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「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと

奈良県にはかって飛鳥浄御原京や平城京があり、古い寺院や神社が多くて日本人の心のふるさとでもある。この重厚な歴史のある「奈良県」という県名が、かって地図から消えたことがあることなど思いもよらなかったが、明治時代の11年半にわたって奈良県が消滅していることを最近インターネットで知った。
東大寺と郡山城の桜 069

「なら」は「奈良」と書いたり「寧楽」と書いたり「平城」とも表記されるが、平安時代から鎌倉時代にかけて東大寺や興福寺の門前町として「奈良町」が生まれ、江戸時代には奈良町に奉行所がおかれて政治の中心地となっていた。
明治新政府も奈良町に大和国(郡山藩、高取藩、柳生藩など)鎮撫総督府をおき、慶応4年に「奈良縣」と名付けられた。

明治時代に「奈良縣」は「奈良府」と呼ばれたり、また「奈良縣」に戻ったりめまぐるしく名前が変わっただけでなく、境界線も何度も変わっている。たとえば、明治3年には吉野郡あたりは「五条縣」であったし、明治4年の廃藩置県により、大和郡山、高取、柳生などの小藩がそれぞれ縣名をとなえた時期があったが、その年の11月には小藩がまとまって大和全域を管轄する「奈良縣」が成立している。

しかし、明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、ついで明治14年には、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために堺県が大阪府に編入されてしまった。

その結果、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されたり、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発した。

そのころから奈良県再設置運動がはじまり、6年後の明治20年(1887年)11月に再び奈良県が誕生した。要するに明治9年から11年半にわたって「奈良県」が地図上から消えてしまったのである。

しかし奈良県の再設置は決して簡単ではなかった。

旧奈良県出身の恒岡直史・今村勤三議員らが中心となって内務省や太政官に何度も陳情をしたが却下され、元老院に二度にわたる建白書の提出も実らず、山形有朋内務大臣や松方正義大蔵大臣に直接請願して、伊藤博文総理大臣からやっと内諾をとるなど大変な苦労をしたことや、その後も大阪府の抵抗があり当時府会の議長であった恒岡氏は辞職勧告の建議案が出て議会は混乱し、恒岡氏は勧告が出る前に議長を辞任している。

このような詳しい経緯が「奈良県誕生物語」というサイトに書かれているが、このサイトは小説のように面白く、興味のある人は堺市編入以降の第三章から読み始めても結構楽しめると思う。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_0.htm

今の奈良県は幕末の頃、郡山藩、柳生藩、高取藩の他にも小泉藩、柳本藩、芝村藩など1万石程度の小藩が乱立していたし、そう簡単に一つになれる素地は乏しかったと考えるのが自然である。まして、当時の大阪府の中では旧奈良県の議員は少数派でしかなかったので、大阪府の議会で奈良県が誕生することを容認する可能性は当初から極めて低かった。

何度却下されても、明治政府に対して奈良県再設置を求める恒岡直史議員らの粘り強い活動がなければ、奈良県の再設置はなかったかずっと遅くなったことであろうし、地域の発展がもっと遅れたのではないだろうか。

今の政治家にこのような人物がほとんどいないのは残念だが、このような明治期の政治家の努力があって現在の奈良県があることを忘れてはいけないのだと思う。

またここまで努力した先人がいたことを多くの人が知ることによってこそ、志のある人が政治家を目指すようになり、選挙民もまた志のある人を政治家に選ぶようになり、政治家が安易な対応をすることを許さなくなるのではないだろうか。
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県名と県庁所在地とが同じ県と違う県の意味?と歴史

はじめて日本の地理を学んだときに、県名と県庁所在地名をセットで覚えた。その時に多くの人は、例えば奈良県・奈良市や岡山県・岡山市というように県庁所在地の名称がそのまま県名になっていることか多いので、三重県・津市のような例外の18都道府県だけしっかり覚えれば良いということに気が付いて、例外の県だけをしっかり学習する。

県名は明治4年の廃藩置県で決まったものだが、何故このような例外が生じたかについてはあまり考えず、何も知らずに過ごしてきた。

司馬遼太郎

最近この問題に興味を持っていろいろ調べると、たとえば司馬遼太郎が「街道を行く(3)」で次のように書いている。

「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。
薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。

これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。

戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」(引用終わり)

はじめてこの文章を読んだ際に「なるほど」と思った。
例えば四国で言えば、香川県の高松藩、愛媛県の松山藩はともに佐幕派であったが、この2県だけが県庁所在地名と県名が異なる。
実はこの説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に「府藩県政史」という本で書いたものらしい。

しかしながら冷静に考えると、江戸幕府のあった東京はいきなり当てはまらない。紀州徳川家のあった和歌山もあてはまらない。大阪も江戸幕府の直轄領であったのにあてはまらない。実際はかなり例外が存在するようだ。

いろいろネットで調べてみると、司馬遼太郎が紹介している宮城県は確かに佐幕派であったが、明治4年(1871)の廃藩置県の時は「仙台県」となり、翌年の明治5年に、人心一新を理由に「宮城県」に名称変更となっている。岩手県も同様で廃藩置県当時は「盛岡県」であったが、「旧藩の因襲から抜けがたい」との理由で、盛岡県が申請した体裁になっている。盛岡県については岩手県のレファレンスコーナーに詳しく書かれている。
http://www.library.pref.iwate.jp/riyoannnai/kanpopdf/kanpo160_pdf/160007.pdf
石川県についても同様で、廃藩置県時は「金沢県」となっている。そして、翌年に県庁の場所を「北に寄り過ぎている」という理由で石川郡美川町(現白山市)に移して「石川県」と改称し、明治6年に再び県庁所在地を金沢に移したが県名は改称しなかったとややこしい経緯がある。

会津若松についても会津松平家が斗南藩に移封された後は政府直轄地となり、明治2年6月には会津若松に県庁がおかれて若松県と称し、福島県に合併されるまで7年間は県庁所在地であったことになる。

これらの事例はひょっとすれば明治政府が圧力をかけた経緯があるのかもしれないが、それならはじめから「仙台県」「盛岡県」「金沢県」「若松県」を許したことがおかしいということになってくる。

そもそも廃藩置県当初は殆ど藩をそのまま読みかえられ、実施直後の明治4年7月には府県数は3府302県もあったそうだ。その後相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されたのだが、小さな旧藩同士で県庁を取り合い県名をどうするかで様々な駆け引きが行われたことは想像に難くない。小さい旧藩が集まってできた県なら、県名と県庁所在地が別々にして交渉を決着させることは充分ありうることではないのか。

この問題は、司馬説、宮武説ほど単純なものではなさそうだ。
少なくとも明治政府が佐幕藩や態度があいまいであった藩を懲罰するために主導的に、全国的に県名を改称させたとは考えにくいし、多くの例外の存在と個々の命名事情を無視し過ぎている。

興味のある方は、戸田孝さんの「雑学資料室」の次のページが参考になります。
http://www.biwa.ne.jp/~toda-m/geo-hist/prefname.html
藩名や県名の推移に興味のある方は、「地理データ集」の次のサイトがお勧めです。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huken.htm
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「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと

今年の1月に、明治の一時期に奈良県が存在しなかったことを書いた。私もこのブログをはじめるまでは、奈良県が存在しなかったことがあることを考えもしなかったが、明治9年に奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、明治14年には堺県が大阪府に編入されてしまっている。その後、恒岡直史議員らの粘り強い活動により明治20年に奈良県が再設置されるのだが、それまでの11年半は「奈良県」が我が国に存在しなかった史実がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

奈良県の再設置運動は小説にしても良いようなドラマがあったが、いろいろ調べると、明治4年7月には府県数は3府302県もあったのだが、相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されている。(第一次府県統合)。
また明治9年(1876)4月と8月の二度にわたり、再び全国的な府県統合が行われて3府35県まで整理され、明治14年の堺県の大阪府編入で3府34県となっている。(第二次府県統合)

3府34県というと、現在の都道府県数よりも随分少ないことが誰でも気がつく。
復活された県が奈良県以外でもかなりあったことがわかる。

明治12年日本地図

上の図はネットでみつけた明治12年の頃の日本地図である。
結論から言うと、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が、この地図では存在せず、これらの県は第二次府県統合の後で復活されたということになる。
奈良県の事例から容易に想像できるように、いずれも地元民の再設置に向けての相当な努力がなければ、復活が実現できなかったはずである。奈良以外の県ではどのようなドラマがあったのか。

今回は東国原知事で一躍注目され、現在口蹄疫問題に苦しむ宮崎県のことを話題にしてみたい。

東国原知事

宮崎県は、7世紀に成立した「日向国」がルーツで、「日向国」は今の宮崎県と鹿児島県の本土部分を管轄する大きな国であった。8世紀の初めに唱更国(後の薩摩国)と大隅国が分離した後は、明治初期まで日向国の領域は変化がなかったらしい。

南北朝から戦国時代にかけて、日向国も全国の例にたがわず群雄割拠の時代となり土持氏、伊東氏、北原氏、などの勢力争いが展開されたが、1578年の耳川の戦いで大友氏に勝利した島津氏が日向国一円を支配するようになるが、1587年の秀吉の九州攻めで島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知されてしまう。

江戸時代には、日向国には天領と小藩[延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩(おびはん)]に分割され、薩摩藩や人吉藩も一部の領地をもっていた。

日向国江戸時代の地図

上の図は江戸時代の延享4年(1747)の旧日向国の地図だが、こんなに小さく複雑に分断されて幕府領が飛び地で何か所もおかれている。その理由は、江戸幕府が島津家の反乱に備えたためと言われており、幕府領の飛び地があるだけでなく島津家に敵対してきた外様の伊東氏を飫肥藩に配し、譜代大名の内藤氏を延岡藩に配置している。

明治に入って廃藩置県当初は延岡県、高鍋県、佐土原県、飫肥県(おびけん)が設置されるが、明治4年(1871)の府県合併によって美々津県、都城県に再編され、その後明治6年(1873)にほぼ旧日向国の領域をもって宮崎県が誕生した。

しかしながら、その3年後の明治9年(1876)に宮崎県は鹿児島県に合併されてしまっている。鹿児島県は明治新政府の改革に対する士族の不満が大きく、下野していた西郷隆盛の周辺に士族たちが集まり、明治政府にとっては難治県となっていたのに対し、宮崎県は士族が多かったにもかかわらず、政府に対する反抗はみられず、このような宮崎県民を鹿児島県に吸収させることで、鹿児島の士族の不満が和らぐとの考えがあったと言われている。当時の県令であった福山建偉(鹿児島出身)は宮崎のことを「人民が蒙昧であり…自由の権利と義務を了解せず、旧習を墨守し文化の何たるかを知らない民」(「宮崎県史」より)と評していたそうだが、随分宮崎県民を愚弄したものの言い方だ。

しかし翌年に西南戦争が勃発し、宮崎からも多数の士族・農民たちが西郷軍に加わり、宮崎でも激戦が繰り広げられる。

西郷軍が敗れた後は、専制政治に対する批判は言論によるものが中心となり、全国で自由民権運動が展開されていくことになるが、宮崎地区では納税に見合うだけの投資やサービスがなく、鹿児島地区に予算配分が偏重しているとの不満から、次第に分県が主張されるようになる。

ここから後のことは、次の「宮崎県郷土先覚者」のHPが詳しい。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/kawagoe/index.html
その当時県会議員であった川越進が、「日向国分県(宮崎県再設置)」を県令に請願することを提案し、賛同する有志たちで「日州親睦会」が結成して会の代表となった川越は同志の藤田哲蔵、上田集成らとともに新たに着任した渡辺千秋県令に「分県請願書」を提出するが、県令は実現困難だと門前払いにしたそうだ。明治14年(1881)当時の鹿児島県議会は鹿児島出身の議員が36名、宮崎出身の議員が17名で、当時の議会では分県の建議すらも受け入れられないような状況であったのだ。

日州親睦会のメンバーたちは宮崎地区各地を訪ねて、「宮崎県」の再設置を住民に訴えて運動の輪を広げる一方、川越進と藤田哲蔵の二人が上京して在京の秋月種樹(あきつきたねたつ:旧高鍋藩種の世子)や司法省の三好退蔵(旧高鍋藩出身)などと面会し、政府には分県の意思があるが、県令や南諸県郡(現在の鹿児島県志布志など)が反対しているために保留となっていることを知る。
また伊東博文や山形有朋など旧長州出身の有力者などにも陳情を重ね、山田顕義内務卿より「分県のことは、県会を通じて願い出よ」との通達を受け帰郷する。

川越進らは翌明治15年(1882)の3月の県会に「日向国分県建議案」を提出。この建議案は賛成多数で成立するのだが、翌日の県会で、宮里武夫県会議長が建議所上程の可否について再議することを提案し、上程しないことが決議されてしまう。
これに憤慨した宮崎地区出身議員のほとんどが病気を理由に帰郷し、各地で報告会や日向懇親会を開催するなど分権運動がさらに盛り上がることとなる。

翌明治16年(1883)に川越進が鹿児島県県会議長に選出され、3月に再提出された分県建議案は可決され、川越は再度上京し山田内務卿に分県建議書を提出し、4月に参事院で認定されて5月9日に宮崎県再置の布告がなされて、川越らの3年に及ぶ努力が実を結び、7年ぶりに宮崎県が復活するのである。

宮崎県再置布告

上の画像は宮崎県文書センターに収蔵されている宮崎県再配置の太政大臣布告である。

川越進は7月1日に県庁がおかれると、初代の県会議長に就任し、その後明治23年には衆議院議員に選出され、国政の場で宮崎県の発展につくしたという。

宮崎の父川越進像

その後彼は「宮崎県の父」と呼ばれるようになり、宮崎県庁にその銅像があるようだ。彼が中心になって勧められた分県運動は、有志達の私財を使って行われ、彼が政界を引退した大正元年(1912)には、ほとんどの財産を失い、子孫には「政治家などになるものではない」と言い残したそうだ。

地方では若い人の働く場所が少なすぎて、若い世代の流出が止まらない。これでは地方は老齢化が進み衰退してしまうばかりではないか。特に宮崎県はバカな大臣の対応のまずさで口蹄疫の大打撃を蒙ってしまった。これから宮崎の畜産業は立ち直れるのだろうか。

都会も地方もバランスよく発展させ、若い世代が地方でも普通の生活が出来るようにすることを、国家レベルで考えることが必要だと思う。そうしなければ、郷土を愛し、郷土の将来のためにに尽くす人がいなくなってしまう。工場誘致も必要だが、農業などの第一次産業や地場の産業などをあまり軽視してはいけないのだと思う。
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西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか

以前このブログでGHQによって焚書処分された菊池寛の『大衆明治史』という本を紹介したことがある。その時は中国人苦力(クーリー:単純労働者、奴隷)を乗せたマリアルーズ号というペルー船籍の船が横浜港で座礁したのだが、積荷が中国人苦力で、明らかに虐待されていた形跡から「奴隷運搬船」と判断して全員解放し、清国政府から感謝のしるしとして頌徳の大旆(たいはい:大きな旗)が贈られた話を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

無題

この『大衆明治史』という本は、明治の人々が苦労を重ねながら難局を乗り越えて、新しい日本を築き上げていくところが具体的に書かれていて当時の時代背景がよく解って面白い。GHQの焚書処分を受けた本のために現物を入手することは容易ではないが、「歴史放浪」というサイトでPDFファイルが公開されており、誰でも読むことができるのはありがたい。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本の最初に書かれているのが「廃藩置県」である。
学生時代に明治の歴史を学んだ時に、どうして武士階級が自らの特権を消滅させる決断をなすことができたのかと疑問に思った記憶がある。

たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「政府はまず、諸大名がみずからの領地と領民を支配するこれまでの体制を打ち破るため、1869(明治2)年、諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし藩主は、石高にかわる家禄の支給をうけ、そのまま知藩事(地方官)とされて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、木戸孝允・大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、1871(明治4)年7月、まず薩長土3藩から御親兵をつのって中央の軍事力をかため、ついでいっきょに廃藩置県を断行した。そしてすべての知藩事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県をおさめさせた。こうして全国は政府の直接支配のもとにおかれ、封建制度は解体した。
廃藩置県のような大変革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.219-220)

このように教科書には「大変革」という言葉を使いながらも、「さして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実」とスムーズに改革が出来たように書いてあるのだが、教科書のこのような記述には昔からリアリティを感じなかった。

焚書図書3

西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封3』で、この『大衆明治史』を採りあげておられ、わかりやすく廃藩置県の意義を解説しておられる。
「明治維新を迎え、大政奉還をすると天皇が江戸に移りました―――といってみたところで、地方にはまだたくさんの大名がいます。権力は各地に分散していました。明治新政府が権力を持つためには、地方の権力を全部取り上げてしまわなければならない。そこで大名の持っていた武力をすべて召し上げて、藩をなくして全部県にしたいわけですが、それを実施するには中央に武力がなければならない。中央に権力と武力があって初めて中央集権が成立する。それが廃藩置県の意義でした。
明治の冒頭で、菊池寛がまず廃藩置県に注目したのはじつにみごとだと思います。廃藩置県こそ明治維新の最初にして最大の出来事だったのです。」(『GHQ焚書図書開封3』p.258)

しばらく菊池寛の文章を引用してみる。[原文は旧字・旧かな]

「諸侯の土地を中央に収め、その軍隊を裁兵する。いわゆる、完全な封建制度の打破が、どんなに困難な大事業であるかは、外国の歴史をちょっと覗いてみただけでも分るだろう。これが日本では比較的スラスラ行われたのであるから、外国人が驚くのは無理もない。血を見ずして、憲法が発布されたのとともに、明治史の二大会心事といってよい。
しかし、廃藩置県の思想は、一部進歩的な具眼者の中には早くから萌していて、その先駆としての版籍奉還は、早くも明治二年に行われているから、すなわち幕府は折角倒しても、諸侯がなお土地人民を私有していては、真に維新の目的が達成されたとは言われない。この土地人民を朝廷に奉還し、復古の大業を完成しなくてはならぬと考えられていたのである。
木戸は藩主毛利敬親に説き、大久保は島津忠義に説き、こうして出来上がったのが、明治二年の四大藩主連署(島津忠義、毛利敬親、鍋島直大、山内豊範)の版籍奉還の上表である。」

『山川日本史』に名前が出てきた木戸孝允と大久保利通は、明治二年の「版籍奉還」で藩主を口説いたということが書かれている。しかし「版籍奉還」だけでは地方に大名がいる江戸時代と実質的には変わらない。「明治維新」がピリオドを打つためには、封建諸侯が土地人民を支配する体制を崩壊させることが必要となるのだが、そのハードルは相当高かったはずだ。「廃藩置県」となると全国に200万人にものぼるという藩士の大量解雇につながる話なのだ。

菊地寛

菊池寛の文章を読み進むと、この当時の明治新政府の舵取りが容易ではなかったことが見えてくる。

「明治二年から四年の廃藩置県にかけての、新興日本は、非常なピンチの中にあった。一歩誤れば建武の中興の二の舞である。
一見、王政は復古し、五箇条の御誓文は発布され、万機公論に決するという国是も確定されたが実際の政治は決してそんな立派なものではない。
維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。しかし彼等とても、公議世論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない。まして、他の藩の有力者たちに、何も積極的にできるわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった。」

「建武の中興」というのは、鎌倉幕府滅亡後の1333年6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権を指すが、わずか2年半で瓦解してしまった。菊池寛は、明治政府がわずか数年で瓦解するピンチであったことを述べているのだ。
明治政府を誕生させたのは、薩長土肥の4藩の活躍がなくてはなしえなかったのであるが、これらの藩がまとまっていたかというと、そうではなかったようなのだ。
薩摩の西郷隆盛は新政府の考え方と合わず距離を置いていたし、島津久光(藩主忠義の父、事実上薩摩の最高権力者)は、四民平等、廃藩置県などはもってのほかだと不機嫌であった。しかも西郷を嫌っていた。
長州の首領格の木戸孝允は薩摩嫌いで、土佐は薩摩の武力主義に対して、公議政治という奇手を用いて新政府に割り込もうとしていたし、肥前は薩長土が維新の渦中で人材を消耗しつつある間に、悠々と機会を窺っていたという。

明治二年四月二六日に大久保利通岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書いており、その危機感がよく伝わってくる。

大久保利通

菊池寛は当時の大久保利通の危機感についてこう解説している。
「上下両極の議政所における、諸藩出身の貢士たちがいくら論議を重ねても、また群卿諸侯の大会議が何度開かれても、所詮朝廷の根軸を建て、確固たる中央政府が出来上がるわけではない。朝廷に実力ある兵力なく、また財力があるわけでもない。こんな風潮では、天下は遠からず瓦解してしまうというのである。

公議、世論など、亡国的俗説だ。薩長専横と言わば言え、今日において、薩長の実力に依らないで何が出来るか。我々はくだらぬ批難など耳に傾けず、薩長連合して、朝廷を中心に戴き維新当初の精神に立ち返って、働くべきだと論じた。この時に当たって、多少の摩擦混乱はやむを得ない。即今幸いにも外患がないから、多少の内乱恐るるに足らずだ。要は一刻も早く、国内統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗せねばならん、というのである。

この決心を以て、大久保はまず起ち、岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長連合に向かって突進した。
この結果、西郷が再び中央の政界へ、薩長連合の党首として乗り出すことになり、朝廷に近衛兵が置かれることになり、そして、最後に封建的割拠主義に最後の止めを刺す、廃藩置県という、画期的な改革が見事に出来上がるということになったのである。」

要するに、薩長が明治政府の中心にならなければ抜本的な改革は出来ず、また薩長をひとつにまとめ上げるためには、中心に西郷隆盛がいることを必要としていたということなのだ。大久保は岩倉具視を勅使として薩摩にいる西郷を訪ねて上京を促し、西郷の同意を得たのである。
明治四年二月に西郷が東京入りして、朝廷に新兵が設置され薩長土三藩の兵が集められて中央政府の実力を固め、六月には自ら参議となって薩長の独裁政治体制が完成し、ようやく大改革を推進する体制が整った。

西郷の参議就任直後に山縣有朋は西郷を訪れ、滔々と廃藩置県の必要性を説き西郷の了解を得、七月九日には木戸孝允邸で廃藩置県の秘密会議が開かれた。大久保利通の日記を引用しながら、菊池寛はこう書いている。

「大久保の日記に
『九日、…五時より木戸氏へ訪。老西郷氏も入来、井上山縣も入来、大御変革御手順のこと、かつ政体基則のこと種々談義す。凡そ相決す。』
この時、木戸、大久保に苦慮の色があるのを見て、西郷は
『貴公らに、廃藩実施の手順さえ附いておれば、その上のことは拙者全部引受ける。暴動が各地に起きても、兵力の点なら、ご懸念に及ばず。必ず鎮圧して、お目にかけましょう』 と言った。
この一言に、一同は一息ついて、議論が一決したのである。…

こうして、七月一四日疾風の如く廃藩令が下ったのである。」

西郷隆盛

菊池寛の『大衆明治史』が面白いのは、立場の異なる人間の動きが具体的に記されていて時代の動きがダイナミックに読み取れる点だ。

「西郷上京に際して、(必ず廃藩置県などやるでないぞ)とダメを押した島津久光は、廃藩令の薩摩に伝わるや、花火を揚げて、不満を爆発させたという。諸侯と言わず、武士と言わず、保守派に与えたショックは、蓋し甚大なるものがあると思う。
西郷はその心境を家老に告げ、
『お互いに数百年来の御鴻恩、私情においては忍び難きことに御座候えども、天下一般此の如き世運と相成り、此の運転は人力の及ばざる所と存じ奉り候』
と述べている。どちらかと言えば保守派である西郷である。苦衷想うべきだろう。
廃藩令が下るとともに、従来の藩は、次第に県に改まり、十一月になって七十二県が出来たのである。
一方大久保は、現在の内務、大蔵、逓信、農林、商工の五省を兼ねた大蔵省に立てこもり、井上馨、伊藤博文、松方正義、津田出などの新人を引き具して、いよいよ新政策に邁進することになった。
彼等の眼よりすれば、西郷は一種のロボットである。廃藩置県の大仕事が済んでしまえば、もう西郷は必要としないのである。西郷の好みそうもない政策が次々と生まれてくる。
八月九日、散髪脱刀許可令
八月十八日、鎮台を東京、大阪に置き、兵部省に属せしむ。
八月二十三日、華士族平民婚嫁許可令。
等々、四民平等、士族の特権はどんどん剥ぎとられて行く。」

菊池寛の文章を読むと、この『廃藩置県』が大変な改革であり、西郷隆盛の存在がなければその実現が難しかったことがよく理解できる。
しかしながら、『山川日本史』をはじめとする教科書や通史には、この大改革がスムーズに進んだことを強調して、廃藩置県に西郷隆盛の名前が出ることがほとんどないように思う。

このブログで何度も、歴史は勝者にとって都合の良いように編集されることを書いてきた。明治政府にとっては、後に西南戦争で官軍と戦うことになった西郷隆盛の力がなければ、「廃藩置県」の大改革がなしえなかったという史実は「明治政府にとって都合の悪い真実」であり、教科書などの歴史叙述の中には書かせたくなかったのではないだろうか。多くの教科書や概説書で、廃藩置県を「さして抵抗もうけずに実現した」というスタンスで書くのは、西郷が西南戦争で明治政府軍と戦った史実と無関係ではないと思うのだ。

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いつの時代でもどこの国でも、時の権力者が書かせたような歴史を何回読んだところで真実が見えてくるとは限らないのだと思う。基本的に権力者というものは、常に権力を握り続けるために嘘をつくものだと考えておいた方が良いだろう。
教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官制史料を重視するスタンスで叙述されている傾向が強いと思うのだが、このようなスタンスでは、それぞれの時代で為政者にとって都合の悪い出来事については、いつまでたっても真実が見えて来ないのではないか。
官制の公式記録はもちろん参照すべき重要な史料ではあるが、内容がそのまま真実であるとして鵜呑みすることは危険なことではないのか。同じ時代を生きた人々の記録と読み比べることで本当は何があったのかを考える姿勢が、歴史を学ぶ上で大切なのだと思う。
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明治維新と武士の没落

明治維新で政権が朝廷に奉還され、明治2年(1869)に戊辰戦争が終了して、日本全国が新政府の支配地となったものの、各藩では江戸時代同様の各大名による統治が行なわれていて、明治政府が諸藩へ命令を行なうには、強制力の乏しい太政官達を出すしか方法がなかったという。それでは大改革は不可能だ。

そこで明治政府は、まず明治2年(1869)に版籍奉還を行ない、藩主を非世襲の知藩事とし、藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣とし、諸藩の土地と人民を明治政府の所轄としたのだが、この段階では旧藩主がそのまま知藩事に留まっていたので、江戸時代と実態的には変わっていなかった。

次いで明治政府は、明治4年(1871)に藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣するという大改革を断行している(廃藩置県)。

山縣有朋

さらに明治5年(1872)には、2月に山縣有朋が陸軍大輔となり、11月に山縣の徴兵論が採用されて「全国徴兵の詔(みことのり)」が発せられている。この詔は原文ではこう書かれていた。

徴兵の詔

「朕惟ル(おもんみる:思い巡らす)ニ古昔郡県ノ制全国ノ丁壮(ていそう:若者)ヲ募リ軍団ヲ設ケ以テ国家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵権武門ニ帰シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ実ニ千有余年来ノ一大変革ナリ此際ニ当リ海陸兵制モ亦時ニ従ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各国ノ式ヲ斟酌シ全国募兵ノ法ヲ設ケ国家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ体シ普ク之ヲ全国ニ告諭セヨ
明治五年壬申十一月二十八日」

この詔の方針に基づき徴兵告諭が出され、翌明治6年(1873)1月に徴兵令が交付されたのだが、ポイントは「四民平等、国民皆兵」で、20歳に至る者を陸海両軍に充てて、士族(元武士階級)の採用に限定しないことを明記している点にある。このことは士族においては、生存権にかかわる重大問題であったはずだ。

明治文明綺談

菊池寛の『明治文明綺談』の解説がわかりやすい。この本は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、誰でもPCで読むことができる。
明治5年の正月の調査によれば、士族の総数は40万8千戸、その家族を合わせれば190万人という大多数が、封建組織の瓦解と共に、深刻な生活問題に直面したわけである。
  しかも彼等は、今まで生活の本拠となっていた藩がなくなったばかりでなく、明治5年に発布された徴兵令のため、その本来の職能である軍役からもはなれることになり、いよいよその存在の意義を失うことになったのである。
 … 
 元来、幕末期における武士の生活難は維新の一原因と言われるくらいであるから、相当激しいものであった。軽輩の武士は、家禄だけでは生活できないから、内職を営み、そのために地方に特産物が発達したと言われる。仙台の仙台平、甲州の郡内織など、みなこの下級武士の妻子が従事して名産としたものである。
 維新から明治にかけて、全国的の兵乱のため物資は高くなり、藩札その他、財政の混乱から、ただでさえ苦しい武家の家計は、ますます不如意となっているところへ、版籍奉還廃藩置県の大変動を受けたわけである。
 そのために彼等が受けた打撃は、第一に家禄の削減であった。政府としても、藩に代わって禄を全士族に与えるとすると、年2500万円という巨額に達し、これは全歳出の3割6分に当たるのである。今まで通りの知行を与えてはやり切れなくなったので、各々その数分の1に削減している。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/77

