HOME   »  津波
Tag | 津波

若狭湾の400年前の津波の記録と原子力発電所の安全性について

5月27日の日経の朝刊に、今から400年以上前に若狭湾津波とみられる大波で多数の被害が出たとの記録があるという記事が目にとまった。

記事によると、
「…敦賀短期大学の外岡慎一郎教授(日本中世史)が4月上旬、敦賀市の依頼を受けて調べたところ、京都の神社の神主が戦国~江戸時代に書きつづった日記『兼見卿記(かねみきょうき)』に、1586年に『丹後、若狭、越前の海岸沿いで家々が波に押し流されて人が死亡した』といった内容の記述があった」
「…また当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にも『山のような波が押し寄せて家や人が流された』といった記述が見つかった。」と書いてある。

早速この時の地震に関するルイス・フロイスの記録を探してみた。

3フロイス日本史

該当部分は「完訳フロイス日本史3」(中公文庫)の第60章にあった。
少し長くなるが、重要な部分であるので紹介したい。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、…突如大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫p196-197)

とここまでは、フロイス自身が体験した地震のことを書いている。フロイスは主に堺に居住していたので津波については体験していない。この文章に続いて、フロイスらが目撃者などから聞いた近江や京都や若狭や美濃や伊勢などの情報が付記されている。

それぞれ興味深いのだがすべてを引用すると長くなるので、若狭の津波に関する記録だけを紹介したい。
「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198)

東京大学の「大日本史料総合データベース」にアクセスすると、同時期の様々の史料を記録された日付けを絞込んで読む事が出来る。この地震の記録は新聞で紹介された「兼見卿記」だけではなく多くの史料で確認できるので、もし興味のある方は次のURLで確認することができる。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
このデータベースで、フロイスがイエズス会のインド管区長ヴァリニャーノに宛てた書簡が「イエズス会日本書簡集」にでているが、ほぼ上に紹介した「フロイス日本史」と同様の文章だ。フロイスは地震の日付けを11月1日と書いているが訳注では(11月29日の誤記)と書かれ、若狭の記述部分の「長浜」は「(小浜」の誤記か)と訳注が付されている。

Wikipediaによると、この日の地震は「天正大地震」とよばれ、震源地は岐阜県北西部でマグニチュードは7.9~8.1と推定されている。現在の愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県に相当する地域に跨って甚大な被害を及ぼしたと伝えられ、この地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。
具体的な被害として紹介されているのは、越中国木舟城が倒壊、飛騨国帰雲城が山崩れで埋没、美濃国の大垣城が全壊焼失、近江長浜城が全壊など城郭の損壊が中心である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87

敦賀原発

フロイスの若狭国についての文章に戻るが、この現象は地震による「津波」であることは、誰でもわかる話だと思う。しかし、関西電力はこの記録が存在するのを知りながら「信憑性がない」と社内で判断し、地元民には「若狭湾は、津波による大きな被害の記録がない」と説明して、14基もの原子力発電所若狭湾に建設してしまった。
これでは関西電力は、近隣住民の安全よりも、原子力発電所を建てることにすべてを優先させたと言われても仕方がないだろう。また建設を許可した国にも、このような重要な史実を看過した責任はないのだろうか。

福井県の原子力発電所

若狭湾に限らず、他の原発においても今後何も起こらないという保証は何もない。本来原子力のような、万が一の事態が発生した場足に国全体あるいは世界全体に多大な影響を及ぼすような物質を扱う場合には、過去の地震や津波などの記録を調査してそのレベルの災害にも耐えられる設計をしておくことが基本だと思うのだが、どこの原発も充分な検証がなされているのか。 過去の自然災害が耐えられる設計がなされていたとしても、もし「想定外」の地震や津波や火災があった場合においても、住民に被害を及ぼさないための二重三重の安全対策がなされているのだろうか。

今年度における政府全体の原子力予算は4330億円で、内約2300億円が研究開発などの原子力推進のために使われ、その内の核燃料サイクル関連の予算は520億円。一方で安全関連の予算は570億円なのだそうだが、この数字を見ても原子力推進にお金をかけ過ぎているように見える。

以前、他国と日本の原子力関連予算を調べて驚いたことがある。

原子力予算問題点

原子炉の数が多い国は①アメリカ104基②フランス58基③日本54 基の順なのだが、原子力を考える会の「よくわかる原子力」というHPを見ると日本の原子力関連研究開発予算が他国比突出している。何故原子炉の多い国よりも日本の予算がべらぼうに多いのか。次のデータはやや古いが、日本の予算はアメリカの約8倍、フランスの約7倍もあるのだ。
http://www.nuketext.org/mondaiten_yosan.html

慶応大学の岸博幸氏は、今回の福島の原発事故については東電に責任があることは言うまでもないが、政府にも重大な責任があり、双方の責任を安易な電気料金の値上げや増税で処理するのではなく、東電は徹底的なリストラをし、政府も今まで蓄積してきた「原子力埋蔵金」を放出して返済原資に充てるべきであると説いている。
http://diamond.jp/articles/-/12124

岸博幸

その「原子力埋蔵金」は岸氏によると、「政府が原子力推進を当面の間棚上げにすれば、そして特にもんじゅや六ヶ所村再処理工場に代表される“核燃料サイクル”を断念すれば、数兆円単位の資金」があるのだそうだ。ほかにも「(財)原子力環境整備促進・資金管理センターには、電力会社が積み立ててきた2種類の積立金(再処理積立金、最終処分積立金)が合計約3兆5千億円」あり、さらに原子力関連の独立行政法人や公益法人は様々あって、それら法人の剰余金は賠償金に使えるとしている。

岸氏は続けて「甚大な原発事故が起きた以上、国民感情を考えれば原子力推進などとても無理なはずですので、予算の執行を停止して、原子力推進のための予算のうち全額は無理でも例えば半分を賠償に転用するのは、原発事故の責任を負うべき政府として当然の対応ではないでしょうか。」と説いているが、全く正論だと思う。

