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日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2

前回は15世紀末から始まるインディオの悲劇のことを主に書いたが、北アメリカにもアフリカにも同様な悲劇があったことは言うまでもない。
カリブ海地域から拡がった地球規模の奴隷貿易に対しては、宗教的あるいは人道主義の立場から批判が古くからあったようだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を弾劾したのは、後で記すとおり、比較的最近の話なのである。

前回紹介したラス・カサス神父は、インディオの虐待を即時中止して平和的にキリスト教を布教するべきとの考えであったのだが、それがキリスト教全体の方針ではなかったことを書いておかねばならない。

15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出を「大航海時代」というが、この時代にローマ教皇が多くの教書を出している。
高瀬弘一郎氏によると、当時のローマ教皇は「キリスト教世界の首長として絶大な影響力を持ち、その決定はヨーロッパのキリスト教国王すべてにとって精神的拘束力となり、一種の国際法的な意味すらもつものであった…。ポルトガル国王もスペイン諸侯も、自己の海外発展の事業を正当化し、さらに鼓吹するために随時教皇に対してこの種の精神的支援を求め、一方教皇の側は、カトリック教勢の伸長を図る意味からも常にこれに応じて明確な援助を与えてきた。」(岩波書店『キリシタン時代の研究』p.7)とあり、当時においてローマ教皇の教書は影響力のきわめて大きい文書であったことは間違いがない。

ではこの時代のローマ教皇の公式文書で、奴隷制についてはどのように書かれているのだろうか。
この点については、西山俊彦氏の『近代資本主義の成立と奴隷貿易』という論文に詳述されている。西山俊彦氏はカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある人物だが、この論文はありがたいことに第4章までがネットで公開されており、誰でもPDFファイルを読むことができる。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2003_doreimondai_index.htmこの論文をベースに加筆された『カトリック教会と奴隷貿易』という本も上梓しておられ、一時期は品切れとなっていたが、今はネットなどで注文できるようである。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2005_doreiboueki.htm

doreiboueki_photo.jpg

この西山氏の論文にキリスト教に敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書が紹介されていて、次のように書かれている。

「サラセン人等、キリストに敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書 キリスト教徒の奴隷化を禁止する教書と対をなしているのが、キリストの敵の奴隷化を許容する教書で、次のものが代表的です―
(1) 教皇ニコラス五世『ドゥム・ディベルサスDum Diversas』(1452・6・18)
(2) 同 『ディヴィーノ・アモーレ・コンムニーティDivino Amore Communiti』(1452・7・14)
(3) 同 『ロマーヌス・ポンティフェックスRomanus Pontifex』(1454・1・8)
(4) 教皇カリスト三世『インテル・チェテラ・クエInter Caetera Quae』(1456・3・15)
ここに⑶『ロマーヌス・ポンティフェックス』を例に紹介すれば、次のように記されています―

『神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。・・・・・・
以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。
…ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマは聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年』」

下線部の「終身奴隷に…授与した」という文言は、上記(1)~(4)に共通した部分で、 (4) は(3)を再掲載したものだそうだ。

この(3)教書における異教徒は、時代背景からすると主にイスラム教徒との戦いを念頭に置いて書かれたものと思われるが、コロンブスが新大陸を発見した翌年(1493)に、教皇アレキサンデル6世がカスティリア=レオン(後のスペイン)の国王に対して「贈与大勅書Inter Caetera」を発布している。
この勅書の訳文は前掲の西山論文によると次のとおりである。

「全能なる神よりペトロに授与された権威と、地上において行使するイエス・キリストの代理人としての権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を奉ずる国王もしくは君主によっても現実に所有されていないすべての島々と大陸、および、その一切の支配権を、汝ら、および汝らの相続人であるカスティリアならびにレオンの国王に永久に…贈与し、授与し、賦与するとともに、汝らと汝らの相続人を…完全無欠の領主に叙し、任命し、認証する。」

この勅書が、スペイン国王に絶対的支配権を与えたと解釈され、インディアスの征服が福音弘布のための「予防戦争」とみなされることになり、平和なインディオの社会が急激に崩壊していくことになるのだ。