ではどの程度減らされたのかというと、
「52万石の福岡藩などでも、3500石以上の大身は10分の1に、600石ぐらいの者も100石に減らされている」とあるが、最も悲惨であったのは朝敵であった徳川の旧幕臣であったようだ。
徳川慶喜は明治元年の江戸城明け渡しの後、800万石を70万石に大幅に減らされて、駿府に移封されている。その収入ではとても膨大な家臣団を養えないので、駿府に赴いた者は15000人程度だったことがWikipediaで解説されているが、実収は激減した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%96%8B%E5%9F%8E

下級武士の収入までもがそこまで減らされてしまっては生活が成り立つはずがない。その上に新しい税まで課せられたという。
菊池寛は、前掲書で徳川の旧幕臣の生活のことをこう記している。

「静岡における彼等の生活は、嘗て実収1万石を得ていた者でも、250石の収入となってしまった。以下、小録に至るまで、順次低下するのであるから、どんなに惨めな生活だったか分るのである。今日有名になっている静岡の茶業は、実にこれら飢餓に瀕した旧幕臣が辛うじて発見した生活法に由来するものである。
 家禄削減に続いて、明治6年、政府はこれらの家禄に、新たに税を課することになった。しかもその率は高くて、全体からいって1割2分というのである。収入は激減する上に、その激減したものに、こんな高率な税を課したのであるから、彼等の生活はほとんど致命的な窮乏へ追い込まれたのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/78

中條景昭

少し補足しておく。
今は一面茶畑となっている静岡県の牧之原台地は、以前は荒廃地であったのだが、徳川慶喜とともに駿河に移住した中條景昭(ちゅうじょうかげあき)ら約250戸の元幕臣たちは牧之原に転住したのち、1425町歩の開墾に精力を注ぎこみ、明治4年には造成した茶園は500ヘクタールに達して、明治6年(1873)から茶芽を摘みはじめとある。
度重なる苦労と失敗を重ねながらも、静岡牧之原の茶葉の品質向上に成功させて、『静岡茶』を有名ブランドに育てあげたのは、徳川の旧幕臣であったのだ。
http://www.ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup03.htm

しかし、このような成功例はごく一部に過ぎなかった。
明治政府は家禄の奉還を願い出た士族に家禄の数か年分の公債を与えて、士族が生業に就くことを促したというのだが、生活を立て直すにはあまりに公債が少なすぎて、家財道具を売るものや、娘を芸娼妓に売ったりする者も少なくなかったという。

士族は、ただ収入が激減しただけではない。徴兵令が出て軍役が国民全体の義務とされたことから、彼等の仕事までもが奪われ、さらに、明治9年(1876)には廃刀令が出されて、彼等の持っていた誇りと特権が悉く剥奪されていったのである。

こんなに悲惨な境遇に追いやられた士族が、明治政府に不平・不満を持つことは至極当然なことだと思うのだが、なぜ明治政府は彼等をここまで追い詰めたのだろうか。
彼等の失業対策が必要になることは初めからわかっていたのだから、四民平等・国民皆兵の考え方で徴兵制により兵士を集めるのではなく、士族を優先して兵士を集めれば良かったのではないかと誰でも考えるところで、明治政府内においても西郷隆盛や谷干城らは山縣有朋の徴兵制の主張に反対したようだ。

大衆明治史

それにもかかわらず、山縣有朋が徴兵制を強く主張した根拠はどこにあったのだろうか。山縣と同様の主張をしたのが大村益次郎なのだが、両名が徴兵制を主張した理由について、菊池寛は『大衆明治史』でこう解説している。

大村益次郎にしても、山縣有朋にしても、徴兵制をあくまでも主張した根拠は、全く同じ経験に出発したものと言われる。即ち、共に奇兵隊長として四境戦争*に臨み戊辰戦争に転戦した経験がある。
 奇兵隊長、高杉晋作は、
砲火による戦闘は、団体の訓練が主で、一個人の格闘力の如き問題ではない。ところが個人的格闘力を誇りとすべき筈の門閥武士は、太平の久しい優柔の風に慣れて堕落し、活発な元気と強健な体躯は、却って下士、足軽百姓町人の階級に見るようになっている。これらの精鋭を選び、軽快な武装と銃器を与え、団体的な訓練を施せば、よく洋夷にも対抗出来よう』
 と述べ、一般四民から募集したのが、有名な奇兵隊
である。これが四境戦争*で、幕兵を向うに廻して、どんなに目覚ましい働きをしたかは、大村も山崎もその隊長として、充分に見届けたのであった。奇兵隊はいわば徴兵制の立派な見本を見せたわけである。…
 また、士族だけで、新興日本が必要とする兵員全部を供給することが出来ぬし、また終身兵制の士族全部に支給する費用は、当時の財政としては、とても支弁しきれたものではないのである。…」(『大衆明治史』p.108-109)
*四境戦争:幕末期に江戸幕府が長州藩攻撃のため起こした戦争のうち、第二次長州征伐を長州側では四境戦争と呼ぶ。兵力では圧倒的に幕府軍が優っていたが、長州軍が勝利した。

長州奇兵隊

山縣らは、奇兵隊が幕府兵を破った経験から銃や大砲を用いる戦いには武士は不要であり、明治政府の乏しい歳入を勘案しても、武士を優先して雇うわけにはいかないと考えたのだが、そのために多くの武士が失業したことに頭を痛めた一人が西郷隆盛である。彼が、征韓論を強く唱えたのは、士族を本来の軍役に就かせる目的があったと考えられている。

しかしながら、その征韓論が認められなかったために、江藤新平、板垣退助、西郷隆盛らが下野し、その後、不平を持つ士族が、明治7年(1874)に佐賀の乱、明治9年(1876)に熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱を起こしている。

鹿児島暴徒出陣の図

そして明治10年(1877)には、ついに西郷も明治政府に反旗を翻したのである。
西郷の率いる1万3千の兵が鹿児島を発って北に向かうと、各地の士族が続々合流し、僅かの間に3万に膨れ上がって、西南戦争が始まっている。
西郷軍は鎮台のある熊本城を目指したが、武士が負けるはずがないと高をくくっていた百姓や町人上がりの新政府軍に敗れてしまい、不平士族の最後の墓場となってしまった。

ところが、不平士族たちの反抗はそれからも続いたのである。
菊池寛は『明治文明綺談』でこう解説している。
「…これから後は、彼等の反抗は思想的なものに代わり、自由民権を唱えることによって、藩閥政府攻撃の火の手を掲げるようになった征韓論に敗れて野に下った、後藤象二郎、江藤新平等によって民選議員設立の建白書が提出されて以来、焦慮憂鬱に閉ざされていた失意の士族は猛烈な勢いでこれを政府攻撃の手段とした。…
 政府としては、一難去ってまた一難である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/82

この難局を明治政府が如何にして切り抜けただろうか。
このテーマは次回に記すことに致したい。
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「鳥取県」の消滅から再置以降の時代と鳥取の不平士族の動き

前々回の記事で明治9年(1876)になって鳥取県は島根県に編入されることになり、再置される明治14年(1881)までの5年間にわたり「鳥取県」という名が地図から消滅したことに触れた。

2014年の県内総生産額で比較すると島根県が23,823億円に対し鳥取県が17,791億円、人口で比較しても島根県が697千人に対し鳥取県が576千人なので、経済力も人口も島根県のほうが上である。県庁所在地である松江市と鳥取市を比較しても、松江市の人口は206千人に対し鳥取市の人口は193千人。経済規模を調べても松江市の市内総生産8541億円に対し鳥取市は6419億円であり、いずれにおいても松江市の方が優位にある。
では、明治の初めの頃はどうであったのか。

Wikipediaの『府藩県三治制下の日本の人口統計』に明治維新から廃藩置県までの人口統計
が紹介されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E8%97%A9%E7%9C%8C%E4%B8%89%E6%B2%BB%E5%88%B6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

そのデータ(『明治史要』)を見ると、鳥取県の中心となった旧鳥取藩の人口が379千人であるのに対し、島根県の中心部となった旧松江藩は297千人で、総人口だけでなく華族の人口においても士族の人口においても旧鳥取藩の方が多かったことがわかる。
また、石高でいうと旧鳥取藩は32万5千石の大藩で、旧松江藩は18万6千石にすぎず、明らかに旧鳥取藩の方が格上であったのである。

にもかかわらず、明治9年の第二次府県統合で鳥取県が島根県に編入されて「鳥取県」という名前が消滅してしまった。

廃藩置県(1871)第一次府県統合 斎藤忠光氏作成地図
廃藩置県(1871)第一次府県統合 斎藤忠光氏作成地図】

もう少し詳しく見ていこう。
上の地図は明治4年(1871)の廃藩置県(第1次府県統合)後の地図である。廃藩置県による府県統合の経緯については『日経電子版』の記事に地図とともに詳しく解説されている。この時点で3府302県から3府72県となり、現在の山陰両県の範囲に、鳥取県、島根県のほかに浜田県が存在していた
http://college.nikkei.co.jp/article/51521018.html

明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)
【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】

ところが明治9年(1876)の第2次府県統合で、鳥取県、島根県、浜田県が統合され「島根県」と呼ぶことになった

旧藩時代に鳥取藩は山陰地方で最大の藩であったのだが、明治9年(1876)の9月6日に、格下であったはずの島根県令から鳥取県庁に宛てて「今般鳥取県は本県と合併される」旨の布告が届いたのである。

鳥取の人々はこの布告をどう受け止めたのか。国会図書館デジタルコレクションに昭和7年(1932)に出版された『鳥取県郷土史』が公開されていて、この頃のことについてこう記されている。

この飛報は実に青天の霹靂(へきれき)であって、県民誰一人として信ずることは出来ない位であった。特に因幡人士の驚愕は言語に絶し、爾来これが再置を計るため、いろいろ計画することとなった。懐かしい『鳥取県庁』の門標は下ろされて、墨蹟も新しく『島根県支庁』と代えられた。時の長官伊集院権参事は、高知県に転任のため鳥取県を去ることになった。多数の先輩が氏を叶の茶屋まで見送っての帰り路、眼前に聳ゆる城山を涙なくして眺め得たであろうか。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918542/664

旧国名 部分

鳥取県は東西に長く、地域によってこの問題の受け止め方は異なっていたようだ。文中の「因幡」は律令制に基づいて設置された「因幡国」があった地域で鳥取県の東部を指し、鳥取県の西部は「伯耆」と呼んでいた。

「合併後における県民の態度は、因伯二国によって自ずから異なるのは、止むを得ぬことであった。隠岐は明治4年12月本県(鳥取県)に合併されたが、元来松江藩の治下に属していたものであるから、この合併は望むところであった。伯耆は因幡の者ほどには思わなかったようである。それは伯耆は出雲に近く、前から生業風俗習慣においても出雲と親密な関係があり、また中には県庁が近くなって険阻な坂道を往復する苦痛もなくなるなどと考えるものもあったらしい。従ってこの合併を憤った者は、主として因幡人士、殊に士族階級のものであった。しかし一般的に考えれば、二百数十年間政治の中心であった鳥取から、その政治機関を取り去られることは、堪えられない寂しさであるのに、まして維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱であると考えた。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918542/664

少し補足すると、幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずであったために、慶応4年(1868)に山陰道鎮撫使が派遣され、鎮撫使は松江藩の意向を確認したうえで、2月13日には同藩に最後通牒を突き付けている。この最後通牒の全文が次のURLで読める。
https://ameblo.jp/k2600nen/entry-10083168983.html
これに驚いた松江藩は家老の大橋筑後が切腹して鎮撫使に謝罪することに決めたのだが、鳥取藩主池田慶徳が鎮撫使との仲介を申し出て、松江藩の藩世子及び家老等の血誓書を提出させることで許されるとの鎮撫使の内諾をとりつけ、家老の命と松江藩の危機を救った歴史がある。
『鳥取県郷土史』で、鳥取の人々が「維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱であると考えた」と記されているのは、このような歴史を知るとよくわかる。

しかし、因幡の人々は、ただ「鳥取」という県名を失っただけではなかった。できたばかりの島根県の行政にも大いに不満があったようだ。昭和18年に出版された『鳥取市史』にこう解説されている。

当時島根県当局においては因伯両国に対し、道路の改修、流行病の防圧。租の低減等に対し、何らの対策を講ぜず、島根県へ対するものとの間に差別があった。加うるに封建政治の崩壊は同時に武士階級の勢いを衰えせしめ士族の生活は日々に窮迫し、廃県以来官衙は松江に移され鳥取は日に日に衰頽を来たし商家及び士族の倒産する者が続出するに至った
 ここにおいて鳥取の疲弊は廃県によるはもとよりであるが、島根県当局が因伯両国の施政に無関心であるとなし士族の救済、道路及び教育に対する施設、租税の軽減を図り、また県令をはじめ首脳部は鳥取地方を巡視して明細に地方の事情を洞察し、以て其の振興を図るべしと訴うるに至った。足立長郷(あだちながさと)が共斃社(きょうへいしゃ)を組織して県政に対する不平士族を糾合するに至ったのはこれに起因するのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042221/610

鳥取だけでなく全国でも同様だったのだが、士族たちは廃藩置県で今まで生活の本拠となっていた藩を失い、さらに明治6年(1873)1月に徴兵令で、陸海軍の採用を士族に限定しないことが決まったために、本来の職能であった軍役からも離れることとなって士族たちはその存在意義を失い、さらに明治9年(1876)の秩禄処分で士族の禄制が廃止され、士族の収入は激減した。その上に山陰の政治の中心地としての役割を失い経済も衰退して、多くの失業士族が発生した。鳥取藩が大藩であっただけに、その数はかなり多かったのだが働く場がなかったのである。

足立長郷が明治13年(1880)に設立した共斃社は、困窮していた鳥取士族の生活を安定させる目的で組織され、社員の数は2~3千名に達したという。幹部の中には因幡における反政府派の領袖で、かつて同志ととも弾薬を製造し、武技を鍛錬し、西南戦争に参加しようとした詫間護郎の名前もある。
共斃社によって県当局を非難攻撃する演説会が各所で開かれ、明治13~14年の米価格の高騰の原因は因伯米を他地方に持ち出すためと考え、地主や米商人に対し米の移出を暴力的に阻止するなど、過激な行動が当時から問題になっていた。

岡崎平内
【岡崎平内】

このような状況を憂えた島根県会議長・岡崎平内(へいない)らは愛護会を結成し、士族救済はもとより、産業・交通を盛んにして疲弊した民力を回復するには、鳥取県を島根県より分離し、鳥取県を再置するしかないと主張するようになり、県再置について政府の要人に対する組織的な活動を開始した。また明治13年3月に徳島県が高知県より分離したことから、鳥取県の再置問題について世論も関心を持つようになり、13年の秋には鳥取で再置促進の町民大会が開催されたという。
そして翌明治14年に岡崎平内ら3名が陳情書を携えて山縣有朋に鳥取県再置を嘆願したのだが、その時の陳情書の内容が『鳥取市史』に要約されている。そこには風俗人情の違いが大きいことや、県庁までの距離が遠すぎること、課税が鳥取の人々が割高となっていることなどが述べられている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042221/612

