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応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える

前回の記事で、1420年頃から太陽活動が極端に低下する『シュペーラー極小期』が始まっていて、それから冷夏・長雨による飢饉の記録が増加していることを書いた。

東南アジアの夏の平均気温推移

このような異常気象は100年以上続いて、わが国の各地で穀物等の収穫量が減少して餓死者が続出したのだが、この時期に各地で土一揆が起ったことや応仁の乱(1467年)が起こったことは、冷夏が続いて穀物の収穫量が減ったことと無関係ではなかったと思うのだが、そのような視点からこの時代を叙述している歴史書は少ない。

山川日本史

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』に、『シュペーラー極小期』の初期に土一揆が頻発したことについてどう記されているか気になったので調べてみると、こう書かれている。

惣村の形成
守護大名が大きな勢力をきずいてきた14世紀後半には、荘園領主や国人の支配する農村で、惣(そう)や惣村(そうそん)とよばれるむすびつきが発達していた。このむすびつきは、戦乱から村落をまもり、国人・荘園領主に抵抗するために、有力農民が、成長してきた小農民を構成員にいれてつくったもので、自治的性格をもち、沙汰人(さたにん)・乙名(おとな)とよばれる地侍(じざむらい)の指導者を選出し、警察・裁判などもみずからおこない、武力もそなえていた。
 惣村を維持するため、その構成員である惣百姓は会合(寄合)をひらいて規約(村掟・惣掟)を定め、財産として共有地(惣有地・入会地)をもっていた。また領主と交渉して、責任をもって年貢を請け負う百姓請(地下請)を実現したり、年貢の免除や引き下げをもとめた。
 こうした惣村の動きに対抗するため、荘園領主や国人は守護大名の力にたよった。これに応じて守護大名は半済や守護請をおこなって荘園の支配を強め、さらには一国内を領国として支配し、惣村に対しても田別に段銭、人別に夫役を課していった。

土一揆
 農民たちは、はじめのうちは領主に抵抗するのに、領主のもとにおしかけて訴える愁訴(しゅうそ)・強訴(ごうそ)や、山林ににげこんで耕作を放棄する逃散(ちょうさん)などの消極的な手段をとっていた。
 しかし守護の領国支配がすすむと、彼らは周辺の村々と連合して郷や組という連合組織をつくるようになり、一致団結した集団行動の一揆や、逃散といっても他村ににげこむ積極的な行動もとるようになった。そして地域的にひろいつながりをもつ土一揆という武力蜂起をおこすようになると、経済的にも地域のつながりがふかまるなかで、守護大名と実力で対抗するまでに成長していった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.117-118)

と、この時期に異常気象が相次いで何度も飢饉が起こり多くの餓死者が出たことを一言も書いていない。普通に読めば、農民が実力を蓄えて守護大名に対抗する勢力になったと理解するしかないのだが、農民が守護大名に抗して武力蜂起をおこすというのはどう考えても異常事態であり、この教科書のような説明に違和感を覚えるのは私だけではないだろう。

広域の飢饉発生年とその要因

前回の記事で紹介した田家 康氏の『【異常気象】小氷河期が戦乱を生んだ』には、土一揆が多発した経緯についてこう記している。

「まず一四二三年に京都、越中、山城、大和で、そして一四二七年に、京都、会津、武蔵、下野、伊勢、丹波、豊前と各地に長雨や洪水の記録がある。一四二八年前半に三日病とよばれる疫病が発生し、応永から正長(しょうちょう)へと改元した理由となった。

 一四二八年には、京都、会津、下野、武蔵、伊勢、丹波、豊前で飢饉が発生した。そして同年八月、正長の土一揆が勃発するのだ。興福寺別当の尋尊が編集した『大乗院日記目録』には、「天下の土民蜂起す。徳政を号して、酒屋、土倉、寺院等を破却し、雑物等を恣(ほしいまま)にこれを取り、借銭等を悉(ことごと)く破る。管領これを成敗す。凡(およ)そ亡国の基であり、之に過ぐるべからず。日本開闢(かいびゃく)以来、土民蜂起の初めなり」と書かれている。もともと農業生産を向上させるための鉄製農具や農耕馬が、農民叛乱において武器と化していった

 一四三七年から二年続きの飢饉が発生し、嘉吉の徳政一揆の遠因となる。一四四一年六月に足利義教が赤松満祐(みつすけ)によって暗殺されると、新しい将軍はまず善政を示すべきとして、借入金の返済を見直す『代替りの徳政』を求める声が高まった。九月に入って、一揆の軍勢は近江から京都に乱入したのだ。室町幕府は、正長の土一揆では拒否した徳政要求に屈し、閏九月一〇日に徳政施行を発した

 一四四五年から一四四六年にかけても、洪水は加賀、能登、近江で起き、京都で『止雨奉幣』が祈られた。そして、一四四七年(文安四)に諸国の牢籠人が洛中に集まり、暴徒や悪党と結託して文安の土一揆が発生した。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=4

