にしても、幕府の資金を使うことなく、国賓として来日していたセバスティアン・ビスカイノ一行をメキシコに帰国させる目途がたち、国際的な面目を保つことが出来る。

ところが、その後幕府は禁教令を公布し、慶長18年(1613)6月にソテロ自身も小伝馬町の牢屋に閉じ込められて危うく火刑に処されるところだったのだが伊達政宗の陳情により助けられ、その年の9月の伊達政宗の遣欧使節団に正使として参加することとなるのだ。 外交には当然通訳が必要であり、日本語だけでなくスペイン語での交渉力も不可欠だ。政宗からすれば、ソテロはそのために欠かすことのできない存在だったようだ。

しかしソテロは、出帆直前になって伊達政宗に対し重大な要求を行っている。イエズス会のアンジェリス神父が、政宗とソテロとの駆け引きについて、1619年のイエズス会本部に宛てた報告書で次のように記録している。

ルイスソテロと支倉常長

「…船の準備が整うと、ルイス・ソテロは、…政宗がイスパニア(スペイン)の国王陛下とローマ教皇聖下の下に使節を派遣すべきであることを指摘し、また交渉をうまく進展させるために両者へ相当な進物を持参する必要があると述べた。そしてこの条件が受け入れられなければ、自分は乗船しないだろうと述べた。…政宗はすでに相当の金額を船の建造のために出費していることを考慮し、ソテロの進言を受け入れてイスパニアとローマに使節を派遣することを同意した。…」(大泉光一『伊達政宗の密使』洋泉社p67-68所収)

サンファンバディスタ号

この使節の当初の目的は、メキシコとの直接通商交易を開くことであったのだが、サン・フアン・バウティスタ号が完成し、その出帆直前にソテロの一言によりスペイン、ローマにも使節を派遣することとなったのだ。そんなことを江戸幕府が許すはずがなかったのだが、伊達政宗は重臣たちから大反対されながらもそれを受け入れてしまうのだ。

200px-Pope_Paul_V.jpg

なぜ政宗はそれを受け入れたのか。その手掛かりになるのが、使節団がローマ教皇に謁見した際に奉呈された文書で、今もヴァティカンに残されている。
一部を読んでみよう。最初は政宗がローマ教皇パウロ五世に宛てた親書である。

「私はキリシタンになりたいと思うに至ったのですが、今のところ、どうしてもそうすることのできないような、差し障りになる事情があるため、まだ、そうするまでに至っておりません。しかしながら、私は、領分の国(奥州)で、しもじもの領民たちがことごとくキリシタンになるようにさらに勧奨するという目的のため、サン・フランシスコ御門派の中でもオウセレバンシアに所属するパードレ衆(宣教師)を派遣して頂きたく存じます。…」

「…なお、このパードレ・フライ・ルイス・ソテロと、六右衛門(支倉常長)とが、口頭で申上げるはずですから、この人々の申上げるところに従ってご判断頂きたく存じます。」

ソテロ自身がかなり作文した臭いが漂うのだが、伊達政宗自身も直接署名している文書であり、政宗が内容については承知していたと考えられるのだ。重要な極秘事項はこの時に口頭で語られたのだろうが、その内容についてはどこにも記録が残っていない。

次は同じく教皇に奉呈された、日本のキリスト教徒の連書状である。

「今年になってから新たな迫害が…将軍様によって引き起こされました。…
 偉大な教父(教皇)よ、神が…奥州の王(伊達政宗)を召し出して、彼を照らし出した時、大きな門が開かれたということを疑わないでください。…私たちは彼が将来出来るだけ早く支配者(将軍)になることを期待しております…」(同上書p192-193)

他にもう一通連書状が残されているが、いずれも同様に伊達政宗を支持する内容のものである。この内容もかなりソテロが手を加えたことはまず間違いないだろう。

慶長の遣欧使節に詳しい大泉光一氏は「伊達政宗の密使」のなかで、こう書いている。

「ソテロが、船が完成する直前に、スペインやローマに使節を派遣することを政宗に進言したのは、『訪欧使節団』派遣の真の目的を最初から明かしたのでは、メキシコとの直接通商交易を開始することを第一と考えていた政宗が、使節派遣計画を取り止める恐れがあったからである。」(同上書p84)

