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シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる

出島は寛永13年(1636)に、ポルトガル人を収容させるために長崎の港内に人工的に造られた埋立地だが、ポルトガル船の日本への渡航が禁止されたのち、平戸にあったオランダ商館が移されて、寛永18年(1641)にオランダ人の居住地となった。

島の形状は縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール程と狭く、その島にカピタン(商館長)の住まいのほか、商館で働く人々の住宅や乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所など65軒の建物があり、カピタンのほか十数名のオランダ人が住んでいたのだが、閉じ込められていたという表現の方が正しいのかもしれない。

シーボルト

のちにオランダ商館医として来日し、鳴滝塾を開設して多くの弟子を育てたドイツ人のシーボルトが著した『日本交通貿易史』という本が、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されている。この本の第7章に、オランダ人が平戸から出島に居住されられた時のことが記されているので紹介しておこう。文中のル・メールはオランダ商館長である。

1641年5月11日、ル・メールは商館とともに平戸を発して長崎に至るべき命令を受けて、同月21日にこれを実行せり。出島という小島はその数年前にポルトガル人のため国立監獄の如きものとして築かれたるなるが、今はオランダ人の居住のために指定されたり
 彼らここに到着するや、またしても甚だしき侮蔑を受けたり。余は彼らの正統なる抗議を1642年総督ファン・ヂーメンが将軍の老中に宛てたる陳情書中に言いたるとおり、正しく翻訳して次に出だすべし。
『我らは長崎に到りしとき、ポルトガル人の住みし出島を居住地として指定され、ここにて監視され、何人とも話するを得ず、ポルトガルよりもなお悪し様に待遇せられ、何か悪事をなし日本国に取りて危険なる人物の如くに取り扱われしは。これ吾人を侮蔑し吾人に大損害を与えつつなされたるにて、吾人はこの島の借賃として5500両を徴めさせられたるが、これ、わが貿易の甚だしき損害なり。』
『右出島にて、また船の舷上にて神の奉仕を禁ぜられたるは我等を悒鬱(ゆううつ)ならしめ、また我らが古来の自由自主に反するなり。陸上にても舷上にても、我らの死者は海中に沈めねばならず、日本の土地はオランダ人には恵まれず。我が船舶は長崎に投錨するや、厳重に捜査せられ。船上の帆は封印せられ、櫂・舵は揚げられて、再び帆を張らねばならぬその日の確定するまで、陸上に蔵め置かる。船が検査を受けて荷卸しもすめば、我らの荷物および士官たちは検査官のため、何の訳なくに、犬の如くに棒にて打ちのめされ、そのため色々の悶着も起こることあり。我らは船の上において、そこに流鼠されたる如く、検査官に予めもうしいれずば、他の船にも陸地にも行くこと叶わず。』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/95

ある程度誇張もあるのだろうが、オランダ人が長崎奉行から相当ひどい扱いを受けたことは読めばわかる。そのような扱いを受けながら、出島の賃借料を5500両も払わされたというのだから、オランダ人も我慢の限界だったのだろう。

オランダ領インド総督ファン・ヂーメンが江戸幕府の老中に宛てたる陳情書として長崎奉行に提出した文書の最後にはこう書かれていたという。

されば我らは日本より立退くか、またそこに留まるか決せざるべからず。いずれにせよ我らは次の年に地位高き人物に数個希珍物を添えてこれを長崎に送りて、将軍ならびに各高官閣下に敬虔なる訣別を陳べ、もしまた昔年の如き自由にて用命を受くる様にてもあらば、なお永く日本に往来して、我恭順なる恩謝を効すべし。…」

また、総督は長崎奉行に対してはこのように伝えたという。
もし陛下にして自国に於いてキリスト教国人に貿易を許さざる心積もりならば、我らはこれを諒として之に応ずべく、帰去・更来の準備は既に成り居るなり
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/96

このような書状を提出したということは、ここまで書いてもわが国から譲歩を引き出すことが出来ず、このような待遇が続くのであれば、オランダは日本を去る覚悟があったということであろう。

オランダ総督の陳情書は江戸に送られず長崎奉行で処理され、オランダ人の待遇も以降はかなり改善されたようだ。そして陳情書を出した翌年の1643年はシーボルトの前掲書には「オランダ人が出島にて経験せし利潤最も多き年のひとつにて、貿易史上の白眉とも言うべきなりしが。」と書かれている。
要するに、長崎奉行はオランダに充分な経済メリットを与えて、オランダをわが国に止め置こうとしたのである。

しかし、オランダ人の待遇が改善されたとはいえ、狭い小島で自由のない生活を強いられていたことには変わらなかった。

desima.jpg

シーボルトは前掲書にこう述べている。
商館の入口の前には厳重なる布令をうち、門番は長崎市街連絡をさえぎり、オランダ人は緊要なる理由なく、奉行の許可なくば門より出づるあたわず。日本人はオランダ人の家に宿泊すべからずして、そはただ公娼にのみに許さる。これに加え我らは国事犯人の如くに出島の内に厳かに監視され、日本人は彼らと日本語にて、しかも保証人(政府の隠密)なくば話しするを得ず、また彼らの家を訪問するを得ず。奉行の下人は倉庫の鎖錀を預かりて、オランダの商人は我が所有物の持ち主とも言い難き状況にありたり。しかるにオランダ人はすべてこれ一時の事柄にて、しばらくすれば過ぎ行くべきものならんとてこれを堪え忍び、長崎奉行、少なくもその下僚は、時々それを然かあるべきことの様に欺瞞して、オランダ人の希望を堅くせしめ。意気消沈し、不満に堪えざるに至れば、思い設けぬ貿易の利潤を啗(くら)わしてこれを励ますによりて、彼らはいつもつも今よりはよき時の来るべきを望みて、物質的利益もて自らを慰めたり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/100

