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廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか

子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。

その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年(1872)69県、明治6年(1873)60県、明治8年(1875)59県、明治9年(1876)35県と合併が進められていったのだが、今度は面積が大きすぎたために地域間対立が起きるなどの問題が出て明治22年(1889)に3府43県となって落ち着くことになる。県の数が大幅に減るとなると、新しく出来た県の名前をどうするかで揉めることになることは誰でもわかる。

府藩県制史

明治政府はどういう基準で新しい県の名前を決めたのかがちょっと気になったので、手がかりになりそうな本を『国立国会図書館デジタルコレクション』で探していると、昭和16年(1941)に出版された宮武外骨の『府藩県制史』という本が目にとまった。

この本に、廃藩置県が行われた際に明治政府はどういう考えで新しい府県名を決めたのかが記されている部分がある。いろいろ反論があるかも知れないが、結構面白いので紹介したい。

賞罰的県名 逆順表示の史実

トコトンヤレの勇士を出した忠勤藩
  錦の御旗に刃向かった朝敵藩
   洞ヶ峠の日和見であった曖昧藩
    葵の紋がついた親類筋の拱手藩

 昨冬『府藩県制史』編纂の資料整理中、図らずも天来的の痛快事に接した。イヤ痛快事と言うよりも、明治史上には逸すべからざる順逆表示の史実、永久不滅の賞罰的県名と見るべきことを知りえたのである。それは廃藩置県後たる明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名は、忠勤藩と朝敵藩とを区別するため、忠勤藩即ち皇政復古に勲功のあった大藩地方の県名には藩名をつけ、朝敵藩すなわち錦の御旗に刃向かった大藩、および早く帰順を表せず、日和見の曖昧な態度であった大藩地方の県名には藩名をつけず、郡名または山名川名などを県名としたということである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/55

では忠勤藩の事例を見ていこう。
「鹿児島藩のあった薩摩国に鹿児島県
 山口藩(萩藩移動)のあった長門国に山口県
 高知藩のあった土佐国に高知県
 佐賀藩のあった肥前国に佐賀県
 福岡藩のあった筑前国に福岡県
 鳥取藩のあった因幡国に鳥取県
 広島藩のあった安芸国に広島県
 岡山藩のあった備前国に岡山県
 秋田藩のあった羽後国に秋田県

 この忠勤9藩名の8県名は悉く明治4年11月2日より同月22日までの間に、廃藩置県の際における藩名に同じ県名をいったん廃止され、さらに同県名に復したのである。佐賀県だけは明治5年5月29日に旧伊万里県を改称した復県。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/56

次に朝敵藩、曖昧藩の事例を見ていこう。
曖昧藩 熊本藩の熊本県を肥後国小川名の白川県と改称、再置の熊本県は9年2月
 朝敵藩 松江藩の松江県を出雲国島根郡の島根県と改称、それが現存
 朝敵藩 姫路藩の姫路県を播磨国飾東郡の飾磨県と改称、9年8月兵庫県に合併
 朝敵藩 松山藩の松山県を伊予国高山名の石鐵(いしづち)県と改称、6年2月愛媛県と改称
 曖昧藩 宇和島藩の宇和島県を伊予国神南山の神山県と改称、石鐵県と合せ愛媛県
 朝敵藩 高松藩の高松県を讃岐国香川郡の香川県と改称、再三廃合復県、現存
 曖昧藩 徳島藩の徳島県を阿波国名東軍の名東県と改称、再置の徳島県は13年3月
 朝敵藩 桑名藩の桑名県と曖昧藩津藩の津県を廃して三重郡四日市の三重県
 徳川家 名古屋藩の名古屋県を尾張国愛知郡の愛知県と改称、それが現存
 徳川家 水戸藩の水戸県を常陸国茨城郡の茨城県と改称、それが現存
 曖昧藩 金沢藩の金沢県を加賀国石川郡の石川県と改称、それが現存
 同分家 富山藩の富山県を越中国新川郡の新川県と改称、再置の富山県は16年5月
 朝敵藩 小田原藩の小田原権を相模国足柄郡の足柄県と改称、9年4月廃止、神奈川県
 朝敵藩 川越藩の川越県を武蔵国入間郡の入間県と改称、6年6月廃止、熊谷県
 曖昧藩 岩槻藩の岩槻県を武蔵国埼玉郡の埼玉県と改称、それが現存
 朝敵藩 佐倉藩の佐倉県を下総国印旛郡の印旛県と改称、6年6月廃止、千葉県
 曖昧藩 土浦藩の土浦県を常陸国新治郡の新治県と改称、8年5月廃止、茨城県
 朝敵藩 松本藩の松本県を信濃国筑摩郡の筑摩県と改称、9年8月廃止、長野県
 朝敵藩 高崎藩の高崎県を上野国群馬郡の群馬県と改称、それが現存
 朝敵藩 仙台藩の仙台県を陸前国宮城郡の宮城県と改称、それが現存
 朝敵藩 盛岡藩の盛岡県を陸中国岩手郡の岩手県と改称、それが現存
 朝敵藩 米沢藩の米沢県を羽前国置賜郡の置賜県と改称、9年8月山形県に合併
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/57

