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島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した

島原の乱の苦い経験に余程懲りたのであろう。江戸幕府は、島原の乱平定の後相次いで訓令を下している。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に原文が掲載されているので、読み下して紹介しておこう。

寛永15年(1638)5月2日に
一 五百石以上の船、停止と、この以前仰せ出だされ候。今もって其の通りに候。然れども商売船はお許しなされ候。その段心得なすべき事。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/241

キリスト教禁教

同年9月20日には
「一 伴天連門徒、累年御制禁たりと雖(いえど)も、断絶する無く、この度九州に於いて悪逆を企ておわんぬ。これによりいよいよ諸国これを相改む。彼の宗門これありて訴人致すやからは、たとい同宗なりとも、その咎を許され、公儀よりご褒美をくださるべき旨、これを仰せ出ださる。この趣を在国大名へ老中より奉書並びに相添えご褒美の覚書、これを差し遣わさる。…
  覚
一 ばてれん*の訴人  銀子二百枚
一 いるまん*の訴人  同百枚
一 きりしたん*の訴人 同五拾枚 又は三拾枚、訴人によるべし。
右訴人致し候やからは、たとい同じ宗門たりというとも、その宗旨をころび申出るにおいては、その咎を許し、ご褒美御書付のごとく下さるべき旨、仰せ出ださるものなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/242
*「ばてれん」「いるまん」はいずれもキリスト教宣教師だが、「ばてれん」は司祭職で、「いるまん」はその補佐。「きりしたん」はキリスト教信徒を意味する。

このように江戸幕府は、キリスト教の信仰を棄てない者に懸賞金を付けて衆人環視させようとしたのだが、それでも充分ではないとして、寛永16年(1639)7月5日には、さらに、このような法令を出している。

「條々
一 日本国御制禁なさるる、きりしたん宗門の義、その趣を存じながら、彼の法を弘める者。今に密々差し渡しの事。
一 宗門の族(やから)徒党を結び邪義を企つれば、すなわち御誅罰の事。
一 伴天連(ばてれん)同宗旨の者、かくれ居る所へ、彼の国よりつゝけの物送り与うる事。
右これにより自近以後、がれうた*渡海の義これを停止せられおわんぬ。この上もし差し渡すにおいては、その船を破却し、乗り来たる者は悉(ことごと)く斬罪に処すべきの旨、仰せ出ださるところなり
。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/244
*がれうた:貨物船という意味。主としてポルトガル、スペイン船を対象にしたもの。

良く知られているように、江戸幕府はすべての国との交易を閉ざしたのではなく、オランダと中国とはある制限の下に交易を許していた。

オランダ船

たとえば、オランダ人に対しては次のような申し渡しをしているが、中国に対しても同様な申し渡しがあったようだ。

「覚
一 切支丹宗門の儀、堅く御禁制の上、いよいよその旨を守り、彼の法を弘むる者乗せ来たるべからず。違背致し候わば、その船中ことごとく曲事たるべし。自然隠し乗せ来たるにおいては、同船のものたりというとも、これを申し上ぐべく、きっとご褒美下さるべきのものなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/245

このように、オランダも中国もキリスト教の布教につながる宣教師などの渡来が厳禁され、それに違反する行為の密告を奨励してその取締りの徹底を期していたのである。

よくよく考えると、オランダもキリスト教を奉じる国であり、1568年から1648年にかけて宗主国スペインとの間で独立戦争を戦いつつ、東インドに進出してポルトガルから香辛料貿易を奪い、1624年には台湾島を占領するなど植民地を拡大していった国である。
なぜ江戸幕府は、危険な国であったはずのオランダとの交易を許したのかと誰でも疑問に感じるところだが、江戸幕府は島原の乱の直前にオランダとの外交交渉で勝利していることを知って納得した。

以前このブログでタイオワン事件(ノイツ事件)のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html

簡単にこの事件の概要を振り返っておこう。

1624年にオランダが台湾島を占領し、台南の安平(アンピン)をタイオワンと呼び始め、タイオワンに寄港する外国船にいきなり10%の関税をかけはじめたのだが、その港はそれまで朱印船貿易の台湾における拠点であった。
新参者のオランダに対しわが国の朱印船はその関税支払いを拒否したことから、寛永2年(1625)には初代台湾総督ソンクが千五百斤の生糸を日本人から没収するなど様々なトラブルが起こり、オランダは寛永4年(1627)6月12日に第三代台湾総督のペーテル・ノイツを特使として日本に向かわせて、台湾を占領した事情を徳川幕府に説明し、幕府から日本商船の台湾渡航を一時禁止してもらおうとした。それを知った朱印船船長の浜田弥兵衛が先に日本に戻り、オランダ人の無法な仕打ちを長崎奉行や江戸幕府に訴えたことから、ノイツらは将軍との謁見も許されず、早々に日本を立ち去ることを命じられている。ノイツらオランダ人の弥兵衛に対する怒りは相当なものであったという。

