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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2

前回は秀吉が伴天連追放令を出した経緯を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記録から纏めてみた。では、日本側の記録ではどうなっているのか。

秀吉の側近に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいる。この人物は以前にこのブログで、天神祭のことを書いた時に、大阪天神宮の神宮寺の別当であったと紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html

この人物は豊臣秀吉に近侍して秀吉の軍記などをいくつか残しているが、秀吉の九州平定の時にも同行して「九州御動座記」という記録を残しており、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯が短い文章にまとめられている。それには、

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」

slaves510x492.gif

手足に鎖を付け、船底に追い入れるような奴隷の扱い方は、黒人奴隷の場合と全く同じである。秀吉はこのような状況が日本を「外道の法」に陥れることを歎き、伴天連を追放することを決断したということになる。

日本人奴隷はどのような扱い方をされたのか。今度は西洋人の記述を見てみよう。 徳富蘇峰の「近世日本国民史」にパゼー「日本キリスト教史」という本の一部が紹介されている。

南蛮船

「葡萄牙(ポルトガル)の商人は勿論、其の水夫、厨奴(ちゅうど)等の賤しき者迄も、日本人を奴隷として買収し、携へ去つた。而(しか)して其の奴隷の多くは、船中にて死した。 そは彼等を無闇に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に篭居せしめ、而して其の持主等が、一たび病に罹るや――持主の中には、葡萄牙(ポルトガル)人に使役せらるる黒奴も少なくなかつた――此等の奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食料さへも、與へざることがしばしばあつた爲である。此の水夫等は、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にて其の醜悪の行ひを逞しうして、敢て憚かる所なく、其の澳門(マカオ)歸航(帰航)の船中には、少女等を自個の船室に連れ込む者さへあつた。」

なんと、日本人の一部は奴隷に買われていたケースもあり、水夫らの性奴隷としても買われていたのだ。

なぜ、ポルトガル人が大量の奴隷を買ったか。これは前々回に紹介した中隅哲郎さんの「ブラジル学入門」がわかりやすい。

「大航海時代とそれに続く植民地進出時代のポルトガルの泣きどころが、人口の少なさにある…。少ない人間でいかに海外の植民地を維持し、収奪するかはポルトガル王室の直面する歴史的命題であった。そのため、囚人だろうが捕虜だろうが、どんどん海外に送った。ところが、送った人間のほとんどすべては男だった…。
海外進出に武力はつきものだが、ポルトガルは兵隊の数も足りなかった。そのため、現地では傭兵を募集した。アジア各地では日本人の傭兵が多かった。日本人は勇猛果敢で強かったから、傭兵には最適であったのである。」(同書p.163)と記されている。

確かにポルトガルの広さは日本の4分の1程度で、人口は当時100万人程度だったと言われている。そんな小さな国が、1494年にスペインとトルデシリャス条約を結んで、ヨーロッパ以外の世界の二分割を協定し、ポルトガルは東回りに、スペインは西回りに征服の途につくのだが、スペインの一割程度の人口しかないポルトガルが世界の半分を征服するためには、よほど大量の奴隷が必要だったということだろう。

次に日本人が奴隷として売られた時期はいつ頃なのか。

岡本良知さんの「16世紀日欧交通史の研究」という本には、ポルトガル側の資料では1555年11月のマカオ発のパードレ・カルネイロの手紙の中に、大きな利潤と女奴隷を目当てにするポルトガル商人の手で、多くの日本人がマカオに輸入されていると書かれていることが紹介されているそうだ。中国のマカオといえば、ポルトガルの日本貿易の拠点であり、日本貿易の初期の段階から日本人が奴隷として売られていたことになる。1555年は「伴天連追放令」の32年も前の話である。

また、日本イエズス会からの要請を受けてポルトガル国王は何度も「日本人奴隷取引禁止令」を出しているが、東南アジアに暮らすポルトガル人は、国王の禁令はわれわれに致命的な打撃を与えると抗議し、奴隷を買ったのは善意の契約であり、正義にも神の掟にも人界の法則にも違反しないと主張し、この勅令は無視されたそうだ。
しかし、そのような奴隷商人に輸出許可を与えていたのもイエズス会であり、もともとイエズス会が奴隷輸出禁止にどれだけ尽力したかはかなり疑問である。むしろ積極的に関与した可能性がある。
ネットでいろいろ調べると、奴隷貿易に熱心であった宣教師の名前が出てくる。たとえばアルメイダは大友宗麟に医薬品を与え、大分に病院を作ったイエズス会の宣教師だが、奴隷貿易を仲介し、日本に火薬を売り込み、海外に日本女性を売り込んだ人物と書かれている。