宮武外骨
宮武外骨

宮武外骨によると、明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名については、朝敵藩や曖昧藩においては一つの例外もなく、藩の名を県名にしていないというのである。

宮武はこの話を思い付きで記しているのではなく、渡邊修という老人から聴いた話と記しているのだが、この老人は明治時代の半ば頃に大蔵省預金局長、千葉県知事等を歴任した兵頭正懿という人物の話で知ったという。

実際にそのような賞罰的な考え方で府県名が決められた可能性が高いような気がするが、誰の発案でこのような考え方が決定したかについては、宮武は、当時は大蔵省が府県監督の専任であり、大蔵大輔であった井上薫の案を大蔵卿の大久保利通が賛同したのであろうと推定している。

では、なぜこのような考えで廃藩置県に臨んだことを明治政府が公表しなかったのだろうか。
その点について宮武はこう記しているが、文中の三条実美の発言がどの記録に残されているかについては言及していない。
「それは明治政府の態度を察するに、各藩に対し極めて寛大の処置を執り罰すべき罪をも赦した事実が多くあり、只管(ひたすら)旧藩臣の緩和を計った上より見て『士族の反感を買うような賞罰的県名は良くない、かつまた宏量たるべき政府としてはアマリにコセツイタ案である。既に発表した県名、今更取り消して改称するにも及ばない、命名の理由など知らさず、黙っていろ』という温厚な三条太政大臣の意見があった結果、秘して世間に伝えしめなかったのであろう」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/59

司馬遼太郎
【司馬遼太郎】

以前このブログで、県名と県庁所在地の関係について司馬遼太郎が『街道を行く(3)』で書いていることを紹介したことがある。
明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である

薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。
これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。
戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-91.html

この記事では、「この説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に『府藩県政史』という本で書いたものらしい」と書いたのだが、今回『府藩県政史』を実際に読んでみると、宮武は県庁所在地については触れていない

司馬は「藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である」と書いているが、富山県、徳島県、和歌山県、静岡県のような例外もある。その点宮武は、「明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名」と限定したうえで、県名に藩名を用いたのは官軍側だと指摘しているのだが、確かにその時期の廃藩置県については正しい指摘であるように思う。

前回の記事で明治9年(1876)の9月に鳥取県が島根県に併合されたことを書いた。
明治4年(1871)7月の廃藩置県において宮武外骨は、徳川との親戚関係でありながら戊辰戦争を官軍方で転戦した鳥取県を忠勤藩に分類し、隣の島根県は朝敵藩であったがゆえに県名が藩名から変えられたとしているのだが、忠勤藩であった鳥取県がなぜ朝敵藩の島根県に併合され県庁が松江市とされたのかについては何も書いていない。

不平士族のための県庁変更

ところが、『府藩県政史』を読み進んでいくと、廃藩置県の際に明治政府が送り込んだ役人が、士族たちから強い抵抗を受けたという話が各地で起こっていたことがわかる。
例えば、埼玉県について宮武はこう記している。