一方、寛永5年(1628)に浜田弥兵衛を船長する船が台湾に着くと、船の荷物はオランダ人に没収された上、弥兵衛や船員は謀反人として捕えられてしまう。ところが浜田弥兵衛は十数人の部下と共に、ノイツ総督の部屋を訪ねて武器の返還と出航の許可を求めに行き、断られたタイミングで弥兵衛はノイツに飛びかかり素早く剣を抜き、ノイツを捕縛することに成功する。

浜田弥兵衛

この日から6日間ノイツは縛られたまま弥兵衛たちと交渉を続け、没収した商品の返却と、日蘭両国がそれぞれ人質を出して、相手の人質を乗せて両国の船がともに日本に向かい日本到着後に人質を釈放することで6月3日に和解が成立した。

ところが無事に両国の船が長崎に着くと、今度は江戸幕府が長崎奉行に命じてオランダ船の人質を監禁し、大砲などの武器を取り上げたばかりではなく、平戸にあったオランダ商館の帳場を閉じ、オランダ人の商売を禁じた上、その後入港してきたオランダ船まで取り押さえてしまったのである。

日本側の怒りを鎮めるために寛永9年(1632)にノイツ総督が派遣されて、オランダの人質が解放され、オランダとの貿易も再開されたのだが、このノイツは牢に入れられ、解放されたのはなんと寛永13年(1636)と、島原の乱の前年である。この年に日光東照宮の社殿が落成し、その式典にオランダのバタビア総督から日光廟に青銅製の大燭台やそのほかの珍しい唐物を献上したのを機会に、江戸幕府はノイツを牢から放してやり、この事件はようやく解決したのである。

日光東照宮 オランダ灯籠

タイオワン事件の経緯を知ると、江戸幕府がオランダに対し、外交交渉で決して負けていなかったことが理解できる。島原の乱で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことは、タイオワン事件で幕府がオランダとの間で優位に交渉を進めたことと無関係であるとは思えない。

西洋諸国の中で、オランダにだけわが国との貿易を許した江戸幕府だが、その交渉においてもオランダに対して強気の交渉を行なっていることはもっと広く知られて良いと思う。

徳富蘇峰の同上書にはこう解説されている。わかりやすいように、和暦の後に西暦年を付記しておいた。ちなみに文中の松平信綱は幕府より討伐上使として派遣され、島原の乱を鎮圧した人物である。

orandasyoukan-400.jpg

松平信綱は、島原よりの凱旋の途次、平戸に立ち寄り、オランダ商館を視察し、その宏壮城郭の如きを見て、すこぶる戒心するところあった。蓋(けだ)し平戸におけるオランダ商館は、慶長17年(1612)に第1回の建築を了し、元和2年(1616)には倉庫一棟、および埠頭を増築し、また商館を去る約一マイルの所に、木材貯蔵用の藁葺家屋を建築し、元和4年(1618)には、領主松浦氏の許可を得て、付近の家屋五十余戸を破壊し、本館を増築し、倉庫二棟、及び石造の火薬庫、病室、その他に充つべき家屋数戸を建築し、石塀をもてこれを囲んだ。その宏壮偉麗であったことは、英国商館長コックスが、驚嘆したほどでわかる
しかるにオランダ人は、これに満足せず、寛永14(1637)年、同16年(1639)には、さらに間口152フィート半、奥行45フィート、高さ24フィートの倉庫を増築した。されば当時の記録に『家倉を建て、或は2階、3階を揚げて、内には金銀珠玉を飾り、蔵は切り石をもって畳み上げ、つまりつまりに塀をかけ、その美々たる有様、奢りの至り、往還の人見るに目を驚かし、聞くにまして夥(おびただ)し』と評したのは、理(ことわ)りあることだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/246

平戸オランダ商館

平戸オランダ商館の跡地は国指定史跡となっていて、1639年に建築された倉庫が復元されているが、当時はもっと多くの建物があり、広大な敷地に建てられた城郭のような有様であったという。そして江戸幕府は、オランダに命じてこの大規模で建てられたばかりの倉庫を、破壊させているのである。
江戸幕府はどのような交渉を行なったのだろうか、徳富蘇峰の解説を続けたい。

