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西軍の毛利氏と島津氏の家康に対する交渉力の違い

前回の記事で、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が処刑されたことを書いたが、大坂城には西軍の大将・毛利輝元が大軍とともにいた。もし輝元が家康と戦う意志があったなら、この城はそう簡単に抜ける城ではなかったはずだ。

西軍の主将であった毛利輝元は大坂城で家康をどう迎えたのだろうか。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』にはこう記されている。

「肝腎の輝元は、大坂における主将とは言いつつも、ほとんど木偶人と一般であった。彼は本来家康とともに天下を争わんとする意気込みなく、ただ安国寺恵瓊に勧誘せられて、得々として大兵を率い、大坂に出掛けたのであった。而して彼は爾来、恵瓊の反対派とも言うべき、吉川(きっかわ)廣家、福原廣俊のために説破せられ、西軍の主将でありつつ、かえって局外中立の姿をなしていた。
されば家康は、一兵を損せず、一発の銃弾を放たず、手に唾して大坂城を収め得た。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/273

毛利輝元
毛利輝元

毛利輝元は全く戦わなかったのであるが、前掲書に大坂城に家康が入城するまでの動きが纏められている。

「家康は9月20日、西軍諸将の邸の伏見にあるを焼かしめた。22日福島正則、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎、有馬豊氏らをして、葛葉(くずは)に至らしめた。毛利輝元は、誓書を井伊直政、本多忠勝、及び福島正則、黒田長政に遣(おく)り、西の丸を退き、二心なきを表せんと請うた。家康は23日、正則、輝政、幸長、長政、高虎に、西の丸を収むべきを命じた。25日5人連署して、書を輝元に遣り、直政、忠勝の9月14日の誓書の虚偽なく、かつ家康の輝元における、毫も心に介するなきを告げた。ここに於いて輝元は西の丸を退き、木津の邸に移った。増田長盛もまた本領の郡山に屏居した。正則らは葛葉より大坂に至り、西の丸を収め、本丸に赴き、秀頼に謁した。26日家康大津を発し、淀に宿し、27日大坂城に入り、秀頼に謁し、自ら西の丸に居り、秀忠を二の丸に置いた。
かくの如く9月1日に江戸城を出発し、同27日に大坂城に入った。如何に平昔(へいせき)よりして、潜勢力を養うていたとはいえ、未だ1箇月を経ざるに、天下の局面を一変したのは、実に異常の出来事だ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/274

江戸城から大坂城まで徒歩で移動するだけでも2週間以上はかかる距離なのだが、さらに天下分け目の関ヶ原の戦いがあり、さらにその掃討戦が続き、それらに勝利するために情報を収集し、諸将に的確な指示命令を出し、西軍の内応者にも多数の文書を出してそれが功を奏している。
関ヶ原の前哨戦から掃討戦に至る家康の采配は、非常に緻密であり無駄がない。
西軍の大将・毛利輝元相手に戦わずして大坂城を開城せしめたのも、どういう手順を踏めばうまくことが運ぶかが良く練られた上で行動していることが見て取れる。

戸田氏鉄
【戸田氏鉄】

徳川家康に仕えた戸田氏鉄(うじかね)が著した『戸田左門覚書』には、家康が大阪城に入った状況についてこう表現されている。
大坂に於いて西の丸に御座なされ候。その節天下の大名、内府*公へ出仕すること、あたかも太閤の如し。」
*内府:徳川家康のこと

しかしながらよくよく考えると、関ヶ原の戦いで東軍が勝利したとはいえ、表向きの天下人は豊臣秀頼であり徳川家康はその大老という立場である。もし西軍の主将・毛利輝元が、秀頼を擁して大坂城に居座り続けるという選択肢もあったと思うのだが輝元は無抵抗で大坂城を開城し、輝元が抜けたあとに家康が西の丸に入ったことで、大坂城に於いて家康は、太閤秀吉のような存在になったのである。

