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プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7

前々回から紹介している”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)の著者であるフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズはサンフランシスコの新聞社の記者であった頃に東洋からアメリカのチャイナタウンに向かう暗黒街の麻薬ルートの情報を追及していたことがあり、彼によると蒋介石はかつて阿片の最大の取引をしていた実績がある人物だったという。

1937年から翌年にかけて、その蒋介石が「排日」活動でアメリカなど西洋諸国からの人気が高まった時期に、西洋諸国の歓心を買うために麻薬売買を禁止する決定を下し、阿片常習者の苦力たちを「逮捕」し、銃殺刑に処せられるところを世界に公開したのだが、その処刑に著者のウィリアムズ氏が立ち会ったことが紹介した著書に記述されている。

「中国の陰気な群衆は自分のかわいそうな友人たちの処刑を目撃している。そして処刑は抑止効果があると思わせられた。しかし実際問題としてまもなくその軍閥や役人の手先どもがちょこまかちょこまか小走りに人々に阿片を売り歩いていのである。このようにして二三週間もすると、別の一群の『吸飲者』たちが駆り集められて、撃たれ、写真に撮られ、死んだことが海外の新聞に出る。彼らの多くが吸飲者であることは疑いない。しかし鎮圧を命じ、使用者を死に至らしめたあの役人どもの手先によって、麻薬商売は続きに続いているのだ。」(『中国の戦争宣伝の内幕』p.95)

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すなわち、蒋介石阿片常習者の苦力たちを、阿片の販売先として利用したのちに、西洋諸国に対し阿片販売を取り締まる国としてアピールするために処刑を公開にして利用したのである。そうしておきながら、麻薬商売をやめる気などは毛頭なかったというのである。
日本が侵略したとされる満州も、麻薬常習者が多かった。ウィリアムズは満州について次のように記している。

溥儀

「日本人が入ってくる前の満州は麻薬中毒患者であふれていた。その製造と使用は大きく広がっており、公的に認められていた。しかしその製造と消費についての何の記録も統計もなかった。軍閥が追放されてから、日本が新満州帝国の建設を始め、満州人の血統を持つプリンスが玉座に着いた。日本人が最初にやったことは麻薬売買の記録を正式に作ることである。覚えていて欲しい。これは満州で全く初めて作られたのである。

そして長い間の使用の結果の、驚愕すべき堕落の実態が完全に明らかにされたのである。平行して、出生、建築、病院、住宅、政府の各役所の記録が作られていった。これは法と秩序、治安と安定を確立させるためのものであった。日本はこれらの発見を誇りを持って世界に発信した。しかし世界はおおむね学校や病院その他の数とかに目配せもしなかった。国際連盟のあるジュネーブやアメリカは特にひどかった。…

満州での麻薬中毒とその使用を止めさせるための叩き台を作るというアイデアに基づいて満州の日本人の骨身を惜しまぬ努力によって集められた統計は、これらの偽善者によって反日の材料に使われたのだ。…

驚愕と痛みもいくらか感じながら、日本は自分たちが作ったリハビリテーションのための仕事が、自分たちに襲い掛かってくるのを発見した。日本人は宣伝が下手である。逆襲する代わりに彼らはすねた。もし西洋世界が自分たちのしていることが理解できなかったのなら「くたばりやがれ」というものだ。日本人のまさに沈黙は、数百万の新聞読者の目をぎくりとさせるような見出しとなり、彼らの明らかな罪悪の証拠として受け取られた。」(同上書 p.95-97)

日本は満州の麻薬を排除し、満州の治安と安定を確立させたのたが、中国の権力者にとっは麻薬の利権が脅かされたことを喜ぶはずがなかった。
いくら日本のしたことが道義的に正しくても、マスコミは往々にして権力者につながっている。ウィリアムズはここでも、日本人の宣伝下手を指摘している。 ウィリアムズの文章を続ける。

蒋介石

「さあ、中国、あるいは蒋介石一派は、麻薬まみれになり、実際に麻薬取引をやっているのは自分らなのに、悪臭ぷんぷんの悲しげな嘆願を世界に向けて放ち始めた。日本は中国人に阿片を吸い、ヘロイン、コカインを使うようにと勧め、我国の精神とモラルを破壊しようとしているのである。中国に住む事情通の外国人は、これは笑い話でしかない。しかし南京政府は、これはいつばれると思う罪障からの逃げ道であり、反日のためのいいプロパガンダであり、宣伝なのだ。めったにないチャンスでありペテンだったが、絶好の機会を捉えていた。軍閥が忌み嫌う日本人は、彼らのひどい罪を背負わされて世界から非難されたのだ。…

