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討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る

前回の『ええじゃないか』騒動の記事で、岩倉具視らの陰謀により、慶応三年(1867)十月十三日、討幕派の薩長両藩に『討幕の密勅』が下ったことに少しだけ触れておいた。

武力討幕派の薩摩長州両藩にとっては、もし将軍徳川慶喜が土佐藩の建白による大政奉還を決断するとなると武力で幕府を倒す大義名分がなくなってしまうばかりか、新政府の主導権を土佐に奪われかねないことになる。そこで、朝廷より「討幕の密勅」を受けて、武力討幕を進めようとするのだが、大政奉還される前日の十月十三日出された「討幕の密勅」は、朝廷の出す「詔書」として正式な手続きを経たものではなかったことが明らかになっている。
Wikipediaに詳しく書かれているが、この勅書は明治天皇も摂政二条斎敬の手も経ずに書かれており、偽勅である可能性が限りなく高いと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85

倒幕の密勅

この「討幕の密勅」の読み下し文はWikipediaでも読めるが、次のURLに口語で要約されている。読めばわかるが、驚くほど過激な内容になっている。
http://www.japanusencounters.net/restoration.html#restoration

読み下し文はこうなっている。

「詔す。源慶喜、累世の威を籍り、闔族(ごうぞく=一門)の強を恃み、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)に擠し顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕、今、民の父母として、この賊にして討たずんば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇を顧みざるは、万止むべからざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山獄の安きに措くべし。此れ朕の願、敢へて懈る(おこたる)ことなかれ。」

要するに慶喜を暗殺せよと天皇が命じたことになるのだが、慶喜が将軍に着任したのは慶応二年(1866)の十二月五日だから着任してまだ10か月と日が浅く、ここまで恨まれるほどのことは何もしていないと思われる。要するに薩長は討幕ありきで、その為には慶喜を殺すしかないという考えなのだ。

この密勅は慶応三年(1867)十月十三日に薩摩藩に、その翌日に長州藩にも下され、長州藩には京都守護職の松平容保(会津藩主)とその実弟で京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を討伐する命令書も下りている。

しかしこの討幕の密勅は、あとで記すが、十四日に将軍・徳川慶喜から大政奉還の上表が出されたために、中止されることになったという。

次に薩摩・長州とは別の立場をとる土佐藩の動きを追ってみよう。
土佐の坂本龍馬、後藤象二郎らが、天皇のもとに徳川及び諸藩が力を合わせて国内を改革する必要を唱え(「公儀政体論」)、彼らの働きかけで前藩主山内容堂は、15代将軍徳川慶喜に対し、政権を返還するよう建白した。
慶喜はこれを受け容れて、同じ十月十四日に朝廷に大政奉還を申し出て、朝廷はこれを受理し、これにより家康以来265年続いた徳川幕府はついに幕を閉じることになるという流れだ。

船中八策

龍馬が唱えた維新国家のグランドデザインは『船中八策』と呼ばれ、原文は次のようなものであったとされている。
「一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜シク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。」

この『船中八策』の最初に書かれているのが『大政奉還』であり、龍馬の構想する維新国家は、まず幕府が大政奉還したうえで朝廷を中心とした統一国家を作り、上下両院の議会政治により討議すること、憲法を作ることなどが書かれている。

後藤象二郎や山内容堂がこれを受け容れ土佐藩の藩論としたのは、薩長による武力討幕を回避するためは、これ以外に方策はないと考えたのであろう。土佐藩が幕府に大政奉還の建白をしたのは十月三日で、十月六日には芸州藩も同様な大政奉還の建白をしているようだ。

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この建白に対する幕府の対応は驚くほど早かった。徳川慶喜は十月十三日に十万石以上の諸藩の重臣を二条城に集めて大政奉還の諮問を行い、朝廷に大政奉還を申し出たのは十月十四日なのだ。