今回の原子力災害に関しては消費者には何の責任もなく、ただの被害者にすぎない。したがって、電力料金の値上げや増税で被災地の被害者の賠償金原資の捻出をはかるというの議論はどう考えてもおかしい。
ペナルティを課すべき対象は、第一義的には原子力推進を図って来た東電や政府ではないのか。この際原子力利権そのものに大きなメスを入れなければ、問題解決をすることにはならないと思う。
岸氏が主張する通り、政府さえその気になれば数兆円単位の賠償原資の供出が可能であり、東電も役員報酬や管理職の給与カットや厚生施設売却などまだまだやるべき事がある。また、既存の原発の安全対策にも大きな追加投資が早期に必要なはずだ。
そういう議論をほとんどせずして、電気料金の値上げや消費税増税の議論が先行すべきではないと思う。

***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





このエントリーをはてなブックマークに追加


関連記事

地震がなかったにもかかわらず三陸海岸を中心に日本列島を襲った大津波~~チリ津波

今年の台風や地震の規模も被害も半端なものではないが、自然災害の怖さを振り返る良い機会なので、わが国の記録に残されている自然災害をしばらくいくつか紹介していきたい。

以前このブログで「震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波」という記事を書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-21.html

明治29年(1896)6月15日に三陸沖200kmの日本海溝付近で起きた地震は、宮古測候所の発表では震度2~3程度のものであったが、10mを超える大津波が三陸海岸の各地を襲い、岩手県を中心に多くの死者が出た。

明治三陸大津波伝承碑

特に岩手県綾里村の津浪は38.2mという想像を絶する高さのもので、綾里地区の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には驚くべき内容が記されている。
〈綾里村の惨状〉
「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き足を折り実に名状すべからず。村役場は村長一名を残すのみ。尋常小学校、駐在所みな流失して片影を止めず」(岩手県知事より内務大臣への報告)

この明治三陸大津波の原因となった地震のマグニチュードは8.6程度と推定されているが、「震度」というのは「ある地点の地震の揺れの程度」を意味し、「マグニチュード」は「震源から放出される地震波のエネルギーの大きさを間接的に表現したもの」である。
同じマグニチュードの地震であっても、震源から震度の測定地点までの距離が近いか遠いか、震源が深いか浅いか、伝播経路やその地点周辺の地盤条件等によって、地点の震度は変わってくるものであることは良く考えればわかることなのだが、明治三陸大津波の原因となった地震の震源地は日本列島から遠かったために、東北の人々は震度が小さい地震を警戒しなかったことから多くの津波の犠牲者が出てしまったのである。

震度3でもこれだけ多くの津波被害が出たのであるが、わが国では、震度がゼロであったにもかかわらず大きな津波被害が出た事例が存在する。

昭和35年(1960)に南米チリで起こった地震で発生した津波が太平洋を渡り、各国に深刻な被害をもたらしたのである。

気象庁(1961):チリ地震津波調査報告.気象庁技術報告第8号
【気象庁(1961):チリ地震津波調査報告.気象庁技術報告第8号】

山下文男氏の『津波てんでんこ』にはこう解説されている。

「一般に『チリ津波』と呼ばれているこの津波は、1960年(昭和35)5月23日午前4時10分(日本時間)南米チリ沖で起こった、M=8.5とも9.0ともいわれる、世界の地震史上も最大級の巨大地震に伴って発生した大津波であった。地元のモチャという島など、25m級の高さの津波によって1700人が溺死、あるいは行方不明という大被害だったが、津波には国境も領海もないから、そのまま太平洋を西北に進んで途中ハワイのヒロ島などを襲って61人もの命を奪い、更に、西へ西へと進んで地震から21時間後、則ち、24日の早朝には1万7千kmをまるでジェット機並みのスピードで走り切って日本列島の太平洋岸に襲い掛かった。明治三陸津波と同様、津波のランク〔4〕とされている近代日本最大級の大津波であった。
事前の地震を感じなかったことから『音もなくやってきた津波』などともいわれ、全国の沿岸住民に大きな衝撃を与えた。」(『津波てんでんこ』p.157)

17千kmを21時間で進む速さは時速810km、秒速225mという計算になるが、当時のわが国においては、そんなに遠くから大きな津波がやって来るということは想定していなかったようだ。この津波はわが国にどのような被害を与えたのだろうか。山下氏の文章を続けよう。

「津波は、北海道から沖縄に至る全国の沿岸線に、ほとんど隈なく押し寄せ、当時、米軍の占領下にあった沖縄を含め、全国で住宅3891戸が全半壊、39869戸が流失あるいは浸水して142人が死亡行方不明になった。なかでも被害が大きかったのは岩手県と宮城県の沿岸部で、この度も三陸海岸が最大の被災地になった。」(同上書 p.158)

大船渡市地図

津波による被害が大きかったのはリアス式海岸の奥にある港で、最大の被害が出たのは岩手県大船渡市で死亡行方不明者が53人、家屋の流出半全壊が880戸。次に被害が大きかったのは宮城県の志津川町(現:南三陸町)で、死亡行方不明者が37人、家屋の流出半全壊または浸水が1329戸あったという。

リアス式海岸と言っても津波に対して突き出た岬のような地形は、船首のように波を切ることが出来るので被害は小さい。大船渡市の地図を見ればわかるが、西北西方向に津波が進む場合に、綾里崎と碁石岬に切り分けられて逃げ場を失った津波は、山に囲まれた狭い地域に流れ込み、奥まった大船渡湾に迫るにしたがって津波の高さが高くなって破壊のエネルギーが増すことになるのだ。しかしながら同じ規模の津波が同じ場所を襲ったとしても、津波の進行方向が異なると被害の規模は大きく異なることになる。大船渡市の場合で、津波の進行方向がたとえば東北東であれば、大船渡湾に入り込む津波の規模は小さくなり、被害ははるかに小さかったと考えられるのだ。

チリ津波に襲われた大船渡市
チリ津波に襲われた大船渡市】

『津波デジタルライブラリィ』に、当時の大船渡小学校の教諭と生徒が記したチリ津波体験記『くろいうみ』が公開されている。当時、同小学校の校長であった紀室泰治氏は『発刊の辞』のなかで、津波当日のことを次のように述べておられる。