では、ソテロにとって「訪欧使節団」の真の目的とは何なのか。
大泉氏はさらにこう書いている。
「ソテロは、幕府のキリスト教の禁教令で自分が洗礼を授けた多くのキリシタンが処刑されるのを目撃し、また自らも囚われの身となり、火刑に処せられる直前に救出されるという経験から、将来の日本におけるキリスト教の布教活動に対し強い危機感を抱いたに違いない。

 そこでソテロは、…伊達政宗の保護の下、自ら東日本区の司教になって仙台領内に宣教活動を行うことを目論んだ。そして、キリスト教に対し理解を示し、自らも洗礼志願者となって、家臣にキリシタン改宗を勧めた政宗に日本全国のキリスト教徒の指導者になるように歓説したのだろう。

 それを現実のものにするためには、日本中のキリスト教徒(30万人以上)の支持を得て政宗がローマ教会に服従と忠誠を誓い、彼らの指導者として承認してもらう必要があった。そのためにソテロは、政宗にスペイン国王とローマ教皇のもとに極秘に使節を派遣することを持ちかけたのである。」(同上書p84-85)

と、なかなか説得力があるのだ。

大泉氏はさらに「政宗自身も天下取りの夢を捨て切れず、自ら「将軍職」に就くためにキリスト教を利用しようとした」とも書くのだが、この点について書きだすと長くなるので、次回以降に紹介することとしたい。
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関連記事

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2

前回は15世紀末から始まるインディオの悲劇のことを主に書いたが、北アメリカにもアフリカにも同様な悲劇があったことは言うまでもない。
カリブ海地域から拡がった地球規模の奴隷貿易に対しては、宗教的あるいは人道主義の立場から批判が古くからあったようだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を弾劾したのは、後で記すとおり、比較的最近の話なのである。

前回紹介したラス・カサス神父は、インディオの虐待を即時中止して平和的にキリスト教を布教するべきとの考えであったのだが、それがキリスト教全体の方針ではなかったことを書いておかねばならない。

15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出を「大航海時代」というが、この時代にローマ教皇が多くの教書を出している。
高瀬弘一郎氏によると、当時のローマ教皇は「キリスト教世界の首長として絶大な影響力を持ち、その決定はヨーロッパのキリスト教国王すべてにとって精神的拘束力となり、一種の国際法的な意味すらもつものであった…。ポルトガル国王もスペイン諸侯も、自己の海外発展の事業を正当化し、さらに鼓吹するために随時教皇に対してこの種の精神的支援を求め、一方教皇の側は、カトリック教勢の伸長を図る意味からも常にこれに応じて明確な援助を与えてきた。」(岩波書店『キリシタン時代の研究』p.7)とあり、当時においてローマ教皇の教書は影響力のきわめて大きい文書であったことは間違いがない。

ではこの時代のローマ教皇の公式文書で、奴隷制についてはどのように書かれているのだろうか。
この点については、西山俊彦氏の『近代資本主義の成立と奴隷貿易』という論文に詳述されている。西山俊彦氏はカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある人物だが、この論文はありがたいことに第4章までがネットで公開されており、誰でもPDFファイルを読むことができる。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2003_doreimondai_index.htmこの論文をベースに加筆された『カトリック教会と奴隷貿易』という本も上梓しておられ、一時期は品切れとなっていたが、今はネットなどで注文できるようである。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2005_doreiboueki.htm

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この西山氏の論文にキリスト教に敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書が紹介されていて、次のように書かれている。

「サラセン人等、キリストに敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書 キリスト教徒の奴隷化を禁止する教書と対をなしているのが、キリストの敵の奴隷化を許容する教書で、次のものが代表的です―
(1) 教皇ニコラス五世『ドゥム・ディベルサスDum Diversas』(1452・6・18)
(2) 同 『ディヴィーノ・アモーレ・コンムニーティDivino Amore Communiti』(1452・7・14)
(3) 同 『ロマーヌス・ポンティフェックスRomanus Pontifex』(1454・1・8)
(4) 教皇カリスト三世『インテル・チェテラ・クエInter Caetera Quae』(1456・3・15)
ここに⑶『ロマーヌス・ポンティフェックス』を例に紹介すれば、次のように記されています―

