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消えた門跡寺院

江戸時代の安永から天明(18世紀後半)のころに「都名所図会」「拾遺都名所図会」という京都の旅行案内書のようなものが出版されている。この本は国際日本文化研究センターのWebサイトに原文と図絵と翻刻文があるので、誰でも容易に読むことができる。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html
都名所図会

京都に生まれ育ったので良く知っている場所を中心に読み始めると、いくつかの有名なお寺が消えているのに気づいた。

たとえば、「照高院」という門跡寺院が左京区に存在していたのがなくなっている。門跡寺院というのは皇族や摂家が出家する特定の位の高い寺院のことで、親王(天皇の子供、孫)または法親王(出家後親王の宣下を受けた皇子)が住職として居住するのは仁和寺、大覚寺、三千院など13の寺院しかない(宮門跡、あるいは十三門跡)のだが、そのうちの一つがこの「照高院」なのである。

このお寺はもともとは桃山時代の文禄年間(1592~96)に豊臣秀吉の信任が厚かった道澄上人が東山妙法院に創建した寺院であったが、方広寺鐘銘事件に関連して取り壊されてしまい、その後江戸時代の元和五年(1619)、後陽成天皇の弟・輿意法親王が、伏見城の二の丸松丸殿を譲り受け、門跡寺院として白川村外山(現北白川仕伏町)に「照高院」を再建されたのである。

「拾遺都名所図会」では、「照高院」については11行も記述され、照高院で詠まれた和歌なども紹介されているのだが、このお寺が今は存在しない。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_406.html

ではなぜこのような由緒のある「照高院」が明治時代に取り壊されるに至ったのか。

ネットでいろいろ調べると「照高院」の再建以来、道周・道晃,道尊,忠誉の四法主法親王を経て明和7(1770)年以降は寺領その他一切が聖護院門跡の支配にゆだねられ、それから約百年の間は法主が置かれなかったようである。
明治元(1868)年になって聖護院宮御法弟智成親王を照高院主に任じ復飾させたが、明治3年智成親王を還俗させて照高院を北白川宮と改称したという複雑な経緯が書かれている。
その後明治5年に智成親王は若くして薨去(17歳)され、遺言により御実兄能久親王が北白川宮のあとを継いだが、宮家が東京に移転し、能久親王は明治3年からプロイセンに留学のため日本を離れており、明治9年に帰国を命じられるまでにほとんど日本に居住していなかったことから、明治8年に照高院の堂宇は撤去されることになったらしいのだが、なぜ由緒ある立派な建物が撤去されなければならなかったのかが、これだけ読んでもよくわからない。

いろいろ調べていくと、明治維新のころの宗教政策に辿り着く。
中学や高校で日本史を学んで「廃仏毀釈」という言葉は知っていたが、詳しく調べるとその実態は私が想像していたレベルをはるかに超えていた。歴史あるお寺が沢山残っている京都や奈良ですらその破壊も相当なものであったが、佐渡、土佐、富山、津和野、薩摩藩などは特に激しく、薩摩藩では島津家の菩提寺であった福昌寺を含め1661ものお寺が破壊されていることをつい最近知った。 この時期に全国の寺院の約半分がなくなっているらしいのだが、歴史の暗い部分は、通史を読むだけではなかなかわからないものだ。

たとえば、薩摩藩では次のサイトで南日本新聞に連載された記事を読むことができる。
http://myoenji.jp/haibutukisyaku.html

何故明治3年に照高院を北白川宮と改称し、智成親王を還俗させたかは、明治政府の次の布告や施策と関係がありそうだ。

明治二年 寺院の宗旨人別帳を所属藩に提出させる(行政官布告)
      …国民の戸籍を政府が寺院から奪取
     寺院堂上から菊の御紋を禁止(行政官布告)
      …門跡寺院も紋章を使えなくなった
     明治天皇の東京奠都
     神祇官を太政官の上位に置き、祭政一致の体制を確立
明治三年 大教宣布の詔…廃仏運動が全国に広がる
     富山藩主が一宗一ケ寺の令を出し、領内大多数の寺院を廃毀

もし「照高院」が門跡寺院として残っていれば、北白川が観光地になっていたことはほぼ間違いないだろう。
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京都四条大橋の話

現在の四条大橋

京都市内を南北に流れる鴨川にはいくつもの橋があるが、祇園や東山を散策する際には四条大橋を行きか帰りに渡る人が大半だろう。 京都に生まれ育った私は何度四条大橋を渡ったかわからないが、最近インターネットでこの橋の歴史を調べて驚いた。

福本武久さんという方が祇園の花街で発行されている「ぎをん」という雑誌に寄稿された文章を引用させていただくことにする。
http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/essay/es02/es0209.html

『…鴨川にかかる数ある橋のなかでも、四条大橋は、すでに明治の初めから特別あつかいされてきた。木造だった橋は、明治七年、最初の鉄橋として生れかわっている。
 京都で唯一の鉄橋を誕生させたのは、京都府と祇園の町衆だが、隠れた生みの親は廃仏毀釈という社会的現象なのである。
 仏教を排斥する廃仏毀釈は明治五年ごろからはじまっているが、そのきっかけは維新時にさかのぼってみることができる。明治新政府のスローガンは王政復古、祭政一致であるから、まず天皇の絶対性を確立しなければならなかった。明治元年の神仏分離令はその具体的あらわれである。それが引き金になって国家宗教として権勢をほこっていた仏教は、神道にひれふさなければならなくなった。
 廃仏毀釈は全国的なものだったが、仏教の本山をかかえる京都は大騒動であった。とくに 「神さん」と 「仏さん」が、ごちゃまぜになった神仏合体の神社は、きびしい選択を迫られた。
 たとえば北野天満宮は北野神社と改称、社内の仏像をとりはらい、二重塔をうちこわした。石清水八幡宮も男山神社と改称させられている。もともと 「八幡さま」をまつりながらも仏教的な色彩の強い神社で阿弥陀仏などの仏像が安置されていた。京都府はそれらをすべて撤去させ、諸坊のとりこわしを命じた。「祇園さん」も例外ではなかった。それまでは 「感神院」あるいは 「祇園社」とよばれていたが、八坂神社と改められた。社僧は俗名に改めさせられ、薬師如来などの仏像は移管された。神仏合体の神社はいずれも「仏さん」部門を切り捨てて命脈を保ったのである。
 廃仏毀釈というリストラの嵐のなかで、多くの寺院が廃寺に追いこまれ、本尊の仏像だけでなく仏具や什器類まで没収された。府庁に次つぎと運びこまれた金属製の仏具類、それが四条鉄橋の鉄材に再利用されたのである。…』(引用終わり)

なんと、四条大橋は明治七年に廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたのである。その後、市電の開通に伴う道路拡張のため大正2年に架けかえられたが、水害で再度架けかえられることになり、昭和17年に完成したのが現在の四条大橋である。

いろいろ古い写真をネットで探すと、明治時代の四条大橋の画像が見つかった。
四条大橋鉄橋

この時代の京都人は四条大橋が廃仏毀釈と関わりがあることを知っていたであろうが、今ではこのような事実を知っている人は少ないのではないだろうか。
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消えた鶴岡八幡宮寺大塔など

鎌倉鶴岡八幡宮に以前は薬師堂や護摩堂や経堂や大塔があったことを最近知った。
鶴岡八幡宮は、明治以前は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院であり、明治初期の廃仏毀釈で仏教施設がすべて撤去されてしまったということである。
鶴岡八幡境内図

上の写真は江戸時代に書かれた境内図、下の写真は現在の境内図だが、現在の社務所や幼稚園、研修道場などのあるあたり一帯に仏教施設が建てられていたことがわかる。
鶴岡八幡宮2008

幕末に来日したイギリス人の写真家フリーチェ・ベアトが江戸時代の「鶴岡八幡宮寺」の写真を残している。
鶴岡八幡大塔写真

上の写真はベアトが撮った大塔の写真と言われている。またこの時期に来日したスイス人の実業家エメェ・アンベールも、著書「絵で見る幕末日本」(講談社学術文庫)の中で、当時の大塔の細密画を残している。
鶴岡八幡宮愛染明王

4つめの写真は破壊された愛染堂に安置されていた愛染明王の写真である。(今は五島美術館にある)

今でこそ「八幡」といえば神社を連想するのだが、宇佐八幡宮弥勒寺、石清水八幡宮護国寺をはじめもともとは神仏習合の寺院で、この時期に仏教的な施設が撤去されたところが多いのである。

それにしても、鶴岡八幡宮のホームページにも、石清水八幡宮のホームページにも、神仏分離のことは一切記述にない。宇佐八幡宮のホームページには神仏習合のことが少しだけ書かれているが、神仏分離のことは書かれていない。

真実は、表の歴史だけではわからないものである。
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石清水八幡宮と松花堂弁当

徒然草の第52段に「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、或る時思い立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。」ではじまる有名な文章があるが、最近になってこの石清水八幡宮が以前は仏教を中心とする施設であったことを知った。

石清水八幡は貞観2年(860年)僧行教によって寺院として創建され、後に神仏習合で神社と共存するのだが、「男山四十八坊」と言われるように男山全体は以前は圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎日読経が流れているような場所だったらしいのだ。
石清水案内絵図

当時の絵図をネットで見つけたが、男山には大塔や八角堂などの多くの仏教施設が書き込まれている。下は地図で場所を復元した図である。
石清水八幡宮伽藍復元図

ところが明治元年の廃仏令で僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、堂宇も撤去されるか、一部は神殿に変えられてしまった。またこの時期に阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったという。この中には国宝級の文化財も少なくなかったらしい。

京都で生まれ育ちながら石清水八幡宮へは一度も行ったことがなかったのだが、いろいろ調べると興味を覚え急に行ってみたくなり、石清水八幡宮から松花堂庭園を歩いて松花堂弁当を食べにいくコースを思いつき、先日夫婦で歩いてきた。

大山崎ICから神社の一の鳥居近くの駐車場に車を止め、京阪八幡市駅前の観光案内所でガイドマップをゲットしてから、参道を進み始める。

一の鳥居を抜けるとすぐに頓宮があり、次いで高良神社がある。 徒然草では「極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。」と書いてあり、この僧はせっかく石清水まで徒歩で来ておきながら肝心の本殿のある山に登らずに帰ったので、兼好法師は「すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり」と結んでいる有名な場所である。

古い絵図と見比べると、今の頓宮あたりが「極楽寺」であることがわかる。また高良神社は思いのほか小さい社だったが、以前はかなり大きい建物だったらしい。

二の鳥居を過ぎて七曲りを抜けて、裏参道に入り江戸前期に松花堂昭乗が隠棲した跡地を見たのち、石清水社の湧水石清水井を見る。さらに登ってやっと男山の山頂となり、南総門を通って本殿を参拝した。
八幡宮本殿

本殿は八幡造といわれる建築様式で、丹漆塗りの立派な建物であるが、残念ながら平成の大改造中で一部がシートで覆われていた。
エジソン記念碑

本殿の西側にエジソン記念碑があるが、この碑は電球を発明したエジソンが、フィラメントに使う素材を世界各地から集めて実験をした結果、男山の竹の繊維が一番長く輝き続けたことから、この地域の竹が白熱電球の実用化に大きな役割を果たしたことを記念したものである。

そこから山を下りて、「松花堂弁当」名前の由来となった松花堂庭園で昼食。ランチで税込3859円はやや高いが、それだけの価値はある。
松花堂弁当

松花堂庭園の中に室町期の建築である松花堂書院(京都府登録文化財)があるが、これは男山にあった泉坊(男山四十八坊の一つ)の客間を移築したものでかなり立派なものであった。当時はこのような建物が男山にいくつもあったかと思うと、残念でならない。

京都には古い寺院がいくつも残っているが、廃仏毀釈で失われた文化財も測り知れない。「廃仏毀釈」という言葉は以前から知っていたが、このすさまじさは通史を読むだけでは到底理解できないものだ。
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大山崎美術館と宝積寺

前回石清水八幡宮と松花堂庭園に行ったことを書いたが、その日は時間があったのでそれから大山崎美術館とすぐ近くの宝積寺に立ち寄った。

大山崎美術館の建物はもともとは1911年に実業家加賀正太郎が個人の別荘として建てたものだそうだが、バブルの頃にある不動産会社がこの建物を壊してマンションを開発する計画が持ち上がったらしい。地元住民からこの大正期の立派な建築物を壊すことに強い反対運動が起こる中、アサヒビールが京都府からの要請もあり、天王山山麓の景観を保全するためにこの山荘を買い上げ、1996年に美術館として再生したというものである。
大山崎美術館

その後建物の文化的価値が認められ2004年に国の有形文化財として登録されている。
旧館はレトロな雰囲気がよく、棟方志巧や河合寛次郎の作品がよく似合う。
2階にはカフェがあって、そこから眺める庭園や山の景色もよいし、木々の間から隣の宝積寺の三重塔も見える。

私が訪問した日は紅葉には早い時期だったが、庭の紅葉は素晴らしいそうだ。ネットで調べると、昨年の秋の美しい景色の写真が出ている。
http://www13.plala.or.jp/chisoku/yamaza.htm

また新館は安藤忠雄氏の設計によるモダンな建物で、モネの作品などが展示されている。

時間があったので、美術館のすぐ近くの宝積寺にも立ち寄った。このお寺はあまり観光案内などには書かれていないお寺だが、三重塔をはじめ8つの仏像などが重要文化財に指定されている。何故観光地としてあまり知られていないのが不思議なくらいである。
石清水八幡宮から大山崎へ 078

ボランティアの人が、本堂・閻魔堂の案内をしてくれた。閻魔堂は閻魔大王をはじめとする五体の鎌倉時代の仏像のために新しく建てられたものだが、間近で見る閻魔大王像をはじめとする仏像の迫力のある表情に圧倒されてしまった。これだけ明るい場所で近寄って重要文化財級の仏像を見せてくれるお寺はあまりないのではないだろうか。
img_201529_23081641_3.jpg

説明によるとこれらの仏像は、すべて明治初期の廃仏毀釈の時に廃寺となった大阪府島本町の西観音寺というお寺から移されてきたものとのことである。石清水八幡宮が廃仏毀釈で堂宇や仏像などを撤去された話を知ったばかりだけに、少しばかり複雑な思いがした。

歴史には書き残されていないものの、時代に抗って文化財を守ろうとした人々が各地にいたからこそ、日本に多くの古い寺院や仏像などが残っているのだと思う。
この日は予定外に素晴らしい仏像を拝見できて満足だった。
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かみがもばなし

以前、四条大橋が明治初期の廃仏毀釈で強制的に取り壊されたお寺の鐘や仏具を溶かして橋材に使われたことについて書いた。

この時期にどれだけのお寺が取り壊されたかについては良く分からないが、京都でこれだけのお寺が無くなったのであれば、庶民の記録のようなものが何か出てこないのだろうかとネットでいろいろ探したことがある。

当時は神社と寺院が共存していたことをヒントに、有名な神社をいくつか調べていくと、「かみがもばなし」というサイトの中の「お寺の話」が見つかった。しばらく引用させて頂くことにする。
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/tyrannosaurus/kamigamo.html


上賀茂

(以下引用)
『三百年も続いた江戸時代も、終わりを告げ時代も「明治」と改められた頃、新しい国づくりがはじまりました。

ここ上賀茂の地にも、新しい時代な波が押しよせてきました。そんなある日のこと、

「えらいこっちゃ、お寺がないようになったで。」 「賀茂川に行ってみ、つぶしたお寺の柱やら燃してるで。」

と、村中は大さわぎになっています。きのうまであったお寺は、次々とこわされているのです。

そのこわした木材を賀茂河原に出して火をつけて燃しているのです。その火は数日続いていたといわれています。

むかしから、この明治になるまで、寺と神社はいっしょにまつられていました。

ところが、この時代になってから、神社と寺は別々にまつるように、
神社にある、あるいはその神社の社領地にある寺は、認めないということです。これを「廃仏令」といいます。

明治をむかえるまでの時代には、このような寺の目的は、神社を守るためとか、神社へ奉仕をするためにあったそうです。

ですから現在のように、おそう式をする寺ではないのです。

上賀茂は、むかしは、上賀茂神社の社領地でありました。ですから、このような「おふれ」にしたがい、つぎつぎと消えてしまったのです。』 (引用終わり)

「かみがもばなし」は上賀茂の歴史研究家である初田耕治氏が上賀茂小学校の育友会広報誌に寄稿されたもので、「お寺のはなし」は初田氏が大田神社の藤木さんという方から聞かれたことをまとめられたものらしい。

そこには明治に入るまでは上賀茂神社に8つのお寺があったことが記されていて、そのお寺が廃仏毀釈で全て毀されるか移転されて全てなくなってしまったということなのだが、そういえば子供のころになぜ上賀茂神社や下鴨神社の近くにお寺がないのか不思議に思ったことがあった。ネットで調べていくと、下鴨神社も同様に神宮寺というお寺がこの時期に取り壊されたことが分かった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/kyo_kamosimosya.htm

以前紹介した石清水八幡宮もそうだが、八坂神社にも北野天満宮も多宝塔などの仏教施設があったのがこの時期になくなっているのだ。どれだけの仏像や絵画がこの時期に失われたか想像もつかない。

中学や高校の歴史で学んだ廃仏毀釈は明治維新の一事件という程度の表層的な理解であったが、詳しく調べれば調べるほど、想像の域を超える凄まじいものであったことがわかる。弾圧された側の仏教の立場からの記述や、庶民レベルの記述がほとんど見当たらないのだが、あれば読んでみたいものである。
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悲しき阿修羅像

阿修羅展

今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。

その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。

今の奈良公園は廃仏毀釈以前はすべて興福寺の境内であったのだが、当時の奈良県知事が「往来の妨げになる」との理由で土塀を撤去させたらしい。そのために興福寺には今も門もなければ塀もない。正岡子規の俳句に「秋風や 囲いもなしに 興福寺」という作品があるそうだが、この経緯を知らなければこの句を理解することはできないだろう。

興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影された72枚の写真が公表されている。
http://www.kohfukuji.com/property/old_photo/index.html

悲しき阿修羅2

その中に腕の欠けた仏像の写真がいくつも出てくるし、破損した仏像ばかりを並べた写真もある。そして最後には二本の腕がぽっきりと折れている阿修羅像の写真が残されている。

「五等 東金堂集合佛體」などという表題が書かれた写真は無着・世親立像とともに阿修羅像などが無造作に並べられている。よく見ると阿修羅像の腕が折れているようだ。

興福寺集合仏体

興福寺のホームページには、これらの写真の経緯については何も書かれていないのだが、いろいろネットで興福寺の明治以降の歴史を調べると驚くことばかりである。

明治4年に「寺領上知の令」により、明治政府が古来からあったお寺の領地を全て取り上げたために、古都奈良ばかりでなく全国の由緒ある寺院の多くが一気に経済的基盤を失ってしまい、寺は内部から崩壊して、生きるために仏像や寺宝を売却する者が出てくることになった。そのために、かなりの文化財が日本各地の寺院で失われることになった。

NHKの「その時歴史が動いた」~岡倉天心・廃仏毀釈からの復興~に比較的詳しくその頃の経緯が書かれており、当時の興福寺の状況を知ることができる。
https://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_05.html

それによると興福寺の僧侶130人が春日大社の神官となり、明治5年には興福寺は廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは興福寺は無住の地であったらしい。

また、興福寺の五重塔をも明治政府は破壊しようとしたのだが、その費用がなかったので売却することとなり、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の厚い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたという話が、「神仏分離資料」に残っているそうだ。

阿修羅像の腕の欠損は廃仏毀釈が原因とも、享保二年(1717年)の火災が原因とも言われているが、火災時に破損したとすれば奈良で最も石高の高かった興福寺で160年以上も破損したままの仏像を放置していたことになる。

いずれにせよ腕の折れた阿修羅像は岡倉天心らにより修復されるのだが、現在の阿修羅像と修復前の画像とを比較すると手の位置が微妙に異なっている事に気づく。破損された画像をよく見れば、どうやら一番下の左手は合掌している手の位置ではなさそうである。右手で何かを持っていて左手で支えていたという説もあるようである。

ところで、明治時代の一定期間、誰も僧侶がいなかった興福寺の仏像は、一体誰が守ったのだろうか。一部の仏像は海外に流出しているがそれでも多くが残された。阿修羅像は腕が折れていたことが幸いして興福寺に残ることができたのだろうか。
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【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。








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外国人に無着菩薩立像(現国宝)を売った興福寺

遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
昨年の11月下旬に、生まれて初めてブログにチャレンジしてみましたが、予想を上回るアクセスをいただき大変励みになっています。拙い文章ではありますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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前回に興福寺の阿修羅像の事を書いたが、その中で興福寺のホームページの中に「古写真ギャラリー」というコーナーがあり、現在国宝にされている阿修羅像や無着菩薩立像、世親菩薩立像などが雑然と置かれている写真を紹介したが、今回も再掲しておこう。

興福寺集合仏体

このように雑然と置かれている状態がどれくらいの間続いたかはわからないが、信仰の対象であったはずの仏像がどういう経緯で野ざらし状態になったのかと、まず不思議に思う。

「五等 東金堂集合佛體」などという写真の表題も変だ。いかにも売るために等級をつけたような印象を受けるのは私だけだろうか。「佛體」という表現は、信仰の対象としての仏像に使う言葉とは思えない。

鎌倉時代に運慶が作った国宝無着菩薩立像は、現在興福寺の北円堂に安置されており、私も2年前に阿修羅像を見た日にしっかり鑑賞してきたのだが、この有名な仏像が以前は外国人が所有していたことを、昨年末にネットで知った。

無着像

アマチュアの仏像研究家で朝田純一さんという方が「埃まみれの書棚から」という素晴らしいホームページを立ち上げておられ、この経緯について次のサイトで、さまざまな古寺、古仏に関する書籍とともに紹介しておられる。
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana9.htm

このホームページによると、岡倉天心らが明治22年に発刊した「国華」という美術研究誌の創刊号に興福寺の無着菩薩立像が「ビゲロー氏所蔵」と書かれているらしい。

ビゲロー氏とは、明治14年(1882年)に来日したアメリカ人で、日本滞在の7年間で仏画から浮世絵や刀剣、漆器、彫刻など1万数千点を収集し、明治44年(1911年)にボストン美術館に寄贈した人物である。

「名品探索百十年、国華の軌跡」(水尾比呂志著:朝日新聞社刊)という本には、

「挿話の伝えるところ、その折(明治21年、九鬼隆一に率いられ岡倉天心、高橋健三が関西の古美術調査を行ったとき)文部省美術顧問ビゲローに、奈良興福寺が運慶作無着像を十数円で売り渡した事実を知って憤激した、という。我が国古美術の危機を世に知らしめる早急な措置の必要が、一同に痛感されたに違いない。」という記述があるそうだ。

我が国文化の混乱期に、フェロノサやビゲローやモースが日本の仏教美術や古美術品の価値を見出してその世界的評価を高めたことは有難いことであったが、それらを安値で買い集めて海外に流出させた張本人という見方もあるようである。

しかしながら、王政復古・祭政一致の理念に基づく宗教政策や西洋世界に追い付くための富国強兵、欧風化政策が進められる中で、日本人自身が廃寺となった寺院の仏像などに価値を充分に見いだせていなかったこともあるのではないか。

明治30年に古社寺保存法が制定され、明治31年に岡倉天心が設立した日本美術院で仏像などの修復活動が本格的に始まるのだが、もしフェロノサやビゲローの活動がなければ、このような修復活動がもっと遅れて、この時期にもっと多くの文化財が失われたかもしれないのだ。
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寺院が神社に変身した談山神社

3年前に談山神社の紅葉を見に行ったことがある。

談山神社と明日香散策 021

事前にネットでこの神社を調べた際に十三重塔の写真を見て、「神社にこんな塔があるのは珍しいな」とは思ったが、その時はあまり深く考えなかった。

昨年来、明治時期の初期の歴史に興味を持つようになり、この、桜と紅葉の名所は廃仏毀釈までは多武峰(とおのみね)寺あるいは妙楽寺と呼ばれるお寺であったことを最近になって知った。

このお寺の歴史は古く、西暦678年に藤原鎌足の長男の僧定恵が、父の鎌足の墓をこの地に移して十三重塔を造立し、680年に講堂が創建され妙楽寺と号し、その後701年に本堂が建築され、平安時代になると藤原氏の繁栄とともに隆盛したが、天台宗に転じて叡山の末寺となってからは興福寺と争い、度々興福寺の焼き討ちにあったといわれる。

江戸時代には寺領3000石、42坊の堂宇が存在したそうだが、廃仏毀釈の時に寺院のまま存続するか神社として存続するかで意見が割れ、結局神社として存続することになり、談山神社と名前を変えて、多くの仏像・仏具・経典などがその時に二束三文で売却されたり棄却されたらしい。

談山神社の名前の由来は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を倒す談合をこの多武峰で行い、後世この場所を「談(かた)らい山」と呼んだことによるとされる。

tonomine21.jpg

寛永3年(1791年)に出版された「大和名所図会」に、江戸時代の妙楽寺の案内図が書かれており、これと最近の談山神社の案内図と見比べると面白い。妙楽寺の建物が、朱塗られたり一部改築されて神社の建物に使われているそうだ。

談山神社案内図

たとえば妙楽寺の聖霊院は神社の本殿に、護国院は拝殿に、講堂は神廟拝所に変わっている。十三重塔が、神廟十三重塔などと名前が変わっているのも面白い。

談山神社のように寺院が神社に変わったものは、探せばいくらでもあるようだ。以前、石清水八幡宮(京都)や鶴岡八幡宮(神奈川)の事を書いたが、有名なところでは宇佐八幡宮(福岡)、金毘羅大権現(香川)、大神山神社(鳥取)も廃仏毀釈の時に寺院が神社になったものである。

明治の廃仏毀釈は、日本全国の国家神道化をはかるクーデターのようなものだと最近思うのだが、神社のホームページを見ても寺院のホームページを見てもほとんどがこのことに触れられていないようだ。しかし、このことを知らずして、この時期になぜ多くの文化財が失われたかを理解することはできないと思う。
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次々に廃寺となった奈良の大寺院

江戸時代の奈良の寺院を石高順に並べると、興福寺が15,033石と圧倒的に多く、次いで多武峰寺3,000石、東大寺2,211石、一乗院1,491石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石、内山永久寺971石、大乗院914石と続くのだが、これらの大寺院の領地が明治4年の「寺領上知の令」によって没収され、明治7年には寺録も廃止・逓減され、かつての大名家からの寄進もなくなって収入源がほとんど断たれてしまった。いくつか聞きなれない名前があるが、それらはいずれも明治時代に姿を消した寺院である。

多武峰寺(妙楽寺)は前々回に書いたが、今の談山神社である。
一乗院は興福寺の門跡寺院であったが、廃仏毀釈により廃寺となり、跡地は奈良県庁となり現在は奈良地裁となっている。
大乗院も興福寺の門跡寺院であったが、同様に廃仏毀釈時に廃寺となり、跡地は現在奈良ホテルとなり、現在は大乗院の庭園だけが残っている。

内山永久寺は天理市杣之内町にかつて存在し、「太平記」に後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記されている寺院でもある。江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院であり、芭蕉も若い時期に「うち山や とざましらずの花ざかり」という句を残しているが、こんな歴史のある寺も廃仏毀釈で潰されてしまった。今回はこの寺のことを少し書いてみたい。

内山永久寺記念碑

内山永久寺は鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光が12世紀のはじめに創建し、後に本時垂迹説の流行とともに石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようになり、興福寺大乗院の権威を背景に栄えた寺院である。

最盛期には浄土式回遊庭園を中心に、本堂、八角多宝塔、三重塔など50以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、建物だけでなく仏像などに見るべきものが多かったと言われている。

江戸時代寛政3年に出版された「大和名所図会」という奈良の旅行案内書に内山永久寺の絵図があるが、この図面だけでもかなり大きな寺院であったことがわかる。

大和名所図会内山永久寺

しかしながら明治の廃仏毀釈によりこの寺院の僧侶は全員還俗し、堂塔・坊舎はことごとく破壊されてしまった。

次の図面は、現在の地図に当時の伽藍を復元したものだが、これだけの建物が失われてしまった。

内山永久寺地図1

仏像・仏具などの多くは破壊されたり、焼却されたり海外に流出したが、東京美術学校長であった正木直彦氏の「十三松堂閑話録」に内山永久寺のこの頃の事が書かれているらしい。

その中には、永久寺廃寺の検分に役人が出向いた際に寺僧が還俗した証拠として、この役人の目前で本尊の文殊菩薩を薪割で頭から割ったことや、役人が仏像や仏具は庄屋中山平八郎に命じて預からせたが、年月とともに中山氏の個人所有になっていき、藤田(伝三郎)家で所有する藤原期の仏像仏画の多くは、中山氏の蔵から運んだものであったことや、金泥の経巻を焼いてその灰から金をとる商売が起こった話などが書かれているそうだ。

海外に流出したものも少なくなくボストン美術館蔵の「四天王図」は鎌倉時代を代表する作品で、日本にあれば間違いなく国宝と言われている。
石上神宮摂社・出雲建雄神社割拝殿(国宝)は内山永久寺の住吉神社拝殿を移築したものであるし、東大寺の持国天、多門天(いずれも重要文化財)、藤田美術館蔵の両部大経感得図(国宝)など国内に現存しているものの多くが重要文化財・国宝指定を受けている。 現在この寺院がもし残っていれば、超一級の観光名所になっていたことは確実であろう。

内山永久寺跡地の現状

現在では当時の敷地の大半は農地となり、ビニルハウスが一杯並んだ光景が悲しい。わずかに内山永久寺の石碑と案内図や芭蕉の句碑、後醍醐天皇が一時この寺院に身を隠された「萱御所跡」という碑が残されていることがネットで確認できる。

詳しく知りたい方は、次のサイトを参考にしてください。古い貴重な資料や図面や現在の写真などが満載です。

大和内山永久寺多宝塔
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm
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文化財を守った法隆寺管主の英断

前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。

現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。

興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでの9年間は無住の地となり、五重塔も売却されたが近隣住民の反対で焼却されずに済んだ経緯にある。

では他の大寺院はどうだったのか。今回は法隆寺の事を書こう。

法隆寺

岩波新書に関秀夫氏の「博物館の誕生」という本があり、その中に法隆寺の当時の状況を伺い知ることのできる記述がある。

「戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の破壊は免れたものの、経済基盤である寺領を取り上げられたために、僧侶たちの日常生活もままならない状態に陥り、古くから伝えられてきた貴重な古文書を、かまどの焚きつけに使ってしまうという情ないありさまであった。奈良市内の旧家には、そのころ、法隆寺や唐招提寺、海竜王寺などから、寺僧が持ち出して酒代のかわりに使った、寺印のある一切経の片割れが多数伝わっている。」(75p) 「…法隆寺の荒廃もひどかった。寺領を失い、廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏り、明治五年に調査が入ったときには、目を覆いたくなるほどの状態であった。」(81p)

法隆寺もこのような状況が長く続けば、老朽化していた伽藍や堂宇を棄却するか、売却するかの選択を迫られていただろう。佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」という本には、「法隆寺は、仏像・仏具を廃棄して、聖徳神社にされそうに」なったと書いてある。
しかし、法隆寺は明治11年、管主の千早定朝師の大英断によりこの経済的危機を乗り越えることになる。

以前紹介した朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」というホームページが、本の紹介とともに、この頃の経緯を詳しく記述している。

明治4年に寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、明治7年に法隆寺の寺禄千石が廃止・逓減されて、法隆寺の収入源がほとんど断たれてしまった。

そこで明治8年、塔頭寺院のほとんどを取り畳み、寺僧たちは西円堂御供所で合宿生活を送るなど、倹約に勤めたという。今のリストラである。

「こうしたなか、宝物の多くを売りに出す大和の古寺も少なくない有様であったが、法隆寺では、貴重な宝物類を皇室に献納し、末永く保存されることを願うこととしたのである。寺僧協議を重ねた末、何某かの下賜金あることを期待してのことであった。」 「明治11年献納の儀が決定、1万円が下賜され、当面の維持基金とすることができた。」

この1万円で、法隆寺は息を吹き返し、8千円で公債を購入し、金利600円を運営維持費に充て、2千円を伽藍諸堂の修理費に充てたそうである。

法隆寺宝物館

この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、これが東京国立博物館の「法隆寺献納宝物」と言われるもので、現在は東京国立博物館の敷地内にある法隆寺宝物館でほとんどすべてを見ることができるそうだ。

200px-Prince_Shotoku.jpg

ただし有名な「聖徳太子および二王子像」「聖徳太子筆法華義疏」などは皇室ゆかりの品としてそのまま宮内庁に留め置かれたため見ることができないとのことである。

【ご参考】朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」の関連ページ
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana19.htm
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana20.htm

今の日本人で聖徳太子について悪いイメージを持つ人はほとんどいないと思うのだが、廃仏毀釈を行った側の考えでは、聖徳太子は仏教を擁護し天皇を蔑にした人物として糾弾する考えが強かったようだ。
この献納と下賜金がなければ、法隆寺も他寺と同じく、多くの宝物、仏像などが流出売却、あるいは棄却・焼却された可能性が高かったのではないか。

千早定朝

当時の管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納することによって、法隆寺は国民の文化財を守り、自らも寺院として存続できる道を開いたのである。

しかしながら、1994年にフランスのギメ美術館で法隆寺にあった勢至菩薩像が発見されている。戒律が厳しく、管主のリーダーシップで立ち直った法隆寺ですら、仏像が流出したのだから、あとの寺院は推して知るべしである。
<ギメ美術館で発見された法隆寺の仏像>
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_20_4.html
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明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺

明治の廃仏毀釈によって、全国で10万ケ寺あった寺院が5万ケ寺に減ったという記事を読んだことがある。その中で、浄土真宗は明治維新直後の廃仏毀釈の影響をあまり受けなかったと言われているが、いったいどういう経緯があったのか。

西本願寺は江戸時代を通じ朝廷に忠誠を誓っており、明治に入っても巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出さなかったことは理解できる。

