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尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる

前回および前々回の記事で、1928年以降アメリカだけでなくわが国においても、政府や軍部の中枢部にソ連の影響が大きかったのではないかということを述べてきた。

今回はゾルゲ事件の首謀者の一人として昭和16年10月に逮捕された尾崎秀実が昭和17年(1942)3月か4月頃に獄中で執筆した手記を紹介したい。

尾崎秀実を取り調べた宮下弘氏の著書によると、尾崎は10月15日の早朝に逮捕され、正午から取り調べが始まり、先に逮捕されていた宮城与徳*との関係を追及していったところ夕方にはスパイ行為を認めたと書かれている。そして翌日の16日に近衛文麿が政権を投げ出し18日に内閣を総辞職している。尾崎のスパイ行為による逮捕は、近衛にとっては驚天動地の出来事であったに違いない。
*宮城与徳:米共産党員。10月10日に逮捕され、宮城の自供により尾崎秀実やゾルゲソ連のスパイであることが判明した。

尾崎秀実はわずか数時間の取調べで、ソ連へのスパイ行為を自白した点について、取調べで尾崎にはひどい拷問がなされたと書いている人もいるのだが、宮下弘氏は
「わたしはそういうやりかたは性格的にも反対ですし、いやしくも近衛さんの大事な人なんだから、拷問なんぞやりませんよ。」(宮下弘特高の回想』p.216)
と書いている。ということは、どちらかが嘘を言っていることになる。

ひどい拷問があったと書く人は、「尾崎の回想録は特高に書かされたものなので史料価値が乏しい」と信じたいのだろうが、この回想録を普通に読めば、尾崎しか知りえない事柄がかなり詳しく、具体的に書かれており、しかも長くて論旨が明快であり、すでに判明している史実と矛盾することもない。

そもそも尾崎が逮捕された時にはアメリカ共産党員の宮城与徳が逮捕されていて、宮城の自供により、尾崎が諜報活動をしていたことや、尾崎と宮城が会っていたことはすでに特高が把握していた。
宮下弘氏の著書によると、何度も会っているはずの宮城の名前が尾崎のアドレスブックになかったのだが、その点を巧妙に衝いて尾崎を観念させている。ちょっと面白いので、しばらく宮下氏の著書を引用する。

特高の回想

「…あなたがしばしば会っているはずの人物がいる。しかしその人物の名前は、あなたのアドレスブックにもないし、交友関係その他の供述のなかにも出てこない。これはいったいどういうことですか、いうと、尾崎は黙って下を向いて答えない。

そこで、わたしは机を向いて脅しつけたんです。君の論文や何かで調べているのではない。ソ連あるいはコミンテルンのスパイとして、いま君を調べているんだ。日本が戦争している時に、スパイをやっている人間を容赦するわけにはいかんのです! と。
そうしたら、彼はシューンとして、椅子からくずれるように、ずり落ちましてね、真っ青になった。そうして三十分くらい、黙っていましたよ

それから、スパイ、スパイとそうきめつけないでください。ようやくそう言って、椅子に這いあがってね。私はただスパイをやった人間といわれたのでは浮かばれない。私は政治家です。政治家であることをまず認めてください、と言う
そりゃあ、君の内心はどうであったかは知らないが、取調べるほうは君が政治家だから取調べるのではない。君が治安維持法、国防保安法、あるいは軍機保護法に違反しているという、法のタテマエから調べるのだ。だから君が政治家であるというのは君の主観的な事であって、それはそうおもっておればよろしい。とにかく君は自分が検挙されたほんとうの理由を知っているはずだ。君はどうやら観念したように見えるが、どうだ、話さないか、ということで、ここではじめて宮城与徳の名前を、わたしから出したわけです。宮城とはどういう関係か、と。ブーケリッチという人物もわかっているし、背後にいるドイツ人もつかんでいる、と
ま、こういうことでやったのですが、わりあいに簡単でした。」(同上書p.215-216)

宮下氏の文章には誇張もあるだろうが、尾崎としてはこれだけ周りを固められていたら、観念するしかなかったのではないだろうか。尾崎の取調べは途中で宮下氏から高木警部に代わっているが、初日に観念して自供した人物に対しては拷問などは必要ないのではないか。

冒頭に記したように、尾崎秀実は昭和17年(1942)3月か4月頃に手記を執筆している。
尾崎の手記の内容に入る前に、尾崎がこの手記をどのような心境で書いたかがわかる部分を引用しておこう。まずこの部分を読んで頂いて、この尾崎の手記がひどい拷問によって意に沿わぬものを書かされたものであるかどうかを読者の判断に委ねることにしたい。(原文は旧字・旧仮名遣い)

