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中国人苦力を全員解放させた日本人の物語

19世紀に奴隷制の廃止運動が起こり、イギリスでは1833年、フランスでは1848年に奴隷制度が廃止され、アメリカは少し遅く南北戦争後の1865年に漸く奴隷制度が廃止されている。
しかし、これで完全に世界で奴隷制度がなくなったわけではなく、奴隷商人たちは彼らに代わる奴隷をアジアの地に求めるようになった。
かくして中国人の苦力(クーリー)貿易がアヘン戦争直後の1845年から本格化する。彼らは建前上は契約労働者であったが実態は奴隷であり、前回紹介した奴隷船と同様な構造の船に詰め込まれて鎖につながれて運ばれていった。

1860年代半ばには、こうした苦力を運ぶ定期航路が開かれて大量移民に拍車がかかり、1930年代に下り坂に向かうまで、数百万人にもおよぶ中国人苦力が運ばれていったと言われている。

私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。
ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。

大衆明治史

何も苦労して古本を探さなくとも、ネットで全文を公開している奇特な人がいるので、今では誰でもダウンロードして読む事が可能だ。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本は、明治に起こった21の出来事を事実に基づきわかりやすく叙述した書物で、明治21年生まれの作家・菊池寛が明治という時代をどのように捉えていたかがわかって興味深く読める。少し読んで頂ければわかると思うが、国家主義的な思想性は特に感じられない。なぜこの本がGHQの焚書対象とされたかの理由を推定するに、西洋諸国にとって都合の悪い史実が記されていたからだと思う。

目次をみると最初が廃藩置県で、次が征韓論決裂、そして次が問題のマリア・ルーズ号事件だ。
今ではこのマリア・ルーズ号事件のことを記述している本がほとんど見当たらないのだが、菊池寛がこの事件の事を書いたことがGHQの焚書につながった一番大きな理由ではないかと私は考えている。この事件は西洋諸国にとっては、日本人に知らせたくない、都合の悪い出来事であったはずだ。

ではマリア・ルーズ号事件とはどんな事件なのか。菊池寛やWikipediaなどの叙述を参考にしながら、纏めることにする。(Wikipediaでは「マリア・ルス号事件」と表記されている。日付が双方で異なるのは、菊池の文章は旧暦でWikipediaは新暦で統一されている。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B9%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

明治5年(1872)6月1日(旧暦)に古い帆船が横浜港口に横付けとなったが、途中で暴風雨に遭ったらしく、マストの一部が破損し、帆綱も断れていた。
横浜港長パーヴィス大佐の命令を受けて同船に対し役人の臨検が行われ、この船の正体が明らかになった。
この船は南米ペルー船籍の350tの商船で船名はマリア・ルーズ号。
船長はペルー国大尉のドン・リカルドオ・ヘレラ。
中国のマカオを出港しペルーのカリアオに向かう途中で台風に遭遇し、修理のために横浜に入港したが積荷はなく、中国人苦力225名ならびに船長自身が雇入れた中国人のボーイ23人を載せていたという。

それから数日後、マリア・ルーズ号の過酷な待遇から逃れるために一人の中国人が海へ逃亡し、近くに停泊していた英国軍艦アイアン・デューク号が救助した。その中国人には明らかな虐待の形跡があり、本人の陳述から英国領事館はマリア・ルーズ号を「奴隷運搬船」と判断し、「この驚くべき蛮行の事実を率直に当局に告げ、日本政府が適宜の処置を執られんことを切望する」旨を、神奈川県庁を通じて通告した。

菊地寛

菊池寛は、この事件の背景をこう書いている。
「南北戦争の結果奴隷が解放され、その為新大陸では極度の労力不足を感じていた。これに乗じた、一部の奸商共は、新たに支那の苦力を大量にアメリカに送って、これを奴隷同様に売買して、巨利を博していたのである。」

神奈川県庁の権令(副知事)の大江卓は義憤を感じつつも、条約が締結されていない日本とペルーとの間で国際紛争を起こすことはないとの考えでその苦力をヘレラ船長に戻したのだが、船に戻すと船長はその苦力に笞刑を加えその悲鳴が遠くまで達したという。
数日後またもや別の苦力が英艦に泳ぎ着き、再び船長の暴状を訴えた。激昂した英艦乗組員は英国代理公使ワットソンに急報し、ワットソンは米国公使とともに外務卿の副島種臣を訪ねて日本政府に注意を喚起した。

当時政府部内では、司法卿江藤新平や陸奥宗光等は条約国でもないペルーと事を構えるのは不得策だと反対したが、副島はこの非人道的な事件に対して断固糾弾すべきだとし、中国及びペルーに対しては条約による領事裁判を認めていないので、この事件の処断はわが国における正当な権利であると主張したのである。

副島種臣

「領事裁判」とは在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り領事裁判所で行う裁判のことをいい、江戸幕府が安政年間に結んだ米・英・仏・蘭・露各国と結んだ条約では認められていたが、領事は本来外交官であり、本国に極めて有利な判決が下される傾向が強かった。副島種臣はペルーとはこのような条約がないので、わが国の法律で処すべきであると述べたのである。
この副島の主張は閣議を通過し、この事件の調査は神奈川県令大江卓に命ぜられた。

大江の査問に対しヘレラ船長と弁護人は、問題の苦力たちはいずれも乗客であるから相当な待遇を与えていると主張し、「本事件は公海において発生したものであり、日本国法権の及ぶところでない。」「マリア・ルーズ号出港停止による、損害賠償を請求する」と主張した。一方、大江は他の苦力たちを公判に呼び証言させたところ、いずれも船内の暴状を訴えたという。

大江卓を裁判長とする特設裁判所による7月27日の判決は、中国人の解放を条件にマリア・ルーズ号の出港を認めるものであったが、ヘレラ船長はこの判決を不服としたうえ、中国人苦力に対しての移民契約破棄の罪状で告訴するに至った。

大江卓

しかし大江卓が出した8月25日に出した判決は痛快である。移民契約は奴隷契約であり、人道に反する者は無効であると却下し、中国人苦力全員解放という快挙をやってのけたのである。
「…若し人にして肆に幽閉せられた際は、ハーベーオス・コーポスなる公法によりて、其の者の自由を完全ならしむるが通議なり、今我国に於ては、この公法の設定なし。然れども、何人と雖も、この自由の通議あり。これが我が国の本理なり。然るにマリア・ルーズ船の清国船客の如きは、外国人のために肆に幽閉せられしこと判然たり。故に彼らは盡く釈放さるべし…」

清国政府は直ちに特使陳福勲を派遣して大江卓神奈川県県令および副島種臣外務卿に深謝し、9月13日に苦力から解放された者とともに上海に向かったのである。

菊池寛はこう解説している。
「阿片売買と共に、この苦力売買は、西欧人が支那に対して行った罪悪の、最も悪逆なるものの一つである。当時ハバナの総領事から、外務大臣への報告に依ると、この奴隷船の支那苦力の死亡率は14パーセントに達したと言われる。ひどい例になると、同じく澳門(マカオ)からペルーへ送られた二隻740名の苦力中、航海中死んだ苦力が、240名という記録さへある。…
後に清国政府は、わが国の厚誼を徳として、副島外務卿及び大江県令に対し、感謝のしるしとして、頌徳の大旆(たいはい)*を送ったという。」*大旆:大きな旗

大江卓宛大旆

ちなみにこの時に清国から送られた頌徳の大旆は、神奈川県立公文書館に保管されており、神奈川県のホームページにその写真が掲載されている。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f100108/p10431.html

しかし、この事件はまだ終わらなかった。
翌年2月にペルー政府は海軍大臣を来日させ、この事件に対する謝罪と損害賠償を要求してきた。この両国間の紛争解決のために、ロシア皇帝アレクサンドル2世が仲裁に立つこととなり、国際仲裁裁判が開催されたが、この裁判は1875年に6月に「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」との判決が出て、ペルー側の訴えが退けられている。

菊池寛はこう結んでいる。
「国際法の知識の貧弱なわが外務当局が、敢然起って、自主的にこの事件に干渉し、この好結果を得たのは、もとより副島の果断、大江の奮闘にもよるが、わが当局が、人道上の正義に基づく行動は、結局世界の同情を得る、と云う確信から出発したことにも依る。外務省公刊の『秘魯国(ペルー)マリヤルズ船一件』なる文書の末尾に、
『此一件ノ当否ハ普ク宇内ノ正決ニ信ズ』
と壮語しているが、全くこの自信を現したものに外ならない」

明治維新直後の新政府において外交が務まるだけの素養や国際法の知識のあるものなどは皆無に近かった中で、副島種臣は佐賀藩の「致遠館」でフルベッキに英米法や各国の法制経済を学んでいた。だからこそ正論を押し通すことができ、土佐藩出身の大江も体を張って奮闘した。
人権という考え方が世界的にも未成熟な時代に、各国領事の圧力をはねのけたことは、わが国が近代国家の仲間入りを果たす契機ともなり、明治人の気概を感じさせる物語である。

同様な事件は、実はこの事件の20年前にも石垣島で起こっていた。石垣島の出来事については次のURLが詳細なレポートを載せている。
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/1835/1/Vol29p92.pdf

ペリー来航の1年前の1852年3月に、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中で暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺し、その船はその後台湾に向かう途中に石垣島沖で座礁したため、苦力380人が石垣島に上陸し、船は残りの20余名の苦力を載せて厦門に引き返した。

石垣島の人々は仮小屋を建てて彼らを収容したのだが、米国と英国の海軍が来島して砲撃を加え、武装兵が上陸して逃走した苦力を捜査し、百名以上の苦力が銃撃され、逮捕され、自殺者や病没者が続出したという。
石垣島の人々は苦力達を深く同情し、彼らに食糧を与えて援助した一方、清国に戻った苦力達が船内の虐待を訴えたことから厦門民衆の苦力貿易反対運動が高まったという。

琉球王府は、もし再度米国と英国の海軍が来島した場合は、米英と戦うことは不可能であるとして、苦力全員を引き渡す方針をも検討していた。一方厦門では苦力貿易反対運動が更に激化し、英国は陸軍を厦門に上陸させて中国人4名を銃殺、5名以上を負傷させて辛うじて運動を鎮圧させたという。
その後ロバート・バウン号で厦門に引き返した苦力が無罪釈放されることとなり、石垣島に残留したメンバーの罪も不問に付すとの情報が福建当局から入り、翌1853年11月に琉球の護送船二隻を仕立てて、生存者172人を福州に送還したという話である。
もし、苦力の一部が厦門に戻ることがなければ苦力貿易反対運動も燃え上がらなかったであろうし、さらに米英の海軍が石垣島を砲撃しに再来した場合には、島民が巻き込まれて多くの犠牲者が出てもおかしくなかった。最悪の場合は、島が占領されて島民自身が苦力にされた可能性も否定できないだろう。

石垣島の人々は、島で亡くなった中国人苦力達の墓を作って慰霊を続けて、そのような墓が昔は島内各地に点在していたそうだ。

唐人墓地図

1971年に石垣市が台湾政府、在琉華僑の支援を得て、これらを合同慰霊するための唐人墓を建てている。
島の人々が、この事件で命を落とした苦力達の慰霊を160年も続けてきているということを知って驚かされたのだが、つくづく日本人は心優しい、素晴らしい民族だと思う。

唐人墓

この唐人墓の横にある1971年に作られた石碑には
「人間が人間を差別し憎悪と殺戮がくりかえされることのない人類社会の平和を希いこの地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる」
と記されているそうだ。
1971年は石垣島をはじめ琉球列島は米国の占領下であり、アメリカとの無用のトラブルを避けるために墓建立の経緯を詳しく書かなかった経緯があるとのことだが、この事件を知れば、この言葉の重みを深く感じることができる。今では事件の経緯を記した碑文もあるようだ。