ほかのどんな国民と較べても、日本人ほど女性や麻薬の売買を忌み嫌う国民はいない。…

それにもかかわらず世界中の善男善女は、恐怖に陥り、思考停止になったままに、日本が哀れな国を征服しただけではなく、人々に阿片吸引を押し付けていると言うわけだ。…」(同上書 p.97-98)

蒋介石がこのような明らかな嘘を垂れ流した時に、日本人が具体的にどのような対応をしたかは具体的には書かれていないが、ウィリアムズ氏の「日本人のまさに沈黙は…罪悪の証拠として受け取られた」という文章からすれば、ほとんど反論せず黙っていたのであろう。

今もわが国は、外国から誹謗中傷を受けた時には、「沈黙は金なり」で沈黙することが多いのだが、このような考え方は相手が情報戦を仕掛けてきた際には世界では通用するはずがない。何も知らない世界ではむしろ、わが国が反論しないのは、わが国に後ろめたいものがあるのだろうと考えるのが普通ではないのか。
蒋介石は自国の犯罪をそのままわが国の責任に擦り付けるという明らかな嘘をついたのだが、わが国が反論らしき反論をしないために、世界では蒋介石の言葉が真実らしいと受け取られてしまった。

情報操作を仕掛ける国は、嘘を承知でそれを何度も浴びせてくる。そのような情報戦を仕掛けられた場合には、その都度しっかり反論し、世界にわが国の正しさを明確に論拠を示して主張する以外に方法はないのだ。

わが国の政治家も外務省も、このような歴史を知らないから、同じ誤りを何度も繰り返しすばかりである。

話をウィリアムズ氏の著書に戻そう。

中国のプロパガンダは言葉や活字だけでなく、写真でも行われている。下の画像は学生時代の教科書で見たような気がするのだが、ウィリアムズの著書にこの写真が作成された経緯が書かれている。

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「カメラはアメリカにおける中国のプロパガンダの中で、日本への反感と中国への軍閥への同情を引き起こすのに掛け値のない役割を演ずるものである。これらの中国の宣伝屋たによって、今までかつてなかったほど沢山の贋物写真がアメリカの新聞雑誌にこっそりと挿入されている。彼らは次々に恐怖を越させようと、実にタイミングよくリリースしていったのだ。
代表作の一つは、上海の中心の爆撃で破壊された通りの廃墟に泣き叫ぶ赤ん坊のポーズの写真だ。これはニュースを操った。そしてこれは合衆国では最近でも毎日のようにプリントされている。写真は破壊されたビルディングを写している。そしてボロを着たちっちゃな赤ん坊が目をこすり、口を開けて泣き叫んでいるのがはっきりとわかる。…
何百万のアメリカ人が、まさに赤ん坊が泣き叫んでいる、爆撃で破壊された通りのさまを見た。『無法行為』をしでかした『非人間的な日本人』への反感から、義憤が立ち上がってきたのだ。このような写真が沢山ある。そしてこれらの写真は日本の敵には大変な名声を博してきた。」(同上書 p.119-120)

この泣き叫ぶ赤ん坊の写真は、アメリカの『ライフ』誌1937年10月4日号に掲載された有名なものだが、ウィリアムズ氏によると、前回の記事で書いた第二次上海事件のさなかに、日本軍を挑発するために中国空軍がキャセイホテルやパレスホテルを爆撃して中国の民間人が多数死んだ現場に、この赤ん坊が持ち込まれて撮影されたことが書かれている。
要するに、中国軍が中国人を空爆し虐殺した現場に、カメラと赤ん坊を持ち込んで泣いているところを撮影したというのだ。

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この写真がアメリカの世論を沸騰させて「反日」に仕向けさせた。
中国のプロパガンダ写真を解説している『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社)の解説によると、この写真は『ライフ』1938年1月3日号で「読者の選ぶ1937年ニュース物語ベスト10」に選出されたという。この一枚の写真がアメリカの世論に強烈な印象を与えて、アメリカの世論を反日に傾けたことは想像に難くない。