尾崎秀実と娘

「…私を最も苦しめたことの一つは私が是まで普通の社会人として接してきた仲間の人々に対しその完全な好意と善意を裏切らねばならぬ立場にはじめから立っていたことであります。これは専ら私の仕事の特異性に基づくことで客観的には私が平常接触をもつ人々を利用することによって私の主たる仕事が成立つのであります。…それらを利用しそれらから諜報の材料を得ることはコンミュニスト(共産主義者)としての活動に当然内在する筈ではないかとも云い得るところでありましょう。しかしながら、これらの人々のいずれも完全に私を信頼し友誼を以て遇してくれた人々であります。しかも今や事ここに至ると最も惨酷なる形で彼等を裏切りかつ迷惑をかける結果となったのであります。この点の心苦しさから私はなかなか脱却できないので居ります
肉親に対する愛情も私は元来強い方であります。…私に裏切られて突然不幸を与えられた妻や子供が私に尽くす真情には筆舌に云い難いものがあります。それだけに心苦しく感じるわけであります。私にはなお一人の老父と実兄とがあります。これらの人々の心中などを考えることは耐えられぬところでありますから強いて考えないことにして居ります。 …私自身は早くからこの日のあることは覚悟したことでもあり、人間も元来あきらめの良い方でありましたから、実は割合いに落ち着いて居るのであります。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.234-235)

尾崎はこのように、自分を信頼して重要情報を伝えてくれた人々を裏切りかつ迷惑をかけたに心を痛めたことは述べているものの、ソ連にわが国の重要情報を伝えたことについては詫びている訳ではない。しかし許されないことをやっていたことは分かっており、いつかは逮捕されることを覚悟していたのである。
では、具体的にどのような諜報活動をしていたのか。尾崎はこう述べている。

「吾々のグループの目的任務は…広義にコミンテルンの目指す世界共産革命遂行のため 日本における革命情勢の進展とこれに対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報ならびにこれに関する正確なる意見をモスコー*に諜報することにあり、狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にしてその支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛するため 日本の国内情勢ことに政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道しかつ意見を申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるにあるのでありますしたがってこの目的のためにはあらゆる国家の秘密をも探知しなければならないのでありまして、政治外交等に関する国家の重要な機密を探り出すことは最も重要な任務として課せられているのであります。」(同上書p.214-215)
*モスコー:モスクワ(ソ連の首都)

尾崎が逮捕されたのは日米開戦の2ヶ月前であるが、この手記を書いたのは太平洋戦争が始まって日本軍が陸海軍とも連戦連勝の破竹の勢いであった頃である。

シンガポール陥落

日本軍は2月にはイギリスの東南アジアの最大拠点であるシンガポールを陥落させ、3月にはバタビア沖海戦でも連合国に圧勝。ジャワではオランダ軍を、フィリピンではアメリカ軍を、ビルマのラングーンではイギリス軍を追い出し圧倒的に強かった。
このような時期に尾崎が、この戦争がその後どうなるかについて述べている部分は非常に興味深い部分である。

「…日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によって決するのではなく 枢軸全体として決せられることになるであろうと思います。日本は南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうが その後の持久戦により消耗が軈(やが)て致命的なものになって現われ来るであろうと想像したのであります。しかもかかる場合において 日本社会を破局から救って方向転換乃至体制的再建を行なう力は日本の支配階級には残されていないと確信しているのであります。結局において身を以て苦難にあたった大衆自体が自らの手によって民族国家の再建を企図しなければならないのであります。
ここにおいて私の大雑把な対処方式を述べますと、日本は破局によってその不必要な犠牲を払わされることなく立直るためにも、また英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行ない、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。…」(同上書p.224-225)

このように尾崎は、日本軍が連戦連勝でいた時に日本軍の敗北を予想し、その後はソ連の傘下に入り社会主義国に転換すべきであると述べている。
その一方、日本が英米と戦って敗れたとしても簡単に敗れては好ましくないとも言っている。この点が重要な部分である。

「…私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのでは甚だ好ましくないのであります。(大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見通しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考えました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧さられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を『東亜新秩序』創建の絶対要件であるということをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。…」(同上書 p.228-229)

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以前このブログで書いたが、昭和16年6月に日本の同盟国であったドイツがソ連に侵攻すると、当時の近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする松岡洋右外務大臣と近衛文麿首相との間で閣内対立が起きた。
近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認したのだが、この「南進論」の論陣を張ったのが尾崎秀実らのグループである。
「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉は、「南進論」を進めるために尾崎をはじめとする近衛内閣の「左翼」ブレーンたちが造ったスローガンなのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-223.html

