HOME   »  桓武天皇
Tag | 桓武天皇

桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について

前回の記事で、京都府長岡京市にある長岡天神のことを少し書いた。
長岡京市」という名称は、以前わが国の都があった「長岡京」から名づけられたのだが、「長岡京」については、教科書にはあまり詳しく書かれていなかった。

平安京と長岡京

ネットで「長岡京」の地図を探すと、「長岡京」は今の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に跨っているかなり大きな都で、平安京の大きさと比べてもそれほど大差がないことが分かった。長岡京の中心部は「長岡京市」ではなく、むしろ「向日市」にあることは意外だ。

次のURLでは長岡京の大極殿跡などの史跡のレポートが詳しく出ている。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/25343873.html

光仁天皇の後を受けて即位した第50代の桓武天皇は、それまで都が置かれていた平城京を捨てて、延暦3年(784)に平城京から長岡京に遷都したのだが、これだけ大きな都を建設しながら、そのわずか10年の延暦13年(794)に平安京に遷都してしまっている。
なぜ、そんなに短い期間で都を移すことになったのか。今回は桓武天皇について書くことにしたい。

少し時代は遡るが、671年に天智天皇が没したのち、その子である大友皇子と大海人皇子との間に皇位継承争い(壬申の乱)があり、大海人皇子が勝利して天武天皇となるのだが、それ以降の歴代の天皇はしばらく天武天皇系から出ていたことが系図を見ればわかる。

天智天皇・天武天皇系図

しかし天武系に男子の血統が絶えてしまって、宝亀元年(770)に天智天皇の孫にあたる62歳の白壁王が即位し光仁天皇となっている。

光仁天皇には皇后である井上内親王とその子・他部(おさべ)親王がいたが、宝亀三年(772)に藤原氏の陰謀によりそれぞれ皇后・皇太子の地位を剥奪されたのちに幽閉され、それから二年後に二人とも同時に亡くなってしまう。おそらく藤原一族の手で暗殺されたのだろう。

そこで光仁天皇は、自分と百済系の渡来人の系列の高野新笠(たかのにいがさ)との間に生まれた山部親王を皇太子としたのち、天応元年(781)に山部親王に皇位を譲って桓武天皇が即位することとなる。下の画像は桓武天皇だ。

桓武天皇

桓武天皇は平城京を捨てて、延暦3年(784)に山城国乙訓郡で建築中の長岡京に遷都する。

桓武天皇が平城京を離れて都を遷そうとしたのは、教科書などでは「奈良の仏教界からの決別」にあったという記述が多いのだが、天智系の桓武天皇にとって平城京は、関祐二氏の言葉を借りれば「『祟る天武』の亡霊の巣窟」でもあり、自分の異母兄(他部親王)やその母(井上内親王)が殺された場所である。この魑魅魍魎の住む世界から一日も早く離れたかったということなのであろう。

しかし、ここで事件が起こる。
延暦四年(785)に長岡京造営の責任者・藤原種継が何者かによって射殺されてしまった。
犯人は、桓武天皇の(同母の)弟であり皇太子である早良親王(さわらしんのう)と大伴家持とされ、早良親王は捕えられて、乙訓寺で幽閉されその間無実を主張して抗議の断食をし、淡路国へ流される途上で三十六歳の若さで亡くなってしまう。

藤原種継暗殺の犯人については諸説がある。奈良仏教の勢力や藤原家の関与を疑う説もあれば、早良親王説もあり、桓武天皇自身が怪しいという説まである。

東大寺桜

奈良仏教勢力説は教科書などで出てくる説なので省略するが、早良親王説は、親王は桓武天皇の即位の以前は僧侶であり、奈良の東大寺など南都寺院とつながりがあるということで疑わしいとする説で、奈良仏教勢力説に近いものである。
また桓武天皇説というのは、桓武天皇が桓武天皇の第一皇子である安殿親王(あてしんのう)に皇位を継承させるために、早良親王を排除したという説である。早良親王を排除することの最大の受益者が桓武天皇ではないかという観点からは説得力があり、今では結構有力な説になっているようだ。確かにその後の桓武天皇の行動を考えるとその可能性を強く感じるのだが、決定的な証拠があるわけではない。