ところが東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万両の軍資金を提供したり、元治元年(1866)年の蛤御門の変で堂宇が類焼した後慶応2年(1866)には逆に幕府から5万両の寄進を受けている。慶応3年(1867)の大政奉還の後も、末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕府の指揮下に入ることを申し出ているなど、一貫して佐幕派であったが、さすがに、戊辰戦争がはじまった頃には時代の潮流を感じたか、当時の厳如上人は朝廷に一札を入れて勤王方に着き、御所の警護や討幕運動の資金調達に奔走し、多額の軍費や兵糧米を献納したようである。

しかし永年徳川幕府と親密であっただけに、慶応4年の年始に行われた宮中会議においては、東本願寺を焼き打ちにする案が出されたことがあった。その時は「叛意がない」旨の誓書を朝廷に提出して事なきを得たが、その後廃仏毀釈で全国の寺院がいくつも廃絶されるにおよび、東本願寺も薩長勢力を中心とする明治政府から冷遇、あるいは弾圧される危機を強く認識していたのである。

   この難局を乗り切るために、東本願寺がとった方策は、明治政府に平身低頭し、ひたすら忠誠を尽くすことであった。

一方、成立して間もない新政権にとってみれば当時ロシアの南下政策の脅威に対抗するために、北海道の開拓と移民の入植が急務であったが、その資金と労働力の調達が困難であった。

本願寺09204

そこで、東本願寺は北海道の開拓に協力することを自ら申し出て、新政府に協力する意思表示をするのだが、実態は明治政府からの圧力により協力させられたのだと思う。

明治2年(1869)9月に、政府は東本願寺に北海道の開拓を命じ、明治3年(1870)2月に、当時19歳の新門跡現如上人を筆頭に、僧侶や信徒178人が京都を出立し、悲願の旅が始まる。 一行は信者の寄進を呼び掛けつつ、越中、越後、酒田と北上し、「廃仏思想」の根強い秋田は船で進んで青森に上陸するなど苦労しながら、函館にようやく7月に到着している。

本願寺09205

東本願寺一行は尾去別(おさるべつ:現在の伊達市長和)を起点とし、洞爺湖の東側、中山峠を通り平岸(ひらぎし:現在の札幌市豊平区)を結ぶルートの道路建設を開始し、この道路は後に「本願寺道路」と呼ばれた。工事は、明治3年7月から明治4年10月にかけて行われ、長さは約103kmで、これが現在の国道230号の基礎となったと言われている。

本願寺道路地図

当時はもちろんショベルカーやダンプカーや電動機具のようなものはなく、すべて人力で土を掘り、石や土を運び、木を切り、根こそぎ掘るなどの作業がなされたことは言うまでもない。オオカミ等にも襲われながら大変な苦労をして出来上がった道路である。

現如上人像

上の写真は工事の最大の難所と呼ばれた中山峠に立つ、現如上人の銅像である。
実は、北海道の開拓はこの時期に東本願寺だけが協力させられたのではなかった。
佐伯恵達氏の「廃仏毀釈100年」によると、政府は、東本願寺だけでなく明治2年9月17日に増上寺にも北海道静内郡および積丹等の土地の開拓を命じている。また12月3日には、仏光寺に北海道後志、石狩の地の開拓を命じている。

つまり明治政府は、廃仏毀釈で廃寺になるかも知れない寺院の危機をしたたかに利用し、寺院や信者の寄進による金で、北海道の開拓をはじめたということだ。

その後廃仏毀釈が下火になると、明治政府も寺院の協力を得ることができなくなり、その後は囚人やアイヌに過酷な労働をさせて北海道の開拓が進められることになる。

明治政府がこれだけ北海道の開拓を急いだのは、前述したとおりロシアの南下政策に対抗して国土を守るためにやむを得なかった背景がある。ロシアは1860年の北京条約により沿海州の一部を清から割譲され、極東を征服する準備を整えていたのである。明治政府が何もしなければ、北海道は容易にロシアに占領されていただろう。(沿海州の最大の都市「ウラジオストク」の名はロシア語で「極東を征服せよ」の意)

通史を読んでもこれらの史実はほとんど書かれていないが、昔の人々がこんなに苦労して歴史ある寺院を現在に残していることや、国土を開拓した背景や努力は、いつまでも忘れるべきではないと思う。その先人の思いが理解できなければ、いつまでも我が国の文化や伝統を守ることも、ひいては国土を守ることも容易ではない。
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明治期の危機を乗り越えた東大寺

以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。

東大寺明治5年

ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何本か組み立てられているのも写っている。「軒反り」といわれる軒先の 微妙な反りがほとんどなくなっている。現在の東大寺と比較すればその違いは明らかである。

東大寺

廃仏毀釈が吹き荒れた明治の初期の東大寺大仏殿がこんなに傷んでいて、大きな地震でもあれば倒壊してもおかしくない状況だったことを私が知ったのはつい最近の事だ。

当時の大仏殿は江戸時代の元禄期に再建されたもであったが、設計に狂いがあったために建築全体に歪みが生じ、建物全体が反時計回りに捻じれており、雨漏りもひどかったらしいのだ。

東大寺内の伽藍堂宇の造営修理に携わる勧進所が江戸時代の修理の際より東大寺塔頭の龍松院にあり、それ以来東大寺当局には大仏殿の管理権がなかったのだが、明治になって勧進職自体が廃止されてしまって、東大寺は大仏殿の修理のめどがつかなくなってしまった。

明治3年に東大寺は奈良県に、大勧進職の職名を復活することを嘆願したのだが、「大仏殿は東大寺全体で管理すべきものであり、寺禄により修理するように」との指示がなされ、次に明治政府に同様の申し出をしたが「全国で廃止している勧進職を復活することはできない」と突き放されている。

そして明治4年には寺領上知の令で土地が没収され、大きな収入源が断たれてしまい、各堂の賽銭などの収入では、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態になった。

さらに大きな問題は、それまで大仏殿の管理権を持っていた龍松院側が東大寺当局に大仏殿を引き渡すことを拒んだことである。本来ならば、勧進職である龍松院は大仏殿を修理する手はずを整えなければならなかったのであるが、大仏殿の賽銭収入や信者や有志から修繕費用を集める利権や資金などは手放したくなかったのだ。

ただしこの問題は奈良県が通達を出して、明治5年に大仏殿の管理権がようやく東大寺当局に移ることになるが、勧進職の復活を認めてもらえないために、修繕費用を集めることもできない状態が長く続いた。

年数がたち、天竜寺や東福寺で勧進許可の前例が出て、明治15年になって東大寺は大阪府(以前のブログで書いたように、当時は奈良県は大阪府に吸収されていた)に、国の巨額の寄付と信者の布施と勧進により財源を確保して大仏殿を修理したい旨の願書を提出している。しかしながら大阪府は、国からの寄付を拒否し、信者の布施と勧進だけを許可している。要するに、寺の修理の資金は自分で工面せよという考え方であった。

ところが明治政府の対応に若干の変化が出てくる。10月に大仏殿修理に関する寄付勧進許可が出た際に、宮内庁から500円の下賜があった。

東大寺側も全国的な勧進と信者からの布施を集めるための大仏会が組織されて、資金集めを開始するのだが、当初はなかなか資金が集まらなかったようである。当初の予算は42700円であったが、明治16年から25年までに大仏会で集めた資金は4600円に過ぎなかった。

そこで東大寺は明治25年に大仏殿営繕費下賜願いを明治政府に提出したところ、今度は寺社局長から3500円、内務省から6500円もの助成金が与えられ、ようやく修理が進むかと思われたが、あいにく明治27年(1894)に日清戦争が始まり、物価騰貴のために予算が約4倍の18万円に跳ね上がり、工事が中断されてしまう。

それでも多くの人の資金協力により明治36年(1903)に修理準備工事に入るも、翌年の日露戦争開戦でまたもや工事が中止となり、一層の物価騰貴となる。

明治39年に、再度予算を687,221円88銭に改定し工事が再開されて、上棟式にこぎつけたのは明治44年(1911)で、工事が完成して大仏殿落慶総供養が行われたのはなんと大正4年(1915)のことであった。もっと早く修理を終えていれば、こんなに資金も要らなかったであろうに。

貴重な文化財を修理することには莫大なコストがかかるものではあるが、これを寺院の自助努力だけでは到底不可能である。明治初期の廃仏毀釈の嵐がすぎて、日本の文化が再評価され出してから日本政府が完全に方針が変わるのは明治30年の古社寺保存法の公布の頃だが、それまでの東大寺の苦労は並大抵のものではなかったはずである。

文化財を後世に残すためには当事者の努力が必要であることは言うまでもないが、信者や国民に守る意思があり、国にもその意思があってはじめて守れるものなのである。
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一度神社になった国宝吉野蔵王堂

吉野の桜 019

3年前の桜の時期にバス旅行で吉野に行ったことがある。有名な桜の名所だけに凄い人だった。

吉野の桜 010

ここを訪れる人の大半が、行きか帰りに、東大寺大仏殿に次いで日本で二番目に大きい木造建築物である金峯山寺(きんぶせんじ)の蔵王堂を参拝して休憩をとると思うのだが、この時はこの寺院の歴史を何も知らずにただ参拝しただけだった。

最近になって廃仏毀釈の事に興味を持つようになりいろいろ調べていくと、金峯山寺のホームページに「明治7年、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり」と書いてある。たまたまカメラに収めた寺院の案内板にはもっと踏み込んで「神仏分離政策により、蔵王堂などが強制的に神社に改められる」と書かれてあるのを最近ようやく気がついた。この寺院も明治の初期に大変なことがあったのである。

今回はこの金峯山寺について書くことにしたい。

吉野山は古くからの修験の地であり、蔵王権現を祀る蔵王堂を中心に多くの社寺があり、以前は、山全体を金峯山寺と呼ばれていた。

吉野山勝景絵図

上の図は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」で、絵図の中央にある大きな建物が蔵王堂である。蔵王堂の近くに鳥居があるが、これが「銅(かね)の鳥居」と呼ばれる日本最古の銅の鳥居である。
修験者はこの鳥居に手を触れて巡り「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」との讃仏歌を3度唱えて入山するそうだ。
今でこそ鳥居は神社の象徴と誰でも考えるが、昔はそうではなかったらしく、その讃仏歌がこの鳥居に刻まれているらしい。鳥居の扁額は空海の筆によるものとされ、「発心門」と書かれているそうだ。要するにもともとは、鳥居は「門」であって、仏教的色彩が強いものであったのだ。

蔵王堂に祀られているのは蔵王権現だが、「権現」とは「仏や菩薩が人々を救うために、この世に仮の姿を現した者」という意味で、蔵王権現像は、右手を頭上に振り上げ、右足も蹴りあげて、憤怒の相をしているところに特徴がある。

蔵王権現像70

このような仏像は、インドや中国には例がなく、日本で独自に創造されたものだと考えられている。画像の蔵王権現像はパンフレットのものだが、残念ながら秘仏として普段は公開されていない。

この吉野全山に神仏分離令が適用されたのが、慶応4年(1868)6月のことで、それは蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾神勤せよというものだった。(復飾=僧が還俗すること)

もともと吉野は神仏習合の地であり金精明神などの神社も存在したが、圧倒的に仏教色の強い地域であった。この絶好の機会に全山に勢力を拡大しようとした神職身分の者もいたが、明治元年から三年の段階では彼らの策動は成功しなかった。

しかし、明治四年から六年にかけて、吉野の神仏分離を徹底し、山全体を金峰神社とせよとする明治政府の指令が繰り返され、明治七年には吉野一山は金峯山寺の地主神金精明神を金峰神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることに定められ、仏像仏具は除去されてしまう。山下の蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができないのでその前に幕を張り、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束をたてた。また僧侶身分のものは、葬式寺をつとめる一部の寺院を除き全員還俗神勤したのである。

金峯神社

この写真は金峰神社だが、こんなしょぼい神社を吉野全山の本社と言われても、偉容を誇る蔵王堂とは比べものにならず、参詣者は鏡や幣束を無視して、口宮では蔵王像に、奥宮では行者堂に参詣したそうである。このような民衆の不満を背景にして、明治政府としても寺院への復帰を認めざるを得なくなり、明治十九年に二つの蔵王堂が仏教に復したのである。

同じ時期に神社にさせられた山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などの修験の寺院は二度と寺院に戻ることはなかったが、吉野の二つの蔵王堂は寺院に復した珍しい事例である。

寺院に復することができたのは、金峯山という場所が7世紀に役小角(えんのおづぬ:山岳修行者)が修行中に蔵王権現が現れた由緒ある地であるとの修験者や信者の思いが強かったとか、門前町である吉野町民の運動の成果とも言われているが、修験者・信者・町民のすべての努力が咬みあった結果なのだろうと思う。
この時期に廃寺となったり神社になったり荒廃した寺院の多くは、そのいくつかが欠けていたのではないだろうか。以前書いた内山永久寺にしても、談山神社となった妙楽寺にしても、興福寺にしても、僧侶は政府の言うがままに全員還俗して神官となったが、法隆寺や東大寺や東本願寺や吉野蔵王堂は僧侶が容易に信仰を捨てずにいたからこそ、文化財を今に残すことができたのではないか。

いかなる時代も、まず当事者が理不尽なことには闘う姿勢がなければ、信者や民衆の支持も得られず、守るべきものが守れないのだと思う。
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明治の皇室と仏教

5年ほど前に京都東山にある東福寺の有名な紅葉を見た後に、すぐ近くの泉涌寺に立ち寄ったことがある。このお寺も紅葉で有名なので訪れただけなのだが、この時にこの泉涌寺で南北朝から安土桃山時代および江戸時代の歴代の多くの天皇の御葬儀がここで執り行われ、皇室とは縁の深いお寺であることをはじめて知った。

泉涌寺

暗殺されたとの説もある幕末の孝明天皇の御葬儀もここで行われたのだが、孝明天皇の次は明治天皇だ。明治以前は京都に都があって天皇家が仏教徒であったという当たり前のことに気付かされたが、その頃は歴史にそれほど関心がなく、それ以上深くは考えなかった。

昨年あたりから廃仏毀釈の頃に興味を持つようになっていろいろ調べると、明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、「上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃しました。」(佐伯恵達「廃仏毀釈百年」p295)とある。

淡々と書かれているが、こんな重要なことが何の抵抗もなくなすことができたということに疑問を感じた。

皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離が正しいとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかなのだろうが、真相はどうだったのか。

色々調べていくと、明治天皇暗殺説まである。それくらいの事がなければ、皇族すべてが神仏分離に従うということは起こり得ないようにも思える。

meiji.jpg

明治天皇の即位の頃の写真が「幕末写真館」というサイトで見つかったが、この写真がもし本物で中心にいるのが明治天皇であれば、我々がよく目にする明治天皇の写真とはあまりにも異なる。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

明治天皇2

即位前と後では顔も体格も字も教養も運動能力も全く異なるというのが事実であれば、すり替えられたと考えるのが自然である。すり替えで天皇となった人物の名前が南朝の末裔の大室寅之祐ということまでわかっているというのだが、皆さんは次のサイトを読んでどう思われますか。

古川宏という士族の末裔の方が「士族家庭史研究会」というサイトで、明治天皇の出自についてかなり詳しく調べておられる。
http://www8.ocn.ne.jp/~shizoku/meijitennou.htm
あるいは竹下義朗氏の「帝国電網省」の記事もすごく説得力がある。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku4.html
現在とは違って当時は天皇の顔を知る者はごく一部であったから、皇族を除いてはすり替えてもわかる人がごく一部しかいなかったことは確実で、こういうことができる条件は十分にあったのである。

さらにいろいろ調べると、皇族の中でも明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否した女性がいたことを次のサイトで知ってほっとした。
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20090416/p1

日榮尼

「中外日報」という仏教系の新聞に歴史家の石川泰志氏が寄稿したコラムだが、廃仏毀釈の荒波に抗して日本仏教を守り抜いた3人の皇族女性を紹介している。3人とは伏見宮邦家親王の娘で出家していた誓圓尼(浄土宗善光寺大本願住職)、文秀女王(臨済宗妙心寺派円照寺門跡)、日榮尼(日蓮宗村雲瑞龍寺門跡)だが、しばらく記事を引用すると、

「善光寺を善光神社に改めようとする画策に、誓圓尼は「一度仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようともこの度の仰せには従い得ない。我が身は終生仏弟子として念仏弘通の為に捧げよう」と決意、善光寺存亡の危機を救った。
 文秀女王も実家に連れ戻されたものの、戒律を遵守し仏弟子として振る舞ったため、父邦家親王が不憫に思い円照寺へ戻ることを許した。
 日榮尼は明治元年当時まだ十一歳ながら還俗を迫る使者に「日榮は仏道に入りし以上は行雲流水の身となり樹下石上を宿とする共還俗はいたしませぬ」と断言、不惜身命の勇気で廃仏毀釈論者の目論見を一蹴した。
 三姉妹の仏法護持の勇気は、皇室の仏教祭祀廃止にもかかわらずなお皇室と仏教の精神的結びつきを維持する上で大きな力となった。」と書かれている。

この時に男性の皇族はすべて還俗したそうだが、この3人の女性が日本の仏教の危機を救ってくれた貢献者であることは間違いがない。
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明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」

前回は先週行った徳島・香川方面旅行の1日目のことを書いた。その日は祖谷のホテルで一泊し、2日目は「こんぴらさん」に向かう旅程だ。

「こんぴらさん」へは今まで一度も行ったことがなかったのだが、急にここに行きたくなったのは昨年来廃仏毀釈に興味を覚えて調べているうちに、廃仏毀釈が起こるまではここは象頭山金光院松尾寺という真言宗の寺院であったことを知ったからである。

金毘羅参詣名所図会

上の絵図は江戸時代の「金毘羅参詣名所図会」の象頭山金光院松尾寺の図だが、左に多宝塔が描かれているのがわかる。

松尾寺の開基は805年とかなり古く、金比羅大権現が守護神だったのだが、「金毘羅」とは梵後(インドの古代語)のKumbhiraの音訳で、「雑阿含経」や「金光明経」、「大宝積経」、「薬師如来本願経」に出てくる印度仏教の神であり仏教守護の神である。

ところが明治に入って、「凡そ神と名のつくものはすべて日本神道のもの」という狂信により、仏教施設が徹底的に破壊してしまった。そして、誰もが今も「こんぴらさん」と呼んでいる施設名を、仏教色のない「金刀比羅宮」とし、町の名前もご丁寧に明治六年に「金毘羅町」から「琴平町」に改称している。

佐伯恵達氏の著書「廃仏毀釈100年」には「明治元年の令達によって、別当職の僧宥常は還俗して琴陵宥常と改名し、金毘羅を改めて金刀比羅宮となし、その宮司となったのです。千古以来の建築物は、仏像仏具類を廃棄して神社にしてしまいました。すなわち、阿弥陀堂が若比売社、観音堂が大年社、薬師堂が旭社、不動明王が津嶋神社、摩利支天堂・毘沙門堂が常盤神社、日子神社、孔雀堂が天満宮、多宝塔は明治三年六月に打ちこわし、経蔵や文庫・鐘楼も打ちこわし、大門は左右金剛力士像を撤去し、二天門も左右の多聞天、持国天の二像を撤去し、万灯堂は火産霊社に、大行事堂は産須毘社に、行者堂は明治五年にうちこわし、山神社は大山祇社と、ことごとく名前を変えて神社として使用することになりました。…こうして、金毘羅大権現も、祭神としての大物主神や崇徳天皇へとすり替えられてしまいました。(引用終わり)」と、書かれている。
ということは、今の「こんぴらさん」には金毘羅大権現はなく、根強いこんぴら信仰に基づく参拝が途絶えないように、良く似た名前の神社名に変えたということだ。
参考までに元禄期の地図と、平成の地図を用意したので、見較べていただきたい。
konpira_genroku.jpg
konpira_genzais.jpg

これは徹底した文化破壊であり腹立たしいのだが、なぜこのような歴史的事実が正しく伝えられないのだろうか。

金毘羅大権現の別当職の僧宥常は、明治元年3月に神仏分離令が出て翌4月には大権現は日本古来の神ではない旨の上申書を提出したが、翌5月には豹変し大国主命と同体であると認める嘆願書を提出している。6月には松尾寺の堂宇を改廃する旨申告し、琴平神社と改名までしている。

この時に神社化に反対した僧侶も少なからずいたようだが、別当職の僧宥常に信者を守り歴史ある文化財を何とか守ろうとした姿が見えてこない。見えてくるのは、自分自身の保身ばかりではないか。

この時期に松尾寺の僧侶がどういう行動をとったかは次回に記すことにして、話を先週の旅行に戻そう。
祖谷のホテルを出て1時間半くらいで目的地近辺に到着し、民間の駐車場に車を預けた。
商店が並ぶ筋を抜けていよいよ階段を上り始める。

祖谷渓・こんぴら 099

最初の施設は365段目にある「大門」。
この大門には左右に金剛力士像があったはずなのだが、今は人形のような随身像が置かれている。

祖谷渓・こんぴら 101

途中で「宝物館」に立ち寄る。1階には三十六歌仙の絵と歌がかかれた絵などが展示されているが、2階に上がると、奥の方にこんな阿弥陀如来像が展示されていた。
祖谷渓・こんぴら 106

この仏像は廃仏毀釈によって川にでも投げ込まれたのであろうか、顔などの輪郭が殆どわからなくなってしまっている。このような破損仏が3体ほど、何の解説文もなく並べられていたが、何故、仏像としては価値を失ったものを「宝物館」に展示するのだろうと考え込んでしまった。

次に「書院」に入る。ここは松尾寺の本坊・金光院のあったところで、円山応挙の障壁画などが残されている。

祖谷渓・こんぴら 111

これが629段目の「旭社」。
祖谷渓・こんぴら 117

以前は松尾寺の金堂であり須弥檀があって仏像が並んでいたのだろうが、今では中はこんな状態になっている。

祖谷渓・こんぴら 118

ここが785段目の金刀比羅宮の御本宮。

祖谷渓・こんぴら 123

この日は快晴で、展望台から眺める讃岐平野の眺めは良かった。
祖谷渓・こんぴら 124

奥の院までは1368段。夫婦とも杖なしで完走して帰路に着いた。

昼食は、いろいろ讃岐うどんのおいしい店をネットで調べていたところに車で行くつもりだったのだが、おなかがすいたので参道の商店街にある「こんぴらうどん」に入る。職人が足踏みし手打ちして包丁切りしたばかりの麺でいただいた「生しょうゆうどん」は、歯ごたえがよく旨かったので、お土産のうどんは全部ここで買って帰ることにした。

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「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂

「こんぴらさん」の長い石段を785段登ったところに、金刀比羅宮の御本宮があり、三穂津姫社があり、その隣に絵馬堂がある。

祖谷渓・こんぴら 128

「絵馬堂」には大手や中小の船会社が航海の安全を祈念したり、大漁を祈願する絵馬が所狭しと吊るされている。これは「こんぴらさん」が海の神様だと信じられているからである。

祖谷渓・こんぴら 129


船だけでなく飛行機や日本人で最初の宇宙飛行士となった秋山豊寛氏の絵馬まで並べられている。海の神様が、空まで面倒を見てくれると考えられているのが面白い。

しかし、肝心の航海の神様である「こんぴらさん」こと金毘羅大権現は、明治の廃仏毀釈以降は金刀比羅宮には存在していないのだ。

金刀比羅宮の公式ホームページには「金刀比羅宮には主たる祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿(あいどの)に崇徳(すとく)天皇が祀られています。大物主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めています。」と書かれている。

この文章は変な文章だ。少なくとも廃仏毀釈までは「漁業航海…神徳を持つ神様として、…厚い信仰を集め」たのは金毘羅大権現の「こんぴら信仰」があったからなのだが、この文章は明治以降のことだけを語っているのか。

金毘羅大権現が廃仏して御祭神が変わってしまったことが遍く知れわたっては、参拝者が激減してしまう。そこで多くの観光客が、御祭神が変わったことを気づかずに参拝できるよう「金刀比羅宮」と、「金毘羅」とよく似た名前を考案したことは容易に想像がつく。

祖谷渓・こんぴら 123

御祭神が「金毘羅大権現」だと思っている参拝者は今も多いと思うのだが、神社参拝の場合は御祭神を見ないで帰るので何も気づかずに参拝して帰ることになってしまう。

前回このブログで、廃仏毀釈の時に神社化に反対した僧侶がいたことを記した。
当時松尾寺には金光院があり、その支配下に真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院があったが、そのうちの尊勝院、普門院がその当時神社化に強く反対したらしい。
その普門院が金毘羅大権現、釈迦如来等を引き継いで松尾寺と名を変えて法灯を継いだのだが、その松尾寺が明治42年に金刀比羅宮を相手取り「現金刀比羅宮の建物・宝物は元来金刀比羅宮のものではなく、松尾寺のものである。」とする訴訟を起こしていることを見つけて興味を覚えた。
いろいろネットで調べると、次のサイトに「六大新報」という宗教新聞に訴訟に至るまでの両者交渉経緯についての面白い記事(明治41年12月20日付)が転載されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_kotohira.htm
簡単に記事を紹介すると、
明治元年9月:松尾寺金光院の宥常は復飾改名し宮司となり、僧侶二十数名のうち2,3の還俗者を除いては一時金を得て四散したが、普門院宥暁のみは強硬に理を持って、寺院維持を主張した。そこでついに松尾寺一山の堂塔を旧照明寺(寺跡あり)に移し、松尾寺の 法灯を継承することを条件に、松尾寺の私有財産を売却し、家来に分配した。
仏像仏具経巻その他什器は宥暁に引継ぐまでは金堂(現旭社)に格納し、一切の山規寺法などの書類を普門院宥暁に渡した。

明治4年に普門院を金光院の別邸の地に放逐し、宥常は金堂に格納した仏像・仏具を宥暁に引き渡そうとしたが、普門院宥暁は盛大なる引渡し儀式を計画したため、社務所側では再び維新以前の状態に戻ること(金毘羅大権現は寺院であり)を恐れ、前約束は反故にし、一切の仏像などを焼却することに決定した。
一切の物件は元神護院還俗・神埼勝海が総督になり、浦の谷に持ち行き、仁王尊をはじめ仏像仏具経巻などの大過を焼却した。 その折、宥盛法印の木造を火中すると暴風が起き総督は気絶したという。焼却されなかった物もこの騒動で皆紛失した。

その後3代にわたり、松尾寺は社務所と交渉するも回復策に尽力したのだが、社務所側の抵抗が強く事態は好転しなかったので、終に訴訟に及んだとの経緯である。

この訴訟は明治43年7月に裁判所で判決が出て、原告の請求を棄却している。
棄却理由は、明治維新の改革で金光院は還俗し、金刀比羅宮に一切を譲った。この時点で松尾寺金光院は消滅している。現松尾寺はその所有権を主張する正統性はない、というような内容だったそうだ。

松尾寺は、今も金刀比羅宮の参道を外れて海の科学館の近くにあるようである。明治のあの時期に普門院宥暁が黙って宥常から仏像仏具を受け取っていれば、多くの文化財が残されたことだろう。

これだけ由緒のある名所旧跡でありながら、金刀比羅宮には重要文化財はあっても国宝が1件も存在しないのは以上記した経緯によるものである。
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数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像

先月の徳島県祖谷(いや)地方から「こんぴらさん」を巡る旅行の下調べをしていた時に、「こんぴらさん」の2体の仏像が海を渡って、「裸祭り」で名高い岡山県の西大寺観音院に安置されていることを次のサイトで知り興味を持った。
http://www.geocities.jp/rekisi_neko/konpira.html

裸祭り

どういう事情で、「こんぴらさん」の仏像が西大寺観音院に行ったのだろうか。

西大寺観音院の公式ホームページには
「…明治維新のころ神国日本は古来の神をこそ祀るべきで、渡来した神仏を祀る必要は無く、よって仏像・寺院は破壊するべきだ”という廃仏毀釈の運動が起こり、仏教は迫害された。」
「 讃岐の象頭山松尾寺金光院の鎮守として祀られていた金毘羅様もその被害を受け、松尾寺はその住職が僧職を辞し、神職として日本の海上安全の神である金刀比羅(ことひら)様に奉仕することを決め、寺院から神社へとその姿を変えた。このため多くの仏像が打ち壊しになり、これを見かねた金光院の末寺である万福院の住職宥明師が、明治7年7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎(すなみすけごろう)宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。」
「その後、この話を聞いた岡山藩主池田章政公が、自らの祈願寺である下出石村の円務院に移したが、廃藩置県によって池田候は東京へ移り、当山住職の長田光阿上人が明治15年3月5日当山へ勧請した。現在は、もともと当寺の鎮守である牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀されている。(引用終わり)」と記されている。

角南助五郎の故郷である「津田村君津」とは現岡山市の南東郊外であり、宥明はこの二体の仏像を船で持ち出したことになる。今でこそ車や電車で瀬戸内海を簡単に渡れるようにはなったが、今の瀬戸内自動車道で坂出ICから早島ICから37.3kmもある。仏像が保管されていた「旭社」(前松尾寺金堂)から、629段の階段を気づかれずに運んで下りるのも大変な苦労があったろう。

西大寺不動明王

上の仏像が、「こんぴらさん」から持ち出された不動明王像。

西大寺毘沙門天

この仏像が、「こんぴらさん」から持ち出された毘沙門天像である。

前回の記事に書いたが、当時松尾寺は金光院を中心とし、その支配下に真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院があったが、そのうちの尊勝院、普門院がその当時神社化に強く反対したという。万福院は神社化に賛成した側であった。その万福院の住職宥明師が「こんぴらさん」の仏像2体を救ったのである。賛成した側であったからこそ、疑われずに持ち出すことが可能だったのかも知れない。

前回紹介した「六大新報」の記事では、いつ頃金刀比羅宮による仏像等の破壊があったかがはっきりしなかったが、元岡山藩主の池田章政公は明治二年の版籍奉還で岡山藩知事となり、明治4年11月の廃藩置県で免官となっているので、明治4年の秋までに仏像破壊等があり、その直前に万福院の住職宥明師が二体の仏像を持ち出したか、破壊活動中に暴風が吹いて神埼勝海総督が気絶したとされるタイミングを狙って持ち出したか良く分からないが、いずれにせよ暗夜に運び出して、大変な苦労をして角南助五郎宅に持ち込んだことと思われる。そして池田章政知事の指示で知事の祈願寺の円務院に移された時は関係者の誰もが、「これで大丈夫だ」と安心したことであろう。

ところが、先程記したとおり廃藩置県で旧藩主は知事を解任されて東京に移り、旧藩主が持ち込みを指示した円務院も、廃仏毀釈の影響で明治5年に上石井にあった興国山長延寺に合併して同所に移り、長延寺の寺号を廃して常住寺と称した後、和気郡藤野村南光院に合併移転し、ついで大正8年2月22日現在の岡山市門田の地に移り現在は金剛山常住寺円務院と呼ぶなど大変ややこしい。
http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-okayama-kadota-zyouzyuuzi.htm
とにかく、二体の仏像は何度も場所を変えながら数奇な運命を経て明治15年3月に西大寺住職の長田光阿(ながたこうあ)によって、西大寺観音院牛玉所殿に迎えられたのである。

四国旅行の帰りにこの仏像が見たくて西大寺観音院に立ち寄ったのだが、残念ながら秘仏のために一般公開はしていなかった。

祖谷渓・こんぴら 152

寺の僧侶によると、この二体の秘仏が安置されている牛玉所殿は現在改築中で、今年の11月3日に落慶法要が営まれるとのことである。その時の主役は牛玉大権現ではあるが、「こんぴらさん」の秘仏もこの時には見ることができるそうである。
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四国霊場第37番札所岩本寺と高岡神社~~高知旅行2日目その2

坂本龍馬記念館から高知県高岡郡四万十町にある親戚宅に向かう。

「四万十町」という町は平成18年3月に高岡郡窪川町、幡多郡大正町・十和村が市町村合併によってできた町であるが、平成17年に中村市と幡多郡西土佐村が合併してできた「四万十市」とは異なる。大雑把な言い方をすると、四万十町は四万十川の上流地域を含み、四万十市は中・下流地域を含むのだが、四万十市の中に中村四万十町があったりしてややこしい。
ついでに言うと高知県には土佐市があるかと思えば別に土佐町がある。これも市町村合併でできた名前だが、旅行者には紛らわしい。

話を元に戻そう。
桂浜から一般道で須崎市を抜けて「四万十町」に入った。窪川駅の手前を右折し四万十川を渡ると、のどかな田園風景となり、親戚の家はその風景の中にあった。

「自宅で皿鉢(さわち)料理を是非」と誘われて、生まれて初めて土佐の有名な皿鉢料理なるものを御馳走になり、新鮮な魚や自然素材を活かした料理とあふれんばかりに盛り付けられた豪華さに感激した。あまりにすごい分量でとても食べ切れず申し訳なかった。

高知・窪川・高松方面旅行 060

食事を終えてから、車で近隣の観光地などを巡ることになった。
最初に案内していただいたのは、四国八十八箇所霊場第37番札所の岩本寺。

この寺は、思ったよりも境内は狭く、本堂などの建築物もかなり新しい。

高知・窪川・高松方面旅行 065

上の写真は本堂だが、これは1978年に新築されたものである。本堂の天井には画家や一般市民が書いた575枚の天井絵が飾られている。花鳥風月の絵に交じって、マリリンモンローの絵もあるそうだが見落としてしまった。

高知・窪川・高松方面旅行 066

建物は新しいのだが、この寺の歴史はかなり古い。

天平年間(729~749)に行基菩薩が聖武天皇の勅を奉じて福円満寺を建立し、さらに「仁王経」の「七難即滅、七福即生」を祈願し、天の七星を象って仁井田(現四万十町窪川近辺)に宝福寺・長福寺などの六つの寺を建立し、合わせて仁井田七福寺と称したという。

その後弘法大師が弘仁年間(810~823)に五社五仏を建立し、福円満寺などは先の七福寺と合わせて、仁井田十二福寺と称し、五社は仁井田五社と呼ばれて神仏習合の霊場として栄えたとされる。

仁井田五社とは四万十町仕出原にある現在の高岡神社のことで、今も鳥居と社殿が五か所に分かれている。
弘法大師が高岡神社の一の宮に不動明王、二の宮に聖観音菩薩、中の宮に阿弥陀如来、四の宮に薬師如来、森の宮に地蔵菩薩を本地仏として安置したとされるのだが、神仏習合の時代はお寺と神社の違いがあまりはっきりしていなかったようで、現代人には理解しづらい。