もしマリア・ルーズ号やロバート・バウン号の事件に関する史実が、GHQによる焚書や検閲対象にもされず、その後教科書やマスコミなどで報道されて国民に広く知れ渡っていくとどういうことになっていただろうか。
欧米諸国が世界侵略をし、奴隷貿易という非人道的な行為を4世紀近く地球規模で行ってきた史実が国民の常識となれば、今の日本史の通史や教科書における戦国時代以降の歴史観が、今とは随分異なるものにならざるを得なくなるし、多くの国民が自分の国を自分で守ることの大切さを認識することになるのではないだろうか。

どこの国でも、いつの時代も歴史というものは勝者にとって都合の良いように書き改められる傾向があるものだが、わが国の第二次世界大戦敗戦後に、多くの歴史叙述が戦勝国にとって都合の良い内容に書き換えられたことを知るべきである。そして、国民の洗脳を解くカギの一つが、GHQが封印した史実にヒントがあると私は考えている。

私は戦前の史観が正しいと言っているのではない。ただ、史実に基づかない、あるいは史実と矛盾する記述は、史実に基づくものに置き換えられていくべきだということが言いたいだけなのだが、多くの重要な史実が封印されてほとんどの人が知らされていない現状を放置しては、教科書や通史における記述が簡単に変わるものではないだろう。
まずは、多くの人が歴史に興味を持ち、何が真実かを正しく知り、それを広めていくことが重要なのだと思う。二国間の真の交流を深めていくためには、お互いの国が、実際に起こった出来事を正しく知ることが不可欠で、事実でもない歴史には決して振り回されるべきではない。

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西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか

以前このブログでGHQによって焚書処分された菊池寛の『大衆明治史』という本を紹介したことがある。その時は中国人苦力(クーリー:単純労働者、奴隷)を乗せたマリアルーズ号というペルー船籍の船が横浜港で座礁したのだが、積荷が中国人苦力で、明らかに虐待されていた形跡から「奴隷運搬船」と判断して全員解放し、清国政府から感謝のしるしとして頌徳の大旆(たいはい:大きな旗)が贈られた話を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

無題

この『大衆明治史』という本は、明治の人々が苦労を重ねながら難局を乗り越えて、新しい日本を築き上げていくところが具体的に書かれていて当時の時代背景がよく解って面白い。GHQの焚書処分を受けた本のために現物を入手することは容易ではないが、「歴史放浪」というサイトでPDFファイルが公開されており、誰でも読むことができるのはありがたい。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本の最初に書かれているのが「廃藩置県」である。
学生時代に明治の歴史を学んだ時に、どうして武士階級が自らの特権を消滅させる決断をなすことができたのかと疑問に思った記憶がある。

たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「政府はまず、諸大名がみずからの領地と領民を支配するこれまでの体制を打ち破るため、1869(明治2)年、諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし藩主は、石高にかわる家禄の支給をうけ、そのまま知藩事(地方官)とされて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、木戸孝允・大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、1871(明治4)年7月、まず薩長土3藩から御親兵をつのって中央の軍事力をかため、ついでいっきょに廃藩置県を断行した。そしてすべての知藩事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県をおさめさせた。こうして全国は政府の直接支配のもとにおかれ、封建制度は解体した。
廃藩置県のような大変革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.219-220)

このように教科書には「大変革」という言葉を使いながらも、「さして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実」とスムーズに改革が出来たように書いてあるのだが、教科書のこのような記述には昔からリアリティを感じなかった。

焚書図書3

西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封3』で、この『大衆明治史』を採りあげておられ、わかりやすく廃藩置県の意義を解説しておられる。
「明治維新を迎え、大政奉還をすると天皇が江戸に移りました―――といってみたところで、地方にはまだたくさんの大名がいます。権力は各地に分散していました。明治新政府が権力を持つためには、地方の権力を全部取り上げてしまわなければならない。そこで大名の持っていた武力をすべて召し上げて、藩をなくして全部県にしたいわけですが、それを実施するには中央に武力がなければならない。中央に権力と武力があって初めて中央集権が成立する。それが廃藩置県の意義でした。
明治の冒頭で、菊池寛がまず廃藩置県に注目したのはじつにみごとだと思います。廃藩置県こそ明治維新の最初にして最大の出来事だったのです。」(『GHQ焚書図書開封3』p.258)

しばらく菊池寛の文章を引用してみる。[原文は旧字・旧かな]

「諸侯の土地を中央に収め、その軍隊を裁兵する。いわゆる、完全な封建制度の打破が、どんなに困難な大事業であるかは、外国の歴史をちょっと覗いてみただけでも分るだろう。これが日本では比較的スラスラ行われたのであるから、外国人が驚くのは無理もない。血を見ずして、憲法が発布されたのとともに、明治史の二大会心事といってよい。
しかし、廃藩置県の思想は、一部進歩的な具眼者の中には早くから萌していて、その先駆としての版籍奉還は、早くも明治二年に行われているから、すなわち幕府は折角倒しても、諸侯がなお土地人民を私有していては、真に維新の目的が達成されたとは言われない。この土地人民を朝廷に奉還し、復古の大業を完成しなくてはならぬと考えられていたのである。
木戸は藩主毛利敬親に説き、大久保は島津忠義に説き、こうして出来上がったのが、明治二年の四大藩主連署(島津忠義、毛利敬親、鍋島直大、山内豊範)の版籍奉還の上表である。」

『山川日本史』に名前が出てきた木戸孝允と大久保利通は、明治二年の「版籍奉還」で藩主を口説いたということが書かれている。しかし「版籍奉還」だけでは地方に大名がいる江戸時代と実質的には変わらない。「明治維新」がピリオドを打つためには、封建諸侯が土地人民を支配する体制を崩壊させることが必要となるのだが、そのハードルは相当高かったはずだ。「廃藩置県」となると全国に200万人にものぼるという藩士の大量解雇につながる話なのだ。

菊地寛

菊池寛の文章を読み進むと、この当時の明治新政府の舵取りが容易ではなかったことが見えてくる。

「明治二年から四年の廃藩置県にかけての、新興日本は、非常なピンチの中にあった。一歩誤れば建武の中興の二の舞である。
一見、王政は復古し、五箇条の御誓文は発布され、万機公論に決するという国是も確定されたが実際の政治は決してそんな立派なものではない。
維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。しかし彼等とても、公議世論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない。まして、他の藩の有力者たちに、何も積極的にできるわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった。」

「建武の中興」というのは、鎌倉幕府滅亡後の1333年6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権を指すが、わずか2年半で瓦解してしまった。菊池寛は、明治政府がわずか数年で瓦解するピンチであったことを述べているのだ。
明治政府を誕生させたのは、薩長土肥の4藩の活躍がなくてはなしえなかったのであるが、これらの藩がまとまっていたかというと、そうではなかったようなのだ。
薩摩の西郷隆盛は新政府の考え方と合わず距離を置いていたし、島津久光(藩主忠義の父、事実上薩摩の最高権力者)は、四民平等、廃藩置県などはもってのほかだと不機嫌であった。しかも西郷を嫌っていた。
長州の首領格の木戸孝允は薩摩嫌いで、土佐は薩摩の武力主義に対して、公議政治という奇手を用いて新政府に割り込もうとしていたし、肥前は薩長土が維新の渦中で人材を消耗しつつある間に、悠々と機会を窺っていたという。

明治二年四月二六日に大久保利通岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書いており、その危機感がよく伝わってくる。

大久保利通

菊池寛は当時の大久保利通の危機感についてこう解説している。
「上下両極の議政所における、諸藩出身の貢士たちがいくら論議を重ねても、また群卿諸侯の大会議が何度開かれても、所詮朝廷の根軸を建て、確固たる中央政府が出来上がるわけではない。朝廷に実力ある兵力なく、また財力があるわけでもない。こんな風潮では、天下は遠からず瓦解してしまうというのである。

公議、世論など、亡国的俗説だ。薩長専横と言わば言え、今日において、薩長の実力に依らないで何が出来るか。我々はくだらぬ批難など耳に傾けず、薩長連合して、朝廷を中心に戴き維新当初の精神に立ち返って、働くべきだと論じた。この時に当たって、多少の摩擦混乱はやむを得ない。即今幸いにも外患がないから、多少の内乱恐るるに足らずだ。要は一刻も早く、国内統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗せねばならん、というのである。

この決心を以て、大久保はまず起ち、岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長連合に向かって突進した。
この結果、西郷が再び中央の政界へ、薩長連合の党首として乗り出すことになり、朝廷に近衛兵が置かれることになり、そして、最後に封建的割拠主義に最後の止めを刺す、廃藩置県という、画期的な改革が見事に出来上がるということになったのである。」

要するに、薩長が明治政府の中心にならなければ抜本的な改革は出来ず、また薩長をひとつにまとめ上げるためには、中心に西郷隆盛がいることを必要としていたということなのだ。大久保は岩倉具視を勅使として薩摩にいる西郷を訪ねて上京を促し、西郷の同意を得たのである。
明治四年二月に西郷が東京入りして、朝廷に新兵が設置され薩長土三藩の兵が集められて中央政府の実力を固め、六月には自ら参議となって薩長の独裁政治体制が完成し、ようやく大改革を推進する体制が整った。

西郷の参議就任直後に山縣有朋は西郷を訪れ、滔々と廃藩置県の必要性を説き西郷の了解を得、七月九日には木戸孝允邸で廃藩置県の秘密会議が開かれた。大久保利通の日記を引用しながら、菊池寛はこう書いている。

「大久保の日記に
『九日、…五時より木戸氏へ訪。老西郷氏も入来、井上山縣も入来、大御変革御手順のこと、かつ政体基則のこと種々談義す。凡そ相決す。』
この時、木戸、大久保に苦慮の色があるのを見て、西郷は
『貴公らに、廃藩実施の手順さえ附いておれば、その上のことは拙者全部引受ける。暴動が各地に起きても、兵力の点なら、ご懸念に及ばず。必ず鎮圧して、お目にかけましょう』 と言った。
この一言に、一同は一息ついて、議論が一決したのである。…

こうして、七月一四日疾風の如く廃藩令が下ったのである。」

西郷隆盛

菊池寛の『大衆明治史』が面白いのは、立場の異なる人間の動きが具体的に記されていて時代の動きがダイナミックに読み取れる点だ。

「西郷上京に際して、(必ず廃藩置県などやるでないぞ)とダメを押した島津久光は、廃藩令の薩摩に伝わるや、花火を揚げて、不満を爆発させたという。諸侯と言わず、武士と言わず、保守派に与えたショックは、蓋し甚大なるものがあると思う。
西郷はその心境を家老に告げ、
『お互いに数百年来の御鴻恩、私情においては忍び難きことに御座候えども、天下一般此の如き世運と相成り、此の運転は人力の及ばざる所と存じ奉り候』
と述べている。どちらかと言えば保守派である西郷である。苦衷想うべきだろう。
廃藩令が下るとともに、従来の藩は、次第に県に改まり、十一月になって七十二県が出来たのである。
一方大久保は、現在の内務、大蔵、逓信、農林、商工の五省を兼ねた大蔵省に立てこもり、井上馨、伊藤博文、松方正義、津田出などの新人を引き具して、いよいよ新政策に邁進することになった。
彼等の眼よりすれば、西郷は一種のロボットである。廃藩置県の大仕事が済んでしまえば、もう西郷は必要としないのである。西郷の好みそうもない政策が次々と生まれてくる。
八月九日、散髪脱刀許可令
八月十八日、鎮台を東京、大阪に置き、兵部省に属せしむ。
八月二十三日、華士族平民婚嫁許可令。
等々、四民平等、士族の特権はどんどん剥ぎとられて行く。」

菊池寛の文章を読むと、この『廃藩置県』が大変な改革であり、西郷隆盛の存在がなければその実現が難しかったことがよく理解できる。
しかしながら、『山川日本史』をはじめとする教科書や通史には、この大改革がスムーズに進んだことを強調して、廃藩置県に西郷隆盛の名前が出ることがほとんどないように思う。

このブログで何度も、歴史は勝者にとって都合の良いように編集されることを書いてきた。明治政府にとっては、後に西南戦争で官軍と戦うことになった西郷隆盛の力がなければ、「廃藩置県」の大改革がなしえなかったという史実は「明治政府にとって都合の悪い真実」であり、教科書などの歴史叙述の中には書かせたくなかったのではないだろうか。多くの教科書や概説書で、廃藩置県を「さして抵抗もうけずに実現した」というスタンスで書くのは、西郷が西南戦争で明治政府軍と戦った史実と無関係ではないと思うのだ。

