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五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1

奈良県の五條市に天平時代の建築物である栄山寺(えいさんじ)八角堂という建物が残されていることを知った。何度か戦火に遭い、八角堂だけは焼けなかったそうだが、法隆寺の夢殿のようなこの国宝の建物をこの目で見たいと思って、五條市や吉野郡の天誅組や南朝の史跡を中心に巡る旅行を計画して、先日行ってきた。

栄山寺は、藤原不比等(ふひと)の長子である武智麻呂(むちまろ)が養老3年(719)に創建したと伝わり、その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄え、南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行宮*(あんぐう)が置かれていた歴史があるという。
*行宮:天皇の、行幸時あるいは、政変などの理由で御所を失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設の事。行在所(あんざいしょ)、御座所(ござしょ)、頓宮(とんぐう)とも言う。

境内を少し進むと国宝に指定されている平安時代の梵鐘がある。小野道風(おののとうふう)の書と伝えられる銘文から延喜17年(917)11月3日に鋳造されたものであることがわかっている。

栄山寺本堂
本堂には本尊の木造薬師如来坐像(国重文)がある。たまたま春の御開帳の時期にあたっていて、ラッキーだった。本堂・八角堂は春(4/25~5月第3日曜)と秋(10/25~11月第3日曜)と正月(3が日)に御開帳され、今年の春の御開帳は5月26日までである。
http://inori.meguru-nara.jp/hihou/result.php?e=30

上記URLに御本尊の画像があるが、木造薬師如来坐像(国重文)は室町時代永享3年(1431)に制作されたもので、仏像だけでなく後背も金色が驚くほど鮮やかだった。また左右に並んでいる木造十二神将立像(国重文)も室町時代に制作されたものである。
本堂前には鎌倉時代に建立された石灯籠があり、この石灯籠も国の重要文化財に指定されている。
先日訪れた時は新緑の緑が鮮やかであったが、秋の紅葉の時期もきっと素晴らしいだろう。そして裏山の山頂には藤原武智麻呂の墓があるという。

栄山寺八角堂

これが国宝の八角堂だが、御開帳の時期だったので、中にも入ることが出来た。かなり剥落してしまってはいるが、内陣の天蓋や柱などには装飾画が描かれていて、この装飾画も国の重要文化財に指定されている。

この栄山寺にはほかにも貴重な文化財が多数残されているが、すばらしい文化財を、昔から安置されていた場所で、古いままの姿で、仏像ならば祈りの空間の中で間近に鑑賞しながら、古き時代を偲ぶことができることはありがたいことだ。

栄山寺を出て国道24号線に向かって600m程走ると右に折れる細い道があり、しばらく進むと「宇智川磨崖碑(うちがわまがいひ)」の入口がある。
この磨崖碑に彫られているのは「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」というお経の一部で、彫られた時期は宝亀7年か9年(776か778)で、その頃はこのあたりも栄山寺の境内であったのだそうだ。

宇智川磨崖碑
私はこの宇智川を渡るのを諦めたので、対岸からは彫られた字が岩のどこにあるかよく解らなかったのだが、次のURLには写真などで詳細にレポートされている。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7460/nara-gojyou-utigawahi.html

五條市立民俗資料館
次に車を五條市立民俗資料館に進める。
江戸時代は、奈良県五條市は徳川幕府の直轄地で、現在の五條市役所の場所に五條代官所があったという。この民俗資料館は江戸末期には五條代官所の長屋門だった建物である。
文久3年(1863)8月17日に尊王攘夷派の天誅組(てんちゅうぐみ)によって五條代官所が焼き討ちにされる事件が起こった。この事件は立場により「天誅組大和義挙」と呼んだり「天誅組の変」と呼んだりするのだが、この資料館には天誅組に関する多くの資料が展示されている。

そして今年はこの事件が起こってからちょうど150年の節目の年になるので、各地でイベントが企画されているようだ。

しかし天誅組のことは、一般的な歴史叙述からほとんど無視されており、私も最近までほとんど何も知らなかった。どんな事件であったのか、Wikipediaなどを参考にして簡単に振り返ってみよう。