徳川慶喜は土佐藩などの大政奉還の建白をどう受け止めたのだろうか。もちろん薩長の武力討幕派の動きについては耳に入っていたはずだし、もし幕府と薩長とが戦えば双方が消耗して外国勢力の思う壺となり徳川家の存続どころではなくなる。一方、徳川幕府が大政奉還を受け容れれば、薩長による倒幕の大義名分がなくなり、内乱が回避され徳川家も安泰となる。徳川家としては、この選択の方がはるかにベターだと考えたのだろう。

Shogun-Tokugawa_Yoshinobu.jpg

しかし将軍慶喜は、大政奉還をしても徳川家の政権の実権を捨てることまでは考えていなかったようだ。朝廷側にとっては、幕府からいきなり政権を返上されても明治天皇の年齢は当時数えで16歳に過ぎず、朝廷に政権運営能力があるわけではない。慶喜には、大政奉還後にやがて組織されるであろう諸侯会議で、その後も政治的影響力を発揮できるという読みがあったようだ。

慶喜生前談話集である『昔夢会筆記(せきむかいひっき)』という本には、「予(慶喜)が政権返上の意を決したのは早くからのことであったが、かといって、どのようにして王政復古の実を挙げるべきかについては良い考えは思い浮かばなかった。しかし土佐藩の建白を見るに及び、その掲げる政体構想が非常に有効であると確信したので、これならば王政復古の実を上げることができると考え、これに勇気と自信を得て、大政返上の断行に踏み切ったのだ。」という趣旨のことが書かれていることが次のURLに紹介されている。
http://www2.dokidoki.ne.jp/quwatoro/faq2/faq2.cgi?action=answer&no=24

要するに、徳川慶喜は「船中八策」にあるように「上院に公家・諸大名、下院に諸藩士を選補し、公論によって事を行えば、王政復古の実を挙げる事が出来る」と考えたのだ。さらに『昔夢会筆記』には、老中板倉勝静(いたくらかつきよ)らは、慶喜を朝廷の摂政という形にしてそのまま実権をとり続けさせたいと思っていたことが、書かれているようだ。

 徳川慶喜が朝廷に提出した大政奉還の上奏文とその口語訳が次のURLで読める。
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu10.htm

「臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考候に、昔し王綱紐を解き相家権を執り、保平の乱政権武門に移りてより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す処、慚懼に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と並立つべく候。臣慶喜国家に尽す所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯え相達置候。之に依て此段謹て奏聞仕候。 以上  慶喜」

最初に記したように、朝廷はこの大政奉還により十月二十一日に『討幕の密勅』の中止を指示している。そして、翌日には大名会議開催までの庶政を慶喜に委任する決定を下し、二十三日には外交権がまだ江戸幕府にあることを認める通知が出ているという。大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の動きにより、次の新政権に徳川慶喜が擁立される可能性は少なからずあったようなのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BE%A1%E6%89%80%E4%BC%9A%E8%AD%B0#cite_ref-2

しかし武力討幕派の薩摩・長州両藩は慶喜の復権を認めるつもりはなく、密かに強引なる政変決行の準備をしていたのである。

慶応三年(1867)十二月八日、岩倉具視は自邸にて薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し協力を求め、翌朝の朝議のあとに、待機していた尾張・土佐・薩摩・越前・安芸の五藩の兵が京都御所の九門を閉鎖し、御所への立ち入りを藩兵が厳しく制限した中で、親王、公卿のほか五藩の諸侯を集め、明治天皇(15歳)が『王政復古の大号令』を下したという。その宣言は次のようなものであった。

「徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。」

この宣言により江戸幕府は廃止され、京都守護職・京都所司代も、摂政・関白も廃止され、徳川慶喜は将軍職を辞職し、新たに設けられた総裁、議定、参与の三職にも徳川慶喜は選ばれなかったのである。また「小御所会議」では徳川慶喜の内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることまでも決めたとある。このような重要な決定が、慶喜不在で行われたというのだ。これは慶喜がとった大政奉還策に対して武力討幕派がこれを覆すクーデターのようなものではないか。