山縣有朋
【山縣有朋】

また鳥取にいた同志たちも島根県令・境二郎を訪ねて、県当局自らが鳥取県再置の建議を行うことを陳情している。そして境県令はエスカレートしていた共斃社の動きなどを考慮して、5月中旬に明治政府に鳥取県再置の建議書を政府に差し出したという。

これらの行動が功を奏して、同年7月に山縣有朋が実状を調査するために島根県を巡視することが決定し、山縣は約2週間をかけて鳥取の交通の不便さや生活に困窮する士族の様子を視察したうえで、「島根県を割って鳥取県を置くことが急がれる」と報告したという。
そして8月30日に、太政大臣三条実美や山縣有朋を含む5人が集まった会議で鳥取県再置が決定し、9月12日付けで鳥取県を再置し因幡・伯耆の一円を管轄して県庁を鳥取市に置くことを定めた布告が出されている。

伯耆地図
【伯耆地図】

しかしながら、鳥取県再置運動に反対する人も少なくなかったようだ。
因幡と伯耆は藩政時代からの対立があり、特に伯耆では鳥取士族に対する反発が強かったという。そしてこの地域では鳥取県再置に反対する運動が、再置が決定する前後に激しくなったという。
各地で鳥取県再置に反対する建白書が出されていたが、久米郡選出の県会議員岩本廉蔵はさらに伯耆一致で反対の請願をまとめようとして河村郡選出議員・中原慎太郎を倉吉に会同することを求めたところ、中原は同調しなかった。それは何故だったのか。

河村郡が鳥取県再置反対に同調しなかったのは、過激化していた共斃社の活動と関係があった。中原はその理由についてこう記しているという。

「鳥取は追年衰頽し市民糊口困苦。為に旧藩士一社を結び共斃社と名付くその乱暴、名状すべからず。県書記官星野輝賢来鳥せし時恐怖して匆々帰程に就き倉吉に至りたるも後難を恐れて宿泊せしむるものなく遂に徹夜帰庁せりと言う。殆んど無警察の姿にて実に惨怚たる光景なり。これを救うこの道他なし。再置県あるのみなり。」
www.yurihama.jp/uploaded/attachment/4975.doc

鳥取県

河村郡は現在の東伯郡三朝町・湯梨浜町および倉吉市の一部だが、もし河村郡が鳥取県再置に反対し、伯耆一致の請願書が出されていたら、鳥取県の再置がすぐには実現しなかったかもしれない。皮肉なことに、共斃社の過激な活動が鳥取県の再置に反対する伯耆の人々の団結を崩すことに繋がったのである。

山田信道
山田信道

再置後の初代鳥取県令となったのは熊本藩出身の山田信道であった。
鳥取県元気づくり総本部発行の『鳥取県ができるまで』という12ページのパンフレットに、廃藩置県により鳥取藩が鳥取県となり、明治9年(1876)に鳥取県が島根県に併合されて14年(1881)に再置され、再置後の山田県令の県づくりまでが簡潔にまとめられている。

そのパンフレットには山田県令の業績についてこう記されている。

山田は、生活に苦しむ士族に仕事を与えること(士族授産)、道路網の整備、産業や教育の振興を目標に新しい県づくりに力を注ぎました。山田が最初に着手したのは、道路網の整備でした。
 明治16年から大規模な道路解説事業が始まり、現在の国道9号線をはじめとする主要15路線500kmを改修しました。
 また、士族授産として、北海道移住政策を行い、釧路や岩見沢に士族を移住させました。その一方で、鳥取に残った士族に、養蚕・製紙業に取り組ませることにしました。」

明治9年(1876)に熊本で士族が反乱を起こし、熊本鎮台司令官種田政明、熊本県令安岡良亮らが殺害された「神風連の乱」があった。山田信道は熊本でこの乱が起きた時は政府協力派であったが一時期は神風連に所属していて、生活に困窮していた士族に理解のある人物であった

大楽毛物語 ③

北海道新聞の連載記事『大楽毛物語③』*(平成26年2月18日付)に、山田県令が鳥取士族たちの北海道移住に尽力したことが記されている。当時鳥取士族たちは働く場所もなく、三食にも事欠く状態で餓死者も多かったという。

山田県令は、狂暴な行動の多かった不平士族団体共斃社の人々を、なんとか正道につかせ、共斃社を解散させようという意図をもっていた。明治15年12月、共斃社3人と県属田代修敬が県貴で北海道視察を行ったが、眼付も態度も良くない彼らの言動に業を煮やした北海道は、鳥取士族は移住まかりならぬと、時の農務省西郷従道に上申した。
 しかし山田県令の努力で、ようやく許可された
のである。政府も北海道開拓に熱意を持ち、士族の移住を奨励し『他県の士族(貧困にして自力移住できない人)は、本県管轄下への移住とし、農業及び漁業に従事することを希望する者に限る』と。…」
*『大楽毛物語』:大楽毛は釧路市の地名で、当初鳥取士族が入植するはずであった場所。丹波新聞店のHPに連載記事の全て(①~⑩)を読むことができるので興味のある方は覗いていただきたい。
http://www.otappi.jp/publics/index/8/page64=2/page55=30

そして明治17年(1884)6月に、鳥取県士族移住者41戸207人が、第1次として人跡未踏のベツトマイ原野(現在の北海道釧路市鳥取)の一角に集団移住帰農して、「鳥取村」を創始し、翌18年5月14日には、第2次鳥取県士族移住者64戸306人が移住し、総戸数105戸、総人口513人の村落が形成された

鳥取士族の開拓移住

この時に釧路に移住した鳥取士族の御子孫の方が、祖母の「……あの『おしん』より辛かった………」との言葉から、釧路の開拓が大変な苦労の連続であったことを記しておられる。
今でこそ釧路は人口173千人の都会だが、当時は道もなく、ただの原野が広がっていたという。

「見渡す限り一望千里の草原と柳。ハンやタモの巨木が川岸より鬱蒼として生えて昼尚暗い森林。  
今もって民家がない湿地帯で、人も棲まない野地だった。  
与えられたバラック作りの家屋。
木造平屋建ての柾葺、壁は四分板を外側に打ち付けた一重の薄い一枚板。
天井板もなく雨露を凌ぐだけの粗末なもの、畳もわずか、筵かゴザを敷いたものだった。」
http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/oriorino/oriorino200903tottori.htm

移住者の家屋 明治18年移住藤代家(昭和18年の写真)
【移住者の家屋 明治18年移住藤代家(昭和18年の写真)】

今まで鍬も鋤も握ったことのない士族たちが、厳寒の季節には零下30度にもなる土地に移住して原野を開拓していくのに大変な苦労があったことは言うまでもないが、彼らをして難事業をやり遂げさせたものは、武士の矜持と考えればよいのだろうか。

鳥取県の士族たちにとって明治維新は悪夢のような日々の連続であった。
旧藩時代は山陰随一の大藩で、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の異母兄という関係から親幕派でありながら尊王という微妙な立場を取り、戊辰戦争では官軍について転戦している。
明治の世になって、藩主は明治2年(1869)の版籍奉還で鳥取藩知事に就任したが明治7年(1874)の廃藩置県で免職となり、鳥取城は明治6年(1873)に陸軍省の管轄となったのち明治11年(1878)に破壊され、心の拠り所であった因幡東照宮は明治7年(1874)に神仏分離が強行されて『樗谿神社(おうちだにじんじゃ) 』という名前にかえられ、山陰地方最大の祭りであった権現祭りも行われなくなり、明治9年(1876)になると士族は刀を身に着けることを禁じられ、鳥取県は島根県に編入されて『鳥取県』という名前も失い、さらに秩禄処分で収入は激減し、山陰の政治の中心地が松江に移って鳥取は衰頽していくばかりで、鳥取士族たちは働きたくとも働く場所が見つからなかったのが現実である。彼らが明治政府に強い不満を持ったのは当然のことだと思う。

明治政府がもっと早い段階で鳥取士族に働き場所を提供していれば別の展開になっていたのかもしれないが、プライドの高い彼らがいきなり辺境の地を新天地に選ぶことは考えにくく、ギリギリまで追い詰められたからこそ、北海道の開拓に行く決断ができたのだと思う。

鳥取士族たちが開拓したという釧路市の鳥取地区は今の市の面積の4分の3を占め、市の人口の約半分が現在この地区に住んでいるという。釧路市の礎を築いたのは鳥取士族であったと言っても過言ではないのである。
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【ご参考】
最後の鳥取藩主・池田慶徳は15代将軍慶喜の異母兄であったことと関係があったのかもしれませんが、鳥取士族達は明治政府にかなりひどい目にあわされました。
では江戸幕府の旧幕臣達はどうだったかというと、彼らもひどい目に遭っています。興味のある人は覗いてみてください。

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-366.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html


関連記事

廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか

子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。

その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年(1872)69県、明治6年(1873)60県、明治8年(1875)59県、明治9年(1876)35県と合併が進められていったのだが、今度は面積が大きすぎたために地域間対立が起きるなどの問題が出て明治22年(1889)に3府43県となって落ち着くことになる。県の数が大幅に減るとなると、新しく出来た県の名前をどうするかで揉めることになることは誰でもわかる。

府藩県制史

明治政府はどういう基準で新しい県の名前を決めたのかがちょっと気になったので、手がかりになりそうな本を『国立国会図書館デジタルコレクション』で探していると、昭和16年(1941)に出版された宮武外骨の『府藩県制史』という本が目にとまった。

この本に、廃藩置県が行われた際に明治政府はどういう考えで新しい府県名を決めたのかが記されている部分がある。いろいろ反論があるかも知れないが、結構面白いので紹介したい。

賞罰的県名 逆順表示の史実

トコトンヤレの勇士を出した忠勤藩
  錦の御旗に刃向かった朝敵藩
   洞ヶ峠の日和見であった曖昧藩
    葵の紋がついた親類筋の拱手藩

 昨冬『府藩県制史』編纂の資料整理中、図らずも天来的の痛快事に接した。イヤ痛快事と言うよりも、明治史上には逸すべからざる順逆表示の史実、永久不滅の賞罰的県名と見るべきことを知りえたのである。それは廃藩置県後たる明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名は、忠勤藩と朝敵藩とを区別するため、忠勤藩即ち皇政復古に勲功のあった大藩地方の県名には藩名をつけ、朝敵藩すなわち錦の御旗に刃向かった大藩、および早く帰順を表せず、日和見の曖昧な態度であった大藩地方の県名には藩名をつけず、郡名または山名川名などを県名としたということである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/55

では忠勤藩の事例を見ていこう。
「鹿児島藩のあった薩摩国に鹿児島県
 山口藩(萩藩移動)のあった長門国に山口県
 高知藩のあった土佐国に高知県
 佐賀藩のあった肥前国に佐賀県
 福岡藩のあった筑前国に福岡県
 鳥取藩のあった因幡国に鳥取県
 広島藩のあった安芸国に広島県
 岡山藩のあった備前国に岡山県
 秋田藩のあった羽後国に秋田県

 この忠勤9藩名の8県名は悉く明治4年11月2日より同月22日までの間に、廃藩置県の際における藩名に同じ県名をいったん廃止され、さらに同県名に復したのである。佐賀県だけは明治5年5月29日に旧伊万里県を改称した復県。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/56

次に朝敵藩、曖昧藩の事例を見ていこう。
曖昧藩 熊本藩の熊本県を肥後国小川名の白川県と改称、再置の熊本県は9年2月
 朝敵藩 松江藩の松江県を出雲国島根郡の島根県と改称、それが現存
 朝敵藩 姫路藩の姫路県を播磨国飾東郡の飾磨県と改称、9年8月兵庫県に合併
 朝敵藩 松山藩の松山県を伊予国高山名の石鐵(いしづち)県と改称、6年2月愛媛県と改称
 曖昧藩 宇和島藩の宇和島県を伊予国神南山の神山県と改称、石鐵県と合せ愛媛県
 朝敵藩 高松藩の高松県を讃岐国香川郡の香川県と改称、再三廃合復県、現存
 曖昧藩 徳島藩の徳島県を阿波国名東軍の名東県と改称、再置の徳島県は13年3月
 朝敵藩 桑名藩の桑名県と曖昧藩津藩の津県を廃して三重郡四日市の三重県
 徳川家 名古屋藩の名古屋県を尾張国愛知郡の愛知県と改称、それが現存
 徳川家 水戸藩の水戸県を常陸国茨城郡の茨城県と改称、それが現存
 曖昧藩 金沢藩の金沢県を加賀国石川郡の石川県と改称、それが現存
 同分家 富山藩の富山県を越中国新川郡の新川県と改称、再置の富山県は16年5月
 朝敵藩 小田原藩の小田原権を相模国足柄郡の足柄県と改称、9年4月廃止、神奈川県
 朝敵藩 川越藩の川越県を武蔵国入間郡の入間県と改称、6年6月廃止、熊谷県
 曖昧藩 岩槻藩の岩槻県を武蔵国埼玉郡の埼玉県と改称、それが現存
 朝敵藩 佐倉藩の佐倉県を下総国印旛郡の印旛県と改称、6年6月廃止、千葉県
 曖昧藩 土浦藩の土浦県を常陸国新治郡の新治県と改称、8年5月廃止、茨城県
 朝敵藩 松本藩の松本県を信濃国筑摩郡の筑摩県と改称、9年8月廃止、長野県
 朝敵藩 高崎藩の高崎県を上野国群馬郡の群馬県と改称、それが現存
 朝敵藩 仙台藩の仙台県を陸前国宮城郡の宮城県と改称、それが現存
 朝敵藩 盛岡藩の盛岡県を陸中国岩手郡の岩手県と改称、それが現存
 朝敵藩 米沢藩の米沢県を羽前国置賜郡の置賜県と改称、9年8月山形県に合併
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/57

宮武外骨
宮武外骨

宮武外骨によると、明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名については、朝敵藩や曖昧藩においては一つの例外もなく、藩の名を県名にしていないというのである。

宮武はこの話を思い付きで記しているのではなく、渡邊修という老人から聴いた話と記しているのだが、この老人は明治時代の半ば頃に大蔵省預金局長、千葉県知事等を歴任した兵頭正懿という人物の話で知ったという。

実際にそのような賞罰的な考え方で府県名が決められた可能性が高いような気がするが、誰の発案でこのような考え方が決定したかについては、宮武は、当時は大蔵省が府県監督の専任であり、大蔵大輔であった井上薫の案を大蔵卿の大久保利通が賛同したのであろうと推定している。