「この寛永14年(1637)から16年(1639)に建築したる倉庫前面の破風に、会社の徽章を刻して、その左右に、耶蘇起源の年号*を割りて彫りたることが、幕府の咎めるところとなった。すなわち寛永17年(1640)9月25日、井上筑後守は、長崎奉行柘植平右衛門とともに平戸に来たり、翌日商館長以下重要館員と城内に召喚し、蘭(オランダ)人が幕府の禁令を顧みず、耶蘇生誕の年号を、倉庫の前面に彫刻するを咎め、爾後日曜日を守り、宗教の儀式を行うを禁じ、耶蘇教の年号を掲げたる倉庫は、北の新築倉庫をはじめとして、悉くこれを破壊すべきを命じた。
 日本の事情に通じたる当時のオランダ商館長カロンは、直ちにその命を遵奉し、入港中の蘭船乗組員200人を上陸せしめ、さらに約同数の日本人を使役し、即日倉庫の荷物を他に移し、破壊に着手し、5日にしてこれを終わった
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/246
*耶蘇起源の年号:西暦のこと。「耶蘇」はキリストのこと。

倉庫の破壊は寛永17年(1640)11月24日に行なわれたのだが、もしオランダ商館長のカロンが倉庫破壊にすぐに応じていなければ、オランダ人もポルトガルと同様に国外退去を命じられていたのではないだろうか。井上筑後守は、オランダが倉庫破壊に応じない場合は、威力を以てこれを強行する準備をしていたという。
しかしオランダは倉庫破壊に応じたものの、これから先日本との交易がどうなるかについては江戸幕府からの回答を長い間待たなければならなかった。

カロンに代わってオランダ商館長となったルメールが、寛永18年(1641)4月2日に江戸に呼ばれて徳川将軍家光に謁見したのち、老中から将軍の命を伝えられている。徳富蘇峰の同上書に、徳川実紀(『大猷院殿御実紀』巻四十六)の該当部分が紹介されている。

「4月2日。和蘭人2人拝し奉る。よて老臣井上筑後守政重仰せを伝う。蘭船この後長崎に着船互市すべし。天主教の徒、他の蛮船に乗り来たる事ありて、これを知らば、速やかに訴え出づべし。もし、匿し置いて後日露わるるにおいては、蘭船も通商を禁断せらるべしとなり。訳官これを伝えしかば、蘭人この後固く国禁を守り奉るべき由申して退く。[徳川実紀]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/248

とは言いながら、オランダは従来通りの活動が許されたわけではなかった。江戸幕府は、オランダ商館員以外のオランダ人は悉くジャワに放逐されたのち、寛永18年(1641)5月4日に商館員の一部を長崎に送り、6月17日には全員平戸を引き揚げさせ、狭い出島に閉じ込めたのである。

dejima10.jpg

徳富蘇峰はこう解説している。
「オランダ人はポルトガル人の後を襲(つ)いで、大いにその力を伸ばす望みを懐(いだ)いたであろう。しかも事実は全くポルトガル同様、出島に閉じ込められた。出島は扇の地形にて東西各35間余、陸に接したる北側96間余、南側118間余にて、総坪数3900余坪に過ぎぬ。周囲には板塀を廻らし、長崎の町とは、一の石橋もてこれを連絡している。橋のたもとに番小屋がある。…島内には、商館長以下の住宅、乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所など65軒の建物があり、また遊園を設け、牛、羊、豚等を飼養している。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/250

こんな狭い出島に閉じ込められた上に、オランダ人には自由がなかった。
出島の入口にはこのような制札が建てられていたという。
「禁制  出島
一 傾城*の外女入る事。
一 高野ひじりの外出家山伏入る事。
一 諸勧進**並びに乞食入る事。
一 出島廻り榜示杭より内、船乗り込むこと。附り 橋の下船乗り通る事。
一 故なくしてオランダ人出島より出る事。
右の條々これ相守るべきものなり。」
*傾城:遊女  
**勧進:仏教の僧侶が寺社の修理の為に必要な寄付を募る事


オランダ船の入港

出島には日本人の公用以外の出入りも禁止されており、日本人と話すこともままならなかったという。寛永19年(1642)にはオランダ東インド会社総督より老中にあてて待遇の改善を嘆訴したようだが、幕府は応じようとしなかったそうだ。
オランダ人にとっては、無条件に幕府に従うか、ポルトガルの様に追放されるかのどちらかしか選択肢は存在しなかったことになる。