早良親王が亡くなられた後に、桓武天皇の身の回りや都に、良くないことが相次いで起こっている。この点は前回の菅原道真や前々回の藤原道長のケースとよく似ている。

桓武天皇の夫人である藤原旅子が延暦7年(788)に30歳の若さで亡くなり、翌年の延暦8年(789)には桓武天皇の母親である高野新笠が亡くなり、その翌年延暦9年(790)には皇后の藤原乙牟漏(おとむら)も31歳の若さで亡くなり、都では天然痘が大流行する。
延暦7-9年(788-790)には旱魃のために大凶作となり、延暦9年(790)には都で疫病が大流行となり、早良親王を廃したのち皇太子とした安殿親王(あてしんのう)も病に倒れてしまう。また延暦11年(792)には、桂川が氾濫し長岡京に大きな被害が出た。

これらすべては早良親王の祟りであると考えた桓武天皇は、怨霊のゆかりの地である長岡を退去することを決意し、延暦12年(793)に遷都を打ち出し、延暦13年(794)には平安京に都を移されてしまう。

桓武天皇は平安遷都後も早良親王の怨霊におびえ続け、早良親王の霊を祀り、延暦19年(800)には早良親王に崇道天皇を追号し、種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復もはかっている。

お彼岸の時期に祖先の墓参りをするのは日本特有なのだそうだが、歴史的には大同元年(806)の三月に早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるために各地の国分寺で7日間「金剛般若経」を読経して供養がなされた記録が「日本後紀」にあり、これが日本で最初のお彼岸の祖先供養の記録なのだそうだ。そしてその年に桓武天皇は崩御されている。

ところで、陰陽道で「北に山(玄武)、東に川(青龍)、南に池(朱雀)、西に道(白虎)」が最良の土地だとする「四神相応」という考え方があり、平安京はその考え方に基づいて造られているそうだ。

船岡山から見た東山

即ち北には船岡山があり、東に鴨川があり、南に巨椋池があり、西には山陰道があるという場所である。上の画像は船岡山から見た東山連峰(比叡山から大文字山)である。

桓武天皇は結果として山紫水明の地の京都を都として選び、京都はその後4世紀近くにわたって平安京繁栄の礎を築き、その後も日本文化の中心地として発展して、多くの文化財を今も残してくれている。

京都鴨川

もし桓武天皇が長い間怨霊に脅え続けるようなことがなければ、京都に遷都されることはなかったであろうし、そうなれば今の京都も、その後の仏教の発展も、随分異なったものになっていてもおかしくなかったと思う。
****************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




関連記事

坂上田村麻呂と清水寺

先日京都の清水寺に行ってきた。
2月の寒い時期は京都に来る観光客が少ない時期ではあるのだが、週末ともなるとさすがに清水寺は別格で、訪れる観光客は多かった。

清水寺

この清水寺の広い境内の中に、1994年に建立された「阿弖流為 母禮之碑」(アテルイ モレの碑)がある。多くの観光客と同様に、私もこの碑の前を今まで何度も通り過ぎてきただけだった。

阿弖流為母禮之碑

この碑が何のために建立されたのか、長い間私も良く知らなかったので調べてみると、結構興味がわいたので今回はこの碑のことを記すことにしたい。

私が学生時代に歴史を学んだ時は「阿弖流為」「母禮」という人物を学んだ記憶がないのだが、最近の教科書では書かれていることがあるそうだ。「阿弖流為」は平安時代初期の蝦夷(えみし)の頭領であり、「母禮」は副頭領である。

この碑の裏にこう書かれている。
「八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:岩手県水沢市地方)の首領、大墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)」は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母禮は八〇二年八月一三日河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄以って冥さるべし。」

阿弖流為碑文

碑には「岩手県水沢市」と書いてあるが、その後水沢市は平成18年(2006)の市町村合併により「奥州市水沢区」となっているようだ。

東北地方には大和民族とは異なる人々の生活があった。その人々を政府は「蝦夷」と呼んで蔑み、8世紀の後半にはその地方を支配しようとしたが、この動きに抵抗し自衛のために戦ったのが阿弖流為たちであった。

