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戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1

以前日光東照宮に旅行したときには全く気が付かなかったのだが、日光東照宮の参道に繋がる神橋(しんきょう)の入口に、刀を差して日光山を見つめる板垣退助の銅像があるという。しかし、なぜ徳川家の聖地である日光に、徳川幕府を倒した側の板垣の像があるのかと気になった。


板垣退助像

慶応3年(1867)10月14日の大政奉還ののち、12月9日に王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士からなる新政府が発足した。新政府は同日の小御所会議で激論の末、徳川慶喜を新政府に加えず、さらに慶喜に内大臣の官職と領地の返上を命じている。当然旧幕府側はこの措置に強い不満を抱いた。

鳥羽伏見の戦い

そして翌年の1月に、薩長を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間で、京都の近くで武力衝突が起こり、新政府軍はこれに勝利した。世に言う「鳥羽伏見の戦い」で、「戊辰戦争」はこの戦いよりはじまる。

新政府軍は徳川慶喜を朝敵として江戸へ軍を進め、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟との交渉により、江戸は戦火を交えることなく新政府軍に占領された。

しかし一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗して各地で新政府軍と戦ったのだが、彼らの中には徳川政権の聖地日光廟で決戦を行なおうとするメンバーがいた。
慶応4年(1868)4月12日に下総市川の国府台を出発し北上を開始した旧幕府側の歩兵隊約2千名は、日光に向かう途中の宇都宮で新政府軍と激突した。

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Wikipdiaの「宇都宮城の戦い」によると、「この歩兵隊は、当時最新鋭の火器を具しフランス式歩兵兵術で訓練された精鋭伝習隊を中心とし、これに歩兵第七連隊や桑名藩隊、回天隊、新選組等が参加、軍総監と軍参謀をそれぞれ大鳥圭介と土方歳三が務めていたとされる。旧幕府軍は下総国松戸小金宿で大鳥率いる本隊と土方率いる別動隊の二手に分かれ、宇都宮城を東西から挟撃するため、それぞれ下野国壬生・鹿沼および真岡へと向かった。」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

宇都宮城

この「宇都宮城の戦い」における旧幕府軍残党勢力と、東山道総督府軍を中心とする新政府軍との戦いは、当初は旧幕府軍が優勢であったが最終的には新政府軍が勝利し、その結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、宇都宮二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失したそうだ。

新政府軍の猛攻を受けて、これ以上の宇都宮城の維持は難しいと判断した大鳥圭介は、指揮下の軍勢に宇都宮城から脱出して日光への退避を指示し、このあとは戦いの舞台は日光に移り、旧幕府軍は徳川家の聖地である日光廟を背景に日光山に陣を張ったという。

この時に、旧幕府軍の大鳥圭介らと対峙したのが、新政府軍の板垣退助であった。

板垣退助

板垣は鳥羽伏見開戦の直後に土佐藩迅衝隊の大隊司令に任命され、江戸に向かって新政府軍に加わり、東山道先鋒総督府参謀として関東地方を中心にゲリラ戦を展開している旧幕府の大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊の討伐を命じられていたという

『我が愛すべき幕末』というサイトに『板垣退助と日光東照宮』という記事がある。
関連する部分を引用させていただく。

「板垣は土佐藩兵を率いて江戸を出発すると、壬生(現在の栃木県下都賀郡壬生町)において、大鳥らが日光東照宮のある日光山を本拠として立てこもっているとの情報を得ました。日光東照宮と言えば、江戸幕府を樹立した徳川家康の祖廟を祀り、文化財的にも非常に貴重な建築物です。板垣はそのような貴重な建物がこれから戦火によって焼失してしまうことを憂い、鹿沼という場所において、日光の末寺を探させ、そこの僧侶を呼び出して次のように言いました。

『日光にはただいま危機が迫っている。敵が日光に立てこもる限り、我々はこれを攻めなければならないが、そうなれば焼討ちにもかけねばなるまい。東照宮を尊敬するのならばいさぎよく撃って出て、今市(現在の栃木県今市市)で勝敗を決すべきではないか。あくまで日光に拠って戦うというのは東照宮(家康公)への不敬にあたるし、建築も兵火からまぬがれない。おぬし、この理を説いて徳川の将を説得せよ』

 板垣は大鳥ら旧幕府軍を日光から下山させ、貴重な建築物である東照宮を焼失から防ごうと考えたのです。
 この板垣の言葉に動かされた日光の末寺の僧侶は、日光の本山へと向かい、そして大鳥ら旧幕府軍の将兵達は板垣の発した言葉に動かされ、最終的に日光山を下山することを承諾しました。
 旧幕府軍が去り、後に日光東照宮に入った板垣は、兵士達に乱暴狼藉を働くことを厳しく禁止し、自らは旧来の作法にのっとって、神廟に拝礼の儀式を行ないました。その板垣のとった立派な態度は、東照宮の僧侶達を感激させたと伝えられています。」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/bakumatsu13.htm

板垣を「日光の恩人」であると説明する文章はだいたいこのように書かれているのだが、旧幕府軍の大鳥らが下山したのは板垣の説得によるものと解釈することは正しいのだろうか。