廃藩置県 埼玉

「太政官は忍(おし)藩の忍県、岩槻藩の岩槻県、川越藩の川越県と従来の浦和県を合わせて一県とし、県庁を埼玉郡岩槻町に置くことにして郡名を採った埼玉県と称したのである。しかるに役人どもが此処へ来て威張られてはタマラナイ。県庁をこの岩槻町へ置かさせない事にせねばならぬと決議し、仮庁舎とするはずの香林寺住職を威嚇して、寺を県庁に貸させぬことにした。一方埼玉県知事野村盛秀は、強いて岩槻に行けば士族たちに暗殺されるかもしれない。イッソ此処に居るのが安全と決定して、旧浦和県庁の所在地たる足立郡浦和鹿島台に居座ることになったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

三つの藩が合併して埼玉県が誕生したのは明治4年(1871)の事だが、同様なことが同じ年に印旛県でも起きたという。

廃藩置県 石川 富山

また、石川県、新川県(富山)の事例も紹介しておこう。
不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドク悩まされた。金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町内に置くはずであったが、不平士族が険悪の態度であったがため、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた。後に金沢の士族どもが緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。

富山藩の富山県を改めて郡名の新川県としたのであるが、この富山も金沢同様、旧藩の士族どもが威張っていてそれを避けるため、県庁を富山へ置かず、同郡の魚津という海岸へ置いた。これも富山の士族が、魚津のような所では不便で困ると言って、県庁の移転を要求することになったので、後に富山へ帰ったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

中には不平士族に暗殺された県令もいる。
熊本県は明治4年(1871)に白川県と改められ、その後明治6年(1873)に八代県と合併し、明治9年(1876)に再び熊本県に改名されているが、その年に熊本県令の安岡良亮は不平士族の連中に傷つけられて死亡している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/88

このような記録を読むと、廃藩置県の実施にあたり各地で反対運動が起こっていて、明治政府は不平士族による抵抗活動の激しい県については、不平士族の多い旧藩都を避けて比較的安全な場所に県庁を置くことにしたり、あるいは相手が怒るようなことを敢えて強行して、相手から変更を願い出るのを待つという戦略で臨んでいたという可能性が高そうだ。司馬遼太郎が石川県の事例で書いていた、加賀藩が日和見であったためにその懲罰として田舎の地に県庁を置いて県名としたという説はおそらく誤りで、不平士族が多くて藩都に県庁を置けなかったと理解するのが正しいのではないか。

高校の一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には、「廃藩置県のような大改革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はなかったのである」(p.219)などと書かれているのだが、誰でもこんな文章を読めば、廃藩置県について各地で旧藩士の強い抵抗があったことは思いもよらない。

鳥取城石垣

前回の記事で明治9年(1876)に旧藩時代に大藩であった鳥取県が島根県に併合されたことを書いた。政治力・経済力でも人口でも鳥取県の方が格上であり、戊辰戦争において政府に対して忠勤を尽くした鳥取県がなぜ島根県に飲み込まれることになったのか。その理由を考えると鳥取市中心に活動していた不平士族(共斃社)の過激な活動にたどり着くことになる。

明治政府は、過激な活動を続ける共斃社の活動拠点である鳥取市を避け、彼らの活動を抑える目的もあってわざと鳥取県を格下の島根県に併合させて県庁を松江市に置き、明治11年(1878)には鳥取城を破壊して不平士族たちがここで籠城することを不可能にしたうえで、衰退していく鳥取の立て直しについて人々が自ら考えて行動するまで待つという姿勢で臨もうとしたのではなかったか。

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【ご参考】
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期は多くの問題を抱えていました。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-460.html


関連記事

大久保利通を暗殺した石川県の不平士族らは何を求めていたのか

明治9年(1876)の第2次府県統合の後の地図を眺めていると、石川県、島根県、高知県、愛媛県、長崎県、鹿児島県など不自然に大きな県が存在し、また奈良県がなく現在の大阪府南部と奈良県を領有した堺県があったことなどいろいろなことがわかる。

明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)
【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】

これらの県では、のちに分県運動が立ち上がり、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が復活を果たすのであるが、1つの県が大きく3つの県に分かれた事例が1つだけある。それが石川県である。