では、なぜこのような考えで廃藩置県に臨んだことを明治政府が公表しなかったのだろうか。
その点について宮武はこう記しているが、文中の三条実美の発言がどの記録に残されているかについては言及していない。
「それは明治政府の態度を察するに、各藩に対し極めて寛大の処置を執り罰すべき罪をも赦した事実が多くあり、只管(ひたすら)旧藩臣の緩和を計った上より見て『士族の反感を買うような賞罰的県名は良くない、かつまた宏量たるべき政府としてはアマリにコセツイタ案である。既に発表した県名、今更取り消して改称するにも及ばない、命名の理由など知らさず、黙っていろ』という温厚な三条太政大臣の意見があった結果、秘して世間に伝えしめなかったのであろう」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/59

司馬遼太郎
【司馬遼太郎】

以前このブログで、県名と県庁所在地の関係について司馬遼太郎が『街道を行く(3)』で書いていることを紹介したことがある。
明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である

薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。
これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。
戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-91.html

この記事では、「この説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に『府藩県政史』という本で書いたものらしい」と書いたのだが、今回『府藩県政史』を実際に読んでみると、宮武は県庁所在地については触れていない

司馬は「藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である」と書いているが、富山県、徳島県、和歌山県、静岡県のような例外もある。その点宮武は、「明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名」と限定したうえで、県名に藩名を用いたのは官軍側だと指摘しているのだが、確かにその時期の廃藩置県については正しい指摘であるように思う。

前回の記事で明治9年(1876)の9月に鳥取県が島根県に併合されたことを書いた。
明治4年(1871)7月の廃藩置県において宮武外骨は、徳川との親戚関係でありながら戊辰戦争を官軍方で転戦した鳥取県を忠勤藩に分類し、隣の島根県は朝敵藩であったがゆえに県名が藩名から変えられたとしているのだが、忠勤藩であった鳥取県がなぜ朝敵藩の島根県に併合され県庁が松江市とされたのかについては何も書いていない。

不平士族のための県庁変更

ところが、『府藩県政史』を読み進んでいくと、廃藩置県の際に明治政府が送り込んだ役人が、士族たちから強い抵抗を受けたという話が各地で起こっていたことがわかる。
例えば、埼玉県について宮武はこう記している。

廃藩置県 埼玉

「太政官は忍(おし)藩の忍県、岩槻藩の岩槻県、川越藩の川越県と従来の浦和県を合わせて一県とし、県庁を埼玉郡岩槻町に置くことにして郡名を採った埼玉県と称したのである。しかるに役人どもが此処へ来て威張られてはタマラナイ。県庁をこの岩槻町へ置かさせない事にせねばならぬと決議し、仮庁舎とするはずの香林寺住職を威嚇して、寺を県庁に貸させぬことにした。一方埼玉県知事野村盛秀は、強いて岩槻に行けば士族たちに暗殺されるかもしれない。イッソ此処に居るのが安全と決定して、旧浦和県庁の所在地たる足立郡浦和鹿島台に居座ることになったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

三つの藩が合併して埼玉県が誕生したのは明治4年(1871)の事だが、同様なことが同じ年に印旛県でも起きたという。

廃藩置県 石川 富山

また、石川県、新川県(富山)の事例も紹介しておこう。
不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドク悩まされた。金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町内に置くはずであったが、不平士族が険悪の態度であったがため、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた。後に金沢の士族どもが緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。

富山藩の富山県を改めて郡名の新川県としたのであるが、この富山も金沢同様、旧藩の士族どもが威張っていてそれを避けるため、県庁を富山へ置かず、同郡の魚津という海岸へ置いた。これも富山の士族が、魚津のような所では不便で困ると言って、県庁の移転を要求することになったので、後に富山へ帰ったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

中には不平士族に暗殺された県令もいる。
熊本県は明治4年(1871)に白川県と改められ、その後明治6年(1873)に八代県と合併し、明治9年(1876)に再び熊本県に改名されているが、その年に熊本県令の安岡良亮は不平士族の連中に傷つけられて死亡している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/88

このような記録を読むと、廃藩置県の実施にあたり各地で反対運動が起こっていて、明治政府は不平士族による抵抗活動の激しい県については、不平士族の多い旧藩都を避けて比較的安全な場所に県庁を置くことにしたり、あるいは相手が怒るようなことを敢えて強行して、相手から変更を願い出るのを待つという戦略で臨んでいたという可能性が高そうだ。司馬遼太郎が石川県の事例で書いていた、加賀藩が日和見であったためにその懲罰として田舎の地に県庁を置いて県名としたという説はおそらく誤りで、不平士族が多くて藩都に県庁を置けなかったと理解するのが正しいのではないか。

高校の一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には、「廃藩置県のような大改革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はなかったのである」(p.219)などと書かれているのだが、誰でもこんな文章を読めば、廃藩置県について各地で旧藩士の強い抵抗があったことは思いもよらない。

鳥取城石垣

前回の記事で明治9年(1876)に旧藩時代に大藩であった鳥取県が島根県に併合されたことを書いた。政治力・経済力でも人口でも鳥取県の方が格上であり、戊辰戦争において政府に対して忠勤を尽くした鳥取県がなぜ島根県に飲み込まれることになったのか。その理由を考えると鳥取市中心に活動していた不平士族(共斃社)の過激な活動にたどり着くことになる。

明治政府は、過激な活動を続ける共斃社の活動拠点である鳥取市を避け、彼らの活動を抑える目的もあってわざと鳥取県を格下の島根県に併合させて県庁を松江市に置き、明治11年(1878)には鳥取城を破壊して不平士族たちがここで籠城することを不可能にしたうえで、衰退していく鳥取の立て直しについて人々が自ら考えて行動するまで待つという姿勢で臨もうとしたのではなかったか。

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【ご参考】
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期は多くの問題を抱えていました。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-460.html


関連記事

大久保利通を暗殺した石川県の不平士族らは何を求めていたのか

明治9年(1876)の第2次府県統合の後の地図を眺めていると、石川県、島根県、高知県、愛媛県、長崎県、鹿児島県など不自然に大きな県が存在し、また奈良県がなく現在の大阪府南部と奈良県を領有した堺県があったことなどいろいろなことがわかる。

明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)
【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】

これらの県では、のちに分県運動が立ち上がり、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が復活を果たすのであるが、1つの県が大きく3つの県に分かれた事例が1つだけある。それが石川県である。

廃藩置県 石川 富山福井

石川県廃藩置県は複雑で、Wikipediaには、以下のように解説されている。
「1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命された。しかし、1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が行われ、金沢藩域は金沢県(第1次)、大聖寺(だいしょうじ)藩域は大聖寺県となった。同年11月20日に両県を廃止し、旧・金沢県より射水(いみず)郡以外の越中国新川郡、婦負(ねい)郡、礪波(となみ)郡を分けて新川県(当時は新川郡魚津が県庁所在地)を設置、能登国と越中国射水郡に七尾(ななお)県を、加賀地方に金沢県(第2次)を置いた。明けて1872年(明治5年)2月2日、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市美川南町)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し、石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。なお、金沢市も市制施行前は石川郡に属していた。同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓18か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し、翌1873年(明治6年)に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。その後、1876年(明治9年)、当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県にほぼ相当)の嶺北(れいほく)*地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年(明治14年)に福井県が、1883年(明治16年)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域となる。」
*嶺北:福井県の木ノ芽峠以北の呼称。令制国の越前国にほぼ相当する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C

なぜ明治政府はこの県について何度も県域や名前を変え、県庁の所在地を田舎に移し、県名も「石川県」というローカル色の強い名前にしたのだろうか。その理由を考えていくと、石川は金沢を中心に不平士族の勢力が強かったために、明治政府が彼らの影響力を弱めようとして実行したとしか考えられないのである。

金沢城
【金沢城】

江戸時代の加賀藩は「加賀百万石」と称され、前田家は外様大名でありながら御三家に準ずる待遇を受けてきたのだが、大政奉還時は徳川慶喜を支持し慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは幕府方として出兵している。ところが、途中で幕府軍敗走の情報が入り、加賀藩は兵を呼び戻して、以後朝廷方に尽くすことを表明したという。
4月になって加賀藩にも出兵命令が下り、彼らは官軍として長岡城攻撃など、新潟県、山形県など各地を転戦した。この戦いで加賀藩は7千人を超える兵を動員し、280人もの死傷者を出している。戦後になって明治政府が加賀藩主に対し1万5千石の戦功賞典を与えている事実はあるが、政府にとっては彼らが戊辰戦争でどのような戦果を挙げようとも、29千人もいた加賀藩の士族の勢力を弱めることの方が重要であったようだ。

前回まで鳥取藩の事を書いたが、同藩の場合は戊辰戦争で当初から官軍につき、政府は戦後3万石の戦功賞典を藩主の池田慶徳に与えている。にもかかわらず9千人いた鳥取藩の士族はひどい目に遭ったことは何度かこのブログで書いてきたので繰り返さない。
官軍方についた鳥取藩ですら餓死者が出たほどなのだから他の藩も推して知るべしで、士族の人数が多かった大藩では明治政府に対する不満が強かったところが少なくない。

当時の藩別の人口や士族の人口は早稲田大学の大隈重信関係資料『府藩県石高人員表』に出ていて、Wikipediaに他の資料とともにまとめられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E8%97%A9%E7%9C%8C%E4%B8%89%E6%B2%BB%E5%88%B6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
この表を見ると、明治10年(1877)に西南戦争の起こった薩摩藩の士族人口は245千人で最も多く、次いで多いのが熊本藩の99千人で明治9年(1876)にこの藩で神風連の乱が起きている。続いて士族人口が多いのは、静岡藩(67千人)、高知藩(31千人)、仙台藩(29千人)、金沢藩(29千人)の順番となるのだが、大量の幕臣が移住した静岡藩を除くと金沢藩は5番目に士族が多かった県ということになる。

前回記事で紹介させていただいた宮武外骨の文章を再び引用させていただく。
不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドク悩まされた。金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町内に置くはずであったが、不平士族が険悪の態度であったがため、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた。後に金沢の士族どもが緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

この頃の石川県の不平士族がどのような動きをしていたか、『石川県史. 第4編』に詳しく記されているので引用させていただく。

金沢藩治の施かれし後、幾(いくば)くもなく壮年の志士等、当局の為す所を快とせざるものあり。杉村寛正・坪内金吾・陸義猶・長谷川準也等は即ちこの徒にして、安井顕比・内藤誠に対して厳しく論難攻撃し、遂に坪内金吾は抜刀して顕比を脅迫せしことあり。内藤誠もまた東京において、或る者のために鉄棒を以て頭部を乱撃せられしことありき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/139

島田一良
【島田一良】

このように、藩の統治に携わる者は、不平士族からいつ命を奪われてもおかしくないような危険に晒されていたのだが、『石川県史. 第4編』を読み進んでいくと、内藤誠を鉄棒で頭を殴った「或る者」とは、島田一良という人物であったことがわかる。島田一良は明治11年(1878)に大久保利通を東京紀尾井坂で暗殺したグループのリーダーとなった男である。

島田は嘉永元年(1848)に加賀藩の足軽の子として生まれ、戊辰戦争の活躍が認められて以降、軍人として順調に昇進していったのだが、征韓論に端を発した明治6年(1873)政変で西郷隆盛以下大量の軍人・官僚が職を辞した際に、西郷を強く支持していた島田は故郷に戻って国事に奔走する道を選択し、後に金沢の三光寺を拠点にして政治結社・「三光寺派」を結成している。

明治10年(1877)に西南戦争が起こり、島田は西郷らに呼応して挙兵しようと動き出したのだが、1200名の社員を擁する政治結社「忠告社」は戦況を傍観する態度で動かなかった。島田はそれでもこの機に挙兵を行おうと躍起になったのだが、『石川県史. 第4編』に島田らが挙兵にこだわった理由と彼の戦略が記されている。

「彼らは言う。加賀藩が海内列候の首班に居りながら、維新の鴻業に際して何らの功績を立つる能わず。その進退の優柔なりしこと婦女子に類するものありしを以て、今や満天下の軽侮する所となり、常に人後に鞺若たるに至れるは、到底吾人の堪うる能わざる所なり。然るに今幸いにして西郷隆盛の兵を挙げたるあり。吾人須らく精神あり気魄ある志士を募り、金沢の天地に兵火を挙げ、天下をして金沢にもまた人あることを知らしめ、過去の汚辱を一洗することを要す。而してその目的を貫徹するの手段としては、先ず石川県庁を襲い、その金庫を奪いて軍用金に供し、金沢営所の兵士が既に出征して、留守部隊の僅少なるに乗じ、火を放ちて兵器弾薬をかすめ、直に長駆して京師に上り、鳳輦を大本営に擁して、薩南の健児と官軍を挟撃せば、南海の志士また饗応すべく、必ず成功せんこと萬の一の疑いを容れず。この如くにして相倚り相助けて天下の事に当たらば、明治第二維新の政治これによりなすべく…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/165

島田にとっては、御三家に準ずる待遇を受けてきた誇り高き加賀藩が、日和見藩として世間から軽んじられている現状に我慢が出来ず、政府軍が九州に出征して軍備が手薄となるタイミングで兵を挙げて現政権を倒し、生まれ変わった政府で枢要なる地位を占めることによって加賀藩の汚辱を洗い流すことを真面目に考えていたのである。しかしながら、石川藩士族の最大勢力である忠告社の説得に時間がかかりすぎて、挙兵のタイミングを完全に失してしまう。

歌川房種『六凶集合之図』

島田はそれ以降、要人の暗殺に方針を転換することとなる。島田は当初木戸孝允と大久保利通に狙いを定めていたのだが、しばらくして木戸孝允が病死したため、島田の標的は大久保利通一人に絞られた
彼らは、毎月4・9のつく日に参議らが参朝することを確認し、大久保が参朝する日は自宅を午前8時に出発し、いつも紀尾井町を馬車で通過することを確認していたという。かくして明治11年(1878)5月14日を決行日とすることが決定した。
この日に集まったのは、石川県士族5名(島田一良、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一)と島根県士族*の浅井寿篤であった。
*島根県士族:当時は鳥取県が島根県に併合されていた時代で、浅井の出身は鳥取藩である。

