HOME   »  徳川家宣
Tag | 徳川家宣

徳川綱吉の『生類憐みの令』を悪法とする通説が見直されているのはなぜか

徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』を調べていると、教科書の記述が学生時代に学んだ内容と随分ニュアンスが違ってきているのに驚いた。

たとえば『もういちど読む 山川日本史』では、次のように解説されている。

江戸時代の悪法の代表とされてきた生類憐みの令は、近年見直しがすすんでいる。犬の愛護はそれまで食犬の風習や野犬公害の多かった江戸とその周辺で推進されてきたが、全国的には捨牛馬(すてぎゅうば)の禁止が重視された。また、法の対象は、捨子、行路病人、囚人などの社会的弱者にもおよんでおり、人を含む一切の生類を幕府の庇護下におこうとしたのである。これは殺伐な戦国の遺風を儒教・仏教により払拭することを政治に反映させようとする政策の一環であった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.164-165)

徳川綱吉 土佐光起筆 徳川美術館蔵
【徳川綱吉】

昔から綱吉の治世の前半は善政(「天和の治」)を行ったとしてそれなりに評価されているのだが、後半については側用人牧野成貞や柳沢吉保を寵用して奢侈生活に耽り、さらに悪法として知られる『生類憐みの令』で人々を随分苦しめたと解説されることが多かった。

ブリタニカ国際大百科事典には、『生類憐みの令』について次のように記されている。

「江戸時代,5代将軍徳川綱吉が行なった生類殺生禁止令。綱吉は嗣子徳松の夭折以来,盛んに求子の祈祷をしたが効果はなかった。そこで,生類の殺生を禁じ,戌年生れのため特に犬を愛護すれば,前世での罪障を消すことができ,子も授かるという真言僧隆光の言をいれて,貞享4 (1687) 年これを発令,その死まで励行された。犬に対する愛護は極端で,元禄8 (95) 年江戸中野,四谷,大久保などに犬小屋を建てて犬を養い,その費用を江戸町民に課した。違法者に対する刑罰はきびしく,切腹や遠島もしばしば行われた。この令は綱吉の儒仏愛好心と側近らの迎合主義から生じたもので,悪政の評判が高く,綱吉は「犬公方 (いぬくぼう) 」と呼ばれた。
https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4-79995

このような解説を今まで何度聞いてきたかわからないのだが、そもそも綱吉の悪評は、これまでどのような書物を根拠にしていたのであろうか。いくつかあるようだが、当時に記された『三王外記(さんのうがいき)』という書物を紹介したい。

三王外記
【三王外記】

国立国会図書館のデジタルコレクションに徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第17 元禄時代 上巻 政治篇』が公開されていて、そこに『三王外記』が引用されている。そこにはこう記されている。

「王太子(徳松)を喪うてより、而して後、後宮また子を産む無し。乃(すなわ)ち萬方嗣を求む。僧隆光(りゅうこう)進言して曰く、人の嗣に乏しき者、みなその前世多く殺生(せっしょう)の報いなり。故に嗣を求むるの方、最も生物を愛し殺さざるより善きはなし。殿下まことに嗣を求めんと欲せば、なんぞ殺生を禁ぜざる。且つ殿下丙戌(ひのえいぬ)を以て生(うま)る。戌は狗(いぬ)に属す。最も狗を愛するによろしと。王これを然りとす。太后(桂昌院)また隆光に聴き、王のためにこれを言う。王曰く敬諾。乃ち殺生の禁を立て、愛狗の令を都鄙に下す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/118

綱吉の長男徳松がわずか5歳で亡くなったのは天和3年(1683)の閏5月のことだが、それから4年間も将軍には子が生まれなかったのである。そこで僧隆光に助言を求めに行って『生類憐みの令』を出すことになったとあるのだが、この『三王外記』に書かれていることは正しいのであろうか。

調べるとこの隆光という人物が知足院の住持として江戸に滞在するようになったのは貞享3年(1686)なのだが、綱吉の生類憐み政策はそれ以前から始まっていたのである。

では、綱吉はいつごろから生類憐み政策を開始しているのだろうか。Wikipediaには以下のような指摘がある。
天和2年10月(1682年)、犬を虐殺したものを極刑にした例。辻達也はこれを生類憐み政策のはしりとしている。ただし、寛文10年代にも許可なく犬を殺すものは処罰の対象であり、犯人は追放や流罪に処されており、各藩においても犬殺しは重罪であった。」
貞享元年(1684年)、会津藩は老中から鷹を献上する必要がないという通達を受けているが、この際に幕府が「生類憐乃事」を仰せだされた時期という言及がみられる。根崎光男はこの記述から貞享元年5月から6月ごろにかけて、何らかの生類憐れみに関する政策が打ち出されていたと見ている。」
貞享2年2月(1685年)、鉄砲を領主の許可なしに使用してはならないという法令
貞享2年7月14日、将軍の御成の際に、犬や猫をつなぐ必要はないという法令
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4

これらを読むと、僧隆光の助言によって綱吉が生類憐み政策を始めたのではないことがわかる。しかしながら、一般の町人や百姓の生活に深くかかわるような法令がたて続けに出されるようになるのは貞享四年(1687)からのことなのである。

『生類憐みの令』は1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類憐み政策の諸法令の総体であるのだが、具体的にはどのような命令が出されていたのかは、江戸幕府の公式記録である『徳川実記』の巻十五の貞享4年1月から3月の記録からある程度推測することが出来る。原文は次のURLのページだけでもいくつか出ているので確認していただくことにして、いくつか意訳して記しておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772968/127


1月28日
すべて人宿または牛馬宿その他にても、生類わずらい候えば、いまだ死せざるうちに捨てることがよくあるようだが、そのようなことをする不届き者は厳しくお咎めがあるべきであり、そのようなことをする者がいたら密かに訴え出るべし。
2月16日
各所の放鷹の地にて夏冬によらず忍びて鷹をつかい、餌差と言われる者が来て殺生すれば、検察してその者のあとを追うて預けおき、速やかに訴え出るべし。
2月21日
飼い犬の毛に印をし、もし犬が見つからないときはどこかから別の犬を連れてきて数合わせするとの風聞がある。人々に生類を愛し養うよう何度か命じているのだが理解されていない。今後は飼い犬が見当たらないときは尋ね出すべし。もしなおざりにするものがあれば、訴えよ。他所よりきた犬がいた場合は、そこで養いおき、持主がわかり次第返してやるべきである。
2月27日
食物として魚・鳥を蓄養して売買することは、今後固く禁止するべきである。鶏や亀も同様である。ただし慰めとしての飼うことは許す。
3月26日
生きた鳥類を飼うことは禁止すべきである。ただし鵞鳥や唐鳥のように、野山に住まない鳥は、放しても飢えてしまうので飼うことはかまわない。卵を産む間は良く育てて、それぞれ所望の方へ遣わすべきこと。鶏を絞め殺して売買することはあってはならない。亀を買うことも一切禁止する。笱を設けて魚を貯えて売ってもいけない。

このように、僧隆光が江戸に滞在するようになった翌年初から、たて続けに生類憐み政策が出されていることがわかるのだが、隆光自身による『隆光僧正日記』には、将軍や桂昌院にそのような助言をした話は何も記されていないのだという。
『三王外記』は、今でいう三流週刊誌のようなもので根拠のないゴシップ記事が多く、信頼性が乏しいと評価されているようなのだが、とすると江戸幕府の公式記録である『徳川実記』に記されていることも信用できないのであろうか。

前掲の徳富蘇峰『近世日本国民史. 第17』には、貞享4年1月以降に処罰された人々の記録が引用されている。

当時の歌学者・戸田茂睡の日記『御当代記』によると、貞享4年2月に台所頭天野五郎大夫正勝が猫二匹が死んだことで八丈島に遠流されたという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/119
また4月には犬を斬った人物も八丈島に流された。(『徳川実記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/120
6月には吹屋で燕を射た人物の一人が死罪、一人が遠流せしめられたという。(『御当代記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/121

徳富蘇峰はこのような事例をいくつも紹介したうえで、以下のようにまとめている。

「貞享4年正月、生類憐愍の令を布いてより、宝永6年正月、綱吉の死する迄、足掛け23年相食べ、正味22年間、生類憐愍の政治は、未だ一日も休止することなかった。極言すれば、此の二十有余年間、綱吉は人類の為でなく、むしろ畜類の為に、将軍職にあったのではないかと、思わしむる迄に、此のことに没頭した
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/123

綱吉は戌年生まれであったことから犬を特別に愛護して、「御囲(おかこい)」、「御犬囲」と呼ばれた犬屋敷が各地に設置され、特に元禄8年(1695)に完成した中野の犬小屋全体の御用地は29万7652坪にも及び10万匹もの犬を収容して「中野御用御屋敷」と呼ばれていたそうだ。

綱吉の晩年はさらにエスカレートしている。
宝永2年(1705)には牛馬に重荷や嵩高いものを負わせることを禁じている。
また宝永4年(1707)にはウナギやドジョウの販売を禁止していたところ、あなごと名付けてウナギを売っていた人物を獄につないでいる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/124

こういう記録を読むと、綱吉を名君とは考えにくいところなのだが、最近では綱吉を評価する論者が少なくないのは何を根拠としているのか。

当時江戸の町中には多数の犬がうろついていて、町民の生活にトラブルを発生させていたのみならず、無頼な連中が犬を捕まえて食らっていたという。綱吉は犬の収容所を作り、無頼者を大量検挙することで治安を回復させ、人々から歓迎されたという文書も少数ながら存在するのだという。