廃藩置県 石川 富山福井

石川県廃藩置県は複雑で、Wikipediaには、以下のように解説されている。
「1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命された。しかし、1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が行われ、金沢藩域は金沢県(第1次)、大聖寺(だいしょうじ)藩域は大聖寺県となった。同年11月20日に両県を廃止し、旧・金沢県より射水(いみず)郡以外の越中国新川郡、婦負(ねい)郡、礪波(となみ)郡を分けて新川県(当時は新川郡魚津が県庁所在地)を設置、能登国と越中国射水郡に七尾(ななお)県を、加賀地方に金沢県(第2次)を置いた。明けて1872年(明治5年)2月2日、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市美川南町)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し、石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。なお、金沢市も市制施行前は石川郡に属していた。同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓18か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し、翌1873年(明治6年)に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。その後、1876年(明治9年)、当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県にほぼ相当)の嶺北(れいほく)*地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年(明治14年)に福井県が、1883年(明治16年)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域となる。」
*嶺北:福井県の木ノ芽峠以北の呼称。令制国の越前国にほぼ相当する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C

なぜ明治政府はこの県について何度も県域や名前を変え、県庁の所在地を田舎に移し、県名も「石川県」というローカル色の強い名前にしたのだろうか。その理由を考えていくと、石川は金沢を中心に不平士族の勢力が強かったために、明治政府が彼らの影響力を弱めようとして実行したとしか考えられないのである。

金沢城
【金沢城】

江戸時代の加賀藩は「加賀百万石」と称され、前田家は外様大名でありながら御三家に準ずる待遇を受けてきたのだが、大政奉還時は徳川慶喜を支持し慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは幕府方として出兵している。ところが、途中で幕府軍敗走の情報が入り、加賀藩は兵を呼び戻して、以後朝廷方に尽くすことを表明したという。
4月になって加賀藩にも出兵命令が下り、彼らは官軍として長岡城攻撃など、新潟県、山形県など各地を転戦した。この戦いで加賀藩は7千人を超える兵を動員し、280人もの死傷者を出している。戦後になって明治政府が加賀藩主に対し1万5千石の戦功賞典を与えている事実はあるが、政府にとっては彼らが戊辰戦争でどのような戦果を挙げようとも、29千人もいた加賀藩の士族の勢力を弱めることの方が重要であったようだ。

前回まで鳥取藩の事を書いたが、同藩の場合は戊辰戦争で当初から官軍につき、政府は戦後3万石の戦功賞典を藩主の池田慶徳に与えている。にもかかわらず9千人いた鳥取藩の士族はひどい目に遭ったことは何度かこのブログで書いてきたので繰り返さない。
官軍方についた鳥取藩ですら餓死者が出たほどなのだから他の藩も推して知るべしで、士族の人数が多かった大藩では明治政府に対する不満が強かったところが少なくない。

当時の藩別の人口や士族の人口は早稲田大学の大隈重信関係資料『府藩県石高人員表』に出ていて、Wikipediaに他の資料とともにまとめられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E8%97%A9%E7%9C%8C%E4%B8%89%E6%B2%BB%E5%88%B6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
この表を見ると、明治10年(1877)に西南戦争の起こった薩摩藩の士族人口は245千人で最も多く、次いで多いのが熊本藩の99千人で明治9年(1876)にこの藩で神風連の乱が起きている。続いて士族人口が多いのは、静岡藩(67千人)、高知藩(31千人)、仙台藩(29千人)、金沢藩(29千人)の順番となるのだが、大量の幕臣が移住した静岡藩を除くと金沢藩は5番目に士族が多かった県ということになる。

前回記事で紹介させていただいた宮武外骨の文章を再び引用させていただく。
不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドク悩まされた。金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町内に置くはずであったが、不平士族が険悪の態度であったがため、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた。後に金沢の士族どもが緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

この頃の石川県の不平士族がどのような動きをしていたか、『石川県史. 第4編』に詳しく記されているので引用させていただく。

金沢藩治の施かれし後、幾(いくば)くもなく壮年の志士等、当局の為す所を快とせざるものあり。杉村寛正・坪内金吾・陸義猶・長谷川準也等は即ちこの徒にして、安井顕比・内藤誠に対して厳しく論難攻撃し、遂に坪内金吾は抜刀して顕比を脅迫せしことあり。内藤誠もまた東京において、或る者のために鉄棒を以て頭部を乱撃せられしことありき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/139