『神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。・・・・・・
以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。
…ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマは聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年』」

下線部の「終身奴隷に…授与した」という文言は、上記(1)~(4)に共通した部分で、 (4) は(3)を再掲載したものだそうだ。

この(3)教書における異教徒は、時代背景からすると主にイスラム教徒との戦いを念頭に置いて書かれたものと思われるが、コロンブスが新大陸を発見した翌年(1493)に、教皇アレキサンデル6世がカスティリア=レオン(後のスペイン)の国王に対して「贈与大勅書Inter Caetera」を発布している。
この勅書の訳文は前掲の西山論文によると次のとおりである。

「全能なる神よりペトロに授与された権威と、地上において行使するイエス・キリストの代理人としての権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を奉ずる国王もしくは君主によっても現実に所有されていないすべての島々と大陸、および、その一切の支配権を、汝ら、および汝らの相続人であるカスティリアならびにレオンの国王に永久に…贈与し、授与し、賦与するとともに、汝らと汝らの相続人を…完全無欠の領主に叙し、任命し、認証する。」

この勅書が、スペイン国王に絶対的支配権を与えたと解釈され、インディアスの征服が福音弘布のための「予防戦争」とみなされることになり、平和なインディオの社会が急激に崩壊していくことになるのだ。

スペイン国内においてもインディアスの扱いについて関心が高まり、ラス・カサスの地道な啓蒙活動が徐々に評価されるようになって、1537年には教皇パウルス3世がインディオを「真の人間」と認めて、たとえキリスト教徒でなくとも奴隷状態に貶めるべきでないとする勅令『スブリームス・デウス』を出している。西山氏の前掲の論文に訳文が出ている。

「インディオ、及び、キリスト教の知見に最も遅れて到達した人々も、たとえ現時点で、キリストへの信仰の外にいたとしても、自由と所有への権利を剥奪されたり、剥奪されるべき者ではない。反ってそれらは尊重されるべきであって、決して奴隷状態に貶められるべきではない。また、たとえ、そのようなことが起こったとしても、それらは無効であって、何らの効力も拘束力も有するものではない。…」

と、現代人なら誰もが納得する内容になっている。

しかし、この勅令は翌1538年に教皇パウルス3世自身が出した『 ノン・インデーチェンス・ヴィデートゥール』により撤回されている。教書の一部を紹介すると、

「…カルロ国王の尽力によって彼の地にキリストの御教えが短期間に弘布されたことに鑑み、同時に、聖なる事業の障げとなることは何物たりとも除去したいがために、使徒座の権威に基づいて、前記教書を撤回・失効・無効とし、そこに含まれるいかなる事項をも、逐語的に、撤回、失効・無効とされたと見なすよう欲する。…」

『スブリームス・デウス』が撤回された理由は、西山論文では王権からの横やりが入った旨説明されている。

それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だというのだ。

ここで日本の歴史を振り返ってみる。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために日本に来たのが1549年だ。大村純忠の洗礼が1562年、大友宗麟が1578年、有馬晴信が1580年。大友・大村・有馬の三氏が7遣欧少年使節を派遣したのが1582年である。この時期にはかなりの日本人奴隷が流出していた時期であり、秀吉の伴天連追放令は1587年だ。

この時期に日本に来たポルトガル人は、ローマ教皇の教書により我が国を支配する権利を付与され、日本人を奴隷にする権利を付与されていた状態にあったということになる。
例えば高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』にイエズス会の宣教師ヴァリニャーノがマカオからフィリピンの同僚に送った書翰の一節が紹介されているが、そこには「シナ、日本、その他ポルトガル国民の征服に属する地域において…」という表現が使われており、わが国は「ポルトガル国民の征服に属する地域」になっている。同様な表現が他の文書にもあることが同書に紹介されているが、この言葉の意味を理解するには1494年に教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線が定められていたことを知る必要がある。下図の緑色の線がサラゴサ条約における境界線で、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。