徳川幕府が外国勢力に屈して開国した後、幕府勢力に対抗する旗頭として朝廷を担ぎ出す動きが広まり、脱藩した武士たちが尊王攘夷の中心となっていた長州藩に集まり、攘夷派公卿とともに反幕活動を活発化させていった。
この事件が起こった文久3年(1863)には、孝明天皇の勅命を以て幕府に攘夷を迫り、朝廷の権威を高めるために孝明天皇は賀茂神社・石清水八幡宮と2度の行幸をされている。さらに3度目の行幸として大和(奈良)に行幸するという詔が8月13日に発せられた。

天誅組
ここで先に大和入りして天領である五條を平定しようと、中山忠光(明治天皇生母・中山慶子の実弟)、土佐脱藩吉村寅太郎、刈谷脱藩松本奎堂・備前脱藩藤本鉄石ら38名の同志が五條に向かった。これが「天誅組」である。当時の記録によると38名の内18名が土佐脱藩浪士、8名が久留米脱藩浪士であったそうだ。

彼らは8月17日に五條代官所を襲撃し鈴木源内ら役人を殺害し、櫻井寺に本陣を置き五條を天朝直轄地とする旨宣言して「五條新政府」を置いた。

ところが、尊王攘夷派のやり方に反発する薩摩藩と会津藩とが、討幕に繋がる今回の行幸を阻止しようと手を組み、8月18日に宮中でクーデターを起こしたのである。(8月18日の政変)
そのために朝廷の人事変更と孝明天皇の奈良行幸が、急遽中止されることとなり、長州藩と尊王攘夷派公卿たちは京都から追放されてしまう。

わずか1日で、天誅組は、皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされたのである。
彼らの軍議で決まったのは、解散ではなく徹底抗戦。いずれ尊王攘夷派が決起することを信じて抗戦し、武力討幕が可能であることを証明し、たとえ途中で倒れても、続く者の為に捨て石になることを選択したのである。

総勢100名程度の天誅組征伐に、幕府は近畿一円の藩に出動命令を出して約1万の兵を動員し、天誅組は命からがら十津川へ撤退し、その後大峰山を超えて下北山村に出て、9月27日に吉村寅太郎が東吉野で討たれたのを最後に壊滅してしまった。

彼らの善戦は時代を変える突破口になり「明治維新の魁(さきがけ)」となったという評価は正しいと思う。
その後生野義挙、禁門の変などがおこり、時代は武力討幕へと移っていく。そして4年後、徳川幕府が倒れ明治新政府が誕生した。彼らは自ら新時代を見ることなく散っていったのである。

櫻井寺
上の画像は天誅組の本陣が置かれた櫻井寺である。現在はコンクリート造りのモダンな建物だが、当時の堂宇は国道24号線が計画された時に撤去され、神奈川県箱根町に移築されたのだそうだ。境内には五條代官であった鈴木源内らを殺害した後首を洗ったという「首洗いの石手水鉢」が残されている。

新町通り
五條市の「新町通り」は、江戸時代の情緒漂う古い町並みが残されていて一見の価値がある。電柱と電線くらいは地中に埋めてほしいところだが、漆喰塗の壁や虫籠窓、格子の家々の連なる通りを歩くと、タイムスリップしたような気分になる。
「新町通り」に沿って歩くと古い家並みが続くが、第一次吉田内閣の司法大臣などを勤めた木村篤太郎の生家が「まちや館」として公開されており、木村篤太郎の写真や勲章などが展示されている。さらに行くと「まちなみ伝承館」という施設があり、昔の五條市内商店の「引き札」(ポスターのようなもの)や、雛人形などが展示されていた。

栗山邸
また新町通りの入口あたりには、国の重要文化財に指定されている栗山邸がある。棟札には慶長12年(1607)の銘があり、建築年代のわかっているものでは日本最古の民家なのだそうだが、公開されていないのは残念だった。

