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薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス

元治元年(1864)3月にフランスの新公使ロッシュが日本に着任した。この人物は、前任のド・ベルクールがイギリス追随であったのに対し、イギリスと対抗しようとする姿勢で臨んでいる。

ロッシュ
【フランス公使 ロッシュ

鈴木荘一氏の『開国の真実』にこう解説されている。

ロッシュは、着任早々、幕府首脳陣に対し、
『アヘン戦争がはっきり示しているように、イギリスは工業製品の市場を拡大するためには他国を侵略して顧みない。これにひきかえフランスは天然の資源に富み、芸術・科学もそうであるように、軍事上でも偉大な、しかも正義を愛する国である』
と公言した。
当時57歳、老練な外交官ロッシュの指摘は、宣伝臭があるにしてもなかなか鋭い。
ロッシュは、就任早々から大見得をきってイギリスと一線を画し、イギリスに対抗した独自の対日政策を打ち出したのである。
当時、アメリカは南北戦争の終盤で対外的意欲はなく、ロシアもクリミア戦争でイギリス・フランス連合軍に負けたのち農奴解放問題など国内矛盾を抱えて対外的覇気は無く、世界の覇者イギリスに対抗しようという『元気印』はフランスぐらいだった。しかもフランスには『条約の締結相手であり日本の正統政府である徳川幕府と親交を深める』という大義名分があった。
また当時、対日貿易はイギリスが圧倒的なシェアを占め、フランスはアメリカ、オランダにも劣後していた。フランスにとってこの改善も課題だった。

とくに貴婦人が装う高級絹織物で世界一の生産量を誇ったフランスは、我が国の東日本で産出される高品質の原料生糸や蚕卵紙の独占的確保を希望した。…
フランスは貴婦人の為の絹織物工業という平和産業に必要な原料生糸を我が国から輸入しようとし、イギリスはわが国へ人殺しの道具である武器を輸出しようとした。
こうした通商政策の相違が、イギリスとフランスの対日政策の対立となったのである。」(『開国の真実』p.289-291)

しかもイギリスが我が国に輸出しようとした武器は極めて殺傷力の高い最新鋭のものであり、しかもそれを我が国の正統政府である幕府ではなく、それに敵対する薩摩藩、長州藩に輸出していたのである。
もし、イギリスが支援する薩摩藩・長州藩が、最新鋭の大量の武器で幕府を倒すことになれば、イギリスが対日貿易を独占してしまい、フランスは日本市場から締め出されることになりかねない。

イギリスを牽制するために、慶応元年(1865)5月にイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表を集めて、わが国に対する内政不干渉・密貿易禁止などを定めた『四国共同覚書』を取り交わしたのだが、イギリスはその取り決めを守らず、その後も薩摩藩・長州藩への武器輸出を続けたのである。

前回の記事で記したとおり第二次長州征伐は幕府軍が大軍を擁しながら三十六万石の長州藩に敗れてしまったのだが、徳川幕府はその直後の8月に、旗本の刀と槍を捨てさせて全員に銃を携行させ、少数精鋭で攻撃力強化をはかる軍制改革を断行した。

フランス軍事顧問団
【フランス軍事顧問団】

将軍徳川慶喜はフランス公使ロッシュの勧めでフランスから陸軍軍事教官を招き、軍の教育を要請している。再び鈴木荘一氏の解説を引用する。

「当時、フランスはナポレオン3世の時代で、全欧州を席巻したナポレオン1世の時代ほどではなかったが、それでもなお有力な陸軍国だった。慶応3年(1867)2月フランス陸軍士官シャノアン、ブリュネー以下18名の教官が来日し、横浜に設けられた伝習所で歩兵・騎兵・砲兵の教育が開始された。フランスから士官と兵士の軍服類も日本へ送られ、旗本たちはこれを着用した。その後、伝習所は江戸郊外の駒場野に移された。慶応3年(1867)6月には陸軍幹部養成のための三兵(歩兵、騎兵、砲兵)士官学校創設が決まり、旗本の子弟で14歳から19歳までの志願者を募集した。
 こうして徳川慶喜は慶応3年(1867)年末には歩兵7個連隊、騎兵1隊、砲兵4隊、計1万数千人の近代的陸軍を整備した。」(同上書 p.295-296)

