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薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス

元治元年(1864)3月にフランスの新公使ロッシュが日本に着任した。この人物は、前任のド・ベルクールがイギリス追随であったのに対し、イギリスと対抗しようとする姿勢で臨んでいる。

ロッシュ
【フランス公使 ロッシュ

鈴木荘一氏の『開国の真実』にこう解説されている。

ロッシュは、着任早々、幕府首脳陣に対し、
『アヘン戦争がはっきり示しているように、イギリスは工業製品の市場を拡大するためには他国を侵略して顧みない。これにひきかえフランスは天然の資源に富み、芸術・科学もそうであるように、軍事上でも偉大な、しかも正義を愛する国である』
と公言した。
当時57歳、老練な外交官ロッシュの指摘は、宣伝臭があるにしてもなかなか鋭い。
ロッシュは、就任早々から大見得をきってイギリスと一線を画し、イギリスに対抗した独自の対日政策を打ち出したのである。
当時、アメリカは南北戦争の終盤で対外的意欲はなく、ロシアもクリミア戦争でイギリス・フランス連合軍に負けたのち農奴解放問題など国内矛盾を抱えて対外的覇気は無く、世界の覇者イギリスに対抗しようという『元気印』はフランスぐらいだった。しかもフランスには『条約の締結相手であり日本の正統政府である徳川幕府と親交を深める』という大義名分があった。
また当時、対日貿易はイギリスが圧倒的なシェアを占め、フランスはアメリカ、オランダにも劣後していた。フランスにとってこの改善も課題だった。

とくに貴婦人が装う高級絹織物で世界一の生産量を誇ったフランスは、我が国の東日本で産出される高品質の原料生糸や蚕卵紙の独占的確保を希望した。…
フランスは貴婦人の為の絹織物工業という平和産業に必要な原料生糸を我が国から輸入しようとし、イギリスはわが国へ人殺しの道具である武器を輸出しようとした。
こうした通商政策の相違が、イギリスとフランスの対日政策の対立となったのである。」(『開国の真実』p.289-291)

しかもイギリスが我が国に輸出しようとした武器は極めて殺傷力の高い最新鋭のものであり、しかもそれを我が国の正統政府である幕府ではなく、それに敵対する薩摩藩、長州藩に輸出していたのである。
もし、イギリスが支援する薩摩藩・長州藩が、最新鋭の大量の武器で幕府を倒すことになれば、イギリスが対日貿易を独占してしまい、フランスは日本市場から締め出されることになりかねない。

イギリスを牽制するために、慶応元年(1865)5月にイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表を集めて、わが国に対する内政不干渉・密貿易禁止などを定めた『四国共同覚書』を取り交わしたのだが、イギリスはその取り決めを守らず、その後も薩摩藩・長州藩への武器輸出を続けたのである。

前回の記事で記したとおり第二次長州征伐は幕府軍が大軍を擁しながら三十六万石の長州藩に敗れてしまったのだが、徳川幕府はその直後の8月に、旗本の刀と槍を捨てさせて全員に銃を携行させ、少数精鋭で攻撃力強化をはかる軍制改革を断行した。

フランス軍事顧問団
【フランス軍事顧問団】

将軍徳川慶喜はフランス公使ロッシュの勧めでフランスから陸軍軍事教官を招き、軍の教育を要請している。再び鈴木荘一氏の解説を引用する。

「当時、フランスはナポレオン3世の時代で、全欧州を席巻したナポレオン1世の時代ほどではなかったが、それでもなお有力な陸軍国だった。慶応3年(1867)2月フランス陸軍士官シャノアン、ブリュネー以下18名の教官が来日し、横浜に設けられた伝習所で歩兵・騎兵・砲兵の教育が開始された。フランスから士官と兵士の軍服類も日本へ送られ、旗本たちはこれを着用した。その後、伝習所は江戸郊外の駒場野に移された。慶応3年(1867)6月には陸軍幹部養成のための三兵(歩兵、騎兵、砲兵)士官学校創設が決まり、旗本の子弟で14歳から19歳までの志願者を募集した。
 こうして徳川慶喜は慶応3年(1867)年末には歩兵7個連隊、騎兵1隊、砲兵4隊、計1万数千人の近代的陸軍を整備した。」(同上書 p.295-296)

Franco-JapaneseInfantryTraining.jpg
【幕府歩兵の調練風景 Wikipediaより】

かくして徳川幕府は、討幕勢力から畏怖されるまでに武力を整えたのだが、イギリスが長州藩を支援して上海―下関ルートで武器の密輸が行なわれていることを咎めることができない事情があった。

「…イギリスは『世界の覇者』である。幕府に、イギリスの不法行為を非難する力は、到底なかった。だから幕府は、イギリスと直接対決しないように細心の注意を払いながら長州藩を膺懲しようして、第二次長州征伐に踏み切り、あえなく返り討ちにあった。
 第二次長州征伐での幕府軍の敗北は、結局、長州藩とイギリス商人達の武器の密貿易を容認する結果となったのである。
 通商条約は『下関の開港』も『幕府以外の者による運上所への無届け武器輸入』も認めていない。
 それなのに世界の覇者イギリスは、通商条約違反を先頭に立って行っている

 …
 幕府はこの問題を軍事力によって解決する選択肢を持ち得なかった。
 第十五代将軍徳川慶喜は、この難問を外交によって解決するしか無かった。問題の焦点は、
『イギリスが、開港場以外の下関で、幕府以外の者に対する無届け武器密輸を行なっている』という『通商条約違反』である

しかし幕府にはイギリスの通商条約違反を強く論難できない事情があった。
それが、『兵庫開港問題』であった。
井伊大老が調印した通商条約は『兵庫開港』を定め、その実施時期はロンドン覚書により、『慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)まで』と対外公約していた。
しかし兵庫開港は朝廷から勅許が下りず、暗礁に乗り上げたまま手付かずの状態
にあった。

朝廷から兵庫開港の勅許が下りず『兵庫未開港という通商条約不履行』のままでは、幕府としても、『イギリスの通商条約違反を強く論難することは出来なかった』のである

だからパークス*は、幕府に兵庫開港を強く要求しつつ、一方ではイギリス商人達の『下関での密貿易という通商条約違反』を臆面もなく黙認した。」(同上書p.298-299)
*パークス:イギリス公使

この問題の解決のため、フランス公使ロッシュは幕府に対して兵庫開港の決断を促す書状を出している。慶応3年(1867)3月に徳川慶喜に謁見の際にロッシュが言上した内容が『徳川慶喜伝 巻3』に記されていて、この本は『国立国会図書館デジタルコレクション』に収められているので、誰でもネットで読むことができる。

条約は必ず履行せざるべからず。これを履行せざるは、政府が外交を好まざるか、または微力にして決行する能わざるかの二つにもとづく。外国政府はその目的を達せんがため、もし前者ならば兵力に訴うべく、後者ならば有力の諸藩と交を結ぶに至るべし。…薩長二藩はすでに英国と通じて公然幕府に反抗せんとす。この際宜しく処分の法を定めて、兵庫と新潟の代港を開き、江戸・大坂は人心不居合の故をもって注視し、更に下関・鹿児島の二港を開くべし。しからば二藩が流布したる幕府外交を好まずと言える説は自ずから消滅せん。また二藩にして領内の開港を拒まば、その奸計は暴露すべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953148/284

徳川慶喜
【徳川慶喜】

ロッシュの提案は、薩長の先手を打って幕府が兵庫を開港し、日本国の外交の主導権が徳川幕府に存することを諸国に示すことなど多岐にわたるが、徳川慶喜はさすがに下関・鹿児島の開港には賛同しなかったものの、兵庫の開港については対外公約したものであり、履行することをロッシュに明言し、すぐに行動に移している。

慶喜は4月に兵庫開港の勅許を朝廷に要請し、勅許が下りない状態で5月に四国(英仏米蘭)公使と正式に接見し、兵庫開港後の規則などを協議している。この接見は外国側に好印象を与えたことが記録されているようだが、慶喜が諸外国と親密な関係になることは、討幕勢力に肩入れしているイギリスにとっては望ましいことではなかったはずだ。

『国立国会図書館デジタルコレクション』に大熊真氏が著し昭和19年に出版された『幕末期東亜外交史』という本がある。その本に、その頃のイギリスと薩摩の動きが記されているので紹介したい。

幕末期東亜外交史

「慶喜の四国公使接見は、外国側に非常な好印象を与えた。諸公使の記述は、その点で一致している。『大君*陛下は31歳で極めて交換を持たせる容子の持主であった…』とファンケンブルグ**は慶喜をほめそやし、サトウ***も『彼は余の見たうちで最も貴族的な容貌をしていた。その額は高く、その鼻は姿よく隆起し―申し分なき紳士であった…』といっている。こうして諸国と幕府とが、しっくりと結び合おうとしている形勢が、薩長にとっては焦慮の的となった。この前後、サトウは、西郷隆盛らの訪問を受けた。サトウは書いている。
余は西郷に言った。革命の機会を逃してはいけない。もし兵庫が開かれてしまったら、諸大名にとっての機会は永遠に去るであろう。』(Satow, Diplomat, p.200)
 兵庫・大坂が幕府の手で開かれてしまえば、その地の平和と安全とは、諸外国の関心事となるから、これらの土地の争奪、これらの土地での戦闘は、諸外国が、艦砲と陸戦隊との力にかけて、防止するであろう。…サトウは、そういうことを念頭において、西郷らに『やるなら今のうちだ、機会を失すれば、諸侯はつぶされるぞ』と警告したのであろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/139
*大君(タイクーン):徳川幕府将軍
**ファルケンブルグ:アメリカ公使
***サトウ:イギリス公使館の通訳官のアーネスト・サトウ


そして慶喜は、慶応3年(1867)5月23日の朝議の場で、兵庫開港の勅許を要請した。

慶喜は勅許を得るまでは帰らないことを決心して朝議に臨み、夜8時より始まった会議は翌朝まで続いたが結論が出ず、さらに翌日の夜まで続いたという。朝彦親王御日記によると、朝議の時間がかかった主な理由は、近衛忠熙、近衛忠房の父子が薩摩藩の意見を確認するためにことさらに議論を引き伸ばし、近衛忠房は非蔵人口で薩摩藩士と談合していたというのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228700/72

しかしながら慶喜は一昼夜の議論に打ち勝って、24日の夜8時になって兵庫開港の勅許を獲得している。

開港したばかりの神戸港
【開港したばかりの神戸港】

慶喜は6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出している。

かくして徳川慶喜はフランス公使ロッシュの献策のとおり、兵庫開港の勅許を得て井伊大老の調印した通商条約の不備を補完し、これによって諸外国からの苛烈な要求を封じることができたのである。しかしながら、アーネスト・サトウが西郷に語った「もし兵庫が開かれてしまったら、諸大名にとっての機会は永遠に去る」ということにはならなかった。
その点については次回以降に記すことにしたい。

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フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか

前回の記事で、フランス公使ロッシュの献策により、慶応3年(1867)5月に朝議の場で徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得、井伊大老の調印した通商条約の不備を補完して対外公約を果たし、これにより幕府は、諸外国から苛烈な要求をする原因を封じることに成功したことを書いた。

徳川慶喜はその2ヶ月前に大坂で各国の公使と謁見しその席で兵庫開港を確約したのだが、この時の慶喜は各国公使に好印象を与え、これまで討幕勢力を支援してきたイギリスの公使・パークスも慶喜を高く評価して次のような感想を書きとめている。

イギリス公使・パークス

わたしは将軍がどのような地位をしめることになろうと、可能な限りかれを応援したいと思っている。」
「この大阪訪問によって、とりわけつぎのような好ましい結果が生まれることを、わたしは信じて疑わない。それは、われわれ諸外国の代表が、以前よりもいっそう深い関心を将軍に対してもつようになることである。」
じっさい、将軍は、これまでわたしが知り合った日本人の中で、もっともすぐれた人物であるように思われる。おそらく、かれは、歴史にその名をとどめることになるであろう。」
(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4 慶喜登場』p.409より)

これまで討幕派を支援していたイギリスの公使が、徳川慶喜という人物に謁見した途端に幕府・将軍に心を寄せることになることは、薩長にとっては面白くないことであることは言うまでもない。

この謁見のあと、西郷隆盛らがイギリス公使館の対日政策に関わっていたアーネスト・サトウを訪ねている。サトウの著書にはこう記されている。

アーネスト・サトウ

「私は、西郷やその一派の人々の訪問をうけたことを覚えている。彼らは、我々と将軍との接近について、大いに不満であった。私は、革命の機会がなくなったわけではないことを、それとなく西郷に言った。しかし、兵庫が一たん開港されるとなると、その時こそ、大名は革命の好機を逸することになるだろう。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.255)

慶喜は慶応3年(1867)6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出しているのだが、いったん兵庫港が開港されて外国人が居留するようになれば、諸外国は平和を求めることになり、薩長の討幕運動は外国からの支持を得られなくなってしまうことをサトウは西郷らに伝えたのであろう

