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『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3

前回の記事で中国の正史である『旧唐書』に「倭国」と「日本国」とは別の国として書かれていることを紹介した。

そこには「倭国」は昔の倭の奴国であり、代々中国に使節を送っていた国であることが明記されている。
後漢書』には倭奴国が使節を派遣した際に光武帝が金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されている。『隋書』には阿蘇山のことが書かれている。普通に考えれば、「倭国」は九州にあったと考えるしかない。
そして『旧唐書』には、「日本國者倭國之別種也」と書かれており、「倭国」と「日本国」とは別の国であると当時の中国人は判断したのだ。

中国と古来通交のあった倭国日本国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日本国を併合して新しい国名を「日本国」としたのか、諸説があって当たり前なのだが、わが国の古代史学界では4世紀中ごろには天皇家を中心とする勢力によりわが国は統一されていたことが通説になっている。この通説の根拠は『日本書紀』を重視しているところにあるのだが、この説は明らかに中国の正史と矛盾している。

要するにわが国の大半の古代史学者は、4世紀中ごろに統一されたとする通説と矛盾する資料に、長い間目を塞ぎ続けているのである。
日本書紀

しかし、わが国の古代史学者が重視している『日本書紀』のなかに、わが国が統一国家でなかった事の重要なヒントがあるという、目からウロコの落ちるような論文がある。
このブログの読者の方から教えて頂いたのだが、1988年に中小路駿逸氏(元追手門学院大学教授)が書かれた「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文がそれである。
次のURLでその全文を読むことが出来る。
http://5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html

この論文は、『日本書紀』が編纂された頃の我が国は統一国家でなかった事を鮮やかに証明しているのだが、なぜかわが国の古代史学者からはほとんど無視されているようなのだ。
この論文の一部を引用しながら、この論文の内容を紹介することにしたい。

まず、『日本書紀』に次いで編纂された『続日本紀』には「書」という文字が使われていないという点に中小路氏は注目して、『日本書紀』の書名を決定する際に参考にしたであろう中国の歴史書のうち、「書」という字を国の名前のあとに付けた歴史書は、どのような歴史書であったかを検討するところから論旨が展開されていく。
中国の歴史書を年代順に並べると、『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国志(『魏書』『蜀書』『呉書』からなる)』、『晋書』、『宋書』、『南宋書』、『梁書』、『魏書(北魏書)』、『北斉書』、『周書(北周書または後周書)』、『隋書』、『南史』、『北史』となるのだそうだが、「書」という字で終わるものばかりではないのだ。

しばらく、中小路氏の文章を引用しながら説明する。
「すなわち、その書名に『史』を有する史書とは、複数の王朝についてその継起順に、本紀をまず掲げ、ついで列伝をつらねた体裁の史書なのである。
 では『志』のいた史書とは何か。
 …同時期に鼎立した三つの王朝のそれぞれについて紀伝体で叙述した三つの書を並列した体裁の史書である。つまり、たがいに並立した複数の王朝のなかの一王朝ごとに叙述した紀伝体史書を、全部並べて収めたのが『志』なのである。」(p.5-6)

次にいよいよ、「書」を有した史書の解説に入る。
「かくして、つまるところ、『なになに書』という史書は、何か。
 継起し、ときには並立しつつ興亡・交替した複数の王朝のうちの一つについて叙述した紀伝体史書。これが『なになに書』なのである。
 言いかえると、『書』に国号を冠した史書は、そこに冠せられた国以外に、継起、あるいは並立しつつ興亡した別の国が存在したことを、前提とし、ないしは指示しつつ書かれているのである。」(p.6)

そして、こう述べている。
「かれ、あるいはかれらは、問題の『書』の字の意味を、前例により知っていた。ゆえに『書』の字を入れたのである。
言いかえると、かれ、あるいはかれらは、この列島上にかれらの属する王朝以外に、それに先住し、または並立した、一つ以上の王朝があったことを知っており、その事実を知ったうえで、ただ、かれらの属する一王朝のみについて、その歴史を叙述した。すなわちこの書物の書名の『書』の字は、八世紀の天皇家の王朝とは別の、それに先住し、もしくは並立した1つ以上の王朝の存在を、前提とし、かつ指示しているのである。」(p.7-8)