大坂城
【大坂城】

冒頭で、毛利輝元が家康に誓約書を出して西の丸を退いたことを書いたのだが、どういう経緯があって輝元は無抵抗で大阪城を退いたのだろうか。

輝元は、家康に毛利家の領地安堵の意向があることを保障する本多忠勝と井伊直政の誓紙を得たので、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切って、無条件で大坂城を出たのであるが、その後家康は、輝元の所領安堵の約束をいきなり反故にして、毛利氏を改易し、領地を総て没収とすると通告し、一方で毛利家の家臣で関ヶ原では東軍に内応していた吉川広家に対しては、毛利の領地の一部である周防・長門の2ヶ国を与えると沙汰したのである。

徳富蘇峰は同上書で、こう解説している。
「…平たく言えば、家康は立派に毛利を欺いた。かかる場合に欺いた家康が不徳であるか、欺かれた毛利が不明であるか。いずれにしても毛利は、家康から一杯食わされた。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/276

この話は、吉川広家が家康に対して自分自身に加増予定の周防・長門を毛利輝元に与えるよう嘆願し、家康がそれを受けいれて10月10日に決着したのだが、そのために毛利領は現在の山口県、広島県、島根県(120万石)から山口県(36万石)と一気に7割もカットされてしまったのである。

関ヶ原陣形と街道
【関ヶ原陣形図】

関ヶ原本戦では、毛利輝元は西軍の総大将でありながら大坂城に止まり、毛利秀元(輝元の養子)、安国寺恵瓊、吉川広家の3名が関ヶ原に向かって南宮山に陣を構えたのだが、東軍と密かに内通していた吉川広家が、秀元、恵瓊の出陣を阻害したために、毛利家は戦わずして関ヶ原を去ったのである。にもかかわらず徳川家康は、毛利家の所領を大幅に減封し、安国寺恵瓊を死罪としたのである。

Wikipediaに関ヶ原の戦後処理の詳細がまとめられているが、小早川秀秋らとともに西軍から東軍に寝返った赤座吉家(越前今庄)、小川祐忠(伊予今治)が改易されているのをみると、戦況を見てから東軍についたような者には結構厳しい処分を断行しているようだ。
また大坂城にいて何もしていなかった豊臣秀頼についても、豊臣氏の直轄地である蔵入地の多くが没収され、領地が222万石から65万石に減らされているのだが、豊臣秀頼は天下人であったにもかかわらず、大老の徳川家康によってかなりの領土を奪い取られたことを知るべきである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%87%A6%E7%90%86

毛利氏の徳川氏との交渉は、まるでどこかの国の外交のように性善説で臨んで円く収めようとしたのだが、結局のところ家康から好きなだけ毟り取られて終わってしまったのである。しかし、九州の島津氏は、家康に対してもっとまともな交渉をしているので紹介したい。

島津義弘関ヶ原
【島津義弘】

関ヶ原本戦の最後に東軍に包囲され、敵中突破を敢行して敗走した島津義弘は、伊賀路を経て9月18日に住吉に至り、22日に堺より乗船して29日に日向細島に到着し、10月2日に富隈にて兄・義久に関ヶ原の顛末を報告した後は、桜島で自ら謹慎したという。

当主である兄の島津義久は、関ヶ原に参加はしなかったが、西軍・小西行長の留守居よりの救援の要請を受けて肥後に兵を出し、また九州における関ヶ原掃討戦において西軍方を支援した経緯にあった。

徳川家康
【徳川家康】

家康は立花宗茂を降伏させたのち、九州の全大名に島津義久討伐を命じ肥後水俣に進軍させ、一方、島津義久は兵を総動員して北上させ、薩摩・肥後国境に軍を進めている。
ところが家康は、冬季を口実に、翌年まで軍事行動を中止させている。それはなぜなのか。

徳富蘇峰はこう解説している。
家康は島津氏の武力を認識していた。…今や島津氏は、自ら死地に陥りたるを悟り、薩隅の二州に、虎の嵎を負う如く、その必死必生の勢力を以て、その討伐軍を迎えんとす。是れ決して尋常一様の敵ではない。家康にして力取せんとするは決して容易の業ではない。強いて之を行なわんとせば、多大の犠牲を払わねばならぬ。家康が中止を命じたのは、洵(まこと)に知慮ある仕業と言わねばならぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/296

