*『旧唐書』:中国五代十国時代の後晋出帝の時に編纂された歴史書。完成は開運2年(945)

先ず「倭国」である。
原文と読み下し文は次のURLで読むことが出来る。(原文の10行目までが「倭国」)
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kutoujo/frame/kutoujo_frame.htm
「倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国(なこく)である。都の長安から一万四千里、新羅の東南方の大海の中にある。倭人は山がちの島をねじろとして住んでいる。その島の広さは東端から西端までは歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月かかる。代々中国へ使節を通わせている。
…その周辺の小島五十国あまりはすべて倭国に所属している。倭国王の姓は阿毎氏(あめし)で、一人の大将軍を置いて諸国をとりしまらせている。小島の諸国はみなこの大将軍を畏れて服従している。官位は十二等級あり、お上に訴え出る者は、はらばいになって進み出る。…」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.206-207)

倭の奴国というのは『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』にあらわれる倭人の国で、後漢の光武帝に倭奴国が使節を派遣した際に金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されたことは学生時代の教科書にも書いてあった。
倭国の位置や広さに関する記述内容は『隋書』東夷伝では「東西三月行南北五月行」と、東西と南北の数字が逆になっているのが少し気になるが、倭奴国のことが書かれており、代々中国へ使節を遣わしていた事や阿蘇山の噴火のことが書かれている。普通に読めば『旧唐書』東夷伝における「倭国」と『隋書』東夷伝における「倭国」とは連続しており、九州のことを指しているとしか考えられない。
次に『旧唐書』東夷伝の「日本国」である。
先程のURLで、原文の11行目からが「日本国」である。
「日本国は、倭国の一種族である。その国が太陽の昇るかなたにあるので、日本という名をつけたのである。
『倭国では、倭国という名が華美でないことを彼ら自身がいやがって、そこで日本と改めたのだ』
とも言われるし、また、
『日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した』
とも言われる。
日本人で唐に入朝した者の多くは、自分たちの国土が大きいと自慢するが、信用のおける事実を挙げて質問に応じようとはしない。だから中国では、彼らの言うことが、どこまで真実を伝えているのか疑わしい、と思っている。また、
『その国界(くにざかい)は、東西・南北それぞれ数千里、西界と南界はいずれも大海に達し、東界と北界にはそれぞれ大きな山があって境界をつくっている。その山の向こう側が、毛ぶかい人の住む国なのである』
とも言う。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.211)
読み進んでいくと、魏の時代から唐の時代まで通交していた倭国とは別の国である日本国が、唐に使節を派遣してきたことが記されている。そして文章の中に、わが国においても名前が記録されている粟田真人、阿倍仲麻呂、空海らが、唐に来たことが記されている。
『旧唐書』東夷伝においては、冒頭で日本国が倭国とは異なる国であることを述べておきながら、日本国が倭国を併合したのか、倭国が名前を改めて日本国となったのか、真相が掴めきれていない書き方になっている。中国にとっては、これまで通交のあった倭国とは異なる日本国の使節がやってきて、「倭国が国名を変えた」とか「日本国が倭を併合した」とか説明を受けても事実が確認できるはずもなく、どこまで話を信用して良いか悩んだ末に、倭国とは別の国だという日本国の使節の説明にもとづき、「倭国」とは別に「日本国」の記録を残すことにしたのだろう。
ところで唐の時代の正史は、後に書き改められた、『新唐書』という史書がある。唐の時代の同じ時代のことを書いた正史が書き改められた理由は、Wikipediaによると「編纂責任者が途中で交代するなどして、一人の人物に二つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった」ために、北宋の嘉祐6年(1060)に再編纂されたものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8
この『新唐書』東夷伝には、「倭国」の記録はなく、「日本国」の記録に一本化されている。
そこにはどう書かれているのか。現代語で一部を紹介したい。
原文と読み下し文は、次のURLで読むことが出来る。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/shintoujo/shintoujo_frame.htm
「日本は古(いにしえ)の倭の奴国である。都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。その国土の広さは東西は歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月の行程である。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.269)
と、『旧唐書』の倭国を紹介する文章とほとんど同じである。
もう少し読み進むと、「倭国」「日本国」の関係について書かれている。
「咸亨(かんこう)元年(670年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
『わが国は太陽の出る所に近いから、それで国名にしたのだ』と。
また、こういう説もある。
『日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ』
使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。またその使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向うは毛人の住む地だ、などと言っている。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.272)
とあるのだが、先ほどの『旧唐書』では「小さな日本国が倭国を併合した」という説があると書かれていた。ところが、『新唐書』では「小さな日本国が倭国に併合され、倭国が日本国の国名を奪った」という説があると書かれている。
中国と古来通交のあった倭国を日本国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日本国を併合して新しい国名を「日本国」としたのか、その違いはとんでもなく大きい。
もし前者の視点である『旧唐書』の記述が正しいとすれば、わが国の古代史は全面的に書き直さねばならなくなるだろうし、後者の『新唐書』の記述が正しいとしても、4世紀後半までに大和朝廷がわが国を統一したという話は、日本国が余程小さい国でない限りは成り立たないだろう。
わが国の歴史家の大半は、後漢書や三国志、隋書などのわが国に関する記述を重視している割には、『旧唐書』や『新唐書』の記述を軽視し、わが国の『日本書紀』の記述を重視していると思わざるを得ないのだ。
このブログで何度か書いているが、いわゆる『正史』と言われる歴史書は、自国についてはその時の為政者にとって都合よく書かれることが多くて当たり前だ。しかしながら他国のことに関しては、真実の追求に限界があるとしても、外交・安全保障観点からできるだけ正しく分析して後世に記録を残そうとする傾向にあるものであり、嘘を書く動機が乏しいものであるはずだ。したがって、わが国の歴史学会が、『旧唐書』あるいは『新唐書』の記述を軽視することはおかしなことだと思う。