ポルトガル国立小美術館にある桃山時代の「南蛮屏風」
<ポルトガル国立小美術館/日本の桃山時代の「南蛮屏風」…黒人奴隷が描かれている>

当時のキリスト教の考え方では、キリスト教を広めるために、異教徒を虐殺することも奴隷にして売買することも神の意志に叶った行為と考えられており、1455年にローマ教皇ニコラウス5世が勅書により奴隷貿易を認め、さらに教皇アレキサンドル6世がこれに追随して神学的に奴隷制度を容認したことから、イエズス会の海外布教戦略が展開していくことになるのだ。イエズス会が、教皇が認めた奴隷貿易を容易に手放すことは考えにくいのではないか。
そもそもキリスト教の「聖書」レビ記25章には、異教徒を「奴隷として買う」ことも「永遠に奴隷として働かせることもできる」と書かれているが、このような考え方で布教されては、他の宗教を奉ずる国にとっては社会も文化も破壊され若い世代の多くが連れ去られてしまって、甚だ迷惑な話である。
http://www.bible.or.jp/read/aidoku.cgi?day=20110818

奴隷を買う側の事情は何となくわかったが、しかし売る側の日本の事情はどうなっているのだろう。どういう経緯で大量の日本人が九州から奴隷船に乗せられたのか。
外国人により拉致されたのか、貧しい日本人が家族を売り飛ばしたのか、あるいは戦国大名が捕虜を売ったのか、住民を拉致して売ったのか。また、何のためにポルトガル人に売却したのか。

そのことを書きだすとまた長くなるので、日本側の事情は次回に記すことにするが、平和な時代しか知らない我々には到底想像もできないような戦国時代の凄まじさが見えてくるのだ。

<つづく>
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。

この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。

イエズス会士とフランシスコ会士

たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。彼らの多くは、二束三文の安価で売却された。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。彼らは互いに殺し略奪し合っていた。」(同書p.314)…1589年

フロイスは日本の戦国時代末期の三十年以上を九州や畿内で暮らした人物であり、誰が売ったかという点について記述している内容はかなり信頼できると考えて良いだろう。豊後とは今の大分県で、肥後とは今の熊本県と考えて良いが、太閤検地の頃の豊後国の人口は418千人であるから、フロイスが「おびただしかった」と書いた、島原まで連行された豊後の婦人や男女の子供たちの数がどれくらいの数字になるかは、人によってイメージする数字が異なるだろうが、人口の5%~10%と考えても20~40千人という数字になってしまう。

狩野内膳筆南蛮屏風

フロイスは口を閉ざして語らないが、それらの人々の多くが島原でポルトガル商人に奴隷として売られていったと考えてまず間違いないだろう。
島原半島の南にある口の津は南蛮貿易の拠点であった港で、口の津の約10km東に原城があり、そこに爆薬に使われる硝石の集積場があった。硝石(硝酸カリウム)は爆弾を製造するに不可欠な原料なのだが、湿潤気候の日本国内では天然に産出しないため当初は南蛮貿易で入手するしかなかった。それを入手するための対価のかなりの部分が、奴隷を売ることによって作られたと考えられている。

硝石の価格について、Wikipediaには「バチカンにある過去の日本の記録には、アフリカ人奴隷に掘らせたチリの硝石1樽で日本人女性が50人買える」と書かれている。同様の記述はネットで多くの人が書いているが、バチカンの記録の原典を引用しているものはなく、どこまでこの記述が信頼できるのかは良くわからない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
もっとも、フロイスの記述のとおりに日本人がよほど安価で売られていたなら、その可能性が考えられないわけでもないが…。

