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戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1

以前日光東照宮に旅行したときには全く気が付かなかったのだが、日光東照宮の参道に繋がる神橋(しんきょう)の入口に、刀を差して日光山を見つめる板垣退助の銅像があるという。しかし、なぜ徳川家の聖地である日光に、徳川幕府を倒した側の板垣の像があるのかと気になった。


板垣退助像

慶応3年(1867)10月14日の大政奉還ののち、12月9日に王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士からなる新政府が発足した。新政府は同日の小御所会議で激論の末、徳川慶喜を新政府に加えず、さらに慶喜に内大臣の官職と領地の返上を命じている。当然旧幕府側はこの措置に強い不満を抱いた。

鳥羽伏見の戦い

そして翌年の1月に、薩長を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間で、京都の近くで武力衝突が起こり、新政府軍はこれに勝利した。世に言う「鳥羽伏見の戦い」で、「戊辰戦争」はこの戦いよりはじまる。

新政府軍は徳川慶喜を朝敵として江戸へ軍を進め、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟との交渉により、江戸は戦火を交えることなく新政府軍に占領された。

しかし一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗して各地で新政府軍と戦ったのだが、彼らの中には徳川政権の聖地日光廟で決戦を行なおうとするメンバーがいた。
慶応4年(1868)4月12日に下総市川の国府台を出発し北上を開始した旧幕府側の歩兵隊約2千名は、日光に向かう途中の宇都宮で新政府軍と激突した。

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Wikipdiaの「宇都宮城の戦い」によると、「この歩兵隊は、当時最新鋭の火器を具しフランス式歩兵兵術で訓練された精鋭伝習隊を中心とし、これに歩兵第七連隊や桑名藩隊、回天隊、新選組等が参加、軍総監と軍参謀をそれぞれ大鳥圭介と土方歳三が務めていたとされる。旧幕府軍は下総国松戸小金宿で大鳥率いる本隊と土方率いる別動隊の二手に分かれ、宇都宮城を東西から挟撃するため、それぞれ下野国壬生・鹿沼および真岡へと向かった。」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

宇都宮城

この「宇都宮城の戦い」における旧幕府軍残党勢力と、東山道総督府軍を中心とする新政府軍との戦いは、当初は旧幕府軍が優勢であったが最終的には新政府軍が勝利し、その結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、宇都宮二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失したそうだ。

新政府軍の猛攻を受けて、これ以上の宇都宮城の維持は難しいと判断した大鳥圭介は、指揮下の軍勢に宇都宮城から脱出して日光への退避を指示し、このあとは戦いの舞台は日光に移り、旧幕府軍は徳川家の聖地である日光廟を背景に日光山に陣を張ったという。

この時に、旧幕府軍の大鳥圭介らと対峙したのが、新政府軍の板垣退助であった。

板垣退助

板垣は鳥羽伏見開戦の直後に土佐藩迅衝隊の大隊司令に任命され、江戸に向かって新政府軍に加わり、東山道先鋒総督府参謀として関東地方を中心にゲリラ戦を展開している旧幕府の大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊の討伐を命じられていたという

『我が愛すべき幕末』というサイトに『板垣退助と日光東照宮』という記事がある。
関連する部分を引用させていただく。

「板垣は土佐藩兵を率いて江戸を出発すると、壬生(現在の栃木県下都賀郡壬生町)において、大鳥らが日光東照宮のある日光山を本拠として立てこもっているとの情報を得ました。日光東照宮と言えば、江戸幕府を樹立した徳川家康の祖廟を祀り、文化財的にも非常に貴重な建築物です。板垣はそのような貴重な建物がこれから戦火によって焼失してしまうことを憂い、鹿沼という場所において、日光の末寺を探させ、そこの僧侶を呼び出して次のように言いました。

『日光にはただいま危機が迫っている。敵が日光に立てこもる限り、我々はこれを攻めなければならないが、そうなれば焼討ちにもかけねばなるまい。東照宮を尊敬するのならばいさぎよく撃って出て、今市(現在の栃木県今市市)で勝敗を決すべきではないか。あくまで日光に拠って戦うというのは東照宮(家康公)への不敬にあたるし、建築も兵火からまぬがれない。おぬし、この理を説いて徳川の将を説得せよ』

 板垣は大鳥ら旧幕府軍を日光から下山させ、貴重な建築物である東照宮を焼失から防ごうと考えたのです。
 この板垣の言葉に動かされた日光の末寺の僧侶は、日光の本山へと向かい、そして大鳥ら旧幕府軍の将兵達は板垣の発した言葉に動かされ、最終的に日光山を下山することを承諾しました。
 旧幕府軍が去り、後に日光東照宮に入った板垣は、兵士達に乱暴狼藉を働くことを厳しく禁止し、自らは旧来の作法にのっとって、神廟に拝礼の儀式を行ないました。その板垣のとった立派な態度は、東照宮の僧侶達を感激させたと伝えられています。」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/bakumatsu13.htm

板垣を「日光の恩人」であると説明する文章はだいたいこのように書かれているのだが、旧幕府軍の大鳥らが下山したのは板垣の説得によるものと解釈することは正しいのだろうか。

大鳥らが宇都宮から日光への逃避行をしている間に、旧幕府軍には士官・兵士の脱走が相次ぎ、脱走の際に大量の軍資金が持ち逃げされていたようだ。さらに小銃の弾薬が不足していたし、その補給の目途も立たなかった。その上、勇猛な桑名藩兵が4月25日に藩の事情により離脱していたことも大きかったと思われる。

戊辰戦争について詳しく調べておられる『上杉家の戊辰戦争』というホームページで「野州戦争* 第三章:板垣退助と大鳥圭介、今市の地で激突」を読むと、このあたりの事情がかなり詳しく記されている。(*野州=下野国[現在の栃木県]のこと)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/utunomiya/imaichi.htm

新政府軍にすれば、堅固な石垣に囲まれた日光山に篭る大鳥軍を撃破するためには、土佐藩兵から多くの犠牲者が出ることが避けられない。
また旧幕府軍からすれば、日光山は堅固な要害ではあったにせよ、補給の当てがない状態で新政府軍と戦っても勝てる見込みはなく、日光山で玉砕することが避けられない状況にあったようだ。

『會東照大権現』というホームページの『野州戦史料』には、戊辰戦争の野州戦争に関わった人々が書き記した記録の原文が多数紹介されている。
http://www.geocities.jp/aogiri40/siryou.html

4月26日の『日光山東照宮記』によると

廿六日の早天に、別当僧大楽院、卒爾に東照宮神体、並在世の宝器類を荷て山中に入り、栗山村に退き、兵威を避けんと擬して、一社当直の人共に荷を持たしめ奔出つ。」
とあるように、日光東照宮では最悪の事態を考慮して御神体や宝物類を運び出し、3日かけて会津若松城の三の丸南方の東照社に安置したことが記されている。それほど戊辰戦争の戦渦に巻き込まれる可能性が高かったのである。

大鳥圭介

また同じホームページで、旧幕府軍の大鳥圭介が記した『南柯紀行』の4月29日の記録を読むと、大鳥軍のこの日の軍議が二つに割れたことが記されている。

「兵隊中議論二種あり、甲は今此に弾薬兵粮の儲(たくわえ)もなく、持久せば不日困迫に至るゆえ一旦会津境内に入り一体の規律を調え薬粮を備え而して後再び帰り来るを良とすと、乙曰く今眼前に敵兵の来るを見て一戦も為さず会領に入るは武人の恥ずるところなり、薬弾は乏しと雖も血戦して神廟の前に死せば是れ元より願う所の墳墓の地なれば遺憾なしと云。両説共に理あり。乍去乙は真に愉快の見識なれども衆人の行いがたきところにしえ、歩兵共にて殊更土崩瓦解を免れず、故に予は甲説の方穏やかにして全隊を取締るにも最も良しと思えり、因て本日早朝各隊の士官を集会し各別に異見も之れなき故に、今より先ず傷者を運出する手筈を為し今晩にも爰許出発可然と各隊へ令を伝えり。」
http://www.geocities.jp/aogiri40/0429.html

谷干城

かくして、大鳥軍は抗戦を続けるために、29日の夜半から会津藩を目指して脱出を開始しのだが、新政府軍の谷干城(土佐藩)が記した『東征私記』を読むと、その29日の記録はこうなっている。

明日日光を進撃に決議せり。余四五輩を師い物見として関門より五六丁進行の所、赤衣の僧両人従僕五六人を連れ扇を振い来る。蓋し発砲を恐れてなり。余の前に来り恭しく礼して隊長に面談を乞う。余云、我れは土州の軍目付なり、何にても我れ承るべしと云。僧云、然れば暫く此の方へ御出て被下度とて、傍らの明き屋に入り、密(ひそか)に余に語りて云、拙僧は日光の櫻本院、安居院の両人なり。何分暫時の所御進軍御差止め被下度、山内にて戦争に及び候ては険難の地故御怪我も少かるまじ、且神廟寺院も如何相成るやも不計万々心痛に付、是非共暫く御止り被下度と達々相頼み申すにつき、余応じて云、我輩朝命を奉じ賊徒討伐の為来れり、貴僧如何計り懇願すとも、賊の籠りたるを知りながら私に軍を止むることは出来ず、人を損ずるは戦地の習い固より顧る暇なし、併し神廟に放火するは全く不忍所なり、…貴僧彼輩を督責して云べし、進で官軍に当る歟(か)又は軍門に降参する歟、速に索を可決、居ながら官軍を引受て神廟を汚すに至るべからずと。」

このように、新政府軍が翌日に日光を攻撃することは軍議で決定していたのである。
二人の僧侶が現われて、「日光への進軍を思いとどまって欲しい」と懇願してきたが、谷干城は「賊軍が立て籠もっていることを知りながら進軍を止めることはできない」と答えた上で、「日光に残って官軍と戦って神廟を汚すな」と言ったのである。新政府軍は進軍を止めると答えたわけではないのだ。

大鳥軍が日光山を退去したことを知らされないまま、閏4月1日に新政府軍は旧幕府軍との交戦を想定して進軍をはじめたのだが、日光山に到着してみると、予想に反して日光山はもぬけの殻だったというのが真相である。

日光東照宮

かくして、日光東照宮や二荒山神社や輪王寺などの寺社はギリギリのところで戦火から免れたのだが、このような事情を知ると、板垣が旧幕府軍を説得して日光の社寺を兵火から守ったという通説が正しいとは、誰も思えないだろう。新政府軍は旧幕府軍の日光退去を条件に戦闘をやめたわけではなく、軍議通りに日光に進軍したところ、相手が退去したあとだったので戦争にならなかっただけのことなのだ。

板垣退助率いる新政府軍が旧幕府軍に圧力をかけたことが、結果として旧幕府軍を神域から退去させ、日光を戦いに巻き込まれることから防いだ、とでも書くべきところなのだろう。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-173.html

東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-174.html


関連記事

イギリスとフランスにとっての戊辰戦争

前回の記事で、西郷隆盛の命を受けて東征軍参謀の木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)がイギリス公使のパークスを訪ねて、江戸城総攻撃の際に新政府軍の負傷兵の手当てをする病院の世話をして欲しいと依頼したところ、パークスが激怒したことを書いた。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に、パークスと直接交渉した木梨精一郎の話(『維新戦役実座談』)の一節が引用されているので紹介したい。

木梨精一郎
【木梨精一郎】

「その時にパークスが言うには、今日の政府は徳川にある。王政維新になったと言っても、いまだ外国公使へ通報もなし。私はどこまでも前条約を以て、徳川政府を政府と見ている
 なるほど内部を見れば、天子朝廷の命令というものは重きものなれども、条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬというのは、本国に報知することが出来ぬ。すなわち条約面によって、今ここへ兵を多く繰り込めば、自然フランスの一大隊、オランダの二大隊、あるいは衝突を起こすかも知れぬからという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/188
そこで木梨は「徳川幕府の政令は朝廷に奉還して、外国奉行というものは存在しても名前だけで実体はない」と答えたところ、パークスは「今の朝廷から、表方ご通知があったなら、私どもの方も、陸へ上げた兵を艦へ乗せ、国へ返しもしようが、その命のあらざる間は砲撃などのことは、暫らく見合わせてくれ」と答えたという。

このパークスの言葉は一般の歴史書などではほとんど無視されているのだが、非常に重要なことを述べている。

もしある国で革命政権が樹立された場合に、前政権による対外債務や条約がそのまま自動的に引き継がれるというわけではない。
欧米諸国がわが国と条約を結んだ相手は徳川幕府であり、その徳川幕府が朝廷に政権を返上したとはいえ内戦状態に突入してしまって、現段階ではどちらが勝利するかはわからない。イギリスとしては、内戦が終結して書面上でもその権利の承継の手続きがなされるまでは、従来の条約の相手方である幕府を重視することは当然の事なのだ。

そもそも朝廷には外交問題を仕切れる人材は皆無であった。したがって、徳川慶喜が大政奉還を奏上しそれが決定した8日後の慶応3年10月23日に、朝廷は外交に関しては引き続き幕府が中心となって行うことを認める通知を出している。そのため11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告や28日のロシアとの改税約書締結は徳川幕府が行なっているのである。

パークスが、木梨に対して「条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬ」と言っているのはそのことを意味するが、普通に考えれば、わが国で政権が朝廷に移ったにもかかわらず外交だけは今まで通り徳川幕府というのは、欧米諸国にとっては理解し難いことでであったと思われる。だからパークスは「(このことは)本国に報告することは出来ぬ」と述べたのであろう。

外国人の立場で考えればわかる事なのだが、日本でクーデターが起こり、これから新政府軍が幕府勢力との間で本格的な内戦に発展してもおかしくない情勢になってきたのであれば、彼らにとっての最大の関心事は、幕府の瓦解によって無政府状態に陥っている中で、多数の外国人居留民がいる横浜などの治安をいかに確保するかであったはずだ。

遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城

萩原延壽氏の『遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城』に、イギリス公使パークスが本国のスタンレー外相に宛てた手紙が引用されている。手紙日付の西暦1868年4月9日は、和暦(陰暦)慶応4年3月17日で、西郷と勝が江戸無血開城の談判を行なった3日後のことである。

パークスはこう記している。
「横浜に上陸してみると、ミカドの軍隊の先遣部隊が、東海道と呼ばれる公道の、江戸まで10マイル(約16km)ないし15マイルの地点に進出していた。そして、この部隊からはぐれたかなりの数の武装した兵士が、横浜に入り込んできた。」
「私が帰還する2日前、ロコック氏(公使館書記官)はサンキー陸軍大佐(第9連隊)に要請して、この町に通じる主要な入口である橋に衛兵を配置したが、これは賢明な措置であった。此の武力の誇示は、2つの目的にかなうものであった。ひとつは、大君(たいくん)*政府の役人と警吏に対して、それぞれの部署にふみとどまる勇気を与え、かくして恐慌状態の下で日本人が掠奪と混乱に襲われるのを防止することであり、もうひとつは、ミカドの軍隊の乱雑な、規律が整然としているとはいいがたい兵士に対して、この町が大君政府以外の兵(外国軍隊)によっても防衛されていることを明示することであった。」
「4月1日(陰暦3月9日)、神奈川奉行が訪ねてきて、この町の行政をミカドの政府が任命した役人に引き渡す用意ができているが、まだそのような役人が到着したという通知を受け取っていないと語った。さらに奉行は、町に入り込んでいる武装した兵士を取締る力が彼にはないことを認め、且つこの町の外国人と日本人に対する彼らの態度には遺憾な点があると述べた。」(『遠い崖 7 江戸開城』p.8-9)
*大君(たいくん:江戸時代に対外的に用いられた征夷大将軍の外交呼称。ここでは徳川慶喜を指す。「大君政府」は徳川幕府。)

横浜の治安については、大政奉還されたのであれば幕府から朝廷側に引き継がれていなければならないところだが当時はまだ実施されておらず、訪ねてきた神奈川奉行はこれから大挙してやってくる新政府の東征軍から横浜の外国人や日本人を守る力がないと述べたという。ならば、自力で横浜を守るしかないではないか。

諸外国の代表は対応策を協議して、新政権が横浜の治安の維持にあたるまでの間、各国の軍隊を出動させて横浜の要衝を占拠し、幕府軍と協力して東征軍兵士の横浜立入を阻止することを申し合わせ、4月3日(陰暦3月11日)からそれを実施したという。

パークスが横浜の自国居留民を守ることに動き回っていた矢先に、東征軍参謀・木梨精一郎と渡辺清がのこのこと現われて、これから内戦が始まるので傷病人の面倒を見て欲しいと依頼にきたことになるのだが、このような経緯を知るとパークスが激怒した理由が見えてくる。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス】

またパークスは、同じ4月9日付(陰暦3月17日付)でハモンド外務次官あての手紙にこう記している。
江戸のもめごとに対処するのに手遅れでなかったことを知って、ほっとしている。しかし大君は抵抗の意思を放棄しているので、このもめごとも、たぶん1ヶ月で解決するであろう。そして、戦闘は相互に憎み合っている大名の家来たちや、この国に多大の害毒を流している『浪人』たちのあいだの、不正規な小ぜりあいに限られるであろう。われわれは、横浜の安全を確保することが出来たと思う。」(同上書 p.21)

このように、パークスは横浜を守れたことに安堵するとともに、内戦はあと1ヶ月で終るだろうと予想したのだが、実際には戊辰戦争はあと半年も続いたのである。パークスの考え方は、概ねイギリス人の代表的な考え方であり、彼らにとってはこれからしばらく小競り合いが続こうが、慶喜に戦意がなくて新政府が勝つことが自明であるような戦争にはそれほど関心がなく、居留地の治安が守られていることが最大の関心事であったようだ。

一方フランスは、薩長を裏で支援してきたイギリスに対抗してこれまで一貫して徳川幕府を支援し、そうすることで対日貿易の拡大を図ろうとしてきたのだが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したためにその目論見が大きく崩れてしまった。もし幕府が敗れることになれば、フランスの対日貿易は激減することになる。フランス公使のロッシュは、そうなっては困る立場にいたのだ。

鳥羽伏見の敗戦の後、フランス人が相次いで日本人に襲われているのだが、その事件が外国勢力を巻き込む内戦に発展する可能性はなかったのか。一般の歴史書には触れられることの少ない事件を振り返っておこう。

最初の事件は、慶応4年1月11日(旧暦)に起きた神戸事件である。
1月3日(旧暦)に鳥羽伏見の戦いが始まり、徳川方の尼崎藩を牽制するために、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警護を命じていた。

滝善三郎切腹の図
【滝善三郎切腹の図】

Wikipediaの解説によると神戸事件とは、
神戸三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

簡単にまとめればそうなるのだが、この事件直後の諸外国の怒りは尋常のものではなかった。徳富蘇峰の『近世日本国民史 第67冊』に彼らが提出した威嚇的な文章が引用されているが、この事件の対応次第では日本は諸外国の敵とみなし報復措置をとると宣言されている。
“You must immediately come forward and explain this matter. If full reparation be not given, it will be assumed that you are the enemy of foreign nation, who will take measure to punish the outrage.”
“It must be borne in mind that this matter will then concern not only the Bizen clan, not may also cause grave trouble to the whole of Japan.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/132

そして神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕したのである。
この時点では、諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、朝廷は1月15日(旧暦)に急遽幕府から新政府への政権移譲を表明したのだが、諸外国は在留外国人の身柄の安全保障と日本側責任者の厳重処罰を要求したという。

Wikipediaには、「この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされた」と解説されているが、先ほど英語で引用した文章を読めば、おおげさな話ではないことが理解できる。

この事件は鳥羽伏見の戦いで幕府軍がわずか4日で惨敗した直後に起こったのだが、これまでイギリスに対抗して幕府を支援してきたフランス公使のロッシュは失意のどん底にあり、諸外国の中で新政府との交渉をリードしたのはイギリス公使のパークスだったようだ。