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いつの時代でもどこの国でも、時の権力者が書かせたような歴史を何回読んだところで真実が見えてくるとは限らないのだと思う。基本的に権力者というものは、常に権力を握り続けるために嘘をつくものだと考えておいた方が良いだろう。
教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官制史料を重視するスタンスで叙述されている傾向が強いと思うのだが、このようなスタンスでは、それぞれの時代で為政者にとって都合の悪い出来事については、いつまでたっても真実が見えて来ないのではないか。
官制の公式記録はもちろん参照すべき重要な史料ではあるが、内容がそのまま真実であるとして鵜呑みすることは危険なことではないのか。同じ時代を生きた人々の記録と読み比べることで本当は何があったのかを考える姿勢が、歴史を学ぶ上で大切なのだと思う。
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征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか

前回は、GHQ焚書図書となった菊池寛の『大衆明治史』第1章の「廃藩置県」に関する記述を紹介し、西郷隆盛がいなければこのような大改革は為し得なかったのではないかといことを書いた。今回は、引き続き『大衆明治史』の第2章「征韓論決裂」に関する記述を紹介したい。

その前に、一般的な教科書の記述を読んでみよう。
「欧米諸国の朝鮮進出を警戒した日本は、鎖国政策をとっていた朝鮮に強く開国をせまった。これが拒否されると、西郷隆盛、板垣退助らは、武力を用いてでも朝鮮を開国させようと政府部内で征韓論をとなえた。しかし1873(明治6)年欧米視察から帰国した岩倉具視大久保利通らは、国内改革の優先を主張しこれに反対した。」(『もう一度読む 山川日本史』p.223-224)

この教科書の記述では西郷も板垣も武力で開国を迫り、岩倉や大久保は国内改革を優先したというのだが、史実はそれほど単純なものではなかったようだ。
菊池寛の文章を引用しながら説明したい。(原文は旧字・旧かな)

征韓論は一応合理的であった。韓国が小国であること。無礼であること、更に征韓に対して、清国はじめ諸外国が文句をつけぬと言っていること等が理由である。
当時の韓国の実権は、国王の生父大院君によって握られており、甚だしい欧米嫌いであった。だから日本の開国を欧米模倣であると罵り、禽獣に近づいたといって、蔑視しているのである。
だから、維新政府が宗対馬守を派遣して、いくら国交を調整しようとしても、剣もホロロの挨拶である。」(『大衆明治史』p.23-24)

自由党史

朝鮮国が無礼であった点については「近代デジタルライブラリー」で板垣退助『自由党史』第二章などを読めばわかるが、要するに当時の朝鮮国の外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象であって、わが国が使節を送っても、侮辱した上威嚇して国外に追い出そうとしたことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991339/1
しかし朝鮮国がこのまま鎖国を続けていてはいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。

征韓論

そこで「征韓論」の議論が沸騰する。
しばらく、菊池寛の文章を読んでみよう。

「ここにおいて、明治六年六月十二日、朝鮮問題に対する会議が開かれることになったのである。
劈頭まず板垣退助は、
『居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判をやろう』
と出兵論を唱えた。これに対して西郷は、
『それは少し過激だ。それより、まず平和的に堂々使節を派遣して、正理公道を説き、それで聴かなかったら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい』
と述べた。三條*は、
『大使を派するなら、兵を率いて軍艦に乗っていったらよかろう』
と言葉を挟むと、西郷は敢然として、
『いや兵を率いて行くのは、所詮穏やかでない。大使たるものは宜しく烏帽子直垂を着し、礼を厚くし道を正さねばならぬ』

と反対した。…
すると誰かが、
『これは国家の大事であるから、岩倉大使**の帰朝を待って決すべきであろう』
この言葉は西郷を怒らせた。
『堂々たる一国の政府が、国家の大事を自ら決めかねるなら、今から院門を閉じ、百般の政務を撤するがよい』
と叱し、一座は粛として静まり返ったのであった。西郷は更に言葉を進めて、
『この遣韓大使には、ぜひ自分を遣って貰いたい。』
再三再四、西郷はくどく三條に迫って、この件を上奏して欲しいと希望するのであった。
この日の会議は、このまま終わったが、西郷は尚熱心に朝鮮行きを希望してやまない。
『副島**君(遣清大使)の如き立派な使節は出来申さず候えども、死する位のことは、相調い申すべく』
とある様に、いつでも命を投げ出す位の覚悟を、淡々たる言葉の中に洩らしているのである。大使になって行けば韓国は必ず自分に危害を加える、そうしたら立派な征韓の名分が立つ、西郷の信念はここにあったのだ。」(同上書 p.24-26)
*三條實美(さんじょう さねとみ):公家出身。当時太政大臣。  
**岩倉具視:公家出身。当時右大臣外務卿で、全権大使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らとともに欧米視察中。
***副島種臣(そえじま たねおみ):佐賀藩出身。当時外務卿。

この西郷の発言内容は、先ほど紹介した板垣退助の『自由党史』と内容はほぼ同じであり、菊池寛の文章は当時の記録に忠実に書いている。『自由党史』には、この六月十二日の会議で、釜山に軍隊を送ろうとした板垣も自説をその場で引込めたとあり、この会議では平和裏に遣韓大使を送るとする西郷案で一旦決着し、誰を大使とするかについては8月17日に西郷とすることで決着したと書いてある。
征韓論」が決裂するのはそれからあとのことなのである。欧米視察を終えて帰国した、岩倉具視大久保利通らがこの決定を許さなかったのだ。10月14日に岩倉らの帰朝後第1回目の内閣会議が開かれる。
しばらく菊池寛の文章を引用する。

岩倉具視

「まず三條から一応の報告があると、岩倉は敢然として起ったのである。
『大使を韓国に派遣するについては、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、ロシアもある。迂闊に手を出して国家百年の大計を誤ってはならぬ。現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である』
初めて聞く、堂々たる反対意見である。
西郷は、
『しかし、朝鮮大使派遣は八月十七日の廟議ですでに決していることである。今更是非を議する必要がどこにあろう』
岩倉すかさず、
『いや、その為のみの、今日の廟議である』
『くどいようじゃが、その廟議は決まっているのだ』
この時、大久保、
『前閣議でどう決まったか知らんが、それは拙者らの知ったことではない』
『それは貴公、本気で言われるか』
西郷は血相を変えた。
『留守に決めたが不服と言われるのか。拙者も参議だ。これ程の大事を、貴公らの帰国するまで待てるか。留守の参議がきめたことに、なんの悪いことが御座るか。三條太政大臣も同意で、既に聖上の御裁可まで経たことであるぞ』…」(同上書 p.27-28) 
といった議論が続いていく。

征韓論の図2

翌日の会議も水掛け論で終わる。菊池寛はこう書いている。

「…問題は、奏問の手続き問題に入ってくる。こうなると、事務的にも政治的にも、征韓派は、岩倉や大久保の敵でない。
かくて二十三日、岩倉は参内して、征韓不可の書を奉り、大勢は決した。聖上は一日御熟慮の上、岩倉の議を御嘉納あらせられたのである。
二十三日、西郷は参議、陸軍大将、近衛都督の職を辞するの表を奉り、翌日、板垣、副島、後藤、江藤の諸参議もそれぞれ辞表を奉った。…
これと同時に、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹なども、疾と称して、辞表を呈出し、これに倣って、近衛士官などは総辞職である。…
そこで陸軍卿山形有朋は、新たに近衛兵の再編成に着手し、かくて長州人が今度は陸軍部内に確固たる地位を占め『長の陸軍』の淵源をなしたのである。」(同上書 p.31-32)

明治政府は25日に非征韓派を中心にした内閣改造を行っている。
大久保利通が内務卿となり、また幕臣であった勝海舟を海軍卿に据え、榎本武揚を遣露大使としたほか、西郷を牽制するために島津久光(藩主忠義の父、事実上薩摩の主権者)を左大臣、内務顧問に登用した。
産業を奨励し、反対党の弾圧にいよいよ本腰を入れるとともに、強引にも華族、士族の家禄まで税金をかけた。そこで明治7年(1874) に佐賀で不平士族の叛乱が起こる。

江藤新平

「(明治)七年二月征韓論者の政府反撃の第一声として、大規模な佐賀の乱が勃発している。江藤新平、島義勇らの暴発であるが、大久保はかねて期していたものの如く、直ちに熊本、広島、大阪三鎮台の兵を動かし、同時に久光を帰国させて西郷を抑える一方、自ら急速に兵を進めて三月一日には佐賀城に入っている。文官である大久保としては一世一代の武勲であると言って良い。
江藤は後に捕えられ、極刑ともいうべき、梟首(きょうしゅ:晒し首)に処せられた。往年の同僚、参議江藤新平の首をさらして、あえて動ぜぬ、不適の面魂はいよいよ凄みを増してきたと言えよう。」(同上書 p.33-34)

大久保利通

教科書では大久保らは国内改革を優先したと書くのだが、実際はそうとも言えない。征韓論反対の舌の根も乾かぬうちに、大久保は台湾に出兵しているのだ。再び、菊池寛の文章を引用する。

「殊に征韓論を排撃して二ヶ年ならぬのに、大久保は、台湾出兵をやっている。これは全く国内士族の不平を、海外にはけさせるためにやった仕事で、征韓論反対の言い分は何処へやったといわれても仕方がないであろう。
神経衰弱で少し気の弱くなった木戸など。
『切に希くは、治要の本末を明かにせよ』
と悲壮な言葉を残して、幕閣を去ったが、大久保は断固として、この出兵をやり、しかも戦後の談判に、自ら清国に乗り込んで、李鴻章と大いに交驩し、五拾萬両の償金と、台湾征討は義挙であるという、支那側の保証まで得て帰ってきているのである。昭和の外交官、顔負けである。内治によく外交によく、大久保の幕閣における地位は、この時において、圧倒的、独裁的な域まで達したのである。」(同上書 p.34)

大久保にとっては、朝鮮よりも台湾の方が制圧が容易で、他国の干渉を受ける可能性も低いとの判断があったのかもしれないが、「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と言っていた反征韓論者が、西郷が職を辞した4カ月後の明治7年(1874)2月に台湾出兵を計画し、5月に出兵したというのはどう考えても違和感がありすぎる。

当時、廃藩置県により失業した士族は全国に40万人から50万人程度いたというのだが、それまで各藩が支払っていた禄は政府の支出となっており、その支出額は国家予算の大きな部分を占めていた。明治5年(1872)の地租収入は2005万円に対し禄の支出は華族・士族合せて1607万円にも達していたのだ。このままでは維新政府が長く続くはずがなかった。

大久保にとっては、西郷の力を借りて廃藩置県の大改革が終われば、次にやるべきことは政府支出構造の抜本的改革であっただろう。そのためには士族の既得権に大ナタを入れざるを得なかった。そのためには、政府内の抵抗勢力を出来るだけ早い時期に排除することが必要であったのではなかったか。

大久保らの欧米視察中に、西郷らが留守中に決定した遣韓大使派遣のような重大事を追認しては、主導権を西郷らに握られることになりかねず改革が遅れてしまう。もちろん出兵には多大な費用がかさみ、戦争となって勝利しても士族の地位が再び高まっては困るのだ。

大久保は征韓論争を仕掛けて、政府内の抵抗勢力を切り、士族の既得権にもメスを入れることをはじめから狙っていたのではないだろうか。
西郷、江藤らが下野したのは明治6年10月23日だが、2日後に新政府を組閣し勝海舟を入閣させのちに島津久光を内務顧問に任じている。また2か月後の12月には「秩禄奉還の法」を定めて禄に課税が行われている。ちょっと準備が良すぎると思えるのである。