スペイン国内においてもインディアスの扱いについて関心が高まり、ラス・カサスの地道な啓蒙活動が徐々に評価されるようになって、1537年には教皇パウルス3世がインディオを「真の人間」と認めて、たとえキリスト教徒でなくとも奴隷状態に貶めるべきでないとする勅令『スブリームス・デウス』を出している。西山氏の前掲の論文に訳文が出ている。

「インディオ、及び、キリスト教の知見に最も遅れて到達した人々も、たとえ現時点で、キリストへの信仰の外にいたとしても、自由と所有への権利を剥奪されたり、剥奪されるべき者ではない。反ってそれらは尊重されるべきであって、決して奴隷状態に貶められるべきではない。また、たとえ、そのようなことが起こったとしても、それらは無効であって、何らの効力も拘束力も有するものではない。…」

と、現代人なら誰もが納得する内容になっている。

しかし、この勅令は翌1538年に教皇パウルス3世自身が出した『 ノン・インデーチェンス・ヴィデートゥール』により撤回されている。教書の一部を紹介すると、

「…カルロ国王の尽力によって彼の地にキリストの御教えが短期間に弘布されたことに鑑み、同時に、聖なる事業の障げとなることは何物たりとも除去したいがために、使徒座の権威に基づいて、前記教書を撤回・失効・無効とし、そこに含まれるいかなる事項をも、逐語的に、撤回、失効・無効とされたと見なすよう欲する。…」

『スブリームス・デウス』が撤回された理由は、西山論文では王権からの横やりが入った旨説明されている。

それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だというのだ。

ここで日本の歴史を振り返ってみる。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために日本に来たのが1549年だ。大村純忠の洗礼が1562年、大友宗麟が1578年、有馬晴信が1580年。大友・大村・有馬の三氏が7遣欧少年使節を派遣したのが1582年である。この時期にはかなりの日本人奴隷が流出していた時期であり、秀吉の伴天連追放令は1587年だ。

この時期に日本に来たポルトガル人は、ローマ教皇の教書により我が国を支配する権利を付与され、日本人を奴隷にする権利を付与されていた状態にあったということになる。
例えば高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』にイエズス会の宣教師ヴァリニャーノがマカオからフィリピンの同僚に送った書翰の一節が紹介されているが、そこには「シナ、日本、その他ポルトガル国民の征服に属する地域において…」という表現が使われており、わが国は「ポルトガル国民の征服に属する地域」になっている。同様な表現が他の文書にもあることが同書に紹介されているが、この言葉の意味を理解するには1494年に教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線が定められていたことを知る必要がある。下図の緑色の線がサラゴサ条約における境界線で、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。

300px-Spain_and_Portugal.jpg

これらの条約に基づきスペインは西回りで侵略をすすめ、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服した。いずれもキリスト教の神父が先兵となっているのは同じである。そして1549年に日本に上陸しキリスト教の布教が開始されたのだ。

1532年にスペインのフランシスコ・ピサロインカ帝国をいかなる方法で攻撃したかが参考になる。

250px-Pizarro.jpg

ピサロは1532年にインカ帝国皇帝アタワルパに部下と通訳と神父を送って交渉させている。神父の役割に注目である。Wikipediaの記述を引用すると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%91

「バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。

スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、『なぜこれは喋らない』と尋ね、地面に放り投げた。この行動はインカには書き文字が無かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対しインカと戦うための絶好の口実を与えてしまった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり7,000人以上の非武装のインカ兵が鉄剣により殺された(この時使われた鉄砲はごくわずかで、スペイン人の武器の大半は剣だった)。アタワルパは輿から引き摺り下ろされ、太陽の神殿に投獄された。」

200px-Ataw_Wallpa_portrait.jpg

と書かれている。アタワルパはピサロに金を大部屋1杯分、銀を2杯分提供し釈放を求めたが、幽閉されたまま絞首刑に処されたという。

この記録を読めば、バルベルデ神父が重要な役割を果たしていたことがわかる。
スペインは「贈与大勅書」により非キリスト教国を支配する権利をローマ教皇より付与されていた。従ってアタワルパがキリスト教に改宗する意思がないことを神父が見極めれば、いつでもその権利を行使してインカ帝国を堂々と侵略し、財宝をわがものにすることができるし、また住民を奴隷にすることもできるのである。現在の価値観では極めて非人道的行為ではあるが、当時に有効であった教皇の教書には全く矛盾しない行動なのだ。