このままでは飢えて死ぬしかない瀬戸際に土一揆が起こっているのであって、農民が階級闘争をはじめたかのような『山川日本史』の歴史叙述が正しいとは思えないのだ。

京都で武装蜂起した土一揆はどんな人々が結集し誰が主導したかというと、田家 康氏の論文によると当時の文献からは2つのパターンがあるという。
1つは惣村が関与した土一揆で、京都の酒屋や土倉といった金融業者に押し入り、借入証文の破棄という私徳政を要求したもの。
もう一つのパターンは村主導のものだけでなく、飢饉の発生によって村を離れて流民となった人々が、自力救済の行動として食糧や物資を強奪したものである。

田畑を耕して家族の生活が維持できるのであれば、農民が村を離れることは考えにくい。農民が耕地を捨てて流民となるのは、余程の飢饉が起きたか、刈り取る前に作物を奪われるなどして、村にいても生きていくことが出来なくなるような事態に陥ったということだろう。

「シュペーラー極小期」の始期とされる応永27年(1420)に大規模な旱魃が起こり、畿内と西国が大凶作となり、また翌年には各地で深刻な飢餓と疫病に襲われて、さらに応永28年(1421)には飢えた人々が難民となって京に殺到したという。しかしながら、京の人々も食べるものが無くなって、餓死者が続出するに至る。

飢餓と戦争の戦国を行く

そして嘉吉3年(1443)に「嘉吉の大飢饉」が起こっている。しばらく藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』を引用させていただく。

「この年も京では『天下飢饉し、悪党充満す』(『看聞日記』)といわれ、大飢饉のため夜ごと高利貸が襲われ放火され、『みな強盗のせいだ』と言われます。『辺境』の村が飢えると、生き延びるため『京中』をめざし、ときには京の高利貸(土倉・酒屋・寺院など)や富商を襲います。諸国の領主や京の政権に、ほとんど危機管理の力量がなかった時代のことです。だから、かれら悪党や強盗の多くは、物乞いとならんで、周縁から京に流れ込んだ飢餓難民たちが、自力で生き延びる必死なサバイバルの道だったと私はみるのです。」(同上書 p.50-51)

さらに文安2年(1445)には各地を大きな台風が襲い、文安3年(1446)には大洪水があり、翌文安4年(1447)にも大風・洪水・旱魃から凶作となったために飢餓難民が京に流入し、さらに「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も各地から京都を目指したという。

そして13年経って、長禄4・寛正元年(1460)冬から翌年春にかけて、「寛正の大飢饉」が起こり、この時も諸国の人々が食を求めて京に流入し、米穀の蓄えが底をついた寛政2年の春に、将軍足利義政が錢100貫文を放出して食物の施しを始めたが、多数の飢饉難民を前にほとんど効果なく、わずか6日ほどで打ち切ったという記録がある(『臥雲日件録抜尤』)。
また願阿(がんあ)という民間の僧が、「勧進」といって京の人々から金品の喜捨を募り、六角堂の一帯に仮小屋を立てて難民を収容し、日に二度、八千人もの規模で粟粥などの施しを始めたが、この施しも効果が乏しく20日ばかりで止めてしまった記録がある(『碧山日録』) 。
餓死者は鴨川にあふれて流れをふさぐほどで、五条の河原に300mもの長い堀を掘って埋葬したという。

一方で、京に流入した飢餓難民に仕事を与えてうまくいった事例もある。藤木氏は同上書でこう記している。

「15世紀の初め『天下大飢渇』といわれた飢饉のさなか、京の慈恩という金持が錢二百貫文もの私財を投げ出して、五条の大橋のかけ替えを始めると『富者は財(金銭)を施し、貧者は力(労働)を施し』たため、飢えた人々も仕事と食べ物にありつき、ぶじに大橋の再建も成った、といいます(『仲方和尚語録』)。また苔寺で知られる京都の西芳寺でも、同じころの大飢饉のさなか、難民を救うために『ただ人に物を食わせ、何のなすことも無うては、その身のためも悪い』と考えた僧が、荒れた庭を復旧しようと、飢えた人々をやとい、日ごとの働きに応じて食べ物を与え、めでたく庭もできた、といいます(『三体詩抄』)。」(同上書 p.55)

足利義政
【足利義政像】

将軍の足利義政は長禄・寛正の飢饉のさなかに「花の御所」の復旧をはたし、ついで六千万貫文もの資金を投じて、母のための御所の建造にとりかかったことについて、人民の苦しみをかえりみぬ暴挙として、天皇に批判されたという記録(『新撰長禄寛正記』)があるそうだが、藤木氏は飢饉であったからこそ、将軍は雇用創出の為に公共事業を起こして、難民たちに仕事を与えたという可能性を示唆しておられる。事実、将軍義政は寛正2年の春に五山の寺々に指示し、四条・五条の大橋で大がかりな「施食会」も開かせており、難民対策もしっかりと実施していたのである。