「誰もが夢うつつの快いまどろみの中にあって、街はひっそりと静まりかえって、深い眠りから覚めやらぬ二十四日早暁午前四時三十分、それこそ何等の前兆もなく、全く突如として大津波が襲来したのでありました。非常を告げ、暁の空気をふるわして、けたたましく鳴りひびくサイレンの音にも、海岳の方角から聞えてくる『津波だ、津波』と絹を裂くような叫び声にも、誰もが一様に『地震もなかったのにまさか津波がくるなんて』と信じかねる程でした。
人々のそんな考えには何の躊躇もすることなく、怒り狂った逆巻く大津波は物凄い勢いで疾風のように襲いかかって、繁華を誇った街を片っ端から無惨にも木葉微塵に打ち砕き、救いを求める血の出るような悲痛なる叫び声にさえ、何とも手の下しようもなく、全く一瞬にして阿鼻叫喚の修羅場と化してしまったのであります。」
http://tsunami-dl.jp/document/076#section-696e0b07bb3d17ac688471233e539fe5

『くろいうみ』に寄稿している先生や生徒の記録を読めば、誰もが津波が来ることを知らされていなかったことがわかるのだが、当時の気象庁は何をしていたのだろうか。
気象庁は、チリの大地震のあと津波が発生し、ハワイで猛威を奮ったことについては電報で情報を入手していた。そして検潮儀の記録では、午前2時25分には伊豆大島、2時30分には北海道の浦河などで津波の第1波の到着が確認でき、大船渡にも午前3時10分ごろの第1波の到着が確認できたという。

大船渡港民家に乗り上げた漁船
【大船渡港民家に乗り上げた漁船】

そんな状況であったにもかかわらず、気象庁の反応は鈍かった。
山下氏は前掲書でこのように記している。

「札幌管区気象台が『ツナミノオソレ』の予報を出したのは24日午前5時00分。
 仙台管区気象台が『ヨワイツナミ』の予報を出したのは同5時15分。
 つぎが直接気象庁による発表で5時20分。内容はつぎのようなものであった。
 『23日午前4時頃、チリ中部海岸におきた地震により、日本の太平洋岸では弱い津波があります。なお、北海道および三陸沿岸では津波の勢力が集まる関係で、相当な津波になる恐れがあります。』
 『相当な津波になる恐れ』というが、この頃になると、もう大船渡市(岩手県)や志津川町(宮城県)などでは、実際に、5m前後の大津波(第2波)に襲われ、全く寝耳に水で、惨憺たる情況になっていた。」(同上書 p.163-164)

実は、この津波が起きる5年も前に東京水産大学の三好寿氏によって、「チリで生じた津波が、日本近海で警戒すべきである」との注意喚起がなされていたという。そして三好氏は気象庁の会議室での講演においても同様の事を指摘したとのことである。

気象庁は、そんな遠くで発生した津波がもし日本に到達したとしても、大きな被害は出ないと高をくくって三好氏の指摘を無視したわけだが、津波で大被害が出てから事後で津波予報を出したことが当然非難されることになる。その時の気象庁の言い訳は次のようなものであったという。

「気象庁は、後でこそ『このこと(ハワイからの電報)が十分に活用されず予報の遅れたことは、関係者一同の知識の足りなかったことと経験が足りなかったために、津波強度を過少に推定したことによるもの』とし、『誠に遺憾に堪えない』と謝罪の意を表明したが、当初は『前例がない』とか『気象官署津波業務規定による業務のこと』『技術の限界』などと弁解に終始して、なかなかこの大失態を認めようとしなかった。」(同上書 p.164)

河北新報 チリ津波

大事故が起こったあとの当事者の言い訳として、「前例がない」とか「想定外」とか「技術の限界」という言葉が今も良く用いられるのだが、今後同様な事故が発生した場合にいかにすれば被害を最小限にできるかという発想よりも、自分や組織に責任が及ばない目的で発されることが多いように思う。

チリ津波のように、自国から遠く離れた海域で発生して押し寄せてくる津波を「遠地津波」と呼ぶのだそうだが、実は「遠地津波」は過去も何度か記録されており、明治10年(1877)にチリ沖から押し寄せてきた津波は釜石で3mの津波高を記録し、千葉県の房総半島で死者を含む被害が出た記録はあるというが被害は限定的であった。また平成19年(2007)8月15日にはペルーでマグニチュード8.0の地震があったが、わが国には北海道から沖縄までの太平洋側に高さ10~20cm程度の津波が到来したという記録があるだけである。

昭和35年のチリ津波は、わが国において記録に残されている「遠地津波」のなかで最初に大被害を出した事例であったのだが、気象庁はそれ以来「遠地津波」の発生とその情報を重視するようになったという。そのことは良いことには違いないのだが、津波を警戒する情報を出しても何も被害が出ないことが続くうちに人々が、「遠地津波」の怖さを忘れてしまうことが心配だ。地震がなくとも、あるいは小さな地震でも、震源地が遠ければ津波が襲ってくることがありうることを、小さい子供にもしっかり教えておくことが重要である。

ネットではチリ津波についての写真や記録の多くが紹介されているが、今年は災害の多い年であるからこそこれらの内容に目を通して頂き、多くの人々の記憶にとどめていただきたいものだと思う。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

『明暦の大火』の火元の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-303.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html






関連記事

敗戦後の混乱期に日本列島を襲った「昭和南海地震」

以前このブログで「軍部が情報を握りつぶした『昭和東南海地震』」という記事を書いた。この地震は昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に起きた、和歌山県新宮市付近を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震のあと津波が発生し、全国で死亡・行方不明者は1223名、壊れた家屋が57千戸以上とされる大災害であったのだが、この情報が漏れることを恐れた軍部が情報を統制したため、詳しい記録が残されていないという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-420.html

そして、その地震からわずか2年後の昭和21年(1946)に、今度は潮岬南南西約50kmを震源とするマグニチュード8.0の地震が発生している。今回はこの地震のことを書いておきたい。

終戦の年である昭和20年(1945)の米の収穫高は例年にない凶作であったうえ、海外からの引揚げ者や復員兵の増加によって昭和21年(1946)に入ると食糧事情は急速に悪化し、配給米の遅配や欠配が続いたという。お金があれば闇米を買うことは可能であったが、庶民の手の届くような価格ではなかったようだ。都市部では餓死者が続出し、もっとも悲惨であったのは戦災孤児や空襲被災者たちで、彼らは食料と交換できるお金も品物も持ち合わせていなかった。
5月19日には皇居前に25万人が集結し、政府の食糧配給遅延に抗議する集会が開かれている(食糧メーデー)。

