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葵祭りの由来について

5月15日は京都の三大祭りのひとつである「葵祭」(賀茂祭)のとりおこなわれる日だ。

都名所図絵葵祭_30

上の写真はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「葵祭」の絵である。

都名所図会」は、国際日本文化センターのサイトにアクセスすれば、誰でも全文と翻刻文を読む事が出来る。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

絵の上の方に草書で「加茂のあふいまつりは四月中の酉の日なり。人皇三十代欽明天皇の御宇よりはじまる」と書かれているが、欽明天皇と言えば在位中に仏教伝来があったことを中学高校の日本史で学んだ。

朝鮮半島で新羅が強大化する形勢のもと、その圧迫を受けた百済が日本の軍事的援助を求めてきただけでなく、仏像と仏具と仏教の経典を欽明天皇に献上したのである。

日本書紀」によると欽明天皇は仏像と経典を見て欣喜雀躍されたそうなのだが、百済の使者に対しては自分一人では結論を出さずに群臣と相談するとされ、その時に蘇我稲目(そがいなめ)は「西の国の諸国は皆礼拝しています。日本だけが背くべきでしょうか」と賛成し、物部尾興(もののべのおこし)は「蕃神を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りを受けることになりましょう」と反対した。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像をしばらく礼拝させたところ、国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。
すると物部尾興が、このような事態となったのは仏教をとり入れたことが災いを招いたので、「今もとに返されたらよくなる」と天皇に奏上し、天皇の許しを得て、仏像を難波の堀江に流し捨て、また寺に火をつけて焼いたところ、天は雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた…等々「日本書紀」の欽明天皇の時代は読んでいてなかなか面白い。

このような蘇我氏と物部氏の仏教を巡る対立は、それぞれの子の蘇我馬子、物部守屋の代にも引き継がれて半世紀近く続くことになる。

日本書紀」には葵祭のことは一切書かれていないが、仏教を受容するかどうかで国論が真っ二つに割れて、蘇我氏・物部氏との間で虚々実々のかけひきがなされている時期に葵祭が生まれたというのが面白い。

葵祭の由来に興味を持っていろいろ調べてみた。

「露草色の郷」というサイトに「本朝月令所引秦氏本系帳」という古書の「賀茂乗馬」というテキストがあるのをみつけた。これが葵祭のルーツになる記録である。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits1.html

原文をそのまま引用すると
「いろせ、玉依日子は、今の賀茂縣主等が遠つ祖なり。其の祭祀の日、馬に乘ることは、志貴島の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(欽明天皇)の御世、天の下國擧(こぞ)りて風吹き雨零(ふ)りて、百姓(おほみたから)含愁(うれ)へき。その時、卜部、伊吉の若日子に勅して卜(うら)へしめたまふに、乃ち卜へて、賀茂の神の祟なりと奏(まを)しき。仍りて四月の吉日を撰びて祀るに、馬は鈴を係け、人は猪の頭を蒙(かがふ)りて、駈駆せて、祭祀を為して、能く祷(ね)ぎ祀らしめたまひき。因りて五穀(たなつもの)成就(みの)り、天の下豐平なりき。馬に乘ること此に始まれり。」

上賀茂神社のホームページによると「賀茂縁起」という書物にも同様な記載があり、それが賀茂祭のおこりであると記されている。
http://www.kamigamojinja.jp/matsuri/

欽明天皇の時代の544年(567年とも言われる)に五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命を仰せつかって4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人には猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰となったということからこの祭りが始められたというのだが、当初は現在の優雅な貴族行列とは異なり、かなり荒っぽいお祭りであったようなのである。

その後弘仁10年 (819)には、「賀茂祭」を中祀に準じ斎行せよとの勅命が下り、この祭りは勅祭すなわち国家的な行事となるのだが、中祀として取り扱われたのは伊勢の神宮と賀茂社の祭りだけであり、その後貞観年間(859-876)に勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀が完成したとされている。

葵祭御所

平安時代の京都で「お祭り」というと、この「賀茂祭」を指したようである。(当時は「葵祭」とは呼ばれておらず「賀茂祭」という名前であった。)

しかしながら、応仁の乱(1467-77)の後、様々な理由で祭祀の経費が増大したため、文亀2年(1502)以降元禄6年(1693)までの長きにわたり中断されたが、将軍・徳川綱吉の後援や霊元上皇などの尽力により元禄7年に復興され、その時からこの祭りを「葵祭」と呼ぶようになったそうだ。

なぜ「葵祭」と言われたかについては諸説があり、昔カモアオイの花を頭に挿して行列したからだとも、祭りの前に葵かずらを将軍に献上したからだとも、祭りの復興に徳川幕府(葵の御紋)の多大な援助があったからだとも言われている。

しかし明治に入って都が東京に移り、一旦祭りはすたれてしまうが、明治17年(1884)から勅使行列が再開されるようになり、また太陽暦が採用されていたので祭日も5月15日に変更された。

その後第二次世界大戦に日本が参戦し昭和18年(1943)からしばらく中断され、葵祭行列協賛会等の努力で昭和28年(1953)に復興し、同31年には斎王代(さいおうだい)以下女人列が加えられ、現在我々が目にする葵祭の行列が固まったのは意外と最近のことなのである。

葵祭
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丹波に秋の味覚を求めて~~丹波栗の歴史と生産農家の危機

17日の日曜日は朝から秋らしい爽やかな天気で、秋の味覚を求めにちょっと車を走らせた。 摂丹街道(R423)を北に走ると、大阪府と京都府の境界線あたりから地元の農産物などが安く買えるところがいくつかある。

途中で朝市もあれば、農家が獲れたばかりの農産物を庭先で売っていたり、飲食店を経営しているところが野菜や果物を店先に並べていたりする。私が良くいくところはそういう場所だ。

この近辺までくれば、店によって若干の価格差があるとは思うが、どこで買ってもそれなりに安く野菜や果物を買うことが出来る。
それぞれの店の在庫の状況次第で、ちょっと古いものを安く売ったりしている。この日は丹波栗と丹波松茸一本とトマトや枝豆等をいろんな店を回って買い回りした。

丹波栗
丹波松茸

店の名前をメモしなかったので申し訳ないが、亀岡市西別院あたりで買った丹波栗が約1kgの袋で個数限定で600円はお買い得だった。松茸は1本780gで1900円。地元でしか買えない価格だと思う。そのお店は、栗はほとんど同じサイズの品が1000円で並べられていた。おそらく仕入れた日が何日か早いので安かったのだろう。
ネットで買えば倍近くするものが、現地に行くと自分で商品を見ながら買うことが出来るのが醍醐味である。

また、栗はサイズ次第で価格が随分違う。前回亀岡に来た時は小ぶりのものを300円で別の場所(亀岡市犬甘野)で買った。皮を剝くのが少し面倒なだけで、焼き栗なら小さいものの方が香ばしくて良いかもしれない。

栗というと、縄文時代の三内丸山遺跡(青森市・約5500年前)で大規模な栗の柱と大粒の栗の実が出土し、遺跡の周辺の森は栗林だったことがわかっている。

三内丸山遺跡

自然の栗の木が林になることはないらしく、縄文時代から栗が日本人の食生活に欠かせない存在であり、食糧生産のために植林したものであることは確実だ。
また自然の栗の木で大粒の栗が出来ることはないそうで、ここに住んでいた縄文時代の人々は、大粒の栗を作るための接木の技術を持っていた可能性もあるとも言われている。
栗の木は心材の耐朽性が高く建築資材として今でも良く使われるのだが、縄文時代から住居の柱に使われていたことも非常に興味深い。

三内丸山遺跡は栗とともに栄えた、定住型都市型社会と考えられているのだが、どういうわけか、今の青森県はほとんど栗が栽培されていないという。しかし当時の気候は今よりも2度程度高く、栗を栽培するには適切な気温だったらしいのだ。

「日本三代実録」という書物に、貞観8年(866)、常陸国(茨城県)の鹿島神宮ではスギ4万本、栗5千7百本を植えたという記録があるそうだが、それが栗を植林した最古の記録なのだそうだ。おそらく、将来神社を再建する時のために植林されたものであろう。

丹波栗のことを書いているサイトを読んでいると、「古事記」や「日本書紀」にも丹波栗が書かれているとか、仏教伝来とともに大陸から栗栽培の技術が伝えられ、大粒の栗が栽培されるようになったと書かれているものがある。
最近は日本の古典もパソコンで原文にアクセスが出来るようになったので、「古事記」や「日本書紀」をざっと文字検索してみたが、丹波栗の話がどこに書いてあるかは残念ながら確認できなかった。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kojiki/kojiki_top.htm
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syokitop.htm

しかし「栗」に関して調べると、「日本書紀」には栗が朝廷に献上されたような話が何か所かに出てくる。
また巻第三十の持統天皇の七年(693年)3月17日に天皇が「全国に桑、紵(からむし)、梨、栗、蕪青(あおな)などの草木を勧め植えさせられた」。という記述もあるが、丹波の国に限定した記事は見当たらなかった。

丹波地方が栗の名産地であったことが文献上で確認できるのは、平安時代に禁中の儀式や制度を記した「延喜式」だそうで、そのことから、栗の栽培地として一番歴史が古いのが丹波地方であることは定説となっているようだ。

長い間朝廷や幕府に献納されてきた全国トップブランドの丹波栗ではあるが、今の生産量は驚くほど少ない。
2年前のデータでは、全国の栗生産量は18300tで、トップは茨城県の5030tで次いで熊本の3220t、愛媛の1990tの順だそうで、この3県で日本の栗生産の56%にもなる。丹波栗を作っている京都や兵庫は全国のベスト8にも顔が出て来ないのだ。 いつのまにか日本の市場に出回る栗は75%が輸入品になっており、2年前の輸入品の総量は14,445tだそうだ。

栗

丹波栗の生産は京都府では昭和53年には1500tもあったそうだが、今は200tまで減ってしまっていることを今回調べて初めて知った。
理由はいろいろあるが、最大の理由は安価な輸入商品が流入し、大手流通業者に安値で買い叩かれ、生産者の生活が成り立たなくなったことが大きいのだろう。

しかし、ここ数年、消費者は大手流通の野菜や果物よりも、生産地に近い場所で買う方が安くておいしいことに気がついてきたのではないだろうかと思う。都心に近い産直売場はどこも人が増えてきている。これからは車で野菜や果物を買いながら、田舎の名所巡りやグルメを楽しむ人がもっと増えそうな気がする。

こういう場所で野菜や果物が安く買えるのは、農家から直接仕入れていて流通コストがゼロで、売り切れ御免の商売だから廃棄がなく無駄がないことは誰でもわかる。

私の子供の頃は近所の八百屋で野菜などを買っていたが、そういう八百屋が大手流通に潰されていき、初めてスーパーで母親が買ったトマトが不味かったのを今も忘れない。 スーパーのトマトが不味いのは当然で、大手流通は農家に対して熟さないうちにもぎ取るように指導し形の整ったものだけを出荷させるのだが、これは消費者のためにしているのではなく、流通業者の都合で、販売過程で廃棄を減らして効率よく稼ぐために、農家に要求しているだけのことだ。
資本力にものを言わせて、安いところから商品を買い漁り続けるうちに、若い世代は農業に見切りをつけて故郷を去り、日本の農業は老齢化が進み同時に地方が疲弊したが、流通業者は拡大し続けた。

しかし、大手流通が中国などから大量に野菜を入れるような行動を取りだしてから、消費者の行動が少しずつ変わってきたように思う。私が休みの日に田舎をドライブして現地の野菜を買うようになったのはこの頃からだが、最近では都心に近い産直売場には、よほど朝早く行かないと、商品がほとんど売り切れていることが最近ではよくある。

いくら大手流通業者が安い商品を売り場に並べても、生産者の価格に勝てるはずがなく、昨日今日収穫したような野菜が並べられるはずがない。味の違いがわかる消費者は、新鮮なものが買えるなら10kmでも20kmでも平気で走る時代になってきた。生産者も、消費者の顔の見える仕事に、力を入れるようになってきたことは非常に良いことだ。

平安時代からの名産品である丹波栗に限らず、地方の名産品を次の世代に残すためには、都会に住む人が、年に一回でもいいから買うことが一番である。買うということは生産者の商品の価値を認めてお金を払って応援することである。消費者が直接買うことで地方の生産者が潤い生活の基盤が出来、そうすることで地方の伝統や文化も守られ、美しい自然も水源も守られていくのだ。消費者がネットで地方の産物を買うことが簡単にできるようになったが、このことは流通業者に流れていた富を地方で循環させ、地方を潤わせることにつながっていく可能性を感じている。これから地方がやり方次第で豊かになる道が開かれつつあるのではないかと思う。

どこの国のものでも、ただ安ければいいという消費者や流通業者の考え方は、地方を荒廃させ空洞化させてきた元凶ではなかったか。そのために地方の農地や水源などが外国資本に売られているようなとんでもない事例が各地で起こっているようだが、こういうことを放置しては国が守れないし、いずれ国民が高い付けを払わされる日が来るだろう。

しかし今は、消費者は安くて、新鮮で、安心できるものを求めて、生産者の近くで商品を買ったり、ネットで直接商品を買ったりする選択肢をもっている。
これからは地方の生産者との共存共栄を考えない流通業者は、多くの消費者から見放されて、いずれは過大な設備を持て余すことになりはしないだろうか。
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飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む

日本書紀」には様々な地震の記録がなされているが、天武天皇(?~686年)の時代はとりわけ地震の記述が多いことを友人から教えてもらった。そんな話を聞くと、自分で確かめたくなって実際に日本書紀を紐解いてみた。

天武天皇

日本書紀」の地震の記録を読む前に、少し天武天皇の歴史を振り返ってみよう。

671年に大化の改新以来政治の中心であっ天智天皇が崩御され、皇位継承をめぐって皇子の大友皇子(弘文天皇)と皇弟の大海人皇子との間に争いが生じ、翌年に美濃・近江・大和などを舞台に壬申の乱が起こるのだが、乱は大海人皇子方の勝利に終わり、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮で即位された。その天皇が第四十代の天武天皇である。

天武天皇は八色の姓を定めて、旧来の豪族を新しい身分制度に組み込み、天皇中心の国家体制を作られ、律令や国史の編纂事業が開始されたなどと教科書に書かれている。

日本書紀」の巻廿八と巻廿九が天武天皇の時代の記述で、前半には壬申の乱が詳細に書かれている。後半を読んでいると、この時期に地震が多かったのであろう、確かに何度も地震の記述が何度もでてくるのである。
数えた人がいるらしく、「日本書紀」には天武4年(676)から天武14年(686)までに16回もの地震の記録がなされているそうだ。天智天皇の時代の記録は1回だけだそうだから、かなり多いのはどういうことなのか。

そのうちの大半は「地震があった」「大きな地震があった」程度の記述で被害がほとんどなかったのかもしれず、日本の正史である「日本書紀」にわざわざ記録するほどの価値がない地震が含まれているかもしれないなのだが、記述内容からしてかなり大きい地震が何回かあったことは間違いない。

たとえば天武7年12月についてはこのように具体的に書かれている。

「この月、筑紫の国で大地震があった。地面が広さ二丈、長さ三千余丈にわたって裂け、どの村でも多数の民家が崩壊した。このとき、岡の上にあったある民家は、地震の夜、岡がこわれて移動した。しかし家は全くこわれず、家人は岡が壊れて移動したことを知らず、夜が明けてからこれに気付いて大いに驚いたという。」(講談社学術文庫 全現代語訳「日本書紀」(下)p.276-277)

筑紫の国とは現在の福岡県の内、東部にある豊前国を除く大部分を指している。
「丈」というのは約3mなので、地割れは6m× 9000mにも及んだというから、かなり大きなものである。

また、天武13年10月にはもっと大きな地震が日本を襲い、土佐国(現在の高知県)では津波による被害が出ている。

「十四日、人定(いのとき:夜10時頃)に大地震があった。国中の男も女も叫び合い逃げまどった。山は崩れ河は溢れた。諸国の郡の官舎や百姓の家屋・倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人畜の被害は多大であった。伊予の道後温泉も、埋もれて湯が出なくなった。土佐国では田畑五十余万頃(約一千町歩)がうずまって海となった。古老は『このような地震は、かつてなかったことだ』といった。
この夕、鼓の鳴るような音が、東方で聞こえた。『伊豆島(伊豆大島か)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、もう一つの島になった。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』という人があった。」(同書 p.299)