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これらの条約に基づきスペインは西回りで侵略をすすめ、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服した。いずれもキリスト教の神父が先兵となっているのは同じである。そして1549年に日本に上陸しキリスト教の布教が開始されたのだ。

1532年にスペインのフランシスコ・ピサロインカ帝国をいかなる方法で攻撃したかが参考になる。

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ピサロは1532年にインカ帝国皇帝アタワルパに部下と通訳と神父を送って交渉させている。神父の役割に注目である。Wikipediaの記述を引用すると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%91

「バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。

スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、『なぜこれは喋らない』と尋ね、地面に放り投げた。この行動はインカには書き文字が無かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対しインカと戦うための絶好の口実を与えてしまった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり7,000人以上の非武装のインカ兵が鉄剣により殺された(この時使われた鉄砲はごくわずかで、スペイン人の武器の大半は剣だった)。アタワルパは輿から引き摺り下ろされ、太陽の神殿に投獄された。」

200px-Ataw_Wallpa_portrait.jpg

と書かれている。アタワルパはピサロに金を大部屋1杯分、銀を2杯分提供し釈放を求めたが、幽閉されたまま絞首刑に処されたという。

この記録を読めば、バルベルデ神父が重要な役割を果たしていたことがわかる。
スペインは「贈与大勅書」により非キリスト教国を支配する権利をローマ教皇より付与されていた。従ってアタワルパがキリスト教に改宗する意思がないことを神父が見極めれば、いつでもその権利を行使してインカ帝国を堂々と侵略し、財宝をわがものにすることができるし、また住民を奴隷にすることもできるのである。現在の価値観では極めて非人道的行為ではあるが、当時に有効であった教皇の教書には全く矛盾しない行動なのだ。

日本がインカ帝国のようにならなかったのは、この当時の日本は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、天文12年(1543)に鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。
以前このブログで書いた通り、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたのである。ポルトガルは日本よりも軍事的劣勢であったがゆえに、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、日本には容易に手を出せなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

そこで彼らはキリシタン大名を育てて武器を融通し、彼らに日本を統一させようとするのだがそれも見破られて失敗した。
当時の日本に秀吉や家康のようなポルトガルの野望を見抜くリーダーがいたことも幸運であったが、もしキリスト教の伝来が天文18年(1549)ではなく、鉄砲伝来よりも20年以上早かったとしたら、日本も西洋の植民地になっていた可能性があるのではないか。少なくとも平安時代や南北朝時代の日本にキリスト教が伝来していたら、朝廷は祈祷をするばかりで簡単に征服されてしまい、インカ帝国と同様のことが起こっていても不思議ではないような気がするのだ。

新約聖書には「汝の隣人を愛せよと」いった言葉もあるのだが、旧約聖書には普通の日本人が読めば首をかしげるような言葉を目にすることがある。たとえば、

『あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。』(申命記・7章16節)
『そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。
ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主エホバが賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。』(同・20章・13節)

この旧約聖書の言葉を文字通り読むと、この時代のスペイン人もポルトガル人もこの言葉通りのことを行っただけだという解釈も可能だ。しかしこの言葉通りにキリスト教国が動けば、世界中がキリスト教に改宗しない限り、争い事がいつまでも繰り返されることになる理屈にならないか。

奴隷の家1

アフリカ大陸西端のゴレ島に1776年に建てられた「奴隷の家」という赤褐色の二階建ての建物がある。窓のほとんどない小部屋ばかりの一階には船に積み出しされるまでの奴隷が詰め込まれ、二階は奴隷商人である主人とその手下らの住いであったという。
1992年2月22日、この「奴隷の家」に、教皇ヨハネ・パウロ二世が、「奴隷貿易に従事したキリスト教国家とキリスト教徒に神の許しを乞うために」訪問されたそうだ。この記事で紹介した西山俊彦氏の『カトリック教会と奴隷貿易』の表紙にはその時の教皇の写真が掲載されている。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/JP2006.3.pdf