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小御所会議の様子はWikipediaなどに書かれている。
この会議で山内豊信(容堂)ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。特に山内が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、山内も沈黙したという。
そのやりとりの後で、岩倉具視らは徳川慶喜が「辞官納地をして誠意を見せるべき」と主張し両者譲らず、会議の休憩が宣言される。その休憩中に西郷隆盛は「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と述べて岩倉を勇気付け、このことは芸州藩を介して土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者がなく、岩倉らのペースで会議は進められ辞官納地が決したのだそうだ。(ただし400万石全納から松平春嶽らの努力で200万石半納になった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

一方的に御所警備の任を解かれ追い払われた会津・桑名藩兵や在京の幕臣たちは二条城に集まり、口々に「薩摩を討つべし」と騒いだという。慶喜の配下には幕兵5千余、会津3千余、桑名千五百余の1万近くの充分な兵がいて、一方の武力討幕派の方は薩摩藩の兵3千、長州の兵2千5百で、慶喜がその気になって戦えば勝つ可能性は高かったと思われる。しかし慶喜は戦おうとはせず、大阪に退き下がってしまった
この時に大久保利通は慶喜が抵抗もせずに、あっさりと大阪に退いたのに驚いたのだそうだ。大久保はこの時に慶喜との戦いに敗れることまで想定して、天皇を連れて広島あたりまで逃げることまで練っていたという説もある。

坂本龍馬

以前このブログで4回に分けて土佐藩の坂本龍馬が暗殺された原因を考えたことがあるが、龍馬の暗殺は十一月十五日で、十月十四日の「大政奉還」と十二月九日の「王政復古の大号」令の間に起こっているのだ。前回の記事に書いた『ええじゃないか』騒動もこの時期に起こっていることに、もっと注目してもいいのではないだろうか。

幕府から権力を奪うことになった大政奉還の方策を考えた坂本龍馬を憎いと考えた佐幕派が龍馬の命を狙ったとするのか、大政奉還の建白によって新政府に向かう主導権を土佐藩に奪われることを怖れて武力討幕派が狙ったとするのか、ほかにも諸説があるのだが、このような歴史の流れを知れば知るほど、私には武力討幕派が一番怪しいように見えてくるのだ。
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関連記事

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか

前回の記事で、フランス公使ロッシュの献策により、慶応3年(1867)5月に朝議の場で徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得、井伊大老の調印した通商条約の不備を補完して対外公約を果たし、これにより幕府は、諸外国から苛烈な要求をする原因を封じることに成功したことを書いた。

徳川慶喜はその2ヶ月前に大坂で各国の公使と謁見しその席で兵庫開港を確約したのだが、この時の慶喜は各国公使に好印象を与え、これまで討幕勢力を支援してきたイギリスの公使・パークスも慶喜を高く評価して次のような感想を書きとめている。

イギリス公使・パークス

わたしは将軍がどのような地位をしめることになろうと、可能な限りかれを応援したいと思っている。」
「この大阪訪問によって、とりわけつぎのような好ましい結果が生まれることを、わたしは信じて疑わない。それは、われわれ諸外国の代表が、以前よりもいっそう深い関心を将軍に対してもつようになることである。」
じっさい、将軍は、これまでわたしが知り合った日本人の中で、もっともすぐれた人物であるように思われる。おそらく、かれは、歴史にその名をとどめることになるであろう。」
(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4 慶喜登場』p.409より)

これまで討幕派を支援していたイギリスの公使が、徳川慶喜という人物に謁見した途端に幕府・将軍に心を寄せることになることは、薩長にとっては面白くないことであることは言うまでもない。

この謁見のあと、西郷隆盛らがイギリス公使館の対日政策に関わっていたアーネスト・サトウを訪ねている。サトウの著書にはこう記されている。

アーネスト・サトウ

「私は、西郷やその一派の人々の訪問をうけたことを覚えている。彼らは、我々と将軍との接近について、大いに不満であった。私は、革命の機会がなくなったわけではないことを、それとなく西郷に言った。しかし、兵庫が一たん開港されるとなると、その時こそ、大名は革命の好機を逸することになるだろう。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.255)