花の御所
【上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた『花の御所』】

将軍の御殿造りも、寺の再興も、公共の橋のかけ替えも、金持の豪邸つくりも、みなこの生き残りの仕組みをうまく駆使した事業でした。それは、権力者や寺院や豪商が強引に手元へかき集めた巨富を、危機の世に放出し再配分するための装置だった、ともいえるでしょう
その結果、なにがしかの働き口と食べ物にありついた難民たちの一部は、かつがつ餓死をまぬがれ、彼らを救った坊さんは世に名僧と仰がれ、金持ちは『有徳の人』(徳のある人)と敬われ、その社会で地位を固めました。世の危機に私財を投じて事業を起こすのは、世の金持ちのとうぜんの務めで、それこそ『有徳の人』といわれたのです。」(同上書 p.57-58)

このような事例のある一方で、土一揆で多くの建物が襲われて取り壊されたりしたのだが、では、どのような建物が破壊のターゲットとされたのか。藤木氏の解説を続けよう。

「しかし、もしひどい不況や飢饉になっても、金持が蓄財をだし惜しんで『有徳の人』らしい務めを果たさなければ、世の中はだまっていませんでした。『有徳の人』に『徳』のある行いをつよく求め、実力で富をもぎとる行動に出たのです。その典型が、つぎにみる『徳政』をさけんだ土一揆で、その標的になったのは、土倉・酒屋・寺院など、京の富豪(分限者)たちでした。あいつぐ飢饉を背景に断続した徳政の土一揆というのは、世のサバイバルシステムを力ずくで作動させようとした、いかにも『自力』第一の中世らしい、自力救済の運動だった、と私はみるのです。」(同上書 p.58)

では、なぜ食糧の生産地である農村が先に飢えて、消費地である京に飢餓難民が殺到したのか。この謎について藤木氏は都市社会学者の藤田弘夫氏が提起した仮説を紹介しておられる。

もはや中世の村は、その生産物でまず自分の暮らしを立て、その余りを首都に移出するという、自然な自給自足の村ではなかった。ことに周縁の村々は、政権都市であり荘園領主の拠点都市である首都に早くから従属し、京に食糧や物産を供給する基地として、地域ごとにきまった作付け(モノカルチャー)が強制され、それを上納し販売することで、ようやく村の暮らしも保証されるようになっていた。
 だから、いったん凶作になると、この偏った需給システムをもつ生産地がまず飢えに襲われ、食を求めて生き延びるために、権力があらゆる富を集中させていた、首都をめざすことになったのだというのです。」(同上書 p.58-59)

藤木氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』における15世紀のわが国の記述は、『山川日本史』よりもはるかに説得力を感じるのだが、残念なことながらこの本は絶版になってしまっているようだ。
近い将来、この時代の通史が階級闘争史観から全面的に書き改められる日は来るのだろうか。

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金閣寺と足利義満の野望
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日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
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後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
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後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか
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関連記事

飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か

前回の記事で応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も京を目指したことを書いた。

応仁の乱が起こる39年前の正長元年(1428)に有名な『正長の土一揆』が起きている。

馬借 『石山寺縁起絵巻』
【馬借 『石山寺縁起絵巻』より】

Wikipediaにはこう解説されている。
「室町時代中期、凶作(前年からの天候不順)、流行病(三日病)、将軍の代替わり(足利義持から足利義教へ)などの社会不安が高まる中、近江坂本や大津の馬借*が徳政を求めた。その一揆が畿内一帯に波及し、各地で借金苦に苦しんだ農民たちが酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲い、私徳政を行わせた。…
室町幕府はこれに窮し、管領畠山満家に命じて制圧に乗り出し、侍所所司赤松満祐も出兵したが、一揆の勢いは衰えず、9月中には京都市中に乱入し奈良にも波及した。
尋尊の『大乗院日記目録』には、『正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。官領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。』と記載されている。」
*馬借(ばしゃく):馬を利用し、荷物を運搬する輸送業者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86

徳政」というのは為政者の代替わり、あるいは災害などに伴い改元が行われた際に、天皇が行う貧民救済活動や神事の興行のことを指すが、ここで土民らが求めたのは朝廷・幕府が土倉などの金融業者に対して債権放棄を命じる「徳政令」の発布である。
『正長の土一揆』においては、徳政令は出されなかったものの、土倉らが持っていた借金の証文が破棄されたために(私徳政)、徳政令が出されたのと同様な結果となったという。

次に大きな土一揆が起ったのは、嘉吉元年(1441)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐(あかまつみつすけ)が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺するという大事件が起きたあとの混乱期に起こっている(嘉吉の土一揆)。この時も飢餓難民たちが京に向かって、徳政令を要求している。