島田一良
【島田一良】

このように、藩の統治に携わる者は、不平士族からいつ命を奪われてもおかしくないような危険に晒されていたのだが、『石川県史. 第4編』を読み進んでいくと、内藤誠を鉄棒で頭を殴った「或る者」とは、島田一良という人物であったことがわかる。島田一良は明治11年(1878)に大久保利通を東京紀尾井坂で暗殺したグループのリーダーとなった男である。

島田は嘉永元年(1848)に加賀藩の足軽の子として生まれ、戊辰戦争の活躍が認められて以降、軍人として順調に昇進していったのだが、征韓論に端を発した明治6年(1873)政変で西郷隆盛以下大量の軍人・官僚が職を辞した際に、西郷を強く支持していた島田は故郷に戻って国事に奔走する道を選択し、後に金沢の三光寺を拠点にして政治結社・「三光寺派」を結成している。

明治10年(1877)に西南戦争が起こり、島田は西郷らに呼応して挙兵しようと動き出したのだが、1200名の社員を擁する政治結社「忠告社」は戦況を傍観する態度で動かなかった。島田はそれでもこの機に挙兵を行おうと躍起になったのだが、『石川県史. 第4編』に島田らが挙兵にこだわった理由と彼の戦略が記されている。

「彼らは言う。加賀藩が海内列候の首班に居りながら、維新の鴻業に際して何らの功績を立つる能わず。その進退の優柔なりしこと婦女子に類するものありしを以て、今や満天下の軽侮する所となり、常に人後に鞺若たるに至れるは、到底吾人の堪うる能わざる所なり。然るに今幸いにして西郷隆盛の兵を挙げたるあり。吾人須らく精神あり気魄ある志士を募り、金沢の天地に兵火を挙げ、天下をして金沢にもまた人あることを知らしめ、過去の汚辱を一洗することを要す。而してその目的を貫徹するの手段としては、先ず石川県庁を襲い、その金庫を奪いて軍用金に供し、金沢営所の兵士が既に出征して、留守部隊の僅少なるに乗じ、火を放ちて兵器弾薬をかすめ、直に長駆して京師に上り、鳳輦を大本営に擁して、薩南の健児と官軍を挟撃せば、南海の志士また饗応すべく、必ず成功せんこと萬の一の疑いを容れず。この如くにして相倚り相助けて天下の事に当たらば、明治第二維新の政治これによりなすべく…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/165

島田にとっては、御三家に準ずる待遇を受けてきた誇り高き加賀藩が、日和見藩として世間から軽んじられている現状に我慢が出来ず、政府軍が九州に出征して軍備が手薄となるタイミングで兵を挙げて現政権を倒し、生まれ変わった政府で枢要なる地位を占めることによって加賀藩の汚辱を洗い流すことを真面目に考えていたのである。しかしながら、石川藩士族の最大勢力である忠告社の説得に時間がかかりすぎて、挙兵のタイミングを完全に失してしまう。

歌川房種『六凶集合之図』

島田はそれ以降、要人の暗殺に方針を転換することとなる。島田は当初木戸孝允と大久保利通に狙いを定めていたのだが、しばらくして木戸孝允が病死したため、島田の標的は大久保利通一人に絞られた
彼らは、毎月4・9のつく日に参議らが参朝することを確認し、大久保が参朝する日は自宅を午前8時に出発し、いつも紀尾井町を馬車で通過することを確認していたという。かくして明治11年(1878)5月14日を決行日とすることが決定した。
この日に集まったのは、石川県士族5名(島田一良、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一)と島根県士族*の浅井寿篤であった。
*島根県士族:当時は鳥取県が島根県に併合されていた時代で、浅井の出身は鳥取藩である。

