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戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した

前回の記事で戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』の冒頭部分を紹介した。この檄文はやや長文だが、明治維新を推進したメンバーがどんな連中であったかが、新政府に敵対する立場から述べられていて興味深い。
もちろん内容に誇張もあるだろうが、この檄文に賛同して多くの武士たちが命がけで官軍と戦ったことを考えると、かなりの真実がこの檄文に織り込まれていると考えるほうが自然だと思う。
今回は雲井龍雄の書いた文章の内容を少し詳しく紹介したい。

雲井龍雄

檄文の冒頭部分は前回の記事で書いたとおり「彼らが攘夷を主張したのはただ幕府を傾けて政権を奪う野望であったことを知るべきだ」という内容で、原文は前回の記事で引用したので省略させて頂いてその続きから読んでいこう。
原文とその大意は前回紹介したWikipediaの記事に出ているが、文中の「大意」の部分は僭越ながら筆者が若干の修正を加えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84

「皇朝、陵夷(りょうい)極まると雖も、其の制度典章、斐然(ひぜん)として是れ備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫(そぞろ)に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。
薩賊、擅(ほしいまま)に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥(みだ)りに諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯乱、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
我が国には海外勢力による国防の危機があると言っても、わが国には固有の制度があり、それらが機能してきたことを知るべきである。しかるに、薩摩が権力を握ってからは急激で無理な変革を推し進め、長い歴史の中で培われてきた制度や慣習を破壊してしまった。この罪をどうして問わずにおれよう。
薩摩は、公家や皇族を捨て去り、自分の意に沿わぬものは排斥し、諸藩の不逞の輩が、自分たちにつき従うものばかりを出世させて取り立て、下克上の綱紀紊乱の世を招いている。その罪を問わずにはいられない。

「公家や皇族を捨て去り」という部分は分かりにくいが、孝明天皇・明治天皇の摂政であった親幕派公卿の二条斉敬(にじょうなりゆき)や、親幕派の賀屋宮朝彦親王らが王政復古時に朝廷から排除されたことを指していると思われる。

鳥羽伏見の戦い
【鳥羽伏見の戦い】

次に雲井龍雄は鳥羽伏見の戦いの官軍の戦いぶりについてこう述べている。
「伏水(鳥羽・伏見の戦い)の事、元暗昧、私闘と公戦と、孰(いず)れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其の公論を定め、罪案已に決して、然る後徐(おもむろ)に之を討つべし。然るを、倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して、征東の兵を調発す。是れ、王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
 薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せざることなく、或は人の鶏牛を攘(ぬす)み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず、猶且つ、靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから征討軍を起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪な謀略だ。その罪を問わなくてはならない。
薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、進軍した先々で略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。

引用部分の後半で、雲井龍雄官軍の乱暴狼藉が甚だしかったことを指摘しているのだが、この点について他にどのような記録が残されているであろうか。

戊辰戦争 裏切りの明治維新

星亮一氏の『戊辰戦争 裏切りの明治維新』(静山社文庫)に、『相馬市史』に解説されている『吉田屋覚日記』が紹介されている。この日記は相馬の御用商人・吉田屋鈴木庄右衛門の手代が記録したものだという。

「8月14日
官軍側の分捕品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。もっとも後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買い戻される。」(『戊辰戦争 裏切りの明治維新』p.144)
分かりやすく言えば、彼らは分捕り品を販売して収入を得ていたわけで、官軍とは名ばかりで夜盗の集団のようなものであった。

星亮一
【星亮一】

星氏はさらにこう解説しておられる。
「官軍に徴発された馬は、雨覆いもなく野外につながれたままだったので、数十疋も死んだ。また馬の飼料として、近在の青豆や野菜を採ったので、野菜が一切なくなるなど、農民は断腸の思いだった。
 酒屋の従業員は皆、官軍の炊き出しに使われ、酒造りができなくなった。
 治安の悪化もおびただしいものがあり、強盗事件が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振る舞いもあった。
 女性も徴発され、給仕役に後家が召し出された。
 これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽の相手であった。一般兵のために小高村、浪江村、鹿島村などの宿には遊女を置くことが求められた

 病院の看護人にも大勢の女性が動員された。
 相馬藩はじっと耐えた。」(同上書 p.145)

仙台戊辰史

ネットで古い記録が残されていそうな本を探していると明治44年刊の『仙台戊辰史』という本が見つかった。仙台藩は、新政府から会津藩に対する追討軍への参加を命じられていたのだが、藩では次第に会津藩・庄内藩と協調して新政府と敵対すべきだとの意見が多数となっていく。なぜ、仙台藩で錦の御旗の官軍と戦おうという意見が広がっていったのか。

官軍の奥州鎮撫使九條道孝総督の目付であった戸田主水という人物が、慶応4年(1868)4月25日に九条総督に宛てて建策した文書の一部を引用する。文中で戸田は鎮撫使参謀の大山綱良(薩摩藩)と世良修蔵(長州藩)を強く批難しているが、戸田は建策したのちに姿を消したという。

世良修蔵
【世良修蔵】

「…人民を鎮め撫つるは殿下の御職掌にして、みだりに兵威を以て人民を圧服し給うの謂いにあらざるや明らかなり。…殿下御東下以来大山・世良両参謀の為すところを観察するに、殿下の為に痛嘆せずばあるべからざるものあり。請う、これを陳せん。寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。これ奥羽の人望を失うの基を開く一なり。
薩長の兵士本営門外に乱暴実に驚くべき者あり。あるいは路傍に臣士を侮辱し、あるいは市井に商賈を嚇怒し、あるいは山野に婦女を強姦し、あるいは仙台誹謗の歌謡聞くに忍びざることを白昼大道に高吟するの類、両参謀知りて而して措て問わず。士民の怨みいつこにか帰す。これ殿下の人望を失うの二なり。
したがって討会*出兵の遷延するも両参謀本営において人中に大藩の君公老臣を嘲笑するの類、その臣子たるもの誰が心に快とせんや。これ殿下の人望を失うの三なり。