日本がインカ帝国のようにならなかったのは、この当時の日本は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、天文12年(1543)に鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。
以前このブログで書いた通り、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたのである。ポルトガルは日本よりも軍事的劣勢であったがゆえに、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、日本には容易に手を出せなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

そこで彼らはキリシタン大名を育てて武器を融通し、彼らに日本を統一させようとするのだがそれも見破られて失敗した。
当時の日本に秀吉や家康のようなポルトガルの野望を見抜くリーダーがいたことも幸運であったが、もしキリスト教の伝来が天文18年(1549)ではなく、鉄砲伝来よりも20年以上早かったとしたら、日本も西洋の植民地になっていた可能性があるのではないか。少なくとも平安時代や南北朝時代の日本にキリスト教が伝来していたら、朝廷は祈祷をするばかりで簡単に征服されてしまい、インカ帝国と同様のことが起こっていても不思議ではないような気がするのだ。

新約聖書には「汝の隣人を愛せよと」いった言葉もあるのだが、旧約聖書には普通の日本人が読めば首をかしげるような言葉を目にすることがある。たとえば、

『あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。』(申命記・7章16節)
『そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。
ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主エホバが賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。』(同・20章・13節)

この旧約聖書の言葉を文字通り読むと、この時代のスペイン人もポルトガル人もこの言葉通りのことを行っただけだという解釈も可能だ。しかしこの言葉通りにキリスト教国が動けば、世界中がキリスト教に改宗しない限り、争い事がいつまでも繰り返されることになる理屈にならないか。

奴隷の家1

アフリカ大陸西端のゴレ島に1776年に建てられた「奴隷の家」という赤褐色の二階建ての建物がある。窓のほとんどない小部屋ばかりの一階には船に積み出しされるまでの奴隷が詰め込まれ、二階は奴隷商人である主人とその手下らの住いであったという。
1992年2月22日、この「奴隷の家」に、教皇ヨハネ・パウロ二世が、「奴隷貿易に従事したキリスト教国家とキリスト教徒に神の許しを乞うために」訪問されたそうだ。この記事で紹介した西山俊彦氏の『カトリック教会と奴隷貿易』の表紙にはその時の教皇の写真が掲載されている。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/JP2006.3.pdf

ヨハネ・パウロ2世

奴隷貿易が「キリスト教国とそれに属する人々によってなされた罪過」なのか、それとも同時に、「キリストの御名を戴く教会も関与した罪過」なのかという問いが良く発せられるのだが、ローマ教皇が奴隷貿易の謝罪のためにこの場所を訪れたという事実は、大航海時代以降のキリスト教会が奴隷貿易に関与していたことの、何よりの証になるのではないだろうか。
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薩摩に敗れて捕虜にされた多くの豊後の人々は南蛮船に乗せられてどこへ向かったか

前回の記事で島津義久の攻撃で大友氏が滅亡寸前まで追い詰められたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉・秀長が九州に出兵して島津軍を破り、大友氏は辛うじて豊後一国を守ることが出来たことを書いた。豊後国とは今の大分県と考えて良い。

前回あまり詳しく書かなかったが、薩摩の島津氏と豊後の大友氏との争いは随分長く続いている。

耳川合戦図屏風 京都市相国寺蔵
【耳川合戦図屏風】

天正6年(1578)に大友宗麟・義統父子が、日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて南下を開始したのだが、耳川(みみかわ)の戦いで島津義久軍に大敗している。

その大敗で、それまで大友家に従属していた肥前の龍造寺隆信が離反して自立し、筑前でも秋月種実や筑紫広門が離反して島津方についた。また大友庶家の重鎮である田原親宏や田原親貫、田北紹鉄らも大友家に対して反乱を起こし、これまで豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こったという。

一方島津家は、耳川の大勝を機に薩摩・大隅・日向を制圧し、肥後にも手を伸ばすなど、大友家に対する圧迫を強めていた。それに対し大友家では、領内の叛乱を抑えきれないために織田信長に接近し、信長の仲介で島津義久との間で『豊薩和睦之儀』を成立させたものの、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が死去すると両国間の和睦は雲散霧消してしまう。

島津義久
島津義久像】

天正12年(1584)から13年(1585)にかけて島津義久は大友家に従属する肥後の阿蘇家を滅ぼしてさらに筑後に兵を向けたため、大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請したという。秀吉も信長と同様に薩摩との和睦を成立させようとしたが、今度は島津義久が断っている。

