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王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった

前回の記事で1867年(慶応3)年12月9日に岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めたことを書いた。
当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいたのだが、彼らは討幕派による「王政復古の大号令」や慶喜に対する『辞官納地』の決定に、どのような反応を示したのであろうか。

国立国会図書館デジタルコレクションに大正7年刊の『徳川慶喜公伝.』が公開されている。その巻4に、幕府軍の反応が記されている。(文中の「公」は慶喜を意味している。)

徳川慶喜公伝

「旗本の将士をはじめ、会津・桑名・彦根・津・大垣諸藩は、王政復古の発令を聞くや、皆結束して二条城に集まり、松平肥前守、松平越中守もまた入城す。…中にも会桑二藩の士・遊撃隊の兵士等は、烈火の如くに憤り、頻りに討薩を論じて止まず。皆曰く『将軍家既に政権を奉還あり。朝廷にても今後の大事を公議世論に依りて定めんとて諸大名を召されたれば、万機の事、諸大名会同の上に決し給うべきを、俄に今日の事に及ばれしは何事ぞや。よしや改革を急がるるの事情ありとも、在京の諸大名何ぞ五藩*に限らん。然るに諸藩に謀らず、将軍家をも疎外(そがい)して、かかる大変革を行われしは、嚮(さき)に将軍家に下されたる御沙汰にも背き、諸大名を召されたる御趣旨にも合わず、これ全く薩藩が二三の公卿と謀り、幼冲の天皇を擁して私意を遂げんとするものなり。打捨て置かば徳川家は夷滅さられ、天下は擾乱(じょうらん)せん。彼等既に兵力を以て禁闕(きんけつ:皇居)**を擁する上は、とかくの議論は無用なり。ただ速やかに討薩の表を上りて、君側の奸を除かざるべからず』と。公は固くこれを制して暴動を禁じ給いければ群議の間に日は暮れたり。若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守重固**らは、公の決断し給わざるを慨嘆し、板倉伊賀守***に迫りて、『嗚呼将軍家の御心底こそ甲斐なけれ。御決心さえあれば会桑はいうに及ばず、満城の将士孰れも公憤に募れり。一戦して薩賊を撃捷すべきは易々たるのみ』と、或は怒り、或は泣きて之を訴う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/156
*五藩:王政復古の大号令のあとの朝議に参加した薩摩・土佐・芸州・尾張・越前の五藩
**竹中丹後守重固(しげかた):江戸幕府後期の旗本。幕府陸軍創設後は陸軍奉行として天狗党征伐や長州征伐で活躍し、慶応3年(1867)若年寄並陸軍奉行に就任。
***板倉伊賀守:板倉勝静(かつきよ)。幕末の江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座。


竹中重固
【竹中重固】

このように、幕府軍の兵たちは暴発寸前となっていたのだが、徳川慶喜がそれをさせなかったことが記されている。

では討幕軍の立場で書かれた書物では、幕府軍はどのように描かれているのか。明治43年刊の『大久保利通伝 中巻』に、この時の幕府軍の様子や、京都が天下分け目の戦いの戦場となることを恐れて、逃げ惑う民衆で京都が大混乱したことが記されており、『徳川慶喜公伝.』の記述が決して誇張でないことが確認できる。

二条城二の丸御殿

「…幕兵及び会・桑等の幕府党は、悉く二条城に集まりて、城の内外に屯集したり。幕府党は、この大変革をもって薩藩士たる利通および西郷らが二三の京紳に結び、幼帝を擁して第二の徳川氏たらんと謀るものなりとて、激昂すること最も甚しく、あるいは直に薩邸を襲撃せんと唱え、殆んど制止すべからざる形勢となり。動乱の機は、まさに旦夕に迫れる状況なりき。京師の市民は、元治元年の兵火に懲りしが今日は之にまして、天子と将軍家との天下分目の戦争なりとて、上下貴賤の別なく、人心恟々として安する所を知らず、あるいは近郷に匿れ、あるいは南都に逃れる等、非常の混雑を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781139/164

蛤御門の変の大火

文中の「元治元年の兵火」とは1864年に薩摩藩・会津藩が長州藩を京都から駆逐した「禁門の変(蛤御門の変)」を指している。この時長州勢は、長州藩屋敷に火を放って逃走し、また会津勢も長州藩士が隠れているとされた家屋に火を放ったため、またたく間に火が拡がって、北は一条通から南は七条通りの広い範囲が焼け、本能寺も東本願寺も焼けてしまう大火災となり京都の27千世帯が焼失したという。(「どんどん焼け」)上の画像は『京都大火略図』で図の右側が北にあたり、赤い部分がこの時に焼失した地域を示している。
Wikipediaによると禁門の変の時の幕府軍は約3200名とあり、王政復古の大号令の時は幕府軍だけでもその3倍はいたので、京都の民衆が大火を恐れて逃げ惑ったのは当然の事なのだ。

話を、二条城に集まった幕府軍の話に戻そう。
小御所会議の翌日(10日)に、尾張藩の徳川慶勝、越前藩の松平慶永(春嶽)が二条城に向かい、慶喜に対して、将軍職辞職と辞官納地が朝議で決定したことを諭達したのだが、その会議で決まったことはすでに二条城の兵士達にも洩れ伝わっていたという。
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第65巻』に、松平春嶽に同行した越前藩の中根雪江の手記が引用されており、中根雪江はその時の二条城の様子をこのように記録している。