享禄から天文の頃(1528~1555)福円満寺が火災で廃寺となり、当時金剛福寺の住職であった尊海法親王が窪川に岩本坊を建立し法灯を継がせたが、岩本坊も天正年間(1573~1592)に焼失し、僧釈長が再興して岩本寺と改称した。
以来、岩本寺が仁井田五社の別当となり、巡拝者は仁井田五社(高岡神社)の中の宮に札を納めた後、岩本寺で納経を行ったという。下の写真は高岡神社の中の宮である。

高知・窪川・高松方面旅行 086

ネットでいろいろ調べると江戸時代の承応2年(1653)に澄禅大徳という高僧の書いた「四国遍路日記」という本があるようだ。現存している最古の遍路日記だそうだが、当時は八十八箇所という番号も固まっていなかったらしい。

この本によるとこの高僧が岩本寺ではなく仁井田五社(今の高岡神社)に参拝したと書いてある。
「扨、五社の前に大河*在り、少し雨降りければ五日十日渡る事なし。舟も橋も無くして第一難所なり。洪水には五社の向かいへ坂中より札を手向け、伏し拝みて過ぐなり。折節河浅くして漸く歩渡り、東路の大井川に似て石高く水早し。渡り悪き河也。而して五社に至る、青龍寺**より是まで十三里なり。
 仁井田の五社***、南向き、横に双びて四社立ち給ふ。一社は少し高き所に山の上に立つ。何れも去年太守より造宮せられて結構也。札を納め、読経念佛して又件の川を渡りて跡へ帰りて、窪川と云ふ所に一宿す。此の所は太守の一門山内伊賀守城下也。一万石の領地也。町侍小路など形の如く也。」
*四万十川のこと **土佐市宇佐町にある36番札所 ***現在の高岡神社

お遍路さんが札所で般若心経を唱えたあとに札所のご詠歌を唱えるならわしだそうだが、四国霊場第37番札所岩本寺のご詠歌は、
「六つのちり、五つのやしろ あらわして ふかき仁井田の 神のたのしみ」である。
(六塵[色、聲、香、味、觸、法]を無くすことで、山深き仁井田郷の、五社様にお祀りしている、神様・仏様がお歓びになります)

こういう経緯は調べて初めて分かったが、お遍路さんも高岡神社にお詣りしなければ、このご詠歌の意味はよくわからないのではないか。

ところが、明治に入って神仏判然(分離)令により岩本寺は仁井田五社と分離され、廃仏毀釈で大師堂のみを残して寺領の大半を失ってしまい岩本寺は廃寺となってしまう。

一時期は御本尊が愛媛県の八幡浜に移され、37番の札所が2箇所並立していた時期もあったようである。大正7年に四国を巡礼した高群逸枝の「娘巡礼記」という本には、八幡浜の吉蔵寺に37番札所の本尊と納経の版が伝わっていることが書かれているそうだ。

高知・窪川・高松方面旅行 064

明治22年(1889)に岩本寺は再興され、それぞれの寺院の本尊を一堂に集めて一つの寺院として復興させたことから五つの異なる仏像(阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩)を全て本尊としているそうだ。ちなみに本尊は秘仏で60年に一度開帳されるそうである。(つづく)
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お寺に「神棚」がある不思議

私の実家はお寺であるが、「神棚」があって毎日母親が御供えをしていた。私の友人の家にも、古い家で「神棚」がある家が少なくなかった。

子供の頃、実家がお寺なのになぜ「神棚」があるのか疑問に思ったことがあったが、神仏習合と関係があると勝手に考えて、あまり詳しくは聞かずに過ごしてしまった。

神棚

そもそも「神棚」とは何なのか。いつ頃から普及したのかといろいろネットで調べると、明治時代以降とする説と江戸時代初期とする説と二つの説があるようだ。

まず明治時代以降の説は、明治時代の宗教政策から神棚が生まれたと考える説である。

明治初期の太政官布告にこのようなものがある。(明治4年7月4日第322)
一、臣民一般、出生の児あらば、その由を戸長に届け、必ず神社に参らしめ、その神の守札を受け所持いたすべきこと。
但し、社参の節は戸長の証書を持参すべし。その証書には、生児の名、出生の年月日、父の名を記し、相違なく旨を証し、これを神官に示すべし。
一、今既に守札を所持せざる者、老幼を論ぜず。生国及び姓名・住所・出生の年月日と父の名を記せし名札をもって、その戸長へ達し、戸長よりこれをその神社に達し、守札を受けて渡すべし…。
一、守札焼失または紛失せしものあらば、その戸長にその事実を糺して、相違なきを証し、改て申受くべし。
一、これより6ケ年ごと、戸籍改の節、守札を出し、戸長の検査を受くべし。

要するに日本国民は、神官からいただいた守り札を紛失することなく保管しなければならず、もし紛失したならば、戸長(自治会長)から尋問を受けて、何故なくしたかの確認を得なければならなくなった。
守り札を紛失すると面倒なので、守り札を安置させるために各家庭で自然に神棚を置くようになったのが神棚の起源と考える説だ。

江戸時代初期に神棚が生まれたという説は、神棚は江戸時代の初期に流行した「伊勢参り」の御札を納めるのに生まれたという考え方である。


伊勢参り」は「お蔭参り」ともいうが、確かに江戸時代に大変流行した。Wikipediaによると、数百万人規模のものが60年間に3度起こったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A

伊勢神宮

宝永2年(1705)には、日本の人口が2769万人程度だった時代に330-370万人が伊勢神宮に参詣したと推定されているが、日本人口の12~13%が伊勢に行ったという数字はすごい話であるし、その時期に家でも「お伊勢さん」に参詣できるようにと神棚が流行したという説もそれなりに説得力がある。

豊穣御蔭参之図

上の錦絵は慶応三年(1867)の「豊穣御蔭参之図」で伊勢神宮の神札等が降下する状況が描かれている。
しかしそんなに古い歴史があるなら、江戸時代に創業した神棚製造の企業があってもおかしくないのだが、仏壇のメーカーはあっても神棚については明治以降の会社ばかりである。

よく武道の道場などにある神棚は江戸時代には存在せず、武道の神様とされた「鹿島大明神」「香取大明神」の二柱の神名と幕末期には尊王攘夷思想の高まりとともに、「天照大御神」を加えた三柱の神名を書いた掛け軸を床にかける「神床」だったらしく、江戸時代に神棚が生まれたとしても、本格的に普及したのはやはり明治時代ではないのだろうか。伊勢参りがいくら大流行したとしても、神棚の設置に強制力があるわけではなく、江戸時代に全国津々浦々に普及したと説明するのには無理がありそうだ。
神棚を自宅に設置する目的で作られたのが江戸時代からだとしても、全国的に普及したのは先程の太政官布告の出た明治4年以降ではないのか。

しかし、この太政官布告には相当抵抗があったらしく、この布告は明治6年に中止されたようなのである。ではどういう勢力からの抵抗があったのか。

今年の一月にこのブログで東本願寺のことを書いたが、浄土真宗は廃仏毀釈の影響をあまり受けていない。
西本願寺は江戸時代を通じで朝廷に忠誠を誓い、明治に入っても政府に巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出せなかったと言われる。
一方東本願寺は、幕末までは一貫して江戸幕府を支援し、戊辰戦争以降に急遽勤王方に着くのだが、明治政府の重鎮には東本願寺を廃絶させる意見が強いなかを、かなり苦労をして危機から脱出している。詳しくは、この記事を参考にしていただきたい。
「明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

「神々の明治維新」(安丸良夫著:岩浪新書)という本によると、(196p)
「…神仏分離政策以下の排仏的な気運の中でも、東西本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存することが大きかった…。…地域で廃仏毀釈がすすめられても、一貫してそれに抵抗したのは真宗であり、…廃仏毀釈の嵐がすぎると、いちはやく寺院を再興させたのも真宗であった。」

西本願寺

「…佐渡、松本藩、富山藩などで廃寺廃仏への粘り強い抵抗や、大浜騒動、越前一揆のような闘争などにおいてしめされた真宗信仰の固有性と強靭さこそが、限定づきにしろ、「信教の自由」への道をきり拓いた深部の力であった」

と書いてある。真宗が明治政府を資金面で支援しつつ、真宗寺院の廃寺廃仏に相当抵抗したということだ。

もともと真宗門徒は他の宗派とは異なる宗教生活の独自性がある。大きな仏壇を家ごとに備え、在家での説教や夜間の法談を行い、神祇不拝が指導されている。
神棚に関しては今も設置すべきでないとの考えが徹底しているようだ。例えば、真宗大谷派大阪教区のHPでは、信者に対して「神棚は必要でないと気付いたら、速やかに取りはずすべきでしょう。決して罰(ばち)は当たりません。」と書いている。
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_032.htm

現代人にはやや過激にも見えるこのような真宗の抵抗がなければ、廃仏毀釈による文化破壊がどこまで進んだかわからない。
梅原猛氏によれば、「明治の廃仏毀釈がなければ、現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるが、真宗の廃寺・廃仏に対する抵抗がなかったら、我が国はもっと多くの文化財を失っていたのではないだろうか。
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祇園祭の「祇園」とは

もうすぐ京都の祇園祭(ぎおんまつり)だ。

今日10日から鉾町で鉾が組み立てられ(鉾建て)、ついで12日からは山が組み立てられる。
そして山鉾巡行はいよいよ17日で、今年は土曜日だからすごい人出だろう。

山鉾巡行岩戸

京都には有名なお祭りがいくつかあるが、私は子供の頃から祇園祭が大好きだった。今でもあの祇園囃子の音色を聴くだけで気分が高揚してくる。

しかしながら子供の頃に、ふと疑問に思ったことがあった。祇園祭の「祇園」という地名についてである。

「祇園」という場所は、京都市内の東の方を南北に走る東山通り(正しくは東大路通り)と、市内の中心部を東西に走る四条通との交差点あたりを言うが、子供の頃なんとなくこの地名に違和感を覚えた。

京都の中心部は碁盤のように直角に道路が走っていて、京都の地名は、例えば南北を走る河原町通と東西を走る丸太町通との交差点を河原町丸太町などと呼ぶ。ならば、「祇園」は 東山通と四条通とが交差する場所なので、普通なら東山四条と呼んでも良さそうなのに、なぜか「祇園」と呼ばれているのが不思議だった。

京都市内の中心部のバス停の名前は、ほとんどのバス停は二つの通りの名前で地名を表しているのだが、例外となるケースは「○○前」などというように有名な神社仏閣や大学や病院があるようなケースが大半である。しかし、「祇園」はそれにも当てはまらない。すぐ近くに大きな神社があるのだが、「八坂神社」という名前だ。

八坂神社

上の写真は八坂神社の西楼門であるが、この神社に、祇園祭の山鉾などが収められている。しかし「祇園」という名前を連想させる神社仏閣などはどこにも存在しないのだ。

このあたりを昔から「祇園」と呼んでいたのだろうと長い間勝手に解釈していたのだが、学生時代に「祇園」という名前の由来となるお寺が以前は存在していたことを聞いた。しかし、どんなお寺がいつごろ創建されていつ頃なくなったかを詳しく知ったのは、つい昨年のことである。

安永9年(1780)に出版された「都名所図会」巻三には、この地に以前あった寺院の図絵が描かれている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

祇園社

説明には、この「祇園社(ぎおんやしろ)」と祇園祭についてこう書かれている。

「…清和天皇貞観十八年*、疫神崇をなして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て、六月七日十四日疫神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて、祇園会といふなり。神輿を置所をば八坂郷感神院といふ寺なれば、神殿もなきほどに、昭宣公の御殿をまゐらせられて神殿とす、祇園は尋常の殿舎造りなり、是を精舎といふ、後人又祇園の名を加へけり。」*貞観18年は西暦876年

ここには感神院を祇園祭の神輿の置き場所にしたが、神殿がなかったので昭宣公(藤原基経836~891:摂政関白太政大臣)の御殿を移して神殿としたと書かれている。図には多宝塔があり、薬師堂がありお寺であることは確実だが、神仏習合の時代であり神殿も作られていたのだ。

洛中洛外図屏風祇園

寛永三年(1626)に描かれた「洛中洛外屏風図」にも、祇園社が描かれている。では、今の八坂神社は何なのか。

空から見た八坂神社

今の八坂神社を上から見るとこのようになるが、今の八坂神社は以前は祇園社であったことがわかる。楼門がそっくりそのまま八坂神社の楼門になっていることも明らかだ。

Wikipediaによると祇園社の創建年については656年、876年など諸説があるが、古くから仏教の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)とそれに習合したスサノオノミコトを祀る神仏習合の施設で、当初は興福寺、10世紀以降は延暦寺の支配を受けていたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

慶応4年(1868)の神仏混淆の禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改められ、薬師堂などの仏教施設は破壊されている。(多宝塔は江戸時代寛政年間[1789~1800]に焼失) 日本全国には、牛頭天王を勧請した祇園社が3053社あったそうだが、明治の廃仏毀釈によりすべて八坂神社(弥栄神社)に改名させられたそうである。
http://www.pauch.com/kss/g023.html

では、「感神院祇園社」の仏像はどこに行ったのか。
これは幸い大蓮寺というお寺に残されているが、十一面観音像以外は秘仏として直接拝観することはできない。祇園社本尊の薬師如来の写真が大蓮寺のHPに載っているが、本尊でありながら光背がないのはやや違和感がある。

祇園社本尊薬師如来
http://www.anzan-no-tera.jp/gion/index.html

大蓮寺の歴史については比較的次のサイトが詳しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/22365330.html

「八坂神社」から祇園祭の山鉾が立ち並ぶ四条烏丸あたりまで、大人が歩いて20分くらいだろうか。その途中で鴨川を渡ることになるが、その橋は「四条大橋」という。

この四条大橋については昨年11月にこのブログに書いたが、明治七年に作られた橋は廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたそうである。下の写真がその頃の四条大橋だが、明治の京都人は、どんな思いでこの橋を渡ったのだろうか。

昔の四条大橋
ご参考:「四条大橋のはなし」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-73.html

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天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと

7月25日は日本三大祭りの一つである大阪天神祭の日で、随分久しぶりにこの祭りを見てきた。

天神祭1

若かりし頃大阪市中央区の北浜で勤務していた時に、先輩から「祭りを見に行こう」と誘われて、船渡御を少し見てからすぐ飲み屋に向かった記憶がある。そんなことがもう一回くらいあったが、二回ともすごい人だかりで、遠くでいくつかの船が大川を進んでいくのがわずかに見えただけだった。その時は、仕事が終わってから天神祭を見に行ったのでは、良い場所はほとんど陣取られていてとても見られないなと思った。

今年はたまたま日曜日なので、一度このお祭りをじっくり見てみようと思い立ち夫婦で出かけた。

4時過ぎに「竹葉亭」という店で鰻を食べてから大阪天満宮に向かうと、ちょうど玉神輿が神社から出るところだった。
天神祭神輿

こんなふうに凄い人だかりで、カメラを上に掲げて何とか神輿が撮れたのはよかったが、それから後はどこへ行こうにも人が多すぎて、どちらの方角も前に進むのが大変だった。

神輿を追いかけるのをあきらめて、南に進んで船渡御を見るための場所取りに行く。初めてなのでどこがいいかわからず、とりあえず天満橋を目指して進んでいった。

諸国名所百景天神祭

上の絵は安藤広重の天神祭の船渡御の絵だ。この絵は難波橋と書かれているが、今の船渡御のコースは難波橋を通らない。今なら、船渡御を橋近辺で見たければ天満橋か川崎橋で、花火も見たければ南岸で見るのが一番と誰でも考える。

船渡御ルート

やっと天満橋北詰に辿り着くと、警察が谷町筋を閉鎖して交差点から南方面と東方面の歩行者を遮断していたために、やむなく川べりに出て天満橋の下を潜ってから再び谷町筋に出て、天満橋を南に進む。天満橋の途中で場所取りをしようとしたが、橋からの見学が禁止されているらしく、やむなく橋の南側の付け根あたりで場所取りをしたが、暗いところでの撮影はなかなか難しく、今回は無難な写真だけを載せておく。
人が漕いで川を進んだ広重の時代とは違い、今の船はほとんどが内燃機関などで動き、スポンサーの大型の広告が載せられている。

天神祭の船

たまに昔と同様に手漕ぎで進む船もあるのだがもうすこし、このような船が多ければいいのにと思った。

行列の最後の方には奉安船に先程の神輿が載せられて大川を進む。急に鳴り物の音が止まって、人々は二礼二拍手一礼でお見送りする。花火の音だけが妙に大きく響き渡る。

天神祭船渡御

天神祭の話から大阪天満宮に話を戻そう。
半日歩いて途中から私が気になったのは、大阪天満宮は昔から純然たる神社なのかという点である。

「天満宮」という神社は、京都に「北野天満宮」という有名な神社があるが、この神社は江戸時代の「都名所図会」では多宝塔や経所等明らかな仏教施設が多数描かれており、明治の廃仏毀釈以前は神仏習合の施設であった。
「太宰府天満宮」も以前は「安楽寺天満宮」という、寺院を中心とする施設であったのだが、廃仏毀釈により仏教施設がことごとく破壊されている。
大阪天満宮もどこかに仏教施設の形跡があったのではないかと、家に帰ってから調べることにした。

いろいろネットで調べても大阪天満宮に関してはあまり詳しく書いたものが見つからなかったが、大阪天満宮に神宮寺があったことはいろんな人が書いているので間違いがないようだ。やはりここも神仏習合の施設だったのだ。(神宮寺とは、神仏習合思想に基づき神社に建てられた仏教寺院や仏堂のこと。)

豊臣秀吉のお伽衆に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいるが、この人物はWikipediaなどでは大阪天満宮の「別当」であったと書いてある。「別当」ということは、大阪天満宮に神宮寺があり、神社の管理権を掌握していた人物だったということだ。

大阪天満宮は何度も火災にあっており、江戸時代の記録に残っているだけでも七度も火災に遭遇している。有名なのは天保8年(1837)の大塩平八郎の乱によるもので、この時大阪天満宮は全焼している。
現在の本殿はその六年後の天保14年(1843)年に再建されたものだ。

さらに調べると、大阪天満宮の神宮寺にあった鎌倉時代の仏像が今でも残されていることが分かった。

大阪天満宮から北に300m程度行くと「宝殊院」(天満寺)というお寺がある。この場所へは大阪冬の陣、夏の陣の後の復興時に神宮寺が移ったらしく、移転後も相当大きな寺だったらしいのだが、詳しいことはわからない。その堂宇も太平洋戦争で焼失し、今の建物は昭和42年に再建されたモダンな建物である。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-1/newpage115.htm

大阪市のホームページには、大阪天満宮の神宮寺の時代からの鎌倉時代の仏像の写真が紹介されている。

宝殊院仏像

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008915.html

まだ行ったことのない寺だが、一度時間を見つけて行ってみたくなった。

大阪天満宮だけではない。八坂神社も金刀比羅宮もそうだが、大きな神社のホームページをいくら読んでも、神仏習合時代のことや廃仏毀釈のことがほとんど欠落してしまっている。これでは、歴史の真実が歪められて伝承されるだけだ。

我々の祖先が何代にもわたって大変な苦労をして文化財を守ってきたことや、時の為政者の軽薄な施策で多くの文化財を失ってきた事実をしっかり脳裏に刻んでこそ、文化財を守ることの重要さと意義を次の世代に伝えることができるのだと思う。

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丹波篠山の重要文化財・天然記念物を訪ねて~~磯宮八幡宮と大国寺

24日の日曜日も天気が良かったのでまた田舎道をドライブしたくなった。
先週は亀岡だったが今度は丹波篠山を目指すこととして、事前に丹波篠山の国指定の重要文化財がどこにあるかを調べてみたところ全部で16あり、その内の6つは大国寺という天台宗の寺院にあることがわかったので、まずはその寺を目指すことにした。

吹田から一般道を走り池田から川西、猪名川につながる川西篠山線(県道12)を北上していく。

途中で磯宮八幡神社という神社に立ち寄った。

磯山八幡宮全景

この神社は観光案内書には記載されていない小さな神社だが歴史は古く、承平3年(933)に石清水八幡宮よりご分霊を勧請したという古社で、昔は末社が50社もあって曽地・後川荘など四ヶ荘におよぶ広い地域の総社だったそうだ。
歴史が古いだけあってこの神社は2つの国指定重要文化財を持っているのだが、その文化財がなんと2つとも「仏像」なのだ。

磯山八幡宮重要文化財

明治の廃仏毀釈によりここにあった神宮寺が潰されてしまったが、もともとこの神社は神仏習合でお寺と神社が渾然一体としていたようだ。潰された神宮寺に安置されていた四天王のうち木造持国天立像と多聞天立像が今はこの神社の収蔵庫に保管されているそうだが、残念ながら普段は公開されていない。この二つの仏像は、次のURLで見ることが出来る。
http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/tiikibunka/bunkazai/bunkazaiichiran/0039.pdf
http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/tiikibunka/bunkazai/bunkazaiichiran/0040.pdf

この神社は古くから領主、武将らの信仰が厚く、建武3年(1336)2月、足利尊氏が九州への途中に参拝し、願書や鏑矢等を奉納し、田畑も寄進したと伝えられ、八上城主波多野秀治も城内武運長久の守り神として崇敬し、各種の寄付をするなど保護をしたが、天正7年(1579) 明智光秀の丹波攻略の折に兵火によって焼失。翌8年には再建されたという。

磯山八幡宮本殿

その後、承応3年(1654)、篠山城主松平康信が境内並びに田地二反余を黒印除地とし、寛文12年(1672)に社殿を建立。弘化5年(1848)に造営されたという記録があるそうだが、これだけ由緒のある神社とは思えないくらい、現在の建物は相当に傷んでいる。

磯山八幡宮天然記念物

この神社の境内に、ハダカガヤという高さ約10m樹齢600年以上の大木があり、国の天然記念物に指定されている。普通のカヤの実には堅い殻があるのだが、この木にできる実には不思議な事に堅い殻がないそうだ。突然変異で出来たものだそうだが、このようなカヤの木は世界でここしかないそうである。

次に向かったのは大国寺。

先程も書いたように、この寺には国の重要文化財が6つも存在するのだが、1つはこの寺の本堂である。

篠山大国寺本堂

このお寺は大化年間(645~650)空鉢仙人(くうはちせんにん)が国家安泰を祈願されて、自作の薬師如来を安置し開創されたと伝えられているが、その後平安時代の天暦年間(947~956)に戦火のため焼失。鎌倉時代正和年間(1312~1317)に花園天皇の御帰依により再建され、「安泰山大國寺」の称号を賜ったとされる。

篠山大国寺本堂横

今の本堂は鎌倉時代に再建されたものとされるが、腐朽破損が甚だしかったために、昭和40年に解体修理に着手し、翌年に再建当時の姿に復旧竣工したものである。

この本堂の中に、藤原時代の仏像5体が安置されており、いずれも国の重要文化財に指定されている。住職の御許しを得て、ノーフラッシュで仏像の写真を撮ることが出来た。

篠山大国寺仏像

左から増長天立像、阿弥陀如来座像、薬師如来坐像、大日如来坐像、持国天立像で、薬師如来坐像は藤原時代中期の作、他の仏像は藤原時代後期の作とされている。

またこの寺の境内各所に天満宮をはじめ、大日堂、水掛け不動尊、厄除け地蔵尊、大黒天、弁財天、出雲社、稲荷社が祀られているのは珍しい。

篠山大国寺天満宮

下の画像は本堂のすぐ左にある天満宮であるが、廃仏毀釈以前はこのように境内の中に神様を祀るお寺が普通だったのかもしれない。

どこの地方でも、有名な観光寺院や神社は観光収入で潤っているが、文化財があってもあまり名前が知られず観光客がほとんど来ない寺社は文化財を守るのに相当な苦労をしておられる。
地域の人口が減り高齢化が進んで、地域の信仰の場を支える人々からの収入が少なくなっては、寺社の文化財を後世に残すことは容易ではない。
重要文化財の指定があっても、国の支援は一部に過ぎず、3割以上は寺社と信者で工面しなければならないが、木造建築の修理費用は今では半端な額ではない。

文化財の指定がなければ、木造での修理をあきらめて、鉄筋コンクリートで建て替えるところもあれば、住職や宮司の生活が出来ないために無人となるところも出てきている。

地方の人々が豊かにならない経済政策を続ける限り、地方の文化財の危機はもっと深刻になっていくだろう。地方の振興のためには企業誘致だけでは限界があり、つまるところ農業や林業・漁業を今後どうするか、国全体が食糧問題にどう対峙するかが問われているのだと思うが、今の政治家は、食糧問題は票にならないと考えているのか、真剣に議論されているとは思えない。

地方の文化財を次の世代に引き継ぎ、末永く守っていくために自分ができることは、田舎に行って、あまり有名でないお寺や神社を拝観して拝観料や御賽銭を払うことぐらいだが、歴史の好きな人は是非、年にいくつかそういう寺社を拝観してブログなどで紹介すれば、参拝者が少しずつ増えて、わずかでも寺社を援けることができるのだと思う。

篠山大国寺本堂より

大国寺では、ご住職自らが寺院や仏像の来歴から丹波篠山の歴史までを詳しく説明して下さった。有名な観光地を見て廻るのもいいが、重要文化財をすぐ近くに観賞させていただきながらご住職の熱い説明を聞かせていただき、仏像の素晴らしさを体感できたことは貴重な体験だった。

帰路はいつものように地元の特産物の買い込み。道路沿いにいくらでも丹波栗や丹波黒豆の販売所があり、道の駅などよりはるかに安く買うことが出来る。丹波牛ならデカンショ街道(R372)沿いに西村牧場直営の「篠山ビーフ」という店もある。この日も随分いろんなものを買い込んでしまった。

この季節の丹波巡りは、いろいろ美味しいものが都心のスーパーよりもはるかに安く買えるので、拝観料やガソリン代が浮いたような気分になる。
帰宅してから丹波栗を焼いて食べ、夕食は丹波黒豆の枝豆と丹波牛の焼き肉だが、もちろんどれを食べても旨かった。
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野球の殿堂入りした正岡子規の野球への愛情と奈良の旅行

以前、このブログで正岡子規俳句を紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

「秋風や 囲いもなしに 興福寺」

阿修羅像で有名な奈良の興福寺は、明治の廃仏毀釈の時に僧侶130人が春日神社の神官となり、明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまで無住の地であったのだ。当時の奈良県知事が興福寺の土塀は「往来の妨げになる」との理由ですべて撤去させたという経緯を知らなければ、この句の理解はとてもできないだろうということを書いた。

正岡子規肖像

正岡子規は明治28年(1895)10月26~29日に奈良を訪れて、他にも当時の奈良を書いた句を多く残している。子規が残した俳句は、次のURLで紹介されている。
http://www.webmtabi.jp/200803/haiku/matsuyama_masaokashiki_index.html

明治28年の秋の作品をいろいろ読んでいくと、
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は教科書にも出てくる有名な句だが、

「秋風や 奈良の仏に 札がつく」
「行く秋や 奈良の小店の 古仏」

というような奈良の廃仏毀釈を知らなければとても理解できない句がいくつか掲載されている。子規が奈良を旅行した頃は、廃仏毀釈で廃寺となった寺の仏像があちこちの古美術商で売られていたような時代であったことが見えてくる。

「柿食えば…」の法隆寺の句も、正岡子規訪れる数年前の法隆寺は相当荒れていたはずで、ようやく古美術の保存に関する関心が高まってきて明治26年頃から堂宇の修繕が国庫の補助金を得て着手されたばかりであった。

句の中に地名が書かれていないのでよくわからないが、これも廃仏毀釈の傷痕を見て作った句なのだろうか。

「堂崩れて 地蔵残りぬ 草の花」
「明き寺や 取り乱したる 萩の花」

廃仏毀釈の話題はこれくらいにして、次に別の視点から子規の生涯を振り返ってみよう。

最近知ったことなのだが、正岡子規は平成14年(2002)1月に「野球の殿堂」の新世紀特別表彰として加えられている。長い間闘病生活をした子規がなぜなのだと興味を覚えたので、奈良に旅行した経緯もふくめて少し調べてみた。

正岡子規は慶応3年(1867)に、伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれ、幼名は升(のぼる)といった。

正岡子規学生服

政治家を志して明治16年(1883)、17歳の時に松山中学を中退して上京し、秋山真之と共に東京大学予備門を目指して翌年に合格してから、明治18年(1885)に俳句を作り始め、明治19年(1886)ごろからベースボールに熱中し、子規の随筆「筆まかせ」には明治23年(1890)に3月に上野公園博物館横空き地で試合を行ったことが記されており、その時のポジションは捕手だったそうだ。

そもそも「野球」は明治4年(1871)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが東京開成学校予科(現在の東京大学の前身)で教えたと言われているが、正岡子規がベースボールを始めた頃はこのスポーツを知る人は少なく、守備位置やルールなどは英語のままで使っていたようである。これを子規が日本語に翻訳したそうである。

正岡子規と野球

子規が訳した野球用語のうち「直球」「打者」「走者」「死球」「飛球」は今も使われているが、使われなくなったものも少なくない。次のURLで子規が翻訳した野球用語が紹介されているが、ピッチャーを「投者」、キャッチャーを「攫者」、バットを「棒」、ベースを「基」等と呼ぶのは面白い。
http://www.sakanouenokumo.jp/shiki/baseball.html

ネットでいろいろ調べると子規がベースボールを解説している明治29年の新聞記事が見つかった。この文章の中に、子規の考えた野球用語の翻訳が出ている。
http://www.webmtabi.jp/200803/haiku/matsuyama_masaokashiki_baseball.html

上記の新聞記事の最後に子規が「ベースボール未だかつて譯語あらず」と書いているように、ベースボールをはじめて「野球」と翻訳したのは正岡子規ではなかった。

180px-Kanae_Chuman.jpg

「野球」という訳語を初めて使ったのは第一高等中学で「ベースボール部」の選手として活躍した、鹿児島県出身の中馬庚(ちゅうまんかなえ:上の画像)で、第一高等中学を卒業する際にベースボール部の部史執筆を依頼されて、明治27年(1894)にベースボールを「野球」と命名したのが最初だそうだ。この中馬庚は、子規よりも速く昭和45年(1970)に野球の殿堂入りを果たしている。

しかし、実は「野球」という言葉を考案したのは中馬庚よりも正岡子規の方が4年も早かった。正岡子規は明治23年(1890)に、「野球」をベースボールの訳語としてではなく自分の雅号として用い、幼名の「のぼる」にちなんで「野球(のボール)」と読ませたそうだ。よほど子規はベースボールが好きだったようだ。

正岡子規は明治22年(1889)に初めて喀血をして以降、療養が続いて落第を繰り返し、明治25年(1892)に東京帝国大学を退学している。
その後新聞社に入社し、肺結核を患いながら日清戦争の従軍記者として中国に赴くも、船中の喀血で瀕死の状態となり、治療の後しばらく故郷松山に戻っている。

次のURLに子規の年表がまとめられているが、ここには奈良の旅行の事は記されていない。しかし奈良に旅行した日が明治28年(1895)10月26~29日であることはわかっているので、子規が奈良に訪れたのは、松山から上京する途中で立ち寄ったということになる。
http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/siki01.htm

それ以降子規は7年にわたり闘病生活を過ごしており、奈良の旅は子規にとって人生最後の旅行となったそうだ。子規の観た当時の奈良は、私の知る限り廃仏毀釈で相当荒れた状態であり、のんびりと古刹を巡って昔を偲ぶようなものではなかったのではないか。

東京に戻り、病魔と闘いながらも子規は多くの作品を残しているが、明治29年(1896)の句のなかに、ベースボールを題材にしたものを見つけてしまった。

「若草や 子供集まりて 毬を打つ」
「草茂み ベースボールの 道白し」 

子規の野球に対する熱い情熱が伝わって来る。子規はもっと健康な体でいて、もっともっと野球がしたかったのだろうと思う。
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淡路島の東山寺に残された石清水八幡宮護国寺の仏像を訪ねて~~淡路島文化探訪の旅1

淡路島の文化財を調べていると「東山寺(とうさんじ)」というお寺に平安時代の仏像13体が国の重要文化財に指定されているのが目にとまった。
この13体の仏像の由来を調べると、明治の廃仏毀釈の時に京都の石清水八幡宮護国寺(いわしみずはちまんぐうごこくじ)から淡路島のこの地に遷されたという記事を見つけて興味を覚え、この目で見たくなった。
6月になって淡路島の鱧料理が旬を迎えたので、この東山寺や淡路島の面白そうなところを巡りながら食事を楽しむ日帰り旅行を計画し、先週行って来た。

最初に訪ねたのはもちろん東山寺である。

東山寺の事を書く前に、石清水八幡宮護国寺について書いておこう。

以前このブログで、明治初期の廃仏毀釈までは、京都府八幡市の石清水八幡宮のある男山全体が「男山四十八坊」と言われるように圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎日読経が流れているような場所であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-53.html
その男山全体の中心施設が「護国寺」であった。

iwasimizu232.jpg

上の図面は「城州八幡山案内絵図」に描かれた護国寺と琴塔の付近のもので、中央の大きな屋根の建物が「護国寺」で、その上に描かれているのが石清水八幡宮の本殿である。他の建物などと比較しても「護国寺」はかなり大きなお寺であったことが分かる。

「石清水八幡宮護国寺」の歴史を調べると、石清水に八幡神が遷座される以前に「石清水寺」という寺院があったということが社伝にあるそうだが、平安時代の貞観4年(862)に「石清水寺」を「護国寺」と改号したらしい。
康和5年(1103)に大江匡房が十二神将を寄進したという記録も残されている。また本尊の薬師如来は石清水八幡宮が八幡大菩薩を遷座する以前から石清水寺の本尊であり、平安期初期の制作だそうだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_iwasimizu2.htm

明治の廃仏毀釈により石清水八幡宮護国寺の堂宇は破壊されてしまい、仏像・仏具などの大半は焼却・廃棄あるいは売却されたのだが、その最も重要な仏像がいったいどういう経緯で淡路島の山奥の東山寺に遷されたのか。そこには東山寺復興に至るまでの壮絶なドラマがあるのだが、この点については「淡路インターネット放送局」のサイトが詳しい。
http://www.city.awaji.hyogo.jp/sec/jouhou/aitv/ch2.html