そのような暗い年の12月21日の夜明け前に、西日本を襲ったのが『昭和南海地震』である。地震のマグニチュードは昭和東南海地震(M7.9)を上回る規模であり、この時も津波が発生して死亡行方不明者が1443名、住宅全半壊が28274戸、流失浸水が30330戸、焼失が2598戸と多くの被害が出たのだが、人々の生活がそれぞれ自分の事で精一杯であったため、罹災者には国民的な支援が届かなかったという。

この地震においても津波が発生し、和歌山、高知、徳島の三県で多くの津波被害者を出したのだが、この地震で最大の被害が出たのは高知県で、679名の死亡行方不明者、住宅全半壊が13853戸もあったという。山下文男氏の『津波てんでんこ』に、津波の被害の大きかった須崎町(現須崎市)、多ノ郷村(現須崎市)の事例が解説されている。この地域の被害が大きかった原因の一つは、その地形とその産業にあったという。

高知県須崎市
【須崎湾】

「V字形の湾がくの字形になって入り組んだ須崎湾では、侵入してきた津波が、まず湾奥の真正面にある多ノ郷村を直撃し、破壊の限りを尽くした後、反転して、湾の入り口近くにある須崎町に背後から襲いかかり、惨憺たる被害をもたらした。
『(津波)が、貯木材、家屋などを逆巻きながら、須崎駅近辺に不気味な音をたてて、ゴロゴロ、ガラガラ、バリバリ、ベリベリと猛りたって急速に迫るや、まだ明けやらぬ暗がりの中、子は親を叫び、親は子を叫び、助けを求める悲痛な無限地獄を現出し、夜が白々と明けてゆく頃には、須崎駅付近に三十何名かの死体が横たわっていたことは涙なくして見ることが出来ない悲惨な光景であった』(『南海大震災誌』)」(『津波てんでんこ』p.142)

昭和南海地震須崎港

須崎湾奥にあった貯木場の木材が津波の引き波で市街地に流入したことが津波の被害を増大させたことは、須崎市が刊行した体験談集『海からの警告』にも多数事例が出ていて、津波のために凶器と化した木材によって多くの犠牲者が出たようだ。須崎市のホームページを見ると、今では木材が固縛されたり、津波バリアが築かれるなど対策が施されているようだが、このような対策は海沿いにある貯木場で全国的に行われているのであろうか。
http://www.city.susaki.lg.jp/life/detail.php?hdnKey=429

次に、高知県の次に被害の大きかった和歌山県の事例を見てみよう。和歌山県では269名の死亡行方不明者、家屋流出325戸、浸水11820戸、住宅全半壊が3411戸出たという。

和歌山県田辺市新庄町
【田辺市新庄町】

最大の被害地は新庄村(現田辺市)だそうだが、地図で確認すると大きなV字形の田辺湾の最奥部に当たる位置にある。湾の中に入り込んだ津波が、山に囲まれて次第に狭くなる地形の中で行き場を失い、次第に波高となって破壊力が増していくことになるので、このような地形は津波の被害が出やすいのである。

昭和南海地震 新庄村
昭和南海地震 新庄村】

前掲書によると新庄村の630戸のうち地震による倒壊は古い家屋2~3戸に過ぎなかったが、津波で79戸が流出し、401戸が浸水。全半壊が85戸を数え26人が死亡行方不明になったという。(p.137)

広川町
【広川町】

和歌山には新庄村と同様に歴史的に津波被害が良く出る地域として広川町(旧広村)がある。
地図で確認すると、広川町もV字型の湾の最奥部の位置にある。
安政南海地震の時に、五兵衛という人物が激しい地震の後の潮の動きを見て津波を確信し、高台にあった自宅から松明を片手に飛び出し、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々に火を着けて村の人々が高台に集まったことで村人を救ったという話は作り話であることを以前このブログで書いたが、この物語のモデルである濱口梧陵は津波対策の為に紀州藩の許可をとって堤防の建設に着手し、高さ5m、幅20m、長さ670mの大堤防の建設に着手し、建設費の銀94貫のほとんどを自費で賄ったと伝えられている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-19.html

安政南海地震津波と昭和南海地震津波の浸水域比較 赤線が広村堤防
【安政南海地震津波と昭和南海地震津波の浸水域比較 赤線が広村堤防】

この広村堤防は昭和19年(1944)の昭和東南海地震の時はその役割を果たしたが、昭和21年の昭和南海地震の時は津波の高さが5mと高く、堤防のある地域の被害は一部の家が浸水した程度にとどまったが、堤防のない地域で22名の死者が出たという。上の地図は気象庁のホームページのもので左が安政南海地震津波の浸水域で右が昭和南海地震時の浸水域である。薄い赤線が、濱口梧陵が建設した広村堤防であり堤防により津波被害を小さくすることが出来たことは明らかである。
https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/tsunami/inamura/p7.html

津村建四郎
【津村建四郎】

この広川町に生まれて子供の頃に昭和南海地震を体験した地震学者の津村建四郎さんが平成2年(1990)に行われた「第1回全国沿岸市町村津波サミット」で、みずからの体験をもとに語られた講演の内容が山下文雄氏の本に出ているので紹介したい。文中の「紡績工場」は気象庁地図にある「日東紡績」で、「八幡さま」は「広八幡神社」だと思われる。

