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軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」

真珠湾の奇襲攻撃に成功してからほぼ3年が経過した昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に、M7.9の巨大地震が起っている。地震の震源は和歌山県新宮市付近で、断層の破壊は北東方向に進んで浜名湖付近まで達したという。

東南海地震震度

内閣府『防災情報のページ』にはこう記されている。
「…海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。…震度6弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県の御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波は伊豆半島から紀伊半島までを襲った。」
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1944-tounankaiJISHIN/

三重県津市や四日市市、静岡県御前崎市、長野県諏訪市で震度6を記録し、近畿から中部までの広範囲で震度5を記録したのだが、Wikipediaに都道府県別の被害が纏められている。
それによると死亡・行方不明者は全国で1223名で、愛知県438名、三重県406名、静岡県295名の3県で全体の93%を越えている。また、住居の全壊は静岡県が6970軒、愛知県が6411軒、三重県が3776軒で、この3県が全体の95%を越えている。

これだけ大きな被害が出たというのだが、この大地震に関してはあまり記録が残されていないようなのだ。その理由についてWikipediaにはこう解説されている。

「当時、日本は太平洋戦争の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が日本の国民や敵国に漏れることを恐れた軍部は情報を統制した。また翌8日が真珠湾攻撃3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)。地震についての情報は、(1面ではない)紙面の最下部のほうにわずか数行程度、申し訳程度に記載されただけで、しかも『被害は大したことはない』『すぐに復旧できる』といった主旨のこと、つまり実態とは大きくかけ離れた虚偽の内容が書かれたにとどまる。
また、被害を受けた各地の住民は、被害について話さないように、とする戦時統制に基づく通達が行政側からまわった。例えば学徒動員され、半田市の中島飛行機の工場で働いていた少女は、同世代の友人が崩れ落ちてきた屋根の下敷きになって死亡するのを目撃し自身も死にかけたが、そうした出来事・被害状況を『決して人に話さないように。話すことはスパイ行為に等しい』などと、教師から指示されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%9D%B1%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87


ここで、この時期に日本軍はどのような戦況にあったかを簡単に振り返っておこう。
昭和19年6月にマリアナ沖海戦で日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てと出撃潜水艦の多くを失う壊滅的敗北を喫し、西太平洋の制海権と制空権を喪失。7月にはサイパン島で3万人が玉砕し、11月24日以降米軍は、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島およびグアム島から新型爆撃機B-29で、日本本土への戦略爆撃を開始している。
ネットで東京が米軍に空襲された日を調べると、11月24日、27日、29日、30日、12月3日、6日と、随分高い頻度で繰り返し攻撃されているのだが、そんな最中に「昭和東南海地震」が発生しているのである。

昭和の動乱

この地震に関する記録はあまり多くないことを先ほど記したが、当時の小磯内閣で外務大臣を務めた重光葵(まもる)が、著書『昭和の動乱』に少しだけこの地震のことを記している。

重光葵

「…かくして、日本は国を挙げて日々焦土と化して行った。この惨状に直面しながら、食糧品を探し求める人々の声は悲痛であった。それにも拘らず、当時軍の主張した玉砕説は、当然のことのように考えられて、天皇の命ずるところとあらば、火の中にも飛び込む気持ちは、全国民にあった。
 空襲は、初期においては、名古屋一帯の工業地域に集中せられたため、同地域における軍需生産は多大の損害を受けたが、恰(あた)かもその際に起こったこの地方の大地震による損害は、空襲によるものよりも遥かに大で、豊橋地区は全滅し、ある種の精密工業は、恢復不可能の程度に破壊されるに至った。連日の空襲に加うるに、大地震の天災は、日本人にとってはまことに不吉のものであった。
 空襲と地震とによって、我が軍需工業は再び立つ能わざる致命的損害を受けた。にも拘わらず、軍需大臣以下の政府機関は勿論、工業経営者も労働者も、戦場における勇士の如くに、その職場に踏みとどまって災厄と闘った。飛行機工場の地下移転も考案され、幾分実現されたが、これは既に遅過ぎた。
 血と汗の奮闘で製作した飛行機及び船舶を初め多くの軍需品が、工場より送り出されたが、その少なからざる部分は、戦場に到着する前に海中に沈むか、また空襲により破壊された。」(中公文庫『昭和の動乱 下』p.270-271)
と名古屋一帯の工業地域が、「地震」で大損害を受けたと記されている。「津波」という言葉が用いられていないのだが、「軍需品が…海中に沈む」という言葉で伝えようとしたのだろう。