日本書紀が書かれた当時は「津波」という言葉はなく、巨大な波が発生するメカニズムについてはわかっていなかったのであろうからやむをえないが、この記述における被害の原因が「津波」であることは明らかであろう。
土佐とは今の高知県のことだが、1000町歩が海水につかってしまったと書いてある。
「町歩」という広さは1ヘクタールであるから、1000町歩は10平方キロメートルということになる。わかりやすく言えば、甲子園球場の760倍程度の面積が水につかったということだ。

「日本書紀」にはその後の復興ことなどは一切書かれていないが、津波のメカニズムがわかっていないので、ひたすら神仏に祈ることしかなかった時代である。

次に東北地方の地震の古い記録を見てみよう。
貞観年間(859-877)には、富士山や阿蘇山のほか出羽国鳥海山、薩摩国開聞岳が噴火し、貞観11年(869)には、今回の地震とよく似た三陸大地震が発生し、大きな津波の被害が出ている。

「日本三大實録」にその記録がある。原文は漢文になっているが、次のURLで現代語訳が読める。
http://tarikiblog2.blog22.fc2.com/blog-entry-327.html

「5月26日、陸奥国に大地震あり。
  人、伏して起きあることできず、
  崩壊した建家の下敷きになり、圧死する人々、
  地割れに脚をとられ、もがく人々。
  牛馬はあてど無く駆け廻り、
  崩壊した城郭、倉庫、門櫓、城壁、数えきれず。
  海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。
  瞬く間に城下に至り、海より数十百里を遡る。
  原野、道路、瞬く間に霧散し、
  船に乗れず、山に登れず、溺死者一千ばかり。
  それまでの資産、殆ど無に帰す。」

と、これを読むと、つい先日の地震のことを書いているようにも思えてくる。

津波画像

ここでは「海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。」と訳されているが、「日本三代實録」の原文ではこの部分は「海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長」となっており、とんでもなく大きい波が来たことを形容しているだけで、「津波」という言葉が当時は存在しなかった。この筆者には、大地震の後に大きな波が引き起こされると言う認識はなかったはずである。

Wikipediaによると、「津波」という言葉が最初に文献に登場するのは、「駿府記」に慶長16年(1611年)に起きた慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2

今は”tunami”という日本の言葉が国際的に使われているが、英語でこの言葉を最初に使ったのが前回の記事で書いたラフカディオ・ハーンの”Living God”という作品であり、これが「稲むらの火」の物語につながった。

日本のような地震国においても大きな津波被害が出るような地震は何百年に一度という周期で起こるものであり、一人の人間の命の長さからすればサイクルが長すぎて、海抜の低い地域で海の近くに住む人も、津波災害を一生に一度も経験することがないケースが大半なのだ。

東日本大震災

だからこそ、しっかりと災害の記録がなされることが必要なのだが、せっかく昔の記録が残されていてもそれが次世代に充分に伝えられなければ意味がない。
いずれ津波の怖さが忘れ去られてしまって、海抜の低い土地に住居や様々な施設が次第に建てられるようになる。そしてまた巨大地震が起こり、あとの津波がその集落を襲った時に再び大きな被害が出ることになる。津波災害の歴史は今までその繰り返しではなかったか。

古い記録は確かに読みづらいが、今回の地震では幸いにも大量の画像や映像が残っているはずだ。画像や映像を教材にすれば誰でも即座に津波の怖さを理解できるので、それらを使って地震の後の津波の怖さを世代から世代に伝えられるようにし、大きな地震があった時にどう行動すべきであるか、町や都市の設計はどうあるべきかを考えてその環境を整えていくことは、今回の大震災を体験した世代の責務だと思う。
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聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか

以前このブログで、明治4年の寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、収入源も断たれたうえに廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏るような状態になっていたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

この時期には僧侶の生活のために宝物を売りに出した寺院が多かったのだが、法隆寺は管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納して国民の文化財を守り、1万円の下賜金を得て堂宇を修理し、金利を運営費に充てて寺院として存続できる道を開いたのである。
この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、その中に「聖徳太子および二王子像」があり、現在皇室ゆかりの品として御物(宮内庁蔵)となっている。

聖徳太子

この「聖徳太子および二王子像」が、現存する最古の肖像画として昔の教科書や歴史書に必ず掲載されていたのだが、最近の教科書では「伝聖徳太子画像」と説明されているか、この画像も掲載されていないものが多いようだ。

Wikipediaによると、この太子像の制作時期は8世紀ごろとされているようだが他の説もあり、「中国で制作されたとする意見もあり、誰を描いたものかも含めて決着は着いていない」と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%AC%E5%BE%A1%E5%BD%B1

お札

この太子像は一万円札や五千円札の肖像画の原画に採用されて、長い間日本人に親しまれていたものなのだが、どういう経緯で急に「伝」が付されるようになったのだろうか。

昭和57(1982)年に、東京大学史料編纂所所長今枝愛真氏が「御物の聖徳太子像は実は聖徳太子ではない」という説を発表したことが、そのきっかけとなったようである。
今枝氏は太子像に装幀されていた絹地に「川原寺」と読める墨痕があることに注目し、もともと川原寺にあった肖像画が法隆寺に移されたものとする説を発表した。
「川原寺」は飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられ、7世紀半ばの天智天皇の時代に建立された大寺院であるが、今枝氏の説は聖徳太子の没(622)後およそ半世紀後を経て建設された川原寺に聖徳太子の画像があるのは不審であり、この肖像画が聖徳太子を描いたものとは特定できないというものなのだが、この墨痕は昭和に修理された掛け軸の布に書かれているもので、画像とは関係がないとする説もあるようで、どちらが正しいかはよくわからない。

法隆寺

そもそもこの太子像がいつどういう経緯で法隆寺に伝来したかについての記録は存在せず、院政期(12世紀中ごろ)に大江親通(ちかみち)が『七大寺巡礼私記』のなかで、「太子の俗形御影一鋪。件の御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし。」と書いているのが、判明している最も古い記録なのだそうだ。
我々は紙幣で何度もこの肖像画を見てきたので特に違和感を覚えないのだが、大江親通は、聖徳太子を描いたものにしては筆跡が唐風であり不思議な絵であるとの印象を持ったということである。
確実にわかっていることは、院政期には聖徳太子を描いたものとして伝わるこの肖像画が法隆寺に存在したという事だけなのだ。

学生時代に学んだ聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、国政の改革と文化の交流を図った英雄的存在であった。603年の冠位十二階の制定、604年の十七条憲法制定、607年の遣隋使の派遣などが有名だが、『日本書紀』に書かれている太子の記述はあまりにも美化されており何となく嘘っぽい。

たとえば『日本書紀』にはこう書かれている。
「生而能言。有聖智。及壮、一聞十人訴。(太子は生まれて程なくものを言われたといい、聖人のような知恵をおもちであった。成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても、誤られなく、先のことまでよく見通された。)」(訳:講談社学術文庫『日本書紀下巻』p.87)

厩で生まれたのはキリストの生誕説に似て、生まれてすぐに喋ったという話は釈迦の逸話に似ており、成人してからのエピソードも信じがたいものがあるので、『日本書紀』における聖徳太子の記述をどこまで信頼できるかで、古くから議論があったようである。

最近では聖徳太子虚構説までが存在し、歴史学者の大山誠一氏の説が注目されているようだ。
Wikipediaの記述によると、大山説は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性まで否定するものではないが、推古天皇の皇太子かつ摂政として数々の業績を上げたことになっている聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

大山氏の考えでは、厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つは信頼できるが、それ以外の事績については書かれている史料そのものが厩戸皇子のかなり後の時代に制作されたものであり、矛盾する記述も多く虚構であるというもののようだ。

例えば『日本書紀』には厩戸王を「皇太子」の肩書で天皇に代わって政治を行ったと書かれているのだが、推古天皇の時代には「皇太子」という地位はなかったという。
また十七条憲法に使われている用語も、使われている用語や時代背景から推測して、『日本書紀』が書かれた時代に創造された可能性が高いとしている。ほかにも聖徳太子が執筆したとされる経典の注釈書『三経義疏(さんきょうぎしょ)』の一つである『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』が中国の敦煌文書に酷似しており、偽物説が有力視されているというのだ。
こうして見ていくと、たしかに聖徳太子の実在を示す確かな史料は存在しないことになってしまう。やはり聖徳太子は『日本書紀』の中で創作された人物なのだろうか。

藤原不比等

仮に聖徳太子が架空の人物だとした場合に、藤原不比等らが聖徳太子という偉人を捏造したのは何のためなのか。
藤原不比等といえば、父は乙巳の変(大化の改新)で蘇我入鹿を滅ぼした中臣鎌足である。不比等には父・鎌足の正当性を主張するために、推古朝で活躍した蘇我入鹿の祖父・馬子の功績を奪い取り、蘇我氏を貶めるために聖徳太子という人物を捏造したというのだが、結構説得力がある。

ところで、聖徳太子が架空であるとまでは言わないが、十七条憲法が後世の創作であるという説は古くからあり、江戸後期のである狩谷棭斎(かりやえきさい)という考証学者は文政12年(1829)頃に書いた『文教温古批考』の中で次のように述べている。
「憲法を聖徳太子の筆なりとおもえるはたがへり。是は日本紀作者の潤色なるべし。日本紀の内、文章作家の全文を載たるものなければ、十七条も面目ならぬを知るべし。もし憲法を太子の面目とせば、神武天皇の詔をも、当時の作とせんか。」

戦前を代表する歴史学者である津田左右吉も、十七条憲法が後世の創作であるとの説を展開している。
津田の説によると、例えば第12条の「国司(くにのみこともち)」という言葉が大化の改新後に登場した官制であり、推古朝当時の政治体制にはなかったことなど時代背景にずれがあることから、十七条憲法は、太子信仰が高まった天武・持統朝ころにつくられたということになる。

しかし大山説も津田説も、推古朝の時代の官制を知らない者にとってはどうもすっきりしない。

『日本書紀』が完成したのは養老4年(720)で、聖徳太子が亡くなって98年も後の事である。『日本書紀』の記述が正確でなかったり、かなり脚色があることはあることは容易に想像できるが、小野妹子が遣隋使として隋に朝貢した際に、有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という国書を渡しているはずだ。この文書は聖徳太子が書いたものだと学生時代に学んだことを思い出したので、『隋書倭国伝』を取り出して読んでみた。

講談社の学術文庫に隋書倭国伝の現代語訳が出ている。隋にはわが国から2度使者を派遣し、隋の使者が倭国に来た記録が残されている。
1回目の記録は、
「隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…
倭国王の妻は雞弥(けみ)と号している。王の後宮には女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.196)

煬帝

2回目の記録は、
「隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
『大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝させ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです』
そして倭国の国書にはこうあった。
『太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか…』
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
『蕃夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。』」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.199-200)

その翌年に隋が倭国に使者を派遣した記録は、
「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣した。…十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する。
…倭国の都に到着すると、倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで…」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)

と隋の使者は倭国王に面談したことは確実である。

岡田英弘氏は『日本史の誕生』(ちくま文庫)のなかで、この『隋書』の記述から『日本書紀』の問題点をわかりやすく説明しておられる。
「(以上の隋書の記録の部分は)『日本書紀』では女帝である推古天皇の在位中であり、聖徳太子が摂政だったことになっている。いうまでもなく推古天皇は女王だ。ところが『隋書』では、この時期に倭国の王位にあったのは、アマ・タラシヒコ・オホキミという人で、名前からみて男王であることには間違いがなく、しかも裴世清はこの男王自身に直接会って話をしている。摂政である聖徳太子を王と取り違えたのだという説は成り立たない。なぜなら太子は王と王妃のほかにいたと、『隋書』にちゃんとかかれているからだ。そういうわけで、「日出づる処の天子」の国書を送ったのは聖徳太子ではなく、『日本書紀』には名前がのっていない、誰か別の倭王だったことが分かる。」

裴世清は608年に日本に来て倭国王と面談している。王座についている人物が女性であれば、その旨を報告しているはずだ。
また裴世清が訪れた国が別の国であったわけでもなかった。『隋書』には「竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する。」と書かれている。「竹斯国」とは「筑紫国」のことであり、裴世清が訪れた国が倭国であることは間違いないだろう。
『隋書』が倭国についての記述を歪める動機は存在しない。とすれば、『日本書紀』は7世紀初めの時代について、重大な嘘をついているとしか考えられないのだ。

『日本書紀』は天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっているが、中立的な立場で書かれたものではないのだろう。

石舞台

多くの論者が指摘しているように、藤原氏の政治的思惑によって記述が歪められているという可能性が高いのだとすれば、聖徳太子の今までの常識がさらに覆され、これまで極悪人扱いを受けてきた蘇我馬子が見直される時が来るのかもしれない。
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蘇我氏は本当に大悪人であったのか

前回は、聖徳太子の業績とされていたことの大半が『日本書紀』作者の創作だとする説を紹介し、『隋書倭国伝』の記述を読むと遣隋使を派遣した時代の倭王は『日本書紀』では推古天皇(女王)であるが、『隋書倭国伝』では男王となっていて明らかに矛盾しており、『日本書紀』が嘘を書いている可能性が高いことなどを書いた。

いつの時代もどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように書き換えてきたことを何度もこのブログで書いてきた。
日本書紀』も勝者が編纂した歴史であり、真実が書かれている部分がそれなりにあるとは思うものの、一方で勝者は必要以上に美化され、反対勢力は必要以上に貶められているという視点で読むことが必要であると思うのだ。

日本書紀』が完成したのは養老4年(720)で現存する最古の正史であるのだが、もっと古い史書が過去にはあった。
推古朝の600年頃に継体天皇の系図を記した『上宮記』、7世紀には記紀編纂の基礎資料となった『帝紀』『旧辞』、620年には聖徳太子蘇我馬子が編纂した『天皇記』『国記』という書物が存在したことが分かっているのだが、最後の『天皇記』『国紀』は皇極4年(645)の6月「乙巳の変(いっしのへん)」*の際に多くを失ってしまう。『日本書紀』にはこう書かれている。
(*今の歴史教育では蘇我入鹿暗殺事件を「乙巳の変」と呼び、後に行われた一連の政治改革を「大化改新」と区別するのが一般的)

日本書紀下

「己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅。悉焼天皇記。国記。珍宝。船史恵尺即疾取所焼国記而奉献中大兄。(13日、蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺[ふねのふびとえさか]はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。)」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.155)

『天皇記』『国記』は蘇我氏の立場から書かれた歴史であったはずであり、普通に考えれば、蘇我氏としてはその歴史書を隠してでも守ろうとすることはあっても、自ら火をつけることは考えにくい。
『日本書紀』によると、『天皇記』は蘇我氏によってこの時に焼かれ、『国記』は焼かれる前に取り出して中大兄皇子(後の天智天皇)に奉献されたとあるが、その『国記』も現存しない。いずれも中大兄皇子側で焚書処分された可能性を感じている。

いつの時代も、どこの国でも、一国を支配する立場に立つためには、目の前の政敵を打ち倒すことが必要になる。選挙のない国や時代においては、多くの場合は政敵を殺すぐらいのことをしなければ、のし上がる方法がないのだ。またその場合に、政敵の命を奪う自らの行動を正当化すために余程の大義名分がなければ、ただの犯罪者になってしまうだけだ。

そこで、クーデターが成功し権力を掌握できた場合には、「歴史」をどう描き、どう広めるかが重要なポイントとなってくる。歴史を編纂する立場に立つということは、どの勢力に権力の正統性があるかを明らかにし、その国・その時代の言語空間を支配するという重要な意味合いがあるのだと思う。

学生時代に、「蘇我氏」と言えば天皇家を乗っ取り国家を乗っ取ろうとした大悪人だと教わってきた。その根拠はすべて『日本書紀』にあるのだが、そもそも『日本書紀』は中大兄皇子や中臣鎌足の立場を擁護するために記述されたものではなかったのか。

普通に考えれば、中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自害させて政権を奪い取ったのであり、その行動に正当性があることを主張しようと思えば、蘇我一族が余程の大悪人でなければ立論が困難であったはずだ。この点については以前にこのブログで『忠臣蔵』のことを書いたのと同じ構図にある。
とすれば、『日本書紀』における蘇我氏に関する記述をそのまま鵜呑みにすることは危険ではないのか。

『日本書紀』の文章を読む前に、蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図を確認しておこう。
蘇我氏系図