前回の記事で紹介した藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』を引用させていただく。

徳政条々木札 大嶋奥津島神社
【徳政条々木札 大嶋奥津島神社】

「この京の政治と治安の空白のさなか、土一揆は『代始めの徳政には先例がある』と叫んで(『建内記』)、またも代替りの徳政を強行しました。飢餓を背景としたこの土一揆も、近江(滋賀県)など周縁の村々から、きそって京を襲います。すでに湖東の荘園では、地域に負債の解消を宣言する徳政の木札(大嶋奥津島神社蔵)が、村役人たちの手で掲げられていました。
 京を守る侍所の京極軍は、これを東山の清水の坂で阻止しようとして、激しい『矢戦(やいくさ)』になります。しかし、武装した土一揆の大群は圧倒的に優勢で、軍の犠牲者は五十余人にのぼったほどでした(『東寺執行日記』)。それは、幕府の大名軍の多くが播磨(兵庫県)の赤松攻めに出勤し、京はほとんど無防備になっていたからで、…『赤松打たれ、徳政行く』(『宝林寺年代記』)といわれていたほどでした。
 徳政をさけぶ土一揆は『四辺の土民蜂起』とか『土民数万』といわれ、東は近江の坂本・三井寺から、南は南郊の鳥羽・竹田・伏見から、北は嵯峨・仁和寺・賀茂辺からと、周縁の村々から武装して京に押し寄せます。彼らは五条の法華堂をはじめ京の街を襲い、放火・掠奪するなど、自力で私徳政を強行したのです(『建内記』)。」(『飢餓と戦争の戦国を行く』p.62-63)

土一揆勢は北野社、太秦寺、清水、東福寺など少なくとも16か所に陣地を作り、日ごと有力な高利貸(酒屋・土倉・日銭屋・寺など)を襲ったという。そのころ京には土倉・酒屋は600軒以上あったと考えられているが、それらが相次いで土一揆に襲われたのである。そして、土一揆勢は京の経済を麻痺させていくことになる。

嘉吉徳政一揆分布図 「詳説日本史図録(山川出版社)」
【嘉吉徳政一揆分布図 「詳説日本史図録(山川出版社)」】

「こうして土一揆は、京の流通を支える「七道口」をすべて封鎖し、物資の供給を断って首都の生活を麻痺させ『商売の物なく、京都の飢饉もってのほか』という、二次飢饉(流入型飢饉)においこみます(『公名公記』)。四方の龍通路をふさげば京はすぐに飢える。それは平安時代いらいの通例でした(東島勉)。この首都封鎖作戦に負けて、ついに幕府は、はじめて『一国平均の徳政』を告げる広域徳政の制札(徳政令)を、土一揆の集中していた七つの街道口に掲げます。
 しかし、借金棒引きの徳政令が出ても『土一揆なお愁訴(異議申立)をふくむ』といわれ(『建内記』)はんぱな徳政令は、なお土一揆の人々を満足させなかった
のです。…」(同上書 p.63-64)

その2年後の嘉吉3年(1443)にも周縁の飢饉で難民たちが京に流れ込み、夜ごと難民たちが強盗となって放火し、あいついで土倉が襲われて質物が奪い取られている。

またその4年後の文安4年(1447)には「文安の土一揆」がおこり、土一揆勢は北の嵯峨の一帯を制圧し、東寺を起点にして京の七条の土倉などを襲い一帯の家々を放火・略奪した記録がある。
さらにその7年後の享徳3年(1454)に起きた「享徳の土一揆」でも、禅寺の相国寺が打ち壊されて寺の貸付金の質物などが奪われ、土倉や日銭屋も襲われている。

中世の土一揆

「土一揆」の集団と言うより「盗賊集団」とでも呼ぶ方が適切だとも思えるのだが、幕府はその鎮圧のために何度も軍隊を差し向けながらも効果が無かったようである。

「この『享徳の土一揆』の出身もまた、『近郷』とか『都鄙の間の所々』といわれました。周縁の村々から京に押し寄せ、下京から上京まで縦横に駆け抜けたのでした。このときもやはり、どの大名軍の兵士たちも、土一揆の弾圧にはかばかしくは動かず、やはり村々の土一揆と軍の下っぱの雑兵たちとの深いつながりを感じさせます。土一揆への対応に幕府軍のみせた深い亀裂は、のちの応仁の乱の大きな予兆でした。
土一揆のこうした高揚に、幕府はやむく『徳政の御大法』をだします。『借金の10分の1を公方に進送せよ』というのがその骨子でした
。高利貸(酒屋・土倉・寺院など)から借りた、元金の10分の1を幕府に納めれば、質物は返され、借金は帳消しだ、というのです。…このあやしげな『享徳の徳政令』は、こののち8回にも及ぶ、徳政令の基準になったのです。
土一揆の『横行』を冷ややかに傍観していた公家たちも、この徳政令に喜んで、きそって債務を帳消しにしてもらいます。…」(同上書 p.66-67)

さらにその3年後の長禄元年(1457)の「長禄の土一揆」も同様で、幕府軍は多くの戦死者を出して大敗したという。土一揆の私徳政を主導したのは旱魃と疫病に迫られた京の周縁の村人たちの組織で、さらに周縁から多くの飢餓難民を巻き込んで大勢力になっていったと考えられている。