総務省のホームページに名古屋市における空爆の状況が纏められているが、名古屋市が本格的に空襲されたのは地震の後のことである。
「東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機は、全国発動機生産高の40%以上を生産していたが、昭和19(1944)年12月13日から翌年4月7日までに、7回の目標爆撃を受けて壊滅した。米軍資料によると、それらの爆撃により、全屋根面積の94%に破壊又は損傷を与えたとする。
 三菱重工業名古屋航空機、愛知航空機なども繰り返し爆撃された。工場疎開も行われたが、疎開先での生産は、その損失を回復するに至らなかった。」
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_06.html

そのような軍需工場に対する爆撃だけでなく、住宅地にも焼夷弾が投下されて多くの被害が出た記録は残されているのだが、重光葵は空襲による被害よりも地震による被害の方がはるかに大きかったと書いていることに注目すべきだろう。

ではこの地震による被害は具体的にどのようなものであったのか。
山下文雄氏の著書『津波てんでんこ』にやや詳しく書かれているので紹介したい。

津波てんでんこ

「この地震のため5万7千戸以上の住宅が全半壊、流失し、1200余の人々が死亡行方不明になっていたのである。…それどころか、日本航空産業の心臓部であった東海地方、特に愛知県で、飛行機工場の密集する名古屋の南部が大被害を受け、海軍の主力戦闘機、いわゆるゼロ戦を製作している三菱航空の道徳工場や、海軍の攻撃機などを制作していた半田市の中島飛行機山方工場などが倒壊し、動員されていた少年、少女たちが多数圧死する大惨事にもなっていた
 もっとも、これらの工場被害は、地震のためとはいえ、多分に人災の要素をもっていた。右の中島飛行機山方工場など、もともと明治時代に、軟弱な埋め立て地に建設した鋸形の紡績工場を接収し、飛行機工場にてんようしたものであった。しかも飛行機を製作するためには一定の広さを必要することから、転用に当たって、無謀にも中にあった柱を取り除いたりしていた。山方工場の当時の関係者から直接聞いた話によると、鋸で挽いて柱を切り取ったのだという。むろん、建物の耐震性に厳しい地震学者などには一切タッチさせなかった。こんな建物が震度6~7の地震に耐えられるはずがない。あっという間に倒壊して、右の山方工場だけでも97人の中学生や女学生(勤労学徒)を含む150人が圧死したのであった。」(『津波てんでんこ』p.110-111)

東南海大地震新聞報道

ところがわが国は、地震でこんなに大きな被害が出たことを国民に伝えようとはしなかったのである。山下氏は同じ著書でこう書いている。

「その12月8日。当日は米英に宣戦布告した『開戦記念日』、当時の言葉で言うと『大詔奉戴日』、つまりは宣戦布告についての天皇の詔勅が下った日とあって、新聞各紙は一面トップに天皇の大きな写真を掲載、それを飾るように特攻隊の出陣式の模様や、レイテ島に於ける斬込隊の武勇談などを満載していた。その裏の、ほんの片隅にあった『きのふの地震』(毎日新聞)、『昨日の地震―震源は遠州灘』(東京朝日新聞)などという小さな記事に、果たしてどれだけの読者が気付き、関心を持ったろう?いずれにしろ、これが戦時報道管制下でわずかに許された、前日12月7日に起こった東海大地震に関する記事であった。」

静岡新聞がこの地震に関する特集を2002年に連載していて、誰でもその記事をネットで読むことが出来る。地震被害の大きかった静岡県に本社を置く新聞ですら、僅か数行の記事しか書かれていないのは驚きだ。

「『昨日縣下に強震』『罹災者救助、復舊に萬全期す』。見出しも新聞の段数で縦二段、と目立たない扱い。県内の被害状況は短くまとめられている。
 それによると、『縣下一体にわたり道路の亀裂、堤防の崩壊等あつたが人的並びに家屋の損害は清水市以西に多く、発震と同時に数カ所に火災を発生した。いずれも即時消火し火災の被害は極めて軽微であつた。西遠地方の国民学校中には被害を生んだ処もあり学童も多少負傷した』となっている。」
http://www.at-s.com/news/article/others/36.html