しかしながら、フランスがイギリスと同一歩調で動いてもチャンスは生まれない。対日貿易を拡大するためにはやはり幕府と組んで新政府と対抗するしかない。
そう考えてロッシュ神戸事件から1週間後の1月18日(旧暦)に慶喜に謁見を求めて、「此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、フランス軍が新政府軍と共に戦う力になることを提案したのだが、慶喜は「天皇に向かっては弓を引くことはあってはならない」と述べ、ロッシュの提案を断っている。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)
堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)】

そして2月15日(旧暦)にまたフランス人が犠牲になる事件が起きた
フランス海軍のコルベット艦デュプレクスが堺港に入り、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわり近隣の苦情が出たことから、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとしたが逃げられたために咄嗟に発砲し、そのために11名の仏水兵が死亡してしまったのである。(堺事件)
当然のことながら、フランス公使のロッシュはこの事件に激怒した。

ロッシュ
【ロッシュ】

Wikipediaの解説がわかりやすい。
ロッシュは、…2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

15万ドルといっても、できたばかりの明治新政府にそんな大金を支払う余裕があるわけではなかったのだが、昭和6年出版の『摘要堺市史』によると市民や酒造組合等が募金を献じてその金を工面したという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212616/71

英国外交官の見た明治維新

新政府はフランスの要求を全て飲んで、2月23日に堺の妙国寺で土佐藩士20名の切腹が行なわれることとなったのだが、切腹の場で藩士たちは自らの腸を掴み出して、居並ぶフランス水兵を大喝したという。
当時イギリス公使館の二等書記官であったアルジャーノン・ミットフォードは『英国外交官の見た幕末維新』のなかで、こう記している。

「最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地をけがした忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで―――これは殺されたフランス人の数であったが―――フランス人たちは耐えきれなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を助命するように頼んだ。彼はこの場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。」(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』p.153-154)

フランス人たちはあまりに壮烈な土佐藩士の割腹に目も当てられなくなり、その場で9人の助命を申し入れたという。そして翌24日に外国事務局総督山階宮晃親王がロッシュを訪ねて堺事件についての明治天皇からの謝意を伝え、ロッシュは9名の助命を公式に了承した。又ロッシュは宮中への招待を受けて30日に御所に参内し、天皇からの謝意をうけてこの事件は解決したのである。

このように、フランスが挑発するつもりで厳しい要求をしても新政府はその要求を飲み、軍事行動を起こす口実を与えなかったし、慶喜も戦意が無かった。
幕府を援けて対日貿易を拡大するロッシュの対日政策は完全な失敗に終わったために、フランス本国においてこれまでの佐幕派支援政策が全面的に見直され、ロッシュは公使を罷免されて、5月4日にはわが国を離れて帰国の途についている

ところがロッシュが徳川幕府を支援するために送り込んだフランス人軍事顧問団の一部がわが国に残り、フランス軍籍を離脱して戊辰戦争に参加し旧幕府軍とともに戦っている。


榎本武揚
【榎本武揚】

以前このブログで書いたことがあるが、新政府は5月に徳川家に対する処分として、駿河、遠江70万石への減封を決定した。それまでは800万石であったので、これでは徳川家の膨大な家臣団を養うことは不可能だ。多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させようとした

ジュール・ブリュネ
【ジュール・ブリュネ】

フランス人軍事顧問団のメンバーは日本を離れるようにとの勅命が出ていたのだが、ジュール・ブリュネ大尉以下5名は、軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んだのである。
Wikipediaによると、彼らは「イタリア公使館での仮装舞踏会の夜に侍の扮装のまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流」し、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」の創設を支援したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D

旧幕府軍は明治元年(1868)12月15日には蝦夷地を平定したものの軍資金は乏しく、翌年春から本格化する新政府軍の進軍に押されて、明治2年5月18日(新暦1869年6月27日)に土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争は終りを告げた。ジュール・ブリュネらフランス人兵士は五稜郭陥落前に碇泊中のフランス船に逃れたようだ。

その後ブリュネは6月に帰国し、軍に復帰が認められたのち普仏戦争などで活躍し1898年にはフランス陸軍参謀総長にまで登りつめたという。

陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ
【陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ】

また、軍事顧問団の隊長であったシャルル・シャノワーヌは、ブリュネのように旧幕府軍と共に戦う道を選ばなかったが、フランス帰国後は陸軍大将まで昇進し、1898年にはアンリ・ブルッソン内閣の陸軍大臣に就任している。
ロッシュが徳川幕府の軍事力強化のためにフランス陸軍の超一級の人物を送り込んだことは紛れもない事実である。その後この二人は日清戦争においてわが国に貢献したことが認められ、明治政府からシャノワーヌに勲一等旭日重光章、ブリュネに勲二等旭日重光章が授与されたことは記憶に留めておきたいところである。

慶喜が幕府を守るために新政府軍と戦う意志を最後まで持たなかったことは、ロッシュにとっては想定外のことであったろう。彼がこれまで推進してきた対日戦略が大失敗に終わり、フランス公使を罷免されたロッシュは、帰国後外交官を辞して58歳の若さで引退したという。
そして1901年6月23日、ボルドーにおいて91歳の長寿で没したのだそうだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

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関連記事

幕府瓦解後に進行した江戸の荒廃と、政府転覆を目論む勢力の拡大を食い止めた東京遷都

以前このブログで、明治2年(1869)に『遷都の詔勅』が出されないまま「東京遷都」が強行されたことについて、京都を中心に書いた。

東京遷都

教科書では東京遷都について、
「人心を一新するため、同年(1869)9月、年号を明治とあらため、天皇一代のあいだ一年号とする一世一元の制をたてた。同年7月、江戸は東京とあらためられ、明治天皇が京都から東京に移ったのをはじめ、翌年には政府の諸機関も東京に移された。」(『もういちど読む 山川日本史』p.218)
などと簡単に書かれているのだが、当時の京都地図を『”超検索”幕末京都地図』で確認すると、今の京都大学のキャンパスには以前は尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷などがあり、同志社大学のキャンパスには薩摩島津屋敷や多くの宮家や公家屋敷があり、平安神宮から市立美術館、市立動物園あたりも、彦根井伊屋敷、越前松平屋敷、加賀前田屋敷があったことがわかる。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

幕末京都地図

これらの建物やその建物に繋がる人々の大半が、首都の機能が東京に移転してしまえば京都にいることの必要性が次第に消滅してしまうことは明らかで、充分な対策を打たなければいずれ京都の人口は大幅に減少し、武家や宮家や公家が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して産業は衰退し、賑やかだった京都のあちこちに住人不在の屋敷が残されて荒廃していかざるを得ない。実際に京都の人口は維新前の35万人から20万人に急減し、その後京都を復興させるために数多くの苦労があったのだが、この点については以前記したので繰り返さない。

徳川家達
【徳川家達】

今回は視点を東京に移してみよう。
徳川家の家臣の数は旗本が6千人ほど、御家人が2万6千人ほどで、合せて3万人強とされるのだが、慶応4年(1868)4月11日に江戸城が無血開城されたのち、6歳になる田安亀之助(後の徳川家達)による徳川宗家相続を認める勅旨が伝達されて、5月24日には駿府70万石に移封されることが発表されている。
これにより新たに静岡藩徳川家が成立したわけだが、それまでは800万石であった石高が70万石になったということは一気に91.3%も減封されたことになる。

江戸地図

当時の徳川家には約3万人の家臣団がいて、その半分近くが家族とともに駿府移住を希望したため、彼らはとんでもない窮乏生活を余儀なくされることになったのだが、当然の事ながら彼らがこれまで住んでいた江戸の住居の多くは空き家となった。
江戸には徳川家の家臣だけでなく諸藩の屋敷も数多く置かれていたのだが、参勤交代が無くなったのでこれらもまた不要となり空き家となって、江戸の人口は急減して急速に荒廃し、治安も悪化していったのである。

この間の事情について詳しく書かれた書物を探していたのだが、前回記事で紹介した伊藤痴遊の『隱れたる事實明治裏面史』に、薩摩藩の市来四郎の日記が引用されているので紹介することにしたい。

「江戸瓦解後の東京府内の状況は、貴賤貧困を極めること譬えようもない。旧幕臣ことごとく各所に流離転沛(てんはい)し、その居宅皆変じて草木の藪となり、諸侯大中小の邸宅も荒廃を極め八重葎(やえむぐら)が軒を覆う。昔は壮麗を誇った大名小路もことごとく廃墟に変じ、市街の商賈(しょうこ)工匠も過半は退転して、人々は飢餓に陥っている。中にも番町深川本所下谷の地は、見わたすかぎり空き家にして腐朽累々たり。また城内にしても、本丸は燃燼後のままに荒れ果て、狐狸の巣窟となっていたずらに生い茂り、目も当てられない有り様である。西丸は殿閣のみ以前のままであるといっても、無主無人なので頽廃する所が多い。ただし内外三十六見付の門楼のみ残って旧観を保っている。二年の御東幸以来、ようやく人心安堵し民業やや開けたけれども、昔に比べれば十分の一である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/25

江藤新平
江藤新平

江戸がこのような状況に陥ることを予見して、江戸城が無血開城される少し前の慶応4年(1868)4月1日に、佐賀藩の江藤新平が岩倉具視卿にこんな意見書を差し出したという。この意見書も伊藤痴遊の『隱れたる事實明治裏面史』に引用されているので一部を紹介しよう。

慶喜へはなるだけ別城を与え、江戸城は急速に東京と定められ、おそれながら、天子東方御経営の御基礎の場とされたく、江戸城をもって東京と定められ、行く行くのところは東西両京の間に鉄路を御開きあそばされ候ほどの事これなくては、皇国後来両分の憂いなきにしもあらずと考えられ候。かつ東方王化に染まらざること数千年につき、その当時においても江戸城は、東京と定められ候。御目的肝要に存じ奉り候。…ここにおいて右の通り公然御布告、江戸をもって東京と相定められ候わば、東京の人民も甚だ安堵大悦いたすべく候。かくのごときはその関係甚大なりとす。深く御考量くださいますように。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/15

この意見はのちに佐賀藩の藩論として朝廷に建白することとなり、廟議で正式に江戸を東京と改称し、陛下は東京で親臨して政を行うことが決定されたのである。
慶応4年(1868) 7月17日に『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』が出されたのだが、本文にはこう書かれている。

江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書

「朕、今万機を親裁し、億兆を綏撫(すいぶ)す。江戸は東国第一の鎮、四方輻輳(ふくそう)の地。宜しく親臨以て、其の政を視るべし。因って自今、江戸を東京とせん。是れ朕の海内(かいだい)一家東西同視する所以なり、衆庶(しゅうしょ)此の意を体せよ」

このとおり本詔書には都を遷すとはどこにも書かれていない
遷都があるのではないかと疑う京都の人びとを配慮してか、翌8月27日に京都御所で明治天皇の即位式が行われ、9月8日に改元の詔を発して「明治」と改元されたのも束の間、明治天皇は同月20日には東京へと「行幸(ぎょうこう)」され、それが実質の遷都となってしまったのである。

賀陽宮朝彦親王
賀陽宮朝彦親王

このようにしてかなり強引に「東京遷都」が行なわれたのだが、その理由は東京の荒廃を防ぐことだけではなかったのである。この混乱を機に、徳川の再興をはかろうとする動きがあり、その中心人物は伏見宮邦家親王の第4王子の賀陽宮朝彦(かやのみやあさひこ)親王殿下で、文久3年(1863)8月18日の政変の時は宮号を倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとした「中川宮」と同一人物である。

再び伊藤痴遊の著書を引用する。
「…二藩に対して嫌焉(けんえん)の情をもっておられた朝彦親王は、ますます不快の念を抱きながらも、空しく大勢の赴くがままに傍観していたが、いよいよ遷都の議が廟堂に上るとなっては、もはや黙視することができず、盛んに不平の公卿を糾合して反対はしたけれど、これもまた大勢の赴くところで、如何ともすることもできなかった。殊に、陛下の思召しもそこにあるとして見れば、自分も表面に立って反抗することもならぬところから、幸いに紀州新宮の藩主・水野大炊守(おおいのかみ)が、宮と同じ意見をもって、しきりに同士の糾合に努めていることを伝え聞いたので、家来の浦野兵庫を水野への使者として深く相結び、さらに諸藩の浪士で、徳川の再興を夢見ている者が多くある。これらの者を集めて、うまく事を起こして目的を遂げようと、着々とその進捗(はこび)をつけていったのである。
 しかるに、江戸へ出ている公卿の中に、愛宕通旭(あたごみちあきら)という人がいた。これもまた普通の公卿とは違って、存外に胆力もあり、議論ももっていて、なかなか薩長二藩の指導にのみ従っていることの出来ぬ人であった。多くの公卿も遷都には反対であるが、時の勢いに押されて、いずれも緘黙しているのを見て、愛宕卿はしきりに憤慨していた折柄、賀陽宮が主として、水野大炊らが遷都反対を口実に、薩長二藩を押倒して徳川再興を図ると聞き、これに同意してひそかに同志の糾合にかかった。どうせ維新の大変革があって幾日も経たぬ時であるから、さまざまな事情や議論を持って、薩長二藩に反対をしていた者は、到るところにたくさんいたのである。自然とそれからそれへ連絡がついて、初めのうちは極めて少人数であったのが、いつか知らずその関係は全国へ拡がって、集まってくる志士の中には、なかなかに有為の人物も多く、秋田の初岡敬治*、土州の岡崎恭輔、米沢の雲井龍雄そのほかものすごい連中が追々に集まってくる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/27
*初岡敬治:出羽久保田藩士。勤王家として重用され、戊辰戦争では評定奉行副役格。権大参事などを務めたが、反政府陰謀に加担したとして明治4年に自刃を命じられた。
**雲井龍雄:出羽米沢藩士。討幕は薩長の野望によるものと批判し、戊辰戦争時に官軍の東北進撃阻止に動き、明治3年に斬首された。


戊辰戦争関係略図
戊辰戦争関係略図】

この当時、戊辰戦争はまだ終わっておらず、政府軍は奥羽列藩同盟との戦いが続いていた。官軍勝利の見込みがついていたとはいえ、会津藩を中心に不平の諸侯や浪士を集めていて、戦争はそう簡単には集結しないと思われた。
さらに榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力が旧幕府の軍艦に乗って江戸を脱出し、途中で大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力約2,500人を集めて蝦夷地(北海道)へと向かったという動きもあった。この時期、賀陽宮の呼びかけに応えた諸侯や浪士がかなりいたことはまちがいないだろう。

しかしながら賀陽宮の陰謀は明治政府の知るところとなり、慶応4年(1868)の8月になって刑法官知事大原重徳、判事中島錫胤(ますたね)が、朝廷の内命を拝して、賀陽宮を訪ねている。この二人が宮に謁見する場面を伊藤痴遊はこう記している。文中の芸州とは今の広島県西部を指す。

「『これより芸州の浅野家へお預けに致すから、左様御承(う)けなされい
と、朝命を伝えた時に宮は恐ろしき眼をして、両人を睨みつけ、暫らくは言葉も無かったが、両人は唯恐縮して、宮の御答を待つばかりであった。時に宮は
『此一事は、予の更に預かり知らぬことであるゆえ、たとえ朝廷の御沙汰といえども、容易に従うわけには相成らぬ。それとも予がこの事に関係しているという、確たる証拠でもあることか』
こう言われてみると、何とか答えなければならぬから、両人は
『御家臣の浦野兵庫なる者の陳述によりますれば、殿下の御謀反は明白なもので、すでにその一味徒党の連判書さえ、このとおりにござりまする』
宮は不審の眉に皺を寄せて、
『その連判の中に、予の氏名もあると申すのか』
『殿下の御名はござりませぬが、その御手形はこの通りのこりおりまする』
『それを示せ』
『ハッ』
そこで両人は、連判書を宮の前に差し出すと、宮は無造作にこれを拡げて御覧になったが、やがてその手形の上に自分の手を拡げたまま、載せてみて、
『これが予の手形であると申す可。一度押した手形の、どうしてかくも寸法に違いがあるか、よくこれを見よ』
と、言われて、両人が恐る恐る頭を挙げてみると、意外にも連判書に押してある手形は、今宮が押さえている手よりはよほど大きい。そうなってみると、この争いはちと困ったことになったが、今更に朝議一決してかくなったものを、このままにして立ち帰ることもならず、大原は汗を拭きながら、
『一応は御道理(もっとも)でござりまするが、この場合に於いてたとえ御不服はありましょうとも、一時朝命に従って、芸州へ御立退きを願い上げまする。しかし、この事に就きましては、必ず殿下の為にその冤を雪ぎますることは、自分に於いてもお引き受けいたしまする。…』」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/29

このようにして大原は宮を口説き落とし、宮は一旦広島藩預かりとなったのだが、どういう経緯で広島藩に行くことになったかについてはWikipediaには全く触れられていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

では賀陽宮はそれからどうなったのであろうか。
再び伊藤痴遊の著書を引用する。
「宮は遂に朝命に服して、芸州に立退くことになった。哀れ、卓落不羈の気象を持っておられて、薩長二藩の横暴に反抗し来たった宮は、この一事から不遇剥落に、後の半生を送ることになったのである。しかしながら、朝廷においても、宮の心事の皇室に反(そむ)いたのではないということは、明らかに分かっておられたのであるから、その後赦免の御沙汰が下って、一旦賀陽宮は廃止となったが、久邇宮(くにのみや)の御名義を下し給わって、東京へ上ることをお許しになった。…明治の初年には、皇室の班に列する方でさえも、こういうことのあった一事に顧みても、薩長二藩の横暴が、どれほどに一般の人から睨まれていたかということの想像はつく。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899780/30

そののち賀陽宮親王は政治の世界から遠ざけられたが、宮の呼びかけに応じたメンバーの多くは斬に処せられたのだそうだ。
このような薩長にとって都合の悪い出来事は今日ほとんど知らされていないと言って良いのだが、このような出来事を知ると明治維新は決して順調にすすめられたのではないことがわかる。

ここで、もう一度この記事の最初に紹介した薩摩藩の市来四郎の日記を振り返ってみたい。市木は文章のはさらにこう続いていた。
「したがって人心洶々(きょうきょう)、堵に安んぜず、各藩の兵隊充満して横暴に流れ、人民は愁苦を訴えている。それで気概のあるものは各所に潜匿(せんとく)観望して、時をうかがって薩長二藩を討ち、これに取って代わろうと企てる者がある。この形況のまま押し行けば、数年を待たずに再度大乱になりそうな情勢である。」

また江藤新平が岩倉具視卿に提出した意見書にも「東方王化に染まらざること数千年」という言葉があった。

戊辰戦争箱館戦争の図
【戊辰戦争箱館戦争の図】

明治政府からすれば、戊辰戦争で官軍が東北で奥羽列藩同盟との戦いが続き、江戸には新政府に不満を持つ各藩の兵隊が充満していて、隙あらば新政府を倒そうという動きが各地にあったことを知らねばならない。

こんな状況で東京遷都の議論されないまま、京都が新生明治国家の政治経済の中心地となっていたとしたら、東日本で内戦の長期化は避けられなかっただろうし、外国勢力の動き方次第では今の日本はなかったかもしれない。

東京遷都により、江戸幕府瓦解のあとの東京の荒廃を免れたことはそのとおりなのだが、当時の国内情勢を考慮すると、その後も関東・東北地方に睨みを利かせながら、わが国全体をバランスよく統治するためには首都は東日本でなければならず、荒廃が進み治安が悪化していた当時の江戸の状況を考えれば、首都を京都のままとすることは愚策である。
京都の人々を騙して強引に行われた東京遷都ではあったが、スタートしたばかりの明治政府にとってはいかなる手段を取ってでも、江戸を東京として首都を東京に遷すことがベストの策だったのである。