藤原家系図

上の図がネットで見つけた蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図だが、蘇我氏は古くから天皇家と姻戚関係を結んで勢力を伸ばし、乙巳の変が起きた当時はすでに完成の域に達しており、後は子孫さえ増えれば安泰といえる状況にあった。
一方、中臣鎌足はこの頃突然歴史に現れ、中臣(藤原)氏が天皇家との姻戚関係を結ぶのは、鎌足の子の藤原不比等の時代以降である。
結果だけを見れば蘇我氏の立ち位置を、藤原氏が奪い取ったようにも思える。天皇家を乗っ取り、国家を乗っ取ろうとしたのは藤原氏の方ではなかったのか。

『日本書紀』で、蘇我氏の専横にかかわる叙述が目立つのは皇極天皇(35代:在位642-645の女帝)の治世下からだが、『日本書紀』に記述されている蘇我氏の悪行とはどんなことなのかを拾ってみよう。

皇極元年(642)の出来事にこんな記録がある。
「(蘇我蝦夷は)また国中の百八十にあまる部曲(かきのたみ:豪族の私有民)を召使って、双墓(ならびのはか:大小二つの円墳を連接したもの)を生前に、今来(いまき:御所市東南)に造った。一つを大陵(おおみさぎ)といい、蝦夷の墓。一つを小陵(こみさぎ)といい、入鹿の墓とした。死後を他人の勝手に任せず、おまけに太子の養育料として定められた部民を、すべて集めて墓の工事に使った。このために上宮大娘姫王(聖徳太子の娘)は憤慨され嘆いていわれた。『蘇我臣は国政をほしいままにして、無礼の行ないが多い。天に二日なく地に二王は無い。何の理由で皇子の封民を思うままに仕えたものか』と。こうしたことから恨みを買って、二人は後に滅ぼされる。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.140)

次は皇極二年(643)の出来事だ。
「(十月)六日、蘇我大臣蝦夷は病のために登朝しなかった。ひそかに、紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位になぞらえた。またその弟をよんで物部大臣といった。大臣の祖母(馬子の妻)は物部弓削大連(守屋)の妹である。母方の財力によって、世に威勢を張ったのである。 十二日、蘇我臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(ふるひとのおおえ:舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の女)を天皇にしようと企てた。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143)

その直後の11月に、蘇我入鹿は山背大兄王(やましろのおおえのみこ:聖徳太子の子)を襲撃する。斑鳩寺とは法隆寺の事である。

「十一月一日、蘇我入鹿は小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王らを不意に斑鳩に襲わせた。…山背大兄は…隙を見て逃げ出し生駒山に隠れた。(中略) …山背大兄らは山から出て、再び斑鳩寺へ入られた。兵らは寺を囲んだ。山背大兄王は三輪文屋君を通じて、将軍らにつげさせ『自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つを入鹿にくれてやろう』といわれた。ついに子弟妃妾と諸共に自決してなくなられた。おりから大空に五色の幡や絹笠が現われ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった。
 仰ぎ見た多くの人が嘆き、入鹿に指し示した。するとその幡・絹笠は、黒い雲に変わった。それで入鹿は見ることもできなかった。蘇我大臣蝦夷は、山背大兄王らがすべて入鹿に殺されたと聞いて、怒りののしって『ああ、入鹿の大馬鹿者め。悪逆をもっぱらにして、お前の命は危ないものだ』といった。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143~146) と、かなり嘘っぽい文章が続く。

幡や絹笠の話は論外だが、多くの論者が指摘するように、山背大兄王が戦えば勝てる状況下でありながら、一族全員を集めて自決してしまうというのはあまりに不自然である。
しかもこれだけの事件が法隆寺を舞台に起こったのであれば、法隆寺に聖徳太子の子である山背大兄王の墓があってもおかしくないのだが存在しないし、法隆寺が上宮王家を祀った気配もないというのだ。そもそも、山背大兄王の墓が国内のどこにあるのかすらはっきりしていないのだそうだ。
それよりももっとおかしなこととして、山背大兄王の滅亡に関与した人物が、蘇我氏滅亡後に栄転していることを指摘しておきたい。
蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃させた巨勢徳太は、孝徳天皇の御代の大化5年に左大臣に任命されているのだそうだ。
また『聖徳太子伝補闕記』にはこの事件の後、山背大兄王の息子弓削王を大狛法師という人物が殺したと書かれているのだが、この大狛法師は大化元年8月に仏教界の最高指導層である「十指(とたりののりのし)」の筆頭に任じられているのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B
http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm
最大の政敵である蘇我蝦夷・入鹿親子がこの世に存在しない中で『日本書紀』が編纂されているのだから、すべての悪事を政敵に擦り付けることは容易であろう。山背大兄王一族を襲撃させたのは、中大兄皇子、中臣鎌足に近い人物の可能性を感じるのだ。

話を『日本書紀』の文章に戻そう。
この山背大兄王一族が滅亡する事件の翌(皇極4年[645])の6月に、飛鳥板葺の宮大極殿で中大兄皇子らの手によって蘇我入鹿が斬られることになる。これが「乙巳の変」である。 当初の打ち合わせでは、入鹿を斬りつけるのは佐伯連子麻呂と葛城稚犬飼連網田の2名であった。『日本書紀』にはこう書かれている。

乙巳の変

「…中大兄は子麻呂らが入鹿の威勢に恐れてたじろいでいるのを見て、『ヤア』と掛け声もろとも子麻呂らとともに、おどりだし、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。入鹿は驚いて座を立とうとした。子麻呂が剣をふるって片方の脚に斬りつけた。入鹿は御座の下に転落しむ、頭をふって『日嗣の位においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるか、そのわけを言え。』といった。
 天皇は大いに驚き中大兄に、『これはいったい何事が起ったのか』といわれた。中大兄は平伏して奏上し、『鞍作(くらつくり:入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか』といった。
…古人大兄は私宅に走り入って人々に、『韓人(からびと)が鞍作臣を殺した。われも心痛む』といい、寝所に入ってとざして出ようとはしなかった。…」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.154~155)

この中大兄皇子の奏上を読めば、入鹿暗殺の大義名分は山背大兄王一族の滅亡事件にありその延長線上に蘇我氏による天皇家乗っ取りを挙げている。しかし、山背大兄王の事件に蘇我入鹿が関与していなかったとすれば、乙巳の変は単なる暗殺事件で、中大兄皇子・中臣鎌足はただの暗殺者にすぎず、英雄になるようなことはあり得ないことになる。
この事件の後に中大兄皇子は皇位継承権を持つ古人大兄皇子(母:蘇我馬子の娘)を殺害し、蘇我氏でありながらクーデターに協力した蘇我倉山田麻呂を自害に追い込んでいる事実をどう読めばいいのか。
また古人大兄皇子が『韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。われも心痛む』と言ったのはどういう意味なのか。この点についても諸説があり、中臣鎌足が百済人であり百済人に蘇我入鹿が殺されたという解釈や、混乱する半島情勢の考え方の行き違いで殺されたという解釈があるようだが、いずれにしても蘇我氏の専横や天皇家を乗っ取ろうとしたから殺されたという多数説とは違うことを言っていることになる。

加藤謙吉

最近では蘇我氏の業績を見直す気運が高まっているらしく、歴史学者の加藤謙吉氏は蘇我氏こそが律令政治の推進役で改革者であったと主張しておられるという。
律令制度の前身に屯倉制があり、それまでは豪族層が差し出す部民によって支えられていた王家の財政を、直轄領を増やすことで独立させようとしたのは蘇我氏であったし、律令制の整備は蘇我氏が行っていたという説のようだ。
その説が正しいとすれば中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我氏による改革を潰したという事になってしまい、昔学んだ歴史と正反対になることも考えられないこともなさそうだ。

関裕二

また作家の関裕二氏は、大化二年(646)の「改新の詔(みことのり)」の中には、後世になって使われるようになった用語が混じっており、『日本書紀』編纂者が後世に書き加えた可能性を指摘しておられる。(宝島社『捏造だらけの日本書紀』p.38-39)

さらには蘇我氏が天皇であったという説もネットではかなりヒットする。
蘇我氏天皇説は、前回紹介した『隋書倭国伝』の遣隋使の記述で倭国王が男であったことと矛盾せず、なぜ蘇我氏の邸宅に『天皇記』『国記』が保管されていたのか、なぜ蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んだかなどということから考えるとなかなか説得力があるのだ。

今後もし『天皇記』『国記』の写本が発見でもされれば、日本の古代史は全面的に書き換えられることになると思うのだが、古代史には同時代に残された史料が少なく『日本書紀』に頼りすぎることが真実の解明を難しくしているような気がするのだ。

子供の時から聖徳太子や中大兄皇子が古代の英雄で蘇我氏は悪者だと教わり、長い間そのように考えてきたのだが、よくよく考えると、聖徳太子を英雄に描けば描くほど、太子の子供である山背大兄王を死に追いやった蘇我入鹿の悪が際立つことになり、その悪を征伐した中大兄皇子や中臣鎌足がまた英雄に見えてくるという単純な勧善懲悪の物語のカラクリに、長い間騙されていたのかも知れない。

どこの国でもいつの時代でも、正史というものはそれなりに真実が書かれてはいるのだろうが、当時の権力者を擁護するために真実が捻じ曲げられ、反対勢力は必要以上に貶められる傾向が強いことに留意して読む姿勢が必要だと思う。
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世界最大級の墳墓である「仁徳天皇陵」が誰の陵墓か分からなくなった経緯

大阪府堺市にある百舌鳥(もず)古墳群には、4世紀後半から5世紀後半に造られた47基の古墳が残されている。

仁徳天皇陵

なかでも「仁徳天皇陵」は墳長486mもあり、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられていると学生時代に学んだ記憶がある。

仁徳陵説明板

現地にある「仁徳天皇陵」の説明版によると、「仁徳天皇67年の冬10月5日に、河内の石津原(堺市石津町~中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めました。」とある。
また「仁徳天皇は、それから20年後の87年の春正月16日になくなり、同年の冬10月7日に百舌鳥野に葬られました。(古事記には毛受[もず]耳原陵と書かれています)」とも書かれている。在位が87年というのは長すぎて違和感を覚えるが、説明版には明確に「仁徳天皇陵」と書かれており、工事の時期から葬儀の時期までこんなに具体的に解説されていると、誰しもここが仁徳天皇の陵墓であると確信してしまう。

しかし、自宅にある市販の「もう一度読む山川日本史」には、この古墳について「大仙陵古墳(伝仁徳陵<堺市>)」と書かれていて、続けてこう解説されている。
「…古墳の築造年代は、その墳丘上に残された円筒埴輪の形式から5世紀半ばから後半と推定されている。ここに、仁徳天皇が4世紀前半に没したと解釈できる『古事記』の記述と比べ、約半世紀のずれが生じている。このような学問上の疑義があることから、今日では学術上には所在地の地名をとって『大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)』などの名称でよばれるようになった。」(p.15-16)
と、仁徳天皇の陵墓であるとはどこにも書かれておらず、今の若い世代はこの古墳を仁徳天皇陵として習っているのではないようだ。

では誰の陵墓なのか気になったので調べてみたのだが、仁徳天皇陵に限らず、埋葬されている人物の名前が良くわかっていない古墳が多いようなのだ。どうして、こんな大きな古墳に埋葬されている天皇が特定できないのだろうか。

その直接的原因は、江戸時代の学者の考証が正確でなかったままに明治時代に受け継がれたこと。さらには天皇陵についての学術的な調査を厳しく制限され、学問的に再検討することが許されないまま今日に至っているということにあるというのだが、今も宮内庁は天皇陵の発掘を許さないために、どの天皇の古墳であるかが特定できる方法がないのだそうだ。

では、逆に、今までこの世界最大級の墳墓を「仁徳天皇陵」と呼んできた根拠は何だったのかということになる。古い書物には何と書かれているのだろうか。

古事記』の記録では、オオササギ(仁徳天皇)は丁卯の年(ひのとう:西暦427年?)8月15日に83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。
日本書紀』には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(西暦399年)1月16日に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。
平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にありと記述されている。
また『堺鏡』(1684年(貞享元年))には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として信じられていたようだ。

「仁徳天皇陵」にある現地の説明版は『日本書紀』に記されていることを根拠にしていることが分かるが、『日本書紀』の記述内容は『古事記』と比べると、崩御された年も季節も年齢も異なり、陵墓の場所の記載についても異なっている。そもそも『日本書紀』に書かれている「在位87年」をそのまま信じるわけにはいかないだろう。

宮内庁のHPによると大阪府堺市百舌鳥近辺には第16代仁徳天皇、第17代履中天皇、第18代反正天皇の3陵が案内されている。

http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/map/osaka02.html

百舌古墳群

しかし実際の地図で見ると、反正天皇陵は天皇陵にしてはいかにも小さく、それよりもかなり大きな「土師ニサンザイ古墳」や「御陵山古墳」が誰の陵墓であるか特定されないままに残されているのを誰しも疑問に思うだろう。「土師ニサンザイ古墳(下画像)」も「御陵山古墳」も「陵墓参考地」として現在宮内庁の管理となっているが、そのことは宮内庁がどの古墳が誰の陵墓であるのかが分かっていないことを正直に吐露しているようなものだ。
土師ニサンザイ古墳


では履中天皇陵、反正天皇陵について『古事記』『日本書紀』にはどう書かれているのか。

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古事記』には、履中天皇の「御陵は毛受(もず)に在り」と書かれ、反正天皇については、「御陵は毛受野(もずの)に在りと言へり」と書かれている。
日本書紀』には、履中天皇について「百舌鳥耳原陵(もずみのはらみさぎ)に葬った」と書かれ、反正天皇については陵墓についての記載がない。在位期間については履中天皇は6年、反正天皇は4年程度でしかなく、仁徳天皇よりもはるかに短い期間である。

また『延喜式』には陵墓のサイズが書かれていて、仁徳天皇陵は「百舌鳥耳原中陵」で「兆域東西八町。南北八町」。その北陵が反正天皇陵で「東西三町。南北二町」、南陵が履中天皇陵で「東西五町。南北五町」と記録されているのだそうだ。

『古事記』における「毛受(もず)」と『日本書紀』における「百舌鳥(もず)」が、いずれも現在の大阪府堺市百舌鳥一帯を意味するとすれば、『記紀』『延喜式』の記述を総合した宮内庁見解も分からないではない。

ではこの宮内庁の見解を否定する説が、何を根拠として出てきたのだろうか。

それは考古学が発達して、出土した円筒埴輪の特徴で古墳の製作年代が概ね把握できるようになったことによるもので、考古学の視点から陵墓の製作年代を調べると、「履中天皇陵」と比定されている「上石津ミサンザイ古墳」が一番古いという事が判明しているそうだ。
履中天皇は仁徳天皇の子供なのだが、子供の古墳の方が親の古墳より古いということはどう考えてもおかしい。
したがって「伝履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)」が真の仁徳天皇陵ではないかという見解もあるのだそうだが、そうすると『延喜式』の陵墓の規模に関する記述と矛盾することになってしまう。

よくよく考えると『古事記』も『日本書紀』も書かれたのは8世紀であり、仁徳天皇の御代からは3世紀も離れていた。この時代から既に、場所の特定ができていなかった可能性が小さくないのだ。『延喜式』になると、完成したのは10世紀にもなるので、ますます記述内容の信憑性が薄れてしまう。この時期の歴史については文献ではわからないために、古墳の発掘調査でもしない限りは特定困難なのだろう。

今でこそ宮内庁管理で陵域内への自由な出入りが禁止されているが、貞享元年(1684)に著された『堺鏡』という本には豊臣秀吉が「仁徳天皇陵」でしばしば猟を行っていたことが記されているそうだ。その後、江戸時代に何度か修復工事などが為されたが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。
また明治5年(1872)の前方部斜面の崩壊による埋葬施設が露出したため、堺県令税所(さいしょ)篤等による緊急発掘がなされたそうだが、どのような調査がなされたか細部についてはよくわからない。

アメリカのボストン美術館にどういうわけか、「仁徳天皇陵」から出土したという獣帯鏡、三環鈴、馬鐸、環頭太刀の柄頭(つかがしら)の4点が所蔵されているそうだ。環鈴の形状や環頭太刀の柄頭の形状から類推して、これらの出土品は5世紀後半から6世紀初めのものと考えられているようだが、本当にこれらが「仁徳天皇陵」から発掘されたものであることを裏付ける証拠はないらしい。しかしながら、「もう一度読む山川日本史」の記述ではこの陵の円筒埴輪の形式は「5世紀半ばから後半」と推定していたので、これらの出土品がこの古墳から出てきたとしても矛盾するものではないのである。