東山寺仏像

東山寺の歴史と、石清水八幡宮寺の仏像が遷った経緯を簡単に記しておこう。
東山寺は嵯峨天皇の弘仁10年(820)に弘法大師が伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の鎮護と庶民信仰の中心として開祖した由緒ある寺院であったが、戦国時代に全焼したのち、弘安8年(1286)に現在の地に再興されたが、徳川時代中期以降に寺運が衰えていき、幕末の時期には廃寺同然となってしまう。ドラマはその時期に東山寺にやってきた尼僧:佐伯心随と勤王の志士との出会いから始まる。
当時の淡路島は尊王攘夷運動の一拠点となっていて、反体制を掲げた多くの勤王の志士たちが淡路島に来島しており、特に山深い東山寺はいつしか彼らの密会の場所となって、梁川星巌や頼三樹三郎らが頻繁に出入りしていたそうだ。(庫裏には志士達の刀痕が残されているそうだ)

佐伯心随尼

勤王の志士同志で島外の仲間との重要な情報伝達には密使が必要で、佐伯心随尼に白羽の矢が立ち、心随尼は志士達の要請を受けて石清水八幡宮護国寺の別当であった道基上人に何度か密書を届けるようになる。道基上人もまた尊王攘夷運動の重要人物であった。

やがて江戸幕府が大政奉還し明治の時代を迎えると、今度は廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて、日本各地で仏教施設や仏像が破壊されるようになった。
道基上人の石清水八幡宮護国寺も例外ではなく、本尊であった薬師如来とそれを護る十二神将像も男山にうち捨てられてしまったが、道基上人は平安時代から人々の信仰を集め、多くの人々によっ守られてきたこれらの仏像がこのまま雨ざらしで朽ちていくことには耐えがたく、淡路島で東山寺の復興のために頑張っていた佐伯心随尼にこれらの仏像のすべてを託すことによって、少しでもこれらの仏像を後世に残すことを決意したのである。
明治2年(1869)6月12日にこれらの仏像は、人目を避けるようにして運び出されてこの東山寺に遷され、その後東山寺は佐伯心随尼により復興を遂げることになった。
一方道基上人は、その後淡路島に移り住み、永寿寺という小さなお寺の住職となるが、東山寺の復興を見届けた後、明治22年(1889)に生涯を終えたとのことである。

東山寺は北淡ICから7km程度の距離ではあるが山深い場所にあり、途中からは私の車のカーナビでは認識しないような道を走ることになる。道幅も3m程度とかなり狭いので運転には注意が必要である。

東山寺山門

上の画像が東山寺の山門である。この山門は室町時代に淡路守護職であった細川頼春から寄進されたもので、淡路島に現存する最古の木造建築だそうだ。

東山寺本堂80

上の画像は東山寺の本堂で、本尊の千手観音が安置されている。

東山寺薬師堂

石清水八幡宮護国寺から遷された13体の仏像は、以前は木造の薬師堂に安置されていたのだが、昭和40年の台風で裏山が崩れ危険な状態になったので、コンクリートの薬師堂が建設されて今はこの建物の中にある。やや高めの拝観料(700円)だが国指定の重要文化財の仏像を13体も見ることができると思えば価値がある。

中に入ると、目の前でこれら重要文化財指定の仏像を見ることができる。撮影はできないのでネットで入手した画像を添付しておくが、なかなか見ごたえのある仏像である。

石清水八幡宮寺薬師如来

薬師如来像は9世紀前半から半ばにかけての制作で、かっては「男山の厄除け薬師」と言われて人々の信仰を集めていた有名な仏像だったそうだ。

otokoyama_yk3.jpg

また十二神将像は当時九州で活躍していた仏師・真快の11世紀末期の作品と言われている。
これらの仏像が男山にどのくらいの期間打ち捨てられていたかは不明だが、やや変色しているものの全般的に保存状態は良好であった。

これらの仏像の来歴について知れば知るほど、今も残っているのが奇跡のように思えてくる。
記録では石清水八幡宮寺は、14世紀と15世紀の二度にわたり火災を経験しており、この時もこれらの仏像は人々の手により運び出されて難を逃れているのだ。
また明治の廃仏毀釈の危機も、佐伯心随尼、道基上人がいなかったら、また東山寺が幕末の志士達の密会所にならなかったら、以前このブログで書いた香川県琴平市の金刀比羅宮の仏像のように朽ち果てていてもおかしくなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

自宅に帰ってから「東山寺」のパンフレットを読んでいると、なぜかこの13体の仏像のことも石清水八幡宮護国寺や道基上人のことも書かれていないことに気が付いた。
パンフレットには「讃岐の人 佐伯心随尼が大師仏縁の故をもって尋ねて来往、大いに復興に努められました」と「幕末安政の頃、勤王の志士梁川星厳・頼三樹三郎・伊藤聴秋、幕府の目を逃れるに最適の地として此処で謀議をこらしたことがあり、これ等志士の詩や、憤怒のあまり振った刀尖の痕と認められるものが今に残っています。」と書かれているだけなのだ。
明治時代の廃仏毀釈の話を書かずしては説明できないことを初めから省略してしまっては、パンフレットを読んでも、なぜ東山寺に本尊とは別に重要文化財の仏像があるのかが誰も理解できないし、歴史のロマンを感じることもできないだろう。

明治の廃仏毀釈については、教科書ではせいぜい「国学や神道の思想に共鳴する人々の行動が一部で過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度の記述しかない。東山寺や教科書だけでなく、多くの有名社寺のパンフレットやHPにおいても、廃仏毀釈のことを書いていることを見かけることは滅多にない。

廃仏毀釈を語ることが長い間タブーのようにされてきたのは、それを詳しく知らしめることが明治政府の施策やそれを支える思想を批判することにつながると考えられたのではないだろうか。
しかし明治の時代は遠く過ぎ去り、戦後66年もたったのだから、そろそろ真実をありのままに語ることぐらいは許されてよいと思うのだ。
幕末から明治の時代はきれい事だけの歴史の叙述ではとても理解が出来ないのだが、東山寺で起こった出来事を知るだけで、その時代の雰囲気を身近に感じることができる。東山寺の仏像を見るだけで、多くの人々が時代を超えて文化財を守ってきたことを知ることができる。
東山寺の仏像が私には随分輝いて見えて、密度の濃い時間を楽しむ事が出来た。
歴史の好きな人には是非お勧めしたい寺院である。
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奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方

奈良は国宝や重要文化財の宝庫である。
平成16年のデータでは奈良県の国宝数は205で、東京、京都に次いで多く、全国の国宝の19%が奈良県にあることになる。また奈良県の国指定重要文化財の数は1377で、全国の11%だ。
www.bunka.go.jp/1hogo/excel/kokuho0430.xls

しかし上のデータには美術館や博物館などが所蔵する美術品や書跡、古書などの数字がかなり含まれている。大きな博物館や美術館が多い東京や京都の数字が多いのは当然のことだ。博物館などでいくつもの文化財をまとめて見るのもいいが、できればガラスケースの中にあるのではなく、昔から安置されていた場所で、古いままの姿で、仏像ならば祈りの空間の中で鑑賞しながら、古き時代を偲びたいと考える人は少なくないだろう。

統計データを見ると、奈良県にはそういう場所がいくつかありそうだ。
博物館などでは絶対に所蔵できない「建物」分類の国宝は奈良県に62件あり、この数では京都の48件を上回り奈良県がトップで全国の29%にもなる。重要文化財は261件で全国の12%だ。
「彫刻」分類の国宝はほとんどが仏像だと思うが、この数も奈良県は70で全国のトップで全国の56%にもなる。重要文化財は488で全国の19%だ。

こんな数字を見ていると、たまには奈良に行きたくなって、先日来久しぶりに奈良の古刹をいくつかまわってきた。

最初に紹介するのは「白毫寺(びゃくごうじ)」だ。「白毫」とは仏様の眉間にある白い巻き毛のことだそうだ。

近鉄奈良駅あたりからバスに乗って、高畑町の停留所から20分ほど山の方向に歩いて行くと、白毫寺の山門に辿り着く。このお寺は若草山・春日山に連なる高円山のふもとにある。

この寺は関西花の寺二十五霊場の第18番で、萩の花が有名だ。

白毫寺山門

参道の両脇には萩が植えられていて秋には萩の花で階段が埋め尽くされることから、この階段を「萩の階段」と呼ぶのだそうだ。

白毫寺石段から奈良盆地を見る

この階段を上りきると奈良盆地が見渡せる。正面に見える山は生駒山である。

白毫寺のパンフレットによると、天智天皇の第七皇子である志貴皇子の離宮がこの地にあり、その山荘を寺としたと伝えられ、当寺の草創については天智天皇の勅願によるという説や、かつてこの高円山近辺に存在した「岩淵寺(いわぶちでら)」の一院であったとの説があるが、確かなことはわからないそうだ。

この寺は鎌倉時代に西大寺の叡尊(えいそん)により再興され、その弟子の道照が弘長元年(1261)に宋より「大宋一切経」の摺本を持ち帰ったことから、「一切経寺」と呼ばれて繁栄したそうだが、明応6年(1497)の古市・筒井勢による戦乱でほとんどの堂宇を焼失した。 その後度重なる兵火・雷火により堂塔を失うのだが、江戸時代の寛永年間に興福寺の空慶上人が再興し、江戸幕府からご朱印寺として禄高五十石を扶持されて繁栄したとあり、パンフレットの解説は江戸時代で終わってしまっている。

パンフレットには何も書かれていないが、実は白毫寺は明治時代の廃仏毀釈で廃寺寸前になった寺なのだ。
岩波新書の「博物館の誕生」(関秀夫著)という本には
「閻魔像で知られる奈良の高円山の麓の白毫寺も…無住となり荒れるにまかされた。」(p.75)
と短く書かれている。

廃仏毀釈に詳しいs_minagaさんのサイトに、明治36年に出版された「大和名勝」(藤園主人述、東京:金港堂)という本の白毫寺について述べられている部分が引用されている。そこには、
「今はいたく衰へて、石段芝草に没し、本堂傾き軒朽ちて、本尊もおはさねなるべし。二層塔の古式なるがあれども、雨漏り壁落ちて蔦葛はひかゝれり。境内惣て雑草生ひ茂り、その地蔵堂のごときは、殆ど倒れんとせり。素より番僧もなく詣づるものもなし。」 と荒れるに任されていたことがかなり具体的に書かれている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/tou_byakugoji.htm

「二層塔の古式なるがあれども」とあるように、昔は境内に多宝塔が建っていた。

byakugoji_n.jpg

「南都名所集」巻之4(延宝3年・1675版)という書物には、白毫寺の多宝塔が描かれているのがわかる。この多宝塔がその後どういう運命をたどるかについては後で書くことにして、まず境内の建物を紹介しよう。

白毫寺本堂

上の画像は本堂で江戸時代に建築され、中には勢至・観音菩薩像、聖徳太子二歳像他が安置されている。

その奥に御影堂と宝蔵がある。
この寺院には7体の仏像が国の重要文化財に指定されており、すべてがこの寺の宝蔵に安置されている。
宝蔵は比較的新しい建物だか、仏像と参拝者を遮るガラスのようなものは存在せず、かなり近づいて仏像の表情を鑑賞し参拝することができる。
宝蔵の内部の仏像は撮影禁止だが、先程紹介したs_ninagaさんのサイトにいくつかの仏像の画像を見ることができる。

18byakugo_03f.jpg

本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)は平安時代から鎌倉時代の仏像で当寺院の御本尊である。

白毫寺閻魔王坐像

閻魔王坐像(重要文化財)は鎌倉時代の仏像で昔あった閻魔堂の本尊である。憤怒の形相に迫力がある。以前このブログで紹介した、京都の大山崎にある宝積寺の閻魔大王像に良く似ている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-54.html

白毫寺から奈良盆地を臨む

宝蔵あたりから奈良盆地を北に見ると、東大寺の屋根がひときわ大きく見えた。

白毫寺多宝塔跡

本堂の近くに多宝塔の跡があった。
この多宝塔は廃仏毀釈で毀されたのではなく、焼失したのでもなく、大正6年に兵庫県宝塚市切畑長尾山の個人所有の山荘に移築されたのである。

藤田伝三郎

大阪の大富豪藤田伝三郎男爵が宝塚に贅を尽くした13万坪余の別邸を建て、そこに白毫寺の多宝塔が移築されたそうだ。
移築先の地図が見つかった。「井植山荘」がその場所である。
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/sub_file/01010102000000-iuesansou-ichizu.pdf#search=%27%E4%BA%95%E6%A4%8D%E5%B1%B1%E8%8D%98%27

藤田伝三郎が白毫寺からいくらで多宝塔を買ったかは不明だが、先程紹介した「大和名勝」の記述を読めば、長い間荒れるに任されており「雨漏り壁落ちて蔦葛はひかゝれ」る状態で、相当修理の手を加えなければならなかったはずだと思う。むしろ藤田伝三郎によって多宝塔の寿命は延びたのかもしれない。

しかし戦後になって、昭和24年にこの山荘は三洋電機(株)創業者の井植歳男氏に売却され、それ以来、「井植山荘」と呼ばれるのだが、平成14年(2002)3月19から20日に山火事がおこり、その多宝塔は残念なことに焼失してしまったのだそうだ。

byakugoji03s.jpg

この多宝塔が山荘に存在していた頃の写真が「兵庫の塔」(寺師義正著 光村推古書院、1994.3)という書物に「白毫寺多宝塔(在井植山荘)」として出ているのを、先程のs_minaga氏のサイトで紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/tou_byakugoji.htm
井植山荘については、次のURLで詳しく書かれている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/kisida00.htm

白毫寺の多宝塔は、桧皮葺の相当古い建築物で「大化年中草創の儘」という記録もあるそうだが、室町時代に再建されたという説もある。

明治の廃仏毀釈は仏像や建築物が多数破壊されたというイメージが強いのだが、破壊活動がなくとも多くの寺院が収入源を断たたれて衰退し、無住の寺院となって廃絶されているケースも少なくないようだ。
白毫寺が今に残るのは多宝塔を売却したお金で建物を修復できたからなのかとも考えるのだが、小さなお寺で貴重な文化財を守り続けることは大変なことだったのだと改めて認識し、素晴らしい仏像を見ながらやや複雑な気分になった。
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三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3

旅行の2日目は、民宿をチェックアウトしてから、まだ走ったことのない「三方五湖レンイボーライン」を走ることにした。この道はカメラマンの須藤英一氏が選んだ『日本百名道』のうちの一つになっている道だ。
http://blog.goo.ne.jp/adriveki/c/fce0a5a016f7afe0083accd5751a96a7

11.24kmの有料道路だが、カーブが多く、運転しながら景色を楽しむわけにもいかないので、3つある駐車場で車を停めて景色を楽しむことしかできなかったが、快晴だったらもっと素晴らしい景色が望めたのにと思うと残念だ。

1三方五湖

この季節に朝一番にレインボーラインを走ったのも失敗で、薄曇りの天気ながら湖の方角が逆光のために、良い写真が撮れなかった。綺麗な写真が撮れそうだったらリフトに乗って頂上まで登ってもよかったのだが今回は断念して、次の訪問先の「若狭三方縄文博物館」に向かうことにした。

縄文博物館外観

この博物館のすぐ近くに、今から12000年~5000年前の縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡「鳥浜貝塚」があり、低湿地で発見されたために保存状況が極めて良好で、木製遺物など1376点が国の重要文化財に指定されているのだそうだ。その遺物の一部がこの「若狭三方縄文博物館」に展示されている。

博物館の中は撮影禁止のため紹介できないが、次のURLで「鳥浜貝塚」のことが写真入りで詳しく書かれている。
http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron08.pdf

縄文式の遺物というと、普通は石器や土器や骨や貝殻といったものしか出てこないことが大半なのだが、ここでは当時の丸木舟 木製品や縄、編物、漆製品、木の実・魚・貝類なども含め、自然遺物といった有機物が半ば水漬けの状態で大量に発掘されているので、「鳥浜貝塚」のことを「縄文のタイムカプセル」などと呼ばれているのだそうだ。

縄文住居

驚いたのは、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品がでていることで、この時代の日本人はすでに漆塗りの器や生活道具を作っていたことを初めて知ったし、漆の技術は同時代の中国の物と比べても若狭のものの方が優れているのだそうだ。また、真珠や骨角や石のアクセサリーなどの装身具や工芸品も出土しており、こんなに古い時代においても高度な文化を持っていたことがわかっている。

遺物層の中には、ドングリ・クルミなどの種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認されている。これらの堆積状況から、縄文の人々の季節ごとの食生活が明らかとなり、秋に採取した森の食物を秋から冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝を、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかったという。また、ゴボウ、アブラナ、シソ、ヒョウタンなどの種も見つかっており、すでに植物栽培も始められていたようだ。この時代の人々の食生活は、私が想像していたよりもはるかに豊かなものであったようだ。

野菜直売会

博物館のすぐ近くに「若狭町観光案内センター」があり、農産物の販売所があったので立ち寄ってみた。たまたまイベントをしておられて、地元の方が作られた「けんちん汁」を御馳走になった。野菜の旨みがたっぷりあって、とても体が温まった。

新鮮野菜

中に入って地元の野菜やお酒などを買い込むと、イベントで輪投げがセットされていて、うまい具合に地元のお味噌や梅の加工品などが当たってしまった。旅行先でこういう時間が持てると思わなかったが、地元の元気な叔母さんたちと交流ができて楽しかった。

三方五湖は鰻が有名なので、昼食はこの近くで鰻料理と初めから決めていた。
11時を過ぎたので早目の昼食をとることとし、すぐ近くにある鰻料理店「淡水」に行く。
ネットでは評判のよさそうな店だったので早めに入ったのが正解だった。開店が11時なのだが、三方湖に面した窓際の席はすでに埋まっていて、12時になるまでに満席になってしまった。

淡水うなぎ

これが「淡水」の「うなぎ丼」。肉厚の鰻の身と皮の表面がカリッと焼かれていて、身には脂がしっかり乗っていて旨かった。

他にもいろいろ行きたいところがあったのだが三方五湖を後にして、次の目的地である滋賀県長浜市にある鶏足寺に向かう。

さすがに紅葉の名所で有名な場所だけある。駐車場に入れなかった車が道路にあふれていた。たまたま臨時駐車場に入っていた車が2台程空いたので、運よくすぐに車を駐車することができた。

よしろ神社

大勢の人が歩く道をしばらく進むと、與志漏神社(よしろじんじゃ)がある。この参道の紅葉が美しい。

旧岩戸寺

参道を進むと薬師堂(旧戸岩寺)があるが、今は無住の寺である。この寺は、715年に行基が北西の異光山から遷したと伝えられている古刹で、この本尊の薬師如来は滋賀県最古の仏像で重要文化財に指定され、当地の氏仏として信仰を集めていたのだが今はここにはない。

己高閣

その近くに己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)という仏像が収蔵され公開されている施設がある。
「己高閣」は国庫の補助を受けて建設されたが、「世代閣」は住民の浄財を集めて建築され、地域の住民の力で文化財が守られているのだ。

己高閣には鶏足寺の本尊の十一面観音立像(平安時代:国指定重要文化財)などがあり、世代閣には先ほど紹介した薬師堂(旧岩戸寺)の本尊であった薬師如来立像(奈良時代:国指定重要文化財)などが収められている。
平安時代に制作された仏像が他にもあったが、立派な仏像にしては後ろに光背がないものが多く、光背があっても最近に作られたものであることが一目でわかるし、立派な仏像に釣り合わないものが大半だ。台座も同様だ。
かなり破損した仏像がいくつかあったが、以前このブログでレポートした、金刀比羅宮の宝物館で見た廃仏毀釈で仏像にかなり似ていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

明治の廃仏毀釈によって多くの寺院が破壊され、仏像も壊されたり、燃やされたり、捨てられたりしたことを過去何度かこのブログで書いてきたが、己高閣・世代閣にある仏像の多くは、明治の初期によく似たことがあったのだと思う。

鶏足寺鳥瞰図

近くに、応永14年(1407)頃の伽藍配置を想定して書かれた鳥瞰図があり、その下に鶏足寺の由緒について記載されていた。そこには、
「(鶏足寺は)室町期には僧坊百二十宇を容する大寺院となり、湖北仏教文化圏の中核として隆盛を極め、後期には小谷城主浅井家三代、次いで豊臣家の祈願所となり、石道寺・法華寺・飯福寺その他の名刹を別院としてその格調を誇っていた。
江戸時代には徳川幕府も京都所司代に命じて寺領を保護し寺の維持を図ったが、地理的悪条件から次第に衰退し、末期には無住となり権現堂とともに最後まで残っていた本堂も昭和八年冬不審火により焼失した。
御本尊は大正三年に與志漏神社境内に遷佛していたため無事であり、数奇な運命をたどられた観音菩薩を千二百年後の今も「己高閣」で拝することができるのは誠に幸いである。」 とあるが、明治初期の廃仏毀釈のことは何も書かれていないのは不自然だ。
そもそもなぜ、鶏足寺の本尊が與志漏神社境内に持ち込まれていたのだろうか。

IMG_3622.jpg

紅葉散策のために歩き出して鶏足寺(旧飯福寺)の参道に達すると、案内板には「明治時代に入り廃仏毀釈などによって寺院の規模は縮小されてしまいました。」とだけ書かれていたが、パンフレットや説明書になぜ廃仏毀釈のことを書かないのだろうか。何もなかったように自然消滅したような書き方では、地域の人々が苦労して文化財を護ってきたことが伝わらないだろう。

鶏足寺のある己高山(こだかみやま)には小浜のように1000年以上の歴史のある寺がいくつも存在していたのだが、明治初期の廃仏毀釈・神仏分離で、そのうちのいくつかの寺が破壊されるか、神社に変えられたか、後に廃寺となるか、無住の寺院となっており、最盛期には120近くあったという堂宇はこの時期にかなり失われてしまった。
以前、ここにどれだけの寺院があり、それらの寺がどうなったかについて、詳しく知るにはs.minagaさんの次のURLが参考になる。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_kodakamiyama.htm

鶏足寺の参道の紅葉

この鶏足寺の参道あたりが特に紅葉の美しいところであるが、今年は紅葉が全国的に遅くて、ピークよりも1週間程度早く来てしまったようだ。

鶏足寺の紅葉

それでも、所々で鮮やかな紅葉を楽しむことができた。

この参道を進んでいくとお堂が建っていたが、あまりに安普請なのでシャッターを押す気にもならなかった。

飯福寺之景

ネットでいろいろ調べると、先ほど紹介したs.minagaさんのサイトに鶏足寺(旧飯福寺)の明治29年の絵が見つかった。こんな古いお寺が仏像とともに残っていたらもっと素晴らしいのにと思うのだが、ほとんどが廃墟となってしまっている。それでも紅葉だけでこれだけの観光客が集まることに、やや複雑な思いがした。

鶏足寺(旧飯福寺)から少し歩くと、石道寺(しゃくどうじ)というお寺がある。この寺の周辺も紅葉がきれいなところだ。

石道寺本堂

今の本堂は大正3年に、現在地より東1kmの山間僻地にあった旧石道寺の本堂を移築したものだが、旧石道寺は神亀三年(726)の開基で、のち行基菩薩が堂宇を建てたという古刹である。
この石道寺の本堂には平安中期の作とされるケヤキの一木造の本尊・十一面観音立像(国・重文)、鎌倉時代の作とされる木彫持国天立像(国・重文)、木彫多聞天立像(国・重文)が安置されている。
これだけの歴史があり文化財がある寺であるのに住職が不在で、集落全体が観音様のお世話を続けているのだそうだが、己高閣・世代閣とは違って暗い本堂の中で、手を合わせることできる空間が残されていることがありがたい。

石道寺本尊

この画像はネットで探した本尊の十一面観音立像だ。
ケヤキの木は堅いので、仏像を制作するのは大変な苦労があっただろう。ケヤキの一木彫りで複雑な十一面観音像を彫るというのは、余程深い思いがなければできない仕事だろう。
これらの仏像が地域の人々の信仰を集め、住職不在の寺となっても人々が観音様の世話を続けてきたのは、地域の人々がこの仏像の素晴らしさを理解し、親が大事にしてきたものを後世にも伝えていきたいという共通の思いからなのだろう。もし芸術的な価値が認められなかったら、人々がここまで長い年月を超えて護られるはずがないのだと思う。

文化財の護り方は、小浜のようにお寺の住職の生活ができるようにして古いものを、古いまま残せれば一番良い。そこで住職の生活ができなければ、石道寺のように地域の人々によって祈りの空間が残せればよい。しかし建物の維持すら困難になれば、祈りの空間は失われ、多くの仏像が博物館に並ぶか売却されていくしかない。

先人たちが苦労して制作し、長い年月にわたり地域の人々が苦労して残してくれた祈りの空間を、できる限り後世に残していくことは、今生きている世代の務めだと思うのだが、今の経済効率優先の政策では地方によっては地元に若い世代が残らず高齢化・過疎化が進むばかりで、いずれは地方の貴重な文化や伝統は担い手を失って、次代に承継することが難しくなっていくことを危惧している。そのような地域で若い人が生活できる仕組みを考えないと地域の文化・伝統が護れるとは思えない。
私ができることはこのような地方を訪れて、わずかばかりの拝観料を支払い、お賽銭を入れ、地域の野菜や魚やお土産を買い、地域のお店で食事をしたり宿泊することくらいなのだが、同じことを少しでも多くの人が行えば、地域の古き良き文化伝統を次代に残す道を拓くことができるのではないだろうか。
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箸蔵寺から高知県唯一の国宝建造物・豊楽寺薬師堂などを訪ねて~~高知方面旅行1

以前このブログで、「こんぴらさん」で有名な香川県の金刀比羅宮は明治の廃仏毀釈以前は象頭山金光院松尾寺という真言宗の寺院であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

松尾寺の守護神であった「金毘羅大権現」とは、インド仏教の神であり仏教守護の神であるのだが、明治の廃仏毀釈の時に御祭神を大物主神や崇徳天皇へとすり替えられてしまい、金刀比羅宮には「金毘羅大権現」は存在しない。それでも金刀比羅宮を「こんぴらさん」と呼ぶのは、根強い「こんぴら信仰」に基づく参拝が途絶えないように、「こんぴら」とよく似た名前の「金刀比羅宮」という名前に変えたためである。

松尾寺にあった多くの仏像はこの時期に多くが破壊されたが、一部は金刀比羅宮の宝物館に破壊されたままの姿で残され、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊は数奇な運命を経て、今は岡山県の西大寺観音院に安置されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-71.html

このように、「こんぴらさん」であった松尾寺は明治初期の廃仏毀釈で金刀比羅宮にされてしまったが、古くから「こんぴらさん奥の院」と呼ばれていた四国別格二十霊場十五番札所の箸蔵寺(はしくらでら:真言宗御室派別格本山)は、今も「金毘羅大権現」が祀られて神仏混淆の風習を残しているという。

建物の装飾彫刻が素晴らしいと聞いていたので、以前からこの寺に行ってみたいと思っていた。このたび高知方面に行く旅行を企画して、その途中で立ち寄ってきた。

大阪の自宅を出発して、11時過ぎに箸蔵寺のロープウェイの麓に着いた。すぐそばにある「さぬきや」といううどん屋で早めの昼食をとる。

普通の人は山頂の箸蔵寺にロープウェイで上るのだが、往復1500円の運賃を節約しようと中腹の仁王門の近くの駐車場を目指してしまった。対向車が来なかったから良かったものの3.6kmの細い坂道を走ることは登りも下りも冷や汗ものだった。
駐車場に着いてからの山頂の箸蔵寺までの距離は思った以上にあり、また途中から急坂となっているので箸蔵寺への登り道は結構きつかった。余程の健脚で車の運転に自信がある人はともかくとして、はじめから箸蔵寺方丈までロープウェイで行く方が無難な選択であることは確かである。

箸蔵寺仁王門

これが箸蔵寺の仁王門。明治時代に高知県から移築されたものだそうだ。
仁王門をくぐると大きな鳥居があり、しばらく行くと鞘橋という屋根つきの橋があり、そこに烏天狗や役行者像が出迎えてくれる。「神仏混淆」時代のお寺とはこのようなものだったのかと不思議な気分になる。しばらく進むと次第に急坂となるのだが、二つめの鳥居を過ぎてからの最後の長い階段は正直言って辛かった。

箸蔵寺は平安時代の天長5年(828)に空海が当地に霊気を感じて山に入ると、金毘羅大権現が現われて「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救わん」というお告げを受け、空海自ら金毘羅大権現の像を刻んで堂宇を建立したと伝えられているが、江戸時代に二度の火災があり、その時に伽藍の大半を焼失してしまった。
現在の建物の大半は江戸時代末期に建立されたものだそうだが、本殿、護摩殿、方丈、薬師堂、鐘楼堂、天神社本殿が国の重要文化財に指定されている。

箸蔵寺本殿

これは金毘羅大権現(秘仏)が祀られている本殿だ。扁額があってそこには「金毘羅大権現」と書かれている。たまたま内部で祈祷をしておられて、まるで神社のように最後に柏手を打たれたのに驚いた。明治以前は、祈りの作法までお寺も神社も同じであったのだろうか。

箸蔵寺本殿の彫刻

本殿の建築装飾をクローズアップしてみたが、これだけの彫刻が施された建物を見ることは少ない。宮大工棟梁たちの気迫を感じる建物である。

箸蔵寺方丈の装飾

方丈や護摩殿の建築装飾もすごいが、方丈の大玄関の装飾を紹介しよう。戸袋には前面に虎の彫刻が施されている。

箸蔵時方丈の虎の彫刻

案内板には「このような大規模で装飾的な建築は四国でも類がない」と書かれていたが、今も多くの宮大工が箸蔵寺の建物を見に来るという話は納得できる。

次に第二の目的地である、高知県唯一の国宝建造物である豊楽寺(ぶらくじ:真言宗)薬師堂に向かう。

高知県には国宝としてはこの豊楽寺と、工芸品としては小村神社にある金銅荘還頭大刀拵大刀身と高知県立歴史民俗資料館にある古今和歌集巻第廿の3つしかない。
http://otakaramap.funboy.info/modules/pico/index.php?content_id=241

その理由は明確である。明治初期の高知県の廃仏毀釈がすさまじかったからである。 次のURLで高知県の廃仏毀釈について比較的詳しく書かれている。
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=10&P_FLG1=3&P_FLG2=1&P_FLG3=1&P_FLG4=1

ポイントを少し引用すると
「江戸時代の土佐では、比較的規模の大きな寺院は檀家が少なく、藩主の保護のもとで広い寺領を得ていた。四国遍路の札所でも、堂塔が破損した場合などは、常に藩主の命令により修理が加えられていたという。
ところが維新後、高知藩の「社寺係」となった国学者北川茂長を中心として、四国の中では例外的に、きわめて強力な廃仏政策が展開されることになった。まず明治3年(1870)に廃仏的意図を持って、寺院から土地山林を没収し僧侶の還俗を要請する布告が藩庁から出された。さらに旧藩主山内家自身が、それまでの仏葬祭をすべて神葬祭に変更したため、菩提寺として寺領100石を有していた真如寺は住職が還俗し神官として教導職をつとめるようになり、寺は廃寺と化した。」

そのために、土佐国内の寺院総数615の内、439もの寺院が廃寺になったというのだ。
四国遍路の札所であった土佐16の寺院中7寺院が廃寺の届け出を提出し、他にも実質的に廃寺となった寺があったと書いてある。この時に多くの文化財が失われたことは想像に難くない。
以前私のブログで薩摩藩の廃仏毀釈について書いたことがあるが、薩摩藩は土佐藩よりももっと過激で、1066寺の全てが廃されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-83.html

このように明治の初期にはとんでもない文化破壊があったのだが、普通の歴史書にこの事実を書いていることは稀だ。その理由は簡単で、明治維新で権力を掌握した勢力が廃仏毀釈を推進したからである。いつの時代もどこの国でも、権力者にとって都合の悪い事実は歴史の叙述から排除されるものなのだ。

これだけ厳しかった廃仏毀釈の嵐の中を生き抜いた、高知県で唯一の国宝建造物がどんな建物なのかと興味を覚えて豊楽寺薬師堂を訪問することにしたのだが、この寺も随分山奥にあった。
箸蔵寺の駐車場に続く道よりかは幾分走りやすかったとは言え、ここも細い道が3kmばかり続く。所々に待避所があるが、対向車が来ないことを祈りながら走り、ようやく豊楽寺の駐車場にたどり着いた。

豊楽寺

これが国宝の豊楽寺の薬師堂である。
豊楽寺は元亀元年(724)、行基の開基と伝えられ、本堂の薬師堂は仁平元年(1151)年に創建された四国最古の建造物である。単層入母屋造、杮葺きの屋根の勾配がシンプルで優雅である。
この薬師堂には国の重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像、木造薬師如来坐像、木造釈迦如来座像が安置されているそうだ。いずれも藤原時代に制作されたもので、予約すれば内部の拝観もできたようだがこの日はただ建物を鑑賞しただけで終わってしまった。

この四国最古の建築物も、やはり廃仏毀釈とは無縁ではなかったようだ。
現地の案内板には何も書かれていないのだが、次のURLには豊楽寺の歴史などが比較的詳しく書かれており、廃仏毀釈に関しては「明治4年廃仏毀釈の法難にあった後は、粟生の定福寺の飛地仏堂として僅かにもちこたえて来た。しかし明治18年に豊楽寺の再興に伴い本堂として復活した。」とだけ書かれている。
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=5&ved=0CDsQFjAE&url=http%3A%2F%2Fwww.town.otoyo.kochi.jp%2Fdownload%2F%3Ft%3DDWNLD%26id%3D1%26fid%3D2422&ei=4i59UJmlA6f3mAXhoYHIDA&usg=AFQjCNHFlpyTyOV0mj1qgPio3k8usDMCFw&sig2=i9tL51Fj4RRs37GKCMVA6A

「粟生の定福寺」というのは、豊楽寺の東にある真言宗の寺院だが、定福寺のHPには「明治廃仏毀釈の惨劇は、高知県は全国の中でも大変なものがあり、何百力寺も廃寺となった。当時、定福寺は檀家よりの嘆願により廃寺を免れた。」と、ここでも簡単に書かれているのだが、定福寺が廃仏毀釈の狂気から守られたのは檀家、信徒の祈りの力によるものであり、それがあったからこそ豊楽寺も守られたと理解していいのだろう。
http://www1.quolia.ne.jp/~jofukuji/2_1.html