その後の薩摩藩の動きを見ていると、このサトウの言葉に触発されたことが窺えるのだ。
徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得ようとした5月の朝議(四候会議)で結論を先延ばしにする工作を行っていたのだが慶喜に押し切られてしまい、その会議の直後に薩摩藩は武力討幕の方針を固めている

一方徳川幕府は、前回記事で記したとおり、フランス陸軍の指導により近代的陸軍を整備していた。幕府軍は第二次長州征伐で大敗した頃とは様変わりしており、フランスはこの軍隊で薩長を倒すことを考えていたようである。

慶応3年(1867)8月に薩摩藩の西郷隆盛らが再びアーネスト・サトウを訪ねてきた際に、サトウが西郷らに話した内容が前回紹介した『幕末期東亜外交史』に出ている。フランスは、イギリス大使のパークスが慶喜びいきになったのを見て、共同で薩長を倒そうとサトウに持ちかけてきたというのだ。その本にはこう記されている。

仏人はサトウに、幕府の薩長取り潰しを仏英協力して援助してやろうではないかと、話を持ち掛けてきた。サトウは『串戯(じょうだん)でしょう。長州一藩さえ抑え切れぬ幕府など、援助しようにも方法がつかぬではないか。』とやりかえしたので、仏人も二の句がつけなかったようなわけです。しかしかかる論を公然とイギリス人にもちかける位ですから、フランスは、きっと幕府を援けて、諸侯をつぶす策をめぐらしていることは勿論で、幕府は『両三年のうち、金を集め機械を備え、仏(フランス)の応援を頼み、戦を始め候所存』とみえる。その時は、仏は、軍隊をくり出して幕府を援助するだろうから、諸侯の方でも、仏に負けない大国を背後に備えないと、危ないことになろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/141

「仏に負けない大国」とは、イギリスを指していることは言うまでもない。
そうサトウが述べた後に西郷らに対してイギリスに相談したいことがあれば言ってもらいたいと持ちかけた際に、西郷隆盛が語った有名な言葉がある。
日本政体変革の処は、いずれとも、我々尽力致すべき筋にて、外国の人に対し、面皮もなき訳と返答いたし置き申し候。」
要するに、日本の革命はわれわれ自身の手で行うことをサトウに宣言したのだ。

西郷隆盛

西郷が国許の桂に宛てた手紙に、この会談でサトウが西郷らに何を言い西郷がどう考えたかについて、こう記録されている。
譬(たと)え仏の援兵を相発し候時は、英国より押し付け候儀は相調(ととの)い申すべく、その節は英国においても戦争のため警護出兵いたすと申し触らし、同敷(おなじく)軍兵を差し出し候えば、必ず仏国の援兵は差し出し候儀は相叶い申さず候に付き、右のご相談も候わば承るべしと、却(かえ)って彼(サトウ)の方より申し出候に付、是は大幸の訳、其の時機に至りては御相談申すべしと相答え候ては、又英国に使役せらるる訳に相成り候のみならず、全く受太刀に落ち来り、議論も鈍り、此の末の処下鳥(したどり。負け犬というほどの意)に相成り候儀、自然の勢いに御座候故…」(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄5 外国交際』p.273-274)

サトウの言う通りに幕軍に対抗するためにイギリスの出兵を依頼してしまっては、たとえ幕府軍に勝利しても、わが国はイギリスに支配される国になってしまうことは西郷にはわかっていたのだ。しかしながらイギリスは、わが国が内乱状態に陥ることを期待していたからこそ、薩長を挑発し続けたのではなかったか。

大政奉還

そしてその2カ月後には、徳川慶喜は朝廷に政権を返上しているのだが、この時代の歴史はいくら教科書を読んでも、なぜ慶喜が大政奉還を選択したかがさっぱりわからない。

たとえば、標準的な高校の教科書である『もう一度よむ山川日本史』では、その前後の歴史についてこう記されている。

「長州再征の失敗後、徳川(一橋)慶喜が15代将軍となったが、幕府の力はすっかり衰えた。土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎らは、欧米列強と対抗するためには、天皇のもとに徳川氏・諸大名・藩士らが力をあわせて国内を改革する必要を強く感じた(公議政論)。彼らのはたらきかけで、前土佐藩主山内豊信(容堂)は、将軍慶喜に政権を朝廷に返上するよう進言した。慶喜もこれを受け入れ、1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出た。しかし同じころ、薩長両藩の武力討幕派は、岩倉具視ら急進派の公家と手をむすんで討幕の密勅をえた。そして彼らの主導によって、同年12月9日、いわゆる王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士などからなる新政府が発足し、二百数十年つづいた江戸幕府は滅亡した。」(『もう一度よむ山川日本史』p.216)

ほとんどの教科書には、イギリスやフランスの動きにも兵庫開港問題にも何も触れておらず、これではなぜ薩長が討幕を急いだかが見えてこないし、幕府と討幕派との内戦が始まってもおかしくない緊迫感が全く伝わってこない。これでは慶喜が朝廷から兵庫開港の勅許を得てからわずか5カ月で大政奉還を申し出たかが理解できないのは当然だと思う。

そもそも将軍慶喜が土佐藩の大政奉還建白を受けいれた意図はどこにあったのだろうか。

徳川慶喜

次のURLに徳川慶喜の『大政奉還上表文』の原文と現代語訳が出ている。
http://www.geocities.jp/sybrma/259taiseihoukan.html
重要なのは次の文章である。
「最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。」
内容的には、慶応4年(1868)3月に公布された明治天皇の『五箇条の御誓文』の内容によく似ているのである。

開国の真実

今まで何度か紹介した鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう解説されている。
「大政奉還1ヶ月前の慶応三年(1867)九月には、幕府開成所教授津田真道が著書『日本国制度』を提出し、大政奉還後の政治体制のあり方について論じている。徳川慶喜が考えた大政奉還とは。『自らの力で開国を成し遂げ、慶喜が中心となってイギリス型の近代的議会主義へ転換すること』だったのである。
 イギリスは、共和国のフランスやアメリカと異なり、国王を元首とする立憲君主制で、国王は『君臨すれど統治せず』の原則により政治責任をおわない。首相が政治上の指導者である
 イギリス立法府は上院と下院からなる二院制で、上院は世襲議員や僧侶から構成され、イギリスには今も貴族制度が残っている。
 だから、当時の日本が天皇制や公家制度など古(いにしえ)からのしがらみを遺しながら近代化を図るには、イギリスを手本として、天皇を国家元首とし、大君(将軍)を政治上の指導者とし、一万石以上の大名を世襲の上院議員とすれは、容易にイギリス型公議政体に移行できる。
 徳川慶喜は『刀槍の時代の次は議会の時代』と考えた
のである。」(『開国の真実』p.308-309)

アーネスト・サトウが予想していたように、徳川幕府がフランス軍の協力を得て、薩長等の討幕勢力を征伐する選択もあったのだろうが、徳川慶喜はそれを選択せず、平和的に政治体制を変革することを選んだのである。
慶喜は、大政奉還を奏上しても朝廷には政権を運営する能力も体制もないので、徳川家が天皇の下で新政府に参画すれば実質的に政権を掌握することができると考えていた可能性が高い。事実朝廷からは、上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら、緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとされている。つまり慶喜による政権掌握が実質的に続くことになったのである。

もし、慶喜が大政奉還ではなく倒幕勢力を征伐することを選択していたとしたら、恐らくイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する大規模な戦いが始まっていたことであろう。
以前にこのブログで書いたが、幕末期にわが国に大量に輸入されたミニエー銃は、従来のゲペール銃と較べ、飛距離と命中精度と破壊力が飛躍的に向上し、アメリカの南北戦争では62万人もの戦死者が出たという。
幕府軍と薩長との間で本格的な内戦が起こってしまっていたら、殺傷力の高い武器で多くの人命が失われていただろうし、国土は荒廃し人々は疲弊して、どちらが勝利しても我が国が独立国であり続けることは難しかったと考える。

英邁な徳川慶喜はそのような事態になることが分かっていたからこそ、討幕派の機先を制して「大政奉還」を奏上し、討幕の名目を奪って内乱が起こることを防ごうとしたのではなかったか。

一方の討幕派は、大政奉還に対抗して薩摩藩および長州藩に宛てて秘密裏に徳川慶喜討伐の詔書を下している。
この「討幕の密勅」について書き出すとまた長くなってしまうので、次回に記すことといたしたい。

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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
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中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
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ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
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アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
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大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか

前回の記事で徳川慶喜が1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出たことを書いたが、その同じ日に正親町三条実愛(おおぎまちさんじようさねなる)邸にて薩摩の大久保利通、長州の広沢真臣(さねおみ:当時は兵助)に討幕の密勅が手渡され、薩摩藩および長州藩はその請書を提出している。

この『討幕の密勅』はかなり過激な内容になっていて、次のURLにその読み下し文が出ている。
http://www.japanusencounters.net/restoration.html#restoration

討幕の密勅

「詔す。源慶喜は累世の威をかり、闔族(ごうぞく=一門)の強をたのみ、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めておそれず。万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)におとしいれて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕今民の父母となる、この賊にして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報ぜんや。これ朕が憂憤の在る所、諒闇(りょうあん=天皇の喪服期間)にして顧みざるは、万やむを得ざればなり。汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ。
慶応三年十月十四日、正二位・藤原忠能、正二位・藤原実愛、権中納言・藤原経之、奉る。」

簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえと天皇が命じた文書なのだが、長州藩には京都守護職の松平容保(会津藩主)とその実弟で京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を討伐する命令書も同時に下りている。

ところが、この『討幕の密勅』は正式な手続きを経て作成された詔書ではなかった。
Wikipediaによると、天皇の命令文書である詔書は次のような手続きを経て作成されるものだという。
「1.天皇は、作成された原案を承認すれば、自らの手で日付の一字を記入する(御画日)。
2.摂政・関白は、写しが送られてくると朝廷会議を開催して検討し、妥当と決すれば施行を奏上する。
3.天皇は、可の一字を記入して許可する(御画可)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85

ところがこの『討幕の密勅』は、
明治天皇の御画日も御画可も欠き、摂政二条斉敬の手も経ていないものであった。二条斉敬は慶喜の従兄で親徳川派だったため、密勅の内容を知ればこれを許さなかったと思われる。後に正親町三条実愛は、密勅は二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で、自分と中御門経之・中山忠能・岩倉具視だけが知っていたと証言している。」
とWikipediaに解説されている。

三条実愛
【三条実愛】

そもそも当事者である三条実愛自身が後日「二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で」と証言しているのだから、この詔書は本物でなかったことは明らかである
要するに、岩倉具視ら天皇の側近の一部の者が、自己の野心を遂げるために、天皇や摂政に無断で書かれたものでありながら天皇の命令であるとして広められた文書なのである。

国立国会図書館デジタルコレクションに『大久保利通文書』全10冊が公開されている。
その第二冊に慶応3年10月から明治元年の大久保利通に関わる文書が掲載されているのだが、慶応3年10月8日付で薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵の3名連名で中山前大納言*、正親町三条大納言、中御門中納言宛に『討幕の宣旨降下を請う書』と『討幕の宣旨降下を請う趣意書』を提出している
*中山前大納言:中山忠能(ただやす)。明治天皇の外祖父
**中御門中納言: 中御門経之。妻は岩倉具視の実姉。

『討幕の宣旨降下を請う書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/17
『討幕の宣旨降下を請う趣意書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/18

討幕の密書請書 毛利家文庫
【討幕の密書請書】

そして10月14日付で大久保ら6名の連署で中山前大納言、正親町三条大納言、中御門中納言と岩倉具視宛に『討幕の密勅請書』を差出しているのだが、登場人物の大半が同じであることに注目して良い。要するに自作自演なのだ。
少なくとも薩摩藩にとっては詔書が正式な手続きで出されたかどうかはどうでもよく、朝廷からの討幕の要請が正式に出されたかのように振舞って、それを薩摩藩が引き受けた体裁をとっておけば、「討幕」の大義名分がたつと考えたのだろう。その勢いで討幕勢力を糾合させ、王政復古に持ち込む戦略だったのだと思う。
『討幕の密勅請書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/24

一方、慶喜が朝廷に提出した大政奉還上表』については、翌15日の朝議で勅許が決定して慶喜には大政奉還勅許の沙汰書が授けられている。そして、10月21日には、薩長両藩に対しては討幕の実行延期の沙汰書が下されている
はっきり言ってこの時期の朝廷は二条摂政や賀陽宮朝彦親王*ら親幕府派の上級公家によって主催されていて、大政奉還がなされても、朝廷の下に開かれる新政府は慶喜主導になることが当然予想されていた。討幕派はいずれそれを引っくり返すために、早くから武力討幕の準備を着々と進めていた。
*賀陽宮朝彦親王:中川宮、維新後久邇宮

鈴木荘一氏の『開国の真実』に、大政奉還の2ヶ月前の8月20日に木戸孝允と坂本龍馬が密談をしたことが紹介されている。しばらく鈴木氏の著書を引用させていただく。

「この日、木戸孝允は坂本龍馬に、
『…どうか大政返上のことも、七、八分まで行けば、その時の状況で十段目は砲撃芝居以外にはやり方がないだろうと思う』
と話し、坂本龍馬は大いに感服して同意
した。そして坂本龍馬は、9月24日、オランダのハットマン商社から購入したライフル銃1千挺を土佐藩で兵制近代化を進める板垣退助に届けた。
 木戸孝允は坂本龍馬に、アーネスト・サトウ(イギリス公使館員)から示唆された、
『幕府が大政奉還により公権力の名分を失った後に、私闘として武力で幕府を倒す』という『二段階革命論』を吹き込んだ

 …
こうして事態はどんどん進んでいった。討幕の密勅が下った薩摩藩では、藩主島津忠義(当時は茂久[もちひさ])、西郷隆盛らに率いられた薩摩藩兵三千人が四隻の汽船に分乗して11月13日鹿児島を出発し、長州藩領三田尻港を経由して京都を目指した。…
長州藩では奇兵隊・游撃隊など諸隊千二百人が六隻の軍艦に分乗して11月25日藩地を出発し、芸州(広島)藩からは11月28日に藩兵三百人が入京し、11月末には薩摩・長州・芸州藩兵約五千人が京阪神地方に集結
して事態はいよいよ緊迫の度を深めた。」(『開国の真実』p.317-318)

兵庫港が開港される日は慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)で、そのまま開港されてしまえば、将軍慶喜のリーダーシップを内外に印象付けるとともに、貿易が開始されることで諸外国は平和と安全を望むようになる。討幕派が政変を起こすとすれば、少なくとも兵庫開港から遠く遅れない時期に起こさなければならないと考えていたのである。そして11月末には薩長等の討幕軍が畿内に集結してクーデターの舞台が整った。

岩倉具視
岩倉具視

兵庫開港の翌日の12月8日に岩倉具視は薩摩・土佐・芸州・尾張・越前五藩の重臣を自邸に集めて王政復古の断行を告げ、協力を求めている。
そして翌12月9日、朝議が終了して公家衆が退出した後、待機していた五藩の兵が御所の九門を封鎖し、御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳の参内が禁止されたという。
そうした中、岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、慶喜の将軍職辞職勅許、京都守護職・京都所司代の廃止、江戸幕府の廃止、摂政関白の廃止などを決定し、天皇のもとに新たに総裁、議定、参与の三職を置くことを定めている。

夕刻行われた小御所会議について、再び鈴木荘一氏の著書の解説を引用させていただく。

山内容堂
山内容堂

「このように世上騒然とするなか、12月9日、朝廷において小御所会議が開かれた。
 参加者は、15歳になる明治天皇ならびに公卿衆、大名としては尾張藩の徳川慶勝、越前藩の松平慶永(春嶽)、土佐藩の山内豊信(容堂)、薩摩藩の島津忠義、芸州(広島)藩の浅野茂勲(しげこと)の5人である。徳川慶喜は除外されていた。会議では、まず議定中山忠能が『徳川慶喜の官位拝辞と所領四百万石の没収』いわゆる『辞官納地』を主張した。これを聞いた山内豊信(容堂)は怒りを顕し
『なんたることを言われるか。およそ本日のことは頗る陰険にわたっている。徳川慶喜は祖先より受け継いだ将軍職を投げうち、政権を奉還された。その忠誠は誠に感嘆に耐えない。また徳川慶喜の英明は天下に聞こえている。すみやかに徳川慶喜を朝議に参加させて意見を述べさせるべきである。二、三の公卿たちはなぜ今日のような武断を行い、あえて天下の乱階(らんかい)を開こうとされるか』
と反論した。堂々たる正論である。誰も反論することは出来なかった。
その直後、勢いに乗った山内豊重(容堂)の口が滑った。山内豊重(容堂)は、更に続けて
『この暴挙を敢えてした二、三の公卿の意中を推しはかれば、幼冲の天子を擁して、権力を私(わたくし)しようとすもの!』
と断定し、岩倉具視を厳しく糾弾したのである。…(略)…
 突然、矢面に立った岩倉具視は、まなじりを上げて反撃に出た。岩倉具視は、
『御前でござるぞ、お慎みあれ。『幼い天子を擁して』とは無礼にもほどがあろう』
と山内豊信(容堂)を一喝した。岩倉具視は、さらに続けて、
『徳川慶喜が本当に反省しているなら、自ら官位を退き、土地を朝廷に還納すべきである。朝議参加はそれからのことである。』
と声を励まし居丈高に主張した。

…(略)…
しかし越前藩の松永慶永(春嶽)、尾張藩の徳川慶勝、芸州(広島)藩の浅野茂勲は、徳川慶喜の出席を求める山内豊信(容堂)の意見に同調した。山内豊信(容堂)の意見が正論であり常識的だったからである。議論は深夜におよび、膠着した。そして一時休憩となった。
この休憩時間に、薩摩藩士岩下左次右衛門が西郷隆盛に意見を求めると、筒袖・へこ帯に刀を差しただけの姿で警備にあたっていた西郷隆盛は、
『短刀一本あれば片付く事ではないか。このことを岩倉公にも一蔵(大久保利通)にも、よく伝えてくれ』

と言い放った。西郷隆盛『山内豊信(容堂)が会議再開後も慶喜の出席を求めて抗論するなら明治天皇の御前であっても山内を刺殺すべき』と言った。
…(略)…
西郷の意向を聞いた岩倉具視は『なるほど』と唸り、山内刺殺の決意を固め、短刀を懐に入れた。
西郷の意向と岩倉の決心を聞いた山内豊信は、論争は最早これまで、と観念し沈黙した。
 こうして朝議は徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めた。

 結局…、イギリス型公議政体への移行を理想とした徳川慶喜の大政奉還は、
『武力討幕派に隙を見せただけ!』
 という不毛な結末に終わった
のである。」(同上書 p.318-321)

二条城二の丸御殿

こんなひどいやり方で、小御所会議で徳川慶喜の『辞官納地』が決定した時、慶喜は京都の二条城にいた。当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいて、討幕を目指す薩長軍も約5千人が京都にいて、幕府軍と一触即発の情勢であったという。

慶喜が、その後どう対処したかについては次回に記す事としたい。

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幕末の孝明天皇暗殺説を追う
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王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった

前回の記事で1867年(慶応3)年12月9日に岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めたことを書いた。
当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいたのだが、彼らは討幕派による「王政復古の大号令」や慶喜に対する『辞官納地』の決定に、どのような反応を示したのであろうか。

国立国会図書館デジタルコレクションに大正7年刊の『徳川慶喜公伝.』が公開されている。その巻4に、幕府軍の反応が記されている。(文中の「公」は慶喜を意味している。)

徳川慶喜公伝

「旗本の将士をはじめ、会津・桑名・彦根・津・大垣諸藩は、王政復古の発令を聞くや、皆結束して二条城に集まり、松平肥前守、松平越中守もまた入城す。…中にも会桑二藩の士・遊撃隊の兵士等は、烈火の如くに憤り、頻りに討薩を論じて止まず。皆曰く『将軍家既に政権を奉還あり。朝廷にても今後の大事を公議世論に依りて定めんとて諸大名を召されたれば、万機の事、諸大名会同の上に決し給うべきを、俄に今日の事に及ばれしは何事ぞや。よしや改革を急がるるの事情ありとも、在京の諸大名何ぞ五藩*に限らん。然るに諸藩に謀らず、将軍家をも疎外(そがい)して、かかる大変革を行われしは、嚮(さき)に将軍家に下されたる御沙汰にも背き、諸大名を召されたる御趣旨にも合わず、これ全く薩藩が二三の公卿と謀り、幼冲の天皇を擁して私意を遂げんとするものなり。打捨て置かば徳川家は夷滅さられ、天下は擾乱(じょうらん)せん。彼等既に兵力を以て禁闕(きんけつ:皇居)**を擁する上は、とかくの議論は無用なり。ただ速やかに討薩の表を上りて、君側の奸を除かざるべからず』と。公は固くこれを制して暴動を禁じ給いければ群議の間に日は暮れたり。若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守重固**らは、公の決断し給わざるを慨嘆し、板倉伊賀守***に迫りて、『嗚呼将軍家の御心底こそ甲斐なけれ。御決心さえあれば会桑はいうに及ばず、満城の将士孰れも公憤に募れり。一戦して薩賊を撃捷すべきは易々たるのみ』と、或は怒り、或は泣きて之を訴う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/156
*五藩:王政復古の大号令のあとの朝議に参加した薩摩・土佐・芸州・尾張・越前の五藩
**竹中丹後守重固(しげかた):江戸幕府後期の旗本。幕府陸軍創設後は陸軍奉行として天狗党征伐や長州征伐で活躍し、慶応3年(1867)若年寄並陸軍奉行に就任。
***板倉伊賀守:板倉勝静(かつきよ)。幕末の江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座。


竹中重固
【竹中重固】

このように、幕府軍の兵たちは暴発寸前となっていたのだが、徳川慶喜がそれをさせなかったことが記されている。

では討幕軍の立場で書かれた書物では、幕府軍はどのように描かれているのか。明治43年刊の『大久保利通伝 中巻』に、この時の幕府軍の様子や、京都が天下分け目の戦いの戦場となることを恐れて、逃げ惑う民衆で京都が大混乱したことが記されており、『徳川慶喜公伝.』の記述が決して誇張でないことが確認できる。

二条城二の丸御殿

「…幕兵及び会・桑等の幕府党は、悉く二条城に集まりて、城の内外に屯集したり。幕府党は、この大変革をもって薩藩士たる利通および西郷らが二三の京紳に結び、幼帝を擁して第二の徳川氏たらんと謀るものなりとて、激昂すること最も甚しく、あるいは直に薩邸を襲撃せんと唱え、殆んど制止すべからざる形勢となり。動乱の機は、まさに旦夕に迫れる状況なりき。京師の市民は、元治元年の兵火に懲りしが今日は之にまして、天子と将軍家との天下分目の戦争なりとて、上下貴賤の別なく、人心恟々として安する所を知らず、あるいは近郷に匿れ、あるいは南都に逃れる等、非常の混雑を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781139/164

蛤御門の変の大火

文中の「元治元年の兵火」とは1864年に薩摩藩・会津藩が長州藩を京都から駆逐した「禁門の変(蛤御門の変)」を指している。この時長州勢は、長州藩屋敷に火を放って逃走し、また会津勢も長州藩士が隠れているとされた家屋に火を放ったため、またたく間に火が拡がって、北は一条通から南は七条通りの広い範囲が焼け、本能寺も東本願寺も焼けてしまう大火災となり京都の27千世帯が焼失したという。(「どんどん焼け」)上の画像は『京都大火略図』で図の右側が北にあたり、赤い部分がこの時に焼失した地域を示している。
Wikipediaによると禁門の変の時の幕府軍は約3200名とあり、王政復古の大号令の時は幕府軍だけでもその3倍はいたので、京都の民衆が大火を恐れて逃げ惑ったのは当然の事なのだ。

話を、二条城に集まった幕府軍の話に戻そう。
小御所会議の翌日(10日)に、尾張藩の徳川慶勝、越前藩の松平慶永(春嶽)が二条城に向かい、慶喜に対して、将軍職辞職と辞官納地が朝議で決定したことを諭達したのだが、その会議で決まったことはすでに二条城の兵士達にも洩れ伝わっていたという。
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第65巻』に、松平春嶽に同行した越前藩の中根雪江の手記が引用されており、中根雪江はその時の二条城の様子をこのように記録している。

中根雪江
【中根雪江】

「…今日御城中之形勢、旗本幷(ならびに)会桑之諸士、多くは甲冑を帯し、抜身(ぬきみ)の槍(やり)を立て、草鞋を穿(うがち)ながら御座敷処々に充満して、強暴之声焔尤甚し。二候(徳川義勝、松平慶永)御平服にて、其中を御押分け被成候而之御往来、甚(はなはだ)危殆にて、御伴せし吾輩に於て、懸念を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/190

松平春嶽
【松平春嶽】

また松平春嶽の手記も残されていて、徳富蘇峰の著書に引用されている。これを読むと、二条城が戦闘の準備に入っていたことは確かである。

「実に二条城の形勢畏るべし。今にも剣にて突殺さるるやに覚え申し候。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/195
「さて、城中の塩梅(あんばい)は、やはり慶喜公はじめ、薩長土藩の士と、戦端を専ら開くことを主張せらるる様、憶測なれど考えられ候。いかんとなれば、老中はじめ藤堂その外御譜代大名、紀州その他の諸大名、兵隊の書付調べ、また玉薬、即ち弾薬の調べこれあり、慶喜公手元にては、鉄砲弾薬の調べこれあり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/196

松平春嶽はここで内乱となることは避けるべきだと考え、慶喜公に対して、ここで幕府から戦端を開いては朝敵となり、300年続いた徳川家も消えてしまうことになると述べ、慶喜の考えを問うたのだが、慶喜には幕府軍から戦端を開く考えはなく、将軍職辞職と辞官納地の件については異存ないが、すぐにでも暴発しそうな幕軍の人心を鎮めてから請けることにしたいと答えたという。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