賀名生の里歴史民俗資料館
昼食に柿の葉寿司で腹ごしらえをしてから、五條市西吉野町にある「賀名生(あのう)の里歴史民俗資料館」に車を進める。ここには南朝の宝物や天誅組の資料などが展示されている。

堀家住宅
この隣にある立派な茅葺の家が堀家住宅(国重文)で、南北朝時代に3代にわたり天皇の皇居になったとされている。今も住居として利用されているために、中に入るには事前に往復はがきを送付して堀家の訪問許可を得る必要があるのだそうだが、門には天誅組の吉村寅太郎の筆になる「皇居」と書かれた扁額が掛けられていた。

南朝三帝賀名生皇居之址
堀家背後にある丘陵上に黒木御所が造られたとされ、「南朝三帝賀名生皇居之址」と書かれた石碑があり、その近くに『神皇正統記』を著して後村上天皇のために南朝の正当性を主張した北畠親房の墓がある。
北畠親房墓

延元元年(1336)後醍醐天皇が足利尊氏の謀反により吉野に遷られてから、後亀山天皇が京都に戻られた元中9年(1392)までの57年間を南北朝時代と呼ぶのだが、その間南朝の皇居が転々と遷って行ったことを、今回の旅行の下調べで初めて知った次第である。

Wikipediaに南朝の行宮がどのように遷って行ったかが書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E8%A1%8C%E5%AE%AE

南北朝系図
後醍醐天皇は吉野山の吉水院に入られたのち金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮とされたのだが、この場所で延元4年(1339)に後村上天皇に譲位した直後に崩御され、正平3年(1348)には高師直率いる室町幕府軍が吉野に侵入して行宮を焼き払い、後村上天皇は賀名生行宮に移られたという。
その後長慶天皇が文中2年(1373)に吉野に行宮を戻すも長く維持することが出来ず、天授5年(1379)には今回の記事の最初に記した栄山寺に行宮を移されている。
その後、元中9年(1392)に南北朝合一を迎えるまでは賀名生などに行宮が置かれたと推定されるとある。

南朝のことをよく「吉野朝」というのだが、南朝56年の歴史の中で、吉野に行宮が置かれたのはわずかに20年弱だったとは知らなかった。

しかし、南北朝の合一で全ての問題が解決したわけではなかった。
歴代天皇が承継してきた三種の神器を北朝の後小松天皇に渡したあとは、南朝の後亀山天皇は冷たい仕打ちを受け、以後は大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)が交互に天皇の位につくという約束であるのに皇太子すら立てることもできなかったし、国衙領を支配しても良いという約束も守られなかった。怒った後亀山天皇は再び吉野に戻ったのだが、南北朝合一の事実は残り、以後は北朝系によって天皇位が独占されてしまう。
そして、その後も南朝の子孫は反幕勢力に担がれたりしながら、応仁の乱の頃まで南朝復興運動が続けられたという。吉野の山奥にはその歴史が刻まれているのだ。
<つづく>
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天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2

孝明天皇の大和行幸に先行して天皇の鳳輦を迎えようと、文久3年(1863)8月17日に五條代官所を襲って「五條新政府」を置いた天誅組であったが、翌8月18日に宮中でクーデターが起こって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も中止となって天誅組は1日で皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされたことを前回の記事で書いた。
天誅組行路

総勢100名程度の天誅組征伐に、幕府は近畿一円の藩に出動命令を出して約1万の兵を動員したという。天誅組は十津川から大峰山を越えて下北山村に抜け、川上村から東吉野村に入ると9月24日に追討軍である紀州・彦根藩兵と遭遇した。那須信吾(土佐脱藩)は大将・中山忠光(明治天皇の生母・中山慶子の弟)を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死にしたほか、この東吉野村で藤本鉄石(備前脱藩)、松本奎堂(刈谷脱藩)、吉村寅太郎(土佐脱藩)ほか多くの志士たちが数日間の間で無念の最期を遂げた。そして、東吉野には天誅組の事績を伝える碑や墓が、今も村人たちの手により守り伝えられている。

