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義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか

「眠れる獅子」と形容され、世界から一目置かれていた清国であったが、日清戦争で予想に反してわが国に完敗したあとは、弱肉強食の列強諸国が清国に猛然と牙をむき出して利権獲得に動き出している。
清国は三国干渉によって、日本から遼東半島を奪還したのだが、その代償は随分高くついたようだ。

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まずロシアは、1896年に露清密約を結んで満州を結びウラジオストックに至る鉄道敷設権を獲得し1903年より営業を開始したが、この東支鉄道がその後ロシアの対満侵略の経路となり、日露戦争を導く重要な役割を果たすことになった
東支鉄道は清国内に設置されたが、その土地も収入も免税とされ、その所有地はロシア側が絶対的かつ排他的な行政権を有するものとされていたという。

またドイツは、1897年に山東省で2名のドイツ人宣教師が殺害されたのを口実に、膠州湾を占領し、翌年にロシアと内応して膠州湾の租借権と山東省の鉄道敷設権と鉱山採掘権を獲得している。
ドイツの膠州湾占領を見たロシアはすかさず艦隊を派遣して、遼東半島の旅順と大連を占領し、1898年には遼東半島全域を租借地として獲得している。このことは、3年前に露・独・仏の三国干渉によりにわが国から遼東半島を取り戻した清は、その干渉の報酬として遼東半島をロシアに差し出したことになる。

またフランスはロシアと提携して清を圧迫し、1898年に広州湾の租借権を得ている。
三国干渉に参加しなかったイギリスも、同年に九龍半島と威海衛の租借権を得ている


列強の勢力範囲

このように清国は自国の領土をやりたい放題に列強に蚕食されているのだが、清の政治家はなぜ抵抗しなかったのかと誰でも思う。

菊池寛は『大衆明治史』でこう解説している。
「…康有為一派を中心とする光緒帝の進歩的な国政改革の企てはあったが、西太后はクーデターによって光緒帝を幽閉し、朝廷の実権は守旧的な諸王大臣によって占められてからは、もっぱら以夷制夷(いいせいい)の古いやり方一本で、その日その日をゴマ化している有様だ。そのため、列強の侵略に対して、中央地方を通じて、猛烈な排外、仇教の風が起こったのも当然であった。」(『大衆明治史』p.226)

以夷制夷とは「夷を以って夷を制す」ということで、中国が周辺民族対策に用いた伝統的政策である。それは、外敵同士を戦わせることで、自らは何もしなくとも外敵の圧力をそごうというものだが、そのような政策が出来るのは、自国が外敵と対等以上に戦う力があることが前提になることは言うまでもない。

外敵同志を戦わせるつもりが、いつのまにか自国の中を外国人勢力が跋扈するようになってしまったのだが、そのようなことを庶民が好ましく思わなかったは当然であろう。
1899年に山東省に起こった義和団は「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を唱えて排外活動を始め、それが見る見るうちに清国全土に拡がって行ったのである。

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彼らの排外活動とは具体的にはどのようなものであり、なぜ短い期間にそれが拡がったのだろうか。再び菊池寛の文章を引用する。

義和団というのは、一種の宗教的な秘密結社であって、彼らはみな集まって拳棒を練習して、その術に長じていたので拳匪(けんぴ)とも言われている。神術を得れば、槍も鉄砲も傷つけないと信じていて、呪文を唱えながら勇敢に戦うのである。
 彼らの唱える『仇教、滅洋』の口号は、外人の横暴に憤慨していた当時の支那民衆をうまく捉え、勢力が増大するとともに、諸所の教会堂を焼き、宣教師、教民を虐殺した。しかも、保守派で占められていた朝廷が、これらの暴徒を義民として庇護するや、義和拳匪は北支一帯に蔓延し、遂に天津居留地を攻撃し、北京の各国公使館区域を包囲するに至った。これが北清事変の発端である。」(同上書 p.226)

要するに西太后は、テロ活動に走る義和団を取り締まるのではなく義民とみなして、彼らによって国権を回復しようと図ったのである。そのために、急速に義和団が膨張し、過激化していったということだ。

そして1900年6月10日には20万人ともいわれる義和団が北京に入城している。当時北京には日・英・米・露・独・仏・伊・墺・西・蘭・ベルギーの計11ヶ国の公使館があったというが、それらの公使館のある区域が暴徒に取り囲まれてしまい、北京に至る鉄道や通信網までが破壊されて、約4千人の人々が孤立無援の状態になってしまった

「日本陸戦隊の外に、各国は各々7~80名位の陸戦隊を持っていたので、外国兵全部で430名ばかりだが、これでは兵力は絶対に足りない。支那側は拳匪のほかに、官兵も加わり甘粛提督董福祥の兵3万も北京を包囲しているので、城門から一歩も踏み出せなかった。殊に、イギリスのシーモア中将が、各国陸戦隊2千余名を率いて、天津から救済にやってきて、途中で拳匪にさんざんにやられてからは、北京は全く孤立無援に陥ったのである。
 日本公使館の杉山書記生が支那兵に殺害され、またドイツ公使が支那当局と交渉に赴く途中で殺されるなど、事態は完全に悪化し、各国の救援隊が大挙してやってくるまで、60日間も籠城をし続けなければならなかったのである。」(同上書 p.227)

日本公使館の杉山書記生が殺害されたのが6月10日、ドイツ公使が殺害されたのが6月20日。そして6月21日に、清国は列国に宣戦布告している。

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Wikipediaによると、当時公使館区域には外国人925名と中国人クリスチャン3000名ほどがいたのだが、各国公使館の護衛兵と義勇兵はあわせても481名だったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1

6月19日に24時間以内の国外退去命令が出され、翌日から攻撃が開始されている。
わが国の籠城者の中に、英語・フランス語・中国語と数か国語に精通する柴五郎中佐(北京公使館付武官)がいた。
籠城組の全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、籠城戦にあたって実質総指揮を担ったのは柴五郎であったという。

籠城は8月14日まで続いたのだが、籠城組の食料や弾薬はそれまでどうやって調達したのか、また彼らが生きているということをどうやって連絡したのかと誰でも疑問に思うところだ。

菊池寛の文章を続けよう。
「…米や麦が真先に無くなってしまった。そこではじめは食糧を半分に制限したが、やがて粥になり、その粥も1日2回になり、最後には青草をかじり、犬猫や鼠まで見つけて食べる始末である。馬も流弾で仆れるものから食べ、二百頭いた馬も、ほとんど食い尽くしてしまった
 …
 拳匪たちは、れいの呪文を唱えては、城壁を乗り越え、勇敢に攻めてきたが、やがていくら呪文を唱えても、鉄砲の弾丸には敵わないと分かってからは、あまり無茶な突撃はせず、城壁と土嚢を境として睨みあいの状態が続いたのである。
 …
 1ヶ月も対峙していると、そこに一種の情が湧いてきて、
『お互いに、御苦労なことだな』
 といった応酬が交わされるという始末である。
 何しろ対手は金に目のない支那人であるから、馬蹄銀という支那の大きな銀貨をそっとやると、西瓜や卵などを持ってくる。そのうちには、鉄砲を売りに来る者まで現われてくる。そこで一計を案じた籠城組は、彼らに金をやって密偵を募り、外部との連絡、殊に天津にある列国の主力軍との連絡を計ろうということになった
 二十余回、こうした密偵を派遣したが、皆失敗したが、最後に張徳麟という男が首尾よく使命を果たして帰ってきた。」(同上書 p.228-229)

張徳麟という人物は、この時には名前を名乗らなかったのだが、7月23日に柴五郎はこの男に暗号文書を渡して天津にいる福島少将に届けてその返事をもらってくることを依頼したところ、8月1日にしっかりとその役割を果たして帰ってきたのである。

「当時、北京天津間の通信途絶して久しく、北京籠城軍は全滅ではないかとの悲観論が行なわれていたが、籠城軍健在との報は、天津の各国人を勇躍させたのである。そのための救援軍の派遣も、これからテキパキと決まり、日本軍を主体とする強力な連合軍が、北京に向かうということになったのである。」(同上書 p.230)