さらに中小路氏は、『日本書紀』にも『古事記』にも古来わが国は一つの王朝であったとはどこにも書かれていないと述べている。これは重要な指摘である。
神武天皇
天照大神の孫にあたる人物の子孫である神武天皇が「東征」して、大和に来てそこで即位して初代王となったことが『日本書紀』に記されているが、「東征」の出発地である九州を統治していたとは書かれておらず、「東征」して大和に至った段階ではじめて「治」の字が用いられていることを指摘され、こう推理している。

こういうことが起こり得るのは、昔の王の“傍流の子孫”、すなわち代々の王位を受け継がなかった子孫のひとりが、本流とは別の一王権を、あらたに樹立したこと以外の何であろう。
 すなわち『紀』の本文は“わが朝”は古き九州の初代王の“傍流の子孫のひとり”を初代王としてはじまったのだ」と、明白に告げているのである。『古事記』の記載するところも、これと別段矛盾しない


このように受け取れば、自動的に、この列島上には九州の本流と、大和にできたそれの分流と、すくなくともこの2つの王権が――それら両者の関係が、ただの“並立”であるか、一方が他方に“統属”したかたちか、そのいずれでもないかたちのものであったかはともかく――存在していたとしるされているのだと、認めざるをえなくなること、必然である。」(p.11)

そう述べたあと、中小路氏は従来の日本古代史学会の研究手法を厳しく批判している。

「…従来の日本古代史に対する人々の思考の手順は、どうやら、おおむね次のようなものであったらしいのである。
まず、歴史について、特定の骨組みを、権威あり、かつ自明して不動のものとして据え、これを思考の前提とする。
その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する

そうやって、前提に合う範囲内で何らかの答えを出す。この場合史料の処理のしかたが研究者によって異なるから、随所に複数の答えが生じ、日本古代史は謎だらけのありさまとなり、そして、そうなった原因は、史料自体の不備に帰せしめられる。
そして、例の不動の前提の“本来の根拠”については、一切これを問わない。」(p.15)

このようなスタンスは、ある人に言わせれば、カルトのようなものである。これでは、戦前から続く古代史観が抜本的に変わることはあり得ず、いつまでたっても真実に到達することはできないだろう。

では、わが国が統一されたのは、本当はいつ頃なのだろうか。
わが国は『日本書紀』以降漢文体の正史が次々と書かれた。
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を『六国史』と呼ぶのだが、この書名の中に『書』の字があるのは『日本書紀』だけである
続日本紀
また『日本書紀』神代から持統朝までが書かれており、『続日本紀』は文武朝から書かれているのだが、『日本書紀』が奏上されたのは文武天皇の次の元明天皇のさらに次の元正天皇の養老4年(720)である。
なぜ『日本書紀』は前代の元明朝末までが記されず、持統朝で筆を止められたのか
初期天皇系図
中小路氏はその理由を、こう記している。

持統朝から文武朝への受け渡しには、わが朝の歴史を二分するほどの、何か、重大な意味を持つ変化が伴っていたからだ。…
そして、その“変化”とは、以後の史書には書名に『書』の字を用いる理由をなくさせる性質のものなのであった


端的に言おう。
持統朝の末期にあたる時期において、それまで列島上の一地方王権であった大和の王権が、九州まで ――― そしておそらく間もおかず、東国まで ――― 統一的支配下におく、列島上唯一の代表的王権としての実態をそなえるにいたっていた。そして、…この王権は列島上に唯一の、卓越した王権としての名と形式とを具備するにいたった。…」(p.17)

なるほど、持統朝以前は大和朝廷以外に別の王朝があったと考えれば『古事記』にも『日本書紀』にも中国の正史にも矛盾することはないのである。「4世紀の後半までに大和朝廷により全国が統一された」とは記紀にはどこにも書かれていない事であり、後世の人間が勝手にそう考えただけのことなのだ。