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この著書を見るとこの赤ん坊を別のアングルで映した画像や運んでいる画像なども紹介されており、ウィリアムズ氏の記述の正しさが画像でも確認できる。

中国がこの時期に捏造した写真は他にも多数あり、上記図書にも多数の事例が出ておりほとんどが世界を「反日」に仕向ける意図で作成されたと言っていい。
上記図書の一部を、写真付きで紹介しているサイトがある。この図書を購入されるにせよしないにせよ、一度目を通されることをお勧めしたい。
http://www.geocities.jp/kawasaki_to/d-nankinsyasin.html

日本と中国との戦いは、戦争としては日本が勝っていたにせよ、宣伝戦に大敗して世界の敵にされてしまった。蒋介石の背後にはソ連共産党があり、わが国はソ連の思惑通り日米戦に巻き込まれていくのである。

以前にこのブログで書いたが、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会における次のスターリン演説が気にかかる。この演説以降の歴史は、しばらくこの言葉の通りに展開しているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

アメリカを戦争に巻き込むには、中国にとってはアメリカ人の「正義感」を刺戟するプロパガンダが不可欠であったはずだ。そのためには日本は絶対に「邪悪な国」でなければならなかった。しかし、日本軍は統制がとれていて、真実をそのまま伝えてもアメリカの介入は期待できなかった。そこで中国は嘘八百でわが国を「邪悪な国」にするプロパガンダに走ることになるのだが、これに対するわが国の対応が甘すぎた。
わが国にとっては馬鹿馬鹿しいほどの嘘であっても、何も反論しなければ世界はそう信じてしまうとまでは考えなかったようだ。いつの間にか世界は嘘にまみれたプロパガンダにより「反日」に染まり、わが国の反論ができない状況になっていたのである。

「嘘も百回言えば本当になる」という言葉があるが、情報戦対策が甘くほとんど反論しないわが国に対しては、この手法による効果が絶大であることを証明してしまったのだ。中国はこの手法で、ほとんどカネをかけずに、世界の世論を「反日」に染めていったのである。
もしわが国が、相手の事実無根のプロパガンダに対し、即座に嘘であることを世界に訴えていたら少しは流れが変わっていたと考えるのは私だけではないだろう。

尖閣問題にせよ従軍慰安婦問題にせよ、今も同様に甘い対応が続いており、明らかな嘘を広められてもわが国は「大人の対応」とか「いたずらに相手を刺戟すべきではない」と言って、公式には事実を世界に広める行動を殆んど何もしてこなかった。
歴史を知らない経済人が、反日国家に巨額の投資をしたために、両国の関係が悪化することを怖れて圧力をかけた面もあるようだが、そもそも反日を国是とするような国に投資すること自体が根本的な誤りであることに、そろそろ経済人は気が付かねばならないし、政府も国益のかかる重要な判断に、企業の事情を配慮すべきとは思わない。
それと、何よりも、戦後の長きにわたりわが国で封印されてきた中国や共産党の工作の史実をもっと日本人は知るべきだと思う。このことをしっかり学んでおかなければ、また同じ誤りを繰り返すことになるだけではないか。
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関連記事

コミンテルンの工作活動を我が国の当時の新聞はどう報じていたのか

1917年にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、その後しばらくは混乱が続いている。一般的な教科書にはこう解説されている。

「パリ講和会議の開催中、日・米・英・仏の4ヵ国はそれぞれソヴィエト領内に出兵し、干渉戦争(1918~22年)を戦っていた。またソ連国内の反革命派も反乱にたちあがり、革命政府は一時苦境におちいった。しかし外国の干渉はかえってロシア国民の愛国心を高め、政府は赤軍を増強して反撃したので干渉は失敗し、内戦も終わった。この危機のなかで、ソヴィエト政府は1919年3月世界の共産党が参加する第三インターナショナル(コミンテルン,1919~43年)を設立し、世界革命を推進しようとした。」(『もういちど読む 山川世界史』p.230)