「みなさん、津波を発生させる恐ろしい地震と、そんなに恐ろしくない地震の見分け方をお教えしましょう。ぐらぐらといつまでも揺れ続けている地震が海底で起こった場合は津波が発生する恐れがあると考えてください。私が子どもの時分に体験した昭和の南海地震はものすごい地震で、しかもかなりの時間、揺れ続けていました。揺れ自体は、5分後くらいにはおさまり、その後非常に静穏な時間がありました。『大地震があったら逃げろ』と教えられてはいましたが、やはりその時点では逃げなかったのです。その後、深閑とした時間が15分くらいあり、余震もあまり感じられませんでした。そのうち沖からゴーッという凄い音がしてきました。近所の人が『津波だ!』という叫び声をあげました。その途端『逃げろ!』という感覚がよみがえってきました。冬の午前4時20分ですから、真っ暗です。しかし地元ですから、どの道をどう行けば八幡さま(避難場所)への最短コースかは分かっていました。
 みなさん、家族そろって避難するという訓練をやっておられるかも知れませんが、実際に暗闇の中で津波が押し寄せて来るという状況の中では、家族そろって避難するなどということはまず出来ません。ですから、今、考えると、一人ひとり、子どもに至るまで、一人で逃げのびる方法を教えておくべきだったと思っています。私も路地を必死になって逃げました。家族ばらばらになり、早い者勝ちで逃げました。
 逃げる途中にある紡績工場のすぐ側には小さな小川が流れています。平素は2~3mの高さで、川底にはチョロチョロ水が流れているところです。私が紡績工場のすぐ側を通過した時には、数メートルの橋の上で、津波が足のくるぶしぐらいまで上がり始めた時でした。そこを必死になって突っ切りました。数十メートル行きますと、やや小高くなったところがあり、そこに辿り着いて助かりました。私の姉は、ほんの1~2分の差でしたが、水が橋の上の方まで来ていたので、川を突っ切ることができず、田園の中を必死になって逃げたそうです。腰ぐらいまで水につかりながら逃げのびました。もっと後れた人が、ここでたくさん亡くなりました。紡績工場のすぐ隣の社宅には、地方から来た、地元以外の人も大勢いらっしゃいました。亡くなった方々はそういう人たちが多かったようです。ですから常に津波が来た場合のことを頭に入れておくだけでなく、津波が押し寄せて来て非難するときは、どのルートを辿って逃げるのが安全なのか、普段から、そのルートを自然に行けるよう(子どもたちに)教えておく必要があると思います。」(同上書p.138-140)

平成23年(2011)3月11日の東北大震災の時は、関西でも随分長時間の揺れを感じたが、震度が低くても、揺れの長い地震は津波が来る恐れがあるので注意せよということだ。

徳島県海陽町浅川と牟岐町
【徳島県海陽町浅川と牟岐町】

徳島県もまた昭和南海地震の被害が大きく211人の死者が出たのだが、特に多くの死者が出たのが浅川村(現海陽町)の85人と牟岐町の53名で、いずれもV字形の湾奥に位置している。

昭和南海地震 浅川港
【昭和南海地震 浅川港】

浅川村住民の体験記をつづった『宿命の浅川港』にはいくつもの教訓的な体験談が収録されているという。再び山下氏の著書を引用する。
「辻肇(68歳)さんは『小さい頃から、津波が来るときには、一旦、潮が『ザーッ』と干いて(海が)からからになり、今度は怒涛のように押し寄せて来ると教え込まれとった。』けれども『目の前は、何分もたっとるのに、ちっとも干いとらなんだ。じっと見よったら『グッグッグッ』というような音がして水が浜の方へ盛り上がってきよった。『こりゃおかしい』と思って足早で帰った』『びっくりして庭へ降りたらもう水がきとった。』と語っている。
 津波は引き潮から始まるという知識は、一面的な思い込みに過ぎなかったことを示している。」(同上書 p.147)
「角田稼一郎という方の体験談だが、『家の中にあった井戸をのぞいてたけど水があったけん『津波やきいへんわ』という調子だった』。然し『まえに学校の先生に教えてもらうとったんは『地震が揺ったら必ず井戸の水が引く。それから津波が来る』ということやった』、と批判的に話している。
 …昭和の三陸津波の際、岩手県の田老村などにも同様の語り継ぎがあって、わざわざ井戸を覗きに行ったがために逃げ遅れてしまった人たちがあった。各地によくある、もっともらしい言い伝えだが、これも真に受けてはならない俗説の類であって、井戸水の干満など、当てにすべきことでもない。」(同上書 p.147-148)

私も小学校時代に津波の前に引き潮があるとか、井戸水が引く話を先生から教えて頂いた記憶があり、それが誤りであるとは思っていなかった。もしかすると津波に引き潮がある場合とない場合、井戸水が引く場合と引かない場合があるのかもしれないが、このような貴重な体験談は将来においても、人々の記憶に留めておくべきものだと思うのだ。

このような記録を集められた書物の多くは今では簡単に手に入らなくなってしまっているのだが、誰も読むことが出来ない状況が続くといずれ、貴重な体験談が忘れ去られてしまい、再び俗説がはびこることになってしまうのではないだろうか。自治体によってはHPに一部を公表しているところもあるようだが、先人が書き残した貴重な記録が、地元の人々だけではなくて、全国で幅広く読まれるように工夫していただきたいと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

浄瑠璃寺から岩船寺へ~~秋深まる当尾の里の名刹と石仏を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-421.html

江戸幕末以降の危機を何度も乗り越えて、奇跡的に残された国宝・姫路城を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-451.html

紅葉を訪ねて播州清水寺から生野銀山へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-478.html

東大寺の大仏よりもはるかに大きかった方広寺大仏とその悲しき歴史
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-86.html

国宝の新薬師寺本堂で12体の国宝仏像に囲まれて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-128.html

大迫力の閻魔大王像に魅せられて~~水無瀬から大山崎歴史散歩3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-322.html






関連記事

戦国時代の歴史を動かした天正地震

4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。

帰雲城趾

上の画像は帰雲城があったとされる場所に立つ『帰雲城趾』の碑だが、画像に写っている帰雲山は何度も山崩れを起こしているのか、今も地肌を見せたままである。

教科書などでは天正地震のことは何も書かれていないが、この地震で倒壊したのは帰雲城だけではなかった。Wikipediaによると美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、伊勢の長島城が倒壊、近江の長浜城が全壊などとかなり広範囲に大きな被害が出ている。

震源地については諸説があるが、太平洋側の伊勢湾と日本海側の若狭湾の双方に津波の被害が出ている。

その当時イエズス会宣教師としてわが国に滞在していたルイス・フロイス(1532~1597)の『日本史』には、この地震について次のように記している。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、(我らの暦の)1月の何日かにあたるが、(突如)大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
 人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
 その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫『完訳フロイス日本史③』p196-197)

地震の日付は和暦で記しているのだが、同年の11月1日には地震の記録は外に存在しない。フロイスが単純に日付を誤って記したものと理解されている。

長浜城
長浜城

通常続いてフロイスは琵琶湖岸の長浜の事例を記している。
「近江の国には、当初関白殿が(織田)信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城がある地に、人家千戸を数える町がある。そこでは地震が起こり、大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した。」(同上書 p.197)