Franco-JapaneseInfantryTraining.jpg
【幕府歩兵の調練風景 Wikipediaより】

かくして徳川幕府は、討幕勢力から畏怖されるまでに武力を整えたのだが、イギリスが長州藩を支援して上海―下関ルートで武器の密輸が行なわれていることを咎めることができない事情があった。

「…イギリスは『世界の覇者』である。幕府に、イギリスの不法行為を非難する力は、到底なかった。だから幕府は、イギリスと直接対決しないように細心の注意を払いながら長州藩を膺懲しようして、第二次長州征伐に踏み切り、あえなく返り討ちにあった。
 第二次長州征伐での幕府軍の敗北は、結局、長州藩とイギリス商人達の武器の密貿易を容認する結果となったのである。
 通商条約は『下関の開港』も『幕府以外の者による運上所への無届け武器輸入』も認めていない。
 それなのに世界の覇者イギリスは、通商条約違反を先頭に立って行っている

 …
 幕府はこの問題を軍事力によって解決する選択肢を持ち得なかった。
 第十五代将軍徳川慶喜は、この難問を外交によって解決するしか無かった。問題の焦点は、
『イギリスが、開港場以外の下関で、幕府以外の者に対する無届け武器密輸を行なっている』という『通商条約違反』である

しかし幕府にはイギリスの通商条約違反を強く論難できない事情があった。
それが、『兵庫開港問題』であった。
井伊大老が調印した通商条約は『兵庫開港』を定め、その実施時期はロンドン覚書により、『慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)まで』と対外公約していた。
しかし兵庫開港は朝廷から勅許が下りず、暗礁に乗り上げたまま手付かずの状態
にあった。

朝廷から兵庫開港の勅許が下りず『兵庫未開港という通商条約不履行』のままでは、幕府としても、『イギリスの通商条約違反を強く論難することは出来なかった』のである

だからパークス*は、幕府に兵庫開港を強く要求しつつ、一方ではイギリス商人達の『下関での密貿易という通商条約違反』を臆面もなく黙認した。」(同上書p.298-299)
*パークス:イギリス公使

この問題の解決のため、フランス公使ロッシュは幕府に対して兵庫開港の決断を促す書状を出している。慶応3年(1867)3月に徳川慶喜に謁見の際にロッシュが言上した内容が『徳川慶喜伝 巻3』に記されていて、この本は『国立国会図書館デジタルコレクション』に収められているので、誰でもネットで読むことができる。

条約は必ず履行せざるべからず。これを履行せざるは、政府が外交を好まざるか、または微力にして決行する能わざるかの二つにもとづく。外国政府はその目的を達せんがため、もし前者ならば兵力に訴うべく、後者ならば有力の諸藩と交を結ぶに至るべし。…薩長二藩はすでに英国と通じて公然幕府に反抗せんとす。この際宜しく処分の法を定めて、兵庫と新潟の代港を開き、江戸・大坂は人心不居合の故をもって注視し、更に下関・鹿児島の二港を開くべし。しからば二藩が流布したる幕府外交を好まずと言える説は自ずから消滅せん。また二藩にして領内の開港を拒まば、その奸計は暴露すべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953148/284

徳川慶喜
【徳川慶喜】

ロッシュの提案は、薩長の先手を打って幕府が兵庫を開港し、日本国の外交の主導権が徳川幕府に存することを諸国に示すことなど多岐にわたるが、徳川慶喜はさすがに下関・鹿児島の開港には賛同しなかったものの、兵庫の開港については対外公約したものであり、履行することをロッシュに明言し、すぐに行動に移している。

慶喜は4月に兵庫開港の勅許を朝廷に要請し、勅許が下りない状態で5月に四国(英仏米蘭)公使と正式に接見し、兵庫開港後の規則などを協議している。この接見は外国側に好印象を与えたことが記録されているようだが、慶喜が諸外国と親密な関係になることは、討幕勢力に肩入れしているイギリスにとっては望ましいことではなかったはずだ。