このレベルでオランダ人の待遇が改善されたとは思えないのだが、長崎奉行は、彼らが不満を持ちそうなタイミングで儲けの良い取引をさせるなどして、うまくオランダ人を操っているつもりであったかもしれない。しかしながら、彼らは何度も不満を漏らしながらも、わが国との貿易で結構儲けていたのである。

シーボルトの前掲書にはこう記されている。
出島を通して日本となせし貿易は、この如き制限ありしに関わらず、長き年月オランダ領東インド会社に著しき利益を致し、金の輸出、銀の輸出も制限に制限を受けたれど、日本の銅は全インドを通じて価値騰貴したれば、日本銅の豊富なる輸出はこの損害を利潤にかえなしたり。銅の輸出は銀の自由に充分に輸出されし時代に於いても銀の輸出よりも利益有りたるが如く、今もなお輸入を棒銅に代えることは貨物を高価に金銭その物にて支払うよりも利益多きなり。」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/101

オランダがわが国から輸入したのは銅と樟脳が大半だったのだが、シーボルトによると、わが国から輸出される銅の品質が評価されて世界で高値で取引されるようになり、オランダはその銅で儲けていたのである。

adam-smith.jpg

日本の銅をヨーロッパに持ち込んだのはオランダの東インド会社であるが、住友グループ広報委員会のHPに、1776年に刊行されたアダムスミスの『国富論』の第1編第11章に、日本の銅のことが書かれている部分が紹介されている。

「金属鉱山の生産物は、もっとも遠くはなれていても、しばしば競争しあうことがありうるし、また事実ふつうに競争しあっている。したがって世界でもっとも多産な鉱山での卑金属の価格、まして貴金属の価格は、世界の他のすべての鉱山での金属の価格に、多かれ少なかれ影響せずにはいない。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山の銅価格にある影響を与えるにちがいない
http://sumitomo.gr.jp/magazine/feature02/index.html

18世紀には日本の銅の品質の良さが世界で知られていたわけだが、いくら高品質でも少量では、ヨーロッパの銅価格を動かすほどの存在にはなりえない。ということは、わが国は世界の銅相場を動かすほど大量の銅を海外に流出させていたということになるのである。
では、どの程度の取引がなされていたのであろうか。

日本伸銅協会のHPによると、「1697年(元禄10年)の銅の生産高は世界一の約1000万斤(6,000トン)で、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状況でした」と解説されている。
http://www.copper-brass.gr.jp/shindouhin/history.html

江戸時代の銅輸出実績

独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)が作成した「銅ビジネスの歴史」というレポートが公開されていて、わが国の銅の需給状況の変遷が詳細に纏められて、ネットで公開されている。
その第2章「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷」のp.54の表2-4に「江戸時代の銅輸出実績」が出ていて、元禄10年(1697)の銅輸出量はそれまでの年と比べて突出しており、890万斤(5340トン)もの輸出がなされていることがわかる。
http://mric.jogmec.go.jp/public/report/2006-08/chapter2.pdf

主要2銅山の生産推移

一方、わが国の銅の生産はどうであったか。
同じレポートのp.53の表2-2に「主要2銅山(足尾銅山、別子鉱山)の生産推移」が出ているが、この2つの銅山を合算した生産量は、1688~1701年の14年間で29,962トン、1年平均で2,340トンに過ぎなかったことがわかる。
元禄期の日本人は、オランダや中国が運んできた商品に飛び付き、その支払額はわが国の銅の生産能力を遥かに超えていた
のである。

JOGMECの同レポートによると「17世紀後半から18世紀前半までは、日本が世界第1位の銅生産国であったと推測できる」(p.54)とあるのだが、再生産が不可能な天然資源である銅を、国力の限界に近いところまで輸出して海外との交易を行なっていたわが国が、「鎖国令」のもとで国を鎖していたと考えることはおかしなことだと思う。

新井白石

拡大するばかりのオランダや中国との貿易を現状のまま放置しているとわが国の貴重な資源が枯渇してしまうことを怖れて、この取引に制限をかけようとしたのが新井白石である。

Wikipediaの「海舶互市新例」にこう解説されている。

「当時は鎖国中であったが、オランダと清とだけは長崎で貿易が行われていた。当然、対価として支払う金銀は莫大な量に上った。新井白石は国外に流出した金銀の量を調査してその結果を宝永6年*4月1日に将軍徳川家宣に提出した。それによれば、わずか60年間で金239万7600両・銀37万4200貫**が国外に流出しており、そして100年間では日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出していたのだった。また銅についても、45年間で11億1449万8700斤**に及んでいた。…
白石は、これを野放しにしておけば、あと100年も経たないうちに日本の金銀が底を突いてしまう、と懸念して貿易制限を提案する。その後紆余曲折の末、1715年(正徳5年)、海舶互市新例(長崎新令)を定めた。」*宝永6年:西暦1709年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%88%B6%E4%BA%92%E5%B8%82%E6%96%B0%E4%BE%8B
*宝永6年:西暦1709年
**1貫:3.75キログラム  1斤:600グラム

