「幕末英傑録」というホームページにはこの時期に暗殺された人物の名前が列挙されているが、文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではない。しかも遭難地は京都ばかりだ。
http://www.bakusin.com/eiketu/kill.html
もちろんリストの中には慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の名前があるが、その前年の慶応2年(1866)の 12月25日に「?」付きではあるが孝明天皇の名前が書かれているのに驚いた。
孝明天皇の暗殺説はかなり昔に読んだことがあるが、その時は「そんな説もあるんだ」程度であまり深くは考えなかった。 最近になって幕末から明治にかけての歴史に興味を覚え、先程紹介した暗殺された人物のリストに載っているのを見て何かありそうなので、孝明天皇について少し調べてみることにした。

孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇ということになる。
嘉永6年(1853)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への関与を強め、大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶことに不快感を示し、文久3年(1863)には攘夷勅命を出して、これを受けて下関戦争や薩英戦争が起こっている。また異母妹の和宮親子内親王を14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだのだが、薩長を中心とする倒幕勢力は天皇を公然と批判するようになっていく。
第二次長州征伐の勅命が下されるも、坂本龍馬が仲介した薩長同盟により薩摩は出兵を拒否。慶応2年(1866)の6月に幕府艦隊の周防大島への砲撃が開始され長州征伐が始まるも、戦いのために上洛した将軍家茂は大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の若さで、大坂城で薨去されてしまう。
第二次長州征伐は9月に徳川幕府の全面敗北に終わるのだが、その後薩長が京都を制圧する前後に孝明天皇までもが36歳で崩御されるのだが、幕府の存在を認めていた天皇の突然の崩御は佐幕派の力をそぎ、勤王倒幕派の復活を招くという幕末史の大きな転換点になった。

上の肖像画は将軍家茂だが、家茂の死因は典型的な脚気衝心で、ビタミンB1の欠乏により全身がだるくなり急激な心肺機能の停止を引き起こして死に至ったと解説されている。家茂は甘いものに目がなく、そのためにほとんどの歯が虫歯におかされていたことも遺体の発掘調査により確認されており、脚気衝心で亡くなったという説に異を唱える人はいないようだ。
しかし孝明天皇の死亡原因は、死亡直後から疱瘡による病死説と毒殺説が流布していた。
たとえば幕末から明治にかけて日本に滞在し外交官として活躍したアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)には

「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私 (アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」と書かれているらしい。
通史では病死説になっているが、毒殺説とは一体誰が毒を盛ったというのだろうか。
中公新書の「戊辰戦争」(佐々木克)では、
『…近年、当時孝明天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見る限り明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、…親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。…岩倉自身は朝廷に近づけなかったが…大久保は…公卿の間にもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。…直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう。』
と書かれており、岩倉具視と大久保利通が黒幕だとしている。

