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国宝の新薬師寺本堂で12体の国宝仏像に囲まれて

前回は白毫寺のことを書いたが、白毫寺から田園風景の残る静かな住宅地のなかの細い道を歩いて15分もすれば新薬師寺の南門に到着する。

新薬師寺本堂

門をくぐると国宝の本堂が見えてくる。この建物は天平時代の建築で、新薬師寺創建当初の建物なのだそうだ。この本堂の中に、国宝の仏像が12体も安置されているのだ。

古刹の一つの建物の中で、これだけ多くの国宝の仏像を間近に参拝できる場所はかなり少ないと思われる。
以前このブログで「東大寺三月堂」(国宝12体) の記事を書いたのだが、昨年5月に東大寺三月堂は須弥檀と仏像の修理が開始されて、今は国宝4体と重要文化財3体が安置されているだけだと思う。今年8月からは須弥檀の修理工事のために平成25年3月まで拝観停止となり、今年10月には日光菩薩像(国宝)、月光菩薩像(国宝)、弁財天像(重要文化財)、吉祥天像は(重要文化財)が、現在建築中の「東大寺ミュージアム」に移されることが決定している。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-106.html
次のサイトを良く見ると、新薬師寺よりも多くの国宝仏像で囲まれた空間を公開している寺院は、興福寺東金堂や東寺講堂、三十三間堂、中尊寺金色堂くらいしか残されていないようなのだが、参拝者が目の前で国宝と対峙できる空間となると、新薬師寺本堂は貴重な場所であることが分かる。
http://www.kokuhoworld.com/bhome.html

ここで少し、新薬師寺の歴史を振り返ってみよう。
パンフレットによると、
「新薬師寺は聖武天皇眼病平癒祈願の為、天平十九年(747)勅願により光明皇后によって建立され、新薬師寺の「新」は「あたらしい」ではなく「あらたかな」薬師寺という意味であります。
 当時東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられ、四町四方の境内に七堂伽藍甍をならべ住する僧一千人と記録にあります。
 三十三年後の宝亀十一年西塔に落雷、瞬時にして炎上、現本堂のみが焼け残ったわけです。」
と簡単に書かれているが、「四町」とは約440mなので「四町四方」という広さは今の新薬師寺の境内の20倍近い広さになる。

今の奈良教育大のキャンパスは新薬師寺の境内であったらしく、平成20年の10月に同大学の敷地から現在の東大寺大仏殿よりも大きな新薬師寺の建物跡が発掘されているようだ。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_11_22.htm
この建物跡は新薬師寺の金堂のものだと考えられているが、講堂だとする説もあるようだ。

新薬師寺が建てられた天平19年(747)は、東大寺大仏の鋳造が開始された年でもある。大仏開眼が天平勝宝4年(752)で大仏殿竣工は天平宝字2年(758)のことだ。

こんなに大きな寺を建てているにもかかわらず、正史である「続日本紀」に新薬師寺の建立のことが何も書かれていないのは、この寺が光明皇后によって建てられたからなのだろうか。

光明皇后

光明皇后は聖武天皇の皇后で、父親は藤原不比等である。皇族以外から立后された初めての例で、Wikipediaによると、「…仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設『悲田院』、医療施設である『施薬院』を設置して慈善を行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。」と書かれている。
藤原家にとっては光明皇后が大きな寺院を建立することは、藤原家の権勢がいかに大きいかを当時の人々に知らしめることでもあったと考えればいいのだろうか。

新薬師寺の建立については、『東大寺要録』という書物の中に記録があるらしい。そこには「天平十九年(747)三月、仁聖天皇(光明皇后)、聖武天皇不予(ふよ:病気)により新薬師寺を立てる。並びに七仏薬師像を造る」とあるそうだ。『七仏薬師像』については正史である『続日本紀』巻第十六に天平十七年の9月、聖武天皇が6尺3寸(約1.9m)の薬師仏像を7体制作することを命じたことが記録されている。

新薬師寺のホームページには、創建当初にはこの7体の薬師仏が新薬師寺の金堂に安置され、それぞれの薬師仏の左右には日光・月光菩薩が脇侍に付き、周りに十二神将像が安置されていたと記されている。それならば、新薬師寺金堂が東大寺大仏殿に匹敵する大きさの建物になることは納得できるというものだ。
新薬師寺の創建当初にはこの金堂の左右には東塔と西塔が並び、境内には100人余の僧侶が修行する僧坊や壇院があり、七堂伽藍が整う大寺院だったそうだ。
http://www.k5.dion.ne.jp/~shinyaku/about.html

奈良時代に「南都十大寺」のひとつに数えられていたという新薬師寺が、どういう経緯でこれだけ規模が小さくなってしまったのか。この経緯はパンフレットにあるように、最初は落雷による火災だ。
『続日本紀』巻第三十六には宝亀十一年「庚辰。大雷。災於京中数寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔并金堂等。皆焼尽焉。」(正月十四日に大きな雷があり、京中[奈良]の数か所で火災が起こり、新薬師寺の西塔や葛城寺の塔と金堂が焼失した。)と書かれている。
新薬師寺のパンフレットではこの時に「現本堂のみが焼け残った」とあり、新薬師寺のホームページにも「建物のほとんどが焼失した」と書かれているが、『続日本紀』を素直に読めば、この時に焼失したのは西塔だけであったという可能性が高そうだ。

