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飯田市の観光を楽しんだのち、「満蒙開拓」とは何だったのかを考える

南信州旅行の3日目は、月下美人の精算を済ませたのち天竜川の舟下りにいく予定を組んでいた。

飯田市の天竜川下りは弁天港から出発する「天竜舟下り」と天龍峡温泉港から出発する「天龍ライン下り」の2つがある。
旅館の人に聞くと景色は天龍峡を通る「天龍ライン下り」の方が良いかもしれないが、「天竜舟下り」の方が上流なので流れが速くて水しぶきを浴びるスリルが味わえるとのことだった。
いずれも伝統的な木造船の造船技術および操船技術を継承していて、川下りの観光船としてはおよそ100年の歴史を有していることから、昨年の6月、両方同時に飯田市の民俗文化財の指定を受けているようだ。
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/20160715.html

初めてなのでどちらに乗船してもよかったのだが、川下りの後は飯田城跡を巡る予定なので、「天竜舟下り」を選択して、旅館から割引券を頂いた。

天竜舟下りマップ

天竜舟下り」の乗船場である弁天港(飯田市松尾新井7170 ☎0265-24-3345)に向かう。
出発時間が迫ると2階の待合席でライフジャケットが配られて、全員それを着用してから船に乗り込む。
待合列の先頭に並んで船の先頭に近い席を確保して迫力ある写真を撮るつもりだったのだが、後ろから順に座るように指示されたので座席が後方になってしまった。しかしながら、乗船しているうちに、船の前の方が特等席ではないことが誰でもわかるようになる。
船の先頭は水しぶきを何度もまともに浴びる可能性が高く、「濡れにくい」という観点からは後ろの席の方が良い。しかしながら、いい写真を撮るためには、せめて中央よりも前の方に座りたいところである。

天竜舟下り 1

出港してしばらくは川幅が広くて船はゆっくりと進むのだが、最初の橋である水神橋を過ぎたころから次第に流れが速くなり、上の画像の南原橋を過ぎたあたりから川幅が狭くなって、いよいよ川の流れが一段と速くなってくる。
水しぶきがかかる可能性が高い場所が何箇所かあり、危険な場所に近づくと、船頭から座席の後ろにあるビニールシートを乗客全員で持ち上げる指示が飛ぶので、指示どおりにしていれば衣服が濡れずにすむと思いきや、後ろの席でもたまに横波を受けて、シートを乗り越えて水を被ることがある。

天竜舟下り 2

南原橋から最後の天龍橋までは鵞流峡(がりゅうきょう)と呼ばれていて、深いところでは水深が8mもあるのだそうだ。県立公園に指定されている場所でもあり、紅葉を迎える11月ごろはきっと素晴らしい景色が楽しめることだろう。
約6kmの35分の船旅だが、スリリングなだけでなく景色も楽しめて結構満足できた。

天竜舟下り 4

宣伝するつもりはないのだが、Youtubeで「天竜舟下り」の動画があったので紹介しておこう。この流れの速い川で、設計図のない手作りの木造船で、手漕ぎと舵取りで川を下る伝統の技術はすごいことだと思うのだが、こういうことは言葉で説明するよりも動画を見た方がわかりやすい。
https://www.youtube.com/watch?v=cIC6KiF3QBk

無量の送迎バスで弁天港に戻り、飯田市の中心部の観光に向かう。

飯田市を訪れるのは今回が2回目で、前回観光しなかった飯田城跡に向かう。駐車場は市立美術館の近くに無料のものがある。

飯田城は13世紀初めにこの地で勢力を持つようになった坂西(ばんざい)氏によって築かれたのだそうだが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡したのちは目まぐるしく城主が替わっている。
Wikipediaによると、武田氏滅亡の後「信濃伊那郡は織田家家臣・毛利長秀に与えられ、長秀は飯田城を拠点に伊那郡支配を行う。同年6月の本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て、三河国徳川家康の支援を得た下条頼安が飯田城を掌握し、後に菅沼定利が入城した。徳川勢の関東移封後には、再び毛利秀頼が入り、その娘婿の京極高知に継承され、この頃に近世城郭としての姿が整えられた。江戸時代になると小笠原氏1代、脇坂氏2代と続き、寛文12(1642年)堀親昌が2万石で下野烏山より入封し、以後明治維新まで飯田城に居を構えた」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD)

飯田城図

国立国会図書館デジタルコレクションに『信州飯田城図』が公開されている。二の丸跡地には飯田市美術博物館が建っていて、本丸は神社境内となっているようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286697

明治4年(1871)7月の廃藩置県で飯田藩は飯田県となり、11月には第一次府県統合が行なわれ、近隣の6つの県が統合して筑摩県が発足し、この城内に筑摩県の飯田支庁が置かれたという。その後明治9年(1876)の第2次府県統合に筑摩県は長野県に合併されたのち、この城の大半は壊されてしまった。