慶喜は慶応3年(1867)6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出しているのだが、いったん兵庫港が開港されて外国人が居留するようになれば、諸外国は平和を求めることになり、薩長の討幕運動は外国からの支持を得られなくなってしまうことをサトウは西郷らに伝えたのであろう

その後の薩摩藩の動きを見ていると、このサトウの言葉に触発されたことが窺えるのだ。
徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得ようとした5月の朝議(四候会議)で結論を先延ばしにする工作を行っていたのだが慶喜に押し切られてしまい、その会議の直後に薩摩藩は武力討幕の方針を固めている

一方徳川幕府は、前回記事で記したとおり、フランス陸軍の指導により近代的陸軍を整備していた。幕府軍は第二次長州征伐で大敗した頃とは様変わりしており、フランスはこの軍隊で薩長を倒すことを考えていたようである。

慶応3年(1867)8月に薩摩藩の西郷隆盛らが再びアーネスト・サトウを訪ねてきた際に、サトウが西郷らに話した内容が前回紹介した『幕末期東亜外交史』に出ている。フランスは、イギリス大使のパークスが慶喜びいきになったのを見て、共同で薩長を倒そうとサトウに持ちかけてきたというのだ。その本にはこう記されている。

仏人はサトウに、幕府の薩長取り潰しを仏英協力して援助してやろうではないかと、話を持ち掛けてきた。サトウは『串戯(じょうだん)でしょう。長州一藩さえ抑え切れぬ幕府など、援助しようにも方法がつかぬではないか。』とやりかえしたので、仏人も二の句がつけなかったようなわけです。しかしかかる論を公然とイギリス人にもちかける位ですから、フランスは、きっと幕府を援けて、諸侯をつぶす策をめぐらしていることは勿論で、幕府は『両三年のうち、金を集め機械を備え、仏(フランス)の応援を頼み、戦を始め候所存』とみえる。その時は、仏は、軍隊をくり出して幕府を援助するだろうから、諸侯の方でも、仏に負けない大国を背後に備えないと、危ないことになろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/141

「仏に負けない大国」とは、イギリスを指していることは言うまでもない。
そうサトウが述べた後に西郷らに対してイギリスに相談したいことがあれば言ってもらいたいと持ちかけた際に、西郷隆盛が語った有名な言葉がある。
日本政体変革の処は、いずれとも、我々尽力致すべき筋にて、外国の人に対し、面皮もなき訳と返答いたし置き申し候。」
要するに、日本の革命はわれわれ自身の手で行うことをサトウに宣言したのだ。

西郷隆盛

西郷が国許の桂に宛てた手紙に、この会談でサトウが西郷らに何を言い西郷がどう考えたかについて、こう記録されている。
譬(たと)え仏の援兵を相発し候時は、英国より押し付け候儀は相調(ととの)い申すべく、その節は英国においても戦争のため警護出兵いたすと申し触らし、同敷(おなじく)軍兵を差し出し候えば、必ず仏国の援兵は差し出し候儀は相叶い申さず候に付き、右のご相談も候わば承るべしと、却(かえ)って彼(サトウ)の方より申し出候に付、是は大幸の訳、其の時機に至りては御相談申すべしと相答え候ては、又英国に使役せらるる訳に相成り候のみならず、全く受太刀に落ち来り、議論も鈍り、此の末の処下鳥(したどり。負け犬というほどの意)に相成り候儀、自然の勢いに御座候故…」(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄5 外国交際』p.273-274)

サトウの言う通りに幕軍に対抗するためにイギリスの出兵を依頼してしまっては、たとえ幕府軍に勝利しても、わが国はイギリスに支配される国になってしまうことは西郷にはわかっていたのだ。しかしながらイギリスは、わが国が内乱状態に陥ることを期待していたからこそ、薩長を挑発し続けたのではなかったか。