Wikipediaの上記記事によると、この海舶互市新例によって、江戸幕府は年間の貿易枠を次のように定めたとある。わかりやすいように単位をトンで併記しておく。
清  国:年間30隻、取引額は銀6000貫(22.50トン)
オランダ:年間2隻、取引額は銀3000貫(11.25トン)

ところが、その後わが国の銅の生産量が大幅に減少していったため、この貿易枠がさらに削られていったのである。

江戸幕府の銅輸出許可割り当て

先程のJOGMECのレポートのp.54に江戸幕府の銅輸出の許可割り当てが出ているが、ピークの1697年には5340トンもあった銅の輸出が短期間で8割方カットされていることがわかる。しかし、それは銅の生産量が激減したことが背景にある。

先程紹介した主要2銅山の生産推移を見てみると、18世紀の終わりには足尾銅山の銅がほとんど採れなくなり、19世紀には銅の生産を中止していることは重要なポイントである。

この時代にわが国の産品で海外に輸出できる商品は貴金属と樟脳ぐらいしかなかったのだから、銅が採れなくなれば、貿易額が縮小されることは当然のことであった。
言葉を変えて言うと、わが国は、いわゆる「鎖国」後も、相手国はオランダと中国の2国だけではあったが、国富・国力の限界に近い水準まで貿易を行なっていたのである。

オランダ船の入港

もしわが国が徳川家光の時代に「鎖国」を選択せず、その後も独立国家を維持できていたとしても、貴金属の生産量で貿易量が制限される点については同じことで、普通の商品売買においては、貿易を自由にできるようにしたところで貿易高が大幅に拡大するわけではないのである。

前回の記事で、「鎖国」という言葉が本格的に使われるようになったのは幕末期で、18世紀までは「鎖国」という言葉すらなかったことを書いたが、つまるところこの言葉は、「開国」か「攘夷」かで国論が割れた時期に広められたと考えて良い。
わが国はオランダを除く欧米列強から見れば国を鎖していたのかもしれないが、わが国全体としては、家光の時代からずっと「鎖国」をしていたという表現が適切であるとは思えない。

しかしながら、日本史の教科書や通史には、江戸時代の「鎖国令」以降、世界の銅相場を動かすほどわが国の貿易高が拡大したという史実がどこにも書かれていない。わが国の一般向けの教養書では「江戸幕府は鎖国令を出して外交・貿易を制限し、世界の中で孤立していった」的な通説に矛盾する史実はほとんどが無視されていると言って良いのだが、その理由はどこにあるのだろうか。

このブログで、幕末の欧米列強は明らかにわが国を侵略する意図を持っていたことを何度か書いてきた。その意図を隠して彼らの為したことを正当化させるためには、わが国が問題国であり、その国を開国させることに義があったという物語を描こうとするはずだ。同様に明治維新を成し遂げたメンバーが彼らの改革を正当化するためには、江戸幕府が無能であり、討幕することに義があったと書こうとするだろう。

「鎖国」から「開国」につながる流れにおいて、江戸幕府を一方的に悪者にし無能とする歴史叙述は、欧米列強にとっても薩長にとって都合の良い歴史であって、戦後の長きにわたりわが国の学界やマスコミや教育界は、この視点に立った歴史叙述を無批判に受け入れ、拡散してきたとは言えないか。

このブログで何度か書いてきたが、いつの時代もどこの国でも、勝者は自らにとって都合悪い史実を封印し、都合の良い歴史を編集して国民に拡散する傾向にある。したがって、勝者が広めようとした歴史叙述を学んでも、それが真実であるという保証はないのだ。
真実は、勝者が広めようとした歴史と、封印しようとした歴史の双方をバランスよく学び、その違いを知ることによって、少しずつ見えてくるものではないだろうか。
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
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徳川綱吉の『生類憐みの令』を悪法とする通説が見直されているのはなぜか

徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』を調べていると、教科書の記述が学生時代に学んだ内容と随分ニュアンスが違ってきているのに驚いた。

たとえば『もういちど読む 山川日本史』では、次のように解説されている。

江戸時代の悪法の代表とされてきた生類憐みの令は、近年見直しがすすんでいる。犬の愛護はそれまで食犬の風習や野犬公害の多かった江戸とその周辺で推進されてきたが、全国的には捨牛馬(すてぎゅうば)の禁止が重視された。また、法の対象は、捨子、行路病人、囚人などの社会的弱者にもおよんでおり、人を含む一切の生類を幕府の庇護下におこうとしたのである。これは殺伐な戦国の遺風を儒教・仏教により払拭することを政治に反映させようとする政策の一環であった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.164-165)

徳川綱吉 土佐光起筆 徳川美術館蔵
【徳川綱吉】

昔から綱吉の治世の前半は善政(「天和の治」)を行ったとしてそれなりに評価されているのだが、後半については側用人牧野成貞や柳沢吉保を寵用して奢侈生活に耽り、さらに悪法として知られる『生類憐みの令』で人々を随分苦しめたと解説されることが多かった。

ブリタニカ国際大百科事典には、『生類憐みの令』について次のように記されている。

「江戸時代,5代将軍徳川綱吉が行なった生類殺生禁止令。綱吉は嗣子徳松の夭折以来,盛んに求子の祈祷をしたが効果はなかった。そこで,生類の殺生を禁じ,戌年生れのため特に犬を愛護すれば,前世での罪障を消すことができ,子も授かるという真言僧隆光の言をいれて,貞享4 (1687) 年これを発令,その死まで励行された。犬に対する愛護は極端で,元禄8 (95) 年江戸中野,四谷,大久保などに犬小屋を建てて犬を養い,その費用を江戸町民に課した。違法者に対する刑罰はきびしく,切腹や遠島もしばしば行われた。この令は綱吉の儒仏愛好心と側近らの迎合主義から生じたもので,悪政の評判が高く,綱吉は「犬公方 (いぬくぼう) 」と呼ばれた。
https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4-79995