ヨハネ・パウロ2世

奴隷貿易が「キリスト教国とそれに属する人々によってなされた罪過」なのか、それとも同時に、「キリストの御名を戴く教会も関与した罪過」なのかという問いが良く発せられるのだが、ローマ教皇が奴隷貿易の謝罪のためにこの場所を訪れたという事実は、大航海時代以降のキリスト教会が奴隷貿易に関与していたことの、何よりの証になるのではないだろうか。
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日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3

前回は、大航海時代以降に西洋諸国が世界各地を侵略し地球規模で奴隷貿易を開始したのは、ローマ教皇の教書に則った活動であることを書いた。
インカ帝国が滅亡した事例で、キリスト教の神父が重要な役割を演じていることを紹介したが、わが国の場合はキリスト教の宣教師に日本を侵略する意思や、日本人を奴隷化する意思はあったのだろうか。表題のテーマからすれば、日本も例外ではなかったことを、当時の記録から論証する必要がある。

ルイスフロイス

大量に日本人奴隷が海外に輸出された事実は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記録を読めばわかる。以前私のブログで引用した部分だが、

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。」(同書p.314)…1589年の記述

という記録もあり、数千人レベルではなさそうだ。
太閤検地の頃の豊後の人口が418千人であったことから勘案すると、鬼塚英昭氏が『天皇のロザリオ』という本で書いた50万人説は、豊後以外の人々が奴隷にされていたとしても多すぎると考える。
史料を読む人によってイメージする数字が異なるのだろうが、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の会話録の中で、彼らが世界各地で日本人奴隷を見て驚愕した記録や、インドのゴアにはポルトガル人よりも日本人奴隷のほうが多かったという記録があることなどからしても、数万人程度は海外に奴隷として送られたと考えてもおかしくはないだろう。

日本人奴隷は鎖につながれて数百人が奴隷船に積み込まれた記述がある。
秀吉の祐筆であった大村由己(おおむらゆうこ)が『九州御動座記』に、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯をまとめている。

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」

奴隷船

手足に鎖をつけて、数百人も船に積み込むのはアフリカの奴隷船と全く同じやり方だ。 アフリカで実際に使われた100tクラスの奴隷船は全長が約30mで414人の奴隷を乗せたという記録があるそうだが、船底の3~4段のスペースに身動きできない程ぎっしりと詰められた暗くて狭い空間で、何か月もろくな食事も水も与えられずに波に揺られて運ばれていたかと思うとぞっとする。

当時日本にいたキリスト教宣教師のトップであるイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョと秀吉のやりとりが、ルイス・フロイスの記録に残されている。

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「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)

秀吉が、奴隷を連れ戻すために必要な金を払うとまで言ったのに、コエリョは我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えて秀吉を激怒させ、『伴天連追放令』を出すこととなる流れだ。
前回の記事でも書いたように、コエリョ自身が署名した奴隷売買契約書も発見されている。コエリョはローマ教皇教書によって認められていた、異教徒を奴隷にする権利を行使していたことは間違いがない。

しかしながら、途中から日本での奴隷貿易を廃止させようと動いたこともまた事実である。
Wikipediaによると、「1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.A5.B4.E9.9A.B7.E3.81.AE.E8.B2.BF.E6.98.93

ここで、前回の記事を思い出してほしい。
ローマ教皇パウルス3世が異教徒を奴隷とすることを禁止する教書を出したのは1537年。しかし、それが翌1538年に教皇パウルス3世自身により撤回されて異教徒を奴隷にする権利が元どおりに復活しているのだ。
当時のローマ教皇はキリスト教世界の首長として絶大な影響力を持っており、その決定はヨーロッパのキリスト教国王に対しても拘束力があった。したがってローマ教皇の教書で異教徒の奴隷化を全面禁止としない限り、奴隷貿易がなくなるはずがなかったのだ。

上記のWikipediaの記事には秀吉が『伴天連追放令』を出した9年後の1596年(慶長元年)に、「長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している」ことが書かれているが、ガスパル・コエリョがそのような通達を早い段階から出していれば、日本のキリスト教の布教がその後も拡大した可能性はあったかもしれない。しかしながら、自らが奴隷貿易に関与していた男が、ローマ教皇の教書によって与えられた権利を捨ててまでしてそのような通達を出すことはなかっただろう。

