島原半島の中央部に活火山の雲仙岳があるが、この山は三岳と呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳ほか、総計20以上の山々から構成されている。
平成3年(1991年)の5月に、雲仙岳の三岳の一つである雲仙普賢岳に溶岩ドームが出現し、それが日々成長したのち小規模な火砕流が頻発するようになり、6月3日には溶岩ドームが崩壊して大規模な火砕流が発生してしまう。ネットではその時の動画が紹介されている。
https://youtu.be/r0gFFJUsIrE
この災害は、地元消防団員や警察官、農民をはじめ、報道関係者など43人の犠牲者が出た大惨事であったのだが、歴史を紐解くと、江戸時代中期にもっと大きな災害が雲仙岳で起こっている。
東京大学地震研究所図書室のサイトに、に起きた「島原大変」に関する『大日本地震史料 巻之十』の記録が多数紹介されている。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/meta_pub/G0000002erilib_L001001
「島原山焼山水高波一件」という史料には、寛政4年(1792年)に「島原大変」が起こる前に何度も地震が起きていたことが記されている。文中の温泉嶽は雲仙岳で、前山は眉山、海嘯は津波を意味している。
「同(寛政)四年一月十八日戊午、肥前国温泉嶽ノ普賢山、鳴動シ、地頻ニ震動ス、二月四日穴迫ノ地鳴動シ、石砂ヲ渓谷ニ崩落シ、九日ニ至リ、火気ヲ発シ、二十九日、蜂之窪又火ヲ噴キ、四月一日ニ及ビテ、前山崩裂シ、泥水奔流シテ海に入リ、海嘯之ニ加ハリ、島原城下数十村ヲ蘯尽ス、肥後国熊本ノ海辺モ其害ヲ被レリ、」(『大日本史料巻之十』p.445)
また、「筆のすさび」という史料には、
「寛政四年壬子二月、肥前国雲仙嶽、大に火燃て、数日地震夥しかりし、同四月朔日の夜戌刻過、雲仙嶽の下の前山といへるが、島原城の上に当たりたる山、二ツに敗れ、火出で、同時に島原海中よりも火燃出、津浪、山のごとく湧上り来り、島原城下の町々、其外島原領の村々、佐嘉領の南海に臨める村々、天草島の海浜にある民屋、皆同時に没溺し、島原にて死亡の人、凡三萬余。肥後にても二萬余人といへり。其外諸国、皆それに準じて、夥しき死亡なり。其夜、海中に小き島七八十も出現したりとぞ。」(『大日本史料巻之十』p.460-461)

この「島原大変」で上海にいくつも小島が出来て、「九十九島(つくもじま)」と呼んでいる。被害者数は過大に記しているようだが、周辺地域で津波被害が出たという記述はそのとおりであろう。

国土交通省九州地方整備局がまとめた『日本の歴史上最大の火山災害 島原大変』というレポートがネットで公開されていて、その表紙に眉山山体崩壊前と崩壊後の絵が描かれている。今の眉山の形状を調べると、この絵は決して大げさではないことがわかる。
http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/wlib/pdf/010101a.pdf

上の画像はWikipediaに掲載されている雲仙普賢岳(左)と眉山(右)の写真だが、眉山の崩壊は雲仙普賢岳の崩壊よりもはるかに大きく、大量の土砂が海に流れ込んで、海岸線が約800mも押し広げられたという。
国土交通省のレポートの「まえがき」にはこう記されている。
「寛政四年四月一日(西暦1792年5月21日)、島原城背後にそびえる眉山の東側が大きく崩れました。山体崩壊です。この崩壊は、普賢岳の噴火活動中に起きた地震に因って引き起こされました。崩壊により大量の土砂が有明海に流れ込み、大きな津波を引き起こしました。津波は有明海沿岸の村々を襲い、およそ1万5千人の人々がなくなりました。これは『島原大変肥後迷惑』として、日本の火山災害の歴史において最大の死者を出した災害として記憶されてきました。」
http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/wlib/pdf/010101a.pdf
このレポートによると、寛政4年に崩壊した眉山は、もともとは3000年~5000年前に造られた溶岩ドームで、島原半島の台地は何度も山体の形成と崩壊を繰り返して作られたのだという。「島原大変肥後迷惑」という名前は、島原で眉山が山体崩壊を起こし(島原大変)、それに起因する津波が島原だけでなく、対岸の熊本(肥後)にも大きな被害を出す原因となったことから、そう呼ばれるようになったという。
この津波は「日没後、しかも大潮の満潮時近くに発生」し、「肥後・天草の沿岸各地を襲い…津波の遡上高は20~50mに達したと伝えられ、多くの家や田畑が波にさらわれました。これにより島原半島側でおよそ1万人、熊本県側でおよそ5千人の、あわせて1万5千人もが津波に流されたり土砂に生き埋めにされて亡くなりました」(p.13)とある。死因別には分類されていないが大半が津波の犠牲者のようである。