長浜地図

長浜には西浜千軒遺跡下坂浜千軒遺跡という湖底遺跡があり、この地震で湖に水没したと推定されている。
次のURLに、2011年9月12日に滋賀県立大の中井均准教授が指導する「琵琶湖水中考古学研究会」が、長浜市沖の西浜千軒遺跡の調査で、供養塔や仏塔の一部など430点が見つかったと発表したことの新聞記事をまとめている。このブログ記事によると。
「長浜市祇園町沖約100mの湖底・水深約1・2~1・5mで、東西38m、南北26mにわたって素潜りで調査し、方形区画や石積みを見つけた。 一石五輪塔(砂岩製)の一部や、石仏の上部など、墓地に使われたとみられる石があり、材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭に作られたとみられる。 文献で天正13年11月29日(1586年1月18日)に岐阜県中北部を震源とするマグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、これと時期が一致した」とある。
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/92dc366e3e9c269182cbd181fbcc0c16

長浜城からの琵琶湖の眺め
長浜城から西浜千軒遺跡方面を望む(画像の右)】

「琵琶湖水中考古学研究会」が撮影した写真は同会のFacebookホームページで公開されているが、今の湖岸から100m近く西に千軒近い集落があり、その集落が地震によって瞬時に水没したと理解すればよいのだろうか。
https://www.facebook.com/lakebiwaarchaeology/

さらにフロイスは京都の事例を記したのち、若狭湾で津波の被害が出たことを書いている。

「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198)

高浜、小浜地図

 ところが、若狭湾には長浜という地名は存在しない。フロイスが琵琶湖に沈んだ長浜の話と混同したのかと誰でも考えるところだが、フロイスは「やはり長浜と称する別の大きい町」と、琵琶湖岸の長浜とは区別して書いている。小浜の地名を誤ったか、高浜の地名を誤ったかのいずれかなのだが、地形から判断すると、U字型をした湾の中心部にある高浜の方が津波の被害が出る可能性が高そうだ。Wikipediaによると、福井大学の山本博文教授は福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表したという。平成27年5月19日の読売新聞の記事が次のサイトで掲載されているが、笠原川を遡った津波が、海の砂や貝殻を運んだ形跡が、かつて湿地帯であった水田の、深さ約1mに確認されたという。このあたりの標高を電子国土Webで確認すると1.5~3m程度で、さらに深さ1mというから津波の規模としては高浜では比較的小規模なものであったような印象を受ける。
http://jcpre.com/?p=8105

イエズス会のジアン・クラッセ(1618~1692)がわが国で布教活動をしていた宣教師たちの書簡に基づいて著した『日本西教史』にこの地震の津波のことが記されている。この本は国立国会図書館デジタルコレクションに収められていて、誰でもPC上で読むことが出来る。津波の記事だけ紹介すると、
若狭の国内貿易の為にしばしば交通する海境に小市街あり。ここは数日の間烈しく震動し、これに継ぐ海嘯を以てし、激浪の為に地上の人家は皆一掃して海中に流入し、あたかも元来無人の境の如く全市を乾浄したり」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/344

クラッセは、おそらく当時日本にいたフロイスなどの書簡を参考にして記したものと思われるが、当時の宣教師の記録そのものが確証のない噂話を記したものである可能性も考えられる。

吉田兼見
【吉田兼見】

しかしながら、宣教師とは全く接点がなかったと思われる日本人による津波の記録も残されている。
吉田神道宗家・吉田家9代当主の吉田兼見が『兼見卿記』の11月30日条に、地震の後の津波の事を書いている。文中の「若州」は「若狭」と理解してよく、若狭湾で津波が発生した可能性はかなり高そうだ。
「廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦邊波ヲ打上在家悉押流、人死事不知数云々、」
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/kanemi.jishin.html

ところでこの天正地震が起こった時期は、秀吉は近江国の坂本の城にいた。
フロイスの記録によると、
彼は、その時手がけていたいっさいのことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからである。」(同上書p.199)とある。
この地震で大坂城は大丈夫だったのだが、弟の秀長の館は倒壊したという。

フロイスは、秀吉が「その時手がけていたいっさいのことを放棄し」たというのだが、秀吉は何を手がけていたのだろうか。
地震が起きた天正13年(1585)の秀吉の動きを見てみよう。
3月には紀州を平定し、7月には四国を平定し関白となり、8月には越中を平定している。
閏8月には家康が真田領に侵攻し、真田昌幸は上田城に籠城している最中に秀吉に支援を要請した。秀吉は支援を約束し、11月19日付の手紙には来年正月15日に家康を討伐するために出陣するので真田昌幸からも兵を出すように伝えたという。(松丸憲正氏所蔵文書)

そしてその10日後にこの天正地震が起きたのである。

秀吉

秀吉にとって、この地震のダメージは大きかった。
徳川征討軍で先鋒を期待されていた山内一豊の長浜城が倒壊し、大規模な地割れで長浜の市街地の一部が湖底に沈んだために多くの死者が出た。また徳川征討軍のための兵糧が蓄えられていた大垣城も倒壊してしまった。秀吉軍の他の武将も地震で大打撃を受け、家康征伐どころではなくなってしまったのである。一方、家康のいた三河以東は震度4以下で被害は少なかったのだという。

天下統一を目指していた秀吉は、地震によって家康打倒の強硬策から融和策への方針転換を迫られ、友好の証として妹の旭姫を送って家康を自陣営に取り込んだのである。さらに秀吉は、家康の上洛を実現させるために、実母を人質として家康に差し出している。

もしこの地震が起きていなければ、兵力で圧倒的に有利であった秀吉は家康を討伐していた可能性が高く、そうなると豊臣政権がその後も長く継続したかもしれないという認識が、最近広がりつつあるようだ。

地震は大地を動かすだけではない。時には為政者の運命を変えて、歴史をも動かすことがありうるのである。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-506.html

刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-507.html









関連記事

わが国史上最大の火山災害である「島原大変」の被害者の大半は津波で死亡した

前回の記事で大規模な山の崩壊や地盤の崩壊で津波が発生し得ることを書いたが、今回はその事例について記すことと致したい。

島原半島の中央部に活火山の雲仙岳があるが、この山は三岳と呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳ほか、総計20以上の山々から構成されている。
平成3年(1991年)の5月に、雲仙岳の三岳の一つである雲仙普賢岳に溶岩ドームが出現し、それが日々成長したのち小規模な火砕流が頻発するようになり、6月3日には溶岩ドームが崩壊して大規模な火砕流が発生してしまう。ネットではその時の動画が紹介されている。
https://youtu.be/r0gFFJUsIrE



この災害は、地元消防団員や警察官、農民をはじめ、報道関係者など43人の犠牲者が出た大惨事であったのだが、歴史を紐解くと、江戸時代中期にもっと大きな災害が雲仙岳で起こっている。

東京大学地震研究所図書室のサイトに、に起きた「島原大変」に関する『大日本地震史料 巻之十』の記録が多数紹介されている。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/meta_pub/G0000002erilib_L001001

「島原山焼山水高波一件」という史料には、寛政4年(1792年)に「島原大変」が起こる前に何度も地震が起きていたことが記されている。文中の温泉嶽は雲仙岳で、前山は眉山、海嘯は津波を意味している。

「同(寛政)四年一月十八日戊午、肥前国温泉嶽ノ普賢山、鳴動シ、地頻ニ震動ス、二月四日穴迫ノ地鳴動シ、石砂ヲ渓谷ニ崩落シ、九日ニ至リ、火気ヲ発シ、二十九日、蜂之窪又火ヲ噴キ、四月一日ニ及ビテ、前山崩裂シ、泥水奔流シテ海に入リ、海嘯之ニ加ハリ、島原城下数十村ヲ蘯尽ス、肥後国熊本ノ海辺モ其害ヲ被レリ、」(『大日本史料巻之十』p.445)

また、「筆のすさび」という史料には、

「寛政四年壬子二月、肥前国雲仙嶽、大に火燃て、数日地震夥しかりし、同四月朔日の夜戌刻過、雲仙嶽の下の前山といへるが、島原城の上に当たりたる山、二ツに敗れ、火出で、同時に島原海中よりも火燃出、津浪、山のごとく湧上り来り、島原城下の町々、其外島原領の村々、佐嘉領の南海に臨める村々、天草島の海浜にある民屋、皆同時に没溺し、島原にて死亡の人、凡三萬余。肥後にても二萬余人といへり。其外諸国、皆それに準じて、夥しき死亡なり。其夜、海中に小き島七八十も出現したりとぞ。」(『大日本史料巻之十』p.460-461)

九十九島

この「島原大変」で上海にいくつも小島が出来て、「九十九島(つくもじま)」と呼んでいる。被害者数は過大に記しているようだが、周辺地域で津波被害が出たという記述はそのとおりであろう。

島原大変

国土交通省九州地方整備局がまとめた『日本の歴史上最大の火山災害 島原大変』というレポートがネットで公開されていて、その表紙に眉山山体崩壊前と崩壊後の絵が描かれている。今の眉山の形状を調べると、この絵は決して大げさではないことがわかる。
http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/wlib/pdf/010101a.pdf

雲仙岳と眉山(右) Wikipediaより

上の画像はWikipediaに掲載されている雲仙普賢岳(左)と眉山(右)の写真だが、眉山の崩壊は雲仙普賢岳の崩壊よりもはるかに大きく、大量の土砂が海に流れ込んで、海岸線が約800mも押し広げられたという。

国土交通省のレポートの「まえがき」にはこう記されている。

「寛政四年四月一日(西暦1792年5月21日)、島原城背後にそびえる眉山の東側が大きく崩れました。山体崩壊です。この崩壊は、普賢岳の噴火活動中に起きた地震に因って引き起こされました。崩壊により大量の土砂が有明海に流れ込み、大きな津波を引き起こしました。津波は有明海沿岸の村々を襲い、およそ1万5千人の人々がなくなりました。これは『島原大変肥後迷惑』として、日本の火山災害の歴史において最大の死者を出した災害として記憶されてきました。」
http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/wlib/pdf/010101a.pdf

このレポートによると、寛政4年に崩壊した眉山は、もともとは3000年~5000年前に造られた溶岩ドームで、島原半島の台地は何度も山体の形成と崩壊を繰り返して作られたのだという。「島原大変肥後迷惑」という名前は、島原で眉山が山体崩壊を起こし(島原大変)、それに起因する津波が島原だけでなく、対岸の熊本(肥後)にも大きな被害を出す原因となったことから、そう呼ばれるようになったという。
この津波は「日没後、しかも大潮の満潮時近くに発生」し、「肥後・天草の沿岸各地を襲い…津波の遡上高は20~50mに達したと伝えられ、多くの家や田畑が波にさらわれました。これにより島原半島側でおよそ1万人、熊本県側でおよそ5千人の、あわせて1万5千人もが津波に流されたり土砂に生き埋めにされて亡くなりました」(p.13)とある。死因別には分類されていないが大半が津波の犠牲者のようである。

雲仙岳と有明海・島原湾

この被害者の数は、わが国の火山災害史上最多となるのだそうだが、ではどの程度の土砂が有明海に流れたのであろうか。国土交通省の推定によると、眉山の崩壊土量は3.25億㎥で、海に流れ込んだのは2.76億㎥というのだが、単純に考えると、一辺が651mの立方体の土砂が一気に海に流れ込んだことになる。

この衝撃で津波が発生して島原の対岸の肥後や天草に襲い掛かり、肥後の海岸で反射した返し波が、再び島原を襲ったと考えられている。

「島原大変」のような山体崩壊によって津波が発生することは多くなく、わが国では同様な事例は、江戸時代に北海道の渡島大島と駒ケ岳で起きたことが記録に残されている。

渡島大島と石崎地区

渡島大島は離島である上に無人島であるため、噴火活動についての記録はないが、寛保元年(1741年)八月二十七日に寛保岳の大噴火があり、噴火の翌日に、対岸の江差から松前にかけて大津波が襲い1467人の死者が出たという。
最も大きな被害がでたのが上ノ国町の石崎地区で、50件ほどのあった家屋が全戸流出し、住民の生存者は1名だけで、他は全員溺死したと伝えられている。

「北海道旧纂図絵」に描かれた渡島大島の噴火

『函館市中央図書館デジタル資料館』で『北海道旧纂図絵 巻7 』を閲覧すると、この津波の絵が描かれているページを見つけることが出来る。
http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/reservoir/516eb5e51a5572427000144a