世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。…」
*討会:会津藩追討のこと
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/217

戸田主水という人物は仙台藩とつながっていたという説もあり、記されていることの真偽の判断は読者にお任せするが、ほかにも同様な記録が残されていることからすると、雲井龍雄の『討薩檄』に書かれているような官軍による乱暴狼藉がひどかったことは、ある程度は真実であったと理解してよいだろう。
多くの住民が殺され、富を奪われ、女性の多くが強姦される被害が東北各地で続発し、官軍と言ってもやっていることは中世の山賊集団と同様で、東北諸藩の武士たちはこのことを黙って見過ごす訳にはいかず、命がけで官軍と戦うことを決意したのだと考える。

討薩檄
討薩檄

雲井龍雄の『討薩檄』に話を戻そう。続いてこう記されている。
「井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其の君を伐たしむ。尾張・越前は徳川の親族なり。族をして其の宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり、父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り*、今上陛下の初政をして、保平(保元の乱・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。」
*三綱五倫:三綱とは. 臣下の王に対する忠; 子の親に対する孝; 妻の夫に対する烈. 五倫とは. 父子有親(孝行); 君臣友義(忠誠); 夫婦有別(男女の役割); 長幼有序(上下の秩序); 朋友有信(信義)

【大意】
徳川の勲臣を臣下に討たせたり、徳川の親族に宗家を討たせたり、諸藩の親子兄弟を討たせたりしている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、こういうことは人道に反することであり、今上陛下の統治に傷をつけることになる。その罪を問わなくてはならない。

そう記して、最後に雲井龍雄はこう結んでいる。

「右の諸件に因って之を観れば、薩賊の為す所、幼帝を刧制して其の邪を済(な)し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿(王莽や曹操や董卓や司馬懿)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず、再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せらるるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。
是(ここ)に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此の義挙を唱ふ。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こひねがはく)は、我が列藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝(やぶ)るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし、若し尚、賊の篭絡中にありて、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾(こひねがはく)は、勇断する所を知るべし。」

【大意】
上記のことから考えれば、薩摩のなすところは、幼い天皇を利用強制して邪悪な政治をし、天下を欺き、残虐をなし、道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。奥羽列藩同盟はこれを座視するに耐えないので、再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。
よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、先祖たちの心を安んじて欲しい。もし、薩摩に篭絡されて、何が正義かも弁えず、薩摩を助けるような邪悪な徒がいるならば、軍も規律があり、許すわけにはいかない。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。

以上が『討薩檄』の内容なのだが、この檄文の存在や戊辰戦争で官軍が乱暴狼藉を働いた記録が残されていることを知ったのはつい最近の事である。
教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)と、キレイごとが書かれているだけだ。

最近になってようやく薩長史観とは異なる視点で描かれた歴史書が出版されるようになってはきたが、明治維新からもう150年も経つというのに、教科書やマスコミなどの明治史の解説では未だに薩長本位で、これでは東北出身の方は納得できないだろう。

維新雑史考

そんなことを考えながら面白そうな本を探していると、昭和9年に出版された高梨光司著『維新雑史考』に、戊辰戦争に関する薩長本位の歴史叙述に苦言を呈しておられる文章が見つかった。高梨氏は官軍による乱暴狼藉の事例を紹介したのちに、こう記されている。

然るに従来の薩長本位の戊辰戦記には、これらの事に関し、何ら記せざるのみならず、東北人の手になるものと雖も、概ねこれに触れるを避けたかの観がある。或いは他に憚るところあって、かくせりやとも思わるるが、歴史的事実は飽くまでその真相を伝うべきであり、その結果が当年の官軍なるものの不名誉に帰するも、致し方あるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1232273/82

この本は明治維新から66年後に刊行されているのだが、それから84年経った今も大半の歴史書が薩長史観で叙述されているのは、戦後の日本史学者の怠慢であると言うしかないだろう。
いつの時代もどこの国でも、勝者は「歴史」の叙述の中で自らの支配の正当性をアピールすることによって、政権の長期安定をはかろうとするものであり、勝者にとって都合の良い歴史を広く伝えようとするのは当たり前のことなのである。

勝者が編纂した歴史や記録に偏らず、さまざまな立場の人々が書き残した記録を読み比べながら、本当は何があったのかを考察することが重要だと思うのだが、教科書などのわが国幕末から明治までの歴史が全面的に書き換えられる日は来るのか。

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王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった
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武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
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洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
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江戸無血開城の真相を追う
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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
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仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、1月10日に薩長軍は「朝敵処分」を発表している。

罪第一等 徳川慶喜、
罪第二等 会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)、
罪第三等 伊予藩主松平定昭、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)
罪第四等 宮津藩主松平宗武(むねたけ)、
罪第五等 大垣藩主戸田氏共(うじたか)、高松藩主松平頼聰(よりとし)

「朝敵」の認定を受けた藩は西日本が多かったのだが、これらの藩を含め佐幕派の諸藩は早々と抵抗を諦めて赦免を求めることとなり、鳥羽伏見の戦いの後は西日本ではほとんど戦闘行為に至っていない。

しかしながら、いくら藩主が謹慎し恭順の意を示しても許されなかった藩があった。それが会津藩なのだが、なぜ会津藩は戊辰戦争で戦うことを余儀なくされたのだろうか。幕末の動きを少し振り返っておこう。