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【ご参考】
教科書などにはほとんど何も書かれていませんが、幕末から戊辰戦争に至る歴史はイギリスとフランスの動きが重要で、戊辰戦争にはフランス軍事顧問団のジュール・ブリュネ大尉らフランス人兵士5人がが軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んでいます。興味のある方は覗いてみてください。

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-491.html

武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-492.html

洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-493.html

江戸無血開城の真相を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-494.html

イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-495.html

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関連記事

大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由

前回は石川県の「不平士族」が大久保利通を暗殺したことを書いたが、「不平士族」と言う言葉を用いると、普通は「不平」を持つ側は少数で「悪い」側と受け取られることになる。
歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、「勝者」に正当性、正統性があると描かれるものであり、対立する勢力は「悪者」にされるか、「抵抗勢力」「不平分子」などとレッテルが貼られるのが常であるのだが、かといって「勝者」側に「正義」があったのかを問うと、必ずしもそうではなかったということが往々にしてある。もし「敗者」側に「正義」があったとしても、「勝者」は歴史叙述の中で「敗者」を悪しざまに描くものなのである。

討幕の密勅

徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出た慶応3年(1867)10月14日に薩摩藩・長州藩に対して「討幕の密勅」が下されたことを学んだのだが、この密勅をよく読むと「幕府を倒せ」とは一言も書かれていない。ポイントとなる部分は「汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ」だが、簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえという命令文書である。しかしながら、大政奉還が成就してこれまで権力の中枢にあった「徳川幕府」は存在しないのだから、普通に考えると「討幕」という言葉はありえない。
「徳川家を全滅させよ」というのはつまるところ私闘以外の何物でもなく、しかもこの密勅は正式な手続きを経ていない「偽勅」であったことが今ではわかっているのだ。
この「偽勅」に対して「討幕の密勅」などという言葉を未だに歴史学者が用いるのは、学会という特殊な集団においては「薩長中心史観」が主流であるということの証左なのだろう。

聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)
【聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)】

12月9日は岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定したのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かっている。

山内容堂
【山内容堂】

諸侯の大多数は平和解決を望んでおり、12日には土佐藩の山内容堂が朝廷に以下のような意見書を奏上した。
「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)
その同日に阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩連名の同様の意見書が二条城に届けられて、薩長は方針転換を余儀なくされることとなった。

開国の真実

幕府方の会津桑名兵を挑発して、旧体制を粉砕するきっかけを得ようとした目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで薩摩藩は、次いで江戸市中攪乱により内乱のきっかけを作ろうとした
鈴木荘一氏は『開国の真実』でこう解説している。

相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だった
ことである。」(『開国の真実』 p.325-326)

薩摩藩邸焼打ち事件
【薩摩藩邸焼打ち事件】

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、それまで薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたのだが薩摩藩の非合法活動が一段と活発化し、12月22日には庄内藩屯所が銃撃され、23日未明には江戸城二ノ丸で不審火があり、同夜には庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれて、隠忍自重してきた老中淀藩主稲葉正邦もついに堪忍袋の緒が切れ、酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じ、12月25日早朝に旧幕府軍は、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟である薩摩藩邸を焼打ちしてしまったのである。

大阪にいた慶喜はこの報告を聞いた後も「此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ」と、当時旧幕臣の大多数が主戦派に傾いていたのを斥け、ともかくも恭順論を貫くことを命じたのである。

教科書などでは戊辰戦争の緒戦の鳥羽伏見の戦いについて「1868年1月、薩摩・長州軍藩兵を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍とのあいだに、兇徒の近くで武力衝突が起こった。これに勝利を収めた新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討し、江戸へ軍をすすめた。」などと開戦責任を曖昧にしているが、当時の記録を読むと、慶喜に上京を命じておいて京に向かう警護の行列に新政府軍が一方的に発砲したのが真相であり、この時旧幕府軍には戦う意思はなかったようなのだ。

維新前後の政争と小栗上野の死

国立国会図書館デジタルコレクションで関連書籍を探していると、『維新前後の政争と小栗上野の死』という本が目にとまった。著者の蜷川新(にながわあらた)氏は法学者・外交官を歴任し、旗本小栗上野介の義理の甥にあたる人物だという。今日ではこのような視点に立った記述が紹介されることはほとんどないのだが、一部を引用させていただく。

岩倉、西郷、大久保等は、慶喜が大兵を擁して、大阪に在るを自己等の為に危険視した。もしも大阪を根拠として、京都にある薩軍に反抗せられたならば、交通路は絶たれ、京都の薩軍は甚だ危うしと心配した。彼らは一大権略家であるが故に、自己の心を以て、徳川方を猜疑したのである。
 岩倉らは流石に智者である。即ち一策を案じ、慶喜に軽騎上京を命じ、会桑*に向かっては、その本国に帰還すべきを命じた。この命は、天皇の大命として伝えられた。
 慶喜としては、この大命に反くを得ない。慶喜の立場は困難に陥った。上京せざれば、反逆者の如くに取扱わるべく、軽率に上京すれば、危険身に迫るべきは当然であった。慶喜を擁護する者より見れば、武士の習いとして、その主と仰げる慶喜を見殺しにするを得ざるは当時の武士的道徳であった。親藩たる会桑は、慶喜を守護して上京すべしということに一決した。これ武士として正しい考慮であった。薩長を討伐するがためではなく、唯だ警護者として随伴するにすぎなかった。岩倉等一味の権略陰謀甚だしきに対しては、これより以外に取るべきの途はなかったであろう。
 慶喜は命により上洛した。慶喜は戦闘隊形を以て、上洛したのでは決してなかった。勿論武士であるが故に、武器は各人何れも携帯して行った。しかるに薩長の兵は、此の上洛者を鳥羽伏見に阻止した。而して付近の高地をあらかじめ占領し、発砲を以て徳川方に挑戦した。これ天人ともに怒らざるを得ない暴状ではないか。彼らは此の機会を利用して、慶喜以下を全滅せしめんと策動したのであろう。」
*会桑:会津藩、桑名藩のこと 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/124

薩摩軍は慶喜の上洛を待ち伏せて大砲を打ち込んだとあるが、その点については会津藩の永岡清治が『旧夢会津白虎隊』でこのように記している。文中の「伏水」というのは京都市伏見区の地名で明治12年に「伏見」の表記に統一されている。

鳥羽伏見の戦い

田中玄清*は正午淀を発し、伏水に向かう。元来この行は従軍とは思わず、警備の心得なり。余等伏水駅端の街路に憩いし時、商賈両三人来たり。桃山の半腹を指さし、此処には大砲一門、彼処には二門と兵児三四百人戎装して備えりと、一々これを説示し且つ言う。伏水奉行所には会兵、肥後橋にも会兵、奉行所の北及び御香宮などには薩長固め大砲を並び塁を積み関門を設け行人は議して而して之を拒否す。竹田街道には土州これを警衛すと告ぐ。尋て雪空となり、夕陽春く頃、西北鳥羽に当たり大砲二発聞こゆるや否や伏水鳥羽共に天地震撼するばかりなり。」
*田中玄清(はるきよ):会津藩家老。幕末の藩主・松平容保に仕えた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925910/75

戊辰物語

会津藩の記録をそのまま信じるわけにはいかないとも思うのだが、彼らが「警衛の心得」で臨んでいたことは真実だと思われる。
岩波文庫の『戊辰物語』は、明治維新の動乱を経験した古老からの聞書きを編集した「東京日日新聞」の連載記事をまとめた本だが、ここにはこう記されている。

「鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人ひとり名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様で、…」(『戊辰物語』p.30)

槍や刀で立ち向かうしかないような陣形をとっていたために旧幕府軍は銃撃戦で大敗したわけだが、そのような陣形をとっていたということは、旧幕府軍は薩長軍との戦いにはならないことを前提にしていたということであろう。
大阪にはフランス教師直伝の伝習兵がいて、ミニエー銃などの最新兵器も大量に保有していたのだから、はじめから薩長との戦いを覚悟していたのなら、近代的兵器を活用できる陣形を取るのが自然である。そうしていればこんなに無様な負け方をすることはなかったであろう。

慶喜は戦う意思はなかったのだが、ならば鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争は、何のための戦いであったのか。

西郷隆盛

西郷隆盛は当時「此度の創業幸いに我勝たば、主として統一を図るべし。彼勝たば、徳川氏の中興正になり、天下靡然として一に期せん。皇国の独立は期して待つべし。故を以て、我れ勝つも好し、彼れ勝つも好し。その勝敗の如きは論ぜずして可なり。兎も角も一戦を賭して、日本の統一を図るにあり」と述べたそうだが、大政奉還がなされたにもかかわらず、徳川方と一戦を交えて勝利して、徳川の経済基盤を奪取し薩長が権力を掌握することにこだわっていたようなのである。のちに慶喜は「辞官納地」も許容したので、それでもなお徳川軍を討伐しようとした薩長の意図は、薩長主導で政府を作ることにあったと考えるしかない。

蜷川新
【蜷川 新】

蜷川新氏は『維新前後の政争と小栗上野の死』で挑発をし続けた薩長を非難しているのだが、この文章を読むと、これまで教科書やテレビの解説などで何度も耳にしてきた歴史叙述に随分偏りがあることに誰しも気づかざるを得ない。不平士族の問題もこのような視点から見直すべきなのだと思う。

大政奉還は、既に前年十月を以て成就したのであり、幕府はその時に消滅したのである。『徳川の中興』なぞ断じてあらしむべきものではなかった。然るに西郷は、戦の勝敗にて徳川の中興生じて可也と言明したのである。これ果たして忠誠の言というを得ようか。王政の復古は、既になったのである。進んで為すべきは、各藩何れもその権力を朝廷に奉還すべき一事であった。慶喜は既にこれが範を示したのである。しかるに、他の藩主藩臣に一人としてこの精神なし。島津も毛利もその藩臣も、そのまま藩として引き続き存在し、依然として地方の権力を握り、地方に君主の威を以て存在せんとしたのであった。かくして、天下の統一成ろう筈なし。しからば西郷には『統一』の言のみあって、統一の実を完(まっと)うするの誠意なかりしものと言うべきではないか。統一を欲するならば封建の廃止でなければならなかった。幕府既に亡びたる後において、唯だ一家の徳川氏のみを追窮することが、当時の緊急事業では断じてなかった。伏見鳥羽の戦なぞは国家国民の為に避く可かりしものであり、かかる無益の流血なくして至当の公議を竭(つく)し、諸侯を廃し、王政復古を至誠を以て進行すべきであった。
 もしも徳川方にして、執拗に封建の存続を図り、日本国をして世界の大勢に順応せしむるを阻止する所為もありしとせば、薩長及び公卿らが唯一に武力を以て、徳川方を討滅するは、当然執るべきの処置であった。しかしながら、徳川幕府は国家の為に自ら消滅し去ったのである。幕府方に確にこの正しき行道あり。しかるに、薩長の人々が、幕府亡びしのちの徳川方を圧迫し、故さらに戦乱を起こさしめたるが如きは、何ら是認すべき理由はないのである。…
 自ら権略陰謀これ事とし、王政復古成れる後に於いて、内乱を煽動挑発し、しかる後に、兵力を以てこれを平らげ『王政復古の功労者は我らなり』と宣伝するものありとせば、国民はそれら権謀の徒の弄策を正しからずとして裁判せざるをえないであろう。これ国民的公判である。
 伏見開戦の責任者は、薩長方にある。而して其の初めは私闘であった。それ故にもしも『喧嘩は両成敗なり』というならば、徳川方も薩長方も同じ様に罰せられるべきはずであった。然るに輪王寺宮の御令旨にもある如く、第三日目よりして、錦旗は即妙的に薩長方に掲げられた。而して徳川方の敗北にあらざりしも『形勢不利也』として徳川方はその兵を引き揚ぐるや、この総退却者を以て『逆賊也』と公然宣布せらるるに至った。国民よりしてこの史実を今日において科学的に判断せしむれば、いずれが正、いずれが非なりとなすであろうか。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/125

錦の御旗
【錦の御旗】

旧幕府軍には逆賊となる意思もなく、鳥羽伏見の戦いではただ武士の習いとして応戦しただけであったのだが、この戦いが始まった3日後に錦の御旗が掲げられて、旧幕府軍は『逆賊』とのレッテルが貼られてしまった。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉は明治維新後に広まった言葉なのだが、このような言葉が全国で広まったということは、明治維新政府側が卑怯な手段を用いて政権を掌握したことを、明治人の多くが認識していたということではないのか。
教科書などで描かれているわが国の近代史は、明治維新から150年も経ったにもかかわらず、未だに薩長勢力にとって都合よく描かれていると考えるのは私ばかりではないだろう。ここ数年来ようやく明治維新を見直す著作の出版が相次いでいるが、教科書などの江戸幕末から明治初期の叙述が全面的に書き直される日は来るのだろうか。

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【ご参考】
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期の歴史は薩長にとって都合の悪い史実はほとんど書かれていません。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-366.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-460.html





関連記事

戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した

前回の記事で戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』の冒頭部分を紹介した。この檄文はやや長文だが、明治維新を推進したメンバーがどんな連中であったかが、新政府に敵対する立場から述べられていて興味深い。
もちろん内容に誇張もあるだろうが、この檄文に賛同して多くの武士たちが命がけで官軍と戦ったことを考えると、かなりの真実がこの檄文に織り込まれていると考えるほうが自然だと思う。
今回は雲井龍雄の書いた文章の内容を少し詳しく紹介したい。

雲井龍雄

檄文の冒頭部分は前回の記事で書いたとおり「彼らが攘夷を主張したのはただ幕府を傾けて政権を奪う野望であったことを知るべきだ」という内容で、原文は前回の記事で引用したので省略させて頂いてその続きから読んでいこう。
原文とその大意は前回紹介したWikipediaの記事に出ているが、文中の「大意」の部分は僭越ながら筆者が若干の修正を加えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84

「皇朝、陵夷(りょうい)極まると雖も、其の制度典章、斐然(ひぜん)として是れ備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫(そぞろ)に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。
薩賊、擅(ほしいまま)に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥(みだ)りに諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯乱、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
我が国には海外勢力による国防の危機があると言っても、わが国には固有の制度があり、それらが機能してきたことを知るべきである。しかるに、薩摩が権力を握ってからは急激で無理な変革を推し進め、長い歴史の中で培われてきた制度や慣習を破壊してしまった。この罪をどうして問わずにおれよう。
薩摩は、公家や皇族を捨て去り、自分の意に沿わぬものは排斥し、諸藩の不逞の輩が、自分たちにつき従うものばかりを出世させて取り立て、下克上の綱紀紊乱の世を招いている。その罪を問わずにはいられない。

「公家や皇族を捨て去り」という部分は分かりにくいが、孝明天皇・明治天皇の摂政であった親幕派公卿の二条斉敬(にじょうなりゆき)や、親幕派の賀屋宮朝彦親王らが王政復古時に朝廷から排除されたことを指していると思われる。

鳥羽伏見の戦い
【鳥羽伏見の戦い】

次に雲井龍雄は鳥羽伏見の戦いの官軍の戦いぶりについてこう述べている。
「伏水(鳥羽・伏見の戦い)の事、元暗昧、私闘と公戦と、孰(いず)れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其の公論を定め、罪案已に決して、然る後徐(おもむろ)に之を討つべし。然るを、倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して、征東の兵を調発す。是れ、王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
 薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せざることなく、或は人の鶏牛を攘(ぬす)み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず、猶且つ、靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから征討軍を起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪な謀略だ。その罪を問わなくてはならない。
薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、進軍した先々で略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。

引用部分の後半で、雲井龍雄官軍の乱暴狼藉が甚だしかったことを指摘しているのだが、この点について他にどのような記録が残されているであろうか。

戊辰戦争 裏切りの明治維新

星亮一氏の『戊辰戦争 裏切りの明治維新』(静山社文庫)に、『相馬市史』に解説されている『吉田屋覚日記』が紹介されている。この日記は相馬の御用商人・吉田屋鈴木庄右衛門の手代が記録したものだという。

「8月14日
官軍側の分捕品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。もっとも後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買い戻される。」(『戊辰戦争 裏切りの明治維新』p.144)
分かりやすく言えば、彼らは分捕り品を販売して収入を得ていたわけで、官軍とは名ばかりで夜盗の集団のようなものであった。

星亮一
【星亮一】

星氏はさらにこう解説しておられる。
「官軍に徴発された馬は、雨覆いもなく野外につながれたままだったので、数十疋も死んだ。また馬の飼料として、近在の青豆や野菜を採ったので、野菜が一切なくなるなど、農民は断腸の思いだった。
 酒屋の従業員は皆、官軍の炊き出しに使われ、酒造りができなくなった。
 治安の悪化もおびただしいものがあり、強盗事件が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振る舞いもあった。
 女性も徴発され、給仕役に後家が召し出された。
 これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽の相手であった。一般兵のために小高村、浪江村、鹿島村などの宿には遊女を置くことが求められた

 病院の看護人にも大勢の女性が動員された。
 相馬藩はじっと耐えた。」(同上書 p.145)

仙台戊辰史

ネットで古い記録が残されていそうな本を探していると明治44年刊の『仙台戊辰史』という本が見つかった。仙台藩は、新政府から会津藩に対する追討軍への参加を命じられていたのだが、藩では次第に会津藩・庄内藩と協調して新政府と敵対すべきだとの意見が多数となっていく。なぜ、仙台藩で錦の御旗の官軍と戦おうという意見が広がっていったのか。

官軍の奥州鎮撫使九條道孝総督の目付であった戸田主水という人物が、慶応4年(1868)4月25日に九条総督に宛てて建策した文書の一部を引用する。文中で戸田は鎮撫使参謀の大山綱良(薩摩藩)と世良修蔵(長州藩)を強く批難しているが、戸田は建策したのちに姿を消したという。

世良修蔵
【世良修蔵】

「…人民を鎮め撫つるは殿下の御職掌にして、みだりに兵威を以て人民を圧服し給うの謂いにあらざるや明らかなり。…殿下御東下以来大山・世良両参謀の為すところを観察するに、殿下の為に痛嘆せずばあるべからざるものあり。請う、これを陳せん。寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。これ奥羽の人望を失うの基を開く一なり。
薩長の兵士本営門外に乱暴実に驚くべき者あり。あるいは路傍に臣士を侮辱し、あるいは市井に商賈を嚇怒し、あるいは山野に婦女を強姦し、あるいは仙台誹謗の歌謡聞くに忍びざることを白昼大道に高吟するの類、両参謀知りて而して措て問わず。士民の怨みいつこにか帰す。これ殿下の人望を失うの二なり。
したがって討会*出兵の遷延するも両参謀本営において人中に大藩の君公老臣を嘲笑するの類、その臣子たるもの誰が心に快とせんや。これ殿下の人望を失うの三なり。

世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。…」
*討会:会津藩追討のこと
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/217

戸田主水という人物は仙台藩とつながっていたという説もあり、記されていることの真偽の判断は読者にお任せするが、ほかにも同様な記録が残されていることからすると、雲井龍雄の『討薩檄』に書かれているような官軍による乱暴狼藉がひどかったことは、ある程度は真実であったと理解してよいだろう。
多くの住民が殺され、富を奪われ、女性の多くが強姦される被害が東北各地で続発し、官軍と言ってもやっていることは中世の山賊集団と同様で、東北諸藩の武士たちはこのことを黙って見過ごす訳にはいかず、命がけで官軍と戦うことを決意したのだと考える。

