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西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した

慶応3年(1867)12月9日に薩長両藩および岩倉具視らの討幕派は王政復古の大号令を発し、天皇親政による新政府を樹立した。新政府は幕府だけでなく摂政・関白を廃絶し、会津藩・桑名藩の宮門警衛を停止した。また同日夜の小御所会議で、前将軍慶喜に内大臣の官職と領地の一部を返上(辞官・納地)させる決定をしている。

この決定に憤激した旧幕府方や会津・桑名の二藩は、明治元年(1868)1月、薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と鳥羽・伏見で戦闘を交えた(鳥羽・伏見の戦い)が敗れ、敗戦の報を受けた慶喜は大阪城を出て江戸に向かって、朝廷に恭順の姿勢を示した。
新政府の征討軍は慶喜を朝敵とみなして江戸に迫ったが、官軍参謀西郷隆盛と徳川方の旧陸軍総裁勝海舟との会談が行われ、4月に江戸城の無血開城が実現している。

江戸無血開城

Wikipediaの解説によると、「勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。もし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である」と書いてあり、3月10日付の『海舟日記』が引用されている。

「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を進まむとせば、城地灰燼、無辜の死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼この暴挙を進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」

勝海舟

勝は江戸湾にあらかじめ船を用意しておいて、火災が起こった後に避難民を救出する計画まで具体的に立てていたことを後年語っているそうだが、それくらいの覚悟がなければ、西郷相手に譲歩を引き出すような交渉はとても出来なかったのではないか。

この時の西郷と勝の会談の場面が、勝海舟の談話集である『氷川清話』という本に書かれている。ポイントとなる部分を引用する。(原文は旧字・旧かな)

「西郷なんぞは、どの位ふとっ腹の人だったかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。
あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談(はなし)はとても纏まらなかつただらうヨ。

さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいう事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。『いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけて御引受します』西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いや貴様のいう事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろいろ喧しく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判は忽ち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたには、おれも感心した。
この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子を覗(うかが)っている。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけている。その有様は実に殺気陰々として、物凄いほどだった。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののように、談判を仕終えてから、おれを門の外まで見送った。おれが門を出ると近傍の街々に屯集して居た兵隊は、どっと一時に押し寄せて来たが、おれが西郷に送られて立って居るのを見て、一同恭しく捧銃(ささげつつ)の敬礼を行なった。…
この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかった事だ。」(『氷川清話』講談社文庫p.62-63)

勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だったという。内戦が長引けば、イギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される事態を避けるべきだとの考えであったようだ。
勝海舟は新政府でも海軍大輔、参議兼海軍卿などを歴任しているが、西郷が西南戦争で非業の死を遂げた頃からは表舞台から離れて、著作や旧幕臣たちの救済に力を注いだようである。

Wikipediaによると勝海舟は、「慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生のすべてを捧げた。この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。そのほかにも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F

新政府に江戸城を明け渡したのち徳川家は静岡に移住し、旧幕臣たちも多くが静岡に移ったのだが、徳川宗家の公称800万石が70万石に縮小されて大量の武士たちが職を失い、生き抜く術を自ら決断しなければならなくなってしまった。旧幕臣たちの中には一家が離散し、悲惨な暮らしをしていた者も少なくなかった。
そこで勝はそんな人々をなんとか助けてやろうと起ち上がったという。
勝は明治新政府や全国の大名に人材の売り込みを行なったり、旧幕臣たちが持っていた刀剣類や古美術品などを売り捌いたりしたのだそうだ。

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静岡県の牧之原台地といえばお茶の生産地で有名だが、この土地を開墾して茶畑にしたのは、旧徳川幕府に仕えた幕臣たちである。勝海舟は開墾の為にかなりの資金を中條景昭らに支援したと言われている。
以前このブログで坂本龍馬暗殺したと言われている今井信郎のことを書いたが、この今井信郎も明治11年に牧之原台地に入植し茶の生産に携わっているという。
http://www.daitakuji.jp/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%8B%87%E5%A3%AB/

明治新政府の改革で職を失い、不満を持った士族が新政府に反乱を起こす事件が全国各地で起こったのだが、旧幕臣からは反乱がおきなかったのは勝海舟のような人物がいたからなのだろう。
勝海舟が手を差し伸べたのは、旧幕臣だけではなかった。なんと、江戸城無血開城のためにともに談判した西郷隆盛の名誉回復の為に尽力し、西郷の遺児の援助も買って出ているのだ。