松平容保
松平容保

文久2年(1862)に会津藩主・松平容保(かたもり)は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担うこととなった。
文久3年(1863)には薩摩藩と連携して長州藩を八月十八日の政変で京都から追放し、元治元年(1864)には池田屋事件で謀議中の尊攘派志士を襲い、蛤御門の変では長州藩兵と戦い、二度にわたる長州征伐にも関与した
。職務上やむを得なかったとはいえ、新政府からすれば新選組や会津藩に対し多くの同志を殺傷されたことの恨みがあったことだろう。
慶応3年(1867)の大政奉還のあと王政復古の大号令が発令されて新政府が誕生し、今度は会津藩が京都から追放されて大阪城に退くこととなった
新政府は大阪城にいた徳川慶喜に上京を命じ、会津・桑名兵に対しては本国への帰還を命じている。そこで将軍の上京のために会津兵・桑名兵が守護することとなったのだが、慶応4年(1868)1月2日にその隊列の上洛を待ち伏せていた新政府軍が大砲を打ち込んで徳川方に挑戦したのが鳥羽伏見の戦いである。以前このブログで書いたように、会津藩も桑名藩も徳川慶喜も鳥羽伏見では戦う準備はしておらず、戦う意思は持ち合わせてはいなかったところに一方的に戦いを挑まれたのだが、1月17日に新政府は仙台藩に会津藩の追討命令を出している。原文は明治44年刊の『仙台戊辰史』に出ているが現代語に訳すと次のようなものであろう。
「会津藩松平容保はこのたび徳川慶喜の反謀に与(くみ)し、錦旗に発砲し、大逆無道の行いであったので征伐軍を発することとなった。貴藩が一藩の力で (会津藩の)本城を襲撃したいとの出願をしたことは、武道を失わない憤發の心がけ、神妙の至りであり、主上も御満足に思し召しである。よって(貴藩の)願いの通り、(会津征伐を)仰せ付けるので、すみやかに追討の功をあげるよう御沙汰する。 戊辰正月」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/146
しかしながら仙台藩は会津藩を討伐することを出願したこともないのに、このような命令が届いたのは何かの間違いであろうとしてすぐには動かなかった。

一方、会津藩は必死に和平の道を模索していた。
松平容保は2月4日に藩主を辞任して家督を養子である喜徳(のぶのり)に譲り、2月16日に会津藩を朝敵とする勅命が下ると会津に向かい会津鶴ヶ城外の御薬園(おやくえん)に入り恭順謹慎
して、朝廷の命を待った。

会津藩首脳も朝廷ほか尾張、紀州、加賀、肥後、土佐など二十二藩に対し『嘆願書』を呈出し和平の周旋を懇願したが、良い返事をもらえなかった。こうした中、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)は、松平容保に深く同情し、朝廷との周旋を決意した。
また、別ルートで仙台藩から米沢藩に使者が使わされ、新政府の奥羽鎮撫使が来たら、会津藩の嘆願を周旋して奥羽での戦乱を避けることで合意していた。

九条道孝
【九条道孝】

3月22日、新政府に敵対姿勢を続けていた会津藩、庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督および新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日に奥羽鎮撫総督の九条道孝は参謀の世良修蔵(長州藩)、大山綱吉(薩摩藩)らとともに仙台藩・米沢藩をはじめとする東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命じている

しかし奥羽鎮撫使のメンバーはとんでもない連中であったことが記録されている。
『仙台戊辰史』に、仙台到着数日前からの彼らの行動が詳細に記されている。文中の大山格之助は参謀の大山綱吉で、三好監物は仙台藩の重臣、慶邦公は陸奥仙台藩藩主の伊達慶邦、伹木土佐は仙台藩の奉行である。

大山綱吉(格之助)
【大山綱吉(格之助】

「東名浜に上り総督の一行は山本久米蔵の家に宿す。この日東名浜に江戸の商賈某の貨物を満載せし商船の碇泊しあるを見て、薩の参謀大山格之助は商人を尋問したる末、これ敵地のものなり、宜しく分捕りすべしと、貨物及び船を奪い、商人を追放して数千金を得、大白を挙げて之を祝せしかば、仙台藩は勿論、各藩より来れる者および付近の人民は大いに驚きたり。19日夜半三好監物東名浜に出迎えしが、総督一行は21日松嶋を遊覧し観瀾亭に宿陣せしかば翌23日払暁慶邦公は伹木土佐らを従え儀を整えて松嶋に至り総督に謁せしに左の命あり

仙台中将
右早々人数差出し、会津へ討ち入るべき事
策略等の儀は、参謀に申談すべき候事

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/175

これを読めば、彼らにとっては「朝敵」会津を討伐するよりも商人の荷物を奪うことや、松島を観光することの方が優先であったことになる。新政府が東北に送り込んだのはこの程度の人物であったのか。

世良修蔵
世良修蔵

『仙台戊辰史』には、奥羽鎮撫使がほかにもひどいことをしたことが書かれている。
「薩長兵の入国以来、公然として仙台藩士を侮辱する意味の俗謡を謡いつつ、街衢を横行し酒を被りて、士人を凌辱し、隊を組みて市井に乱暴するも、天朝の軍人たりというの故を以て、有司も之を咎むるを得ず。甚だしきに至りては良家の婦女子を捉えて、終身拭うべからざる辱めを与え、之を誇りとするさえありしをや。しかもこれ等のこと、啻に無頼走卒のみならず、大山、世良及び隊長と称する者またこれを敢えてして顧みざるに至りては、大藩の威厳を傷つけざらんとする仙台藩少壮の士の忍び得るところに非ず。朝命を畏み奉ずるにおいて人後に落ちざらんとする赤誠の士も、天朝を代表すと称する総督府参謀輩の兇威に対し武士の面目に於いてこれに反抗せざるを得ざるに至りしは、勢いの已むべからざるに属す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/177

上杉斉憲
【上杉斉憲】

こういうわけで奥羽鎮撫使の行状が許せないとする者が仙台藩の若手藩士を中心に増加していったのだが、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)が奥羽鎮撫使に使者を送り和平の斡旋を申し述べた際には奥羽鎮撫使参謀の世良修蔵が激怒し、「会津追討に異議があるのなら、米沢藩も同罪として追討する」と脅したという。