中根雪江
【中根雪江】

「…今日御城中之形勢、旗本幷(ならびに)会桑之諸士、多くは甲冑を帯し、抜身(ぬきみ)の槍(やり)を立て、草鞋を穿(うがち)ながら御座敷処々に充満して、強暴之声焔尤甚し。二候(徳川義勝、松平慶永)御平服にて、其中を御押分け被成候而之御往来、甚(はなはだ)危殆にて、御伴せし吾輩に於て、懸念を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/190

松平春嶽
【松平春嶽】

また松平春嶽の手記も残されていて、徳富蘇峰の著書に引用されている。これを読むと、二条城が戦闘の準備に入っていたことは確かである。

「実に二条城の形勢畏るべし。今にも剣にて突殺さるるやに覚え申し候。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/195
「さて、城中の塩梅(あんばい)は、やはり慶喜公はじめ、薩長土藩の士と、戦端を専ら開くことを主張せらるる様、憶測なれど考えられ候。いかんとなれば、老中はじめ藤堂その外御譜代大名、紀州その他の諸大名、兵隊の書付調べ、また玉薬、即ち弾薬の調べこれあり、慶喜公手元にては、鉄砲弾薬の調べこれあり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/196

松平春嶽はここで内乱となることは避けるべきだと考え、慶喜公に対して、ここで幕府から戦端を開いては朝敵となり、300年続いた徳川家も消えてしまうことになると述べ、慶喜の考えを問うたのだが、慶喜には幕府軍から戦端を開く考えはなく、将軍職辞職と辞官納地の件については異存ないが、すぐにでも暴発しそうな幕軍の人心を鎮めてから請けることにしたいと答えたという。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

その翌日の二条城の様子が『徳川慶喜公伝. 巻4』に出ている。
11日に至りては、二条城内外の紛擾益(ますます)甚だしく、討薩の声喧しくして、殺気彌(いよいよ)揚がり、会薩の二藩士市中に行逢いて刃傷(にんじょう)に及ぶもあり、戦乱の爆発は必至の勢となる。中にも老中格松平豊前守、若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守等は過激なる挙兵論者にして(七年史戊辰始末)板倉伊賀守の沈重なるさえ、書を関東の同列に飛ばして、歩騎砲の三兵及び軍艦の西上を促し足る程なりき(稲葉家文書)。此の日公は親しく諸隊長を引見して曰く『我等割腹せりと聞かば、汝ら如何ようにもなすべし。我等斯くてあらん間は決して妄動すべからず』と、厳に達せらる (昔夢会筆記) 。されども公は尚心安からず思召し、命じて旗本の兵五千余人、会藩の兵三千余人、桑藩の兵千五百余人を城中に集めて、外に出づるを禁じたり。城門の通行は入る者よりも出づる者を取締りしは、専ら暴挙を伏せがんとの用意なるべし。たまたま薩藩の兵城下に迫る由風説ありて、何人の指図ともなく、大手廻りの土塀に矢狭間を切り開きしかば、目付の驚きて制止せる事あり。また薩藩の兵、竹屋町押し寄せたりという風説ありし時、衆益々忿怒し、相争うて出でんとす。会藩士手代木直右衛門・中根雪江・酒井十之丞を見て『先んずる時は人を制す。今之を討たずんば戦機を失わん。卿ら如何に思う』と血眼になりて詰問せしかば、両人はその虚伝なるを説き、且つ『闕下に乱階を開かば朝敵も同様なり』と弁論して、纔(わずか)に宥むることを得し事あり。然れども将士の憤怒は極度に達し、一戦して薩藩に報いんと、殆んど狂せるが如く、叱咤・慷慨、殺気天を衝く (丁卯日記*) 。公もさすがに薩長が朝廷を擁して革新の政を布きたる手段には、不満の情おわしたらんも、天下・国家のためにこれを容忍せられ、極めて少恩なる復古令に甘従し、激昂に激昂を重ねたる幾万の家臣を抑制し、断乎として挙兵の衆議を却け給えり。此の際における公の苦衷は、唯公の知る所にして、後人の推測の及ぶところにあらざるべし。」
*『丁卯日記(ていぼうにっき)』:越前藩の中根雪江の日記。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/158

このように徳川慶喜は、城門から出る者を取締り、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、断固として挙兵することを許さなかったのである。

松平春嶽の手記によると、
「慶喜公言う、家来ども頻(しき)りに兵端を開き候よう申し聞き候えども、余は朝廷に対し恐れ入り奉り、且つは祖先の汚名を千歳に流すことは、決て致さず候間、」とあり、慶喜は幕府が朝敵の汚名を蒙りたくないとの思いが強かったようなのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/197

板倉勝静
【板倉勝静】

老中筆頭の板倉勝静(かつきよ)も記録を残している。板倉自身の考えが書かれているのだろうが、慶喜も同様な考えであったのだと思う。
簡単に意訳すると、
「薩摩は天皇を擁しており、薩摩を討伐しようとすることは、朝廷に向かって発砲することになる。こちらから戦端を開けば、彼らの術中に陥って我々は朝敵とされてしまうことだろう。決して軽挙妄動すべきではない。
そのうえ二条城では幕兵の鎮撫は難しく、またこの城は防御に適した城ではない。そのうえ、狭い地域に住宅が密集している京都で火が放たれば、またたく間に拡がって都の大半が焼けてしまうことになり、多くの犠牲者が出ることが避けられない
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/208

かくして二条城では京都から大坂に向かうことが決議され、12日になって慶喜は二条城を離れて大坂城に向かっているのだが、慶喜が喧噪の京都を去ったのは他にも理由がありそうだ。
「王政復古の大号令」で武力討幕派が政権の中枢を握ったことは確かなのだが彼らは少数派であり、多くの諸侯は平和解決を望んでいたのである。その点については次回に記す事と致したい。

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