大久保利通
大久保利通

『石川県史. 第4編』に当日の場面がこう描かれている。
「5月14日払暁、同志悉く島田一良の旅宿に集合し、午前7時30分ここを出でたるが、一良は長連豪(ちょう つらひで)とともにその首謀たるをもって、最も途上の状況に注目するところあり。8時紀尾井町の清水谷に至りしに、あたかも大久保利通が霞ヶ関の邸を出で、二頭立の馬車に乗じて赤坂の皇居に至らんとするに会せり。連豪すなわち直ちに突進して馬脚を斬りしも、馬は尚疾行せしを以て、杉本乙菊はまた他の馬脚を斬れり。時に利通は車内にありて書類を閲したりしが、兇徒のために襲撃せられたるを知り、大声『待て』と叱咤し、徐(おもむろ)にその書類を袱紗(ふくさ)に包まんとせり。ここに於いて一良は車窓を開きて利通の手を捉え、胸部と咽喉を刺すことこと三たび、同志また集まり来たり、車上より利通を引下して之を殺し、鞭を挙げて抵抗したる馭者中村太郎もまた脇田巧一の為に斬られてその主に殉ぜり。一良等既に素志を達したるを以て、刀を路傍の草間に棄て、馳せて宮門に赴き、警衛の兵士に就きて自首す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/627

斬奸状

刺客の島田一良はこの日の為に斬奸状を用意していた。この全文は『石川県史. 第4編』で読むことができる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/628

長い文章なのでポイントだけ書くと、彼らにとって大久保には5つの罪があるという。
 その一、公議を途絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する
(国会や選挙を行うことなく、民権を抑圧し政治を私物化している。)
 その二、法令漫施、請託公行、恣に威福を張る
(法令の朝令暮改が激しく、官吏の登用に情実が使われ、私腹を肥やしている。)
 その三、不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費す
(不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。)
 その四、慷慨忠節の士を疏斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成す
(忠義ある志士を排斥し、憂国の士を疑い、内乱を引き起こした。)
 その五、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜す
(外交政策の誤りにより、国威を貶めている。)

その二で、大久保が公金を私財の肥やしにしたとの指摘があるが、その点については事実と異なると思われる。実際の大久保は金銭に対して潔白な政治家で、公共事業などに私財を投じていたために死後は8千円もの借金が残っていたという。

民選議院設立建白書

とは言いながら、彼らの主張に理がないわけではなかった。
五箇条の御誓文では「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フべシ」と宣言していたにもかかわらず国会開設の動きは一向に進まず、また明治7年(1874)には板垣退助や後藤象二郎らが民選議院設立建白書を提出した動きに対し、明治政府は新聞紙条例や讒謗律(ざんぼうりつ)を制定して、反政府の言論活動の取締り強化を図るばかりであった。

斬奸状にはこう記されている。
「…政治を改正し、国家を興起するのことは、すなわち天皇陛下の聖明と、闔国人衆(こうこくじんしゅう)*の公議に在り。願わくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨**により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を興し、公議を取り、皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷、以て貫徹するを得、死して而して瞑す。」
*闔国人衆:全国の人々の意。
**八年四月の詔旨:五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した詔書(立憲政体の詔書)。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/630

彼らがとった手段は感心できないが、この文章を読むと彼らが最終の目的としていたのは国会の開設であったことは明らかである。

明治の三傑

維新の三傑と呼ばれた木戸孝允(長州出身)、西郷隆盛(薩摩出身)、大久保利通(薩摩出身)の3人の最高指導者が短い間に相次いで世を去ったのだが、それまでは「薩長」藩閥とは言いながら圧倒的に「薩摩」が強かった。しかしながら、西郷と大久保を失ったあとは伊藤博文(長州出身)、山形有朋(長州出身)や井上薫(長州出身)が台頭するようになり、「薩長」の勢力関係が逆転することとなる。

伊藤、山形、井上

また大久保暗殺事件(紀尾井坂の変)の影響の中でさらに重要な点は、この事件以降自由民権運動が強まっていったことにある。西南戦争によって武力で明治政府をと対抗しても勝つことが叶わないことがわかり、以後は言論で合法的に戦う以外に行くべき道がなくなったということであろう。

自由民権運動

この事件の4か月後の9月に大阪で開かれた愛国社再興会議で石川、愛知、和歌山、愛媛、香川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県から13社の代表が大阪に集まり、翌明治12年11月の愛国社第3回大会で国会開設実現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決定され、明治13年(1880年)3月第4回大会では、2府22県から愛国社系以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まった。
明治政府は集会条例を制定するなど民権派の急進的な活動を取り締まる一方で、政府の主導による立憲政治の実現に取りかかることになるのである。

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幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか
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大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
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武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
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西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか
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征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか
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西南戦争が起こる前の鹿児島県はまるで独立国のようだった
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明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
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明治新政府の創成期は兵力も財力も権威も乏しく、いつ瓦解してもおかしくなかった

前回記事で『維新前後の政争と小栗上野の死』という書物を紹介したが、著者の蜷川新氏の主張しているとおり、徳川幕府が大政奉還を廃止したのちに薩長がすぐに取組むべきことは封建的支配体制を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固める事であったはずだ。
明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせたため、中央集権の実効は乏しかった。

大隈重信
【大隈重信】

国立国会図書館デジタルコレクションに大正元年に出版された『木戸孝允言行録』があり、その中に廃藩置県が遅れた事情について大隈重信が語った内容が紹介されている。

「木戸・大久保等の薩長に至るや、封建廃滅を断行せんとするの意あるを告ぐるに由なく、而して島津久光の如きは封建廃滅を望まず。嘗(かつ)て西郷が急激と言わんより寧ろ破壊と称すべき藩政改革を断行したることありしを以て、その藩兵を率いて東上せんとするや、またまた封建廃滅と言えるが如き急激の挙動に出でんことを憂い、西郷を招きて問うところありしに、西郷は決してかかる意なきを告げ、且つ東上の上は要路に立ち重局に当たる者を交迭黜退(ちゅったい)して、大に中央政府に改革を加える所あらんことを期して漸く上京することとなれり。かかる次第なりしを以て、人心頗(すこぶ)る恟々として政府に対する反抗の気焔はますます激進し、ややもすれば如何なる椿事を惹き起こすやも測られざる情勢となり、封建廃滅の如きは容易に決行すべからざる模様にして、せっかく遣賢を招き、藩兵を集めても何の効果もなく、言わばかえって不首尾を来たせしをもって、岩倉、木戸、大久保等の諸先輩も一時失望の体ありしぞ是非もなき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937219/49

島津久光
島津久光

このように、明治新政府による封建制度解体が遅れた大きな原因のひとつは薩摩藩の最高権力者であった島津久光*がそれを望んでいなかったからなのである。薩摩には鍛えられた軍隊と大量の最新鋭の武器があり、明治政府は薩摩藩の意向を無視できなかった。長州藩出身の木戸孝允はこの事態をどう捉えたか。前掲書にはこう記されている。
島津久光:薩摩藩11代藩主島津斉彬の異母弟で、長男島津忠義は12代藩主。

木戸孝允
木戸孝允

「(木戸が考えるには)封建の制度を仆滅するにあらざる以上は権威を中央に集めて政令を一途に出てしむる能わざるのみならず、ややもすれば強藩奸雄をしてその間に乗じて野心陰謀を逞しうするを得しむる不幸を見るに至らんと。井上馨、伊藤博文等の少壮者はこれを擁し、これを援けて、まず薩藩をはじめ諸強藩の跋扈を制御することを務め、木戸は自ら改革党の首領たる姿となれり。されど木戸とても素と勇断果決に富む人にあらず。従って薩長両藩間の軋轢に顧慮する所なく、大久保との関係を絶ち、旧藩との関係を離れても、なおかつ諸藩の改革を断行するの勇気なく、改革派の首領たる姿ありながら、ややもすれば顧疑躊躇したる言動なきにしもあらざりしなり。
大久保に対しては木戸の如きも多少その心事につきて疑うところあり。ひそかに想えらく『彼(大久保を指す)豈(あに)彼の西郷と等しくその藩の為に多少陰謀を構うるにはあらざるか、薩藩をして幕府に変わりて天下に覇たらしめんとの野望を包蔵するにはあらざるか』と
蓋し薩藩は維新革命の前後に於いてあるいは始めに公武合体の論を唱えて、終に尊王倒幕の挙に出て、あるいは前に征長の軍に加わりて、後に長藩と結託せしなど、酷にこれを評すればほとんど反復常なき挙動をなしたるのみならず、当時大久保は枢要の地にありながら、諸事に沈黙にしていわゆる改革の決行に逡巡躊躇するところありしを以て、木戸は大久保の心事に就きてすこぶる危疑するところありしなり。これ蓋し木戸の過慮杞憂と言え、木戸の神経質なるとその神経質にて当時の事情を揣摩せしとより見れば、また無理ならぬ危疑なりしなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937219/50

王政は復古し、五箇条の御誓文は発布され、万機公論に決するという国是も確定したのだが、地方に権力を残したままでは中央集権国家は成立しえない。朝廷に兵力も財力もなく権威もなければいずれ天下は遠からずして瓦解してしまうことになる。これでは、何のために命を懸けて戊辰戦争を戦ったのかと諸藩が疑問を持っても仕方がないし、力のない明治新政府を倒そうとする動きがいつ起きてもおかしくなかった。

大久保利通
大久保利通

木戸は、薩摩藩が幕府に変わって覇権を握る野望を持っているのではないかと疑ったのだが、大久保もまた悩んでいた。
明治二年四月二六日に大久保利通が岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書いており、その危機感がよく伝わってくる。

昭和16年刊の『維新史 第5巻』には、この時期のわが国の状況についてこう記されている。
戊辰の戦乱が漸く鎮定せる明治2年には霖雨(りんう:長雨)が続いて、全国各地は不作を極め、物価は日に騰貴して、無告の民は巷に充満していた。殊に東京においては、失禄の旧幕臣が多く、一方京都においてもまた、御東幸*以後、その職を失えるものが決して少なくはなく、庶民は困窮を極めたのである。ここに於いて8月25日、畏くも天皇におかせられては、御躬ら節倹の範を示し給うて、救侐に充てんとの優渥なる詔書を下し給い、政府百官は聖旨を奉じ、官禄・賞典禄を減じて救侐の資に充てようとしたのであった。
 地方民情の最も動揺せるところは、戊辰の役において戦乱の巷と化した東北地方をもって第一とする。由来この地方は僻遠広漠の地で、王化に浴せざること久しく、剰(あまつさ)え戦乱の為に流民が続出し、人心は不安に戦(おのの)いて、その帰する所を知らなかった。されば戦乱鎮定の後、政府は力を東北地方の施政に注ぎ、あるいは陸奥・出羽二国を分割して、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥・羽前・羽後の7国となし、あるいは諸藩の削封地に県を置いて、新政の洽(あまね)く行き渡らんことを期したが、諸事草創の際とて、地方官も未だ充分なる実績を挙げるには至らなかった。

この頃また農民の暴動が各地に起こった。惟(おも)うに封建制度の撤廃は、数百年来領主対領民の関係を維持し来れる農民階級にとっては、生活の安定を脅かされることが大であったので、保守的傾向を有する彼らはこれを喜ばずして、所在に蜂起したのである。」
*御東幸: 明治天皇が明治2年3月東京に二度目の行幸をされ、これが実質の遷都になった。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917908/392

『維新史 第5巻』には以下のような暴動が起きたことが記されている。

明治2年 2月  盛岡藩の領民が旧領主南部利恭の移封に反対し党を組んで反対した
明治2年10月  高崎藩の農民が岩鼻県(上野国、武蔵国内の旧幕府領・旗本領)と租法と異なるのを理由として蜂起
明治2年11月  忍藩(おしはん:武蔵国埼玉郡に存在した藩)管地の伊勢国数郡内の領民2万人が騒擾を起こした
明治2年12月  山口藩兵が藩庁の兵制改革に不満を抱き2千名が脱退
明治3年1月  上記の隊士千余名が兵器を以て山口を逆襲し山口藩庁を包囲。2月に巨魁35人が捕らえられ鎮圧した
明治3年 1月  浜田県(現在の島根県石見地方、隠岐諸島)下の士民が浮浪の徒の煽動により蜂起
明治3年3月  宇和島藩の農民が年貢の苛酷を理由に蜂起
明治3年10月  尼崎藩の農民が大阪・神戸間鉄道敷設の為に田畑を収用せられるのを不満として暴動を起こした
明治3年11月 膽澤県(いざわけん:現在の宮城県北部・岩手県南部)の農民が凶作のため租税軽減を嘆願して蜂起
明治3年11月 日田県の農民が県庁を襲い掠奪暴行を働く
明治3年12月 府内藩(豊後国大分郡府内周辺を支配した藩)の農民が雑税の廃止を求めて騒擾を起こした

大村益次郎
【大村益次郎】

また政府の大官が相次いで暗殺されている。
明治2年1月  横井小楠(徴士参与:熊本藩出身)が十津川郷士ら6人組に襲われる
明治2年9月  大村益次郎(軍務官副知事:長州藩出身)が元長州藩士8人に襲われる
明治4年1月  広沢真臣(参議:長州藩出身)犯人不明

新聞集成明治編年史
【新聞集成明治編年史】

『維新史 第5巻』に挙げられている事件が全てではなく、幕末から明治期にかけての新聞記事を渉猟して編纂された『新聞集成明治編年史. 第一卷』の目次を見るだけでも、この時期に全国各地で一揆や反乱が起きていることがわかる。
明治2年 信州上田の騒擾(9月)、美濃の一揆平定(9月)、上州農民騒擾(10月)、勢州にも農民蜂起(11月)
明治3年 浜田県士民沸騰(1月)、長藩奇兵隊蜂起(1月)、徳島藩暴動始末(8月)、豊後各所に浮浪人出没(11月)、信州路土民動揺(12月)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/14

これら以外にも様々な出来事があったと思うのだが、全国各地でこれだけの事件が相次いで起こると政府の権威は失墜し、この混乱に乗じで政権の主導権を奪い取ろうとする動きが出てきてもおかしくなかったのである。

大衆明治史

菊池寛は『大衆明治史』のなかでこう解説している。
「維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。しかし彼等とても、公議世論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない。まして、他の藩の有力者たちに、何も積極的にできるわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった
 当時の中央勢力は、名ばかりは徴士とか貢士とかいう、今の代議士のようなものが全国各藩から集まって、盛んに政治上の議論をしているばかりで、実行はさらに挙がらない。まして肝心要の兵力というものが、中央にはまるで皆無である
 これに反して、錦旗を東北に翻して凱旋した各藩の兵隊は、各々その藩に帰ってその武功を誇り大小諸藩はみな独立状態で、中央を覘(うかが)い、来るべき変を待つ、といった有様である。容易ならざる形勢である。」(『大衆明治史』P.7)
http://tncs.world.coocan.jp/TMeijiS1.pdf

明治政府の誕生は薩長土肥の4藩の活躍がなくてはなしえなかったのであるが、これらの4藩がまとまっていたかというと、それぞれが主導権を奪い取るチャンスを窺っていたようなのだ。