大政奉還

そしてその2カ月後には、徳川慶喜は朝廷に政権を返上しているのだが、この時代の歴史はいくら教科書を読んでも、なぜ慶喜が大政奉還を選択したかがさっぱりわからない。

たとえば、標準的な高校の教科書である『もう一度よむ山川日本史』では、その前後の歴史についてこう記されている。

「長州再征の失敗後、徳川(一橋)慶喜が15代将軍となったが、幕府の力はすっかり衰えた。土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎らは、欧米列強と対抗するためには、天皇のもとに徳川氏・諸大名・藩士らが力をあわせて国内を改革する必要を強く感じた(公議政論)。彼らのはたらきかけで、前土佐藩主山内豊信(容堂)は、将軍慶喜に政権を朝廷に返上するよう進言した。慶喜もこれを受け入れ、1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出た。しかし同じころ、薩長両藩の武力討幕派は、岩倉具視ら急進派の公家と手をむすんで討幕の密勅をえた。そして彼らの主導によって、同年12月9日、いわゆる王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士などからなる新政府が発足し、二百数十年つづいた江戸幕府は滅亡した。」(『もう一度よむ山川日本史』p.216)

ほとんどの教科書には、イギリスやフランスの動きにも兵庫開港問題にも何も触れておらず、これではなぜ薩長が討幕を急いだかが見えてこないし、幕府と討幕派との内戦が始まってもおかしくない緊迫感が全く伝わってこない。これでは慶喜が朝廷から兵庫開港の勅許を得てからわずか5カ月で大政奉還を申し出たかが理解できないのは当然だと思う。

そもそも将軍慶喜が土佐藩の大政奉還建白を受けいれた意図はどこにあったのだろうか。

徳川慶喜

次のURLに徳川慶喜の『大政奉還上表文』の原文と現代語訳が出ている。
http://www.geocities.jp/sybrma/259taiseihoukan.html
重要なのは次の文章である。
「最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。」
内容的には、慶応4年(1868)3月に公布された明治天皇の『五箇条の御誓文』の内容によく似ているのである。

開国の真実

今まで何度か紹介した鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう解説されている。
「大政奉還1ヶ月前の慶応三年(1867)九月には、幕府開成所教授津田真道が著書『日本国制度』を提出し、大政奉還後の政治体制のあり方について論じている。徳川慶喜が考えた大政奉還とは。『自らの力で開国を成し遂げ、慶喜が中心となってイギリス型の近代的議会主義へ転換すること』だったのである。
 イギリスは、共和国のフランスやアメリカと異なり、国王を元首とする立憲君主制で、国王は『君臨すれど統治せず』の原則により政治責任をおわない。首相が政治上の指導者である
 イギリス立法府は上院と下院からなる二院制で、上院は世襲議員や僧侶から構成され、イギリスには今も貴族制度が残っている。
 だから、当時の日本が天皇制や公家制度など古(いにしえ)からのしがらみを遺しながら近代化を図るには、イギリスを手本として、天皇を国家元首とし、大君(将軍)を政治上の指導者とし、一万石以上の大名を世襲の上院議員とすれは、容易にイギリス型公議政体に移行できる。
 徳川慶喜は『刀槍の時代の次は議会の時代』と考えた
のである。」(『開国の真実』p.308-309)

アーネスト・サトウが予想していたように、徳川幕府がフランス軍の協力を得て、薩長等の討幕勢力を征伐する選択もあったのだろうが、徳川慶喜はそれを選択せず、平和的に政治体制を変革することを選んだのである。
慶喜は、大政奉還を奏上しても朝廷には政権を運営する能力も体制もないので、徳川家が天皇の下で新政府に参画すれば実質的に政権を掌握することができると考えていた可能性が高い。事実朝廷からは、上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら、緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとされている。つまり慶喜による政権掌握が実質的に続くことになったのである。

もし、慶喜が大政奉還ではなく倒幕勢力を征伐することを選択していたとしたら、恐らくイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する大規模な戦いが始まっていたことであろう。
以前にこのブログで書いたが、幕末期にわが国に大量に輸入されたミニエー銃は、従来のゲペール銃と較べ、飛距離と命中精度と破壊力が飛躍的に向上し、アメリカの南北戦争では62万人もの戦死者が出たという。
幕府軍と薩長との間で本格的な内戦が起こってしまっていたら、殺傷力の高い武器で多くの人命が失われていただろうし、国土は荒廃し人々は疲弊して、どちらが勝利しても我が国が独立国であり続けることは難しかったと考える。