孝明天皇が疱瘡を患ったことは史実ではあるが、「幕末入門」(中村彰彦:中公文庫)に「伊良子光順日記」のポイントが引用されている。
簡単に書くと、16日に天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断されるのだが、疱瘡は患者が死に至らなければ、発疹が膨れ、発疹に膿が乗った後、膿が引いてかさぶたができて2週間以内で回復するそうである。
孝明天皇の病状は主治医が見立てた予定日のとおりに快方に向かい、24日には「天皇に御元気が出たことにはっきりと気づく。…女官達は静かな立居振舞の中で生色を取戻した」とあり、崩御された25日には「…少し食欲が出られた。御回復と表役所へ申上げてもいいくらいの御症状…」と書かれており、ほとんど平癒していたことになる。
ところが同じ25日、伊良子光順氏がほっとしてからわずか数時間後、天皇の病状は激変するのだ。
「七ツ時(午後4時)頃、御痰喘の御様子」となり天皇は血便を何度も洩らしになられて苦しまれ、その都度御治療申上げたが、夜の10時頃に崩御されたとのことである。
専門書によると死に至るほどの重篤な疱瘡は「出血型疱瘡」といい、激しい頭痛、背痛を伴う高熱ではじまり、発病後数日以内に眼瞼や血尿等を起こして死亡するそうなのだが孝明天皇の病状は明らかにこれと異なる。
疱瘡で法医学者の西丸與一氏はこのような末期症状はヒ素中毒によるものと判断され、伊良子光順氏の曾孫で医者の光孝氏も同じ見解を述べておられる。
「兎も角、天皇は…御回復が決定的になった。この時点で暗殺を図る何者かが、“痘毒失敗”を知って、飽くまで痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入した、という推理が成り立つ」
「天皇は一日三回薬を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものと見て間違いないだろう」と伊良子光孝氏が書いておられるそうだ。
「痘毒失敗」という言葉は、孝明天皇暗殺犯はまず初めに天皇を「痘毒」に感染させ、それが不成功と知って砒素を盛ったという説から来ているらしい。
当時砒素は「石見銀山」として殺鼠剤に用いられ、容易に入手できたらしいのだ。
しかし誰がその毒を盛ったのか。そこには岩倉具視も大久保利通もいなかったはずだ。
しかしネットでいろいろ調べると、京都御所には岩倉具視の近親者がいたのである。
孝明天皇の側室で岩倉具視の実妹の堀河紀子(もとこ)の可能性が高いとする人が多いが、岩倉具視の孫で当時16歳になっていた具定(ともさだ)も孝明天皇の近侍だったので下手人であった可能性があると書いてあるのもある。
いろいろ調べると、岩倉具視はかなり怪しいとは思うのだが、動かぬ証拠があるわけではない。いつの時代も、またどこの世界においても、正史や通史として書き残された歴史の大半は、勝者にとって都合の悪いものが排除され、都合のよい解釈だけが残されたものなのだと思う。
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その後、和親条約により下田に駐在したハリスの強い要求に応じて、江戸幕府は安政5年(1858)に日米修好通商条約に調印した。

この幕府の決定が反対派の公家・大名や志士達を憤激させた。大老の井伊直弼は自らの政策を推し進めるとともに反対派を大弾圧し、徳川斉昭、松平慶永らは蟄居させられ、吉田松陰や橋本左内らの志士は刑死させられた(安政の大獄)のだが、その後も国内に反幕府勢力が燎原の火のごとくに広がっていく理由が教科書を読んでもわからなかった。
私の感覚だと、国家の最高権力である徳川幕府が大弾圧を加えたのならば、普通の国なら反対勢力はそれ以降は下火になっていくのではないかと思うのだが、そうとはならず、むしろ公然と広がっていった。
しかしながら、反幕府勢力が無秩序に広がって国論が四分五裂することもなかった。もし国論が割れていれば、欧米列強による分裂離間策でインドやインドネシアと同様に植民地化への転落すらあり得たと思うのだが、なぜ出身地も立場も考えも身分も異なる者同士が力を合わせて、独立国家を堅持することができたのか。
誰かが強力なリーダーシップをとらないとそのようなことはありえないと考えていたのだが、一体どういう経緯があったのだろうか。
学生時代に歴史を学んだ時は、「尊王攘夷」というのは偏狭な排外運動だったとイメージしていたのだが、以前紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』によると、攘夷の急先鋒であった水戸藩主徳川斉昭は、終局的には開国・通商はやむなしと当初から考えており、国民の士気を鼓舞し充分力を蓄えてから開国に転じるという考え方であり、頑迷固陋なものではなかったようだ。

また西郷隆盛も「尊王攘夷というのはネ。ただ幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷といって他の者の志気を鼓舞するばかりじゃ。つまり尊王の二字の中に倒幕の精神が含まれているわけじゃ」と、有馬藤太に語った記録が残されている。(『有馬藤太聞き書き』)
つまり「尊王攘夷」は愛国心を鼓舞して、開国路線をとった幕府を倒すためのスローガンとして使われたという側面もあったのだ。
以前、私のブログで孝明天皇のことを書いたことがある。孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html
教科書には、孝明天皇の妹の和宮を将軍徳川家持の夫人として迎えて公武合体を推進し、幕府の権威の回復を図ったことと、強固な攘夷論者であったことくらいしか書かれていない。