飯田城桜丸御門

上の画像は、「赤門」と呼ばれる桜丸御門だが、建物としては城内で残された唯一の遺構である。

長姫のエドヒガン

二の丸の周囲には飯田藩重臣の屋敷があったそうだが、代々の家老であった安富氏の邸址には樹齢450年以上とされる長野県天然記念物の「安富桜」がある。
ネットでは満開の安富桜の画像が多数紹介されているが、次のURLによると飯田市近辺には見事な一本桜がほかにも多数あるようなので、春になって近くの桜を巡る旅も面白いかもしれない。
http://www.pixpot.net/articles/u_d_view/234/iida-sakura/

柳田国男記念館

さらに東に進むと橋があり飯田城本丸跡の看板がある。上の画像は柳田国男で、東京都世田谷区成城にあった柳田国男の書屋『喜談書屋』を移築し、平成元年(1989)に開館したものである。レトロな建物に興味を覚えたので中に入ってみた。

柳田国男記念館 内部

民俗学者の柳田国男は明治8年(1875)に儒者で医者の松岡操の6男として兵庫県に出生し、東京帝国大学卒業後農商務省に勤務したのち明治34年(1901)柳田家の養子として入籍した。養父の柳田直平は東京在住ながら旧・飯田藩士で、国男は入籍して3年後に直平の四女孝と結婚し、以来、昭和17年(1942)年まで本籍は柳田家祖先の地である飯田にあったという。上の画像は柳田国男館の書斎である。

川本喜八郎人形美術館外観

飯田城跡散策の後、川本喜八郎人形美術館(飯田市本町1-2 ☎0265-23-3594)に向かう。駐車場はすぐ近くにトップヒルズ本町駐車場(市営)がある。

いいだ人形劇フェスタ

飯田市は『人形の街』と形容されることが多いようだが、毎年8月初旬に飯田文化会館などで日本最大の人形劇の祭典「いいだ人形劇フェスタ」が行なわれている。

黒田人形浄瑠璃 下黒田諏訪神社境内の人形専用舞台

人形劇が盛んな土地柄は、300年以上にわたる人形浄瑠璃の歴史を抜きに語れない。
この地域に人形浄瑠璃が伝わったのは江戸時代半ばなのだが、飯田市の黒田地区では人形浄瑠璃は熱狂的に受け入れられ、村人は浄瑠璃の舞台や人形の為に田畑まで売り払ったと伝えられている。そして、300年以上の歴史を持つ黒田人形、今田人形の人形芝居を含めて四座が今も活動を続けているという。

そんな伝統を持つ飯田市で昭和54年(1979)に全国の人形劇人が集まって『人形劇カーニバル飯田』が始まり、平成11年(1999)からは『いいだ人形劇フェスタ』と名称が変更されたのだが、今年は通算第39回目のイベントが8月1日から6日まで行われたようだ。
http://www.iida-puppet.com/thisyear/index.html

年配の方は御存知だと思うのだが、今から35年前の昭和57年(1982)にテレビで『三国志』の人形劇を放送していた。その人形制作を担当した川本喜八郎氏が平成2年(1990)の夏の『人形劇カーニバル飯田』に人形劇公演のために初めて飯田市に訪れ、人形に情熱を傾ける飯田の人々に感激して、「人形が生きている」この飯田こそが「人形たちに一番ふさわしい場所」として、川本氏が制作してきた「三国志」「平家物語」などの人形を飯田市へ寄贈されたという。その人形が展示されているのが川本喜八郎人形美術館なのである。

川本喜八郎人形美術館

上の画像はエントランスにある『三国志』の諸葛孔明の人形である。
ギャラリーには59体もの『三国志』の人形が展示されていたのだが、いろんな人形の表情を見ているだけでも楽しい。

近くのレストランで昼食を済ませて、今回の旅行の最後の目的地である満蒙開拓平和記念館(下伊那郡阿智村駒場711-10 ☎0265-43-5580)に向かう。道がわかりづらいので、次のURLから近隣地図をダウンロードされた方が確実だ。
https://www.manmoukinenkan.com/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B9/

満蒙開拓平和記念館地図

なぜこんな場所に「満蒙開拓平和記念館」があるのかと誰でも思うところだが、簡単に説明しておこう。

かつて中国東北部に13年間だけ存在した「満州国」に、日本全国から27万人の農業移民が渡って行った。これを「満蒙開拓団」とよぶのだが、この時に送りだされた農民の出身地は長野県が3.3万人と全国で一番多かったという。二番目に多かったのは山梨県で1.7万人というから、長野県の人数の多さが際立っていたことがわかる。当時の長野県の農民は養蚕業の衰退による経済的に困窮していて、耕地面積も狭かったことから新天地に夢を託したのであろう。