『国立国会図書館デジタルコレクション』に大熊真氏が著し昭和19年に出版された『幕末期東亜外交史』という本がある。その本に、その頃のイギリスと薩摩の動きが記されているので紹介したい。

幕末期東亜外交史

「慶喜の四国公使接見は、外国側に非常な好印象を与えた。諸公使の記述は、その点で一致している。『大君*陛下は31歳で極めて交換を持たせる容子の持主であった…』とファンケンブルグ**は慶喜をほめそやし、サトウ***も『彼は余の見たうちで最も貴族的な容貌をしていた。その額は高く、その鼻は姿よく隆起し―申し分なき紳士であった…』といっている。こうして諸国と幕府とが、しっくりと結び合おうとしている形勢が、薩長にとっては焦慮の的となった。この前後、サトウは、西郷隆盛らの訪問を受けた。サトウは書いている。
余は西郷に言った。革命の機会を逃してはいけない。もし兵庫が開かれてしまったら、諸大名にとっての機会は永遠に去るであろう。』(Satow, Diplomat, p.200)
 兵庫・大坂が幕府の手で開かれてしまえば、その地の平和と安全とは、諸外国の関心事となるから、これらの土地の争奪、これらの土地での戦闘は、諸外国が、艦砲と陸戦隊との力にかけて、防止するであろう。…サトウは、そういうことを念頭において、西郷らに『やるなら今のうちだ、機会を失すれば、諸侯はつぶされるぞ』と警告したのであろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/139
*大君(タイクーン):徳川幕府将軍
**ファルケンブルグ:アメリカ公使
***サトウ:イギリス公使館の通訳官のアーネスト・サトウ


そして慶喜は、慶応3年(1867)5月23日の朝議の場で、兵庫開港の勅許を要請した。

慶喜は勅許を得るまでは帰らないことを決心して朝議に臨み、夜8時より始まった会議は翌朝まで続いたが結論が出ず、さらに翌日の夜まで続いたという。朝彦親王御日記によると、朝議の時間がかかった主な理由は、近衛忠熙、近衛忠房の父子が薩摩藩の意見を確認するためにことさらに議論を引き伸ばし、近衛忠房は非蔵人口で薩摩藩士と談合していたというのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228700/72

しかしながら慶喜は一昼夜の議論に打ち勝って、24日の夜8時になって兵庫開港の勅許を獲得している。

開港したばかりの神戸港
【開港したばかりの神戸港】

慶喜は6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出している。

かくして徳川慶喜はフランス公使ロッシュの献策のとおり、兵庫開港の勅許を得て井伊大老の調印した通商条約の不備を補完し、これによって諸外国からの苛烈な要求を封じることができたのである。しかしながら、アーネスト・サトウが西郷に語った「もし兵庫が開かれてしまったら、諸大名にとっての機会は永遠に去る」ということにはならなかった。
その点については次回以降に記すことにしたい。

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フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか

前回の記事で、フランス公使ロッシュの献策により、慶応3年(1867)5月に朝議の場で徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得、井伊大老の調印した通商条約の不備を補完して対外公約を果たし、これにより幕府は、諸外国から苛烈な要求をする原因を封じることに成功したことを書いた。

徳川慶喜はその2ヶ月前に大坂で各国の公使と謁見しその席で兵庫開港を確約したのだが、この時の慶喜は各国公使に好印象を与え、これまで討幕勢力を支援してきたイギリスの公使・パークスも慶喜を高く評価して次のような感想を書きとめている。

イギリス公使・パークス

わたしは将軍がどのような地位をしめることになろうと、可能な限りかれを応援したいと思っている。」
「この大阪訪問によって、とりわけつぎのような好ましい結果が生まれることを、わたしは信じて疑わない。それは、われわれ諸外国の代表が、以前よりもいっそう深い関心を将軍に対してもつようになることである。」
じっさい、将軍は、これまでわたしが知り合った日本人の中で、もっともすぐれた人物であるように思われる。おそらく、かれは、歴史にその名をとどめることになるであろう。」
(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4 慶喜登場』p.409より)