大久保利通
大久保利通

『石川県史. 第4編』に当日の場面がこう描かれている。
「5月14日払暁、同志悉く島田一良の旅宿に集合し、午前7時30分ここを出でたるが、一良は長連豪(ちょう つらひで)とともにその首謀たるをもって、最も途上の状況に注目するところあり。8時紀尾井町の清水谷に至りしに、あたかも大久保利通が霞ヶ関の邸を出で、二頭立の馬車に乗じて赤坂の皇居に至らんとするに会せり。連豪すなわち直ちに突進して馬脚を斬りしも、馬は尚疾行せしを以て、杉本乙菊はまた他の馬脚を斬れり。時に利通は車内にありて書類を閲したりしが、兇徒のために襲撃せられたるを知り、大声『待て』と叱咤し、徐(おもむろ)にその書類を袱紗(ふくさ)に包まんとせり。ここに於いて一良は車窓を開きて利通の手を捉え、胸部と咽喉を刺すことこと三たび、同志また集まり来たり、車上より利通を引下して之を殺し、鞭を挙げて抵抗したる馭者中村太郎もまた脇田巧一の為に斬られてその主に殉ぜり。一良等既に素志を達したるを以て、刀を路傍の草間に棄て、馳せて宮門に赴き、警衛の兵士に就きて自首す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/627

斬奸状

刺客の島田一良はこの日の為に斬奸状を用意していた。この全文は『石川県史. 第4編』で読むことができる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/628

長い文章なのでポイントだけ書くと、彼らにとって大久保には5つの罪があるという。
 その一、公議を途絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する
(国会や選挙を行うことなく、民権を抑圧し政治を私物化している。)
 その二、法令漫施、請託公行、恣に威福を張る
(法令の朝令暮改が激しく、官吏の登用に情実が使われ、私腹を肥やしている。)
 その三、不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費す
(不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。)
 その四、慷慨忠節の士を疏斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成す
(忠義ある志士を排斥し、憂国の士を疑い、内乱を引き起こした。)
 その五、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜す
(外交政策の誤りにより、国威を貶めている。)

その二で、大久保が公金を私財の肥やしにしたとの指摘があるが、その点については事実と異なると思われる。実際の大久保は金銭に対して潔白な政治家で、公共事業などに私財を投じていたために死後は8千円もの借金が残っていたという。

民選議院設立建白書

とは言いながら、彼らの主張に理がないわけではなかった。
五箇条の御誓文では「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フべシ」と宣言していたにもかかわらず国会開設の動きは一向に進まず、また明治7年(1874)には板垣退助や後藤象二郎らが民選議院設立建白書を提出した動きに対し、明治政府は新聞紙条例や讒謗律(ざんぼうりつ)を制定して、反政府の言論活動の取締り強化を図るばかりであった。

斬奸状にはこう記されている。
「…政治を改正し、国家を興起するのことは、すなわち天皇陛下の聖明と、闔国人衆(こうこくじんしゅう)*の公議に在り。願わくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨**により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を興し、公議を取り、皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷、以て貫徹するを得、死して而して瞑す。」
*闔国人衆:全国の人々の意。
**八年四月の詔旨:五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した詔書(立憲政体の詔書)。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/630

彼らがとった手段は感心できないが、この文章を読むと彼らが最終の目的としていたのは国会の開設であったことは明らかである。

明治の三傑

維新の三傑と呼ばれた木戸孝允(長州出身)、西郷隆盛(薩摩出身)、大久保利通(薩摩出身)の3人の最高指導者が短い間に相次いで世を去ったのだが、それまでは「薩長」藩閥とは言いながら圧倒的に「薩摩」が強かった。しかしながら、西郷と大久保を失ったあとは伊藤博文(長州出身)、山形有朋(長州出身)や井上薫(長州出身)が台頭するようになり、「薩長」の勢力関係が逆転することとなる。

伊藤、山形、井上

また大久保暗殺事件(紀尾井坂の変)の影響の中でさらに重要な点は、この事件以降自由民権運動が強まっていったことにある。西南戦争によって武力で明治政府をと対抗しても勝つことが叶わないことがわかり、以後は言論で合法的に戦う以外に行くべき道がなくなったということであろう。

自由民権運動

この事件の4か月後の9月に大阪で開かれた愛国社再興会議で石川、愛知、和歌山、愛媛、香川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県から13社の代表が大阪に集まり、翌明治12年11月の愛国社第3回大会で国会開設実現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決定され、明治13年(1880年)3月第4回大会では、2府22県から愛国社系以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まった。
明治政府は集会条例を制定するなど民権派の急進的な活動を取り締まる一方で、政府の主導による立憲政治の実現に取りかかることになるのである。

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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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