もしこの時にわが国が北進を選択していれば、ソ連は日独に挟撃されて息の根を止めていただろう。それはソ連にとって最悪の選択だ。
ソ連にとって望ましいのは、世界大戦で列強同志を戦わせて消耗させ、将来革命を仕掛けて共産圏を拡大させる条件を整えることである。
そこで、今まで欧米諸国の植民地であった南方諸民族を日本が解放するという崇高なストーリーを描き、日本に欧米諸国と戦わせて欧米勢力を南方諸国から追い出させる。しかし日本は資源不足のためいずれ消耗戦に耐えられずに敗北する。そして南方諸民族は再び西欧諸国の再植民地化を選択しないようにすれば、いよいよ世界を共産主義化するチャンスが生まれると考えていたのではないか。尾崎はこうも書いている。

「…私達は世界大同を目指すものでありまして、国家的対立を解消して世界的共産主義社会の実現を目指しているのであります。従って我々がソ連を尊重するのは以上の如き世界革命実現の現実過程に於いてソ連の占めている地位を意義あるものとしての前進の一里塚として少なくともこの陣地を死守しようと考えているにすぎないのであります。…社会主義は一国だけで完全なものとして成立するものではありません。世界革命を待って始めて完成するのであります。全世界に亘る計画経済が成り立って初めて完全な世界平和が成り立つものと思われます。…」(同上書 p.232-233)

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前回の記事で、スターリンの第7回コミンテルン大会における演説の言葉を紹介した。
「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。…」
ゾルゲや尾崎をはじめとする、世界に散らばったソ連の工作員たちは、列強の国力のバランスをはかりながら、このスターリンの『砕氷船のテーゼ』を忠実に実現させようと動いていたのではなかったか。

実際に第二次世界大戦後に、「大東亜共栄圏」にあった国々が西洋からの独立を果たしている。それは我が国が白人勢力を一時的にせよ追い払わなければ実現しなかったことは事実ではあるのだが、一部の歴史家が言うように第二次世界大戦の真の勝利者は南方の西洋植民地解放を実現したわが国であるかのような考え方は、この時代の本質を衝いているとは思えない。
わが国に南方諸民族を解放させることによって我が国の国力を消耗させ、わが国の敗戦の後でそれらの国を共産化させ、あわよくばわが国も共産化させるというスターリンの謀略に、わが国がまんまとかかってしまったというのが真相ではなかったか。
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ゾルゲ、尾崎らが一斉検挙に至った経緯について

前回の記事で尾崎秀実自身がソ連のスパイ活動をしていたことを記述した獄中手記の文章を紹介した。この尾崎秀実を自白させたのは特高第一課係長であった宮下弘と言う人物だが、特高はその前に、アメリカ共産党員の宮城与徳を自白させてゾルゲや尾崎がスパイ活動をしているとの供述を引き出している。
ところが、当時この宮城与徳という人物については捜査線上になく、北林トモというアメリカ共産党員の取調べで浮上してきたという。また、北林トモも当時は捜査線上になかった人物であったが、宮下氏が日本共産党員の伊藤律の取調べした際に名前が出てきた人物なのである。

ゾルゲ事件記事

スパイというものは証拠を残さずに活動し、死んでも秘密を守るのが当たり前だと思うのだが、捜査線上にもなかった人物からこれだけのスパイグループの情報をどうやって引き出したのかと誰しも思うところだ。実は特高は、宮城与徳が自供するまでは、ゾルゲ諜報団について何も把握できていなかったのである。
前回の記事でも尾崎秀実を自白させる場面を紹介したが、わずかな糸口から一斉検挙に結び付けるだけの情報を引き出した宮下弘氏の証言を記した『特高の回想』という本があり、これがなかなか面白い。
今回はこの本の記述を引用しながら、ゾルゲ事件が発覚した経緯について記すことにしたい。

ゾルゲ事件の発端となる証言は伊藤律(いとうりつ)という人物を宮下氏が取調べしたときに出てきている。

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伊藤律という人物は昭和8年(1933)3月に日本共産党に入党して2ヶ月後の5月に逮捕され、昭和10年(1935)に懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けている。昭和12年(1937)に日本共産党の再建運動を開始し、昭和14年(1939)に再度逮捕されて、翌15年5月に特高1課に着任したばかりの宮下係長の取調べを受けている。伊藤は前回の逮捕の時も、宮下氏の取調べを受けており、二人は面識があった。
伊藤は宮下係長に、転向する(共産主義を捨てる)ので保釈して欲しいと持ちかけるが、宮下氏は転向したとは認めないと答える。そこで伊藤は保釈してもらったら宮下氏に奉公すると持ちかける。その場面から引用する。