阿弖流為

政府軍が相当苦戦した記録が『続日本紀』に残されている。
延暦8年(789)に征東将軍の紀古佐美(きのこさみ)が遠征し、阿弖流為の居所の近くまで進軍したが、退路を断たれて挟み撃ちとなり多くの戦死者・溺死者を出して敗退している。(巣伏の戦い)
この戦いがあった巣伏(すふし)という場所は、北上川は何度も流域を変えているので特定は難しいが、岩手県奥州市江刺区愛宕金谷に「巣伏古戦場碑」が建てられており、また奥州市水沢区佐倉河北田に「巣伏古戦場跡公園」があり、その公園の中に「巣伏の戦いの跡」と書かれた石碑があるという。

『続日本紀』を読むと、大敗したにもかかわらず自分の手柄ばかりを大げさに報告する紀古佐美に、桓武天皇が激怒する場面が記述されている。面白いので『続日本紀』の現代語訳の一部を引用する。

「七月十七日 天皇は持節征東大将軍の紀朝臣古佐美らに次のように勅した。
…いま先の奏状と後の奏状を調べると、賊の首を斬りとることができたのは八十九首のみで、それに対し官軍の死亡者は千人余り。負傷者に至ってはおよそ二千人に及ぼうとしている。そもそも斬り取った賊の首は百級にも満たなくて官軍の被害者は三千人に及んでいる。このような状態で、どうして喜べるというのであろうか。ましてや大軍が賊の地を出て還る際に、凶悪な賊に追討されたことは一度ならずあった。ところが奏上では『大兵を挙げて一たび攻撃すると、たちまち荒廃の地になりました』といっている。事の経過を追ってみれば、これはほとんど虚飾であると思う。
…すべて戦勝報告を奏上する者は、賊を平定し功を立ててからその後に、報告すべきである。ところが今、賊の奥地も極めずに、その集落を攻略したといい、慶事と称して至急の駅使を遣わしている。恥ずかしいとは思わないのか。」(講談社学術文庫『続日本紀(下)』p.418-420)

桓武天皇は紀古佐美を征東大将軍から外し、延暦12年(793)に征夷大使として大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を東北に送った。その戦役で征東副使である坂上田村麻呂が活躍したことが『類聚国史』に簡記されている。(「副将軍坂上大宿祢田村麻呂以下征蝦夷。」)


坂上田村麻呂は、延暦15年(796)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任し、翌年には征夷大将軍に任じられ、延暦20年(801)には蝦夷を討ったと報告している。
また坂上田村麻呂は、いったん帰京してから再び出征し、延暦21年(802)のはじめに北上川中流域に胆沢城を築き、その年の夏には、蝦夷の頭領阿弖流為と副頭領母禮を服属させることに成功している。

清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」の碑に刻まれている話は、正史にはどのように記述されているのだろうか。いろいろ調べてみると『日本後紀 巻第十』逸文(『類聚国史』『日本紀略』)にその記録が見つかった。講談社学術文庫の現代語訳を引用する。

「(四月十五日) 造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿祢禰田村麻呂らが、『夷大墓公阿弖利為(えみしおおものきみあてりい)・磐具公母礼(いわぐのきみもれ)らが五百余人の仲間を率いて降伏しました』と言上してきた。」(講談社学術文庫『日本後紀(上)』p.272)

「(七月十日) 造陸奥国胆沢城使坂上田村麻呂が帰京した。夷大墓公阿弖利為と磐具公母礼ら二人を従えていた。」(同上書 p.274)

「(八月十三日) 夷大墓公阿弖利為・磐具公母礼らを斬刑とした。両人は陸奥国内の奥地である胆沢地方の蝦夷の首長であった。両人を斬刑に処する時、将軍坂上田村麻呂らが『今回は阿弖利為・母礼の希望を認めて郷里へ戻し、帰属しない蝦夷を招き懐かせようと思います』と申し出たが、公卿らは自分たちの見解に固執して『夷らは性格が野蛮で、約束を守ることがない。たまたま朝廷の威厳により捕えた賊の長を、もし願いどおり陸奥国の奥地へ帰せば、いわゆる虎を活かして災いをあとに残すのと同じである』と言い、ついに両人を引き出し、河内国の植山で斬った。」(同上書 p.275~276)
と、想像していた以上に詳しく書かれていた。