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昨年の8月に宮内庁書陵部がボストン美術館所蔵の4点について初の公式調査を行い、年代や購入記録から「(大山古墳出土の)可能性は極めて低い」との見解をまとめたことがニュースで流れたのが次のURLで読むことができる。これを読むと、宮内庁は「大山古墳(大仙陵古墳)」が仁徳天皇陵であるというスタンスを変えたくなさそうである。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/08/13/kiji/K20110813001405690.html
そもそもこの4点をボストン美術館が買ったのは、ボストン美術館中国・日本美術部に迎えられた岡倉天心(1863-1913)が、明治39年(1906)に京都、奈良へ出張した際に一括購入したらしいのだが、宮内庁の発表が正しければ岡倉天心が騙されたことになる。


では岡倉天心は誰から買ったのか。その肝心なところが秘匿されていて、今ではよくわからない。
しかしながら岡倉天心程の人物が、仁徳天皇陵出土品と確信し、購入先を秘匿してまで購入したのはそれなりの根拠があったはずだと考えてしまう。ネットでは、明治時代の堺県令が「仁徳天皇陵」を盗掘し、発掘品を大阪の骨董具屋に売ったと書かれている記事が見つかるが、真偽は定かではない。

日本史において「謎の四世紀」とよく言われる時代から、中国の史書「宋書」に見える「讃・珍・済・興・武」の「倭の五王」の時代の大王達の墳墓がこの百舌鳥・古市古墳群であろうとされている。
ところが、第16代仁徳天皇は倭王「讃」にあたるとする説もあれば、「珍」とする説もある。次の履中天皇を「讃」にあてる説もあるし、先の応神天皇を「讃」とする説もある。現状のところでは「倭の五王」はほとんど特定できておらず、またある説によれば、応神天皇と仁徳天皇は同一人物とも言う。
『古事記』における「毛受」や『日本書紀』における「百舌鳥」が、現在の大阪府堺市百舌鳥一帯を指しているのではないとする研究者もいるようだ。誰の説かはよくわからないが、神戸市の舞子にある五色塚古墳を仁徳天皇陵と考える説があるようだ。
http://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/e/a09700ee36365d55fbd307f3f8b18b44

それにしても、こんなに大きな古墳がいくつもあるのに、誰の陵墓なのかがどうして分からないのだろうと誰でも思う。しかし、天皇家に限らず、藤原鎌足にせよ坂上田村麻呂にせよ、多くの歴史上の人物の墓も推定されているに過ぎないのだそうだ。古代人は死んだ人の魂を鎮めるために丁寧に埋葬することはしたが、名前を忘れずに墓を永年にわたり守り続けるという習慣がなかったという説があるが、それが意外と正しいのかもしれない。
しかし、これだけ多くの古墳について宮内庁が発掘を許さないスタンスでは、新たな史実が発見されることは今後ともないだろう。既に過去に於いて何度も盗掘されていたであろう古墳を、いつまでも立ち入り禁止にする理由が私にはよくわからない。個人的な意見ではあるが、宮内庁は被埋葬者を特定することにつながる学術調査に関しては、調査後は現状に復帰することを前提に認めるべきではないかと思う。



一昔前なら、「たかきやにのぼりてみれば煙たつ 民のかまどはにぎはひにけり」(『新古今和歌集』藤原時平の歌)と言えば、仁徳天皇の事だとすぐに分かった。
『古事記』にも『日本書紀』にも、仁徳天皇が食事の支度に忙しいはずの時間に民家の竈から煙が立ち上らないのを見て、三年間課税を止めさせた仁政の故事が記録されている。
『日本書紀』を読むと、仁徳天皇は課税を止めた三年間は「御衣や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心をそぎへらし志をつつまやかにして、民の負担を減らされた。宮殿の垣はこわれても作らず、屋根の茅はくずれても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らしたり、星影が室内から見られる程であった。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 上』p.231)と書かれている。
そして、人々が豊かになってから天皇がこう語ったと記されている。
「天が人君を立てるのは、人民のためである。だから人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだなら自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである。」(同上p.232)

多くの日本人の心の中に、このような政治をおこなうことが「仁政」であるとの考え方がどこかに染みついているように思うのだ。
こんなに景気が悪く、地方が疲弊し若い人が就職活動で困っている時期に、今の内閣は官僚の言いなりになって消費税増税を強引に進めようとしているが、苦しい時に増税をしたり、海外にカネをバラ撒くような政治は日本古来の「仁政」の考え方とは全く異なっている。
『古事記』や『日本書紀』の記述には作り話も多い事だろうが、古代のエリートが、あるべき政治家像をどう考えたかということを知る意味で仁徳天皇の記述部分は興味深いものがある。この仁徳天皇のモデルからあまりにもかけ離れた政治が、長期間にわたって国民の支持が得られるとは到底思えないのだ。

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聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1

学生時代に、遅くとも4世紀の半ばまでには大和朝廷によってわが国が統一されたことを学んだ記憶があるが、最近の教科書もおおむね同様な結論になっているようだ。

たとえば『もういちど読む山川日本史』の本文では「大和朝廷」という言葉は使わずに「ヤマト政権」という表記をし、「ヤマト政権」が国内統一を行なった時期については本文には明確な表現がないのだが、巻末の年表で西暦300年と400年の間に、「この頃大和王権、統一進む」と書いている。
仁徳天皇陵
その根拠について最近の教書に書かれているのは、3世紀後半に近畿地方や瀬戸内海沿岸・九州北部に古墳が造られ始め、4世紀は前方後円墳という特異な形状の古墳が多数築かれ、『山川日本史』による解説によると
「このような大きな墳丘をもつ古墳は、これまでにみられなかった新しい政治的支配者の出現を示している。その中心は大和であったが、前方後円という一定の墳丘の形が地方に広まったことは、地方の首長がしだいにヤマト王権の身分秩序に編入され、服属するようになったことを物語るものであろう。」(p.14)
と記述されている

しかしよくよく考えると、文化が伝播することと特定勢力が領土を拡げることがイコールであるはずがなく、また古墳などの遺跡調査だけで大和朝廷の統一時期を4世紀前半と推定できるものでもないだろう。
昔の教科書にどこまで書かれていたかは記憶していないが、4世紀前半に大和朝廷による統一がなされたとする論拠として『日本書紀』における記述が挙げられていたと思う。ポイントになるのは崇神天皇と景行天皇だ。

第10代崇神天皇は3世紀に実在したと考えられている天皇で、『日本書紀』の記述によると、天皇は四人の皇族を将軍に任命し、北陸・東海・西道(にしのみち:山陽)・丹波(山陰)に派遣した。この4人のことを「四道将軍」と呼ぶが、「四道将軍」は敵対する勢力を討ち破り、天皇は「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」の称号を得たという。
この称号の「御肇国」の意味は「はじめて整った国を治める」という意味で、ちなみに初代の神武天皇も「始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と呼ばれ、この意味は「はじめて天下を治める」という意味なのだそうだ。

また第12代景行天皇は4世紀前半に活躍したとされる天皇で、『日本書紀』の記述によると、皇子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を遣わして、九州の熊襲と東国の蝦夷を征討したことが書かれている。

今の教科書では、神話や伝承を表に出さず、一見科学的な考古学の成果を強調して、4世紀後半以降に皇室の祖先を中心とする勢力がわが国を統治した、という結論だけが承継されている印象があるのだが、そもそもこの結論は信用するに足るものなのだろうか。
隋書倭国伝

中国の正史である『隋書倭国伝』に、倭国が隋に2度使者を派遣し、隋も倭国に1度使者を派遣した記録がある。それをよく読むと、わが国の通説となっている歴史解釈と矛盾することが書かれていることに気が付く。

一度このブログで聖徳太子のことを書いたときにこの部分を引用したことがあるが、再度引用させていただく。

1回目の記録は、
隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…
倭国王の妻は雞弥(けみ)と号している
。王の後宮には女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.196)
煬帝

2回目の記録は、
隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
『大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝させ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです』
そして倭国の国書にはこうあった。
太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか…』
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
『蕃夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。』」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.199-200)

その翌年に隋が倭国に使者を派遣した記録は、
翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣した。…
倭国王は小徳阿輩台(しょうとくあほたい)を数百人の供揃えで派遣して、武装した兵隊を整列させ、太鼓・角笛を鳴らして隋使裴世清を迎えさせた。倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで
…」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)

と、隋の使者は倭国王に面談しているのだが、『隋書倭国伝』に書かれている「倭王」とはいったい誰のことなのか。
普通に考えれば天皇という事になると思うのだが、その頃在位していた天皇は推古天皇(在位592-628年)であり女帝である。しかし第1回目の使節派遣(600年)の記録では倭国王の妻の名前が記されている。『隋書』の記述だと、当時の倭国王は男性でなければならないのだ。しかも『隋書』には倭国王の太子の名前まで記されている。
日本書紀下
これらの『隋書』の記述に対応する『日本書紀』の文章を探すと、第1回目の使節派遣の記録がない。第2回目の使節派遣については確かに推古天皇15年(607)に記事はあるのだが、極めて短いものである。
「秋7月3日、大礼小野臣妹子(だいらいおののおみいもこ)を大唐(もろこし)に遣わされた。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.99)

有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」という国書のことは、『日本書紀』にはどこにも書かれていない。
聖徳太子
学生時代に聖徳太子が遣隋使を派遣したと学んだ記憶があるのだが、『日本書紀』の遣隋使に関わる記述には聖徳太子のことが全く書かれていないことは意外だった。
聖徳太子は推古天皇即位後5ヶ月後に19歳で皇太子となり、摂政として天皇の補佐に当たっており、『日本書紀』には「皇太子」という表記で、聖徳太子の事績が記録されているのに、なぜか遣隋使に関しては、翌年に小野妹子が帰朝し隋の使者裴世清を饗応した記事も含めて、どこにも「皇太子」という字が出てこないのである。
このことは次のURLの『日本書紀』の全文テキストファイルを全文検索することで、誰でも確認することが出来る。
http://www.j-texts.com/jodai/shokiall.html

今までの常識にこだわらずに、『隋書』と『日本書紀』の遣隋使に関する記述を読み比べてほしい。普通の人が普通に読めばどちらかの記述がおかしいことになるのだが、『隋書』には嘘を書く動機は考えにくいので、以前このブログで聖徳太子のことを書いたときには『日本書紀』の記述には重大な嘘があるとしか考えられないと書いた。
その時は、それ以上深くは考えなかったが、最近読者の方から別の見方があることを教えて頂いた。その見方というのは、わが国はその時点では統一国家ではなかったというものなのだが、紹介いただいた論文にすごく説得力があるのだ。

その詳しい内容は次回以降に書くことにするが、その情報を知ってから好奇心に火がついて、もう一度『隋書』を読み直してみた。
隋の煬帝が608年に裴世清を使者として倭国に派遣したときに、どのようなルートで倭国に着いたかが書かれている。その部分を紹介したい。

「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。裴世清はまず百済(ひゃくさい)に渡り、竹島(ちくとう)*に至った。南方に?羅国(たんらこく)*を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻国(つしまこく)*に至り、そこからまた東に航海して一支国(いきこく)*に着き、さらに竹斯国(つくしこく)*に至り、また東に行って秦王国(しんおうこく)*に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。それでそこが夷洲(いしゅう)と思われるが、はっきりしない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する**。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)
*竹島(不明。済州島の近くの多島海のどれかの島であろう)、?羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国(不明。山口、広島県方面か。新羅系の秦氏の居住地とも考えられる。)
**原文では「竹斯國以東皆附庸於俀」

最後の文章は筑紫国と倭国とは別の国であったと読むのが普通ではないのか。そもそもこの時に隋と交渉していたのは、大和朝廷と関係のない国家であったという解釈もありうるのではないか。そう考えれば、先ほどの『隋書倭国伝』の記述も理解できるものとなる。

いろいろ調べていくと、この当時わが国が統一国家でなかったことの証拠になる記録が、別の中国の正史に明確に書かれていることがわかった。
そのことを書き出すとまた長くなるので、次回はその中国の正史の内容を紹介することから書き始めることとしたい。
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唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2

学生時代に歴史を学んだ時に、「倭国」と「日本国」とは同じ国のことだと教えられてずっと鵜呑みにしてきたのだが、最近になって中国の正史である『旧唐書(ぐとうしょ)』*東夷伝では「倭国」と「日本国」とが別々に書かれている事を知った。それぞれの位置関係を記した部分を中心に、現代語で内容を紹介したい。
*『旧唐書』:中国五代十国時代の後晋出帝の時に編纂された歴史書。完成は開運2年(945)
旧唐書
先ず「倭国」である。
原文と読み下し文は次のURLで読むことが出来る。(原文の10行目までが「倭国」)
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kutoujo/frame/kutoujo_frame.htm


倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国(なこく)である。都の長安から一万四千里、新羅の東南方の大海の中にある。倭人は山がちの島をねじろとして住んでいる。その島の広さは東端から西端までは歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月かかる。代々中国へ使節を通わせている。
…その周辺の小島五十国あまりはすべて倭国に所属している
。倭国王の姓は阿毎氏(あめし)で、一人の大将軍を置いて諸国をとりしまらせている。小島の諸国はみなこの大将軍を畏れて服従している。官位は十二等級あり、お上に訴え出る者は、はらばいになって進み出る。…」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.206-207)
金印
倭の奴国というのは『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』にあらわれる倭人の国で、後漢の光武帝に倭奴国が使節を派遣した際に金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されたことは学生時代の教科書にも書いてあった。
倭国の位置や広さに関する記述内容は『隋書』東夷伝では「東西三月行南北五月行」と、東西と南北の数字が逆になっているのが少し気になるが、倭奴国のことが書かれており、代々中国へ使節を遣わしていた事や阿蘇山の噴火のことが書かれている。普通に読めば『旧唐書』東夷伝における「倭国」と『隋書』東夷伝における「倭国」とは連続しており、九州のことを指しているとしか考えられない。

次に『旧唐書』東夷伝の「日本国」である。
先程のURLで、原文の11行目からが「日本国」である。
日本国は、倭国の一種族である。その国が太陽の昇るかなたにあるので、日本という名をつけたのである。
『倭国では、倭国という名が華美でないことを彼ら自身がいやがって、そこで日本と改めたのだ』

とも言われるし、また、
『日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した』
とも言われる

日本人で唐に入朝した者の多くは、自分たちの国土が大きいと自慢するが、信用のおける事実を挙げて質問に応じようとはしない。だから中国では、彼らの言うことが、どこまで真実を伝えているのか疑わしい、と思っている。また、
『その国界(くにざかい)は、東西・南北それぞれ数千里、西界と南界はいずれも大海に達し、東界と北界にはそれぞれ大きな山があって境界をつくっている。その山の向こう側が、毛ぶかい人の住む国なのである』

とも言う。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.211)

読み進んでいくと、魏の時代から唐の時代まで通交していた倭国とは別の国である日本国が、唐に使節を派遣してきたことが記されている。そして文章の中に、わが国においても名前が記録されている粟田真人、阿倍仲麻呂、空海らが、唐に来たことが記されている。

『旧唐書』東夷伝においては、冒頭で日本国が倭国とは異なる国であることを述べておきながら、日本国が倭国を併合したのか、倭国が名前を改めて日本国となったのか、真相が掴めきれていない書き方になっている。中国にとっては、これまで通交のあった倭国とは異なる日本国の使節がやってきて、「倭国が国名を変えた」とか「日本国が倭を併合した」とか説明を受けても事実が確認できるはずもなく、どこまで話を信用して良いか悩んだ末に、倭国とは別の国だという日本国の使節の説明にもとづき、「倭国」とは別に「日本国」の記録を残すことにしたのだろう。

ところで唐の時代の正史は、後に書き改められた、『新唐書』という史書がある。唐の時代の同じ時代のことを書いた正史が書き改められた理由は、Wikipediaによると「編纂責任者が途中で交代するなどして、一人の人物に二つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった」ために、北宋の嘉祐6年(1060)に再編纂されたものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8

この『新唐書』東夷伝には、「倭国」の記録はなく、「日本国」の記録に一本化されている。
そこにはどう書かれているのか。現代語で一部を紹介したい。
原文と読み下し文は、次のURLで読むことが出来る。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/shintoujo/shintoujo_frame.htm

