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源頼朝が挙兵後約2ヶ月で南関東を制圧し、その後争いが鎮静化した理由を考える

前回の記事で天長8年(831)から桜の花見が天皇主催の定例行事として宮中で行われるようになったことを書いたが、一度決められた「花宴」はその後も毎年のように行われて、以降1200年分もの京都の花見の記録が残されているのだそうだ。

花見が行なわれる日はほぼ満開に近い時期と考えられるので、記録されている日付すべてを太陽暦に読み替えて、時代ごとの気候変動を調べる研究が戦前から続いているのだという。

伊勢物語絵巻八二段
【伊勢物語絵巻八二段】

桜の開花が早いか遅いかについては開花直前の春先の気温に依存するところが大きく、このことから各年の3月の京都の平均気温がある程度推定できるというのだが、11世紀半ばの気温推定についてはデータが少ないので不可能だという。ちなみに1040年から1080年までの40年間は太陽活動の低下期であったことが分かっており、この期間についての記録で桜の満開日と推定できる記録は、わずか3例があるのみだという。

それ以降のわが国の気候はどうであったのか。
この時期のわが国の歴史を簡単に振り替えると、保元元年の(1156)の保元の乱、平治元年(1159)の平治の乱で平氏が勝利したのち、平清盛が武士として初めて公卿となり、仁安元年(1166)には内大臣、翌年には太政大臣に昇進し、一族も高位高官についただけでなく清盛の娘・徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって、一時は『平家にあらざれば、人にあらず』と伝えられるほどの栄華を極めたのだが、その後の平氏は治承・寿永の乱で敗れ続けて、政権はずいぶん短命で終っている。この理由は「貴族のような政治を行って、直属の家人以外には恩恵が及ばず、全国の武士に見限られた」とよく解説されるのだが、この時代の西国の異常気象を無視して論じているものが多い。

気候で読み解く日本の歴史

田家康氏の『気候で読み解く日本の歴史』によると、平氏政権の時代の天候についてこう解説されている。(日付は太陽暦に読み替え後)

1160年代の終わりから、桜の満開日は遅くなる傾向にあった。『醍醐寺雑要』の記述を追いかけると、1167年~1175年にかけての9年間のうち1172年を除いて桜の満開日は4月20日過ぎである。3年続いて4月20日以降になるのは1173年~1175年以降では1548年まで待たねばならない。ところが一転して『明月記』によると1180年(治承4)の満開日は4月7日と早かった。10世紀のもっとも早い年である955年(3月30日)と961年(3月28日)とまではいかないまでも10世紀の平均日よりは早いことから、1180年3月の京都の平均気温は7℃を超え、ヒートアイランド現象の要因を除いた現在の気温と変わらない暖かさであっただろう。
 春先の暖かさが降水量の少ない夏へと続き、翌1181年にかけて養和の飢饉をもたらす。荒川秀俊*博士は、この年の京都での水不足について古い文献を調べ上げた。荒川博士は5月1日から8月31日にかけて『山槐記』『吉記』『玉葉』のいずれかに雨の記述がある日を数えていった。その結果、7月は全く降らず、8月も驟雨が4日降っただけであった。そして明治以降での3回の干ばつ発生年(明治16年、大正13年、昭和14年)での雨天日数とも比較し、1180年(治承4)では7月に晴雨不明の日が7日あるものの、明治以降の干ばつ発生年と比較しても雨天日数が少なかったことをつきとめている。
明治以降の干ばつ八青年の場合、5月から8月にかけての降水量は300ミリ台の後半であり、現在の平均値の約半分しか降らなかった。1180年の場合、雨天日数や8月に驟雨しか降らなかったことを勘案すると、降水量は明治以降の3回の干ばつ年よりも少なかったであろうと、荒川博士は結論付けている。」(『気候で読み解く日本の歴史』p.90~91)
*荒川秀俊(1907~1984):昭和期の気象学者。予報技術の発展に貢献したほか、古文書により気象・災害と歴史的事件の関係を研究。