今のわが国は、政治家も官僚も近隣諸国に振り回されているのが現状だが、徳川幕府は、17世紀初頭以来東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪って黄金時代を迎えていた強国オランダを、長い間コントロール下に置いていたことはもっと広く知られるべきだと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。この時代の日本人が勇敢に西洋人と戦った記事などをピックアップしました。良かったら覗いてみてください。

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html

台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-369.html

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

関連記事

関ヶ原本戦の前日に、杭瀬川の戦いで西軍が大勝してからの東西両軍の動き

前回の記事で、石田三成が関ヶ原の本戦の3日前に大阪の増田長盛に送った書状の一部を紹介したが、西軍の諸将の中には東軍と通じている武将が少なからずいたし、高い山に陣を取って、戦うためよりも身の安全を保つことを優先する武将もいた。

この書状の中に、前回の記事で紹介しなかったが、非常に重要な部分がある。『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に紹介されている書状の該当部分を徳富蘇峰の解説とあわせて引用したい。

石田三成像 龍潭寺
石田三成像 龍潭寺】

「『一 (毛利)輝元御出馬これなき事、拙子体は尤もと存じ候。家康上られざるには入らざるかと存じ候へども、下々は、この儀も不審にて申す事に候事。』
三成は9月12日まで、未だ家康の出馬を知らなかったであろうか。さりとは余りに敵情偵察が遅鈍であると言わねばならぬ。しかし三成の言葉は、輝元の出馬せざるを回護するが如くして、その真意は、輝元の出馬せざるについて、少なからざる不満を漏らすにあった。三成の所謂『下々の申す事』は、西軍中の世論とも言うべき意味合いである。彼は下々の申す事に託して、自己の思惑を陳べたのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/226

復習をかねて少し補足すると、慶長5年(1600)の6月に、謀反の噂があった上杉景勝を征伐するために徳川家康は大坂城を発ち、7月21日に江戸から会津に向かっていた。
家康が予想していた通り石田三成が挙兵を決意し、7月17日には毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させるとともに前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布したのち、西軍は兵を東に進めて8月1日に宇喜多秀家らが伏見城を落城させている。

石田三成挙兵の情報は約1週間で家康に伝わり、東軍の軍議の結果石田三成を迎撃することが決定して上杉征伐が中止されるに至る。

石田三成の計算では、その東軍の西進を送らせるために上杉景勝が東軍の背後を襲撃する手はずだったのだが、そうさせないために家康は出羽国山形の最上義光を動かして上杉と戦わせ、東軍が上杉景勝から背後を狙われることがないように手を打っていた。
そして東軍は西に向かって先に清州城に入城してその拠点とし、一方家康は江戸に戻って東軍への指示や西軍への調略による切り崩しを図っていた
のだった。
一方西軍の大将である毛利輝元は、大坂城中で増田長盛に東軍との内通の噂が立った*ために大坂に留まることとなり、関ヶ原には毛利秀元と吉川広家を出陣させている。
*毛利輝元が大坂にとどまったのは淀殿に出馬を拒否されたとの説もある。

石田三成の増田長盛宛書状の引用部分は、「家康が西に向かうことが出来ないので、西軍の大将である毛利輝元が来なくても(バランス上は)問題ない」と三成が認識していたことを示唆しているのだが、とすると石田三成は未だに家康は上杉景勝から背後を攻められて戦っており、到底関ヶ原には間に合わないと踏んでいたのか、家康が東京から西に向かっているという事実を知らなかったのかのいずれかということであれば、蘇峰の指摘する通り西軍は「余りに敵情偵察が遅鈍である」と言わざるを得ないのだが、別の解釈もありうるだろう。
もしかすると三成が、東軍と内通しているとの噂があった長盛に対して、わざと嘘を書いたのかも知れないのだ。増田長盛が家康と繋がっていたことはどうやら真実のようで、Wikipediaには家康に三成の挙兵を内通し、三成への資金援助要請も渋って対東軍への保身工作も講じていたことが記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B

三成が上記の書状を書いた2日後の9月14日に、家康が美濃の赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)にある安楽寺に設営された本陣に到着し、赤坂が随分賑やかとなった。

日本外史

江戸時代後期に成立した頼山陽の『日本外史』ではこう記されている。
「西軍の偵騎、走って大垣に報じて曰く『赤坂に白旗多し。内府(家康)来たるに非ざるを得んや』と。秀家・三成ら、陽に大言して曰く、『彼方に上杉・佐竹を憂へ、䠖跙(しそ)として進まず。焉(いずく)んぞ遽(にわ)かにここに来るを得んや。』」(岩波文庫『日本外史(下)』p.358)