日本は古(いにしえ)の倭の奴国である。都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。その国土の広さは東西は歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月の行程である。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.269)
と、『旧唐書』の倭国を紹介する文章とほとんど同じである。

もう少し読み進むと、「倭国」「日本国」の関係について書かれている。

「咸亨(かんこう)元年(670年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(668年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
『わが国は太陽の出る所に近いから、それで国名にしたのだ』と。
また、こういう説もある。
『日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ』
使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。またその使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向うは毛人の住む地だ、などと言っている
。」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.272)

とあるのだが、先ほどの『旧唐書』では「小さな日本国が倭国を併合した」という説があると書かれていた。ところが、『新唐書』では「小さな日本国が倭国に併合され、倭国が日本国の国名を奪った」という説があると書かれている。

中国と古来通交のあった倭国を日本国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日本国を併合して新しい国名を「日本国」としたのか、その違いはとんでもなく大きい。
もし前者の視点である『旧唐書』の記述が正しいとすれば、わが国の古代史は全面的に書き直さねばならなくなるだろうし、後者の『新唐書』の記述が正しいとしても、4世紀後半までに大和朝廷がわが国を統一したという話は、日本国が余程小さい国でない限りは成り立たないだろう
わが国の歴史家の大半は、後漢書や三国志、隋書などのわが国に関する記述を重視している割には、『旧唐書』や『新唐書』の記述を軽視し、わが国の『日本書紀』の記述を重視していると思わざるを得ないのだ。

このブログで何度か書いているが、いわゆる『正史』と言われる歴史書は、自国についてはその時の為政者にとって都合よく書かれることが多くて当たり前だ。しかしながら他国のことに関しては、真実の追求に限界があるとしても、外交・安全保障観点からできるだけ正しく分析して後世に記録を残そうとする傾向にあるものであり、嘘を書く動機が乏しいものであるはずだ。したがって、わが国の歴史学会が、『旧唐書』あるいは『新唐書』の記述を軽視することはおかしなことだと思う。
古田武彦
逆に、『旧唐書』の記述に注目した歴史家もいる。
九州に日本を代表する王朝が存在したという古田武彦氏の「九州王朝説」は、日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明でき、説得力もあると思うのだが、なぜか日本古代史学会からは黙殺されているようだ。

黙殺されるのは、この説を認めることは今までの古代史研究の成果を否定することに繋がることにあるという点が最大の理由であろう。わが国の古代史学会は『日本書紀』を重視しすぎて、戦前の皇国史観の影響を受けた歴史叙述を今も引きずっているとは言えないか。
失われた九州王朝
「九州王朝説」の中にも諸説があるようだが、この考え方に立つと九州から王権が移動し、ヤマト王権が確立したのは7世紀末という事になるのだ。

ここで7世紀の半ばから後半にかけて、日本列島でどんなことがあったのか拾ってみる。
645年 大化の改新(蘇我入鹿暗殺)。難波宮遷都。
663年 白村江の戦い
667年 大津宮へ遷都
672年 壬申の乱。飛鳥浄御原宮へ遷都
694年 藤原京へ遷都

大きな争いごとといえば「壬申の乱」がある。
壬申の乱については、天智天皇がなくなった翌年に天智天皇の子大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子のあいだに皇位をめぐる争いが起こり、大海人皇子が勝利し翌年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となったと学生時代に学んだ記憶がある。
天武天皇は天智天皇の同母弟であることについては『日本書紀』明確に書かれているのだが、不思議なことに天武天皇の出生年については『日本書紀』には何も書かれていないという。その理由は恐らく、天武天皇が天智天皇の弟であることが嘘であることが明らかになるからではないのか。
例えば次のURLでは、天智は671年に46歳で没し、天武は686年に65歳で逝去しているので、逆残して生年を割り出すと、天武のほうが4歳天智よりも年上であったことが書かれている。
http://www.i-live.ne.jp/~jkimura/history/tenji-tenmu.html

草壁・大津系図
また、天武天皇は天智天皇の皇女を4人も妃にしている。天智天皇と天武天皇とが兄弟であることはかなり疑わしいのだ。

さらに、平安時代に書かれた『扶桑略記』には天智天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま行方不明になり、天皇の靴だけは見つかったが、どこで亡くなったかわからない旨の記録がある。暗殺された可能性が極めて高いのだが、天武天皇とその側近が怪しいと誰でも思うだろう。

そもそも『日本書紀』は681年に天武天皇の命により執筆が開始され、720年(養老4)に完成した『正史』であるのだが、その編纂の目的は為政者の政治権力に正統性があることを史実として固定化させることにあったはずだ。
したがって、わが国に文字のなかった時代に、天皇家によってわが国が統一され、それからずっとその尊い血筋を引いているという物語を作らせたかったという側面を割り引いて『日本書紀』を読む必要があるのだと思う。7世紀以前の出来事については、中国の正史その他の記録とバランスよく読まないと、古代史の真実は見えて来ないだろう。

ところでこの『日本書紀』にも、わが国に別の王朝があったことを示している部分があることを書いた論文がある。読者の方から教えて頂いた情報だが、このことを書き出すとまた長くなってしまうので、次回にその内容を記すこととしたい。
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『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3

前回の記事で中国の正史である『旧唐書』に「倭国」と「日本国」とは別の国として書かれていることを紹介した。

そこには「倭国」は昔の倭の奴国であり、代々中国に使節を送っていた国であることが明記されている。
後漢書』には倭奴国が使節を派遣した際に光武帝が金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されている。『隋書』には阿蘇山のことが書かれている。普通に考えれば、「倭国」は九州にあったと考えるしかない。
そして『旧唐書』には、「日本國者倭國之別種也」と書かれており、「倭国」と「日本国」とは別の国であると当時の中国人は判断したのだ。

中国と古来通交のあった倭国日本国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日本国を併合して新しい国名を「日本国」としたのか、諸説があって当たり前なのだが、わが国の古代史学界では4世紀中ごろには天皇家を中心とする勢力によりわが国は統一されていたことが通説になっている。この通説の根拠は『日本書紀』を重視しているところにあるのだが、この説は明らかに中国の正史と矛盾している。

要するにわが国の大半の古代史学者は、4世紀中ごろに統一されたとする通説と矛盾する資料に、長い間目を塞ぎ続けているのである。
日本書紀

しかし、わが国の古代史学者が重視している『日本書紀』のなかに、わが国が統一国家でなかった事の重要なヒントがあるという、目からウロコの落ちるような論文がある。
このブログの読者の方から教えて頂いたのだが、1988年に中小路駿逸氏(元追手門学院大学教授)が書かれた「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文がそれである。
次のURLでその全文を読むことが出来る。
http://5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html

この論文は、『日本書紀』が編纂された頃の我が国は統一国家でなかった事を鮮やかに証明しているのだが、なぜかわが国の古代史学者からはほとんど無視されているようなのだ。
この論文の一部を引用しながら、この論文の内容を紹介することにしたい。

まず、『日本書紀』に次いで編纂された『続日本紀』には「書」という文字が使われていないという点に中小路氏は注目して、『日本書紀』の書名を決定する際に参考にしたであろう中国の歴史書のうち、「書」という字を国の名前のあとに付けた歴史書は、どのような歴史書であったかを検討するところから論旨が展開されていく。
中国の歴史書を年代順に並べると、『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国志(『魏書』『蜀書』『呉書』からなる)』、『晋書』、『宋書』、『南宋書』、『梁書』、『魏書(北魏書)』、『北斉書』、『周書(北周書または後周書)』、『隋書』、『南史』、『北史』となるのだそうだが、「書」という字で終わるものばかりではないのだ。

しばらく、中小路氏の文章を引用しながら説明する。
「すなわち、その書名に『史』を有する史書とは、複数の王朝についてその継起順に、本紀をまず掲げ、ついで列伝をつらねた体裁の史書なのである。
 では『志』のいた史書とは何か。
 …同時期に鼎立した三つの王朝のそれぞれについて紀伝体で叙述した三つの書を並列した体裁の史書である。つまり、たがいに並立した複数の王朝のなかの一王朝ごとに叙述した紀伝体史書を、全部並べて収めたのが『志』なのである。」(p.5-6)

次にいよいよ、「書」を有した史書の解説に入る。
「かくして、つまるところ、『なになに書』という史書は、何か。
 継起し、ときには並立しつつ興亡・交替した複数の王朝のうちの一つについて叙述した紀伝体史書。これが『なになに書』なのである。
 言いかえると、『書』に国号を冠した史書は、そこに冠せられた国以外に、継起、あるいは並立しつつ興亡した別の国が存在したことを、前提とし、ないしは指示しつつ書かれているのである。」(p.6)

そして、こう述べている。
「かれ、あるいはかれらは、問題の『書』の字の意味を、前例により知っていた。ゆえに『書』の字を入れたのである。
言いかえると、かれ、あるいはかれらは、この列島上にかれらの属する王朝以外に、それに先住し、または並立した、一つ以上の王朝があったことを知っており、その事実を知ったうえで、ただ、かれらの属する一王朝のみについて、その歴史を叙述した。すなわちこの書物の書名の『書』の字は、八世紀の天皇家の王朝とは別の、それに先住し、もしくは並立した1つ以上の王朝の存在を、前提とし、かつ指示しているのである。」(p.7-8)

さらに中小路氏は、『日本書紀』にも『古事記』にも古来わが国は一つの王朝であったとはどこにも書かれていないと述べている。これは重要な指摘である。
神武天皇
天照大神の孫にあたる人物の子孫である神武天皇が「東征」して、大和に来てそこで即位して初代王となったことが『日本書紀』に記されているが、「東征」の出発地である九州を統治していたとは書かれておらず、「東征」して大和に至った段階ではじめて「治」の字が用いられていることを指摘され、こう推理している。

こういうことが起こり得るのは、昔の王の“傍流の子孫”、すなわち代々の王位を受け継がなかった子孫のひとりが、本流とは別の一王権を、あらたに樹立したこと以外の何であろう。
 すなわち『紀』の本文は“わが朝”は古き九州の初代王の“傍流の子孫のひとり”を初代王としてはじまったのだ」と、明白に告げているのである。『古事記』の記載するところも、これと別段矛盾しない


このように受け取れば、自動的に、この列島上には九州の本流と、大和にできたそれの分流と、すくなくともこの2つの王権が――それら両者の関係が、ただの“並立”であるか、一方が他方に“統属”したかたちか、そのいずれでもないかたちのものであったかはともかく――存在していたとしるされているのだと、認めざるをえなくなること、必然である。」(p.11)

そう述べたあと、中小路氏は従来の日本古代史学会の研究手法を厳しく批判している。

「…従来の日本古代史に対する人々の思考の手順は、どうやら、おおむね次のようなものであったらしいのである。
まず、歴史について、特定の骨組みを、権威あり、かつ自明して不動のものとして据え、これを思考の前提とする。
その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する

そうやって、前提に合う範囲内で何らかの答えを出す。この場合史料の処理のしかたが研究者によって異なるから、随所に複数の答えが生じ、日本古代史は謎だらけのありさまとなり、そして、そうなった原因は、史料自体の不備に帰せしめられる。
そして、例の不動の前提の“本来の根拠”については、一切これを問わない。」(p.15)

このようなスタンスは、ある人に言わせれば、カルトのようなものである。これでは、戦前から続く古代史観が抜本的に変わることはあり得ず、いつまでたっても真実に到達することはできないだろう。

では、わが国が統一されたのは、本当はいつ頃なのだろうか。
わが国は『日本書紀』以降漢文体の正史が次々と書かれた。
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を『六国史』と呼ぶのだが、この書名の中に『書』の字があるのは『日本書紀』だけである
続日本紀
また『日本書紀』神代から持統朝までが書かれており、『続日本紀』は文武朝から書かれているのだが、『日本書紀』が奏上されたのは文武天皇の次の元明天皇のさらに次の元正天皇の養老4年(720)である。
なぜ『日本書紀』は前代の元明朝末までが記されず、持統朝で筆を止められたのか
初期天皇系図
中小路氏はその理由を、こう記している。

持統朝から文武朝への受け渡しには、わが朝の歴史を二分するほどの、何か、重大な意味を持つ変化が伴っていたからだ。…
そして、その“変化”とは、以後の史書には書名に『書』の字を用いる理由をなくさせる性質のものなのであった


端的に言おう。
持統朝の末期にあたる時期において、それまで列島上の一地方王権であった大和の王権が、九州まで ――― そしておそらく間もおかず、東国まで ――― 統一的支配下におく、列島上唯一の代表的王権としての実態をそなえるにいたっていた。そして、…この王権は列島上に唯一の、卓越した王権としての名と形式とを具備するにいたった。…」(p.17)

なるほど、持統朝以前は大和朝廷以外に別の王朝があったと考えれば『古事記』にも『日本書紀』にも中国の正史にも矛盾することはないのである。「4世紀の後半までに大和朝廷により全国が統一された」とは記紀にはどこにも書かれていない事であり、後世の人間が勝手にそう考えただけのことなのだ。

中小路氏の論文を読んで、初めて知ったことがいくつかあるのだが、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることもその一つである。
蘇我馬子が修行者を探し、播磨国に僧で還俗した恵便(えべん)という人物を仏法の師とし、仏教に帰依して仏殿をつくったことが、『日本書紀』に明記されているのだ。
播磨は今の兵庫県の南西部にあたる地域を指すが、『日本書紀』のこの記述は、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味している。

ネットでいろいろ調べていると、貞和4年(1348年)頃に成立した『峯相記』という書物に、兵庫県姫路市西北部の峰相山にかつて存在した「鶏足寺」という寺のことが書かれているという。
『峯相記』によると「鶏足寺」は神功皇后が三韓征伐の際に連れてきた新羅の王子が草庵を建立したのが当寺の始まりで、その王子は敏達天皇10年(581)に没したと書かれているそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%B6%B3%E5%AF%BA_(%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%B8%82
この記録から「鶏足寺」は日本最古の寺院と呼ばれているようだが、この「鶏足寺」が存在していたのが播磨の国なのである。
鶴林寺
そういえば播磨地域には古刹が多い。さきほど『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があると書いたが、蘇我馬子が仏法の師としたという恵便(えべん)法師の名が、加古川市にある鶴林寺(かくりんじ)の歴史にも出てくるのには驚いた。聖徳太子も恵便法師に教えを乞うたことが、鶴林寺のホームページにも書かれている。
http://www.kakurinji.or.jp/mainpage/top-kakurinji.htm
また揖保郡太子町には推古天皇14年に聖徳太子が建立した斑鳩寺(いかるがでら)がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%91%E9%B3%A9%E5%AF%BA_(%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AD%90%E7%94%BA)

ほかにも姫路市に随願寺(ずいがんじ)という寺があり、聖徳太子が高麗僧の慧便(えべん)に命じて開基した増位寺がその前身なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E9%A1%98%E5%AF%BA

聖徳太子
なぜ奈良から随分遠い播磨の地に、聖徳太子ゆかりの寺が多いのか長い間不思議に思っていたのだが、中小路氏の論文を読んですっきりした。
6世紀後半の敏達天皇の頃は、『日本書紀』に記述されている時代だ。
その頃わが国はまだ播磨国を領有しておらず、播磨国は独立した国であり仏教の先進国でもあったと解釈するのが正しい理解ということになるのではないか。
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関連記事

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4

前回の記事で、『日本書紀』の「書」という文字は、日本列島の中に「日本国」とは別の有力な国家が存在していたことを意味しているという中小路駿逸氏の論文を紹介した。この論文を読むと、「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」という日本史の常識に、誰しも大きな疑問を持つことになるだろう。

前回記事の最後に、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いたが、学生時代には「仏教伝来」は「538(ご参拝)」と年代を覚え、552年という説もあることを学んだ記憶がある。
584年説は中小路論文を読んで初めて知ったのだが、一体どの説が正しいのだろうか。

たとえば『もういちど読む山川の日本史』には、こう解説されている。
「百済の聖明王からの公式の仏教伝来の年代については、壬申年=552年と戊午年=538年の二説がある。」前者は『日本書紀』の説だが、その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっていることなどにより、信頼性が少ないといわれる。これに対し後者は、元興寺(飛鳥寺の後身)の由来を書いた『元興寺縁起』や聖徳太子の伝説『上宮聖法王帝説』が説くところで、これらの記事は『日本書紀』よりも古い史料にもとづいて書かれていると考えられ、当時の朝鮮半島の政治情勢からみても不自然ではないので、現在は538年の方が有力である。」(『もういちど読む山川の日本史』p.22)