ずっと長い間、私も孝明天皇は偏狭な攘夷論者のイメージが強かったのだが、勝岡寛次氏の著書に紹介されている孝明天皇ご自身の勅書を読んで考え方が改まった。誰でもこの勅書を読むと、維新に至る幕末の志士達を多く輩出させた背景には、孝明天皇の存在が大きかったことに気が付くのではないだろうか。
しばらく勝岡寛次氏の解説を引用する。
「孝明天皇陛下の攘夷論は、遠く印度の運命に想いを馳せながら、欧米による日本植民地化の回避といふ一点の工夫に発し、又其処に尽きてゐたのであって、西洋人への生理的な「毛嫌い」といふやうな浅薄な次元のものでは決してなかった事を、天皇陛下の時局御軫念の勅書[所謂「御述懐一帖」、文久二年(1862)五月十一日付]は、或いは若き将軍徳川家茂に下された勅書[元治元年(1864)正月二十一日付]は、明示して余りあるからである。
…惟に因循姑息、旧套[旧来のやり方]に從ひて改めず、海内[国内]疲弊の極[結果]、卒(つひ)には戎虜(じゅうりょ:外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊[西洋人]に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍(ふくてつ:二の舞)を踏まば、朕實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年を限りて、朕が命に従ひ、膺懲(ようちょう)の師[懲らしめの軍隊]を作(おこ)さずんば、朕實に斷然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう)[前例]に則り、公卿百官と、天下の牧伯[諸侯]を師(ひき)ゐて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して以て報ぜん事を計れ。(時局御軫念の勅書)
…然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。(中略)嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり。(徳川家茂に賜はれる勅書、同上)
明治維新とは、この孝明天皇の身命を擲(なげう)った驚くべき御覚悟に打たれた将軍家茂が、雄藩各藩主が、各藩士が、そして志士が、幕府といふ其れまでのパラダイム(旧枠)を乗り越えて、次々に天皇と直結していった、日本国の精神的統合の全過程をば、指して謂う言葉なのである。
文久二年(1862)12月、将軍家茂は書を天皇に奉り、二百数十年来の幕府専断の誤りを公式に謝罪し、超えて三年三月には、實に二百三十年ぶりに上洛(入京)の上、君臣の名分を正して天皇に帰順した。又、これに先んずる文久二年十月から十二月に掛けて、雄藩各藩主が(長州藩・土佐藩・筑前藩・因幡藩・宇和島藩・安芸藩・津軽藩・肥前藩・阿波藩・岡藩・肥後藩・備前藩・津和野藩)、天皇の内勅を奉じて続々京に至り、やはり天皇に忠誠を誓ってゐる様を見るのは壮観である(『孝明天皇紀』)。謂はば大政奉還の5年も前に、既に事実上の天皇政府が形勢されつつあったのであり、この事は。もっともっと注目されて然るべき事と考へる。
将軍・藩主のレベルに止まらぬ。文久二年十二月、天皇は薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・肥前・因幡・備前・津・阿波・土佐・久留米十二藩士を学習院に召し、京都内外の守備を策問し、或いは超えて文久三年二月、草莽微賤の者とても、学習院に詣(いた)りて時事を建言することを許可された。」(勝岡寛次:『抹殺された大東亜戦争』p.101-102)

「学習院」については、明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏の「皇室のきょうかしょ」に詳しいが、位の高い公家の子弟が学ぶ学校として京都御所内に設立され、文久2年(1862)の尊皇攘夷運動が盛んな折、学習院は公家衆と武家衆、そして草莽の志士たちが集う政治的な会合の場所となり、そこで攘夷決行の策が議論されたとある。
当時、公家と草莽の志士が接触することは堅く禁止されていたのだが、学習院という学問の場だけが、公家と志士が公然と会合することができる唯一の場所だったのだそうだ。
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu64.html
身分の異なる者同士を一堂に集めて、わが国の進むべき道を議論できる場を「学習院」に作られたということは画期的な出来事だと思うのだが、こういう史実がなぜ広く知らされていないのだろう。
孝明天皇の国を愛する気持ちが伝わり、国を守り独立を堅持するという目的が共有されてはじめて、身分を超え藩を超えて、人々が繋がっていったということではないのか。
「草莽の志士」と呼ばれた下級武士達がなぜ身分の高い公家らとともに明治維新を為し得たか、なぜ下級武士たちが明治政府の中心勢力になりえたかは、孝明天皇の存在を抜きには語れないことだと思うのだ。
勝岡寛次氏の著書に、GHQの検閲によって抹消された論文が掲載されている。
(西谷啓治「現在における民主主義の問題」昭和21年11月『ひょうご』)
「明治維新は、萬民がその一君の赤子として、國家の全體性へ直結するといふ形で成就されたのであり、それが…各人が『国民』となったことであった。…他の諸國では、概ね、人民が貴族階級を顚(くつが)へし、力を以て政権を自らに奪ふといふ『革命』によつて、民主主義が實現され、近世國家への移行が行はれたのであるが、日本では、國家統一の肇(はじ)めから國家的な『一』の象徴であった天皇への歸一といふ仕方で行はれたのである。…
この様にして日本では、近世國家への移行は、諸外國に見られたやうな大きな擾亂(じょうらん)や流血を經ずに、短日月の間に圓滑に行はれた。その意味で明治維新は世界史の上でも稀有な出来事である。…