島津久光

大久保は、不満をもった旧士族が各地で反乱を起こすことを覚悟していたからこそ、島津久光を登用したのだ。明治7年2月に江藤新平が佐賀の乱を起こした際に西郷が動かなかったのは、大久保の指示で島津久光が薩摩に帰ってきたからではなかったか。
また大久保は、征韓論にはあれだけ反対を唱えながら、佐賀の乱があった2月に木戸の反対を押し切って台湾出兵を決定し、5月には出兵している。
教科書などでは大久保利通らは「国内改革を優先した」と叙述されるのだが、その記述をそのまま鵜呑みにしては、明治時代を正しく理解したことにならないのではないか。
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西南戦争が起こる前の鹿児島県はまるで独立国のようだった

前回の記事で、明治6年に征韓論争が決裂して西郷らが下野して鹿児島に戻ったことを書いた。その後の西郷が薩摩でどのような生活であったのか、菊池寛の文章を読むと驚くべきことが書かれている。しばらく引用してみる。(原文は旧字・旧かな)

西南戦争の原因は、発展していく中央政府と、古きを守ろうとする西郷党との間に醸し出された矛盾対立が、遂に爆発した結果にほかならない。
言葉を換えて言うなら、明治六年の征韓論の対立が、明治十年の西南戦争によって、結論がついたとも言えるのである。
村田新八の言葉を借りるなら、西郷と大久保の征韓論の論争は、横綱の立会いのようなもので、どっちに軍配を上げてよいものかわからぬと言うのである。
なるほど、形の上では、西郷が廟議に敗れて、鹿児島に引っ込んだのであるから、西郷の負けのようであるが、西郷の持っている一世の輿望というものは、九州の一角において、文字通り西郷王国を築き上げているのである。
鹿児島県の官吏の任免でさえ、この一派の手の中にあったのであるから、まるで一種の独立地域である。アンチ大久保アンチ中央政府の欝然たる牙城となってしまったのだ。
いつかこの力のバランスは崩れ、互いに正面衝突をすべき運命にあったことは、誰の眼にも歴々として映じていたのである。」(『大衆明治史』p.51-52)

廃藩置県によって、てっきり中央政府が地方の官吏の任免権を手中に収めたものとばかり考えていたが、鹿児島県は例外であったというのである。菊池寛の文章を読んでいると、鹿児島県は別世界で「西郷王国」のような状態であったことがよく解る。
中央政府が当たり前のことを実行しようとしても、鹿児島県に対しては随分苦労していることが書かれていて面白い。

ooyama.jpg

「これが爆発の直接原因は、内務省の発動による、鹿児島県の役人の転免である。つまり中央政府が封建的最後のものとしての薩摩をその統制下に据え直そうとしたことによる。
明治九年七月初旬、大久保は鹿児島県令、大山綱紀に上京を命じた。県令は当時奏任官だから、内務卿の一断で自由になるであるが、それを呼び寄せて相談を図らねばならないところに薩摩の特殊性があるわけである。
大山は十七日に入京、病中の大久保は、大山に向かって、
『近く内政改革をやる積りだが、鹿児島県も参事課長以下官吏の更迭をやるが、宜しく頼む』
と語った。
大山は西郷派の一人であるから、とてもこんなことが出来るわけはない。一方地方長官としての苦しい立場もあり、
『それでは辞職させていただきます』
と辞任を申し出た。
大久保は強いてこれを宥めて、内務省林友幸を同行させて、鹿児島へ帰らせた。
林は十年正月四日、登庁して様子を見たが、とても手がつけられないと直感して、帰京することになった。」(『大衆明治史』p.52-53)

しかし鹿児島県では、中央政府が鹿児島県の西郷系の官吏を一挙に更迭しようとしているという話が一気に拡がって行ったのである。

私学校跡

征韓論争の後鹿児島に帰った西郷は、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設し、西郷とともに下野した不平士族たちを統率し、県内の若者の教育に力を入れていた。
その私学校党の青年たちが暴発してしまうのである。その経緯を菊池寛はこう書いている。

「血気に速る私学校党の青年たちは、公然銃器を携えて鹿児島城下を横行し、喋々として政府の挙措を誹謗し、まさに一大変動勃発の徴があった。
この形勢に更に火を注いだのは、中央から発せられた密偵であった。中原尚雄以下二十三名の鹿児島県出身者は結束して帰省し、正月六日頃から、鹿児島各方面をスパイして歩いた。これを発見して捕えた私学校生徒たちは、これを西郷への刺殺者であると憤怒する。形勢は刻々に暗澹たるものになっていった。
二月九日の郵便報知新聞は
『この間から鹿児島県の動静をチラホラ耳にしましたが、滅多なことを掲げて天下の視聴を驚かしては容易ならぬことと控えておりましたが、あまり噂が甚だしくなりましたからちょっと述べます。
三菱会社の赤龍丸は大阪鎮台の御用船となり、去月二十七日鹿児島県着三十一日同所にあるところの弾薬二千個を滞りなく積み入れ、本月一日に千八百個を積み入れる手筈の際、突然士族輩二千五百人程にて取囲み、この囲みを出るものは切殺すぞと脅し、この弾薬を悉く持ち去りたり。よつて鎮台士官も赤龍丸に乗組み、ただちに出帆、六日暮神戸に着せり。林内務少輔は大分県辺巡回中なりしが、直ちに引返し、説諭のため鹿児島に出張せらるるよし』
火薬搬出は要するに、事実上の挑戦であった。しかもこの火薬に火は点ぜられたのである。」(同上書 p.53-54)

中原尚雄以下23名の鹿児島県出身者が帰省したのは明治9年1月11日の事だ。その目的は、西郷隆盛私学校幹部の偵察や旧郷士族の私学校からの離間工作が目的であったと言われているが、私学校の学生たちが警戒して当然だ。
そして1月29日に政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠の武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行おうとした。それを私学校学生が奪い取る事件が起きている。
Wikipediaによると、「鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていた」こともあり、私学校学生にとっては「中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出した事に怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために」奪い返そうとしたのは心情的には理解できる。しかし私学校学生が奪い取った武器と弾薬は、旧式のものであったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

1月30日に私学校幹部は中原尚雄等を内偵し、中原らの帰郷が西郷暗殺を目的としているという情報を入手している。
Wikipediaによると、中原尚雄は旧知の谷口登太に「自分は刺し違えてでも西郷(隆盛)を止める」といったとされ、これが「明治政府による西郷暗殺の陰謀」の証拠とされて、同年2月3日、他の帰郷中の同僚らと共に私学校生徒に捕らえられ、厳しい尋問の末に明治政府が西郷を暗殺しようとした陰謀があったことを自白したという。その結果、私学校生徒の暴走に歯止めが効かなくなってしまったと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B0%9A%E9%9B%84
中原が「西郷らを視察する」と言った言葉が「刺殺する」と誤解されたという説もあるようだが、今となっては知る由もない。重要なのは、彼等が西郷らの刺客として中央政府から送り込まれたと私学校生徒が判断した事実である。

西郷隆盛に1月29日の武器弾薬略奪事件の情報が届いたのは、2月2日のことだった。隆盛は大隅で漁をしているときに、弟の小兵衛からその報告を受けている。ふたたび菊池寛の文章を引用する。

「『おはん達は、何たることを仕出かしたか』
と大喝したが、しばらくして、
『それでは、おいどんの身体を上げまっしょう』
と言ったのは、誰でも知っている話である。
一万三千人の愛する私学校生徒の為に命を投げ出す、その心情は美しいが、同時に征韓論決裂以来押さえに押さえてきた鬱屈が、子弟1万余の動揺を前にして、一時に爆発したのではなかろうか。
ことに西郷を怒らせたのは、彼に刺客を向けたということであろう。政府の考えでは、恐らく単なるスパイのつもりであったのだろうが、これがいつしか暗殺者と言われるようになり、これが西郷の耳に入って嚇怒させたのであろう。

西郷隆盛

維新以来、国家のため犬馬の労を尽くした、自分を殺させるという法があるか。これが西郷の戦争の理由のポイントである。だから、刺客を寄こした木戸、大久保を朝廷から一掃する、その為の精鋭三万の大挙東上なのである。
暗殺ということは、現在のわれわれにはあまりピンと来ない。しかし、維新の動乱時代に様々の暗殺の経験を経てきている西郷などには、われわれの想像以上に生々しく切実な感じがしたのであろう。
だから西郷が征韓論に敗れた時、逸早く身を隠して、政府の眼をくらましたのは、気持ちの上のいろいろな複雑なものがあったであろうが、その一部分には、暗殺の危険というものを、実に素早く感じたには違いないのである。 …
…中原尚雄らを刺客として、ハッキリ眼前に見た時、西郷は遂に最後の肚を決めたのであろう。
大山綱紀の名で、征討将軍に奉った一文に、西郷は断乎として述べている。
『隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざるに発覚に及び候。此の上は人民憤怒の形勢を以て、征討の名を設けられんとする姦謀、千載の遺憾此の事と存じ奉り候』」(同上書 p.55-57)

西郷隆盛が戦う肚を固めて、その準備が進んでいく。

SumiyoshiKawamura.jpg

時局収集の任を帯びて、薩摩出身の海軍大輔川村純義が急遽鹿児島にやって来たのだが、この時は川村は上陸すらできなかったという。菊池の文章を読むとその時の鹿児島の異常な空気が伝わってくるようだ。

「『それ西郷先生が軍艦へ行く。危ないからお供をしろ』
と私学校の若者たちが殺到して物凄い光景を呈した。川村は危ないとみて艦をずっと沖合に移動させる。艦長伊東祐享が、撃ってもよいかと川村に聞いた程、この私学校党の勢いは凄まじいのであった。
西郷は近衛都督の時分、この私学校系の兵士の駕御の困難を譬えて『破裂弾上に寝る』と言ったことがあるが、今やその統制は全く西郷一人の力では、如何ともすることが出来ない状態である。
私学校徒にとって、郷党大先輩であり、西郷の親戚であり、然も温かい手をさしのべようとしてやってきた川村中将に対してすら、政府の一員、敵の一人として以外に見ることが出来ぬ程、偏狭になり、陰悪になっているのである。
何故であろうか。想うに、南隅なるが故に、最後まで取り残されたこの古い一団は、新時代の寒風が吹き募るにつれ、互いに団まり合い、抱き合い、今では互いの体温を温めあうところ迄追い詰められていたのである。薩摩の天地に人無きにあらずだ。しかし時代のわかる連中は中央へ出きってしまい、古さと人情だけで生きる人たちだけが残って、その不満と反抗だけが固まって出来上がったものがこの西郷王国だとしたら、その最後は飽くまで悲劇的ならざるを得ないではないか。」(同上書 p.58-59)

Wikipediaによると、鹿児島の私学校は明治7年4月に旧鹿児島城(鶴丸城)内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校が設立され、「幼年学校」の設立に当たっては西郷隆盛が二千石、大久保利通も千八百石、鹿児島県令大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石を拠出しているが、「銃隊学校」「砲隊学校」は鹿児島県の予算によって設立されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E6%A0%A1

桜島

重要なことは、大山が県令を務める鹿児島県は西郷が下野した後は、驚くべきことに新政府に租税を納めていなかったようなのだ。その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈していたという。さらに大山は西南戦争の際に官金を西郷軍に提供していたのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%B6%B1%E8%89%AF

前々回の記事で西郷隆盛がいなかったら廃藩置県の大改革が出来なかったことを書いたが、西郷のお膝元の鹿児島県だけは例外で、むしろ独立国の様相を呈していた。政府の命令を無視して地租改正も行わず、旧士族は刀を差し、銃や弾薬を蓄えて戦いに備えての訓練をしていたというのである。
今までこのような史実を学ぶ機会はほとんどなかったのだが、こういう史実を知らずしては、なぜ西南戦争が8か月も続く大変な戦いになったかを理解することが難しいのではないか。

西南戦争のことは次回に書くことにしたい。

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西郷隆盛はなぜ西南戦争を戦ったのか

前回は、GHQ焚書図書である菊池寛の『大衆明治史』の第4章「西南戦争」の前半部分を紹介した。前回の記事で書いたように、征韓論争に敗れて西郷隆盛が地元に戻ったころの鹿児島県は、中央政府に租税を納めず官吏の任免権を西郷らが掌握し、一種の独立国の様相を呈していた。明治10年(1877)1月になると中央政府が西郷らに刺客を送り込んだとの情報が拡がり、続いて私学校党の学生が、武器・弾薬庫を襲う事件が起こり、西郷はいよいよ政府と戦う肚を固めた。今回はその続きである。