伊達慶邦
伊達慶邦

同じ頃仙台藩主伊達慶邦(よしくに)も会津藩謝罪の周旋をしたいと告げ、会津謝罪の条件を問うと、仙台藩が和平工作をしていることに世良修蔵がまた激怒し、「会津藩の謝罪の条件は、松平容保斬首、会津鶴ケ丘城開城」という過酷な条件を提示している。もしここで会津追討をためらえば仙台藩も朝敵にされるおそれがあった。
そこで仙台藩主の伊達慶邦は会津藩境に大軍を送って世良の顔を立て、同時に会津藩に早期降伏を進めて和平の道を探ろうとし、家老級3名の切腹と領地削減を条件に会津藩が新政府に降伏する旨の話を取り纏めて、仙台・米沢藩主連名で『会津藩寛典処分嘆願書』とさらに奥羽各藩家老による『奥羽各藩家老連名嘆願書』を4月12日に奥羽鎮撫総督九条道孝に呈出したのだが、世良修蔵はそれをも拒絶し、仙台・米沢両藩で会津藩の征討を再度厳命したのである。

なぜ世良はここまで執拗に会津討伐を要求するのか不審に思い、仙台藩が世良参謀の周辺を探索させると、世良が出羽に遠征中の大山参謀に宛てた閏4月19日付けの密書が手に入った。そこには驚くべきことが書かれてあった。全文は次のURLにある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/243

ポイントになる部分は「京師(京都)へあい伺い、奥羽の実情、篤と申し入れ、奥羽皆敵と見て逆襲の大策に致したく、大総督府西郷様へも御示談致し候うえ、大挙奥羽への皇威の赫然致し仕りたく存じ奉り候。米仙(米沢藩と仙台藩)の朝廷を軽んずる心底、片時もはかり難き奴に御座候」で、要するに世良は奥羽を全面的に武力制圧することを主張していたのである。

日頃から傲慢粗暴の振舞いで仙台藩士の恨みをかっていただけでなく、いつか仙台藩を朝敵として讒訴しかねない男を見過ごすわけにはいかず、仙台藩軍事局はこの世良修蔵を捕らえて糾問することとした。
閏4月20日午前二時ごろ、仙台藩士赤坂孝太夫・福島藩士遠藤条之助が福島の金沢屋で遊女と寝ていた世良修蔵を急襲して捕縛し、部屋にあった閏4月15日付の大山参謀からの密書を持ち帰った。その全文も『仙台戊辰史』に収録されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/246

その密書には「奸計(悪だくみ)をもって総督府へ迫り奉り…仙台の者ども、甚だ姦物(悪者)にして、ついては両君将(仙台・米沢藩主)を京都へ呼び寄せ、両三年の間差し留め候」などと書かれている。
仙台藩は、奥羽鎮撫使は仙台藩も米沢藩もいずれ追討する考えであることを悟り、口封じのため世良を斬首したのだが、このあとで奥羽人の怒りが爆発することになる。

奥羽諸藩は薩長を糾弾し、奥羽鎮撫使総督ではなく直接京都の太政官に宛てて建白書を呈出して、会津藩寛典処分を願い出ることとした

奥羽越列藩同盟

閏4月22日奥羽列藩重臣会議が開かれて仙台藩、米沢藩、秋田藩、盛岡藩、二本松藩など奥羽二十五藩による奥羽列藩同盟*が結成され、同盟の建白書が起草された。そこには、世良や大山の悪事のことや、会津藩は家老級3名の切腹と領地削減にて降伏を申し出たにもかかわらず、参謀の世良がこれを拒否したことは王政復古の妨害になることなどが主張されている。
*奥羽列藩同盟:5月4日に越後長岡藩、6日には新発田藩などの北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/258

この建白書の主張は正論なのだが、正論であったがゆえに、薩長と奥羽越列藩同盟諸藩との戦争は避けられなくなったのである。

仙台戊辰史

『仙台戊辰史』は仙台藩の立場から書かれているので誇張部分もあるだろうが、前々回の記事で紹介した奥羽鎮撫総督府の戸田主水の内部告発文書においても、大山・世良の両参謀は強く批難されている。
寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。」
世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。」

「鎮撫使」というものは、読んで字のごとく、人民を鎮めて安心させることが本来の仕事であるはずなのだが、明治新政府が奥羽鎮撫使参謀として送り込んだ人物は、二人とも会津藩に対する強い復讐心で凝り固まっていて、戦わずして鎮めようとするような意思は毛頭なく、しかも東北の人々から信頼を失って当然と言える行為を繰り返したことは重要なポイントである。
一般的な教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)とあるのだが、この文章を普通に読めば、会津藩も東北諸藩もずっと新政府に抵抗し続けたと理解するしかない。
しかし、この教科書のような説明では、会津藩も新政府に恭順の意思を示していて、東北諸藩は和平に向けて新政府との仲介をしようとしたところを奥羽鎮撫使参謀が拒絶したという真実を読み取ることは不可能だ。

会津藩は「朝敵」とされていたが、東北諸藩は「朝敵」とされていたわけでもないのに、自らが「朝敵」の汚名を受けるリスクを覚悟で会津藩を助けようとしたのは何故なのか。
この理由は、奥羽鎮撫使が東北で信頼を失う行為を繰り返したことも大きな理由の一つではあるが、これだけでは東北諸藩が連盟を組むことはつながらない。ただ会津藩を援けるというだけではなく、自藩の存亡にかかわる危機感を共有していなければ連盟を組むということはありえないと思うのだ。

仙台藩や米沢藩が会津藩を援けようと動いても、奥羽鎮撫使参謀は拒絶し、仙台藩や米沢藩に会津討伐を命じるばかりだったのだが、それがあまりに執拗であった。しかも奥羽鎮撫総督府の兵は動かず、ただ命令があるだけだ。
明治政府からすれば、奥羽鎮撫総督府のメンバーが構成された当時は、江戸城はまだ開城されておらず、幕府軍は江戸に存在していたために新政府が東北地方に兵力を割ける状態ではなかった。そのために奥羽鎮撫総督府の兵力はわずかに570名程度で、奥羽諸藩の鎮撫は、奥羽諸藩の兵力でもって行う方針で臨まざるを得なかったという事情があったようなのだが、こんな少ない兵力で奥羽を統一するという新政府の方針に無理があったと言わざるを得ず、奥羽諸藩からすれば新政府の援軍なしで会津と戦えというのはさぞ不愉快なことであったろう。