大鳥らが宇都宮から日光への逃避行をしている間に、旧幕府軍には士官・兵士の脱走が相次ぎ、脱走の際に大量の軍資金が持ち逃げされていたようだ。さらに小銃の弾薬が不足していたし、その補給の目途も立たなかった。その上、勇猛な桑名藩兵が4月25日に藩の事情により離脱していたことも大きかったと思われる。

戊辰戦争について詳しく調べておられる『上杉家の戊辰戦争』というホームページで「野州戦争* 第三章:板垣退助と大鳥圭介、今市の地で激突」を読むと、このあたりの事情がかなり詳しく記されている。(*野州=下野国[現在の栃木県]のこと)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/utunomiya/imaichi.htm

新政府軍にすれば、堅固な石垣に囲まれた日光山に篭る大鳥軍を撃破するためには、土佐藩兵から多くの犠牲者が出ることが避けられない。
また旧幕府軍からすれば、日光山は堅固な要害ではあったにせよ、補給の当てがない状態で新政府軍と戦っても勝てる見込みはなく、日光山で玉砕することが避けられない状況にあったようだ。

『會東照大権現』というホームページの『野州戦史料』には、戊辰戦争の野州戦争に関わった人々が書き記した記録の原文が多数紹介されている。
http://www.geocities.jp/aogiri40/siryou.html

4月26日の『日光山東照宮記』によると

廿六日の早天に、別当僧大楽院、卒爾に東照宮神体、並在世の宝器類を荷て山中に入り、栗山村に退き、兵威を避けんと擬して、一社当直の人共に荷を持たしめ奔出つ。」
とあるように、日光東照宮では最悪の事態を考慮して御神体や宝物類を運び出し、3日かけて会津若松城の三の丸南方の東照社に安置したことが記されている。それほど戊辰戦争の戦渦に巻き込まれる可能性が高かったのである。

大鳥圭介

また同じホームページで、旧幕府軍の大鳥圭介が記した『南柯紀行』の4月29日の記録を読むと、大鳥軍のこの日の軍議が二つに割れたことが記されている。

「兵隊中議論二種あり、甲は今此に弾薬兵粮の儲(たくわえ)もなく、持久せば不日困迫に至るゆえ一旦会津境内に入り一体の規律を調え薬粮を備え而して後再び帰り来るを良とすと、乙曰く今眼前に敵兵の来るを見て一戦も為さず会領に入るは武人の恥ずるところなり、薬弾は乏しと雖も血戦して神廟の前に死せば是れ元より願う所の墳墓の地なれば遺憾なしと云。両説共に理あり。乍去乙は真に愉快の見識なれども衆人の行いがたきところにしえ、歩兵共にて殊更土崩瓦解を免れず、故に予は甲説の方穏やかにして全隊を取締るにも最も良しと思えり、因て本日早朝各隊の士官を集会し各別に異見も之れなき故に、今より先ず傷者を運出する手筈を為し今晩にも爰許出発可然と各隊へ令を伝えり。」
http://www.geocities.jp/aogiri40/0429.html

谷干城

かくして、大鳥軍は抗戦を続けるために、29日の夜半から会津藩を目指して脱出を開始しのだが、新政府軍の谷干城(土佐藩)が記した『東征私記』を読むと、その29日の記録はこうなっている。

明日日光を進撃に決議せり。余四五輩を師い物見として関門より五六丁進行の所、赤衣の僧両人従僕五六人を連れ扇を振い来る。蓋し発砲を恐れてなり。余の前に来り恭しく礼して隊長に面談を乞う。余云、我れは土州の軍目付なり、何にても我れ承るべしと云。僧云、然れば暫く此の方へ御出て被下度とて、傍らの明き屋に入り、密(ひそか)に余に語りて云、拙僧は日光の櫻本院、安居院の両人なり。何分暫時の所御進軍御差止め被下度、山内にて戦争に及び候ては険難の地故御怪我も少かるまじ、且神廟寺院も如何相成るやも不計万々心痛に付、是非共暫く御止り被下度と達々相頼み申すにつき、余応じて云、我輩朝命を奉じ賊徒討伐の為来れり、貴僧如何計り懇願すとも、賊の籠りたるを知りながら私に軍を止むることは出来ず、人を損ずるは戦地の習い固より顧る暇なし、併し神廟に放火するは全く不忍所なり、…貴僧彼輩を督責して云べし、進で官軍に当る歟(か)又は軍門に降参する歟、速に索を可決、居ながら官軍を引受て神廟を汚すに至るべからずと。」

このように、新政府軍が翌日に日光を攻撃することは軍議で決定していたのである。
二人の僧侶が現われて、「日光への進軍を思いとどまって欲しい」と懇願してきたが、谷干城は「賊軍が立て籠もっていることを知りながら進軍を止めることはできない」と答えた上で、「日光に残って官軍と戦って神廟を汚すな」と言ったのである。新政府軍は進軍を止めると答えたわけではないのだ。

大鳥軍が日光山を退去したことを知らされないまま、閏4月1日に新政府軍は旧幕府軍との交戦を想定して進軍をはじめたのだが、日光山に到着してみると、予想に反して日光山はもぬけの殻だったというのが真相である。