柴五郎
 
北京籠城を体験した人物がいくつかの手記を残しているようだが、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で、柴五郎本人が口述し明治35年(1902)に出版された『北京籠城』という本が公開されている。
例えば、外部との連絡に成功したことは、次のURLのページ以降に記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774462/72

張徳麟という人物は、その時は名前も告げず金も受け取らずに飄然と去っていったそうだが、義和団の変が終わったのちに、民政官をしていた柴中佐の許を訪れたのだそうだ。
その時、何故日本軍の密使を勤めたかと動機を訊ねられて、彼はこう答えたという。
「自分は義和団の一人として事変に参加したが、戦争が長引くにつれてだんだん疑問が湧いてきた。支那がこうして列国の外交団を苦しめているのは、つまり全世界を対手に喧嘩をしているようなもので、いまにこれはヒドイ目に合う。これは何とか早く収まりをつけねばならぬが、それには一番信頼のできる日本軍を助けるのが早道だと考えたからです」(同上書 p.231)

この人物はその後もわが国に協力し、昭和11年には観光のために来日もしたのだそうだが、詳しいことは分からない。しかし、張徳麟という人物がいなければ、籠城したメンバーが健在であることがわからず、救出行動が遅れて助からなかったと思われる。

絶望的状況にあった4千名の救出しようにも、各国の思惑は様々であったようだ。菊池寛はこう書いている。
「それまでは各国とも本国から大軍を呼び寄せて、北京を救い、名誉とともに賠償の甘い汁を吸おうと思って、互いに牽制し合って、策動を続けていた。しかし北京の危機は一日の急を告げている。最短日間に、最大限の兵力を支那に運び得るものは、正に日本を置いて外に一国もないのだ。人一倍野心もあり、支那に最も近いロシアでさえ、その極東兵力を旅順や大連から派遣するには一定の限度があって大したことはできない。」(同上書 p.232-233)

少し補足すると、イギリスはボーア戦争、アメリカは米比戦争を戦っていたために、大量派兵ができないという事情があったようだ。
また、わが国の籠城者のなかで公使館一等書記官であった石井菊次郎氏の回想によると、この時のロシアは、他の列強国がわが国に救援要請することをことごとに妨害したのだそうだ。ロシアは満州を狙っていたので、北京の籠城組が殲滅された方が好都合だという考えであったという。

しかし、籠城組が生存しているとの知らせは英国などの世論を刺戟し、各国は短期間で派兵の可能なわが国の出兵を強く促してきたという。
ところが、わが国は三国干渉でひどい目にあっているので、出兵したあとでまた文句をつけられてはたまらない。
何度も慎重な態度を示したが、イギリスから4回にわたっての出兵要請がなされるに及んで、遂に列国の希望と承認のもとに第5師団の派兵を決定している

では籠城していた各国人はいかにして救出され、救出の後に各国の兵隊はどんな行動をとったのか。
驚くような話がいろいろあるのだが、次回に記すことにしたい。

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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊

義和団と清兵に取り囲まれた4000人の籠城者を救出するために、わが国は再三にわたる英国の要請を受け、列国の承認のもとで第五師団を派兵した。

北清事変連合軍兵士

すでに各国の連合軍は天津城を完全占拠していたのだが、そこで師団主力の集結を待って、8月4日に天津を出発し北京籠城組の救出の途に就いた。連合軍の総兵力は二万二千人と言われ、その半数近くは日本兵だったという。

義和団の乱

対する清朝軍と義和団は兵の数は多かったが、装備という点では「在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃連合軍」が中心で連合軍よりもかなり劣っていたようだ。しかしながら士気は高く、頑強に抵抗してきたために、清朝軍および義和団に多くの死傷者が出たようだ。

一方の連合軍は、装備でははるかに優っていたものの、軍隊としてまとまっていたわけではない。菊池寛は『大衆明治史』でこう記している。

連合軍は各国とも功名を争って、はじめから統一を欠いたが、通州を発する頃から競争はますます激しくなり、8月14日各国軍は一斉に北京城外に達し、各城門を破って先を争って入城した
 印度兵が公使館区域の水門をくぐって午後3時頃英国公使館へ達したのが一番乗りということになっている。これに対して真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を戮殺し、その屍を踏んでわが公使館に達していが、いかにも日本軍らしい、やり方であったと思う
 救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。60日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであった。
 北京開城とともに、西太后は暮夜ひそかに宮殿を抜け出し、変装して古馬車に乗じ、西安へ蒙塵*したのであった。」(『大衆明治史』p.235-236)
*蒙塵(もうじん):変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと

このような記述を読むと、それほど激しい戦闘ではなかったような印象をうけるのだが、この北京の戦いにおける連合国側の死傷者は450名でうち280名が日本人だったという。

日本兵が死守した粛親王府の一部
 
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に北京篭城組で後に東京帝大教授となった服部宇之吉氏の『北京籠城日記』という本が公開されている。
巻頭に何枚かの写真があるが、日本軍が防衛を担当し死守した粛親王府の一部の写真があり、次のURLで誰でも見ることが出来るが、ひどく破壊されているのに驚く。真夏の暑い時期に、少ない武器と食糧で、睡魔と闘いながら60日以上籠城を続けたことはすごいことである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020210/7

ところで北京を制圧し、最初に連合国軍がしたことを書かねばならない。
再び、菊池寛の文章を引用したい。文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。
 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」(同上書 p.237-238)
*戎克(ジャンク):木造帆船

菊池寛

各国の兵隊が行なった悪事は掠奪ばかりではなかった。菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。しかも若い婦人に対して、一人残らず行なわれた行為は、人間業とも思えぬものがあったと語っている。今度の通州事件*は一世の憤激を買ったが、この時フランス兵が通州に入城してやった蛮行は、さらに大規模なものであったそうである。これが支那兵や安南の土民兵ならいざ知らず、文明国を誇るフランス人ばかりの安南駐屯兵がやったのだから、弁解の余地もない。
 戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」(同上書 p.238-239)
*「今度の通州事件」:昭和12年(1937)7月29日に日本居留民が通州で中国人部隊に大量虐殺された事件。

菊池寛はこう書いているが、いずれも暴行の現場を目撃したという証言ではない。当時の外国人はどう書いているか、目撃証言の記録があるかを知りたかった。
いつものように国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の検索機能を使って、北清事変について詳しく記した書籍を探していると、北清事変の翌年である1901年に博文館から出版された『北清戦史 下』という本の『第9 所謂文明国の暴行』にかなり具体的に詳しく記されているのが見つかった。
「英国新聞記者の談」の一部を引用するが、次のURLで詳細を読むことが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

「英国ロンドンの『デーリーエキスプレス』の軍事通信員ジョーヂ・リンチ氏が実際目撃して、わが『神戸クロニクル』の記者に語りたるものを摘録せん。…列国の暴行を述べて曰く、
『…北京まで進んでみると連合軍中最も品行の善いのは日本軍であるということを発見しました。殊に◎州(判読不能)に於いて露国兵の如きは実に乱暴狼藉を極めたです。私は高壁の下に倒れている支那婦人を幾人も見ました。それは露兵の為に乱暴せられるのを免れんがために、高壁から飛び下りて腰を抜かしているのです。私の見た時にはこれ等の哀れむべき夫人は未だ生きて呻いておりました。…
…私が始終見た残酷なる処行の一例を申せば、私は10歳か11歳の童子を露兵がフートボールの様に蹴り上げて居るのをみました。露兵が赤児を銃槍の尖(さき)から尖へ投り渡したという話も聴きましたが私は観ませんでした。…