勝海舟と西郷隆盛

松浦玲氏の『勝海舟と西郷隆盛』によると、西郷の死から2年後の明治12年(1879)に勝海舟は、隆盛を偲んで留魂碑を建立している。朝敵として征討された男の記念碑のことなど誰も言い出せないような時期に、海舟は独力でこの碑を建立しているのだ。
当初は東京都葛飾区の浄光寺という寺に建てられたそうだが、海舟の死後に東京都大田区の洗足池の畔にある海舟の墓域に移されたのだそうだ。
碑の表には西郷の『獄中有感』と題された漢詩が彫られ、裏面には勝海舟の隆盛に対する熱い思いが綴られている。(原文は漢文)

留魂碑

「慶応戊辰の春、君大兵を率いて東下す。
人心鼎沸、市民荷担す。
我之を憂へて、一書を屯営に寄す。
君之を容れ、更て令を下して兵士の驕傲(きょうごう)を戒め、
府下百万の生霊をして塗炭に陥らしめず。
これ何らの襟懐、何らの信義ぞ。
今君已に逝たり。たまたま往時書する所の詩を見る。
気韻高爽(きいんこうそう)、筆墨淋漓(りんり)、恍としてその平生を視るが如し。
欽慕の情、自ら止む能はず、石に刻して以て記念碑と為す。
ああ君よく我を知れり、而して君を知る亦(また)我に若(し)くは莫(な)し。
地下もし知る有らば、それ将に掀髯(きんぜん)一笑せんか。
明治十二年六月 友人勝安芳誌す」

前半の部分は言うまでもなく、二人で会談した江戸城無血開城のことである。 また最後の方で、誰よりもこの海舟が西郷のことをよく理解していたという意味のことを書いているが、この点は注目して良い。当時薩摩藩出身の者は数多く生存していたにもかかわらず、西南戦争直後に新政府軍に反旗を翻した西郷を褒め称えることが出来る雰囲気ではなかったことが考えられる。

そして勝海舟は西郷の七回忌の頃に、当時明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟への書状の中で、西郷の罪科を取り消し、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを提案したという。
この書状は明治天皇のもとに届き、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、隆盛が徳之島に遠島されていた時代に愛加那との間に生まれた菊次郎は外務書記生として米国公使館勤務が決まった。
隆盛の弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、勝海舟は徳川家から借金までして、寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡したそうだ。

西郷寅太郎

西郷寅太郎は13年間ドイツで学んだ後帰国して明治25年(1892)陸軍少尉に任じられている。明治35年(1902)には父・隆盛の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任している。この日に徳川慶喜も公爵を授けられている。

西郷菊次郎

また西郷菊次郎は外務省勤務の後、日清戦争で日本が台湾を得た明治28年(1895)に台湾に転じ、台北県支庁長、宜蘭庁長(4年半)に就任。日本に帰国後、京都市長(6年半)などの任に就いている。

また西郷隆盛は明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布大赦により過去の罪が赦されて正三位が贈られている。またその年に西郷隆盛像の建設の話が持ち上がる。高村光雲らの制作による西郷隆盛像が上野公園に完成したのは明治31年(1898)年だった。

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しばらく松浦玲氏の著書を引用する。

「…12月18日、いよいよ上野の西郷隆盛像の除幕式である。午前10時開会で建設委員長樺山資紀の報告、除幕委員長川村純義の挨拶、内閣総理大臣山縣有朋の祝辞と式次第が進む。
次いで川村純義がまた立って海舟の和歌を代読し、南洲(西郷隆盛)と海舟の功績を讃える演説を追加した。代読した歌は次の三首である。

せめつゞみ みはたなびかし たけびしも 昔の夢のあとふりにける
咲花の 雪の上野に もゝつたふ いさをのかたみ たちし今日かな
君まさば 語らんことの沢なるを 南無阿弥陀仏 我も老いたり

… 川村は追加演説で、いまや幽明界を異にするけれども両雄が一場に会したのだと、本日の意義を強調した。「幽」の西郷が銅像となり、「明」の海舟と「一場に会した」というわけである。当人の演説はないけれども、海舟がもう一人の主人公なのだった。」(『勝海舟と西郷隆盛』p.192-193)