それにしても、高知県唯一の国宝だというのに、訪れる人は他には誰もいないというのは淋しい限りだ。豊楽寺は大きな建物なのだが、四国八十八箇所霊場にも選ばれていない。
駐車場の隣に店舗らしき看板があるのだがシャッターが下りてしまっている。観光客がほとんど訪れない場所では商売が成り立たないのだろうが、これだけの文化財があるのならば、もっと観光などに活かすことはできないのだろうかと残念に思う。
豊楽寺に限らず山奥に残された文化財を、日本人はこれからどうやって守っていけばよいのだろうか。山村に限らず地方は老齢化し、寺院や神社を守ってきた地域の人々はこれから減っていくばかりで、このままでは多くの文化財を失ってしまうのではないかと心配だ。

豊楽寺の後は土佐国分寺に向かう。
国分寺は四国八十八箇所霊場二十九番札所であり、お遍路さんがバスに乗って大勢参拝しておられた。

土佐国分寺

国分寺は天平13年(741)の聖武天皇の国分寺建立の詔により建てられたもので、行基が開山し、後に空海が中興したと伝えられる。画像は国の重要文化財に指定されている金堂で本尊は千手観世音菩薩だ。
国分寺周辺は中世まで土佐国の国府があった場所である。「土佐日記」の作者である紀貫之は土佐国の国司として4年間この地に滞在したという。

国分寺に続いて、土佐神社に向かう。

土佐神社

土佐神社は社伝によると雄略天皇の時代に創建されたとしているが、実際の創建年代はよく解っていない。上の画像は国の重要文化財に指定されている拝殿である。

四国八十八箇所霊場は今では寺院ばかりなのだが、神仏習合であった江戸時代の三十番札所は高鴨大明神社(現在の土佐神社)だったらしく、その高鴨大明神社の別当寺として善楽寺(ぜんらくじ)があったのだそうだ。
ところが神仏分離により善楽寺が廃寺となり、善楽寺の本尊は二十九番札所の国分寺に合祀され、三十番の納経は国分寺が兼ねた時代があったそうだが、明治9年に旧善楽寺の本尊を国分寺から安楽寺(高知市洞ヶ島町)に遷座して三十番の札所とし、一方昭和4年には地元民が旧善楽寺跡地に善楽寺を再興し、その結果三十番札所が2ヶ寺存在することとなり、「遍路迷わせの札所」としてお遍路さんを困惑させていた時代が長く続いたという。
その争いが決着したのは平成6年で、今では30番札所は善楽寺で、安楽寺はその奥の院ということなのだそうだ。
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=10&P_FLG1=3&P_FLG2=1&P_FLG3=1&P_FLG4=1

善楽寺

上の画像は土佐神社に隣接する善楽寺だが、随分新しい建物であった。

旧関川家住宅

近くに国の重要文化財に指定されている旧関川家住宅があるので立ち寄った。郷士・豪農の住宅であったようだが、こういう古い茅葺の家は青い空に良く似合う。

1日目の旅程を終えてホテルにチェックインした後、友人と会いに葉牡丹という居酒屋に向かう。友人との会話も弾んで楽しかったが、この居酒屋の料理も良かった。何をオーダーしても鮮度抜群で、鰹のたたきや刺身やどろめなど、何を食べても旨かった。
地元の人が勧めるお店で、酒を交わして食事を楽しみながら交流が出来て、とても有意義で楽しい一日だった。 <つづく>
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香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2

香住で朝を迎えると、宿の主人から声がかかって「岡見公園」まで車で案内していただいた。

岡見公園

「岡見公園」は名勝香住海岸から北に突き出た城山半島という岬の先端にある公園で、北に見える小さな島は白石島という名だそうだ。
春には桜が咲き、夏にはユウスゲという黄色い花が咲くこの場所は、5月から9月にかけて海に沈む夕日が楽しめるそうで「日本の夕陽百選」に認定されているという。

岡見公園 波

一見穏やかそうな海に見えるのだが、北風の影響で冬の波は結構荒く、公園の西側は柱状節理の岩に波が激しくぶち当たって海面は真っ白だ。白い波の表面にやや茶色く浮いている泡状のものはプランクトンの塊で、北風と波が強い日は「波の花」となって舞い上がることがあるのだそうだ。

宿をチェックアウトして主人に教えて頂いた「かに市場」に行くと、主人が根回ししてくれたおかげで随分安く海産物が買えて大満足だった。

香住町を後にして、但馬妙見山に向かう。
この山の標高800mのところに朱塗りの美しい三重塔があることをネットで知った。
多宝塔、三重塔、あるいは五重塔と言えばお寺にあるものと日本人ならほとんどの人が思うだろう。しかし、但馬妙見山にある三重塔は「名草神社」という神社の境内にあるのだ。
その歴史を調べている際に興味を覚えて、是非今回の旅行で訪れたいと思っていた場所である。

日光院1

名草神社に行く途中で、養父市八鹿町(やぶしようかまち)石原にある「日光院」というお寺を先に訪ねてみた。そこに、三重塔の由来を知る鍵があるという。上の画像が、日光院の門である。

日光院2

階段を上り境内に足を踏み入れると、見事なケヤキや銀杏の巨木が伸びて樹木の霊気を感じさせるような空間が広がる。お寺でありながら、境内の中に大きな鳥居があり、独特な雰囲気がある。
境内の中に案内看板があった。それによると、この寺は飛鳥時代に開かれて、御本尊は「妙見大菩薩」で万物の運勢を司る仏様なのだそうだ。
日本三妙見の一つとされて人々の信仰を集め、戦国時代には山名宗全がこの日光院で戦勝祈願をした古文書が残されており、県の重要文化財に指定されていると書かれている。

ここから三重塔に関する記述となる。「ご案内」看板の説明文をしばし引用する。

「天正年間、羽柴秀長の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永九年には、ここから西方五十丁の妙見中腹に移転復興し、三代将軍家光公より三〇石の御朱印地を賜りました。また、寛文五年には出雲大社の御造営に際し、本殿の御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より日光院に三重塔を譲り受けました。そして妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄をきわめました。
明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。明治九年七月八日、遂に『寺号を廃して、不動産のみ名草神社とせよ』という布達にて、再びこの地の末寺成就院と合流し、今日に至っています。
つまり、寛永九年*から明治九年*まで(二四五年間)の日光院の建物に、新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。
そこが日光院であったが故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。…」*寛永九年=西暦1632年、明治九年=西暦1876年

と、今の名草神社の建物は、もともとはすべて日光院が所有していたものであり、明治9年の布達で名草神社の所有とされてしまった。今の日光院は、それまで同院の末寺であった成就院に移したものであることが記されている。

日光院3

上の画像が日光院の護摩堂だが、ここで妙見大菩薩の法灯が今も守られているのだ。
正面の扁額には「妙見大菩薩」と書かれており、左の扁額には「妙見宮」と書かれている。
「宮」というと神社のようなイメージがあるが、「妙見大菩薩」を本尊としていた霊場はすべて「妙見宮」と呼ばれていたのだそうだ。したがって、この扁額の「妙見宮」は日光院を意味している。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page014.html

日光院の駐車場の横に『妙見資料宝物館』があり、その経緯についての資料が展示されているが、日光院のHPにも詳しく書かれており参考になる。次のURLはその目次だ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page008.html

上記HPを読んでいくと、出雲大社側の『寛文御造営日記』という文書に但馬の妙見山日光院に移したことが記されていることがわかる。この出雲大社の古文書には、どこにも「名草神社」の名前が出てこないことが最大のポイントである。当時は「名草神社」という名の神社は但馬妙見山に存在せず、この神社は明治時代に作られたと考えて良い。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page009.html

kituki_kaneis.jpg

そもそもなぜ出雲大社に仏教施設である三重塔があったのかと不思議に思ったのだが、次のURLに江戸時代寛永期の出雲大社の図絵が紹介されている。この図にははっきりと三重塔や鐘楼などが描かれている。昔は出雲大社までもが神仏混淆であったとは知らなかった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

出雲大社から仏教的色彩が払拭されたのは寛文御造営の時で、第六八代国造尊光がその決断を下し、日光院に三重塔を移したほか、様々な寺院に建物や仏像などが移された記録が出雲大社に残されているようだ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page009.html

出雲大社の『寛文御造営日記』の原文は、先ほど紹介したURLで一部が紹介されている。
これを読めば日光院の説明に誤りのない事が明らかである。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

出雲大社が御造営のための木材の入手に難渋していたところ、寛文三年(1663)十二月に妙見山に適材を発見し、用材を日光院から譲渡を受けたいとの申し入れがあった。翌年、日光院は出雲大社を訪れ、日光院には塔を建立する計画があるので、出雲大社に譲渡する材木代金は塔の建築費用に充当する考えであるが、もし出雲大社の三重塔を破却する予定であるならば日光院が譲り受けたい。それがかなうならば材木は出雲大社に進上するとの考えを述べる。その後、出雲大社が塔の譲渡を決定して、当時の日光院隠居(快遍)が大悦したことまでが書かれている。
そして
「寛文5年正月23日 但州妙見より塔こわしのため日光院代僧法住坊、並に八鹿村西村新右エ門、大工与三エ門来る。
27日 三重塔今日迄に崩済申候此塔は大永7年<1527>尼子経久建立也」
「寛文5年4月21日…塔之儀豊岡より妙見山迄人夫3500人而持着申之由、9月中に立仕舞可申之申云々…」
と塔移転の準備が進んで行ったことが詳細に書かれている。このように、三重塔が日光院のものであることは当時の史料を読めば誰でもわかる。

しかしながら、明治政府は明治5年の上知令で日光院の寺有地であった妙見山全てを没収し、明治6年2月に「妙見宮」を「名草神社」に改称させ、妙見信仰とは無縁の「名草彦命」を祀らせ、明治9年7月には、豊岡縣が「寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを明け渡す」との布達を出した。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page006.html

但馬妙見信仰の存続の危機に諸国の信者たち数百人が集まり、仏像や経典などの寺宝を末寺の成就院(今の日光院のある場所)に運び込み、それまで日光院のあった場所には鐘楼以外の建物のみを残し、末寺と合流することでなんとか妙見信仰は守られたのである。
後に日光院は明治政府を相手とする行政訴訟をおこし、明治39年にようやく勝訴して但馬妙見山の山林全てを取り戻したという。

続けて日光院から名草神社に進む。かなり狭い山道を走ることになるが、ほとんど対向車はなく10分程度で神社の駐車場に到着した。

名草神社三重塔

車から降りてしばらく細い参道を歩いていくと美しい三重塔が見えてきた。
この三重塔は国の重要文化財に指定されていて、昭和62年10月に解体修理が完成した際に塗り替えられたために朱色がとても鮮やかだ。

この三重塔の近くに八鹿町教育委員会が建てた案内板がある。そこにはこう書かれている。
「この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久(あまこつねひさ)が願主となって大永七年(一五二七)六月十五日に建立したものと伝えます。
出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、寛文五年(一六五五)9月に標高八〇〇mのこの地に移築されました。…」
と、塔を主語にした曖昧な書き方で、肝心の日光院のことがどこにも書かれていない。この説明であれば、名草神社が妙見杉を提供した縁で出雲大社から名草神社にこの塔が移築されたとしか読めないだろうし、なぜ神社の境内の中に塔が存在するのかということも、誰も分らないであろう。

名草神社拝殿

階段を上っていくと、国指定重要文化財の拝殿が見えてくる。色鮮やかで素晴らしい枝ぶりの楓の紅葉にしばし足を止めた。

この拝殿には兵庫県教育委員会の案内板があった。そこには
「…江戸時代中期の代表的な割拝殿として貴重な遺構である。」
と書かれており、ここでもはじめから神社として建てられたかのような書き方をして、以前は日光院の建物であったことを隠している。

名草神社本殿

拝殿を抜けると名草神社の本殿がある。これも国の重要文化財に指定されているのだが、残念なことにかなり屋根が破損している。いつ傷んだのかはよく解らないが、長く放置しては木の腐食が進みはしないか。

名草神社本殿彫刻

近くから見ると、柱の彫刻は素晴らしいものがある。獅子や龍や鳳凰や力童子などが極めて精巧に彫られている。この本殿がこれ以上傷まないように、ぜひ修理してほしいものである。

名草神社本殿破損

この本殿にも兵庫県教育委員会の案内板があった。
「…本殿は宝暦4年(1754)に造られた大規模な建築で…平面は内々陣・内陣・外陣の3区に分かれその周囲に庇がめぐるもので、江戸時代の神仏習合の神社建築として特筆される。」
と、ここでも建物を主語にして肝心なことを誤魔化しているのだが、もともとは日光院の建物であったことを一言も書かなくては、ここへ来た観光客はこの建物は初めから名草神社の本殿として建てられたものとしか思わないだろう。そもそもこの本殿の棟札には「宝暦四年 日光院現住職宝潤」と日光院第四十世の名が刻まれているというのだ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page006.html

このブログで何度か明治の初めに起こった廃仏毀釈の事を書いてきた。廃仏毀釈のために廃寺となった大寺院は少なくないし、奈良の東大寺や法隆寺、興福寺、金峯山寺、京都の東本願寺なども大変な苦労をして、その難を乗り越えている。また奈良の談山神社、京都の石清水八幡宮、八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮、香川の金刀比羅宮などは以前は神仏習合の寺院であったが、この時期に無理やり神社にさせられてしまった。私のブログの廃仏毀釈に関する記事は、ほとんどここに置いてあるので、興味のある方は覗いてみてほしい。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

話を名草神社に戻そう。私が訪れたのは土曜日の11時ごろであったが、観光客は私を含めて数人しかいなかった。歴史的建造物のある空間を独占できることは個人的には嬉しい事なのだが、なぜ国の重要文化財の建物が3つもある場所であるにもかかわらず観光客がこんなにも少ないのだろうか。
重要文化財の修理には安普請は許されず、宮大工を使い用材も従来と同様のものを使い、従来工法で修理を行うので結構な費用がかかることになる。また、その修理に必要な資金は国がすべてを負担してくれるのではなく、2割以上は神社が信者の寄付を募るなどして用意しなければならないはずだ。秋の季節の良い時期であるのにこのように少ない観光客で、これだけの文化財の価値を、将来にわたって減じることなく維持管理ができるのだろかと心配になってくる。

名草神社拝殿2

都心から遠いとか、道が狭いとかいろいろ理由があるだろうが、古い歴史があり価値のある建築物がありながら観光客が集まらないのは、長い間真実の歴史を隠す側にまわってきた兵庫県や八鹿町にも責任があるのではないか。
いつの時代も「権力者側にとって都合の悪い史実」は歴史叙述から排除される傾向にあるものだが、「廃仏毀釈」に関しては明治から昭和の初期頃までは「権力者側にとって都合の悪い史実」であったとしても、少なくとも今のわが国の権力者にとっては決して都合の悪い史実ではない。むしろ、「隠された興味深い真実」であり、江戸時代から明治時代を考える上で興味を覚える人は少なからずいると思うのだ。

単に重要文化財の歴史的建造物を見るだけなら、こんな遠くまでわざわざ足を運ばなくとも京都や奈良にいくらでもある。それでも私がここを訪れようと思ったのは、その真実の歴史に触れて強く興味を覚え、このドラマのような出来事のあった現場に立って、古き時代に思いを寄せてみたいという衝動が湧いたからである。
名草神社も兵庫県も八鹿町も、そろそろ明治期の権力者にとっての「きれいごとの歴史」から脱して、出雲大社との関係や廃仏毀釈に関わる興味深い歴史の真実を語る立場から、日光院とともに観光客の誘致に取り組んでみてはどうだろうか。
名草神社も日光院も、何も知らずに訪れてはそれほど面白いところではない。しかし、真実の歴史を知れば知るほど旅行することが楽しくなる、そんな場所である。
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明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺

下の画像はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「清水寺」の絵である。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_171.html

seisuiji100.jpg

下の画像が現在の伽藍配置である。「都名所図会」では上方向が北東で、現在の配置図は上方向が東に描かれていているのに注意して見て頂きたいのだが、「都名所図会」で左下に描かれている「子安塔」が、今では国宝・本堂(清水の舞台)の南方に移転していることがわかる。

清水寺境内図

昔は仁王門のすぐ近くにあった「子安塔」の明治期の写真が今も何枚か残されている。 s_minagaさんが、「がらくた置場」という自身のホームページに、古寺の塔に関する膨大なデータを残しておられる。
このホームページの中にご自身が集められた古写真などが貼られていて、つぎのURLが清水寺の「子安塔」のページである。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_seisuiji.htm

s_minagaさんの「リンクフリー」の言葉に甘えて明治5年の「子安塔」の写真を掲載させていただく。この写真の右側に写っている道は「清水坂」で、今では多くの土産物屋が立ち並んでいるところだ。

明治5年koyasu_11

この「子安塔」を清水寺の「仁王門」あたりから写している写真も残されているのだが、この仁王門はかなり傷んでいることが見て取れる。屋根の檜皮葺の傷みもひどいが、そもそも屋根そのものが垂れ下がっていて、二層部分と屋根につっかえ棒が何本か立てられて支えられていたことが画像で分かる。

kiyomizu仁王門

この写真が撮影された時期は幕末から明治16年までの間だとs_minaga氏は書いておられるが、現在では京都の観光地人気No.1の清水寺においてすら、明治の初期はこのような状態を修理することすらできなかったのである。それはなぜなのか。

その理由は、明治元年三月に明治政府が発令した「神仏分離令」で神仏を分離し、「上知令」で寺有地のかなりの部分を強制的に国有化し寺院の収入源を激減させたことと、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が吹き荒れたことにあるのだが、このことは清水寺だけの問題ではない。この時期にわが国の多くの寺院が経済基盤を失って廃寺となり、同時にわが国は多くの文化財を失ったのだ。

梅原猛氏は、「もし明治の廃仏毀釈がなければ現在の国宝と呼ばれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるようだが、この時にわが国の寺院の半数以上が廃寺となった史実は、ほとんどの歴史書にはキレイごとを書き連ねているだけで何も書かれていないのが現状だ。
東大寺、法隆寺、興福寺など古い有名なお寺が今も数多く残っているのだが、このような有名寺院ですら明治初期という時代を乗り越えるために大変な苦労があったことをこのブログでいろいろ書いてきた。
興味のある方は、次の「にほんブログ村」の次のトラコミュに私の有名寺院の廃仏毀釈に関する36の記事を置いてあるので、覗いて頂ければ幸いである。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

明治までのわが国の宗教は、日本古来の神祇信仰と仏教とが混然一体となった「神仏習合」という状態が当たり前であったのだが、江戸時代後期に平田篤胤らを中心に尊王復古を唱える国学が盛んとなり、それが尊王倒幕運動の思想的バックボーンとなり、明治維新を迎えると神道を国教化しようとする流れから「神仏分離令」が布告されたのである。
彼らの考えでは仏教も異国のものであり、神仏習合によって古来の神道が穢されてしまった。したがって仏教は排除すべき対象であるというものであった。

清水寺の謎

清水寺学芸員の加藤眞吾氏が書かれた『清水寺の謎』という本が祥伝社黄金文庫にある。そこに清水寺の廃仏毀釈のことが記述されている。

「『清水寺史』によると、江戸時代を通じて幕末までは、二十いくつかの塔頭(たっちゅう)があった清水寺だったが、現在は八つしかない。
同時に行われた上知が、決定的な打撃だった。上知は土地をとり上げること。清水寺もさまざまな寄進、寄付から幕末までは、洛中などに領地を保有していた。そこから上がる年貢などの上納が、寺の経済を支えてきた。これを根底からくつがえされては、寺の経営が成り立たない。
上知は二度にわたって行われた。まず第一回目の上知で、かつて十七万坪からあった境内地は、十五万坪強となった。追い討ちをかけた第二回目の上知で、さらに減らされた。一気に一万三千四百坪強になった。十五万坪に対し一万三千坪。なんと九%にまで激減したのである。(後に、明治末期近くなって、常置された土地の払い下げ願いが実現し、旧境内地の23%にあたる三万六千坪強まで回復した。)
本来、檀家を持たない清水寺は、参詣者の寄進と祈禱寺院としての収入、公家などの朝廷関係者の後援、領地からの年貢などで成り立っていたのに、公家は東京へ移り、さらに参詣者寄進はともかく、収入の大半を占めていた年貢収入などの部分が完全に断たれたのである。」(『清水寺の謎』p.127-128)

「塔頭」というのは禅宗において高僧の死後に、その弟子が師の徳を慕って、 墓塔のほとり(頭)、または、その敷地内に建てた小さなお寺のことをいうが、昔の塔頭の配置図を見ると、今の門前の参道にも、境内にも多くの塔頭が点在していたことがわかる。ところが、明治に入ってその多くが運営できなくなって廃院のやむなきに至ってしまったために、境内の南側の多くが空き地になっていった。
下の図が加藤眞吾氏の著書の中にある江戸時代の清水寺の伽藍配置だが、この中で今も残っているのは、成就院、宝性院、慈心院随求堂、延命院、来迎院経書堂、真福寺大日堂、善光寺堂 (旧地蔵院:移転)、泰産寺(移転)の八つだけである。冒頭に写真を紹介した「子安塔」は清水寺門前にあった泰産寺の三重塔だ。

江戸時代の清水寺

また清水寺は幕末以来住職不在が続いていて、明治8年(1875)になってやっと成就院住職であった園部忍慶が清水寺住職(貫主)就任を認められているという。
園部忍慶貫主らの努力と多くの信者の支援の結果、廃仏毀釈で荒廃した建物の修繕がなされていったが、明治政府が文化財の保護に動くのは、明治30年に古社寺保存法が制定された以降のことである。その時に清水寺本堂は特別保護建造物(国宝)に指定され、ようやく本堂と舞台の大修理が行われ、35年(1902)6月に、本堂修理の完成に伴う落慶法要が営まれたという流れだ。

京都府庁文書に『寺院境内外地』という明治36年に作成された文書がある。その文書は、上知令で取り上げられた土地を返還・払下げしてほしいと清水寺が官に願い出たものなのだが、その文書の中に払下げ後の堂宇の再配置構想が書かれているという。
実際に実施されたのは泰産寺とその子安塔を南に移転しただけだったが、その構想では「縁結びの神」で有名な「地主神社」を門前の子安塔の跡地に移転するほか、阿弥陀堂や朝倉堂、経堂なども南苑に移転する計画だったそうだ。もしこの計画が着実に実行されていたならば、境内の様相は現在とは随分異なるものになっていたはずだ。

地主神社

加藤眞吾氏によると、明治時代の清水寺は一部の堂宇が修復されたとはいえ、厳しい状態であることには変わりなかった。荒廃した清水寺が復興していったのは大正時代以降で、大西良慶和上が中興の祖だと書いておられる。
大西良慶和上は明治8年に生まれ、大正3年(1914)に奈良興福寺の住職と兼務で清水寺の住職として晋山されているが、その当時の清水寺はどんな状態であったのか。

加藤氏はこう書いている。
「和上が晋山された当時の清水寺は、明治維新からかれこれ50年、諸堂の修繕や境内の整備に努め、廃仏毀釈や上知の打撃から少しずつ立ち直りつつあったとはいえ、せっかく残った塔頭でも無住のところもあり、僧侶の住む諸院や子院は荒廃しきっていた。和上が晋山した際の挨拶状に、『法務の都合上、当分、清水寺本坊成就院に留錫(りゅうしゃく)する』とあり、成就院に居を置いたが、この成就院ですら『内玄関から入る間でも、雨が降ったら、傘をさして廊下歩かな、裸足で歩けんほど雨漏りした』(和上回顧談)といった状況だった。」

大西良慶

良慶和上は、なおざりにされていた清水寺の年中法会を、厳重に奉修することから始められ、明治期には禁止されていた伝統行事を復活され、全国各地に布教のための法話をされて、信徒組織の充実にも努められたという。
また廃寺、廃院になった清水寺の塔頭の仏像や法具は収蔵する場所がなく、境内に長らく散乱していた時期があったようで、その後長期間にわたり経堂が収蔵庫代わりに使われていたのだが、ようやく昭和59年(1984)に大講堂が建てられ、そこに宝物殿が付設されて、仏像などは安住の地を得ることができたのだという。
残念ながら大西良慶和上は大講堂や宝物殿が完成する前年の昭和58年(1983)に109歳という長寿で世を去られたが、廃仏毀釈で衰退した寺を見事に復興させたことで、墓碑には「中興開山 良慶和上」と刻まれているのだそうだ。

明治初期の「廃仏毀釈」を調べていくと、直接的な破壊活動の影響も寺院によっては大きかったが、「上知令」などによって経済的基盤を奪われたことの影響が特に大きかった。さらに宗教者としての誇りを奪われたことによるダメージもかなりあったことが分かる。

佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』という本にはこう書かれている。

「明治以来終戦まで、神職は官吏として国家から給料をもらって生活していました。一方住職は、もっぱら信者から布施にすがって生きていかねばなりませんでした。聖職という名の乞食でした。生活の保証はなかったのです。しかも明治二十二年六月以来被選挙権は奪われ、同二十七年二月には選挙運動を禁止され、同三十四年十一月以来、小学校訓導になることも禁止されてきたのです。一夜にして神職は国家官吏となり、住職は剥奪されて乞食者となりました。これを明治百年の仏教弾圧といわずして何と言えるでしょう。寺院から菊の紋章を取りはずし(明治二年)、寺領を没収し(同四年)、僧侶に肉食妻帯させて(同五年)、なまくさ坊主とはやし立て、上古以来の僧官を廃し、仏教修行の根本たる托鉢を禁止し(同五年)、傍らで神職に給料制度をしき(同六年)、僧侶の口を封じて落語や講談にまで僧侶の失態を演じさせ(同六年)、学校から神道以外の宗教教育をしめ出し(同三十九年)て、コジキ坊主、ナマクサ坊主とさげすまれて、百年の今にまで至っています。」(『廃仏毀釈百年』p.23-24)

清水寺2

現在残されている古い寺院の建物や文化財は、貴重なものであると認識されていたからこそ、長い歴史の中で僧侶と信者が力をあわせて、何度も危機を乗り越え護られてきたものであり、明治国家の神道原理主義的な圧力にも抗して現在まで残されてきたものであることを、決して忘れてはならないのと思うのだ。

今では清水寺を訪れる観光客は年間1000万人を超えるとも言われている。このように観光客の多い寺社はまだ何とかなるだろうが、このような寺院はごくわずかだけであり、素晴らしい文化財を持ちながらも観光収入がほとんどなく、檀家からの収入も先細りになっている寺院の方がはるかに多いことだろう。古い歴史を持つ神社も同様である。
あらゆる事業に損益分岐点があるように、お寺や神社にも一定以上の収入がなければ文化財の維持どころか、僧侶や神官の生活も厳しくならざるを得ないのはいつの時代も同じなのである。

規制緩和が進んで大手流通が地方の生産者と消費者の経済循環を破壊し、地方に定住して生計を立てることが困難になって、多くの若い世代がやむを得ず地元を離れて、都心に職を求めて生活をするようになって久しい。
しかし長い目で見れば、若い世代が地元に残らなければ、その地域にある歴史ある寺や神社を支える人がいなくなってしまう。同時に地域の伝統文化や行事も担い手を失い、いずれはその地域の観光地としての魅力をも失うことになっていく。
数百年以上続いた地方の文化や伝統が、経済合理主義のためにこれ以上破壊されていくのを何とか押しとどめたいといつも思うのだが、私にできるのはせいぜい地方の社寺を巡って地元に僅かばかりのお金を落として帰ることだけだ。

清水寺成就院石仏

清水寺成就院参道の右手には様々な石仏が立ち並んでいる。これらはかつて京都の各町内でお祀りされていた「お地蔵さん」で、これらは廃仏毀釈の際に捨てるには忍びないと、地蔵信仰の篤い京都市民によってここに運び込まれたものだそうだ。
平成時代の市場原理主義的施策が、明治時代の神道原理主義的施策と同様な結果を招くことがないことを祈るばかりである。
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住職が勤王倒幕運動に身を投じた江戸幕末の清水寺

前回の記事で清水寺が明治期の廃仏毀釈や上知令などでひどく荒廃したことを書いた。そのなかで、幕末以来住職不在であったことも触れたのだが、実は清水寺は幕末の頃からかなり荒廃していたらしいのだ。

清水寺3

その頃の事情について、前回紹介した加藤眞吾氏の『清水寺の謎』には次のように記されている。(文章の中の「山内」は清水寺全体のことを指している。)
「…十九世紀初め頃の清水寺は、江戸時代に発達した商品・貨幣経済の波に翻弄されていた。幕府や諸藩が赤字財政に悩む中、檀家もなく門跡大寺院でもなく、大名などの檀那(だんな)を持たず、わずか寺領百三十三石という零細封建領主でしかない清水寺は、当然のことながら財政難。諸院は軒並み借金だらけだった。おまけに山内の不統一からの塔頭間の足の引っ張り合いで、塔頭の中には無住職状態のところが続出する有様だった。
目代職塔頭(ナンバー2塔頭)の慈心院や延命院だけでなく、一時期は寺の財務や庶務的な役目を預かる本願職である成就院すらも、五年間ほど無住職状態が続いたほどだった。」(『清水寺の謎』p.251-252)

1石は1千合であり、1合は一人が1回で食べる米の量のことをいうので、1石とは概ね1人が1年間で食べる米の量ということになる。(1合×3回×365日=1095合)
江戸時代の主要な寺の石高を以前調べた事があるが、東大寺2,211石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石という数字を知ると、清水寺の133石は相当少ないと言わざるを得ない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-79.html

この清水寺を建て直しするために、蔵海上人が、他寺から懇請されて成就院の住職となっている。
しかし蔵海上人による改革は簡単には進まなかった。当時の清水寺は荒廃の極みにあり、加藤氏によると当時の清水寺の塔頭寺院の住職の中には「境内の灯篭を売り払って、その金を懐に入れる塔頭まであったほど」で、蔵海上人は病気とも闘いそして「寺内の反対派の塔頭住職の執拗な妨害」に苦しみがら、法流興隆や財政再建、史料の収集保全に奮闘したという。
また蔵海上人は後継者育成も心掛け、次兄で大阪の町医者であった玉井宗江の息子の宗久と綱五郎の兄弟を迎え入れ、それぞれ得度させている。

この兄弟二人は後に月照、信海と号し、それぞれ清水寺塔頭成就院の第二十四世、第二十五世の住職となったのだが、二人とも非業の死を遂げている。今回はこの兄弟のことを書き記したい。

文政十年(1827)に兄の宗久(授戒名:忍介。後に月照上人と号す)が15歳の時に、弟の綱五郎(後の信海上人)は文政十二年(1829)に12歳で清水寺塔頭成就院に迎え入れられ、二人とも蔵海上人の後継者として研鑽を積んだ記録が残されているそうだ。

蔵海上人は天保六年(1835)にこの世を去り、次いで若き月照が成就院住職に就任している。
月照は清水寺の建て直しのために懸命に努力したのだが、当時の清水寺は塔頭の隠居たちが隠然たる力を持ち、月照の改革に従わなかった。

180px-Gesho.jpg

加藤氏はこう書いておられる。

「月照は蔵海の遺命を忠実に果たそうと、懸命に努力した。ところが山内の月照反対勢力は、月照の努力をあざ笑うかのように勝手気ままな行動を繰り広げた。ある塔頭の院主は奥の院本尊の出開帳を企てたり、中には堂塔の賽銭箱を私(わたくし)したり、やりたい放題といっていいような不義を重ねていた。さらに、執行職(清水寺住職)宝性院の院主義観が『若年病弱』を理由に隠居すると、弘化四年(1847)十二月、本寺興福寺の一乗院宮から月照に対し、執行職と本願職成就院を兼務するようにとの仰せが下った。つまり月照は一時期、清水寺全体の住職でもあった。
しかし、山内は依然として治まらなかった。反成就院、反月照の塔頭連中は執拗に月照の改革を邪魔し続けた。月照も堪忍袋の緒が切れたのであろうか。嘉永六年(1853)秋、アメリカの東インド艦隊ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航した直後、弟子の無着とともに、突如として隠密の旅に出てしまうのである。『秋文月に、いとはづらはしき(煩わしき)業(わざ)どもの有(あり)て憂世のいとはしく成(なる)ままに人にも知らせで寺をいでて、こし(越)路へゆき、しなの(信濃)より木曽路をのぼり、つゐにき(紀)の国高野やまにことしのむつき(正月)までこもりゐける』(月照歌集『落葉塵芬集』)と、自らの無断の出奔を記している。このため、月照は翌嘉永七年(1854)二月、境外隠居となってしまう。月照四十二歳であった。」(p.255-256)

文章に出てくる「一乗院」というのは奈良の興福寺の門跡寺院(皇族・貴族が住職を務める寺院)で、江戸時代以降は皇族が住職となったので門主を「一乗院宮」と呼んだ。しかしこの「一乗院」は、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、その跡地は奈良県庁となった後、今では奈良地裁となっているようだ。当時の清水寺は興福寺の末寺で、興福寺一乗院の支配下に置かれていたのだ。

月照が急に居なくなったために、嘉永七年に弟月照の弟の信海が、成就院住職となったのだが、反対派勢力は月照が隠居したことでむしろ激しさを増す始末であったという。

月照も信海も後に勤王倒幕運動に挺身するのだが、なぜ兄弟が勤王倒幕派の公家や武士たちと接点を持つようになったのだろうか。
加藤氏の著書によると、兄弟とも当時第一の歌人と言われていた右大臣(後に左大臣)の近衛忠熙(このえただひろ)に師事して、歌と書を学んだそうだが、そのことが兄弟を宮廷の討幕派の公家達と結びつけることになったという。
月照は近衛家に出入りし、倒幕運動家と朝廷公家との連絡役を務めていたとされている。
薩摩の西郷隆盛ともこの時期に知り合ったようだ。

京都で倒幕の謀議がなされていることを江戸幕府が警戒していたことは言うまでもない。
幕府では月照を危険人物と見做していた記録が残されているようだ。
加藤氏の著書をしばらく引用する。