島津義久
島津義久

家康は、島津義久の態度を見ながら懐柔しようとしたのだが、島津義久も駈引きでは負けていなかった。百姓に課役を与えて方々で築城を開始して、いざという時は全力で戦う姿勢を示したのである。家康は何度か義久に謝罪に来させようとしたのだが、義久は決して動かず、慶長6年(1601)年8月7日には一種の戒厳令とも言える15か条の『御先代軍法掟の事』を布令している。
最初の3か条を紹介すると、
「一 諸士何遍申付けの儀、相応の儀においては、難渋致すべからず。もし異儀及ぶものは、その沙汰すべきこと
一 武具油断なく調うべきこと
 一 出陣の時、二十五石取の衆は、自分で賄うべきこと…」
最初の条は、(生活に)難渋した場合はいつでも申し出でよと言うことを裏から述べたものと解釈されているようだ。金で敵方に内応するようなことが無いようにと配慮したのだろう。

このように島津義久が闘う意志を示し、「自分の国は命懸けで守る」という姿勢を貫いたことが、家康の態度をどう変化させたのか。徳富蘇峰は前掲書でこう解説している。

島津氏の家康に対する、我より進んで降参を求めず、却って家康をして、妥協を促がさしむるに至った。言わば、家康の秀吉に対する態度を、そのまま家康に向かって応用した。これは島津氏の深謀遠慮のためか。はた辺鄙の地にありて上国の形勢に通ぜず、徒に疑倶を懐きて、躊躇したるためか。それはいずれにしても、島津氏は、毛利氏の如く、容易に家康の命令通りに、唯命是従的には動かなかった。彼は徳川氏に向かって叩頭した。しかもその叩頭振りは、島津氏の自発的にして、決して徳川氏の注文通りには参らなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/301

島津忠恒
【島津忠恒】

島津義久は、家康からの直接の本領安堵の確約がない限りは上洛に応じられないとして粘り続けたことから、とうとう家康が折れるかたちで慶長7年(1602)3月に直筆で起請文を書き、薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定され、その後義久の名代として甥の島津忠恒*が12月に上洛して謝罪と本領安堵のお礼を家康に伝えて、島津氏も徳川氏の統制下に入ったのである。
*島津忠恒:島津義弘(島津義久の弟)の三男。のち島津家久に改名。

島津氏は関ヶ原の戦いで西軍に加担し、終始西軍として戦ったにもかかわらず、関ヶ原以前の状態を存続した。西軍に加担しながら本領安堵された武将は他にもいるが、東軍に内応し寝返った連中などそれなりの理由がある者ばかりである。
関ヶ原の戦いの敗者でありながら、徳川家康から本領安堵を勝ち取った島津家の交渉力のすごさを知るべきである。
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薩摩に敗れて捕虜にされた多くの豊後の人々は南蛮船に乗せられてどこへ向かったか

前回の記事で島津義久の攻撃で大友氏が滅亡寸前まで追い詰められたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉・秀長が九州に出兵して島津軍を破り、大友氏は辛うじて豊後一国を守ることが出来たことを書いた。豊後国とは今の大分県と考えて良い。

前回あまり詳しく書かなかったが、薩摩の島津氏と豊後の大友氏との争いは随分長く続いている。

耳川合戦図屏風 京都市相国寺蔵
【耳川合戦図屏風】

天正6年(1578)に大友宗麟・義統父子が、日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて南下を開始したのだが、耳川(みみかわ)の戦いで島津義久軍に大敗している。

その大敗で、それまで大友家に従属していた肥前の龍造寺隆信が離反して自立し、筑前でも秋月種実や筑紫広門が離反して島津方についた。また大友庶家の重鎮である田原親宏や田原親貫、田北紹鉄らも大友家に対して反乱を起こし、これまで豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こったという。

一方島津家は、耳川の大勝を機に薩摩・大隅・日向を制圧し、肥後にも手を伸ばすなど、大友家に対する圧迫を強めていた。それに対し大友家では、領内の叛乱を抑えきれないために織田信長に接近し、信長の仲介で島津義久との間で『豊薩和睦之儀』を成立させたものの、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が死去すると両国間の和睦は雲散霧消してしまう。

島津義久
島津義久像】

天正12年(1584)から13年(1585)にかけて島津義久は大友家に従属する肥後の阿蘇家を滅ぼしてさらに筑後に兵を向けたため、大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請したという。秀吉も信長と同様に薩摩との和睦を成立させようとしたが、今度は島津義久が断っている。