中小路氏の論文を読んで、初めて知ったことがいくつかあるのだが、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることもその一つである。
蘇我馬子が修行者を探し、播磨国に僧で還俗した恵便(えべん)という人物を仏法の師とし、仏教に帰依して仏殿をつくったことが、『日本書紀』に明記されているのだ。
播磨は今の兵庫県の南西部にあたる地域を指すが、『日本書紀』のこの記述は、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味している。

ネットでいろいろ調べていると、貞和4年(1348年)頃に成立した『峯相記』という書物に、兵庫県姫路市西北部の峰相山にかつて存在した「鶏足寺」という寺のことが書かれているという。
『峯相記』によると「鶏足寺」は神功皇后が三韓征伐の際に連れてきた新羅の王子が草庵を建立したのが当寺の始まりで、その王子は敏達天皇10年(581)に没したと書かれているそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%B6%B3%E5%AF%BA_(%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%B8%82
この記録から「鶏足寺」は日本最古の寺院と呼ばれているようだが、この「鶏足寺」が存在していたのが播磨の国なのである。
鶴林寺
そういえば播磨地域には古刹が多い。さきほど『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があると書いたが、蘇我馬子が仏法の師としたという恵便(えべん)法師の名が、加古川市にある鶴林寺(かくりんじ)の歴史にも出てくるのには驚いた。聖徳太子も恵便法師に教えを乞うたことが、鶴林寺のホームページにも書かれている。
http://www.kakurinji.or.jp/mainpage/top-kakurinji.htm
また揖保郡太子町には推古天皇14年に聖徳太子が建立した斑鳩寺(いかるがでら)がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%91%E9%B3%A9%E5%AF%BA_(%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AD%90%E7%94%BA)

ほかにも姫路市に随願寺(ずいがんじ)という寺があり、聖徳太子が高麗僧の慧便(えべん)に命じて開基した増位寺がその前身なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E9%A1%98%E5%AF%BA

聖徳太子
なぜ奈良から随分遠い播磨の地に、聖徳太子ゆかりの寺が多いのか長い間不思議に思っていたのだが、中小路氏の論文を読んですっきりした。
6世紀後半の敏達天皇の頃は、『日本書紀』に記述されている時代だ。
その頃わが国はまだ播磨国を領有しておらず、播磨国は独立した国であり仏教の先進国でもあったと解釈するのが正しい理解ということになるのではないか。
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仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4

前回の記事で、『日本書紀』の「書」という文字は、日本列島の中に「日本国」とは別の有力な国家が存在していたことを意味しているという中小路駿逸氏の論文を紹介した。この論文を読むと、「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」という日本史の常識に、誰しも大きな疑問を持つことになるだろう。

前回記事の最後に、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いたが、学生時代には「仏教伝来」は「538(ご参拝)」と年代を覚え、552年という説もあることを学んだ記憶がある。
584年説は中小路論文を読んで初めて知ったのだが、一体どの説が正しいのだろうか。

たとえば『もういちど読む山川の日本史』には、こう解説されている。
「百済の聖明王からの公式の仏教伝来の年代については、壬申年=552年と戊午年=538年の二説がある。」前者は『日本書紀』の説だが、その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっていることなどにより、信頼性が少ないといわれる。これに対し後者は、元興寺(飛鳥寺の後身)の由来を書いた『元興寺縁起』や聖徳太子の伝説『上宮聖法王帝説』が説くところで、これらの記事は『日本書紀』よりも古い史料にもとづいて書かれていると考えられ、当時の朝鮮半島の政治情勢からみても不自然ではないので、現在は538年の方が有力である。」(『もういちど読む山川の日本史』p.22)

いちおうもっともらしく書かれているが、古代史学は都合次第で『日本書紀』を重視したり軽視したりするところが面白い。
552年説、538年説、584年説は、どのような記録を根拠にしているのか、少し興味を覚えたので調べることにした。
日本書紀巻第19