露兵は始終剣を銃の先に嵌めていてかって鞘に収めたことはないので。その銃槍をもって絶えず支那人を突きまくるのです。彼らは快然として行軍する。その途中出会うもの、いやしくも生き物であれば皆突いてみようとしたです。露兵15人が11歳の女子を輪姦して殺したのは隠れもない事実です。言いたくは無いことですが、フランス兵も非常に暴虐を働きました。』」
また、こんな記述もある。
米国ブレブステリアン派の派遣宣教師イングリス夫人が香港の日々新聞に投じたるところを見るに、また露兵の暴行見るに忍びず、仏兵またこれに次ぎ、英兵は露仏両国の軍隊に北京の富を奪われむことを懼れて掠奪隊を組織したるなどの事実を記載せり。なお夫人は言えり。北京陥落の以後は掠奪の状態一変して、遠征軍中の文武官は『掠奪の為に当地に来たれり』と言うに憚らざるに至れりと痛言せり。以て外国兵の暴行を知るべし。」

『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』

ではわが国の軍隊は、どうだったのか。
ウッドハウス瑛子の『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』という本がある。G.E.モリソンという人物はオーストラリア人ジャーナリストで、当時は『タイムズ』の北京特派員として「北京籠城」を余儀なくされたメンバーの一人であり、この本は彼の日記や手紙などをもとに義和団事件の詳細が描かれている。

モリソン

モリソンの記録によると、日本軍は速やかに金庫と食糧を確保し、馬蹄銀250万両と「1個師団を1年間充分に養えるくらいの米とその他の食料を確保」したことは記されているが、他国の軍隊のように、個人で宝石や絵画などを掠奪したようなことはどこにも書かれていない。
日本軍は西太后の離宮万寿山を占領したのだが、連隊長の命令で夏宮殿の装飾品や宝石には手を付けさせなかった。楼門に日章旗を掲げて日本軍占領を表示して引き揚げたのだが、その後にロシア軍が入ってそれらを掠奪したことが記されている。
また、東洋の宝ともいうべき紫禁城は、柴五郎が北京陥落の翌15日に皇城の三門を押さえ、他の一門をアメリカ軍が押さえ、日米共同でこの城を守ったので、破壊と掠奪を免れたとある。

北京城列国占領区域図

列国は皇城を除く北京城内を各国受持ち区域に分割して、日本が受け持った地域は柴が行政警察担当官に任命され、清国人の協力のもとに秩序回復に努め、北京でいち早く治安が回復したという。日本人は、乱を起こした義和団のメンバーも「彼らは兵士と同等であり、処罰すべきではない」として匿い、その寛容さにモリソンは感激している。

一番ひどかったのがロシアの担当地域だった。『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』には、こう記されている。
「ロシアの管轄下に置かれた区域の住民は、他の区域の住民に比べて一番ひどい目にあった。軍紀がいきとどいていないため、ロシア兵は暴徒と化して、いたるところで暴行略奪の限りを尽くし、虐殺・放火・強姦など血なまぐさい事件が続出した。
たまりかねた北京市長の聯芳は8月19日、マクドナルド英公使のもとに苦情を訴え出た。聯芳は…ロシア兵の残虐行為の実例を数多くあげ
『男は殺され、女は暴行されています。強姦の屈辱を免れるために、婦女子の自殺する家庭が続出しています。この地区を日本に受け持ってもらえるよう、ぜひ取り計らって下さい」とマグドナルドに哀願した、とモリソン日記はいっている
。」(『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』p.238)

また8月28日付のロンドンタイムズ社説には「列国の公使館が救われたのは日本の力によるものである、と全世界は日本に感謝している。…列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のお蔭である…日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」と書き、8月18日付のスタンダード紙社説には「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に価するものであり、かつ他の追随を許さない…」と書かれているそうだ。(同上書 p.222-223)

実質的に公使館区域の籠城戦を指揮した柴五郎中佐は各国から賞賛され、英国のビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与されたのだそうだが、このような記録を読むと、全体として日本軍は勇敢に戦い、軍紀も守られていたからこそ世界から賞賛されたのだと考えるのが自然である。

義和団鎮圧と北京公使館区域救出に最も功績のあったわが国であったが、後に開かれた北京列国公使会議で最も多額の賠償金を要求したのはロシア(180百万円)であり、次は北京救出に1兵も出さなかったドイツ(130百万円)、ついでフランス(106百万円)、イギリス(65百万円)と続き、わが国は第5位(50百万円)だったという。
ロシアとドイツが醜い争いをした中で、わが国は一番功績を挙げたにもかかわらず、多くを要求しなかったことは、清国人の心も動かしたという。その後わが国に留学する清国学生が急増したのだそうだ。

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柴五郎とともに籠城戦を戦ったマグドナルド英公使は、1901年にソールズベリー英首相と会見して、日英同盟の構想を説いたという。その後彼は日英同盟の交渉の全てに立ち会い、同じく籠城組の『タイムズ』の記者・モリソンが、日本という国を賞賛してそれを後押ししたということだ。
日英同盟は、「北京籠城」で運命を共にした者同士の強い信頼の絆がなくては、決して成立しなかったと思うのだが、歴史の教科書や通史やマスコミの解説では、このあたりの事情にほとんど触れることがないのは、「日本人に知らせたくない史実」「戦勝国にとって都合の悪い史実」を封印しようとする勢力が国内外に存在するということだと思う。

北清事変にかぎらず、戦前には国民の間に広く知られていた史実の多くが戦後になって封印されてしまっているのだが、封印された史実の大半は、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い話であると考えて良い。
私のブログで、今までそのような史実をいくつか紹介してきたが、こういう史実が国民に広く知られるようになれば、「わが国だけが悪かった」とする偏頗な歴史観は、いずれ通用しなくなる日が来ると考えている。
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盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
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昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
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占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
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幻の映画、「氷雪の門」
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終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

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白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争

慶応四年(1868)七月に二本松城を落とした新政府軍は、次の攻略を会津にするか仙台にするかで意見が割かれた
大総督府軍防事事務局判事の大村益次郎は、二本松城落城後は戦意の乏しい仙台藩を攻めて、最小の流血で最大の戦果を挙げて東北戊辰戦争を終結させようという考えであったのだが、土佐藩の板垣退助がこれに真っ向から反対し、先に会津藩を殲滅することを強く主張したという。国立国会図書館デジタルコレクションに『板垣退助君伝. 第一巻』が公開されていて、PCなどでこの件に関する板垣の主張を読むことが出来る。文中の「仙」「米」は仙台藩、米沢藩を指す。

板垣退助
板垣退助

抑(そもそ)も会津は根本にして、仙米等は枝葉なり。枝葉尽きて根本存する者は或いはこれあり。根本既に倒れ枝葉枯落せざる者、いまだかつてこれ有らざる也。いま北越の信いまだ確なるにあらずといえども、其官軍の勝を得たる、蓋し疑うべからず。この機に乗じて直進して会津を打つ、寧ろ千載の一遇と言わざるべけんやと、是に於いて議ようやく決す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781003/178

板垣は新政府軍が仙台藩や米沢藩に勝利したとしても会津藩が残っている以上東北戊辰戦争は終結しない。また仙台方面に兵を進めてもすぐに厳寒の季節に入り、戦争が長引くことになるだろう。そのことによって、会津藩に周到な準備をする時間を与えてしまうことになることは問題だ。相手の準備が出来ていないうちに会津を討つべきであり、今こそがその好機だと主張したのだが、この判断は新政府軍にとっては正しかった。

会津・庄内両藩 資金調達でドイツに打診

以前にもこのブログで書いた通り、会津・庄内藩は北海道の両藩の領地をプロイセンに貸与して、同国から大量の武器・弾薬を購入する交渉を開始し、本国のビスマルク宰相が秋にはそれを認可していたのである。もし新政府軍が会津攻略を後回しにしていたら、戊辰戦争はもっと長引くこととなり大量の犠牲者が出て、戦いが終わった後はドイツが北海道のかなりの部分を領有していてもおかしくはなかったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-549.html