「…伊藤律は、いや、出たらきっとご奉公します、とそういうことを言ったんです。宮下さんのために働きますよ。…君が労働者出身なら、もっとザックバランに、君に働いてもらうようにしかけたかもしれない。しかし君がぼくのために働くと言ったが、それは党に被害を与えるようなことになっても働くという意味か、と訊ねたら、いや私はタマシイは売りません、と律は言った。…

 いや、それじゃあやっぱり出せないな。ぜんぜん期待しない。かならずためになると言ったって、将来を担保にした話で、そんなことで、外に出してもらいたいと言っても、それはダメだ。そう突っ放しておいて、すこし間をおいてから、言った。ぼくが君を外へ出せるような話をしろ、と。あるだろう、こちらから訊かれないことで、話をしてみたらどうか。君は長いあいだ、党の運動をしてきていろんなことがあったはずだ。よおく思い出してみたらどうだ。われわれがあっとおどろくような話があるはずだ、とね。

 そうしたら、律はじーっと考えていたが、じゃあ、こういうのはどうでしょうか、と話したのが北林トモのことです。
 共産党ばかりあなたがたは問題にしているが、アメリカのスパイについて注意していない。シナ事変は米英の後ろ楯によって頑強な抵抗がおこなわれているじゃありませんか。アメリカのスパイがいますよ。調べてごらんなさい、と北林トモのことをしゃべった
。 …北林がもしアメリカ共産党員だったら、帰国後は日本共産党員として働かねばならない。しかし北林は日本の党と連絡をつけ、日本の党に属して活動しようとしている様子はなかった。だから、その北林トモをアメリカのスパイだとおもう、と伊藤は言った。」(宮下弘特高の回想』p.182-183)

伊藤は知人に紹介されて北林に会ったことはあるが、その時はアメリカ共産党の話を聞かされ、また三方の道路があって家の中から三方の道路が見えるような家を探すことを頼まれたことがあった程度で、活動上の接点はなかったという。伊藤自身は北林がどのような重要人物に繋がるかについては何も知らなかったと思われる。だから、軽い気持ちで北林の名前を出したのではないか。

実はこの北林トモという女性がゾルゲ事件の発端になるのだが、宮下氏は伊藤律の話を聞いて、これはコミンテルンのアメリカ支部、つまりはソ連のスパイだと直感したという。もちろんこの段階では宮下氏も、この女性がゾルゲや尾崎に繋がるとは考えていなかったが、宮下氏は上司の中村特高課長や検事局の了解を得た後、今後「男と男のつきあいだ、君がなにかこれは宮下に聞かせておきたいという情報があったら聞かせろ、タマシイは売る必要はない」といって伊藤を釈放したという。

その後伊藤律は満鉄調査部に復職し、それ以降何度か宮下氏は伊藤と会っているが、宮下氏がゾルゲや尾崎に繋がる情報を得た訳ではなかった。

戦後に話が飛ぶが、日本共産党が再建の動きが始まると伊藤律はいち早く入党し、徳田球一書記長の片腕として党の重職を担った。しかしその後、伊藤律がこの時に北林トモの名を供述したことがゾルゲ事件発覚の発端になったことがGHQのレポートで知られるようになり、仲間の名を出した伊藤律は特高のスパイであったという説が拡がって、昭和28年(1953)に伊藤は日本共産党を除名されている。

ところが、宮下氏は著書の中で「他所へは言わないものをわたしのところへもってくるんだから、一般的にはスパイかもしれんが、左翼の側の裏切りという意味でのスパイというのはあたらない。」(同上書p.087-188)と述べている。
またゾルゲが活動していた当時のモスクワの参謀本部諜報局極東課で暗号電文の翻訳を担当していたM.I.シロトキンが1964年に書いた回想録にも、「伊藤律は『ラムゼイ』(ゾルゲのコードネーム)の諜報網と、何の関係も持っていなかった」と書かれているという。
伊藤律がスパイとされ日本共産党から除名されたことは、持病の糖尿病が悪化していた徳田球一書記長の後継争いのゴタゴタに伊藤自身が巻き込まれた中で読む必要があるのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%BE%8B#cite_note-71

話を元に戻そう。宮下氏は伊藤律の話を聞いて、特高の資料の中で「北林トモ」の情報を探そうとした。特高には米国共産党所属の日本人の氏名だけをカタカナのタイプで打った名簿らしいものがあり、その中に「北林トモ」の名前を見つけて宮下氏は興奮したという。
北林の上には当然ソ連に繋がる外人がいるに違いないと考えたが、防諜は特高の外事課の担当であったため、まず外事課が北林トモの調査をすることになった。
しかし、外事課は真剣に調査した様子がなく、1年以上たって「何にも動きがなく、スパイの証拠を得られない」と回答してきた。このことによほど腹が立ったのだろう。宮下氏はこう述べている。