討薩檄
討薩檄

雲井龍雄の『討薩檄』に話を戻そう。続いてこう記されている。
「井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其の君を伐たしむ。尾張・越前は徳川の親族なり。族をして其の宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり、父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り*、今上陛下の初政をして、保平(保元の乱・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。」
*三綱五倫:三綱とは. 臣下の王に対する忠; 子の親に対する孝; 妻の夫に対する烈. 五倫とは. 父子有親(孝行); 君臣友義(忠誠); 夫婦有別(男女の役割); 長幼有序(上下の秩序); 朋友有信(信義)

【大意】
徳川の勲臣を臣下に討たせたり、徳川の親族に宗家を討たせたり、諸藩の親子兄弟を討たせたりしている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、こういうことは人道に反することであり、今上陛下の統治に傷をつけることになる。その罪を問わなくてはならない。

そう記して、最後に雲井龍雄はこう結んでいる。

「右の諸件に因って之を観れば、薩賊の為す所、幼帝を刧制して其の邪を済(な)し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿(王莽や曹操や董卓や司馬懿)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず、再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せらるるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。
是(ここ)に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此の義挙を唱ふ。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こひねがはく)は、我が列藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝(やぶ)るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし、若し尚、賊の篭絡中にありて、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾(こひねがはく)は、勇断する所を知るべし。」

【大意】
上記のことから考えれば、薩摩のなすところは、幼い天皇を利用強制して邪悪な政治をし、天下を欺き、残虐をなし、道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。奥羽列藩同盟はこれを座視するに耐えないので、再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。
よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、先祖たちの心を安んじて欲しい。もし、薩摩に篭絡されて、何が正義かも弁えず、薩摩を助けるような邪悪な徒がいるならば、軍も規律があり、許すわけにはいかない。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。

以上が『討薩檄』の内容なのだが、この檄文の存在や戊辰戦争で官軍が乱暴狼藉を働いた記録が残されていることを知ったのはつい最近の事である。
教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)と、キレイごとが書かれているだけだ。

最近になってようやく薩長史観とは異なる視点で描かれた歴史書が出版されるようになってはきたが、明治維新からもう150年も経つというのに、教科書やマスコミなどの明治史の解説では未だに薩長本位で、これでは東北出身の方は納得できないだろう。

維新雑史考

そんなことを考えながら面白そうな本を探していると、昭和9年に出版された高梨光司著『維新雑史考』に、戊辰戦争に関する薩長本位の歴史叙述に苦言を呈しておられる文章が見つかった。高梨氏は官軍による乱暴狼藉の事例を紹介したのちに、こう記されている。

然るに従来の薩長本位の戊辰戦記には、これらの事に関し、何ら記せざるのみならず、東北人の手になるものと雖も、概ねこれに触れるを避けたかの観がある。或いは他に憚るところあって、かくせりやとも思わるるが、歴史的事実は飽くまでその真相を伝うべきであり、その結果が当年の官軍なるものの不名誉に帰するも、致し方あるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1232273/82

この本は明治維新から66年後に刊行されているのだが、それから84年経った今も大半の歴史書が薩長史観で叙述されているのは、戦後の日本史学者の怠慢であると言うしかないだろう。
いつの時代もどこの国でも、勝者は「歴史」の叙述の中で自らの支配の正当性をアピールすることによって、政権の長期安定をはかろうとするものであり、勝者にとって都合の良い歴史を広く伝えようとするのは当たり前のことなのである。

勝者が編纂した歴史や記録に偏らず、さまざまな立場の人々が書き残した記録を読み比べながら、本当は何があったのかを考察することが重要だと思うのだが、教科書などのわが国幕末から明治までの歴史が全面的に書き換えられる日は来るのか。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-491.html

武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-492.html

洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-493.html

江戸無血開城の真相を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-494.html

イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-495.html






【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。

関連記事

西郷隆盛は明治新政府の初期の腐敗ぶりに涙した


岩波文庫に『西郷南洲遺訓』という本がある。この本に西郷隆盛の遺訓をまとめた『南洲翁遺訓』などが収められているのだが、この南洲翁遺訓』は戊辰戦争で薩摩藩と敵対した旧庄内藩の旧家臣の手によって、明治23年に制作され広く頒布されたものである。

南洲翁遺訓

なぜ薩摩藩ではなく庄内藩の旧家臣によって西郷隆盛の遺訓集が作成されたのかと誰でも思うところなので、その点について少し説明しておこう。

薩摩藩邸襲撃による火災
【薩摩藩邸襲撃による火災】

薩摩藩は慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令の後、芝三田の薩摩藩邸に浪人を集めて江戸の治安を攪乱させていた。当時江戸市中の警備を担当していたのは庄内藩であったが、12月25日には薩摩藩邸の浪人が庄内藩邸に発砲する事件が発生したことから、老中稲葉正邦は庄内藩に命じ薩摩藩邸を襲撃させている。

この事件がきっかけとなって戊辰戦争が始まり、庄内藩は官軍と戦いの末敗れてしまった
のだが、共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済み旧庄内藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)は明治3年に庄内藩に復帰している。これには明治政府軍でも薩摩藩の西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛されることとなる。

酒井忠篤
【酒井忠篤】

西郷は戊辰戦争が終了した後は東京残留を断って鹿児島に戻っていたのだが、明治3年(1870)に酒井忠篤は旧藩士らを従えて鹿児島に西郷を訪ねてその教えを請い、その後も旧庄内藩士らは鹿児島を訪れて、西郷から直接話を聞いたという。
明治22年(1889)に大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が戻されて西郷の名誉が回復されることとなり、酒井忠篤が旧庄内藩の旧藩士たちに命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった。それが『南洲翁遺訓なのである。

南洲翁遺訓』は今では誰でもネットで訳文や解説文が読むことができる。
いろんなサイトがあるが、例えば『敬天愛人フォーラム21』の『西郷南洲翁遺訓集』は読みやすくてお勧めである。
https://www.keiten-aijin.com/ikun

西郷隆盛

この遺訓を読むと、西郷が、出来たばかりの新政府にかなり批判的であったことが垣間見えてくる。いくつかを紹介しよう。

「第一ケ条
【原文】
廟堂に立ちて、大政を為すは、天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて、政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れ故真に賢人と認める以上は、直に我が職を、譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を、官職を以て賞するは、善からぬことの第一也。官は其の人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるる…
【訳文】
政府に入って、閣僚となり国政を司るのは天地自然の道を行なうものであるから、いささかでも、私利私欲を出してはならない。だから、どんな事があっても心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせる事こそ天意である。だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならい。従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職に就ける事は良くない事の第一である。官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には、俸給を多く与えて奨励するのが良いと南洲翁が申される…」

西郷は国政を担う人物は、私利私欲で動く人物であってはだめで、いかに功績があったとしても、相応しくない職を与えるなと言っている。具体的な名前を挙げてはいないが、西郷から見て不適任な人物が多数政府にいたのであろう。西郷はこう述べている。

「第二ケ条
【原文】
賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、縦令人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。
【訳文】
立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、どれを取り、どれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。昨日出された命令が、今日またすぐに、変更になるというような事も、皆バラバラで一つにまとまる事がなく、政治を行う方向が一つに決まっていないからである。」

立派な人物がいて発言の場を与えたとしても、新政府には、わが国をどのような国にするかという基本方針がしっかり定まっていなかった。
明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせたため、地方に権力を残したままとなってこれでは中央集権国家は成立しえない。朝廷に兵力も財力もなく権威もなければいずれ天下は遠からずして瓦解してしまうことになる。
しかしながら新政府には、そのような危機感も持たずに自分の藩や自分の利益ばかりを追い求めるようなレベルの人間が少なからずいたことは第四ケ条を読めばわかる。

「第四ケ条
【原文】
万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して、面目無きぞとて、頻りに涙を催されける
【訳文】
国民の上に立つ者(政治、行政の責任者)は、いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものである。ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。」

このように西郷は、維新の事業が始まったばかりの大事な時に、新政府の中で私利私欲に目がくらんだような連中の振舞いが多いのを見て、何のために戊辰戦争を戦ったのかと涙を流したというのだが、出来たばかりの明治新政府の官吏の働きぶりは、具体的にはどのようなものであったのだろうか。

横山安武
横山安武

明治3年の7月27日に薩摩藩士の横山安武という人物が、明治政府に仕える官吏の驕奢な暮らしぶりに憤慨して『時弊十箇条』を挙げた書を集議院門扉に公示して割腹自殺を遂げる事件があった。彼は初代文部大臣を務めた森有礼の実兄で、儒学者の横山安容の養子となって藩に出仕し、後に島津久光に側近として仕えた人物である。
西郷は後に彼の死を惜しんで碑文を作って弔ったのだが、この横山が死を以て訴えた『時弊十箇条』は、『南洲翁遺訓』の第四ケ条の内容をもう少し詳しく、具体的に記した文書としてもっと注目されてよいと思う。

『時弊十箇条』写
【『時弊十箇条』写】

時弊十箇条』の全文は明治44年刊の河村北溟著『西郷南州翁百話』に出ている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755544/85
が、昭和6年刊の望月茂 著『憲政史物語』の方が解説がなされていて読み物としてわかりやすい。引用部分の『』の太字斜字部分が『時弊十箇条』の原文で、その他の部分は望月茂氏の解説で、ある。文中の『三條公』というのは三条実美、『岩倉徳大寺』は岩倉具視と徳大寺実則のことである。また『集議院』というのは、「五か条の誓文」中に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と定められたことにより設置されたが公選により選ばれたものではなく、ほとんど機能しなかったという。
望月茂は『時弊十箇条』をこう解説している。

「彼は、わずかに28歳の一青年に過ぎなかったが、建白の十ケ条は悉く時弊をついている。
一、 輔相の大任をはじめ、侈靡驕奢、上朝廷を暗誘し、下飢餓を察せざる也。』
この時代は、明治も早や三年。維新当時の緊張しきった心持がうせて、大臣諸公がぼつぼつ贅沢をはじめ、青公卿が威張りだした。三條公などでさえ、白昼公然、流行の馬車を駆って吉原の大門を潜る始末。…
二、 大小官員も、外には虚飾を張り、内に名利を事とする少なからず』 
これは、いつの世も泰平になると免れない。
三、 朝令夕替、万民、狐疑を抱き、方向に迷う。畢竟牽強付会。心を着実に用いざる故なり。
痛いところを抉っている。全く明治初年の制度は、ああでもないこうでもないと猫の眼玉のように変わっている。それでは民衆が、疑いをさしはさむは当然である。
四、 道中人馬賃銭を上増し、五分の一献金等、すべて人情事実を察せず。人心の帰不帰を省みず。剥刻の処置なり。
五、 直を崇ばず、能者を尚び、廉恥上に立たざるがゆえに世風日に軽薄なり。』
これは、昭和の今日も同じらしい。
六、 官の為に人をもとめずして、人の為に官を求むる故に、毎局己れの任に尽くさず。職事、賃取仕事のように心得る者あり。』
どうも、今聞いても耳がいたい。
七、 酒食の交厚く、道義の交薄し。
明治3年、已に然りとせば、今日の道義の交わりおとろえたるは、致し方ないことかもしれない。
八、 外交人に対し、約定(条約の意)の立法、軽率なるをもって、物議沸騰を生ずること多し。
九、 黜陟の大典立たず。多くは愛憎をもって進退す。春日某の如き廉直の士はかえって私恨を啣み、冤罪に陥る数度なり。岩倉徳大寺の意中に出づると聞く。』
ここに春日某としてあるのは、春日潜庵をさしている。彼は硬骨の陽明学者。維新後奈良県知事となったが、讒を蒙って囹圄(れいご)の人となって以来、又出でて仕えず。明治11年没するまで、一処士として終わった。南洲翁の兄事していた人物である。
十、 上下、こもごも利を征りて、国危うきこと。
この十ケ条をあげているが、これを要するに、今日の言葉で言えば綱紀粛正である。彼は、なお最後に付け足し、朝鮮から頻りに侮られるが、それくらいのことで、兵を動かすというようなことは、とんでもないことだと言っている。口に一新を唱えて、一新の実あがらざる今日、外国へ兵を構えることなどは、国事をもって遊戯視する徒輩の暴論である。朝鮮は、文禄時代の朝鮮ではない。今日、国力の充実せざる矢先血気にかられて左様なことをするのは、国を亡ぼすものだと極言している。
集議院あれども無きが如く、草莽の議論が行われぬ折柄、ただ一片の建白ぐらいでは、政府の大官の意中を動かすことが出来まいと信じた彼は、ついに死をもって諫言しようとした。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268721/33

横山が批判した通り、当時の政府は課題や問題が山積みで、その政情は混迷をきわめていた。明治2年(1869)5月に榎本武揚以下旧幕臣が立てこもっていた函館の五稜郭が開城し戊辰戦争が終結すると、翌月には王政復古や戊辰戦争に功績のあった者に対し賞典禄や位階が与えられるなど論功行賞が行われたが、それら恩賞は薩摩藩、長州藩出身者に手厚いものであり、両藩に対する非難が出ていたという。また薩長両藩の間でも、政府の人事について争いが生じて、新政府は発足当初からかなり問題を抱えていた。
それだけではない。明治2年は天候不順で全国各地で農作物が不作を極めて物価が高騰し、農民の暴動が各地で起こっている。

廃仏毀釈

そんな情勢であるにもかかわらず、新政府の役人どもは仕事らしい仕事をせず、各藩の元大名屋敷を分捕って、使用人を雇い妾を囲うなど、旧大名さながらの驕奢な生活をするものが少なくなかった
。この時期に明治新政府が率先して推進したのは、廃仏毀釈という文化破壊と、東京奠都と、中途半端な版籍奉還ぐらいで、評価に値することは殆んど何もしていないのだ。

横山は「官の為に人をもとめずして、人の為に官を求むる故に、毎局己れの任に尽くさず。職事、賃取仕事のように心得る者あり。(仕事の為に人材を求めるのではなく、人のためにポストを与えるために、やるべき任務が尽くされない。給料のための仕事と考える者がある)」と書いているが、西郷にとっても同じような気持ちであったと思われる。

横山安武顕彰碑
横山安武顕彰碑】

明治5年に西郷が横山安武の顕彰碑の碑文を書いているが、この全文が青空文庫で読める。西郷が個人の為に碑文を書くことは珍しく、この碑文の他に1例があるだけだ。いかに西郷が横山の死を惜しんだかがわかる。
www.aozora.gr.jp/cards/001320/files/48226_32093.html

西郷の碑文で注目していただきたいのは次の部分である。
この時にあたり 、朝廷の百官 、遊蕩驕奢(ゆうとうきょうしゃ)にして事を誤るもの多く 、時(じ)論(ろん)囂々(ごうごう)たり 。安武すなわち慨然(がいぜん)として自ら奮つて謂く 、王家(おうけ)衰弱(すいじゃく)の極ここに兆す 。」

税金泥棒のような政治家や官僚がはびこることは何も明治初期だけの現象ではなく、程度の差はあれいつの時代もよく似たものだと思うのだが、今のわが国はかなりひどい状態と言っては言い過ぎであろうか。

重大な安全保障上の問題が多々あるにもかかわらず、国会ではどうでも良いことばかりを議論して、官僚は省益ばかりを追い求める連中があまりにも多い。国益に関わる重要な問題を何一つ解決できないのなら、職を辞してもらいたいと言いたいところだ。
もし西郷隆盛や横山安武がもし今も生きていたとしたら、わが国の政治家や官僚やマスコミなどに対して決して黙ってはいないことだろう。
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【ご参考】
明治新政府が最初にどんな仕事をしていたかについて、こんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html







関連記事

仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、1月10日に薩長軍は「朝敵処分」を発表している。

罪第一等 徳川慶喜、
罪第二等 会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)、
罪第三等 伊予藩主松平定昭、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)
罪第四等 宮津藩主松平宗武(むねたけ)、
罪第五等 大垣藩主戸田氏共(うじたか)、高松藩主松平頼聰(よりとし)

「朝敵」の認定を受けた藩は西日本が多かったのだが、これらの藩を含め佐幕派の諸藩は早々と抵抗を諦めて赦免を求めることとなり、鳥羽伏見の戦いの後は西日本ではほとんど戦闘行為に至っていない。

しかしながら、いくら藩主が謹慎し恭順の意を示しても許されなかった藩があった。それが会津藩なのだが、なぜ会津藩は戊辰戦争で戦うことを余儀なくされたのだろうか。幕末の動きを少し振り返っておこう。

松平容保
松平容保

文久2年(1862)に会津藩主・松平容保(かたもり)は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担うこととなった。
文久3年(1863)には薩摩藩と連携して長州藩を八月十八日の政変で京都から追放し、元治元年(1864)には池田屋事件で謀議中の尊攘派志士を襲い、蛤御門の変では長州藩兵と戦い、二度にわたる長州征伐にも関与した
。職務上やむを得なかったとはいえ、新政府からすれば新選組や会津藩に対し多くの同志を殺傷されたことの恨みがあったことだろう。
慶応3年(1867)の大政奉還のあと王政復古の大号令が発令されて新政府が誕生し、今度は会津藩が京都から追放されて大阪城に退くこととなった
新政府は大阪城にいた徳川慶喜に上京を命じ、会津・桑名兵に対しては本国への帰還を命じている。そこで将軍の上京のために会津兵・桑名兵が守護することとなったのだが、慶応4年(1868)1月2日にその隊列の上洛を待ち伏せていた新政府軍が大砲を打ち込んで徳川方に挑戦したのが鳥羽伏見の戦いである。以前このブログで書いたように、会津藩も桑名藩も徳川慶喜も鳥羽伏見では戦う準備はしておらず、戦う意思は持ち合わせてはいなかったところに一方的に戦いを挑まれたのだが、1月17日に新政府は仙台藩に会津藩の追討命令を出している。原文は明治44年刊の『仙台戊辰史』に出ているが現代語に訳すと次のようなものであろう。
「会津藩松平容保はこのたび徳川慶喜の反謀に与(くみ)し、錦旗に発砲し、大逆無道の行いであったので征伐軍を発することとなった。貴藩が一藩の力で (会津藩の)本城を襲撃したいとの出願をしたことは、武道を失わない憤發の心がけ、神妙の至りであり、主上も御満足に思し召しである。よって(貴藩の)願いの通り、(会津征伐を)仰せ付けるので、すみやかに追討の功をあげるよう御沙汰する。 戊辰正月」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/146
しかしながら仙台藩は会津藩を討伐することを出願したこともないのに、このような命令が届いたのは何かの間違いであろうとしてすぐには動かなかった。

一方、会津藩は必死に和平の道を模索していた。
松平容保は2月4日に藩主を辞任して家督を養子である喜徳(のぶのり)に譲り、2月16日に会津藩を朝敵とする勅命が下ると会津に向かい会津鶴ヶ城外の御薬園(おやくえん)に入り恭順謹慎
して、朝廷の命を待った。

会津藩首脳も朝廷ほか尾張、紀州、加賀、肥後、土佐など二十二藩に対し『嘆願書』を呈出し和平の周旋を懇願したが、良い返事をもらえなかった。こうした中、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)は、松平容保に深く同情し、朝廷との周旋を決意した。
また、別ルートで仙台藩から米沢藩に使者が使わされ、新政府の奥羽鎮撫使が来たら、会津藩の嘆願を周旋して奥羽での戦乱を避けることで合意していた。

九条道孝
【九条道孝】

3月22日、新政府に敵対姿勢を続けていた会津藩、庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督および新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日に奥羽鎮撫総督の九条道孝は参謀の世良修蔵(長州藩)、大山綱吉(薩摩藩)らとともに仙台藩・米沢藩をはじめとする東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命じている

しかし奥羽鎮撫使のメンバーはとんでもない連中であったことが記録されている。
『仙台戊辰史』に、仙台到着数日前からの彼らの行動が詳細に記されている。文中の大山格之助は参謀の大山綱吉で、三好監物は仙台藩の重臣、慶邦公は陸奥仙台藩藩主の伊達慶邦、伹木土佐は仙台藩の奉行である。

大山綱吉(格之助)
【大山綱吉(格之助】

「東名浜に上り総督の一行は山本久米蔵の家に宿す。この日東名浜に江戸の商賈某の貨物を満載せし商船の碇泊しあるを見て、薩の参謀大山格之助は商人を尋問したる末、これ敵地のものなり、宜しく分捕りすべしと、貨物及び船を奪い、商人を追放して数千金を得、大白を挙げて之を祝せしかば、仙台藩は勿論、各藩より来れる者および付近の人民は大いに驚きたり。19日夜半三好監物東名浜に出迎えしが、総督一行は21日松嶋を遊覧し観瀾亭に宿陣せしかば翌23日払暁慶邦公は伹木土佐らを従え儀を整えて松嶋に至り総督に謁せしに左の命あり

仙台中将
右早々人数差出し、会津へ討ち入るべき事
策略等の儀は、参謀に申談すべき候事

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/175

これを読めば、彼らにとっては「朝敵」会津を討伐するよりも商人の荷物を奪うことや、松島を観光することの方が優先であったことになる。新政府が東北に送り込んだのはこの程度の人物であったのか。

世良修蔵
世良修蔵

『仙台戊辰史』には、奥羽鎮撫使がほかにもひどいことをしたことが書かれている。
「薩長兵の入国以来、公然として仙台藩士を侮辱する意味の俗謡を謡いつつ、街衢を横行し酒を被りて、士人を凌辱し、隊を組みて市井に乱暴するも、天朝の軍人たりというの故を以て、有司も之を咎むるを得ず。甚だしきに至りては良家の婦女子を捉えて、終身拭うべからざる辱めを与え、之を誇りとするさえありしをや。しかもこれ等のこと、啻に無頼走卒のみならず、大山、世良及び隊長と称する者またこれを敢えてして顧みざるに至りては、大藩の威厳を傷つけざらんとする仙台藩少壮の士の忍び得るところに非ず。朝命を畏み奉ずるにおいて人後に落ちざらんとする赤誠の士も、天朝を代表すと称する総督府参謀輩の兇威に対し武士の面目に於いてこれに反抗せざるを得ざるに至りしは、勢いの已むべからざるに属す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/177

上杉斉憲
【上杉斉憲】

こういうわけで奥羽鎮撫使の行状が許せないとする者が仙台藩の若手藩士を中心に増加していったのだが、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)が奥羽鎮撫使に使者を送り和平の斡旋を申し述べた際には奥羽鎮撫使参謀の世良修蔵が激怒し、「会津追討に異議があるのなら、米沢藩も同罪として追討する」と脅したという。

伊達慶邦
伊達慶邦

同じ頃仙台藩主伊達慶邦(よしくに)も会津藩謝罪の周旋をしたいと告げ、会津謝罪の条件を問うと、仙台藩が和平工作をしていることに世良修蔵がまた激怒し、「会津藩の謝罪の条件は、松平容保斬首、会津鶴ケ丘城開城」という過酷な条件を提示している。もしここで会津追討をためらえば仙台藩も朝敵にされるおそれがあった。
そこで仙台藩主の伊達慶邦は会津藩境に大軍を送って世良の顔を立て、同時に会津藩に早期降伏を進めて和平の道を探ろうとし、家老級3名の切腹と領地削減を条件に会津藩が新政府に降伏する旨の話を取り纏めて、仙台・米沢藩主連名で『会津藩寛典処分嘆願書』とさらに奥羽各藩家老による『奥羽各藩家老連名嘆願書』を4月12日に奥羽鎮撫総督九条道孝に呈出したのだが、世良修蔵はそれをも拒絶し、仙台・米沢両藩で会津藩の征討を再度厳命したのである。

なぜ世良はここまで執拗に会津討伐を要求するのか不審に思い、仙台藩が世良参謀の周辺を探索させると、世良が出羽に遠征中の大山参謀に宛てた閏4月19日付けの密書が手に入った。そこには驚くべきことが書かれてあった。全文は次のURLにある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/243

ポイントになる部分は「京師(京都)へあい伺い、奥羽の実情、篤と申し入れ、奥羽皆敵と見て逆襲の大策に致したく、大総督府西郷様へも御示談致し候うえ、大挙奥羽への皇威の赫然致し仕りたく存じ奉り候。米仙(米沢藩と仙台藩)の朝廷を軽んずる心底、片時もはかり難き奴に御座候」で、要するに世良は奥羽を全面的に武力制圧することを主張していたのである。

日頃から傲慢粗暴の振舞いで仙台藩士の恨みをかっていただけでなく、いつか仙台藩を朝敵として讒訴しかねない男を見過ごすわけにはいかず、仙台藩軍事局はこの世良修蔵を捕らえて糾問することとした。
閏4月20日午前二時ごろ、仙台藩士赤坂孝太夫・福島藩士遠藤条之助が福島の金沢屋で遊女と寝ていた世良修蔵を急襲して捕縛し、部屋にあった閏4月15日付の大山参謀からの密書を持ち帰った。その全文も『仙台戊辰史』に収録されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/246

その密書には「奸計(悪だくみ)をもって総督府へ迫り奉り…仙台の者ども、甚だ姦物(悪者)にして、ついては両君将(仙台・米沢藩主)を京都へ呼び寄せ、両三年の間差し留め候」などと書かれている。
仙台藩は、奥羽鎮撫使は仙台藩も米沢藩もいずれ追討する考えであることを悟り、口封じのため世良を斬首したのだが、このあとで奥羽人の怒りが爆発することになる。

奥羽諸藩は薩長を糾弾し、奥羽鎮撫使総督ではなく直接京都の太政官に宛てて建白書を呈出して、会津藩寛典処分を願い出ることとした

奥羽越列藩同盟

閏4月22日奥羽列藩重臣会議が開かれて仙台藩、米沢藩、秋田藩、盛岡藩、二本松藩など奥羽二十五藩による奥羽列藩同盟*が結成され、同盟の建白書が起草された。そこには、世良や大山の悪事のことや、会津藩は家老級3名の切腹と領地削減にて降伏を申し出たにもかかわらず、参謀の世良がこれを拒否したことは王政復古の妨害になることなどが主張されている。
*奥羽列藩同盟:5月4日に越後長岡藩、6日には新発田藩などの北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/258

この建白書の主張は正論なのだが、正論であったがゆえに、薩長と奥羽越列藩同盟諸藩との戦争は避けられなくなったのである。

仙台戊辰史

『仙台戊辰史』は仙台藩の立場から書かれているので誇張部分もあるだろうが、前々回の記事で紹介した奥羽鎮撫総督府の戸田主水の内部告発文書においても、大山・世良の両参謀は強く批難されている。
寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。」
世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。」

「鎮撫使」というものは、読んで字のごとく、人民を鎮めて安心させることが本来の仕事であるはずなのだが、明治新政府が奥羽鎮撫使参謀として送り込んだ人物は、二人とも会津藩に対する強い復讐心で凝り固まっていて、戦わずして鎮めようとするような意思は毛頭なく、しかも東北の人々から信頼を失って当然と言える行為を繰り返したことは重要なポイントである。
一般的な教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)とあるのだが、この文章を普通に読めば、会津藩も東北諸藩もずっと新政府に抵抗し続けたと理解するしかない。
しかし、この教科書のような説明では、会津藩も新政府に恭順の意思を示していて、東北諸藩は和平に向けて新政府との仲介をしようとしたところを奥羽鎮撫使参謀が拒絶したという真実を読み取ることは不可能だ。

会津藩は「朝敵」とされていたが、東北諸藩は「朝敵」とされていたわけでもないのに、自らが「朝敵」の汚名を受けるリスクを覚悟で会津藩を助けようとしたのは何故なのか。
この理由は、奥羽鎮撫使が東北で信頼を失う行為を繰り返したことも大きな理由の一つではあるが、これだけでは東北諸藩が連盟を組むことはつながらない。ただ会津藩を援けるというだけではなく、自藩の存亡にかかわる危機感を共有していなければ連盟を組むということはありえないと思うのだ。

仙台藩や米沢藩が会津藩を援けようと動いても、奥羽鎮撫使参謀は拒絶し、仙台藩や米沢藩に会津討伐を命じるばかりだったのだが、それがあまりに執拗であった。しかも奥羽鎮撫総督府の兵は動かず、ただ命令があるだけだ。
明治政府からすれば、奥羽鎮撫総督府のメンバーが構成された当時は、江戸城はまだ開城されておらず、幕府軍は江戸に存在していたために新政府が東北地方に兵力を割ける状態ではなかった。そのために奥羽鎮撫総督府の兵力はわずかに570名程度で、奥羽諸藩の鎮撫は、奥羽諸藩の兵力でもって行う方針で臨まざるを得なかったという事情があったようなのだが、こんな少ない兵力で奥羽を統一するという新政府の方針に無理があったと言わざるを得ず、奥羽諸藩からすれば新政府の援軍なしで会津と戦えというのはさぞ不愉快なことであったろう。

罪のない会津藩が朝敵にされるようでは、自藩もいつ朝敵にされてもおかしくない。もしかすると新政府は奥羽諸藩同志を戦わせて疲弊させてから、いずれ奥羽全体を武力討伐する魂胆があるのではないかと疑いつつ、世良の密書でそれが明らかになって一気に爆発したということということではなかったか。

会津藩も、「朝敵」と名指しされた他藩と同様に新政府に対し恭順謹慎していたのだから、新政府が会津藩が降伏することを許していれば戊辰戦争で東北地方が戦禍に巻き込まれることはなかったはずである。
会津征伐にこだわり、東北諸藩に会津征伐をさせるのは新政府の方針であったのかもしれないが、そうだとすると奥羽鎮撫使の両参謀とその部下が仙台藩で信頼を失う行為を繰り返してはいけなかったはずである。
明治政府は会津藩に対する戦略を誤ったのか、奥羽鎮撫使参謀の人選を誤ったのか、その両方なのかのいずれかなのだろうが、いずれにせよ、私怨で住民を争いに巻き込むべきではなかったと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html






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関連記事

東北諸藩は薩長の新政府を嫌い、別の国を作ろうとしたのではないか

前回記事で、仙台藩が慶応4年(1868)閏4月19日付の奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が大山参謀に宛てた密書を入手し、世良がその書状で奥羽全体を武力制圧することを主張していることがわかり、20日に仙台藩がこの男を捕らえて斬首したことを書いた。

当日仙台藩の白石城に集まっていた奥羽列藩代表の会議(白石会議)の席上で、世良修蔵斬首の情報が入ったときの様子が、米沢藩士・宮島誠一郎の日記にこう記録されているという。
「満座人皆万才ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉不止」(出席者全員が万歳を唱え、悪逆人に天誅を加えたことに快哉を叫ぶ声が止まなかった)

白石城姿図
【白石城姿図】

しかしながら、参謀を殺害したことによって、東北諸藩は奥羽鎮撫総督府を相手に交渉することはできなくなったことは言うまでもない。白石会議では今後は東北諸藩の総意として、太政官に直接建白することを決議し、また各藩が一致団結するための盟約書の作成にとりかかっている。

戊辰戦争

佐々木克氏の『戊辰戦争』に、5月3日に奥羽25藩で調印された『白石盟約書』の内容が紹介されている。これを読むと、それまで奥羽鎮撫使が東北諸藩にどのような酷いことをしてきたかがある程度推測できる条項があるので、いくつかを引用させていただく。

「一、 強を負うて弱を凌(しの)ぐなかれ、私を計りて利を営むなかれ、機事を漏洩するなかれ、同盟を離間するなかれ。
一、 城堡の築造、糧食の運搬は、止むを得ずといえども、漫(みだ)りに百姓をして労役し愁苦にたえざらしむるなかれ
   …
一、 無辜を殺戮するなかれ、金穀を掠奪するなかれ、凡そ事不義に渉らば厳刑を加うべき事。
右の条々違背あらば、則ち列藩衆議し、厳譴を加うべき者也。」(佐々木克『戊辰戦争』p.118-119)

翌4日には、この同盟に越後長岡藩が加盟し、6日には新発田藩等北越同盟5藩が加入して、合計31藩による奥羽越列藩同盟が成立したのだが、この同盟を終始リードしたのは仙台藩と米沢藩で、仙台藩がタカ派で米沢藩がハト派であったという。

佐々木克氏の前掲書に、閏4月20日ごろに仙台藩の玉虫左太夫、若生文十郎が起草したという行動計画書の要旨が出ているが、驚くようなことが書かれているので紹介しておこう。

「総括
(18)参謀の惨酷残暴により奥州二州が愁苦に堪えかねてこの様な運びになったことを太政官始め天下列藩へ訴え公論をきく。
(19)仏・米・魯国を引きつけ海軍や兵器の手配を整える。仏米両国への接触は会津藩が担当する。
(20)東北諸藩はもちろん、西南諸藩まで同志のものへ密使を派遣し、東西協力の策略を打ち合わせ、敵の内部を切り崩す。
(21)旧幕臣や海軍と密策をめぐらし同時蜂起の手配をする。これも会津藩の担当とする。

(22)京都・江戸両地につめている藩士を帰還させる。
(23)秋田藩に異論があるようだが米沢藩が説得する。同様に八戸藩は南部藩の江幡五郎が説得に当たる。」(同上書 p.128-129)
原文は『仙台戊辰史』に出ており、次のURLにある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/262

東北諸藩だけでなく旧幕臣や海軍や全国の同志と連携し、さらに外国の力を借りて戦うことが堂々と書かれているのだ。そして実際に外国と交渉した記録が残されているのだが、どのような交渉を行ったのだろうか。

会津・庄内両藩 資金調達でドイツに打診

上の画像は2016年9月18日付の北海道新聞の記事だが、重要な内容なので引用したい。

「戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は『戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある』とみる。
 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた
 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
 それによると『シュネル*(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ』などと書かれているという。
 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)

*シュネル:会津藩と米沢藩の軍事顧問を務めていたヘンリー・スネルか、新潟で武器商を営んでいた弟のエドワルド・スネルだと思われる。
http://blog.goo.ne.jp/gooasagao/e/8c89179e6325546433c03b3362ad96ef

幕末の会津藩・庄内藩領

上の画像は同日の北海道新聞に掲載された北海道の地図だが、会津藩と庄内藩は北海道に結構広い領地を持っていた。もしこの地域にプロイセンの軍事拠点が出来ていたら、明治の歴史は大きく変わっていたことは確実だ。
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/4685933.html

ビスマルク
【ビスマルク】

少し補足しておくと、当時の信書は船便であったためにプロイセンに届くのに2か月もかかる時代であった。駐日代理公使フォン・ブラントが「会津・庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を最初に出したのは7月31日だったのだが、その手紙がビスマルクの手元に届いたのは10月初め頃と考えられる。ビスマルクは10月8日に一旦これを却下したのだが、後にゴーサインを出した。その後会津・庄内藩から蝦夷地を99年間貸与する話が出て11月12日に再びブラント公使が本国に手紙を出したが、その時点では会津藩も庄内藩も降伏していたためにプロイセンの出る幕がなかったという流れである。

このような史実は殆んど通史などには書かれていないのだが、Wikipediaに興味深い記事がある。

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89

エドワルド・スネル
【エドワルド・スネル】

安政5年(1858)に江戸幕府が締結した日修好通商条約で、下田・箱館のほかに五港を開港することが決められたことは教科書などにも書かれているが、新潟の開港が遅れていた。
新潟港は、当初は1860年1月と定められていたが、水深不足や国内の政治情勢で開港が遅れ、公式には明治2年(1869)1月1日を開港日としているのだが、工事は前年に完了しており戊辰戦争の最中に列藩同盟はこの港で武器の購入交渉を開始していたようなのである。
列藩同盟の武器の調達に関与した人物の一人が、北海道新聞の記事に出てきた「シュネル」という人物で、兄のヘンリー・スネルは会津藩・米沢藩の軍事顧問で、弟のエドワルド・スネルは武器商人で、出身はプロイセンだったようだ。このスネル兄弟の存在が、奥羽越列藩同盟の結成の大きな要因になったことは確実である。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 奥羽戦争篇〔第72冊〕』に、新潟港開港と列藩同盟の動きに関する記述がある。

「奥羽・越の連盟中には外交上の知識の持ち合わせある者もあり、その連盟の成立を条約各国に告げ、その公認を要め、堂々と交際せんことを期した。当時安政条約*の結果として、戊辰の春**より新潟は開港せられ、普魯西(プロイセン)領事等滞在したれば、仙台藩玉虫左太夫らの発議により、その案文を草し、5月30日各藩代表者の仙台の松井邸会議の際これを検定した。」
*安政(5カ国)条約:安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ条約の総称。 その後ポルトガル(1860年)およびプロシア(1861年)とも同様の条約を結んだ。
**戊辰の春:1868年の春

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/98

徳富蘇峰の前掲書に、プロイセンに宛てて列藩同盟の成立を知らせ、その公認を求めるための書状の案文が紹介されている。

「わが大日本国徳川氏累世継承の政権を、天朝に復してより、天子幼冲、万機草創、而して奸臣隙に乗じ、私意を挟み、もって朝憲をほしいままにす。これゆえにその令するところ、一に至誠惻怛の意に出づるあるなく、もっぱら残酷殺伐の威を逞しうし、もって天下諸侯を圧服す…」と新政府を非難したのち、
わが奥羽越列藩、君臣上下、其此の如きを察し、公議一定、同盟相結び、以て大義を天下に伸ばし、而して強暴の来者撃て、もって之を斥け、その去る者必ずしも追わず、もって皇国を維持し、而して天下聖明の治を待たんのみ」と各藩の態度を示し、
「…敢えて告ぐ。望むらくは領事館執事、僕輩の至衷を諒とし、之を各国諸公使に伝え、もってその他なきを明らかにせられよ。…」と述べて、列藩同盟を公認することを求めている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/98

奥羽越列藩同盟旗
奥羽越列藩同盟旗】

薩長政府の非道を訴えたのは、奥羽越列藩がプロイセンとの貿易を開始するために、新政府ではなく奥羽越列藩こそが新潟港で諸国と貿易を行う正統性があることを認めさせようとしたのだろう。
彼らは、「独立」という言葉は用いていないが、奥羽越列藩が中心になって薩長の勢力を朝廷から追い出すか、東北地方から追い払うなどして、新しい「皇国」を作ろうと考えたことは間違いなさそうだ。

北白川宮能久親王
輪王寺宮公現法親王

6月16日に輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を奥羽越列藩同盟の盟主として迎えている。
Wikipediaによると「輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、『動座布告文』と『輪王寺宮令旨』を発令している。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。」とある。また10月18日付のニューヨークタイムズは「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」と報道したという。輪王寺宮が『東武皇帝』として即位したという話もあるようだが、詳しいことは分かっていない。
しかし「輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされ」ていて、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が残されているようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E8%B6%8A%E5%88%97%E8%97%A9%E5%90%8C%E7%9B%9F

安政6年(1859)「新潟湊之真景」
【『新潟湊之真景』安政6年(1859)】

戊辰戦争中の新潟港の話に戻そう。
当時新潟港には、プロイセンのほかアメリカ、イギリス三国の領事が二隻の軍艦で来ていたという。各藩の全権と奥羽列藩との貿易交渉が開始されたのだが、各藩は軍需品の輸入に関心を持っていて、特に米沢藩と会津藩は武器輸入を新潟港に頼るしか方法がなかったので関心の度合いが強かったという。