頼山陽
【頼山陽】

このように著者の頼山陽は、西軍の諸将は、「(上杉や佐竹を警戒して)家康がこんなに早くここに来れるはずがない」と考えていたことを記している。

ところが、しばらくして西軍の斥候から家康が到着したことは確実との情報が届いて、もともと烏合の衆である西軍に動揺が走ったことは言うまでもない。事態を憂慮した石田三成の家老・島左近は戦勝による士気の回復をはかるため、東軍に奇襲攻撃をかけることを三成に進言したという。

徳富蘇峰は同上書で『関東軍記大成』という書物を引用している。その書物にはこう記されているという。
島左近この時石田に向かって、味方の兵士かように騒ぎ立ちては、合戦の勝敗測り難し。某(それがし)人数を出して敵をひっかけ、一手二手切り崩さんに、手間は入るべからず。敵内府(家康)を後ろ盾にして、足長に働き申さんは、必定なりと言いけるに。(宇喜多)秀家、(石田)三成両人ともに、左近が計(はかりごと)を許容あるによって、左近此の時稲葉兵衛、伊東頼母らを下知して、柵外に兵を進めけるに。蒲生備中も、左近に次ぎて、馳せ赴く。秀家の家人明石掃部、長船吉兵衛らは、西口より笠縫堤へかかりて、兵士を進め、木戸村、一色村に伏兵を残し、其の余隊は、三成が先鋒と一手になりて、馳せかかれり」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/230

杭瀬川の戦い
【「関ケ原合戦図屏風」】

杭瀬(くいせ)川は大垣城と美濃赤坂の中間部に流れる川であり、当時は周辺に森林が生い茂っていて、島左近は森林の中に伏兵を忍ばせ、残る部隊で対岸を渡り、東軍の中村一栄隊を挑発すると小競り合いが始まる。間もなく有馬豊氏隊も加わって乱戦となり、島左近はある程度戦った後、敗れた風を装って退却をはじめ、両隊を釣出すことに成功する。そこで島左近が忍ばせていた伏兵が中村・有馬両隊を襲撃し、さらに宇喜多隊の明石掃部が参戦して東軍の40人ほどを討ち取ったという。(杭瀬川の戦い)

杭瀬川の戦い地図
藤井治左衛門 著『関原戦史』p.105
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020199/61

かくして関ヶ原の戦いの前哨戦では西軍が大勝したのだが、この小さな戦いが行なわれた場所については、この川の川筋がその後変化しているために特定されておらず、古戦場を示す立札などはどこにもないのだそうだ。

この戦いの翌日に関ヶ原の本戦が行なわれたのだが、なぜ西軍が野戦で東軍と戦うことになったのかが昔からの疑問だった。少なくとも大垣城で東軍を迎え撃てば、西軍が簡単に負けることはなかったはずなのである。

大垣城
【大垣城】

三成は8月10日に西軍の拠点である大垣城に入った。しかし関ケ原本戦の前日の9月14日に大垣城を出て関ヶ原に向かっている。その理由は、家康が美濃赤坂を出て大垣城に向かうのではなく、さらに西へ向かう動きを見せたからだという。

この点については徳富蘇峰の解説がわかりやすい。
「…彼らは家康が到着をしたのを見、而して万障を排して前進するを聴き、いずれとも其の対策を定むべき一時となった。
佐和山城は、石田の本拠だ。大垣城を守りて、佐和山城を失うは、石田としてはあたかも手を保たんがために、首を失うの類だ。石田その人としては、是非とも途中に於いて、家康の西上軍を食い止めねばならぬ。石田既に然り、その他の宇喜多、小西の諸将が、この議を賛したのも、決して不思議はない。蓋し家康は、その行動を秘密にせず、むしろ西軍をして、これを知らしむべく努めたようだ。そはこの野戦において、西軍の首脳に大打撃を加え、彼らをして一敗地に塗(まみ)れしむるは、東軍として、最も得策であるからだ。即ち家康としては、西軍が城を出づれば、尤も妙、しからざればこれに頓着なく前進すべく、いわば両途(ふたみち)かけたのだ。
この際に於いて、西軍には籠城説がなかったが、夜襲説はあった。そは島津義弘が、その姪・島津豊久を使いとして、三成に勧めたのだ。今は赤坂の敵営を偵察せしめたるに、敵兵は疲労のあまり、甲冑を枕として眠る者がある。もしこの際家康の本営を斫(き)らば、必ず奇功を奏するであろう。もし之を可とせば、吾請う先鋒たらんと。しかも三成は既に関ヶ原退却の議を決していたから、その議に賛成するを躊躇した。その側らにあった島左近は曰く、夜襲は寡兵が多兵を相手とする際のことだ。我が軍は多く、敵は少ない。よろしく正々堂々の大野戦にて、勝ちを期すべしと。豊久は、不快満腹にて辞し去った。[落穂集]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/234