英邁な徳川慶喜はそのような事態になることが分かっていたからこそ、討幕派の機先を制して「大政奉還」を奏上し、討幕の名目を奪って内乱が起こることを防ごうとしたのではなかったか。

一方の討幕派は、大政奉還に対抗して薩摩藩および長州藩に宛てて秘密裏に徳川慶喜討伐の詔書を下している。
この「討幕の密勅」について書き出すとまた長くなってしまうので、次回に記すことといたしたい。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-156.html

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-157.html

幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-158.html

中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-178.html

アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-181.html



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大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか

前回の記事で徳川慶喜が1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出たことを書いたが、その同じ日に正親町三条実愛(おおぎまちさんじようさねなる)邸にて薩摩の大久保利通、長州の広沢真臣(さねおみ:当時は兵助)に討幕の密勅が手渡され、薩摩藩および長州藩はその請書を提出している。

この『討幕の密勅』はかなり過激な内容になっていて、次のURLにその読み下し文が出ている。
http://www.japanusencounters.net/restoration.html#restoration

討幕の密勅

「詔す。源慶喜は累世の威をかり、闔族(ごうぞく=一門)の強をたのみ、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めておそれず。万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)におとしいれて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕今民の父母となる、この賊にして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報ぜんや。これ朕が憂憤の在る所、諒闇(りょうあん=天皇の喪服期間)にして顧みざるは、万やむを得ざればなり。汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ。
慶応三年十月十四日、正二位・藤原忠能、正二位・藤原実愛、権中納言・藤原経之、奉る。」

簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえと天皇が命じた文書なのだが、長州藩には京都守護職の松平容保(会津藩主)とその実弟で京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を討伐する命令書も同時に下りている。

ところが、この『討幕の密勅』は正式な手続きを経て作成された詔書ではなかった。
Wikipediaによると、天皇の命令文書である詔書は次のような手続きを経て作成されるものだという。
「1.天皇は、作成された原案を承認すれば、自らの手で日付の一字を記入する(御画日)。
2.摂政・関白は、写しが送られてくると朝廷会議を開催して検討し、妥当と決すれば施行を奏上する。
3.天皇は、可の一字を記入して許可する(御画可)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85

ところがこの『討幕の密勅』は、
明治天皇の御画日も御画可も欠き、摂政二条斉敬の手も経ていないものであった。二条斉敬は慶喜の従兄で親徳川派だったため、密勅の内容を知ればこれを許さなかったと思われる。後に正親町三条実愛は、密勅は二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で、自分と中御門経之・中山忠能・岩倉具視だけが知っていたと証言している。」
とWikipediaに解説されている。

三条実愛
【三条実愛】

そもそも当事者である三条実愛自身が後日「二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で」と証言しているのだから、この詔書は本物でなかったことは明らかである
要するに、岩倉具視ら天皇の側近の一部の者が、自己の野心を遂げるために、天皇や摂政に無断で書かれたものでありながら天皇の命令であるとして広められた文書なのである。

国立国会図書館デジタルコレクションに『大久保利通文書』全10冊が公開されている。
その第二冊に慶応3年10月から明治元年の大久保利通に関わる文書が掲載されているのだが、慶応3年10月8日付で薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵の3名連名で中山前大納言*、正親町三条大納言、中御門中納言宛に『討幕の宣旨降下を請う書』と『討幕の宣旨降下を請う趣意書』を提出している
*中山前大納言:中山忠能(ただやす)。明治天皇の外祖父
**中御門中納言: 中御門経之。妻は岩倉具視の実姉。

『討幕の宣旨降下を請う書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/17
『討幕の宣旨降下を請う趣意書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/18