プロイセン領土の拡張

幕末期以降イギリスが薩長倒幕側、フランスが幕府側について武器を供給したことは有名な話だが、徳川慶喜が大政奉還したのちフランスの対日方針が変わり、戊辰戦争の途中でフランス公使のロッシュが日本を去っていった。プロイセンのスネル兄弟は戊辰戦争の東北諸藩の動きを見て我が国で大量の武器取引ができるチャンスがあると判断し、ビスマルクも北海道の会津藩・庄内藩領を足がかりにして領土の拡張ができると考えたのだろう。

会津藩・庄内藩がプロイセンとこのような交渉をしたことを『売国奴』だと考える人が少なからずいると思うのだが、新政府に対して謹慎し恭順の意思を示していたにもかかわらず、ここまで両藩を追い詰めた薩長側にも大いに問題があったことは指摘せざるを得ない。

いずれにせよ、東北の戊辰戦争に早く決着がついたことは、わが国にとっては幸運であった。
もし戊辰戦争が長引いていたら、プロイセン(ドイツ)が北海道に軍港を作っていた可能性が高かったし、そうなっていたらわが国は日清・日露を全力で戦うことができず、今の北海道のかなりの部分が外国の領土になっていてもおかしなことではないのである。
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長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
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薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
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フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-490.html

イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-495.html





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兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか

仙台藩や米沢藩を通じた恭順嘆願も奥羽鎮撫使に拒否されてしまい、会津藩は和平嘆願に希望を失って、自藩防衛の戦いに身を投じることとなる。

白河城
【白河城】

奥州鎮撫使参謀の世良修蔵は白河城を会津攻撃の足掛かりにしようと考え、慶応四年(1868)閏四月十六日に仙台藩士高城左衛門に白河城の兵力配置の変更を命じている。しかし、仙台藩はすでに新政府と戦うことを決意していたので世良の情報は仙台藩から会津藩に筒抜けとなった。

白河地図

白河は、古くは「白河の関」が置かれた奥州の玄関口で、猪苗代湖の南から会津若松を攻略するための要地であり、白河藩は慶応三年(1867)に阿部氏が棚倉藩に移封されたのち幕領とされ、城郭は二本松藩丹羽氏の預かりとなっていて、当時は二本松藩のほか仙台、棚倉、三春などの諸藩兵が新政府から駐屯を命じられていた。
仙台藩家老の坂英力が会津藩家老梶原平馬に、宇都宮方面からの新政府軍が白河城に入城する前に白河を奪うべきだとの書状を送り、閏四月十九日には城に駐屯していた仙台藩兵を須賀川まで後退させわずかの兵しか残っていない状態にして、会津藩は閏四月二十日に急襲して白河城を占領し、また同じ日に仙台藩は奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵を斬首し、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを軟禁している。

当時新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたのだが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令でそのまま白河へと前進し、二十五日に新政府軍の先遣隊が城に奇襲をかけたのだが、無理な強行軍の疲労と弾薬不足もあり、会津軍に撃退されている。

西郷頼母
【西郷頼母】

この間、閏四月二十二日に仙台で奥羽列藩同盟が結成され、二十六日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母(たのも)が、副総督として同若年寄横山主税(ちから)が千余人と砲二門を率いて白河城に入城した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着し、白河城の奥羽同盟軍は総勢二千五百~三千人、砲十門の大部隊となった

一方、新政府軍は二十八日に白河南方の白坂に結集し、その兵力は薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍(おし)藩による七百人、砲八門であったという。

五月一日の朝から戦闘が始まった。
単純に兵力を比較すると圧倒的に同盟軍が優勢であったのだが、白河本町の庄屋川瀬才一の『白河戦争見聞略記』にはこう記されているという。

「五月朔日卯の上刻(午前六時)、官軍勢五百余人、九番丁関門外迄寄せ来れり。この兵の過半は前夜に来りて潜伏したりと云う。此日官軍より突然打ち出したるその炮戦烈しき是を聞くもの驚愕肝を冷さざるなし。此日官軍は関東口・米村口・棚倉口・原方口と四方に手を分って討ち入るゆえ、会津勢は手配りも案外に相違し大いに周章狼狽して大一番に棚倉口を破られ、挟み撃ちならんと心付き、桜町および向寺町に放火して東西に走せ、南北に散乱するの混雑、蜘蛛の巣(子)を散らすが如し。関東口、米村口、原方口の三方は一度に破られ会津勢は引揚げに、登り町に放火せり。斯の如くして此日皆破られ惣崩れとなりたり。この日の戦死者は六百八十余人なり。」(星亮一『奥羽越列藩同盟』p.112)

と、新政府軍が圧勝したのだが、この戦いを会津藩側の立場から記されている『会津戊辰戦史』で読んでみよう。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本だとされている。

会津戊辰戦史

卯の上刻(午前六時)西軍棚倉口桜町方面より大砲小銃を発すること頗る烈しく、純義隊以下の諸隊殆んど危うし。
「西兵返戦して三面より猛撃す。仙台の将佐藤宮内、坂本大炊赴き戦う。大炊逢隈川を渡りて西に進む。弾丸その頭を貫きて斃る。仙将瀬上主膳衆を励して戦う。日向茂太郎之に死す。東軍支うること能わず。米村の堤防に拠って戦いしも、忽ち砲兵十余人皆斃(たお)れ頗(すこぶ)る苦戦の状あり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/183

横山主税
【横山主税】

副総裁横山主税自ら采配を振って衆を励し、稲荷山に登るや忽ち弾丸に中(あた)りて斃る。戦い猛烈にして遺骸を収むるに遑(いとま)あらず。…諸将殊死して戦うと雖も遂に利あらず。仙兵は根田、小田川の方面に退き、その他は白河の市街に退きしが、混乱状態に陥りて収拾すべからず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/184

ライフリング

東北軍が大敗を喫した理由は兵器の差が大きかった。
以前このブログで書いたとおり、長州藩や薩摩藩は幕末の早い時期から、ミニエー銃などの最新の武器を購入していた。ミニエー銃には銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施されていて、銃弾はロケットの様に円柱の先が尖った形になっているので、銃弾が発射されると鋭い回転が与えられ、銃身に螺旋状の溝がなく球形の弾を用いる従来の銃(マスケット銃)よりも飛距離と命中精度に格段の差があったのである。
辰戦争で新政府軍の主力小銃はイギリス製のエンフィールド銃(ミニエー銃の一種)であったのだが、会津藩など東北諸藩はマスケット銃で新政府軍と戦ったのである

Wikipediaにミニエー銃の発明が世界の戦争を変えたことがわかりやすく記されている。

高い命中率と1,000ヤード*まで延長された射程を実現したエンフィールド銃は、歩兵運用の基礎条件を大きく変えてしまった。
エンフィールド銃を装備した部隊と従来のマスケット銃を装備した部隊が交戦した場合、マスケット銃側は有効射程の100ヤード(マスケット銃の命中率は50%)まで接近するためだけに、最大で900ヤードに渡る死のロードを友軍の屍を乗り越えつつひたすら進まねばならなかった

マスケット銃が運用されていた当時の主力兵科である戦列歩兵の前進速度は60m/分(イギリス式)であったため900ヤードの距離を進むためには13分以上かかるが、この間にエンフィールド銃は30〜40回の射撃が可能であるため仮に1,000人のマスケット銃兵を相手にした場合でもエンフィールド銃装備の部隊は理論上25人の小部隊で無傷のまま相手を全滅させてしまう事ができた
また、エンフィールド銃がもたらしたもうひとつの変化は、マスケット銃の球弾に比べて複雑な形状の弾丸が高速で回転しつつ人体へ命中すると、弾体が極度に変形しつつ人体内部へくい入ることで、マスケット銃よりも格段に酷い銃創が作られる現象だった。
しかし当時の用兵者の多くはこの事実を認識せずに戦場に臨んだため、身を以ってエンフィールド銃の威力を経験させられたクリミアのロシア兵やインドのセポイ達の犠牲にも拘わらず、その後の南北戦争や戊辰戦争における戦いでも18世紀的な密集陣形を取らされた多くの兵士が即死した。」
*ヤード:1ヤード=3フィート=91.4cm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83

上記記事には、戊辰戦争に於ける会津藩に、新政府と比べて武器の性能が劣っているとの認識があり、新式装備の調達を目指していたが、新政府軍(特に長州藩兵)が会津殲滅を目指している事をいち早く知った外国商人達から積極的な協力が得られないまま新式銃器の入手が大幅に遅れ、何も届かないうちに開戦したことが脚注で記されている。東北諸藩で最新兵器が届いたのは、新政府軍が通過した後の事だという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83#cite_note-9

戊辰戦争

かくして政府軍は奥羽侵攻の要である白河城を一日で占拠したものの、それ以上の追撃戦に移ることは出来なかった。その理由について佐々木克氏の『戊辰戦争』にはこう解説されている。

「上野の山にたてこもる彰義隊はまだ掃討されず(上野戦争は五月十五日)、北関東の旧幕兵ゲリラも、まだ完全に制圧していなかったから、戦力の増強が出来なかったのである。戦線が伸びれば、会津藩を拠点に、三斗小屋から黒磯、あるいは五十里湖から日光、今市に進出しようとする大鳥圭介をはじめとする旧幕兵らに退路を遮断される危険があった。しかも北越では、五月二日、河合継之助と岩村精一郎の慈眼寺会談が決裂して、長岡戦争が始まった。政府軍全体が苦境におかされていた時期であった。」(『戊辰戦争』p.138-139)

新政府軍に銃弾などの補給がほとんど行われていなかったので、同盟軍は白河城から南下して旧幕府勢力に加勢し白河城の新政府軍を孤立させるなど、戦い方がいろいろあったと思うのだが、同盟軍の全軍をコントロールするような指揮官がおらず、新政府軍の銃器と戦う戦術も拙かった。

細谷十太夫
【細谷十太夫】

『会津戊辰戦史』に仙台藩衝撃隊長であった細谷十太夫の戦いぶりが記されているので引用させていただく。

「五月二十一日…仙台藩衝撃隊長細谷十太夫小田川に進む。西兵已に七曲の山上にあり、十太夫部下六十七名に命じ盡く刀を抜き一斉に突進して西兵を衝かしむ。西兵辟易して退く。…十太夫は五月一日の敗報を聞き憤慨に堪えず、一刀を佩び皆黒装なり。十太夫常に部下に謂って曰く、敵は銃隊なれば遠きに利あり。我が隊は之に反して近きに利あり。故に一、二人斃るる者ありとも顧(かえりみ)ることなく進んで敵を衝(つ)けと。毎度此の如くなれば、銃丸多くは空しく頭上を過ぎ命中すること少なく、向う所前なく、人その勇武を称して烏(カラス)組と云う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/188
夜襲が中心だったとはいえ、このように敵の射程圏内に集団で突入するような戦い方を繰り返していたら、たとえ兵の数が優位であっても勝てるとは思えないのだが、細谷十太夫本人はこのやり方で生き残り、日清戦争では陸軍少尉となり、後に竜雲院という寺の住職となって戊辰戦争、日清戦争の戦没者を弔ったという。

列藩同盟を結んだ諸藩の白河方面への軍隊結集が遅れていたのでこのような小競り合いがしばらく続いたようだが、ようやく諸藩の兵が集まって列藩同盟軍は五月二十六日に約二千の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけている。しかしこの日も城を攻略できず、さらに二十七日、二十八日と連続して攻撃をかけたのだが新政府軍に撃退されてしまう。

一方新政府軍は五月十五日の上野戦争の勝利ののち、ようやく板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城増援に向かい、白河城の政府軍勢力は一挙に千五百~千六百名に増強されている。
同盟軍はその後も何度か白河城を攻撃するのだが、戦果はなかった。これまで多くの犠牲者を出してきても、同盟軍の戦い方は相変わらずだったようだ。

例えば佐々木克氏は前掲書でこう述べている。
「六月十二日、同盟軍は四たび白河城政府軍を攻撃した。だが今回も戦果はなかった。とくに仙台藩兵の拙戦がめだった。100メートルほどしか飛ばない和銃や丸玉のヤーゲル銃で遠くから発砲し、近づいていっては政府軍のエムピール銃やミニエー銃の300メートルはある射程の中に入って打撃を受けた。この日の戦闘で仙兵死60、不肖25、二本松死8、負傷18、棚倉死15、負傷14、相馬死1と多くの死傷者を出して、貴重な戦力を消耗した。(会津藩の死傷者は不明)」(同上書 p.140)

新政府軍進路

同盟軍がこのような戦い方を繰り返す一方、六月十六日には平潟に新政府軍千五百名が上陸し、その後も続々と派兵されて七月中旬には新政府軍は三千の兵を擁するようになり、戦線が磐城から北方向へと拡大していく。
戦況が新政府に傾いていき、同盟軍は自藩の自衛の為にいつまでも白河に兵を出せなくなって、秋田藩や新庄藩などが列藩同盟から離反していくこととなる。そして七月十四日を最後に列藩同盟軍は白河周辺から撤退し、百日以上続いた白河口の戦いは終結した

この戦いで同盟軍は幹部多数を失い大量の死者を出したというが、新政府軍の死傷者は少なかったという。
列藩同盟軍はこの戦いの敗北をきっかけに雲散霧消し、勝機を逸してしまうことになるのである。
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伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
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メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
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教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
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伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
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戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
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激戦となった「二本松の戦い」と、二本松少年隊のこと

前回の記事で慶応四年(1868)の「白河口の戦い」について書いた。兵の数では仙台藩を主力とする列藩同盟軍が圧倒的に新政府軍を上回っていたものの兵器の性能に格段の差があり、五月一日には約五百人の新政府軍に白河城を奪われ、仙台藩を主力とする列藩同盟軍はその後約四千五百名迄の増援を行い、白河城の奪取を試みたのだが犠牲者を増やすばかりであった。

新政府軍は増援が来ない中で、少ない兵数で白河城を守り切ったのだが、五月二十七日にようやく土佐藩からの増援が到着し、その後六月七日に薩摩藩、二十二日に長州藩、二十三日に東征大総督参謀の鷲尾隆聚と阿波藩が到着して、積極的な軍事行動に移る態勢が整うに至る。

秋田映季
【秋田映季】

板垣退助率いる新政府軍が北上して、六月二十四日に白河城の東にある棚倉城が落城すると、二十六日には三春藩は藩主の秋田映季(あきすえ)自らが城外に出迎えて新政府軍に帰順したという。ところが三春藩はその重要な事実を列藩同盟の諸藩に伝えず、むしろ援軍を求めるなどしてできるだけ諸藩に感づかれないように行動したのである。
翌日には守山藩も新政府側に帰順し、新政府軍は戦線を一気に北に押し上げて、岩代国安達郡の地に十万七百石を領する二本松藩のすぐ近くに迫ってきた。

新政府軍進路


ところが、二本松藩の主力兵は予想以上に長い間白河周辺に釘付けとなっており、藩の部隊が白河から戻るよう指令したとしても帰路を新政府軍に遮断されてしまっており、二本松藩は戦力が極めて乏しい状態で藩を守らなければならない状態に陥ったのである。

二本松城
【二本松城】

そこで二本松藩は七月二十七日に、少年兵にも動員をかけたという。
この藩では危急の際には年齢を2歳加算する『入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)』という制度があり、この時に動員をかけられた最少年齢の隊士の実年齢は12歳であったという。Wikipediaによると、少年兵には全員にミニエー銃を持たせたというから、銃の性能は新政府軍のものと変わらなかった。少年隊の奮闘については後述することとして、まず『二本松の戦い』がどのような戦いであったかを振り返っておこう。

『二本松藩史』によると、三春藩の防衛のために三春藩領に応援に出ていた二本松藩兵が、三春藩の裏切りにより新政府軍に包囲されて討ち取られたことが記されている。文中の「西軍」は「新政府軍」を意味している。

七月二十六日払暁西軍四方より来り三春藩領内小野新町を攻撃す。時に我が藩兵三春藩応援として銃士隊長大谷與兵衛等率いるところの約二個小隊同地にあり。衆寡敵し難く、苦戦して三春の援軍を待つ。三春藩急に西軍に降り、西軍を嚮導して我が隊を包囲す。我が兵錯愕、軍遂に潰ゆ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/131
三春藩の新政府軍に寝返ったことは、この時二本松藩の誰もが知らなかった。

次の場面は、二本松藩領の本宮にいた二本松藩兵が、新政府軍と戦っている糠沢の兵を援護すべく阿武隈川を渡ろうとしたときのことである。『二本松藩史』にはこう記されている。

「未だ糠沢の敗報を耳にせず、進んで之を応援せんと欲し、大谷、青山の二隊まず川を渡りて前進す。高木に達すれば一部隊の西進し来るを見る。おもえらく我が兵の背進せるなりと、近づけば即ち敵兵なり。三春兵西軍を導き、該村高木寺の要處に拠って我を射撃す。我が兵応戦奮闘すと雖も、敵は既に地の利を占め、我は隊伍未だ整わず。遂に苦戦に陥り、全体潰え走る。敵兵進撃本宮に迫る。本宮守備薄し。隊長成田助九郎、丹羽主膳、上田清左衛門等諸隊を率い川を隔てて防ぐ。高木の敗兵また来たり合し、力闘奮戦頗る敵軍を苦しむ。藩兵未だ来り援けず。列藩の援軍また到らず。午の中刻(午後一時)本宮遂に敵軍に占領せらる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/134

二本松城
【二本松城】

本宮を抑えた新政府軍は、続いて二本松城を攻め落とす方針を取った。
二本松藩では新政府軍の接近に伴って、戦うか降伏するかについての軍議が二十七日に開かれ、意見が真っ二つに割れたのだが、『二本松藩史』によると家老丹羽富穀(にわとみたけ)はこう述べたという。

「(昨日)三春藩信に背きて西軍を城中に引く。その所為神人ともに怒るところ。我にして今、その顰(ひそみ)に倣わ*ば、人これを何とか言わん。たとい西軍に降り、一時社稷を存せんも、東北諸藩皆我に敵たらば何を以てか良く孤域を保たん。それ降るも亡び、降らざるもまた亡ぶ。亡は一のみ。むしろ死を出して信を守るに若かずと議輙(すなわ)ち決す。」
*顰に倣う:善し悪しも考えずに、人のまねをする
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/142

ここで二本松藩が三春藩と同様に同盟諸藩を裏切って生き延びようとしても、今後末永く東北諸藩を敵に回すことになる。二本松藩のような小さな藩が周囲の諸藩から怨まれてどうやって存立することが出来るのか。ここで死を賭して信義を守ることこそが、生きる道だと説き、二本松藩は新政府軍と戦うことを決意し、藩中の老幼子女たちを避難させたという。

残念ながら東北諸藩の多くは、同盟諸藩を裏切ってでも生き延びようとしたのだが、二本松藩は、兵力が不足していて勝つことが難しいことを知りながら、決死の覚悟で戦線に就いたのである。

板垣退助
板垣退助

二本松藩がいかによく戦ったかを、新政府軍を率いた板垣退助(土佐藩出身)の伝記『板垣退助君伝 第1巻』を読んでみよう。
ここで、「賊軍」と書いているのが「二本松藩兵」を意味し、「君」とあるのは「板垣退助」、「薩」「長」「土」は「薩摩」「長州」「土佐」、を意味している。