社会主義国家がソ連一国ではこれからも諸外国の干渉を受け続けることは避けられないのだから、ソ連が「世界革命を推進」を目指す組織であるコミンテルンを設立して、周辺国の共産化を推進していこうとしたことは当然の事だと思う。この教科書には、まずヨーロッパの革命勢力を支援しようとしたことが記されている。

「当時ヨーロッパの各地で政情不安がなお続き、ドイツでは革命の急進化が阻止された19年1月以降も、左右両派の蜂起があいついだ。また1919年の3月ハンガリーに共産党政権が成立したが、4ヵ月後フランスのあとおしで侵入したルーマニア軍によって倒され、翌20年春にはソヴィエト・ポーランド戦争が起こった。」(同上書 p.230)

このようにコミンテルンはまず西欧諸国の共産化を目指したのだがうまくいかず、つぎに工作の矛先の重点を東洋に向けるようになっていったのだが、この重要なポイントが教科書には何も書かれていない。

この点について解説した書物や論文を探していたのだが、当時の新聞記事を神戸大学付属図書館デジタルアーカイブで探すと、明治大正期に外交官として活躍した小松緑氏が大正15年(1926)4月に寄稿した、『赤化運動の十年』という4回の連載記事が見つかった。

19260407赤化運動の10年
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10101841&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

少し引用させていただく。
「…初めから断乎として赤露否認の態度を続けて来たアメリカが、ますますその決意を固めんとするは勿論、一時ロシアを承認して国交を回復せし、イギリスフランス、イタリー、ドイツさえも、近頃になって一斉に排露気勢を揚げ出した。
 取り別け、これ等の国々を驚かしたのは、共産党本部が、白人諸国における従来の失敗に鑑み更に方向を一転して、先ず有色民族—殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略である。これは、カラハン氏*がポーランドから極東に転任した時分から決定したものであるがやがてカラハン氏は、露支条約及び日露条約の成功に狂喜し、極東の赤化は一二年を出でざるべしと豪語して、大仕掛けの赤化運動に着手したのである。
 先月十八日、北京において国民党を首脳とする総工会、学生団等の代表者二千名が大会を開き先ず革命歌を高唱し『帝国主義を撲滅せよ』『段祺瑞を打倒せ』『不平等条約を破棄せよ」『八国公使を駆逐せよ』などと不穏の言辞を弄し国務院の門内に乱入し、終に衛隊と衝突して、死者三十名、傷者八十名を出すという宛然たる革命騒動を演出し、その主謀者たる徐謙、顧孟余、李石曾等が、逮捕を恐れて、露国公使館に遁げ込みしが如き、また永らく共産党の傀儡となって、ロシアから武器、軍資の供給を受けつつありし憑玉祥が近々モスコウに赴き、自ら一職工となりてまでも、ソヴィエット制度を根本的に研究すると公言しているが如き、また近頃広東はおいても純然たるソヴィエット政府を組織せんとする陰謀の起れる際、関係露国人十名並に政府部内及び軍隊中より六十名の連類を逮捕せしが如き、孰れの一を見ても、赤露の魔手が如何に辛辣に動きつつあるかを立証して余りある
 かくて対岸の火事は、段々大きくなり、近くなって来る。京童は、おいらのお蔵に火が付きそうだと頻に叫んでいる
 吾人は、如何にこの際に処すべきか。この問題を決する順序として、先ず各国の対露態度と赤露自体の現状とを、なお詳しく研究する必要がある」
*カラハン氏:レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン。ロシアの革命家 。帝政ロシアが中国で獲得したすべての領土・利権の放棄を宣言し、中ソの友好関係樹立を提議した。1923~1926に中国大使を務めた。

小松緑
【小松緑】

第二次世界大戦は人種問題が燃え上がって起きたとも言えるのだが、小松氏が大正15年の時点で、白人と有色人種との人種問題を焚きつけて一気に世界革命を断行しようとするソ連共産党の戦略について言及している点は注目しておいて良い。マスコミなどではこのような視点からこの時代の歴史が解説されることは皆無に近いが、小松氏の指摘の通り、米国や中国で反日世論を盛り上げたのは、彼らの工作によるものであったと理解すべきなのだと思う。

では、彼等が全力を傾けたという「日本人の赤化」について関係する記事を神戸大学付属図書館デジタルアーカイブで拾っていこう。ソ連のわが国に対する工作は、実際はもう少し前から始まっていた。