しかし、なぜ天誅組は吉野の山の中で生き延びることが出来たのであろうか。
彼らが「五條新政府」を置いたのは、太陽暦でいえば9月29日である。また那須信吾が討ち死にしたのは太陽暦では11月5日だ。そもそも食糧はどうしたのか、野宿するには朝晩はかなり厳しい季節になっていったではないかと調べていくと、吉野の人々が天誅組を助けた記録がいくつかあるようなのだ。

たとえば次のURLに、天誅組に関する資料が紹介されている。
http://yama46.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-2d45.html
「『吉野郡史料』によると、『川上村上谷ニ、中谷吉左衛門ナル者アリ。<中略>中山卿ノ義ヲ唱フルヤ、志士ト通ジテ、畫策スル所アラントセシモ、病痾ノ為メニ能ハズ、天誅組ノ伯母谷ニ至ルヤ、其家ニ止ルコト三日、旦傷病者ヲ嘱セラレシカバ、小川佐吉以下十余人ヲ家に看病シ、追兵ノ来リ索メン事ヲ恐レテ、其族ト共ニ、之ヲ深林幽谷ノ中ニ潜匿シ、養護セル者六十余日、皆癒ヘ、各々散逸セリト云フ。』
 後日、病臥中の吉左衛門に代わり、その妻カイが五條代官所の白州にて取調を受けたが、尋問だけで仕置はなかったと云う。今、中谷吉左衛門の子孫の家には、小川佐吉の残した当時の武具などがある。(こうだに誌 中谷順一 1986年)より」
天誅組の変

伯母谷というのは現在の吉野郡川上村伯母谷(おばだに)であるが、最近出版された舟久保藍氏の『天誅組の変』を取り寄せると、こう記されている。

「天誅組隊士約30人が伯母谷村へ先着し、隊の到来を村に告げたのは23日夕方であった。伯母谷村の水本家に残る口碑や文書によると、この時、同村の庄屋上田伊左衛門、水本茂十郎、石窪新七郎、泉谷庄三郎らが、上谷(こうだに)村・大迫(おおさこ) 村に呼び掛け、庄屋たちで対応を協議したという。その状況は、…当時の庄屋が生存しているうちに聞き取りまとめられた文書に詳しい。
素より天忠組とは勤王家の義団にして各藩に就いて尊王の趣意を説くものなれば我村また南朝勤王の遺民、宜しく此の時に当たり鞠窮(きっきゅう)力を致し微力ながらも我ら先祖の意思を継ぎ聊か天忠組その人々の便を図らんは、亦以てこの先祖の名に恥ちざるなりと、ここに協議一決して、負傷者の介抱は勿論、糧食の用意、武器の運送等、万事慎重に取り扱い』
後南朝の遺民として同じ勤王の義士である天誅組を支援するのが、先祖に対して恥じない行為であるとの結論に達し、三村を挙げて彼らの面倒をみたのであった。」(『天誅組の変』p.190)

天誅組に対しては9月1日に朝廷からも追討命令がでていた。幕府からは「賊軍」とされ、朝廷からは「朝敵」とされた天誅組に手を差し伸べることは、吉野の村人にとっては命がけではなかったか。下手に匿って追討軍との争いになれば、村ごと火を放たれる可能性もあっただろうし、処罰される可能性は高かったはずだ。
実際、白川村では天誅組に献上された米を運ぼうとした村人が、藩兵により斬首された記録が残されているという。
山深い吉野の民は、南朝の天皇家を助けてきたことを誇りとする人々であった。少数の天誅組が総勢1万もの幕府軍と戦って、予想外に長く持ちこたえた背景には、吉野の尊王の歴史を知る必要がありそうだ。