誤解の日本史

また井沢元彦氏は『「誤解」の日本史』で、別の視点から綱吉の時代を評価しておられる。

「私はよく、生類憐みの令というのは『劇薬』だったと表現しています。法律としては、一言で言えばむちゃくちゃな法律です。人間どころか動物を殺しても死刑になるということがあったというのですから、実際の所、非常に問題の多い法律だったはずです。
 しかし、実は法律の陰に隠れているのは『生命の尊重』という基本思想でした。そして、蚊一匹殺しても下手をすると遠島になるような、そういうむちゃくちゃな法律を施行したことによって、日本人の意識は劇的に変わっていったのです。
 『人を殺すなんてとんでもない』という風潮ができたのは、この法律ができたあとのことです
。人を殺すのはとんでもない悪事であるという意識の中に、われわれ現代人は生きています。我々の日常的な倫理の中に、そうした意識は深く根を下ろしています。ところが戦国時代は、人を殺すことが功名だという意識を以て、世の中は動いていました。
 日本人の意識の大転換が起こったのは、実は綱吉の時代なのです。
 だから私に言わせれば、綱吉は相当な名君なのです
。」(PHP文庫『「誤解」の日本史』p.248-249)

たしかに、こういう視点から綱吉の時代を考えることも必要であろう。綱吉が生類を憐れみ政策を22年間徹底し続けたことで、生きとし生けるものを大切にする考え方が日本人に広く定着したという指摘は正しいと思う。

とは言いながら、『徳川実記』を読んでいると、綱吉の時代を生きる多くの人々にとっては、息苦しい日々が続いていたと考えざるを得ない。
綱吉は病床で自分の死後も生類憐みの令を続けることを遺言していたそうだが、没してからわずか10日後の宝永6年1月20日に、時期将軍となることを約束されていた家宣により生類憐みの令が廃止されたという。

徳川家宣
【徳川家宣】

『徳川実記』には綱吉の遺言を守ろうとしなかった家宣の言葉としてこう記されている。
「生類あわれみの事は、先代のごとくいよいよ守るべき御むねといえども、それにより下民、艱困するよし聞こし召したれば、いまよりの後おのおの心を入れ、このことによって下民の愁いとならず、刑法もたち、罪の出でくることあるまじくはからうべし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772969/9

綱吉の葬儀は1月22日であったのだが、葬儀の前に廃止してしまえば前将軍が自分で法令の廃止を決めたという体裁を整えることが出来る。
この案は次期将軍家宣側近の新井白石の知恵だとされているが、そのおかげで奉行所に捕らえられていた未決犯が解放され、後に罪人に対する恩赦も行われ、中野にあった犬囲いも廃止されたというのだが、山室恭子さんの『黄門さまと犬公方』によると、家宣の言葉を聞いた柳沢吉保の日記『楽只堂年録』には『徳川実記』と異なることが記されているという。

「一月二十日、間部詮房と一緒に老中に申し渡すようにと、次のような新将軍の仰せを承った。生類憐れみのことについては、先代がお心にかけられたように、いずれも遵守して断絶なきようにせよ。ただし万民が苦しまず、咎人を出さず、町屋も困窮せず、奉行所も煩わされないよう、万事穏便に済ませるべく心がけよ、と。」
https://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/33030071.html

新井白石

実際に市中に触れ出された通達の文面である『宝永日記』にも同様の事が記されていて、明らかに『徳川実記』と矛盾するのである。
そして山室恭子さんは前掲書で、この矛盾の原因が新井白石にあることをつきとめているのだそうだ。新井白石は第6代将軍家宣を支えたことで知られるが、その自伝である『折りたく柴の記』の序文には家宣の事蹟を少しでも後世に伝えたいという思いが記されている。

先ほど紹介した通り、江戸幕府の公式記録である『徳川実記』には、次期将軍の家宣が綱吉の遺言を堂々と破ったことになっている。ならば、家宣の判断が正しかったことを記すためには、綱吉の生類憐み政策を貶める書き方にならざるを得なくなってくるだろう。
だとすれば、『徳川実記』をそのまま鵜呑みにしてしまっては、真実から遠ざかってしまうことになりかねないのだ。

そもそも5代将軍綱吉の治世に元禄文化が花開いたのだが、人々がビクビクして暮らしていたり政治に不満をもっている時代に、そのような洗練された香りの高い文化が形成されることは考えにくいと思うのだが、読者の皆さんはどう判断されますか。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
綱吉の時代に赤穂浪士の討ち入りがありました。興味のある方は覗いてみてください。

浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-149.html

赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-150.html

赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-151.html

江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-152.html

赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-153.html







関連記事
FC2カウンター
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
QRコード
QRコード
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
Kindleストア
旅行・出張






グルメ
よく使っています


スピードクーラー
レンタカー

おすすめ商品
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (上位500)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログサークル
    ブログサークル
    ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    楽天Kobo電子書籍
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史















    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。