官軍の総指揮を執ったのは長州出身で第3代・9代の総理大臣となった山縣有朋(やまがたありとも)だが、菊池寛が山縣の西南戦争に対する戦略を書いている部分をしばらく引用する。(原文は旧字・旧かな)

山縣有朋

「西郷の盟友山縣有朋は、西郷征討の戦略を次の如く書いている。
『南隅破裂するに当たり、渠(きょ:首領[西郷のこと])の策略その何の点にいずるは量り知るべからずといえども、これを要するに三策に過ぎず。第一は火船に乗じて東京あるいは浪華(大阪)に突入すること。第二は長崎および熊本鎮台を襲撃し、全九州を破り、以て中原に出ること。第三には鹿児島に割拠し以て全国の動揺を窺い、暗に海内の人心を揣摩(しま:推量)し、時機に投じて中原を破ること、恐らくは此の三項の外に出でずと洞察せり。よってそのいずれの点に出ずるも、我にあっては他を顧みず、力を一にして鹿児島城に向かい、海陸並進、桜島湾に突入し、奮闘攻撃し、瞬間鹿児島城を殲滅するを期して後に止む。
而して更に中国四国及び両肥等に向かってこれを撃破せんも難らず。…」
さすがによく喝破していると思う。要するに熊本の鎮台を捨て身で守ると同時に、全力を挙げて、敵の拠点鹿児島を揉み潰せというのである。敵は薩摩ばかりではない。天下の変を窺う守旧派は九州にも四国にも、奥羽にもあるが、わき目もふらずに鹿児島城を屠ってしまえば、他は問題とするに当たらないというのである。
この戦略が遂に成功して、鹿児島を襲った官軍は、西郷軍の糧道を絶ち、これを北九州に空しく彷徨四散させたのである。」(『大衆明治史』p.59-60)

西郷の率いる1万3千の軍は2月15日に鹿児島を発って北に向かい、「西郷立つ」の知らせを聞いた各地の士族が次々に合流し、この軍はわずかの間に3万に膨れ上がったという。
西郷軍が最初に目指したのは熊本城であったが、この城を目指したのは正しかったのか。

西南戦争熊本城

「…彼等の第一の誤算とも言うべきは、鎮台兵の戦闘能力に対する評価であろう。百姓や町人上がりの兵隊に何が出来るという肚なのである。戦争は武士がするもの、即ち武士が一番強い者と信じ切っていた彼等士族が、やがて当面しなければならなかったのは、精鋭な武器を持ち、近代的な戦闘法を会得した平民どもの執拗なる反撃なのであった。
熊本鎮台の頑強なる抵抗がそれである。然し一方、彼等薩南健児もまた善戦したと言うべきである。白刃を閃かせて、猛烈な肉弾戦を演じ、寡兵を以て雲霞のごとき官軍の陣営を脅かしている。
田原坂の一戦など、まことに薩南健児の真面目を遺憾なく発揮したものと言うべきだろう。
田原坂の戦いがはかばかしくいかない頃、木戸孝允は、岩倉に手紙を出し、
田原坂口も最初の算用と齟齬、既に20日近く相成り候えども、日々百五六十の死傷、既に傷人のみにても、二千五百人これある由、死人は未詳、実に大難戦にて御座候』
悲観的な言葉を述べているくらいだ。尤も木戸は元来悲観的にものを見るくせがあり、この時はちょうど病気だったので一層気が弱くなっていたのであろう。(これから2ヶ月後、木戸は病死している。)」(同上書 p.60-61)

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天下無敵の西郷軍はまず熊本城を包囲したが、熊本鎮台司令長官谷干城率いる熊本城は落ちなかった。熊本を包囲した西郷軍は官軍を迎え撃つために熊本城の北16kmにある田原坂を固める。
田原坂は長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂だが、この坂を越える峠道は、非常に狭く曲がりくねった道となっている。この場所が西南戦争最大の激戦地となり、40日にも及ぶ両軍の死者は約4000人にも及ぶと言われている。

西南戦争田原坂

西郷軍3万に対し、官軍は7万。武器の性能においても官軍の方が優れていたという。西郷軍は良く戦ったとはいえ、こんな場所で苦戦することになることをはじめから想定していなかったとしか考えられない。

西郷軍の兵站方を担当することになった県令の大山綱吉は、出兵前に西郷に「多数の兵士を引率して、東京まで無事に行けるでしょうか」と質問しているが、その問いに対する西郷の回答は驚くべきものであった。菊池はこう書いている。

「『いや自分は陸軍大将だからたとえ全国の兵を率いるとも、陛下から特にお許しを受けている次第である』と答えている。
それでも、大軍の登場するに当たって、鎮台の軍隊が妨害を加えることになろうから、それをどうするかと重ねて訊ねても、西郷は、
『途中の県庁の方は、然るべく取り計ってもらいたい』
と簡単に答えているが、西郷とても血気に逸る三万の兵を引率して、坦々として東京に出で、闕下(けっか:天皇陛下の前)にその所信を訴えられるとは考えていないのだ。
鎮台は必ずこれを阻止する。これが戦争だ。…」(同上書 p.57-58)

簡単には行けるとは考えてはいなかったにせよ、東京には行けると考えていたからこそ西郷は戦う肚を固めたのだろう。しかし西郷軍は武器弾薬が不足し、圧倒的な兵力と物資を誇る政府軍に追い詰められて、敗色濃厚となっていくのだ。

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8月17日、西郷は官軍の包囲網を脱するために可愛岳(えのたけ)突破を決意する。この日に急坂を登り可愛岳頂上を目指した西郷軍は600人だったという。翌朝4時に到達した頂上には、第二旅団の官軍が屯していたが、こんなところに西郷軍が現われるとは考えておらず、官軍は総崩れとなる。

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可愛岳突破に成功し、西郷軍は鹿児島に向けて南進した。宮崎県の山岳地帯を、全行程400kmの道のりを、官軍と戦いながら、14日間も歩きとおしたのである。

西郷らは、9月1日に再び故郷・鹿児島の土を踏んだ。
一旦は鹿児島市街をほぼ制圧したが3日には形勢が逆転し、その後官軍は続々と鹿児島に到着した。6日には城山包囲体制が完成した総勢7万の兵士がわずか372人の西郷軍を取り囲んだという。

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9月22日に西郷は「城山決死の檄」を出している。これが西郷の絶筆となった文章である。

「今般河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ且(か)つ義挙の趣意を以て大義名分を貫徹し、法廷において斃れ候賦(つもり)に候間、 一統安堵し、此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要にこれあるべく候也」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

翌23日、軍使が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、山縣有朋からの西郷に自刃を勧告する書簡にも返事をしなかったという。

9月24日午前4時、官軍の総攻撃が始まった。弾丸に斃れる者が続き、西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹したという流れだ。

西郷の最期

西郷が何のために戦ったのかは様々な説があるが、この西郷の最後の「檄文」のポイントの部分を政治哲学者の岩田温氏は著書の中でこう訳しておられる。

「味方の決死の覚悟を敵陣に伝えるとともに、この挙兵の意義を以って、大義名分を貫徹し、理がどちらにあるかを明らかにして斃れるつもりなので、諸君らは心安くしなさい。この城を死地と考えているので、今一層の奮発と、後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように」(『日本人の歴史哲学』p.158)
では命を捨ててまで西郷が守るべきものは何であったのか。この問いに対しては、岩田温氏の文章が私には一番納得できる。岩田氏は江藤淳の『南洲残影』の文章を引きながらこう書いている。

「明治維新の目的とは無道の国から派遣された黒船を撃ち払い、国を守ることにあったのではなかったか。ところが天子をいただく明治政府は何を為したか。彼らは自ら進んで国を西洋化し無道の国への道を歩むに至った。彼らは『日本の津々浦々に黒船を導き入れ、国土を売り渡そうとしている』。(江藤淳氏は)これを西郷が許せるはずもなく、挙兵に至ったとする。
筆者もここにこそ、西郷挙兵の大義を求めるべきであろうと考える。

維新を成し遂げた日本が盲目的に西洋化を推し進めている。本来進むべき道を誤っているように思われてならない。このままでは国が滅びる。それこそが、下野して以来の西郷の真意であったのではないか。

では何故に国家を守らんとするものが、国家を代表する 政府に反旗を翻すのか。
それは国家とは現に存する国民の専有物ではありえないからに他ならない。過去、現在、未来と連綿と続く垂直的なるもの、それこそが西郷の守らんとした国家であったからである。現在の政府は垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。これを断固として拒絶せねばならない。これが西郷の思いではなかったろうか。

後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同体としての国家を守り抜く。歴史の中で自らを犠牲にしても国家という垂直的共同体を守らんとすること、これこそ が西郷の思想であり、日本人の歴史哲学であったのではないか。
それゆえ西郷は最後に至るまで戦い抜く道を選ぶ。何故ならこの徹底抗戦である姿こそが肝要であるからである。拙くとも徹底して西洋、近代に対峙し戦い抜いた記憶をも国民と持たざる国民とでは自ずからその未来の差はあきらかであろう。そのためにこそ必敗の戦いを選んだのだ。」(『日本人の歴史哲学』p.152-155)

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西郷が23日に川村純義からの降伏の勧めを無視し、山縣有朋の自刃を勧告する書簡にも返事をしなかったのは、こう考えるのが私には一番すっきりするのだ。
勝海舟は西郷を「西郷さんは自分の思想を歴史に委ねようとした」と評したというが、もし西郷が川村や山縣の勧告をあの時に受け入れてしまっていれば、西郷が西洋的価値観と戦ってきたことの意義を失って、西郷が守ろうとしたものは、いずれ何も残らなくなってしまったことだろうし、自由民権運動があれほど盛り上がることもなかったのではないか。

岩田氏が指摘している問題は、現代社会にもつながるところがある。
グローバル経済社会は、日本各地にあった「垂直的共同体」としての地域共同体を破壊していくばかりで、このままでは地域の伝統を維持するどころか、わが国の伝統や文化を守ることも、国土を守ることすらもいずれは難しくなっていくのではないだろうか。
核家族化が進み単独世帯が増えれば増える程「垂直的共同体」の維持が困難とならざるを得ない。我々現役の世代が、次の世代に命がけで伝え残すべきものがなくなり、その次の世代すら地元に残らなくない時代が続けば、いずれわが国は「国家」の体をなさなくなってしまうのではないか。特定の価値観を是とすることは、いずれは国家観や歴史観にも繋がっていくものなのである。
「グローバリズム」という思想は、長い目で見れば日本人を幸せにしないのではないだろうか。
普通の人間が、普通の努力をして地方で家族が共に普通に暮らせる社会を、どうすればわが国はもう一度構築しなおすことができるのか。
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『板垣死すとも自由は死せず』が広められた背景を読む

私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。
ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。

なぜこんなに面白い本が焚書処分にされたのかと考えるのだが、おそらくは以前私が紹介した、「マリア・ルーズ号事件」のことを記述しているからなのであろう。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

マリア・ルーズ号は南米ペルー船籍の船だが、明治5年(1872)に大量の中国人奴隷をアメリカに運ぶ航海の途中で暴風雨に遭い、修理のために横浜港に横付けされている時に、虐待されていた一人の中国人奴隷が逃亡したことが大問題となる。
この事件は神奈川県令の大江卓が自ら裁判長となって、中国人奴隷225名全員を解放したという痛快な話なのだが、このように「奴隷制度」や西洋による世界侵略など、戦勝国にとって都合の悪い史実を記された本は、ほとんど昭和21~23年にGHQによって焚書処分されていると考えて良く、西洋の世界侵略や奴隷制のことを詳細に記述した本は、今も書店で目にすることは滅多にない。