清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」にある、「蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく」という表現は正史には書かれていない部分だが、田村麻呂が両人を「政府に助命嘆願」したことについては間違いないと考えて良いだろう。
阿弖流為らが処刑された「河内国の植山」の場所については諸説があるが、枚方市牧野阪2丁目の牧野公園(阪上公園)に「阿弖流為の首塚」があるという。

坂上田村麻呂画像

坂上田村麻呂は、延暦23年(804)に再び征夷大将軍に任命され、三度目の東北遠征を期したのだが、民の負担を考慮して中止となり、その翌年には参議、大同元年(806)には中納言、弘仁元年(810)には大納言に任じられ順調に出世していく。

次に清水寺と坂上田村麻呂との関係を書かねばならない。
清水寺の開創は宝亀9年(778)で奈良子島寺(こじまでら)の賢心(けんしん:後の延鎮上人)という僧侶だが当時は小さい草庵があっただけだったという。その賢心が宝亀11年(780)に坂上田村麻呂と出会い、賢心の話に感銘した田村麻呂が、自らの邸宅を仏殿に寄進したのが清水寺の創建だと言い伝えられており、その後幾度か災害や戦災に遭い再建復興を繰り返してきたそうで、現在の伽藍は徳川三代将軍家光により寛永10年(1633)に再建されたものだという。
http://www.kiyomizudera.or.jp/about/history.html

清水寺三重塔

清水寺のホームページによると、坂上田村麻呂により清水寺の諸堂が建立されたとあるのだが、どうして一武人にそれだけ豊かな財力があったのかと長い間不思議に思ってきた。その点をネットで調べると、出典がよく解らないのだが、桓武天皇から坂上田村麻呂に長岡京の紫宸殿が下賜されたことを書いているサイトがやたらある。JTBやJR西日本のサイトでもそう書かれているので、そのような言い伝えがあることは間違いなさそうだ。

以前このブログで「桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について」という記事を書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-65.html

桓武天皇は延暦3年(784)に長岡京に遷都したのだが、延暦四年(785)に長岡京造営の責任者・藤原種継が何者かによって射殺され、その事件に連座したとして桓武天皇の異母弟で皇太子であった早良親王が憤死。その後桓武天皇の身の回りに不幸な出来事が相続き、桓武天皇は延暦13年(794)に平安京への遷都を行なう。その時には長岡には紫宸殿となるべき建物が残されていたのだが、使い道のなくなった建物を、東征の功績にと田村麻呂に下賜したという可能性は高いような気がする。
田村麻呂の時代には清水の舞台は存在しなかったようだが、それでもこれだけの境内に相応しい本堂となれば、かなりの規模であったはずだ。桓武天皇の下賜がなければ、坂上田村麻呂が大きな堂宇を建てることは難しかったのではなかったか。

坂上田村麻呂は光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇と4代の天皇に仕え、嵯峨天皇の時代の弘仁2年(811)5月に54歳で没したが、『日本後紀』巻第二十一に田村麻呂の業績を讃える文章がある。業績を書いた後にこう締めくくっている。
「…しばしば征夷のため辺地で軍事行動に従事し、出動するたびに功績をあげた。寛容な態度で兵士に臨み、命を惜しまず戦う力をひきだした。粟田の別荘で死去し、朝廷は従二位を贈った。行年五十四」(講談社学術文庫『日本後紀 中』p.229)

短い文章ではあるが、坂上田村麻呂は、武人としてだけではなく、人間的にも素晴らしい人物であったことが窺える。だからこそ、阿弖流為と母礼が田村麻呂に恭順の意を示したのだと思うし、4代もの天皇から厚く信頼されたのだと思う。

坂上田村麻呂は嵯峨天皇の勅命により、武具をつけたまま都に向かって立ったまま葬られたと言い伝えられているのだが、おそらくそれは真実なのだろう。

0609-12.jpg

大正八年(1919)に発掘された京都市山科区西野山岩ケ谷町の「西野山古墓」は八世紀後期か九世紀前期のものとされ、内部からは武人のものと思われる純金装飾の太刀、金銀の鏡などが出土したという。この場所は平安後期に編纂された『清水寺縁起』に記されている場所とほぼ一致するのだそうだ。
http://saint-just.seesaa.net/article/43909122.html