その翌日の二条城の様子が『徳川慶喜公伝. 巻4』に出ている。
11日に至りては、二条城内外の紛擾益(ますます)甚だしく、討薩の声喧しくして、殺気彌(いよいよ)揚がり、会薩の二藩士市中に行逢いて刃傷(にんじょう)に及ぶもあり、戦乱の爆発は必至の勢となる。中にも老中格松平豊前守、若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守等は過激なる挙兵論者にして(七年史戊辰始末)板倉伊賀守の沈重なるさえ、書を関東の同列に飛ばして、歩騎砲の三兵及び軍艦の西上を促し足る程なりき(稲葉家文書)。此の日公は親しく諸隊長を引見して曰く『我等割腹せりと聞かば、汝ら如何ようにもなすべし。我等斯くてあらん間は決して妄動すべからず』と、厳に達せらる (昔夢会筆記) 。されども公は尚心安からず思召し、命じて旗本の兵五千余人、会藩の兵三千余人、桑藩の兵千五百余人を城中に集めて、外に出づるを禁じたり。城門の通行は入る者よりも出づる者を取締りしは、専ら暴挙を伏せがんとの用意なるべし。たまたま薩藩の兵城下に迫る由風説ありて、何人の指図ともなく、大手廻りの土塀に矢狭間を切り開きしかば、目付の驚きて制止せる事あり。また薩藩の兵、竹屋町押し寄せたりという風説ありし時、衆益々忿怒し、相争うて出でんとす。会藩士手代木直右衛門・中根雪江・酒井十之丞を見て『先んずる時は人を制す。今之を討たずんば戦機を失わん。卿ら如何に思う』と血眼になりて詰問せしかば、両人はその虚伝なるを説き、且つ『闕下に乱階を開かば朝敵も同様なり』と弁論して、纔(わずか)に宥むることを得し事あり。然れども将士の憤怒は極度に達し、一戦して薩藩に報いんと、殆んど狂せるが如く、叱咤・慷慨、殺気天を衝く (丁卯日記*) 。公もさすがに薩長が朝廷を擁して革新の政を布きたる手段には、不満の情おわしたらんも、天下・国家のためにこれを容忍せられ、極めて少恩なる復古令に甘従し、激昂に激昂を重ねたる幾万の家臣を抑制し、断乎として挙兵の衆議を却け給えり。此の際における公の苦衷は、唯公の知る所にして、後人の推測の及ぶところにあらざるべし。」
*『丁卯日記(ていぼうにっき)』:越前藩の中根雪江の日記。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/158

このように徳川慶喜は、城門から出る者を取締り、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、断固として挙兵することを許さなかったのである。

松平春嶽の手記によると、
「慶喜公言う、家来ども頻(しき)りに兵端を開き候よう申し聞き候えども、余は朝廷に対し恐れ入り奉り、且つは祖先の汚名を千歳に流すことは、決て致さず候間、」とあり、慶喜は幕府が朝敵の汚名を蒙りたくないとの思いが強かったようなのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/197

板倉勝静
【板倉勝静】

老中筆頭の板倉勝静(かつきよ)も記録を残している。板倉自身の考えが書かれているのだろうが、慶喜も同様な考えであったのだと思う。
簡単に意訳すると、
「薩摩は天皇を擁しており、薩摩を討伐しようとすることは、朝廷に向かって発砲することになる。こちらから戦端を開けば、彼らの術中に陥って我々は朝敵とされてしまうことだろう。決して軽挙妄動すべきではない。
そのうえ二条城では幕兵の鎮撫は難しく、またこの城は防御に適した城ではない。そのうえ、狭い地域に住宅が密集している京都で火が放たれば、またたく間に拡がって都の大半が焼けてしまうことになり、多くの犠牲者が出ることが避けられない
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/208

かくして二条城では京都から大坂に向かうことが決議され、12日になって慶喜は二条城を離れて大坂城に向かっているのだが、慶喜が喧噪の京都を去ったのは他にも理由がありそうだ。
「王政復古の大号令」で武力討幕派が政権の中枢を握ったことは確かなのだが彼らは少数派であり、多くの諸侯は平和解決を望んでいたのである。その点については次回に記す事と致したい。

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西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した
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江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
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武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府

前回の記事で、慶応3年(1867)12月9日の『王政復古の大号令』のあと、幕府の家臣や幕府軍の兵士が将軍・徳川慶喜のいる二条城に集まり、「薩摩を討伐せよ」と殺気立ったのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かったことを書いた。

武力解決派は、強引なやり方で御所を占拠し政権を奪取したとはいえ少数派にすぎず、諸侯の大多数は平和解決を望んでいたという。では彼らはどう動いたのか。

山内容堂
【山内容堂】

9日の『王政復古の大号令』の出た夕刻に開かれた小御所会議で、『短刀』で発言を封じられた土佐藩の山内容堂は、12日に意見書を朝廷に奏上している。

鈴木荘一氏の『開国の真実』に、その内容が要約されているので紹介したい。

「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)

この意見書を原文で読みたい場合は、『国立国会図書館デジタルコレクション』で徳富蘇峰の『近世日本国民史 第65巻』に出ているので参照いただきたいが、蘇峰の解説がわかりやすいので引用させていただく。

「公議と言うは、衆議である。衆議と言うは、多数決である。多数決と言えば、武力解決派から見れば、俗論である。故に彼等は口には公議を唱えるも、決して多数の俗論に一任するを欲しない。されば山内容堂の意見書は、直ちに彼らの弱点を撞いて、多数もて彼等の横暴を制せんと試みたのだ。…
 徳川慶喜はもとより諸侯の列に就くべき順序となりている。されど辞官、献地等のごとき問題は、単に命令もて、之を催告すべきものではない。すべからく松平春嶽に一任して、その宜しきを得せしめよ。朝廷はただ速やかに公議政体の実を挙げ、改革本来の目的に向かって進むべし
との意見だ。思うにこの意見は、穏和派のそれを代表したるものと見て大過なかるべく、土佐一派は、上に容堂あり、下に後藤象二郎ありて、専ら此事に周旋、奔走しつつあった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/212

このような意見書を出したのは土佐藩だけではなかった。
土佐が意見書を奏上した日と同じ12日に、阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩を糾合し、連名の意見書を二条城に届けている。

徳富蘇峰はその意見書の原文を紹介したのち、こう解説している。
あたかも申し合わせたるが如く、山内容堂の意見書と符合している。これは一面朝廷に向かって、寛裕、公平に、二条摂政、徳川内府等を措置せんことを勧告すると同時に、他面には岩倉、薩摩藩に対しての抗議である。而していわゆる『衆議の帰す所』は、山内容堂にとりても、彼らにとりても、その尤も味方とする所にして、彼等が公議もしくは衆議の一点張りもて、その楯(たて)ともなし、矛(ほこ)ともなし、これを以て最上唯一の武器としたるは、如何に多数が、彼等の味方であったかがわかる。
…もし、今日の議事法もて之を律せば、諸藩会議の結果は、おそらく穏和党の勝利に帰したであろうと察せられる
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/214

薩長にとっては幕府方の会津桑名兵を挑発して、両藩を叩くことで旧体制を粉砕する目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで方針転換を余儀なくされることとなった。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

一方、徳川慶喜は、巻き返しをはかるべく様々な手を打っている。

鈴木荘一氏は『開国の真実』で、こう解説している。
「慶喜は既に12月9日頃、京都から江戸に急報を発し幕府陸軍部隊と幕府海軍の艦隊に来援を命じている。いずれも幕府が手塩にかけて育てた陸海の精鋭である。大坂城へ入った後も、慶喜は大坂から江戸に急使を遣わして更なる援軍を要請し、シャノワン等フランス軍事教官団にも大坂城への参集を求めた。援軍の要請を受けた江戸では緊迫した京都情勢が充分に伝わっておらず、リグン部員の動員は手際よくいかなかったらしいが、開陽、富士山丸、蟠龍丸など新鋭軍艦は12月下旬頃までに大坂港に集結したようだ。こうして慶喜は、大坂城を拠点として軍事的優位の確立を図った
 徳川慶喜は外交面でも手を打った。12月16日、イギリス、フランス、オランダ、プロシャ、イタリアの六ヶ国の公使を引見し、その席で小御所会議の結論を非難し、
『旗本・譜代諸藩は薩長の暴戻の罪を責め『兵を挙げる外なし』と自分に迫るが、自分から乱階を開くのは好ましくないから、ひとまず下坂した。自分は全国民と同心協力して正理を貫こうと願っているので、諸外国は日本の内政に干渉してはならない。自分は外交責任者として外国との条約を守る』
 と自分の立場を述べ、徳川政権の正当性を諸外国に認めさせた。国際社会から認められた政権が正統政権とみなされる。徳川慶喜はこうして岩倉具視や大久保利通等に対し外交的勝利を勝ち取った。

『納地』の問題も、大久保利通等の『徳川家の領地をすべて取り上げる』という主張はうやむやになってしまい、結局、徳川家と諸大名が所領の一定割合を朝廷費用のために献上する、という話にスリ替わった。しかも献上する費用の分担率は、徳川慶喜が主宰する諸大名会議で決定する、というように骨抜きとなった。こうなれば幕府にとって実害はない。
徳川慶喜は朝廷からの『辞官納地の諭書(さとししょ)』への返事として、ためらうことなく諒解の意思を示し、『辞官の儀は前内大臣と称すべく、政務御用途の儀は天下の公論を以て御確定あそばさるべし、との御沙汰の趣、謹んで承りぬ』
との『請け書』を朝廷に提出した。暮も押し詰まった12月28日のことである。」(同上書 p.323-324)

大阪城

このようにして徳川慶喜は二条城から大坂城に移って見事に巻き返しに成功したのだが、その後なぜ武力解決派が勢いづいたのか。その点については、大坂・京都から江戸に視点を移す必要がある。

当時幕府の幹部は大坂に詰めていて、江戸には佐幕藩の藩兵が市中取締りの警護にあたっていた。
一方薩摩藩は三田の薩摩藩邸を根拠地として倒幕・尊王攘夷の浪士を集めて、放火や掠奪・暴行を繰り返して幕府に対する挑発行為を繰り返していたという。

鈴木荘一氏の解説を続けよう。
「慶喜の大政奉還によって武力討幕の名分を失った西郷隆盛は、江戸市中攪乱により武力討幕のきっかけを作ろうとした
 相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。…
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だったこと
である。」(同上書 p.325-326)

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、幕府より薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたために強く取り締ることはしなかったのだが、それを良いことにして薩摩藩の非合法活動が一段と活発化していく。

「12月22日夜、江戸市中警護に当たっていた庄内藩屯所が銃撃された。翌23日未明には江戸城二の丸で不審火があり、薩摩藩の仕業による放火と噂され、同夜、三田の吹貫亭という寄席で休息中の庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれる事件があり、薩藩浪士の仕業と見られた。
 幕府の弱腰を哄笑するような薩摩浪士の相次ぐ挑発に、隠忍自重してきた幕府も遂に堪忍袋の緒が切れ、老中淀藩主稲葉正邦は酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じた。
 庄内藩兵、上ノ山藩兵、岩槻藩兵、鯖江藩兵等からなる幕府軍は、12月25日早朝、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟薩摩藩邸への攻撃を開始した。薩摩藩邸焼打ちである
。」(同上書 p.326-327)

薩摩藩邸焼打ち
【薩摩藩邸焼打ち】

京都では徳川慶喜が幕府軍から戦端を開くことを決して許さなかったのだが、江戸の幕府軍は何度も繰り返される薩摩の挑発に乗って、薩摩藩邸を攻撃し焼打ちしてしまったのである。

事件の詳細が大坂城に伝わったのは12月28日で、この時徳川慶喜は、薩摩討つべしと沸きあがる城内の声を抑えることができなかったようだ。

『昔夢会筆記』

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第66巻』に、慶喜の回想録である『昔夢会筆記』が引用されている。

「此の時予(慶喜)は風邪にて寝衣のまま幕中にありしに、板倉伊賀守来りて、将士の激昂大方ならず。此のままにては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶うまじき由を反復して説けり。

予は『此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ』と制止したり。…
 されども、板倉、永井等は、頻りに将士激動の状を説きて『公もし飽くまでも其の請を許し給わずば、畏けれども公を刺し奉りても、脱走しかねまじき勢いなり』という。予は…制馭力の及ばざるを嘆ぜしが、江戸にて藩邸を討ちし後は、尚更城中将士の激動制すべからず。遂に彼らは君側の姦を払う由を、外国公使にも通告して、入京の途に就き、かの鳥羽・伏見の戦いを開きたり。
…予は終始大坂城中を出でず、戎衣をも着せず、唯嘆息し居るのみなりき。此の際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも、今にていえばこそあれ、当時の有様にては、実にせんすべも尽き果てて、形の如き結果に立ち至りしなり
。」(『昔夢会筆記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/162

このように慶喜は、この時も戦うことを望まなかったようなのだが、周囲がそれを許す状況ではなかったために、京に向かって薩摩を討つことを認めてしまったという。

しかしながら、幕府軍は動かなくとも武力解決派を追い詰めることは可能であったはずだ。

福地源一郎
【福地源一郎】

海外留学を経験した福地源一郎は29日に、同志を代表してこのような意見書を若年寄の平山省斎に提出している。
「…唯今の如く、阪城に御座あって、海は軍艦を以て兵庫、大阪の両港を封鎖し、陸は西宮より街道に沿いて胸壁を築き、淀川の通路を止め、守口、枚方に堡寨(ほうさい:とりで)を築かせて、厳に之を守りたまうべし。然る時は京都に駐在せる薩長の兵は、居ながらにして屈し、戦わずして走るか、然らずば討て出るに相違なし。是れ上策と仕り候う
 もしこの策を御採用なくば、将軍家には断然直ちに御東帰遊ばされ、阪城には伝習兵ならびに会・桑の逞兵を置かれて留守せしめ、枚方を限りに備えを厳にし、淀川を扼し、軍艦を以て摂海の出入りを止めらるべし。是れ関以西を敵地と見做してその動静に応じ、逸を以て労を俟つ謀にして中策と仕り候うなり。
両條とも御採用なされ難くて、是非とも引兵御上京との御議ならば、鳥羽、伏見、淀の諸所に兵を分て、分期攻入の策は尤も宜しからず。須らく山崎街道の一口より突入たまうべし。京都へ攻め入るの用兵道路はこの外に候わず。是を下策と仕り候うなり。只今の御軍配の如きは、殆んど無策と候えば、右三策の内を選びあそばさるべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/164

平山省斎
【平山省斎】

福地の意見の通り、兵庫と大阪の両港を封鎖し、街道の通路を止めれば京都の武力解決派はそのうち干上がっていたはずだったのだが、大坂城中は主戦論一色でこのような意見を相手にする者がおらず、福地は「死を決して」この意見書を平山省斎に提出したという。しかしながら、この平山という人物は強硬な主戦派で、出した相手が悪すぎたようだ。

幕府には人材はいたのだが、慶喜の周囲に冷静に戦略を練ることができ、慶喜を支える知恵者がいたのだろうか。
もし福地源一郎のような人材が慶喜の近くに仕えていて、慶喜が早い時点からその意見を取り入れて京都を経済的に締上げ、かつ武力解決派の挑発に最後まで乗らなかったとしたら、その後のわが国の歴史は随分異なるものになっていたかも知れない。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
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日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
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東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
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東大寺二月堂のお水取り
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-142.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
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洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い

前回の記事で、江戸の幕府軍が何度も繰り返される薩摩の挑発に乗って、薩摩藩邸を攻撃し焼打ちしたとの報告が大坂城に届き、城内の将士たちに薩摩討つべしとの声が高まって抑えることができなくなり、ついに慶喜も薩摩を討伐することを認めたことを書いた。

慶喜は必ず勝てるとは考えていなかったようだが、城内の将士たちは、江戸で薩摩藩を懲らしめることに成功したのだから、京都でも戦えば幕府軍が勝てると単純に考えたのだろう。
一方、薩摩を中心とする新政府軍は、勝算があったわけではなかったが、士気は極めて高かった。

徳富蘇峰は『近世日本国民史 第66巻』で、こう述べている。
「…数を以てすれば、大阪対京都は、ほとんど十対一である。而して質を以てすれば、大阪側には、フランス教師直伝の伝習兵がある。更に大阪側は、二百六十年の伝統に依りて、既成の惰力を利用すべき便宜がある。彼等が必勝を期したのも、決して無理ではなかった。
 これに反して如何に京都側は、勤皇の正気に燃えるも、多勢に無勢。一挙直ちに大阪側を撃滅すべき見込みは、到底立つべき様もなかった
。此の如く勝算無きに拘らずなお武力解決の初一念を抛(なげう)たなかったのは、畢竟此れにあらざれば、復古の鴻業は到底成立すべからざるを認めたからだ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/141

戊辰戦記絵巻 長州兵
【戊辰戦記絵巻 長州兵】

幕府軍は兵の数では新政府軍を圧倒的に上回っていたものの、会津・桑名その他の諸藩兵や新選組の武器は刀槍を中心とする旧式の軍隊で、銃も保有していたが旧式のゲベール銃が大半であったという。
一方薩摩・長州軍は新型の銃機を大量に保有していた。以前にもブログで書いたが、新型の銃(ミニエー銃など)は、旧式のゲベール銃よりも飛距離、命中精度、破壊力が格段に優っていて極めて殺傷力の強い武器であった

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

竹中重固
【竹中重固】

もっとも幕府の歩兵の一部はフランスの訓練を受けた伝習隊で、彼らは最新鋭の銃を装備していたのだが、指揮官の竹中重固*(しげかた)は近代的軍事については無知であったし、大量の最新銃器を持つ薩長軍と戦って勝てる戦術を練っていたわけでもなかったのである
*竹中重固(しげかた):戦国時代の軍師竹中半兵衛の子孫。陸軍奉行

このような幕府軍の甘さに危機感を持つ兵士もいたようだ。
徳富蘇峰の同上書に桑名藩士・中村武雄の手記が引用されているので紹介したい。
「(慶喜)親書して薩藩の罪を責め、遽(にわか)に出兵の令を下し給いけり。時に戊辰正月元日なり。嗚呼敵の計る所に陥り、その勝算をも定めず、卒然出兵に決し給いしは、何らの軽忽なることにや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/185

1月1日、慶喜は朝廷に提出するために「討薩の表」を作っている。
徳富蘇峰の同上書にその内容が紹介されているが、簡単に意訳すると、
「先月9日以来のことは、すべて薩摩の奸臣どもの陰謀であり、各地の騒乱・強盗の類もまた彼らの仕業である。したがってこの奸臣ども引渡しを命じて頂きたい。万一御採用頂けない場合は、止む無く誅戮を加える」
とあり、その文章のあとでこれまでの薩摩藩の罪状が列記されている。

鳥羽伏見方面戦闘図 「鳥羽離宮公園高札」

さらに慶喜は1月3日付で外国公使に対しても、討薩にあたり船の取締りを厳しくする旨の公文を発し、そして会津藩を先鋒とする部隊は鳥羽街道を進み、桑名藩を先鋒とする部隊は伏見街道を進んで、京へ向かっていった

この動きを阻止するために薩・長軍は鳥羽街道と伏見奉行所方面を封鎖していた。
そして3日に鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と幕府軍先鋒との間で小ぜり合いが起こり、街道の通行を求める幕府軍に対し薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答したのだが、何度か押し問答を繰り返しているうち、午後5時頃薩摩軍は砲撃を開始し、同じ頃に伏見の薩摩兵も戦端を開いて、ついに全面的な戦争となったのである。

幕府軍は再三攻勢を掛けるのだが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やしていくばかりであった。奇兵隊の参謀としてこの戦いに参加した長州藩の林半七(友幸)は、伏見の戦いをこう語っている。

鳥羽伏見の戦い 1

「伏見では戦争は市街で始まった。伏見の市街は碁盤の目同様だから、何れから来るも知れぬ。それで長州は南の方へ向かって撃つ。薩摩は横の方から西へ向かって砲撃した。此の如く南は長、西は薩で丁度十文字に撃った。先方の兵隊は騒動するばかりで、怖れて出て来ぬが、士官がヒョイヒョイと進んで来るから、皆に撃たれて斃れてしまう。それが日没頃であった。」
「伏見の戦争は市街戦だ。長兵は馬関戦争で実戦に慣れているから、市民が逃走して空き家になっている家から畳を引き揚げ、道端へ七八枚重ねて横に立てかけて楯となし、それを右側と左側と差い違いに六七間毎にやって、その間から撃ったので、怪我人や死人の数が割合に少ない。畳の上へ頭を出して撃つから眉間をやられた者ばかりだった。その中に向こうの陣屋が焼けだしたから、此方は暗中より向こうを狙撃することが出来た。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/206

午後8時ごろには薩摩藩砲兵が放った砲弾が伏見奉行所の弾薬庫に命中し奉行所が炎上し、周囲の民家にも火が放たれて、新政府軍は炎を照明にして猛烈に銃撃したため幕府軍はこらえきれずに退却を開始し、深夜0時頃には新政府軍は伏見奉行所に突入し、幕府軍は堀川を越えて中書島まで撤退し、竹中重固は部隊を放置したまま淀まで逃げ落ちたという。
幕府軍は狭い街道で縦隊突破を図るばかりで、優勢な兵力を活かすことができなかったのだが、そもそも指揮官が逃亡するような軍が戦に勝てる筈がない。

一方、新政府軍は綿密な計画を立てていたようだ
西郷隆盛が1月3日付けで大久保利通に宛てた書状を読むと、万が一のことを考えて天皇陛下を山陰方面に御遷幸することまで計画していたことが分かる。その書状には、初日の勝利をみて、御遷幸の件を当分の間見合わすことを記している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/213

仁和寺宮嘉彰親王
【仁和寺宮嘉彰親王(中央)】

そして4日には仁和寺宮嘉彰親王が征東大将軍に任ぜられ、錦の御旗*が授けられている
この旗は岩倉具視と薩摩藩が事前に作成していたものだが、使用に際して前日に朝廷の許可を取っていることは確かなようである。この旗が新政府軍に渡されたことで慶喜は明らかに朝敵とされ、その後幕府軍で裏切りが相次いでいる。
*錦の御旗(にしきのみはた):朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える旗

錦の御旗

5日には伏見方面の幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃したが、乱戦の末に敗退し、鳥羽方面の幕府軍も富ノ森を失い、現職の老中であった稲葉正邦の淀藩を頼って淀城に入って戦況の建て直しを図ろうとしたのだが、淀藩は朝廷と戦うことを嫌って幕府軍の入城を拒んだという。

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6日には幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山に布陣したが、対岸の大山崎を守備していた津藩が寝返り、津藩から砲撃を受けて幕府軍は総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れたという。

そして、その夜に徳川慶喜は僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊していた幕府軍艦開陽丸で江戸に退却し、幕府軍は戦闘意欲を失って大坂を放棄してしまう。

このように幕府軍は人数では新政府軍を圧倒していたのだが、わずか4日で惨敗してしまっている。敗因は徳川慶喜に戦意が乏しかったことや、幕府兵の士気が新政府軍よりも劣っていたことも重要なポイントではあるが、最大の敗因はやはり幕府軍の戦術の稚拙さにあったのだと思う。
幕府軍の多くは刀槍を武器とし個人的に武勇を誇る旧式の武士の集まりで、銃を持っている場合も多くが旧式のゲベール銃であった。遠方から高い精度で敵を狙い撃つ新式のミニエー銃を大量に保有する新政府軍に対しては、刀や槍はもちろんのこと、ゲベール銃では勝てないことは以前このブログで書いた第二次長州征伐で証明されていたことなのである。幕府軍は同じ誤りを繰り返してしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

鳥羽伏見の戦い

前述したとおり幕府軍には最新鋭シャスポー銃で武装した幕府伝習隊も加わっていたのだが、その武器の威力を充分に発揮することができなかったのは、旧式の部隊である会津藩、桑名藩の藩兵を幕府軍の先鋒にしたからではなかったか。
会津藩、桑名藩の藩兵は士気も高くよく戦ったとはいえ、刀や槍はもちろんのこと、ゲベール銃では敵に余程接近しなければ相手を倒すことができない。一方新式のミニエー銃ならば遠方から正確に相手を狙い撃つことができる。まともにぶつかれば旧式の部隊では勝てるはずがないのだ。
幕府軍が新政府軍と互角以上に戦うためには、最新鋭の銃を持つ伝習隊を先鋒とし、市街戦で戦う戦術をはじめから立てておかなければならなかったのだが、幕府軍の指揮官はそのような戦い方を知らなかっただけではなく、途中で戦術の変更をする能力もなかった。

戊辰物語

岩波文庫に『戊辰物語』という本がある。この本は東京日日新聞が昭和3年(1928)に明治維新を経験した古老からの聞き書きを連載した記事をまとめたものだが、この本の鳥羽伏見の戦いを読めば、幕府軍の敗因がわかりやすい。

「洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の合戦
 三日から四、五、六と、鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人一人名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様(戊辰絵巻)、例の新選組の創設者庄内の清河八郎を、文久三年の四月十三日に、芝の赤羽橋で暗殺した京都見廻組頭の剣客佐々木只三郎などもこの一戦でやられた。はじめ鎧に陣羽織で働いたが、鎧などは何の役にも立たぬのを知って、真裸になって進んで、すぐやられた。」(『戊辰物語』p.30)

もし、幕府軍が江戸で薩摩藩の挑発に乗っていなければ、慶喜は幕府・諸藩の今までの体制を維持したまま新政権に参加する話が進んでいて、その中で主導権を取れた可能性が高かったはずだ。
慶喜は薩摩討伐には賛成ではなかったのだが、城内の将士たちがその許可を強く求めて城内が殺気立ち、慶喜の命令に従おうともしないので、腹を立てて彼らに「勝手にせよ」と言ってしまったことが、大失敗となってしまったのである。しかし慶喜も、幕府軍がここまでひどい負け方をすると考えていなかったのではないだろうか。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

慶喜は晩年このことをこのように述べている。
「やがて錦旗の出でたるを聞くに及びては益(ますます)驚かせ給い、あわれ朝廷に対して刃向うべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負うに至りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り会桑を諭して帰国せしめば、事ここに至るまじきを。吾が命令を用いざるが腹立たしさに、如何ようとも勝手にせよと言い放ちしこそ一期の不覚なれと、悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱し給う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/76