この被害者の数は、わが国の火山災害史上最多となるのだそうだが、ではどの程度の土砂が有明海に流れたのであろうか。国土交通省の推定によると、眉山の崩壊土量は3.25億㎥で、海に流れ込んだのは2.76億㎥というのだが、単純に考えると、一辺が651mの立方体の土砂が一気に海に流れ込んだことになる。
この衝撃で津波が発生して島原の対岸の肥後や天草に襲い掛かり、肥後の海岸で反射した返し波が、再び島原を襲ったと考えられている。
「島原大変」のような山体崩壊によって津波が発生することは多くなく、わが国では同様な事例は、江戸時代に北海道の渡島大島と駒ケ岳で起きたことが記録に残されている。

渡島大島は離島である上に無人島であるため、噴火活動についての記録はないが、寛保元年(1741年)八月二十七日に寛保岳の大噴火があり、噴火の翌日に、対岸の江差から松前にかけて大津波が襲い1467人の死者が出たという。
最も大きな被害がでたのが上ノ国町の石崎地区で、50件ほどのあった家屋が全戸流出し、住民の生存者は1名だけで、他は全員溺死したと伝えられている。

『函館市中央図書館デジタル資料館』で『北海道旧纂図絵 巻7 』を閲覧すると、この津波の絵が描かれているページを見つけることが出来る。
http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/reservoir/516eb5e51a5572427000144a
津波の原因について、気象庁は山体崩壊説を採っているようだが東大地震研究所は地震説を採っているという。渡島大島の写真を見ると、北側に大崩壊した形跡があるのだが、東大地震研によると、その山体崩壊のエネルギーでは寛保元年の津波の大きさを説明できないのだという。しかしながら、寛保岳の噴火の翌日に地震があった記録がないので、どちらが正しいかはよくわからない。

駒ケ岳については、寛永17年(1640年)に起きた噴火の際に山頂の一部が崩壊し、大小の岩塊が海に流れ込んで津波が発生したとされ、津浪が対岸に押し寄せて、700名余りが犠牲となったとされる。
徳川幕府の公式記録である『大猷院御実紀 巻四十四』の寛永十七年六月二十九日の条にこの記録が出ている。「大猷院」というのは、三代将軍徳川家光の法号である。
「この月十三日松前志摩守公廣が所領戸勝(十勝)より亀田にいたるまで、逆波のために打ち破られ、民家悉く漂没す。土民幷に蝦夷等五百余人溺死す。同日内浦嶽もえ出て。灰燼虚空にみち。十四十五両日の間すべて闇夜のごとしとぞ(紀年録。)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991117/300
テレビなどで解説される津波の解説はほとんどがプレート境界型地震の話で、山崩れによって津波が発生する可能性に言及することが少なすぎると考えるのは私ばかりではないだろう。地震が多く火山の多いわが国は、他国よりも山崩れによる津波が発生する可能性が高いと思われるし、もし起きた場合の被害は決して小さくないはずだ。しかしながら、その対策がほとんど何もとられていないのである。
近年で世界最大級の津波が、アメリカアラスカ州のリツヤ湾で1958年7月8日に記録されているが、津波の原因はマグニチュード7.7の地震により引き起こされた山体崩壊で、津波の高さは最大で524mに達したという。興味のある方は、次の動画が参考になる。
https://youtu.be/cj2IyBzJu0k