かくして西軍は9月14日の午後7時に大垣城を出て関ヶ原に向かった。東軍に気付かれないよう、松明を点さずに雨の中を進軍したという。途中長束正家、安国寺恵瓊に翌日の戦略を告げ、烽火を合図に東軍の背後を衝くことを指示した後、大谷吉継とも協議したと記録されている。

果たして西軍が夜襲をかけて勝機があったかどうかはわからない。西軍の動きは東軍の斥候によって逐次家康に報告されていた。家康は西軍が大垣城を出たことの報告を受け、即座に関ヶ原への進軍を命じている。

徳川家康

頼山陽の『日本外史』に、その報告を受けた時の家康の反応が描かれている。
「…内大臣哂(わら)って曰く、『敵、我が術中に堕つ』と。乃ち令を軍中に下し、諸将を部署す。…」(同上書p.362)

家康は城で戦うよりも、野戦で戦うことを強く欲していたようだ。そうするために東軍は佐和山に向かう動きを見せて、西軍をうまく大垣城から関ヶ原に誘き出すことに成功したのである。

かくして両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結し、いよいよ決戦の火蓋が切られようとしていた。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明暦3年1月18日(1657)から1月20日にかけての「明暦の大火」で、江戸市街の約6割が焼失した。この大火の火元は本妙寺とされているのだが、本妙寺のHPには驚くべきことが書かれている。この大火は江戸幕府はどう関わっていたのか。

「『明暦の大火』の火元の謎を追う」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html

また慶応2(1866)年1月24日未明、伏見奉行所の役人に坂本竜馬が襲撃された事件(「寺田屋事件」)が起っている。
伏見には、今も「寺田屋」という宿が存在するのだが…。

全焼したはずの坂本龍馬ゆかりの宿「寺田屋」~~平成の「寺田屋騒動」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-36.html

坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-87.html

お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-88.html


関連記事

武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府

前回の記事で、慶応3年(1867)12月9日の『王政復古の大号令』のあと、幕府の家臣や幕府軍の兵士が将軍・徳川慶喜のいる二条城に集まり、「薩摩を討伐せよ」と殺気立ったのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かったことを書いた。

武力解決派は、強引なやり方で御所を占拠し政権を奪取したとはいえ少数派にすぎず、諸侯の大多数は平和解決を望んでいたという。では彼らはどう動いたのか。

山内容堂
【山内容堂】

9日の『王政復古の大号令』の出た夕刻に開かれた小御所会議で、『短刀』で発言を封じられた土佐藩の山内容堂は、12日に意見書を朝廷に奏上している。

鈴木荘一氏の『開国の真実』に、その内容が要約されているので紹介したい。

「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)

この意見書を原文で読みたい場合は、『国立国会図書館デジタルコレクション』で徳富蘇峰の『近世日本国民史 第65巻』に出ているので参照いただきたいが、蘇峰の解説がわかりやすいので引用させていただく。

「公議と言うは、衆議である。衆議と言うは、多数決である。多数決と言えば、武力解決派から見れば、俗論である。故に彼等は口には公議を唱えるも、決して多数の俗論に一任するを欲しない。されば山内容堂の意見書は、直ちに彼らの弱点を撞いて、多数もて彼等の横暴を制せんと試みたのだ。…
 徳川慶喜はもとより諸侯の列に就くべき順序となりている。されど辞官、献地等のごとき問題は、単に命令もて、之を催告すべきものではない。すべからく松平春嶽に一任して、その宜しきを得せしめよ。朝廷はただ速やかに公議政体の実を挙げ、改革本来の目的に向かって進むべし
との意見だ。思うにこの意見は、穏和派のそれを代表したるものと見て大過なかるべく、土佐一派は、上に容堂あり、下に後藤象二郎ありて、専ら此事に周旋、奔走しつつあった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/212

このような意見書を出したのは土佐藩だけではなかった。
土佐が意見書を奏上した日と同じ12日に、阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩を糾合し、連名の意見書を二条城に届けている。