一方、会津藩は新政府軍と戦う準備を進めていた。
三月には軍制改革を行い、十五歳から十七歳の少年は白虎(びゃっこ)隊、十八歳から三十五歳までの精鋭部隊を朱雀(すざく)隊、三十六歳から四十九歳までを青龍(せいりゅう)隊、五十歳から六十五歳までを玄武(げんぶ)隊と名付け、さらに身分によって士中隊、寄合組隊、足軽隊などを編成した。
このようにしてかき集めた会津軍の総兵力は約六千人で、そのうちの約七割にあたる精鋭部隊を、勢至堂口、中山口、大平口など会津につながる藩境の要所に分けて配置したという。

母成峠

会津に向かうのにどの道から入るかについては、新政府軍の中でも議論があったのだが、八月二十一日に約二千二百の新政府軍は、会津藩防衛線の弱点である母成峠(ぼなりとおげ)を衝き、約八百の旧幕府軍を破った(母成峠の戦い)会津藩からすれば、わずか一日で防衛線が破られることは想定外であった。

会津藩軍事局が母成峠陥落の急報を受けたのは八月二十二日午前五時だという。
しかしながら、有力部隊を藩境に配置していたために会津城下には精鋭兵がいなかった。
この時会津城下にいた将兵は、藩主の近臣や軍事局のほか、君則護衛の任にあたっていた白虎隊の少年たち約八十名と、鶴ヶ城警護にあたっていた玄武隊の老人たち約百名のほか、前月に結成されたばかりの敢死隊約二百五十名、僧侶からなる奇勝隊約百名にすぎず、城下はガラ空きの状態だったのである。

戊辰戦争 会津

新政府軍の会津進撃を止めるためには、日橋川にかかる十六橋を破壊する必要があった。この橋を破壊すれば新政府軍の大砲は動けない。
十六橋の破壊と戸ノ口原防衛のため、奇勝隊、敢死隊、砲兵三番隊のほか白虎士中二番隊三十七名が出陣を命じられたのだが、薩摩軍の銃撃を受けて十六橋の破壊ができないまま日が暮れる。
大正六年に出版された『会津戊辰戦争』にはこう記されている。東軍とは旧幕府・会津軍を指す。
「夕陽既に没すれども朝来の雨未だ止まず。満天墨を流せるが如きもなお戦を収めず。…東軍今や弾尽き或いは硝薬湿りて用をなさず。即ち銃を棄て白刃を翳(かざ)して戦う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951582/114

夜が明けると新政府軍の精鋭三千余人が総攻撃を開始し、会津藩戸ノ口原防衛隊総勢三百数十人は一気に蹴散らされ、奮闘した白虎士中二番隊もたちまち過半を失い、生存者は飯盛山へ逃れて行く。しかし、そこで見た光景に彼らは息を呑む。城下のあちこちから火の手が上がり、鶴ヶ城周辺にも火の手が迫っていた。

会津白虎隊十九士伝

『会津白虎隊十九士伝』の西川勝太郎伝にこう記されている。この本はGoogleブックスで全文を無料で読むことが出来る。

「…城既に陥るや否や、公既に殉するや否や、未だ知るべからず。我が刀折れ城陥り公殉せるを見て、而して後従容義を取り生を捨つるも亦晩しとせずと。衆又其の言に従う。因って相携えて城に入らんと欲す。而して一人の其の捷路を弁ずるものなく、深邃の山谷を跋渉し、偶々不動瀑畔に出で、新堀に入れば、瀧澤峠の敵兵狙撃甚だ急なり。因って匍匐し洞窟を経て飯盛山に登り、城郭を展望すれば黒煙天に漲(みなぎ)り砲声地に震う。君慨然衆に謂って曰く。今や殉すべきの秋(とき)なりと。衆遂に之に従う。そもそも十九士のその死所を得しものは君の力なりと謂うも誣言*にあらず。」(『会津白虎隊十九士伝』p.20)
*誣言(ふげん):わざと事実を曲げて言うこと。またその言葉。
https://books.google.co.jp/books?id=0ji6R7q742QC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false


飯沼貞吉
【飯沼貞吉】

実はこの時に自刃を決行した白虎隊は20名なのだが、喉を突いて死のうとした飯沼貞吉(のちに貞雄と改名)のみが一命をとりとめた。その飯沼氏が生前に伝え残した『白虎隊顛末略記』という記録もネットで読むことが出来る。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/tenmatu.htm

手持ちの食糧もなくなり何か食べたくても、近くに民家もなく食糧を乞うこともできない。そんな中、敵と遭遇し射撃を受けたために南方の山腹に副って退き、ようやく危機を脱して飯盛山に登って足を止めると、城下は炎に包まれており、街道は敵兵で充ちていた。
飯沼氏によるとここで死ぬか、戦うかで激論があったのだが、最後に語った篠田儀三郎の言葉に全員が納得したという。

「最早斯くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀、元より不可と云うにあらざれども、迚(とて)も十有余士の能く為し得べき所にあらず。誤って敵に擒(とりこ)にせられ縄目の耻辱を受る如き事あらば、上は君に対して何の面目やある、下は祖先に対し何の申訳やある。如(し)かず潔きよく茲に自刃し、武士の本分を明にするにあり。」

会津鶴ヶ城
【会津鶴ヶ城…天守閣の破損の痕は戊辰戦争の砲弾によるもの】

白虎隊は城が燃えているのを見て自刃したという話が広がっているのだが、それは後世の創作のようだ。先ほど飯盛山で死ぬか戦うかで激論があったと書いたのだが、その点について『白虎隊顛末略記』では、「今や焔は天を焦がし、砲声山岳を動かすも、決して城落たるにあらず。潜に道を南に求め、若松城に入るに如すと。甲怒り、乙罵り、激論以て之争う」とある。
城が燃えていたら、こんな激論をするはずがないのだ。彼らは城が燃えていないことを認識しつつも、敵に生け捕らえられて辱しめを受けるよりもこの地で潔く死ぬことを決意したのである。

話を八月二十三日の朝に戻そう。新政府軍の尖兵が市街へ侵入すると、鶴ヶ城の鐘撞堂から早鐘が連打された。この早鐘が鳴った時には藩士家族は鶴ヶ城の三の丸に避難することが定められていたのだが、藩士家族の多くは「負傷兵や婦女子や幼児が入城しても足手纏いになるだけ」とあきらめて、邸内で集団自決の道を選んだという。

このブログで1900年の義和団事変の際に北京の公使館区域が孤立し、籠城戦にあたって実質総指揮を執った柴五郎中佐のことを書いたことがあるが、彼は会津人で彼の母、祖母、姉妹はこの日に自決したという。

柴五郎
柴五郎

柴五郎は彼が九歳の時のこの日の出来事について、遺書にこう記している。

「…幼な心のつい誘われて、うかうかと邸を立ち出でたり。
 これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して立ち去りたり。ああ思わざりき。祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼なかりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慙愧にたえず、思いおこして苦しきことかぎりなし。」(中公新書『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』p.24)

西郷頼母
西郷頼母

筆頭家老の西郷頼母の家族もこの日に自決したのだが、この人物の事も書いておきたい。
西郷頼母は、藩主・松平容保が京都守護職に就任することに反対したことで容保の逆鱗に触れ蟄居を命じられたのだが、その後政局が動き松平容保が朝敵第二号とされて大総督府が会津征討に動くと、西郷頼母は五年ぶりに藩政に呼び戻されている。

西郷は主戦派に抗しつつ新政府に対し絶対恭順する藩論を取りまとめたのだが、奥羽鎮撫使から拒絶されて和平の道は絶たれ、会津藩は戦わざるを得なくなってしまう。
そして西郷は白河口総督を命じられ、奥羽戊辰戦争の天王山ともいうべき白河口攻防戦で奥羽同盟軍は二千五百~三千人もの大軍を率いながら大敗してしまう。この戦いのことはこのブログでも書いたが、同盟軍が大敗した原因は主力小銃の性能の格差が大きかった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-550.html

その後西郷頼母は早期降伏論を主張し続けたのだが、会津家中では西郷の考えに強い非難があり、西郷は自分の身の安全をはかろうとする私的な動機から主張しているものと考える藩士が多かったという。