長野主膳

「井伊直弼の謀臣長野主膳が安政六年(1859)一月八日付けで残したメモにこんなふうに記されている。『月照事(安政五年)三月より日々、小林民部権大輔(鷹司家の家臣)、鵜飼吉左衛門(水戸家家臣)、近衛殿、粟田宮(青蓮院宮門跡)、右の通、順々に廻り、闕(かけ)たるは唯一日のみ。毎日毎日昼前より出かけ、夜分八ッ時(午前二時頃)迄も近衛殿にては、いつも遅くなり候由』。長野主膳は月照こそが、近衛家と薩摩、水戸の両藩、そして青蓮院宮を結びつけた者であると見ていたことを示している。

もっとも月照は、初めから尊王倒幕運動に身を投じていたわけではない。最初は清水寺建て直しのために、近衛家との接触を深めていったことがきっかけだった。近衛家は藤原氏である。藤原氏の氏寺、興福寺は清水寺の本寺であり、特に興福寺一乗院門跡は近衛家から出ていた。…清水寺の運営に一乗院門跡が関与…したことから月照は、近衛家の影響を強く受けるようになっていった。結果、尊王倒幕活動へと傾斜していくことになった。」(同上書p.257-258)

このブログで先日「安政の大獄」と「桜田門外の変」のことを書いたが、上の文章にある長野主膳のメモは、まさに「安政の大獄」で江戸幕府が一橋慶喜擁立派を大弾圧した直前の月照のことを書いているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-259.html

メモにある「安政五年(1858)三月」という時期は、西郷隆盛が篤姫から近衛忠熙への書簡を携えて京都に赴き、一橋慶喜を十三代将軍家定の後継とするための内勅降下をはかろうと工作した時期なのだが、その工作活動に協力したのが月照である。
ところが同年五月に井伊直弼が幕府の大老となり、六月に日米修好通商条約に調印し、紀州藩主徳川慶福を将軍継嗣とする事に決定し、七月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた。九月に梅田尊王攘夷派にも危機が迫り、月照は西郷を頼って鹿児島に向かう。

月照

それから月照はどうなったか。しばらく加藤氏の著書を引用したい。

「しかし運が悪かった。時に利なく、西郷を小身時代から引き上げ、自身の懐刀としてつかうほど、バックアップしていた藩主島津斉彬が亡くなり、異母弟の久光の息子が後を継いだ。薩摩の実権は久光が握っていた。斉彬が薩摩藩主となる際に起きかけたお家騒動があるが、この時反斉彬派が擁立しようとしたのが久光である。そうしたことから斉彬の急死も久光派の陰謀説が出たほどだった。このため西郷は久光を嫌い、久光も西郷を嫌っていた。
このため月照は受け入れられず、西郷とともに『日向送り』となる。国外追放である。この頃の薩摩の藩法は、国外追放者は国境で処刑するのが定めだったという。悲観した二人は、日向送りの船から相抱いて海に飛び込んだ。西郷は助かったものの月照は儚くなった。十一月十六日のことだった。
月照の懐には二首の辞世が収められていた。
『曇りなき心の月の薩摩潟 沖の波間にやがて入りぬる』
『大君のためにはなにかをしからぬ 薩摩のせとの身はしづむとも』」(同上書p.259-260)

西郷隆盛

この時西郷は運よく蘇生したが、回復に1ヶ月近くかかったという。生き返った西郷は、藩によって死んだこととされ、菊池源吾と変名して奄美大島に島流しとなっている。

一方、月照のあとで成就院住職となった弟の信海も、翌安政六年(1859)に攘夷の祈禱を行なったとの嫌疑で捕えられ、江戸伝馬町の牢屋敷に送られて獄中で没している。
そして桜田門外の変で大老の井伊直弼が暗殺されたのはその翌年の安政七年(1860)。徳川慶喜が大政奉還を申し入れし江戸幕府が終焉したのはそのわずか七年後の慶応三年(1867)のことである。

広い清水寺の境内の中に「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」という不思議な名前のお茶屋がある。清水寺のホームページ記事を読んではじめてこの由来を知った。
http://www.kiyomizudera.or.jp/yodan/vol2/index.html

月照の友人で成就院の執事であった近藤正慎(こんどうしょうしん)は、幕府方に捕えられて、月照がどこに逃げたかを問われて拷問を受けたが、決して白状せず自ら舌を噛み切って壮絶な最後を遂げた。「舌切茶屋」は清水寺が近藤正慎の功績に報いるために、遺族や家族の生計の足しになるようにと境内茶屋の開設権利を与えたものだそうだ。近藤正慎は俳優の近藤正臣の曽祖父にあたるのだそうだ。
http://95692444.at.webry.info/201201/article_1.html

近藤正臣

また月照の九州下向に付き添いその遺品を持ち帰った大槻重助は、幕府に捕えられ牢獄に繋がれたが、同じく獄中にあった信海から後事を託され、境内茶屋の開設を認められたという。それが「忠僕茶屋」である。重助は茶屋を営みながら生涯月照・信海の墓を守り、月照の17回忌が鹿児島で行われた際に西郷隆盛から上人を悼む漢詩を託されている。

月照上人・信海上人慰霊碑

清水寺北総門の北に「月照上人・信海上人慰霊碑」があり、とりあえずカメラに収めたのだが、この右側の石碑にこの時に西郷が大槻重助に託した漢詩が刻まれている。読み下し文が次のURLに紹介されている。
http://www.niji.or.jp/home/akagaki/10-03gesyou.html

相約して淵に投ず後先無し 
豈(あに)図らんや波上再生の縁 
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば十有余年の夢 
空しく幽明を隔てて墓前に哭(こく)す 
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なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか

このブログで何度か明治初期に起こった廃仏毀釈のことを書いてきた。この時期にわが国の寺院が半分以下になり、多くの国宝級の文化財を失ってしまったのだが、そもそも廃仏毀釈が起こる前のお寺や神社がどのような姿であり、一般民衆は廃仏毀釈をどう受け止めたかについて調べていると、高村光雲の文章が眼に止まった。

高村光雲

高村光雲は上野の西郷隆盛像を制作した彫刻家で詩人の高村光太郎の父親でもあるのだが、仏師であった高村東雲の徒弟となったものの、明治維新以後は仏師としての仕事がなくなり、西洋美術を学んで日本の木彫技術の伝統を近代彫刻に繋げた人物だと評価されている。

幕末維新懐古

その高村光雲が口述し、昭和4年に出版された『幕末維新懐古談』という本があり、平成7年に岩波文庫で再刊されている。残念ながらその岩波文庫も今では絶版になってしまったが、有難いことに青空文庫で全文を読むことが出来る。
その中に「神仏混淆(こんこう)廃止改革されたはなし」という文章があり、これを読めば、廃仏毀釈以前のお寺や神社がどのようであったか、だいたい見当がつく。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45960_24248.html

「明治八年は私が二十三で年季が明けて、その明年私の二十四の時、その頃神仏混淆であった従来からの習慣(しきたり)が区別されることになった。
これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛(へいはく)を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地(ほんじ)大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。
この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一つの宗教政策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧侶別当(べっとう)と称(とな)え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭(やと)われていたような有様であった。政府はこの弊を矯(た)めるがために神仏混淆を明らかに区別することにお布令(ふれ)を出し、神の地内(じない)にある仏は一切取り除(の)けることになりました。
そして、従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方どっちかに方附けなければならないことになったのである。これは日本全国にわたった大改革で、そのために従来別当と称して神様側に割り込んでいた僧侶の方は大手傷を受けました。奈良、京都など特に神社仏閣の多い土地ではこの問題の影響を受けることが一層甚(ひど)かったのですが、神主側からいうと、非常に利益なことであって、従来僧侶に従属した状態になっていたものがこの際神職独立の運命が拓(ひら)けて来たのですから、全く有難い。が、反対に坊さんの方は大いに困る次第である。
そこで、例を上げて見ると、鎌倉の鶴ヶ岡八幡に一切経(いっさいきょう)が古くから蔵されていたが、このお経も今度の法令によって八幡の境内には置くことが出来なくなって、他へ持ち出しました。一切経はお寺へ属すべきものであるからというのです。そこでこのお経は今浅草の浅草寺の所有になっております。」

鶴岡八幡宮

鎌倉の鶴ヶ岡八幡廃仏毀釈のことは以前このブログにも書いたが、昔の境内図にあった薬師堂や護摩堂や経堂や大塔が破壊されてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-74.html

高村光雲はこう纏めている。
「…神仏の混淆していたものが悉(ことごと)く区別され、神様は神様、仏様は仏様と筋を立て大変厳格になりました。これは、つまり、神社を保護して仏様の方を自然破壊するようなやり方でありましたから、さなきだに、今まで枝葉を押し拡(ひろ)げていた仏様側のいろいろなものは悉くこの際打(ぶ)ち毀(こわ)されて行きました。経巻などは大部なものであるから、川へ流すとか、原へ持って行って焼くとかいう風で、随分結構なものが滅茶々々(めちゃめちゃ)にされました。奈良や、京都などでは特にそれが甚(ひど)かった中に、あの興福寺の塔などが二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかったというような滑稽こっけいな話がある位です。しかし当時は別に滑稽でも何んでもなく、時勢の急転した時代でありますから、何事につけても、こういう風で、それは自然の勢いであって、当然のこととして不思議と思うものもありませんでした。また今日でこそこういう際に、どうかしたらなど思うでしょうが当時は、誰もそれをどうする気も起らない。廃滅すべきものは物の善悪高下によらず滅茶々々になって行ったものである。これは今日ではちょっと想像に及びがたい位のものです。」

正倉院展と興福寺 002

以前このブログでも書いたが、奈良の興福寺は明治5年に廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは無住の地であった。明治政府は現在国宝となっている五重塔を売却しようとし、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の篤い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたことが『神仏分離資料』に残されているという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

仏師の修行を積んできた高村光雲にとっては、寺院が破壊され仏像が破壊されていくのを見ることはさぞ辛かったことと思うのだが、わさわざ文章の表題を「神仏混淆廃止改革されたはなし」として「改革」という言葉を入れておき、内容も文化破壊の実態を一般的な表現にとどめて、政府批判と受け取られないように言葉を選んで書いているようにも読める。
廃仏毀釈の実態を詳しく書いた記録で出版されているものはほとんどないし、一般的な史書には明治政府が関与したことが何も書かれていないのだが、関与があったことは間違いがない。つまるところ、いつの時代もどこの国でも、政権側にとって都合の悪いことは記録に残さないものであり、公式記録だけを読んでも真実は見えて来ないものなのだと理解するしかない。

廃仏毀釈で実際どのような事が起こったかは、ネットなどで調べて断片的にわかるのだが、ではなぜ、明治初期に仏教弾圧と仏教文化破壊が火を噴いたのだろうか。

前々回の記事で少し触れたのだが、儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという平田篤胤(ひらたあつたね)の思想が、尊王倒幕運動から明治維新につながる思想的バックボーンとなったと言われている。しかし、この説明では肝心なことがよく解らない。なぜ反幕府勢力が、わが国の貴重な文化財破壊につながる思想に飛び付いたのだろうか。

廃仏毀釈

この点について納得できる説明は、私が何度もこのブログで紹介した佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』にある。ポイントになる部分を引用する。

「なぜ討幕と排仏論が結びついたかといえば、徳川幕府は家光の時、寛永十七年(1640)に宗教統制策をとり、国民をみんなどこかの寺院の檀家とさせるという『寺請(てらうけ)制度』を設立しました。それを登録する宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)を作成し、宗門改め役がこれを検査しました。ここにおいては、諸大名も武士も名主も神主も町人も農民も、すべて仏教徒であったわけです。いわば寺院は区役所や市役所や町村役場的な存在であったのです。こうして徳川三百年の治安は保たれたのでした。『寺』という字は、もともと役所の意味を持っています。そこで討幕して民衆をにぎるためには、先ず寺院にある人別帳を押さえる必要があったのです。全国の寺院の人別帳を提出させることによって、幕府の財源なり生産力(農・工・商)を手に入れることができるのでした。そのために、幕府と一体になっている寺院をこわして人別帳を奪うことが、討幕派にとっては欠くことのできない必要条件でもあったのです。いうなればそれは、武力クーデターの先決条件であったといえます。
このような社会動乱の状勢に乗じたのが、国粋主義者としての平田篤胤です。彼はこの国粋主義によって、子弟多数をかかえ、その一派によって明治の仏教弾圧を決定的なものにしたのでした。」(『廃仏毀釈百年』p.55)

この文章を理解するために、江戸幕府の宗教政策をWikipediaの記事を参考に振り返っておく。
江戸幕府は慶長17年(1612)に禁教令を発布し、やがて民衆がキリシタンでないことを寺院に証明させる制度(寺請制度)を確立させ、寛永17年(1640)には幕府は宗門改め役を設置し、寛文4年(1664)には諸藩に宗門改制度と専任の役人を設置するよう命じて、次第に宗門改帳が各地で作成されるようになりこれが宗旨人別帳となる。寛文11年(1635)には武士・町民・農民など階級問わず民衆は原則として特定の仏教寺院に属することが義務づけられている。
当初はキリシタンの摘発が目的に整備された制度であったのだが、18世紀には宗教調査の意味合いが薄れて、宗旨人別帳が戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになっていったという。

この江戸幕府の施策は寺院にどういう影響を与えたか。Wikipediaにはこう書かれている。
「結果として仏教は幕府体制に取り込まれることとなり、やがて寺院は汚職の温床となって僧侶の世俗化などの問題を招く。明治になると尊皇思想の高まりや、神道国教化運動などによって神道優位の風潮が起こり、折からの仏教への批判は大きな物となっていき、やがて廃仏毀釈運動へと繋がっていく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E9%96%80%E6%94%B9

いつの時代もどこの国でも権力と癒着した世界に腐敗は付き物だが、当時の仏教界の腐敗はWikipediaの記述の通りではなかったか。

世事見聞録

岩波文庫に文化13年(1816)に武陽隠士が著した『世事見聞録』という本があり、その「三の巻 寺社人のこと」を読むと、当時の仏教界の腐敗した状況がいろいろ書かれていて興味深い。著者は最後にこう書いている。

「…さて仏神の道は人欲を治め人心を清くし、慈悲を元として国家を守護するものなり。しかるに今右の如く数百万人の寺社人等、国々在々に誇りて驕奢安逸を百姓の上に極め、武士の上に至り、また強欲・非道・法外・人外を世界第一に尽せり。誠に神仏を邪悪の棟梁となし、国家を邪悪に汚すものなり。早々改正ありたきものなり。かくの如く邪悪数百万人このままになし置きては、天道も仏神も捨て置き給ふまじ。必ず天下災害の基とならんか。…」(『世事見聞録』p.172)
とかなり辛辣である。どの程度の割合でそのような腐敗があったのか、今となっては知る由もないが、廃仏毀釈が起きてもおかしくない要因が寺院側に種々あったが故に、仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうとする平田篤胤の思想が広まり、その仏教排斥思想に討幕派が飛び付いたと考えれば良いのだろうか。

「大政奉還」と「王政復古」によって明治新政府が出来たと単純に考えていた時期が長かったのだが、よくよく考えると国家の生産力や財源を把握せずして新政府の政策決定が出来るはずがなく、長期安定的な政権運営も不可能だろう。しかし、そのために必要な台帳は幕府や諸藩ではなく、寺に存在したということは重要なポイントであったはずだ。新政府は、それを寺から奪い取ることが必要だったのだ。
さらに新政府は、寺院の所領の多くを没収して寺院の収益源まで奪い取り、歴史ある建物の補修にも協力することなく、むしろ多くを破壊したのである。有名な寺院の廃仏毀釈の事例は、次のURLにこのブログの記事を置いてあるので、覗いて頂ければ幸いである。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

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歴史は勝者にとって都合よく書き換えられるものであることを、このブログで何度か書いてきた。廃仏毀釈は明治政府にとって都合の悪い史実であるために、いわゆる「通史」にはほとんど書かれていない。

たとえば『もう一度読む 山川の日本史』では
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民強化を図ろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのために一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた」(p.231)
と書かれているだけだが、この表現だと大多数の人は、廃仏毀釈は自然発生的に全国で起こったが、明治政府が意図したものではなかったし、規模も大きくなかったと理解することだろう。実態は「廃仏毀釈の嵐」が通り過ぎた後に、当時の寺院の約半数が廃寺になってしまったのだが、このような大事件であったことを誰も読み取ることが出来ないような教科書の叙述でいいのだろうか。

廃仏毀釈は明治政府にとっては都合の悪い史実なのかもしれないが、太平洋戦争敗戦によって何もかもが変わってしまった今の時代になっても、この史実を隠そうとする理由がどこにあるのか、私にはわからない。

我々の先人たちが、文化財を後世に残すことにどれだけ苦労してきたかをもっと伝えるべきではないのか。その先人たちの苦労が広く理解されずして、現在残されているわが国の文化財の貴重さをどうして伝えることができようか。
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奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか

前回は高村光雲の文章を紹介したが、この文章では廃仏毀釈の文化財破壊については「随分結構なものが滅茶々々にされました」といった表現にとどめていて、廃仏毀釈の事例として具体名を挙げて書いているのは興福寺の五重塔が「二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかった」と言う話と、鎌倉の鶴岡八幡宮の一切経が浅草の浅草寺に移されたことが簡単に書いているだけだ。今回はもっと具体的な記録が残されている文章を紹介しよう。

東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を明治34年(1901)から昭和7年(1932)まで31年間も勤めた正木直彦(1862~1940)が、東京美術学校在職中に語った講話などを記録し校友会雑誌に連載された記事を抄録した『十三松堂閑話録』という本が昭和12年(1937)に出版されている。

古い本なので現物を手に入れることは難しいが、有難いことにGoogleブックスでその文章を誰でもパソコン上で読むことが出来る。
http://books.google.co.jp/books?id=Dw8eMMYFs-4C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

その本の中に「廃仏毀釈、西洋崇拝、国粋保存と其推移」という文章があり、その中に廃仏毀釈に関するかなり具体的な記述が残されている。

正木直彦

正木氏は廃仏毀釈の思想的背景から書き起こしている。冒頭の部分から引用させていただく。(原文は旧字・旧かな)

「王政復古は国学者と密接な関係があった。平田篤胤は当時議論最も危激で、すべてのものを神代の昔に復さなければならぬと唱えていたが、その門人およびこの学派の中からは、沢山明治維新の功労者を出した。これらのいわゆる神道者流は新政府に勢力を得ていろいろ維新の改革をやったが、その中、平田流の福羽美静*や田中頼庸**らの議論が用いられて廃仏毀釈を最も激しいやり方で実行した。それまでの日本は両部神道で本地垂迹説の発達によって廬舎那仏は本地仏でその垂迹が天照皇大神宮である、釈薬地観は本地仏で春日四社明神が垂迹であるというふうにすべての神仏を旨い具合に習合させていた。それを明治政府ではかかることは仏が神を汚しているものであるとなし、仏を祭ってはならぬ、僧侶はやめてしまえ、皆神道にならなければならぬ等と稱(とな)え、そして本願寺や知恩院等にも仏壇の前に幕を引いて、新しく神を祀らせ祝詞を上げさせたこともあった。」

*福羽美静(ふくばびせい):元津和野藩士で、幕末から明治5年まで神祇事務局・神祇官の実権を握った人物。
**田中頼庸(たなかよりつね):元薩摩藩士で明治4年に神祇省に出仕し、明治7年に伊勢神宮大宮司となった人物。

本願寺や知恩院においても、仏壇の前に幕を引いて祝詞を上げさせたというのは驚きであったが、正木氏は続いて奈良の廃仏毀釈に言及し、興福寺五重塔のことを高村光雲よりもはるかに詳しく書いている。再び正木氏の文章を引用する。

興福寺五重塔

「新政府の役人はまたいたるところで寺に関係のあるものを焼き払ったり取り毀したりした。ことに面白いのは興福寺の五重塔で、時の県令四條隆平という人は非常に改革派の人であったから、春日の神鹿を売飛ばし、若草山から春日野一帯を牧場にして牛を放牧することにしたり、また興福寺の五重塔が目障りであるからとて入札払にしたところが、これが十五両で落札した。足場を掛けて毀すことにすれば沢山費用がかかるので、落札者は逃げて仕舞うた。そこで県令は綱を着けて万力で引き倒せと命令したが容易に倒れないので、されば火を掛けて焼き払えと命令し、柴を積んで日を期して焼き払うはずであったところが、これを聞いた奈良の町民は大いに驚き、嘗て(かつて)元興寺の高い塔が焼けて困った経験から興福寺の五重塔を焼き捨てることになるとまた大変だと言うので、町民は多数堅調に押し寄せて愁訴したから、断行もできず、彼是(かれこれ)するうちに県令が代わって五重塔は火難を免れたのである。」

「県令」というのは廃藩置県後の「県」の長官で、東京・大阪・京都の三つの「府」の長官は「知事」と称した。それまでは藩を治めていた大名に代わって、政府から派遣された役人が「県令」や「知事」となって地方行政を担ったのである。

「奈良県」は明治時代に何度も境界線が代わり、明治3年には吉野郡辺りは「五條県」であったし、明治4年の廃藩置県では、大和郡山、高取、柳生などの小県が出来たが、その年の秋に小県がまとまって大和全域を管轄する「奈良県」が成立し、その最初の県令に任命されたのが、公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物である。この四條と言う人物が、わずか30歳という若さで奈良県令の地位に就いたのだが、この人物が数々の仏教排除策を強行したことについては奈良県が発行した「青山四方にめぐれる国―奈良県誕生物語」の「第2章 文明開化のあしおと」にもいくつかの所業が書かれている。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_2.htm

この四條という人物が奈良県令の地位にあったのはわずか2年程度のことなのだが、それにしては随分多くの歴史と伝統のある文化財の破壊を命じている。

内山永久寺

正木氏の文章の続きを読んでいくと、興福寺に続いて内山永久寺の廃仏毀釈のことを書いている。内山永久寺という寺については以前にもこのブログで紹介したが、鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光によって12世紀のはじめに創建され、後に石上神宮の神宮寺として栄え、「太平記」には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記されている。江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院だったのだが、明治期の廃仏毀釈によってこんな歴史のある寺院も完全に破壊されてしまった。正木氏の文章をしばらく再び引用する。

「大和の一の宮布留石上明神の神宮寺内山の永久寺を廃止しようということになって役人が検分に行くと、寺の住僧が私は今日から仏門を去って神道になりまする。その証拠はこの通りと言いながら、薪割を以て本尊の文殊菩薩を頭から割ってしもうた。遉(さすが)に廃仏毀釈の人々も、この坊主の無慚な所業を悪みて坊主を放逐した。その迹(あと)は村人が寺に闖入(ちんにゅう)して衣料調度から畳建具まで取外し米塩醤豉までも奪い去ったが、仏像と仏画は誰も持って行き手がない。役所から町の庄屋中山平八郎を呼び出してお前は是を預かれと言う厳命、中山は迷惑の由を申し出て辞退をしたけれども許されず、ついに預賃年十五円を貰い預かることとなった。その後時勢が推し移り何時の間にやら預かった仏像や仏画が中山所有の姿になった。今藤田家に所有する藤原時代の仏像仏画の多くはこの中山の蔵から運んだものである。こんな有様であるから総べて古物は仏画でも何でも二束三文となった。金泥で書いた経文等も焼いた灰から、金を取るというような商売のおこったのも無理からぬことであった。」

藤田伝三郎

藤田家というのは、明治期の関西財界の重鎮で藤田財閥の創立者の藤田伝三郎とその長男藤田平太郎、次男藤田徳次郎を指している。この3人が集めた美術品・骨董品の数はかなり売却されたようだが、それでも現在の藤田美術館には国宝9件、国の重要文化財50件を含む5000点が所蔵されているのだそうだ。

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その国宝の中に『両部大経感得図』という仏画があり、これは内山永久寺にあったものであることが解っている。
また、奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)摂社の出雲建雄神社割拝殿はもと内山永久寺鎮守の住吉神社拝殿で国宝に指定されている。
東大寺二月堂にある持国・多門天像も、もともとは内山永久寺にあった平安時代の仏像で、重要文化財に指定されている。
また海を渡って今はボストン美術館所蔵となっている鎌倉時代の仏画『四天王像』は、国内にあれば間違いなく国宝指定だと言われている。
他にも聖観音菩薩立像(鎌倉時代、東大寺二月堂)、不動明王坐像(鎌倉時代、正寿院)、四天王立像(鎌倉時代、、東京国立博物館他)、不動明王像及び八大童子像(鎌倉時代、世田谷観音寺)が国の重要文化財に指定されているというのだが、残されているものだけでも、これだけ多くの国宝や重要文化財があるというのは驚きである。
いまもしこの内山永久寺が残されていたとしたら、法隆寺や東大寺に匹敵する観光名所になっていたことは確実だろう。

京都や奈良は多くのお寺があるので、廃仏毀釈はたいしたことではなかったのではないかと勝手に解釈していたのだが、京都や奈良はもともと寺院の数が多かったので残された文化財も多かっただけのことである。

どんなに古い時代に制作された貴重なものであったとしても、毀されたり燃やされたり、奪われたりすれば文化財は一瞬にしてその価値を失ってしまうことになる。現在残されている文化財は、人々が貴重なものであると認識しているが故に、何百年も様々な危険から多くの先人たちの努力によって、長い間守られてきたものばかりなのである。

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昨年10月に対馬の観音寺にあった長崎県指定文化財の観世音菩薩坐像が窃盗団によって盗まれてしまった。観音寺はほとんど無人状態の寺だった。
窃盗団の目的は単なる転売目的であったようだが、韓国の浮石寺は、もともとこの仏像は浮石寺のものであり、1370年頃に倭寇によって強奪されたものであって、浮石寺に返還すべきであると主張している。
隣の国は常識が通用しない国だ。歴史を偽造して自分のものだと書かせ、盗んでおいて自分のものだから返さないと主張する。わが国の外務省が調査を要請すると、韓国側は国宝に指定して調査を拒んだとのことだ。

李氏朝鮮時代に、儒教を国教にして仏教を弾圧し自らが寺院を破壊し仏像を破壊した(「廃仏崇儒」)歴史がある。わが国の明治時代の廃仏毀釈に似て、この時期に高麗時代の仏教遺跡が破壊され、多くの仏像や文化財が海外へ流れたとされる。
普通に考えれば15世紀に李氏朝鮮の仏教弾圧により焼かれた寺から救出する目的で、誰かが仏像を対馬に持ち込んだものが残されたのだろう。

また彼らは、何を根拠に観音寺の仏像を「1370年頃に倭寇によって強奪された」と断言できるのか。
『明史』日本伝にはこう書かれている。倭寇の主体は日本人なのか。
「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した。」(講談社学術文庫『倭国伝』p.394)

また彼らの国の正史である『高麗史』には、高麗人が何度か対馬を襲い倭人を殺す記述があるのにもかかわらず、少なくとも倭寇は1375年までは高麗人を殺していなかったことが明記されている。
相手から襲われて家族が殺されても、敵を殺さなかった対馬の人々がどうやって李氏朝鮮の寺の仏像を奪えるというのか。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-47.html

李成桂が高麗を滅ぼし李氏朝鮮が建国された1392年以降は、倭寇のメンバーの8割は朝鮮の賤民だったと朝鮮王朝実録の『世宗実録』114卷二十八に書かれている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-48.html

彼らが自国に残した記録からは、倭寇によって仏像が奪われたという可能性を説明することは困難だろう。

勝手な歴史を作って、窃盗団を使って盗難して自国に持ち帰り、そのまま自国のものとすることの前例を決して許してはならない。
わが国の政治家は、相手が歴史を捏造するなら、中国や高麗や李子朝鮮国の正史に基づいて反論し、堂々と外交交渉してほしいものである。
地方には対馬の観音寺のような無人のお寺や神社がいくつもあるのだ。今回の事件で相手の圧力に屈するようでは、これから先わが国の文化財は守れない。
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廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ

前回の記事で奈良の最初の県令であった公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物の廃仏政策で、興福寺が多大な被害を受け、内山永久寺という大寺が破壊されたことを書いた。県令というのは大名に代わって地方行政を任された明治政府の役人である。
この四條隆平が奈良の県令の地位にあったのは、明治4年11月から明治6年11月とわずか2年のことなのだが、この県令による廃仏政策で興福寺の門跡寺院であった一乗院、大乗院が廃寺となり、内山永久寺のほかにも、大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺であった大御輪寺(おおみわでら)も姿を消してしまった。

古寺巡礼

和辻哲郎の『古寺巡礼』に、聖林寺にある国宝の十一面観音立像は天平時代のもので、かっては大御輪寺の本尊であり、この国宝仏がどのような経緯で聖林寺に移されたかが書かれている。
「…この偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は三輪山の神宮寺の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、古神道の権威におされて、路傍に放棄せらるという悲運に逢った。この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草の中に横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真言寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守りいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。」(岩波文庫『古寺巡礼』p.72)

聖林寺

ところが聖林寺のホームページでは、廃仏毀釈の前触れがあったので、慶応4年5月16日に十一面観音立像を大八車に載せてこの地に避難したと書かれている。
http://www.shorinji-temple.jp/about/about04.html
破壊される前に運ばれたか、破壊後に運ばれたかでは話が違いすぎるのだが、どちらの説が正しいかは今となってはよく解らない。
ただ、難を逃れるために事前に運んだにしては、頭上最上部にある10面のうち3面が失われており、特に光背は上の部分が大破して全体の形が不詳なのだそうだ。和辻氏には嘘を語る動機は乏しく、聖林寺にとっては路傍にころがしてあったという話は出来れば隠しておきたいとする動機があってもおかしくない。直感的には私は和辻説のほうが正しいような気がする。

四條隆平は多くの寺や仏像などの破壊を命じたのだが、私が探した範囲内では、仏像や仏画などを私物化して売却し、私腹を肥やすような話は見当たらなかった。
しかし、このような時期であれば、もし県の最高権力者である県令がその気になりさえすれば、寺院の美術品や工芸品を私物化したり、転売して私腹を肥やすことは簡単にできたと考えられる。そして実際にそのような県令が奈良にいたのである。

神奈川仏教文化研究所の朝田純一氏が、『埃まみれの書棚から』という奈良の古寺、古仏についての素晴らしいホームページを立ち上げておられる。その中で昭和2年の文藝春秋7月号に掲載された「柳田国男・尾佐竹猛座談会」と題し、芥川龍之介、菊池寛も座談に加わって語られた内容の記事の一部が引用されている。

尾佐竹猛

尾佐竹猛(おさたけたけき)という人物は明治文化社会史研究家で当時は大審院(今の最高裁)判事だった人物だが、彼の発言に注目である。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana145.htm

「柳田:○○○事件ですか。それから一番ひどいのは○○子爵ですね?
尾佐竹:堺の県令をして居る時分に奈良の大抵の社寺の古物などを持って帰るのですね。 あれなんか県令の勢で強奪したり又はすり替へるのですからね。
芥川:さういふのは裁判沙汰にならなかったのですか。
尾佐竹:明治初年の県令といふものは大名の後継者の積もりで素破らしいものであり、司法権も警察権も有ってゐるといふ大したものでしたからね。
そして民間は奴隷根性が抜けぬ時ですからね。
柳田:奈良の古物といふものは、あの時分によほど多く無くなったといひますね。
尾佐竹:県令が御覧になるからといって取り寄せて返さぬ、又は、刀の中味などをすり替へて返す。
それはまだいいとして、属官が旅費を貰って出張して、古墳を堂々と発掘して、その地方の豪家に命令して泊まって、そして貴重品は県令様のポケットに納まるといふのですからね。
それで居て旧幕時代の奉行代官から見ると善政を施してゐるといふのですよ。
奉行代官から見るとそれでもまだズッと清廉潔白なんです、まるでレベルが違ひますからね。
芥川:さうですかね嫌になっちゃふね。
尾佐竹:まだいろんな事がありますね。けれども余り言ふといけないから。」

税所篤

「○○子爵」というのは、新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤(さいしょあつし)という人物のことである。
税所が「堺県令」であったのは明治4年(1871)11月から明治14年(1881)2月であるが、以前このブログでも書いた通り、明治9 (1876) 年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入されてしまって「奈良県」が消滅してしまった。
その後「奈良県」が再設置されるのは明治20年(1887)11月であるから、11年半にわたり「奈良県」が地図から消滅したのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

奈良県が再設置されるまではいろいろドラマがあったのだが、詳しく知りたい方は奈良県が発行した「青山四方にめぐれる国 ―奈良県誕生物語―」がネットで読むことが出来て内容もわかりやすくて面白い。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_0.htm

話を奈良県が堺県に編入された明治9 (1876) 年4月に戻す。その時点から、堺県令であった税所が現在の奈良県地区の最高責任者となり、先ほど引用した尾佐竹氏の言葉を借りれば、司法権も警察権も握ったのである。

彼が堺県令として具体的にどうやって奈良の寺院の文化財を手に入れたについて詳しく記されているような文章はネットでは見つからなかったが、彼を批判する文章は、先ほど紹介した朝田純一氏のホームページでいくつか引用されている。

例えば
「内山永久寺の廃寺と共に、権勢家であった税所篤が寺宝を収奪したのであった。」(森本和男「文化財の社会史」)
税所篤も、明治初年の混乱期にしばしば顔を見せる、いわくのある人物であった。」(由水常雄「廃仏毀釈の行方」)

朝田氏によると、明治21年に当時の美術行政を策定してきた九鬼隆一氏が大規模な宝物調査を実施し、寺社所蔵品や個人コレクションの目録作成が行われたそうだ。その時の宝物目録が東京国立博物館にあり、奈良県の個人コレクターのランキングが『文化財の社会史』という本に出ているのだそうだ。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana145.htm

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税所篤が集めた古美術品の優等品・次優等品はすべてが絵画だったそうだが、薩摩の下級武士出身であった税所篤が、なぜ奈良県の個人コレクターでダントツの1位となりえたのか。このランキングを見て、これらの逸品をこの人物がまともなルートで手に入れたと考える人は殆んどいないのではないだろうか。

先程紹介した昭和2年(1927)の文言春秋の座談会の記事は、税所篤がこの世を去ってから16年も経過しているのだが、それにもかかわらず文芸春秋は税所の名前を伏せている。薩長の藩閥政治が終焉したのは大正13年(1924)の護憲三派内閣成立により政党内閣の慣行が生まれてからだと言われるが、昭和に入っても明治政府に対する批判につながる発言がおおっぴらにはできなかった時代が続いていたと考えればいいのだろうか。