徳富蘇峰はその意見書の原文を紹介したのち、こう解説している。
あたかも申し合わせたるが如く、山内容堂の意見書と符合している。これは一面朝廷に向かって、寛裕、公平に、二条摂政、徳川内府等を措置せんことを勧告すると同時に、他面には岩倉、薩摩藩に対しての抗議である。而していわゆる『衆議の帰す所』は、山内容堂にとりても、彼らにとりても、その尤も味方とする所にして、彼等が公議もしくは衆議の一点張りもて、その楯(たて)ともなし、矛(ほこ)ともなし、これを以て最上唯一の武器としたるは、如何に多数が、彼等の味方であったかがわかる。
…もし、今日の議事法もて之を律せば、諸藩会議の結果は、おそらく穏和党の勝利に帰したであろうと察せられる
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/214

薩長にとっては幕府方の会津桑名兵を挑発して、両藩を叩くことで旧体制を粉砕する目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで方針転換を余儀なくされることとなった。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

一方、徳川慶喜は、巻き返しをはかるべく様々な手を打っている。

鈴木荘一氏は『開国の真実』で、こう解説している。
「慶喜は既に12月9日頃、京都から江戸に急報を発し幕府陸軍部隊と幕府海軍の艦隊に来援を命じている。いずれも幕府が手塩にかけて育てた陸海の精鋭である。大坂城へ入った後も、慶喜は大坂から江戸に急使を遣わして更なる援軍を要請し、シャノワン等フランス軍事教官団にも大坂城への参集を求めた。援軍の要請を受けた江戸では緊迫した京都情勢が充分に伝わっておらず、リグン部員の動員は手際よくいかなかったらしいが、開陽、富士山丸、蟠龍丸など新鋭軍艦は12月下旬頃までに大坂港に集結したようだ。こうして慶喜は、大坂城を拠点として軍事的優位の確立を図った
 徳川慶喜は外交面でも手を打った。12月16日、イギリス、フランス、オランダ、プロシャ、イタリアの六ヶ国の公使を引見し、その席で小御所会議の結論を非難し、
『旗本・譜代諸藩は薩長の暴戻の罪を責め『兵を挙げる外なし』と自分に迫るが、自分から乱階を開くのは好ましくないから、ひとまず下坂した。自分は全国民と同心協力して正理を貫こうと願っているので、諸外国は日本の内政に干渉してはならない。自分は外交責任者として外国との条約を守る』
 と自分の立場を述べ、徳川政権の正当性を諸外国に認めさせた。国際社会から認められた政権が正統政権とみなされる。徳川慶喜はこうして岩倉具視や大久保利通等に対し外交的勝利を勝ち取った。

『納地』の問題も、大久保利通等の『徳川家の領地をすべて取り上げる』という主張はうやむやになってしまい、結局、徳川家と諸大名が所領の一定割合を朝廷費用のために献上する、という話にスリ替わった。しかも献上する費用の分担率は、徳川慶喜が主宰する諸大名会議で決定する、というように骨抜きとなった。こうなれば幕府にとって実害はない。
徳川慶喜は朝廷からの『辞官納地の諭書(さとししょ)』への返事として、ためらうことなく諒解の意思を示し、『辞官の儀は前内大臣と称すべく、政務御用途の儀は天下の公論を以て御確定あそばさるべし、との御沙汰の趣、謹んで承りぬ』
との『請け書』を朝廷に提出した。暮も押し詰まった12月28日のことである。」(同上書 p.323-324)

大阪城

このようにして徳川慶喜は二条城から大坂城に移って見事に巻き返しに成功したのだが、その後なぜ武力解決派が勢いづいたのか。その点については、大坂・京都から江戸に視点を移す必要がある。

当時幕府の幹部は大坂に詰めていて、江戸には佐幕藩の藩兵が市中取締りの警護にあたっていた。
一方薩摩藩は三田の薩摩藩邸を根拠地として倒幕・尊王攘夷の浪士を集めて、放火や掠奪・暴行を繰り返して幕府に対する挑発行為を繰り返していたという。

鈴木荘一氏の解説を続けよう。
「慶喜の大政奉還によって武力討幕の名分を失った西郷隆盛は、江戸市中攪乱により武力討幕のきっかけを作ろうとした
 相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。…
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だったこと
である。」(同上書 p.325-326)

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、幕府より薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたために強く取り締ることはしなかったのだが、それを良いことにして薩摩藩の非合法活動が一段と活発化していく。

「12月22日夜、江戸市中警護に当たっていた庄内藩屯所が銃撃された。翌23日未明には江戸城二の丸で不審火があり、薩摩藩の仕業による放火と噂され、同夜、三田の吹貫亭という寄席で休息中の庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれる事件があり、薩藩浪士の仕業と見られた。
 幕府の弱腰を哄笑するような薩摩浪士の相次ぐ挑発に、隠忍自重してきた幕府も遂に堪忍袋の緒が切れ、老中淀藩主稲葉正邦は酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じた。
 庄内藩兵、上ノ山藩兵、岩槻藩兵、鯖江藩兵等からなる幕府軍は、12月25日早朝、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟薩摩藩邸への攻撃を開始した。薩摩藩邸焼打ちである
。」(同上書 p.326-327)