田村麻呂は死してもなお、都を守り、国を守ってほしいとの嵯峨天皇の思いが伝わってくるようだ。
嵯峨天皇からすれば東北地方は京の都の「鬼門」となる東北の方角であったがゆえに、その東北の「蝦夷」を打ち破った坂上田村麻呂は古代の英雄となり、『公卿補任』という平安時代後期に編纂された書物には、田村麻呂について「毘沙門天の化身来りて我が国を護る」と書かれているという。
その後坂上田村麻呂は「毘沙門天の化身」と崇められるようになる。坂上田村麻呂が創建したとされる寺社が東北を中心に各地にあるのはそのためなのだそうだ。
****************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





関連記事

京北の常照皇寺と山国隊の歴史を訪ねて

毎年10月に行われる京都の時代祭を参観された方は御存知だと思うのだが、行列は明治維新から順次時代を遡っていき、その先頭を進むのが「維新勤王隊列」で、京都市観光協会による時代祭のHPには「維新に際して、幕臣が東北地方で反乱したとき、丹波北桑田郡山国村(現在・右京区京北)の有志が山国隊を組織して官軍に加勢しました。」と書かれている。
https://www.kyokanko.or.jp/jidai/gyoretsu_1.html

Youtubeで検索すると、時代祭の先頭を進む山国隊の多くの動画が紹介されており、陣羽織に袴姿で刀を差し、錦の御旗を掲げて鼓笛隊が軍楽を奏でて行進していく凛々しい姿を観ることが出来る。



御所から30km以上も離れた山奥にある山国村の有志が、なぜ明治維新の時に立ちあがったのかを調べていくと非常に興味深かったので、ずっと以前から山国隊を生んだ京北の地を訪れようと考えていたのだが、この地域は桜が有名であるので桜の咲く季節に訪れることに決めていた。

山深い京北の桜の開花は京都の中心部より1週間程遅いようだが、今年は例年よりもかなり遅れていて、おそらく4月下旬に入っても楽しめる場所があると思われる。
京北商工会館が「京北桜情報」を毎日アップされているので、これから行かれる方は、次のURLで開花状況を事前にチェックされた方が良いだろう。
http://keihoku.sakura.ne.jp/%E4%BA%AC%E5%8C%97%E3%81%AE%E6%A1%9C%E6%83%85%E5%A0%B1/

花降る里けいほくSAKURAめぐりマップ

また京北の桜の名所は京都市がよくできたマップを作成されているので、次のURLから「花降る里けいほく SAKURAめぐりマップ」を印刷して出かけられることをお勧めする。
http://www.city.kyoto.lg.jp/ukyo/page/0000178772.html

京北では訪問先の電話番号ではカーナビが反応しないところが多かったので、今回の記事には訪問先の住所を付記しておく。

常照皇寺の山門と勅額門

最初に訪れたのは常照皇寺(じょうしょうこうじ:京都市右京区京北井戸町丸山14−6 ☎075-853-0003)。

南北朝時代に光厳上皇が出家されたのち、貞治元年(1362)にこの地に庵を結んだのがこの寺のはじまりで、その後戦国時代に入って天正七年(1579)に明智光秀の軍勢によって寺域が焼き打ちにあったようだが、江戸幕府の第二代将軍徳川秀忠が寺領を寄進したのち朝廷の保護を受けるようになり、安永十年(1781)には開山堂が建立され、幕末以降に方丈や庫裏が整備されたという。なお背後の山腹には光厳・後花園両天皇の御陵(山国御陵)と後土御門天皇の分骨所がある。

常照皇寺勅使門と方丈

参道の長い石段を登り、山門を抜け次の勅願門を抜けると、正面に勅使門と方丈の屋根が見えてくる。勅使門への昇り階段の手前を左に折れて書院に向かう。

常照皇寺の御車返しの桜

有名な「御車返しの桜」はまだ蕾がふくらんだ程度だったが、今年の満開は4月の下旬になるのではないだろうか。

常照皇寺の九重桜と左近の桜

常照皇寺の有名な桜は他にもあって、国天然記念物の「九重桜」(右)と「左近の桜」(左)だが、九重桜がようやく開花したばかりだった。

常照皇寺の庭

秋には紅葉も美しいと聞くが、方丈から観る庭の景観は素晴らしかった。中央の楓が紅葉し、山全体が色づく季節にまた訪れてみたいものだ。

春日神社と黒田百年桜

常照皇寺をあとにして上桂川の道沿いの477号線を東に進むと春日神社(京北宮町宮野90)があり、その鳥居の左に「黒田百年桜」がある。この桜も今年はまだ蕾の状態であったのだが、この駐車場にあった黒田地区の案内板にこの地域と皇室との関わりについて記されていたので紹介したい。この歴史が冒頭で記した「山国隊」と関わってくるのである。

