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飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む

日本書紀」には様々な地震の記録がなされているが、天武天皇(?~686年)の時代はとりわけ地震の記述が多いことを友人から教えてもらった。そんな話を聞くと、自分で確かめたくなって実際に日本書紀を紐解いてみた。

天武天皇

日本書紀」の地震の記録を読む前に、少し天武天皇の歴史を振り返ってみよう。

671年に大化の改新以来政治の中心であっ天智天皇が崩御され、皇位継承をめぐって皇子の大友皇子(弘文天皇)と皇弟の大海人皇子との間に争いが生じ、翌年に美濃・近江・大和などを舞台に壬申の乱が起こるのだが、乱は大海人皇子方の勝利に終わり、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮で即位された。その天皇が第四十代の天武天皇である。

天武天皇は八色の姓を定めて、旧来の豪族を新しい身分制度に組み込み、天皇中心の国家体制を作られ、律令や国史の編纂事業が開始されたなどと教科書に書かれている。

日本書紀」の巻廿八と巻廿九が天武天皇の時代の記述で、前半には壬申の乱が詳細に書かれている。後半を読んでいると、この時期に地震が多かったのであろう、確かに何度も地震の記述が何度もでてくるのである。
数えた人がいるらしく、「日本書紀」には天武4年(676)から天武14年(686)までに16回もの地震の記録がなされているそうだ。天智天皇の時代の記録は1回だけだそうだから、かなり多いのはどういうことなのか。

そのうちの大半は「地震があった」「大きな地震があった」程度の記述で被害がほとんどなかったのかもしれず、日本の正史である「日本書紀」にわざわざ記録するほどの価値がない地震が含まれているかもしれないなのだが、記述内容からしてかなり大きい地震が何回かあったことは間違いない。

たとえば天武7年12月についてはこのように具体的に書かれている。

「この月、筑紫の国で大地震があった。地面が広さ二丈、長さ三千余丈にわたって裂け、どの村でも多数の民家が崩壊した。このとき、岡の上にあったある民家は、地震の夜、岡がこわれて移動した。しかし家は全くこわれず、家人は岡が壊れて移動したことを知らず、夜が明けてからこれに気付いて大いに驚いたという。」(講談社学術文庫 全現代語訳「日本書紀」(下)p.276-277)

筑紫の国とは現在の福岡県の内、東部にある豊前国を除く大部分を指している。
「丈」というのは約3mなので、地割れは6m× 9000mにも及んだというから、かなり大きなものである。

また、天武13年10月にはもっと大きな地震が日本を襲い、土佐国(現在の高知県)では津波による被害が出ている。

「十四日、人定(いのとき:夜10時頃)に大地震があった。国中の男も女も叫び合い逃げまどった。山は崩れ河は溢れた。諸国の郡の官舎や百姓の家屋・倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人畜の被害は多大であった。伊予の道後温泉も、埋もれて湯が出なくなった。土佐国では田畑五十余万頃(約一千町歩)がうずまって海となった。古老は『このような地震は、かつてなかったことだ』といった。
この夕、鼓の鳴るような音が、東方で聞こえた。『伊豆島(伊豆大島か)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、もう一つの島になった。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』という人があった。」(同書 p.299)

日本書紀が書かれた当時は「津波」という言葉はなく、巨大な波が発生するメカニズムについてはわかっていなかったのであろうからやむをえないが、この記述における被害の原因が「津波」であることは明らかであろう。
土佐とは今の高知県のことだが、1000町歩が海水につかってしまったと書いてある。
「町歩」という広さは1ヘクタールであるから、1000町歩は10平方キロメートルということになる。わかりやすく言えば、甲子園球場の760倍程度の面積が水につかったということだ。

「日本書紀」にはその後の復興ことなどは一切書かれていないが、津波のメカニズムがわかっていないので、ひたすら神仏に祈ることしかなかった時代である。

次に東北地方の地震の古い記録を見てみよう。
貞観年間(859-877)には、富士山や阿蘇山のほか出羽国鳥海山、薩摩国開聞岳が噴火し、貞観11年(869)には、今回の地震とよく似た三陸大地震が発生し、大きな津波の被害が出ている。