このような解説を今まで何度聞いてきたかわからないのだが、そもそも綱吉の悪評は、これまでどのような書物を根拠にしていたのであろうか。いくつかあるようだが、当時に記された『三王外記(さんのうがいき)』という書物を紹介したい。

三王外記
【三王外記】

国立国会図書館のデジタルコレクションに徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第17 元禄時代 上巻 政治篇』が公開されていて、そこに『三王外記』が引用されている。そこにはこう記されている。

「王太子(徳松)を喪うてより、而して後、後宮また子を産む無し。乃(すなわ)ち萬方嗣を求む。僧隆光(りゅうこう)進言して曰く、人の嗣に乏しき者、みなその前世多く殺生(せっしょう)の報いなり。故に嗣を求むるの方、最も生物を愛し殺さざるより善きはなし。殿下まことに嗣を求めんと欲せば、なんぞ殺生を禁ぜざる。且つ殿下丙戌(ひのえいぬ)を以て生(うま)る。戌は狗(いぬ)に属す。最も狗を愛するによろしと。王これを然りとす。太后(桂昌院)また隆光に聴き、王のためにこれを言う。王曰く敬諾。乃ち殺生の禁を立て、愛狗の令を都鄙に下す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/118

綱吉の長男徳松がわずか5歳で亡くなったのは天和3年(1683)の閏5月のことだが、それから4年間も将軍には子が生まれなかったのである。そこで僧隆光に助言を求めに行って『生類憐みの令』を出すことになったとあるのだが、この『三王外記』に書かれていることは正しいのであろうか。

調べるとこの隆光という人物が知足院の住持として江戸に滞在するようになったのは貞享3年(1686)なのだが、綱吉の生類憐み政策はそれ以前から始まっていたのである。

では、綱吉はいつごろから生類憐み政策を開始しているのだろうか。Wikipediaには以下のような指摘がある。
天和2年10月(1682年)、犬を虐殺したものを極刑にした例。辻達也はこれを生類憐み政策のはしりとしている。ただし、寛文10年代にも許可なく犬を殺すものは処罰の対象であり、犯人は追放や流罪に処されており、各藩においても犬殺しは重罪であった。」
貞享元年(1684年)、会津藩は老中から鷹を献上する必要がないという通達を受けているが、この際に幕府が「生類憐乃事」を仰せだされた時期という言及がみられる。根崎光男はこの記述から貞享元年5月から6月ごろにかけて、何らかの生類憐れみに関する政策が打ち出されていたと見ている。」
貞享2年2月(1685年)、鉄砲を領主の許可なしに使用してはならないという法令
貞享2年7月14日、将軍の御成の際に、犬や猫をつなぐ必要はないという法令
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4

これらを読むと、僧隆光の助言によって綱吉が生類憐み政策を始めたのではないことがわかる。しかしながら、一般の町人や百姓の生活に深くかかわるような法令がたて続けに出されるようになるのは貞享四年(1687)からのことなのである。

『生類憐みの令』は1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類憐み政策の諸法令の総体であるのだが、具体的にはどのような命令が出されていたのかは、江戸幕府の公式記録である『徳川実記』の巻十五の貞享4年1月から3月の記録からある程度推測することが出来る。原文は次のURLのページだけでもいくつか出ているので確認していただくことにして、いくつか意訳して記しておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772968/127


1月28日
すべて人宿または牛馬宿その他にても、生類わずらい候えば、いまだ死せざるうちに捨てることがよくあるようだが、そのようなことをする不届き者は厳しくお咎めがあるべきであり、そのようなことをする者がいたら密かに訴え出るべし。
2月16日
各所の放鷹の地にて夏冬によらず忍びて鷹をつかい、餌差と言われる者が来て殺生すれば、検察してその者のあとを追うて預けおき、速やかに訴え出るべし。
2月21日
飼い犬の毛に印をし、もし犬が見つからないときはどこかから別の犬を連れてきて数合わせするとの風聞がある。人々に生類を愛し養うよう何度か命じているのだが理解されていない。今後は飼い犬が見当たらないときは尋ね出すべし。もしなおざりにするものがあれば、訴えよ。他所よりきた犬がいた場合は、そこで養いおき、持主がわかり次第返してやるべきである。
2月27日
食物として魚・鳥を蓄養して売買することは、今後固く禁止するべきである。鶏や亀も同様である。ただし慰めとしての飼うことは許す。
3月26日
生きた鳥類を飼うことは禁止すべきである。ただし鵞鳥や唐鳥のように、野山に住まない鳥は、放しても飢えてしまうので飼うことはかまわない。卵を産む間は良く育てて、それぞれ所望の方へ遣わすべきこと。鶏を絞め殺して売買することはあってはならない。亀を買うことも一切禁止する。笱を設けて魚を貯えて売ってもいけない。

このように、僧隆光が江戸に滞在するようになった翌年初から、たて続けに生類憐み政策が出されていることがわかるのだが、隆光自身による『隆光僧正日記』には、将軍や桂昌院にそのような助言をした話は何も記されていないのだという。
『三王外記』は、今でいう三流週刊誌のようなもので根拠のないゴシップ記事が多く、信頼性が乏しいと評価されているようなのだが、とすると江戸幕府の公式記録である『徳川実記』に記されていることも信用できないのであろうか。