もしゾルゲ事件の検挙が半年以前におこなわれていたとしたら、シナの背後にいるのが米英ではなく、つまり、国共合作した蒋介石を援助して日本と戦わせているのが、米英ではなくソ連だ、ということがはっきりわかったでしょうから、対米英宣戦布告などというバカげたことは、あるいは起こらなかったかもしれない。そう考えると、外事課での1年余の遅れは、やはりちょっと取り返しがつかない気がしますね。」(同上書p.195)

宮下氏の本には書かれていないが、この1年余の間に独ソ戦開戦(1941年6月)があり、わが国は4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする「北進論」と、南方地域へ進出し資源を確保しようとする「南進論」の閣内対立が起きる。
そして9月6日の御前会議で、日ソ不可侵条約を優先する「南進」が正式決定されたのだが、その直後に満州国境にいたソ連軍は一斉にヨーロッパに移動し始め、独ソ戦線に向かったという。このことは、この御前会議の決定がソ連に筒抜けになっていたことを意味していた。

この重要機密をソ連に流したのはいったい誰なのか。特高は尾崎秀実が怪しいと目をつけていたようだが、彼がソ連のスパイである証拠を掴んでいたわけではない。確たる裏付けなしに尾崎を検挙しても、もし取調べが長引くと、他の被疑者が逃亡したり証拠を湮滅する可能性がある。
ほかに田口右源太という怪しい人物がいたが、最初の検挙者は、「三人のうち、もっとも共犯との連絡の機会の少ないものでなくてはならない。それには外事課が長期間張り込んで動きのつかめなかった北林トモがいいだろう」(同上書p.196)ということで、最初に北林を検挙することに決定したという。

北林トモ

そういう経緯で和歌山県粉河町にいた北林トモを検挙して東京へ連行し、麻生六本木警察署に留置したのだが、北林は第一回目の取調べでは黙秘したものの翌日の取調べでは自分から語りだしたという。宮下氏は著書にこう述べている。

「北林トモを麻生六本木署に留置したのはまったくの偶然ですが、北林は、宮城与徳が麻布に住んでいたものだから、てっきり宮城がここに検挙されていて、それで自分が逮捕されたのだとおもったのですね。それで自分から宮城の名前を出せば、自分の方が疑いは軽くなるとおもったのでしょう。『宮城さんはスパイかも知れませんが、わたしはスパイではありませんよ』と先走っちゃったんですね

宮城なんて名前は、こちらにはわかっていない。知らない。しかし高木警部補はなにくわぬ顔をして、『その宮城のことを訊きたいんだ』、と。…

アメリカ共産党に同時期に入党したこととか、亭主はなにも知らないのだが、宮城とはひじょうに親しい間柄になったとか、そういうようなことも話した。宮城が下宿している先の細君とおかしいということで、嫉妬していたらしい。それと宮城が先に捕まっているとおもいこんでいるから、宮城が簡単に自分の名前を出したことを恨む気持ちにもなっている。そういう両方の感情から、宮城のことはあからさまに、なんでも話しました。…


宮城与徳

こうして宮城与徳という人物が浮かんできて、まえにいった北林トモの名を見つけた米国共産党日本人部の名簿を調べると、カリフォルニア在住の党員の中に名前が出ている。これだ、というので、宮城の住んでいる家を十日間ほど張り込んで、出入りする人間をつかんで、それから逮捕した。
 家宅捜査したら、文書がいっぱい出てきました。宮城は絵描きだが、絵の道具よりも、いろんな調べたものがいっぱいある。官庁が調査機関に委嘱したような調査データなどもある。で、宮城は、押収されたこれらの証拠から、スパイであることを認めざるを得なかった。」(同上書p.207-208)

宮城遺作集

宮城与徳という人物のことはゾルゲ事件のことを調べて知ったのだが、東京オリンピックの翌年の1965年1月19日にソ連が「ソ連最高会議幹部会令」を出して、ゾルゲの諜報グループの活動とそのソ連への功績を認め、宮城へ勲章を授与することを決定している。(尾崎秀実も同様の決定があった。)
しかし長いあいだ宮城の親族の居所がつかめず、勲章が贈られないまま1991年12月にソ連が解体されてしまったのだが、数年前に宮城の親族が名乗り出たようだ。

宮城与徳受賞

The Voice of Russiaのホームページの2010年1月14日付の記事で、親族の方に勲章が贈られている写真と記事が掲載されている。
http://japanese.ruvr.ru/2010/01/14/4595962.html