戸次川の戦い
【戸次川の戦い】

天正14年(1586)に島津義久による豊後侵攻が始まると、大友宗麟・義統父子への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反して、島津軍は筑前に兵を向けて岩屋城を落城させたのち、12月には戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊に大勝し、その勢いで大友氏の本拠地である豊後府内を攻略にかかった。臼杵城に籠城していた大友宗麟は、南蛮貿易で手に入れた大砲を使って臼杵城を死守し、戦国大名としての意地を見せたという。

臼杵城
【臼杵城】

天正15年(1587)になって大友氏が滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が到着し、さらに秀吉も10万の兵を率いて九州平定に出陣し各地で島津軍に勝利して、3月にようやく島津軍が退却を始めるという流れである。

九州平定後秀吉が博多を出発する際に、大友宗麟の嫡男・義統(よしむね)に対して秀吉が一通の書状を送り、キリシタン信仰を棄てるようにと命じたという。そして義統は、関白に従うと答えたのだそうだ。

調べると大友義統が黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けたのは天正15年(1587)の4月なのだが、6月に秀吉が『伴天連追放令』を出したために、義統は正式にキリスト教となってわずか2ヶ月でキリスト教を棄教したことになる。

この薩摩と豊後との長い争いで、両軍に相当な犠牲者が出たことは言うまでもないが、特に長い間戦場となった豊後の人々は、相当悲惨な状態に陥ったことが、当時わが国にいたイエズス会のルイス・フロイスの記録に残されているので引用したい。

完訳フロイス日本史8

「豊後の事情は今まで惨憺たる有様であった。すなわち、かの地から来た土地の人々が一様に語っているところによると、その国の人々は次の3つのうちいずれかに属していた。
その一つは薩摩軍が捕虜として連行した人々、他は戦争と疾病による死亡者、残りの第三に属するのは飢餓のために消え失せようとしている人々である
。彼らは、皮膚の色が変わってしまい、皮膚に数えることができそうな骨がくっついており、窪んだ眼は悲しみと迫りくる死への恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは思えぬばかりであった。どの人もひどく忌まわしい疥癬に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、遺体の眼とか内臓には鴉とか山犬の餌と化するのみであった。彼らは生きるのに食物がなく、互いに盗賊に変じた。既述のように蔓延した病気はいまだに収まっていなかった。主なるデウスはさらに彼らの上に正義の鞭を下そうとなされ、臼杵の村落は前年の薩摩軍の包囲によって城を残すだけですべて焼失してしまったが、その後、豊後の新たな国主*は、焼き払われ破壊されたその国を再建しようと全力を尽くした。国主の要請に基づいて、持てる者も持てざる者もその力に応じて再建にいそしんだ結果、[人々の談によれば]豊後の国は当初の規模と外観に劣らぬほどになったという。…そのうちに、かの地から一人の司祭が我らの許に届けてきた通信によると次の事態が発生した。
本年の1月2日の正午近く、臼杵の主要な街路(ルア)で火災が発生した。火元はある貧しい男の家であった。火災は猛烈な勢いでその街路に燃え拡がり、折からの強風に煽られてほとんどことごとく焼き尽くした。…人々が証言するところによると、この火災は家財を盗もうとした人によって人為的に点火されたものだという。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.266)
*豊後の新たな国主:大友義統(おおともよしむね)のこと。大友家第22代当主・大友宗麟の嫡男。後に秀吉から偏諱(「吉」の1字)を与えられて義統から吉統へと改名した

この戦いで多くの人々が亡くなり、あるいは薩摩の捕虜となったとなったのだが、残った人々はほとんどすべてが飢餓状態にあったというからひどい話である。
1月2日の火事で大友氏の居城である臼杵城も焼け、国主の蔵1つだけが焼け残ったのだそうだが、この日は出陣中であっため消火に駆けつけた人々は少数で、そのことが火災の被害を大きくしてしまったという。

飢えで苦しんだ人々も悲惨だが、捕虜にされた人々も悲惨な運命を辿ったようだ。フロイスは同上書でこう述べている。

薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.268)

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、太閤検地の頃の豊後の人口が418千人だったことから勘案すると、その2割程度は捕虜として売却されたと考えてもおかしくないだろう。