寛正元年(1460)にも寛正3年(1462)にも土一揆が起きている。寛正3年の土一揆について藤木氏の解説を引用させていただく。

幕府は軍隊に土一揆の排除を命じます。しかし諸大名軍の兵士たちはやはり動かず、それどころか『大名の内の者(雑兵)』までが高利貸や民家に『土一揆と号し』て乱入し、略奪(雑物取り)や放火を働く、というありさまでした(『大乗院寺社雑事記』)。これに危機感をつよめた幕府は、けんめいに京の封鎖を排除して流通を確保しようとし(『蔭涼軒日録』)、ついで山城(京都府)の一帯で土一揆の張本人狩を行ないます。
 そのため、東郊の山科郷では、村人二人が徳政の張本人として土地家屋を没収されます(『山科家礼記』)。南郊でも伏見の竹田の村人がつかまって首を切られ、逃亡した者はその家を焼かれました。追及は北郊の松崎や、広く山城から丹波(兵庫県)の村々まで及びました(『蔭涼軒日録』)。土一揆の大きな広がりがしのばれます。それほどの弾圧をうけても、なお土一揆はやみません。翌寛正4年(1643)秋にも『京都に徳政の沙汰あり』(『大乗院寺社雑事記』)といわれ、第三派の私徳政の実力行使が続いていくのです。」(同上書 p.70-71)

応仁の乱が起こる2年前の寛正6年(1465)にも土一揆勢が東寺にたてこもり、七条辺を襲った記録があるが、その翌年の土一揆はさらに大規模であった。

『悪党・物取等』が『酒屋』に乱入し、それに雑兵たちばかりか、れっきとした上層の武士たちの騒動も重なり合って『徳政の沙汰』とか(『後法興院政家記』)、『酒屋・土倉数ヵ所を打破』などと(『大乗院寺社雑事記』)土一揆による自力の私徳政があいつぎます。
 そればかりではありません。年末には、細川勝元・畠山政長らの軍(東軍)も、山名持豊・畠山義就の軍(西軍)もそれぞれ、軍事費(兵粮料)を出せといって、京中の酒屋や土倉から銭を責めとっていたのです(『大乗院寺社雑事記』)。金を出せば軍の乱暴はやめよう、というのでしたが、もはやその実態は、土一揆と悪党・物取や武士の騒動の区別もつかないほどの騒ぎでした応仁の乱前夜の激動は、こんな混乱が続けば、『洛中人民は餓死に及ぶ』といわれたほどでした。」(同上書 p.71-72)

広域の飢饉発生年とその要因

こんな具合に応仁の乱が起こる直前まで土一揆が頻繁に起こっているのだが、年表を見ると応仁の乱が始まる応仁元年(1467)から内乱が終わる文明9年(1477)の10年間には土一揆は記載されていない。これはどう理解したらよいのだろうか。

通説では、土一揆勢は内戦にのみこまれていったん消滅したとされるのだが、そんな単純な理由ではなさそうだ。応仁の乱の最中の文明4年(1472)には旱魃が起こって京都、大和、和泉などで飢饉が発生しており、土一揆が起ってもおかしくない条件が揃っていたのである。にもかかわらず、応仁の乱の10年間において土一揆の記録がないのはなぜなのか。

真如堂縁起絵巻
【真如堂縁起絵巻(部分)】

藤木氏はこう解説しておられる。
土一揆の消えた首都の戦場での市街戦が始まると、土民(百姓)が『足軽と号し』て略奪を働いている(『大乗院寺社雑事記』)といわれ、あらたに足軽という名の雑兵が出現するのです。戦場の主役は土一揆に代わった足軽たちで『足軽と号す』つまり『おれは足軽だ』とさえいえば、戦場となった京では、略奪も野放しだったらしいのです。『土一揆と号す』『徳政と号す』から『足軽と号す』へ、京のサバイバル(生きのこり)のスローガンの大きな転換でした。
 この京の戦場を横行する足軽を、ある貴族はこう激しく批判します。このごろ初めて出現した足軽という連中は、『超過したる悪党』で、強敵のいないところばかりを狙って、『所々を打ち破り、あるいは火をかけて、財宝をみ(見)さぐる。』、まるで『ひる強盗』のような連中だ、と(『樵談治要』)。
 またある人は、足軽たちは兵粮が乏しいため、京の商人や職人から、借りるだけといって金銀を奪い取り、返そうともしない、と非難していました(『塵塚物語』)」(同上書 p.73-74)
要するに、実態はほとんど変わらずに、狼藉する際に発する言葉が『徳政』から『足軽』に代わっただけのことである。

応仁の乱に参加した兵士の数については諸説あるようで、Wikipediaでは東軍約16万人、西軍11万人とあるが、その大半が足軽であり、彼らに対してまともな賃金や兵粮が支給することは到底不可能であった。その代りに両軍は、足軽たちに戦場での略奪を公認していたのである。そして京には、足軽たちが略奪した品物を売り捌く市場があったという。

「…京の戦場には、多くの商人たちが群がっていて、足軽などから略奪品を買い漁っては転売し、もうけていたのです。商人たちは盗品を、戦争のない奈良や坂本(滋賀県)に運んで、『日市(ひいち:フリーマーケット)』を立てて売り捌いていたといいます(『応仁記』)。京の東山の祇園社では、戦いに紛れて本尊の牛頭天王の黄金像が打ち砕かれ、戦場の商人に売り払われる始末でした(『祇園社記』『大乗院寺社雑事記』)。
 しばしば土一揆の拠点となった京の九条の東寺も、はるか東郊外の醍醐の三宝院に、隠物(かくしもの)・預物(あずけもの)として避難させていた、多くの寺宝を軍兵に略奪されてしまいます。ところでやがて、はるか西郊の八幡(やはた:京都府八幡市)の市場で売られていた『鎮守額』や『聖天』像などを、信者が買い取って東寺に寄付してくれ、東寺もその市場で多くの寺宝を買い戻していました(『廿一口方評定引付』)。」(同上書 p.78-79)