いちおうもっともらしく書かれているが、古代史学は都合次第で『日本書紀』を重視したり軽視したりするところが面白い。
552年説、538年説、584年説は、どのような記録を根拠にしているのか、少し興味を覚えたので調べることにした。
日本書紀巻第19

まず552年説は『日本書紀』巻第十九欽明天皇13年(552)にこう書かれている。
「冬十月、聖明王は西部姫氏達卒怒唎斯致契(せいほいきしたつそつぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋(はたきぬがさ)若干・經論(きょうろん)若干卷をたてまつった。別に上表し、仏を広く礼拝する功徳をのべて『この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公・孔子もなお、知り給うことができないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を成し、譬(たと)えば人が随意宝珠(物事がおもうままになる宝珠)を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです。遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明(やつがれめい)は、つつしんで侍臣の怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣わして朝(みかど)に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです』といった。
この日天皇はこれを聞き給わって、欣喜雀躍され、使者に詔して『自分は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。けれども自分一人で決定しない。』といわれた。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.35-36)
蘇我氏系図

欽明天皇は蘇我稲目と物部尾輿、中臣鎌子に意見を聞き、物部尾輿と中臣鎌子は「仏を参拝すると国の神の怒りを受けることになる」と反対したが、蘇我稲目だけが賛成したという。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像などを授けて礼拝させることにしたのだが、後に国に疫病が流行し多くの死者が出た。物部尾輿、中臣鎌子はその原因は蘇我稲目が仏教を信奉したことにあるとし、天皇に仏像を捨てるべきであることを奏上し天皇もそれを認めたので、その仏像は難波の堀江に流し捨てられたことが『日本書紀』に明記されている

山川日本史によると、この『日本書紀』の記録については、「その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっている」ことを根拠に、この記録の信頼性が少ないと考えるのが定説となっているのだそうだ。

多数説とされているのは538年説なのだが、この説は『日本書紀』よりもあとに成立した『元興寺伽藍縁起』、『上宮聖徳法王帝説』の記録に基づくものだという。
そこにはこう書かれている。

大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度(わた)り来たるより創(はじ)まれり。(『元興寺伽藍縁起』:下記URLに現代語訳あり)
http://www.ookuninushiden.com/newpage24.html

志癸嶋(しきしま)天皇の御世戊午年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教并びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむる也。(『上宮聖徳法王帝説』)
http://www2.shiba.ac.jp/~shakaika/newpage4.htm

上宮聖徳法王帝説

「斯帰嶋」あるいは「志癸嶋」は欽明天皇が宮を置いた場所とされ、「天国案春岐広庭天皇」あるいは「志癸嶋天皇」は欽明天皇のことだと理解されているのだが、538年というのは宣化天皇三年であり、欽明天皇の御代ではないことがなぜ無視されるのだろうか。
欽明天皇の即位は540年で571年に崩御されたのだが、在位されている間に戊午の年は存在しない。538年説はどう考えても説得力が乏しいのだが、古代史学界ではこの説が多数説だという。

では、584年説についてはどのような記録があるのか。
『日本書紀』巻二十敏達天皇十三年の記録にこう書かれている。

「秋九月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩の石像一体をもたらした。佐伯連(さえきのむらじ)も仏像一体をもってきた。
この年、蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)は、その仏像二体を請いうけ、鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)と池邊直氷田(いけべのあたいひた)を四方に遣わして、修行者を探させた。播磨国(はりまのくに)に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした。司馬達等の女、嶋を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)といった。…善信尼の弟子2名も出家させた

馬子宿禰・池辺氷田・司馬達人たちは仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.67-68)

最後のところは原文では「佛法之初自茲而作」となっているが、この文章を普通に読めば、この出来事まではわが国では仏教は拡がっていなかったことになる。

以上、「仏教伝来」についての時期について、3つの説の根拠となっている記録を紹介したが、この中で一番まともな説は最後の584年説ではないだろうか。
前回紹介した中小路駿逸氏の「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文における仏教伝来についての記述が私には一番納得できる。この論文は次のURLで全文が紹介されている。
http://5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html

「(584年の)この事件が、『日本書紀』では「仏法の初め」と呼ばれているのである。
『日本書紀』のこの記述は、きわめて正常なものである。
第一に、仏法の伝来とは、僧または尼がその地で受け入れられ、供養を受けはじめることをこそいう。
第二に、右の事件に先立つ欽明十三年(552)に、百済王から仏像その他の物品が贈られてきた記事があり、世にはこれがわが国への仏法伝来を告げる一史料であるかのように扱われてきたが、記事そのものをそのままに読めば、これは僧が来たものでもなく尼が来たものでもなく、ただ“仏教文物”のみがもたらされ、しかも群臣の意見が徴された上で、天皇としても朝廷としても、仏法を受けいれないことにした事件である。
第三に、『日本書紀』にはこの欽明朝の事件が、仏法の初めとはされていない


ところで『日本書紀』に、仏教が播磨から伝わった事件が、たんに『仏法の初め』とのみしるされていることは、何を意味するか。
明らかである。
六世紀後半の敏達朝において、わが王権は、まだ播磨をも領せざる一地域権力であった。当然、播磨は、“我が国”とは別国、ないし別国に属する地であった。――そう『日本書紀』の問題の本文は告げている。――このことを意味する。
仏法が別の国からわが国に伝わって、僧(尼)の供養が行われはじめたときをもって『仏法の初め』と称する。『日本書紀』の記述ぶりは、まことに正常ではないか。」(p.13-14)

さらに中小路氏は538年説に対する反論もなされている。
「また上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起』に、欽明朝の戊午の年に百済から僧が派遣されて仏法が伝来したと書いてあるのは、仏法伝来には違いないものの『紀』にいう前記の『仏法の初め』とはまったく別の事件であって、すなわち欽明朝の大和の事件ではなく、大和よりまえに九州の宮廷に仏法が受容された事件であり、その年代は五世紀最初の戊午の年(418)である蓋然性が最も高いことも、私はすでに別に述べた。」(p.14-15)
と、中国や半島と通交のあった九州王朝においては5世紀には仏法が受容されていたと述べている。

いろいろ調べていくと、『三国史記』に中国の僧が朝鮮半島に仏教が伝えた記録があり、高句麗には372年、百済は384年に仏教が伝わり、それぞれ寺も建立している。また『三国遺事』には倭国(九州王朝)と緊密な関係にあった百済について、「阿莘王即位大元十七年(392)二月。教え下し仏法を崇信し福を求めさせる。」と書かれており、4世紀の終わりごろ百済は国を挙げて仏教が興隆していた時期であり、その頃に百済から九州に仏教が伝来した可能性はかなり高かったのではないだろうか。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html

もともと、『日本書紀』にも『古事記』にも古来わが国は一つの王朝であったとはどこにも書かれていないのだが、わが国の古代史は「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」ことを前提とし、中小路氏の言葉を借りると、「その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する」スタンスで研究がなされ、教科書の記述も同様だ。したがって、その大前提が崩れてしまうとわが国の古代史は全面的に書き換えざるを得ないことになる
釈迦三尊像
ちなみに中小路氏の専攻は日本文学だ。専門外の学者の指摘で「古代史」がひっくり返されるのは古代史学界の面子にかかわるとでも考えているのだろうか。
中小路氏の論文が発表されて25年にもなるのに、古代史学界の住人はこの論文を無視して、いまだにまともな反論をしていないようである。

前々回の記事で読者の方から、「その当時の出土品等はすべて大和に結び付けないと、学会やマスゴミから異端扱いされるか無視される。はては既知外扱いされますので研究者は本当のことが言えなくなります。現代の日本の古代史学会等は『カルト』と考えておけば間違いない」とのコメントを頂いたが、私もよく似た話を何度か聞いたことがあるし、ネットでもそのような記事が散見される。
学者である以上、既存の学会の権威を維持するためにではなく、真実は何かを追及するために全てのエネルギーをぶつけて欲しいものである。

古田氏や中小路氏らの提起した問題に斬り込まずして古代史の真実は見えて来ないと思うし、その問題に正面から立ち向かう研究者が古代史学界から数多く現われないことには、何年たっても教科書の古代史記述は変わらないのだと思う。
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法隆寺再建論争を追う

古代史の話題が続いて恐縮だが、今回は「法隆寺再建論争」のことを書くことにしたい。

学生時代に法隆寺は世界最古の木造建築物だと学んだ記憶があるが、その法隆寺が再建されたものなのか、建立された当時のままなのかという議論が明治時代からはじまっていて、若草伽藍の発掘が終わって再建論が確定したかと思いきや、未だに議論が続いているようなのだ。
法隆寺

では再建論と非再建論は何を根拠としているのだろうか。

論争のことを書く前に、法隆寺に関する『日本書紀』の記録を読むことから始めたい。

日本書紀』巻二十七天智天皇八年(669)の十二月には
「この冬、高安城を造って、畿内(うちつくに)の田税をそこに集めた。このとき斑鳩寺(法隆寺)に出火があった。」(現代語訳:『日本書紀 下』講談社学術文庫 p.234)

さらに翌年の天智天皇九年(670)の四月には
夏四月三十日、暁に法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。」(同上 p.235)とある。

「斑鳩寺」は「法隆寺」の古名であると考えられていて、上記の訳文には「法隆寺」とカッコ書きされているが、原文では「斑鳩寺」と書かれているだけだ。
このように「斑鳩寺」=「法隆寺」と考えるのが多数説で、この解釈ではわずか数カ月の間に二度も法隆寺が焼けて、二度目の火災で全焼したことが書かれていることになる。

しかし『日本書紀』の作者が、わずか数行の違いで同じ寺院のことを「斑鳩寺」と「法隆寺」と別々の名前で書き記すことは不自然であるとし、この2つの寺は別の寺であるという考え方もあるようだ。
私もその考え方の方が正しいのではないかと思うのだが、『日本書紀』に全焼したと書かれているのは「斑鳩寺」の名前ではなく「法隆寺」と記されているので、『日本書紀』を普通に読めば、法隆寺は全焼したと理解するしかない。(原文:「災法隆寺 一屋無餘 大雨雷震」)。

ところが、このような『日本書紀』の記録があるにもかかわらず、法隆寺は聖徳太子創建のままであるとの伝承が古くからあったようなのだ。
明治時代にこの『日本書紀』天智天皇九年(670)の記録を根拠に法隆寺再建説が出され、これに対して建築史・美術史の立場から反論が行われて、歴史界を二分する論争となったという。

法隆寺再建説は、『日本書紀』のこの記録は信頼できるものであるとする立場だが、非再建説は、以下のようなものであったとWikipediaに纏められている。

「・法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている
・薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である
日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。など」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA

「論争」という言葉のイメージとは異なり、議論がまったくかみ合っていないのだが、要するに非再建説は、自説に矛盾する『日本書紀』の記載が誤りであるとして強弁している。
前回の記事で中小路駿逸氏が古代史学界を批判した「その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する」スタンスそのものである。

もし法隆寺が創建以来一度も火災にあっていないならば、『日本書紀』に火災の記録のある天智天皇九年(670)以前の遺物が沢山出て来なければ筋が通らない。
再建説の論客であった喜田貞吉(きた さだきち)氏の『法隆寺再建非再建論の回顧』という論文が青空文庫にあり、それを読むとこう書かれている。
天平十九年(747)の資財帳を見るに、法隆寺にはその寄附者及び特に年代を明記する程の由緒ある遺物は、通計百六十八点に達していたが、その中天智天皇九年(670)以前の物は、僅かに釈迦・薬師の両本尊と、片岡御祖命なる人の寄附に係る金銅幡との、ただ三点あるのみであった。その後和銅初年(708)以前の物と認むべきものが七点で、その他の百五十八点はことごとく和銅以後天平十九年以前の物のみである。しかるに同じ年の大安寺資財帳を見ると、この寺は草創以来明らかに数度火災に罹ったもので、ことに扶桑略記によれば、近く和銅四年(711)にも炎上し、大安寺碑文と称するものにもこの寺焼失の事が見えているにかかわらず、その現存遺物の数においては、これも法隆寺と同じく、寄附者及び年代を特記する程の由緒ある物総計百六十三点の中、天智朝(668-671)以前の物実に十五点、和銅初年以前の物四点、その以後の物百四十四点となっているのである。これはむしろこの法隆寺が、天智天皇九年において、一屋無余と云われる程の大火災に罹ったが為に、かくその以前の貴重なる遺物が伝わらなかったと解するを至当とすべきものでなければならぬ。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49819_44337.html

要するに喜田貞吉氏は、天平19年(747)の資財帳で確認すると世界最古の木造建築だという法隆寺よりも、和銅4年(711)に炎上した記録のある大安寺の方に、はるかに多くの古い文化財が残されていた記録が残されている事実を指摘しておられる。『日本書紀』に法隆寺が焼けたという記録のある天智天皇九年(670)以前のものは、法隆寺に3つしかなく、大安寺の方がはるかに多かったようなのだ。
こういう「不都合な真実」を無視する非再建論者を喜田氏は、先ほど紹介した論文でこう批判している。

「法隆寺が天智天皇九年庚午の歳四月三十日の夜半において、一屋無余の火災に罹ったとの日本紀の記事は、何としても絶対疑うべからざるものである。これを裏切る一切の諸説は、そのいかに実らしく見えるものといえども、ことごとく採るに足らざるものである。またこの絶対的信用価値ある史料の真価を解せずして、実物上の研究より組立てられたる一切の非再建説は、ことごとく妄想に過ぎざるものである事を断言する。」

この論争の解説を普通の人が普通に読めば、再建説の方がはるかに説得力があるように思うのだが、当時の非再建論者は何にこだわったのかが気になるところだ。
Wikipediaによれば、非再建論者は建築史上の様式論にこだわり、「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念があったというのだが、わかりやすく言うと飛鳥→白鳳→天平と展開していく建築様式の変化の中で、法隆寺を一番古い飛鳥様式としていた通説が、再建があったかなかったかで根本から崩れることになってしまうということなのだろう。
建築史の学者だけではなく、美術史の学者も同様に非再建説を唱えた。
法隆寺には飛鳥、白鳳時代の仏像や絵画が集中しているとされていたために、法隆寺が焼失していたとすれば美術史の通説も書き換えざるを得なくなると考えたのではないか。
法隆寺伽藍址

要するに、主に建築史、美術史の学者がそれぞれの通説を守るために、長い間噛みあわない論争が続けられたようなものだが、昭和14年(1939)に「若草伽藍」の発掘調査がなされ、伽藍配置が四天王寺式(中門・塔・金堂を南北一直線に配する様式)であったこと、また当該地に焼跡が確認され、再建説を決定的たらしめる発見が相次いだ。

法隆寺壁画片記事

また、2004年12月には、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表されて、今では再建説が主流となっているのだが、しかし非再建説が完全に否定されたというわけでもないようだ。

法隆寺五重塔心柱

X線を使って樹木の年輪からその木の樹齢を割り出すことが出来るのだそうだが、その測定方法により法隆寺の五重塔の心柱を測定すると594年に伐採された檜であることが確認されているという。

また、法隆寺金堂の釈迦三尊像の台座裏から、「辛巳」(621年)の年号のある墨書が見つかっている。さらに平成3年には、下壇の台脚部裏から墨絵の天部像と数種類の墨書が発見され、近年の奈良国立博物館と奈良国立文化財研究所の調査によると、これらの制作年代は七世紀前半を下らないとの結果がでたのだそうだ。
法隆寺金堂柱

そればかりではない。法隆寺金堂の中にある天蓋に使われている木材も606年ごろに伐採された木材が使われているという。
『日本書紀』に法隆寺が全焼したという記録があるのは670年のことである。なぜ、そんなに古い木材が残されているのか、誰でも不思議に思う。

また阿弥陀如来像の台座裏からは、七世紀初めの朝鮮半島から日本を訪れた使節をスケッチしたと見られる人物像が発見され、このことが非再建論にまた火をつけることになったそうだ。

法隆寺金堂

法隆寺金堂の火災が拡がる前に、釈迦三尊像などが安全な場所に運び出さすことが出来たのか、もしくは、法隆寺は火災後に一部の寺の建物が移築され、その時に釈迦三尊像などが運び込まれたか、いずれかということになるのだろうか。