オオカミ像

賀名生の里歴史民俗資料から1時間近く走って東吉野に入る。途中でニホンオオカミの像があったのでカメラに収めた。明治38年(1905年)当村において捕らえられた若雄のニホンオオカミがわが国における最後の捕獲記録となったのだそうだ。

天誅組義士の碑

その像のすぐ近くに宝泉寺があり、その門前には天誅義士記念碑がある。

宝泉寺

この寺には、天誅組事変の際に、鷲家口(わしかぐち)に布陣した彦根勢が篝火の代わりに寺を焼こうとしたのを、当時の和尚が阻止したという謂れがあるという。またこの寺は、鷲家口の戦いで戦死した天誅組志士や彦根藩士の菩提寺でもあり、今も毎年11月5日には天誅祭が法要されているというのは驚きである。また近くの明治谷墓地には天誅義士たちの墓があり、今も地元の方によって花が供えられている。

天誅組終焉の碑

この場所から北方向に7分ほど車を進めると、「天誅組終焉の地」という大きな碑がある。
横に小さい碑がありこう刻まれていた。

「心を焦がし身を捨てし
壮士は散りて春秋の
うつりはここに百幾十
もみじとともに偲ぶかな

それ南山のさや風に
うそぶき見ずや山月を
夕べに辿る嶮涯に
かよへる夢の浅かりし

秋風ふかし鷲家口
碎けて飛べる黒雲は
北風かえすすべもなく
はかなく消えぬ銃煙に

悲命の志士よ冥すべし
靑史に鑑らし見るところ
ももこせののち今もなほ
まこと盡せし勲しを」

吉村寅太郎の墓

そして、奥に進んでいくと吉村寅太郎の墓がある。
寅太郎は傷が悪化して歩行困難になっていたために一行から遅れて駕籠に乗って鷲家口まできたが、27日に津藩兵に発見されて射殺されてしまったという。墓には今もきれいな花が供えられていた。

昼食が早かったのでお腹がすいてきた。この近くで「きのこの館」という店があるので立ち寄った。宿の夕食のこともあるので、お腹が満腹にならないよう「きのこの網焼き」と「しいたけ造り」を注文したが、どちらも期待以上に旨かった。

きのこの館

この店の隣のスペースで大量のキノコを無菌栽培しており、採りたての新鮮なきのこが食べられる。採りたては味も香りも食感もスーパーなどで買うものとは全く違うことが一口味わうことで解った。しいたけのお造りは、採取して3時間以内に食べないと味が変わってしまうのだそうだ。
今度来る時はきのこのフルコースを注文したいと思う。この店のことは、次のURLの記事が参考になった。
http://small-life.com/archives/08/11/0120.php

つぎに向かったのは天誅組の菩提寺の龍泉寺。

龍泉寺

この寺の住職さんとは随分話が弾んで、随分長い間話し込んでいる内に、寺の宝物である平安時代の木造如来坐像(県重文)を見せて頂いた。この寺の歴史より古い仏像が伝わった経緯についいてはよく解っていないそうだが、貴重な仏像がこんな山奥に残されていることに興味を覚えた。仏像の写真は次のURLに掲載されている。
http://higashiyoshino.com/modules/pico2/index.php?content_id=12

龍泉寺岩松

境内に松の盆栽のようなものが沢山並べられていたが、「岩松」といって苔の一種なのだそうだ。
1年に1mm程度しか成長しないものだそうだが随分大きなものがあり、樹齢千五百年という貴重なものまであることに驚いた。

東吉野から、本日の宿泊先である吉野山山上にある竹林院群芳園に向かう。

竹林院群芳園

この寺の寺伝によると、聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810-824)に空海が入り常泉寺と称したが、南北朝の対立後至徳2年(1385)に竹林院と改められたとある。

竹林院本堂

「群芳園」というのは、千利休が作庭し、一説には細川幽斎が改修したと言われるこの寺の庭園で大和三庭園の一つとされているのだが、この庭園の名前で宿泊施設がある。昭和56年には昭和天皇・皇后両陛下がこの旅館に宿泊されたのだそうだ。
本館は檜皮葺の素晴らしい建築で、調度品も一級品ぞろいである。数百年の歴史を持つからこそ、庭も建物も自然の景色に溶け込んで、凛とした風格を備えたお宿であるが、価格が普通の旅館並みであることはあり難い。