ソ連が「第2等祖国戦争勲章」を授与する対象となった宮城与徳という人物はわが国でほとんど知られていないのだが、いったいどのような活動をしていたのか。
宮城は取り調べに際して最初は仲間のことについて固く口を閉ざしていたのだが、ある出来事を契機に考え直してすべてを自白し始めることになる。その話を書き出すとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。

<つづく> 
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尾崎・ゾルゲらの一斉検挙とその後

前回の記事で、北林トモの供述に基づき宮城与徳が逮捕されたのち、宮城は仲間のこと等について固く口を閉ざしていたことを書いた。では何がきっかけで、宮城が供述を始めることになったのか。
宮下氏の著書にはこう書かれている。

特高の回想

「で、宮城は取調べで、スパイであることは認めざるを得なかったのだが、しかし仲間については口を割らない。言わなければならないときは死のうと申し合わせをしていた、とあとになって言っていたが、宮城は築地警察署で取調べを受けているとき、二階から飛び降りて自殺しようとした。柘植警部補と酒井という巡査が二人で取調べていたのですが、どちらも屈強な体格というわけではないし、とっさのことで、あわてて組みついたが止めきれなかった。宮城は窓から飛び降りたが、樹にひっかかってほとんど怪我しなかったけれども、宮城を追って飛び降りた酒井巡査は大腿部骨折で大怪我をしました

 この自殺未遂のあと、宮城はすっかり心境の変化をきたしたのでしょうね。自分は死のうと決心して飛び降りたのだが、警察官はそうではないだろう。それが、自分を追って飛び降りた。日本の警察官は生命がけで職務にあたっている、自分は考え直しました、と自白しはじめた。

  尾崎秀実とわかる人物も、太ったドイツ人とか、大きなドイツ人とかも出てくる。外事課には外人のリストがありますから、そこで宮城の供述に出てくるそれらしい外人をあたって、写真で宮城に確認させる。ブーケリッチもクラウゼンもゾルゲも、そうして割り出していったわけです。宮城は、尾崎の家には尾崎の娘の絵の先生として行っていることもしゃべった。」(宮下弘特高の回想』p.209-210)

このように、ゾルゲ事件は特高がゾルゲ周辺に網を張っていて、その供述を得て一斉検挙になったわけではなかったのである。
もし伊藤律が、アメリカのスパイだと思っていた北林トモの名前を出さなければ、もし北林トモが麻布六本木署でしゃべらなければ、また宮城が取調べ中に飛び降りて巡査が大怪我をするようなことがなければ、おそらく解明されることはなかった事件だったのだ


かくして、この事件が大がかりなスパイ事件である事がはっきりしてきたのだが、尾崎は近衛文麿首相の側近で内閣の嘱託であったし、ゾルゲもオット駐日ドイツ大使に信頼され、大使館情報官に任命されていた。ドイツは日本の同盟国であり、一斉検挙をするとなると内閣だけでなく、わが国とドイツとの友好関係にも重大な影響を与えることになる。
宮下氏は、こう記している。
「…これを一斉検挙でやってよいか、それはわたしの一存ではいかない、とは考えていました。

 それでも、ぐずぐずしていれば、戦争の命運にも関わる大事件をやりそこなうだろう。だから、まず尾崎をやってみて、そこで確かめてからゾルゲをやる、ということにした。尾崎のほうだけなら、まえに論文で引っぱってはどうか、ということもあったんだし、警視庁から逮捕するといえば、すぐ令状は出したでしょう。だから尾崎を検挙するのは、近衛内閣だったからといって、そう苦労したとはおもえない。問題はやっぱりドイツだったですね

 それで、外人をふくむ一斉検挙はダメになりました。あせったですよ。取調べだけからでは証拠が出てこないでしょうし、ゾルゲにドイツ大使館に逃げ込まれたら、ちょっと手が出せないですからね。ゾルゲはナチスの在日代表だったし、大使よりも実力者だった。けっきょく、尾崎を検挙することになったわけです。」(同上書 p.213)

尾崎を検挙したのは10月15日だが、その日に尾崎がスパイを認め自供したことは前々回の記事で書いたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-280.html

ところが、尾崎が自供してすぐにでもゾルゲを逮捕したかったにもかかわらず、なかなか逮捕令状が出なかった。宮下氏はこう記している。

「宮城の供述でゾルゲが浮かんだとき、逃亡されるおそれがある、すぐにも彼を逮捕しようとやっきになったのですが、検事局の方では、宮城の供述だけではあぶない、もうひとり、というので尾崎を検挙して取調べを急いだわけですから