黒田を含む周辺地域は、平安時代に禁裏御料*(山国杣[やまぐにそま])に指定され、平安京の造営や新築用材の供給地となった。その後、紆余曲折はあったものの、大局的に見れば禁裏御料として朝廷や天皇家との関係を一貫して保ちながら、明治維新を迎えた。黒田は山国杣にあっても大堰川上流域(上桂川)の大布施杣に所属し、その中心的存在であった。…
 黒田は、月ごとあるいは緊急時に禁裏へ木材を貢納する一方で、禁裏との間には日常的な付き合いも生まれた。天皇の側近の女官が室町中期から江戸末期まで書き継いだ『御湯殿上日記(おゆとのうえにっき)』には、宮中の年中行事の際はもとより、頻繁に鮎・粽(ちまき)・餅・柿・菜・檜皮・樒(しきみ)などを持参した記録が残っている。鮎は夏には活き鮎を夕刻から翌朝にかけて御所まで運んだという。

 木材の搬出は筏(いかだ)流しが主流であり、平安時代から禁裏への貢納材を輸送し、近世における市場への移出も専らこれによった。黒田から嵯峨・梅津・桂の三ケ所の材木屋に移出された年間筏流送数は、幕末期で約三百乗(一乗とは筏の幅、約2.4m長さ54m)である。農地の少ない黒田では、農作業の主な働き手は女性で、男性は筏流しや製炭を含む山林労働により、それぞれ生活を支えた。また女性は炭俵二俵を背負い、貴船等の問屋にそれを卸した。」
*禁裏御料:天皇の直轄地でみだりにその中に入ることを禁ずる場所。「禁裏」とは天皇の常在する場所。
**『御湯殿上日記』:御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記。正本・写本・抄本を合わせると室町時代の文明9年(1477年)から文政9年(1826年)の350年分の日記が途中に一部欠失があるもののほとんどが伝わっている。


黒田地区地図

この案内板では黒田地区を中心に書かれているが、平安時代に禁裏御料となった「山国杣(そま)」は京北の山国地区、黒田地区から滋賀県境の左京区広河原地区に至る、広大な山林を指している。広河原地区は「桂川」の源流で、この川は黒田地区、山国地区へと流れて行き、日吉ダムから亀岡盆地に向い、さらに京都盆地に出てから伏見区で鴨川と合流し、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となる川である。この川は、京北では「上桂川(かみかつらがわ)」と呼ばれ、南丹市八木から亀岡市では「大堰川(おおいがわ)」、保津町から嵐山までは「保津川」と呼ばれることが多いが、行政上の表記はいずれも「桂川」で統一されているようだ。この桂川の存在が、大量の材木の運搬に好都合であったことは言うまでもない。桂川流域とその歴史については『空から見た桂川の表情』というサイトが写真が豊富でわかりやすい。
http://www.geocities.jp/hinatacobo/page015028.html

桂川の流れ

国立国会図書館デジタルコレクションで『京都府北桑田郡*誌』という本が公開されていて、山国村の歴史が記されている部分がある。それによると、
桓武天皇の御宇山城国長岡へ御遷都御造営につき、丹波国北山中郷山国庄を御杣御料地と定められ、平安京奠都に際しても良材を奉りて御造営の工を成就し…」とあり、長岡京の造営の頃からこの地は御料地に指定されていたようである
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925931/320
*北桑田郡:今の右京区京北と南丹市、左京区広河原を郡域とした。昭和30年に北桑田郡の周山町、細野村、宇津村、黒田村、山国村、弓削村が合併して京北町が発足したが、平成17年に京北町全体が京都市右京区に編入され、翌年に美山町、園部町、八木町、日吉町が合併して南丹市が発足して、北桑田郡は消滅した。