竹林院夕食

歴史を感じさせる施設で、料理もとてもおいしく頂けたし、朝は世界遺産の金峯山寺から読経の太鼓をたたく音がして、小鳥の囀りとともにとても清々しい朝を迎えることが出来た。訪れた日は藤の花が満開だったが、ネットで調べると四季折々の景色が楽しめそうである。

旅行が好きな私の信念であるが、宿泊先は地元の旅館を選び、土産物は地元の店で地元産の物を買う。そうすることで地元が潤い、地域の伝統文化や歴史ある風景を維持することが出来るのだと思う。
以前は割安なバス旅行をよく利用したが、観光地の中心部からずいぶん離れたドライブインで買い物をしたり、都会資本のホテルで宿泊してそのホテルで土産物まで買ってしまったのでは、観光地の伝統や文化を支えてきた地元の人が決して潤わないことに途中で気が付いた。

パック旅行などで地元に富を落さない旅行者が増えるばかりでは、観光地に生まれ育った若い世代が地元に残るはずもなく、それでは観光地の情緒や地元の伝統文化を後世に残すことが難しくなるばかりだ。旅行に携わる多くの企業が自社の利益追求を優先してしまって、以前は存在した観光客が増えれば観光地が豊かになる仕組みを破壊する側になってはいないだろうか。
<つづく>
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天誅組の足跡を追って天辻峠から十津川村へ

宇陀松山を楽しんだのち、十津川村に向かう。

十津川村の面積は672.38 km²あって「日本一の面積を持つ村」と言われるのだが、Wikipediaによると「北方領土である留別村・紗那村・留夜別村・蘂取村に次いで日本で5番目に大きな面積を持つ村であり、東京23区全体の面積(621.98km²)よりも大きい」とあり、わが国の施政権が及んでいる地域としては日本一大きな面積を持つというのが正しい表現になるようだ。
ちなみに、日本一大きい村である留別村は択捉島にあり、面積は1442.82 km²で、十津川村の倍以上の広さである。

十津川村は、奈良県の南西部を流れる熊野川の上流である十津川とその支流の流域をかつて十津川郷と呼び、峻険な山々に囲まれた山岳地帯にある。農耕に適さない場所であり、地域の人々は権力者に協力することで租税減免を勝ち取ってきた歴史がある。

Wikipediaにはこう解説されている。
「古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている
南北朝時も吉野の南朝につくしている。米のほとんどとれない山中ということもあり、室町時代になっても守護の支配下に入らなかったという。太閤検地時にも年貢が赦免された。大坂の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。
以上のような経緯があり、十津川郷士は純粋な勤皇であり、討幕の意識は薄かったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%A3%AB

3年前に天誅組の足跡を追って奈良県の五條市から東吉野を旅行したことを書いた際に、天誅組が五條で挙兵してから東吉野で討ち取られるまでの経緯を記したのが、今回は天誅組が天辻峠に本陣を移したのち、多数の十津川郷士を集めたことを中心書くことにする。

天誅組

文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられて大和御幸が決定し、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の中山忠光を主将に迎えて天誅組を組織し京都を出発した。出発時の同志の人数は38人で、18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であったという。

天誅組行路

天誅組は8月17日に大和の五條代官所を襲撃し、桜井寺に本陣を置き五條を天朝直轄地とする旨を宣言したが、その翌日の8月18日に宮中でクーデターが起こって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も急遽中止となってしまった
19日には五條にその知らせが伝わり、わずか1日で天誅組は挙兵の大義名分を失い、「暴徒」とされて追討を受ける立場となってしまう