「二十九日、薩兵を先方となし、君土軍を帥いてこれに続き、彦根・大垣・忍・館林の諸兵を先鋒となし、天明進んで二本松に向かう。賊街口大壇を扼し、山に沿いて柵を結び、叢林に伏して乱射す。弾丸雨の如し。薩兵多く斃る。土軍次で進む。官賊咫尺(しせき)*の間に相撃ち、戦最も激す。」
*咫尺:距離が極めて近いこと
「既にして兵を三面に分かち、一は左方より山を踰えて城背に出で、一は正面より進み、一は右方の山に入て林中の賊を追う。諸兵斉しく進む。賊潰えて城に入る。時に長兵海軍と共に、小浜より来て城の東北に薄(せま)る。賊徒狼狽、みな必死を分とし、窃(ぬすみ)に民家に伏し、躍り出でて官兵の不意を打つ。飛蛾の火に投するが如く、多く之に死す。…
蓋し一藩挙げて身命を擲ち、鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)*斃れて而してのち已し者、二本松を以て最と為す
。その域に、家に、屠腹する者、域を出で、家を出でて討死する者、此々相接す。刀折れ矢尽き、城を枕にして倒るとは之を謂うなり。」
*鞠躬尽瘁:心身ともに捧げて全力を尽すこと
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781003/173

野津道貫
野津道貫

また、この戦いに隊長として参戦した薩摩藩の野津道貫(後の元帥陸軍大将)は、二本松藩の戦いをこのように語っている。
「薩藩兵、一個大隊、速見十郎太に引率され、奥羽街道を前進し来ると、二本松の東方約十丁許の丘陵上に、兵数不詳の敵兵は、砲列を布いて、我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃が頗る正確で、一時我軍は全く前進を沮碍された。我軍は正面攻撃では奏効せざることを覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退するすることを得たが、おそらく戊辰戦争中第一の激戦であったろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/181
野津は軍を迂回させて大壇口進軍の際に、番所前の茶屋にて待ち構えていた六番隊大砲方の山岡栄治、青山助之丞2名の襲撃を受け、部下9名を斃され、本人も手傷を受けたと書いている。明治三十一年、同地を訪れた野津はこの二名を称賛し、明治三十三年には二勇士戦死之碑を建立したという。

このように敵将である板垣退助も、野津道貫も二本松藩の勇敢な戦いぶりを高く評価したことに注目しておきたい。

では列藩同盟のリーダーであった会津藩や仙台藩は、どう動いたのであろうか。
実は両藩とも大軍を割ける状態ではなく、派遣された援軍も二本松城にたどり着く前に新政府軍によって半壊の被害を受けて撤退してしまい、城内にいた仙台藩兵も会津藩兵も途中で城を脱出し、最後は二本松藩兵のみが残って戦ったのが真実である。特に仙台藩は、弾薬欠乏を理由に数千もいた兵を二本松藩から引いたのだが、要するに自藩の防衛を優先しただけのことであろう。

Wikipediaは、この戦いの最後をこう解説している。
「29日の正午、二本松にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、家老の富穀以下7名は次々と自刃して城と運命をともにした。この時、城内と城外が新政府軍によって隔てられ、城外にあった二本松少年隊に指示を送ることができなかったことがさらなる悲劇をもたらす。激戦の最中に二本松少年隊の隊長と副隊長が相次いで戦死し、指揮できる者がいない中、二本松少年隊40名は最前線に放置される事態に陥っていた。彼らは戦場をさ迷ううちに1人ずつ離れ離れになり、ついに新政府軍との戦闘に巻き込まれて1人1人命を落としていく

この落城により、二本松藩は家老以下18名の上級職全てが戦死した。二本松藩の死者は218名に及び、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も含まれている。会津藩は39名、仙台藩は19名の死者を出し、対する新政府軍は17名の死者に留まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

二本松少年隊
【箕輪門の近くの『二本松少年隊群像』】

この戦いで少年兵の一員として14歳で参加した水野好之氏が大正六年に記した『二本松戊辰少年隊記』の全文が、次のURLで紹介されている。新政府軍が接近してくるところに少年隊が大砲を発射する場面からの引用である。文中の『隊長』は木村銃太郎という当時二十二歳の青年で、藩命で江戸の江川太郎左衛門に弟子入りして西洋式砲術を究めて帰藩し、戊辰戦争では門下生を率いて二本松城の南にある大壇口へ出陣していた。
http://nihonsi.web.fc2.com/warfare/nihonmatu/nihonmatu.htm

木村銃太郎
【木村銃太郎】

「大砲の位置を換へ集團見掛けて發射せしに、見事に其頭上に而も三發迄も爆發す。
敵は俄(にわか)に散乱して左右の山林に駆け入り、巧みに所在を暗ますかと見る間に、大砲小銃を雨霰と打出しぬ。大砲の髙きものは附近の松林に命中し、凄(すさま)じき勢いもて松の木を中断し、低きものは眼前の畑地道路に落ちて土砂を巻き揚ぐ。小銃の遠きものは『クーン』、夫より近きものは『シウー』、最も近きものは音無くして耳邊を掠め去る。敵の動作は敏活なり、巧みに正法寺町の民家に隠れて射擊最も勉む。
之を見下せる吾等は、『悪(にく)むべき仕業かな、目に物見せて呉れんす』と大砲にて其民家を射擊すれば見ん事命中し、其五軒を打貫く(今尚壁に貫通の跡あり)。敵の狼狽して四散する様(さま)手に取る如し、一同之に力を得ドット鯨波の聲を揚げつつ益(ますます)奮闘す。
今迄暁霧に眠れる霞城の天地は忽ち叫喚(きょうかん)大叫喚修羅の街とぞ化しにける。血を迸らして倒るるあり負傷して呻くあり、鬨の聲と銃砲の聲と相和して山野に轟(とどろ)く。互の眼は血走り、口は噤(つぐ)みて物云う事も意の如くならず、火藥に汚れし両の手は墨もて染めたらんが如く、其の手もて顔に流るる汗を拂うにより少年隊の面々の顔は目ばかり光る海坊主に異らず。古書に見えたる『流血杵(しょ)を漂わす』*も目のあたり。
余等の命と頼みたる彈丸除けの疊も今は敵彈の爲に四分五裂して用をなさず、已を得ず、畑中に全身を露わして應戰(おうせん)最も勉めたり。然れども砲彈の雨注には堪え難く、傍(かたわら)の竹藪に驅け入る。竹藪に一彈入るや、竹幹に當りて所謂外れ丸となり、カラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て、危険更に増さりぬ。
余鐵砲を取直して打たんとすればこは如何に、曩に竹藪に駈け入りし時敵彈に引金を打貫かれて用をなさず、如何せんとためらうに、不圖(ふと)見附けたるは、砲車の側に横たわれる一大木材なり、一抱(かかえ)もありて長さは四、五間に余れり。是れ屈竟の物なりと、直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いさ戰況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云う聲あり、周章驅け行きて見るに彈丸は左の二の腕を貫通して働をなさず、豫(かね)て用意の白木綿にて傷口を巻きまいらす、今は是までなりと、退却の用意に大砲の火門に釘を打込み、隊長自ら小高き所に上りて合圖の太鼓を打ち鳴らせり。
之を聞き傳へし少年隊は我後れじと集合すれば、敵は愈々肉薄し來りて危險云ふべからす。少年隊の集れるもの何人にして、死傷せるもの何人なるかは、咄嵯(とっさ)の場合とて知るに由なし。味方の陣地如何にと一瞥すれは、何時の間に退却せしにや、吾等少年隊數人の外には人影を認め得す。隊長悠々迫らす、余等に何事をか訓示せんとせしに、狙擊に遭ひて、腰部を貫かれ、尻へにとうと倒れたり。」
*流血杵を漂わす:血で血を洗う争いによって多くの血が流されること

二本松藩は戦う前に降伏する選択肢もあったのだがそれを拒絶し、少年兵から老人部隊まで動員して全藩をあげて新政府側の大軍と戦い抜いたのである。仙台藩も会津藩もほとんど二本松藩を支援できなかったことから奥羽越列藩同盟が頼りにならないものであることが明白となり、この戦いののちに、新政府軍に降伏する藩が相次ぐことになる。

相馬藩は八月六日に新政府軍に降伏したのだが、藩の人々はその後地獄のような生活を余儀なくされるようになり、安易に降伏したことを後悔したのではないだろうか。
藩主の相馬誠胤(ともたね)はただの人に転落し、領地の南半分は新政府軍の直轄地となり、新政府軍が仙台を攻撃する間の糧食その他一切を引き受けさせられている。ちなみに相馬藩の表高は六万石であったが、官軍の仙台出兵に関わる五十四日間の食糧だけで一万三千石を消費し、藩兵の仙台出兵応援では延べ三十万三千人を動員し、さらに二千石の米を消費し、藩の米の備蓄は底をついたという。

吉田屋覚日記

そればかりではない。相馬の御用商人・吉田屋鈴木庄右衛門の手代の日記『吉田屋覚日記』にはこんな記録が残されている。
「八月十四日
 官軍方の分捕品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。もっとも後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買い戻される。」
このように、官軍の分捕りは正当とされていて、官軍とは名ばかりで夜盗の集団のように分捕っては換金して収入を得る連中が少なくなかったようなのだ。吉田屋の商売になくてはならない船も二隻が分捕られ、これを取り戻すのに六百両かかるとの日記の記録もある。

星亮一氏は、さらにこう解説しておられる。
酒屋の従業員は皆、官軍の炊き出しに使われ、酒造りが出来なくなった。
 治安の悪化にもおびただしいものがあり、強盗事件が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振る舞いもあった。
 女性も徴発され、給仕役に後家が召し出された。
 これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽の相手だった。一般兵のために小高村、浪江村、鹿島村などの宿には遊女を置くことが求められた。

相馬藩はじっと耐えた。
官軍の心証を悪くしては、領地もすべて取り上げられるかもしれない。
絶対服従の態度を見せ、この領地を相馬藩に安堵してもらうことが大事だった。」(『戊辰戦争 裏切りの明治維新』p.145)

戊辰戦争ののち奥羽各藩は国替えの処分が行われ、相馬藩はその処分が免れてはいるが、それは商人たちがこぞって新政府に献金したことによるという。その金額は二万両を超え、その結果相馬商人は一文無しになり、町は寂れて相馬地方の中心が隣の原町に奪われたという。
相馬藩の武士たちが、もし二本松藩のように新政府軍と戦っていたとしたら、領民をここまで苦しめることはなかったであろう。

榊山潤
【榊山 潤】

話は三春藩の裏切りに戻るが、戦後「三春キツネに騙された」という俗謡が流行ったという。三春地方は戊辰戦争後長いあいだ嫌われて、榊山潤氏著『田舎武士の目』には、
「いまはどうか知らないが、(第二次)大戦までは、二本松の人は三春の人との縁組みを避けた。三春の者は嘘つきで、信用できないという言葉を、私が二本松に疎開していたころにもよく聞いた。会津の人ならすぐ信用するが、三春の人は信用しないのだ。その当時の怨みが、そんな風に長く尾をひき消えずにいるということも、辺鄙な土地に住む人間感情の微妙な点であろう。確かに二本松は、三春の裏切りによって、ひどい目に遭った」と書かれている。
この怨みは今も完全には消えていないようで、平成の大合併の頃に、二本松市と三春町の合併話が成立しなかったのも歴史的な経緯と無関係ではないのだろう。

もっとも列藩同盟の盟主であり、兵力もありながら小藩を十分に支援してこなかった仙台藩が、自藩を責められることがないように三春藩を悪者に仕立てたという解釈も成り立つのだが、三春藩が常に悪者にされてしまうのは、列藩同盟に参加していながら自藩領を護ってくれていた同盟軍を欺いて新政府方につき、二本松藩ほか列藩同盟の多くの兵士を死に至らしめた事実が重たいようだ。

少年隊の丘
【少年隊の丘】

二本松藩は「二本松の戦い」で218名の死者を出したのだが、武士や少年隊たちの犠牲によって領土と領民の生活はほぼ守られたのである。また藩主は養嗣子の丹羽長裕が後を継ぐことを許されている点も、戦わずして新政府に屈した相馬藩とは大いに異なる。
二本松藩の武士や少年兵は武士道精神を発揮して名誉ある最期を遂げ、そして地域の人々から、彼らは今もなお敬愛され顕彰されているのである

二本松少年隊顕彰碑
【二本松少年隊顕彰碑】

二本松城は明治5年(1872)に破却されたが、昭和57年に箕輪門と附櫓が復元され、箕輪門の近くには『二本松少年隊群像』が建てられ、霞ヶ城公園の頂上付近の平坦地は砲術道場で学ぶ少年たちが稽古をした場所だと伝えられていて、昭和15年、このゆかりの地に立派な『二本松少年隊顕彰碑』が地元の人々によって建立され、碑には出陣した少年隊士62名全員の名が刻まれている。そして明治百年にあたる昭和43年(1968)になるとさらに副碑が建立され、この場所を『少年隊の丘』と名付けられたという。

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梅の咲く季節にシーボルトが絶賛した賀茂神社を訪ねて
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室津の歴史と、その古い街並みを楽しむ
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湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
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白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争

慶応四年(1868)七月に二本松城を落とした新政府軍は、次の攻略を会津にするか仙台にするかで意見が割かれた
大総督府軍防事事務局判事の大村益次郎は、二本松城落城後は戦意の乏しい仙台藩を攻めて、最小の流血で最大の戦果を挙げて東北戊辰戦争を終結させようという考えであったのだが、土佐藩の板垣退助がこれに真っ向から反対し、先に会津藩を殲滅することを強く主張したという。国立国会図書館デジタルコレクションに『板垣退助君伝. 第一巻』が公開されていて、PCなどでこの件に関する板垣の主張を読むことが出来る。文中の「仙」「米」は仙台藩、米沢藩を指す。

板垣退助
板垣退助

抑(そもそ)も会津は根本にして、仙米等は枝葉なり。枝葉尽きて根本存する者は或いはこれあり。根本既に倒れ枝葉枯落せざる者、いまだかつてこれ有らざる也。いま北越の信いまだ確なるにあらずといえども、其官軍の勝を得たる、蓋し疑うべからず。この機に乗じて直進して会津を打つ、寧ろ千載の一遇と言わざるべけんやと、是に於いて議ようやく決す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781003/178

板垣は新政府軍が仙台藩や米沢藩に勝利したとしても会津藩が残っている以上東北戊辰戦争は終結しない。また仙台方面に兵を進めてもすぐに厳寒の季節に入り、戦争が長引くことになるだろう。そのことによって、会津藩に周到な準備をする時間を与えてしまうことになることは問題だ。相手の準備が出来ていないうちに会津を討つべきであり、今こそがその好機だと主張したのだが、この判断は新政府軍にとっては正しかった。

会津・庄内両藩 資金調達でドイツに打診

以前にもこのブログで書いた通り、会津・庄内藩は北海道の両藩の領地をプロイセンに貸与して、同国から大量の武器・弾薬を購入する交渉を開始し、本国のビスマルク宰相が秋にはそれを認可していたのである。もし新政府軍が会津攻略を後回しにしていたら、戊辰戦争はもっと長引くこととなり大量の犠牲者が出て、戦いが終わった後はドイツが北海道のかなりの部分を領有していてもおかしくはなかったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-549.html

一方、会津藩は新政府軍と戦う準備を進めていた。
三月には軍制改革を行い、十五歳から十七歳の少年は白虎(びゃっこ)隊、十八歳から三十五歳までの精鋭部隊を朱雀(すざく)隊、三十六歳から四十九歳までを青龍(せいりゅう)隊、五十歳から六十五歳までを玄武(げんぶ)隊と名付け、さらに身分によって士中隊、寄合組隊、足軽隊などを編成した。
このようにしてかき集めた会津軍の総兵力は約六千人で、そのうちの約七割にあたる精鋭部隊を、勢至堂口、中山口、大平口など会津につながる藩境の要所に分けて配置したという。

母成峠

会津に向かうのにどの道から入るかについては、新政府軍の中でも議論があったのだが、八月二十一日に約二千二百の新政府軍は、会津藩防衛線の弱点である母成峠(ぼなりとおげ)を衝き、約八百の旧幕府軍を破った(母成峠の戦い)会津藩からすれば、わずか一日で防衛線が破られることは想定外であった。

会津藩軍事局が母成峠陥落の急報を受けたのは八月二十二日午前五時だという。
しかしながら、有力部隊を藩境に配置していたために会津城下には精鋭兵がいなかった。
この時会津城下にいた将兵は、藩主の近臣や軍事局のほか、君則護衛の任にあたっていた白虎隊の少年たち約八十名と、鶴ヶ城警護にあたっていた玄武隊の老人たち約百名のほか、前月に結成されたばかりの敢死隊約二百五十名、僧侶からなる奇勝隊約百名にすぎず、城下はガラ空きの状態だったのである。

戊辰戦争 会津

新政府軍の会津進撃を止めるためには、日橋川にかかる十六橋を破壊する必要があった。この橋を破壊すれば新政府軍の大砲は動けない。
十六橋の破壊と戸ノ口原防衛のため、奇勝隊、敢死隊、砲兵三番隊のほか白虎士中二番隊三十七名が出陣を命じられたのだが、薩摩軍の銃撃を受けて十六橋の破壊ができないまま日が暮れる。
大正六年に出版された『会津戊辰戦争』にはこう記されている。東軍とは旧幕府・会津軍を指す。
「夕陽既に没すれども朝来の雨未だ止まず。満天墨を流せるが如きもなお戦を収めず。…東軍今や弾尽き或いは硝薬湿りて用をなさず。即ち銃を棄て白刃を翳(かざ)して戦う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951582/114

夜が明けると新政府軍の精鋭三千余人が総攻撃を開始し、会津藩戸ノ口原防衛隊総勢三百数十人は一気に蹴散らされ、奮闘した白虎士中二番隊もたちまち過半を失い、生存者は飯盛山へ逃れて行く。しかし、そこで見た光景に彼らは息を呑む。城下のあちこちから火の手が上がり、鶴ヶ城周辺にも火の手が迫っていた。

会津白虎隊十九士伝

『会津白虎隊十九士伝』の西川勝太郎伝にこう記されている。この本はGoogleブックスで全文を無料で読むことが出来る。

「…城既に陥るや否や、公既に殉するや否や、未だ知るべからず。我が刀折れ城陥り公殉せるを見て、而して後従容義を取り生を捨つるも亦晩しとせずと。衆又其の言に従う。因って相携えて城に入らんと欲す。而して一人の其の捷路を弁ずるものなく、深邃の山谷を跋渉し、偶々不動瀑畔に出で、新堀に入れば、瀧澤峠の敵兵狙撃甚だ急なり。因って匍匐し洞窟を経て飯盛山に登り、城郭を展望すれば黒煙天に漲(みなぎ)り砲声地に震う。君慨然衆に謂って曰く。今や殉すべきの秋(とき)なりと。衆遂に之に従う。そもそも十九士のその死所を得しものは君の力なりと謂うも誣言*にあらず。」(『会津白虎隊十九士伝』p.20)
*誣言(ふげん):わざと事実を曲げて言うこと。またその言葉。
https://books.google.co.jp/books?id=0ji6R7q742QC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false


飯沼貞吉
【飯沼貞吉】

実はこの時に自刃を決行した白虎隊は20名なのだが、喉を突いて死のうとした飯沼貞吉(のちに貞雄と改名)のみが一命をとりとめた。その飯沼氏が生前に伝え残した『白虎隊顛末略記』という記録もネットで読むことが出来る。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/tenmatu.htm

手持ちの食糧もなくなり何か食べたくても、近くに民家もなく食糧を乞うこともできない。そんな中、敵と遭遇し射撃を受けたために南方の山腹に副って退き、ようやく危機を脱して飯盛山に登って足を止めると、城下は炎に包まれており、街道は敵兵で充ちていた。
飯沼氏によるとここで死ぬか、戦うかで激論があったのだが、最後に語った篠田儀三郎の言葉に全員が納得したという。

「最早斯くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀、元より不可と云うにあらざれども、迚(とて)も十有余士の能く為し得べき所にあらず。誤って敵に擒(とりこ)にせられ縄目の耻辱を受る如き事あらば、上は君に対して何の面目やある、下は祖先に対し何の申訳やある。如(し)かず潔きよく茲に自刃し、武士の本分を明にするにあり。」