言ふまでもなく當時は、列強の膨張政策が頂點に達し、南方からは英佛の勢力が、北方からは露國の勢力が、日本まで延び、日本を終點としてそこに渦巻いていた時代であつた。亜細亜の諸國はその植民地又は半植民地と化し、日本も存亡の岐路に立つたといつてよい。その際最も緊要なことは、新しい政治的中心のもとに國家全體が眞に強固な統一を形成し、國内の結果が根本から打ち建てられることであつた。といふのは、國家の滅びる場合は、概ね一方に諸外國の相對立する勢力の干渉があり、他方には國内に相對立する勢力の分裂があつて、然もその國内の對抗勢力がその敵對關係のために、共通の地盤である祖國と同胞性とを忘れ、政敵を倒すために互ひに外國の勢力と結合し、かくして外國勢力の間の闘争と國内の闘争とが一つに聯環して來る場合である。その際、諸外國のひとつが勝つ場合には、國家はその國に征服され、諸外國の間に協定が成立する場合には、國家は分断される危険がある。後の場合の適例は、曾てポーラーン[ポーランド]が三度の分割によつて滅亡した場合である。その時は国内の親露的、親普的等の黨派が夫々に諸外國と結びついて、國家を分裂させ滅亡に導いたのであつた。かかる危険の兆しは明治維新の際にも現はれてゐた。特に一方に英國と佛蘭西(フランス)の間の勢力爭い、他方に薩長と幕府との闘爭があつて、それが複雑に絡み合つてゐたのである。かかる事情のもとでは強固な統一國家の態勢を、然も長い内爭や動亂なしに出来る限り短期間に調(ととの)へることが、何よりも緊急事であつた。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.104-105)
引用部分の内「言ふまでもなく當時は…」以降の文章がすべてGHQの検閲で削除されているのだが、要するにGHQは日本人が欧米列強の世界侵略の手口やわが国が短期間で統一国家の態勢を整えたことについて学ぶことを許さなかったし、幕末に欧米列国の植民地にされる可能性があったことを考えさせたくもなかったのだろう。
孝明天皇の攘夷論は「倒幕」ではなく「公武合体」の考えであったのだが、天皇親政を復活させようする過激な尊王攘夷派が多数派となり、天皇は八・一八の政変で尊王攘夷派を朝廷から一掃したのだがそのために朝廷は勢いを失い、天皇は失意の中で孤立していく。
慶応二年(1866)に将軍家茂が亡くなる頃から、対幕府強硬派が力をつけて倒幕の勢いが加速する。それでも、公武合体への信念を枉げなかった天皇の存在は倒幕派にとっては最大の障壁となってしまうのだ。
以前私のブログで孝明天皇が暗殺された可能性が高いことを書いたが、真相は闇の中だ。ただ倒幕派にとっては非常に都合の良いタイミングで崩御されことだけは事実である。
結果として孝明天皇が望んだ方向には歴史が進んだわけではないのだが、幕末から明治維新で活躍した数々の人材を輩出させるきっかけを作った天皇であったことは間違いがないと思う。
幕末維新期の和歌がいくつか残されているが、わが身を捨てても国を守るということの思いが伝わってくるものがある。
あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかかる異国(とつくに)の船[孝明天皇(1831-1867)]
君が代を思ふ心の一筋にわが身ありとも思はざりけり[梅田雲浜(1815-1859)]