天誅組は追討の兵を警戒して、要害堅固の天辻峠に本陣を移しそこで十津川郷士を募ることに決したのである。

十津川郷は、神武天皇東征軍の先鋒を勤め、皇軍を案内した八咫烏が十津川の祖先とされているほか、壬申の乱の時には大海人皇子(天武天皇)を助け、南北朝時代には、大塔宮護良親王の十津川御潜居をお守りしたという勤王の歴史を持つ土地柄である。
吉村寅太郎が22日に十津川郷川津村の野崎主計と対面し十津川郷士の協力を要請して了解を得、23日に十津川郷で檄文を発すると、25日朝までに天辻峠の本陣に1100人が集結したという。

天誅組の変

舟久保藍氏の『実録 天誅組の変』に吉村寅太郎の檄文が引用されているが、檄文というよりは脅迫に近いものがある。
「昨廿二日申渡し候上は、早刻出張有るべく候得共、火急の御用に付十五歳より五十歳迄残らず明廿四日御本陣へ出張これ有るべく、若し故なく遅滞に及び候者は、御由緒召放され、品(法の意。ここでは軍令をさす)により厳科に処されるべく候條、其心得を以て早々出張これ有るべく候、以上」(『実録 天誅組の変』p.106)

天誅組本陣遺址

道の駅『吉野路大塔』の手前を急な角度で左折する道があり、その急坂を1kmほど登って行くと『天誅組本陣跡』の碑がある。
この場所はこの地方きっての富豪であり有力者であった鶴谷治兵衛の屋敷があった場所で、治兵衛をはじめ村人たちは天誅組に協力を惜しまなかったというのだが、この時点では十津川郷士たちは、8月18日に宮中でクーデターがあって、孝明天皇の大和行幸が中止となったことを知らなかったことは重要なポイントである。

本陣に集まった郷士たちは、天誅組は勅命により組織された御親兵でありこれから幕府を迎え撃つことの説明を受けたのだが、その時に玉堀為之進と上田主殿の二人が勅命の真偽を問い質し、京都に使いを出して事実確認をしたうえで十津川郷士の行動を決めるべきだと主張したのだそうだ。
もともと「勅命」というのは徴兵のための方便であったため、吉村寅太郎は他への影響を恐れてこの二人を斬首したという。

天誅組は高取城の攻撃に向かうが、高取藩兵の銃砲撃を受けて敗走。その後も討伐軍との戦いで敗北を繰り返し、また朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が天誅組の十津川郷士たちに届き、天誅組の主戦力であった十津川郷士が9月15日に天誅組から離反してしまう。主将の中山忠光は9月19日に天誅組の解散を命じて残党は伊勢方面に脱出を図るも、東吉野の鷲家口で幕府軍に捕えられ、天誅組は壊滅するという流れである。

大塔郷土館

『天誅組本陣跡』から道の駅『吉野路大塔』(0747-35-0311)の駐車場に車をとめて、国道の東側にある『大塔郷土館』に入る。上の画像の茅葺の建物が16品の郷土料理を食することのできる施設で、白壁の建物が旧大塔村の歴史・文化・伝統技術の展示館になっている。
次のURLに郷土料理のメニューが出ているが、タイミングが合えばここで食事するのも良さそうだ。
http://www.pref.nara.jp/norinbu/umaimono/kt-omise/ootou-kyodokan.html

展示館には南北朝時代の護良親王や幕末の天誅組に関する展示と、「木地師(きじし)」と呼ばれ、トチやブナやクリの木を加工して椀や盆をつって生業とした技術者集団の展示物があった。大塔村では壺杓子が特産品になっているそうだが、残念ながらこの伝統技術を受け継ぐ人は少なくなってきているという。また1階で大塔町と天誅組と護良親王との歴史についてわかりやすい映像を観ることが出来る。

大塔宮護良親王

この『大塔郷土館』の近くに大塔宮と呼ばれた護良親王の銅像がある。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が幕府討幕運動(元弘の変)を起こすと戦いに加わり、令旨を発して反幕勢力を募り十津川・吉野・熊野等を転々として2年間にわたり幕府勢力と戦った。「大塔」という地名は、護良親王がこの地の豪族である戸野兵衛・竹原八郎らに匿われたことに由来するという。