まず552年説は『日本書紀』巻第十九欽明天皇13年(552)にこう書かれている。
「冬十月、聖明王は西部姫氏達卒怒唎斯致契(せいほいきしたつそつぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋(はたきぬがさ)若干・經論(きょうろん)若干卷をたてまつった。別に上表し、仏を広く礼拝する功徳をのべて『この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公・孔子もなお、知り給うことができないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を成し、譬(たと)えば人が随意宝珠(物事がおもうままになる宝珠)を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです。遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明(やつがれめい)は、つつしんで侍臣の怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣わして朝(みかど)に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです』といった。
この日天皇はこれを聞き給わって、欣喜雀躍され、使者に詔して『自分は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。けれども自分一人で決定しない。』といわれた。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.35-36)
蘇我氏系図

欽明天皇は蘇我稲目と物部尾輿、中臣鎌子に意見を聞き、物部尾輿と中臣鎌子は「仏を参拝すると国の神の怒りを受けることになる」と反対したが、蘇我稲目だけが賛成したという。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像などを授けて礼拝させることにしたのだが、後に国に疫病が流行し多くの死者が出た。物部尾輿、中臣鎌子はその原因は蘇我稲目が仏教を信奉したことにあるとし、天皇に仏像を捨てるべきであることを奏上し天皇もそれを認めたので、その仏像は難波の堀江に流し捨てられたことが『日本書紀』に明記されている

山川日本史によると、この『日本書紀』の記録については、「その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっている」ことを根拠に、この記録の信頼性が少ないと考えるのが定説となっているのだそうだ。

多数説とされているのは538年説なのだが、この説は『日本書紀』よりもあとに成立した『元興寺伽藍縁起』、『上宮聖徳法王帝説』の記録に基づくものだという。
そこにはこう書かれている。

大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度(わた)り来たるより創(はじ)まれり。(『元興寺伽藍縁起』:下記URLに現代語訳あり)
http://www.ookuninushiden.com/newpage24.html

志癸嶋(しきしま)天皇の御世戊午年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教并びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむる也。(『上宮聖徳法王帝説』)
http://www2.shiba.ac.jp/~shakaika/newpage4.htm

上宮聖徳法王帝説

「斯帰嶋」あるいは「志癸嶋」は欽明天皇が宮を置いた場所とされ、「天国案春岐広庭天皇」あるいは「志癸嶋天皇」は欽明天皇のことだと理解されているのだが、538年というのは宣化天皇三年であり、欽明天皇の御代ではないことがなぜ無視されるのだろうか。
欽明天皇の即位は540年で571年に崩御されたのだが、在位されている間に戊午の年は存在しない。538年説はどう考えても説得力が乏しいのだが、古代史学界ではこの説が多数説だという。

では、584年説についてはどのような記録があるのか。
『日本書紀』巻二十敏達天皇十三年の記録にこう書かれている。

「秋九月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩の石像一体をもたらした。佐伯連(さえきのむらじ)も仏像一体をもってきた。
この年、蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)は、その仏像二体を請いうけ、鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)と池邊直氷田(いけべのあたいひた)を四方に遣わして、修行者を探させた。播磨国(はりまのくに)に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした。司馬達等の女、嶋を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)といった。…善信尼の弟子2名も出家させた

馬子宿禰・池辺氷田・司馬達人たちは仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.67-68)

最後のところは原文では「佛法之初自茲而作」となっているが、この文章を普通に読めば、この出来事まではわが国では仏教は拡がっていなかったことになる。

以上、「仏教伝来」についての時期について、3つの説の根拠となっている記録を紹介したが、この中で一番まともな説は最後の584年説ではないだろうか。
前回紹介した中小路駿逸氏の「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文における仏教伝来についての記述が私には一番納得できる。この論文は次のURLで全文が紹介されている。
http://5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html

