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戦国時代の歴史を動かした天正地震

4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。

帰雲城趾

上の画像は帰雲城があったとされる場所に立つ『帰雲城趾』の碑だが、画像に写っている帰雲山は何度も山崩れを起こしているのか、今も地肌を見せたままである。

教科書などでは天正地震のことは何も書かれていないが、この地震で倒壊したのは帰雲城だけではなかった。Wikipediaによると美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、伊勢の長島城が倒壊、近江の長浜城が全壊などとかなり広範囲に大きな被害が出ている。

震源地については諸説があるが、太平洋側の伊勢湾と日本海側の若狭湾の双方に津波の被害が出ている。

その当時イエズス会宣教師としてわが国に滞在していたルイス・フロイス(1532~1597)の『日本史』には、この地震について次のように記している。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、(我らの暦の)1月の何日かにあたるが、(突如)大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
 人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
 その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫『完訳フロイス日本史③』p196-197)

地震の日付は和暦で記しているのだが、同年の11月1日には地震の記録は外に存在しない。フロイスが単純に日付を誤って記したものと理解されている。

長浜城
長浜城

通常続いてフロイスは琵琶湖岸の長浜の事例を記している。
「近江の国には、当初関白殿が(織田)信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城がある地に、人家千戸を数える町がある。そこでは地震が起こり、大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した。」(同上書 p.197)

長浜地図

長浜には西浜千軒遺跡下坂浜千軒遺跡という湖底遺跡があり、この地震で湖に水没したと推定されている。
次のURLに、2011年9月12日に滋賀県立大の中井均准教授が指導する「琵琶湖水中考古学研究会」が、長浜市沖の西浜千軒遺跡の調査で、供養塔や仏塔の一部など430点が見つかったと発表したことの新聞記事をまとめている。このブログ記事によると。
「長浜市祇園町沖約100mの湖底・水深約1・2~1・5mで、東西38m、南北26mにわたって素潜りで調査し、方形区画や石積みを見つけた。 一石五輪塔(砂岩製)の一部や、石仏の上部など、墓地に使われたとみられる石があり、材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭に作られたとみられる。 文献で天正13年11月29日(1586年1月18日)に岐阜県中北部を震源とするマグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、これと時期が一致した」とある。
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/92dc366e3e9c269182cbd181fbcc0c16

長浜城からの琵琶湖の眺め
長浜城から西浜千軒遺跡方面を望む(画像の右)】

「琵琶湖水中考古学研究会」が撮影した写真は同会のFacebookホームページで公開されているが、今の湖岸から100m近く西に千軒近い集落があり、その集落が地震によって瞬時に水没したと理解すればよいのだろうか。
https://www.facebook.com/lakebiwaarchaeology/

さらにフロイスは京都の事例を記したのち、若狭湾で津波の被害が出たことを書いている。

「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198)

高浜、小浜地図

 ところが、若狭湾には長浜という地名は存在しない。フロイスが琵琶湖に沈んだ長浜の話と混同したのかと誰でも考えるところだが、フロイスは「やはり長浜と称する別の大きい町」と、琵琶湖岸の長浜とは区別して書いている。小浜の地名を誤ったか、高浜の地名を誤ったかのいずれかなのだが、地形から判断すると、U字型をした湾の中心部にある高浜の方が津波の被害が出る可能性が高そうだ。Wikipediaによると、福井大学の山本博文教授は福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表したという。平成27年5月19日の読売新聞の記事が次のサイトで掲載されているが、笠原川を遡った津波が、海の砂や貝殻を運んだ形跡が、かつて湿地帯であった水田の、深さ約1mに確認されたという。このあたりの標高を電子国土Webで確認すると1.5~3m程度で、さらに深さ1mというから津波の規模としては高浜では比較的小規模なものであったような印象を受ける。
http://jcpre.com/?p=8105

イエズス会のジアン・クラッセ(1618~1692)がわが国で布教活動をしていた宣教師たちの書簡に基づいて著した『日本西教史』にこの地震の津波のことが記されている。この本は国立国会図書館デジタルコレクションに収められていて、誰でもPC上で読むことが出来る。津波の記事だけ紹介すると、
若狭の国内貿易の為にしばしば交通する海境に小市街あり。ここは数日の間烈しく震動し、これに継ぐ海嘯を以てし、激浪の為に地上の人家は皆一掃して海中に流入し、あたかも元来無人の境の如く全市を乾浄したり」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/344

クラッセは、おそらく当時日本にいたフロイスなどの書簡を参考にして記したものと思われるが、当時の宣教師の記録そのものが確証のない噂話を記したものである可能性も考えられる。

吉田兼見
【吉田兼見】

しかしながら、宣教師とは全く接点がなかったと思われる日本人による津波の記録も残されている。
吉田神道宗家・吉田家9代当主の吉田兼見が『兼見卿記』の11月30日条に、地震の後の津波の事を書いている。文中の「若州」は「若狭」と理解してよく、若狭湾で津波が発生した可能性はかなり高そうだ。
「廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦邊波ヲ打上在家悉押流、人死事不知数云々、」
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/kanemi.jishin.html

ところでこの天正地震が起こった時期は、秀吉は近江国の坂本の城にいた。
フロイスの記録によると、
彼は、その時手がけていたいっさいのことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからである。」(同上書p.199)とある。
この地震で大坂城は大丈夫だったのだが、弟の秀長の館は倒壊したという。

フロイスは、秀吉が「その時手がけていたいっさいのことを放棄し」たというのだが、秀吉は何を手がけていたのだろうか。
地震が起きた天正13年(1585)の秀吉の動きを見てみよう。
3月には紀州を平定し、7月には四国を平定し関白となり、8月には越中を平定している。
閏8月には家康が真田領に侵攻し、真田昌幸は上田城に籠城している最中に秀吉に支援を要請した。秀吉は支援を約束し、11月19日付の手紙には来年正月15日に家康を討伐するために出陣するので真田昌幸からも兵を出すように伝えたという。(松丸憲正氏所蔵文書)

そしてその10日後にこの天正地震が起きたのである。

秀吉

秀吉にとって、この地震のダメージは大きかった。
徳川征討軍で先鋒を期待されていた山内一豊の長浜城が倒壊し、大規模な地割れで長浜の市街地の一部が湖底に沈んだために多くの死者が出た。また徳川征討軍のための兵糧が蓄えられていた大垣城も倒壊してしまった。秀吉軍の他の武将も地震で大打撃を受け、家康征伐どころではなくなってしまったのである。一方、家康のいた三河以東は震度4以下で被害は少なかったのだという。

天下統一を目指していた秀吉は、地震によって家康打倒の強硬策から融和策への方針転換を迫られ、友好の証として妹の旭姫を送って家康を自陣営に取り込んだのである。さらに秀吉は、家康の上洛を実現させるために、実母を人質として家康に差し出している。

もしこの地震が起きていなければ、兵力で圧倒的に有利であった秀吉は家康を討伐していた可能性が高く、そうなると豊臣政権がその後も長く継続したかもしれないという認識が、最近広がりつつあるようだ。

地震は大地を動かすだけではない。時には為政者の運命を変えて、歴史をも動かすことがありうるのである。

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このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
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フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
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