逆に、『旧唐書』の記述に注目した歴史家もいる。
九州に日本を代表する王朝が存在したという古田武彦氏の「九州王朝説」は、日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明でき、説得力もあると思うのだが、なぜか日本古代史学会からは黙殺されているようだ。
黙殺されるのは、この説を認めることは今までの古代史研究の成果を否定することに繋がることにあるという点が最大の理由であろう。わが国の古代史学会は『日本書紀』を重視しすぎて、戦前の皇国史観の影響を受けた歴史叙述を今も引きずっているとは言えないか。

「九州王朝説」の中にも諸説があるようだが、この考え方に立つと九州から王権が移動し、ヤマト王権が確立したのは7世紀末という事になるのだ。
ここで7世紀の半ばから後半にかけて、日本列島でどんなことがあったのか拾ってみる。
645年 大化の改新(蘇我入鹿暗殺)。難波宮遷都。
663年 白村江の戦い
667年 大津宮へ遷都
672年 壬申の乱。飛鳥浄御原宮へ遷都
694年 藤原京へ遷都
大きな争いごとといえば「壬申の乱」がある。
壬申の乱については、天智天皇がなくなった翌年に天智天皇の子大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子のあいだに皇位をめぐる争いが起こり、大海人皇子が勝利し翌年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となったと学生時代に学んだ記憶がある。
天武天皇は天智天皇の同母弟であることについては『日本書紀』明確に書かれているのだが、不思議なことに天武天皇の出生年については『日本書紀』には何も書かれていないという。その理由は恐らく、天武天皇が天智天皇の弟であることが嘘であることが明らかになるからではないのか。
例えば次のURLでは、天智は671年に46歳で没し、天武は686年に65歳で逝去しているので、逆残して生年を割り出すと、天武のほうが4歳天智よりも年上であったことが書かれている。
http://www.i-live.ne.jp/~jkimura/history/tenji-tenmu.html

また、天武天皇は天智天皇の皇女を4人も妃にしている。天智天皇と天武天皇とが兄弟であることはかなり疑わしいのだ。
さらに、平安時代に書かれた『扶桑略記』には天智天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま行方不明になり、天皇の靴だけは見つかったが、どこで亡くなったかわからない旨の記録がある。暗殺された可能性が極めて高いのだが、天武天皇とその側近が怪しいと誰でも思うだろう。
そもそも『日本書紀』は681年に天武天皇の命により執筆が開始され、720年(養老4)に完成した『正史』であるのだが、その編纂の目的は為政者の政治権力に正統性があることを史実として固定化させることにあったはずだ。
したがって、わが国に文字のなかった時代に、天皇家によってわが国が統一され、それからずっとその尊い血筋を引いているという物語を作らせたかったという側面を割り引いて『日本書紀』を読む必要があるのだと思う。7世紀以前の出来事については、中国の正史その他の記録とバランスよく読まないと、古代史の真実は見えて来ないだろう。
ところでこの『日本書紀』にも、わが国に別の王朝があったことを示している部分があることを書いた論文がある。読者の方から教えて頂いた情報だが、このことを書き出すとまた長くなってしまうので、次回にその内容を記すこととしたい。
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前回記事の最後に、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いたが、学生時代には「仏教伝来」は「538(ご参拝)」と年代を覚え、552年という説もあることを学んだ記憶がある。
584年説は中小路論文を読んで初めて知ったのだが、一体どの説が正しいのだろうか。
たとえば『もういちど読む山川の日本史』には、こう解説されている。
「百済の聖明王からの公式の仏教伝来の年代については、壬申年=552年と戊午年=538年の二説がある。」前者は『日本書紀』の説だが、その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっていることなどにより、信頼性が少ないといわれる。これに対し後者は、元興寺(飛鳥寺の後身)の由来を書いた『元興寺縁起』や聖徳太子の伝説『上宮聖法王帝説』が説くところで、これらの記事は『日本書紀』よりも古い史料にもとづいて書かれていると考えられ、当時の朝鮮半島の政治情勢からみても不自然ではないので、現在は538年の方が有力である。」(『もういちど読む山川の日本史』p.22)
いちおうもっともらしく書かれているが、古代史学は都合次第で『日本書紀』を重視したり軽視したりするところが面白い。
552年説、538年説、584年説は、どのような記録を根拠にしているのか、少し興味を覚えたので調べることにした。

まず552年説は『日本書紀』巻第十九欽明天皇13年(552)にこう書かれている。
「冬十月、聖明王は西部姫氏達卒怒唎斯致契(せいほいきしたつそつぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋(はたきぬがさ)若干・經論(きょうろん)若干卷をたてまつった。別に上表し、仏を広く礼拝する功徳をのべて『この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公・孔子もなお、知り給うことができないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を成し、譬(たと)えば人が随意宝珠(物事がおもうままになる宝珠)を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです。遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明(やつがれめい)は、つつしんで侍臣の怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣わして朝(みかど)に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです』といった。
この日天皇はこれを聞き給わって、欣喜雀躍され、使者に詔して『自分は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。けれども自分一人で決定しない。』といわれた。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.35-36)

欽明天皇は蘇我稲目と物部尾輿、中臣鎌子に意見を聞き、物部尾輿と中臣鎌子は「仏を参拝すると国の神の怒りを受けることになる」と反対したが、蘇我稲目だけが賛成したという。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像などを授けて礼拝させることにしたのだが、後に国に疫病が流行し多くの死者が出た。物部尾輿、中臣鎌子はその原因は蘇我稲目が仏教を信奉したことにあるとし、天皇に仏像を捨てるべきであることを奏上し天皇もそれを認めたので、その仏像は難波の堀江に流し捨てられたことが『日本書紀』に明記されている。
山川日本史によると、この『日本書紀』の記録については、「その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっている」ことを根拠に、この記録の信頼性が少ないと考えるのが定説となっているのだそうだ。
多数説とされているのは538年説なのだが、この説は『日本書紀』よりもあとに成立した『元興寺伽藍縁起』、『上宮聖徳法王帝説』の記録に基づくものだという。
そこにはこう書かれている。
大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度(わた)り来たるより創(はじ)まれり。(『元興寺伽藍縁起』:下記URLに現代語訳あり)
http://www.ookuninushiden.com/newpage24.html
志癸嶋(しきしま)天皇の御世戊午年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教并びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむる也。(『上宮聖徳法王帝説』)
http://www2.shiba.ac.jp/~shakaika/newpage4.htm