山国村はそれ以来、皇室に御用材を納め奉り、歴代の大嘗祭に際しては「悠紀主基両殿の造営に用いられし材を上納し、時には主基斎田を命ぜられて新穀を上り、大堰川に産する年魚を毎年禁裏に献じ奉りし」とある。

『京都府北桑田郡誌』には触れられていないが、Wikipediaによると戦国時代に宇津頼重(うつよりしげ)が山国庄を押領した時代があり、朝廷より依頼を受けた織田信長が明智光秀に命じて宇津氏を討伐し、朝廷による山国庄の支配が回復したのだが、江戸時代に入ると幕領とされ、朝廷による支配は解体されている。
ところが徳川綱吉により一部が禁裏領に復したため、以降明治まで禁裏領と旗本の知行地などが山国庄内に混在する状態となってしまう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E8%8D%98

地域の人々は、以前のように山国庄全体が禁裏領に復古することを強く願っていたのだが、慶応四年(1868)に鳥羽伏見の戦いがはじまり、それからまもなく山陰道鎮撫総督の西園寺公望から勤皇の士を募る檄文が届いて、それに応えて83名をもって編成されたのが「山国隊」である。東征大総督有栖川熾仁親王の京都出陣に伴い、山国隊に1小隊東征の指令が下り、2月13日に隊士35名が東山道の鳥取藩部隊に加わって京都を出発している。山国隊は各地で転戦を重ね、中山道を進み江戸に向かう途中、4月22日の壬生、安塚(栃木県宇都宮南辺り)の激戦で3名の戦死者を出し、さらに江戸の戦いでも犠牲者を出している。
明治二年(1869)二月に山国隊は鼓笛を鳴らして山国への凱旋を果たし、山国神社に参拝したのだが、1年以上の派兵に関わる軍費は自弁であり、そのためにできた膨大な借金は名主仲間の共有の山林を売り払うなどして賄われたという。多くの犠牲を出しながら、山国庄が再び禁裏領となる夢を果たすことにはならなかったのだが、以後山国隊は郷土の誇りとされ、この軍楽は今もこの地域の青少年に受け継がれている。

山国神社

「黒田百年桜」から桂川に沿って477号線を10kmほど下流に進むと山国神社(京北鳥居町宮ノ元1)がある。
社伝によると光仁天皇の宝亀年間(770~780年)に創立したとされるが、延喜式神名帳にも明記されているので、かなり古い神社であることは間違いがない。
この神社は源平合戦以降何度か戦災に巻き込まれ、現在の本殿は元文二年(1737)の建築だという。毎年10月の第二日曜日に還幸祭があり山国隊鼓笛行進が奉納されるのだそうだ。

山国護国神社

山国神社から1kmほど東に山国護国神社(京北辻町清水谷10)がある。
山国隊が明治二年二月に故郷に戻り山国神社に凱旋参拝した後に、犠牲者の招魂場を設けることが決議され、死亡した七隊士の墓標を立ててここで招魂祭が催されたという。
以来、この神社には山国隊だけではなく、日清日露戦争から太平洋戦争に至るまで、その身を国に捧げた郷土出身者の御柱も祀られているのだそうだ。
この地域では山国隊の軍楽が今も青少年に受け継がれていて、無人の神社のパンフレットによると「毎年4月22日に近い日曜日」に例祭日が行なわれ、山国隊の鼓笛行進が行われていることが記されている。
ネットで見つけた2013年の山国隊の動画を紹介しておく。



今年の例祭日の日程はあまりネットでは案内されていないようだが、パンフレットの通りだとすると4月23日に挙行されるということになる。この時期なら、今年の場合は、まだ黒田地区や常照皇寺の桜が楽しめる時期ではないだろうか。

今回紹介した常照皇寺と黒田百年桜は満開の写真をお見せできなかったが、京北の桜の名所は数多くあって、満開の桜の写真は次回に紹介することに致したい。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

端午の節句と「鯉のぼり」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-143.html

端午の節句は「ちまき」か「柏餅」か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-231.html

鳥居は神社のものなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-56.html

五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html

天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html

明治維新の魁(さきがけ)とされる生野義挙のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-479.html


関連記事
FC2カウンター 
アクセス累計
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル