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若草山の山焼き

奈良には何度か行ったが、今まで若草山の山焼きを見たことがなかった。遷都1300年の今年こそは見てみたいと思い、天気も良いので家内と二人で久しぶりに奈良に行ってきた。

ちょっと奈良を歩こうと思って近鉄奈良駅に2時頃と早目に着いて、ひがしむき商店街、もちいどの商店街を抜けて、奈良町界隈を歩き、世界遺産の元興寺から春日大社に向かう。春日大社の本殿を参拝後、4時ごろに水谷橋付近の「茶亭ゆうすい」というところで早目の夕食をとったが、ついでながらこのお店の「奈良茶めし」は素朴な味でとても気にいった。茶粥も有名なようで、また奈良に行くときは立ち寄りたい店だ。

この「茶坊ゆうすい」から20メートル程下ると、山焼きの松明が点火される場所があることをお店の従業員から聞き、早めに店を出て、松明点火場で陣取りをする。5時5分からこの場所で春日大社の聖火が点火される予定だが4時45分頃に着いた時にはまだ人は少なく、良い場所がキープできた。

5時過ぎに雅楽道楽―僧兵―奈良奉行所役人―法螺衆―興福寺―東大寺―春日大社の順に総勢30名の行列が点火場に到着。

若草山の山焼き 036

用意されていた小さな火床に聖火が点火されると、次第に炎は大きくなり、そして松明の点火がはじまる。

若草山の山焼き 044

松明の火の勢いが強くなると、行列は若草山に向かって進みだす。点火場にいた人たちも行列とともに若草山に進む。若草山のふもとにはすごい数の人が集まっていた。外国人もかなり来ている。

若草山の山焼き 049

5時半ごろ行列は若草山麓にある野上神社に到着し、そこに用意されていたかがり火に点火してから、山焼き行事の無事を祈願する祭礼が始まる。僧侶も山伏も柏手を打ち、玉串奉奠をするところがなんとなく面白い。続いて東大寺、興福寺による般若心経の読経がはじまり、かがり火から大きな松明に火が移されていく。

若草山の山焼き 054

松明の火が勢いを増すと、松明を先頭に行列は野上神社を出て、山麓中央に設けられた大かがり火に進み、そのかがり火に火をともすと、炎が次第に大きくなり周りの人々の顔を赤々と照らす。

6時頃になると、中腹から花火が次々と打ち上げられる。
6時15分ごろ、花火が終わるといつのまにか、消防団が大かがり火から松明に火を移して若草山の正面の何か所かに火を運んで待機していた。

若草山の山焼き 083

法螺貝の合図とともに、若草山に一斉に点火されると、あっという間に火は拡がり、しばらく火の美しさに引き込まれてしばらく動けなかった。火は見る人の心を一つにして時間を止める。なんとなく京都の大文字の送り火を思い出した。

ところで、この山焼きはどういう経緯でいつから始まったのか。

「若草山焼き2010ガイドブック」によると、若草山の「三重目の頂上は前方後円墳の巨大な鶯塚古墳で、江戸末期頃までは、この鶯塚はウシ墓と呼ばれ、ここからでる幽霊が人々をこわがらせるという迷信が長く続いていたらしく、しかもこの山を翌1月頃までに焼かねば、翌年に何か不祥事が起こるといったことで、通行する人が放火し東大寺境内の方に火が迫る事件が再三起こりました。」
「元文3年(1738)12月に、奈良奉行所は…放火停止の立札を、山の枯れ草が青芝になる正月から三月まで立てましたが、…その後も放火事件が起こり、結局その犯人は検挙されぬまま、誰が焼くともなく焼かれるようになりました。」
「それは山上古墳の鶯陵に葬る霊魂を鎮めるそまびとの祭礼ともいうべき供養のためでもありました。」
とあり、「山焼きは社寺の境界争いのためと一部伝わっていますが『俗説』です。」と、境界争い説を明確に否定している。

しかし、このガイドブックの説明で、今まで何百年もあいだ、奈良の奉行所と興福寺、東大寺、春日大社が、毎年人と資金を出して協力して山焼きを続けてきた理由として、どれだけの人が納得できているのだろうか。

少し気になったのでネットで調べると、2007年の秋までの奈良県のホームページでは「領地争いが元」と書かれていたらしく、それを春日大社や東大寺、興福寺が訂正要求を出したために奈良県が修正した経緯のようだ。ということは、それまでは若草山焼きの由来は領地争いと考えるのが通説だったということだ。
産経ニュース2007.12.5
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071205/trd0712052153013-n1.htm