この除幕式からわずか1ヶ月後の明治32年(1899)年1月19日に勝海舟は脳溢血で倒れ、帰らぬ人となった。最後の言葉は「コレデオシマイ」だったという。

勝海舟という人物が明治の時代にいなければ、明治の歴史は随分異なったものになっていたことだろう。
徳川慶喜が処刑され、東京が火の海になってもおかしくなかったし、幕臣による士族の叛乱が長く続いたことであろう。わが国が長い間分裂状態にあれば、諸外国がわが国につけ入る隙はいくらでもあったと思うのだ。
明治という時代は国内が分裂する危機が何度かあったのだが、旧幕臣が明治という国家の不安要因とならなかったのは勝の尽力によるものが大きかったと思う。
西郷の名誉が回復され、徳川慶喜と天皇との和解の儀が成功し、西郷の銅像の完成を見届けて、勝海舟は自分の使命を終えたことを自覚したかのように77歳の生涯を終えたのである。
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徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地

前回まで、徳川の旧幕臣達が明治維新によって悲惨な生活を強いられていたことを書いてきた。確かに転業に失敗し没落した者が多かったのだが、彼らを救うには彼らが生活できる程度の収入の得られる仕事がなければならなかった。そこで、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物が士族の中から現われた。

海舟座談

岩波文庫の『海舟座談』に、旧幕臣達が士族の身分を捨てて茶畑の開墾を始めた経緯について述べているところがある。

明治2年(1869)、戊辰戦争が終結した頃に勝海舟は二人の旧幕臣の訪問を受けている。
この2人の人物は中條(ちゅうじょう)金之助(景昭)と大草多起次郎(高重)といい、大政奉還後は徳川慶喜を警護する精鋭隊の中心メンバーであり、江戸開城の際には仲間と共に江戸城内で自決するつもりであったが勝海舟の説得で思いとどまり、駿府(静岡)に移住して徳川家康を祀る久能山八幡宮を守護する任務(新番組:精鋭隊を改称)に就いていた経緯にある。
しかし、明治新政府軍が駿府を攻めに来るわけでもなく、暇で仕方がないので、今後の身の振り方を勝に相談しに来た場面である。

牧の原地図

「…また二人(中條・大草)がやってきて言うには、こう二年も待って居ましても、何事もありませず、その上ただ座食していては、恐れ入りますし、皆ナが無事で、ケンカばかりして困りますが、金谷*という所は、まるで放ってありますから、あれを開墾したいと申しますが、どうでしょうかと言うから、それは感心な事だッテ、たいそう賞めてやってネ、その代り食い扶持はやはり送りますと言って、それから仕送りを続けた。」(岩波文庫『海舟座談』p.127-128)
金谷:静岡県島田市金谷。牧之原公園やお茶の郷博物館がある

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明治2年7月に静岡藩知事徳川家達の命が出て、牧之原台地の開墾のために中條・大草らが転住したそうだが、当時徳川家16代の徳川家達はわずか6歳であり、そのような判断が下せる年齢ではなかった。命を下したのは藩の幹事役であった勝海舟や山岡鐡舟あたりが絡んでいたと思われるが、彼らに食い扶持を送り続けるためには、藩が新番組のメンバーに命令を出す必要があったのだろう。
かくして旧幕臣の200余名が士族という身分を捨てて、牧之原台地の開墾のために動きだしたのである。

昭和二年に静岡市市史編纂課が著した『静岡市史編纂資料. 第6卷』にはこう記されている。

「…当時牧の原は耕種する者なく、茫漠たる棄地であったから、今この地を開拓せんとするは、上は富国の義を賛し、下は力食の実を挙げんとするのにあったのだ。ここにおいて新番組二百有余名は、中條景昭、大草高重、其の他18名を幹事として、金谷以南の原野を受け、二百二十五戸の同志ここに移住して、賜地大縄反別一千四百二十五町歩の開墾を初め、茶種を撒き付けた。…翌(明治)三年沼津に移住せし士族(元彰義隊大谷龍五郎外80匹戸)がこれに加わって移住し、合計三百余戸となり、爾来専ら開墾に従事して、同二年より四年に至るまで、徳川家より年々金1万七百円を下付されたという。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176974/162