日光東照宮

かくして、日光東照宮や二荒山神社や輪王寺などの寺社はギリギリのところで戦火から免れたのだが、このような事情を知ると、板垣が旧幕府軍を説得して日光の社寺を兵火から守ったという通説が正しいとは、誰も思えないだろう。新政府軍は旧幕府軍の日光退去を条件に戦闘をやめたわけではなく、軍議通りに日光に進軍したところ、相手が退去したあとだったので戦争にならなかっただけのことなのだ。

板垣退助率いる新政府軍が旧幕府軍に圧力をかけたことが、結果として旧幕府軍を神域から退去させ、日光を戦いに巻き込まれることから防いだ、とでも書くべきところなのだろう。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-173.html

東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-174.html


関連記事

イギリスとフランスにとっての戊辰戦争

前回の記事で、西郷隆盛の命を受けて東征軍参謀の木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)がイギリス公使のパークスを訪ねて、江戸城総攻撃の際に新政府軍の負傷兵の手当てをする病院の世話をして欲しいと依頼したところ、パークスが激怒したことを書いた。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に、パークスと直接交渉した木梨精一郎の話(『維新戦役実座談』)の一節が引用されているので紹介したい。

木梨精一郎
【木梨精一郎】

「その時にパークスが言うには、今日の政府は徳川にある。王政維新になったと言っても、いまだ外国公使へ通報もなし。私はどこまでも前条約を以て、徳川政府を政府と見ている
 なるほど内部を見れば、天子朝廷の命令というものは重きものなれども、条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬというのは、本国に報知することが出来ぬ。すなわち条約面によって、今ここへ兵を多く繰り込めば、自然フランスの一大隊、オランダの二大隊、あるいは衝突を起こすかも知れぬからという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/188
そこで木梨は「徳川幕府の政令は朝廷に奉還して、外国奉行というものは存在しても名前だけで実体はない」と答えたところ、パークスは「今の朝廷から、表方ご通知があったなら、私どもの方も、陸へ上げた兵を艦へ乗せ、国へ返しもしようが、その命のあらざる間は砲撃などのことは、暫らく見合わせてくれ」と答えたという。

このパークスの言葉は一般の歴史書などではほとんど無視されているのだが、非常に重要なことを述べている。

もしある国で革命政権が樹立された場合に、前政権による対外債務や条約がそのまま自動的に引き継がれるというわけではない。
欧米諸国がわが国と条約を結んだ相手は徳川幕府であり、その徳川幕府が朝廷に政権を返上したとはいえ内戦状態に突入してしまって、現段階ではどちらが勝利するかはわからない。イギリスとしては、内戦が終結して書面上でもその権利の承継の手続きがなされるまでは、従来の条約の相手方である幕府を重視することは当然の事なのだ。

そもそも朝廷には外交問題を仕切れる人材は皆無であった。したがって、徳川慶喜が大政奉還を奏上しそれが決定した8日後の慶応3年10月23日に、朝廷は外交に関しては引き続き幕府が中心となって行うことを認める通知を出している。そのため11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告や28日のロシアとの改税約書締結は徳川幕府が行なっているのである。

パークスが、木梨に対して「条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬ」と言っているのはそのことを意味するが、普通に考えれば、わが国で政権が朝廷に移ったにもかかわらず外交だけは今まで通り徳川幕府というのは、欧米諸国にとっては理解し難いことでであったと思われる。だからパークスは「(このことは)本国に報告することは出来ぬ」と述べたのであろう。

外国人の立場で考えればわかる事なのだが、日本でクーデターが起こり、これから新政府軍が幕府勢力との間で本格的な内戦に発展してもおかしくない情勢になってきたのであれば、彼らにとっての最大の関心事は、幕府の瓦解によって無政府状態に陥っている中で、多数の外国人居留民がいる横浜などの治安をいかに確保するかであったはずだ。

遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城

萩原延壽氏の『遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城』に、イギリス公使パークスが本国のスタンレー外相に宛てた手紙が引用されている。手紙日付の西暦1868年4月9日は、和暦(陰暦)慶応4年3月17日で、西郷と勝が江戸無血開城の談判を行なった3日後のことである。

パークスはこう記している。
「横浜に上陸してみると、ミカドの軍隊の先遣部隊が、東海道と呼ばれる公道の、江戸まで10マイル(約16km)ないし15マイルの地点に進出していた。そして、この部隊からはぐれたかなりの数の武装した兵士が、横浜に入り込んできた。」
「私が帰還する2日前、ロコック氏(公使館書記官)はサンキー陸軍大佐(第9連隊)に要請して、この町に通じる主要な入口である橋に衛兵を配置したが、これは賢明な措置であった。此の武力の誇示は、2つの目的にかなうものであった。ひとつは、大君(たいくん)*政府の役人と警吏に対して、それぞれの部署にふみとどまる勇気を与え、かくして恐慌状態の下で日本人が掠奪と混乱に襲われるのを防止することであり、もうひとつは、ミカドの軍隊の乱雑な、規律が整然としているとはいいがたい兵士に対して、この町が大君政府以外の兵(外国軍隊)によっても防衛されていることを明示することであった。」
「4月1日(陰暦3月9日)、神奈川奉行が訪ねてきて、この町の行政をミカドの政府が任命した役人に引き渡す用意ができているが、まだそのような役人が到着したという通知を受け取っていないと語った。さらに奉行は、町に入り込んでいる武装した兵士を取締る力が彼にはないことを認め、且つこの町の外国人と日本人に対する彼らの態度には遺憾な点があると述べた。」(『遠い崖 7 江戸開城』p.8-9)
*大君(たいくん:江戸時代に対外的に用いられた征夷大将軍の外交呼称。ここでは徳川慶喜を指す。「大君政府」は徳川幕府。)