『東大寺要録』という書物に、応和2年(962年)に「大風により、七仏薬師堂(金堂)等堂舎顛倒、他に東大寺南大門等も倒壊」した旨の記述があるので、多くの堂宇を失ったのはこの時期なのだろうか。

奈良教育大学で発掘された新薬師寺金堂跡の遺物の中には、仏像の破片らしき乾漆片もあったそうだ。そんな大きな金堂が倒壊したのであれば、仏像も破壊されたことは間違いないだろう。

その後鎌倉時代に解脱上人(げだつしょうにん)、明恵上人(みょうえしょうにん)により再興され、東門、地蔵堂、鐘楼が建立され、天平の建造物である現本堂を中心に、今の新薬師寺が整ったのだそうだが、以前の規模には戻らなかったようだ。

それにしても、随分小さなお寺になったものだと思う。
今の本堂は他の目的で使用されていたお堂が転用されたものだそうだが、以前はどんな目的で使われていたかは良くわかっていないようだ。ただ古い建築物であることは確かであり、遺構の少ない奈良時代の建築物として国宝に指定されている。

新薬師寺内部仏像

本堂の中に入ってみると、すべての仏像が円形須弥壇に並んでいるのに驚いた。目に入る仏像のほとんど総てが国宝だと思うと嬉しくなってくる。中は撮影禁止だが、ネットでイメージのわかる写真があった。

堂内の中央に安置されている「薬師如来坐像」は平安初期の制作だと考えられ国宝に指定されているが、昭和50年の調査で像内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見され、このお経も国宝に指定されているそうだ。

周りの「十二神将立像」はもとから新薬師寺にあった仏像ではなく、前回白毫寺の記事の中で書いた「岩淵寺(いわぶちでら)」という近くのお寺から移したものだと伝えられている。この内、宮毘羅(くびら)大将像[寺伝では波夷羅(はいら)大将像]は江戸時代末期の地震で倒壊し、昭和になって補作されたもので国宝指定外となっているが、その他の11体の仏像は天平年間(729-749)に作られたことが確認されているのだそうだ。

新薬師寺バサラ像

本尊に向かって右にあるのが、日本の500円切手のデザインに使用されている有名な迷企羅(めきら)大将像[寺伝では伐折羅(ばさら)大将像]である。

バサラ像切手

1260年以上前に制作されたものであることはわかっているのだが、今も迫力のある表情で、今にも動き出しそうな格好で、未だに生き生きと感じられるのだ。

何度も破壊される危機を乗り越えて、かけがえのない大切な宝として、何代にもわたって守られてきたからこそ、この空間がある。昔の人々に感謝したい気持ちになった。
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東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」

新薬師寺の国宝仏像を鑑賞した後、続けて天平時代の国宝仏像が見たくなった。

東大寺の戒壇院には有名な国宝の「四天王立像」がある。この仏像は今までテレビや写真でしか見たことがなかったのだが、ずっと以前からこの仏像を自分の目で見たいと思っていたので、新薬師寺を見た後に奈良公園を抜けて東大寺戒壇院に向かった。

東大寺戒壇院

上の画像が東大寺戒壇院だ。戒壇院は誰でも知っている東大寺大仏殿から300m程度西側にあるのだが、ここに来る観光客はかなり少なかった。

「四天王立像」のことを書く前に、東大寺戒壇院の歴史をパンフレットの記事などを参考にまとめておく。

天平勝宝6年(754)に僧鑑真が来朝し、東大寺大仏殿の前に戒壇を築いて、聖武天皇をはじめ百官公卿四百人に戒を授けた記録があるが、同年五月一日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨により、東大寺戒壇院が造営されたそうだ。創建当初は金堂、講堂などが建てられていて、かなり大きな寺院であったらしい。

東大寺戒壇院戒壇堂

その後、治承4年(1180)、文安3年(1446)、永禄10年(1567)の三度の火災により、創建当初の堂宇をすべて失い、国宝の「四天王立像」が安置されている現在の戒壇堂(上の画像)は享保17年(1732)年に建立されたもので、現在奈良県の重要文化財に指定されている。

ところで、「戒壇」とは受戒の行われるところで、「受戒」とは僧侶として守るべき事を確かに履行する旨を仏前に誓う厳粛な儀式のことだ。

創建当初の「四天王立像」は銅造のものであったらしいのだが今はなく、今の国宝「四天王立像」は東大寺内の「中門堂」から移されたものと言われているそうだ。その「中門堂」も焼失して今の東大寺にはない建物であり、よくぞこの戒壇堂に天平時代の最高傑作が残されることになったものだと思う。