かくすればかくなるものと知(しり)ながら已むに已まれぬ大和魂[吉田松陰(1830-1859)]
わが霊はなほ世にしげる御陵(みささぎ)の小笹の上におかむとぞおもふ[伴林光平(1813-1864)]
大山の峰の岩根に埋(うめ)にけりわが年月の大和魂[真木和泉守(1813-1864)]
もののふの大和ごころを縒りあわせすゑ一すぢの大縄にせよ[野村望東尼(1806-1867)]
平和な国や侵略する側の国にはこのような思いは不要であろうが、侵略される側の国には、国を愛する強い心と愛する国を守り愛する人を守るためにはわが身を犠牲にしてもいいという覚悟が大半の国民に存在し、かつ強力なリーダーシップと戦略がなくては、国を守れるはずがないである。
このことはどこの国でもいつの時代にも言えることだと思うのだが、このようなあたりまえの事が戦後の日本で充分に伝えられていないのではないだろうか。

以前私のブログで、ペリーの来航の真の目的は、アメリカが日本を奪い取ることであったことを書いたが、そのことをしっかり理解できれば、幕末から明治以降の歴史の見方が変わらざるを得ないだろう。
先ほど紹介した竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』という著書の中で、孝明天皇を「封印された天皇」としたうえで、こう記されている。
「孝明天皇の崩御がもし少しでも前後していたら、おそらく今の日本はない。皇室も幕府もともに倒される対象とされていたろう。王政が打倒され、共和国が成立するのは世界史の大勢だった。
もし崩御がより早ければ、倒幕の原動力となった尊攘派が育つことはなく、もし崩御がより遅ければ、天皇親政による新政府構想は成立するはずもない。孝明天皇は生きて国を守り、そして死して国を守ったことになろう。」(『旧皇族が語る天皇の日本史』p.205)
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以前このブログで文久3年(1863)8月に奈良で起きた『天誅組の変』のことを書いたが、『生野義挙』というのは、『天誅組の変』の2カ月後に尊王攘夷派が挙兵した事件をいう。いずれも明治維新の魁(さきがけ)ともよ呼ばれる事件なのだが、教科書などでは何も書かれていない。
たとえば、『もういちど読む 山川日本史』には、この事件前後の歴史をこう記している。
「攘夷の機運が高まるなかで、外国人殺傷事件もしばしばおこった。1862(文久2)年には神奈川に近い生麦で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件がおこり、翌年イギリス艦隊がその報復として鹿児島を砲撃するという事態に発展した(薩英戦争)。幕府も急進派の動きにおされて諸藩に攘夷決行を命じ、長州藩では下関の海峡をとおる外国船を砲撃した。しかし朝廷内では、保守派の公家が会津藩とむすんで、1863(文久3)年8月、武力を用いて三条実美ら急進派公家と長州藩の勢力を朝廷からのこらずしりぞけた(八月十八日の政変)。長州藩は翌64(元治元) 年、池田屋事件をきっかけに京都に攻めのぼったが、薩摩・会津両藩は協力してこれを打ち破った(禁門の変、蛤御門の変)。こうして朝敵となった長州藩は、幕府の征討(第一次長州征討)をうけることとなった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.214)
この記述では、朝廷内では攘夷をとなえる急進派が斥けられたことは記されているが、八月十八日の政変までは朝廷では尊王攘夷派の勢力が強かった。