横浜の治安については、大政奉還されたのであれば幕府から朝廷側に引き継がれていなければならないところだが当時はまだ実施されておらず、訪ねてきた神奈川奉行はこれから大挙してやってくる新政府の東征軍から横浜の外国人や日本人を守る力がないと述べたという。ならば、自力で横浜を守るしかないではないか。

諸外国の代表は対応策を協議して、新政権が横浜の治安の維持にあたるまでの間、各国の軍隊を出動させて横浜の要衝を占拠し、幕府軍と協力して東征軍兵士の横浜立入を阻止することを申し合わせ、4月3日(陰暦3月11日)からそれを実施したという。

パークスが横浜の自国居留民を守ることに動き回っていた矢先に、東征軍参謀・木梨精一郎と渡辺清がのこのこと現われて、これから内戦が始まるので傷病人の面倒を見て欲しいと依頼にきたことになるのだが、このような経緯を知るとパークスが激怒した理由が見えてくる。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス】

またパークスは、同じ4月9日付(陰暦3月17日付)でハモンド外務次官あての手紙にこう記している。
江戸のもめごとに対処するのに手遅れでなかったことを知って、ほっとしている。しかし大君は抵抗の意思を放棄しているので、このもめごとも、たぶん1ヶ月で解決するであろう。そして、戦闘は相互に憎み合っている大名の家来たちや、この国に多大の害毒を流している『浪人』たちのあいだの、不正規な小ぜりあいに限られるであろう。われわれは、横浜の安全を確保することが出来たと思う。」(同上書 p.21)

このように、パークスは横浜を守れたことに安堵するとともに、内戦はあと1ヶ月で終るだろうと予想したのだが、実際には戊辰戦争はあと半年も続いたのである。パークスの考え方は、概ねイギリス人の代表的な考え方であり、彼らにとってはこれからしばらく小競り合いが続こうが、慶喜に戦意がなくて新政府が勝つことが自明であるような戦争にはそれほど関心がなく、居留地の治安が守られていることが最大の関心事であったようだ。

一方フランスは、薩長を裏で支援してきたイギリスに対抗してこれまで一貫して徳川幕府を支援し、そうすることで対日貿易の拡大を図ろうとしてきたのだが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したためにその目論見が大きく崩れてしまった。もし幕府が敗れることになれば、フランスの対日貿易は激減することになる。フランス公使のロッシュは、そうなっては困る立場にいたのだ。

鳥羽伏見の敗戦の後、フランス人が相次いで日本人に襲われているのだが、その事件が外国勢力を巻き込む内戦に発展する可能性はなかったのか。一般の歴史書には触れられることの少ない事件を振り返っておこう。

最初の事件は、慶応4年1月11日(旧暦)に起きた神戸事件である。
1月3日(旧暦)に鳥羽伏見の戦いが始まり、徳川方の尼崎藩を牽制するために、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警護を命じていた。

滝善三郎切腹の図
【滝善三郎切腹の図】

Wikipediaの解説によると神戸事件とは、
神戸三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

簡単にまとめればそうなるのだが、この事件直後の諸外国の怒りは尋常のものではなかった。徳富蘇峰の『近世日本国民史 第67冊』に彼らが提出した威嚇的な文章が引用されているが、この事件の対応次第では日本は諸外国の敵とみなし報復措置をとると宣言されている。
“You must immediately come forward and explain this matter. If full reparation be not given, it will be assumed that you are the enemy of foreign nation, who will take measure to punish the outrage.”
“It must be borne in mind that this matter will then concern not only the Bizen clan, not may also cause grave trouble to the whole of Japan.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/132

そして神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕したのである。
この時点では、諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、朝廷は1月15日(旧暦)に急遽幕府から新政府への政権移譲を表明したのだが、諸外国は在留外国人の身柄の安全保障と日本側責任者の厳重処罰を要求したという。

Wikipediaには、「この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされた」と解説されているが、先ほど英語で引用した文章を読めば、おおげさな話ではないことが理解できる。

この事件は鳥羽伏見の戦いで幕府軍がわずか4日で惨敗した直後に起こったのだが、これまでイギリスに対抗して幕府を支援してきたフランス公使のロッシュは失意のどん底にあり、諸外国の中で新政府との交渉をリードしたのはイギリス公使のパークスだったようだ。