入堂すると二重の檀があって、参拝者は下の檀に上がってぐるりと一周しながら上檀の四隅に立つ各像と目の前で対面することになる。

東大寺戒壇院四天王2

東大寺戒壇院四天王1

東南隅に剣を持つのが持国天、西南隅に槍を携えて立つのが増長天。北西隅に巻物を持つのが広目天、北東隅に宝塔を高く掲げているのが多聞天である。

像の高さは163cmほどの等身の像で、増長天のみが口を開いて忿怒形をしているが、広目天・多聞天・持国天は口を閉じてはいるものの内面に怒りを秘めており、それぞれの表情に深みがあり、写実的で迫力がある。

特に広目天の眉間に皺を寄せ両眼を細めて遠くを凝視する表情や、多聞天の口をへの字に曲げてすぐにでも怒りが爆発しそうな表情が印象に残った。像の足元で脅えている邪鬼の表情もまた面白い。
この天平時代に、人間の内面の怒りや感情をこれほど高度に描写する天才仏師が日本にいたというのが凄い。

この「四天王立像」を制作した仏師はいったい誰なのだろうか。

Wikipediaによる「東大寺」の解説によると、この「四天王立像」は、「法華堂の日光・月光菩薩像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の1つで、国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)の作」と書かれているのだが、この「国中連公麻呂」という人物は何者なのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA

「続日本紀」の巻第三十三光仁天皇の宝亀五年(774)の記録の中に「国中連公麻呂」が亡くなったことと、その業績などが簡記されている一節がある。しばらく引用してみる。

「冬十月三日、散位・従四位下の国中連公麻呂が卒した。もとは百済の人である。祖父の徳率(百済の官位の第四位)・国骨富は、近江朝廷(天智朝)の癸亥年(663)に本国が滅びる戦乱にあって帰化した。天平年間に、聖武天皇が広大な願いをおこして盧舎那仏(東大寺大仏)の銅像を造ろうとした。その高さは五丈(15m余り)である。当時の鋳造の工人はあえてそれに挑む者はいなかったが、公麻呂は大変優れた技巧と思慮があり、ついにその仕事をなしとげた。その功労によって、最後には四位を授けられ、官も造東大寺次官兼但馬員外介になった。天平宝字二年に、大和国葛下郡国中村に居住していたので、地名に因み「国中」の氏を命じられた。」(「続日本紀(下)現代語訳」講談社学術文庫p133-134)

と、ここには国中連公麻呂が東大寺大仏の鋳造に関わった事だけが書かれている。これだけ大きなプロジェクトに関わった人物が、他にも多くの仏像を造ったことは間違いないのだろうが、「続日本紀」に国中連公麻呂が異例のスピードで昇進した記録と、「寧楽遺文」という書類に東大寺三月堂の不空羂索観音の制作に関わったと思われる記述がある程度らしいのだ。では戒壇堂の四天王寺立像の制作者が国中連公麻呂という説は何を根拠にしているのだろうかというと、それについては過去の記録は何もないようなのだ。

奈良時代の天平期には素晴らしい仏像がいくつもあるが、制作した仏師が記録で判明しているものはわずかしかない。
東北大学名誉教授の田中英道氏はこの時期の仏像を作風や技術、表現力のレベル別に分類されて、以下の仏像はいずれも同一人物の手になるものであり、国中連公麻呂の制作によるものである可能性が高いと結論付けておられる。(「国民の芸術」)

【東大寺大仏殿】盧舎那仏(東大寺大仏)
【東大寺三月堂】不空羂索観音像、日光菩薩像、月光菩薩像、執金剛神像(秘仏)
【東大寺戒壇院】四天王立像
【新薬師寺】十二神将像
【唐招提寺】鑑真和上像
【法隆寺夢殿】行信僧都像

日光月光菩薩
<不空羂索観音像(中央)、日光菩薩像(右)、月光菩薩像(左)>

執金剛神像
<執金剛神像>

田中英道氏はこう書いている。(同書p250-251)
「…西洋「中世」美術でさえも、現在では様式に基づいて議論が行われ、出来る限り作者認定の試みが行われている。」
「…日本における奈良時代のこの大芸術家だけが、日本でも世界でも知られていない。作品があれば当然、それを作った作家がいる、という平凡な事実が、わが国ではなぜか無視されている。
 わが国では、史料がなければ、作家を認定することが出来ぬという、悲しむべき美術史家の史観におおわれていきた。「様式」観察を基礎とする美術史的な訓練に欠けた考察しかなかったとも言える。作風を検討し、多くの眼が共通性を一致して認める。そこではじめて、作風認定による一人の芸術家が生まれる。それが美術史の基本である。史料はその上に補強材料として組合わせられていくにすぎない。」

さらに田中英道氏は「公麻呂の芸術性はミケランジェロに相当する」と書いておられるが、この評価は人によって異なるだろうし、田中英道氏が掲出した作品がすべて国中連公麻呂の作品だとすれば、ミケランジェロよりも上だと考える人がいてもおかしくない。しかも国中連公麻呂の時代はミケランジェロよりも800年も以前にこれらの仏像を造ったことになる。
私にとっては天平期の仏像の方が深いものを感じるし、少なくとも奈良時代においては、日本の彫刻や造形技術、その芸術性が世界最高レベルにあったことは間違いないのだと思う。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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