税所篤が寺院から古美術品を強引な手法で集めたかどうかについては、具体な記録が残されていないので想像するしかないが、税所は考古遺物についても収集癖があり、堺県令時代にいくつもの古墳を発掘して考古遺物を強引に手に入れたとの疑惑があることが、朝田氏のホームページに記されている。

朝田氏は税所県令が発掘に関わったものとして朝田氏は、松丘山古墳(大阪府柏原市)、長持山古墳(大阪府藤井寺市)、美努岡萬墓(奈良県生駒市)、仁徳天皇陵(大阪府堺市)の4つを挙げておられる。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana146.htm

松丘山古墳は4世紀ごろの前方後円墳で、江戸時代に7世紀の船王後(ふなのおうご)墓誌が出土し、西琳寺という寺の寺宝になっていたのを、廃仏毀釈の時に税所篤県令の手中になったそうだ。その後県令は古墳群を掘り返して、古剣や鏡片などが発掘されたという。
長持山古墳、美努岡萬(みののおかまろ)墓は省略するとして、最後の仁徳天皇陵は誰でも知っている我が国最大の前方後円墳である。以前このブログでこの古墳のことを書いたが、最近の教科書では、被葬者が誰であるかが特定されていないため、『大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)』とか『大山古墳』とか『伝仁徳陵』などと呼ばれているようだ。ややこしいので、とりあえず、ここでは『仁徳天皇陵』と呼ぶことにする。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-123.html

税所篤はこの『仁徳天皇陵』の石室を発掘し、その副葬品を持ち出したという疑惑があるのだという。

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以前このブログで、ボストン美術館に仁徳天皇陵から出土した「獣帯鏡、環頭太刀の把頭、馬鐸、三環鈴」が収蔵されていることを書いた。

この副葬品が発掘された経緯については、明治5年の秋に台風による土砂崩れのために仁徳陵の前方部が一部崩壊してたまたま石室が露出し、副葬品が持ち出されたものと長い間信じられていた。しかし、最近の研究では税所篤が意図的に発掘し盗掘したという説が有力なのだそうだ。
しばらく朝田氏の文章を引用させていただく。

「(税所篤が盗掘したという説が唱えられた)きっかけは、昭和48年、堺市の旧家に、堺県令、税所篤名の、このような文書が残されていることが、報告されたことによる。
『仁徳陵が鳥の巣窟になって汚穢不潔であるので、鳥糞を取り除く為に清掃を行なう伺い出したところ許可されたので、清掃を行なったところ、甲冑や剣、陶器ならびに広大な石櫃が見つかった。その検分の為に官員の派遣を要請する。』
という内容の文書で、教部卿宛に出されている。

この伺いへの回答文書も、併せて残されている。
その内容は、石室・石棺のことには一切触れておらず
『鳥糞の掃除は、即刻中止し差し止めること。墳丘内の仮小屋や小船も撤去すること。』
という厳しい口調の内容で、言外に発掘行為を事実上不能にさせるものであった。

仁徳天皇陵

この文書に着目した、考古学者・森浩一は、
『仁徳天皇陵の石室の発掘は、当時の堺県令・税所篤が、鳥糞の清掃等が必要という口実をつけて、計画的に大掛かりに発掘を行なったものに違いない。ボストン美術館所蔵の考古遺物は、このときこの石室から持ち出されたのがほぼ間違いないだろう。
明治5年の発掘経過を振り返ると、これらの遺物が、堺県令・税所篤によって持ち出された疑惑はやはり大きく、時間をかけて真相を明らかにする必要がある。』と、論じた。

この説にも、異論がないわけではないが、税所篤が、仁徳陵の石室を、口実を設けて計画的に発掘したという考え方が、現在では主流になっているといってよいようだ。」

ボストン美術館にある副葬品に税所篤がどこまで関与したについては証拠となる記録があるわけではないが、証拠がないので関与してないと断ずるのには違和感がありすぎる。
税所が仁徳天皇陵の石室を発掘したことは確実で、この男の所業化や収集癖からすれば、副葬品を発掘するために盗掘まがいのことを為したことを疑うのが自然だと思う。

また税所篤は大久保利通と子供の頃から仲が良かったらしく、Wikipediaで「大久保利通」の項目を読むと、何度か税所の名前が出てくる。ちょっと気になるのが、大久保利通が明治8年に麹町三年町に建てた白い木造洋館を建てた建築費用は「恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる」と書かれているところだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
税所が大久保に貸した金額までは判らないが、洋館の建築資金ともなれば少ない金額ではなかっただろう。税所がこの金をどうやって捻出したかが問題なのだが、普通に考えれば、県令である税所の収入が大久保よりも多いはずがないではないか。

この税所篤が明治14年(1881)まで堺県の県令を勤め、明治20年(1887)に奈良県が再設置された時に再び奈良県の知事となり、同じ年に維新の功を認められて子爵になっており、彼の疑惑が追及されることはなかったようなのである。
明治政府の人材レベルはこの程度のものでしかなかったのか。あるいは、この程度のことは他にもいくつもあったなど処分できない事情があったのか。

徳川幕府も腐敗していたかもしれないが、明治の初期に山縣有朋や井上馨のひどい汚職事件がありながら、その後処分もされずに登用され続けていることを知ると、明治新政府も権力を掌握した早い時期から腐敗していたと思わざるを得ない。

討幕派と明治新政府を善玉とし徳川幕府と佐幕派を悪玉とするかのような単純な歴史叙述を、それが史実であると鵜呑みしていいのだろうかと疑問に思う事がある。ひょっとすると我々は、教科書や小説などを読み映画やテレビドラマなどを見ているうちに、いつの間にか「薩長閥にとって都合の良い歴史」に洗脳されてしまっているのではないだろうか。
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【ご参考】
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白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて

白骨温泉で清々しい朝を迎えて、小鳥の囀りを聞きながら白濁した源泉かけ流しの温泉に浸かったあと、時間があったので宿の近くを20分程度散策した。

三十三観音

旅館から県道300号線に出てしばらく歩くと江戸時代に湯治客の有志が建てたと言われている三十三観音がある。
さらに進むと「竜神の滝」と呼ばれる滝があり、そこから遊歩道が整備されている。

隧通し

原生林の緑に囲まれた道を少しばかり歩くと、湯川が石灰岩を侵食してできた「隧通し(すいとおし)」と呼ばれる天然の洞窟がある。トンネルの出口周辺を「冠水渓」と呼び、紅葉の季節には鮮やかな彩りを映す風景が楽しめるのだそうだ。

旅館に戻って朝食を楽しむ。朝食にはこの旅館の源泉を入れて土鍋で炊いた温泉粥が印象に残った。帰宅してから気が付いたのだが、この旅館では温泉の持ち帰りが出来たようだ。持って帰れば、自宅で温泉粥を楽しめたのにちょっぴり残念だ。

旅館を出て奈良井宿に向かう。中山道の宿場町は、馬籠宿、妻籠宿は3年前に行ってこのブログにも書いたので、今回は奈良井宿に行く旅程を組んでいた。
2年前にはNHKの朝ドラ「おひさま」のロケ地になったこともあり、その頃は観光客がかなり多かったそうだが今はそれほど多くはない。

JR奈良井駅近くの駐車場に車を停めて、古い街並みを歩き出す。散策には奈良井宿観光協会の地図を参考にさせていただいた。
http://www.naraijuku.com/map/naraijuku_map.pdf

奈良井宿杉並木

宿場町の中心部に行く前に、中山道の杉並木が残されている場所に行く。カメラを構えながら、数百年の時代を遡ったような錯覚を覚えた。

二百地蔵

この杉並木を過ぎると二百地蔵と呼ばれる場所がある。これだけの地蔵がこの場所の為に造られたのではなく、案内板によると「明治期の国道開削。鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたという」と書かれていた。誰が何のためにこれだけのお地蔵さんを集めたのかがよく解らないのだが、一部の石碑やお地蔵さんの首が折れているのが気になった。ひょっとすると廃仏毀釈と関係があるのかもしれない。

奈良井宿1

八幡宮を抜けて旧街道を歩く。観光客の少ないタイミングを狙って何枚かシャッターを押したが、馬籠宿、妻籠宿では観光客が写らないような画像を撮ることは難しいだろう。
ここにはけばけばしい看板は一つもなく、電柱もなければ自販機もない。このような街並みを残しつつ、現代の生活が行われていることはすごいことであるが、このような街並みが1km近く続いているのは驚きだ。

国の重要文化財に指定されている手塚家住宅(上問屋資料館)がお休みだったので、塩尻市の指定文化財である中村邸に入った。

中村邸

この住宅は櫛問屋であった中村利兵衛の屋敷で、江戸時代の天保8年(1837)から14年(1843)頃に建築されたとされている。
NHKの朝ドラ「おひさま」では、この建物が「飴屋」の「村上堂」として使われたのだそうだ。塩尻市観光協会が作成した「おひさま」ロケ地のマップがある。
http://www.city.shiojiri.nagano.jp/kanko/locachi.files/map.pdf

昭和44年(1969)にこの中村邸を川崎民家園に移築する話が持ち上がり、これを機に町並み保存の機運が高まり、昭和53年(1978)に奈良井宿が国の重要伝統的建造群保存地区に選定されることになったという。
この素晴らしい景観を維持するために地元では様々な苦労があったと推察するが、この町並みをこれからさらに後世に残すことは更に大変な事だと思う。そのためには、もっと多くの観光客がこの地を訪れて、土産物を買ったり食事をしたりすることが必要だ。
地元の人も、この観光資源を活かして観光客を呼び込むアイデアがもっと必要だと思う。
京都ではレトロな人力車や、着物等のレンタルが結構人気があるが、奈良井宿で和服を着て、下駄や草履をはいて歩きたいという人が沢山いるような気がするし、人力車などもこの町並みには良く似合いそうだ。

店の名前は失念したが、お土産に地元の工芸品を買い、おいしい蕎麦を食べて、次の目的地である定勝寺(じょうしょうじ)に向かった。

定勝寺は木曽郡大桑村須原にある臨済宗の寺院で、室町時代初期にこの地を領した木曽親豊が始め木曽川の近くに創建したのだが数回洪水に襲われ、豊臣秀吉が全国を統一したのち、犬山城主石川光吉が慶長3年(1598)に現在のこの地に再建したとされる。

定勝寺山門

この寺の本堂は再建時の頃のもので、江戸時代初期に建てられた山門、庫裏とともに国の重要文化財に指定されている。上の画像が山門で下の画像が庫裏だが、この寺の庭も良い。紅葉の時期は山門付近も庭もさぞ美しいことだろう。

定勝寺庫裏

真夏の暑い季節には緑の多い寺社も良いが、炎天下の中を旅行するには渓谷が涼しくて良い。大桑村には「阿寺渓谷(あてらけいこく)」という素晴らしい渓谷があるので、午後の旅程に組み入れていた。

阿寺渓谷の入口にも駐車場があるが、入口から歩き出すと時間がかかりすぎるので、渓谷の中間地点にある駐車場から遊歩道を歩きはじめる。次のURLに渓谷の地図がある。
http://www.vill.ookuwa.nagano.jp/kankou/plays/nature/nature_atera/nature_map.html

阿寺渓谷6段の瀧

緑深い森の中を進むと6段の滝がある。画像は対岸から写したものだが、3段ぐらいしか見ることが出来なかった。
この渓谷の魅力は何と言っても水の美しさにある。今回は時間がなかったのであまり奥には行かなかったが、エメラルドグリーンの清流は深いところでも川底の石までがくっきりと見える。

犬帰りの淵

上の画像は「犬帰りの淵」のあたりを撮ったものだが、こういう景色を楽しみながら歩くのは楽しい。

苗木遠山史料館

1時間ばかり散策して清新な気分になった後、岐阜県中津川市の苗木遠山史料館に向かう。この史料館は苗木城跡(国史跡)のある高森山の登り口にある。
ここには苗木城の模型や城門の一つである風吹門が展示されているほか、苗木藩の廃仏毀釈の資料などが展示されていた。

苗木遠山史料館の裏から城跡につながる道がある。Wikipediaによると、苗木城は大永6年(1526)に遠山昌利が植苗木(うわなぎ)から高森山に館を移し、天文年間(1532)に遠山直廉が隆盛に苗木城を築いたが、織田信長没後豊臣方の森長可に城を落され、城主・遠山友忠は徳川家康を頼って落ち延びた。その後関ヶ原の戦いの後、遠山友忠の子・友政は、豊臣方の河尻秀長から苗木城を奪い取り、この功が認められて遠山氏はこの地に返り咲き、その後幕末まで苗木の地を治めたのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E6%9C%A8%E5%9F%8E

苗木城址1

史料館から15分ほど歩けば、苗木城の立派な石垣が見えてくる。上の画像は大矢倉跡だ。

苗木城天守

上の画像は坂下門跡付近から見上げた天守の石垣だ。苗木城の石垣は天然の巨岩をうまく利用しながら積み上げられている。苗木藩は石高わずか一万石の小藩であったが、石垣はなかなか立派であることに驚いた。

苗木城からの眺め

この日は天気が良くて、高森山からの眺めは格別であった。眼下には木曽川が流れ、遠くに中津川の市街地が見える。更に向うに見える高い山は標高2191mの恵那山だそうだ。

高森山を下山して、苗木遠山史料館の近くを散策する。この場所を旅程に入れたのは、苗木城の石垣を見ることもあったが、苗木藩が明治時代の初めに徹底した廃仏毀釈を行なった足跡をこの目で見たかったからである。 この苗木遠山史料館のあたりは、藩主・遠山家の菩提寺であった雲林寺という臨済宗の寺があった場所なのだが、墓を残したまま雲林寺は廃寺とされてしまった。
苗木藩の廃仏毀釈で廃寺とされたのは雲林寺だけではない。藩内には15ヶ寺が存在したのだがその全てが廃寺となっている。また村内に数多くあった無住の阿弥陀堂や観音堂、地蔵堂、薬師堂などは壊されて、仏蔵仏具類は焼かれたり、土に埋められたり他領へ売却され、路傍にある石仏や名号塔、供養塔なども打ち割られたり引き倒されたという。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/b_naegi.htm

苗木遠山家廟所

史料館の近くに墓地があり、その中に苗木遠山家廟所(中津川市指定史跡)がある。ここには遠山家とその家臣団が眠っている。

雲林寺跡

お墓以外に、寺院の跡地である事をうかがわせるものが、史料館の駐車場のすぐ近くにあった。自然石に文字が彫られているが「菩薩」「菩提」という字が読める。お経の一節なのだろうか。
石の上にはお地蔵さんがあるのだが、首はあとから付けたものであることが明らかだ。

苗木藩の廃仏毀釈のことを書きだすとまた文章が長くなるので、詳しくは次回に記すこととしたい。
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苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて

前回の記事で、苗木藩では徹底した廃仏毀釈が行われて、藩内の15ヶ寺全てが明治の初期に廃寺となったことを書いた。

今までこのブログで廃仏毀釈のことを何度か書いてきたが、苗木藩廃仏毀釈は相当激しいものであったことを多くの人が指摘している。なぜ苗木藩のような小さな藩で、徹底した廃仏毀釈が行われたのだろうか。まずそのことについて考えることとしたい。

遠山友禄

12代藩主の遠山友禄(ともよし)は慶応3年(1867)6月まで幕府若年寄を勤めて江戸にいた人物である。帰国を願い出て苗木に戻ったが、東征軍はすぐそこまで進軍していた。つい最近まで幕府の若年寄だったというだけで朝敵と見做される可能性があったことから、友禄は東山道鎮撫軍の総督に面談を求め、勤皇の誠意を示し恭順の意を伝えたという。

また幕末期の苗木藩は財政が厳しかった。そこで友禄は、思い切った人材登用と大胆な藩政改革を断行して財政を建て直し、さらに新政府の施策を率先して行うことで生き延びようと考えたようだ。
ここで重要な役割を担ったのは青山景通(かげみち)・青山直道の父子であった。
苗木藩の下級士族であった青山景通は、 江戸で平田派の国学を学び、嘉永5年(1852)東濃地方で最初に平田篤胤の門人となり、慶応4年(1868)の5月には新政府の神祇官の高級官僚となっていた。
苗木藩主・遠山友禄は、新政府と苗木藩との関係を良くするために青山景通を重んじ、さらにその長男の直道を藩職の最高位である大参事に抜擢し、その結果平田篤胤国学思想が苗木藩の中枢に拡がるようになっていった。
そして明治3年(1870)には藩主自らが平田国学に入門し、藩の政治と諸改革が、国学者によって運営されるようになったという。

神々の明治維新

安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書)にはこう書かれている。
「慶応4年7月、苗木城の守護神竜王権現は高森神社と改められ、本尊大日如来像の撤去などがおこなわれた。その後、地域での神仏分離や平田門人の神葬祭改宗などがあったが、苗木藩の廃仏毀釈が本格的に進行するのは、明治3年7月に知事(旧藩主)が自家の神葬祭を願い出、それが領内全域に及ぼされるようになってからである。ついで8月には、村々の辻堂や路傍の石仏・石塔などを毀(こぼ)ち、神社の神仏分離も徹底することが命ぜられた。苗木藩の廃仏毀釈は、領内の全寺院(15か寺)を廃毀し、石像石碑にいたるまで、仏教的なものを一掃し、全領民を神葬祭に改宗させる、というすさまじいものであった。」(『神々の明治維新』p.99-100)

そして、藩知事(遠山友禄)自らが率先して廃仏毀釈を徹底させたのである。安丸氏は続けてこう書いている。
「3年閏10月、廃仏毀釈を督促するために領内を巡視していた藩知事遠山友禄は、加茂郡塩見村の庄屋宅に一泊した。そして、庄屋の後見役柘植謙八郎を召しだし、過日、神葬祭に改めるといったのに、仏壇がそのままになっているのはどうしてか、と詰問した。謙八郎が、伯父(庄屋?)は七十余歳で、日夜あまりに廃仏を歎くのでやむをえず『等閑』にすごした、と答えた。友禄は、明朝、仏壇を庭前にもちだすように命じた。ついで病気の組頭市蔵に代わって倅為八が呼び出され、同家の仏壇も明朝もってきて、おなじく庄屋宅の庭前におくように命じられた。翌朝、両家の仏壇から本尊と脇仏六幅がとりだされ、一つ一つ土足で踏みにじられ、火中へ投げこまれた。仏壇も焼き捨てられた。これを見た市蔵の妻は、狂乱のようになって本尊とともに身を投じて焼死しようとして、まわりの者から抱きとめられた。
こうして、塩見村の人々は、恐怖と不安にかられながらも、結局は神葬祭を受けいれるほかなかった。…」(同上書 p.100)

藩知事が平田国学に心酔し、自ら廃仏毀釈を推し進めていたのであるから、結果は推して知るべしである。

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのホームページに、苗木藩の廃仏毀釈の通達などが紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/b_naegi.htm

「明治3年8月15日、郡市局達(苗木藩の廃仏毀釈)
 『一、村々の内、辻堂を毀ち、仏名経典等彫付候石碑類は掘埋め申すべく候。
   但し、由緒これある向きは伺い出ずべき事。
  一、諸社の内、未だ神仏混淆の向きもこれあるやに相聞え候。早々相改むべく申し候。
  右の条々相達し候もの也。
                   午 八月十五日  郡市局
  御支配村々里正中』

明治3年8月27日、達
 『一、諸社の内、未だ神仏混淆の場所もこれある哉に相聞こえ、左候ては、兼ねて相達し置き候御主意にもとり候間、早々改正致すべき事。
  一、堂塔並びに石仏木像等取り払い、焼き捨てあるいは掘り埋め申すべき事。』

明治3年9月3日、廃寺帰俗の申し渡し
大参事青山直道、管下寺院の全住職を藩庁へ呼び出し、申し渡し
 『今般王政復古につき、領内の寺院はすべて廃寺を申しつける。
 よって、この命に従って速やかに還俗する者には、従来の寺有財産を与え、苗字帯刀を許し、村内においては里正の上席とす。』
住職たちは、遠山家菩提寺雲林寺で協議、どの村もすべて神葬改宗となり、檀家をことごとく失った今となっては、どうすることもできず、ついに廃寺帰俗することに決する。」

苗木藩の廃仏毀釈は、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」という強引な薩摩藩の廃仏毀釈とはかなり異なるのだが、かくして苗木藩の寺は収入源が断たれて全てが廃寺となり、仏像・仏具類は破壊されたり売却されたりしたようだ。旧苗木藩の領地であった場所には、廃仏毀釈の痕跡が今も何箇所か残されている。

旅行の3日目は、午前中に苗木藩の廃仏毀釈の史跡などを訪ねる旅程を立てていたが、該当の場所は、地元の方も良く知らない場所であることが多く、初めて訪れる旅行者がカーナビで辿りつける場所はわずかしかない。

最初に訪れた場所は東白川村役場(岐阜県加茂郡東白川村神土548)である。
岐阜県内には「村」が白川村と東白川村の2つしかないというのは意外だったが、東白川村はわが国で唯一、域内に寺のない自治体なのだそうだ。要するに東白川村では、明治の廃仏毀釈のあと仏教が復活することなく現在に及んでおり、ここでは冠婚葬祭の全てが神式で執り行われているという。

四つ割りの南無阿弥陀仏碑

この村役場の敷地は、廃仏毀釈以前は「常楽寺」という寺の境内であった場所で、この役場の脇に「4つ割りの南無阿弥陀仏碑」が建っている。この碑は正面から見ても、真横から見ても、縦に見事に割られている。

四つ割りの南無阿弥陀仏碑2

こんなに綺麗に割れているのは、常楽寺の住職がこの名号塔を制作した高遠の石工・守屋伝蔵を呼び寄せ。石の節理に沿って割らせたことによるのだそうだ。割られた石は畑の石積みとして利用されたそうだが、昭和10年(1935)に有志の手により掘り起こされて再建されたという。

東白川村役場で『美しスポットマップ』という案内地図を入手して、次に東白川村五加大沢の「蟠龍寺跡」を目指す。村役場から白川街道を西に6km程度の距離なのだが、これといって目印になるものはなく、簡単な地図だけを頼りになんとか辿りついた。

蟠龍寺跡

東白川村の特産品であるお茶は、約600年ほど前に蟠龍寺の住職が京都の宇治から茶の実を持ち帰り、里人に茶の栽培を薦めたのが始まりなのだそうだが、その蟠龍寺はすでになく、茶畑と石垣とお墓だけが残されていた。

次に中津川市苗木609にある「穴観音」を目指す。住所は昨日苗木遠山史料館で教えて頂いたのだが、次のURLで地図がでている。近くまで来ると大きな岩があるのでわかると思う。
http://jimy1700.blog62.fc2.com/category8-1.html

穴観音

この巨岩の下のお堂が「穴観音」で、中にはにいくつかの石仏などが安置されていて、この史跡全体が中津川市の文化財に指定されている。
明治の廃仏毀釈の時に、観音石仏を地中に埋めるのにしのびなく、この穴に隠したという言い伝えがあるのだが、中津川市教育委員会による案内板には「広さ約10㎡の堂内には、明治2年(1869)に起きた廃仏毀釈運動から難を逃れた仏像等が安置され、また穴観音の周囲には破壊された石仏約8体が集められている」と書かれている。

穴観音の内部

この穴に石仏を隠したのか、難を逃れた石仏がこの穴に安置されているのかは大違いなのだが、地元では廃仏毀釈の蛮行があったことを、あまり思い出してほしくないような意図を感じさせる文章でもある。
格子戸越しに中を覗くと、首を切断された跡のある石仏もあるようだ。

次に、昨日苗木遠山史料館でもう1か所教えて頂いた、「くろぜ道地蔵」を訪ねる。
穴観音から裏木曽街道に戻り、高山という交差点を右折し高山大橋で付知川を渡り、すぐ右折してさらに左折した場所に「くろぜ道地蔵」が建っていた。この地蔵も中津川市の文化財に指定されている。

くろぜ地蔵

高さ2メートルを超える大きな石仏なのだが、首がきれいに切断されている。もちろん背面まで切断されているのだが、教育委員会の案内板には「…尊像の傷跡は明治初年の廃仏毀釈によるもので、村人の厚い信仰により一時期、山中に匿われていたが、その後この地に再建されたものである。」と書かれている。
首が切断されているのを「傷跡」とさりげなく書くのは、地元の人々にとっては「苗木藩の廃仏毀釈」は触れたくない史実であり、忘れてしまいたい歴史ということなのだろう。 だから地元の人に聞いても知っている人は少なく、知っている人も詳しくは語りたくないようなのだ。

地元にはすでに歴史ある寺もなければ文化財もない。廃仏毀釈の真実を詳しく知ることは、仏教を捨てた先祖が為したことを否定することにもなり、現在の神道を中心とした生活をも否定することにも繋がってしまう。それでは、地元で生きることに誇りが持てないだろう。
地元の人にとっては、苗木藩の廃仏毀釈は「触れたくない歴史」であり、できれば、そっとして欲しいというのが本音なのではないだろうか。

苗木遠山史料館で教えて頂いた史跡の場所は、どちらかというときれいに切断された仏像や石碑であったのだが、ネット探すと激しく破壊された仏像などが結構出てくる。このような史跡は、地元の人々からすれば「人に見せたくない史跡」なのだろう。

次のURLに詳しいレポートが写真付きで出ているのだが、住所がよくわからないので、どうやって行けばよいかがよく解らないのは残念だった。
http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/cb370b833fc2c394791a25cc43ea37e4
その多くは中津川市が史跡に指定しているようだが、経度や緯度は書かれていても住所で場所を示している史跡はほとんどない。
http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/wiki/%E5%8F%B2%E8%B7%A1

廃仏毀釈は明らかに明治政府が主導したのだが、このブログで何度か書いているように、いつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の悪い史実が通史などには書かれることはほとんどない。

山川日本史

一般的な高校教科書である『もう一度読む 山川の日本史』では
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた。」(p.231)
と、自然発生的な運動が全国に広がったような書き方がされ、政府が関与したとはひとことも書かれていないのだが、例えば奈良県の廃仏毀釈を推進したのは、明治政府が地方に派遣した役人であり、伝統寺院などを破壊し寺宝を収奪して財を成したと言われている税所篤(さいしょあつし)のような県令もいたのである。しかしそのような史実は、為政者にとっては都合の悪い真実であり、教科書に記述されることはないのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

苗木藩は、明治政府の神仏分離の施策を先取りし徹底して実行したばかりに廃仏毀釈で目立ってしまったのだが、本当の悪玉は、施策の誤りを最後まで認めずに、「一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた」と教科書に記述させて、地方に責任を擦り付けて固定化させようとした明治政府の中心勢力ではなかったのか。

討幕派と明治新政府を善玉とし徳川幕府と佐幕派を悪玉とするかのような単純な歴史叙述で幕末から明治の歴史が描かれることが多いのだが、このような叙述を鵜呑みにするのではなく、薩長閥がどれだけわが国の歴史を都合よく歪めてきたかという視点から、本当は何があったかを考えることも必要だと思う。
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但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて

さて、旅行の2日目に入るが、朝一番に向かったのは兵庫県豊岡市但東町にある但馬安国寺。紅葉の名所なので朝一番に向かったのだが、すでに大勢の観光客が来ていた。

安国寺2

「安国寺」というと、南北朝時代に足利尊氏・直義兄弟が京都天龍寺の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために各地に建てたと伝えられ、この但馬安国寺も全国に68ある安国寺のうちのひとつなのだが、いろいろ調べるとそれらの寺をすべて新たに建てたわけではなく、一部は既存の寺院を改称したケースも多いらしい。
この寺は鎌倉時代後期に無本覚心(法灯国師)による開山といわれ、貞和元年(1345年)に「安国寺」と改称されたものだという。

その頃の境内は現在地より南方三百メートルのところにあり、寺伝によると足利幕府より朱印と三百石余の禄が与えられ、七堂伽藍を有した大寺院だったそうだが、享保2年(1717)に火災ですべてを焼失してしまったという。
その後現在地に近い山地に草庵が建てられて、出石宗鏡寺の末寺になったというが、その後も何度か火災に遭い、現在の本堂は明治37年(1904)に落慶した建物なのだそうだ。

思ったよりも本堂は小さくて、これといった文化財は残されていないのだが、毎年紅葉の時期になるとテレビによく報道される寺であることをご存知の方も多いのではないだろうか。

安国寺の裏庭は狭く、斜面にドウダンツツジが流れるように植えられているだけなのだが、11月の半ばには真赤に色づいて、本堂の座敷の障子越しに見る紅葉が額縁の絵のようになる。

安国寺

この写真を観光客の誰もが撮れるように、裏庭のツツジの近くには観光客が近寄れないようにロープが張ってあって、本堂には観光客を数十人ずつ順番に誘導し、座敷で紅葉の写真を存分に撮影させた後、本堂から出て頂いて座敷が無人となる状態をつくる。そこで次のグループが本堂の外から座敷の障子越しに見るドウダンツツジの写真を撮影し、それから本堂に招き入れられる…。そのようにして手際よく観光客を回転させていた。

本堂を出て外に廻って、庭の斜面を彩っているドウダンツツジを見てもそれなりに美しいものなのだが、やはり障子越しで見るのが一番良い。

安国寺つつじ2

庭はこのドウダンツツジがなければただ斜面があるだけのことなのだが、この狭い空間を見事に活かしていることに感心してしまう。

このドウダンツツジは現在の本堂が建てられた際に裏庭に植えられたのだそうだ。とすると樹齢はおそらく110年程度だということになるが、文化財をほとんど焼失してしまったにもかかわらず斜面にドウダンツツジを植えたことで、今ではこの寺に全国から観光客が訪れるようになり、結構な町おこしになっている。
地元の方がテントを張って地元の農産物などを販売しておられたので、椎茸と銀杏を買って帰った。採れて間もない椎茸なのだろう、ずっしりと重くて肉厚で、帰宅後食べたらとても旨かった。

次の目的地に向かう途中の朝来市和田山町で車を停めて『はっかく亭』で昼食をとる。 ここで休息をとったのは、せっかく但馬に来たのだから、新鮮な野菜と少しばかり但馬牛を買い込んで帰りたかったからだ。隣に新鮮野菜の産直店があり、向かいに但馬牛の『太田家』がある。

太田家

グループで牧場を経営しておられる肉屋さんはこの近くに他にもいくつかあるのだろうが、数年前に会社の同僚から教えてもらった『太田家』しか知らないので今年もまた来てしまった。ここでは柔らかくておいしい肉が安く買えるのでお勧めだ。

買い物を済ませてから次の目的地である丹波市柏原(かいばら)町の柏原八幡神社に向かう。

柏原八幡鳥居

この神社は、平安時代の万寿元年(1024) に京都の石清水(いわしみず)八幡宮の分霊を祀った柏原別宮として創建されたのち、貞和元年(1345)の南北朝時代の争乱により社殿が焼失。間もなく再建されたが戦国時代の明智光秀の丹波攻めの兵火でふたたび焼失し、その後羽柴秀吉が黒井城主の堀尾吉晴に社殿の造営を命じて天正13年(1585)に現在の社殿(国重文)が竣工している。

柏原八幡本殿

社殿の前に立つ狛犬は柏原出身の石工・村上照信により文久元年(1861)に制作され、佐吉の傑作だとされているそうだ。次のURLに様々な角度からの狛犬の画像があるが、よく見るとなかなか迫力のある狛犬である。
http://www.228400.com/tatsumi/tanbasakichi/sakichi/sakichi-11.html

この神社の魅力は何と言っても素晴らしい三重塔(県指定文化財)。ここでは神社の象徴的建造物である鳥居や本殿の背後に、仏教の象徴的建造物である三重塔が聳えるという、珍しい光景を見ることが出来る。

柏原八幡神社三重塔

昔はこのような光景を各地で見ることが出来たと思うのだが、明治初期の廃仏毀釈で全国の神仏習合的な施設のうち仏教施設が徹底的に破壊されてしまった。
以前このブログでも書いたが、この柏原八幡宮の本家である京都の石清水八幡宮はもともとはお寺であり、「男山四十八坊」と言われるように石清水八幡宮護国寺を中心とした多くの仏教施設があったのだが、明治元年の廃仏令で僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、堂宇も撤去されるか、一部は神殿に変えられてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-53.html
男山の多くの寺院にあった阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったのだが、本尊であった薬師如来とそれを護る十二神将像は人目を避けるように運ばれて、今は淡路島の東山寺(とうさんじ)に祀られている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-50.html

本家の石清水八幡宮にあった仏教施設が徹底的に破壊されたにもかかわらず、柏原八幡神社の境内の三重塔がなぜ残されたのだろうか。
境内には以前、神宮寺であった乗宝寺という寺が存在していて、三重塔はその寺の所有であったそうだ。明治の廃仏毀釈の時に乗宝寺の他の堂宇は取り壊されたのだが、この三重塔については中に安置されていた大日如来を取り除いて、この塔を神社の「八幡文庫」と呼ぶことで取壊しを免れた経緯のようだ。

このように神社の境内の中に塔が残されているような事例として、昨年は兵庫県養父市にある名草神社の朱塗りの三重塔のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

また三年前には奈良県桜井市の談山神社・十三重塔のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

何れの事例も、寺院であったものを無理やりに神社にしたものなのだが、柏原八幡神社はは神仏習合の荘厳な風景を今も残す数少ない事例なのだと思う。

Wikipediaによると、神社の境内に塔が残されているのは今では全国で18例があるだけなのだそうだが、こういう貴重な景色をカメラに収めることが出来て大満足だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE

柏原大ケヤキ

ところで柏原八幡神社の鳥居の近くに、大きなケヤキの木がある。樹高22mで推定樹齢は1000年と言われている大木なのだが、なんとこの木の根の1本が、幅8メートルの奥村川をまたいで自然の橋を形作っており横から見ると、その根の太さに驚いてしまう。

IMG_2284.jpg

地元では「木の根橋」と呼ばれているようだが、このケヤキは兵庫県文化財(天然記念物)にも指定されているようである。
https://www.city.tamba.hyogo.jp/soshiki/bunka/ookeyaki.html