前掲の徳富蘇峰『近世日本国民史. 第17』には、貞享4年1月以降に処罰された人々の記録が引用されている。

当時の歌学者・戸田茂睡の日記『御当代記』によると、貞享4年2月に台所頭天野五郎大夫正勝が猫二匹が死んだことで八丈島に遠流されたという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/119
また4月には犬を斬った人物も八丈島に流された。(『徳川実記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/120
6月には吹屋で燕を射た人物の一人が死罪、一人が遠流せしめられたという。(『御当代記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/121

徳富蘇峰はこのような事例をいくつも紹介したうえで、以下のようにまとめている。

「貞享4年正月、生類憐愍の令を布いてより、宝永6年正月、綱吉の死する迄、足掛け23年相食べ、正味22年間、生類憐愍の政治は、未だ一日も休止することなかった。極言すれば、此の二十有余年間、綱吉は人類の為でなく、むしろ畜類の為に、将軍職にあったのではないかと、思わしむる迄に、此のことに没頭した
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/123

綱吉は戌年生まれであったことから犬を特別に愛護して、「御囲(おかこい)」、「御犬囲」と呼ばれた犬屋敷が各地に設置され、特に元禄8年(1695)に完成した中野の犬小屋全体の御用地は29万7652坪にも及び10万匹もの犬を収容して「中野御用御屋敷」と呼ばれていたそうだ。

綱吉の晩年はさらにエスカレートしている。
宝永2年(1705)には牛馬に重荷や嵩高いものを負わせることを禁じている。
また宝永4年(1707)にはウナギやドジョウの販売を禁止していたところ、あなごと名付けてウナギを売っていた人物を獄につないでいる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/124

こういう記録を読むと、綱吉を名君とは考えにくいところなのだが、最近では綱吉を評価する論者が少なくないのは何を根拠としているのか。

当時江戸の町中には多数の犬がうろついていて、町民の生活にトラブルを発生させていたのみならず、無頼な連中が犬を捕まえて食らっていたという。綱吉は犬の収容所を作り、無頼者を大量検挙することで治安を回復させ、人々から歓迎されたという文書も少数ながら存在するのだという。

誤解の日本史

また井沢元彦氏は『「誤解」の日本史』で、別の視点から綱吉の時代を評価しておられる。

「私はよく、生類憐みの令というのは『劇薬』だったと表現しています。法律としては、一言で言えばむちゃくちゃな法律です。人間どころか動物を殺しても死刑になるということがあったというのですから、実際の所、非常に問題の多い法律だったはずです。
 しかし、実は法律の陰に隠れているのは『生命の尊重』という基本思想でした。そして、蚊一匹殺しても下手をすると遠島になるような、そういうむちゃくちゃな法律を施行したことによって、日本人の意識は劇的に変わっていったのです。
 『人を殺すなんてとんでもない』という風潮ができたのは、この法律ができたあとのことです
。人を殺すのはとんでもない悪事であるという意識の中に、われわれ現代人は生きています。我々の日常的な倫理の中に、そうした意識は深く根を下ろしています。ところが戦国時代は、人を殺すことが功名だという意識を以て、世の中は動いていました。
 日本人の意識の大転換が起こったのは、実は綱吉の時代なのです。
 だから私に言わせれば、綱吉は相当な名君なのです
。」(PHP文庫『「誤解」の日本史』p.248-249)

たしかに、こういう視点から綱吉の時代を考えることも必要であろう。綱吉が生類を憐れみ政策を22年間徹底し続けたことで、生きとし生けるものを大切にする考え方が日本人に広く定着したという指摘は正しいと思う。

とは言いながら、『徳川実記』を読んでいると、綱吉の時代を生きる多くの人々にとっては、息苦しい日々が続いていたと考えざるを得ない。
綱吉は病床で自分の死後も生類憐みの令を続けることを遺言していたそうだが、没してからわずか10日後の宝永6年1月20日に、時期将軍となることを約束されていた家宣により生類憐みの令が廃止されたという。

徳川家宣
【徳川家宣】

『徳川実記』には綱吉の遺言を守ろうとしなかった家宣の言葉としてこう記されている。
「生類あわれみの事は、先代のごとくいよいよ守るべき御むねといえども、それにより下民、艱困するよし聞こし召したれば、いまよりの後おのおの心を入れ、このことによって下民の愁いとならず、刑法もたち、罪の出でくることあるまじくはからうべし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772969/9

綱吉の葬儀は1月22日であったのだが、葬儀の前に廃止してしまえば前将軍が自分で法令の廃止を決めたという体裁を整えることが出来る。
この案は次期将軍家宣側近の新井白石の知恵だとされているが、そのおかげで奉行所に捕らえられていた未決犯が解放され、後に罪人に対する恩赦も行われ、中野にあった犬囲いも廃止されたというのだが、山室恭子さんの『黄門さまと犬公方』によると、家宣の言葉を聞いた柳沢吉保の日記『楽只堂年録』には『徳川実記』と異なることが記されているという。

「一月二十日、間部詮房と一緒に老中に申し渡すようにと、次のような新将軍の仰せを承った。生類憐れみのことについては、先代がお心にかけられたように、いずれも遵守して断絶なきようにせよ。ただし万民が苦しまず、咎人を出さず、町屋も困窮せず、奉行所も煩わされないよう、万事穏便に済ませるべく心がけよ、と。」
https://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/33030071.html