しかしながら、明治4年(1871)の廃藩置県の結果、家禄奉還につき8万円が明治政府から下付されると同時に牧之原は浜松県の管轄となってしまった。徳川家や静岡藩との関係が断たれてしまって、以降の開墾費は下付されなくなってしまうのだが、各自応分の資力を出し合って開墾を進めていくことにより、明治4年(1871)頃の開墾地は200町歩であったのが、明治10年(1877)には500町歩に増加したという。
ちなみに「町歩」というのは1辺の長さが1町(60歩)の正方形の面積を指したが、1891年の度量衡法により300,000アールが3,025町歩と定められ、逆残すると1町歩は9,917㎡となり、1ha(10,000㎡)にかなり近い数字である。同様に100町歩はほぼ1㎢と考えて良い。

明治天皇

明治11年(1878)に明治天皇が、北陸・東海地方御巡幸のあと11月4日に静岡に立ち寄られ、中條と・大草両名を行在所にお召しになり、二人がリーダーとなって牧之原台地を開墾してきた労をねぎらっておられる。(原文は旧字旧かな)
「其の方ども、己巳(明治二年)以来拓地のことに尽力し、同志協力勉励。牧ノ原開墾の儀は、全く其の方ども率先の功少なからず奇特に思召され候。同志中へ金一千円下賜候事。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176974/163

『静岡市史編纂資料. 第6卷』の本文には、彼らがいかに苦労したかについて余り記していないのだが、文中に大草多起次郎が残した記録の原文が掲載されていて、これを読むと彼らの苦労を垣間見ることができる。
もともと何もない場所であったから、道路を作り水路も作り家も建てた。江戸幕府の直轄領の中でも開墾しにくい場所だからこそ長年放置されてきた場所を、建築や土木工事の経験のない旧幕臣達が、刀を鍬に持ち替えて開拓していったことはすごいことだと思う。

大草高重はこう記している。
「明治2年7月中、旧藩知事の命により、開墾方と称し、不肖高重も中條景昭とともに率先し、二百余名を遠州榛原郡牧ノ原へ転住するに際し、水利の便否をはかり、居宅の地を占め、自らこの家屋を造営し拓地に従事し、右開墾費用として藩庁より年金1万2千5百円を給与あり。同4年、廃藩浜松置県の際、右開墾方の称を廃し、該費用金等今後下付あい成らざる旨、同県庁より申し渡されたり。然りと雖も、将来の活治を企画するにより、各自応分の資力を尽くし…専ら茶樹を播布するも、その事業に疎く、加うるに該地は数百年不毛の原野にして、極めて瘠せ地なれば成木もまた晩し。漸く同6年に至り、尠(すこ)しく茶葉を摘採するを得る。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176974/165

私財まで投じて苦労して開拓してきたが4年たって、ようやく僅かの茶葉を摘み取ることができたとある。
しかしその頃には、それまで官有地であった土地が浜松県から各人に下付され彼等の私有地となっていて、そのためにメンバーの中には土地を売ったり、質に入れたりするものが出てきてメンバーの人数も大幅に減っていたようだ。そこで、中條らは再び勝海舟を訪ねている。『海舟座談』にはこう記されている。

「アチラ(中條ら)からまたそう言うてきた。こう御厄介になって開墾が出来ましたが、どう致しましたら宜しかろう、と言うから、それならば言うが、皆ンな三位さま[家達公]の御恩だから、地面は三位さまのもので、お前方はそれを作っているのだと、そう思いなさいと言うた。ダガ、その地面を売るものもあるしネ、質に置くものもあるしネ、今では百人位しか残っていないよ。それでは売ってはすまんと言うから、何に構わない、お前方が勉強したから出来たのだし、アンナ荒地がそれでも売れる程になったのは、お前方の尽力だからだと、そう言って遣ったのサ。ダガ、実に、済まないのサ。二重質に置くものもあるしネ。それはチャンと知っているが、黙っているのサ。何かの時に抑えるつもりだ。大隈(重信)なども、行って見て、感心して、よくあんなに開けたと言ったよ。それで陛下がお召しになって、御賞美になった。それで始末がつけてあるのだ。」(『海舟座談』p.128)