応仁の乱が始まって年表から「土一揆」という言葉が消えたとはいえ、濫暴狼藉がなくなったわけではなかったのである。

応仁の乱が終わった後に「戦国時代」と呼称される時代が続くのだが、応仁の乱と同様に戦国大名も大量の足軽などの雑兵をかかえて戦った。しかしながら雑兵たちは懸命に戦っても大名からの恩賞は無かったのである。恩賞が無いのにもかかわらず雑兵たちが軍隊に参加したのは、雑兵たちがある程度の略奪や暴行を行なうことを戦国大名たちが許容していたからにほかならない。

しかし、国同士や他国の民同士が相手の所有する物を奪うことが何年も続いては、人々が平和に暮らせる時代が訪れることがないことは誰でもわかる。それぞれの大名がただ自国の領土と領民を守るだけではだめで、誰かが武力で全国を統一してこのような行為をやめさせなければならなかったのだが、そういう視点からわが国の戦国時代を考えることが必要なのだと思う。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

アイスランドの火山爆発と天明の大飢饉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-117.html

飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-20.html

関東大震災の教訓は活かされているのか。火災旋風と津波被害など~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか。~~その2(山崩れ・津波)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html


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戦国時代がこんなに長く続いたのはなぜか

以前このブログで、応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次いで飢餓難民が京に流入し、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返して、室町幕府は有効な対策を打たないまま応仁元年(1467)に『応仁の乱』が起きて市街戦がはじまると、両軍に雇われた足軽たちが狼藉を繰り返したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-464.html

応仁の乱は10年間続きその間に飢饉も起こっているのだが、なぜか土一揆は姿を消している。
藤木久志氏の『土一揆と城の戦場を行く』にはこう記されている。文中の「尋尊(じんそん)」という人物は奈良興福寺の180世別当である。

尋尊
【尋尊像 (興福寺蔵)】

「…尋尊(じんそん)は、こう証言する。
彼らを傭兵として雇った東西両軍ともに、彼らにまともな兵糧=食糧や給与を支払う力がない。だから、その代わりに戦場の市街での打破・乱入、つまり富家の略奪を公然と許可しているのだ、と
つまり足軽と号する』というのは、兵粮の代わりの公然たる略奪の免罪符で、『おれは足軽だ』といいさえすれば、略奪は思いのままで、その戦場には、物取も悪党も乱暴人も流民(きがなんみん)たちも殺到して、切ないサバイバルの手段にしていたのであった。その盗品は、彼らと結託する戦場の商人たちに売られて、郊外の『日市』で売りさばかれていた。」(『土一揆と城の戦場を行く』p.21)

『真如堂縁起絵巻』応仁の乱
【『真如堂縁起絵巻』応仁の乱

食糧が乏しかったにもかかわらず、応仁の乱の10年間に土一揆の記録が無い理由は、それまで「土一揆」を起こしていた主要勢力が両軍の「足軽」に入り込んだからなのだが、彼らにとっては「土一揆」を起こすよりも「足軽」という立場で掠奪する方がリスクも低く、経済面のメリットが多かったということなのだろう。

東南アジアの夏の平均気温推移

しかし、文明九年(1477)に『応仁の乱』が終わっている。それから後はどうなったのだろうか。
以前このブログで紹介したが、1420年代から1530年代の約110年間を『シュペーラー極小期』といい、太陽の活動が低下していたことが分かっている。太陽活動が活発であったかどうかは古木の年輪に含まれる放射性炭素C14の測定値で分かるのだそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-462.html

広域の飢饉発生年とその要因 1481~1601年

太陽活動が低下することにより穀物等の収穫量が減少し、全国各地で飢饉が発生したのだが、戦国大名は、自国領も含めて周辺の国々の食糧の絶対量が不足している年にどのような対策を行ったのだろうか