「日本三大實録」にその記録がある。原文は漢文になっているが、次のURLで現代語訳が読める。
http://tarikiblog2.blog22.fc2.com/blog-entry-327.html

「5月26日、陸奥国に大地震あり。
  人、伏して起きあることできず、
  崩壊した建家の下敷きになり、圧死する人々、
  地割れに脚をとられ、もがく人々。
  牛馬はあてど無く駆け廻り、
  崩壊した城郭、倉庫、門櫓、城壁、数えきれず。
  海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。
  瞬く間に城下に至り、海より数十百里を遡る。
  原野、道路、瞬く間に霧散し、
  船に乗れず、山に登れず、溺死者一千ばかり。
  それまでの資産、殆ど無に帰す。」

と、これを読むと、つい先日の地震のことを書いているようにも思えてくる。

津波画像

ここでは「海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。」と訳されているが、「日本三代實録」の原文ではこの部分は「海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長」となっており、とんでもなく大きい波が来たことを形容しているだけで、「津波」という言葉が当時は存在しなかった。この筆者には、大地震の後に大きな波が引き起こされると言う認識はなかったはずである。

Wikipediaによると、「津波」という言葉が最初に文献に登場するのは、「駿府記」に慶長16年(1611年)に起きた慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2

今は”tunami”という日本の言葉が国際的に使われているが、英語でこの言葉を最初に使ったのが前回の記事で書いたラフカディオ・ハーンの”Living God”という作品であり、これが「稲むらの火」の物語につながった。

日本のような地震国においても大きな津波被害が出るような地震は何百年に一度という周期で起こるものであり、一人の人間の命の長さからすればサイクルが長すぎて、海抜の低い地域で海の近くに住む人も、津波災害を一生に一度も経験することがないケースが大半なのだ。

東日本大震災

だからこそ、しっかりと災害の記録がなされることが必要なのだが、せっかく昔の記録が残されていてもそれが次世代に充分に伝えられなければ意味がない。
いずれ津波の怖さが忘れ去られてしまって、海抜の低い土地に住居や様々な施設が次第に建てられるようになる。そしてまた巨大地震が起こり、あとの津波がその集落を襲った時に再び大きな被害が出ることになる。津波災害の歴史は今までその繰り返しではなかったか。

古い記録は確かに読みづらいが、今回の地震では幸いにも大量の画像や映像が残っているはずだ。画像や映像を教材にすれば誰でも即座に津波の怖さを理解できるので、それらを使って地震の後の津波の怖さを世代から世代に伝えられるようにし、大きな地震があった時にどう行動すべきであるか、町や都市の設計はどうあるべきかを考えてその環境を整えていくことは、今回の大震災を体験した世代の責務だと思う。
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唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2

学生時代に歴史を学んだ時に、「倭国」と「日本国」とは同じ国のことだと教えられてずっと鵜呑みにしてきたのだが、最近になって中国の正史である『旧唐書(ぐとうしょ)』*東夷伝では「倭国」と「日本国」とが別々に書かれている事を知った。それぞれの位置関係を記した部分を中心に、現代語で内容を紹介したい。
*『旧唐書』:中国五代十国時代の後晋出帝の時に編纂された歴史書。完成は開運2年(945)
旧唐書
先ず「倭国」である。
原文と読み下し文は次のURLで読むことが出来る。(原文の10行目までが「倭国」)
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kutoujo/frame/kutoujo_frame.htm


倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国(なこく)である。都の長安から一万四千里、新羅の東南方の大海の中にある。倭人は山がちの島をねじろとして住んでいる。その島の広さは東端から西端までは歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月かかる。代々中国へ使節を通わせている。
…その周辺の小島五十国あまりはすべて倭国に所属している
。倭国王の姓は阿毎氏(あめし)で、一人の大将軍を置いて諸国をとりしまらせている。小島の諸国はみなこの大将軍を畏れて服従している。官位は十二等級あり、お上に訴え出る者は、はらばいになって進み出る。…」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.206-207)
金印
倭の奴国というのは『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』にあらわれる倭人の国で、後漢の光武帝に倭奴国が使節を派遣した際に金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されたことは学生時代の教科書にも書いてあった。
倭国の位置や広さに関する記述内容は『隋書』東夷伝では「東西三月行南北五月行」と、東西と南北の数字が逆になっているのが少し気になるが、倭奴国のことが書かれており、代々中国へ使節を遣わしていた事や阿蘇山の噴火のことが書かれている。普通に読めば『旧唐書』東夷伝における「倭国」と『隋書』東夷伝における「倭国」とは連続しており、九州のことを指しているとしか考えられない。