新井白石

実際に市中に触れ出された通達の文面である『宝永日記』にも同様の事が記されていて、明らかに『徳川実記』と矛盾するのである。
そして山室恭子さんは前掲書で、この矛盾の原因が新井白石にあることをつきとめているのだそうだ。新井白石は第6代将軍家宣を支えたことで知られるが、その自伝である『折りたく柴の記』の序文には家宣の事蹟を少しでも後世に伝えたいという思いが記されている。

先ほど紹介した通り、江戸幕府の公式記録である『徳川実記』には、次期将軍の家宣が綱吉の遺言を堂々と破ったことになっている。ならば、家宣の判断が正しかったことを記すためには、綱吉の生類憐み政策を貶める書き方にならざるを得なくなってくるだろう。
だとすれば、『徳川実記』をそのまま鵜呑みにしてしまっては、真実から遠ざかってしまうことになりかねないのだ。

そもそも5代将軍綱吉の治世に元禄文化が花開いたのだが、人々がビクビクして暮らしていたり政治に不満をもっている時代に、そのような洗練された香りの高い文化が形成されることは考えにくいと思うのだが、読者の皆さんはどう判断されますか。

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【ご参考】
綱吉の時代に赤穂浪士の討ち入りがありました。興味のある方は覗いてみてください。

浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-149.html

赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-150.html

赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-151.html

江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-152.html

赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-153.html







関連記事

綱吉の治世後半を襲った相次ぐ大災害の復興資金を、幕府はいかに捻出しようとしたか

前回は徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』のことを書いたが、もう少し綱吉の話題を続けよう。

徳川綱吉が将軍宣下を受けたのは延宝8年(1680)で、宝永6年(1709)に死去するまで将軍位に就いていたのだが、綱吉の時代を調べていくと後半期に不幸な出来事が相次いで起きていることに気が付く。

富士山噴火

例えば、元禄8年(1695)以降奥州飢饉がおこり、元禄11年(1698)には江戸で大火(勅額大火)が発生し、元禄16年(1703)には関東を巨大地震(元禄地震)が襲い、宝永元年(1704)には浅間山が噴火し、宝永4年(1707)には宝永地震が襲ったのち富士山が噴火し、宝永5年(1708)には京都で大火(宝永の大火)が起きている。
綱吉の治世の後半の評価が特に低いのは、このような大火や自然災害がたて続けに起きたことと無関係ではなさそうだ。

そもそもこのような大災害が起こる前から、幕府の財政は火の車であった。
4代将軍家綱の時代に起きた明暦3年(1657)の明暦の大火で、江戸城や大名屋敷、市街地の大半が焼失してしまいその復旧支出が大きかったこともあるが、天領は約400万石と固定化されかつ米の価格は長期低落傾向にあり、一方貨幣を鋳造するための金の産出量は減少し、オランダとの貿易決済の為に多くの金貨が流出していた。そのために国全体の通貨量が不足して、デフレーションの状態に陥っていたのである。

徳川綱吉 土佐光起筆 徳川美術館蔵
徳川綱吉

綱吉が幕吏を集めてこの問題の解決策を問うた際に、荻原重秀は「他物を和剤して貨幣と為すに如くはなし。益を原材に取るなくして而してその数倍す。故にこれを便となす。」(『三王外記』)と答え、綱吉より貨幣改鋳の実行を命じられることとなったという。
そして元禄八年(1695)に荻原重秀は、貨幣の金銀含有量を下げて通貨量を増大させる小判の改鋳を行ったのだが、この点について一般的な教科書には次のように記されている。

元禄小判

「綱吉は、勘定吟味役荻原重秀(のち勘定奉行)の意見を用いて、財政再建の方法として貨幣の改鋳にふみきった。
 重秀は、金が8割以上も含まれていた慶長小判の質を落とし、金を6割以下に減らした元禄小判を大量に発行して、その差益を幕府の収入とした。しかし、財政の危機は一時的に救われただけで、これに伴う物価の値上がりが、庶民のはげしい不満をよびおこすようになった。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.166)

前回記事では綱吉の『生類憐み政策』が見直されつつあることを書いたが、通貨改鋳についての教科書の記述は昔も今も変わらず、荻原重秀は「インフレの元凶」ということになっている。

『勘定奉行 荻原重秀の生涯』

ところが、金沢大学の村井淳志教授は著書『勘定奉行荻原重秀の生涯』のなかで、荻原重秀を高く評価しておられる。私は、村井教授の説の方が通説よりはるかに説得力があると思うので、ポイントとなる部分を引用しておこう。文中の彦次郎は荻原重秀のことである。

「少なくとも彦次郎は、『実物貨幣から名目貨幣へ』という貨幣観を自覚的にもちながら、改鋳作業を指揮していた。これが、ローマ帝国以来、幾多の国々で行われた『後ろめたい』改鋳と、元禄八年の改鋳を決定的に区別する点である。太宰春台が書いたとされる『三王外記』という本の中に、次のような叙述がある。改鋳後の貨幣の質が悪いと批判されて、彦次郎が次のように言ったというのだ。
  貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。
  今、鋳 するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙鈔に勝る。これ遂行すべし。
 これはまさに名目貨幣の考え方であり、『貨幣国定説』にほかならない。
 なぜ彦次郎は、ヨーロッパの経済学会よりも二百年も早く、名目貨幣の考え方に気づくことができたのか。それは日本が鎖国をしていて、比較的早く、金鉱フロンティアの枯渇に直面したからだ。ある程度以上の規模を持つ閉鎖経済圏で、しかも日本ほど金産出量に恵まれた地域は、ほかには見いだせない。金産出量が豊富だったから自国通貨を独占発行することができたし、閉鎖経済だったからこそ政府による名目貨幣の強制通用が十分可能だった。つまり、日本列島は、地球上で初めての名目貨幣の通用実験には、まさにうってつけの場所だったのだ。」(村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯』p.117~118)