大衆明治史

このようなブログを書くようになってから時々古い本を読むことがあるのだが、平板な歴史叙述に慣らされてきたからなのか、古い本には人物が生き生きと描かれていて面白いと感じることが多いのである。
今回は菊池寛の『大衆明治史』の中から、明治時代の自由民権運動の話を紹介したい。この本の原文を読みたい方は、全文をPDFで公開している奇特な人がいるので、今では誰でもダウンロードして読む事が可能だ。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

菊池寛は、明治元年に会津藩の処遇をめぐる明治新政府軍と奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた「会津の戦」に関する板垣退助の述懐から書き起こしている。
しばらく菊池の文章を引用する。(原文は旧字旧かな)
松平容保

「会津の戦いが済んだ松平容保*父子が城を出て妙国寺に退隠したある日、一人の百姓が来て、芋を藩公に献じてその不幸を慰めようとした。
 その護衛の任にあたっていた土佐の士が、美談として、これを官軍の板垣退助に語ったのである。傍らで聞いていた者は、皆その忠義を褒めないものはない。

 この時、板垣は静かに次のような述懐を洩らしたという。これは日本の憲政史でも、有名な言葉である。

『我輩先日、日光今市の戦いの時、友人にして戦死する者多く、その屍を見るたびに、身を切られるような思いをした。しかるに敵の死兵を検査すると、皆身に文身(いれずみ)をした無頼漢ばかりであった。自分はこれを見て、石と玉とを交換したような気がして、甚だ落胆痛恨した。その夜、床の中で考えたのであるが、ヨーロッパの戦争では、常に万を超える死傷者があるのに、士気は毫(ごう)も衰えぬという。その理由はどこにあるかといえば、だいたい、日本の兵士は僅かな士族だけで組織してあるから、平常の友情関係が極めて濃厚で、人員もまた少ないから、これが戦死を見て、心を痛めることが深い。これは全く封建制度の罪であって、その人情関係が狭いためである。したがって、国民皆兵の時代が来れば、こうした弊害は結局打破されるであろうと考えた。』

彼はさらに語を継いで、
『やがて兵を進めて会津に近づくや、会津の雄藩、必ず一藩を焦土と化して戦うであろうから、三千未満の官兵では、とても攻略することは出来ん。唯討死の外あるまいと秘かに覚悟を決めていた。ところが若松城に近づくにつれて、人民は家財道具を携えて、争って地方に遁(のが)れ、甚だしきに至っては、人足となって官軍の手助けをする者がある。我輩はその意外なるに驚いた。諸君は芋を持ってきてその旧主を慰めんとする百姓に感心してているが、それなら何故初めからわれわれに抵抗して、旧主を助けなかったのか。これを要するに、戦争は士がやるもの、百姓は初めから不関焉(ふかんえん:われ関せず)だからである。その楽しみをともにせざるものは、その憂いをともにせずだ。武士だけがその特権を振り廻している時代に、百姓がどうして国事を共に憂えるものか。これ程の大藩が亡びるのに、之に殉ずる者、僅かに三千に過ぎないというのはこの道理にほかならぬ。我輩は、昨日まではこれを会津のこととして、冷ややかに見ることとが出来たが、これを今後の日本に及ぼして考えれば、由々しき大事である。要するに、今日以後は、四民平等の制度を布(し)いて、国民全体が楽しみをともにし、憂いをともにせねばならぬ。』」(汎洋社版『大衆明治史』p.86-88)
*松平容保(まつだいらかたもり)第9代会津藩主。
会津若松城

平石弁蔵と言う人物が大正6年(1917)に会津人の立場から『會津戊辰戰爭』という本を著して、平石はその序文を板垣退助に執筆を依頼している。
板垣は戊辰戦争で官軍の東山道総督府の参謀をつとめ、非凡な軍略の才能を発揮したと言われているが、板垣がその本の序文に記した文章は、なかなかの名文だ。次のURLにその全文と訳文が出ているが、これを読めば菊池寛が書いた板垣の述懐は、史実にかなり忠実に書かれているものであることが分かる。
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/bakumatu/itagaki.htm

板垣は、会津では士族出身者だけが戦っただけで、会津の他の人々はみんな知らぬふりの状態であったことに官軍の参謀として強く危機感を抱いたのである。
板垣自身の文章を紹介したい。
會津は天下屈指の雄藩也、若し上下心を一にし、戮力以て藩國に盡さば、僅かに五千未満の我官兵、豈容易に之を降すを得んや。」

官軍はわずか5千にも満たない兵力しかいなかった。もし会津の人々が心を一つにして藩に協力していたならば、官軍が会津を簡単に降伏させることはできなかったと書いている。
にもかかわらず会津の人々は戦火を避けて逃げて、藩の滅亡を目前に見ても誰もが知らぬふりをしているのは何故なのか。わずかでも藩主の恩に報いようと考えたなら、人々は生命を犠牲にして国を護ろうとするべきではないか。
板垣退助

板垣は、会津の一般の人々がこのような行動をとったことの原因について、士族たちが楽な生活を独占し、平素にあって人民と分かち合わなかったために、身分の上と下とで心が離れてしまったことにあると考えた。
この問題は会津藩だけにあてはまるものではない。もし生まれたばかりの明治日本が他国と戦うことになれば、このままではとんでもないことになると危機感を抱いたのである。

「然るに斯の如く一般人民に愛國心なき所以のものは、畢竟(ひっきょう:つまるところ)上下離隔し、士族の階級が其樂を獨占して、平素に在て人民と之を分たざりし結果に外ならず。夫れ樂を共にせざる者は亦た其憂を共にする能はざるは、理の當に然る所、天下の雄藩たる會津にして既に然り、況や他の弱藩に於てをや。我邦にして若し一朝外國と事を構ふるあらば、其結果知るべきのみ、今や封建の勢既に蹙(ちぢ)まり、時局是より一新せんとす。此時に方り我邦にして苟(いやし)くも東海の表に屹立し、富國強兵の實を擧げんと欲せば、須らく上下一和、衆庶と苦樂を同ふするの精神を以て、士の常職を解き、其世禄を廢し、階級の制度を撤去して、國民皆兵を實行したりき。」

明治新政府が封建的な身分制度を改革して四民平等政策をとり、士族を路頭に迷わせてまでして国民皆兵の政府軍を作ろうとした流れは、この板垣の戊辰戦争に関する感想を読めば腑に落ちる。
板垣はここでは「愛国心」という言葉を用いているが、文脈からすれば「愛郷心」に近いと思う。しかしもしわが国が外国との戦いに巻き込まれたとしたら、それに勝つためには自らの郷土を愛するだけではなくこの国を護ろうとする「愛国心」に高めて、国民にあまねく普及させることが必要である。そのためには、士族の持っている特権を国民に広く享受させる一方、兵士になって国のために戦い、死ぬことにおいてもすべての国民が平等であるべきだと考えたのだ。

しかし明治の日本は、板垣が理想と考えていた方向とは違う方向に進んでいく。
明治4年(1871)に廃藩置県が完成して「藩」は制度としては廃止されたのだが、薩長を中心とする藩閥政治が長い間わが国の政治を支配することになるのだ

菊地寛

菊池寛はこの時代の流れをこう書いている。
「しかし、藩閥政治が強大になるにつれて、この反対勢力も勢力を得てくる。藩閥が自己の利益を中心にして、団結しようとすればするほど、これに対する民間の反抗は漸次組織立っていき、自然々々の中に、これが政党という形を採ってくるのだから面白い。 
明治6年の征韓論の決裂は、土佐を政治の中心から追い出しているが、この時飛び出した板垣退助、後藤象二郎等が、後の自由党結成の中心になったのも皮肉だし、明治14年の政変で、藩閥政治は無理やりに佐賀出身の大隈参議を罷免したが、大隈は負けずに改進党を組織して、藩閥打倒の旗幟を高く揚げるようになったのだから、これもまた皮肉である。」(同上書 P.91)

明治6年に征韓論が決裂し板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣が下野し、板垣、後藤らは、明治7年(1874)に「愛国公党」を結成したが、世の注意を惹かずに自然消滅となる。
板垣は同年故郷の土佐に帰り立志社を設立し、明治11年(1878)には大阪に出て同志を糾合して愛国社と改称してその勢力を拡大し、全国的な運動団体となる。
そして明治13年(1880)には国会期成同盟と改称し2府22県、8万7千人の署名を集めて政府に国会開設を請願したという。

このあたりのことは教科書にも書かれていたのだが、学生時代に学んだ時に、なぜこんなに自由民権運動がこの時期に国民に広まったかについては腑に落ちなかった。教科書には薩長の藩閥政治がいかなるもであったかがほとんど何も記されていないから、わからなかったのだと思う。
菊池寛の文章は、そういう疑問点をスッキリ理解させてくれるのでありがたい。

自由民権論がこれほどまでに全国民にとって魅力的となったのは、1つには当時の官僚たちが、封建大名以上に威張り散らしたことに対する反抗であった
 当時の知事が地方巡回をするときは、人民に対して土下座を強要した者があった程である。地方の多少でも、気骨のある有志が、こうした役人の横暴を実際に見て、大いに怒り、自由民権の叫びを挙げるのも当然だったのである。
 これに対して、自由党の板垣でも後藤象二郎でも、かつては参議までした人物が、一般人民と膝を交えて政治論を闘わせたのであるから、その人気が益々高くなったのは無理もない。…」(同上書p.95-96)

三島通庸

当時の知事(県令)で悪名高い人物としては薩摩出身の三島通庸(みしまみちつね)が有名で、山形、福島、栃木の県令時代に住民の反対を押し切り土木工事を進めて住民に増税や労役賦課、寄付金強要を行ない、批判に対しては弾圧一辺倒であったという。藤田敏夫氏の『不屈の田中正造伝』の次のページには、三島通庸と戦った田中正造の活躍が描かれている。
http://www.ashikagatakauji.jp/tanaka/tanaka06.html
また宮武外骨は『明治奇聞』の中で、「圧制三県令」として「明治十五年頃、政府が民権家を敵視して圧迫加えた当時、最も辛辣を極めた地方官中の三酷吏」として、福島県令・三島通庸、岡山県令・高崎五六、愛媛県令・関新平を挙げているという。調べると高崎五六も薩摩出身、関新平は肥前出身だ。
http://blog.svp2.com/?eid=938821
以前このブログで書いた、廃仏毀釈で奈良の寺院の文化財などを収奪し財を成した堺・奈良県令の税所篤(さいしょあつし)も薩摩出身である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html


このブログで何度か書いているのだが、いつの時代もどこの国でも、歴史というものは為政者にとって都合の良いように編集され、為政者にとって都合の悪いことは書かれないものだと考えて良い。教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官製史料を重視するスタンスで叙述される傾向が強いと思うのだが、それでは何回読んでも、為政者にとって都合の良い歴史を読むことになって、真実が見えてくるとは限らない。
真実を追及していくためには、同じ時代を生きた人々の記録と読み比べて、その上で本当は何があったのかを考える姿勢が不可欠なのだと思う。

ところで先ほど紹介した藤田敏夫氏の『不屈の田中正造伝』には、田中正造に対して三島通庸が刺客を送り込んだという記述がある。
もしかすると、明治15年(1882)に板垣退助が岐阜で刺客に襲われたのも、同様な背景があったのかもしれない。板垣を襲った相原は北海道に向かう船上で行方不明となっており、板垣襲撃を計画した者に殺害されたという説もあるようだ。

板垣退助遭難の図

有名な『板垣死すとも自由は死せず』の言葉は、板垣が岐阜で襲われた時に発したとされているのだが、右胸、左胸を刺された本人が刺客に対して言う言葉としては芝居のセリフのようで、どうも不自然だと思う人は私だけではないだろう。
本人は別の言葉を発したとかいろいろな説があるようだが、事件後の報知新聞の取材では、刺客の相原を抑え込んだ内藤魯一が事件時に叫んだ「板垣死すとも自由は死せず」を、内藤が、板垣が叫んだことにしたという説がWikipediaに出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この内藤魯一は、明治17年(1884)民権運動を弾圧した三島通庸や大臣たちを爆殺しようとした加波山事件に連座して2年の獄中生活を送った人物だ。