次に『旧唐書』東夷伝の「日本国」である。
先程のURLで、原文の11行目からが「日本国」である。
日本国は、倭国の一種族である。その国が太陽の昇るかなたにあるので、日本という名をつけたのである。
『倭国では、倭国という名が華美でないことを彼ら自身がいやがって、そこで日本と改めたのだ』

とも言われるし、また、
『日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した』
とも言われる

日本人で唐に入朝した者の多くは、自分たちの国土が大きいと自慢するが、信用のおける事実を挙げて質問に応じようとはしない。だから中国では、彼らの言うことが、どこまで真実を伝えているのか疑わしい、と思っている。また、
『その国界(くにざかい)は、東西・南北それぞれ数千里、西界と南界はいずれも大海に達し、東界と北界にはそれぞれ大きな山があって境界をつくっている。その山の向こう側が、毛ぶかい人の住む国なのである』

とも言う。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.211)

読み進んでいくと、魏の時代から唐の時代まで通交していた倭国とは別の国である日本国が、唐に使節を派遣してきたことが記されている。そして文章の中に、わが国においても名前が記録されている粟田真人、阿倍仲麻呂、空海らが、唐に来たことが記されている。

『旧唐書』東夷伝においては、冒頭で日本国が倭国とは異なる国であることを述べておきながら、日本国が倭国を併合したのか、倭国が名前を改めて日本国となったのか、真相が掴めきれていない書き方になっている。中国にとっては、これまで通交のあった倭国とは異なる日本国の使節がやってきて、「倭国が国名を変えた」とか「日本国が倭を併合した」とか説明を受けても事実が確認できるはずもなく、どこまで話を信用して良いか悩んだ末に、倭国とは別の国だという日本国の使節の説明にもとづき、「倭国」とは別に「日本国」の記録を残すことにしたのだろう。

ところで唐の時代の正史は、後に書き改められた、『新唐書』という史書がある。唐の時代の同じ時代のことを書いた正史が書き改められた理由は、Wikipediaによると「編纂責任者が途中で交代するなどして、一人の人物に二つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった」ために、北宋の嘉祐6年(1060)に再編纂されたものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8

この『新唐書』東夷伝には、「倭国」の記録はなく、「日本国」の記録に一本化されている。
そこにはどう書かれているのか。現代語で一部を紹介したい。
原文と読み下し文は、次のURLで読むことが出来る。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/shintoujo/shintoujo_frame.htm

日本は古(いにしえ)の倭の奴国である。都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。その国土の広さは東西は歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月の行程である。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.269)
と、『旧唐書』の倭国を紹介する文章とほとんど同じである。

もう少し読み進むと、「倭国」「日本国」の関係について書かれている。

「咸亨(かんこう)元年(670年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
『わが国は太陽の出る所に近いから、それで国名にしたのだ』と。
また、こういう説もある。
『日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ』
使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。またその使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向うは毛人の住む地だ、などと言っている
。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.272)

とあるのだが、先ほどの『旧唐書』では「小さな日本国が倭国を併合した」という説があると書かれていた。ところが、『新唐書』では「小さな日本国が倭国に併合され、倭国が日本国の国名を奪った」という説があると書かれている。