薩摩の西郷隆盛は新政府の考え方と合わず距離を置いていたし、長州の首領格の木戸孝允は薩摩嫌いで、土佐は薩摩の武力主義に対して、公議政治という奇手を用いて新政府に割り込もうとしていたし、肥前は薩長土が維新の渦中で人材を消耗しつつある間に、悠々と機会を窺っていたという。

大久保利通は、一刻も早く国内を統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗するためには、薩長の力でこの難局を切り抜け、封建制度の解体に持ち込むしかないと考え、岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長連合に向かって突進した。
明治4年(1871)に、政府は鹿児島に戻っていた西郷隆盛を中央に呼び戻し、薩長土3藩から御親兵を募って中央の軍事力を固めて一挙に廃藩置県を断行し、封建的割拠主義に最後の止めを刺す大改革を行い、以降明治政府は新政策に邁進することとなったのである。

版籍奉還から廃藩置県に至るまでの2年間は、このように明治新政府は極めて不安定であったのだが、わが国の一般的な教科書では、この2年間に全国各地で暴動が相次いだことは何も書かれていないのである。

山川日本史

たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「政府はまず、諸大名がみずからの領地と領民を支配するこれまでの体制を打ち破るため、1869(明治2)年、諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし藩主は、石高にかわる家禄の支給をうけ、そのまま知藩事(地方官)とされて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、木戸孝允大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、1871(明治4)年7月、まず薩長土3藩から御親兵をつのって中央の軍事力をかため、ついでいっきょに廃藩置県を断行した。そしてすべての知藩事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県をおさめさせた。こうして全国は政府の直接支配のもとにおかれ、封建制度は解体した。
廃藩置県のような大変革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.219-220)

このような教科書を普通に読むと、明治新政府により封建制度の解体と中央集権体制の確立は比較的スムーズに進められ、政権内部のトラブルも地方の抵抗もほとんどなかったと理解するしかないのだが、他の教科書も似たり寄ったりで、相変わらず『薩長史観』で描かれている。

明治維新からもう150年も経っているのだから、せめて明治政府の良い面も悪い面もバランスよく記して欲しいものだと思う。

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節分の不思議
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厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後

会津戊辰戦争の敗戦の後、藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄地となった。
明治二年の六月に松平容保の長男・容大(かたはる)が誕生し、同年十一月に明治政府は容大による松平家の再興を許可して、容大に新たに陸奥国北郡・三戸郡・二戸郡内で3万石を与えている。新しい藩の名前は、当初は「三戸(さんのへ)藩」と称したが、明治三年に「斗南(となみ)藩」に改めている。

また明治三年の正月には戊辰戦争の処罰として命じられていた旧会津藩士の謹慎が解かれて、五月の版籍奉還で、藩主の容大は嬰児でありながら知藩事に任命されている。
当時旧会津藩士とその家族は当時約二万人いたのだが、その大半が斗南藩に移住することになったという。

柴五郎
柴五郎

会津藩士たちの移住先がこのような厳寒の地に決定した経緯について、会津人・柴五郎の遺書にはこう記されている。この人物のことは以前このブログで書いたが、明治三十三年(1900)の北清事変において公使館区域の籠城戦を指揮して世界から賞賛された軍人である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

「(慶応四年)九月二十七日、会津藩主にたいし、祖先の祀(まつり)をなすため南部の地を割きて三万石を賜うの恩命あり。その初め猪苗代か陸奥の国かについて意向を訊ねきたれるも、猪苗代は旧領の一部にて経済的にも精神的にも受け入れること能わずとの議多く、未知の地とは申せ宏大なる陸奥に将来を託するが良からんとの議まとまりて、徳川慶喜、松平容保以下の罪を免ずとの詔勅下る。松平容保は実子慶三郎(当歳)に家名を譲り、慶三郎を改めて松平容大(かたはる)と称え、十一月四日華族に列せられる。藩士一同感泣して聖慮の変わらざることを喜べり。

会津藩は(慶応三年現在)旧領三十万石、増封五万石、第一回職封五万石、第二回職封五万五千石、これに加え二千俵、さらに月一万両を賜う。これらを石高に換算すれば、約六十七万九千石の大藩なりき。今回陸奥の国、旧南部藩の一部を割き、下北半島の火山灰地に移封され、わずか三万石を賜う。まことにきびしき処遇なれど、藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託せり。されど新領地は半歳雪におおわれたる痩地にて実収わずか七千石にすぎず、とうてい藩士一同を養うにたらざることを、この時だれ一人知る者なし。」(中公新書『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』p.50~51)

会津藩士たちは斗南藩という厳寒の不毛の地に流刑されたとする解説をよく見かけるのだが、これは事実とは異なる。会津藩は旧領の猪苗代という選択肢があったのだがこれを捨て、未知の地ながら面積の広大な旧南部藩の土地に将来を託すことを選んだのである。

では、なぜ旧領地の猪苗代を捨てたのであろうか。その点について、柴五郎はこう述べている。
猪苗代は旧領地なるうえ、狭小にして藩士を養うにたらず、しかも会津落城後、経済、人心ともに荒廃して、世直し一揆と称する大規模なる百姓一揆あり。権威失いたる藩首脳これを治むる自信なし。このとき蝦夷より下北半島を通りて帰藩せる広沢安任、陸奥の国広大にして開発の望みありとの意見に従い、陸奥を復興の地と定めて斗南藩に移れる次第なり。」(同上書 p.88)
前回の記事でも書いたが、鶴ヶ城落城のあと農民たちが各地で蜂起しヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起き、会津武士たちは領民から支持されていなかったことは明らかで、旧領では藩を立て直すことは難しいと判断したのであろう。

しかしながら、移住先の下北半島の地は、恐山山地の噴火による酸性の火山灰土壌の不毛の地であった。誰もそのことを知らないままこのような土地に移住することを決めてしまったために、ここに移住した会津人たちは悲惨な生活を余儀なくされることになるのだ。

斗南藩領

明治三年四月十六日に正式に移住命令が下り、先発役人が下北半島の田名部(たなぶ:現在のむつ市東部)に到着したのは五月二日だったという。
国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、昭和十二年に出版された『佐井村誌』という書物に『斗南藩』のことが比較的詳しく記されている。上の画像はネットで見つけた斗南藩の地図だが、田名部と佐井の地名が出ているので参考にしてほしい。
『佐井村誌』には斗南藩へ移住した人々についてこう記されている。

『佐井村誌』

「田名部にては同夜(五月二日)戸毎に軒提灯を吊るして祝意を表した。斗南移住に際して帰農して会津に踏み止まった者、東京へ出でし者、北海道へ渡った者等、合して一千二百戸程あり、実際に斗南へ移住した者は二千八百余戸であった。この人々は五月頃より、海路または陸路を選んで新封の北地に下った。海路によった人々には新潟へ出て汽船で大湊または野辺地へ着いた者と、棚倉または仙台に出て帆船にて八戸に着いた者とがある。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/54

会津の人々は田名部の寺や町家等に分宿したのち各村々に散っていった。
彼らには一人一日三合宛の扶持米が支給されていたのだが、前年が凶作であったため内地米が払底していたので質の悪い輸入米が支給されていて、寄生虫が原因で死者が多数出たことが記されている。

彼らは開墾して農作物を生産しようとするのだが、俄百姓であるゆえ思うようにいかない。
また土地が痩せていたので、収穫は乏しかったという。

山川浩
【山川浩】

『佐井村誌』には彼らの苦労がこう記されている。
田名部、大畑移住の者は山に入って蕨や葛の根を掘り澱粉として食べ、大間、佐井移住の者は海に入って改装や貝類を拾うて食べた。昆布の根を搗き砕いて、おしめとして粥を炊いて食べた。おしめは凶年に於ける地方人の食料である。…大間、佐井移住の者にはこの困難に耐えかねて、北海道または越後方面へ脱藩するものもあった。あるいはまた、斗南移住の拙なりしを憤慨して、その責任は山川氏*にありとして、山川斬るべしとの声さえ起った。…袷綿入れを重ね着しても、なお寒さを感ずる師走月に、単衣のままの者も少なくなかったというから、衣食住ともに随分困窮したことが窺われる。」
*山川氏:会津藩家老山川重固の嫡男・山川浩のこと。明治三年に斗南藩大参事となる。廃藩置県後谷干城の推薦により陸軍に入り、西南戦争などで活躍した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/55

下北半島の冬の寒さは会津の人々にとっては想定外の厳しさであり、しかも物を買う金銭的余裕は全くなかったので、全て自分で工夫するしかなかったという。

柴五郎の遺書には、田名部に移住した頃の家族の生活についてこのように記している。

「父上は炉のかたわらにて習いおぼえたる網結その他の手細工をされ、兄嫁は毎日朝より夜にいたるまで授産所にて機織りして工銭を稼ぐ。薪は晩秋拾い集めたる枯枝を使いたるも足らず、積雪の中を探し求む。炭には焚火の消し炭を用い、行火(あんか)には炭団(たどん)を作るに苦心せり。売品を購う銭の余裕全くなし。
 用水は二丁ばかり離れたる田名部川より汲むほかなし。冬期は川面に井戸のごとく氷の穴を掘りて汲み上げ、父上、兄嫁、余と三人かわるがわる手桶を背負えるも途中で氷となり溶かすに苦労せり。玄米を近所の家のうすにて軽く搗きたるに大豆、馬鈴薯などを加え薄き粥を作る。白き飯、白粥など思いもよらず。馬鈴薯など欠乏すれば、海岸に流れたる昆布、若布(わかめ)など集めて干し、これを棒にて叩き木屑のごとく細片となして、これを粥に炊く。方言にてオシメと称し、これにて飢餓をしのぐ由なり。色茶褐色にして臭気あり、はなはだ不味なり。…
 冬は山野の蕨の根を集めて砕き、水にさらしていくたびもすすぐうち、水の底に澱粉沈むなり。これを米糠をまぜ塩を加え団子となし、串にさし火に焙りて食う。不味なり。少しにても砂糖あらば…など語る。
 この冬、餓死、凍死を免るるが精一杯なり。栄養不足のため痩せ衰え、脚気の傾向あり。寒さひとしお骨を噛む。」(中公新書『ある明治人の記録』p.62~63)

柴五郎は誇張して書いている訳ではなく、栄養失調と寒さの為に餓死したり、病死した者が少なくなかったようだ。

ある明治人の記録

柴家は、春になって畠を作って菜類、豆類を植えるも、虫に食いつくされ、わずか二十歩の水田も失敗し、やせた大根と小さな馬鈴薯が獲れただけだった。しかし山に入れば芹、蕨、蕗、あさつきなどが豊富に獲れ、薪も充分に集まり、山桑を獲って背負えるだけ背負って売りに行けば二十四文の稼ぎになった。
しかしながら、二年目の冬も昨年同様の状態で過ごさなければならない状態だったという。

「秋も過ぎ、怖ろしき冬再び来りても、わが家は先年の冬と同じく満足なる戸障子なく、蓆さげたる乞食小屋なり。陸奥湾より吹きつくる寒風、容赦なく小屋を吹き抜け、凍れる月の光さしこみ、あるときはサラサラと音立てて霙舞い込みて、寒気肌を刺し、夜を徹して狐の遠吠えを聞く。終日いろりに火を絶やすことなきも、小屋を暖むること能わず、背を暖むれば腹冷えて痛み、腹暖むれば背凍りつくがごとし。掌こごえて感覚を失うこと常なれば、時折火にかざして摩擦す。栄養悪きうえ、終日寒風吹き抜ける小屋にて、寝具なく蓆を被りて、みの虫のごとく、いろりの周囲を囲みて寝るほかなし。」(同上書 p.71~72)

一時は学校も通わずに農作業を手伝う日々を過ごしてきたが、六月以降は兄の友人宅に寄寓して通学し、休日に配給米を持ち帰ることになった。しかし柴五郎には草履も下駄もなく、さすがに冬になって裸足で凍結した山野を馳せ帰るのは厳しかったようだ。しかし柴家には履物すら買う金銭的余裕がなかったという。

こんな厳しい生活を余儀なくされながら、柴家はなぜこの地域から離れようとしなかったのだろうか。
離れたくても家族が移住するのに必要な資金がなかったことも理由の一つだろうが、この問いのヒントになる言葉が柴五郎の遺書に残されている。柴五郎は一年目の冬に、不味い犬の肉を食べようとしなかった時に、父から次のような叱責を受けたことを書き残している。

「『やれやれ会津の乞食藩士ども、下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ。生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは生きてあれよ。ここはまだ戦場なるぞ。』と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲み込みたること忘れず。『死ぬな、死んではならぬぞ。堪えてあれば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに一矢を報いるまでは』と自らを叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。」(同上書 p.75)
柴家に限らず、斗南藩に移住した多くの会津藩士にとっては、この厳寒の地は『戦場』であり、会津武士がこんなところで死ぬわけにはいかない。なんとかここで生き抜いて、いつか薩長の連中を見返してやるという心意気だったようだ。

しかしながら、明治四年の年の七月に廃藩置県があり、斗南藩は斗南県となったと思いきや、九月には斗南県は他の諸県とともに弘前県に合併され、さらに同月に青森県に改称されてしまった。また廃藩置県によって全国一斉に旧藩主に対し知藩事の職を免じられ、斗南藩主の松平容大は旧藩主松平容保ともども東京に去ることとなった。
藩士たちにとっては、すでに藩は消滅し、お家復興の夢もなくなり、支えるべき藩主も去ってしまい、藩役員も身分を失ってしまった。

『佐井村誌』には、廃藩置県以降の斗南藩についてこう記している。
「(廃藩置県)の時に、旧藩士に一日男一人四合、女子供一人三合の割合にて、引き続き扶持米を交付した。六年三月に至りて、扶持米を廃止することになり、特別を以て手当米並びに転業資金を給与された
一、他管下へ送籍望之者は一人につき二俵金二円宛て差遣、さらに今般別段の評議を以て為資本一戸につき金十円宛差遣候こと。
一、管内自立望之者へは、一人につき米五俵金五円宛て差遣、さらに今般別段の評議を以て為資本一戸につき金五円宛差遣候こと。
 廃藩後、他府県へ転去る者少なからずあったが、愈々扶持米を廃されたので、右の手当金を貰って続々として他府県へ去った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/56

松平容大
【陸軍大尉時代の松平容大】

『佐井村誌』を読むと、殆んどの会津人が旧斗南藩から去ったような印象を受けるのだが、現地に残ったものも少なくなかったようだ。
Wikipediaによると「明治5年(1872年)に広沢(安任)らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した」と記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9

柴五郎は藩政府の選抜により青森に派遣され明治六年(1873)に陸軍幼年学校に入校。明治十年(1877)には陸軍士官学校に進んでいる。そしてその年に西南戦争が起きたのだが、この内乱の勃発に会津人の血が騒いだようだ。