「斯帰嶋」あるいは「志癸嶋」は欽明天皇が宮を置いた場所とされ、「天国案春岐広庭天皇」あるいは「志癸嶋天皇」は欽明天皇のことだと理解されているのだが、538年というのは宣化天皇三年であり、欽明天皇の御代ではないことがなぜ無視されるのだろうか。
欽明天皇の即位は540年で571年に崩御されたのだが、在位されている間に戊午の年は存在しない。538年説はどう考えても説得力が乏しいのだが、古代史学界ではこの説が多数説だという。
では、584年説についてはどのような記録があるのか。
『日本書紀』巻二十敏達天皇十三年の記録にこう書かれている。
「秋九月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩の石像一体をもたらした。佐伯連(さえきのむらじ)も仏像一体をもってきた。
この年、蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)は、その仏像二体を請いうけ、鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)と池邊直氷田(いけべのあたいひた)を四方に遣わして、修行者を探させた。播磨国(はりまのくに)に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした。司馬達等の女、嶋を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)といった。…善信尼の弟子2名も出家させた。
…
馬子宿禰・池辺氷田・司馬達人たちは仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.67-68)
最後のところは原文では「佛法之初自茲而作」となっているが、この文章を普通に読めば、この出来事まではわが国では仏教は拡がっていなかったことになる。
以上、「仏教伝来」についての時期について、3つの説の根拠となっている記録を紹介したが、この中で一番まともな説は最後の584年説ではないだろうか。
前回紹介した中小路駿逸氏の「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文における仏教伝来についての記述が私には一番納得できる。この論文は次のURLで全文が紹介されている。
http://5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html
「(584年の)この事件が、『日本書紀』では「仏法の初め」と呼ばれているのである。
『日本書紀』のこの記述は、きわめて正常なものである。
第一に、仏法の伝来とは、僧または尼がその地で受け入れられ、供養を受けはじめることをこそいう。
第二に、右の事件に先立つ欽明十三年(552)に、百済王から仏像その他の物品が贈られてきた記事があり、世にはこれがわが国への仏法伝来を告げる一史料であるかのように扱われてきたが、記事そのものをそのままに読めば、これは僧が来たものでもなく尼が来たものでもなく、ただ“仏教文物”のみがもたらされ、しかも群臣の意見が徴された上で、天皇としても朝廷としても、仏法を受けいれないことにした事件である。
第三に、『日本書紀』にはこの欽明朝の事件が、仏法の初めとはされていない。
…
ところで『日本書紀』に、仏教が播磨から伝わった事件が、たんに『仏法の初め』とのみしるされていることは、何を意味するか。
明らかである。
六世紀後半の敏達朝において、わが王権は、まだ播磨をも領せざる一地域権力であった。当然、播磨は、“我が国”とは別国、ないし別国に属する地であった。――そう『日本書紀』の問題の本文は告げている。――このことを意味する。
仏法が別の国からわが国に伝わって、僧(尼)の供養が行われはじめたときをもって『仏法の初め』と称する。『日本書紀』の記述ぶりは、まことに正常ではないか。」(p.13-14)
さらに中小路氏は538年説に対する反論もなされている。
「また『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起』に、欽明朝の戊午の年に百済から僧が派遣されて仏法が伝来したと書いてあるのは、仏法伝来には違いないものの『紀』にいう前記の『仏法の初め』とはまったく別の事件であって、すなわち欽明朝の大和の事件ではなく、大和よりまえに九州の宮廷に仏法が受容された事件であり、その年代は五世紀最初の戊午の年(418)である蓋然性が最も高いことも、私はすでに別に述べた。」(p.14-15)
と、中国や半島と通交のあった九州王朝においては5世紀には仏法が受容されていたと述べている。
いろいろ調べていくと、『三国史記』に中国の僧が朝鮮半島に仏教が伝えた記録があり、高句麗には372年、百済は384年に仏教が伝わり、それぞれ寺も建立している。また『三国遺事』には倭国(九州王朝)と緊密な関係にあった百済について、「阿莘王即位大元十七年(392)二月。教え下し仏法を崇信し福を求めさせる。」と書かれており、4世紀の終わりごろ百済は国を挙げて仏教が興隆していた時期であり、その頃に百済から九州に仏教が伝来した可能性はかなり高かったのではないだろうか。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html
もともと、『日本書紀』にも『古事記』にも古来わが国は一つの王朝であったとはどこにも書かれていないのだが、わが国の古代史は「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」ことを前提とし、中小路氏の言葉を借りると、「その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する」スタンスで研究がなされ、教科書の記述も同様だ。したがって、その大前提が崩れてしまうとわが国の古代史は全面的に書き換えざるを得ないことになる。

ちなみに中小路氏の専攻は日本文学だ。専門外の学者の指摘で「古代史」がひっくり返されるのは古代史学界の面子にかかわるとでも考えているのだろうか。
中小路氏の論文が発表されて25年にもなるのに、古代史学界の住人はこの論文を無視して、いまだにまともな反論をしていないようである。
前々回の記事で読者の方から、「その当時の出土品等はすべて大和に結び付けないと、学会やマスゴミから異端扱いされるか無視される。はては既知外扱いされますので研究者は本当のことが言えなくなります。現代の日本の古代史学会等は『カルト』と考えておけば間違いない」とのコメントを頂いたが、私もよく似た話を何度か聞いたことがあるし、ネットでもそのような記事が散見される。
学者である以上、既存の学会の権威を維持するためにではなく、真実は何かを追及するために全てのエネルギーをぶつけて欲しいものである。
古田氏や中小路氏らの提起した問題に斬り込まずして古代史の真実は見えて来ないと思うし、その問題に正面から立ち向かう研究者が古代史学界から数多く現われないことには、何年たっても教科書の古代史記述は変わらないのだと思う。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。
***********************
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- しばやん:正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える (01/05)
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- しばやん:2019年新年のご挨拶 (01/04)
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- しばやん:なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか (01/02)
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同上 電子書籍
同上 自由選書版
江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます
落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました
この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました
南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版