19211204 所謂過激運動とその対策 大阪朝日新聞
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070565&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

上の記事は大正10年(1921)12.4の大阪朝日新聞の記事で、日本共産党員がソ連共産党の支援を得て、過激運動を行っていることを伝えている記事だ。日本共産党は、言うまでもなく、コミンテルン(第三インターナショナル)の日本支部として生まれた組織である。

このような過激思想がなぜわが国で急激に広まったのか。大正10年11月30日の新愛知の記事を読むと、わが国に過激思想の流入を防ごうにも政府にも警察にはその知識があまりにも乏しく、対策が誤っていたことを指摘していることは興味深い。

19211130誤れる赤化運動対策
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070694&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

「然るに赤化運動取締の位置にあるべき政府当局それ自らが既に思想的権威を有せず、直接之と折衝を保つ警察官が殆んど思想的無智階級者であるに至っては、之に依って過激思想の移入防禦を夢みるなど、愚も蓋し念の入ったものであると呆れざるを得ないものである。政府当局が真に責任を感ずるならば、先ず当局者自ら新思想の忠実なる研究者たれ。」

かくしてわが国に共産主義思想が拡がっていき、昭和3年(1928)4月11日付の大阪朝日新聞の記事では、日本共産党員の約1千名が検挙され、約190名が起訴されたことが伝えられている。
19280411『日本共産党』の大検挙 大阪朝日新聞 
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070605&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

しかし、この頃からわが国においてコミンテルンの工作対象が拡げられ、昭和3年7月からは日本軍に対して直接に宣伝活動を行い、軍隊から革命を勃発せしめる方針が決議されたという。

19281019露国共産党巧みに我軍隊に赤化宣伝
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071350&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

上の記事は昭和3年(1928)10月19日付の国民新聞であるが、「在満日本軍隊に対する宣伝は可能性ありと認める。…彼等の思想も相当進歩し居り、階級論争を理解して居る、然れども急激に皇室を云々するが如き或は帝国主義打倒の如き宣伝を行うは尚早である、階級革命、国民自由平等を標榜する宣伝を行う時は確実に効果あるものと認める」として、組織的宣伝が開始されている。

コミンテルンは軍隊だけではなく、学生の思想工作にも注力した。

19290615学生の社会運動厳重に取締れ 国民新聞
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071246&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

上の記事は昭和4年(1929)6月15日の国民新聞の記事で、原法務大臣の訓示内容を伝えているが、法務大臣がこのような訓示をしたということは、学生の間に共産主義思想がかなり拡大していたことは確実だ。
此等有為の学生がいわゆる赤化運動の犠牲と為りますことは憂慮に堪えざる次第でありますると同時に、此等の者が後日共産党一味の首脳部たるの任務に就くの恐れあることは国家に取り危険至極のことであるのであります、各位は能く各関係官庁と連絡協調を保たれ斯る運動を防止するに付遺憾なきを期せられたいと存ずるのであります」

学生の思想工作は、当然の事ながら教員に対する工作が重要になってくる。

19310919殆ど全国に及ぶ教員赤化の組織網 大阪朝日新聞
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071299&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

昭和6年(1931)9月19日の大阪朝日新聞の記事には
「文部省学生部が各府県に命じて調査したところによると教員赤化の組織網は全国に及び北海道、東京、京都、大阪、神奈川、兵庫、新潟、埼玉、千葉、愛知、岩手、秋田、沖縄三府九県からはいずれも数名乃至十数名の左翼教員を出し殆ど収拾のつかない状態
と書かれている。「殆んど収拾がつかない状態」ということは、公表された数字よりはるかに多くの左翼教員がいたと理解して良いだろう。

昭和7年(1932)の2月11日の東京朝日新聞では、「陸軍幹部養成の総本山たる陸軍士官学校に赤化運動が起り当局必死の隠ぺい策も効なく校内外にもれ時節柄センセーションを起している」と伝えている

19320211思想安全地帯に赤化分子
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070975&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