しかしながら、フランスがイギリスと同一歩調で動いてもチャンスは生まれない。対日貿易を拡大するためにはやはり幕府と組んで新政府と対抗するしかない。
そう考えてロッシュ神戸事件から1週間後の1月18日(旧暦)に慶喜に謁見を求めて、「此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、フランス軍が新政府軍と共に戦う力になることを提案したのだが、慶喜は「天皇に向かっては弓を引くことはあってはならない」と述べ、ロッシュの提案を断っている。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)
堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)】

そして2月15日(旧暦)にまたフランス人が犠牲になる事件が起きた
フランス海軍のコルベット艦デュプレクスが堺港に入り、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわり近隣の苦情が出たことから、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとしたが逃げられたために咄嗟に発砲し、そのために11名の仏水兵が死亡してしまったのである。(堺事件)
当然のことながら、フランス公使のロッシュはこの事件に激怒した。

ロッシュ
【ロッシュ】

Wikipediaの解説がわかりやすい。
ロッシュは、…2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

15万ドルといっても、できたばかりの明治新政府にそんな大金を支払う余裕があるわけではなかったのだが、昭和6年出版の『摘要堺市史』によると市民や酒造組合等が募金を献じてその金を工面したという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212616/71

英国外交官の見た明治維新

新政府はフランスの要求を全て飲んで、2月23日に堺の妙国寺で土佐藩士20名の切腹が行なわれることとなったのだが、切腹の場で藩士たちは自らの腸を掴み出して、居並ぶフランス水兵を大喝したという。
当時イギリス公使館の二等書記官であったアルジャーノン・ミットフォードは『英国外交官の見た幕末維新』のなかで、こう記している。

「最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地をけがした忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで―――これは殺されたフランス人の数であったが―――フランス人たちは耐えきれなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を助命するように頼んだ。彼はこの場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。」(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』p.153-154)

フランス人たちはあまりに壮烈な土佐藩士の割腹に目も当てられなくなり、その場で9人の助命を申し入れたという。そして翌24日に外国事務局総督山階宮晃親王がロッシュを訪ねて堺事件についての明治天皇からの謝意を伝え、ロッシュは9名の助命を公式に了承した。又ロッシュは宮中への招待を受けて30日に御所に参内し、天皇からの謝意をうけてこの事件は解決したのである。

このように、フランスが挑発するつもりで厳しい要求をしても新政府はその要求を飲み、軍事行動を起こす口実を与えなかったし、慶喜も戦意が無かった。
幕府を援けて対日貿易を拡大するロッシュの対日政策は完全な失敗に終わったために、フランス本国においてこれまでの佐幕派支援政策が全面的に見直され、ロッシュは公使を罷免されて、5月4日にはわが国を離れて帰国の途についている

ところがロッシュが徳川幕府を支援するために送り込んだフランス人軍事顧問団の一部がわが国に残り、フランス軍籍を離脱して戊辰戦争に参加し旧幕府軍とともに戦っている。


榎本武揚
【榎本武揚】

以前このブログで書いたことがあるが、新政府は5月に徳川家に対する処分として、駿河、遠江70万石への減封を決定した。それまでは800万石であったので、これでは徳川家の膨大な家臣団を養うことは不可能だ。多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させようとした

ジュール・ブリュネ
【ジュール・ブリュネ】

フランス人軍事顧問団のメンバーは日本を離れるようにとの勅命が出ていたのだが、ジュール・ブリュネ大尉以下5名は、軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んだのである。
Wikipediaによると、彼らは「イタリア公使館での仮装舞踏会の夜に侍の扮装のまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流」し、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」の創設を支援したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D

旧幕府軍は明治元年(1868)12月15日には蝦夷地を平定したものの軍資金は乏しく、翌年春から本格化する新政府軍の進軍に押されて、明治2年5月18日(新暦1869年6月27日)に土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争は終りを告げた。ジュール・ブリュネらフランス人兵士は五稜郭陥落前に碇泊中のフランス船に逃れたようだ。

その後ブリュネは6月に帰国し、軍に復帰が認められたのち普仏戦争などで活躍し1898年にはフランス陸軍参謀総長にまで登りつめたという。

陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ
【陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ】

また、軍事顧問団の隊長であったシャルル・シャノワーヌは、ブリュネのように旧幕府軍と共に戦う道を選ばなかったが、フランス帰国後は陸軍大将まで昇進し、1898年にはアンリ・ブルッソン内閣の陸軍大臣に就任している。
ロッシュが徳川幕府の軍事力強化のためにフランス陸軍の超一級の人物を送り込んだことは紛れもない事実である。その後この二人は日清戦争においてわが国に貢献したことが認められ、明治政府からシャノワーヌに勲一等旭日重光章、ブリュネに勲二等旭日重光章が授与されたことは記憶に留めておきたいところである。

慶喜が幕府を守るために新政府軍と戦う意志を最後まで持たなかったことは、ロッシュにとっては想定外のことであったろう。彼がこれまで推進してきた対日戦略が大失敗に終わり、フランス公使を罷免されたロッシュは、帰国後外交官を辞して58歳の若さで引退したという。
そして1901年6月23日、ボルドーにおいて91歳の長寿で没したのだそうだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