津波の原因について、気象庁は山体崩壊説を採っているようだが東大地震研究所は地震説を採っているという。渡島大島の写真を見ると、北側に大崩壊した形跡があるのだが、東大地震研によると、その山体崩壊のエネルギーでは寛保元年の津波の大きさを説明できないのだという。しかしながら、寛保岳の噴火の翌日に地震があった記録がないので、どちらが正しいかはよくわからない。

駒ケ岳と内浦湾

駒ケ岳については、寛永17年(1640年)に起きた噴火の際に山頂の一部が崩壊し、大小の岩塊が海に流れ込んで津波が発生したとされ、津浪が対岸に押し寄せて、700名余りが犠牲となったとされる。

徳川幕府の公式記録である『大猷院御実紀 巻四十四』の寛永十七年六月二十九日の条にこの記録が出ている。「大猷院」というのは、三代将軍徳川家光の法号である。

「この月十三日松前志摩守公廣が所領戸勝(十勝)より亀田にいたるまで、逆波のために打ち破られ、民家悉く漂没す。土民幷に蝦夷等五百余人溺死す。同日内浦嶽もえ出て。灰燼虚空にみち。十四十五両日の間すべて闇夜のごとしとぞ(紀年録。)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991117/300

テレビなどで解説される津波の解説はほとんどがプレート境界型地震の話で、山崩れによって津波が発生する可能性に言及することが少なすぎると考えるのは私ばかりではないだろう。地震が多く火山の多いわが国は、他国よりも山崩れによる津波が発生する可能性が高いと思われるし、もし起きた場合の被害は決して小さくないはずだ。しかしながら、その対策がほとんど何もとられていないのである。

近年で世界最大級の津波が、アメリカアラスカ州のリツヤ湾で1958年7月8日に記録されているが、津波の原因はマグニチュード7.7の地震により引き起こされた山体崩壊で、津波の高さは最大で524mに達したという。興味のある方は、次の動画が参考になる。
https://youtu.be/cj2IyBzJu0k

リツヤ湾

リツヤ湾を地図で確認すると、湾の入り口は狭く奥行12km、幅3kmと細長い湖で、周囲は山で囲まれている。
わが国で山体崩壊による津波が起きた雲仙岳のある有明海・島原湾も、駒ケ岳のある内浦湾も、リツヤ湾と同様に、周囲は山や陸地に囲まれて湾の入り口は比較的狭くなっている。このような地形は、普段の海は穏やかだが、もし山体崩壊や地盤沈下などで津波が発生すると、そのエネルギーは対岸に向かい、その帰り波はまたその対岸に向かうことになり、長い間内海の中に留まることが考えられる。
このような現象は海に限らず湖においても同様に起こるだろうし、山体崩壊だけでなく大規模で急激な地盤沈下(陥没)もまた同様の結果を招くことになるはずだ。

ネットでいろいろ検索していると1980年にアメリカワシントン州スカマニア郡にあるセントヘレンズ山が噴火時に山体崩壊を起こす動画が見つかった。この山体崩壊で山の標高は2950mから2550mに減少し、200軒の建物と47本の橋を消失させ、57人の犠牲者が出たという。
https://youtu.be/bgRnVhbfIKQ

同様の事がわが国でも起こる可能性があるのではないか。
富士山の大澤崩れは毎日ダンプカー48杯分の土砂が崩れているのだそうだが、富士山が山体崩壊した場合はどの程度の被害が想定されているのか。

静岡大学防災総合センターの小山真人教授が東京新聞に発表された『富士山の山体崩壊』というコラムがネットで読める。
小山教授は、富士山の北東側、東側、南西側の山体崩壊が過去に起きており、もし北東側が崩壊した場合は、最も被害が大きくなると述べておられる。
「大量の土砂が富士吉田市、都留市、大月市の市街地を一気に埋めた後、若干速度を落としながら下流の桂川および相模川沿いの低い土地も飲み込んでいき、最終的には相模川河口の平塚・茅ヶ崎付近に達する。このケースの被災人口を見積もったところ約40万人となった。事前避難ができなかった場合、この数がそのまま犠牲者となる。」
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/tokyoshinbun121031.html

富士山のような高い山が崩落すれば、猛烈なスピードで土砂が川や都市を埋め尽くしていくことになる。逃げることは殆んど不可能だ。
小山教授によると富士山の北東側の山体崩壊は1万5千年前に実際に起きており、相模川沿いを流れ下り、相模原市内の遺跡などにその痕跡があるのだという。

わが国には山体崩壊の可能性のある山は富士山以外にも多数存在するが、過去において山体崩壊を繰り返してきている山の土砂が流れるルートの周辺に住居などを建てることを制限することが必要ではないか。また、山体崩壊によって土砂が湾や湖に流れ込む可能性が高い海や湖の周辺地域も、住宅などの建築制限が必要だと思う。しかしながら、既に多くの人々が居住している場合の対策は難しく、せめて人口を他の地方に徐々に分散させていくことを誘導していくしかないだろう。平成3年の雲仙普賢岳の火砕流も、溶岩ドームがもっと巨大で島原湾に大量の土砂が流れ込んでいたとしたら、島原大変と同様に熊本にも被害が出た可能性が高かった。

西暦79年にポンペイの町はヴェスヴィオ火山の火砕流で埋まったと考えられているが、もし火砕流がポンペイを襲ったのなら、遺跡で肖像画などが焼けずに多数発掘されることはなかったと思うのだ。ヴェスヴィオ火山の噴火が引き金になって山体崩壊がおこり、一瞬にしてポンペイが土砂で埋まったのではないだろうか。
前々回の記事で、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、帰雲城と城下町が一瞬にして埋没したことを書いたが、同様のことがポンペイで起こっていたとは考えられないか。

山体崩壊は滅多に起こらないものではあるが、滅多に起こらないから何もしないのではなく、リスクの高い地域はある程度分かっているのだから、万が一起こった場合に少しでも人的被害が少なくなるような国土利用を推進してもらいたいものである。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。








関連記事
FC2カウンター
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
QRコード
QRコード
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
おすすめ商品
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ
ブログサークル
ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
文字を大きく・小さく
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史