記事では4名の学生を放校したとあるが、「いまだ学内の左翼分子が根絶したとは見られない」とあるので、実際にはもっと大勢の学生が赤化していたことになる。

しかし工作する側の立場に立てば、幹部クラスを共産主義に洗脳させるだけでは革命は為し得ないだろう。重要情報の収集も必要であるし、一般兵士や庶民レベルの洗脳工作も不可欠である。昭和8年(1933)1月19日の大阪毎日新聞は、ロシアの国境に近い北満州地域全体を赤化させる工作がなされていることを伝えている。ちなみに、満州国の建国は昭和7年(1932)の3月1日のことであり、それから10ヶ月後の記事である。

19330119満州国に延びる赤色の魔の手
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070967&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

各国語に通ずる妙齢の赤い美人をダンサあるいはウェートレスとして北満各地の都市に派しエロ仕掛で各方面の情報蒐集に当らしめる一方、片山潜ら日本人の起草にかかる日本文の赤化パンフレットを作成し支那各地に密送して支那人のみでなく在支日本人の赤化にも積極的に働きかけるなど今や赤化の波は全支那を蔽はんとしその余勢を駆って満洲国攪乱にも手を染めている」と伝えている。

次の記事は昭和8年(1933)6月23日の大阪毎日新聞の記事だが、中国共産党がエロ仕掛けで国民党軍から情報を取ったり、兵士を逃亡させたり師団ごと根こそぎ寝返らせていたことが書かれている。この時期の蒋介石は反共、対日善隣外交を基本方針としていたのだが、反日勢力に帰る工作が活発に行われた。

19330623 支那兵を寝返らす共産婦人の活動 大阪毎日新聞
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10100619&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

また同年の10月14日付の東京日日新聞では、ソ連はハルピンに司令部を置き、匪賊、朝鮮人、中国人を操って、満州の機密情報の蒐集、機密文書の盗み出し等をはかっていたことが記されている。

19331014全満に張る露国スパイ網 東京日日新聞
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10184542&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

このように戦前の新聞記事を拾い読みするだけで、ソ連が如何にして周辺国を工作していったかが手に取るようにわかる。「世界革命を推進」するといっても彼らが大量の近代兵器を保有していたわけではなく、法を破って機密情報を収集し、人々に共産主義思想を広めて体制崩壊に導くべく様々な工作を行っていったのだが、このような史実が戦後のわが国で伝えられることは皆無と言って良い。

以前このブログで書いたが、わが国で昭和3年1月1日から昭和20年9月2日までの間に刊行された約22万点の書物のうち、7,769点が戦後GHQによって焚書扱いにされ書店から姿を消してしまった。そのため、戦前・戦中には多くの日本人に知られていた「戦勝国にとって、特に共産主義国にとって都合の悪い出来事」の数々を記した文章を読む機会は、長い間にわたって日本人にはほとんど与えられてこなかった。最近になって一部の書籍が復刊されたり、国立国会図書館デジタルコレクションで何冊かが読めるようになったが、全体としてはごく一部にすぎず、未だに多くの書物にアクセスすることは困難である。

今回の記事で紹介した神戸大学付属図書館デジタルアーカイブの『新聞記事文庫』は、神戸大学経済経営研究所によって作成された、明治末から昭和45年までの50万件もの新聞切抜き資料で、経済・経営分野の記事が中心になることはやむを得ないが、政治・社会・教育等の分野に関する分析記事などについても相当な分量が収められている。
有難いことに、GHQは過去の新聞記事については検閲の対象外としたので、この『新聞記事文庫』にアクセスすると、当時の新聞の論調をそのまま読むことが可能なのである。
しかも、それぞれの記事に新聞の記事画像とテキストファイルが用意されていて、複数のキーワードによる全文検索や記事データの並び替えが可能なので、記事を絞り込むことが容易にできる。調べて行くとたまに驚くような記事に遭遇することがあるのが楽しい。

検索の方法はいたって簡単だ。下のURLの簡易検索を用いて、例えば「満州」「関東軍」というキーワードを入力して検索ボタンを押すと、488件もの新聞記事がヒットする。あるいは「ソ連」「工作」というキーワードで検索すると575件の記事がヒットする。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
あとは、出版年順に並べて、記事見出しの中から興味を覚える記事をクリックして読めば良い。

キーワードを工夫すればもっと面白い記事が見つかるかもしれないと思いながら繰り返し検索を試みるのだが、戦後の長きにわたり日本人に知らされてこなかった類の記事を、誰でも簡単に大量に見つけることができるデータベースが公開されていることは有難いことである。
通説に納得できない時や、当時の論調を知りたい時などに、一度利用してみられることを読者のみなさんにお勧めしたい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