護良親王

鎌倉幕府討幕後、建武の新政で征夷大将軍に任ぜられたが足利尊氏と対立し、尊氏の弟・直義が差し向けた刺客に襲われ最期を遂げたのだが、南朝のことはいずれ調べて書くことになるだろう。

大塔町はまだ五條市で、十津川町との境界線のある城門トンネルまではあと12km以上あり、目的地の温泉地(とうせんじ)温泉に行くにはさらに30km程度走る必要がある。カーブが多くまた道幅が細いところもあって、山道のドライブは思った以上に時間がかかった。

十津川温泉マップ

温泉地温泉は十津川村のほぼ中央に位置し、十津川の温泉の中でも最も古い歴史がある。
「温泉地(とうせんじ) 」温泉という名に違和感を覚えて調べてみると、昔は薬師如来を本尊とする「東泉寺(とうせんじ)」という寺がこの近くにあったという。

Wikipediaによると『東泉寺縁起』という書物が現存し、それによると、役行者(えんのぎょうじゃ)が十津川の流れを分け入ったところにある霊窟で加持祈祷を行ったところ湯薬が湧出し、弘法大師が大峯修行の際に湯谷の深谷に先蹤をたずね薬師如来を造顕したと伝えられているのだそうだが、この話は嘘っぽくてそのまま鵜呑みにはできないものの古くからこの地に湯が沸き出ていたことは想像できる。その後宝徳2年(1450)の地震で湯脈が変わって武蔵の里に湧出するようになり、いつしか十津川沿いの現地に移ったと記されている。

『東泉寺縁起』以外の文献にこの温泉が記されているのは、天文22年(1552)に本願寺寺僧の湯治(『私心記』)という記録があり、その後も天正9年(1581年)に佐久間信盛(『多聞院日記』)、天正14年(1586)に顕如上人(『宇野主水記』)に、訪れた記録が残されているようだ。

大和名所図会

寛政3年(1791)刊の『大和名所図会』にこの温泉のことが書かれているが、この当時は湯原(ゆはらの)温泉と呼ばれていたようだ。
湯原温泉 二所あり。一所は十津川荘湯原村にあり。一所は同荘武蔵村の東泉寺にあり。浴(ゆあみ)する時は則(すなわ)ち痼疾は治す。湯原は[類字名所]に大和国にあり。十津川の温泉(いでゆ)にこそ侍(はべ)らめ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/364

地図で確認すると、「湯原」という地名は今はなく「湯之原」という地名が今の温泉地温泉のある武蔵、小原地区の少し北にある。

温泉地温泉には十津川村役場の周辺に、3軒の旅館と1軒のホテルと2軒の民宿があり、さらに10km以上南にある十津川温泉・上湯温泉とともに「十津川温泉郷」として、国民保養温泉地、日本名湯100選に指定されているのだが、「十津川温泉郷」というと「十津川温泉」をまず連想してしまって、そちらに予約する観光客が多いことと思われる。しかしながら江戸時代から続く名泉は十津川温泉ではなく温泉地温泉なのであり、湯質もそれぞれ異なり十津川温泉・上湯温泉がナトリウム炭酸水素塩泉であるのに対し温泉地温泉は単純硫黄泉だ。
http://www.gensen-kakenagashi.jp/cgi/spa.cgi?totsukawa

かたやま夕食

交通不便な場所にあるために宿探しに迷った末、私は「かたやま」という民宿を選んだが、食事は地元のものを自然に料理してあり美味しくて、風呂は源泉かけ流しの硫黄泉で体の芯から温まった。これで1泊2食付7千円台の価格は随分リーゾナブルだった。

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【ご参考】天誅組と南朝の歴史を辿って、3年前にこんな旅行をしてみました。良かったら覗いてみてください。

五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html

天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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