しかしながら、この新聞記事が嘘であることは、当時の地元の読者は分かっていたはずだ。なにしろ静岡県では295名の死亡・行方不明者があり、6,970軒の住居が全壊したのだが、肝腎の津波のことを一言も報じていないのである。

情報統制はこの日以降も続き、山下氏の著書によると、地震被害の実態を新聞記者に伝えた人物が憲兵隊に連行されて拷問された話や、工場の休憩時間中に地震の怖さを話した女工が「敵に有利にデマを飛ばしたということになり」憲兵の取締りを受けたことなどが記されている。

東南海大地震調査概報

では、報道機関への情報の発信元となる中央気象台(現気象庁)はどのような記録を残しているのだろうか。
昭和20年2月20日発行の「東南海大地震調査概報」の表紙には「厳重注意」の但し書きがあり、肩には『極秘』の文字がある上、本文にもこう書かれていた。
『本報告ハ極秘事項ヲ含ムヲ以テ之ヲ厳重ニ保管シ其ノ保管状態ニ変動ヲ生ジタル場合ハ遅滞ナク発行者ニ報告シ用済後不用トナリタル場合ハ直チニ発行者ニ返却スベキモノトス』
http://www.at-s.com/news/article/others/38.html

尾鷲市津波の後

こんな具合に、軍はこの地震被害の情報を隠蔽しようとしたのだが、肝腎のアメリカでは日本の中部で関東大震災よりも強大な地震があり、津波が発生して軍需工場に壊滅的打撃を与えたことがニューヨーマタイムズ紙などでトップ記事で報じられたという。どうやらこの地震による津波がハワイやアメリカの太平洋岸に達して、これらの解析で震源地や地震の大きさを掴んでいたようなのである。
またアメリカは地震の3日目に偵察機を飛ばして、高度1万メートルから被害状況を調査していたようだ。その時に撮影した写真が米国公文書館に残されている。

三重県尾鷲市

上の画像は米軍偵察機が12月10日に撮影した三重県尾鷲の写真だが、○印の部分に津波で陸に打ち上げられた船が写っていることがわかる。記録によると尾鷲の津波の高さは5m~10mにも及び、そのために平地の家屋はほとんど全滅したのだそうだ。

ところで、この地震についてネットでいろいろ調べていくと、地震がアメリカによって人工的に起こされたのではないかという議論があることを知った。
その論拠としている資料はいくつかあるが、たとえば2005年4月に米国で公開された『地震を使った対日心理戦争計画』と題する米軍機密文書(1945年、CIAの前身である米戦略事務局OSSによって作成)で、それによれば第二次大戦末期の1944年にカリフォルニア大学のバイヤリー教授を中心とする地震学者たちが総動員され、 「日本近海のどこの海底プレートに強力な爆弾を仕掛ければ、人工的に巨大な津波を起こせるかシュミレーションを繰り返した」と書かれている。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=247223

この地震がわが国にとって戦意を高揚させるべき「開戦記念日」の前日に起こったことや、アメリカが直ちに偵察飛行機を飛ばして被害を調査していることや、地震の数日後にB29から撒かれたビラに「地震のつぎには何をお見舞いしましょうか」と毛筆で書かれていたとする情報も確かに気になるし、1945年1月9日の読売東京の朝刊には「日本本土沿岸の軍海域に天文学的数量の炸薬を設置して一挙にこれを爆発させることによって人工地震をおこさせよう」とする研究が行われていることが報じられているのも気になるところである。

人工地震記事

その1月9日付読売東京の記事にはこう書かれている。
「ランネーの計算によれば、大阪沿岸の海底約4千平方呎(フィート)に仕掛けて相当の地震を発生させるには五億トンの爆薬が必要であり、多数の潜水艦がこの爆薬を約六百万トン鋼鉄の筒に入れて、爆雷と同様三千呎の海底に沈下させなければならぬという。
しかもこんな苦労をして地震を起こしたとしても果たしてどの程度の地震が起こるか測定することは不可のだという結論が出てご破算、さすがのヤンキーもフームと唸っているという。」
アメリカに人工地震という構想があったことは確かだとしても、当時は原爆も完成しておらず、津波を起こすのに5億トンもの爆薬が必要であったというのである。ちなみに広島の原爆はTNT火薬に換算して20キロトンで、2万トンのTNT爆薬を一瞬に爆破した時の破壊力であったというが、その2万5千倍の火薬が必要だという計算になる。