そもそも会津戊辰戦争が起きたのは、柴五郎が九歳の時であった。
慶応四年(1868)八月二十三日の朝に新政府軍の尖兵が市街へ侵入すると鶴ヶ城の鐘撞堂から早鐘が連打され、会津藩士家族の多くは「負傷兵や婦女子や幼児が入城しても足手纏いになるだけ」とあきらめて、邸内で集団自決の道を選んだのだが、この時に柴五郎の母、祖母、姉妹も自決したのである。

会津藩は新政府に対して恭順の意を示していたにもかかわらず、新政府がそれを受け入れずに戦いを仕掛けてきて、そのために多くの会津人の命が失われ、その後も悲惨な境遇に追いやられた。そのため、西南戦争が起きた時は薩摩に一矢を報いるチャンスと考える会津人が少なからずいたことは間違いがない。

柴五郎は遺書にこう記している。文中の山川大蔵は、前述した斗南藩の大参事であった人物である。
はからずも兄弟四名、薩摩打ち懲らしてくれんと東京にあつまる。まことに欣快これにすぐるものなし。山川大蔵、改名して山川浩もまた陸軍中佐として熊本県八代に上陸し、薩軍の退路を断ち、敗残の薩軍を日向路に追い込めたり。かくて同郷、同藩、苦境をともにせるもの相あつまりて雪辱の戦いに赴く。まことに快挙なり。千万言を費やすとも、この喜びを語りつくすこと能わず」(同上書 p.118)

西郷隆盛

そして西南戦争で西郷がこの世を去り、さらに翌年には大久保利通が暗殺された。

この二人の死について柴五郎は遺書にこう記している。
「余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し『天下の耳目を惹(ひ)かざれば大事ならず』として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。」(同上書 p.120~121)

柴五郎に限らず、西郷と大久保の死に留飲を下げた者は他にも多数いたはずである。少なくとも会津の多くの人々にとっては、戊辰戦争が決着した後も、薩長との争いは、心の中で綿々と続いていたと言っても良いのではないだろうか。

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【ご参考】
このブログで柴五郎について、こんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-325.html

白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-554.html

会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-555.html






関連記事

明治政府にとって「徴兵制」のハードルは高かった

教科書などでは、明治4年(1871)の「廃藩置県」について、明治政府は薩長土三藩から御親兵を募り中央集権を固めたうえで、藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣したことが記されている。
この廃藩置県を断行するということは、国の防衛のありかたを根本的に見直さざるを得なくなるのだが、その点については明治政府内で様々な議論があったようだ。

明治文明綺談

菊池寛の『明治文明綺談』(昭和18年刊)にはこう解説されている。

「つまり廃藩置県の結果、各藩の常備兵は自然に消滅することになる。そのため、全国一途の兵制が建てられることになり、東京、大阪、鎮西、東北の四ヶ所に鎮台が置かれ、各地に分営が置かれることになる。この鎮台弊をどこから採用するかということになると、各藩の藩兵が消滅したのであるから、広く国民一般から募集せざるを得なくなるわけだ。徴兵制によらなければ、鎮台に必要なる兵員を満たすわけにはゆかぬのである。
 しかし徴兵制は、直ちに要路者の全部の賛成を得るまでには至らなかった。
 百姓町人から徴兵せずとも、士族だけからでも必要な人数は得られるではないか、というのが薩摩出身の政治家たちの世論であった。嘗て大久保利通が、大村益次郎の所説に反対したのは、全く士族徴募論を採ったからである。西郷隆盛は公然とは反対しなかったが、徴兵に就いて不満を持っていたことは察しられよう。戦争は侍がやるものとは、彼の終生易(かわ)らぬ信念だったからである。だから、後の西南戦争でも、『百姓出身の兵隊を殺す出ないぞ。民兵が降参してきたら、許してやれ』と言って、あくまでも軍人は武士であるという信念はかえなかった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/103

谷干城40
【谷干城】

西洋諸国と同様に、わが国においても国民皆兵の徴兵制が必要であることを唱えたのは大村益次郎山縣有朋であったのだが、もし徴兵制が実施されると士族は本来の職能である軍役から離れて存在意義を失うことになるは言うまでもない。
この動きに最も不満を懐いたのは、薩長土三藩出身の近衛兵であったという。菊池寛の前掲書に谷干城の隈山詒謀録(わいざんいぼうろく)の次の一節が引用されている。文中の「桐野」は桐野利秋、「山縣大輔」は山縣有朋(当時兵部省の大輔)を指している。

「初め三藩の獻兵は皆、維新戦功の弊にして、此を以て朝廷の基礎を固め、廃藩を断じ、此の兵は長く徳川の旗本八萬旗の如きものとなり、頗る優待さるるものの如く考えし者多かりしが、飛鳥尽きて良弓収まるの譬えの如く、少々厄介視せらるるの姿となり、且つ近衛兵の年限も定り、一般徴兵の制に依る事に決したれば、長州の外は藩士共不快の念を抱ける如し。
 殊に桐野は徴兵主義に不満なりし。西郷は寡黙の人なり。故に明言はせざるも、矢張り壮兵主義なりしが如し。…この時、桐野が不平は殆んど絶頂に達せり。余に対し、山縣大輔を罵りて曰く、彼れ土百姓を衆めて人形を作る、果たして何の益あらんや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/104

このようにかなり険悪なムードが漂っていたようなのだが、維新の軍功があった桐野らの主張が遠ざけられるに至った理由はどのあたりにあったのだろうか。

「近衛将校である桐野利秋の家などには、兵隊たちが集って昔の同輩のつもりで酒を酌み、喧噪することは、鹿児島におけるのと変わらなかった。その気概はとにかく、これでは新時代の陸軍の軍紀は維持できない。藩の強兵も、遂には驕兵のそしりを免れなかった。
さすがの西郷も、この三藩の駕御には閉口し、『これらの兵は誠に王家の柱石』ではあるが、自分としては之を指導するのは、『破裂弾中に昼寝いたし居る』気持がすると、当時外遊中の大久保利通への手紙に書いている。
 こうした士族世襲兵の驕慢にして制馭しがたかったことは、同時に徴兵論者の主張をいよいよ有力なるものとした。また終身兵制が夥しい費用のかかることも、指揮者はみな認めていた。曾我祐準将軍が『国軍は縦に養うて横に使うようにせねば国庫は堪え能わぬ』と言ったのは、常備兵を少なくして、予備兵を多くするという意味で、その間の消息をよく物語っていると思う。
 要するに全国画一、四民平等の徴兵制度によって、国民皆兵主義を実行するにあらざれば、これからは諸外国との紛争に於て、国防を全うすることは出来ぬという確信は、軍部責任者の等しく堅持するところであった。それは明治4年12月、兵部大輔山縣有朋、兵部少輔河村純義、兵部少輔西郷従道三人連署して奉った建議の中で力説されていることであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/104

山縣有朋
山縣有朋

明治5年2月に兵部省は陸軍、海軍の二省に分かれ山縣は陸軍大輔となり、さらに熱心に徴兵制採用の急務を説いている。
そして明治5年(1872) 11月に「全国徴兵の詔(みことのり)」が発せられ、同日に太政官は「徴兵に関する告諭」を発している。

古代からわが国においては国民皆兵が行われていたのだが、兵農分離が進んだのち武士階級が生まれて実権を掌握するようになっていった。この告諭では「後世の雙刀を帯び武士と称し、抗頭坐食し、甚だしきに至ては人を殺し、官其罪を問わざる者の如きに非ず」と、武士階級に批判的に述べたあと、「世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得しめんとす。是れ上下を平均し、人権を斎一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり」と四民平等の明治維新の理想を表明し、最後にこう結んでいる。

「…人々心力を尽くし、国家の災害を防ぐは、則ち自己の災害を防ぐの基たるを知るべし。苟も国あれば則ち人々其役に就かざるを得ず。是に由て之を観れば民兵の法たる固より天然の理にして、偶然作為の法に非ず。…西洋諸国、数百年来研究実践を以て兵制を定む。故を以て其法極めて精密なり。然れども政体地理の異なる、悉く之を用うべからず。故に今、その長ずる所を取り、古昔の軍制を補い、海陸二軍を備え、全国四民、男児二十歳に至る者は、悉く兵籍に編入し、以て緩急の用に備うべし。郷長、里正厚くこの趣意を奉じ、徴兵令に依り、民庶を説諭し、国家保護の大本を知らしむべき也。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/105

軍人の徴募制度には、国民に軍務を服する義務を課す徴兵制と、当人の自由意思に任せる志願制度とに分かれるが、前者の場合は、肉体的にも精神的にも思想的にも、兵役に従事させることが難しい人物も国家権力によって軍隊に召集されることになり、そのようにして集められた軍隊で危険な戦場で戦えるのかという問題が残る。また後者の場合は、応募する者が固定化して昔の武士のように特権階級化し、老後の生活保障まで考えると莫大な費用が掛かるばかりか、応募が少なければ国防のために必要な人数が集まらない懸念もある。
英米など多くの国は志願制度をとっているのだが、山縣らは、兵役は全国民が一様に負担する義勇奉公の制度があるべき姿であると考えた。
先に紹介した「徴兵に関する告諭」に、徴兵制度を国民に納得させるために、次のような文章を織り込んだのだが、そのことが大問題となっている。

凡そ天地の間一事一物として税あらざるはなし。以て国用に充つ。然らば則ち人たるもの、固より心力を尽し、国に報ぜざるべからず。西人之を称して血税とす。其生血を以て国に報ずるの謂なり。且つ国家に災害あれば人々其災害の一分を受けざるを得ず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/106

「血税」という言葉は、兵役でもって国に報いるという意味で比喩的に用いていることは言うまでもないのだが、多くの日本人がこの文章を誤読してしまったという。

菊池寛
【菊池寛】

菊池寛の解説を続ける。
(その文を)「そのままに読んでしまって、血税とは、軍隊に入って生血をとられることだと誤解してしまったのである。また中には『血税とは血を搾り取ることで、東京や横浜には外国人が沢山来ていて、日本の若い者の血を絞って、葡萄酒をつくっているそうだ』などと真面目になって言いふらすものがあり、大いに一般の恐慌を引き起こしたものである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/107

この話は笑い話ではなく、各地で実際に血税騒動が起こったようだ。『日本史広辞典』によると「73年3月の三重県牟婁郡神内村一揆から74年12月の高知県幡多郡蜂起に至る19件が確認されている。73年の北条県(現、岡山県)、鳥取県会見郡、名東県(現、香川県)等の一揆は、数万人が参加する大規模なものであった。」(p.721)と解説されている。

亘理章三郎 著の『軍人勅諭の御下賜と其史的研究』(昭和7年刊)には、美作で竹やり小銃などを携え三千人が蜂起したことなどの記録の紹介の後、山縣有朋が監修した『陸軍省沿革史』の一節が引用されている。
「徴兵令の発布せらるるや因州の久しき慣習其性を成し、四民兵役の義務を弁知せず、特に徴兵令中に載せたる血税の文字は偶々俗心に不快の文字を与え、為に或る地方に於ては争乱を惹起するあるに至れり。故に徴兵令実施後数年間は、兵役を忌避する者多く、兵数往々欠員を生ずることありしが、当局百方苦心の結果漸次其弊なきに至れり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464377/47

徴兵免役心得

このように、陸軍省の正史において『血税騒動』で兵役忌避者が出たことの記述があることは注目に値する。

では、明治6年(1873)1月に徴兵令が交付されて以降どの程度の兵士が集まったのであろうか。
菊池寛の前掲書によると「山縣が当時理想とした兵員数は十二師団、三十万であった」のだが、「明治八年の調査によれば、歩兵二万六千人、騎兵二百四十人、砲兵二千百六十人、工兵千八十人、輜重兵三百六十人というから微々たるものである」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/107

普通に考えて、士族ではない一般の男性のほとんどは、軍隊に喜んで入隊するとは思えない。徴兵制について農民や商人たちがどのようにして抵抗したのか少し気になるところである。

亘理章三郎著の前掲書に、兵役忌避に関する明治10年2月1日の太政官達第17号が引用されている。これを読めば、軍隊に行きたくない人々がどのようにして兵役を逃れようとしたかが垣間見える。

「兵役は国の大事。人民必ず服せざるべからざるの義務に候処、人民未だ全く之に通暁せず。徴募の際動(やや)もすれば遽(にわ)かに他人の養子となり、又は廃家の苗跡(みょうせき)を冒し、甚だしきは自ら其肢体を折傷する等を以て規避する者往々有之。是れがため遂に定員の不足を生ずるに至り、不都合少なからず候條。猶一層精密に注意し管下人民へも丁寧説諭し勤めて是等の規避を防ぎ候様致すべく相達候事。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464377/51

他人の養子となったり、廃家の跡目を継いだり、自分で腕や脚を折ったり傷つけてたり、他の資料では、目に毒を入れたり、犯罪をおかして囚人となったりして徴兵を逃れようとした人物が少なからずいたことがわかる。

「血税騒動」については、菊池寛は「一般の教育程度が低いところから起こる誤解やデマであって、やがて一掃され」と記しているが、1年10ヶ月近く騒動が続いたことの説明としては説得力がない。おそらく民衆は、そのような言葉尻を捕らえて、明治新政府の施策に反対しようとしたのではないだろうか。

当時徴兵忌避者が如何に多かったかは、徴兵の対象となる男性の数が増加しているにもかかわらず、徴募に応ずべき人数が逓減しているデータを観れば見当がつく。次のURLに亘理章三郎著の前掲書に内外兵事新聞の統計データが出ている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464377/53

しかしながら、山縣有朋がこだわった徴兵制によって集まった軍隊が成果を挙げる時が来る。菊池寛は次のように解説している。

西南戦争田原坂
【西南戦争 田原坂激戦之図】

「その成果は、久しからずして、国民の前に現れることになった。則ち『百姓町人』の兵隊は、佐賀の乱に、台湾征討に、神風連の乱に、さては西南戦争に、当局の期待に背かぬ働きを示したのである。百姓町人の出身でも、これに正しい精神教育を施し、新しい武器を与えて訓練すれば、立派な近代的軍隊をつくることが出来るという、大村や山縣の確信を事実によって裏書きしたのであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/108

わが国の徴兵制の採用は軍事上の大革新であったのだが、これを実現させ軌道に乗せるのには山縣有朋の信念と頑張りがなければ難しかったと思われる。明治政府にとってこのハードルはかなり高かったのだが、この大改革を成し遂げることにより多くの成果を挙げることが出来たことを知るべきである。

日露戦争の動員兵力は100万人を超えていたが、この数字は徴兵制を採用していなければ動員不可能であったと思われ、またこれだけの軍隊を集めることができたからこそ、大国ロシアに勝利することが出来たのであろう。教科書などには大村や山縣のような先覚者の頑張りについては殆んど何も記されていないが、もう少し詳しく記述しても良いのではないだろうか。

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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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