北条氏綱像 (箱根町 早雲寺蔵)
北条氏綱像 (箱根町 早雲寺蔵)】

北条早雲―氏綱―氏康と三代続いて名君と評価されている後北条氏の治世について田家康氏は著書でこう述べている。

「後北条氏の治世とは、近隣諸国との武力抗争だけではなく、飢饉時に爆発しそうになる領民のエネルギーをいかに抑制するかが大きな課題であった。
 興味深いことに、彼らの家督相続はすべて飢饉の年に起きている。伊勢盛時…は、1518年(永正十五)…の9月には隠居し、家督を嫡子の氏綱に譲っている。…1518年は関東諸国だけを見ても、上野で『今年諸国大飢饉』、甲斐で『天下人民餓死』とある。…
 家督を継いだ氏綱がまず行ったのが、領国内の年貢賦課の改革、役人の不正排除、目安制度(直訴)の創設であった。まずは農民の不安や不満の解消に手を付ける必要があったのだ。
 続く氏綱から氏康への相続は、1539年夏に始まる冷夏・長雨傾向が1541年まで続いた時期であった。甲斐の『妙法寺記』には1541年について、『此年春餓死ニ至リ候、人馬共ニ死ル事無限、百年ノ内ニモ御座キ候ト人々申来リ候、千死一生ト申候』と餓死者が多発した様子を記録している。
 1541年(天文十)七月十九日に氏綱の死去により家督を継いだ氏康にとっても、当初の重要課題は先代と変わらず飢饉対策であった。天候不順により農地は荒れ果て天文の飢饉となっていた。加えて、軍役の徴発が重くのしかかったことで、『退転』『欠落(かけおち)』『逃散(ちょうさん) 』といった農民の離村が急増していたのだ。氏康は手始めに両国の検地を実施し、不作地を特定した上で農民からの課税減免要求に応えている。さらに、1543年(天文十二)二月三日の虎印判状で、金銭を納めれば軍役を免除しその代わりに『郷中に罷り帰り、作毛すべし』と農作業の奨励を発した。」(『気候で読み解く日本の歴史』p.181-183)

北条氏綱や氏康が領内の農民の不満への対策に取り組んでいたことが紹介されているが、北条軍が他国に攻め入る場合は話が別である。天正二年(1574)五月に北条軍が下総に攻め込んだ時には稲の苗代を悉く掘り返し、収穫期の夏麦を刈り取っている。また八月に上総に攻め込んだ時には、収穫前の米を刈り取り味方の兵粮にしている。このような事例は北条軍だけではなかった。

上杉謙信像(上杉神社蔵)
上杉謙信像(上杉神社蔵)】

上杉謙信の場合、越後の足軽や雑兵らを引き連れ、他国を侵略し、食料の略奪を繰り返した。越後からの関東出兵は、長雨による飢饉となった1560年(永禄三)八月に始まる。関東出兵は1574年まで12回に及んだが、うち8回は秋から翌年夏にかけてであり、関東平野で越冬している。越後は雪国ゆえ水田二毛作といった麦の裏作はできない。このため、春以降の領内の食料不足を見据え、『口減らし』をすべく温暖な関東平野で過ごしている上杉謙信は北陸や北信濃にも出兵しているが、こちらは秋の収穫期を狙っての短期間の軍事行動であり、長期遠征で越冬するのは関東に対してだけだった。
 上杉軍は、後北条氏の領内の農産物を奪っただけではない。1566年(永禄九)二月に常陸小田城を落とした際、『景虎ヨリ、御意ヲモッテ、春中、人ヲ売買事、廿銭程致シ候』と上杉謙信公認のもとで、戦争奴隷の人身売買を行った記録がある
 武田軍も同様だ。武田信玄は1541年(天文十)に甲斐の当主となり、1573年(元亀四)に三河の陣中で没するまで生涯32回の他国への軍事侵攻を行う中で、広域の飢饉が発生した後に必ず外征している。1544年の冷夏・長雨の翌春に南信濃の伊那郡に遠征、1577年以降の干ばつ時に北信濃の川中島までを支配した。1561年にインフルエンザと思われる疫病が関東で流行した際に川中島で軍事作戦を展開し、1566年の冷夏・長雨時には上野を侵略している。
 武田軍の足軽・雑兵にとっても、戦場は出稼ぎの場であった。戦場で乱取りが常態化していたことは、高坂弾正(春日虎綱)による『甲陽軍艦』から読み取れる。…
高坂弾正は、こうした乱取りができるのも『信玄公矛先の盛んなる故なり』と認識し、『国々民百姓まで悉く富貴して、安泰なれば、騒ぐさまひとつもなし』と領内の雰囲気を描いている。乱取りで得た戦利品によって領民の生活が豊かになっており、それゆえ甲斐では武士から領民まで外征を歓迎していた。」(同上書 p.185-186)

雑兵たちの戦場

東日本の例を挙げたが、西日本も同様であった。藤木久志氏はこう解説している。

「(島津家家老の上井覚兼は)…天正10年(1582)末、肥前で有馬氏を助けて、龍造寺の千々岩城を攻め落としたときの戦果報告を、『敵二、三百討ち捕る』『執る人などは数を知らず』『分捕りあまた』と書き留めていた。
 その時の島津軍の動きを(イエズス会宣教師の)フロイスも同じように記していた。『彼らは大勢の敵兵を殺し、捕虜にし、その地を蹂躙し掠奪した。だが山頂にいた指揮官と若干の兵士たちは(早く)戦利品をもって帰りたいと野望するのあまり、(敵を)思う存分に撃破するに必要な一両日を待ちきれず、最良(の獲物である城)を放棄したまま…目標を達することもなしに、引き揚げてしまった。』と」(『雑兵たちの戦場』p.16)

このように雑兵たちの中には、戦いに勝つことよりも戦利品を持ち帰ることの方を重要視していた者が多かったようなのだが、戦利品は食糧や財物ばかりではなく、人間も対象にされたことを書かねばならない。九州では大量の日本人が奴隷として海外に売却されたことがフロイスの記録に残されている。このことは今までこのブログで何度も書いてきたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