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幕府瓦解後に進行した江戸の荒廃と、政府転覆を目論む勢力の拡大を食い止めた東京遷都

以前このブログで、明治2年(1869)に『遷都の詔勅』が出されないまま「東京遷都」が強行されたことについて、京都を中心に書いた。

東京遷都

教科書では東京遷都について、
「人心を一新するため、同年(1869)9月、年号を明治とあらため、天皇一代のあいだ一年号とする一世一元の制をたてた。同年7月、江戸は東京とあらためられ、明治天皇が京都から東京に移ったのをはじめ、翌年には政府の諸機関も東京に移された。」(『もういちど読む 山川日本史』p.218)
などと簡単に書かれているのだが、当時の京都地図を『”超検索”幕末京都地図』で確認すると、今の京都大学のキャンパスには以前は尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷などがあり、同志社大学のキャンパスには薩摩島津屋敷や多くの宮家や公家屋敷があり、平安神宮から市立美術館、市立動物園あたりも、彦根井伊屋敷、越前松平屋敷、加賀前田屋敷があったことがわかる。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

幕末京都地図

これらの建物やその建物に繋がる人々の大半が、首都の機能が東京に移転してしまえば京都にいることの必要性が次第に消滅してしまうことは明らかで、充分な対策を打たなければいずれ京都の人口は大幅に減少し、武家や宮家や公家が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して産業は衰退し、賑やかだった京都のあちこちに住人不在の屋敷が残されて荒廃していかざるを得ない。実際に京都の人口は維新前の35万人から20万人に急減し、その後京都を復興させるために数多くの苦労があったのだが、この点については以前記したので繰り返さない。

徳川家達
【徳川家達】

今回は視点を東京に移してみよう。
徳川家の家臣の数は旗本が6千人ほど、御家人が2万6千人ほどで、合せて3万人強とされるのだが、慶応4年(1868)4月11日に江戸城が無血開城されたのち、6歳になる田安亀之助(後の徳川家達)による徳川宗家相続を認める勅旨が伝達されて、5月24日には駿府70万石に移封されることが発表されている。
これにより新たに静岡藩徳川家が成立したわけだが、それまでは800万石であった石高が70万石になったということは一気に91.3%も減封されたことになる。

江戸地図

当時の徳川家には約3万人の家臣団がいて、その半分近くが家族とともに駿府移住を希望したため、彼らはとんでもない窮乏生活を余儀なくされることになったのだが、当然の事ながら彼らがこれまで住んでいた江戸の住居の多くは空き家となった。
江戸には徳川家の家臣だけでなく諸藩の屋敷も数多く置かれていたのだが、参勤交代が無くなったのでこれらもまた不要となり空き家となって、江戸の人口は急減して急速に荒廃し、治安も悪化していったのである。

この間の事情について詳しく書かれた書物を探していたのだが、前回記事で紹介した伊藤痴遊の『隱れたる事實明治裏面史』に、薩摩藩の市来四郎の日記が引用されているので紹介することにしたい。

「江戸瓦解後の東京府内の状況は、貴賤貧困を極めること譬えようもない。旧幕臣ことごとく各所に流離転沛(てんはい)し、その居宅皆変じて草木の藪となり、諸侯大中小の邸宅も荒廃を極め八重葎(やえむぐら)が軒を覆う。昔は壮麗を誇った大名小路もことごとく廃墟に変じ、市街の商賈(しょうこ)工匠も過半は退転して、人々は飢餓に陥っている。中にも番町深川本所下谷の地は、見わたすかぎり空き家にして腐朽累々たり。また城内にしても、本丸は燃燼後のままに荒れ果て、狐狸の巣窟となっていたずらに生い茂り、目も当てられない有り様である。西丸は殿閣のみ以前のままであるといっても、無主無人なので頽廃する所が多い。ただし内外三十六見付の門楼のみ残って旧観を保っている。二年の御東幸以来、ようやく人心安堵し民業やや開けたけれども、昔に比べれば十分の一である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/25

江藤新平
江藤新平

江戸がこのような状況に陥ることを予見して、江戸城が無血開城される少し前の慶応4年(1868)4月1日に、佐賀藩の江藤新平が岩倉具視卿にこんな意見書を差し出したという。この意見書も伊藤痴遊の『隱れたる事實明治裏面史』に引用されているので一部を紹介しよう。

慶喜へはなるだけ別城を与え、江戸城は急速に東京と定められ、おそれながら、天子東方御経営の御基礎の場とされたく、江戸城をもって東京と定められ、行く行くのところは東西両京の間に鉄路を御開きあそばされ候ほどの事これなくては、皇国後来両分の憂いなきにしもあらずと考えられ候。かつ東方王化に染まらざること数千年につき、その当時においても江戸城は、東京と定められ候。御目的肝要に存じ奉り候。…ここにおいて右の通り公然御布告、江戸をもって東京と相定められ候わば、東京の人民も甚だ安堵大悦いたすべく候。かくのごときはその関係甚大なりとす。深く御考量くださいますように。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/15

この意見はのちに佐賀藩の藩論として朝廷に建白することとなり、廟議で正式に江戸を東京と改称し、陛下は東京で親臨して政を行うことが決定されたのである。
慶応4年(1868) 7月17日に『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』が出されたのだが、本文にはこう書かれている。