西郷千重子
【西郷千重子肖像画】

そして八月二十三日の朝が来て、城から半鐘が打ち鳴らされた。
頼母の妻・千重子は、嫡男の吉十郎11歳を鶴ヶ城に送り出し、召使いに暇を与えて避難させたのち、邸に残っていた家族や親族全員が自決したのだという。
千重子は家族全員*を一室に集め、八歳の三女田鶴子を刺し、次に四女常盤を刺し、更に二歳の赤子季子を刺殺したのち、わが胸を突いて果てたのである。
*家族で自決したのは妻千重子(34)、妹眉寿子(26)、妹由布子(23)、長女細布子(16)、次女瀑布子(13)、三女田鶴子(8)、四女常盤(4)、五女季子(2)の8人。隣の部屋で姑律子(58)と外祖母(77)が自決し、ほかに親族など12名が西郷邸で自決したという。

千重子の辞世が残されている。

なよ竹の 風にまかする 身ながらも
 たわまぬ節は ありとこそ聞け


千重子は、西郷頼母が早期降伏論を唱えたのは決して私的な動機からではなく、会津の領民を救うという公的な動機に基づくものであったことを、一族が西郷邸で自決することによって伝えようとしたのであろう。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

龍野公園と龍野城の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-204.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html

「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
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又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-443.html

桜の咲く季節に京北の歴史と春を楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-503.html






関連記事

会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き

慶応四年(1868)八月二十三日午前十一時頃に甲賀町口廓門を破って城下へ乱入した土佐藩の先鋒隊は、鶴ヶ城(若松城)北出丸に進出し、城への突入を図った。

新島八重
【新島八重】

前回の記事でも書いたが、会津藩は有力部隊を藩境に配置していたために城下には精鋭兵がおらず、鶴ヶ城には少年兵の白虎隊や老人部隊の玄武隊と少数の吏員がいる程度だったのだが、中には男装して奮戦した女性もいたという。
Wikipediaによると会津藩の砲術師範であった山本覚馬の妹・八重は、「鉄砲を主力に戦うべきと考え、刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず、断髪・男装して家芸であった砲術をもって奉仕し、鶴ケ城籠城戦では自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦した」と書かれている。八重はこの戦いで捕虜となった夫と生き別れ、後に同志社創立者の新島襄の妻となった人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E5%85%AB%E9%87%8D

北出丸の狭間塀から撃ち出される銃弾の嵐に見舞われて土佐先鋒隊の板垣退助は薩摩二番砲隊長・大山巌に応援を求め、北出丸に砲撃を開始されたものの大山巌自身が右大腿部貫通の銃創を受けて後送されたという。

鶴ヶ城城址公園マップ

鶴ヶ城を守る兵士は少数ではあったが、会津は北出丸の新政府軍の猛攻をなんとか防ぎきり、午後二時頃には藩境を守っていた会津藩の有力部隊が鶴ヶ城の危機を聞いて相次いで帰城し、鶴ヶ城の防衛力が回復して長期籠城戦に入っていく。

しかしながら兵力で勝る新政府軍は会津城下を包囲し、大砲で鶴ヶ城を狙い撃つ作戦に出た。
『防長回天史. 第6篇中』には、二十六日に鶴ヶ城の東南にある小田山を占領し大砲を設置したことが記されている。

二十六日 薩、肥の兵小山田を奪うてこれに拠り、肥藩はアームストロング式砲を備え、かつ山麓の火薬庫を占領す。山は城の東南十余町に在りて、城内を瞰射するに最も良好の砲兵陣地たり。爾来この高地より発射する弾丸は城中の建造物を破壊し人馬を傷つけかつ屡々火災を起こさんとせり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2169815/53

会津戦争

アームストロング砲の射程距離は3kmを超えるのだが、地図で確認すると小田山の中腹にある小田山公園から鶴ヶ城の距離は1.4km程度に過ぎない。会津城下に有力部隊がいなかったから仕方がないこととはいえ、小田山を新政府軍に奪われたことは会津側にとっては痛恨の極みであったことに違いない。

『会津戊辰戦史』には、二十七日のことをこう解説している。文中の「西軍」とは「新政府軍」の事を指している。
「この日西軍東北より齊しく城を攻撃し、小田山の砲台より大砲を連射すること益々烈しく、屋瓦飛び柱壁砕け烟塵室に満ちて昼なお暗く、火屡々(しばしば)起こりしといえども幸いに消し止めることを得たり。然れども死傷相次ぎ、或いは城の支え難きを察し慷慨して自刃する者あり。謀議の士は黒金門に会し軍議に日を累ぬるも良策の施すべきものなし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/315

続いて二十八日の記録である。
「城の東北より西北に亙(わた)りて数万の敵兵数十の塁壁に拠り、日夜銃砲を発して孤城を攻撃す、電光空に閃き萬雷地に震う。郭内外の邸宅市店は兵火または放火のために一空荒野となり、戦没したる壮士、流弾に斃れたる婦女は骸を晒し屍を横(よこた)えて収めることを得ず。流血淋漓(りんり:したたり流れるさま)腥風(せいふう:血なまぐさい風)鼻を撲(う)ちその惨状は目も当てられず。西兵の残暴なる農商の家見るところの財貨剽窃せざるなく、これを牛馬に満載して運搬し去り、あるいは鶏牛を掠奪しあるいは無辜の民を殺戮しあるいは婦女を姦し憚るところなし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/315

会津鶴ヶ城

上の画像は鶴ヶ城の天守閣だが、大砲が命中して城壁がボコボコの状態なのになぜ城が焼け落ちなかったのだろうかと長い間疑問に思っていた。『会津戊辰戦史』を読み進んでいくと、その疑問が氷解した。女性陣も、城の中で精一杯味方の為に戦っていたのである。

近世会津軍記 官軍野戦砲を発して若松城の天守をうち破る
【近世会津軍記 官軍野戦砲を発して若松城の天守をうち破る】

「守城以来しばしば落下し来たりし焼弾は径六寸ばかりの円弾に孔あり。ここより火を噴出して殿屋を焼かんとし水を注ぐも消滅せず。ここにおいて衣類をもってこれを覆いて水を注げばたちまち消滅す。奥殿に仕えし老女伊東牧野以下の侍女力を尽くして綿衣あるいは布団の綿を出し毎にこれを水中に浸し、此の弾の落下するときは婦人等馳せ集まりて之を覆いて消滅せしむるを常とし危険を感ぜざるに至れり。(七年史、若松記、内田藤八筆記)
 籠城中夜に入れば榴弾の中天に交錯するもの、あたかも秋空に蜻蛉の飛翔するが如し。児童ら慣れて之を畏れず。常に屋外に出て之を望み互いに叫んで曰く。今夜は蜻蛉多しと。(海老名季昌談)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/328

あるいはこんな記録もある。文中の「照姫」は会津藩主・松平容保の義姉である。

本丸の大書院、小書院、その他金の間等はみな蒲生氏の時建築するものにして頗(すこぶ)る宏壮なり。敵の囲みを受けしよりあるいは病室となしあるいは婦人小児を収容せり。戦酣(たけなわ)なるに及び病室は殆んど立錐の地なきに至り、手断ち足砕けたる者、満身糜爛(びらん)したる者、雑然として呻吟す。然れども皆切歯扼腕、敵と戦わんとするの情を為さざる者なし。而して西軍の砲撃益々激烈なるに及びては、流弾は病室または婦人室に破裂して全身を粉韲(ふんさい)せられ肉塊飛散して四壁に血痕を留むる者あり。その悲惨凄愴の光景、名状すべからず。(古河末東所聞)

八月二十九日城外進撃の時は一日に百数十人の負傷者を出し、病室最も繁劇を極め繃帯に供する所の白布一時欠乏するに至れり。照姫は奥女中をして貴重の衣帯を出しこれを解きてその白布を以て繃帯と為さしめ、あるいは傷病者の衣衾に宛てしむ。故に兵卒にして葵章の衣を着け、あるいは壮士にして婦人の美服を着くるに至り、三軍の将卒これを聞いてその殊遇に感激し士気大いに振えり。(村井弦斎筆記)