これまで討幕派を支援していたイギリスの公使が、徳川慶喜という人物に謁見した途端に幕府・将軍に心を寄せることになることは、薩長にとっては面白くないことであることは言うまでもない。

この謁見のあと、西郷隆盛らがイギリス公使館の対日政策に関わっていたアーネスト・サトウを訪ねている。サトウの著書にはこう記されている。

アーネスト・サトウ

「私は、西郷やその一派の人々の訪問をうけたことを覚えている。彼らは、我々と将軍との接近について、大いに不満であった。私は、革命の機会がなくなったわけではないことを、それとなく西郷に言った。しかし、兵庫が一たん開港されるとなると、その時こそ、大名は革命の好機を逸することになるだろう。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.255)

慶喜は慶応3年(1867)6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出しているのだが、いったん兵庫港が開港されて外国人が居留するようになれば、諸外国は平和を求めることになり、薩長の討幕運動は外国からの支持を得られなくなってしまうことをサトウは西郷らに伝えたのであろう

その後の薩摩藩の動きを見ていると、このサトウの言葉に触発されたことが窺えるのだ。
徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得ようとした5月の朝議(四候会議)で結論を先延ばしにする工作を行っていたのだが慶喜に押し切られてしまい、その会議の直後に薩摩藩は武力討幕の方針を固めている

一方徳川幕府は、前回記事で記したとおり、フランス陸軍の指導により近代的陸軍を整備していた。幕府軍は第二次長州征伐で大敗した頃とは様変わりしており、フランスはこの軍隊で薩長を倒すことを考えていたようである。

慶応3年(1867)8月に薩摩藩の西郷隆盛らが再びアーネスト・サトウを訪ねてきた際に、サトウが西郷らに話した内容が前回紹介した『幕末期東亜外交史』に出ている。フランスは、イギリス大使のパークスが慶喜びいきになったのを見て、共同で薩長を倒そうとサトウに持ちかけてきたというのだ。その本にはこう記されている。

仏人はサトウに、幕府の薩長取り潰しを仏英協力して援助してやろうではないかと、話を持ち掛けてきた。サトウは『串戯(じょうだん)でしょう。長州一藩さえ抑え切れぬ幕府など、援助しようにも方法がつかぬではないか。』とやりかえしたので、仏人も二の句がつけなかったようなわけです。しかしかかる論を公然とイギリス人にもちかける位ですから、フランスは、きっと幕府を援けて、諸侯をつぶす策をめぐらしていることは勿論で、幕府は『両三年のうち、金を集め機械を備え、仏(フランス)の応援を頼み、戦を始め候所存』とみえる。その時は、仏は、軍隊をくり出して幕府を援助するだろうから、諸侯の方でも、仏に負けない大国を背後に備えないと、危ないことになろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/141

「仏に負けない大国」とは、イギリスを指していることは言うまでもない。
そうサトウが述べた後に西郷らに対してイギリスに相談したいことがあれば言ってもらいたいと持ちかけた際に、西郷隆盛が語った有名な言葉がある。
日本政体変革の処は、いずれとも、我々尽力致すべき筋にて、外国の人に対し、面皮もなき訳と返答いたし置き申し候。」
要するに、日本の革命はわれわれ自身の手で行うことをサトウに宣言したのだ。

西郷隆盛

西郷が国許の桂に宛てた手紙に、この会談でサトウが西郷らに何を言い西郷がどう考えたかについて、こう記録されている。
譬(たと)え仏の援兵を相発し候時は、英国より押し付け候儀は相調(ととの)い申すべく、その節は英国においても戦争のため警護出兵いたすと申し触らし、同敷(おなじく)軍兵を差し出し候えば、必ず仏国の援兵は差し出し候儀は相叶い申さず候に付き、右のご相談も候わば承るべしと、却(かえ)って彼(サトウ)の方より申し出候に付、是は大幸の訳、其の時機に至りては御相談申すべしと相答え候ては、又英国に使役せらるる訳に相成り候のみならず、全く受太刀に落ち来り、議論も鈍り、此の末の処下鳥(したどり。負け犬というほどの意)に相成り候儀、自然の勢いに御座候故…」(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄5 外国交際』p.273-274)