「(584年の)この事件が、『日本書紀』では「仏法の初め」と呼ばれているのである。
『日本書紀』のこの記述は、きわめて正常なものである。
第一に、仏法の伝来とは、僧または尼がその地で受け入れられ、供養を受けはじめることをこそいう。
第二に、右の事件に先立つ欽明十三年(552)に、百済王から仏像その他の物品が贈られてきた記事があり、世にはこれがわが国への仏法伝来を告げる一史料であるかのように扱われてきたが、記事そのものをそのままに読めば、これは僧が来たものでもなく尼が来たものでもなく、ただ“仏教文物”のみがもたらされ、しかも群臣の意見が徴された上で、天皇としても朝廷としても、仏法を受けいれないことにした事件である。
第三に、『日本書紀』にはこの欽明朝の事件が、仏法の初めとはされていない


ところで『日本書紀』に、仏教が播磨から伝わった事件が、たんに『仏法の初め』とのみしるされていることは、何を意味するか。
明らかである。
六世紀後半の敏達朝において、わが王権は、まだ播磨をも領せざる一地域権力であった。当然、播磨は、“我が国”とは別国、ないし別国に属する地であった。――そう『日本書紀』の問題の本文は告げている。――このことを意味する。
仏法が別の国からわが国に伝わって、僧(尼)の供養が行われはじめたときをもって『仏法の初め』と称する。『日本書紀』の記述ぶりは、まことに正常ではないか。」(p.13-14)

さらに中小路氏は538年説に対する反論もなされている。
「また上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起』に、欽明朝の戊午の年に百済から僧が派遣されて仏法が伝来したと書いてあるのは、仏法伝来には違いないものの『紀』にいう前記の『仏法の初め』とはまったく別の事件であって、すなわち欽明朝の大和の事件ではなく、大和よりまえに九州の宮廷に仏法が受容された事件であり、その年代は五世紀最初の戊午の年(418)である蓋然性が最も高いことも、私はすでに別に述べた。」(p.14-15)
と、中国や半島と通交のあった九州王朝においては5世紀には仏法が受容されていたと述べている。

いろいろ調べていくと、『三国史記』に中国の僧が朝鮮半島に仏教が伝えた記録があり、高句麗には372年、百済は384年に仏教が伝わり、それぞれ寺も建立している。また『三国遺事』には倭国(九州王朝)と緊密な関係にあった百済について、「阿莘王即位大元十七年(392)二月。教え下し仏法を崇信し福を求めさせる。」と書かれており、4世紀の終わりごろ百済は国を挙げて仏教が興隆していた時期であり、その頃に百済から九州に仏教が伝来した可能性はかなり高かったのではないだろうか。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html

もともと、『日本書紀』にも『古事記』にも古来わが国は一つの王朝であったとはどこにも書かれていないのだが、わが国の古代史は「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」ことを前提とし、中小路氏の言葉を借りると、「その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する」スタンスで研究がなされ、教科書の記述も同様だ。したがって、その大前提が崩れてしまうとわが国の古代史は全面的に書き換えざるを得ないことになる
釈迦三尊像
ちなみに中小路氏の専攻は日本文学だ。専門外の学者の指摘で「古代史」がひっくり返されるのは古代史学界の面子にかかわるとでも考えているのだろうか。
中小路氏の論文が発表されて25年にもなるのに、古代史学界の住人はこの論文を無視して、いまだにまともな反論をしていないようである。

前々回の記事で読者の方から、「その当時の出土品等はすべて大和に結び付けないと、学会やマスゴミから異端扱いされるか無視される。はては既知外扱いされますので研究者は本当のことが言えなくなります。現代の日本の古代史学会等は『カルト』と考えておけば間違いない」とのコメントを頂いたが、私もよく似た話を何度か聞いたことがあるし、ネットでもそのような記事が散見される。
学者である以上、既存の学会の権威を維持するためにではなく、真実は何かを追及するために全てのエネルギーをぶつけて欲しいものである。

古田氏や中小路氏らの提起した問題に斬り込まずして古代史の真実は見えて来ないと思うし、その問題に正面から立ち向かう研究者が古代史学界から数多く現われないことには、何年たっても教科書の古代史記述は変わらないのだと思う。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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