傷病者に窮する食物は奥女中以下の婦人之に任じ、照姫自ら之を監督す。本丸の西隅に炊事場を設け婦人集合して、水を汲む者、米を洗う者、飯を炊く者、各分業して之を為す。炊事場には石竈十数個を設置し精米を炊き、これを奥女中室に遞送し、若年寄格の女中等藩士の婦人を指揮して摶米を製し、之に羹蔬魚肉鳥肉牛肉等を添い、之を盆に載せ表使女中先頭に立ち侍女二人之に従い、幾個の縦列を作り整然序を追うて病室に運ぶを常としたり。(納富氏日記巻之三、丸山幸之助、山室重明談、村井弦齋筆記)一斉攻撃の前後には飯を炊くこと昼夜を分かたず、十数個の石竈一刻も火を絶ちたることなかりき。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/326

近世会津軍記 弾丸のため櫓焼失し城兵困苦迫る
【近世会津軍記 弾丸のため櫓焼失し城兵困苦迫る】

このように会津藩は籠城組が老若男女一丸となって良く戦ったのだが、九月十四日になると新政府軍の総攻撃が始まり、一日に約二千五百発もの弾丸が撃ち込まれたという。

既に仙台藩は自藩防衛の為に兵を引いており、唯一頼みとしていた米沢藩は九月四日をもって新政府軍に降伏した。弾薬・食糧ともに残り少なくなっており、会津藩が戦争を継続することはもはや困難な状況になっていた。

会津軍記 会津藩降伏の図
【会津軍記 会津藩降伏の図】

一ヶ月にも及ぶ籠城戦の末会津藩主・松平容保は降伏を決意し、九月二十二日の朝には鶴ヶ城の北追手門に「降参」と書かれた白旗が掲げられて、会津戊辰戦争はついに幕を閉じたのである。

会津藩の立場から書かれた解説書を読むと、会津藩降伏後も新政府軍は戦死体の埋葬を許さず、会津藩将士の遺体は道端に打ち捨てられたまま腐乱にまかせて、鳥や獣についばまれたことが書かれていることが多いのだが、そのような状態がどの程度の期間続いたのだろうか。

前回記事で紹介した柴五郎の遺書によると、武士以外の者が若松に入ることを許されたのは十月末で、当時九歳の柴五郎は十一月に入ってから親族に連れられて自宅の跡を訪れ、八月二十三日に自決した家族の骨を拾ったとあるので2か月以上遺体は放置されていたことになる。柴五郎はこう書いている。

十月も末となり、武士以外の者も若松に入るを許さる。…
十一月に入りて、余は農家の子の姿なれば安全なりと思い、忠女、きさ女の両名にともなわれて二ノ邸の旧邸焼跡にいたる。赤く焼けたる瓦礫のみにて庭木もほとんど見当たらず、加勢の強かりしことを思わしむ。余焼跡に立ちて呆然たり。…
忠女、きさ女の腕に支えられてようやく起ち上れば、両女とも堪えかねて号泣す。…
『五郎さま、さあ、ご自分のお手にて皆様の骨をお拾いなされ』
用意の箸を余の手に持たしめて遺骨の細片を拾い集め、紙袋におさむ。これ、祖母、母、姉妹の変わりはてたる姿なりとは、いかにしても理解できざるも涙頬を伝いて落つ。」(中公新書『ある明治人の記録』p.39~40)

新政府軍が一か月以上にわたり会津若松に立ち入り禁止にしたことは事実のようなのだが例外もあるようだ。Wikipediaには戦死した藩士らが埋葬された史料が紹介されている。この史料が発見されたのは昨年の秋のことである。

会津藩士埋葬の史料発見

「『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写しが会津若松市で見つかり、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。 このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

会津戊辰戦争で戦死した藩士の数は約二千四百人とされていて、埋葬された遺体はその二割強に過ぎないのだが、新政府により会津藩士の遺体埋葬の命令が出ているという重要なことが、どうして今まで伝えられて来なかったのだろうかと不思議に思う。
河北新報の記事によると、山本八重の父山本権八の遺体や、西郷頼母の家族の遺骨、白虎隊士と思われる遺骨もこの記録にあるのだという。
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201710/20171003_63036.html

ついでに、会津戊辰戦争の戦後処理についても記しておこう。
藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄となった。

会津藩を失った松平家は、元盛岡藩領に設置された旧三戸県五万二千三百三十九石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に三万石を与えられて、旧会津藩士とその家族約二万人のうち約一万七千人が明治三年閏十月までにこの「三戸藩」に移住し、約二千人が会津若松に残って帰農したという。

斗南藩地図

「三戸藩」という名前は明治三年六月に「斗南藩」に改められたのだそうだが、この地は火山灰地質の厳寒不毛の地で、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかった。また、また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じ、とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられたという。

さきほど、会津藩は籠城組が老若男女一丸となって良く戦ったと書いたが、実際に戦ったのは士族だけで、農民は武士に対して冷ややかであったという。その点が二本松藩とは大いに異なる。

鶴ヶ城が落城すると農民たちが各地で蜂起し、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きたのだが、Wikipediaによると「会津藩内では会津藩を支持しない者が非武士で多く、会津藩に組する者がほとんどいなかった」とあり、その理由は「藩主が幕府での地位や対外的の面子のため資金として普段から重い税を課してきたことや支持もしていない争いの渦中に巻き込まれ」たことが大きかったようなのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

この一揆は会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず勃発し、以後領内各地に波及して、年貢の免除や小作料の廃止などを要求して約2か月間にわたって各地の村役人や豪商の屋敷や家財道具を打ちこわし、帳簿類を焼き捨てたという。

板垣退助
板垣退助

会津の農民たちが、会津藩を支持していなかったことは、土佐藩の板垣退助の記録にも出ている。板垣は、一般庶民が難を避けようとして爭いの始まる前に逃散してしまい、藩が敗れても無関心でいる農民を見て次のような感想を述べている。

かくの如く一般人民に愛国心なき所以のものは、畢竟上下離隔し、士族の階級が、その楽を独占して、平素にありて人民と之を分かたざりし結果にほかならず。それ楽を共にせざる者は、またその憂をともにする能わざるは、理の常に然るところ、天下の雄藩たる会津にして、すでに然り。いわんや他の諸藩においておや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139576/196

会津の立場で描かれる戊辰戦争の歴史にはこのような史実を書かず、もっぱら会津武士の視点から描かれることがほとんどで新政府側は常に悪者にされるのだが、会津の人々がこのような歴史理解について再考することも必要ではないだろうか。

Wikipediaに重要なことが書かれているので引用したい。
会津藩戦死者に対する埋葬禁止の話の根拠とされる『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来』に記されている官命では、彼我の戦死者、つまり会津側と新政府側、双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており、会津藩の死者の埋葬のみを禁じたものではなく、死体からの金品剥ぎ取りを防ぐための一時的処置と考えられる。また戊辰戦争後に会津の民政を任され、遺体埋葬も担当した会津民政局に長州藩関係者は全くいない。このように長州に対する怨念には根拠が薄弱ではないのかという意見は、当の会津関係者の中からも提起されている。そして、その原因として、戦後一時的に忘却されていた戊辰戦争当時の怨念を呼び覚ます源泉となったという一連の歴史小説作品の影響が指摘されている。
とりわけ、戦後の《会津の語り》を規定したとされる司馬遼太郎作品が、旧長州藩(萩市)との和解をしづらくしたという意見があり、…司馬遼太郎・早乙女貢・綱淵謙錠・中村彰彦らの《会津もの》小説が新たな怨念の源泉を提供したとされる。マスメディアはこれらの小説を事実のように紹介したために、会津側住民に一方的な遺恨をもたらすこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%8F%B2%E5%AD%A6

会津の人々が長州藩に対して抱く怨念は、小説やマスメディアなどで誤った情報が広がって焚きつけられたものであるならば、真実を広めることによって鎮めていくしかないだろう。