戸次川の戦い
【戸次川の戦い】

天正14年(1586)に島津義久による豊後侵攻が始まると、大友宗麟・義統父子への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反して、島津軍は筑前に兵を向けて岩屋城を落城させたのち、12月には戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊に大勝し、その勢いで大友氏の本拠地である豊後府内を攻略にかかった。臼杵城に籠城していた大友宗麟は、南蛮貿易で手に入れた大砲を使って臼杵城を死守し、戦国大名としての意地を見せたという。

臼杵城
【臼杵城】

天正15年(1587)になって大友氏が滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が到着し、さらに秀吉も10万の兵を率いて九州平定に出陣し各地で島津軍に勝利して、3月にようやく島津軍が退却を始めるという流れである。

九州平定後秀吉が博多を出発する際に、大友宗麟の嫡男・義統(よしむね)に対して秀吉が一通の書状を送り、キリシタン信仰を棄てるようにと命じたという。そして義統は、関白に従うと答えたのだそうだ。

調べると大友義統が黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けたのは天正15年(1587)の4月なのだが、6月に秀吉が『伴天連追放令』を出したために、義統は正式にキリスト教となってわずか2ヶ月でキリスト教を棄教したことになる。

この薩摩と豊後との長い争いで、両軍に相当な犠牲者が出たことは言うまでもないが、特に長い間戦場となった豊後の人々は、相当悲惨な状態に陥ったことが、当時わが国にいたイエズス会のルイス・フロイスの記録に残されているので引用したい。

完訳フロイス日本史8

「豊後の事情は今まで惨憺たる有様であった。すなわち、かの地から来た土地の人々が一様に語っているところによると、その国の人々は次の3つのうちいずれかに属していた。
その一つは薩摩軍が捕虜として連行した人々、他は戦争と疾病による死亡者、残りの第三に属するのは飢餓のために消え失せようとしている人々である
。彼らは、皮膚の色が変わってしまい、皮膚に数えることができそうな骨がくっついており、窪んだ眼は悲しみと迫りくる死への恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは思えぬばかりであった。どの人もひどく忌まわしい疥癬に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、遺体の眼とか内臓には鴉とか山犬の餌と化するのみであった。彼らは生きるのに食物がなく、互いに盗賊に変じた。既述のように蔓延した病気はいまだに収まっていなかった。主なるデウスはさらに彼らの上に正義の鞭を下そうとなされ、臼杵の村落は前年の薩摩軍の包囲によって城を残すだけですべて焼失してしまったが、その後、豊後の新たな国主*は、焼き払われ破壊されたその国を再建しようと全力を尽くした。国主の要請に基づいて、持てる者も持てざる者もその力に応じて再建にいそしんだ結果、[人々の談によれば]豊後の国は当初の規模と外観に劣らぬほどになったという。…そのうちに、かの地から一人の司祭が我らの許に届けてきた通信によると次の事態が発生した。
本年の1月2日の正午近く、臼杵の主要な街路(ルア)で火災が発生した。火元はある貧しい男の家であった。火災は猛烈な勢いでその街路に燃え拡がり、折からの強風に煽られてほとんどことごとく焼き尽くした。…人々が証言するところによると、この火災は家財を盗もうとした人によって人為的に点火されたものだという。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.266)
*豊後の新たな国主:大友義統(おおともよしむね)のこと。大友家第22代当主・大友宗麟の嫡男。後に秀吉から偏諱(「吉」の1字)を与えられて義統から吉統へと改名した

この戦いで多くの人々が亡くなり、あるいは薩摩の捕虜となったとなったのだが、残った人々はほとんどすべてが飢餓状態にあったというからひどい話である。
1月2日の火事で大友氏の居城である臼杵城も焼け、国主の蔵1つだけが焼け残ったのだそうだが、この日は出陣中であっため消火に駆けつけた人々は少数で、そのことが火災の被害を大きくしてしまったという。

飢えで苦しんだ人々も悲惨だが、捕虜にされた人々も悲惨な運命を辿ったようだ。フロイスは同上書でこう述べている。

薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.268)

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、太閤検地の頃の豊後の人口が418千人だったことから勘案すると、その2割程度は捕虜として売却されたと考えてもおかしくないだろう。