方丈記

1180年は源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱が始まった年なのだが、この年は春が暖かく、夏にほとんど雨が降らず農産物が大凶作となり、さらに秋には台風が上陸して翌年にかけて養和の大飢饉が起きていることに注目する必要がある。この飢饉の悲惨さについては、例えば鴨長明の『方丈記』にこう記されている。テキストと現代語訳は次のURLを参照願いたい。
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/houjyouki.html

「又、養和の頃とか、久しくなりて覚えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春・夏 日でり、或は秋・冬 大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀 ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬收むるぞめきはなし。これによりて国々の民、或は地を捨てて境を出で、或は、家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにそのしるしなし。

京の習ひ、何わざにつけても、みなもとは、田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへむ。念じわびつゝ、さまざまの財物、かたはしより捨つるが如くすれども、更に目見たつる人もなし。たまたま換ふる者は、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に滿てり

 前の年、かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふに、あまりさへ、疫病うちそひて、まさざまにあとかたなし。世の人、みなけいしぬれば、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものども、歩くかと見れば、即ち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり。いはんや、河原などには、馬・車の行き交う道だになし。」

餓鬼草子
【餓鬼草子】

では、どの程度の餓死者が出たかというと、仁和寺の隆暁法印が額に『阿』の文字を書いて回ったところ、その数が「4万2千3百余り」になったと書かれている。その前後や、周辺地を考慮すれば、亡くなった人の数は計り知れない。
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/houjyouki/08.html

この『方丈記』の記録は決して誇張されたものではなく、他にも多くの記録が残されているようだ。先ほど紹介した田家氏の『気候で読み解く日本の歴史』にはこう解説されている。

「大きな干ばつが発生すると飢饉は翌年の収穫まで続く。収穫が多少なりとも得られれば、その年の暮れまでは何とか過ごすことが出来る。問題は年明けになって食料が尽きた後だ。奈良時代から江戸時代に至るまで、干ばつなり冷害なりで飢饉が起きると、餓死者が大量に出るのは翌年春以降という傾向がある。1180年(治承4)の干ばつによる飢饉は1181年(養和元)から1182年(寿永元)まで続いた。『百錬抄』には1881年6月の記述に『近日、天下飢饉、餓死者その数を知らず。僧綱有官の輩すら其の聞あり』、『皇帝紀抄』の安徳天皇の項には、『今年、天下飢饉、道路に餓死者充満す。開闢以来此の程の子細無し』とある。」(同上書 p.91~92)

また吉田経房の日記『吉記』養和2年(1182)2月には強盗や放火が起こり、飢者が人間の肉を食べたことなどが記されている。3月には道路に死体が充満していたことや、源氏が各地で謀反をしたことなどが記されている。下のURLはその原文である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236604

以仁王像
【以仁王像】

分かりやすいように干ばつが発生する前後の源平合戦を振り返ってみよう。
治承4年(1180)の4月に以仁王が平家追討の令旨を発し、5月に源頼政、以仁王が挙兵したが、平家の追討を受けて源頼政は自害し、以仁王は戦死したとされる。
しかしながら、以仁王の令旨は各地の武士に配られて、源頼朝は相模・伊豆・武蔵の武士団へ呼びかけ、8月に挙兵して相模国石橋山で大庭景親らと交戦し敗北したものの(石橋山の戦い)、さらに勢力を拡大して10月に先祖ゆかりの鎌倉に入りそこを本拠地とした。
東国での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣し、両軍は富士川で対峙したのだが、目だった交戦がないままに、平氏軍は敗走する (富士川の戦い)

この戦いは米の収穫期に起きているのだが、この年は西国では米は大凶作であったことが分かっている。一方源氏の本拠地である東国は、干ばつ被害については西国ほどひどい状況ではなかったようである。再び田家氏の著書を引用する。