昨年11月4日の『時事ドットコムニュース』によると、前述した『戦死屍取仕末金銭入用帳』の発見を機に会津若松市と山口県萩市との和解を実現させようとする動きがあるのだそうだ。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017110400176&g=soc

会津藩も新政府に恭順の意思を示したにもかかわらず、長州藩出身で奥羽鎮撫使参謀であった世良修蔵に拒絶されて戦うことを余儀なくされ、会津戊辰戦争で会津側に多くの犠牲者が出たことから、会津の人々が長州を怨む気持ちは理解できる。
しかしながら、会津の人々が今も長州藩を怨む根拠の中には、少なからずの誤解があることもまた事実である。
今までの「怨讐(えんしゅう)を乗り越え」、「共に犠牲者を追悼」するという姿勢で双方が歩み寄り、明治維新150年という記念すべき今年に、両市の和解が実現することを祈りたいところである。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。桜の季節にこんな旅行はいかがですか。

五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html

天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
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坂上田村麻呂と清水寺
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明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

住職が勤王倒幕運動に身を投じた江戸幕末の清水寺
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厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後

会津戊辰戦争の敗戦の後、藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄地となった。
明治二年の六月に松平容保の長男・容大(かたはる)が誕生し、同年十一月に明治政府は容大による松平家の再興を許可して、容大に新たに陸奥国北郡・三戸郡・二戸郡内で3万石を与えている。新しい藩の名前は、当初は「三戸(さんのへ)藩」と称したが、明治三年に「斗南(となみ)藩」に改めている。

また明治三年の正月には戊辰戦争の処罰として命じられていた旧会津藩士の謹慎が解かれて、五月の版籍奉還で、藩主の容大は嬰児でありながら知藩事に任命されている。
当時旧会津藩士とその家族は当時約二万人いたのだが、その大半が斗南藩に移住することになったという。

柴五郎
柴五郎

会津藩士たちの移住先がこのような厳寒の地に決定した経緯について、会津人・柴五郎の遺書にはこう記されている。この人物のことは以前このブログで書いたが、明治三十三年(1900)の北清事変において公使館区域の籠城戦を指揮して世界から賞賛された軍人である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

「(慶応四年)九月二十七日、会津藩主にたいし、祖先の祀(まつり)をなすため南部の地を割きて三万石を賜うの恩命あり。その初め猪苗代か陸奥の国かについて意向を訊ねきたれるも、猪苗代は旧領の一部にて経済的にも精神的にも受け入れること能わずとの議多く、未知の地とは申せ宏大なる陸奥に将来を託するが良からんとの議まとまりて、徳川慶喜、松平容保以下の罪を免ずとの詔勅下る。松平容保は実子慶三郎(当歳)に家名を譲り、慶三郎を改めて松平容大(かたはる)と称え、十一月四日華族に列せられる。藩士一同感泣して聖慮の変わらざることを喜べり。

会津藩は(慶応三年現在)旧領三十万石、増封五万石、第一回職封五万石、第二回職封五万五千石、これに加え二千俵、さらに月一万両を賜う。これらを石高に換算すれば、約六十七万九千石の大藩なりき。今回陸奥の国、旧南部藩の一部を割き、下北半島の火山灰地に移封され、わずか三万石を賜う。まことにきびしき処遇なれど、藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託せり。されど新領地は半歳雪におおわれたる痩地にて実収わずか七千石にすぎず、とうてい藩士一同を養うにたらざることを、この時だれ一人知る者なし。」(中公新書『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』p.50~51)

会津藩士たちは斗南藩という厳寒の不毛の地に流刑されたとする解説をよく見かけるのだが、これは事実とは異なる。会津藩は旧領の猪苗代という選択肢があったのだがこれを捨て、未知の地ながら面積の広大な旧南部藩の土地に将来を託すことを選んだのである。

では、なぜ旧領地の猪苗代を捨てたのであろうか。その点について、柴五郎はこう述べている。
猪苗代は旧領地なるうえ、狭小にして藩士を養うにたらず、しかも会津落城後、経済、人心ともに荒廃して、世直し一揆と称する大規模なる百姓一揆あり。権威失いたる藩首脳これを治むる自信なし。このとき蝦夷より下北半島を通りて帰藩せる広沢安任、陸奥の国広大にして開発の望みありとの意見に従い、陸奥を復興の地と定めて斗南藩に移れる次第なり。」(同上書 p.88)
前回の記事でも書いたが、鶴ヶ城落城のあと農民たちが各地で蜂起しヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起き、会津武士たちは領民から支持されていなかったことは明らかで、旧領では藩を立て直すことは難しいと判断したのであろう。

しかしながら、移住先の下北半島の地は、恐山山地の噴火による酸性の火山灰土壌の不毛の地であった。誰もそのことを知らないままこのような土地に移住することを決めてしまったために、ここに移住した会津人たちは悲惨な生活を余儀なくされることになるのだ。

斗南藩領

明治三年四月十六日に正式に移住命令が下り、先発役人が下北半島の田名部(たなぶ:現在のむつ市東部)に到着したのは五月二日だったという。
国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、昭和十二年に出版された『佐井村誌』という書物に『斗南藩』のことが比較的詳しく記されている。上の画像はネットで見つけた斗南藩の地図だが、田名部と佐井の地名が出ているので参考にしてほしい。
『佐井村誌』には斗南藩へ移住した人々についてこう記されている。

『佐井村誌』

「田名部にては同夜(五月二日)戸毎に軒提灯を吊るして祝意を表した。斗南移住に際して帰農して会津に踏み止まった者、東京へ出でし者、北海道へ渡った者等、合して一千二百戸程あり、実際に斗南へ移住した者は二千八百余戸であった。この人々は五月頃より、海路または陸路を選んで新封の北地に下った。海路によった人々には新潟へ出て汽船で大湊または野辺地へ着いた者と、棚倉または仙台に出て帆船にて八戸に着いた者とがある。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/54

会津の人々は田名部の寺や町家等に分宿したのち各村々に散っていった。
彼らには一人一日三合宛の扶持米が支給されていたのだが、前年が凶作であったため内地米が払底していたので質の悪い輸入米が支給されていて、寄生虫が原因で死者が多数出たことが記されている。

彼らは開墾して農作物を生産しようとするのだが、俄百姓であるゆえ思うようにいかない。
また土地が痩せていたので、収穫は乏しかったという。

山川浩
【山川浩】

『佐井村誌』には彼らの苦労がこう記されている。
田名部、大畑移住の者は山に入って蕨や葛の根を掘り澱粉として食べ、大間、佐井移住の者は海に入って改装や貝類を拾うて食べた。昆布の根を搗き砕いて、おしめとして粥を炊いて食べた。おしめは凶年に於ける地方人の食料である。…大間、佐井移住の者にはこの困難に耐えかねて、北海道または越後方面へ脱藩するものもあった。あるいはまた、斗南移住の拙なりしを憤慨して、その責任は山川氏*にありとして、山川斬るべしとの声さえ起った。…袷綿入れを重ね着しても、なお寒さを感ずる師走月に、単衣のままの者も少なくなかったというから、衣食住ともに随分困窮したことが窺われる。」
*山川氏:会津藩家老山川重固の嫡男・山川浩のこと。明治三年に斗南藩大参事となる。廃藩置県後谷干城の推薦により陸軍に入り、西南戦争などで活躍した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/55