罪のない会津藩が朝敵にされるようでは、自藩もいつ朝敵にされてもおかしくない。もしかすると新政府は奥羽諸藩同志を戦わせて疲弊させてから、いずれ奥羽全体を武力討伐する魂胆があるのではないかと疑いつつ、世良の密書でそれが明らかになって一気に爆発したということということではなかったか。

会津藩も、「朝敵」と名指しされた他藩と同様に新政府に対し恭順謹慎していたのだから、新政府が会津藩が降伏することを許していれば戊辰戦争で東北地方が戦禍に巻き込まれることはなかったはずである。
会津征伐にこだわり、東北諸藩に会津征伐をさせるのは新政府の方針であったのかもしれないが、そうだとすると奥羽鎮撫使の両参謀とその部下が仙台藩で信頼を失う行為を繰り返してはいけなかったはずである。
明治政府は会津藩に対する戦略を誤ったのか、奥羽鎮撫使参謀の人選を誤ったのか、その両方なのかのいずれかなのだろうが、いずれにせよ、私怨で住民を争いに巻き込むべきではなかったと思う。

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伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
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関連記事

東北諸藩は薩長の新政府を嫌い、別の国を作ろうとしたのではないか

前回記事で、仙台藩が慶応4年(1868)閏4月19日付の奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が大山参謀に宛てた密書を入手し、世良がその書状で奥羽全体を武力制圧することを主張していることがわかり、20日に仙台藩がこの男を捕らえて斬首したことを書いた。

当日仙台藩の白石城に集まっていた奥羽列藩代表の会議(白石会議)の席上で、世良修蔵斬首の情報が入ったときの様子が、米沢藩士・宮島誠一郎の日記にこう記録されているという。
「満座人皆万才ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉不止」(出席者全員が万歳を唱え、悪逆人に天誅を加えたことに快哉を叫ぶ声が止まなかった)

白石城姿図
【白石城姿図】

しかしながら、参謀を殺害したことによって、東北諸藩は奥羽鎮撫総督府を相手に交渉することはできなくなったことは言うまでもない。白石会議では今後は東北諸藩の総意として、太政官に直接建白することを決議し、また各藩が一致団結するための盟約書の作成にとりかかっている。

戊辰戦争

佐々木克氏の『戊辰戦争』に、5月3日に奥羽25藩で調印された『白石盟約書』の内容が紹介されている。これを読むと、それまで奥羽鎮撫使が東北諸藩にどのような酷いことをしてきたかがある程度推測できる条項があるので、いくつかを引用させていただく。

「一、 強を負うて弱を凌(しの)ぐなかれ、私を計りて利を営むなかれ、機事を漏洩するなかれ、同盟を離間するなかれ。
一、 城堡の築造、糧食の運搬は、止むを得ずといえども、漫(みだ)りに百姓をして労役し愁苦にたえざらしむるなかれ
   …
一、 無辜を殺戮するなかれ、金穀を掠奪するなかれ、凡そ事不義に渉らば厳刑を加うべき事。
右の条々違背あらば、則ち列藩衆議し、厳譴を加うべき者也。」(佐々木克『戊辰戦争』p.118-119)

翌4日には、この同盟に越後長岡藩が加盟し、6日には新発田藩等北越同盟5藩が加入して、合計31藩による奥羽越列藩同盟が成立したのだが、この同盟を終始リードしたのは仙台藩と米沢藩で、仙台藩がタカ派で米沢藩がハト派であったという。

佐々木克氏の前掲書に、閏4月20日ごろに仙台藩の玉虫左太夫、若生文十郎が起草したという行動計画書の要旨が出ているが、驚くようなことが書かれているので紹介しておこう。

「総括
(18)参謀の惨酷残暴により奥州二州が愁苦に堪えかねてこの様な運びになったことを太政官始め天下列藩へ訴え公論をきく。
(19)仏・米・魯国を引きつけ海軍や兵器の手配を整える。仏米両国への接触は会津藩が担当する。
(20)東北諸藩はもちろん、西南諸藩まで同志のものへ密使を派遣し、東西協力の策略を打ち合わせ、敵の内部を切り崩す。
(21)旧幕臣や海軍と密策をめぐらし同時蜂起の手配をする。これも会津藩の担当とする。

(22)京都・江戸両地につめている藩士を帰還させる。
(23)秋田藩に異論があるようだが米沢藩が説得する。同様に八戸藩は南部藩の江幡五郎が説得に当たる。」(同上書 p.128-129)
原文は『仙台戊辰史』に出ており、次のURLにある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/262

東北諸藩だけでなく旧幕臣や海軍や全国の同志と連携し、さらに外国の力を借りて戦うことが堂々と書かれているのだ。そして実際に外国と交渉した記録が残されているのだが、どのような交渉を行ったのだろうか。

会津・庄内両藩 資金調達でドイツに打診

上の画像は2016年9月18日付の北海道新聞の記事だが、重要な内容なので引用したい。

「戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は『戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある』とみる。
 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた
 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
 それによると『シュネル*(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ』などと書かれているという。
 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)

*シュネル:会津藩と米沢藩の軍事顧問を務めていたヘンリー・スネルか、新潟で武器商を営んでいた弟のエドワルド・スネルだと思われる。
http://blog.goo.ne.jp/gooasagao/e/8c89179e6325546433c03b3362ad96ef

幕末の会津藩・庄内藩領

上の画像は同日の北海道新聞に掲載された北海道の地図だが、会津藩と庄内藩は北海道に結構広い領地を持っていた。もしこの地域にプロイセンの軍事拠点が出来ていたら、明治の歴史は大きく変わっていたことは確実だ。
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/4685933.html

ビスマルク
【ビスマルク】

少し補足しておくと、当時の信書は船便であったためにプロイセンに届くのに2か月もかかる時代であった。駐日代理公使フォン・ブラントが「会津・庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を最初に出したのは7月31日だったのだが、その手紙がビスマルクの手元に届いたのは10月初め頃と考えられる。ビスマルクは10月8日に一旦これを却下したのだが、後にゴーサインを出した。その後会津・庄内藩から蝦夷地を99年間貸与する話が出て11月12日に再びブラント公使が本国に手紙を出したが、その時点では会津藩も庄内藩も降伏していたためにプロイセンの出る幕がなかったという流れである。