【孝明天皇】
文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の大和親征行幸の詔勅が発せられている。
原文では「為今度攘夷祈願、大和国行幸、神武帝山稜春日社等御拝、暫御逗留、御親征軍議被為在、其上神宮行幸事」とあるが、これは孝明天皇みずからが大和に行幸し神武天皇陵に参拝するとともに、ここで攘夷親征の軍議を固め、そのうえで伊勢神宮に参拝するという意味である。
言うでもなく、この詔勅は開国を推し進めてきた江戸幕府の政策と相反するものであり、御親征の軍議を行なうということは、天皇が中心になって討幕運動を始めようとするようなものである。
そして、西国の雄藩であった長州藩はこの攘夷親征の強力な支持者であり、彼らは尊王攘夷の旗印のもとに幕府を倒し、そのあとに作られる政府の中心になろうとしていたと考えて良い。
当時は攘夷親征を実現しようとするいわゆる「勤王の志士」が全国各地に現われたのだが、彼らが攘夷をとなえ天皇親征を考えるに至ったのはなぜなのか。
『スーパー日本史』で古川清行氏の解説がわかりやすい。
「◎国学の影響も受けながら、『日本は神国である』と信じている者たちにとって、紅毛の夷狄(いてき:外国人に対する蔑称)の存在は唾棄すべきものであった。
◎しかもその夷狄は我が物顔に神州を横行し、支配階級である武士に対しても、優越的で横柄な態度を示している。これは武士の誇りを傷つけるものであった。それなのに、それにへつらう者が少なくないという状況もある。
◎幕府は、その夷狄の言いなりになって開国し、勅許を得ないで条約を結んだ。この行いは、尊王を志す者たちにとって許し難いことであった。
◎開国以来、物価の上昇が急激であった。そしてその原因は、夷狄によってわが国の富が吸い上げられていることにあると考えられた。
右のように考えてくると、尊攘論者にとっては、外国人やそれにへつらう者たち、また幕府の手先になって尊攘の活動を妨げる者たちは、まさに仇敵であり切り殺されても仕方のない理由をもつ者たちであった。
…
こうして1860年代の前半には、尊攘に逆らう者たちに『天誅』をくだすことが流行するようになった。天誅とは、『罪ある者を、天に代わって討ち果たす』という意味である。
◎1862年、朝廷に仕える公卿九条家の家来の島田左近が殺され、その首が四条河原にさらされた。左近は、安政の大獄のときに幕府方にたって活躍した人物である。
◎1863年、洛西の等持院に押し入り、足利尊氏・義詮・義満の木像の首と位牌を奪った者が、これを賀茂川原にさらした。これは、将軍家茂の上洛を前に、『鎌倉以来積み重ねてきた罪を償う措置を取らない限り遠からず全国の有志大挙してそれを糺すであろう。』という意志を表明したものであった。
などというのもその表れであるが、このころ天誅の犠牲になった者は、数知れないほどいたのである。」(『スーパー日本史』p.472)
以前このブログで、文久2年(1862)に起きた生麦事件のことを書いたが、この事件は決して単純な攘夷殺人ではなかった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html
当時のわが国では、安全のために武士であっても狭い市中での乗馬は禁止されていたのだが、4人の英国人が騎乗のままで島津藩の行列に遭遇し、「馬を下りよと」命じられたにもかかわらず、それを無視して薩摩藩政の最高指導者・島津久光の駕籠に近づいて行った。
今の世の中でも、パレードの最中に中央にいる重要人物に向かって制止されても接近していく人物がいたとしたら、国によっては射殺されてもおかしくないだろう。

斬りつけられたリチャードソンらの尊大な振舞いは、当時の外国人からも強い批難があったのだが、幕府が結んだ安政の不平等条約では彼らに治外法権を認めていたために、わが国には外国人を裁く権利が存在しなかった。外国人がわが国の法律や慣習を意に介さずにやりたい放題にしていたことに憤慨する多くの日本人が出現したのだが、その要因の大半は外国人側にあったと言って良い。
そして尊王攘夷派の中から、いち早く挙兵して討幕の先駆けになろうとする者が出てきて、天誅組の変や生野義挙が起きたのだが、そのような経緯を教科書のような書物から読み取ることは困難である。このブログで何度も書いているように、戦勝国に都合の悪い話はことごとく戦後の歴史叙述から消されてしまっているのである。
では生野義挙がどのような事件であったのか、簡単に振り返っておこう。
先ほど、文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の大和行幸の詔勅が発せられたことを書いたが、孝明天皇が攘夷親征を決意されたからにはともに戦う兵士およびその兵糧や武器を調達するための資金が必要となる。
「天誅組の変」では先に大和入りして天領*である五條を平定しようと、中山忠光(明治天皇生母・中山慶子の実弟)、土佐脱藩吉村寅太郎、刈谷脱藩松本奎堂・備前脱藩藤本鉄石ら38名の同志が五條に向かい8月17日に五條代官所を襲撃したのだが、尊王攘夷派のやり方に反発する薩摩藩と会津藩とが、討幕に繋がる今回の行幸を阻止しようと手を組み、8月18日に宮中でクーデターを起こしたため、孝明天皇の奈良行幸が、急遽中止されることとなり、長州藩と尊王攘夷派公卿たちは京都から追放されてしまった。そのために天誅組は、皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされ、9月27日に東吉野で壊滅してしまった。
*天領(てんりょう):江戸幕府の直轄領。幕府領、幕領とも言う。