中国と古来通交のあった倭国を日本国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日本国を併合して新しい国名を「日本国」としたのか、その違いはとんでもなく大きい。
もし前者の視点である『旧唐書』の記述が正しいとすれば、わが国の古代史は全面的に書き直さねばならなくなるだろうし、後者の『新唐書』の記述が正しいとしても、4世紀後半までに大和朝廷がわが国を統一したという話は、日本国が余程小さい国でない限りは成り立たないだろう
わが国の歴史家の大半は、後漢書や三国志、隋書などのわが国に関する記述を重視している割には、『旧唐書』や『新唐書』の記述を軽視し、わが国の『日本書紀』の記述を重視していると思わざるを得ないのだ。

このブログで何度か書いているが、いわゆる『正史』と言われる歴史書は、自国についてはその時の為政者にとって都合よく書かれることが多くて当たり前だ。しかしながら他国のことに関しては、真実の追求に限界があるとしても、外交・安全保障観点からできるだけ正しく分析して後世に記録を残そうとする傾向にあるものであり、嘘を書く動機が乏しいものであるはずだ。したがって、わが国の歴史学会が、『旧唐書』あるいは『新唐書』の記述を軽視することはおかしなことだと思う。
古田武彦
逆に、『旧唐書』の記述に注目した歴史家もいる。
九州に日本を代表する王朝が存在したという古田武彦氏の「九州王朝説」は、日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明でき、説得力もあると思うのだが、なぜか日本古代史学会からは黙殺されているようだ。

黙殺されるのは、この説を認めることは今までの古代史研究の成果を否定することに繋がることにあるという点が最大の理由であろう。わが国の古代史学会は『日本書紀』を重視しすぎて、戦前の皇国史観の影響を受けた歴史叙述を今も引きずっているとは言えないか。
失われた九州王朝
「九州王朝説」の中にも諸説があるようだが、この考え方に立つと九州から王権が移動し、ヤマト王権が確立したのは7世紀末という事になるのだ。

ここで7世紀の半ばから後半にかけて、日本列島でどんなことがあったのか拾ってみる。
645年 大化の改新(蘇我入鹿暗殺)。難波宮遷都。
663年 白村江の戦い
667年 大津宮へ遷都
672年 壬申の乱。飛鳥浄御原宮へ遷都
694年 藤原京へ遷都

大きな争いごとといえば「壬申の乱」がある。
壬申の乱については、天智天皇がなくなった翌年に天智天皇の子大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子のあいだに皇位をめぐる争いが起こり、大海人皇子が勝利し翌年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となったと学生時代に学んだ記憶がある。
天武天皇は天智天皇の同母弟であることについては『日本書紀』明確に書かれているのだが、不思議なことに天武天皇の出生年については『日本書紀』には何も書かれていないという。その理由は恐らく、天武天皇が天智天皇の弟であることが嘘であることが明らかになるからではないのか。
例えば次のURLでは、天智は671年に46歳で没し、天武は686年に65歳で逝去しているので、逆残して生年を割り出すと、天武のほうが4歳天智よりも年上であったことが書かれている。
http://www.i-live.ne.jp/~jkimura/history/tenji-tenmu.html

草壁・大津系図
また、天武天皇は天智天皇の皇女を4人も妃にしている。天智天皇と天武天皇とが兄弟であることはかなり疑わしいのだ。

さらに、平安時代に書かれた『扶桑略記』には天智天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま行方不明になり、天皇の靴だけは見つかったが、どこで亡くなったかわからない旨の記録がある。暗殺された可能性が極めて高いのだが、天武天皇とその側近が怪しいと誰でも思うだろう。

そもそも『日本書紀』は681年に天武天皇の命により執筆が開始され、720年(養老4)に完成した『正史』であるのだが、その編纂の目的は為政者の政治権力に正統性があることを史実として固定化させることにあったはずだ。
したがって、わが国に文字のなかった時代に、天皇家によってわが国が統一され、それからずっとその尊い血筋を引いているという物語を作らせたかったという側面を割り引いて『日本書紀』を読む必要があるのだと思う。7世紀以前の出来事については、中国の正史その他の記録とバランスよく読まないと、古代史の真実は見えて来ないだろう。

ところでこの『日本書紀』にも、わが国に別の王朝があったことを示している部分があることを書いた論文がある。読者の方から教えて頂いた情報だが、このことを書き出すとまた長くなってしまうので、次回にその内容を記すこととしたい。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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