日本の歴史の教科書にはほとんど何も書かれていないので、中学高校時代にはイエズス会の宣教師はキリスト教を広めるためにわざわざ日本にやってきたとしか考えなかったのだが、私がスペインやポルトガルにわが国を侵略する意図があったことを知ったのは数年前のことである。
この頃の日本は「戦国時代」で、どの大名も軍事力を大幅に増強していた時期であったことは幸運なことだった。だからこそわが国は、この時にスペインやポルトガルに征服されずに済んだのだと思う。最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で日本を占領することは無理だと報告している。

ザビエル

「…貴兄に、我らの国王と王妃とに、次の献言をして頂きたいためである。即ち此の御ニ方は、その良心を軽くせんがため、カスチリヤ(スペイン)の艦隊を、ノヴ・イスパニヤ経由で、*プラタレアス群島の探検のために、送らないようにと、皇帝やカスチリヤ国王達に知らせなければならないことである。何となれば、幾つの艦隊が行っても皆滅びてしまうからである。そのわけは、海底に沈没しなくても、その島々を占領するならば、日本民族は甚だ戦争好きで貪欲であるから、ノヴ・イスパニヤからくる船は、皆捕獲してしまうに違いないからである。他方日本は、食物の頗る不作の土地であるから、上陸しても皆飢え死にするであろう。その上、暴風が激しいので、船にとっては、味方の港にいない限り、助かるわけは一つもない。
…日本人は貪欲であるから、武器や品物を奪うために、外人のすべてを殺すであろう。…」
*プラタレアス群島:「銀の島」。日本はそう呼ばれていた。
(岩波文庫『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄(下)』p172-173)

同様のことを織田信長とも親交のあったイエズス会の東インド巡察師ヴァリヤーニも1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡に書いている。本能寺の変から半年後に次のような書簡が書かれたことに注目したい。当時のフィリピンはすでにスペインの植民地であり、スペインが次にどの国に向かうべきかがこの書簡の主題である。

ヴァリャーニ

「これら東洋における征服事業により、現在いろいろな地域において、陛下に対し、多くのそして多き門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところである。…それらの征服事業の内最大のものの一つは、閣下のすぐ近くのこのシナを征服することである。…
私は3年近く日本に滞在して、…霊魂の改宗に関しては、日本の布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言することが出来る。何故なら、国民は非常に高貴且有能にして、理性によく従うからである。尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.81-83)
と、まずシナから征服すべきであるとし、日本は武力征服が成功する見込みがないし国土が不毛でメリットがないということを書いているのだ。
イエズス会の巡察師というのはイエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師と理解すればよい。彼ら宣教師の目的が布教だけでなかったことは彼らの書簡を読めば明らかなことである。

また、フィリピンのマニラ司教のサラサールが1583年6月18日付でスペイン国王宛にシナに対する武力征服の正当性を主張した報告書が残されている。この報告書は当時のスペインの征服事業が、前回の記事で記したローマ教皇の教書に基づいたものであることを裏付けているし、日本をどうするかについても書かれている。
「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国に攻め入ることの出来る正当な理由になることを、陛下に知らせるためである。…
…もしも迅速に遠征を行うなら、シナ人がわれわれを待機し、われわれに対して備えをするのを待ってから事を起こすよりも、はるかに少数の軍勢でこと足りよう、という点である。そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くにいる日本人がシナ人の仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されると良い。
そしてこれが効果を上げるための最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」(同書p.85-88)

キリスト教の布教に協力しないということだけで宣戦布告できるというのは、前回の記事で書いたインカ帝国を滅ぼした手口と同様である。
これはローマ教皇アレキサンデル6世が1493年に出した『贈与大勅書』により、異教徒であることが認定されればすべての権利がスペインに帰属するという解釈により、「福音の宣布を妨害している」ことを口実にシナも攻め入ることができると進言しているのだ。

この2年後の1585年3月3日にイエズス会日本準管区長のコエリョは、フィリピンイエズス会の布教長に対し、日本への軍隊派遣を求め「もしも国王陛下の援助で日本66か国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層にシナを征服することができるであろう」と書いている。すなわちコエリョは、日本人をキリスト教に改宗させたうえで、その軍事力を使ってシナ征服にとりかかろうという考えであったのだ。