島原地図

口の津のある島原半島は、当時切支丹大名の有馬晴信の領地であった。結局この硝石は後に島原の乱で天草四郎が江戸幕府軍との戦いで使われることになる。原城に立て籠った天草四郎らの反乱軍が長らく持ちこたえられた理由は、キリスト教の信仰もあったのだろうが軍事力の観点からすれば、貯め込んだ大量の火薬の存在を無視できないのだと思う。

日本人奴隷を買ったポルトガル商人がいて、またポルトガル商人に売った有馬晴信に近い商人がいる。しかしその商人に売るために、はるばる島原にまで住民を連行して行った人間集団はどういう連中なのか。どこかの藩の正規軍なのか。

立教大学名誉教授藤木久志氏が著した「雑兵たちの戦場」(朝日新聞出版)という本を読むと、この時代を読み解くうえで「雑兵(ぞうひょう)たちの戦場」という視点が極めて重要であることを痛感させられる。

「雑兵(ぞうひょう)」とは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったそうだ。

「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(「雑兵たちの戦場p.7」)

雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多く、フロイスが詳細に記述した薩摩のほかにも全国各地で同様な記録が残されている。
人を奪うケースの多くは身代金目当てで行われていて、「雑兵たちの戦場」にはそのような記録が数多く紹介されている。

例えば甲斐国の年代記である「勝山記」という書物には、武田信玄軍に生け捕られて甲府へ連れ去られた男女のうち「身類(親類)アル人」は二~十貫文ほどの身代金で買い戻されていたという記述があるそうだ。(一貫文=1000文)

また、永禄九年(1566)に小田氏治の常陸小田城が長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の指図で、春の二月から三月にかけて二十~三十文ほどの売値で、人が売られたという記録があるそうだ。折から東国はその前の年から深刻な飢饉に襲われており、時代や地域によってその価格は異なる。

本州や四国での人身売買については海外に売られていくことはなかったのだろうが、九州で分捕られた場合は、親族の引き取りがなければ安値で海外に売られていくルートが存在した。
薩摩軍が分捕った人の売値は、フロイスの記録では、飢饉の時代とは言え「二束三文」でタダ同然だった。

この時期の貨幣価値については、永禄2年(1559)相模国の北条氏康に納められていた魚の価格が鰯二匹が1文、大あじが2文、鯛6~7寸で10文、1尺で15文といった記録があるが、九州では魚と変わらない価格で人間が取引されていたのだろうか。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J020.htm

私自身が最近までイメージしていた戦国時代は、英雄と英雄との戦いであり武士の世界でしか見てこなかったのだが、藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」を読んで、今までの戦国時代の見方は歴史の表面だけを見ていただけだということに気がついた。この時代に興味のある方は是非お勧めしたい本である。

大阪城

ところで、このような濫妨狼藉による人身売買を禁止したのも豊臣秀吉なのである。
前々回に「伴天連追放令」国内向けの条文の中に人身売買の禁止が明記されていることを書いたが、①人の売り買いはすべて停止せよ。②去る天正16年以降の人の売買は破棄する③だから買い取った人は元へ返せ④以後は、人の売買はともに違法だという趣旨の命令を、相次いで全国に秀吉が出している。

秀吉がただ全国を統一しただけで、平和な世の中になるのではなかった。このような人身売買を固く禁じてはじめて、人々が安心して暮らせる社会が実現できたのだと思う。

しかし秀吉の命令も、残念ながら東国までには行き渡らなかった。「大坂夏の陣図屏風」の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。

大阪夏の陣図屏風
<大阪夏の陣図屏風(部分)>

秀吉のやったことは正しかった。東国には人身売買の禁止を徹底できなかったが、秀吉は権力を握った者にしかできないことを適切に実施し、九州で日本人が奴隷として海外に流出していくのを止め、日本が植民地化していく危機を救ったと評価できるのではないか。
もし秀吉が南蛮貿易の利権を選択して、キリスト教を保護し、雑兵の濫妨狼藉を放任し日本人奴隷の海外流出も放置するような馬鹿な男であれば、今の日本がキリスト教国で白人が支配する社会になっていてもおかしくなかったと思う。

信長、秀吉、家康の3人の中で昔から秀吉が庶民から最も親しまれてきた存在であるのは、下層階級の出身でありながら全国を統一したということもあるだろうが、庶民が一番嫌う人身売買と言う悪弊を断ち切って、誰もが安心して暮らせる平和な社会を実現させる道を開いたということも、庶民から評価されてきた要因の一つではないかと考えている。
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戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日本人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。