【平野国臣】
この天誅組が大和で過激な行動を起こすことを危惧した公卿三条実美(尊王攘夷派)は、挙兵を中止させるべく平野国臣(福岡脱藩)を大和に送ったのだが、平野が到着したのは19日で天誅組が五條代官所を襲撃した2日後のことであった。
平野は21日に帰京したが、政局が一変した京都にいることは危険なので、但馬に逃れた。
但馬国は小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていて、生野銀山のある生野には代官所があった。生野義挙碑のあるあたりがその代官所の跡地だという。
また生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、薩摩脱藩の美玉三平と連携し農兵の組織化を図っていて、生野代官の川上猪太郎がこのような動きに好意的なこともあって攘夷の気風が強かったようだ。

【北垣晋太郎】
平野は、天誅組を援ける為に、但馬で声望の高い北垣晋太郎と組んで10月10日に生野で挙兵することを計画。
長州三田尻にて保護されている攘夷派公卿の誰かを迎えさらに武器弾薬を調達するために長州に向かい、公卿澤宣嘉を説得し、尊王攘夷派浪士、奇兵隊員らを乗せて長州から播磨に向かったという。そして一行は播磨国飾磨に上陸し、そこではじめて天誅組の敗北を知ることとなる。

【生野義挙絵巻】
平野は、天誅組が潰滅した以上は挙兵を中止すべきだと主張したが、結局、河上弥市(南八郎)らの挙兵強硬派の主張が勝り、11日に生野の手前の延応寺に本陣を置き、その夜に生野の代官所を襲いこれを占領した。

【澤宣嘉】
平野、北垣らは「当役所」の名で澤宣嘉の告諭文を発し、天領一帯に募兵を呼びかけたところ、その日正午には2000人もの農民が生野の町に集まったという。
しかしながら、幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動。
すると13日夜には肝腎要の主将の公卿・澤宣嘉が解散派とともに本陣から脱出。騙されたと怒った農民たちは、戦わずして逃れ、あるいは藩兵に応援して志士たちに銃口を向けることとなったという。
かくして生野での挙兵はあっけなく失敗にて終わるのだが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに、明治維新の導火線になった事件であると評価されている。事件の顛末を見れば、決してそれほど大きな事件であったとは思えない人が大半だと思うのだが、当時幕臣であった福地源一郎が昭和11年に著した『幕府衰亡論』で、天誅組の変(大和義挙)と生野の変(生野義挙)は徳川幕府を倒すきっかけになったことを述べている箇所がある。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで誰でもPC上で読むことができる。

【福地源一郎】
「此の両挙は、東西その期合せず、加うるに烏合の過激党にして、其の数も僅少なりければ、忽ちに幕府より命じたる近傍諸藩の為に追討さられ、旬日を経ずして敗蹟して静謐に復したりき。但し此の両挙は、当時においてこそ、左までの影響なき様に見えたれ、今日よりして深く時勢の変移を察すれば、幕府はこの為に頗る重傷を被りたりと言わざるべからず。世上の人心この敗蹟を憫れむの情は、即ち他日討幕の決意を作興したるものなり。尊王攘夷の名義を以てすれば、政府に抗敵するに兵力を以てするも、世論は之を咎めざるの実証を示したるものなりき。然らば即ち討幕の大火団は、此の一小暴動これが燐寸(マッチ)の導火となって、後日に爆発せりというべき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918535/110
福地源一郎は、「尊王攘夷」を唱えていれば幕府に武力を用いて敵対しても、世論はそれを咎めないことが広く知られるようになっていき、そのことが、のちに幕府が倒れることにつながっていったと述べているのだが、旧幕臣の言葉だけに重たいものがある。孝明天皇が幕府の方針に抗して攘夷親征を決意したことが、想像以上に幕府に大きな影響を与えたのである。

生野の観光を終えて、宿泊先の香住に向かう。
毎年この季節に紅葉を楽しんだ後に、日本海のカニを食べることを楽しみにしているのだが、私がいつも宿泊する所は地元で獲れたカニを安く提供してくれそうな宿で、ここ数年は民宿を選ぶことにしている。今年は庄屋という宿でお世話になった。
あまり高くないコースを選んで別注でタグ付きの茹でガニをお願いしたのだが、なかなか大きなカニを用意していただいて嬉しかった。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html
薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-318.html
薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-319.html
五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html
天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html
天誅組の足跡を追って天辻峠から十津川村へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-444.html
誇り高き十津川村の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-445.html
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。
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