次のサイトを読むと、鎌倉時代の「南都年代記」という書物に建長7年(1255)、東大寺と興福寺との間で領地争いがあった記録などの紹介があり、それから以降も東大寺と、興福寺・春日大社との領地争いがあった物証があり、私は3社寺の間の領地争いが由来と考えることの方が自然だと考えますが、皆さんはどっちの説が正しいと思われますか。

「奈良歴史散歩No.047」
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm050.html
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明治期の危機を乗り越えた東大寺

以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。

東大寺明治5年

ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何本か組み立てられているのも写っている。「軒反り」といわれる軒先の 微妙な反りがほとんどなくなっている。現在の東大寺と比較すればその違いは明らかである。

東大寺

廃仏毀釈が吹き荒れた明治の初期の東大寺大仏殿がこんなに傷んでいて、大きな地震でもあれば倒壊してもおかしくない状況だったことを私が知ったのはつい最近の事だ。

当時の大仏殿は江戸時代の元禄期に再建されたもであったが、設計に狂いがあったために建築全体に歪みが生じ、建物全体が反時計回りに捻じれており、雨漏りもひどかったらしいのだ。

東大寺内の伽藍堂宇の造営修理に携わる勧進所が江戸時代の修理の際より東大寺塔頭の龍松院にあり、それ以来東大寺当局には大仏殿の管理権がなかったのだが、明治になって勧進職自体が廃止されてしまって、東大寺は大仏殿の修理のめどがつかなくなってしまった。

明治3年に東大寺は奈良県に、大勧進職の職名を復活することを嘆願したのだが、「大仏殿は東大寺全体で管理すべきものであり、寺禄により修理するように」との指示がなされ、次に明治政府に同様の申し出をしたが「全国で廃止している勧進職を復活することはできない」と突き放されている。

そして明治4年には寺領上知の令で土地が没収され、大きな収入源が断たれてしまい、各堂の賽銭などの収入では、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態になった。

さらに大きな問題は、それまで大仏殿の管理権を持っていた龍松院側が東大寺当局に大仏殿を引き渡すことを拒んだことである。本来ならば、勧進職である龍松院は大仏殿を修理する手はずを整えなければならなかったのであるが、大仏殿の賽銭収入や信者や有志から修繕費用を集める利権や資金などは手放したくなかったのだ。

ただしこの問題は奈良県が通達を出して、明治5年に大仏殿の管理権がようやく東大寺当局に移ることになるが、勧進職の復活を認めてもらえないために、修繕費用を集めることもできない状態が長く続いた。

年数がたち、天竜寺や東福寺で勧進許可の前例が出て、明治15年になって東大寺は大阪府(以前のブログで書いたように、当時は奈良県は大阪府に吸収されていた)に、国の巨額の寄付と信者の布施と勧進により財源を確保して大仏殿を修理したい旨の願書を提出している。しかしながら大阪府は、国からの寄付を拒否し、信者の布施と勧進だけを許可している。要するに、寺の修理の資金は自分で工面せよという考え方であった。

ところが明治政府の対応に若干の変化が出てくる。10月に大仏殿修理に関する寄付勧進許可が出た際に、宮内庁から500円の下賜があった。

東大寺側も全国的な勧進と信者からの布施を集めるための大仏会が組織されて、資金集めを開始するのだが、当初はなかなか資金が集まらなかったようである。当初の予算は42700円であったが、明治16年から25年までに大仏会で集めた資金は4600円に過ぎなかった。

そこで東大寺は明治25年に大仏殿営繕費下賜願いを明治政府に提出したところ、今度は寺社局長から3500円、内務省から6500円もの助成金が与えられ、ようやく修理が進むかと思われたが、あいにく明治27年(1894)に日清戦争が始まり、物価騰貴のために予算が約4倍の18万円に跳ね上がり、工事が中断されてしまう。

それでも多くの人の資金協力により明治36年(1903)に修理準備工事に入るも、翌年の日露戦争開戦でまたもや工事が中止となり、一層の物価騰貴となる。

明治39年に、再度予算を687,221円88銭に改定し工事が再開されて、上棟式にこぎつけたのは明治44年(1911)で、工事が完成して大仏殿落慶総供養が行われたのはなんと大正4年(1915)のことであった。もっと早く修理を終えていれば、こんなに資金も要らなかったであろうに。

貴重な文化財を修理することには莫大なコストがかかるものではあるが、これを寺院の自助努力だけでは到底不可能である。明治初期の廃仏毀釈の嵐がすぎて、日本の文化が再評価され出してから日本政府が完全に方針が変わるのは明治30年の古社寺保存法の公布の頃だが、それまでの東大寺の苦労は並大抵のものではなかったはずである。