菊池寛は、この板垣襲撃事件を自由党が党勢拡大に利用したことをうまく書いている。
「明治15年3月、自由党総理、板垣退助は東海道の遊説に赴き、静岡、名古屋を経て、4月6日に岐阜において大演説をなした。
 将に玄関を出ようとするところを愛知県の小学校教員、相原某に襲われた。傷は浅かったが、この報が全国に伝わるや自由党員はこぞって岐阜に集まり、これ政府が手を廻して板垣総理を殺さんとしたのであると慷慨激越、意気正に天を衝くの慨があった。
この時板垣は刺客を睥睨して、
『板垣死すとも自由は死せず』
と一喝したとの挿話は、殉教者の様な響きを以て、全国に伝わったのである
。」(同上書 p.96)

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自由党と立憲改進党が帝国議会開設を前に衰退した経緯

自由民権運動の高まりに対抗して明治政府は集会条例を制定するなど民権派の活動を取り締まる一方、政府主導による立憲政治の実現にとりかかった。
政府部内でも大蔵卿・参議の大隈重信がすみやかに憲法を制定して国会を開設し、イギリスをモデルとした議会中心の政党政治を行なうことを主張したが、岩倉具視、伊藤博文らはドイツ流の君主の権限の強い憲法制定をとなえて大隈と対立していた。
明治14年(1881)に、開拓使官有物払下げを巡り政府内の対立が深まり、政府は国会開設の勅諭を出して、明治23年(1890)に国会を開くことを約束するとともに、大隈参議を辞職させ、伊藤博文を中心とする薩長の政権が確立した。(明治14年の政変)

その直後に、国会期成同盟を母体に板垣退助を党首とする自由党が結成され、翌明治15年(1882)には大隈重信を党首とする立憲改進党が結成された。

以上のことはどこの教科書にも書かれていることなのだが、この2つの政党の違いが、よくわからなかった。

たとえば『もう一度読む 山川日本史』では、
「両党とも各地で演説会をひらき、機関誌を発行するなど、政党政治の実現をめざし、都市の知識人(おもに士族)や地方の地主・豪農・商工業者などのあいだに勢力をひろめた。その活動は、志士的気風に富み行動力の活発な自由党のほうが、イギリス流の穏健で着実な議会政治を理想とする立憲改進党よりも急進的であった。」(p.236)
と記述されている。
学生時代には「急進的」と「穏健」という言葉で自由党立憲改進党を記憶したが、2つ政党の主義・主張、活動方針がどう異なるのか。こういう肝心なことが何も書かれていない。

前回紹介した菊池寛の『大衆明治史』に、新たな政党を設立して大隈が総裁になるのではないかと言う風説が出て、藤田一郎と言う人物がその真偽を確かめた一問一答をまとめた「東京日日新聞」の記事が引用されている。ここで大隈は自由党に対して結構過激な発言をしているが、こういう文章を読むと、自由党立憲改進党の違いが見えてくる。

大隈は、政府にいても民間にいても自分の主義主張は変えないと述べたあとで、板垣退助を厳しく批判している。
大隈重信

「…彼(か)の板垣退助君の如く、征韓論を以て内閣を去りながら、数月を出でずして民撰議院設立の建白書を上るというが如き挙動は、予の敢てなすところではない。予は主義によって政府を去り、その主義を以て民間に唱う、何ぞ出所の正しからざることあらん。
予、熟々(つらつら:つくづく)近時の我が国情を考えるに、政党組織も遏む(とむ:とめる)べからず。政談演説も絶つべからず。必ずや一日は一日と多くなることと思う。これのみではない。予が兄と共に憂うべきことは、今日の政党者流の挙動である。彼等は政府といえば善悪を弁せず、郡吏、巡査さへも攻撃せんとし、民権と言えば、政府に抗すれば、得られるものと思っている。その最も甚だしきものは彼の自由党の類である。このままに放置して置けば、遂には社会を破壊するに至るであろう。これが予が不敏を省みず、自ら任じ、民間にあってこれを矯正し、国家の保安を維持して、聖天子に報い奉らんと欲する所以(ゆえん)である。予豈(あに:決して)徒(いたずら)に事を好んでこの事をなさん。」(菊池寛大衆明治史』p.99)

大隈はこの発言ののち、明治15年(1882)3月14日に立憲改進党の趣意書を発表し、16日に木挽町で結党式を挙行している。

大隈も板垣も、二人とも薩長閥が権力を握った政府と戦うために政党を作ろうと考えたのは同じだと思うのだが、大隈は、自由党のように政府のすることなすことに抵抗していたら、いずれわが国の社会が破壊されてしまうとまで述べていることは注目して良い。

菊池寛は二つの政党についてこう解説している。
菊地寛

日本の政党が、とかく主義を主としないで人を主とし、ややもすれば封建的な権力争いに浮身をやつす傾向は、既にこの頃から萌(きざ)していたのである
 自由党と改進党は、ともに立憲主義を抱き、藩閥を敵としていたのだから、共同戦線を張ったらよさそうなものだが、実際はお互いの軋轢や党争を繰り返しているのは、その主義と言うより党風の相違とその総理である板垣と大隈の性格の相違に依るものが多い。
 意気を尚(とおと)び、情熱家の板垣は、智略を事とし、品格を重んずる大隈とは合わない。だから自由党に集まる者は、燕趙悲歌*(えんちょうひか)の壮士、地方農民と不平士族が多く、改進党を支持する者は学問常識を誇る者や都会の商工業者が多かった
。」(同上書p.101)
*燕趙悲歌の壮士: 時世を慷慨する者

このようにして自由党、立憲改進党が相次いで成立したのだが、政府が約束した国会開設は明治23年(1890)であり、立憲改進党が出来た年から8年も先の話である。両党にとっても8年近く運動を継続し、支援者を増やして資金を集め続けることは容易な事ではなかったはずだ。しかも両党の党首が仲が良くないときている。そこに薩長藩閥の明治政府がつけ入る隙があった。
板垣退助

政府はまず板垣を外遊させている。
板垣退助は、岐阜で暴漢に襲われた半年後に後藤象二郎とともにヨーロッパに旅立つのだが、その外遊費用2万円は現在価値にして4億円近いとされ、こんな資金が自由党にある筈がなかった。では誰が出したのか。
通説では三井財閥が出したと言われているのだが、板垣の洋行費の出所が改進党系の新聞で追及され、自由党内でも問題になったため、板垣の分は別の人物から工面したというのが真相のようである。

以前このブログで吉野の山林王・土倉庄三郎のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html
土倉庄三郎

この土倉庄三郎が板垣の洋行費の大半を工面したとことがわかっている。
田中淳夫氏は著書『森と近代日本を動かした男』の中で、自由民権運動を経済面で支えたのはこの人物であったことを詳細に記しておられるが、その当時「自由民権運動の台所は大和にあり」と言われていたという。
土倉がなぜ自由民権運動を支援したかについては、田中氏は当時奈良県が大阪府に統合されていたことと関係がある事を示唆しておられる。
森と近代日本を動かした男
以前私のブログにも書いたが、明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、ついで明治14年には、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために堺県が大阪府に編入されてしまっていた。
そのために、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されたり、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発し、「奈良県再設置」の運動が拡がった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html
土倉庄三郎自由民権運動の高まりに期待して多くの資金を支援したのだが、その資金は最終的には役に立たたず、恒岡直史・今村勤三議院らが政府に何度も陳情して「奈良県再設置」の実現にこぎつけている。

話を板垣の外遊に戻そう。では板垣は、なぜ外遊しただろうか。
板垣は伊藤博文が憲法調査のため西欧に行くことに刺激されて、自分も立憲政治の実情を知りたいと考えていたところに後藤象二郎がその計画を応援したということのようだが、この事情を調べていくと、自由党のリーダーの外遊させて自由党の弱体化を謀ろうとする伊藤博文や井上馨の意図が見え隠れするのだ。
後藤の外遊資金は政府が斡旋した三井の資金を受け取ったと思われるが、板垣の場合は改進党からその資金の出どころを追及されたために、板垣は三井の金を受け取らず土倉庄三郎の資金を頼ったことになる。
この間の事情は、田中由貴乃さんの論文『板垣洋行問題と新聞論争』などが参考になる。
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0040/DB00400L001.pdf

しかし、自由民権運動が全国的に盛り上がっている時期に、自由民権派のリーダーである板垣が外遊することに反対する自由党幹部が少なくなかったようだ。板垣は後藤らに説得されて外遊を強行したのだが、そのために自由党を去った者も少なくなかったようだ。

そのタイミングで明治政府は、リーダー不在の自由党を叩いている。
ここで、前回の記事で紹介した「鬼県令」の三島通庸(みちつね)が登場する
菊池寛の文章を再び引用しよう。
三島通庸

福島県令三島通庸が、『自由党と火放け泥棒は一匹も管内に置かぬ』と嘯いたのは有名な放言であるが、藩閥官僚の面目は、この一句に躍如としている。
 藩閥政治家は、まずこの二大政党の仲の悪いのに乗じて、一層この乖離に努めた
金をバラまいて居た板垣を洋行させるかと思うと、大隈にはその糧道を絶って、その咽喉首を締め上げている。更に正面攻撃では巌法酷刑を設けて、政党員の活動を手も足も出ぬように縛り上げたのである。
 指導者を失い、酷刑に脅かされた自由党は遂に非合法的なギャング党になり、各地に武器をとって政府に反抗する暴動が頻発した。温健をもって誇っていた改進党も、次第に強硬な闘争党となって、長く反政府軍の先鋒となったのである。
 この気分が、国会開設まで残り、主義綱領を争うより、やれ民党だ、吏党だと言って不必要な摩擦を繰り返し、これが国運の順調な発展を阻害したもの、非常であることは、今日まで我々がいたるとこで、その弊害を見せつけられているのである。」(同上書p.102)

少しばかり補足しておく。
三島が福島県令になったのは明治15年(1882)で自由党が結成された翌年のことである。
福島県は自由党勢力が盛んな地域であり、三島は県令に就任するや、会津若松から新潟、山形、栃木に通じる道路(会津三方道路)の開削に着手した。その手法は重税を課した上に県民を強制的に徴発して労役奉仕させるもので、それに応じない者の財産を競売に付したりしたという
三島の強引なやり方に反対して、同年の11月に数千人の住民が喜多方警察署に押しかけ、約2千人が逮捕されている。(福島事件)
また翌明治16年(1883)3月には新潟の自由党の活動家ら37余名が政府転覆容疑で逮捕されたが、逮捕された大部分が冤罪であったという。(高田事件)

同年6月に帰国した板垣は、党再建のための政治資金集めをはかるが失敗し、翌明治17年(1884)3月には総理権限を強化して党員の結集を図ろうとしたが、地方の急進派を押さえきれず、9月には栃木県令三島通庸の暗殺未遂事件(加波山事件)を引き起こしてしまう。
この事件により党内で解党論が高まり10月29日の党大会で自由党は解党したのだが、その2日後の10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父地方で農民が武装蜂起し、高利貸しや役所などの書類を破棄し、政府は警察隊・憲兵隊だけでなく東京鎮台の兵士まで送り込んで鎮圧するという事件が起こっている。(秩父事件)

一方立憲改進党の方はどうであったのか。
立憲改進党は自由党総裁の板垣退助の洋行費の出所を批判したが、自由党からも同様な批判を受けたようだ。
早稲田大学のホームページに、政治家としての大隈重信のエピソードを纏めたページがある。
http://www.waseda.jp/jp/global/guide/founder/statesperson.html

そこには、こう記されている。
1883(明治16)年、自由党は、大隈と三菱は結託しており、一企業の利益を優先する政党は『私党』だ、『偽党』だと、激しく改進党を攻撃しました。海坊主(三菱)と大隈を退治せよと演説し、熊の人形を引きずり出して火をつけたりして、両党の亀裂は深まっていきました。
 政府による妨害と経済界の不況があいまって、党活動は困難へと追い込まれます。1884(明治17)年11月、自由党の解党に続いて、改進党にも解党問題がおこり、党内は賛否両論に割れました。大隈は調停をはかろうとしましたが、これに失敗し、ついに12月、脱党届を提出して党を去ります。以後、改進党は都市知識人を中心とした集団運営体制へと移行し、党首を欠いたまま、1890(明治23)年の帝国議会の開設を迎えました。」