前回および前々回の記事にも書いたが、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録がある。それまでは大和には僧侶もいなかったし、寺院もなかったと考えるのが自然だ。
次のURLは古田武彦氏の説を支持しておられる大越邦生氏の論文だが、それによると「法隆寺西院伽藍と同型(≠同笵)の瓦は西日本から九州にかけて広く分布」しており、とりわけ播磨にあった2つの寺に注目しておられる。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tagen44/oogosi44.html
果たして法隆寺は、播磨以西の大寺から移転されたのか。果たして、法隆寺の移転を裏づける、大量の瓦や古代寺院の伽藍址が発見される日は来るのか。
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聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか

以前このブログで、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いた。「播磨」は今の兵庫県の南西部にあたる地域のことである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html
このことは、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味しているのだが、どういうわけか『日本書紀』巻二十の重要な記録が日本史の通説で取り上げられることがないのだ。そこにはこう記されている。

「(敏達天皇13年:584年)秋9月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の石像一体をもたらした。佐伯連(さえきのむらじ)も仏像(ほとけのみかた)一体をもってきた。
 この年、蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請いうけ、鞍作村主司司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)と池辺直氷田(いけべのあたいひた)と四方に遣わして、修行者を探させた。播磨国に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした。司馬達等の女(むすめ)、嶋(しま)を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)といった。――年齢11歳。――善信尼の弟子二人も出家させた。その一人は漢人夜菩(あやひとやぼ)の女 豊女(とよめ)で名を禅蔵尼(ぜんぞうのあま)といった。もう一人は錦織壺(にしこりのつぶ)の女 石女(いしめ)で、名を恵善尼(えぜんのあま)といった。馬子はひとり仏法に帰依し、三人の尼をあがめ尊んだ。三人の尼を氷田直(ひたのあたい)と達等に託して衣食を供させた。仏殿を馬子の家の東方に造って、弥勒の石像を安置した。三人の尼を招いて、法会の斎食(いもい:仏に備える食を盛った椀)を供した。…
馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等たちは、仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀』p.67-68)

最後のところは原文では「佛法之初自茲而作」となっているのだが、この文章を普通に読めば、この出来事まではわが国では仏教は拡がっていなかったことになる

百済聖明王

日本書紀』には欽明天皇13年(552)年に百済の聖明王が使者を遣わして、わが国に仏像や経典を伝えた事が書かれているが、僧侶や尼が来たわけではなくただ仏教文物が宮中にもたらされただけのことで、このことがわが国に仏教が広まるきっかけになったとはどこにも書かれていないのである。わが国の仏教の広まりは、『日本書紀』に明確に書かれているとおり、敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国にいた恵便という僧を師としたことから始まるのである

とは言いながら、仏教は容易には広がらなかった。翌年の敏達天皇14年(585)には排仏派の物部守屋が「蘇我氏が仏教を広めたことで疫病が流行した」と奏上し、敏達天皇はその言い分を認めて「早速仏法をやめよ」との詔を出しておられる。そこで物部守屋らは仏像と仏殿に火をつけ、さらに善信尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち:奈良県桜井市)の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭打つ刑にしたと、『日本書紀』に記されている。

仏教の受容をめぐる蘇我氏と物部氏との対立はその後も続いて、587年の丁未の役で蘇我馬子が武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着し、その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位(593年)してようやく仏教受容に対する抵抗勢力が消滅して、わが国に仏教が急速に広まっていくのである。

ではなぜ、仏教がわが国で広まっていない敏達天皇の時代に、播磨国に恵便という仏教の僧侶がいたのだろうか。
朝鮮半島に於いて、わが国より先に仏教が伝えられていた。、百済・高句麗には4世紀の終わり、新羅には5世紀の初めに伝わったと言われているが、わが国にはこの頃朝鮮半島からわが国に渡ってきた渡来人によって、宮中に仏教が伝わる以前から仏教が信仰されていたようである

Wikipediaに、先ほど引用させていただいた『日本書紀』巻二十の敏達天皇13年の記録に出てくる司馬達等という人物の解説がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%94%E7%AD%89
それによると司馬達等は継体天皇16年(522)に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したということが『扶桑略記』という書物に記されているという。この司馬達等の孫が法隆寺金堂本尊の国宝釈迦三尊像を制作した仏師である鞍作止利(くらつくりのとり)である
また司馬達等とともに仏法を深く信じ修行を怠らなかったと書かれていた、池辺氷田という人物も中国系の渡来人である。

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蘇我馬子の仏教の師となり、わが国に仏教を広めた播磨国の恵便も渡来人であったが、弥生時代以降、数多くの渡来人が日本列島に移り住んでいた
『日本書紀』には断片的に渡来人のことが書かれているので一部を紹介すると、欽明天皇元年(532)の8月に、「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)ら近くの国から帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して戸籍にいれた。秦人の戸数は、全部で七千五十三戸で、…」と書かれている。渡来人は戦火を逃れて来た人々と考えられており、5世紀末に百済が高句麗に圧迫されると、さらに多くの人々が日本に渡来してきたという

煬帝

『隋書倭国伝』を読み進むと、第二代皇帝の煬帝(ようだい:在位604-618)が608年に倭国に使者を送ったことが書かれていて、そこには倭国と他国との位置関係についてこう記されている。
「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。裴世清はまず百済(ひゃくさい)に渡り、竹島(ちくとう)*に至った。南方に𨈭羅国(たんらこく)*を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻国(つしまこく)*に至り、そこからまた東に航海して一支国(いきこく)*に着き、さらに竹斯国(つくしこく)*に至り、また東に行って秦王国(しんおうこく)*に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。それでそこが夷洲(いしゅう)と思われるが、はっきりしない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する**。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)」
*竹島(不明。済州島の近くの多島海のどれかの島であろう)、𨈭羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国(不明。山口、広島県方面か。新羅系の秦氏の居住地とも考えられる。)
**原文では「竹斯國以東皆附庸於俀」

この文章を普通に読めば、筑紫国と倭国とは別の国であり、倭国は筑紫国の東にあった。そして倭国の中に中国系の人々が住む地域があったと理解するしかない。
中国の正史にこのような事が書かれていることをわが国の教科書に載せないのは、4世紀に大和朝廷がわが国を統一したという通説と矛盾するからなのか。

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渡来人は中国系だけでなく百済系、新羅系、高句麗(高麗)系の人々もかなりいた。
渡来人の人口については教科書には記されていないが諸説があり、渡来人は日本列島の原住民よりもはるかに多かったという説が結構有力なようだ。当時は統計記録があった訳ではないので詳しいことは分からないが、日本列島に住む人々のかなりの割合を渡来人が占めていた可能性が高そうだ。

そして、渡来人の中で仏教の僧侶を経験した恵便という人物がいたというわけだが、驚くべきことに、わが国に仏教を広めたこの恵便という僧にゆかりのある寺院が、今も兵庫県にいくつか残されているのである。
前置きが長くなったが、どんな寺院なのか行ってみたくなって、これらの寺を巡りながら紅葉を楽しむ旅程を組んで先日探訪してきた。

まず最初に訪れたのが加古川市にある鶴林寺(かくりんじ)。

鶴林寺仁王門

上の画像は室町時代に建築された仁王門(兵庫県指定文化財)である。
仁王門の近くにある案内板にこの寺の略縁起が綴られているが、そこには
「当寺は今から千三百年余り前に物部守屋の難を逃れて隠棲していた高麗の僧恵便法師の徳を慕うて聖徳太子が来臨され、秦川勝(はたかわかつ)に命じ、太子堂を建立して釈迦三尊四天王を祀り四天王聖霊院と名付けられたのが始まりである
その後養老2年元正天皇のとき武蔵国の太守大目身人部春則が太子の偉徳顕彰のため七堂伽藍を建立し、境内二十四丁四面三百坊を有し、衛士百余人、楽人数十人、寺領二万五千石を領して反映した。
鳥羽天皇臨幸勅願寺となり、鶴林寺の額を賜り今日に至る。…」
とある。パンフレットによると創建は587年だとあり、589年という説もあるようだが、わが国で最も古いとされる蘇我氏の氏寺の飛鳥寺(法興寺)の建立を発願された年が用明天皇2年(587)で、推古天皇4年(596)11月に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」と『日本書紀』に記されている。鶴林寺はそれほど古い歴史を持つ寺なのである。

聖徳太子

鶴林寺の略縁起に聖徳太子の名前が出てくるのだが、聖徳太子は敏達天皇3年(574)に生まれというから、聖徳太子が13歳か15歳の頃に鶴林寺の前身である『刀田山四天王聖霊院』が建立されたことになる。
その後養老2年 (718) に武蔵の国司「身人部春則」が太子の威徳顕彰の為七堂伽藍を建立し、天永3年(1112)に寺号を「鶴林寺」と名を改めている。国宝の太子堂はこの年の建立と伝えられている。
太子信仰の高まりとともに鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、寺坊は三十数力坊、寺領2万5千石もあったというが、江戸時代には8カ坊117石に激減し、明治期の廃仏毀釈を潜り抜け、今では3カ寺、15千坪の境内となっている。

kakurinji.jpg

minagaさんのHPに鶴林寺の古写真や古絵図が紹介されている。
文化元年(1804)に出版された『播磨名所巡覧圖會:巻之2』に当時の鶴林寺の境内図が掲載されているが、この境内図を見ると、昔は本堂と太子堂や常行堂は回廊で繋がっていたようだが、今はそのような回廊はない。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/tou_kakurinji.htm

仁王門をくぐると、室町時代に建築された入母屋造の本堂(国宝)が見えてくる。

鶴林寺本堂

内陣には平安時代に制作された薬師三尊像と毘沙門天像、持国天像(いずれも国重文)が安置されているのだが、秘仏であるために60年に一度しか開帳されないのだそうだ。次回の開帳は平成69年なのだそうだがあと45年も待たねばならず、私のような年齢の者には観るチャンスはほとんど訪れないだろう。

鶴林寺太子堂

この本堂の東側にあるのが、平安時代に建築された国宝の太子堂。
内部は公開されていないが、堂内に安置されていた本尊釈迦三尊像(国重文)は宝物館で見ることが出来る。また堂内の壁画(「九品来迎図」「仏涅槃図」)も国の重要文化財に指定されているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真でようやく壁画を見ることが出来るそうだ。宝物館で、高木かおり氏により彩色復元された壁画が展示されている。

鶴林寺三重塔

この寺には、常行堂(平安時代)、鐘楼(室町時代)、行者堂(室町時代)、護摩堂(室町時代)も国の重要文化財に指定され、三重塔(室町時代)は兵庫県の指定文化財である。仏像や工芸品にも多くの国の重要文化財があり、「播磨の法隆寺」とも呼ばれているのだが、観光客は決して多くはない。
宝物館で重要な仏像や仏画が保管され展示さているのだが、平成15年(2003)に国の重要文化財である『聖徳太子絵伝』6幅と『阿弥陀三尊像』1幅、市指定文化財『釈迦三尊十六善神像』が、韓国人に盗まれる事件があった。

阿弥陀三尊像

『聖徳太子絵伝』『釈迦三尊十六善神像』は犯人逮捕により取り戻すことが出来たが、高麗時代の作品である『阿弥陀三尊像』は、韓国の大邱市の寺で2004年に発見されたものの、その寺は盗難品とは知らずに寄付を受けたものであるとして所有権を主張し、鶴林寺に返還される見込みはないのだという。

昨年秋にも、対馬の観音寺にあった長崎県指定文化財の観世音菩薩坐像が窃盗団によって盗まれた事件があったが、韓国政府は犯人を処罰しながらもこの仏像を国宝に指定して返還しない。
この手法は、平成6年(1994)に長崎の安国寺の宝物殿から『高麗版大般若経』493帖が盗難された時も行われていて、韓国政府は国宝に指定して返却する気がない。ネットで探すと他にも多くの文化財が盗難されているようだ。

国連教育科学文化機関(ユネスコ)憲章に「不法に搬出された文化財は元の所有国に戻すべき」と書かれているそうだが、わが国政府もただ韓国政府にただ調査を依頼するだけではなく、世界に事実をアピールし、返却のための本格交渉に取り組んでほしいものである。
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播磨の古刹を訪ねて~~~聖徳太子ゆかりの斑鳩寺と随願寺

前回の記事で、わが国で仏教が拡がったのは、敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国(兵庫県南西部)にいた恵便(えべん)という僧を師としたことから始まることが『日本書紀』に記されていることを紹介し、恵便ゆかりの寺として加古川市の鶴林寺を訪れたことを書いた。

実は7年ほど前にこの鶴林寺を訪れたことがあった。宝物館で貴重な展示物を見て、「凄い」とは思ったが、当時は「法隆寺よりも古い寺が兵庫県に在るはずがない」という考えに染まっていたので、寺の由来に後世の脚色がかなりあって信じ難いとの印象を受けた。
この寺をもう一度訪れたくなったのは、読者の方から中小路駿逸氏の「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文を教えて頂いたことがきっかけである。次のURLに、この論文の全文が掲載されている。
http://yourehazauei.at.webry.info/201208/article_7.html

その論文の中で中小路氏は、こう記しておられる。
「『日本書紀』に、仏教が播磨から伝わった事件が、たんに『仏法の初め』とのみしるされていることは、何を意味するか。
明らかである。
六世紀後半の敏達朝において、わが王権は、まだ播磨をも領せざる一地域権力であった。当然、播磨は、“我が国”とは別国、ないし別国に属する地であった。――そう『日本書紀』の問題の本文は告げている。――このことを意味する。
仏法が別の国からわが国に伝わって、僧(尼)の供養が行われはじめたときをもって『仏法の初め』と称する。『日本書紀』の記述ぶりは、まことに正常ではないか
。」(p.13-14)

中小路氏はその論文で、仏教が拡がりはじめた6世紀の終わりごろは、わが国はまだ統一国家ではなかったことを立証しておられるのだが、中小路氏の主張が正しいことは中国の正史である『隋書倭国伝』の前回記事で引用した部分を読めばわかることである。
この頃の播磨の地は、大陸からの渡来人が多く移り住んでいて、そのなかに仏教の僧侶を経験した恵便(えべん)のような人物がいた。その恵便を蘇我馬子が仏法の師とし、さらに聖徳太子が訪ねて鶴林寺の前身である四天王聖霊院が建てられたということなのだろう。
そして播磨には、ほかにも聖徳太子時代の寺院があるのである

「斑鳩(いかるが)」というと、誰しも奈良県の法隆寺のあるあたりを連想するところだか、兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)に「斑鳩寺」というお寺がある。鶴林寺の次は、この寺を訪れることにした。「太子町」という町名は、もちろん聖徳太子にちなんだ名前だ。

斑鳩寺山門

斑鳩寺の案内板にはこう書かれている。
聖徳太子がご開創になった霊刹である
推古天皇14年(606)秋7月、天皇は大使に請うて、勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜしめられた。そこで太子は豊浦宮でこれを講ぜられること三日で終った。その夜仏天が感応し給いて、蓮華の花が講演の地に降りしいたと伝えられる。この年又大使は法華経を岡本宮で講ぜられた。
天皇はその妙味を叡感され、播磨国揖保の郡に於いて、水田百町を太子に賜った。よって太子はこの地を鵤荘と名づけられ、一つの伽藍を営ませられた。これがすなわち当寺である。往古には七堂伽藍、数十の坊院がいらかを並べ、真に華麗を極めていたが、天文10年(1541)尼子政久の播磨侵入後の混乱の中惜しくも堂塔尽く焼失した。…
当寺は太子ご創建から1千年間は大和法隆寺の末寺的存在であったが、火災再建後天台宗となる。」

推古天皇が聖徳太子に播磨の国の水田百町を賜ったことは『日本書紀』巻第二十二にしっかり記されている。
原文では、
「秋七月、天皇請皇太子、令講勝鬘經。三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮。天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子。因以納于斑鳩寺。」
となっており、聖徳太子はその播磨の土地を「斑鳩寺」に納めたとあるのだが、通説ではこの「斑鳩寺」をわざわざ「法隆寺」と読み替える。しかしながら『日本書紀』には巻第二十七天智天皇紀に「斑鳩寺」と「法隆寺」と両方の寺の名前が登場している。普通に考えれば『日本書紀』でわざわざ別の名前で書かれている「斑鳩寺」が「法隆寺」と同じ寺を意味するとは考えにくいところであり、もしかすると聖徳太子が推古天皇よりこの地を授けられたことにより、この播磨の地に斑鳩寺が創建されたということではないかと考えてみたりする。

斑鳩寺大講堂

仁王門を潜ると講堂が見えてくる。御本尊の釈迦如来、薬師如来、観世音菩薩の三尊はいずれも国の重要文化財に指定されているが、秘仏として御開帳となるのは毎年2月23~24日の太子忌の期間だけなのだそうだ。