それほどの量の火薬がアメリカにあったかどうかはともかくとして、潜水艦にそんな大量の爆薬を積み込んで海底深く沈める作業にアメリカが膨大な日数と労力をかけるとはとても思えないし、しかも津波実験が成功するかどうかもわからない。普通に考えれば、大量の火薬をそんな使い方で費やすよりも、空襲で用いることのほうがはるかに自然ではないか。
「地震のつぎには何をお見舞いしましょうか」というビラが撒かれたことが真実であったとしても、それはアメリカが仕掛けた「情報戦」とも呼ぶべきもので、自然災害をわが国民に対する恫喝の格好の手段として利用したのではないかと考えるのが妥当だと思う。

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【ご参考】このブログで地震についていろんな記事を書いてきました。
地震の被害は、観光地などでは死活問題となるため、多くの情報が握り潰されています。

よかったら関東大震災の事例を読んでみてください。

関東大震災の教訓は活かされているのか その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

関東大震災のあと日本支援に立ち上がった米国黒人たち~~米国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-265.html


関連記事

敗戦後の混乱期に日本列島を襲った「昭和南海地震」

以前このブログで「軍部が情報を握りつぶした『昭和東南海地震』」という記事を書いた。この地震は昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に起きた、和歌山県新宮市付近を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震のあと津波が発生し、全国で死亡・行方不明者は1223名、壊れた家屋が57千戸以上とされる大災害であったのだが、この情報が漏れることを恐れた軍部が情報を統制したため、詳しい記録が残されていないという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-420.html

そして、その地震からわずか2年後の昭和21年(1946)に、今度は潮岬南南西約50kmを震源とするマグニチュード8.0の地震が発生している。今回はこの地震のことを書いておきたい。

終戦の年である昭和20年(1945)の米の収穫高は例年にない凶作であったうえ、海外からの引揚げ者や復員兵の増加によって昭和21年(1946)に入ると食糧事情は急速に悪化し、配給米の遅配や欠配が続いたという。お金があれば闇米を買うことは可能であったが、庶民の手の届くような価格ではなかったようだ。都市部では餓死者が続出し、もっとも悲惨であったのは戦災孤児や空襲被災者たちで、彼らは食料と交換できるお金も品物も持ち合わせていなかった。
5月19日には皇居前に25万人が集結し、政府の食糧配給遅延に抗議する集会が開かれている(食糧メーデー)。

そのような暗い年の12月21日の夜明け前に、西日本を襲ったのが『昭和南海地震』である。地震のマグニチュードは昭和東南海地震(M7.9)を上回る規模であり、この時も津波が発生して死亡行方不明者が1443名、住宅全半壊が28274戸、流失浸水が30330戸、焼失が2598戸と多くの被害が出たのだが、人々の生活がそれぞれ自分の事で精一杯であったため、罹災者には国民的な支援が届かなかったという。

この地震においても津波が発生し、和歌山、高知、徳島の三県で多くの津波被害者を出したのだが、この地震で最大の被害が出たのは高知県で、679名の死亡行方不明者、住宅全半壊が13853戸もあったという。山下文男氏の『津波てんでんこ』に、津波の被害の大きかった須崎町(現須崎市)、多ノ郷村(現須崎市)の事例が解説されている。この地域の被害が大きかった原因の一つは、その地形とその産業にあったという。

高知県須崎市
【須崎湾】

「V字形の湾がくの字形になって入り組んだ須崎湾では、侵入してきた津波が、まず湾奥の真正面にある多ノ郷村を直撃し、破壊の限りを尽くした後、反転して、湾の入り口近くにある須崎町に背後から襲いかかり、惨憺たる被害をもたらした。
『(津波)が、貯木材、家屋などを逆巻きながら、須崎駅近辺に不気味な音をたてて、ゴロゴロ、ガラガラ、バリバリ、ベリベリと猛りたって急速に迫るや、まだ明けやらぬ暗がりの中、子は親を叫び、親は子を叫び、助けを求める悲痛な無限地獄を現出し、夜が白々と明けてゆく頃には、須崎駅付近に三十何名かの死体が横たわっていたことは涙なくして見ることが出来ない悲惨な光景であった』(『南海大震災誌』)」(『津波てんでんこ』p.142)