かくして自由党も立憲改進党も衰退してしまうのだが、帝国議会の開設が近づくと、後藤象二郎が自由民権運動各派を統一させようと再び動き出す。(大同団結運動:明治20-22年)
明治政府は明治20年(1887)に保安条例を制定して活動家の弾圧を始める一方、翌年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させている。また明治22年(1889)には、後藤象二郎を逓信大臣に入閣させて、大同団結運動から撤退させた。またその年に旧自由党のメンバーの一部が大同協和会を結成し、翌年に自由党と改称している。
明治23年(1890)に帝国議会が開催されると板垣退助を擁立する声が高まり、自由党と愛国公党、大同倶楽部が合流して立憲自由党を結党している。
第2回帝国議会

こんな細かい話はどうでもよいのだが、菊池寛はわが国の政党の問題点をこのように簡潔に述べている。

「…主義綱領を争うより、やれ民党だ、吏党だといって不必要な摩擦を繰り返し、これが国運の順調な発展を阻害したもの、非常であることは、今日まで我々が到るところで、その弊害を見せつけられているのである。」(同上書p.102)

菊池寛が『大衆明治史』を上梓したのは昭和16年(1941)のことなのだが、党利党略を優先し不必要な摩擦を繰り返して、国家の重要な問題の解決を先延ばし、わが国の発展を阻害してきたというのは、今日の政治家も同様なのではないか。
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「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
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吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊

義和団と清兵に取り囲まれた4000人の籠城者を救出するために、わが国は再三にわたる英国の要請を受け、列国の承認のもとで第五師団を派兵した。

北清事変連合軍兵士

すでに各国の連合軍は天津城を完全占拠していたのだが、そこで師団主力の集結を待って、8月4日に天津を出発し北京籠城組の救出の途に就いた。連合軍の総兵力は二万二千人と言われ、その半数近くは日本兵だったという。

義和団の乱

対する清朝軍と義和団は兵の数は多かったが、装備という点では「在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃連合軍」が中心で連合軍よりもかなり劣っていたようだ。しかしながら士気は高く、頑強に抵抗してきたために、清朝軍および義和団に多くの死傷者が出たようだ。

一方の連合軍は、装備でははるかに優っていたものの、軍隊としてまとまっていたわけではない。菊池寛は『大衆明治史』でこう記している。

連合軍は各国とも功名を争って、はじめから統一を欠いたが、通州を発する頃から競争はますます激しくなり、8月14日各国軍は一斉に北京城外に達し、各城門を破って先を争って入城した
 印度兵が公使館区域の水門をくぐって午後3時頃英国公使館へ達したのが一番乗りということになっている。これに対して真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を戮殺し、その屍を踏んでわが公使館に達していが、いかにも日本軍らしい、やり方であったと思う
 救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。60日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであった。
 北京開城とともに、西太后は暮夜ひそかに宮殿を抜け出し、変装して古馬車に乗じ、西安へ蒙塵*したのであった。」(『大衆明治史』p.235-236)
*蒙塵(もうじん):変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと

このような記述を読むと、それほど激しい戦闘ではなかったような印象をうけるのだが、この北京の戦いにおける連合国側の死傷者は450名でうち280名が日本人だったという。

日本兵が死守した粛親王府の一部
 
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に北京篭城組で後に東京帝大教授となった服部宇之吉氏の『北京籠城日記』という本が公開されている。
巻頭に何枚かの写真があるが、日本軍が防衛を担当し死守した粛親王府の一部の写真があり、次のURLで誰でも見ることが出来るが、ひどく破壊されているのに驚く。真夏の暑い時期に、少ない武器と食糧で、睡魔と闘いながら60日以上籠城を続けたことはすごいことである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020210/7

ところで北京を制圧し、最初に連合国軍がしたことを書かねばならない。
再び、菊池寛の文章を引用したい。文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。
 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」(同上書 p.237-238)
*戎克(ジャンク):木造帆船

菊池寛

各国の兵隊が行なった悪事は掠奪ばかりではなかった。菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。しかも若い婦人に対して、一人残らず行なわれた行為は、人間業とも思えぬものがあったと語っている。今度の通州事件*は一世の憤激を買ったが、この時フランス兵が通州に入城してやった蛮行は、さらに大規模なものであったそうである。これが支那兵や安南の土民兵ならいざ知らず、文明国を誇るフランス人ばかりの安南駐屯兵がやったのだから、弁解の余地もない。
 戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」(同上書 p.238-239)
*「今度の通州事件」:昭和12年(1937)7月29日に日本居留民が通州で中国人部隊に大量虐殺された事件。

菊池寛はこう書いているが、いずれも暴行の現場を目撃したという証言ではない。当時の外国人はどう書いているか、目撃証言の記録があるかを知りたかった。
いつものように国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の検索機能を使って、北清事変について詳しく記した書籍を探していると、北清事変の翌年である1901年に博文館から出版された『北清戦史 下』という本の『第9 所謂文明国の暴行』にかなり具体的に詳しく記されているのが見つかった。
「英国新聞記者の談」の一部を引用するが、次のURLで詳細を読むことが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

「英国ロンドンの『デーリーエキスプレス』の軍事通信員ジョーヂ・リンチ氏が実際目撃して、わが『神戸クロニクル』の記者に語りたるものを摘録せん。…列国の暴行を述べて曰く、
『…北京まで進んでみると連合軍中最も品行の善いのは日本軍であるということを発見しました。殊に◎州(判読不能)に於いて露国兵の如きは実に乱暴狼藉を極めたです。私は高壁の下に倒れている支那婦人を幾人も見ました。それは露兵の為に乱暴せられるのを免れんがために、高壁から飛び下りて腰を抜かしているのです。私の見た時にはこれ等の哀れむべき夫人は未だ生きて呻いておりました。…
…私が始終見た残酷なる処行の一例を申せば、私は10歳か11歳の童子を露兵がフートボールの様に蹴り上げて居るのをみました。露兵が赤児を銃槍の尖(さき)から尖へ投り渡したという話も聴きましたが私は観ませんでした。…

露兵は始終剣を銃の先に嵌めていてかって鞘に収めたことはないので。その銃槍をもって絶えず支那人を突きまくるのです。彼らは快然として行軍する。その途中出会うもの、いやしくも生き物であれば皆突いてみようとしたです。露兵15人が11歳の女子を輪姦して殺したのは隠れもない事実です。言いたくは無いことですが、フランス兵も非常に暴虐を働きました。』」
また、こんな記述もある。
米国ブレブステリアン派の派遣宣教師イングリス夫人が香港の日々新聞に投じたるところを見るに、また露兵の暴行見るに忍びず、仏兵またこれに次ぎ、英兵は露仏両国の軍隊に北京の富を奪われむことを懼れて掠奪隊を組織したるなどの事実を記載せり。なお夫人は言えり。北京陥落の以後は掠奪の状態一変して、遠征軍中の文武官は『掠奪の為に当地に来たれり』と言うに憚らざるに至れりと痛言せり。以て外国兵の暴行を知るべし。」

『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』

ではわが国の軍隊は、どうだったのか。
ウッドハウス瑛子の『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』という本がある。G.E.モリソンという人物はオーストラリア人ジャーナリストで、当時は『タイムズ』の北京特派員として「北京籠城」を余儀なくされたメンバーの一人であり、この本は彼の日記や手紙などをもとに義和団事件の詳細が描かれている。

モリソン

モリソンの記録によると、日本軍は速やかに金庫と食糧を確保し、馬蹄銀250万両と「1個師団を1年間充分に養えるくらいの米とその他の食料を確保」したことは記されているが、他国の軍隊のように、個人で宝石や絵画などを掠奪したようなことはどこにも書かれていない。
日本軍は西太后の離宮万寿山を占領したのだが、連隊長の命令で夏宮殿の装飾品や宝石には手を付けさせなかった。楼門に日章旗を掲げて日本軍占領を表示して引き揚げたのだが、その後にロシア軍が入ってそれらを掠奪したことが記されている。
また、東洋の宝ともいうべき紫禁城は、柴五郎が北京陥落の翌15日に皇城の三門を押さえ、他の一門をアメリカ軍が押さえ、日米共同でこの城を守ったので、破壊と掠奪を免れたとある。

北京城列国占領区域図

列国は皇城を除く北京城内を各国受持ち区域に分割して、日本が受け持った地域は柴が行政警察担当官に任命され、清国人の協力のもとに秩序回復に努め、北京でいち早く治安が回復したという。日本人は、乱を起こした義和団のメンバーも「彼らは兵士と同等であり、処罰すべきではない」として匿い、その寛容さにモリソンは感激している。

一番ひどかったのがロシアの担当地域だった。『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』には、こう記されている。
「ロシアの管轄下に置かれた区域の住民は、他の区域の住民に比べて一番ひどい目にあった。軍紀がいきとどいていないため、ロシア兵は暴徒と化して、いたるところで暴行略奪の限りを尽くし、虐殺・放火・強姦など血なまぐさい事件が続出した。
たまりかねた北京市長の聯芳は8月19日、マクドナルド英公使のもとに苦情を訴え出た。聯芳は…ロシア兵の残虐行為の実例を数多くあげ
『男は殺され、女は暴行されています。強姦の屈辱を免れるために、婦女子の自殺する家庭が続出しています。この地区を日本に受け持ってもらえるよう、ぜひ取り計らって下さい」とマグドナルドに哀願した、とモリソン日記はいっている
。」(『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』p.238)

また8月28日付のロンドンタイムズ社説には「列国の公使館が救われたのは日本の力によるものである、と全世界は日本に感謝している。…列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のお蔭である…日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」と書き、8月18日付のスタンダード紙社説には「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に価するものであり、かつ他の追随を許さない…」と書かれているそうだ。(同上書 p.222-223)

実質的に公使館区域の籠城戦を指揮した柴五郎中佐は各国から賞賛され、英国のビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与されたのだそうだが、このような記録を読むと、全体として日本軍は勇敢に戦い、軍紀も守られていたからこそ世界から賞賛されたのだと考えるのが自然である。

義和団鎮圧と北京公使館区域救出に最も功績のあったわが国であったが、後に開かれた北京列国公使会議で最も多額の賠償金を要求したのはロシア(180百万円)であり、次は北京救出に1兵も出さなかったドイツ(130百万円)、ついでフランス(106百万円)、イギリス(65百万円)と続き、わが国は第5位(50百万円)だったという。
ロシアとドイツが醜い争いをした中で、わが国は一番功績を挙げたにもかかわらず、多くを要求しなかったことは、清国人の心も動かしたという。その後わが国に留学する清国学生が急増したのだそうだ。

330px-SirClaudeMacdonald.jpg

柴五郎とともに籠城戦を戦ったマグドナルド英公使は、1901年にソールズベリー英首相と会見して、日英同盟の構想を説いたという。その後彼は日英同盟の交渉の全てに立ち会い、同じく籠城組の『タイムズ』の記者・モリソンが、日本という国を賞賛してそれを後押ししたということだ。
日英同盟は、「北京籠城」で運命を共にした者同士の強い信頼の絆がなくては、決して成立しなかったと思うのだが、歴史の教科書や通史やマスコミの解説では、このあたりの事情にほとんど触れることがないのは、「日本人に知らせたくない史実」「戦勝国にとって都合の悪い史実」を封印しようとする勢力が国内外に存在するということだと思う。

北清事変にかぎらず、戦前には国民の間に広く知られていた史実の多くが戦後になって封印されてしまっているのだが、封印された史実の大半は、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い話であると考えて良い。
私のブログで、今までそのような史実をいくつか紹介してきたが、こういう史実が国民に広く知られるようになれば、「わが国だけが悪かった」とする偏頗な歴史観は、いずれ通用しなくなる日が来ると考えている。
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【ご参考】
このブログで、第二次大戦の戦勝国にとって都合の悪い出来事をいろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

幻の映画、「氷雪の門」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-186.html

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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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