村井淳志
【村井淳志】

教科書などを普通に読むと、荻原重秀による貨幣改鋳はとんでもない物価上昇を招いたとそのまま鵜呑みしてしまうところだが、実際はそうではなかったようなのだ。
村井氏によると、『三貨図彙(さんかずい)』に記録されている米価や、『吹塵録』に記録されている幕府張り紙値段の推移から元禄期の貨幣改鋳後11年間の平均の物価上昇率を推定すると、名目で3%程度とかなり小さく、この程度で庶民の生活が困窮したとは思えないという。激しい物価騰貴を招き庶民は困窮したとする通説は当時の記録と矛盾しているのである。

改鋳の被害を受けたのは、庶民ではなくこれまで大判小判を退蔵してきた商業資本や富豪層であった。彼らは改鋳による貨幣価値の下落というリスクに直面して、金銀を退蔵してもその価値が低下していくばかりである。その結果、貯蓄から投資・消費へという金の流れが生じて経済が活性化したのである。この時期に香り高い元禄文化が育まれたことは荻原重秀の貨幣改鋳と無関係ではないようなのだ。

先ほど元禄期の貨幣改鋳後11年間のインフレ率は名目で平均3%程度であったことを紹介したが、その間に起こった元禄16年(1703)の地震(『元禄地震』)は相模トラフ巨大地震と考えられていて、大きな津波が発生して関東を中心に非常に大きな被害が出ている。震源地は千葉県の野島崎と推定され、マグニチュードは推定7.9-8.5で地殻変動は関東大震災よりも大きかったと考えられている。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第17 元禄時代 上巻』に、元禄地震に関する『武江年表』の記録が引用されているので紹介したい。
「十一月二十二日。宵より震強く、夜八時地鳴ること雷の如し。大地震、戸障子たおれ、家は小舟の大浪に動くが如く、地二三寸より、所により五六尺割れ、砂をもみ上、或いは水を吹出したる所もあり。石垣壊れ家蔵潰れ、穴蔵揺りあげ、死人夥しく泣き叫ぶ声巷(ちまた)に囂(かまびす)し。又所々毀れたる家より失火あり。八時過ぎ津浪ありて、房総人馬多く死す。内川一ぱい差引四度あり。此時より数度地震あり。相州小田原は分けて夥しく、死亡の物凡そ二千三百人。小田原から品川迄一万五千人、房州十万、江戸三万七千余人(内二十九日火災の時両国橋にて死せるもの千七百三十九人といえり。)…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/260

元禄地震の被害や津波の規模がWikipediaにまとめられているが、後に起こった江戸の火災を含めて死者は20万人を上回っていたようなのである。この年の2月に赤穂浪士46人が切腹したことから、この地震は浪士たちの恨みで起こった地震と噂されたようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E5%9C%B0%E9%9C%87

この地震と火災で江戸城などにも被害が出たのだが、復興に必要な資金を荻原重秀は貨幣改鋳益などにより捻出して対処し、この災害においては『三貨図彙』や、『吹塵録』を見る限り、激しい物価騰貴は生じていないようなのだ。

宝永地震

ところが、元禄地震よりもさらに大規模な地震がその4年後に起きている。
宝永4年(1707)に起きた宝永地震は南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと考えられていて、推定されているマグニチュードは8.4から9.3。記録に残る日本最大級の地震とされている。

地震の揺れによる被害は東海道、伊勢湾沿い、紀伊半島で顕著であったが、房総半島から種子島までの太平洋海岸沿いでは、下田で5~7m、紀伊半島で5~17m、阿波で5~17m、土佐で5~26mの津波が襲い、各地で甚大な被害が出たことが確実なのだが、当時の記録は断片的なものはあっても、全国レベルの損害をまとめたものは残されていない。

東京大学地震研究所図書室のホームページに宝永地震について残されている記録が掲載されている。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/meta_pub/G0000002erilib_L001000

たとえば、土佐国の『弘列筆記』には次のような記録がある。
「宝永四年十月四日、朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるいいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもわる。大地二三尺に割、水涌出、山崩、人家潰事、将棊倒を見るが如し。…(その後)半時計(ばかり)あつて、沖より大波押入ると声々に呼わり、上を下へとかえし、近辺の山に迯(にげ)上る。…間もなく跡より大浪うち入り…西は小高坂井口、北は萬々久萬、秦泉寺、薊野、一宮、布師田、東は介良、大津の山の根まで一面の海となる。大浪打事都合六七度、其浪の高さ五六丈*もあるべきや…」
丈(じょう):約3.03m。1丈=10尺。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/cont/01/G0000002erilib/000/002/000002822.pdf?log=true&d=1534068611084

新井白石

また翌月には富士山が噴火し、その火山灰が広い範囲で降って、江戸にも大量に灰が積もったという。
新井白石は『折りたく柴の記』でこの日のことをこう記している。
「十一月二十三日午後参るべき由を仰下さる。よべ地震い、此日の午時雷の声す。家を出るに及びて、雪のふり下るがごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起りて、雷の光しきりにす。西城に参りつきしにおよびては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりぬ。…やがて御前に参るに、天甚だ暗かりければ、燭を挙げて講に侍る。」(岩波文庫『折りたく柴の記』p.126)