「二・二六事件」と中国の「西安事件」に垣間見えるコミンテルンの影
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-211.html

アメリカのルーズベルト政権に垣間見えるコミンテルンの影
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html

「ハル・ノート」は、アメリカが日米開戦に持ち込むための挑発だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-213.html

GHQ情報部長が、日米は戦うべきではなかったと述べた理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-261.html

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関連記事

関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える

前回の記事で、ソ連の赤化工作がかなりわが国の軍部に浸透していたいたことを書いた。
昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、わが国の教科書などでは関東軍の河本大作が計画を立案した主謀者であることが記されているのだが、現場の写真を見ても河本大佐らが爆薬を仕掛けたとする京奉線の線路には爆発した形跡はなく、特別列車の台車部分は原形をとどめているのに天井部分が大きく破損している。河本大佐の自白内容が作り話であることは明らかで、最近の研究によるとソ連の機密文書にはソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪の責任があると記されているのだそうだ。もしそれが正しいとすると、河本らはソ連の犯罪を隠蔽するためにソ連に協力したということになるのである。

事件直後の柳条湖の爆破現場
【事件直後の柳条湖の爆破現場】

そしてこの事件の3年後に満州事変のきっかけとなった柳条湖事件が起こっている。
一般的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』では、このように解説されている

「1930年代にはいって、協調外交がゆきづまり、中国の反日民族運動が激しくなって、満州における日本の権益がまもれないのではないかとの危機感が高まると、陸軍のあいだには、軍事力を用いてでもこれを打ち破ろうとする機運が高まった。
 1931(昭和6)年9月18日、武力による満州の制圧をくわだてた日本の関東軍は、奉天近郊の南満州鉄道の線路をみずから爆破し(柳条湖事件)、戦争のきっかけをつくって奉天付近の中国軍への攻撃を開始した。こうして満州事変がはじまった
 第2次若槻内閣は『事変の不拡大』を内外に声明したが、関東軍はこれを無視して軍事行動を拡大した。
 かねてから『満蒙の危機』を国民に強く訴えていた多くの有力新聞は、満州事変がおこるといっせいに日本軍の行動をたたえる記事や写真で紙面を埋め尽くした。このようなジャーナリズムの活動をつうじて、満州事変における軍事行動を全面的に支持する熱狂的な世論がつくりだされた。若槻内閣の不拡大方針は失敗し、軍部を抑えることができないまま、1931(昭和6)年12月、内閣総辞職に追い込まれた。
 こうして日本軍は半年ほどで満州の主要地域を占領し、1932 (昭和7) 年3月、清朝最後の皇帝だった溥儀を執政に迎えて、満州国の建国が宣言された。しかし、軍事・外交はもとより、内政実権も関東軍や日本人官吏がにぎっており、満州国は日本が事実上支配するものとなった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.296-297)

花谷正
【花谷 正】

ところが当時の日本の記録では、南満州鉄道の線路を爆破したのは中国側によるものとされ、その後日本軍が中国軍から攻撃を受けたことになっており、その点については東京裁判でも問題にされなかったという。
この説が覆ったのは昭和30年に発行された雑誌『別冊 知性』の12月号に元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載されたことによるのだが、次のURLにこの全文が掲載されている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm

実はこの文章は関東軍参謀の花谷正本人が書いたものではなく、当時23歳の東大生であった秦郁彦が花谷に取材し、自分の名前を伏して花谷正の手記として発表されたものなのである。そして関東軍がやったとする根拠資料はこの文章しか存在しないのだが、秦郁彦が花谷という人物に取材した内容を忠実に書き起こしたものであるのかどうかはわからない。もし花谷の証言を正確に文章化したものであったとしても、そもそもこの人物の証言が信用するに値するものであろうか。ネットで花谷正について調べるとずいぶん酷い人物であったことばかりが書かれているのだが、例えばWikipediaの解説では、
能力ばかりか人格面においても極めて問題のある人物で、第55師団長時代は部下の将校を殴り、自決を強要することで悪評が高かった。また、日頃から陸大卒のキャリアを鼻にかけ、無天(陸大非卒業者)や専科あがりの将校を執拗にいじめ抜き、上は少将から下は兵卒まで自殺者や精神疾患を起こした者を多数出すなどしたため、部下から強い侮蔑と憎悪を買っていた。反面小心でもあり、行軍中も小休止の度に自分専用の防空壕を掘らせていた。」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%B0%B7%E6%AD%A3