昭和南海地震須崎港

須崎湾奥にあった貯木場の木材が津波の引き波で市街地に流入したことが津波の被害を増大させたことは、須崎市が刊行した体験談集『海からの警告』にも多数事例が出ていて、津波のために凶器と化した木材によって多くの犠牲者が出たようだ。須崎市のホームページを見ると、今では木材が固縛されたり、津波バリアが築かれるなど対策が施されているようだが、このような対策は海沿いにある貯木場で全国的に行われているのであろうか。
http://www.city.susaki.lg.jp/life/detail.php?hdnKey=429

次に、高知県の次に被害の大きかった和歌山県の事例を見てみよう。和歌山県では269名の死亡行方不明者、家屋流出325戸、浸水11820戸、住宅全半壊が3411戸出たという。

和歌山県田辺市新庄町
【田辺市新庄町】

最大の被害地は新庄村(現田辺市)だそうだが、地図で確認すると大きなV字形の田辺湾の最奥部に当たる位置にある。湾の中に入り込んだ津波が、山に囲まれて次第に狭くなる地形の中で行き場を失い、次第に波高となって破壊力が増していくことになるので、このような地形は津波の被害が出やすいのである。

昭和南海地震 新庄村
昭和南海地震 新庄村】

前掲書によると新庄村の630戸のうち地震による倒壊は古い家屋2~3戸に過ぎなかったが、津波で79戸が流出し、401戸が浸水。全半壊が85戸を数え26人が死亡行方不明になったという。(p.137)

広川町
【広川町】

和歌山には新庄村と同様に歴史的に津波被害が良く出る地域として広川町(旧広村)がある。
地図で確認すると、広川町もV字型の湾の最奥部の位置にある。
安政南海地震の時に、五兵衛という人物が激しい地震の後の潮の動きを見て津波を確信し、高台にあった自宅から松明を片手に飛び出し、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々に火を着けて村の人々が高台に集まったことで村人を救ったという話は作り話であることを以前このブログで書いたが、この物語のモデルである濱口梧陵は津波対策の為に紀州藩の許可をとって堤防の建設に着手し、高さ5m、幅20m、長さ670mの大堤防の建設に着手し、建設費の銀94貫のほとんどを自費で賄ったと伝えられている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-19.html

安政南海地震津波と昭和南海地震津波の浸水域比較 赤線が広村堤防
【安政南海地震津波と昭和南海地震津波の浸水域比較 赤線が広村堤防】

この広村堤防は昭和19年(1944)の昭和東南海地震の時はその役割を果たしたが、昭和21年の昭和南海地震の時は津波の高さが5mと高く、堤防のある地域の被害は一部の家が浸水した程度にとどまったが、堤防のない地域で22名の死者が出たという。上の地図は気象庁のホームページのもので左が安政南海地震津波の浸水域で右が昭和南海地震時の浸水域である。薄い赤線が、濱口梧陵が建設した広村堤防であり堤防により津波被害を小さくすることが出来たことは明らかである。
https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/tsunami/inamura/p7.html

津村建四郎
【津村建四郎】

この広川町に生まれて子供の頃に昭和南海地震を体験した地震学者の津村建四郎さんが平成2年(1990)に行われた「第1回全国沿岸市町村津波サミット」で、みずからの体験をもとに語られた講演の内容が山下文雄氏の本に出ているので紹介したい。文中の「紡績工場」は気象庁地図にある「日東紡績」で、「八幡さま」は「広八幡神社」だと思われる。