サトウの言う通りに幕軍に対抗するためにイギリスの出兵を依頼してしまっては、たとえ幕府軍に勝利しても、わが国はイギリスに支配される国になってしまうことは西郷にはわかっていたのだ。しかしながらイギリスは、わが国が内乱状態に陥ることを期待していたからこそ、薩長を挑発し続けたのではなかったか。

大政奉還

そしてその2カ月後には、徳川慶喜は朝廷に政権を返上しているのだが、この時代の歴史はいくら教科書を読んでも、なぜ慶喜が大政奉還を選択したかがさっぱりわからない。

たとえば、標準的な高校の教科書である『もう一度よむ山川日本史』では、その前後の歴史についてこう記されている。

「長州再征の失敗後、徳川(一橋)慶喜が15代将軍となったが、幕府の力はすっかり衰えた。土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎らは、欧米列強と対抗するためには、天皇のもとに徳川氏・諸大名・藩士らが力をあわせて国内を改革する必要を強く感じた(公議政論)。彼らのはたらきかけで、前土佐藩主山内豊信(容堂)は、将軍慶喜に政権を朝廷に返上するよう進言した。慶喜もこれを受け入れ、1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出た。しかし同じころ、薩長両藩の武力討幕派は、岩倉具視ら急進派の公家と手をむすんで討幕の密勅をえた。そして彼らの主導によって、同年12月9日、いわゆる王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士などからなる新政府が発足し、二百数十年つづいた江戸幕府は滅亡した。」(『もう一度よむ山川日本史』p.216)

ほとんどの教科書には、イギリスやフランスの動きにも兵庫開港問題にも何も触れておらず、これではなぜ薩長が討幕を急いだかが見えてこないし、幕府と討幕派との内戦が始まってもおかしくない緊迫感が全く伝わってこない。これでは慶喜が朝廷から兵庫開港の勅許を得てからわずか5カ月で大政奉還を申し出たかが理解できないのは当然だと思う。

そもそも将軍慶喜が土佐藩の大政奉還建白を受けいれた意図はどこにあったのだろうか。

徳川慶喜

次のURLに徳川慶喜の『大政奉還上表文』の原文と現代語訳が出ている。
http://www.geocities.jp/sybrma/259taiseihoukan.html
重要なのは次の文章である。
「最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。」
内容的には、慶応4年(1868)3月に公布された明治天皇の『五箇条の御誓文』の内容によく似ているのである。

開国の真実

今まで何度か紹介した鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう解説されている。
「大政奉還1ヶ月前の慶応三年(1867)九月には、幕府開成所教授津田真道が著書『日本国制度』を提出し、大政奉還後の政治体制のあり方について論じている。徳川慶喜が考えた大政奉還とは。『自らの力で開国を成し遂げ、慶喜が中心となってイギリス型の近代的議会主義へ転換すること』だったのである。
 イギリスは、共和国のフランスやアメリカと異なり、国王を元首とする立憲君主制で、国王は『君臨すれど統治せず』の原則により政治責任をおわない。首相が政治上の指導者である
 イギリス立法府は上院と下院からなる二院制で、上院は世襲議員や僧侶から構成され、イギリスには今も貴族制度が残っている。
 だから、当時の日本が天皇制や公家制度など古(いにしえ)からのしがらみを遺しながら近代化を図るには、イギリスを手本として、天皇を国家元首とし、大君(将軍)を政治上の指導者とし、一万石以上の大名を世襲の上院議員とすれは、容易にイギリス型公議政体に移行できる。
 徳川慶喜は『刀槍の時代の次は議会の時代』と考えた
のである。」(『開国の真実』p.308-309)

アーネスト・サトウが予想していたように、徳川幕府がフランス軍の協力を得て、薩長等の討幕勢力を征伐する選択もあったのだろうが、徳川慶喜はそれを選択せず、平和的に政治体制を変革することを選んだのである。
慶喜は、大政奉還を奏上しても朝廷には政権を運営する能力も体制もないので、徳川家が天皇の下で新政府に参画すれば実質的に政権を掌握することができると考えていた可能性が高い。事実朝廷からは、上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら、緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとされている。つまり慶喜による政権掌握が実質的に続くことになったのである。