斑鳩寺塔

そして右手には国の重要文化財に指定されている三重塔が聳え立つ。この塔は永禄8年(1565)に再建されたもので、この寺で現存する一番古い建物である。

斑鳩寺聖徳殿

左手には聖徳殿があり、御本尊として聖徳太子十六歳孝養像が祀られている。この孝養像の御衣は親王皇家からの御寄進によりお召替えされるそうで、現在の御衣は高松宮殿下のご寄進により昭和37年2月に御召替えされたものだという。

宝物殿も見せて頂いたが、日光・月光菩薩立像(国重文)、十二神将立像(国重文)、聖徳太子勝鬘経御講讃図(国重文)など貴重な仏像・仏画などが展示されている。

斑鳩寺三重塔

しかし、これだけの文化財があっても観光客は思いのほか少なく、これでは受付に人を置いたり、建物の修復や維持管理、境内の清掃にかかわるコストをとても賄いきれないのではないかと心配になってくる。観光収入で潤っているのは京都や奈良などのごく一部の有名寺社のみであり、このような高齢化が進む地方では寺社を支える人々が少なくなるばかりで、このような地域の文化財を後世に残していくためには、もっと観光客が多く来なければならないのだと思う。

斑鳩寺庫裏

斑鳩寺の境内の奥に兵庫県の文化財に指定されている庫裏があるが、建物が歪んできたのかつっかえ棒で横から支えられていた。文化財の修理は宮大工を使うためにかなりの修理費用がかかるため、本格修理を先延ばしにしたいのではないかと思ったが、これ以上建物が傷まないことを祈りたい。

少し前にこのブログで法隆寺再建論争のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-10.html
『日本書紀』に法隆寺が全焼した(「災法隆寺 一屋無餘」)と書かれているのは、天智天皇9年(670)4月のことなのだが、どういうわけか今の法隆寺の西院伽藍の塔芯柱には594年頃に伐採された木が使われているという。常識的に考えてそんな古い木を使って再建されることはあり得ないし、またこんな早い時期には近畿には仏教は伝わっていなかったはずだから、法隆寺西院伽藍はどこかの建物を移築されたのだという説はかなり説得力がある
この説が正しいとすると、この時期に仏教が伝わっていた播磨以西から移築されたということになり、この斑鳩寺に注目している研究者もおられるようだ。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tagen44/oogosi44.html

斑鳩寺の方から勧められた「寿しえびや」という、仁王門のすぐ東にあるお店で昼食をとって、次に目指したのは姫路市街北方の増位山の山上近くにある随願寺
寺伝によるとこの寺は、聖徳太子の命により高麗僧恵便が開基した増井寺が前身で、天平年間(729~749)に行基が中興した寺院だという。
平安時代には諸堂が整備され、山上に三十六坊もある大寺であったそうだが、天正元年(1573)に別所長治に攻められて全山を焼失し、天正13年に羽柴秀吉が再興したそうだ。

随願寺 開山堂

駐車場から少し歩くと、奥の院である開山堂(国重文)が見えてくる。この建物は江戸時代に播磨姫路藩主であった榊原忠次(1605~1665)により再建されたという。

IMG_2173.jpg

開山堂のすぐ近くに榊原忠次の墓所があり、この唐門も国の重要文化財に指定されている。

IMG_2174.jpg

更に進むと大きな本堂(国重文)が見えてくる。この本堂も榊原忠次の再建によるもので、本尊の薬師如来坐像は県の指定文化財だ。天井には狩野探幽の天井画があるのだそうだ。

IMG_2182.jpg

経堂も鐘楼も国の重要文化財で、収蔵庫には毘沙門天立像(国重文)と貴重な文化財がいくつもあるのだが、広い境内にお寺の方がどこにも見当たらなかったので、拝観できなかったのは残念だった。

随願寺 本堂

この寺のあたりは電柱や電線がほとんどなく、境内や参道に繋がる道を歩いていると、タイムスリップしたような気分になる。結構良い写真が撮れるので近くを歩かれることをお勧めしたい。

普段は観光客が少ない随願寺だが、毎年2月11日に「鬼追い」という行事が行われており、その時は多くの観光客が訪れるようだ。
この「鬼追い」の歴史は古く、寺伝によると乾元元年(1302)に後二条天皇の勅定により、修正会(しゅしょうえ)の最後の日(正月の7日)に追儺会(ついなえ)を行なったのが始まりで、700年以上続いているのだそうだ。明治になって太陽暦に代わってからは2月8日に行われるようになり、昭和45年頃から2月11日に行われているという。
http://kobe.travel.coocan.jp/himeji/zuiganji_goma.htm

修正会というのは仏教寺院において毎年1月に行われ、前年を反省し、新しい年の国家安泰、五穀豊穣を祈願する法会だが、寺院によっては追儺(ついな)という鬼払いの儀式が行われる。

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ネットで多くの画像や動画を見ることが出来るが、随願寺の「鬼追い」は、なかなか特徴のある鬼の面である。
このような伝統行事を続けていくことは大変な事であるが、現在は随願寺愛存会 ・白国自治会・鬼の会などによって増位山随願寺修正会追儺会が維持されているのだそうだ。
http://hiroshi1950.fc2web.com/onioi2.htm

ところで来年の大河ドラマは「軍師官兵衛」で主人公が黒田官兵衛なのだが、この官兵衛の叔父・黒田高友は出家して休夢と称する僧侶となりこの随願寺の地蔵院に住んで、官兵衛に大きな影響を与えたと言われている。
また随願寺一帯は、別所長治と黒田方がたびたび戦火を交えた場所でもある。ドラマの中で黒田高友やこの随願寺が登場する場面があるのだろうか。
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紅葉の名所・養父神社と香住の帝釈寺を訪ねて

聖徳太子や恵便にゆかりのある寺を訪れたのち、兵庫県養父市にある養父(やぶ)神社に向かう。
養父神社は但馬では粟鹿(あわが)神社、出石(いずし)神社と並ぶ古社で、平安時代の延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳には名神(みょうじん)大社「夜夫坐(やぶにいます)神社」と書かれているそうだ。
名神というのは、神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、『延喜式』「神名帳」には日本全国で226社313座が記されておりWikipediaにそのリストが出ていて、但馬国に「夜夫坐神社」の名を見つけることが出来る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE

養父神社本殿

養父神社の歴史はかなり古く、『正倉院文書』の天平9年(737)但馬国正税帳に名前が出ているのでそれよりも古いことはわかっているのだが、いつごろ創られた神社なのか。
社伝によると第10代天皇である崇神天皇13年の創祀とあるのだが、崇神天皇は学術上、3世紀から4世紀の初めにかけて実在していた可能性が高い天皇であると言われており、神武天皇と同一人物ではないかという説が有力なのだそうだ。社伝が正しいとすれば1700年近い歴史がある神社ということになる。

一方、養父神社から近い養父町大藪には兵庫県下でも代表的な禁裡塚古墳など4基の巨大横穴式石室古墳と、多数の小規模古墳(大藪古墳群)が群在している。考古学の調査から、本古墳群は6世紀後半に築造が開始され、7世紀半ばまでに築かれたものであることが分かっているという。そのことから、6世紀後半以降に養父地域で養父氏(但馬氏)が夜夫坐神を祀り、大藪古墳群を残したという説もある。その説だとこの神社の歴史は1500年近いということになる。ネットで「但馬歴史文化研究書」の「但馬古代の地名」という論文が公開されている。
http://rekibuntajima.web.fc2.com/PDF/chimei.pdf

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古い社寺には紅葉の美しいところが多いのだが、この養父神社も但馬地方では紅葉の名所として有名な場所だ。訪れた日はちょうど「やぶ紅葉まつり」の期間中であったが、うまい具合に駐車場が空いて、待ち時間なく楽しむことができた。

養父神社紅葉1

朱塗りの橋と本殿の近くに枝ぶりが良く色鮮やかな楓の木が数多くあって、素晴らしい紅葉を見ることが出来た。
何枚か写真を撮ったが、観光客が多いとシャッターを押すタイミングがなかなか難しい。
下から紅葉と橋を狙ったほうがいい写真が撮れたかもしれない。

養父神社紅葉3

先ほど養父神社の近くに古墳が多いことを書いたが、いろいろ調べると兵庫県は日本で一番古墳が多い県なのだそうだ。しかも但馬地方にかなり集中している

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養父神社よりももう少し南の朝来市和田山町には5世紀前葉に築造された近畿地方最大規模の円墳である「茶すり山古墳」(直径90メートル)があり、また5世紀半ばに築造された兵庫県下で4番目に大きい池田古墳(全長170メートル)などがある。かつて但馬地方に強い政治勢力が存在したことは確実なのだ

ではこれらの古墳を築造した政治勢力とはどのようなものであったのか。

古代あさご館

翌日立ち寄った道の駅『但馬のまほろば』の敷地内にある『古代あさご館(朝来市埋蔵文化財センター)』の解説では、3世紀後半に但馬地区で、大和の大王と手を結んで力をつけた「但馬王」が誕生し、武力を背景に但馬地域を治めたのだが、大和朝廷は但馬王の影響力を削ぐために、但馬王の下の豪族とのつながりを強めて、武器を送り、寺院を築かせていったという趣旨のことが書かれていた。

ひょっとすると但馬王と何らかの関係があるのではないかと気になっているのが、『日本書紀』巻第六に記されている、垂仁天皇の時代に新羅の王子が但馬の地に移り住んだ天日槍(あめのひほこ)の話。『古事記』『播磨国風土記』などにも天日槍の記述があり、新羅の王子が渡来して、一族郎党とともにこの但馬に移り住んだというようなことが、実際にあったのではなかったか。

『日本書紀』の該当部分の翻訳文を紹介しておこう。
「(垂仁天皇)三年春三月、新羅の王の子、天日槍(あめのひほこ)がきた。持ってきたのは、羽太の玉一つ・足高の玉一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一つ(赤く輝く石の玉の意か)・出石の小刀一つ・出石の鉾一つ(出石は但馬の国)・日鏡一つ・熊の神籬一具(ひもろぎひとそなえ)、合わせて七点あった。それを但馬の国におさめて神宝とした。
一説には、初め天日槍は、船に乗って播磨国に来て宍粟邑(しそうむら)にいた。天皇が三輪君の祖の大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市(ながおち)とを遣わして、天日槍に『お前は誰か。また何れの国の人か』と尋ねられた。天日槍は『手前は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、自分の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきました』という。そして奉ったのは、葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠…(略)…合わせて八種類である。天皇は天日槍に詔して、『播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二つに、汝の心のままに住みなさい』といわれた。天日槍は申し上げるのに『私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるのなら、自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を選ばせて頂きたい』と言った。お許しがあった。そこで天日槍は宇治河を遡って、近江国の吾名邑(あなむら)に入ってしばらく住んだ。近江からまた若狭国を経て、但馬国に至り居所を定めた。…天日槍は但馬国の出石の人、太耳(ふとみみ)の娘麻多烏(またお)をめとって、但馬諸助(もろすく)を生んだ。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦は田道間守(たじまもり)を生んだ。」(講談社学術文庫『全現代語訳日本書紀(上)p.137-138』)

面白いことに、天日槍が一時住んだ近江国も若狭国もまた但馬国も鉄の産地なのだという。
http://www6.ocn.ne.jp/~kiyond/hiboko.html
また、但馬国一の宮である出石神社の主祭神がこの天日槍で、養父神社の祭神の五座のうちの一つが大己貴命すなわち「オオクニヌシノミコト」だという。
そして『播磨国風土記』では天日槍命は、オオクニヌシノミコトと土地を奪い合った神として描かれているというのが面白い。
http://koujiyama.at.webry.info/201007/article_17.html

養父神社の鮮やかな紅葉を見た後は、宿泊先の香住に向かう。
民宿の近くに帝釈寺(たいしゃくじ)という古そうな寺院があったので立ち寄ってみると、案内を読んで、ここにも聖徳太子が出てくるのに驚いた。案内板にはこう書かれていた。

帝釈寺

この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、仏教排斥派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが白鳳4年(676)年に下浜枕ノ崎に漂着しました。地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。午歳(うまのとし)のみに(12年目)開扉される秘仏として伝えられています。
その後、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、自ら一刀三礼の厄除聖観音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。室町初期には七堂伽藍を完備し一山寺院三十三坊を有する名刹となり隆盛をきわめたといわれています。…」

そもそも大阪湾に捨てられた仏像が日本海に漂着するはずがないし、捨てられた仏像をみて聖徳太子の制作によるものだと判断できるはずがないのだが、そういう伝承を残しながらも価値ある仏像を護持してきた歴史のある寺がこの香住にあるということに非常に興味を持った。

拝観には事前の予約が必要なので中に入ることは諦めたが、香美町のホームページに国重文の木造聖観音立像の写真と、県重文の木造帝釈天倚像の写真がでている。

http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1264032293716/index.html
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1264036103392/index.html

香美町教育委員会の解説によれば国重文の木造聖観音立像は平安時代のものとされており、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人が刻んだ伝承も実際は怪しいのだが、こんなに古くて貴重な仏像がこの寺に残されていることには驚かざるを得ない。
またこの寺院の庭園は香美町の指定文化財で、江戸時代初期の枯山水の名庭なのだそうだ。
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1267663758384/index.html

さらに帝釈寺には、文書にも貴重なものが残されている。
弘安8年(1285) 但馬国守護太田政頼は、蒙古襲来直後の軍事的目的で幕府に報告するために『但馬国大田文(おおたぶみ)』を帝釈寺の僧侶尊阿(そんあ)に書かせたのだそうだ。
帝釈寺にその写本が残っていてそこには13世紀ごろの但馬を知る貴重な史料になっているという。

帝釈寺本堂jpg

このような貴重な文化財が、わが国の中心地から離れた香住のお寺に残されているのは意外であった。
翻って今のわが国で、千年以上たってその価値が評価されるような建物や芸術品をどれだけ制作しているのか、と考えさせられてしまう。地方都市をドライブすると、コンクリートのバカでかい店舗と看板にうんざりさせられることが多い。
田園や古民家のある風景が破壊されて地域の魅力を台なしにするような開発を続けられては、古い社寺は残っても観光地としての魅力が失われていくばかりではないか。

ところで私は毎年この季節に紅葉を楽しんだあとで、解禁になった日本海のカニを食べることを楽しみにしている。
数年前に越前ガニを食べに行くつもりで有名なホテルに宿泊した時に、カニの産地を聞くとオホーツク海だと聞いてがっかりしたことがある。その時に、いくら都会人が地方の観光地を旅行しても、パックツアーでは地元の人々はほとんど潤わないことを直感した。

以前は大手旅行会社のバスツアーを良く申し込んでいたのだが、都会資本のホテルで宿泊し、ホテルの売店で買い物をし、観光地から随分離れたドライブインでみやげものをまとめ買いしてしまっては、観光地の地元の人々の収入になるものはわずかでしかないはずだ。
ホテルによっては重要な食材を地元で調達するとはかぎらないので、旅行者が払う旅行代金の大半は旅行業者やホテルが吸い上げて、純利益は地元の人々にではなく旅行会社やホテルの本社のある都市に蓄積されてしまうことになってしまう。
昔は、観光地の宿泊施設は施設の売店で多くの商品を置くことを控えていて、観光客は地元の土産物屋で多くの買い物をすることによって、その店で売る商品の生産・流通にかかわる地元の多くの人々が潤っていたのだが、今は多くの観光地で宿泊施設と地元との共存共栄の関係が崩れてしまっている。そもそも観光地の地元の人々が潤わずして、どうして観光地の歴史的文化や風土を守ることができようか。

そう考えるようになって、ここ数年の旅行は自分の車で好きな所を回り、なるべく地元の方が経営しておられるお店で食事や買い物をし、宿泊先も地元で獲れた海産物や農産物で調理する民宿や旅館などを事前に自分で探すことにしている。旅行する以上は、できるかぎり観光地の地元で頑張っているお店や企業にお金を払いたいからだ。

夕食2

宿泊先は地元の民宿で、夕食はもちろん松葉カニのフルコース。地元で食べるカニは身がしまり、味噌がたくさん詰まっていて、都会で手に入るカニとは全然違う。カニは、漁場に近い場所で、地場のカニを食べるのが最高だ。
この日は、聖徳太子や恵便にゆかりのある寺院や養父神社などを巡り、また大好きなカニを腹いっぱい食べることが出来て大満足だった。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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