「みなさん、津波を発生させる恐ろしい地震と、そんなに恐ろしくない地震の見分け方をお教えしましょう。ぐらぐらといつまでも揺れ続けている地震が海底で起こった場合は津波が発生する恐れがあると考えてください。私が子どもの時分に体験した昭和の南海地震はものすごい地震で、しかもかなりの時間、揺れ続けていました。揺れ自体は、5分後くらいにはおさまり、その後非常に静穏な時間がありました。『大地震があったら逃げろ』と教えられてはいましたが、やはりその時点では逃げなかったのです。その後、深閑とした時間が15分くらいあり、余震もあまり感じられませんでした。そのうち沖からゴーッという凄い音がしてきました。近所の人が『津波だ!』という叫び声をあげました。その途端『逃げろ!』という感覚がよみがえってきました。冬の午前4時20分ですから、真っ暗です。しかし地元ですから、どの道をどう行けば八幡さま(避難場所)への最短コースかは分かっていました。
 みなさん、家族そろって避難するという訓練をやっておられるかも知れませんが、実際に暗闇の中で津波が押し寄せて来るという状況の中では、家族そろって避難するなどということはまず出来ません。ですから、今、考えると、一人ひとり、子どもに至るまで、一人で逃げのびる方法を教えておくべきだったと思っています。私も路地を必死になって逃げました。家族ばらばらになり、早い者勝ちで逃げました。
 逃げる途中にある紡績工場のすぐ側には小さな小川が流れています。平素は2~3mの高さで、川底にはチョロチョロ水が流れているところです。私が紡績工場のすぐ側を通過した時には、数メートルの橋の上で、津波が足のくるぶしぐらいまで上がり始めた時でした。そこを必死になって突っ切りました。数十メートル行きますと、やや小高くなったところがあり、そこに辿り着いて助かりました。私の姉は、ほんの1~2分の差でしたが、水が橋の上の方まで来ていたので、川を突っ切ることができず、田園の中を必死になって逃げたそうです。腰ぐらいまで水につかりながら逃げのびました。もっと後れた人が、ここでたくさん亡くなりました。紡績工場のすぐ隣の社宅には、地方から来た、地元以外の人も大勢いらっしゃいました。亡くなった方々はそういう人たちが多かったようです。ですから常に津波が来た場合のことを頭に入れておくだけでなく、津波が押し寄せて来て非難するときは、どのルートを辿って逃げるのが安全なのか、普段から、そのルートを自然に行けるよう(子どもたちに)教えておく必要があると思います。」(同上書p.138-140)

平成23年(2011)3月11日の東北大震災の時は、関西でも随分長時間の揺れを感じたが、震度が低くても、揺れの長い地震は津波が来る恐れがあるので注意せよということだ。

徳島県海陽町浅川と牟岐町
【徳島県海陽町浅川と牟岐町】

徳島県もまた昭和南海地震の被害が大きく211人の死者が出たのだが、特に多くの死者が出たのが浅川村(現海陽町)の85人と牟岐町の53名で、いずれもV字形の湾奥に位置している。

昭和南海地震 浅川港
【昭和南海地震 浅川港】

浅川村住民の体験記をつづった『宿命の浅川港』にはいくつもの教訓的な体験談が収録されているという。再び山下氏の著書を引用する。
「辻肇(68歳)さんは『小さい頃から、津波が来るときには、一旦、潮が『ザーッ』と干いて(海が)からからになり、今度は怒涛のように押し寄せて来ると教え込まれとった。』けれども『目の前は、何分もたっとるのに、ちっとも干いとらなんだ。じっと見よったら『グッグッグッ』というような音がして水が浜の方へ盛り上がってきよった。『こりゃおかしい』と思って足早で帰った』『びっくりして庭へ降りたらもう水がきとった。』と語っている。
 津波は引き潮から始まるという知識は、一面的な思い込みに過ぎなかったことを示している。」(同上書 p.147)
「角田稼一郎という方の体験談だが、『家の中にあった井戸をのぞいてたけど水があったけん『津波やきいへんわ』という調子だった』。然し『まえに学校の先生に教えてもらうとったんは『地震が揺ったら必ず井戸の水が引く。それから津波が来る』ということやった』、と批判的に話している。
 …昭和の三陸津波の際、岩手県の田老村などにも同様の語り継ぎがあって、わざわざ井戸を覗きに行ったがために逃げ遅れてしまった人たちがあった。各地によくある、もっともらしい言い伝えだが、これも真に受けてはならない俗説の類であって、井戸水の干満など、当てにすべきことでもない。」(同上書 p.147-148)

私も小学校時代に津波の前に引き潮があるとか、井戸水が引く話を先生から教えて頂いた記憶があり、それが誤りであるとは思っていなかった。もしかすると津波に引き潮がある場合とない場合、井戸水が引く場合と引かない場合があるのかもしれないが、このような貴重な体験談は将来においても、人々の記憶に留めておくべきものだと思うのだ。

このような記録を集められた書物の多くは今では簡単に手に入らなくなってしまっているのだが、誰も読むことが出来ない状況が続くといずれ、貴重な体験談が忘れ去られてしまい、再び俗説がはびこることになってしまうのではないだろうか。自治体によってはHPに一部を公表しているところもあるようだが、先人が書き残した貴重な記録が、地元の人々だけではなくて、全国で幅広く読まれるように工夫していただきたいと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

浄瑠璃寺から岩船寺へ~~秋深まる当尾の里の名刹と石仏を訪ねて
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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