文化財を後世に残すためには当事者の努力が必要であることは言うまでもないが、信者や国民に守る意思があり、国にもその意思があってはじめて守れるものなのである。
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東大寺二月堂のお水取り

例年3月1日から14日まで行われる東大寺の二月堂の「お水取り」だが、一回り大きい松明が欄干に並ぶ12日の「お松明」や最終日は毎年凄い人らしい。今年は平城遷都1300年に当たり、バスツアーでの観光客も多く例年以上の人出が予想されている。

修二会

「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、本尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。

旧暦の二月はインドの正月にあたるので、仏への供養を行うと言われているが、外国には修二会はなく、本当の起源ははっきりしていない。仏教伝来以前からの作法がかなり色濃く残されているとも言われ、神仏習合の不思議な世界を見ることのできる行事である。 東大寺のHPなどに書かれてあるが、修二会は良弁僧上が始めて以来過去一度も途絶えることなく続けられ、今年は1259回目になるそうだ。

しかし、東大寺は過去堂宇が焼失した歴史が何度かある。また以前ブログに書いたように明治初期の東大寺は収入源の大半が断たれ、傷みのひどかった大仏殿を長い間修復できなかった経緯にある。また太平洋戦争の時は多くの僧侶が徴兵されて戦場に行ったり空襲を警戒して灯火管制も厳しかったはずである。

これだけ長い期間にわたって途絶えることなく続けるということには大変な苦労があったことは容易に想像がつく。

いろいろ調べていくと、最大の危機は治承5年の時だそうだ。東大寺は前年の治承4年(1180)の12月に平重衡の兵火によって大仏殿が焼け落ち、大仏も上半身を失い、講堂や僧房など東大寺伽藍の大部分が焼けたが、二月堂は類焼を免れた。この時は、東大寺当局は「寺が復興したらまたやればよい」として「お水取り」の中止を決定したのだが、練行衆達が「大事な法会を、寺を修理してから元に戻して何の甲斐があるか」と反対し、東大寺当局とは関わりなく有志15人でこの行事を行ったとの記録があるとのことだ。

永禄10年(1567)の三好・松永の兵乱によってまた伽藍の多くを失ったが、この時も二月堂は類焼を免れている。この兵乱で焼失した大仏殿が再建されるのは140年後とのことで、その間は大仏様は露座のまま座っていたということだそうだ。

寛文7年(1667)2月に二月堂は満行に近い2月13日早朝に失火で焼失(明治以前は旧暦の2月1日~14日に行われていた)、現存の二月堂は、寛永9年に再建されたとある。この時は三月堂で「お水取り」が行われた記録がのこっているとのことだ。(「二月堂修中練行日記」)

明治時代の廃仏毀釈の頃は僧侶も人数も減り東大寺の存立そのものが危ぶまれたのだが、修二会は規模を縮小して守られ続けたそうだ。今は連行衆11名が二週間勤めているが、この人数は廃仏毀釈以降のことで、江戸時代は26人の連行衆がいて前後半それぞれ13人ずつだったそうだ。

太平洋戦争の時は、修行中の練行衆に召集令状が来て人手が足りないことがあったが、別の宗派のお坊さんが練行衆に加わってなんとか乗り切ったそうである。

しかし僧侶だけが時代の節目節目で苦労したのではない。この修二会は良質の竹やヒノキ材や菜種油などが入手できなければ成り立たない行事である。

京都新聞の「ふるさと昔語り」によると、竹は山城地域の竹が使われ、奈良へ向かう街道を通る旅人らがリレー式に運ぶ「竹送り」の風習によって、山城地域から二月堂まで届けられていたそうである。

戦国時代の天正年間の文書を読むと、山城地域で二男、三男を東大寺の僧にする大農家があり、大農家にとっては家の名誉になり、東大寺にとっては金銭や物資の仕送りが期待できるという関係にあったそうだ。

また江戸初期には、村の有力農民らが共同で二月堂に物資を送る講が各地に作られたという。 民衆のこのような素朴な信仰心が、僧侶達のモチベーションを高めて、いかなる困難をも乗り越えて、この修二会を長い間継続させてきた原動力になったのではないだろうか。

山城地区の竹送りは風水害などが原因で戦後いったん途絶えたが、昭和53年に復活し、今も、山城松明講によって、京田辺市の竹林から切り出された7本の竹が、毎年二月堂に運ばれているそうだ。
「京都新聞 ふるさと昔語り」
http://kyoto-np.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080208.html
「奈良日日新聞 竹送り700人が街道練る」
http://web1.kcn.jp/tsuzaka-silver-bbc/page221.htm
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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