下北半島の冬の寒さは会津の人々にとっては想定外の厳しさであり、しかも物を買う金銭的余裕は全くなかったので、全て自分で工夫するしかなかったという。

柴五郎の遺書には、田名部に移住した頃の家族の生活についてこのように記している。

「父上は炉のかたわらにて習いおぼえたる網結その他の手細工をされ、兄嫁は毎日朝より夜にいたるまで授産所にて機織りして工銭を稼ぐ。薪は晩秋拾い集めたる枯枝を使いたるも足らず、積雪の中を探し求む。炭には焚火の消し炭を用い、行火(あんか)には炭団(たどん)を作るに苦心せり。売品を購う銭の余裕全くなし。
 用水は二丁ばかり離れたる田名部川より汲むほかなし。冬期は川面に井戸のごとく氷の穴を掘りて汲み上げ、父上、兄嫁、余と三人かわるがわる手桶を背負えるも途中で氷となり溶かすに苦労せり。玄米を近所の家のうすにて軽く搗きたるに大豆、馬鈴薯などを加え薄き粥を作る。白き飯、白粥など思いもよらず。馬鈴薯など欠乏すれば、海岸に流れたる昆布、若布(わかめ)など集めて干し、これを棒にて叩き木屑のごとく細片となして、これを粥に炊く。方言にてオシメと称し、これにて飢餓をしのぐ由なり。色茶褐色にして臭気あり、はなはだ不味なり。…
 冬は山野の蕨の根を集めて砕き、水にさらしていくたびもすすぐうち、水の底に澱粉沈むなり。これを米糠をまぜ塩を加え団子となし、串にさし火に焙りて食う。不味なり。少しにても砂糖あらば…など語る。
 この冬、餓死、凍死を免るるが精一杯なり。栄養不足のため痩せ衰え、脚気の傾向あり。寒さひとしお骨を噛む。」(中公新書『ある明治人の記録』p.62~63)

柴五郎は誇張して書いている訳ではなく、栄養失調と寒さの為に餓死したり、病死した者が少なくなかったようだ。

ある明治人の記録

柴家は、春になって畠を作って菜類、豆類を植えるも、虫に食いつくされ、わずか二十歩の水田も失敗し、やせた大根と小さな馬鈴薯が獲れただけだった。しかし山に入れば芹、蕨、蕗、あさつきなどが豊富に獲れ、薪も充分に集まり、山桑を獲って背負えるだけ背負って売りに行けば二十四文の稼ぎになった。
しかしながら、二年目の冬も昨年同様の状態で過ごさなければならない状態だったという。

「秋も過ぎ、怖ろしき冬再び来りても、わが家は先年の冬と同じく満足なる戸障子なく、蓆さげたる乞食小屋なり。陸奥湾より吹きつくる寒風、容赦なく小屋を吹き抜け、凍れる月の光さしこみ、あるときはサラサラと音立てて霙舞い込みて、寒気肌を刺し、夜を徹して狐の遠吠えを聞く。終日いろりに火を絶やすことなきも、小屋を暖むること能わず、背を暖むれば腹冷えて痛み、腹暖むれば背凍りつくがごとし。掌こごえて感覚を失うこと常なれば、時折火にかざして摩擦す。栄養悪きうえ、終日寒風吹き抜ける小屋にて、寝具なく蓆を被りて、みの虫のごとく、いろりの周囲を囲みて寝るほかなし。」(同上書 p.71~72)

一時は学校も通わずに農作業を手伝う日々を過ごしてきたが、六月以降は兄の友人宅に寄寓して通学し、休日に配給米を持ち帰ることになった。しかし柴五郎には草履も下駄もなく、さすがに冬になって裸足で凍結した山野を馳せ帰るのは厳しかったようだ。しかし柴家には履物すら買う金銭的余裕がなかったという。

こんな厳しい生活を余儀なくされながら、柴家はなぜこの地域から離れようとしなかったのだろうか。
離れたくても家族が移住するのに必要な資金がなかったことも理由の一つだろうが、この問いのヒントになる言葉が柴五郎の遺書に残されている。柴五郎は一年目の冬に、不味い犬の肉を食べようとしなかった時に、父から次のような叱責を受けたことを書き残している。

「『やれやれ会津の乞食藩士ども、下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ。生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは生きてあれよ。ここはまだ戦場なるぞ。』と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲み込みたること忘れず。『死ぬな、死んではならぬぞ。堪えてあれば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに一矢を報いるまでは』と自らを叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。」(同上書 p.75)
柴家に限らず、斗南藩に移住した多くの会津藩士にとっては、この厳寒の地は『戦場』であり、会津武士がこんなところで死ぬわけにはいかない。なんとかここで生き抜いて、いつか薩長の連中を見返してやるという心意気だったようだ。

しかしながら、明治四年の年の七月に廃藩置県があり、斗南藩は斗南県となったと思いきや、九月には斗南県は他の諸県とともに弘前県に合併され、さらに同月に青森県に改称されてしまった。また廃藩置県によって全国一斉に旧藩主に対し知藩事の職を免じられ、斗南藩主の松平容大は旧藩主松平容保ともども東京に去ることとなった。
藩士たちにとっては、すでに藩は消滅し、お家復興の夢もなくなり、支えるべき藩主も去ってしまい、藩役員も身分を失ってしまった。

『佐井村誌』には、廃藩置県以降の斗南藩についてこう記している。
「(廃藩置県)の時に、旧藩士に一日男一人四合、女子供一人三合の割合にて、引き続き扶持米を交付した。六年三月に至りて、扶持米を廃止することになり、特別を以て手当米並びに転業資金を給与された
一、他管下へ送籍望之者は一人につき二俵金二円宛て差遣、さらに今般別段の評議を以て為資本一戸につき金十円宛差遣候こと。
一、管内自立望之者へは、一人につき米五俵金五円宛て差遣、さらに今般別段の評議を以て為資本一戸につき金五円宛差遣候こと。
 廃藩後、他府県へ転去る者少なからずあったが、愈々扶持米を廃されたので、右の手当金を貰って続々として他府県へ去った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/56

松平容大
【陸軍大尉時代の松平容大】

『佐井村誌』を読むと、殆んどの会津人が旧斗南藩から去ったような印象を受けるのだが、現地に残ったものも少なくなかったようだ。
Wikipediaによると「明治5年(1872年)に広沢(安任)らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した」と記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9

柴五郎は藩政府の選抜により青森に派遣され明治六年(1873)に陸軍幼年学校に入校。明治十年(1877)には陸軍士官学校に進んでいる。そしてその年に西南戦争が起きたのだが、この内乱の勃発に会津人の血が騒いだようだ。

そもそも会津戊辰戦争が起きたのは、柴五郎が九歳の時であった。
慶応四年(1868)八月二十三日の朝に新政府軍の尖兵が市街へ侵入すると鶴ヶ城の鐘撞堂から早鐘が連打され、会津藩士家族の多くは「負傷兵や婦女子や幼児が入城しても足手纏いになるだけ」とあきらめて、邸内で集団自決の道を選んだのだが、この時に柴五郎の母、祖母、姉妹も自決したのである。

会津藩は新政府に対して恭順の意を示していたにもかかわらず、新政府がそれを受け入れずに戦いを仕掛けてきて、そのために多くの会津人の命が失われ、その後も悲惨な境遇に追いやられた。そのため、西南戦争が起きた時は薩摩に一矢を報いるチャンスと考える会津人が少なからずいたことは間違いがない。

柴五郎は遺書にこう記している。文中の山川大蔵は、前述した斗南藩の大参事であった人物である。
はからずも兄弟四名、薩摩打ち懲らしてくれんと東京にあつまる。まことに欣快これにすぐるものなし。山川大蔵、改名して山川浩もまた陸軍中佐として熊本県八代に上陸し、薩軍の退路を断ち、敗残の薩軍を日向路に追い込めたり。かくて同郷、同藩、苦境をともにせるもの相あつまりて雪辱の戦いに赴く。まことに快挙なり。千万言を費やすとも、この喜びを語りつくすこと能わず」(同上書 p.118)

西郷隆盛

そして西南戦争で西郷がこの世を去り、さらに翌年には大久保利通が暗殺された。

この二人の死について柴五郎は遺書にこう記している。
「余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し『天下の耳目を惹(ひ)かざれば大事ならず』として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。」(同上書 p.120~121)

柴五郎に限らず、西郷と大久保の死に留飲を下げた者は他にも多数いたはずである。少なくとも会津の多くの人々にとっては、戊辰戦争が決着した後も、薩長との争いは、心の中で綿々と続いていたと言っても良いのではないだろうか。

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【ご参考】
このブログで柴五郎について、こんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-325.html

白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-554.html

会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-555.html






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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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