討幕の密書請書 毛利家文庫
【討幕の密書請書】

そして10月14日付で大久保ら6名の連署で中山前大納言、正親町三条大納言、中御門中納言と岩倉具視宛に『討幕の密勅請書』を差出しているのだが、登場人物の大半が同じであることに注目して良い。要するに自作自演なのだ。
少なくとも薩摩藩にとっては詔書が正式な手続きで出されたかどうかはどうでもよく、朝廷からの討幕の要請が正式に出されたかのように振舞って、それを薩摩藩が引き受けた体裁をとっておけば、「討幕」の大義名分がたつと考えたのだろう。その勢いで討幕勢力を糾合させ、王政復古に持ち込む戦略だったのだと思う。
『討幕の密勅請書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/24

一方、慶喜が朝廷に提出した大政奉還上表』については、翌15日の朝議で勅許が決定して慶喜には大政奉還勅許の沙汰書が授けられている。そして、10月21日には、薩長両藩に対しては討幕の実行延期の沙汰書が下されている
はっきり言ってこの時期の朝廷は二条摂政や賀陽宮朝彦親王*ら親幕府派の上級公家によって主催されていて、大政奉還がなされても、朝廷の下に開かれる新政府は慶喜主導になることが当然予想されていた。討幕派はいずれそれを引っくり返すために、早くから武力討幕の準備を着々と進めていた。
*賀陽宮朝彦親王:中川宮、維新後久邇宮

鈴木荘一氏の『開国の真実』に、大政奉還の2ヶ月前の8月20日に木戸孝允と坂本龍馬が密談をしたことが紹介されている。しばらく鈴木氏の著書を引用させていただく。

「この日、木戸孝允は坂本龍馬に、
『…どうか大政返上のことも、七、八分まで行けば、その時の状況で十段目は砲撃芝居以外にはやり方がないだろうと思う』
と話し、坂本龍馬は大いに感服して同意
した。そして坂本龍馬は、9月24日、オランダのハットマン商社から購入したライフル銃1千挺を土佐藩で兵制近代化を進める板垣退助に届けた。
 木戸孝允は坂本龍馬に、アーネスト・サトウ(イギリス公使館員)から示唆された、
『幕府が大政奉還により公権力の名分を失った後に、私闘として武力で幕府を倒す』という『二段階革命論』を吹き込んだ

 …
こうして事態はどんどん進んでいった。討幕の密勅が下った薩摩藩では、藩主島津忠義(当時は茂久[もちひさ])、西郷隆盛らに率いられた薩摩藩兵三千人が四隻の汽船に分乗して11月13日鹿児島を出発し、長州藩領三田尻港を経由して京都を目指した。…
長州藩では奇兵隊・游撃隊など諸隊千二百人が六隻の軍艦に分乗して11月25日藩地を出発し、芸州(広島)藩からは11月28日に藩兵三百人が入京し、11月末には薩摩・長州・芸州藩兵約五千人が京阪神地方に集結
して事態はいよいよ緊迫の度を深めた。」(『開国の真実』p.317-318)

兵庫港が開港される日は慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)で、そのまま開港されてしまえば、将軍慶喜のリーダーシップを内外に印象付けるとともに、貿易が開始されることで諸外国は平和と安全を望むようになる。討幕派が政変を起こすとすれば、少なくとも兵庫開港から遠く遅れない時期に起こさなければならないと考えていたのである。そして11月末には薩長等の討幕軍が畿内に集結してクーデターの舞台が整った。

岩倉具視
岩倉具視

兵庫開港の翌日の12月8日に岩倉具視は薩摩・土佐・芸州・尾張・越前五藩の重臣を自邸に集めて王政復古の断行を告げ、協力を求めている。
そして翌12月9日、朝議が終了して公家衆が退出した後、待機していた五藩の兵が御所の九門を封鎖し、御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳の参内が禁止されたという。
そうした中、岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、慶喜の将軍職辞職勅許、京都守護職・京都所司代の廃止、江戸幕府の廃止、摂政関白の廃止などを決定し、天皇のもとに新たに総裁、議定、参与の三職を置くことを定めている。