「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日本準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬を食べることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。
それよりも、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」という秀吉の問いの方が私には気になった。

秀吉

秀吉の質問に対するコエリョの回答では「彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅した。」とキリスト教信者が勝手にやったことだと言っているのだが、キリスト教の信仰を始めたばかりの信者が、子供の頃から信仰してきた寺社を自発的に破壊することがありうるのだろうか。常識的に考えて、誰かが命令しない限り起こり得ない話だと思う。

この問題は日本史の教科書などではキリシタン大名が寺社を破壊したように書かれているのだが、もしそうならば「伴天連追放令」の中になぜ寺社の破壊を伴天連追放理由の中に入れたのであろうか。少なくとも秀吉は、寺社や仏像の破壊は宣教師の教唆によるものと考えていたはずである。

img20110219194444638.jpg

今まで何度も紹介させていただいた、ルイス・フロイスの「日本史」を読むと次の様に書かれている。しばらく引用させていただくことにする。

以下の文章の中で、「殿」とは肥前(長崎)国の切支丹大名である大村純忠で、「司祭」とはイエズス会日本準管区長のコエリョである。大村純忠が伊佐早との戦いに勝利した時にコエリョが純忠を説得する場面である。

「…殿がデウス(神)に感謝の奉仕を示し得るには、殿の所領から、あらゆる偶像礼拝とか崇拝を根絶するに優るものはない。それゆえ殿はその用に努め、領内には一人の異教徒もいなくなるように全力を傾けるべきである。
 …殿は、さっそく家臣団あげての改宗運動を開始すべきである。ただしそれは、その人々が自由意思によって、道理と福音の真理の力を確信し、自分達が救われる道は、絶対にこの教え以外にないのだということを判らせるようにせねばならない、と。

…大村の全領域には、いともおびただしい数の偶像とか、実に多数かつ豪壮な寺院があって、それらすべてを破壊することは容易にできることではなかった。」(「完訳フロイス日本史10」大村純忠・有馬晴信編Ⅱ[中公文庫p.12])

「その地の住民たちは説教を聴きに来た。ところで日本人は生まれつきの活発な理性を備えているので、第一階の説教において、天地万物の根元であり創造者、また世の救い主、かつ人間の業に報いを与える御方であるデウスと、彼らの偶像、偶像崇拝、欺瞞、誤謬等の間にどれほどの差異があるかについて述べられたところ、人々は第二の説教まで待ってはいなかった。そしてあたかも司祭が、『寺を焼け、偶像を壊せ』と彼等に言ったかのように、彼らは説教を聞き終えて外に出ると、まっしぐらに、その地の下手にあったある寺院に行った。そしてその寺はさっそく破壊され、何一つ残されず、おのおのは寺院の建物から、自分が必要とした材木を自宅に運んだ。
 仏僧たちはきわめて激昂し、ただちに司祭のもとに二人目の使者を遣り、『神や仏の像を壊すなんて、一体全体、これはどういうことか』と伝えた。司祭は仏僧たちにこう答えた。『私が彼らにそうするように言ったのではない。ところで、説教を聞いた人たちは皆あなたの檀家なのだから、あなた方がその人たちにお訊ねになるべきです』と。…」(同書p.14)

上の文章で何度も出てくる「偶像」とは仏像のことだが、この文章を読んで宣教師の教唆がなかったと思う人は誰もいないであろう。

フロイスの本を読んでいると、宣教師が寺院を焼くことを信者に指示している場面がある。 つぎにその部分を引用しよう。

「…たまたまあるキリシタンが、ガスパル・コエリョ師のところにやって来て、司祭にこう頼んだ。『今はちょうど四旬節でございます。私は自分がこれまで犯して来た罪の償いをいたしたいと存じますので、そのためには、どういう償いをすることができましょうか。どうか伴天連様おっしゃって下さい』と。司祭は彼に答えて言った。『あなたがデウス様のご意向になかってすることができ、また、あなたの罪の償いとして考えられることの一つは、もしあなたが良い機会だと思えば、路上、通りすがりに、最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです』と。この言葉を、そのキリシタンは聞き捨てにしなかった。そして彼は、いとも簡単で快い償いが天から授かったものだと確信して、自分がそれによって、どんな危険に曝されるかも忘れ、さっそく帰宅の道すがら、ある大きく美しい寺院の傍らを通り過ぎた時に、彼はそれに放火して、またたく間にそれを全焼してしまった。…」(同書p.22-23)