リツヤ湾を地図で確認すると、湾の入り口は狭く奥行12km、幅3kmと細長い湖で、周囲は山で囲まれている。
わが国で山体崩壊による津波が起きた雲仙岳のある有明海・島原湾も、駒ケ岳のある内浦湾も、リツヤ湾と同様に、周囲は山や陸地に囲まれて湾の入り口は比較的狭くなっている。このような地形は、普段の海は穏やかだが、もし山体崩壊や地盤沈下などで津波が発生すると、そのエネルギーは対岸に向かい、その帰り波はまたその対岸に向かうことになり、長い間内海の中に留まることが考えられる。
このような現象は海に限らず湖においても同様に起こるだろうし、山体崩壊だけでなく大規模で急激な地盤沈下(陥没)もまた同様の結果を招くことになるはずだ。
ネットでいろいろ検索していると1980年にアメリカワシントン州スカマニア郡にあるセントヘレンズ山が噴火時に山体崩壊を起こす動画が見つかった。この山体崩壊で山の標高は2950mから2550mに減少し、200軒の建物と47本の橋を消失させ、57人の犠牲者が出たという。
https://youtu.be/bgRnVhbfIKQ
同様の事がわが国でも起こる可能性があるのではないか。
富士山の大澤崩れは毎日ダンプカー48杯分の土砂が崩れているのだそうだが、富士山が山体崩壊した場合はどの程度の被害が想定されているのか。
静岡大学防災総合センターの小山真人教授が東京新聞に発表された『富士山の山体崩壊』というコラムがネットで読める。
小山教授は、富士山の北東側、東側、南西側の山体崩壊が過去に起きており、もし北東側が崩壊した場合は、最も被害が大きくなると述べておられる。
「大量の土砂が富士吉田市、都留市、大月市の市街地を一気に埋めた後、若干速度を落としながら下流の桂川および相模川沿いの低い土地も飲み込んでいき、最終的には相模川河口の平塚・茅ヶ崎付近に達する。このケースの被災人口を見積もったところ約40万人となった。事前避難ができなかった場合、この数がそのまま犠牲者となる。」
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/tokyoshinbun121031.html
富士山のような高い山が崩落すれば、猛烈なスピードで土砂が川や都市を埋め尽くしていくことになる。逃げることは殆んど不可能だ。
小山教授によると富士山の北東側の山体崩壊は1万5千年前に実際に起きており、相模川沿いを流れ下り、相模原市内の遺跡などにその痕跡があるのだという。
わが国には山体崩壊の可能性のある山は富士山以外にも多数存在するが、過去において山体崩壊を繰り返してきている山の土砂が流れるルートの周辺に住居などを建てることを制限することが必要ではないか。また、山体崩壊によって土砂が湾や湖に流れ込む可能性が高い海や湖の周辺地域も、住宅などの建築制限が必要だと思う。しかしながら、既に多くの人々が居住している場合の対策は難しく、せめて人口を他の地方に徐々に分散させていくことを誘導していくしかないだろう。平成3年の雲仙普賢岳の火砕流も、溶岩ドームがもっと巨大で島原湾に大量の土砂が流れ込んでいたとしたら、島原大変と同様に熊本にも被害が出た可能性が高かった。
西暦79年にポンペイの町はヴェスヴィオ火山の火砕流で埋まったと考えられているが、もし火砕流がポンペイを襲ったのなら、遺跡で肖像画などが焼けずに多数発掘されることはなかったと思うのだ。ヴェスヴィオ火山の噴火が引き金になって山体崩壊がおこり、一瞬にしてポンペイが土砂で埋まったのではないだろうか。
前々回の記事で、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、帰雲城と城下町が一瞬にして埋没したことを書いたが、同様のことがポンペイで起こっていたとは考えられないか。
山体崩壊は滅多に起こらないものではあるが、滅多に起こらないから何もしないのではなく、リスクの高い地域はある程度分かっているのだから、万が一起こった場合に少しでも人的被害が少なくなるような国土利用を推進してもらいたいものである。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。
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