  が翌日になっても、なかなか令状が出ない。たまりかねて、わたしは中村登音夫検事に電話で怒ったんです。ぐずぐずしていると、これはせっかくの事件を台なしにしてしまいますよ。ゾルゲの検挙は、一日も早く、一時間も早く、やらなければダメです。中村思想部長検事相手に電話でガンガンやっていたら、近衛内閣が総辞職です。これが10月16日ですね。司法大臣も誰に代わるかわからないから、令状など出せない、ということで、つまづきました。こちらは、内閣が代わる、司法大臣が誰に代わる代わらない、という以上に、日本の命運に関わっている問題なんだ、と激しくやりあっていたら、司法大臣は留任ということになって、令状をやっと出してくれました。それ! というので、16日にゾルゲを検挙した。東条内閣の発足は18日だったのですから。」(同上書 p.217)

かくしてゾルゲは16日に検挙されたのだが、この日に近衛文麿が政権を投げ出すことになるとは特高にとっては想定外のことであったろう。もし司法大臣の留任が決定していなければとてもスピード検挙は不可能であったし、東條内閣の発足を待っていては、ゾルゲは安全な場所に身を移していたことだろう。

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ゾルゲの取調べは特高の外事課が担当したので、どういうやり取りがあったかはあまり書かれていないが、ゾルゲがスパイであることを認めた瞬間について、宮下氏はこう書いている。

「…ゾルゲがおちたときは、なかなか劇的だったといいますからね。着ていた上衣を脱いで、椅子に叩きつけて、敗けた、日本の警察にはじめて敗けた、と。それからぜんぶ供述した。そういう報告が外事課から刻々にきて、やった、勝った、ということですね。当時流行していたナントカ節ふうの歌詞をわたしがつくって、振付を中村課長がやって、外事課と合同の祝宴の席で歌って踊りましたよ。
『…やおらゾルゲは立ち上がり、ナチの上着を投げ捨てて、なかは真赤だ、敗北だ、日本警察、勝ちました…』」
 わたしは神や仏にたよったり、こじつけたりするのは性格的にきらいですが、しかし、このゾルゲ事件は、そもそも最初の糸口から全力で取り組み、これを勝利的に終結させることが出来たのは、神の加護であった、とおもいました。まあ特高冥利に尽きる、ということですね

 東条首相が、これは金鵄勲章ものだ、と言ったと聞きましたが、そう聞いただけで、金鵄勲章もなにももらわなかった(笑)。わたしは内務大臣から呼ばれて話を聞かれて、百円もらいましたが。それだけです。」(同上書p.229)

金鵄勲章も何も貰わなかったと述べた後に宮下氏が笑っているのは、終戦直後の昭和20年(1945)10月4日に治安維持法とともに特高が廃止され、在籍者全員が罷免されたことを知る必要がある。
ゾルゲ事件の時に宮下氏の上司であった中村特高課長は、終戦当時は厚生省に勤務していたためにその時点では職を失うことはなかったがが、後にゾルゲ事件に関連した者として公職追放されたという。

以前このブログで、終戦直後から3年間にわたりGHQの中でわが国の占領政策の中心を担っていたのは民生局(GS)という部署であり、ここにはニューディーラーと呼ばれる左派系の人物がかなりいて、日本共産党が占領軍を「解放軍」とよび、次々と繰り出すGHQの施策を歓迎していた時代である。宮下氏らが苦労して捕えたゾルゲ事件の残党や日本共産党の幹部は終戦直後に釈放され、一方公職追放で政官財の有力者を中心に20万人以上が追放されて、特に教育機関やマスコミ、言論などの業界で、いわゆる『左派』勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長することとなり、今もその影響を少なからず引き摺っていると考えられる。この公職追放を推進した中心人物はハーバート・ノーマンだとされているが、この人物はソ連のスパイであったという説が今では有力である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-246.html

話を宮下弘氏の話題に戻そう。
宮下氏は終戦当時富山の特高課長だったが、職場を去っても退職金も恩給もなかったという。職を失って東京に戻ると家は空襲で全焼しており、本や資料を預けておいた親戚の家も焼けていた。しかたなく夫人の実家の静岡県磐田郡豊浜村で生活しようとしたが悲惨な生活だったようだ。

「豊浜村にも、戦時中から伝手をたよった疎開者がずいぶん入っていましてね。疎開者というのは嫌われるんですよ。百姓をしている家内の兄貴の家の納屋のような小屋を借りました。わたしも家内も子供たちも、みんな足を皮癬(ひぜん:疥癬)でやられていた。あれは栄養分をとらないと癒らないんです。顔は栄養失調で黄色くむくんでいる。…若干の貯金があったのでやっとくいつないだけれども、そのうち預金封鎖で、五百円生活です。
 百姓しようにも、農地改革だというので、よそ者に耕地を貸してくれるような者はいない。漁師は漁業組合で鑑札を出していて、やっぱりよそ者は締め出す。役場なんていったって、何人も働いているわけじゃない。小さな村には、はいりこみようがないんです。」(同上書p.261)