島原半島の島原や三会の港に運ばれたということは、買ったのはポルトガル人であったと考え良い。ではポルトガル人は、それから彼らをどう用いたのか

ルイスフロイス
ルイス・フロイス像】

フロイスの記録を辿っていくと、多くの日本人が奴隷として海外に売飛ばされている事実を突き止めて、豊臣秀吉がイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョとやりあったことが記されている部分がある。

「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.207-208)

この太閤の提起した問題に関してコエリョが答えた内容について、前掲書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211)

このようにコエリョは、奴隷売買についてはこれを取締らない日本側に問題があると答えたことに秀吉は激怒するのだが、コエリョがこのように回答したのには理由がある。当時においては、異教徒ならびにキリスト教に敵対する勢力を攻撃してあらゆる所蔵物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶める権利をローマ教皇が認めていたことを知る必要がある。そもそも、当時わが国に来ていた宣教師がローマ教皇の教書の内容を否定できる筈がなく、彼らにとっては間違ったことは何もしていない認識でいたと考えられる。

カトリック教会と奴隷貿易

その教書の内容についてはカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある西山俊彦氏の著書である『近代資本主義の成立と奴隷貿易』に出ているが、著書の一部をネットでも読むことが出来る。次のURLで紹介されている論文のp.6「Ⅱ.一層明白な教会の関与 ~キリスト教徒は禁じ、敵対者は奴隷化を奨励する諸教書」で確認願いたい。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/doreimondai_2.pdf

同上書には1454年に出された「ロマーヌス・ポンティフェックス」が訳出されているが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。

西山氏の著書によると、それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だという。このようなキリスト教の負の歴史は、戦後のわが国では未だにタブーとされていると言って良い。

わが国の歴史家はこの時代を「大航海時代」などというピント外れの言葉を使って問題の本質を隠しているのだが、ローマ教皇が「ロマーヌス・ポンティフェックス」のような教書を相次いで出していたからこそ、スペイン・ポルトガルが罪の意識を持たずして世界を侵略し、原住民を奴隷にして世界各国に売飛ばしつつ、植民地を拡大していったことを知らねばならない。
このような教書が存在したこの恐ろしさは、宣教師が布教に訪れた国が、キリスト教と異なる宗教を持つということだけで、スペイン・ポルトガルがその国を侵略したり住民を奴隷にする権利を付与していた点にある。
そして戦国時代以降のわが国は、スペインやポルトガルがその権利を行使できる対象国になっていたことを知らなければ、わが国に相次いで宣教師が来た理由を正しく理解したことにはならないだろう。

鉄砲を棄てた日本人

では、なぜわが国がこの時代に国を奪われずに済んだのか。
この点については以前もこのブログで記したように、この当時のわが国は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、キリスト教が伝来する6年も前の天文12年(1543)に西洋の鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。ノエル・ペリン氏の『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)には、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたことや、当時日本に訪れた宣教師オルガンティノ・グネッチや、前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロは、母国よりも日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

スペインもポルトガルも日本よりも軍事的劣勢であっただけでなく、本国から遠く離れていたので武器・火薬等の補給が困難であったことから、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、わが国には容易に手を出せなかったのである。
だから彼らはキリシタン大名や武将を育てて国を割り、最後にキリシタン大名に勝利を導こうと画策したのだが、わが国の為政者がその侵略の意図を認識し適切に対応したことや、スペイン・ポルトガル国内事情もあって失敗に終わったと理解している。その点については以前このブログで述べたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

戦国時代以降のわが国の歴史は、西洋史の大きな流れの中で捉えるべきだと考えるのだが、戦後のわが国の歴史叙述では、なぜかこのような視点が根本的に欠落していると思われる。
豊後の人々が島原半島で南蛮船に乗せられて奴隷として売られていったことも、前回及び前々回に記したキリシタン大名の領国で徹底的に神社仏閣が破壊されたことも、ローマ教皇の教書によって異教徒の全ての領土と富を奪い取り住民を終身奴隷にすることが認められていたことを知れば納得できる話なのである。
彼らは世界中の異教国を侵略し、異教徒の文化を破壊し、住民を奴隷化してその土地から追い出し、そこに白人を植民してキリスト教国化する手法で、キリスト教世界を拡げようとしていたのだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html



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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

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