今回の記事の冒頭で、応仁の乱の頃に興福寺の尋尊(じんそん)が、雑兵には兵粮が与えられない代わりに戦場の市街での乱取りが大目にみられていたことを記していることを紹介したが、それから100年以上たっても同様であったことをルイス・フロイスが別の著書で書いている。

ヨーロッパ文化と日本文化

岩波文庫の『ヨーロッパ文化と日本文化』という本の第7章で、フロイスはヨーロッパ(ポルトガル)の戦争と日本の戦争の違いをこう記している。

「38 われわれの王や体調は兵卒に報酬を支払う。日本では戦争の続いている間、食べたり、飲んだり、着たりすることは各人が費用を賄わねばならない。
 39 われわれの間では土地や都市や村およびその富を奪うために戦う。日本では戦争はほとんどいつも小麦や米や大麦を奪うために行われる
40 われわれの間では、馬、単峰駱駝(ドロメダリオ)、駱駝等が兵士らの衣類を運ぶ。日本では各人の百姓fiaquxosが彼の衣料や食糧を背中につけて運ぶ。」(『ヨーロッパ文化と日本文化』p.115-116)

戦国時代の戦争は、決して戦国大名や家臣たちのものではなく、その根底には村人たちの戦争参加があった。軍全体でみると、中核となる騎馬兵は全体の1割程度で、残りの9割は村の出身者が戦争の時に集められた「雑兵」であったのだが、彼らには兵粮がなく、懸命に戦っても恩賞があるわけでもなかった。それゆえに、ある程度の掠奪や暴行を許容しなければ、彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用することができなかったのである。

真如堂縁起絵巻
【『真如堂縁起絵巻』】

「雑兵」といっても、刀などの武器は当然保有していた。その気になれば、武器で脅迫して民間人から食糧や財物を巻き上げることは容易であったはずだ。
戦国大名は、敵地に侵攻する際に「雑兵」たちに敵地の作物を刈り取らせ、容赦のない掠奪を行なわせたのだが、これは敵地の経済力にダメージを与える狙いがあったにせよ、ただでさえ太陽活動が低下していた時期にそうした行為が各地で繰り返されることによって被害地域は食糧不足となり、いずれ飢饉に陥ることとなる。

隣国同士がこんな戦いを続けていたのでは、お互いが消耗するばかりだろう。かといって、お互いが争わないことを約したとしても、軍備を怠っていると別の敵に狙われて食糧不足に陥りかねない。
昔も今も同様だが、侵略意思のある国が存在するかぎりは、どの国も自国を守る備えが不可欠で、特に絶対的に食糧が不足しているような状況下で他国の食糧を奪いあうような争い事が始まれば、そう簡単には終わらなくなる。

戦国時代がいつからいつまで続いたかについては諸説があるが、応仁の乱が始まった応仁元年(1467)から始まり豊臣秀吉が天下を統一した天正十八年(1590)まで123年続いたというのが多数説のようだ。室町幕府の中央政権としての機能が失われた明応二年(1493)の明応の政変以降という説を選ぶにしても100年近く続いたことになるのだが、なぜ戦国時代がこんなに長く争いが続いたのか、教科書などを読んでもよくわからなかった。

大坂夏の陣図屏風
【大坂夏の陣図屏風】

藤木久志氏は『雑兵たちの戦場』のプロローグで、雑兵たちが戦場に向かった背景についてこう解説している。
「戦場で濫妨狼藉の主役を演じていた雑兵たち。彼らはいったいどこからきたのか。
 凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏への端境期の戦場は、たった一つのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊も、ゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場に繰りひろげられた濫妨狼藉、つまり、掠奪・暴行というのは、『食うための戦争』でもあったようだ。」(『雑兵たちの戦場』p.7)
村の人々にとっては『食うために』は、戦争に行く選択しかなかったことを理解すれば、戦国時代が長く続いたことがなんとなく理解できる。

しかしながら、隣国同士が相手の食糧を奪い、田畑を破壊するような争いを繰り返していたのでは、人々が平和に暮らせる時代が訪れることがないことは誰でもわかる。
まして当時のイエズス会は、切支丹大名を育ててわが国の分断をはかり、最終的にわが国を植民地化する戦略を練っていた。もし、このままわが国の内乱が続いてわが国がバラバラのままで疲弊していったとしたら、わが国の一部が西洋の植民地にされていた可能性は決して小さくなかったと思われるのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

そうさせないために誰かが西洋勢力の魂胆を見抜き、武力で全国を統一して国同士の争いごとをやめさせることが必要だったのだが、そういう視点からこの時代を描いた書物は戦前には存在したものの、戦後はほとんど姿を消してしまっている。
戦後になって、戦勝国である西洋諸国にとって都合の悪い史実が封印されてしまい、長い間わが国の教育界やマスコミなどでタブー視されてきたのだが、いつになったらこの時代の歴史が全面的に書き直されることになるのだろうか。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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