満蒙開拓平和記念館パンフレット

記念館の展示室の中に満蒙体験を経験した人の体験談が読めるコーナーがある。
購入したパンフレットにもそのいくつかが紹介されているが、大正12年生まれの小木曽さんの証言を引用させていただく。

「村で満州移民の話が出て、村の偉い人たちが家に来てしきりに『お前さんたちこそ満州へ行くべきだ』って勧めてくれた。日本じゃ仕事がない。満州へ行ったら20町歩の田畑をくれるんだから、20町歩の大地主になれるんだって。そんな大地主になれるんならこんなに苦しむことはない。それじゃあ満州に行こうってことになった。
母親はいやだったけどね、あの時はああするしかなかったんだな。日の丸へ寄せ書きしてくれて、兵隊さん送ってくれるみたいに盛大に送ってくれた」(『満蒙開拓平和記念館』p.28)

この「満蒙開拓団」を発案したのは、移民を増やすことによる満州国維持と、対ソ兵站地の形勢を目指す関東軍であったのだが、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)8月9日にソ連が満州国に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして朝鮮国境まで撤退してしまう
以前このブログで紹介したとおり、関東軍は開拓移民だけでなく、民間人のほとんどを見捨てているのだ。
満州国の首都・新京には当時14万人の日本人が居留していて、8月11日未明から正午までに18本の列車が出で38千人が新京を脱出しているのだが、優先的に脱出したのは軍人関係家族や満鉄関係家族、大使館家族で、民間人はわずかしかこの列車に乗っていなかったことがWikipediaに書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6

満蒙開拓平和記念館で購入したパンフレットで、満蒙開拓平和記念館専務理事の寺沢秀文氏はこう記しておられる。
「開拓団を守るべき関東軍はと言えばもうその姿は無かった。関東軍は早い時期からソ連軍侵攻時には南満州方面の『作戦地域』に南下し、開拓団が暮らすその他の大半の地域のほとんどは『放棄地域』とすることを密かに決定しており、その作戦通りに関東軍は『敵に知られるから』と開拓団に知らせることなく密かに南下してしまった。守るべき軍隊もない開拓団員たちの悲惨な逃避行、さらに集団自決により多くの犠牲を出すところとなった。また越冬時の苦境の中から多くの残留孤児や残留婦人が生まれることにもなった。」(『満蒙開拓平和記念館』p.58)

開拓団員のうち成年男子は4.7万人が軍に召集されていたために、残る22.3万人の大半が老人、女性、子供であった。そんな男手が少ない状態で始まった開拓移民たちの逃避行はとんでもなく悲惨なものとなった。侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例もある。

大正14年生まれの中島多鶴さんはこんな悲しい記録を書き残しておられる。
「湿地ばっかりで、膝までつかるような所で、足はもう履物もないの。それでも必死で一週間くらい歩いて行ったら牡丹江があって、大きな川でね、幅が200メートルもあるの。それを渡ったら向こうはすごい原生林なの。…そうしとるうちに、もう行けないって川に子供を捨てちゃう人がでてきた。もうどうしようもないもんで、子供を流したんです。私も七人くらいまで流れて行くのを見たんだけど、止めてやることもできん、助けてやることもできん。」(『満蒙開拓平和記念館』p.28)

生き残ることが出来た者も極寒の収容所などに送られ難民生活を過ごし、開拓移民の約8万人が死亡し、生き残ることのできた者も、多くは残留孤児や残留婦人となったというという悲惨な話なのだが、このような史実が戦後のわが国ではほとんど伝えられていないのである。

「満蒙開拓平和記念館」のある阿智村からは175名もの開拓団を送り込んだのだが、戦後帰国できたのはわずかに47人であったという。

山本慈昭

長岳寺住職で国民学校の教員であった山本慈昭氏も開拓団員として家族や教え子とともに満州に渡った人物だが、ソ連侵攻時には妻子と引き離されてシベリアに抑留される身となり、昭和22年(1947)にようやく帰国すると、妻や幼い2人の娘の死と、阿智開拓団の8割が死んだと聞かされて愕然とする。

悲しみの中、山本氏はせめて仲間たちの遺骨を拾おうと昭和39年(1964)に訪中し周恩来との面会を果たしているが、遺骨収集は認められなかったという。
しかしながら、その翌年に中国黒竜江省在住の中国残留日本人から、日本にいる肉親を捜してほしいとの手紙が届き、中国残留孤児が存在することを知る。山本氏は孤児たちの帰国運動を開始しようと当時の厚生省をはじめ各省庁に残留孤児の調査を訴えたが、良い返事は得られなかったようだ。