みんなで苦労して開拓したのに、随分多くのメンバーが土地を売るなりして牧之原を離れて行った。ようやく茶を収穫できるようになったのだが、中條らは残ったメンバーだけで収穫したものを売って収入を得ることについて、家達公や離れて行ったメンバーに対して「申し訳ない」という気持ちがあったということのようだ。
勝海舟は、お前たちの努力で開拓して土地が売れる程になったのだから、そんなことは気にしないで売ればよいとアドバイスした。明治天皇が静岡に立ち寄られたのも、おそらく勝が舞台裏で動いていたのだろう。

中條らは土地を開墾し茶葉を作る事に懸命であったが、茶葉をどこにどうやって売るかについてどこまで考えていたのかということが気になった。それまでのわが国の茶の需要は、その時点に存在していた各地の茶畑で充足していた中に新たに500haもの茶畑が出来たのだから、需給バランスが崩れて価格が暴落するリスクはなかったのかと考えたのだが、『静岡市史編纂資料. 第6卷』を読み進むと、明治3年頃は茶と絹の外国人の需要が高く、これらの生産を奨励したことが記されている。
「明治3年3月13日の『もしほ草』に『茶と絹糸を奨励せよ』と題して、
日本の茶ならびに絹糸は、外国人の好く品なれば、江戸近所の諸侯も、茶および桑を広野に植え付けて、盛んならんことを望む。しかる時は貧民もこれにつかわれて生活し国々も富栄にいたるべし。
明治4年静岡県…参事南部廣矛は藩政の後を承けて、茶園の開墾に留意し、開墾の助成をなし、あるいは茶実を下付して播種させ、また県庁に勧業係を置いて殖産興業を行なった。次いで頻年横浜の茶況好良となるにしたがって、県民はますます茶園を増殖するに至り、殊に安倍郡下いたるところに茶園を設けて、茶園に従事しない者はない位であった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176974/166

金谷 広重

実は、牧之原の茶畑は徳川の幕臣だけで開拓したものではなかった。
明治3年(1870)に大井川の渡渉制度・川越し制度が廃止され、大井川の両岸にいた約1300人の川越え人足も職を失い、その救済活動が興って、33人の川越え人足と家族が入植牧之原南部への入植が認められたとの記録もあるようだ。
その後、茶業不況などもあり、士族の一部は牧之原を去り、一方で農民たちは茶園面積を増やし経営規模を拡大していったという。
その後茶葉の品質向上が図られ「深蒸し茶」製法が考案されて、芳醇な香りをもつ「静岡牧之原茶」のブランドが発展していった。

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東洋一と呼ばれる広大な牧之原台地の大茶園は、今では5000ヘクタールにもなり、全国の生産面積の4分の1近い広さなのだという。日本のお茶の4割以上は静岡県で作られているのだそうだが、この静岡の茶業の歴史に旧幕臣達が礎を築いた史実はもっと広く知られて良いのだと思う。

今井信郎

余談だが、明治11年に中條景昭らの勧めで静岡県榛原郡初倉村坂本(島田市)に入植し、牧之原台地の開墾に参加した旧幕臣がいた。この人物は幕末には京都見廻組のメンバーで、坂本龍馬が暗殺された現場にいた今井信郎である。
今井は「龍馬を斬った男」として有名な男だが、私はこの事件が京都見廻り組の単独犯行とは考えにくく、おそらく真犯人は別にいると考えている。この点については、ブログで4回に分けて書いたので繰り返さない。

中條景昭像

大井川や島田市街を見渡す高台に、牧之原台地の茶畑を開拓した中條景昭の像が建っているようだ。丁髷(ちょんまげ)姿で帯刀しているのに驚いてしまったが、彼は生涯頭の丁髷を切らなかったのだそうだ。
明治29年1月19日に、中條は生涯を捧げた牧之原の一番屋敷にて77歳で死去し、その葬儀には勝海舟が葬儀委員長を務めたという。仲間たちは中條の死を悲しんで三七21日の間、墓参を続けたと伝えられている。
中條の墓は初倉村(現島田市初倉)種月院にあり、その墓のすぐ後方に「龍馬を斬った男」今井信郎の墓碑があるという。種月院には牧之原開墾先駆者の記念碑もあり、中條と今井の略歴が刻まれているそうだが、一度は行ってみたい場所である。