もし、慶喜が大政奉還ではなく倒幕勢力を征伐することを選択していたとしたら、恐らくイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する大規模な戦いが始まっていたことであろう。
以前にこのブログで書いたが、幕末期にわが国に大量に輸入されたミニエー銃は、従来のゲペール銃と較べ、飛距離と命中精度と破壊力が飛躍的に向上し、アメリカの南北戦争では62万人もの戦死者が出たという。
幕府軍と薩長との間で本格的な内戦が起こってしまっていたら、殺傷力の高い武器で多くの人命が失われていただろうし、国土は荒廃し人々は疲弊して、どちらが勝利しても我が国が独立国であり続けることは難しかったと考える。

英邁な徳川慶喜はそのような事態になることが分かっていたからこそ、討幕派の機先を制して「大政奉還」を奏上し、討幕の名目を奪って内乱が起こることを防ごうとしたのではなかったか。

一方の討幕派は、大政奉還に対抗して薩摩藩および長州藩に宛てて秘密裏に徳川慶喜討伐の詔書を下している。
この「討幕の密勅」について書き出すとまた長くなってしまうので、次回に記すことといたしたい。

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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
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中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
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ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
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アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
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大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか

前回の記事で徳川慶喜が1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出たことを書いたが、その同じ日に正親町三条実愛(おおぎまちさんじようさねなる)邸にて薩摩の大久保利通、長州の広沢真臣(さねおみ:当時は兵助)に討幕の密勅が手渡され、薩摩藩および長州藩はその請書を提出している。

この『討幕の密勅』はかなり過激な内容になっていて、次のURLにその読み下し文が出ている。
http://www.japanusencounters.net/restoration.html#restoration

討幕の密勅

「詔す。源慶喜は累世の威をかり、闔族(ごうぞく=一門)の強をたのみ、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めておそれず。万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)におとしいれて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕今民の父母となる、この賊にして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報ぜんや。これ朕が憂憤の在る所、諒闇(りょうあん=天皇の喪服期間)にして顧みざるは、万やむを得ざればなり。汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ。
慶応三年十月十四日、正二位・藤原忠能、正二位・藤原実愛、権中納言・藤原経之、奉る。」

簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえと天皇が命じた文書なのだが、長州藩には京都守護職の松平容保(会津藩主)とその実弟で京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を討伐する命令書も同時に下りている。

ところが、この『討幕の密勅』は正式な手続きを経て作成された詔書ではなかった。
Wikipediaによると、天皇の命令文書である詔書は次のような手続きを経て作成されるものだという。
「1.天皇は、作成された原案を承認すれば、自らの手で日付の一字を記入する(御画日)。
2.摂政・関白は、写しが送られてくると朝廷会議を開催して検討し、妥当と決すれば施行を奏上する。
3.天皇は、可の一字を記入して許可する(御画可)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85

ところがこの『討幕の密勅』は、
明治天皇の御画日も御画可も欠き、摂政二条斉敬の手も経ていないものであった。二条斉敬は慶喜の従兄で親徳川派だったため、密勅の内容を知ればこれを許さなかったと思われる。後に正親町三条実愛は、密勅は二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で、自分と中御門経之・中山忠能・岩倉具視だけが知っていたと証言している。」
とWikipediaに解説されている。

三条実愛
【三条実愛】

そもそも当事者である三条実愛自身が後日「二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で」と証言しているのだから、この詔書は本物でなかったことは明らかである
要するに、岩倉具視ら天皇の側近の一部の者が、自己の野心を遂げるために、天皇や摂政に無断で書かれたものでありながら天皇の命令であるとして広められた文書なのである。

国立国会図書館デジタルコレクションに『大久保利通文書』全10冊が公開されている。
その第二冊に慶応3年10月から明治元年の大久保利通に関わる文書が掲載されているのだが、慶応3年10月8日付で薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵の3名連名で中山前大納言*、正親町三条大納言、中御門中納言宛に『討幕の宣旨降下を請う書』と『討幕の宣旨降下を請う趣意書』を提出している
*中山前大納言:中山忠能(ただやす)。明治天皇の外祖父
**中御門中納言: 中御門経之。妻は岩倉具視の実姉。