これらの書簡を読めば、キリスト教の布教は単に信者を増やすというレベルの問題ではなく、スペインが海外を征服していくための国家戦略に組み込まれていて、宣教師は世界征服のための先兵のようなものであったことが誰でもわかるだろう。

当時のわが国で、カトリックに本気で帰依したキリシタン大名はすでに何名もいた。彼らは秀吉の統制の外にいて、いずれスペインが明を征服し朝鮮半島から最短距離でわが国に向かったとすれば、キリシタン大名の銃口は秀吉に向かい国内は内乱状態になっていたはずだ。

彼らの意図を察知した秀吉の動きは早かった。コエリョが軍隊派遣した直後の5月4日に、秀吉は自らの明征服計画をコエリョに被瀝し、明でのキリスト教布教を認める代わりにポルトガルの軍船2隻を所望している。さらに秀吉は、天正19年(1591)にはゴアのインド副王とマニラのフィリピン総督に降伏勧告状をつきつけ、応じなければ明征服のついでに征服するから後悔するな、と恫喝している。
その秀吉のフィリピン総督宛ての書状には、「今や大明国を征せんと欲す。…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃せて伏(降伏)すべし。若し、匍匐膝行(ぐずぐすして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必せり。悔ゆる勿れ…」と書かれているという。

以前に私のブログで、秀吉の朝鮮出兵は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとしたと考える方がずっと自然ではないかと書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html

秀吉の朝鮮出兵【文禄の役(1592)、慶長の役(1597)】については教科書や通説ではロクな評価がなされていないのだが、以上のような歴史的背景を知らずして、その意義を正しく理解できるとは思えないのだ。

われわれが学校で学んできた歴史は、西洋にとって都合の良い内容を押し付けられてきたのではなかったか。西洋の世界侵略や奴隷貿易のことを知らずに日本史を理解しようとするために、戦国時代以降近現代の歴史理解が随分歪んだものになってはいないだろうか。

西尾幹二氏の著書で『GHQ焚書図書開封』というシリーズ本があり、すでに6巻まで刊行されている。

焚書図書開封

その第1巻の第1章には、第二次大戦後GHQが日本を占領していた時代に7769タイトルの単行本を全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構で輸送中のものも含めて没収し廃棄されたことが書かれている。幸い国会図書館の蔵書と個人が購入していた本までは没収されておらず、西尾氏が入手した本を解説しているのが上記のシリーズだ。
焚書処分された本の中には、国粋主義的なタイトルのものもあるが、西洋の侵略の歴史や奴隷貿易にかかわる研究書や学術書などがかなり含まれている事がわかる。
またGHQは、焚書とは別に、昭和20年9月からの占領期間中に新聞、雑誌、映画、放送内容をはじめ一切の刊行物から私信に至るまで、徹底した「検閲」を実施している。
次のURLに昭和21年11月25日付の占領軍の検閲指針の30項目が出ている。
http://www.tanken.com/kenetu.html

この検閲指針を読めば、東京裁判を批判したり、SCAP(連合国最高司令官=マッカーサー)が日本国憲法を起草したことを批判したり、米国、英国、ロシアや中国を批判したり、韓国人を批判することなどが禁止されていたことがわかる。
しかし終戦後67年目にもなるのに、これらの指針が今も活きているように錯覚してしまうことが少なからずあるのはなぜなのだろうか。
なぜマスコミは、東京裁判史観を否定する論拠となる史実を伝えようとせず、またアメリカや中国や韓国などに主権が侵害されていても充分な抗議をしようともしないのだろうか。

GHQに代わってこれらの検閲基準を今も守らせようとする勢力が国内外に存在して、大手のマスコミや出版界がその勢力とのトラブルを避けるために、未だに自主規制をしているということなのだろうか。
そんな自主規制のようなものが存在しないというのなら、少なくとも主権を侵害されているような事案に関して堂々と抗議してくれなければ、一体どこの国の会社なのかと問いたくなるところだ。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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