薩摩藩邸焼打ち
【薩摩藩邸焼打ち】

京都では徳川慶喜が幕府軍から戦端を開くことを決して許さなかったのだが、江戸の幕府軍は何度も繰り返される薩摩の挑発に乗って、薩摩藩邸を攻撃し焼打ちしてしまったのである。

事件の詳細が大坂城に伝わったのは12月28日で、この時徳川慶喜は、薩摩討つべしと沸きあがる城内の声を抑えることができなかったようだ。

『昔夢会筆記』

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第66巻』に、慶喜の回想録である『昔夢会筆記』が引用されている。

「此の時予(慶喜)は風邪にて寝衣のまま幕中にありしに、板倉伊賀守来りて、将士の激昂大方ならず。此のままにては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶うまじき由を反復して説けり。

予は『此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ』と制止したり。…
 されども、板倉、永井等は、頻りに将士激動の状を説きて『公もし飽くまでも其の請を許し給わずば、畏けれども公を刺し奉りても、脱走しかねまじき勢いなり』という。予は…制馭力の及ばざるを嘆ぜしが、江戸にて藩邸を討ちし後は、尚更城中将士の激動制すべからず。遂に彼らは君側の姦を払う由を、外国公使にも通告して、入京の途に就き、かの鳥羽・伏見の戦いを開きたり。
…予は終始大坂城中を出でず、戎衣をも着せず、唯嘆息し居るのみなりき。此の際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも、今にていえばこそあれ、当時の有様にては、実にせんすべも尽き果てて、形の如き結果に立ち至りしなり
。」(『昔夢会筆記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/162

このように慶喜は、この時も戦うことを望まなかったようなのだが、周囲がそれを許す状況ではなかったために、京に向かって薩摩を討つことを認めてしまったという。

しかしながら、幕府軍は動かなくとも武力解決派を追い詰めることは可能であったはずだ。

福地源一郎
【福地源一郎】

海外留学を経験した福地源一郎は29日に、同志を代表してこのような意見書を若年寄の平山省斎に提出している。
「…唯今の如く、阪城に御座あって、海は軍艦を以て兵庫、大阪の両港を封鎖し、陸は西宮より街道に沿いて胸壁を築き、淀川の通路を止め、守口、枚方に堡寨(ほうさい:とりで)を築かせて、厳に之を守りたまうべし。然る時は京都に駐在せる薩長の兵は、居ながらにして屈し、戦わずして走るか、然らずば討て出るに相違なし。是れ上策と仕り候う
 もしこの策を御採用なくば、将軍家には断然直ちに御東帰遊ばされ、阪城には伝習兵ならびに会・桑の逞兵を置かれて留守せしめ、枚方を限りに備えを厳にし、淀川を扼し、軍艦を以て摂海の出入りを止めらるべし。是れ関以西を敵地と見做してその動静に応じ、逸を以て労を俟つ謀にして中策と仕り候うなり。
両條とも御採用なされ難くて、是非とも引兵御上京との御議ならば、鳥羽、伏見、淀の諸所に兵を分て、分期攻入の策は尤も宜しからず。須らく山崎街道の一口より突入たまうべし。京都へ攻め入るの用兵道路はこの外に候わず。是を下策と仕り候うなり。只今の御軍配の如きは、殆んど無策と候えば、右三策の内を選びあそばさるべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/164

平山省斎
【平山省斎】

福地の意見の通り、兵庫と大阪の両港を封鎖し、街道の通路を止めれば京都の武力解決派はそのうち干上がっていたはずだったのだが、大坂城中は主戦論一色でこのような意見を相手にする者がおらず、福地は「死を決して」この意見書を平山省斎に提出したという。しかしながら、この平山という人物は強硬な主戦派で、出した相手が悪すぎたようだ。

幕府には人材はいたのだが、慶喜の周囲に冷静に戦略を練ることができ、慶喜を支える知恵者がいたのだろうか。
もし福地源一郎のような人材が慶喜の近くに仕えていて、慶喜が早い時点からその意見を取り入れて京都を経済的に締上げ、かつ武力解決派の挑発に最後まで乗らなかったとしたら、その後のわが国の歴史は随分異なるものになっていたかも知れない。

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