鳥羽伏見の戦いで敗れたとはいえ、幕府兵の戦死者は280名に程度にすぎず、幕府にはまだまだ充分な武器や兵士が残されていた。
慶喜が江戸城に戻ると、小栗忠順、水野忠徳ら多数の家臣が城内で主戦論を主張しており、中にはフランスの協力を得て新政府軍と戦おうとする者もいた。
非戦論者は大久保忠寛、勝海舟などがいたが、極めて少数であったという。

慶喜が東京でどう動いたかは、次回に記すことにしたい。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

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江戸無血開城の真相を追う

慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れて、徳川慶喜は大坂城を離れて江戸に還るのだが、江戸城の家臣も大坂城と同様に主戦論を主張する者が大半であった。

渋沢栄一の『徳川慶喜公伝 巻4』にはこう解説されている。
陸海軍人殊に海軍副総裁榎本和泉守(武揚)、陸軍奉行並小栗上野介(忠順)、歩兵奉行大鳥圭介(純彰)及新選組の人々などは概ね戦を主とし(戊辰日記、彰義隊戦史)、兵を箱根、笛吹に出して、官軍を待たんというものあれば、軍艦を以て直に大阪を衝かんというものもあり(海舟日記)、又関八州占拠の策を献じ、軍隊の新組織法を建白し(七年史所載陸軍調役並伴門五郎・同本多敏三郎等嫌疑)、或は輪王寺宮(公現親王、後に北白川宮能久親王)を奉じて、兵を挙げんというものもあり(彰義隊戦史)、或は君上単騎にてご上洛あらば、士気奮いて、軍機忽ちに熟せんと激語する者もあり(海舟日記)。老中等も是等の説にや同じけん。…
主戦派の人々は激論に激論を重ねて、いつ果つべしとも見えず。有司はこもごも公に謁して其説を進め、論談往々暁に達し、諸士相互の議論に至りては鶏声を聞かざれば已まず。(海舟日記)。正月17日若年寄堀内内蔵頭(貞虎、信濃須坂藩主)は、身要路に居て此の難局を処理する力なく、御委任を全くすること能わずとて、遂に殿中に自刃せり。其の意、死を以て幕議を恭順に定めんとするにありという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/214

小栗忠順
【小栗忠順】

またWikipediaにはこう記されている。
「慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗(忠順)は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は『新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する』という挟撃策を提案した…。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86

小栗上野介らが提案した策は、後にこの策を聞いた長州藩の大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかった」と恐れたほどのものであったようなのだが、徳川慶喜は小栗の案をしりぞけ、15日には小栗を罷免してしまっている
江戸城では朝敵とされようが、錦の御旗が敵方にあろうがかまわず薩長を討つべしとの考え方が大半であったようなのだが、そのなかで徳川慶喜はともかくも恭順論を貫き通したのである。

福地源一郎
【福地源一郎】

主戦論者の中には、外国の支援を得て戦おうとする意見も少なくなかったようだ。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に福地源一郎の回顧録である『懐往事談』の文章が引用されている。
故に或は仏国に税関を抵当として外債を起こし、以て軍資に充て、援兵を乞うべしと言えば直に同意し、米国より廻船の軍艦を、海上にて歎き受取るべしと言えば、異議なく左袒*し、横浜の居留地を外国人に永代売渡にして、軍用金を調達すべしと言えば、これ以て名策なりと賛成したるが如き、今日より回顧すれば、何にして余はここまで愚蒙にてありしかと、自から怪しまるる程なりき。」
*左袒(さたん):同意して味方すること
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/41

わが国の領土を売却して軍資金を捻出し、フランスやアメリカとともに薩摩・長州と戦おうというのだが、薩摩・長州にはイギリスがついていた。そんなことをしていれば、両軍から多数の死傷者が出たことは確実で、またどちらが勝利したとしても借金の返済が出来ないために多くの国富や領土を外国に奪われるところであったのだが、こんなバカな話が江戸城で真面目に議論されていたことを知るべきである。

ロッシュ
【仏公使 ロッシュ】

もちろんフランスは黙ってはいなかった。フランス公使ロッシュは1月18日に将軍に謁見を申し入れ、19日に登城している。この時の慶喜との会話が如何なるものであったのか。徳富蘇峰の同上書に徳川慶喜の『昔夢会筆記』が引用されている。

「…(ロッシュ曰く)『此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし』と、いとも熱心に勧告したり。予は『好意は謝するに余りあれども、日本の国は他国に異なり、たとい如何なる事情ありとも、天子に向かいて弓ひくことあるべからず。祖先に対して申し訳なきに似たれども、予は死すとも天子には反抗せず』と断言せしに、ロッシュ大に感服したるさまにて後言う所なかりき。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/45

また慶喜は、19日に在江戸諸藩主を恭順の意を伝えて協力を要請し、20日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請を行い、23日には、徳川家人事を大幅に変更し、庶政を取り仕切る会計総裁に恭順派の大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁に同じく恭順派の勝海舟を抜擢している。
そして27日には、慶喜は紀州藩主の徳川茂承らに、朝廷に隠居。恭順を奏上することを告げ、2月9日には鳥羽伏見の戦いの責任者を一斉に処分し、翌日には松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じ、そして12日には江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺に移って、その後謹慎生活を送っている

では、新政府軍の西郷隆盛や大久保利通は慶喜をどうするつもりであったのだろうか。
西郷が大久保宛に書いた2月2日付の書状を見ると、「…慶喜退隠の歎願、甚以不届千万。是非切腹迄には、参不申候ては不相済」とあり、西郷は慶喜を生かしておくつもりはなかったようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/93

また、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした新政府の東征軍は、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍し、駿府で行われた3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日と決定している。
そして勝海舟は、差し迫る東征軍との江戸における内戦を避けようと、西郷との交渉を考えていた。勝は、西郷が徳川家の歎願を受けいれなかった場合や、屈辱的な条件を要求してきた場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防ぎ、焦土とする作戦であったようだ。

勝海舟
勝海舟

3月10日付の『海舟日記』にはこう記されている。
「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を挙て進まんとせば、城地灰燼、無辜死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼暴挙を以て我に対せんには、我もまた彼が進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177471/75

勝は江戸湾にあらかじめ船を用意して、火災が起こった際に避難民を救出する計画まで立てていたようだが、ここまで覚悟して西郷との交渉に臨もうとしていたのである。

一方の新政府軍だが、不案内な江戸城下で戦うとなると大量の負傷者が出ることが想定されるので、西郷の命を受けて、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)が横浜の英国公使官へ向かい、公使パークスに面会をして傷病兵の為に病院の世話を依頼している。薩摩藩からすれば、これまで英国の支援により最新鋭の武器を大量に購入してきた経緯があり、京都で負傷者の治療を要請したこともあるので、今回の戦いの負傷者のための病院の世話ぐらいなら引き受けてくれるだろうと軽く考えていたのだが、この時のパークスの反応は西郷の想定を大きく越えるものであったようだ
徳富蘇峰の前掲書に、渡辺清の談話が紹介されている。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス

パークスは如何にも変な顔つきを致して、これは意外なることを承る。吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は、恭順ということである。恭順している者に、戦争を仕掛けるとは、如何という
 木梨いう、それは貴君の関する所ではない。吾々はどこまでも戦えという命令を受けてきた。ともかく用意してくれといったところが、そんなことは出来ませぬ。いずれの国でも恭順即ち降参という者に向かって戦争せねばならぬということは無いはず。その上いったい今日は誰から命を承けて来られたか。大総督から。それは如何なることか。…いったい今日貴国に政府は無いと思う
…もし貴国で戦争を開くなら、居留地の人民を統括している領事に、政府の命令が来なければならぬ。それに今日まで何の命令もない。また素より命を発するに際しては、居留地警衛という兵が出なければならぬ。その手続きが出来た以上に、戦争を始むるべき道理。かくありてこそ、始めて其国に政府があるというものである。しかるに、それらの事は一つもしてない。それゆえ、自分は無政府の国と思う。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/178

こんな調子でパークスは激怒して途中で面談を中止してしまい、木梨と渡辺は品川に戻ってこのことを西郷に報告したのだが、さすがに西郷も、官軍側に手落ちがあったことを認めざるを得ず、渡辺にこう述べたという。

「自分も困却している。かの勝安房が、急に自分に会いたいと言い込んでいる。これは必ず明日の戦争を止めてくれというじゃろう。彼じつに困っている様子である。そこで君の話を聞かせると、全くわが手元に害がある。故にこのパークスの話は、秘しておいて、明日の打ちいりを止めねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/181

西郷隆盛
西郷隆盛

江戸城無血開城については西郷隆盛勝海舟の二人がクローズアップされて、まるでわが国を救った英雄のように描かれることが多いのだが、実は西郷はパークスが激怒したことを知って考え方を改め、二人が談判を始める前から江戸城総攻撃を中止する肚を固めていて、勝と談判に及んだということなのである。

以前このブログで、イギリス公使館のアーネスト・サトウが西郷に対し、『兵庫・大坂が幕府の手で開かれてしまえば、その地の平和と安全とは、諸外国の関心事となるから、これらの土地の争奪、これらの土地での戦闘は、諸外国が、艦砲と陸戦隊との力にかけて、防止するであろう』と述べたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

兵庫港はすでに慶応3年12月7日に開港しており、サトウの言葉を借りると、諸外国のわが国における関心事は、開港地における平和と安全の維持に関心が移っていたのである。
したがって、横浜や神戸など開港地に近い場所で幕府軍と新政府軍が戦う状態が長引くことは外国の干渉を招く危険が高かったのだが、前述したとおり、幕府軍にはフランスの支援を得て新政府軍と戦おうと考える者が少なからずいた事実がある。
当時神奈川にはイギリス兵2大隊、フランス兵1大隊がいたという。もし幕府が正式にフランスの軍事支援を要請していたら、イギリス軍はおそらく新政府軍を支援したことであろう。もしそうなっていたらわが国は、それから後も独立国家であり続けることは難しかったのではないだろうか。

『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 
【『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 】

西郷隆盛勝海舟の談判によって江戸城の無血開城が決定し、当時人口100万人を超えていた世界最大級の都市であった江戸が、戦火に巻き込まれることから救われたことは間違いがない。二人とも立派な人物であったことは私も同意するところなのだが、江戸無血開城はこの二人の歴史的大英断によって成し遂げられたという見方は単純にすぎる。そもそも徳川慶喜という人物が最後の将軍でなければ、江戸城無血開城が実現することはなかったのであり、慶喜にもっと着目すべきだと思う。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

慶喜は、自らをそして徳川家を犠牲にして大政奉還したのち、ひたすら朝廷に恭順し、大坂城、江戸城で徹底抗戦を主張する大多数の幕臣達に抗し、鳥羽伏見の戦いを止めることは出来なかったが、江戸に入ると主戦派の幹部を罷免し、恭順派の勝海舟らを幹部に抜擢し、またフランスの支援の申し出を断り、一貫して戦うことを避けようとしたことは何のためだったのか。
英仏軍が駐留するなかでその両国の干渉を排除して平和裏に政権交代を成し遂げさせるということは、当時の世界においては奇跡に近い出来事であったと思う。それが実現できたことは、徳川慶喜の決断によるところが極めて大きかったと私は考える。
慶喜が徳川幕府の最後の将軍であったことはわが国にとっては非常に幸運なことであり、彼のお蔭でわが国は独立を維持できたという見方はできないか。

鈴木荘一氏は著書『開国の真実』の最後をこう締めくくっている。

「確かに幕府主戦派の主張どおり、幕府は全力で戦えば決して簡単には負けなかったかも知れない。
しかしイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する構図の下での内戦が激化すれば、やがてイギリスやフランスをはじめ外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても、わが国の独立は制約を受けただろう。
徳川慶喜はそのことに気付いていたようである

条約勅許を獲得し兵庫開港を実現して『第一の開国』を完成させ、更にイギリス型議会制度を想定して大政奉還を断行した徳川慶喜としては、人情においては、自分の手で日本近代化を成し遂げたかっただろう。
しかし徳川慶喜は自分に課された最大の政治課題である開国の大業を成し遂げた後、みずから恭順謹慎して政権を捨てた。
徳川慶喜のこの無欲の心こそ、1860年代当時の厳しい国際情勢下において、わが国が独立を護る唯一の道だった
のである。」(『開国の真実』p.334)

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西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した
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明治維新と武士の没落
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明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
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静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
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関連記事

イギリスとフランスにとっての戊辰戦争

前回の記事で、西郷隆盛の命を受けて東征軍参謀の木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)がイギリス公使のパークスを訪ねて、江戸城総攻撃の際に新政府軍の負傷兵の手当てをする病院の世話をして欲しいと依頼したところ、パークスが激怒したことを書いた。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に、パークスと直接交渉した木梨精一郎の話(『維新戦役実座談』)の一節が引用されているので紹介したい。