その後昭和44年(1969)に阿智開拓団の生存者の一人が、死去する2日前に、子供達の命を救うために中国人に引き渡し、後に帰国できた自分たちは口裏を合わせて全員死んだと嘘をついたことを告白し、山本氏の長女や教え子15人が生存しているはずと発言した。
山本氏は孤児探しの使命感をさらに強めて活動を強化し、新聞やテレビでも孤児たちの存在が、次第に報じられるようになっていく。

昭和47年(1972)の日中国交正常化を機に「日中友好手をつなぐ会」が結成され、山本氏を会長として、中国の孤児たちの手紙のやりとりや、日本の肉親たちの訪問などの活動が開始されるようになる。それ以降次第に孤児たちの身元が判明して、多くの家族が再会を果たすことになる。

しかしながら、ここまでくるのに終戦後あまりにも長い年月が経ちすぎていた。
身元が判明しても、家庭の事情で親族による永住帰国の承諾が得られないケースや、残された養父母が生活困窮となるケースが少なくなかったようだ。
また帰国しても、ほとんど中国語しか話すことが出来ず、言葉の壁や生活習慣の違いによって孤立するケースが多く、平成11年(1999)の調査で、生活保護に頼る世帯が66%も存在したという。

中国残留孤児国家賠償訴訟

平成14年(2002)に、国は中国残留孤児に対して速やかな帰国支援や帰国後の自立支援を怠ったとして中国残留孤児による国家賠償訴訟が提訴された。全国15の裁判所で訴訟が起こされ、残留孤児として帰国した人の9割にあたる2211人が原告として参加したという。
裁判は原告の敗訴が続き、平成19年(2007)に国は年金の満額支給と特別給付金の支給を約束する新たな支援策を提案して和解を持ちかけ訴訟は取り下げられていったのだが、損害賠償金が支払われることはなかったのである。

ここで、原告に参加した中国残留孤児にとって、わが国はどんな国家であったかを考えてみたい。
彼らは国策として家族と共に満州に送られたのだが、ソ連侵攻時に日本軍に見捨てられ、戦後長い間中国に置き去りにされてきた。そしてようやく夢がかなって帰国できたのだが、わが国は彼らが自立できるような支援すら与えることのない冷たい存在であったのである。

希望を抱いてようやく祖国に戻れたにもかかわらず、彼等の9割もが国を提訴するに至ったことは、政府や地方の行政機関や彼らの親族や故郷の人びとが想定外に冷たかったことを意味している。しかしながら、国を提訴することで多くの国民の関心を集めることができれば、世論の後押しで裁判に勝訴し賠償金を勝ち取ることは不可能ではない…。彼等の誰もが、わずかでも生活改善が図れることを期待していたと思うのだが、期待していた世論の盛り上がりはなく、裁判では敗訴が続いて、彼らは日本の国民も冷たい存在に感じたのではないだろうか。

ではなぜ、日本国民は彼らに対して暖かい支援の手を差し伸べることができなかったのだろうか。
その理由は、戦後の長きにわたりわが国の教育機関もマスコミも、「終戦時において無防備、無抵抗の日本人が 大きな被害に遭遇した歴史的事実を、正しく伝えて」来なかったし、訴訟が起きてからマスコミがこの問題を充分にとりあげなかったことが大きいのだと思う。

満蒙開拓平和記念館

「満蒙開拓平和記念館」は、国や長野県などの出資はなく、民間の人々が出資して入場料と寄付金や会費で運営しておられる施設である。
リーフレットの表紙には「前事不忘、後事之師―前事を忘れず、後事の教訓とする―」と記されていたが、わが国では旧ソ連や中国、および朝鮮半島で起きた過去の出来事を国民にありのままに伝えるということをさせたくない勢力が確実に存在して、マスコミなどで流される解説の多くは真実をありのままに伝えていない。史実でないことを教訓とするわけにはいかないのだが、わが国では「前事」について、確かな資料に基づいて正しく学ぶ機会が乏しすぎることが問題だ。

この記念館は小さな施設ではあるが、戦後のわが国でほとんど伝えられてこなかった満蒙開拓の歴史をしっかり学ぶことのできる良い施設である。
この小さな記念館が、広島の平和記念資料館のように多くの人々を誘い、世界に向けて平和を発信する日が来ることを祈念して、3日間の南信州の旅行を終えることにした。
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【ご参考】
シベリアや満州の事を調べて行くと、なぜ中国やわが国の左派勢力がこのような史実を隠蔽しようとするのかを垣間見ることが出来ます。よかったら覗いてみてください。

昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-410.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-409.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html

なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-446.html

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html



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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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