このような史実は殆んど通史などには書かれていないのだが、Wikipediaに興味深い記事がある。

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89

エドワルド・スネル
【エドワルド・スネル】

安政5年(1858)に江戸幕府が締結した日修好通商条約で、下田・箱館のほかに五港を開港することが決められたことは教科書などにも書かれているが、新潟の開港が遅れていた。
新潟港は、当初は1860年1月と定められていたが、水深不足や国内の政治情勢で開港が遅れ、公式には明治2年(1869)1月1日を開港日としているのだが、工事は前年に完了しており戊辰戦争の最中に列藩同盟はこの港で武器の購入交渉を開始していたようなのである。
列藩同盟の武器の調達に関与した人物の一人が、北海道新聞の記事に出てきた「シュネル」という人物で、兄のヘンリー・スネルは会津藩・米沢藩の軍事顧問で、弟のエドワルド・スネルは武器商人で、出身はプロイセンだったようだ。このスネル兄弟の存在が、奥羽越列藩同盟の結成の大きな要因になったことは確実である。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 奥羽戦争篇〔第72冊〕』に、新潟港開港と列藩同盟の動きに関する記述がある。

「奥羽・越の連盟中には外交上の知識の持ち合わせある者もあり、その連盟の成立を条約各国に告げ、その公認を要め、堂々と交際せんことを期した。当時安政条約*の結果として、戊辰の春**より新潟は開港せられ、普魯西(プロイセン)領事等滞在したれば、仙台藩玉虫左太夫らの発議により、その案文を草し、5月30日各藩代表者の仙台の松井邸会議の際これを検定した。」
*安政(5カ国)条約:安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ条約の総称。 その後ポルトガル(1860年)およびプロシア(1861年)とも同様の条約を結んだ。
**戊辰の春:1868年の春

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/98

徳富蘇峰の前掲書に、プロイセンに宛てて列藩同盟の成立を知らせ、その公認を求めるための書状の案文が紹介されている。

「わが大日本国徳川氏累世継承の政権を、天朝に復してより、天子幼冲、万機草創、而して奸臣隙に乗じ、私意を挟み、もって朝憲をほしいままにす。これゆえにその令するところ、一に至誠惻怛の意に出づるあるなく、もっぱら残酷殺伐の威を逞しうし、もって天下諸侯を圧服す…」と新政府を非難したのち、
わが奥羽越列藩、君臣上下、其此の如きを察し、公議一定、同盟相結び、以て大義を天下に伸ばし、而して強暴の来者撃て、もって之を斥け、その去る者必ずしも追わず、もって皇国を維持し、而して天下聖明の治を待たんのみ」と各藩の態度を示し、
「…敢えて告ぐ。望むらくは領事館執事、僕輩の至衷を諒とし、之を各国諸公使に伝え、もってその他なきを明らかにせられよ。…」と述べて、列藩同盟を公認することを求めている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/98

奥羽越列藩同盟旗
奥羽越列藩同盟旗】

薩長政府の非道を訴えたのは、奥羽越列藩がプロイセンとの貿易を開始するために、新政府ではなく奥羽越列藩こそが新潟港で諸国と貿易を行う正統性があることを認めさせようとしたのだろう。
彼らは、「独立」という言葉は用いていないが、奥羽越列藩が中心になって薩長の勢力を朝廷から追い出すか、東北地方から追い払うなどして、新しい「皇国」を作ろうと考えたことは間違いなさそうだ。

北白川宮能久親王
輪王寺宮公現法親王

6月16日に輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を奥羽越列藩同盟の盟主として迎えている。
Wikipediaによると「輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、『動座布告文』と『輪王寺宮令旨』を発令している。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。」とある。また10月18日付のニューヨークタイムズは「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」と報道したという。輪王寺宮が『東武皇帝』として即位したという話もあるようだが、詳しいことは分かっていない。
しかし「輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされ」ていて、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が残されているようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E8%B6%8A%E5%88%97%E8%97%A9%E5%90%8C%E7%9B%9F

安政6年(1859)「新潟湊之真景」
【『新潟湊之真景』安政6年(1859)】

戊辰戦争中の新潟港の話に戻そう。
当時新潟港には、プロイセンのほかアメリカ、イギリス三国の領事が二隻の軍艦で来ていたという。各藩の全権と奥羽列藩との貿易交渉が開始されたのだが、各藩は軍需品の輸入に関心を持っていて、特に米沢藩と会津藩は武器輸入を新潟港に頼るしか方法がなかったので関心の度合いが強かったという。

プロイセン領土の拡張

幕末期以降イギリスが薩長倒幕側、フランスが幕府側について武器を供給したことは有名な話だが、徳川慶喜が大政奉還したのちフランスの対日方針が変わり、戊辰戦争の途中でフランス公使のロッシュが日本を去っていった。プロイセンのスネル兄弟は戊辰戦争の東北諸藩の動きを見て我が国で大量の武器取引ができるチャンスがあると判断し、ビスマルクも北海道の会津藩・庄内藩領を足がかりにして領土の拡張ができると考えたのだろう。

会津藩・庄内藩がプロイセンとこのような交渉をしたことを『売国奴』だと考える人が少なからずいると思うのだが、新政府に対して謹慎し恭順の意思を示していたにもかかわらず、ここまで両藩を追い詰めた薩長側にも大いに問題があったことは指摘せざるを得ない。

いずれにせよ、東北の戊辰戦争に早く決着がついたことは、わが国にとっては幸運であった。
もし戊辰戦争が長引いていたら、プロイセン(ドイツ)が北海道に軍港を作っていた可能性が高かったし、そうなっていたらわが国は日清・日露を全力で戦うことができず、今の北海道のかなりの部分が外国の領土になっていてもおかしなことではないのである。
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長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
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薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
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薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
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フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
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大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
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兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか

仙台藩や米沢藩を通じた恭順嘆願も奥羽鎮撫使に拒否されてしまい、会津藩は和平嘆願に希望を失って、自藩防衛の戦いに身を投じることとなる。

白河城
【白河城】

奥州鎮撫使参謀の世良修蔵は白河城を会津攻撃の足掛かりにしようと考え、慶応四年(1868)閏四月十六日に仙台藩士高城左衛門に白河城の兵力配置の変更を命じている。しかし、仙台藩はすでに新政府と戦うことを決意していたので世良の情報は仙台藩から会津藩に筒抜けとなった。

白河地図

白河は、古くは「白河の関」が置かれた奥州の玄関口で、猪苗代湖の南から会津若松を攻略するための要地であり、白河藩は慶応三年(1867)に阿部氏が棚倉藩に移封されたのち幕領とされ、城郭は二本松藩丹羽氏の預かりとなっていて、当時は二本松藩のほか仙台、棚倉、三春などの諸藩兵が新政府から駐屯を命じられていた。
仙台藩家老の坂英力が会津藩家老梶原平馬に、宇都宮方面からの新政府軍が白河城に入城する前に白河を奪うべきだとの書状を送り、閏四月十九日には城に駐屯していた仙台藩兵を須賀川まで後退させわずかの兵しか残っていない状態にして、会津藩は閏四月二十日に急襲して白河城を占領し、また同じ日に仙台藩は奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵を斬首し、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを軟禁している。

当時新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたのだが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令でそのまま白河へと前進し、二十五日に新政府軍の先遣隊が城に奇襲をかけたのだが、無理な強行軍の疲労と弾薬不足もあり、会津軍に撃退されている。

西郷頼母
【西郷頼母】

この間、閏四月二十二日に仙台で奥羽列藩同盟が結成され、二十六日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母(たのも)が、副総督として同若年寄横山主税(ちから)が千余人と砲二門を率いて白河城に入城した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着し、白河城の奥羽同盟軍は総勢二千五百~三千人、砲十門の大部隊となった

一方、新政府軍は二十八日に白河南方の白坂に結集し、その兵力は薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍(おし)藩による七百人、砲八門であったという。

五月一日の朝から戦闘が始まった。
単純に兵力を比較すると圧倒的に同盟軍が優勢であったのだが、白河本町の庄屋川瀬才一の『白河戦争見聞略記』にはこう記されているという。

「五月朔日卯の上刻(午前六時)、官軍勢五百余人、九番丁関門外迄寄せ来れり。この兵の過半は前夜に来りて潜伏したりと云う。此日官軍より突然打ち出したるその炮戦烈しき是を聞くもの驚愕肝を冷さざるなし。此日官軍は関東口・米村口・棚倉口・原方口と四方に手を分って討ち入るゆえ、会津勢は手配りも案外に相違し大いに周章狼狽して大一番に棚倉口を破られ、挟み撃ちならんと心付き、桜町および向寺町に放火して東西に走せ、南北に散乱するの混雑、蜘蛛の巣(子)を散らすが如し。関東口、米村口、原方口の三方は一度に破られ会津勢は引揚げに、登り町に放火せり。斯の如くして此日皆破られ惣崩れとなりたり。この日の戦死者は六百八十余人なり。」(星亮一『奥羽越列藩同盟』p.112)

と、新政府軍が圧勝したのだが、この戦いを会津藩側の立場から記されている『会津戊辰戦史』で読んでみよう。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本だとされている。

会津戊辰戦史

卯の上刻(午前六時)西軍棚倉口桜町方面より大砲小銃を発すること頗る烈しく、純義隊以下の諸隊殆んど危うし。
「西兵返戦して三面より猛撃す。仙台の将佐藤宮内、坂本大炊赴き戦う。大炊逢隈川を渡りて西に進む。弾丸その頭を貫きて斃る。仙将瀬上主膳衆を励して戦う。日向茂太郎之に死す。東軍支うること能わず。米村の堤防に拠って戦いしも、忽ち砲兵十余人皆斃(たお)れ頗(すこぶ)る苦戦の状あり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/183

横山主税
【横山主税】

副総裁横山主税自ら采配を振って衆を励し、稲荷山に登るや忽ち弾丸に中(あた)りて斃る。戦い猛烈にして遺骸を収むるに遑(いとま)あらず。…諸将殊死して戦うと雖も遂に利あらず。仙兵は根田、小田川の方面に退き、その他は白河の市街に退きしが、混乱状態に陥りて収拾すべからず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/184

ライフリング

東北軍が大敗を喫した理由は兵器の差が大きかった。
以前このブログで書いたとおり、長州藩や薩摩藩は幕末の早い時期から、ミニエー銃などの最新の武器を購入していた。ミニエー銃には銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施されていて、銃弾はロケットの様に円柱の先が尖った形になっているので、銃弾が発射されると鋭い回転が与えられ、銃身に螺旋状の溝がなく球形の弾を用いる従来の銃(マスケット銃)よりも飛距離と命中精度に格段の差があったのである。
辰戦争で新政府軍の主力小銃はイギリス製のエンフィールド銃(ミニエー銃の一種)であったのだが、会津藩など東北諸藩はマスケット銃で新政府軍と戦ったのである

Wikipediaにミニエー銃の発明が世界の戦争を変えたことがわかりやすく記されている。

高い命中率と1,000ヤード*まで延長された射程を実現したエンフィールド銃は、歩兵運用の基礎条件を大きく変えてしまった。
エンフィールド銃を装備した部隊と従来のマスケット銃を装備した部隊が交戦した場合、マスケット銃側は有効射程の100ヤード(マスケット銃の命中率は50%)まで接近するためだけに、最大で900ヤードに渡る死のロードを友軍の屍を乗り越えつつひたすら進まねばならなかった