会津鶴ヶ城
【会津鶴ヶ城…天守閣の破損の痕は戊辰戦争の砲弾によるもの】

白虎隊は城が燃えているのを見て自刃したという話が広がっているのだが、それは後世の創作のようだ。先ほど飯盛山で死ぬか戦うかで激論があったと書いたのだが、その点について『白虎隊顛末略記』では、「今や焔は天を焦がし、砲声山岳を動かすも、決して城落たるにあらず。潜に道を南に求め、若松城に入るに如すと。甲怒り、乙罵り、激論以て之争う」とある。
城が燃えていたら、こんな激論をするはずがないのだ。彼らは城が燃えていないことを認識しつつも、敵に生け捕らえられて辱しめを受けるよりもこの地で潔く死ぬことを決意したのである。

話を八月二十三日の朝に戻そう。新政府軍の尖兵が市街へ侵入すると、鶴ヶ城の鐘撞堂から早鐘が連打された。この早鐘が鳴った時には藩士家族は鶴ヶ城の三の丸に避難することが定められていたのだが、藩士家族の多くは「負傷兵や婦女子や幼児が入城しても足手纏いになるだけ」とあきらめて、邸内で集団自決の道を選んだという。

このブログで1900年の義和団事変の際に北京の公使館区域が孤立し、籠城戦にあたって実質総指揮を執った柴五郎中佐のことを書いたことがあるが、彼は会津人で彼の母、祖母、姉妹はこの日に自決したという。

柴五郎
柴五郎

柴五郎は彼が九歳の時のこの日の出来事について、遺書にこう記している。

「…幼な心のつい誘われて、うかうかと邸を立ち出でたり。
 これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して立ち去りたり。ああ思わざりき。祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼なかりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慙愧にたえず、思いおこして苦しきことかぎりなし。」(中公新書『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』p.24)

西郷頼母
西郷頼母

筆頭家老の西郷頼母の家族もこの日に自決したのだが、この人物の事も書いておきたい。
西郷頼母は、藩主・松平容保が京都守護職に就任することに反対したことで容保の逆鱗に触れ蟄居を命じられたのだが、その後政局が動き松平容保が朝敵第二号とされて大総督府が会津征討に動くと、西郷頼母は五年ぶりに藩政に呼び戻されている。

西郷は主戦派に抗しつつ新政府に対し絶対恭順する藩論を取りまとめたのだが、奥羽鎮撫使から拒絶されて和平の道は絶たれ、会津藩は戦わざるを得なくなってしまう。
そして西郷は白河口総督を命じられ、奥羽戊辰戦争の天王山ともいうべき白河口攻防戦で奥羽同盟軍は二千五百~三千人もの大軍を率いながら大敗してしまう。この戦いのことはこのブログでも書いたが、同盟軍が大敗した原因は主力小銃の性能の格差が大きかった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-550.html

その後西郷頼母は早期降伏論を主張し続けたのだが、会津家中では西郷の考えに強い非難があり、西郷は自分の身の安全をはかろうとする私的な動機から主張しているものと考える藩士が多かったという。

西郷千重子
【西郷千重子肖像画】

そして八月二十三日の朝が来て、城から半鐘が打ち鳴らされた。
頼母の妻・千重子は、嫡男の吉十郎11歳を鶴ヶ城に送り出し、召使いに暇を与えて避難させたのち、邸に残っていた家族や親族全員が自決したのだという。
千重子は家族全員*を一室に集め、八歳の三女田鶴子を刺し、次に四女常盤を刺し、更に二歳の赤子季子を刺殺したのち、わが胸を突いて果てたのである。
*家族で自決したのは妻千重子(34)、妹眉寿子(26)、妹由布子(23)、長女細布子(16)、次女瀑布子(13)、三女田鶴子(8)、四女常盤(4)、五女季子(2)の8人。隣の部屋で姑律子(58)と外祖母(77)が自決し、ほかに親族など12名が西郷邸で自決したという。

千重子の辞世が残されている。

なよ竹の 風にまかする 身ながらも
 たわまぬ節は ありとこそ聞け


千重子は、西郷頼母が早期降伏論を唱えたのは決して私的な動機からではなく、会津の領民を救うという公的な動機に基づくものであったことを、一族が西郷邸で自決することによって伝えようとしたのであろう。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

龍野公園と龍野城の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-204.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html

「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-384.html

又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-443.html

桜の咲く季節に京北の歴史と春を楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-503.html






関連記事

会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き

慶応四年(1868)八月二十三日午前十一時頃に甲賀町口廓門を破って城下へ乱入した土佐藩の先鋒隊は、鶴ヶ城(若松城)北出丸に進出し、城への突入を図った。

新島八重
【新島八重】

前回の記事でも書いたが、会津藩は有力部隊を藩境に配置していたために城下には精鋭兵がおらず、鶴ヶ城には少年兵の白虎隊や老人部隊の玄武隊と少数の吏員がいる程度だったのだが、中には男装して奮戦した女性もいたという。
Wikipediaによると会津藩の砲術師範であった山本覚馬の妹・八重は、「鉄砲を主力に戦うべきと考え、刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず、断髪・男装して家芸であった砲術をもって奉仕し、鶴ケ城籠城戦では自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦した」と書かれている。八重はこの戦いで捕虜となった夫と生き別れ、後に同志社創立者の新島襄の妻となった人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E5%85%AB%E9%87%8D

北出丸の狭間塀から撃ち出される銃弾の嵐に見舞われて土佐先鋒隊の板垣退助は薩摩二番砲隊長・大山巌に応援を求め、北出丸に砲撃を開始されたものの大山巌自身が右大腿部貫通の銃創を受けて後送されたという。

鶴ヶ城城址公園マップ

鶴ヶ城を守る兵士は少数ではあったが、会津は北出丸の新政府軍の猛攻をなんとか防ぎきり、午後二時頃には藩境を守っていた会津藩の有力部隊が鶴ヶ城の危機を聞いて相次いで帰城し、鶴ヶ城の防衛力が回復して長期籠城戦に入っていく。

しかしながら兵力で勝る新政府軍は会津城下を包囲し、大砲で鶴ヶ城を狙い撃つ作戦に出た。
『防長回天史. 第6篇中』には、二十六日に鶴ヶ城の東南にある小田山を占領し大砲を設置したことが記されている。

二十六日 薩、肥の兵小山田を奪うてこれに拠り、肥藩はアームストロング式砲を備え、かつ山麓の火薬庫を占領す。山は城の東南十余町に在りて、城内を瞰射するに最も良好の砲兵陣地たり。爾来この高地より発射する弾丸は城中の建造物を破壊し人馬を傷つけかつ屡々火災を起こさんとせり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2169815/53

会津戦争

アームストロング砲の射程距離は3kmを超えるのだが、地図で確認すると小田山の中腹にある小田山公園から鶴ヶ城の距離は1.4km程度に過ぎない。会津城下に有力部隊がいなかったから仕方がないこととはいえ、小田山を新政府軍に奪われたことは会津側にとっては痛恨の極みであったことに違いない。

『会津戊辰戦史』には、二十七日のことをこう解説している。文中の「西軍」とは「新政府軍」の事を指している。
「この日西軍東北より齊しく城を攻撃し、小田山の砲台より大砲を連射すること益々烈しく、屋瓦飛び柱壁砕け烟塵室に満ちて昼なお暗く、火屡々(しばしば)起こりしといえども幸いに消し止めることを得たり。然れども死傷相次ぎ、或いは城の支え難きを察し慷慨して自刃する者あり。謀議の士は黒金門に会し軍議に日を累ぬるも良策の施すべきものなし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/315

続いて二十八日の記録である。
「城の東北より西北に亙(わた)りて数万の敵兵数十の塁壁に拠り、日夜銃砲を発して孤城を攻撃す、電光空に閃き萬雷地に震う。郭内外の邸宅市店は兵火または放火のために一空荒野となり、戦没したる壮士、流弾に斃れたる婦女は骸を晒し屍を横(よこた)えて収めることを得ず。流血淋漓(りんり:したたり流れるさま)腥風(せいふう:血なまぐさい風)鼻を撲(う)ちその惨状は目も当てられず。西兵の残暴なる農商の家見るところの財貨剽窃せざるなく、これを牛馬に満載して運搬し去り、あるいは鶏牛を掠奪しあるいは無辜の民を殺戮しあるいは婦女を姦し憚るところなし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/315

会津鶴ヶ城

上の画像は鶴ヶ城の天守閣だが、大砲が命中して城壁がボコボコの状態なのになぜ城が焼け落ちなかったのだろうかと長い間疑問に思っていた。『会津戊辰戦史』を読み進んでいくと、その疑問が氷解した。女性陣も、城の中で精一杯味方の為に戦っていたのである。

近世会津軍記 官軍野戦砲を発して若松城の天守をうち破る
【近世会津軍記 官軍野戦砲を発して若松城の天守をうち破る】

「守城以来しばしば落下し来たりし焼弾は径六寸ばかりの円弾に孔あり。ここより火を噴出して殿屋を焼かんとし水を注ぐも消滅せず。ここにおいて衣類をもってこれを覆いて水を注げばたちまち消滅す。奥殿に仕えし老女伊東牧野以下の侍女力を尽くして綿衣あるいは布団の綿を出し毎にこれを水中に浸し、此の弾の落下するときは婦人等馳せ集まりて之を覆いて消滅せしむるを常とし危険を感ぜざるに至れり。(七年史、若松記、内田藤八筆記)
 籠城中夜に入れば榴弾の中天に交錯するもの、あたかも秋空に蜻蛉の飛翔するが如し。児童ら慣れて之を畏れず。常に屋外に出て之を望み互いに叫んで曰く。今夜は蜻蛉多しと。(海老名季昌談)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/328

あるいはこんな記録もある。文中の「照姫」は会津藩主・松平容保の義姉である。

本丸の大書院、小書院、その他金の間等はみな蒲生氏の時建築するものにして頗(すこぶ)る宏壮なり。敵の囲みを受けしよりあるいは病室となしあるいは婦人小児を収容せり。戦酣(たけなわ)なるに及び病室は殆んど立錐の地なきに至り、手断ち足砕けたる者、満身糜爛(びらん)したる者、雑然として呻吟す。然れども皆切歯扼腕、敵と戦わんとするの情を為さざる者なし。而して西軍の砲撃益々激烈なるに及びては、流弾は病室または婦人室に破裂して全身を粉韲(ふんさい)せられ肉塊飛散して四壁に血痕を留むる者あり。その悲惨凄愴の光景、名状すべからず。(古河末東所聞)

八月二十九日城外進撃の時は一日に百数十人の負傷者を出し、病室最も繁劇を極め繃帯に供する所の白布一時欠乏するに至れり。照姫は奥女中をして貴重の衣帯を出しこれを解きてその白布を以て繃帯と為さしめ、あるいは傷病者の衣衾に宛てしむ。故に兵卒にして葵章の衣を着け、あるいは壮士にして婦人の美服を着くるに至り、三軍の将卒これを聞いてその殊遇に感激し士気大いに振えり。(村井弦斎筆記)

傷病者に窮する食物は奥女中以下の婦人之に任じ、照姫自ら之を監督す。本丸の西隅に炊事場を設け婦人集合して、水を汲む者、米を洗う者、飯を炊く者、各分業して之を為す。炊事場には石竈十数個を設置し精米を炊き、これを奥女中室に遞送し、若年寄格の女中等藩士の婦人を指揮して摶米を製し、之に羹蔬魚肉鳥肉牛肉等を添い、之を盆に載せ表使女中先頭に立ち侍女二人之に従い、幾個の縦列を作り整然序を追うて病室に運ぶを常としたり。(納富氏日記巻之三、丸山幸之助、山室重明談、村井弦齋筆記)一斉攻撃の前後には飯を炊くこと昼夜を分かたず、十数個の石竈一刻も火を絶ちたることなかりき。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/326

近世会津軍記 弾丸のため櫓焼失し城兵困苦迫る
【近世会津軍記 弾丸のため櫓焼失し城兵困苦迫る】

このように会津藩は籠城組が老若男女一丸となって良く戦ったのだが、九月十四日になると新政府軍の総攻撃が始まり、一日に約二千五百発もの弾丸が撃ち込まれたという。

既に仙台藩は自藩防衛の為に兵を引いており、唯一頼みとしていた米沢藩は九月四日をもって新政府軍に降伏した。弾薬・食糧ともに残り少なくなっており、会津藩が戦争を継続することはもはや困難な状況になっていた。

会津軍記 会津藩降伏の図
【会津軍記 会津藩降伏の図】

一ヶ月にも及ぶ籠城戦の末会津藩主・松平容保は降伏を決意し、九月二十二日の朝には鶴ヶ城の北追手門に「降参」と書かれた白旗が掲げられて、会津戊辰戦争はついに幕を閉じたのである。

会津藩の立場から書かれた解説書を読むと、会津藩降伏後も新政府軍は戦死体の埋葬を許さず、会津藩将士の遺体は道端に打ち捨てられたまま腐乱にまかせて、鳥や獣についばまれたことが書かれていることが多いのだが、そのような状態がどの程度の期間続いたのだろうか。

前回記事で紹介した柴五郎の遺書によると、武士以外の者が若松に入ることを許されたのは十月末で、当時九歳の柴五郎は十一月に入ってから親族に連れられて自宅の跡を訪れ、八月二十三日に自決した家族の骨を拾ったとあるので2か月以上遺体は放置されていたことになる。柴五郎はこう書いている。

十月も末となり、武士以外の者も若松に入るを許さる。…
十一月に入りて、余は農家の子の姿なれば安全なりと思い、忠女、きさ女の両名にともなわれて二ノ邸の旧邸焼跡にいたる。赤く焼けたる瓦礫のみにて庭木もほとんど見当たらず、加勢の強かりしことを思わしむ。余焼跡に立ちて呆然たり。…
忠女、きさ女の腕に支えられてようやく起ち上れば、両女とも堪えかねて号泣す。…
『五郎さま、さあ、ご自分のお手にて皆様の骨をお拾いなされ』
用意の箸を余の手に持たしめて遺骨の細片を拾い集め、紙袋におさむ。これ、祖母、母、姉妹の変わりはてたる姿なりとは、いかにしても理解できざるも涙頬を伝いて落つ。」(中公新書『ある明治人の記録』p.39~40)

新政府軍が一か月以上にわたり会津若松に立ち入り禁止にしたことは事実のようなのだが例外もあるようだ。Wikipediaには戦死した藩士らが埋葬された史料が紹介されている。この史料が発見されたのは昨年の秋のことである。

会津藩士埋葬の史料発見

「『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写しが会津若松市で見つかり、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。 このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

会津戊辰戦争で戦死した藩士の数は約二千四百人とされていて、埋葬された遺体はその二割強に過ぎないのだが、新政府により会津藩士の遺体埋葬の命令が出ているという重要なことが、どうして今まで伝えられて来なかったのだろうかと不思議に思う。
河北新報の記事によると、山本八重の父山本権八の遺体や、西郷頼母の家族の遺骨、白虎隊士と思われる遺骨もこの記録にあるのだという。
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201710/20171003_63036.html

ついでに、会津戊辰戦争の戦後処理についても記しておこう。
藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄となった。

会津藩を失った松平家は、元盛岡藩領に設置された旧三戸県五万二千三百三十九石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に三万石を与えられて、旧会津藩士とその家族約二万人のうち約一万七千人が明治三年閏十月までにこの「三戸藩」に移住し、約二千人が会津若松に残って帰農したという。

斗南藩地図

「三戸藩」という名前は明治三年六月に「斗南藩」に改められたのだそうだが、この地は火山灰地質の厳寒不毛の地で、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかった。また、また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じ、とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられたという。

さきほど、会津藩は籠城組が老若男女一丸となって良く戦ったと書いたが、実際に戦ったのは士族だけで、農民は武士に対して冷ややかであったという。その点が二本松藩とは大いに異なる。

鶴ヶ城が落城すると農民たちが各地で蜂起し、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きたのだが、Wikipediaによると「会津藩内では会津藩を支持しない者が非武士で多く、会津藩に組する者がほとんどいなかった」とあり、その理由は「藩主が幕府での地位や対外的の面子のため資金として普段から重い税を課してきたことや支持もしていない争いの渦中に巻き込まれ」たことが大きかったようなのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

この一揆は会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず勃発し、以後領内各地に波及して、年貢の免除や小作料の廃止などを要求して約2か月間にわたって各地の村役人や豪商の屋敷や家財道具を打ちこわし、帳簿類を焼き捨てたという。

板垣退助
板垣退助

会津の農民たちが、会津藩を支持していなかったことは、土佐藩の板垣退助の記録にも出ている。板垣は、一般庶民が難を避けようとして爭いの始まる前に逃散してしまい、藩が敗れても無関心でいる農民を見て次のような感想を述べている。

かくの如く一般人民に愛国心なき所以のものは、畢竟上下離隔し、士族の階級が、その楽を独占して、平素にありて人民と之を分かたざりし結果にほかならず。それ楽を共にせざる者は、またその憂をともにする能わざるは、理の常に然るところ、天下の雄藩たる会津にして、すでに然り。いわんや他の諸藩においておや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139576/196

会津の立場で描かれる戊辰戦争の歴史にはこのような史実を書かず、もっぱら会津武士の視点から描かれることがほとんどで新政府側は常に悪者にされるのだが、会津の人々がこのような歴史理解について再考することも必要ではないだろうか。

Wikipediaに重要なことが書かれているので引用したい。
会津藩戦死者に対する埋葬禁止の話の根拠とされる『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来』に記されている官命では、彼我の戦死者、つまり会津側と新政府側、双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており、会津藩の死者の埋葬のみを禁じたものではなく、死体からの金品剥ぎ取りを防ぐための一時的処置と考えられる。また戊辰戦争後に会津の民政を任され、遺体埋葬も担当した会津民政局に長州藩関係者は全くいない。このように長州に対する怨念には根拠が薄弱ではないのかという意見は、当の会津関係者の中からも提起されている。そして、その原因として、戦後一時的に忘却されていた戊辰戦争当時の怨念を呼び覚ます源泉となったという一連の歴史小説作品の影響が指摘されている。
とりわけ、戦後の《会津の語り》を規定したとされる司馬遼太郎作品が、旧長州藩(萩市)との和解をしづらくしたという意見があり、…司馬遼太郎・早乙女貢・綱淵謙錠・中村彰彦らの《会津もの》小説が新たな怨念の源泉を提供したとされる。マスメディアはこれらの小説を事実のように紹介したために、会津側住民に一方的な遺恨をもたらすこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%8F%B2%E5%AD%A6

会津の人々が長州藩に対して抱く怨念は、小説やマスメディアなどで誤った情報が広がって焚きつけられたものであるならば、真実を広めることによって鎮めていくしかないだろう。

昨年11月4日の『時事ドットコムニュース』によると、前述した『戦死屍取仕末金銭入用帳』の発見を機に会津若松市と山口県萩市との和解を実現させようとする動きがあるのだそうだ。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017110400176&g=soc

会津藩も新政府に恭順の意思を示したにもかかわらず、長州藩出身で奥羽鎮撫使参謀であった世良修蔵に拒絶されて戦うことを余儀なくされ、会津戊辰戦争で会津側に多くの犠牲者が出たことから、会津の人々が長州を怨む気持ちは理解できる。
しかしながら、会津の人々が今も長州藩を怨む根拠の中には、少なからずの誤解があることもまた事実である。
今までの「怨讐(えんしゅう)を乗り越え」、「共に犠牲者を追悼」するという姿勢で双方が歩み寄り、明治維新150年という記念すべき今年に、両市の和解が実現することを祈りたいところである。

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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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