江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書

「朕、今万機を親裁し、億兆を綏撫(すいぶ)す。江戸は東国第一の鎮、四方輻輳(ふくそう)の地。宜しく親臨以て、其の政を視るべし。因って自今、江戸を東京とせん。是れ朕の海内(かいだい)一家東西同視する所以なり、衆庶(しゅうしょ)此の意を体せよ」

このとおり本詔書には都を遷すとはどこにも書かれていない
遷都があるのではないかと疑う京都の人びとを配慮してか、翌8月27日に京都御所で明治天皇の即位式が行われ、9月8日に改元の詔を発して「明治」と改元されたのも束の間、明治天皇は同月20日には東京へと「行幸(ぎょうこう)」され、それが実質の遷都となってしまったのである。

賀陽宮朝彦親王
賀陽宮朝彦親王

このようにしてかなり強引に「東京遷都」が行なわれたのだが、その理由は東京の荒廃を防ぐことだけではなかったのである。この混乱を機に、徳川の再興をはかろうとする動きがあり、その中心人物は伏見宮邦家親王の第4王子の賀陽宮朝彦(かやのみやあさひこ)親王殿下で、文久3年(1863)8月18日の政変の時は宮号を倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとした「中川宮」と同一人物である。

再び伊藤痴遊の著書を引用する。
「…二藩に対して嫌焉(けんえん)の情をもっておられた朝彦親王は、ますます不快の念を抱きながらも、空しく大勢の赴くがままに傍観していたが、いよいよ遷都の議が廟堂に上るとなっては、もはや黙視することができず、盛んに不平の公卿を糾合して反対はしたけれど、これもまた大勢の赴くところで、如何ともすることもできなかった。殊に、陛下の思召しもそこにあるとして見れば、自分も表面に立って反抗することもならぬところから、幸いに紀州新宮の藩主・水野大炊守(おおいのかみ)が、宮と同じ意見をもって、しきりに同士の糾合に努めていることを伝え聞いたので、家来の浦野兵庫を水野への使者として深く相結び、さらに諸藩の浪士で、徳川の再興を夢見ている者が多くある。これらの者を集めて、うまく事を起こして目的を遂げようと、着々とその進捗(はこび)をつけていったのである。
 しかるに、江戸へ出ている公卿の中に、愛宕通旭(あたごみちあきら)という人がいた。これもまた普通の公卿とは違って、存外に胆力もあり、議論ももっていて、なかなか薩長二藩の指導にのみ従っていることの出来ぬ人であった。多くの公卿も遷都には反対であるが、時の勢いに押されて、いずれも緘黙しているのを見て、愛宕卿はしきりに憤慨していた折柄、賀陽宮が主として、水野大炊らが遷都反対を口実に、薩長二藩を押倒して徳川再興を図ると聞き、これに同意してひそかに同志の糾合にかかった。どうせ維新の大変革があって幾日も経たぬ時であるから、さまざまな事情や議論を持って、薩長二藩に反対をしていた者は、到るところにたくさんいたのである。自然とそれからそれへ連絡がついて、初めのうちは極めて少人数であったのが、いつか知らずその関係は全国へ拡がって、集まってくる志士の中には、なかなかに有為の人物も多く、秋田の初岡敬治*、土州の岡崎恭輔、米沢の雲井龍雄そのほかものすごい連中が追々に集まってくる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/27
*初岡敬治:出羽久保田藩士。勤王家として重用され、戊辰戦争では評定奉行副役格。権大参事などを務めたが、反政府陰謀に加担したとして明治4年に自刃を命じられた。
**雲井龍雄:出羽米沢藩士。討幕は薩長の野望によるものと批判し、戊辰戦争時に官軍の東北進撃阻止に動き、明治3年に斬首された。


戊辰戦争関係略図
戊辰戦争関係略図】

この当時、戊辰戦争はまだ終わっておらず、政府軍は奥羽列藩同盟との戦いが続いていた。官軍勝利の見込みがついていたとはいえ、会津藩を中心に不平の諸侯や浪士を集めていて、戦争はそう簡単には集結しないと思われた。
さらに榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力が旧幕府の軍艦に乗って江戸を脱出し、途中で大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約2,500人を集めて蝦夷地(北海道)へと向かったという動きもあった。この時期、賀陽宮の呼びかけに応えた諸侯や浪士がかなりいたことはまちがいないだろう。

しかしながら賀陽宮の陰謀は明治政府の知るところとなり、慶応4年(1868)の8月になって刑法官知事大原重徳、判事中島錫胤(ますたね)が、朝廷の内命を拝して、賀陽宮を訪ねている。この二人が宮に謁見する場面を伊藤痴遊はこう記している。文中の芸州とは今の広島県西部を指す。