夕刻行われた小御所会議について、再び鈴木荘一氏の著書の解説を引用させていただく。

山内容堂
山内容堂

「このように世上騒然とするなか、12月9日、朝廷において小御所会議が開かれた。
 参加者は、15歳になる明治天皇ならびに公卿衆、大名としては尾張藩の徳川慶勝、越前藩の松平慶永(春嶽)、土佐藩の山内豊信(容堂)、薩摩藩の島津忠義、芸州(広島)藩の浅野茂勲(しげこと)の5人である。徳川慶喜は除外されていた。会議では、まず議定中山忠能が『徳川慶喜の官位拝辞と所領四百万石の没収』いわゆる『辞官納地』を主張した。これを聞いた山内豊信(容堂)は怒りを顕し
『なんたることを言われるか。およそ本日のことは頗る陰険にわたっている。徳川慶喜は祖先より受け継いだ将軍職を投げうち、政権を奉還された。その忠誠は誠に感嘆に耐えない。また徳川慶喜の英明は天下に聞こえている。すみやかに徳川慶喜を朝議に参加させて意見を述べさせるべきである。二、三の公卿たちはなぜ今日のような武断を行い、あえて天下の乱階(らんかい)を開こうとされるか』
と反論した。堂々たる正論である。誰も反論することは出来なかった。
その直後、勢いに乗った山内豊重(容堂)の口が滑った。山内豊重(容堂)は、更に続けて
『この暴挙を敢えてした二、三の公卿の意中を推しはかれば、幼冲の天子を擁して、権力を私(わたくし)しようとすもの!』
と断定し、岩倉具視を厳しく糾弾したのである。…(略)…
 突然、矢面に立った岩倉具視は、まなじりを上げて反撃に出た。岩倉具視は、
『御前でござるぞ、お慎みあれ。『幼い天子を擁して』とは無礼にもほどがあろう』
と山内豊信(容堂)を一喝した。岩倉具視は、さらに続けて、
『徳川慶喜が本当に反省しているなら、自ら官位を退き、土地を朝廷に還納すべきである。朝議参加はそれからのことである。』
と声を励まし居丈高に主張した。

…(略)…
しかし越前藩の松永慶永(春嶽)、尾張藩の徳川慶勝、芸州(広島)藩の浅野茂勲は、徳川慶喜の出席を求める山内豊信(容堂)の意見に同調した。山内豊信(容堂)の意見が正論であり常識的だったからである。議論は深夜におよび、膠着した。そして一時休憩となった。
この休憩時間に、薩摩藩士岩下左次右衛門が西郷隆盛に意見を求めると、筒袖・へこ帯に刀を差しただけの姿で警備にあたっていた西郷隆盛は、
『短刀一本あれば片付く事ではないか。このことを岩倉公にも一蔵(大久保利通)にも、よく伝えてくれ』

と言い放った。西郷隆盛『山内豊信(容堂)が会議再開後も慶喜の出席を求めて抗論するなら明治天皇の御前であっても山内を刺殺すべき』と言った。
…(略)…
西郷の意向を聞いた岩倉具視は『なるほど』と唸り、山内刺殺の決意を固め、短刀を懐に入れた。
西郷の意向と岩倉の決心を聞いた山内豊信は、論争は最早これまで、と観念し沈黙した。
 こうして朝議は徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めた。

 結局…、イギリス型公議政体への移行を理想とした徳川慶喜の大政奉還は、
『武力討幕派に隙を見せただけ!』
 という不毛な結末に終わった
のである。」(同上書 p.318-321)

二条城二の丸御殿

こんなひどいやり方で、小御所会議で徳川慶喜の『辞官納地』が決定した時、慶喜は京都の二条城にいた。当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいて、討幕を目指す薩長軍も約5千人が京都にいて、幕府軍と一触即発の情勢であったという。

慶喜が、その後どう対処したかについては次回に記す事としたい。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

幕末の孝明天皇暗殺説を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

「明治天皇すり替え説」を追う
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坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
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お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分
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