木梨精一郎
【木梨精一郎】

「その時にパークスが言うには、今日の政府は徳川にある。王政維新になったと言っても、いまだ外国公使へ通報もなし。私はどこまでも前条約を以て、徳川政府を政府と見ている
 なるほど内部を見れば、天子朝廷の命令というものは重きものなれども、条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬというのは、本国に報知することが出来ぬ。すなわち条約面によって、今ここへ兵を多く繰り込めば、自然フランスの一大隊、オランダの二大隊、あるいは衝突を起こすかも知れぬからという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/188
そこで木梨は「徳川幕府の政令は朝廷に奉還して、外国奉行というものは存在しても名前だけで実体はない」と答えたところ、パークスは「今の朝廷から、表方ご通知があったなら、私どもの方も、陸へ上げた兵を艦へ乗せ、国へ返しもしようが、その命のあらざる間は砲撃などのことは、暫らく見合わせてくれ」と答えたという。

このパークスの言葉は一般の歴史書などではほとんど無視されているのだが、非常に重要なことを述べている。

もしある国で革命政権が樹立された場合に、前政権による対外債務や条約がそのまま自動的に引き継がれるというわけではない。
欧米諸国がわが国と条約を結んだ相手は徳川幕府であり、その徳川幕府が朝廷に政権を返上したとはいえ内戦状態に突入してしまって、現段階ではどちらが勝利するかはわからない。イギリスとしては、内戦が終結して書面上でもその権利の承継の手続きがなされるまでは、従来の条約の相手方である幕府を重視することは当然の事なのだ。

そもそも朝廷には外交問題を仕切れる人材は皆無であった。したがって、徳川慶喜が大政奉還を奏上しそれが決定した8日後の慶応3年10月23日に、朝廷は外交に関しては引き続き幕府が中心となって行うことを認める通知を出している。そのため11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告や28日のロシアとの改税約書締結は徳川幕府が行なっているのである。

パークスが、木梨に対して「条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬ」と言っているのはそのことを意味するが、普通に考えれば、わが国で政権が朝廷に移ったにもかかわらず外交だけは今まで通り徳川幕府というのは、欧米諸国にとっては理解し難いことでであったと思われる。だからパークスは「(このことは)本国に報告することは出来ぬ」と述べたのであろう。

外国人の立場で考えればわかる事なのだが、日本でクーデターが起こり、これから新政府軍が幕府勢力との間で本格的な内戦に発展してもおかしくない情勢になってきたのであれば、彼らにとっての最大の関心事は、幕府の瓦解によって無政府状態に陥っている中で、多数の外国人居留民がいる横浜などの治安をいかに確保するかであったはずだ。

遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城

萩原延壽氏の『遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城』に、イギリス公使パークスが本国のスタンレー外相に宛てた手紙が引用されている。手紙日付の西暦1868年4月9日は、和暦(陰暦)慶応4年3月17日で、西郷と勝が江戸無血開城の談判を行なった3日後のことである。

パークスはこう記している。
「横浜に上陸してみると、ミカドの軍隊の先遣部隊が、東海道と呼ばれる公道の、江戸まで10マイル(約16km)ないし15マイルの地点に進出していた。そして、この部隊からはぐれたかなりの数の武装した兵士が、横浜に入り込んできた。」
「私が帰還する2日前、ロコック氏(公使館書記官)はサンキー陸軍大佐(第9連隊)に要請して、この町に通じる主要な入口である橋に衛兵を配置したが、これは賢明な措置であった。此の武力の誇示は、2つの目的にかなうものであった。ひとつは、大君(たいくん)*政府の役人と警吏に対して、それぞれの部署にふみとどまる勇気を与え、かくして恐慌状態の下で日本人が掠奪と混乱に襲われるのを防止することであり、もうひとつは、ミカドの軍隊の乱雑な、規律が整然としているとはいいがたい兵士に対して、この町が大君政府以外の兵(外国軍隊)によっても防衛されていることを明示することであった。」
「4月1日(陰暦3月9日)、神奈川奉行が訪ねてきて、この町の行政をミカドの政府が任命した役人に引き渡す用意ができているが、まだそのような役人が到着したという通知を受け取っていないと語った。さらに奉行は、町に入り込んでいる武装した兵士を取締る力が彼にはないことを認め、且つこの町の外国人と日本人に対する彼らの態度には遺憾な点があると述べた。」(『遠い崖 7 江戸開城』p.8-9)
*大君(たいくん:江戸時代に対外的に用いられた征夷大将軍の外交呼称。ここでは徳川慶喜を指す。「大君政府」は徳川幕府。)

横浜の治安については、大政奉還されたのであれば幕府から朝廷側に引き継がれていなければならないところだが当時はまだ実施されておらず、訪ねてきた神奈川奉行はこれから大挙してやってくる新政府の東征軍から横浜の外国人や日本人を守る力がないと述べたという。ならば、自力で横浜を守るしかないではないか。

諸外国の代表は対応策を協議して、新政権が横浜の治安の維持にあたるまでの間、各国の軍隊を出動させて横浜の要衝を占拠し、幕府軍と協力して東征軍兵士の横浜立入を阻止することを申し合わせ、4月3日(陰暦3月11日)からそれを実施したという。

パークスが横浜の自国居留民を守ることに動き回っていた矢先に、東征軍参謀・木梨精一郎と渡辺清がのこのこと現われて、これから内戦が始まるので傷病人の面倒を見て欲しいと依頼にきたことになるのだが、このような経緯を知るとパークスが激怒した理由が見えてくる。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス】

またパークスは、同じ4月9日付(陰暦3月17日付)でハモンド外務次官あての手紙にこう記している。
江戸のもめごとに対処するのに手遅れでなかったことを知って、ほっとしている。しかし大君は抵抗の意思を放棄しているので、このもめごとも、たぶん1ヶ月で解決するであろう。そして、戦闘は相互に憎み合っている大名の家来たちや、この国に多大の害毒を流している『浪人』たちのあいだの、不正規な小ぜりあいに限られるであろう。われわれは、横浜の安全を確保することが出来たと思う。」(同上書 p.21)

このように、パークスは横浜を守れたことに安堵するとともに、内戦はあと1ヶ月で終るだろうと予想したのだが、実際には戊辰戦争はあと半年も続いたのである。パークスの考え方は、概ねイギリス人の代表的な考え方であり、彼らにとってはこれからしばらく小競り合いが続こうが、慶喜に戦意がなくて新政府が勝つことが自明であるような戦争にはそれほど関心がなく、居留地の治安が守られていることが最大の関心事であったようだ。

一方フランスは、薩長を裏で支援してきたイギリスに対抗してこれまで一貫して徳川幕府を支援し、そうすることで対日貿易の拡大を図ろうとしてきたのだが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したためにその目論見が大きく崩れてしまった。もし幕府が敗れることになれば、フランスの対日貿易は激減することになる。フランス公使のロッシュは、そうなっては困る立場にいたのだ。

鳥羽伏見の敗戦の後、フランス人が相次いで日本人に襲われているのだが、その事件が外国勢力を巻き込む内戦に発展する可能性はなかったのか。一般の歴史書には触れられることの少ない事件を振り返っておこう。

最初の事件は、慶応4年1月11日(旧暦)に起きた神戸事件である。
1月3日(旧暦)に鳥羽伏見の戦いが始まり、徳川方の尼崎藩を牽制するために、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警護を命じていた。

滝善三郎切腹の図
【滝善三郎切腹の図】

Wikipediaの解説によると神戸事件とは、
神戸三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

簡単にまとめればそうなるのだが、この事件直後の諸外国の怒りは尋常のものではなかった。徳富蘇峰の『近世日本国民史 第67冊』に彼らが提出した威嚇的な文章が引用されているが、この事件の対応次第では日本は諸外国の敵とみなし報復措置をとると宣言されている。
“You must immediately come forward and explain this matter. If full reparation be not given, it will be assumed that you are the enemy of foreign nation, who will take measure to punish the outrage.”
“It must be borne in mind that this matter will then concern not only the Bizen clan, not may also cause grave trouble to the whole of Japan.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/132

そして神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕したのである。
この時点では、諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、朝廷は1月15日(旧暦)に急遽幕府から新政府への政権移譲を表明したのだが、諸外国は在留外国人の身柄の安全保障と日本側責任者の厳重処罰を要求したという。

Wikipediaには、「この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされた」と解説されているが、先ほど英語で引用した文章を読めば、おおげさな話ではないことが理解できる。

この事件は鳥羽伏見の戦いで幕府軍がわずか4日で惨敗した直後に起こったのだが、これまでイギリスに対抗して幕府を支援してきたフランス公使のロッシュは失意のどん底にあり、諸外国の中で新政府との交渉をリードしたのはイギリス公使のパークスだったようだ。

しかしながら、フランスがイギリスと同一歩調で動いてもチャンスは生まれない。対日貿易を拡大するためにはやはり幕府と組んで新政府と対抗するしかない。
そう考えてロッシュ神戸事件から1週間後の1月18日(旧暦)に慶喜に謁見を求めて、「此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、フランス軍が新政府軍と共に戦う力になることを提案したのだが、慶喜は「天皇に向かっては弓を引くことはあってはならない」と述べ、ロッシュの提案を断っている。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)
堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)】

そして2月15日(旧暦)にまたフランス人が犠牲になる事件が起きた
フランス海軍のコルベット艦デュプレクスが堺港に入り、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわり近隣の苦情が出たことから、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとしたが逃げられたために咄嗟に発砲し、そのために11名の仏水兵が死亡してしまったのである。(堺事件)
当然のことながら、フランス公使のロッシュはこの事件に激怒した。

ロッシュ
【ロッシュ】

Wikipediaの解説がわかりやすい。
ロッシュは、…2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

15万ドルといっても、できたばかりの明治新政府にそんな大金を支払う余裕があるわけではなかったのだが、昭和6年出版の『摘要堺市史』によると市民や酒造組合等が募金を献じてその金を工面したという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212616/71

英国外交官の見た明治維新

新政府はフランスの要求を全て飲んで、2月23日に堺の妙国寺で土佐藩士20名の切腹が行なわれることとなったのだが、切腹の場で藩士たちは自らの腸を掴み出して、居並ぶフランス水兵を大喝したという。
当時イギリス公使館の二等書記官であったアルジャーノン・ミットフォードは『英国外交官の見た幕末維新』のなかで、こう記している。

「最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地をけがした忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで―――これは殺されたフランス人の数であったが―――フランス人たちは耐えきれなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を助命するように頼んだ。彼はこの場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。」(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』p.153-154)

フランス人たちはあまりに壮烈な土佐藩士の割腹に目も当てられなくなり、その場で9人の助命を申し入れたという。そして翌24日に外国事務局総督山階宮晃親王がロッシュを訪ねて堺事件についての明治天皇からの謝意を伝え、ロッシュは9名の助命を公式に了承した。又ロッシュは宮中への招待を受けて30日に御所に参内し、天皇からの謝意をうけてこの事件は解決したのである。

このように、フランスが挑発するつもりで厳しい要求をしても新政府はその要求を飲み、軍事行動を起こす口実を与えなかったし、慶喜も戦意が無かった。
幕府を援けて対日貿易を拡大するロッシュの対日政策は完全な失敗に終わったために、フランス本国においてこれまでの佐幕派支援政策が全面的に見直され、ロッシュは公使を罷免されて、5月4日にはわが国を離れて帰国の途についている

ところがロッシュが徳川幕府を支援するために送り込んだフランス人軍事顧問団の一部がわが国に残り、フランス軍籍を離脱して戊辰戦争に参加し旧幕府軍とともに戦っている。


榎本武揚
【榎本武揚】

以前このブログで書いたことがあるが、新政府は5月に徳川家に対する処分として、駿河、遠江70万石への減封を決定した。それまでは800万石であったので、これでは徳川家の膨大な家臣団を養うことは不可能だ。多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させようとした

ジュール・ブリュネ
【ジュール・ブリュネ】

フランス人軍事顧問団のメンバーは日本を離れるようにとの勅命が出ていたのだが、ジュール・ブリュネ大尉以下5名は、軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んだのである。
Wikipediaによると、彼らは「イタリア公使館での仮装舞踏会の夜に侍の扮装のまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流」し、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」の創設を支援したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D

旧幕府軍は明治元年(1868)12月15日には蝦夷地を平定したものの軍資金は乏しく、翌年春から本格化する新政府軍の進軍に押されて、明治2年5月18日(新暦1869年6月27日)に土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争は終りを告げた。ジュール・ブリュネらフランス人兵士は五稜郭陥落前に碇泊中のフランス船に逃れたようだ。

その後ブリュネは6月に帰国し、軍に復帰が認められたのち普仏戦争などで活躍し1898年にはフランス陸軍参謀総長にまで登りつめたという。

陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ
【陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ】

また、軍事顧問団の隊長であったシャルル・シャノワーヌは、ブリュネのように旧幕府軍と共に戦う道を選ばなかったが、フランス帰国後は陸軍大将まで昇進し、1898年にはアンリ・ブルッソン内閣の陸軍大臣に就任している。
ロッシュが徳川幕府の軍事力強化のためにフランス陸軍の超一級の人物を送り込んだことは紛れもない事実である。その後この二人は日清戦争においてわが国に貢献したことが認められ、明治政府からシャノワーヌに勲一等旭日重光章、ブリュネに勲二等旭日重光章が授与されたことは記憶に留めておきたいところである。