「『これより芸州の浅野家へお預けに致すから、左様御承(う)けなされい
と、朝命を伝えた時に宮は恐ろしき眼をして、両人を睨みつけ、暫らくは言葉も無かったが、両人は唯恐縮して、宮の御答を待つばかりであった。時に宮は
『此一事は、予の更に預かり知らぬことであるゆえ、たとえ朝廷の御沙汰といえども、容易に従うわけには相成らぬ。それとも予がこの事に関係しているという、確たる証拠でもあることか』
こう言われてみると、何とか答えなければならぬから、両人は
『御家臣の浦野兵庫なる者の陳述によりますれば、殿下の御謀反は明白なもので、すでにその一味徒党の連判書さえ、このとおりにござりまする』
宮は不審の眉に皺を寄せて、
『その連判の中に、予の氏名もあると申すのか』
『殿下の御名はござりませぬが、その御手形はこの通りのこりおりまする』
『それを示せ』
『ハッ』
そこで両人は、連判書を宮の前に差し出すと、宮は無造作にこれを拡げて御覧になったが、やがてその手形の上に自分の手を拡げたまま、載せてみて、
『これが予の手形であると申す可。一度押した手形の、どうしてかくも寸法に違いがあるか、よくこれを見よ』
と、言われて、両人が恐る恐る頭を挙げてみると、意外にも連判書に押してある手形は、今宮が押さえている手よりはよほど大きい。そうなってみると、この争いはちと困ったことになったが、今更に朝議一決してかくなったものを、このままにして立ち帰ることもならず、大原は汗を拭きながら、
『一応は御道理(もっとも)でござりまするが、この場合に於いてたとえ御不服はありましょうとも、一時朝命に従って、芸州へ御立退きを願い上げまする。しかし、この事に就きましては、必ず殿下の為にその冤を雪ぎますることは、自分に於いてもお引き受けいたしまする。…』」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/29

このようにして大原は宮を口説き落とし、宮は一旦広島藩預かりとなったのだが、どういう経緯で広島藩に行くことになったかについてはWikipediaには全く触れられていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

では賀陽宮はそれからどうなったのであろうか。
再び伊藤痴遊の著書を引用する。
「宮は遂に朝命に服して、芸州に立退くことになった。哀れ、卓落不羈の気象を持っておられて、薩長二藩の横暴に反抗し来たった宮は、この一事から不遇剥落に、後の半生を送ることになったのである。しかしながら、朝廷においても、宮の心事の皇室に反(そむ)いたのではないということは、明らかに分かっておられたのであるから、その後赦免の御沙汰が下って、一旦賀陽宮は廃止となったが、久邇宮(くにのみや)の御名義を下し給わって、東京へ上ることをお許しになった。…明治の初年には、皇室の班に列する方でさえも、こういうことのあった一事に顧みても、薩長二藩の横暴が、どれほどに一般の人から睨まれていたかということの想像はつく。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/30

そののち賀陽宮親王は政治の世界から遠ざけられたが、宮の呼びかけに応じたメンバーの多くは斬に処せられたのだそうだ。
このような薩長にとって都合の悪い出来事は今日ほとんど知らされていないと言って良いのだが、このような出来事を知ると明治維新は決して順調にすすめられたのではないことがわかる。

ここで、もう一度この記事の最初に紹介した薩摩藩の市来四郎の日記を振り返ってみたい。市木は文章のはさらにこう続いていた。
「したがって人心洶々(きょうきょう)、堵に安んぜず、各藩の兵隊充満して横暴に流れ、人民は愁苦を訴えている。それで気概のあるものは各所に潜匿(せんとく)観望して、時をうかがって薩長二藩を討ち、これに取って代わろうと企てる者がある。この形況のまま押し行けば、数年を待たずに再度大乱になりそうな情勢である。」

また江藤新平が岩倉具視卿に提出した意見書にも「東方王化に染まらざること数千年」という言葉があった。

戊辰戦争箱館戦争の図
【戊辰戦争箱館戦争の図】

明治政府からすれば、戊辰戦争で官軍が東北で奥羽列藩同盟との戦いが続き、江戸には新政府に不満を持つ各藩の兵隊が充満していて、隙あらば新政府を倒そうという動きが各地にあったことを知らねばならない。

こんな状況で東京遷都の議論されないまま、京都が新生明治国家の政治経済の中心地となっていたとしたら、東日本で内戦の長期化は避けられなかっただろうし、外国勢力の動き方次第では今の日本はなかったかもしれない。

東京遷都により、江戸幕府瓦解のあとの東京の荒廃を免れたことはそのとおりなのだが、当時の国内情勢を考慮すると、その後も関東・東北地方に睨みを利かせながら、わが国全体をバランスよく統治するためには首都は東日本でなければならず、荒廃が進み治安が悪化していた当時の江戸の状況を考えれば、首都を京都のままとすることは愚策である。
京都の人々を騙して強引に行われた東京遷都ではあったが、スタートしたばかりの明治政府にとってはいかなる手段を取ってでも、江戸を東京として首都を東京に遷すことがベストの策だったのである。

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【ご参考】
教科書などにはほとんど何も書かれていませんが、幕末から戊辰戦争に至る歴史はイギリスとフランスの動きが重要で、戊辰戦争にはフランス軍事顧問団のジュール・ブリュネ大尉らフランス人兵士5人がが軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んでいます。興味のある方は覗いてみてください。

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった
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武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史