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【ご参考】
もうすぐ阪神淡路大震災から20年になります。
地震に関していろんな記事を書いてきましたが、関東大震災のあとは地震対策や津波対策がほとんどなされていないばかりか、復興を優先したために多くの事実が隠蔽されてきています。

関東大震災の教訓は活かされているのか。火災旋風と津波被害など~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか。~~その2(山崩れ・津波)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

このブログで、龍馬の暗殺事件について4回に分けて書きました。今井信郎についても考察しました。
良かったら覗いて見てください。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-26.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-28.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-29.html




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江戸無血開城の真相を追う

慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れて、徳川慶喜は大坂城を離れて江戸に還るのだが、江戸城の家臣も大坂城と同様に主戦論を主張する者が大半であった。

渋沢栄一の『徳川慶喜公伝 巻4』にはこう解説されている。
陸海軍人殊に海軍副総裁榎本和泉守(武揚)、陸軍奉行並小栗上野介(忠順)、歩兵奉行大鳥圭介(純彰)及新選組の人々などは概ね戦を主とし(戊辰日記、彰義隊戦史)、兵を箱根、笛吹に出して、官軍を待たんというものあれば、軍艦を以て直に大阪を衝かんというものもあり(海舟日記)、又関八州占拠の策を献じ、軍隊の新組織法を建白し(七年史所載陸軍調役並伴門五郎・同本多敏三郎等嫌疑)、或は輪王寺宮(公現親王、後に北白川宮能久親王)を奉じて、兵を挙げんというものもあり(彰義隊戦史)、或は君上単騎にてご上洛あらば、士気奮いて、軍機忽ちに熟せんと激語する者もあり(海舟日記)。老中等も是等の説にや同じけん。…
主戦派の人々は激論に激論を重ねて、いつ果つべしとも見えず。有司はこもごも公に謁して其説を進め、論談往々暁に達し、諸士相互の議論に至りては鶏声を聞かざれば已まず。(海舟日記)。正月17日若年寄堀内内蔵頭(貞虎、信濃須坂藩主)は、身要路に居て此の難局を処理する力なく、御委任を全くすること能わずとて、遂に殿中に自刃せり。其の意、死を以て幕議を恭順に定めんとするにありという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/214

小栗忠順
【小栗忠順】

またWikipediaにはこう記されている。
「慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗(忠順)は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は『新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する』という挟撃策を提案した…。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86

小栗上野介らが提案した策は、後にこの策を聞いた長州藩の大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかった」と恐れたほどのものであったようなのだが、徳川慶喜は小栗の案をしりぞけ、15日には小栗を罷免してしまっている
江戸城では朝敵とされようが、錦の御旗が敵方にあろうがかまわず薩長を討つべしとの考え方が大半であったようなのだが、そのなかで徳川慶喜はともかくも恭順論を貫き通したのである。

福地源一郎
【福地源一郎】

主戦論者の中には、外国の支援を得て戦おうとする意見も少なくなかったようだ。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に福地源一郎の回顧録である『懐往事談』の文章が引用されている。
故に或は仏国に税関を抵当として外債を起こし、以て軍資に充て、援兵を乞うべしと言えば直に同意し、米国より廻船の軍艦を、海上にて歎き受取るべしと言えば、異議なく左袒*し、横浜の居留地を外国人に永代売渡にして、軍用金を調達すべしと言えば、これ以て名策なりと賛成したるが如き、今日より回顧すれば、何にして余はここまで愚蒙にてありしかと、自から怪しまるる程なりき。」
*左袒(さたん):同意して味方すること
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/41

わが国の領土を売却して軍資金を捻出し、フランスやアメリカとともに薩摩・長州と戦おうというのだが、薩摩・長州にはイギリスがついていた。そんなことをしていれば、両軍から多数の死傷者が出たことは確実で、またどちらが勝利したとしても借金の返済が出来ないために多くの国富や領土を外国に奪われるところであったのだが、こんなバカな話が江戸城で真面目に議論されていたことを知るべきである。

ロッシュ
【仏公使 ロッシュ】

もちろんフランスは黙ってはいなかった。フランス公使ロッシュは1月18日に将軍に謁見を申し入れ、19日に登城している。この時の慶喜との会話が如何なるものであったのか。徳富蘇峰の同上書に徳川慶喜の『昔夢会筆記』が引用されている。