『討幕の宣旨降下を請う書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/17
『討幕の宣旨降下を請う趣意書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/18

討幕の密書請書 毛利家文庫
【討幕の密書請書】

そして10月14日付で大久保ら6名の連署で中山前大納言、正親町三条大納言、中御門中納言と岩倉具視宛に『討幕の密勅請書』を差出しているのだが、登場人物の大半が同じであることに注目して良い。要するに自作自演なのだ。
少なくとも薩摩藩にとっては詔書が正式な手続きで出されたかどうかはどうでもよく、朝廷からの討幕の要請が正式に出されたかのように振舞って、それを薩摩藩が引き受けた体裁をとっておけば、「討幕」の大義名分がたつと考えたのだろう。その勢いで討幕勢力を糾合させ、王政復古に持ち込む戦略だったのだと思う。
『討幕の密勅請書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/24

一方、慶喜が朝廷に提出した大政奉還上表』については、翌15日の朝議で勅許が決定して慶喜には大政奉還勅許の沙汰書が授けられている。そして、10月21日には、薩長両藩に対しては討幕の実行延期の沙汰書が下されている
はっきり言ってこの時期の朝廷は二条摂政や賀陽宮朝彦親王*ら親幕府派の上級公家によって主催されていて、大政奉還がなされても、朝廷の下に開かれる新政府は慶喜主導になることが当然予想されていた。討幕派はいずれそれを引っくり返すために、早くから武力討幕の準備を着々と進めていた。
*賀陽宮朝彦親王:中川宮、維新後久邇宮

鈴木荘一氏の『開国の真実』に、大政奉還の2ヶ月前の8月20日に木戸孝允と坂本龍馬が密談をしたことが紹介されている。しばらく鈴木氏の著書を引用させていただく。

「この日、木戸孝允は坂本龍馬に、
『…どうか大政返上のことも、七、八分まで行けば、その時の状況で十段目は砲撃芝居以外にはやり方がないだろうと思う』
と話し、坂本龍馬は大いに感服して同意
した。そして坂本龍馬は、9月24日、オランダのハットマン商社から購入したライフル銃1千挺を土佐藩で兵制近代化を進める板垣退助に届けた。
 木戸孝允は坂本龍馬に、アーネスト・サトウ(イギリス公使館員)から示唆された、
『幕府が大政奉還により公権力の名分を失った後に、私闘として武力で幕府を倒す』という『二段階革命論』を吹き込んだ

 …
こうして事態はどんどん進んでいった。討幕の密勅が下った薩摩藩では、藩主島津忠義(当時は茂久[もちひさ])、西郷隆盛らに率いられた薩摩藩兵三千人が四隻の汽船に分乗して11月13日鹿児島を出発し、長州藩領三田尻港を経由して京都を目指した。…
長州藩では奇兵隊・游撃隊など諸隊千二百人が六隻の軍艦に分乗して11月25日藩地を出発し、芸州(広島)藩からは11月28日に藩兵三百人が入京し、11月末には薩摩・長州・芸州藩兵約五千人が京阪神地方に集結
して事態はいよいよ緊迫の度を深めた。」(『開国の真実』p.317-318)

兵庫港が開港される日は慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)で、そのまま開港されてしまえば、将軍慶喜のリーダーシップを内外に印象付けるとともに、貿易が開始されることで諸外国は平和と安全を望むようになる。討幕派が政変を起こすとすれば、少なくとも兵庫開港から遠く遅れない時期に起こさなければならないと考えていたのである。そして11月末には薩長等の討幕軍が畿内に集結してクーデターの舞台が整った。

岩倉具視
岩倉具視

兵庫開港の翌日の12月8日に岩倉具視は薩摩・土佐・芸州・尾張・越前五藩の重臣を自邸に集めて王政復古の断行を告げ、協力を求めている。
そして翌12月9日、朝議が終了して公家衆が退出した後、待機していた五藩の兵が御所の九門を封鎖し、御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳の参内が禁止されたという。
そうした中、岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、慶喜の将軍職辞職勅許、京都守護職・京都所司代の廃止、江戸幕府の廃止、摂政関白の廃止などを決定し、天皇のもとに新たに総裁、議定、参与の三職を置くことを定めている。