富士川の戦い

「同年8月23日、源頼朝は石橋山の戦いで敗れたものの、2カ月後の10月20日(11月9日)の富士川の戦いで平維盛の軍勢を破る。『平家物語』や『源平盛衰記』では武田信義の一軍が富士川に馬で乗り入れたところ、水鳥が一斉に飛び立ち、その水音に平氏軍は驚いて大混乱に陥り退却したエピソードで語られている。荒川博士は、平氏軍の撤退とはこの年の干ばつによる凶作で西日本が食糧不足に陥ったためではないかと考えた。駿河まで出陣したものの、兵糧が不足したことで軍内に厭戦気分が高まり、撤退したのではないかとみる。平氏が拠点とする西日本が深刻な干ばつと飢饉に見舞われたのに対し、頼朝が兵を募った東日本は…『干ばつに不作なし、雨年に豊作なし』の土地柄である。荒川博士の描く構図は、1180年の干ばつが東日本と西日本の農業生産にまったく逆の状況をもたらし、これが治承・寿永の乱で頼朝が勝利する背景であったとする。」(同上書 p.91)

大干ばつの西国で、平氏が食糧を調達することも兵士を集めることも容易でなかったことは間違いないだろう。
Wikipediaによると、頼朝挙兵の報が福原にもたらされたのは9月1日(9月21日)で、清盛は9月5日(25日)に関東に追討軍派遣を決定している。しかし追討軍の編成は遅々として進まず、福原を出立したのは9月22日(10月12日)で、京を発したのは29日(10月19日)と随分日数がかかっている。追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めて7万騎の大軍となるも、所詮は寄せ集めで士気は非常に低かったようだ。
その追討兵が10月20日(11月9日)に富士川の西岸に布陣したのだが「兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった」という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

平家方の兵糧の欠乏は士気の低下を招いただけではなく、兵糧の足りている源氏に逃亡しようと考える者もいたという。権中納言中山忠親の日記『山槐記』の治承4年11月6日条には、「或る者」からの情報としてこう記されている。
「兼ねてまた諸国の兵士、内心皆頼朝に在りて、官兵互いに異心を恐る。暫く逗留せば後陣を囲み塞がんと欲すと云々。忠景等此の事を聞き、戦わんと欲するの心なきの間、宿の傍らの池の鳥、数万にわかに飛び去る。其の羽音雷を成す。官兵皆軍兵寄せ来たると疑い、夜中に引き退く。上下競い走る。」

九条兼実
【九条兼実】

平氏がかき集めた「駆武者」のなかには、軍に入れば食えることを期待して入った者もかなりいたのではないか。九条兼実の日記『玉葉』の11月5日の記録には
「所残之勢、僅不及一二千騎。武田方四万余云々。依不可及敵対、竊以引退。是則忠清之謀略也。於維盛者、敢無可引退之心云々。而忠清立次第之理、再三教訓。士卒之輩、多以同之。仍不能黙止、自赴京洛以来、軍兵之気力、併以衰損。適所残之輩、過半逐電。凡事之次第非直也事云々」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920201/228
平家軍が敵の武田軍に対して劣勢であったために、平家軍の侍大将・伊藤忠清は大将軍の平維盛に退却を献策し、他の武士たちもそれに賛同したため、維盛もその策を受けいれざるを得なかった。平家軍の士気は衰え損なわれて、富士川に対陣で残った兵も過半が逐電(逃亡)したという。
兵糧が乏しかったのならかき集めた兵が逃亡することは当然だと思う。

かくして源頼朝は挙兵後わずか2ヶ月で南関東を制圧し、その後しばらく鎌倉に根拠地として幕府の基礎を固めていくことになる。

そして翌年(治承5年[1181])には閏2月には平清盛が没し、4月には尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において平家軍と源行家軍との間で行われた墨俣川の戦いで平家軍が大勝した。しかしながら西日本はこの年も干ばつとなり、平家は都を中心とした専守防衛対策を堅持することとなる。またこの年は東日本も凶作であったため、頼朝も守りをかためることとなり、その後源平の合戦は寿永2年(1183)まで膠着状態にとなっている。

これらのことは深刻な大飢饉の影響を抜きに考えられないと思うのだが、教科書やマスコミなどで広められている歴史叙述には、多くの場合その視点が欠落している。
この時代の歴史が、『平家物語』の影響を脱する日は来るのか。

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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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