「…(ロッシュ曰く)『此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし』と、いとも熱心に勧告したり。予は『好意は謝するに余りあれども、日本の国は他国に異なり、たとい如何なる事情ありとも、天子に向かいて弓ひくことあるべからず。祖先に対して申し訳なきに似たれども、予は死すとも天子には反抗せず』と断言せしに、ロッシュ大に感服したるさまにて後言う所なかりき。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/45

また慶喜は、19日に在江戸諸藩主を恭順の意を伝えて協力を要請し、20日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請を行い、23日には、徳川家人事を大幅に変更し、庶政を取り仕切る会計総裁に恭順派の大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁に同じく恭順派の勝海舟を抜擢している。
そして27日には、慶喜は紀州藩主の徳川茂承らに、朝廷に隠居。恭順を奏上することを告げ、2月9日には鳥羽伏見の戦いの責任者を一斉に処分し、翌日には松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じ、そして12日には江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺に移って、その後謹慎生活を送っている

では、新政府軍の西郷隆盛や大久保利通は慶喜をどうするつもりであったのだろうか。
西郷が大久保宛に書いた2月2日付の書状を見ると、「…慶喜退隠の歎願、甚以不届千万。是非切腹迄には、参不申候ては不相済」とあり、西郷は慶喜を生かしておくつもりはなかったようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/93

また、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした新政府の東征軍は、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍し、駿府で行われた3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日と決定している。
そして勝海舟は、差し迫る東征軍との江戸における内戦を避けようと、西郷との交渉を考えていた。勝は、西郷が徳川家の歎願を受けいれなかった場合や、屈辱的な条件を要求してきた場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防ぎ、焦土とする作戦であったようだ。

勝海舟
勝海舟

3月10日付の『海舟日記』にはこう記されている。
「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を挙て進まんとせば、城地灰燼、無辜死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼暴挙を以て我に対せんには、我もまた彼が進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177471/75

勝は江戸湾にあらかじめ船を用意して、火災が起こった際に避難民を救出する計画まで立てていたようだが、ここまで覚悟して西郷との交渉に臨もうとしていたのである。

一方の新政府軍だが、不案内な江戸城下で戦うとなると大量の負傷者が出ることが想定されるので、西郷の命を受けて、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)が横浜の英国公使官へ向かい、公使パークスに面会をして傷病兵の為に病院の世話を依頼している。薩摩藩からすれば、これまで英国の支援により最新鋭の武器を大量に購入してきた経緯があり、京都で負傷者の治療を要請したこともあるので、今回の戦いの負傷者のための病院の世話ぐらいなら引き受けてくれるだろうと軽く考えていたのだが、この時のパークスの反応は西郷の想定を大きく越えるものであったようだ
徳富蘇峰の前掲書に、渡辺清の談話が紹介されている。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス

パークスは如何にも変な顔つきを致して、これは意外なることを承る。吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は、恭順ということである。恭順している者に、戦争を仕掛けるとは、如何という
 木梨いう、それは貴君の関する所ではない。吾々はどこまでも戦えという命令を受けてきた。ともかく用意してくれといったところが、そんなことは出来ませぬ。いずれの国でも恭順即ち降参という者に向かって戦争せねばならぬということは無いはず。その上いったい今日は誰から命を承けて来られたか。大総督から。それは如何なることか。…いったい今日貴国に政府は無いと思う
…もし貴国で戦争を開くなら、居留地の人民を統括している領事に、政府の命令が来なければならぬ。それに今日まで何の命令もない。また素より命を発するに際しては、居留地警衛という兵が出なければならぬ。その手続きが出来た以上に、戦争を始むるべき道理。かくありてこそ、始めて其国に政府があるというものである。しかるに、それらの事は一つもしてない。それゆえ、自分は無政府の国と思う。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/178

こんな調子でパークスは激怒して途中で面談を中止してしまい、木梨と渡辺は品川に戻ってこのことを西郷に報告したのだが、さすがに西郷も、官軍側に手落ちがあったことを認めざるを得ず、渡辺にこう述べたという。