島原半島の島原や三会の港に運ばれたということは、買ったのはポルトガル人であったと考え良い。ではポルトガル人は、それから彼らをどう用いたのか

ルイスフロイス
ルイス・フロイス像】

フロイスの記録を辿っていくと、多くの日本人が奴隷として海外に売飛ばされている事実を突き止めて、豊臣秀吉がイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョとやりあったことが記されている部分がある。

「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.207-208)

この太閤の提起した問題に関してコエリョが答えた内容について、前掲書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211)

このようにコエリョは、奴隷売買についてはこれを取締らない日本側に問題があると答えたことに秀吉は激怒するのだが、コエリョがこのように回答したのには理由がある。当時においては、異教徒ならびにキリスト教に敵対する勢力を攻撃してあらゆる所蔵物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶める権利をローマ教皇が認めていたことを知る必要がある。そもそも、当時わが国に来ていた宣教師がローマ教皇の教書の内容を否定できる筈がなく、彼らにとっては間違ったことは何もしていない認識でいたと考えられる。

カトリック教会と奴隷貿易

その教書の内容についてはカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある西山俊彦氏の著書である『近代資本主義の成立と奴隷貿易』に出ているが、著書の一部をネットでも読むことが出来る。次のURLで紹介されている論文のp.6「Ⅱ.一層明白な教会の関与 ~キリスト教徒は禁じ、敵対者は奴隷化を奨励する諸教書」で確認願いたい。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/doreimondai_2.pdf

同上書には1454年に出された「ロマーヌス・ポンティフェックス」が訳出されているが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。

西山氏の著書によると、それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だという。このようなキリスト教の負の歴史は、戦後のわが国では未だにタブーとされていると言って良い。

わが国の歴史家はこの時代を「大航海時代」などというピント外れの言葉を使って問題の本質を隠しているのだが、ローマ教皇が「ロマーヌス・ポンティフェックス」のような教書を相次いで出していたからこそ、スペイン・ポルトガルが罪の意識を持たずして世界を侵略し、原住民を奴隷にして世界各国に売飛ばしつつ、植民地を拡大していったことを知らねばならない。
このような教書が存在したこの恐ろしさは、宣教師が布教に訪れた国が、キリスト教と異なる宗教を持つということだけで、スペイン・ポルトガルがその国を侵略したり住民を奴隷にする権利を付与していた点にある。
そして戦国時代以降のわが国は、スペインやポルトガルがその権利を行使できる対象国になっていたことを知らなければ、わが国に相次いで宣教師が来た理由を正しく理解したことにはならないだろう。

鉄砲を棄てた日本人

では、なぜわが国がこの時代に国を奪われずに済んだのか。
この点については以前もこのブログで記したように、この当時のわが国は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、キリスト教が伝来する6年も前の天文12年(1543)に西洋の鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。ノエル・ペリン氏の『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)には、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたことや、当時日本に訪れた宣教師オルガンティノ・グネッチや、前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロは、母国よりも日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

スペインもポルトガルも日本よりも軍事的劣勢であっただけでなく、本国から遠く離れていたので武器・火薬等の補給が困難であったことから、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、わが国には容易に手を出せなかったのである。
だから彼らはキリシタン大名や武将を育てて国を割り、最後にキリシタン大名に勝利を導こうと画策したのだが、わが国の為政者がその侵略の意図を認識し適切に対応したことや、スペイン・ポルトガル国内事情もあって失敗に終わったと理解している。その点については以前このブログで述べたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

戦国時代以降のわが国の歴史は、西洋史の大きな流れの中で捉えるべきだと考えるのだが、戦後のわが国の歴史叙述では、なぜかこのような視点が根本的に欠落していると思われる。
豊後の人々が島原半島で南蛮船に乗せられて奴隷として売られていったことも、前回及び前々回に記したキリシタン大名の領国で徹底的に神社仏閣が破壊されたことも、ローマ教皇の教書によって異教徒の全ての領土と富を奪い取り住民を終身奴隷にすることが認められていたことを知れば納得できる話なのである。
彼らは世界中の異教国を侵略し、異教徒の文化を破壊し、住民を奴隷化してその土地から追い出し、そこに白人を植民してキリスト教国化する手法で、キリスト教世界を拡げようとしていたのだ。

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16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
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日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
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日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html



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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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