慶喜が幕府を守るために新政府軍と戦う意志を最後まで持たなかったことは、ロッシュにとっては想定外のことであったろう。彼がこれまで推進してきた対日戦略が大失敗に終わり、フランス公使を罷免されたロッシュは、帰国後外交官を辞して58歳の若さで引退したという。
そして1901年6月23日、ボルドーにおいて91歳の長寿で没したのだそうだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

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大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由

前回は石川県の「不平士族」が大久保利通を暗殺したことを書いたが、「不平士族」と言う言葉を用いると、普通は「不平」を持つ側は少数で「悪い」側と受け取られることになる。
歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、「勝者」に正当性、正統性があると描かれるものであり、対立する勢力は「悪者」にされるか、「抵抗勢力」「不平分子」などとレッテルが貼られるのが常であるのだが、かといって「勝者」側に「正義」があったのかを問うと、必ずしもそうではなかったということが往々にしてある。もし「敗者」側に「正義」があったとしても、「勝者」は歴史叙述の中で「敗者」を悪しざまに描くものなのである。

討幕の密勅

徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出た慶応3年(1867)10月14日に薩摩藩・長州藩に対して「討幕の密勅」が下されたことを学んだのだが、この密勅をよく読むと「幕府を倒せ」とは一言も書かれていない。ポイントとなる部分は「汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ」だが、簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえという命令文書である。しかしながら、大政奉還が成就してこれまで権力の中枢にあった「徳川幕府」は存在しないのだから、普通に考えると「討幕」という言葉はありえない。
「徳川家を全滅させよ」というのはつまるところ私闘以外の何物でもなく、しかもこの密勅は正式な手続きを経ていない「偽勅」であったことが今ではわかっているのだ。
この「偽勅」に対して「討幕の密勅」などという言葉を未だに歴史学者が用いるのは、学会という特殊な集団においては「薩長中心史観」が主流であるということの証左なのだろう。

聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)
【聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)】

12月9日は岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定したのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かっている。

山内容堂
【山内容堂】

諸侯の大多数は平和解決を望んでおり、12日には土佐藩の山内容堂が朝廷に以下のような意見書を奏上した。
「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)
その同日に阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩連名の同様の意見書が二条城に届けられて、薩長は方針転換を余儀なくされることとなった。

開国の真実

幕府方の会津桑名兵を挑発して、旧体制を粉砕するきっかけを得ようとした目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで薩摩藩は、次いで江戸市中攪乱により内乱のきっかけを作ろうとした
鈴木荘一氏は『開国の真実』でこう解説している。

相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だった
ことである。」(『開国の真実』 p.325-326)

薩摩藩邸焼打ち事件
【薩摩藩邸焼打ち事件】

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、それまで薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたのだが薩摩藩の非合法活動が一段と活発化し、12月22日には庄内藩屯所が銃撃され、23日未明には江戸城二ノ丸で不審火があり、同夜には庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれて、隠忍自重してきた老中淀藩主稲葉正邦もついに堪忍袋の緒が切れ、酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じ、12月25日早朝に旧幕府軍は、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟である薩摩藩邸を焼打ちしてしまったのである。

大阪にいた慶喜はこの報告を聞いた後も「此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ」と、当時旧幕臣の大多数が主戦派に傾いていたのを斥け、ともかくも恭順論を貫くことを命じたのである。

教科書などでは戊辰戦争の緒戦の鳥羽伏見の戦いについて「1868年1月、薩摩・長州軍藩兵を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍とのあいだに、兇徒の近くで武力衝突が起こった。これに勝利を収めた新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討し、江戸へ軍をすすめた。」などと開戦責任を曖昧にしているが、当時の記録を読むと、慶喜に上京を命じておいて京に向かう警護の行列に新政府軍が一方的に発砲したのが真相であり、この時旧幕府軍には戦う意思はなかったようなのだ。

維新前後の政争と小栗上野の死

国立国会図書館デジタルコレクションで関連書籍を探していると、『維新前後の政争と小栗上野の死』という本が目にとまった。著者の蜷川新(にながわあらた)氏は法学者・外交官を歴任し、旗本小栗上野介の義理の甥にあたる人物だという。今日ではこのような視点に立った記述が紹介されることはほとんどないのだが、一部を引用させていただく。

岩倉、西郷、大久保等は、慶喜が大兵を擁して、大阪に在るを自己等の為に危険視した。もしも大阪を根拠として、京都にある薩軍に反抗せられたならば、交通路は絶たれ、京都の薩軍は甚だ危うしと心配した。彼らは一大権略家であるが故に、自己の心を以て、徳川方を猜疑したのである。
 岩倉らは流石に智者である。即ち一策を案じ、慶喜に軽騎上京を命じ、会桑*に向かっては、その本国に帰還すべきを命じた。この命は、天皇の大命として伝えられた。
 慶喜としては、この大命に反くを得ない。慶喜の立場は困難に陥った。上京せざれば、反逆者の如くに取扱わるべく、軽率に上京すれば、危険身に迫るべきは当然であった。慶喜を擁護する者より見れば、武士の習いとして、その主と仰げる慶喜を見殺しにするを得ざるは当時の武士的道徳であった。親藩たる会桑は、慶喜を守護して上京すべしということに一決した。これ武士として正しい考慮であった。薩長を討伐するがためではなく、唯だ警護者として随伴するにすぎなかった。岩倉等一味の権略陰謀甚だしきに対しては、これより以外に取るべきの途はなかったであろう。
 慶喜は命により上洛した。慶喜は戦闘隊形を以て、上洛したのでは決してなかった。勿論武士であるが故に、武器は各人何れも携帯して行った。しかるに薩長の兵は、此の上洛者を鳥羽伏見に阻止した。而して付近の高地をあらかじめ占領し、発砲を以て徳川方に挑戦した。これ天人ともに怒らざるを得ない暴状ではないか。彼らは此の機会を利用して、慶喜以下を全滅せしめんと策動したのであろう。」
*会桑:会津藩、桑名藩のこと 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/124

薩摩軍は慶喜の上洛を待ち伏せて大砲を打ち込んだとあるが、その点については会津藩の永岡清治が『旧夢会津白虎隊』でこのように記している。文中の「伏水」というのは京都市伏見区の地名で明治12年に「伏見」の表記に統一されている。

鳥羽伏見の戦い

田中玄清*は正午淀を発し、伏水に向かう。元来この行は従軍とは思わず、警備の心得なり。余等伏水駅端の街路に憩いし時、商賈両三人来たり。桃山の半腹を指さし、此処には大砲一門、彼処には二門と兵児三四百人戎装して備えりと、一々これを説示し且つ言う。伏水奉行所には会兵、肥後橋にも会兵、奉行所の北及び御香宮などには薩長固め大砲を並び塁を積み関門を設け行人は議して而して之を拒否す。竹田街道には土州これを警衛すと告ぐ。尋て雪空となり、夕陽春く頃、西北鳥羽に当たり大砲二発聞こゆるや否や伏水鳥羽共に天地震撼するばかりなり。」
*田中玄清(はるきよ):会津藩家老。幕末の藩主・松平容保に仕えた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925910/75

戊辰物語

会津藩の記録をそのまま信じるわけにはいかないとも思うのだが、彼らが「警衛の心得」で臨んでいたことは真実だと思われる。
岩波文庫の『戊辰物語』は、明治維新の動乱を経験した古老からの聞書きを編集した「東京日日新聞」の連載記事をまとめた本だが、ここにはこう記されている。

「鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人ひとり名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様で、…」(『戊辰物語』p.30)

槍や刀で立ち向かうしかないような陣形をとっていたために旧幕府軍は銃撃戦で大敗したわけだが、そのような陣形をとっていたということは、旧幕府軍は薩長軍との戦いにはならないことを前提にしていたということであろう。
大阪にはフランス教師直伝の伝習兵がいて、ミニエー銃などの最新兵器も大量に保有していたのだから、はじめから薩長との戦いを覚悟していたのなら、近代的兵器を活用できる陣形を取るのが自然である。そうしていればこんなに無様な負け方をすることはなかったであろう。

慶喜は戦う意思はなかったのだが、ならば鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争は、何のための戦いであったのか。

西郷隆盛

西郷隆盛は当時「此度の創業幸いに我勝たば、主として統一を図るべし。彼勝たば、徳川氏の中興正になり、天下靡然として一に期せん。皇国の独立は期して待つべし。故を以て、我れ勝つも好し、彼れ勝つも好し。その勝敗の如きは論ぜずして可なり。兎も角も一戦を賭して、日本の統一を図るにあり」と述べたそうだが、大政奉還がなされたにもかかわらず、徳川方と一戦を交えて勝利して、徳川の経済基盤を奪取し薩長が権力を掌握することにこだわっていたようなのである。のちに慶喜は「辞官納地」も許容したので、それでもなお徳川軍を討伐しようとした薩長の意図は、薩長主導で政府を作ることにあったと考えるしかない。

蜷川新
【蜷川 新】

蜷川新氏は『維新前後の政争と小栗上野の死』で挑発をし続けた薩長を非難しているのだが、この文章を読むと、これまで教科書やテレビの解説などで何度も耳にしてきた歴史叙述に随分偏りがあることに誰しも気づかざるを得ない。不平士族の問題もこのような視点から見直すべきなのだと思う。

大政奉還は、既に前年十月を以て成就したのであり、幕府はその時に消滅したのである。『徳川の中興』なぞ断じてあらしむべきものではなかった。然るに西郷は、戦の勝敗にて徳川の中興生じて可也と言明したのである。これ果たして忠誠の言というを得ようか。王政の復古は、既になったのである。進んで為すべきは、各藩何れもその権力を朝廷に奉還すべき一事であった。慶喜は既にこれが範を示したのである。しかるに、他の藩主藩臣に一人としてこの精神なし。島津も毛利もその藩臣も、そのまま藩として引き続き存在し、依然として地方の権力を握り、地方に君主の威を以て存在せんとしたのであった。かくして、天下の統一成ろう筈なし。しからば西郷には『統一』の言のみあって、統一の実を完(まっと)うするの誠意なかりしものと言うべきではないか。統一を欲するならば封建の廃止でなければならなかった。幕府既に亡びたる後において、唯だ一家の徳川氏のみを追窮することが、当時の緊急事業では断じてなかった。伏見鳥羽の戦なぞは国家国民の為に避く可かりしものであり、かかる無益の流血なくして至当の公議を竭(つく)し、諸侯を廃し、王政復古を至誠を以て進行すべきであった。
 もしも徳川方にして、執拗に封建の存続を図り、日本国をして世界の大勢に順応せしむるを阻止する所為もありしとせば、薩長及び公卿らが唯一に武力を以て、徳川方を討滅するは、当然執るべきの処置であった。しかしながら、徳川幕府は国家の為に自ら消滅し去ったのである。幕府方に確にこの正しき行道あり。しかるに、薩長の人々が、幕府亡びしのちの徳川方を圧迫し、故さらに戦乱を起こさしめたるが如きは、何ら是認すべき理由はないのである。…
 自ら権略陰謀これ事とし、王政復古成れる後に於いて、内乱を煽動挑発し、しかる後に、兵力を以てこれを平らげ『王政復古の功労者は我らなり』と宣伝するものありとせば、国民はそれら権謀の徒の弄策を正しからずとして裁判せざるをえないであろう。これ国民的公判である。
 伏見開戦の責任者は、薩長方にある。而して其の初めは私闘であった。それ故にもしも『喧嘩は両成敗なり』というならば、徳川方も薩長方も同じ様に罰せられるべきはずであった。然るに輪王寺宮の御令旨にもある如く、第三日目よりして、錦旗は即妙的に薩長方に掲げられた。而して徳川方の敗北にあらざりしも『形勢不利也』として徳川方はその兵を引き揚ぐるや、この総退却者を以て『逆賊也』と公然宣布せらるるに至った。国民よりしてこの史実を今日において科学的に判断せしむれば、いずれが正、いずれが非なりとなすであろうか。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/125

錦の御旗
【錦の御旗】

旧幕府軍には逆賊となる意思もなく、鳥羽伏見の戦いではただ武士の習いとして応戦しただけであったのだが、この戦いが始まった3日後に錦の御旗が掲げられて、旧幕府軍は『逆賊』とのレッテルが貼られてしまった。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉は明治維新後に広まった言葉なのだが、このような言葉が全国で広まったということは、明治維新政府側が卑怯な手段を用いて政権を掌握したことを、明治人の多くが認識していたということではないのか。
教科書などで描かれているわが国の近代史は、明治維新から150年も経ったにもかかわらず、未だに薩長勢力にとって都合よく描かれていると考えるのは私ばかりではないだろう。ここ数年来ようやく明治維新を見直す著作の出版が相次いでいるが、教科書などの江戸幕末から明治初期の叙述が全面的に書き直される日は来るのだろうか。

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【ご参考】
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期の歴史は薩長にとって都合の悪い史実はほとんど書かれていません。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
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廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
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静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
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徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
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徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
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浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
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明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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