「自分も困却している。かの勝安房が、急に自分に会いたいと言い込んでいる。これは必ず明日の戦争を止めてくれというじゃろう。彼じつに困っている様子である。そこで君の話を聞かせると、全くわが手元に害がある。故にこのパークスの話は、秘しておいて、明日の打ちいりを止めねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/181

西郷隆盛
西郷隆盛

江戸城無血開城については西郷隆盛勝海舟の二人がクローズアップされて、まるでわが国を救った英雄のように描かれることが多いのだが、実は西郷はパークスが激怒したことを知って考え方を改め、二人が談判を始める前から江戸城総攻撃を中止する肚を固めていて、勝と談判に及んだということなのである。

以前このブログで、イギリス公使館のアーネスト・サトウが西郷に対し、『兵庫・大坂が幕府の手で開かれてしまえば、その地の平和と安全とは、諸外国の関心事となるから、これらの土地の争奪、これらの土地での戦闘は、諸外国が、艦砲と陸戦隊との力にかけて、防止するであろう』と述べたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

兵庫港はすでに慶応3年12月7日に開港しており、サトウの言葉を借りると、諸外国のわが国における関心事は、開港地における平和と安全の維持に関心が移っていたのである。
したがって、横浜や神戸など開港地に近い場所で幕府軍と新政府軍が戦う状態が長引くことは外国の干渉を招く危険が高かったのだが、前述したとおり、幕府軍にはフランスの支援を得て新政府軍と戦おうと考える者が少なからずいた事実がある。
当時神奈川にはイギリス兵2大隊、フランス兵1大隊がいたという。もし幕府が正式にフランスの軍事支援を要請していたら、イギリス軍はおそらく新政府軍を支援したことであろう。もしそうなっていたらわが国は、それから後も独立国家であり続けることは難しかったのではないだろうか。

『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 
【『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 】

西郷隆盛勝海舟の談判によって江戸城の無血開城が決定し、当時人口100万人を超えていた世界最大級の都市であった江戸が、戦火に巻き込まれることから救われたことは間違いがない。二人とも立派な人物であったことは私も同意するところなのだが、江戸無血開城はこの二人の歴史的大英断によって成し遂げられたという見方は単純にすぎる。そもそも徳川慶喜という人物が最後の将軍でなければ、江戸城無血開城が実現することはなかったのであり、慶喜にもっと着目すべきだと思う。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

慶喜は、自らをそして徳川家を犠牲にして大政奉還したのち、ひたすら朝廷に恭順し、大坂城、江戸城で徹底抗戦を主張する大多数の幕臣達に抗し、鳥羽伏見の戦いを止めることは出来なかったが、江戸に入ると主戦派の幹部を罷免し、恭順派の勝海舟らを幹部に抜擢し、またフランスの支援の申し出を断り、一貫して戦うことを避けようとしたことは何のためだったのか。
英仏軍が駐留するなかでその両国の干渉を排除して平和裏に政権交代を成し遂げさせるということは、当時の世界においては奇跡に近い出来事であったと思う。それが実現できたことは、徳川慶喜の決断によるところが極めて大きかったと私は考える。
慶喜が徳川幕府の最後の将軍であったことはわが国にとっては非常に幸運なことであり、彼のお蔭でわが国は独立を維持できたという見方はできないか。

鈴木荘一氏は著書『開国の真実』の最後をこう締めくくっている。

「確かに幕府主戦派の主張どおり、幕府は全力で戦えば決して簡単には負けなかったかも知れない。
しかしイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する構図の下での内戦が激化すれば、やがてイギリスやフランスをはじめ外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても、わが国の独立は制約を受けただろう。
徳川慶喜はそのことに気付いていたようである

条約勅許を獲得し兵庫開港を実現して『第一の開国』を完成させ、更にイギリス型議会制度を想定して大政奉還を断行した徳川慶喜としては、人情においては、自分の手で日本近代化を成し遂げたかっただろう。
しかし徳川慶喜は自分に課された最大の政治課題である開国の大業を成し遂げた後、みずから恭順謹慎して政権を捨てた。
徳川慶喜のこの無欲の心こそ、1860年代当時の厳しい国際情勢下において、わが国が独立を護る唯一の道だった
のである。」(『開国の真実』p.334)

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-164.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
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静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
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徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
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