南蛮船

寺社破壊に関してフロイスの著作には、領主の大村純忠は「そ知らぬふりをして、不快としてはいないことを明らかに示して」いただけで、破壊を領民に命じたとはどこにも書いていない。
このキリシタンの行動がきっかけとなり大村領の神社仏閣が破壊されて、大村領は6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。

次に肥前国有馬晴信の所領を見てみよう。加津佐の海岸近くにある岩石の小島の洞窟中に建てられていた祠に、領内から追放された僧侶達が大量の仏像を隠していたのをイエズス会の宣教師が発見する。それらの仏像を取り出していくと、大きい仏像だけが残ってしまった、という場面から引用する。

「それらは分断しなければ、そのまま入口から外にだすことが出来なかった。だが我らは、仕事を早めるためにそれらに火を付けた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。
 副管区長の司祭(ガスパル・コエリョ)は、…少年たちを招集させた。少年達は…それらの仏像を背にして運んだ。…教理を教わっている少年たちは、仏像を曳きずって行き、唾を吐きかけ、それにふさわしい仕打ちを加えた。
 折から寒い季節のことで、口之津の我らの司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこでそれらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役だった。」(同書p.208~209)

と、九州の寺社を破壊し仏像を焼却させたのは、明らかにキリスト教の宣教師である。記録を残したフロイス自身も、寺社を破壊し仏像などを焼却することは正しいことだと思っているからこそ、これだけ詳細に書いているのだ。
彼ら宣教師のために、この時代にどれだけの貴重な我が国の文化財が灰燼に帰したかわからない。

穴観音

フロイスが記述した場所は特定されており、多くの人がネットで紹介している。場所などが知りたければ例えばつぎのサイトなどに書かれている。上の写真は、大量の仏像が隠されていた穴観音という場所の写真である。
http://himawari-kankou.jp/spot/5/34/

フロイスの記録などを読むと、秀吉の「伴天連追放令」は、このまま放置すると日本人の信仰の対象であった寺社の文化財が破壊されてしまうという観点からも当然の措置であったし、何故キリスト教が日本で広まらなかったかということも当然のように思えてくる。今の日本で、評判の悪い新興宗教ですらしないようなことを、当時のキリシタンは平気で実行していたのだ。

宣教師らにとっては正しい行為をしているつもりなのかもしれないが、一般の日本人にとっては迷惑な話ばかりだし、このような布教のやり方をすれば、日本に限らずどこの国でも異教徒である一般民衆は反発し、衝突が起こって当たり前だと思う。
他の宗教や価値観を許容しない考え方や宗教は、異質なものとの共生ができない未熟さがある。そのような宗教や価値観が今も世界をリードしているから今も争いが絶えないのだと思う。

ニーチェ

ドイツの哲学者であるF・Wニーチェは晩年に「アンチキリスト」(邦訳「キリスト教は邪教です!」講談社+α新書)を著し、キリスト教が多様な文化を認めず徹底的に迫害し、戦争を必要とする宗教であるとの本質を見抜いている。わかりやすい訳文で、この本はニーチェの本にしては誰でもすぐに読了できる。

世界全体でキリスト教の信者が現在20億人いて、キリスト教が世界で最も信者数が多い宗教であることは周知の事実だが、これはキリスト教の教義が素晴らしかったから全世界の民衆に支持されて広まったというわけではなく、侵略国家の宗教であったから住民に押し付けて広められたという側面を無視できないのではないか。

西洋が全世界を侵略しその固有の文化を破壊していた時代に、日本はキリスト教の危険性を察知するだけの為政者がいて、侵略の先兵となっていた宣教師を斥けるだけの武力があったから日本固有の文化を守ることが出来たのだ。多くの国ではそうはいかなかったから世界中にキリスト教徒が多くなったというだけのことだと思う。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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