Wikipediaに宝永地震の全容がまとめられているが、建物や人名が失われただけでなく、不作により米が前年の倍近くなるなど諸物価が高騰したことが解説されている。

そして宝永6年(1709)1月10日に将軍綱吉がこの世を去った。
幕府の財政は厳しい状況にあったので、荻原重秀は再び貨幣改鋳を行おうとしたのだが、次期将軍家宣側近の新井白石がこれを阻もうとする。

折りたく柴の記

新井白石の自伝『折りたく柴の記』に、荻原重秀と議論した場面が描かれているので紹介しよう。白石が「貨幣改鋳は私の心にはない」と発言した後、荻原はこう反論している。

「初め金銀の製改(あらため)造(つく)られしよりこのかた、世の人私(ひそか)に議し申す事どもありといへども、もし此事によらずむば、十三年がほど、なにをもてか国用をばつがれ候べき。殊にはまた癸羊*の冬のごとき、此事によらずむば、いかむぞ其急難をば救はせ給ふべき。されば、まづ此事を以て当時の用を足され、これより後、年穀も豊かに国財も余りある時に及び、金銀の製むかしに復されんことは、いとやすき御事にこそあるべけれ。」(岩波文庫『折りたく柴の記』p.145-146)
*癸羊(みずのとひつじ):元禄16年(1703)11月22日の元禄地震と、29日の江戸の大火のこと

荻原は元禄地震や江戸大火のあとは、改鋳という方法によらなければ急場を救うことは出来なかったと主張したのち、今回も改鋳することによって当座の必要資金を確保するべきであることを述べたのだが、それに対して新井白石は次のように答えたと書いている。文中の近江守は荻原重秀のことである。

「近江守が申す所も、其いはれあるに似たれども、はじめ金銀の製を改造らるるごときの事なからむには、天地の災も並び至る事なからむもしるべからず。」(同上書p.146)

白石は、金銀貨幣の改鋳がなければ災害も起こらなかったかも知れないと述べたのだが、おそらく白石は綱吉の治世に大災害が相次ぐ理由は、徳川将軍家の祖法を守らず生類憐み政策や貨幣改鋳という悪政を行ってきた天罰であると本気で考えていたのだろう。

新井白石は第6代将軍家宣に3度に渡る罷免要求を繰り返し、正徳2年(1712)に荻原重秀を失脚させたのち、正徳4年(1714)に慶長金銀と同等な良質の貨幣(正徳金銀)を発行したのだが、そのために経済は縮小してデフレに逆戻りしてしまったという。

後世に荻原重秀の考え方が伝わらなかったことが影響してか、幕末になって通貨の大問題が起こっている。Wikipediaにはこう解説されている。

「実物貨幣から信用貨幣へのシフトという政策を支える経済理論が後世に伝わらなかったため、改鋳により金地金より高い価値を持つようになった金貨および南鐐二朱銀以降秤量貨幣から計数貨幣へ切り替わるとともに銀地金の数倍の価値を持つようになった銀貨の仕組みについて、幕府は金本位制が主流の欧米諸国を納得させる説明ができず、地金の価値に基づく為替レートを承認させられた。諸外国では金銀比価が金1:銀15に対し、日本では金1:銀5であった。その結果、金が国外に大量に流出し、流出防止のために金貨の価値を銀貨の価値に対し相対的に引き上げる必要が生じ、金貨の量目を低下させたので、インフレーションが発生し、日本経済は混乱した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E5%8E%9F%E9%87%8D%E7%A7%80

両替による利益獲得

幕末の外国人商人は、1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換し、両替商に持ち込んで4枚を小判に両替したのち国外に持ち出し地金として売却すれば、簡単に当初の3倍の銀貨を手にすることが出来たのである。結果としてどれだけの金貨が海外に流出したかについては諸説があるが、わが国は短期間に大量の国富を失ったことは確実だ。
幕府は量目を天保小判の3割以下とする万延小判を発行した
のだが、そのことがさらに経済の混乱を招いたという。Wikipediaは、こう解説している。

「新小判の発行に先立ち、1860年2月11日(万延元年1月20日)に、2月22日(2月1日)より既存の小判は含有金量に応じて増歩通用とする触書が出され、天保小判一枚は三両一分二朱、安政小判一枚は二両二分三朱通用となった。このため江戸では三倍もの額面の新小判に交換される旧貨幣を所持する者が群衆となって両替商へ殺到し大混乱に陥る騒ぎとなった。
これは激しいインフレーションを意味し、物価は乱高下しながらも、激しい上昇に見舞われた
。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C

幕末に萩原重秀のような人物がいたら、幕府は通貨発行益を得ることによって巨額の財政赤字で悩むことはなかったであろうし、開国後に欧米諸国が両替で荒稼ぎし大量の金貨が国外に流出するようなこともなかったと思われる。

田沼意次
【田沼意次】

荻原重秀と新井白石の関係は、以前このブログで書いた田沼意次と松平定信との関係に似ている。
荻原も田沼もある意味で近代日本の先駆者的な人物であったのだが、荻原は元禄地震や宝永地震に襲われ、田沼も明和の大火や天明の大飢饉に遭遇し、相次ぐ大災害にかこつけて妄言をまき散らす政敵に失脚させられ、正史の中で政敵により悪しざまに描かれたことを知るべきである。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

田沼意次を「賄賂政治家」と貶めたのは誰だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-416.html

田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-417.html







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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















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    GHQが発禁にした日本近代化史