仕方なく家族を豊浜村に残して、単身で東京に戻って鉄道電気工事の仕事に就く。宮下氏は敗戦後も絶対にヤミ物資を買わないという主義だったので、その頃は栄養失調で、歯もぜんぶガタガタになって、痩せこけていたという

そして昭和24年(1949)の4月ごろに宮下氏のところに占領軍のある部署の者が訪ねてきた。どうやらゾルゲ事件について協力がほしいとのことだった。当時の上司であった中村課長も呼ばれていた。

宮下氏はこう述べたという。
わたしは特高警察官として長い間働いていたために、あなたがたの命令で罷免されて、以後、政治には絶対タッチしてはならぬことになっている。おたずねのことに答えるのは、これは政治にタッチすることになるとおもうのでお断りする。」(同上書p.231)
あまり意地を張らないで教えてほしいと頼まれて、何が知りたいのだと聞くと、どうやら彼らはゾルゲや尾崎とスメドレー(アメリカ人ジャーナリストで中国共産党軍に従軍して取材活動をした社会主義者)との関係について調べているようだったので、宮下氏は参考になりそうな人物を一人教えたという。

ウィロビー

以前このブログで書いたが、GHQの参謀第二部(G2)は日本の司法省刑事局の『ゾルゲ事件資料』を押収していて、その資料に興味を抱いたウィロビー部長がそのレポートをきっかけにゾルゲ諜報団とアメリカとの関係を調査し、ワシントンにレポートを送付した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-236.html
そのレポートの中でソ連のスパイであると書かれたスメドレー女史がこの内容に抗議し、マッカーサーを名誉棄損で告訴すると猛反発したのだが、宮下氏や中村課長ら特高メンバーの協力を得て、スメドレーの抗議は却下されたのだという。
その後、ウィロビーらの努力によりアメリカでもゾルゲ事件が知られるようになり、ゾルゲ・グループが極東におけるソ連の支配をその究極の目的にしていたことがようやく認識されるようになった。

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ソ連は終戦後19年間もゾルゲ諜報団の存在を否定していたのだが、スターリンを批判したフルシチョフが失脚した直後に、ソ連はゾルゲに対し最高の国家勲章を贈り、肖像入りの記念切手まで発行している。また、前回記したとおり、尾崎秀実にも宮城与徳にも勲章の授与が決定されている。
ソ連が勲章を与えた人物であるという事は、普通の日本人の立場からすれば自国をソ連に売ったことを意味するのだが、どういうわけかわが国で、ゾルゲや尾崎や宮城のことを「反戦平和の闘士」と書く人が少なからずおられるようだ。

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たとえば、東京都府中市の多磨霊園にはゾルゲの墓があり、そこには「戦争に反対し世界平和のために命を捧げた勇士ここに眠る」と刻まれていて、その横には尾崎や宮城ら同志の名前を記した碑があるという。
http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-sonota.htm#sorge

スパイ・ゾルゲ

また2003年にはゾルゲや尾崎を「反戦平和の英雄」として描いた映画「スパイ・ゾルゲ」(篠田正浩監督:東宝)が製作され全国で上映されている。

このように、わが国をソ連に売ろうとした人物を英雄扱いする日本人がいる一方、ソ連のスパイを苦労して摑まえて国を守ろうとがんばった人物が、戦後は犯罪者のように肩身の狭い思いをして生きなければならなかった現実があった。そこに戦後のわが国の病理がある。
世界の共産革命を夢見てわが国を中国との戦争に引き摺り込み、アメリカと戦わせてわが国を悲惨な敗戦に導いたゾルゲの仲間が、反戦平和の英雄だとか闘士だとどうして言えるのだろうか。

戦後68年が過ぎ、ソ連が崩壊してもそのような歴史観が続くのは、終戦直後のGHQによる公職追放のあとを埋めたのがどのような人々であったかということとおそらく関係があるのだろう。
教育界、言論界やマスコミや映画界などでは、渡部昇一氏の言う「敗戦利得者」の多くが、戦後取得した権益にしがみつき、時には外圧まで利用して、未だに国民を洗脳し続けているのではないのか。

わが国の教科書やマスコミなどで広められている近現代史は、つまるところ「戦勝国にとって都合の良い歴史」であり、その多くが「コミンテルンにとって都合の良い歴史」であると考えて良い。実際には、戦後GHQやわが国の「敗戦利得者」が隠し続けてきた「戦勝国やコミンテルンにとって都合の悪い史実」が数多く存在し、そのような史実を丹念に追っていかなければ、「本当は何があったかのか」が見えて来ないのだと思う。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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