丹波市柏原町を後にして、最後の目的地に向かう。
この旅行の初日に、兵庫県加古川市の鶴林寺や姫路市の随願寺を訪ねてきたのだが、2つの寺の共通点は「高麗僧恵便(えべん)」にゆかりがあることである。
このブログで何度か書いたことだが『日本書紀』には、わが国で仏教が拡がったのは敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国にいた恵便という僧を師としたことから始まると明記されている。
そして恵便にゆかりのある安海寺という寺が、兵庫県多可郡多可町八千代区中村に残されている。

安海寺

敏達天皇13年(584)に仏像2体を手に入れた蘇我馬子は司馬達等らに仏教修行者を探させて、播磨の国にいた高麗人の恵便を見つけて仏法の師としたのだが、国内に疫病が流行ったために排仏派の物部尾輿(もののべおこし)らは、仏教信仰がその原因であるとして排仏活動を行ない、恵便も迫害を受け還俗させられたらしい。
そして、現在の八千代区大矢笠形谷にある稚児岩の洞窟に閉じ込められたと伝えられている。
その場所に室町時代にはお寺があったらしく、それが安海寺の前身だとされている。
予約すれば中に入って拝観できたかもしれないが、この寺の本尊の木造阿弥陀如来坐像は平安時代の後期のもので、兵庫県の文化財に指定されているそうだ。

ネットでいろいろ調べていくと、安海寺の佐藤住職は恵便についてかなり研究しておられるようだ。2008年に「高麗僧恵便 播磨ゆかりの地サミット」というイベントが姫路市で行われ、パネラーとしてこの寺の佐藤住職が話された内容が、在日の方の機関誌『平和統一News第20号』「播磨と渡来人(第5回)」に出ている。渡来人の話は在日の方が興味を持たれることは当然だと思う。
http://fpuhg.main.jp/news20.pdf

どこまで史料の裏付けがあるかはよく解らないが、このイベントで佐藤住職が話された内容を姫路市の英裕司氏が要約されたものが、ネットで見つけることの出来る恵便という人物についての一番詳しい文章である。
しばらく引用させていただく。

「今から1400年前、恵便法師は弟子の百済僧 恵聡(えそう)を伴って日本へ来られた。
しばらくして、仏教に反対する物部氏による仏教弾圧がはじまる。この時、恵便法師と弟子の恵聡は捕らえられ、生駒山に送られた。しかし、都に近いとの理由で今度は播磨の赤穂に流され、最後に播磨の多可郡八千代(安海寺のある地域)に流された。物部氏は、二人を無理やり還俗させた上、『右次郎』『左次郎』と呼び、逃げないように家に閉じこめた。(他の伝承では弾圧から逃れ、隠れ住んだという話が主流だが、ここでは捕えられ幽閉されたということになっている。)
その間、還俗した恵便法師は村の娘と恋におち、一子を授かる(?!)。村娘の名前は、『恵忍』といったそうだ。数年後、恵便法師は一人息子を弟子の恵聡に託し、ひそかに朝鮮半島に逃亡させることに成功する。これが故に、恵便法師笠形山の洞窟に幽閉されてしまう。今も恵便法師がわが子の無事を祈りながら、彫ったとされる山石の地蔵菩薩が残っている。
ほどなく聖徳太子を中心とする崇仏派が排仏派の物部氏を滅亡させるといった政変が起こるのであった。
その後、仏教の指導者をさがして、蘇我馬子の使いが播磨の地にやって来た。ここで恵便法師は中央に復帰することになった。(この辺りの経緯は事実である。都からの使いが直接、幽閉されていた山奥に来たのか、それとも恵便法師がこの場所から脱出して、播磨の姫路に隠れ住んでいた時に、都の使いが来たのかはっきりしない)ともかく都に戻った恵便法師は、蘇我馬子の師となり、3人の尼僧を出家させるなど大活躍した。
時は流れて、595年、弟子の恵聡が恵便の子を連れて日本に戻ってくる。実はこの恵便の子こそは、名を恵慈(えじ)といい、のちに聖徳太子の師となった有名な高僧なのである。なんと高僧 恵慈と恵便法師が前述したように親子であったのだ。」

聖徳太子の仏教の師となった「恵慈」は『日本書紀』では「慧慈」と違う字で書かれていて、「恵便の子」であるとは一言も書かれていない。恵便が娘と恋に落ちた話や、二人の間に恵慈を生んだという佐藤住職の話は何を根拠にしているのだろうか。

ところで相生市のホームページにも、恵便についてこんな伝承が残されていることが紹介されている。
兵庫県相生市矢野町瓜生に羅漢の石仏があり、欽明天皇の時に、矢野に流された恵弁と恵聰の2人が瓜生の岩窟に入り、すべての人を仏に引き合わせようとの願いからその石仏を彫ったというのだ。
しかしその伝承には恵弁と恵聰が還俗させられて『右次郎』『左次郎』と呼ばれたことは佐藤住職の話と一致しているものの、恵便が恋に落ちて子供ができたという話はないようだ。
http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/den_min/densetu/04.htm

相生市のホームページも根拠となる文書についての記載がないのは残念だが、恵便に関しては『日本書紀』の記述とは異なる伝承が複数残されていることは注目して良いだろう。どこまでか真実であるかは人によって感じ方が異なるのだと思うのだが、この時期に恵便という渡来人がわが国に仏教を広めたことについては確かな事だと思うのだ。

帰宅途上中国自動車道で渋滞に巻き込まれて帰るのに随分時間がかかってしまったが、あまりよく知らなかった播磨や但馬の聖徳太子と恵便のゆかりの地を巡り、紅葉もカニも楽しめて、いい旅行だった。
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伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと

慶光院

前回の記事の最後に、おはらい町のなかに国の重要文化財に指定されている建物があることを書いたが、この建物の名前は「神宮祭主職舎本館」といい、明治の廃仏毀釈の時に廃寺となった「慶光院」という尼寺の境内地と建物を伊勢神宮が買い取り、明治5年(1872)に神宮司庁の庁舎となり、明治23年(1890)に神宮祭主職舎となって今日に至ったものである。

伊勢神宮の御膝元である伊勢国(三重県)で廃仏毀釈が相当激しかったことは最近知った。Wikipediaでは100ヶ所以上の寺院が明治初期に廃寺になったと書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、伊勢の廃仏毀釈に関する記述のある本を捜していたところ、大正13年に出版された利井興隆氏の『祖国を憶ひて』という書籍に、こんな記述があるのを見つけて驚いてしまった。(原文は旧字旧かな)
伊勢の内宮外宮に寺が189、尼寺が21あって寛文11年(1671)11月14日に焼失しました。大神宮と仏教との関係の深いことはこの一事をもっても知られます。しかるにその後、山田の奉行桑山下野守はこれが再建を禁じました。仏教排斥の意味をそこに見ることが出来ます。」(『祖国を憶ひて』p.38)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981991/24
伊勢神宮の御膝元で何度か大火があったようだが、この地域にこんなに多くの寺があったというのは知らなかった。

仏教遭難史論

『近代デジタルライブラリー』でさらに関連書籍を捜すと、大正14年の羽根田文明氏の『仏教遭難史論』という書籍が見つかった。この本には極めて興味深いことが具体的に書かれている。しばらく引用させていただく。(原文は旧字旧かな)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/84

「明治初年に、伊勢国山田に、度会府(わたらいふ)を置き、旧公家橋本實梁(さねやな)を、府知事に任ぜられた。同地宮川と五十鈴川との中間地を、すべて川内と呼んだ。これ神宮の神領地域である。
その川内神領地に、天台、真言、禅、浄土等の、各宗寺院が、60余個寺あり、中にも外宮の神宮寺に常明寺、内宮の神宮寺に天覺寺、又天照皇山、大神宮寺というのがあった。同地は元神領にて、両神宮の所在地であるから、排仏思想者たる橋本知事には好都合の地であった。
ここに橋本知事は、神宮の神職と結託して、己が廃仏思想を実現せんとて、まず川内神領地において一切仏葬を禁止して、悉く神葬すべしと布令した。これ60余個寺の、檀徒を奪い去ったのである
 寺属の檀徒を前に奪いて、後に各寺住僧を呼び出し、今般当地方に於いて、一般、仏葬を禁じて悉く神葬することを布告したに就いて、最早(もはや)各寺とも、寺を維持する資料がない。ゆえに各寺院とも、住僧と檀徒総代と連署して廃寺願書を差出すとともに住僧は帰俗すべし。すなわち今廃寺を願い還俗*する者は、身分を士族に取扱いかつその寺院に属する。堂塔等の諸建造物、及び什器等、ことごとくみな、前住僧の所得に帰す。もし、この際、廃寺願書を呈せず猶予する者は、近く廃寺の官令降る時は、上記の物件、みな官没となる。ゆえによく利害得失を考え、一刻も早く、廃寺願書を呈出する方が、得策であろうと、説諭に及んだ。」(『仏教遭難史論』p.145-146)
*還俗(げんぞく):僧侶であることを捨て、俗人に戻ること

少し補足しておくと、「神宮寺」というのは、神仏習合思想にもとづいて神社に建てられた仏教寺院である。神社の境内に寺院がある事は今では考えにくいのだが、明治時代の初めまでは当たり前のことであったという。

高村光雲

明治の廃仏毀釈で仏師としての仕事がなくなり、その後西洋美術を学び彫刻家として活躍した高村光雲は『幕末維新懐古談』でこう述べている。
これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛(へいはく)を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地(ほんじ)大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである
この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一つの宗教政策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧侶別当(べっとう)と称(とな)え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭(やと)われていたような有様であった。政府はこの弊を矯(た)めるがために神仏混淆を明らかに区別することにお布令(ふれ)を出し、神の地内(じない)にある仏は一切取り除(の)けることになりました。」とあり、廃仏毀釈以前は、神社と寺院施設の全体の管理を僧侶が行なっていたようなのだ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45960_24248.html


伊勢神宮にも神宮寺があったというのは知らなかったのだが、いろいろ調べると伊勢神宮の「神宮寺」はかなり大規模な寺院であったようである。
寛政9年(1797)に出版された『伊勢参宮名所図会』という書籍に、外宮の神宮寺であった常明寺の絵が掲載されている。

常明院 伊勢参宮名所図

この寺は、明治初期まで伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の祠官を世襲した度会(わたらい)氏と関係が深く、毎年正月8日には外宮の神官が参向し、境内にある神落萱社(かんおとしかやしゃ)に於いて祭りを行い、寺僧も本堂で誦経をしたという。
次の地図で、常明寺門前道から常明寺、そして境内に金毘羅宮があったことを考慮すると、この寺の大きさがおおよそわかる。
http://homepage3.nifty.com/NFC/ise-meisyo3.htm.

また、次のURLの記事によると、現在、伊勢市内の「倭町(やまとまち)」と呼ばれる地名は、明治元年11月までは「常明寺門前町」と呼ばれていて、常明寺自体が明治2年2月に廃絶されると、近くにあった遊郭街も撤去されたという。そのURLには常明寺の跡地の画像も紹介されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/28192851.html

話を『仏教遭難史論』の記述に戻そう。
仏葬を禁じられ檀家を奪われては、普通の寺院としての収入は激減し、そのうち寺を維持するどころか生活すらできなくなることは誰でもわかる。
度会府の橋本知事は、着任してすぐに仏葬を禁止し、寺院が経済的に成り立たなくなるようにしてから、寺僧を集めて全員に廃寺を迫り、廃寺に応じで還俗したならば、寺の建物や什器の個人所有を認め、応じない場合はすべてを没収すると言明したのだ

明治政府が全国の寺院を廃寺にせよと命令をしたわけではなかった。もし政府の命令であれば、各寺から「廃寺願書」を提出させる必要はなかったはずだ。
だからこそ橋本知事は、自らの信念である廃仏主義を伊勢神宮の神域で実現させるために、まず寺院の収入源を奪い取り、その上で寺院から廃寺願書を出させることにしたのである
当時の知事は地元民から選ばれた者ではなく、明治政府が派遣した役人であり、廃仏の取組は地域によって、また知事の考え方によってかなりの差があったようだ。ちなみに、隣接の藩であった田丸藩の管内では、一つの寺院も廃寺とならなかったという。

『仏教遭難史論』によると、伊勢神宮の神領地域の寺院の内約50ヶ寺が、この時に廃寺願書を出したそうだ
願書を出さなかった寺のうち、3ヶ寺は寺有田を持つなど、檀家からの収入がなくとも寺の維持が可能と判断したものだが、残りの約10寺院は、官憲の迫害に耐えかねて、すでに他国に出奔したか無住になっていた寺であったという。
橋本知事はその後も残された3ヶ寺に対し、様々な嫌がらせをしたのだが、興味のある方は『仏教遭難史論』の続きを覗いてみて頂きたい。この本には、日本各地で廃仏毀釈が激しかった地域の具体的な記録が満載である。

かくして、伊勢神宮の御膝元の神領地にあった寺院のほとんどが姿を消し、さらに橋本知事は仏像仏具類を公売することを禁止したために、それらの寺院にあった仏像などは大半が破壊されたか、危険を冒して闇で取引されたかのどちらかと考えて良い。
ただ欣浄寺という大きな寺院の宝物については本山の知恩院が引き上げたと書かれているが、このような例は少ないと思われる。

setoda_ise.jpg

伊勢神宮の神宮寺にあったと伝えられる平安後期の作である釈迦如来立像が、広島県尾道市の生口島にある耕三寺(こうさんじ)の耕三寺博物館にあるのだそうだが、これはおそらく本物なのだろう。今では国の重要文化財に指定されている木造の仏像だが、外宮・内宮どちらの神宮寺にあったのか、どういう経緯で耕三寺にあるのかはよくわからない。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_kosanji.htm

こういう経緯を知ると、宮川と五十鈴川に挟まれた伊勢神宮の御膝元というべき地域に、江戸時代以前の建物で重要文化財が1件しか存在しないことが納得できる。その1件が、冒頭に触れた「慶光院」という尼寺である。次にこの尼寺のことを記しておきたい。

伊勢神宮の式年遷宮は20年に1度行なわれることになっているのだが、昨年に行われた内宮と外宮の遷宮がそれぞれ第62回目になるのだそうだ。
ところで、式年遷宮の制を制定したのが天武天皇14年(685)で、第1回の式年遷宮は内宮が持統天皇4年(690)、外宮が持統天皇6年(692)であることがわかっている。
しかし、それ以来ずっと20年に1回のルールを守っていたら、昨年の式年遷宮が第62回という数字にはならないことは計算すればすぐわかる。

Wikipediaに今までの式年遷宮の実施時期が纏められているが、応仁の乱から戦国時代にかけて、かなり長期間にわたり遷宮が行なわれなかった時代が存在する。
次のURLを見れば、外宮の第40回式年遷宮は永禄6年(1563)に129年ぶりに行われ、内宮の第41回式年遷宮は天正13年(1585)に123年ぶりに行われたことがわかる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE

この長期間に及ぶ遷宮の中断に終止符を打ったのがこの慶光院の尼僧であったのだ。
この経緯については伊勢神宮崇敬会が作成している季刊誌『みもすそ』49号の特集記事『式年遷宮と慶光院』が、非公開の建物の内部の写真まで掲載していてわかりやすい。
http://www.jingukaikan.jp/sukeikai/imgs_mimosuso/49.pdf
高野澄氏の『伊勢神宮の謎』(祥伝社黄金文庫)にもp71-82に慶光院の事が書かれている。

上記記事やWikipediaなどを参考に、慶光院と伊勢神宮とのかかわりについてまとめておこう。

応仁の乱以降のわが国は下剋上の乱世となり、伊勢神宮では厳しい経済事情から式年遷宮が行なえず、宇治橋の架け替えもままならないまま、あるとき宇治橋が洪水で流されてしまった。
このような痛ましい神宮の姿を見かねて、起ち上がったのが、慶光院の守悦(しゅえつ)という尼僧であった。
守悦は、宇治橋再建の為に諸国を勧進してまわって、浄財を集め、そして延徳三年(1491)についに宇治橋の架け替えを成し遂げている。

守悦から二代目の院主が清順であった。清順は遷宮の費用も勧進で行おうと考えたが、僧職にあるものが遷宮に携わるのは異例であるため、まずは実績を残すために、宇治橋架け替えのために諸国を勧進し、そして天文18年(1549)に宇治橋を架け替えている。
清順はその後、式年遷宮復活に向けて各所に働きかけを行ない、その思いは朝廷や幕府をも動かした。それまでは遷宮の費用は役夫工米の徴収によって調達されていたのだが、清順は諸国を勧進してその費用を集める方式を提案し、朝廷の承認を取り、清順は十年間諸国を巡った末に、ついに外宮の遷宮に必要な資金を調達し、かくして永禄6年(1563)に外宮の正遷宮が129年ぶりに行われたのである。

10年間にわたり浄財を集めたという努力もすごいことだが、いよいよ遷宮が近づくと清順は国司北畠具教の許可を得て、遷宮の1ヶ月の間、伊勢と近江の全ての関所をフリーパスにしたそうだ。そのことによって、多くの民衆が参拝に訪れ、遷宮は成功したという。
清順は宗教家としても、プランナーとしてもなかなかの才能の持ち主であったと思う。

外宮の遷宮を成し遂げた3年後に清順は没し、後を継いだ周養(しゅうよう)が清順の遺志を継いで内宮遷宮費用の勧進事業を進め、織田信長や豊臣秀吉の寄進を受けて、天正13年(1585)に内宮の正遷宮を123年ぶりに行ない、さらに外宮の正遷宮をも22年ぶりに執り行う事が出来たという。

その後慶光院は慶長8年(1603)と、寛永6年(1629)・慶安2年(1649)の正遷宮では江戸幕府から遷宮朱印状が慶光院に下されて神宮に協力したのだが、寛文6年(1666)に伊勢神宮から訴えがあり、以後は徳川幕府が直接に資金を支出して式年遷宮が行なわれたという。
伊勢神宮からすれば、神宮の神官でもない尼僧がいつまでも遷宮を取り仕切り、さらに、そのことで幕府や朝廷からの崇敬を受けていたことが気に入らなかったのではないだろうか。

20101110keikoin.jpg

慶光院は、以前は山田西河原(現在の伊勢市宮後)にあったのだそうだが、慶長年間に豊臣秀吉の命令で現在の場所に移ったという。江戸幕府から遷宮朱印状が慶光院に下されたくらいだから徳川家の信望も厚く、強力な支援者を得たことから慶光院は、これだけ立派な建物を内宮の近くに建てることが出来たのだろう。
慶光院の客殿は2002年に国の重要文化財に指定され、表門と勝手門は三重県の有形文化財に指定され、毎年11月ごろに3日間程度、一般公開されているようだ。

慶光院 伊勢参宮名所図会


上の絵は『伊勢参宮名所図会』だが、右下の建物が慶光院で、その前を人々が歩いている通りが今の「おはらい町通り」すなわち「旧参宮通」である。
この版画には、通りに沿って不動堂や法楽舎という寺院も描かれている。法楽舎は真言密教の祈祷所で内宮だけでなく外宮にもあった施設だが、明治の廃仏毀釈で取り毀されたことは言うまでもない。不動堂も同様だろう。

廃仏毀釈については、たとえば一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.231)
などと書かれていて、廃仏毀釈は自然発生的に起こって明治政府は関与していなかったような叙述になっているが、国家権力の関与なくしてどうしてこれだけ多くの寺院を、短い期間で廃寺にすることが出来ようか。

明治新政府は国教をそれまでの仏教より神道に変え、天皇を支柱とする国民国家を目指し、皇室の宗廟たる伊勢神宮を国家祭祀の最高位の一つに位置づけようと考えたからこそ、伊勢神宮の御膝元の地である度会府に、筋金入りの廃仏論者を送り込んだのではなかったか。
もし伊勢の廃仏毀釈が、明治政府の意向を無視して度会府の橋本知事の独断で進められたのであるならば、すぐにこの知事が解任されてもおかしくないと思うのだが、橋本實梁は明治4年(1871)に統合再編成された新生の度会県が生まれると県令となり、明治17年には功を認められて伯爵の位を授けられているのである。

いつの時代もどこの国でも、「為政者にとって都合の良い歴史」が編集されて公教育やマスコミで広められ、「為政者にとって都合の悪い史実」が伏せられて人々の記憶から消えていく。
我々日本人は、幕末から明治の歴史について、いつの間にか「薩長閥にとって都合の良い」「キレイ事の歴史」に洗脳されてしまってはいないだろうか。
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大迫力の閻魔大王像に魅せられて~~水無瀬から大山崎歴史散歩3

水無瀬の滝と東大寺春日神社の後はサントリー山崎蒸留所に向かう。本当は予約が必要なのだろうが、当日でも時間待ちをすれば、サントリーウィスキー「山崎」の仕込から発酵、蒸留、熟成までの製造工程の見学ができ、さらにおつまみ付きで「山崎」や「白州」の試飲もできるし、時間の制約があるものの、おかわりも自由だ。

サントリー山崎蒸留所

結構歩いて汗をかいたあとにウィスキーを飲んで疲れをいやすという目的があったことは言うまでもないが、ここを訪問したもう一つの目的は、この山崎蒸留所の敷地内に、むかし西観音寺という大きなお寺があって、その痕跡が残っているのを確認したかったからである。

以前このブログで「大山崎美術館と宝積寺(ほうしゃくじ)」という記事を書いた。そのなかで、宝積寺に素晴らしい閻魔大王像があることを紹介したが、じつは宝積寺の閻魔像は、もともとは西観音寺にあったのである。

では西観音寺という寺はどんな寺で、閻魔大王像がなぜ宝積寺に移ったのかを記しておきたい。

西観音寺

上の図は寛政8-10年(1796-1798)に刊行された『摂津名所図会』における西観音寺の絵図である。
中央に描かれている参道は今では舗装されて公道となっており、右側にサントリー山崎蒸留所の「ウイスキー館」が建ち、左側に「仕込・発酵室」「蒸留室」「貯蔵室」が建っている、と考えれば良い。

この『摂津名所図会』が、大正8年に大日本名所図会刊行会から刊行されていて、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で自宅のパソコンで読むことができることはありがたい。そこには西観音寺についてこう記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959908/376

「山崎の西にあり。慈悲尾山信善谷(じひをさんしんぜんだに)といふ。天台宗。

御集
水無瀬山 木の葉まばらになるままに 尾上の鐘の声ぞちかづく  後鳥羽院

本尊十一面千手観音 閻浮檀金像(えんぶだごんぞう)。長一寸八分。脇士 左不動尊・右毘沙門。当山に三つの谷あり。いはゆる大谷・中谷・閼伽谷等なり。故に世に谷の観音と称す)
鎮守 天照大神・八幡宮・春日・山王大宮・八王子を祭る。
閻魔堂 当寺の入口にあり。小野篁ここに来たり、閻魔王および十王の像を彫刻し、日本三所に安置す。いはゆる第一は越中中野郷、第二は当山、第三は筑後古津郡なり
それこの観音寺は旧地これより西南の山間にして、むかし聖武帝天平十八年*大僧正行基、勅(みことのり)をうけて草創し、本尊はかの帝の御念持仏なり。その後、役小角苦修錬行し、天下の名嶽・霊窟に分け入って残す事なし。一日ここに巡行して高嶺に登り石上に坐し、呪術をもって閼伽**(あか)を湛へたまふ。今の閼伽谷(あかたに)これなり。その流れ潺々(さんさん)として堂前の滝となる。ここに石像の不動尊を安(やすん)ず。また山頭に弁財天祠(ほこら)あり。これも役行者の勧請とかや。台嶺の伝教大師もこの山に入りて練行し給ひ、後鳥羽上皇 水無瀬よりここに駕をめぐらし木尊大悲を尊信したまふ。」
*天平18年:西暦746年
**閼伽:仏教において仏前などに供養される水のこと

『摂津名所図会』に解説され、後鳥羽上皇が行幸され、歌まで残しておられるのだから、西観音寺がかなりの有名寺院であったことは間違いない。
ではなぜ、この寺が消えたのだろうか。その理由は、このブログで何度か書いた明治の「廃仏毀釈」なのである。

nisikannonji_5.jpg

『摂津名所図会』の絵は雲で隠れている部分が多いので建物が分りにくいのだが、『山崎通分間延絵図』には稚拙な絵ながらわかりやすく描かれている。
参道の途中に橘園院、円修院、宝泉院、明王院などがあり総門の近くに閻魔堂がある。また絵の下の方に離宮八幡宮があるが、西観音寺の僧は離宮八幡宮の社僧であり、その八幡宮の祭祀を仏式で行っていたのだそうだ。

s_minagaさんのサイトに西観音寺の廃仏毀釈の経緯がまとめられているので、引用させていただく。慶応4年というのは西暦1868年で、この年の9月8日にその年の1月1日に遡って、新元号「明治」が適用されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_ooyama.htm

慶応4年神仏分離令。
4月13日:離宮八幡宮から西観音寺役僧の呼び出しがあり、八幡宮への立入禁止の申渡しがある。
4月16日:再度呼び出しがり、別当社僧の還俗及び神勤もしくは立ち退きを申し渡す。
橘園院は谷司馬、園修院は谷東、宝仙院は谷古仙、明王院は谷靭負と改名・還俗。
6月18日:西京弁事務所より椎尾大明神の称号下附。
仏像仏器を撤去し、本堂は観音寺へ、閻魔堂は宝積寺へ、十王像は大念寺へ、鐘(康暦元年銘)は摂津正宣寺へ移管
される。
ここに天台宗西観音寺は完全に消滅し、想像も出来ない椎尾社という神社に変質する。

何も抵抗せず還俗した社僧や本山正覚院に対し、門前の農家18戸は抵抗したと伝える。
『(社僧達は)自元仏恩を忘却致し、自己口腹之為め方斗第一に心掛居候不当人に候』
『本寺(正覚院)に於いては今日迄も御出願(京都府へ)之御様子もこれ無くは恐れながら御等閑之儀と存じ奉り候』
と京都府や本山に存続を提訴したと伝える。
しかし明治5年椎尾神社は村社に列する。つまり西観音寺の存続は認められない結果となる。西観音寺は廃寺。」

廃仏毀釈は地域によって、また時期によって随分その温度差が異なっている。西観音寺は摂津の国だが、撤去した仏像・仏具を持ち込んだ先の観音寺、宝積寺、大念寺はいずれもすぐ近くにあるのだが山城の国の寺になる。また同じ山城の国でも、淀川の対岸にある石清水八幡宮寺は、翌年の明治2年に徹底的に破壊されてしまった。

西観音寺閻魔堂跡

サントリー山崎蒸留所の入場受付の近くに、ひっそりと「西観音寺閻魔堂址」と書かれた碑が建っているのだが、島本町教育委員会がその碑に記したこの文章が、私にはどうも気に入らない。
「天平十八年行基が聖武天皇の帰依仏である観音像を報じて建立した西観音寺(天台宗)の総門の外に閻魔堂があった。
明治五年本寺は椎尾神社となり閻魔堂は解体された
堂に安置してあった閻魔像(重要文化財)と十王像は小野篁の作と伝えられ、筑後古津、越中中野の像とともに有名である。」

廃仏毀釈」という言葉を全く使わず、また閻魔像を「宝積寺」に移したことにも触れなければ、重要な事を何も解説したことにはならないではないか
この西観音寺に限らず、「廃仏毀釈」で破壊された寺院を解説した文章は、いずれも同様の表現がなされているが、このような書き方では正しい歴史が伝わるとは到底思えない。わが国の幕末から明治にかけての歴史について、薩長にとって都合の良い歴史しか伝えない記述を、いったいいつまで続けるつもりなのか。

椎尾神社鳥居

この閻魔堂址から山に向かってまっすぐ伸びる道が、西観音寺の旧参道になる。その奥へ進むと鳥居があり、「椎尾神社」という神社があるのだが、この本殿のある場所に、以前は西観音寺の本堂があったのだという。要するに、明治新政府は西観音寺を破壊して、その跡地に「椎尾神社」という新しい神社を作ったのである。そして、この神社の境内には立派な石段と石垣が残されていて、これが西観音寺の唯一の遺構なのだという。

椎尾神社石垣

おおやまざき散策マップ

「おおやまざき散策マップ」という地図が大阪と京都の境界が描かれていてわかりやすいので、地図を参考に読んで頂ければありがたい。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/sansakumap.pdf

西観音寺の僧侶が社僧であったという離宮八幡宮はサントリー山崎蒸留所の入口から歩いて5分程度なのだが、途中で摂津国・山城国の国境を超えることになる。
離宮八幡宮と、西観音寺の仏像仏具を持ち込んだ先である観音寺、宝積寺、大念寺はいずれも山城国にあり、いずれも『都名所図会』に一枚の絵で描かれている。(絵図で「宝寺」とあるのは宝積寺のこと)

km_01_04_067.jpg

しかし、ここに描かれている寺社は、宝積寺を除いて、いずれもが元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)に巻き込まれて焼失してしまっている。山崎の地が会津藩や新撰組の攻撃を受けて兵火に罹ってしまったのは、離宮八幡宮や大念寺、観音寺に長州藩が陣を張っていたからのようだ。明治新政府は、西観音寺を潰してその寺宝を分け与えることで焼失した寺社を補償しようとしたということではないだろうか。

離宮八幡宮

禁門の変についてはいずれ日を改めて書くことにして、離宮八幡宮に話を戻そう。
離宮八幡宮は摂津・山城の国境に近い西国街道沿いにあるのだが、『都名所図会』をよく見ると、神社でありながら寺院建築である多宝塔が描かれており、昔は神仏習合であったことがよくわかる。Wikipediaによると「社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明治4年)に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小した」とあり、以前は相当大きい神社であったようだ。

ここから、閻魔大王像を観るために宝積寺に向かう。JRの踏切をすぎたあたりから、天王山の上り道になって、次第に坂がきつくなる。

途中で大念寺を通るが、この大念寺の本堂が、西観音寺の閻魔堂であったようだ。次のURLによると、大念寺の本尊などを安置すると「閻魔大王ほか四体の尊像は祀る場所がなかったので、宝積寺に引き取られました」とある。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/dainenji.htm

宝積寺もこれらの尊像を祀る場所が充分にあったわけでもなかったので、長い間これらの像は京都国立博物館に寄託されていて、2002年に宝積寺に閻魔堂が出来たので里帰りしたのだそうだ。

子供の頃に、「嘘をついたら閻魔さまに舌を抜かれる」という話を祖父や祖母からよく話を聞いていて、一度連れられてどこかの閻魔大王像を見に行ったことがある。それがおそらくこの閻魔大王像だったような気がするのだが、今にも怒りだしそうなものすごい表情に圧倒されて、恐怖を覚えた記憶がある。
5年前にこのブログで記事を書いたときに、宝積寺を訪ねてすでにこの像を拝観しているのだが、その際に身近に像を見て感激し、あれから4年たってまた見たくなるような、とにかくすごい迫力のある閻魔像なのである。

宝積寺仁王門

大念寺からもう少し坂道を登ると、宝積寺の仁王門に辿りつく。
この金剛力士像はいずれも鎌倉時代に制作されたもので、国の重要文化財に指定されている。

宝積寺三重塔

境内にある三重塔は桃山時代に建築されたもので、これも国の重要文化財だ。

宝積寺十一面観世音菩薩

拝観を申し込むと、まず本堂から案内いただいた。
前回来たときは、法事のために本堂に入ることが出来なかったが、本尊の十一面観音立像(国重要文化財)は、今も金箔が色鮮やかで、とても鎌倉時代の仏像だとは思えなかった。
画像はリーフレットのものだが、実物はもっと美しい。

宝積寺閻魔大王像

そして、いよいよ閻魔堂に案内される。
画像は宝積寺のリーフレットを写したものだが、写真ではこの迫力は到底伝わらない。

像高160.8cmの閻魔大王は、目を大きく見開き、ものすごい形相で睨み付けて、一瞬にして自分の心の中の弱い部分が読み取られ、すぐにも「地獄へ行け」と裁かれるのではないかと、恐怖心を覚えるような迫力がある。
堂内は撮影禁止だったのでネットで画像を捜してみたが、次のURLの写真はその雰囲気が少しばかり画像に出ている。しかし角度を変えると光の加減で表情も微妙に変化するので、拝観されていろんな角度から観られることをお勧めしたい。
http://www.sansyoutei.com/promenade/temple_housyaku/

temple-housyaku-03.jpg

右手に筆を持ち、左に木簡を持つ暗黒童子も、閻魔大王の裁きを記録しようと今にも筆が動き出しそうだ。
巻物を開いている倶生神も、その巻物の紙が自然に垂れ下がっているのだが、その巻物の、薄い紙の部分までもが1本の木を彫って造られていることに驚いてしまう。
また暗黒童子も倶生神も毛皮を敷いた交椅に腰を掛けているのだが、この毛皮も木で彫られており、それが実にリアルなのである。

鎌倉時代のわが国に、これだけの木像が彫れる仏師がわが国にいたということはすごいことである。おそらくこの時代には、世界を捜してもこのような像を彫れる人物は、ひょっとするとわが国にしかいなかったのかも知れない。そもそもイタリアでミケランジェロが活躍したのは、さらに3世紀もあとのことなのである。

これら5体の仏像は、すべてが国の重要文化財に指定されているが、この仏像を制作したのがだれなのかがよく分からないのだという。それがわかれば、これらの仏像は国宝に指定されてもおかしくなかったという説明であった。

先ほど紹介した『摂津名所図会』では小野篁(おののたかむら) が制作したと書かれていたが、この人物は平安時代の公卿であり、これらの像の制作年代とは合わない。小野篁は、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説がある人物で、小野篁が彫ったとされる閻魔大王像は、それほど優れた出来栄えであると認識されていたという意味で理解しておけばよいと思う。そもそも宝積寺の像がわが国で最古級の閻魔大王像であり、小野篁のいた時代の閻魔像は残されていないか、はじめから存在しないかのいずれかである。
『都名所図会』では小野篁の制作した閻魔像3つの中の2番目にこの閻魔大王像が挙げられていたのだが、この文章の意味するところは、江戸時代に存在した閻魔像のなかでも、この像はわが国の1、2を争う優品であると人々に知られていたということだと私は理解している。

歴史散策の最後に宝積寺を選んだのは正解だった。これらの仏像を見ているだけで、自分の心の中にあるいい加減な気持ちがどこかへ吹き飛んで、凛と張りつめた気持ちになって半日の旅を終えることが出来た。
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