マスケット銃が運用されていた当時の主力兵科である戦列歩兵の前進速度は60m/分(イギリス式)であったため900ヤードの距離を進むためには13分以上かかるが、この間にエンフィールド銃は30〜40回の射撃が可能であるため仮に1,000人のマスケット銃兵を相手にした場合でもエンフィールド銃装備の部隊は理論上25人の小部隊で無傷のまま相手を全滅させてしまう事ができた
また、エンフィールド銃がもたらしたもうひとつの変化は、マスケット銃の球弾に比べて複雑な形状の弾丸が高速で回転しつつ人体へ命中すると、弾体が極度に変形しつつ人体内部へくい入ることで、マスケット銃よりも格段に酷い銃創が作られる現象だった。
しかし当時の用兵者の多くはこの事実を認識せずに戦場に臨んだため、身を以ってエンフィールド銃の威力を経験させられたクリミアのロシア兵やインドのセポイ達の犠牲にも拘わらず、その後の南北戦争や戊辰戦争における戦いでも18世紀的な密集陣形を取らされた多くの兵士が即死した。」
*ヤード:1ヤード=3フィート=91.4cm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83

上記記事には、戊辰戦争に於ける会津藩に、新政府と比べて武器の性能が劣っているとの認識があり、新式装備の調達を目指していたが、新政府軍(特に長州藩兵)が会津殲滅を目指している事をいち早く知った外国商人達から積極的な協力が得られないまま新式銃器の入手が大幅に遅れ、何も届かないうちに開戦したことが脚注で記されている。東北諸藩で最新兵器が届いたのは、新政府軍が通過した後の事だという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83#cite_note-9

戊辰戦争

かくして政府軍は奥羽侵攻の要である白河城を一日で占拠したものの、それ以上の追撃戦に移ることは出来なかった。その理由について佐々木克氏の『戊辰戦争』にはこう解説されている。

「上野の山にたてこもる彰義隊はまだ掃討されず(上野戦争は五月十五日)、北関東の旧幕兵ゲリラも、まだ完全に制圧していなかったから、戦力の増強が出来なかったのである。戦線が伸びれば、会津藩を拠点に、三斗小屋から黒磯、あるいは五十里湖から日光、今市に進出しようとする大鳥圭介をはじめとする旧幕兵らに退路を遮断される危険があった。しかも北越では、五月二日、河合継之助と岩村精一郎の慈眼寺会談が決裂して、長岡戦争が始まった。政府軍全体が苦境におかされていた時期であった。」(『戊辰戦争』p.138-139)

新政府軍に銃弾などの補給がほとんど行われていなかったので、同盟軍は白河城から南下して旧幕府勢力に加勢し白河城の新政府軍を孤立させるなど、戦い方がいろいろあったと思うのだが、同盟軍の全軍をコントロールするような指揮官がおらず、新政府軍の銃器と戦う戦術も拙かった。

細谷十太夫
【細谷十太夫】

『会津戊辰戦史』に仙台藩衝撃隊長であった細谷十太夫の戦いぶりが記されているので引用させていただく。

「五月二十一日…仙台藩衝撃隊長細谷十太夫小田川に進む。西兵已に七曲の山上にあり、十太夫部下六十七名に命じ盡く刀を抜き一斉に突進して西兵を衝かしむ。西兵辟易して退く。…十太夫は五月一日の敗報を聞き憤慨に堪えず、一刀を佩び皆黒装なり。十太夫常に部下に謂って曰く、敵は銃隊なれば遠きに利あり。我が隊は之に反して近きに利あり。故に一、二人斃るる者ありとも顧(かえりみ)ることなく進んで敵を衝(つ)けと。毎度此の如くなれば、銃丸多くは空しく頭上を過ぎ命中すること少なく、向う所前なく、人その勇武を称して烏(カラス)組と云う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/188
夜襲が中心だったとはいえ、このように敵の射程圏内に集団で突入するような戦い方を繰り返していたら、たとえ兵の数が優位であっても勝てるとは思えないのだが、細谷十太夫本人はこのやり方で生き残り、日清戦争では陸軍少尉となり、後に竜雲院という寺の住職となって戊辰戦争、日清戦争の戦没者を弔ったという。

列藩同盟を結んだ諸藩の白河方面への軍隊結集が遅れていたのでこのような小競り合いがしばらく続いたようだが、ようやく諸藩の兵が集まって列藩同盟軍は五月二十六日に約二千の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけている。しかしこの日も城を攻略できず、さらに二十七日、二十八日と連続して攻撃をかけたのだが新政府軍に撃退されてしまう。

一方新政府軍は五月十五日の上野戦争の勝利ののち、ようやく板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城増援に向かい、白河城の政府軍勢力は一挙に千五百~千六百名に増強されている。
同盟軍はその後も何度か白河城を攻撃するのだが、戦果はなかった。これまで多くの犠牲者を出してきても、同盟軍の戦い方は相変わらずだったようだ。

例えば佐々木克氏は前掲書でこう述べている。
「六月十二日、同盟軍は四たび白河城政府軍を攻撃した。だが今回も戦果はなかった。とくに仙台藩兵の拙戦がめだった。100メートルほどしか飛ばない和銃や丸玉のヤーゲル銃で遠くから発砲し、近づいていっては政府軍のエムピール銃やミニエー銃の300メートルはある射程の中に入って打撃を受けた。この日の戦闘で仙兵死60、不肖25、二本松死8、負傷18、棚倉死15、負傷14、相馬死1と多くの死傷者を出して、貴重な戦力を消耗した。(会津藩の死傷者は不明)」(同上書 p.140)

新政府軍進路

同盟軍がこのような戦い方を繰り返す一方、六月十六日には平潟に新政府軍千五百名が上陸し、その後も続々と派兵されて七月中旬には新政府軍は三千の兵を擁するようになり、戦線が磐城から北方向へと拡大していく。
戦況が新政府に傾いていき、同盟軍は自藩の自衛の為にいつまでも白河に兵を出せなくなって、秋田藩や新庄藩などが列藩同盟から離反していくこととなる。そして七月十四日を最後に列藩同盟軍は白河周辺から撤退し、百日以上続いた白河口の戦いは終結した

この戦いで同盟軍は幹部多数を失い大量の死者を出したというが、新政府軍の死傷者は少なかったという。
列藩同盟軍はこの戦いの敗北をきっかけに雲散霧消し、勝機を逸してしまうことになるのである。
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このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
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教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
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伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
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戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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