夕刻行われた小御所会議について、再び鈴木荘一氏の著書の解説を引用させていただく。

山内容堂
山内容堂

「このように世上騒然とするなか、12月9日、朝廷において小御所会議が開かれた。
 参加者は、15歳になる明治天皇ならびに公卿衆、大名としては尾張藩の徳川慶勝、越前藩の松平慶永(春嶽)、土佐藩の山内豊信(容堂)、薩摩藩の島津忠義、芸州(広島)藩の浅野茂勲(しげこと)の5人である。徳川慶喜は除外されていた。会議では、まず議定中山忠能が『徳川慶喜の官位拝辞と所領四百万石の没収』いわゆる『辞官納地』を主張した。これを聞いた山内豊信(容堂)は怒りを顕し
『なんたることを言われるか。およそ本日のことは頗る陰険にわたっている。徳川慶喜は祖先より受け継いだ将軍職を投げうち、政権を奉還された。その忠誠は誠に感嘆に耐えない。また徳川慶喜の英明は天下に聞こえている。すみやかに徳川慶喜を朝議に参加させて意見を述べさせるべきである。二、三の公卿たちはなぜ今日のような武断を行い、あえて天下の乱階(らんかい)を開こうとされるか』
と反論した。堂々たる正論である。誰も反論することは出来なかった。
その直後、勢いに乗った山内豊重(容堂)の口が滑った。山内豊重(容堂)は、更に続けて
『この暴挙を敢えてした二、三の公卿の意中を推しはかれば、幼冲の天子を擁して、権力を私(わたくし)しようとすもの!』
と断定し、岩倉具視を厳しく糾弾したのである。…(略)…
 突然、矢面に立った岩倉具視は、まなじりを上げて反撃に出た。岩倉具視は、
『御前でござるぞ、お慎みあれ。『幼い天子を擁して』とは無礼にもほどがあろう』
と山内豊信(容堂)を一喝した。岩倉具視は、さらに続けて、
『徳川慶喜が本当に反省しているなら、自ら官位を退き、土地を朝廷に還納すべきである。朝議参加はそれからのことである。』
と声を励まし居丈高に主張した。

…(略)…
しかし越前藩の松永慶永(春嶽)、尾張藩の徳川慶勝、芸州(広島)藩の浅野茂勲は、徳川慶喜の出席を求める山内豊信(容堂)の意見に同調した。山内豊信(容堂)の意見が正論であり常識的だったからである。議論は深夜におよび、膠着した。そして一時休憩となった。
この休憩時間に、薩摩藩士岩下左次右衛門が西郷隆盛に意見を求めると、筒袖・へこ帯に刀を差しただけの姿で警備にあたっていた西郷隆盛は、
『短刀一本あれば片付く事ではないか。このことを岩倉公にも一蔵(大久保利通)にも、よく伝えてくれ』

と言い放った。西郷隆盛『山内豊信(容堂)が会議再開後も慶喜の出席を求めて抗論するなら明治天皇の御前であっても山内を刺殺すべき』と言った。
…(略)…
西郷の意向を聞いた岩倉具視は『なるほど』と唸り、山内刺殺の決意を固め、短刀を懐に入れた。
西郷の意向と岩倉の決心を聞いた山内豊信は、論争は最早これまで、と観念し沈黙した。
 こうして朝議は徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めた。

 結局…、イギリス型公議政体への移行を理想とした徳川慶喜の大政奉還は、
『武力討幕派に隙を見せただけ!』
 という不毛な結末に終わった
のである。」(同上書 p.318-321)

二条城二の丸御殿

こんなひどいやり方で、小御所会議で徳川慶喜の『辞官納地』が決定した時、慶喜は京都の二条城にいた。当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいて、討幕を目指す薩長軍も約5千人が京都にいて、幕府軍と一触即発の情勢であったという。

慶喜が、その後どう対処したかについては次回に記す事としたい。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

幕末の孝明天皇暗殺説を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

「明治天皇すり替え説」を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-255.html

坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
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お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分
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