秦郁彦はこんな問題人物のために自らがゴーストライターになって記事を書いたことになるのだが、『別冊 知性』に掲載された記事の冒頭には箔づけのためかこんな文章が付け加えられている。

当時の関東軍関係者が、満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを認めた唯一の証言。
 本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾は、満洲事変は『自衛』であったとして、関東軍による謀略を否定しており、花谷以外の関東軍関係者で、満洲事変は関東軍の謀略に基づくものであったことを認めた者はいない
。」

この雑誌が出た時点では板垣征四郎(明治18~昭和23年)、石原莞爾(明治22~昭和24年)らは物故しており、このタイミングで『満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを認めた唯一の証言』などと言っても何の説得力もないのだが、なぜかこの花谷証言とされた文章が根拠とされて、「満州事変は関東軍の謀略である」ということがその後昭和史の通説になったことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。

しかも秦郁彦は戦後のわが国に自虐史観を広めた人物の一人である。自虐史観を広めたい立場からすれば、満州事変の原因がわが国の侵略行為であったことが好都合であることは少し考えれば誰でもわかることである。秦氏は、関東軍が暴走したストーリーを花谷参謀の言葉として描くことにより、自虐史観をわが国や世界に拡散しようとする意図があったのではなかったか。

とは言いながら、板垣征四郎、石原莞爾らが、柳条湖事件の前から綿密な軍事作戦を練り上げていたことは間違いがないことである。では、何のためにそのような作戦が必要であったのか。また、なぜ国民がそのような軍部の行動を支持したかについては、当時の新聞の記事を読めばその背景が理解できる。

自虐史観の立場に立つ論文にはほとんど何も書かれていないのだが、当時の満州は、各地で反日運動が仕掛けられて暴動が相次いで起こり、日本人居留民の安全が脅かされていた。
いつものように『神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫』の検索機能を用いていくつかの記事を拾ってみよう。

昭和6年6月27日 京城日報 間島一帯に亘る未曾有の暴動事件

上の画像は昭和6年(1931)6月27日の京城日報の記事で、文中の「間島(かんとう)」というのは豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地である。この地域は抗日パルチザン*の根拠地となっていたのだが、この記事は昭和5年(1930)5月に間島で未曽有の大暴動(間島共産党暴動)が起きた事件の予審について書かれており、その暴動が起こる2か月前にコミンテルンが中国共産党に対し満州の暴動を起こす指令を間島の潜在党員に出させたことに注目しておこう。
*パルチザン:抵抗運動・内線・革命運動といった非正規の軍事活動を行う遊撃隊

間島

北間島一帯にわたり共産党員の極度のテロ化の暴状事実は近来極左系の暴動としてはまさに後世まで記録すべきほどの未曾有の実際運動であったが、そもそもその暴動の起りはどうして起ったか?それには憎むべき国際共産党コンミンテルンの恐ろしい施令と度しがたき小児病者的主義者の附和雷同とが狂想二重奏をかなでたのである。間島暴動事件の二ヶ月半以前の四月初旬、国際共産党コンミンテルンでは満洲方面における運動方法の微温的であるのに業を煮やし、一挙に極端なテロリズムを以て戦うべしとの意見が一致し、中国共産党に向って全満洲に暴動を起こすべし』との重大な指令を飛ばせた中国共産党では朝鮮人の頭株である朴允瑞らを入れてこの指令につき緊急会議を開いた結果、広大な地域の満洲に暴動を起すより充分可能性があり警備力の薄弱な北間島部分的に行った方が策を得たものとなし、直ちに間島潜在党員に対して再び指令を飛ばせたものである。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070834&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

この間島共産党暴動の際に治安を守るべき中国側官憲も軍隊も動かず、傍観したままだったという。この地域でその後の半年間に200件を超える暴動が起こり、百名以上の死傷者が出たそうだ。

昭和6年 6月6日 大阪毎日新聞 満州の日支紛争今や到る所で勃発

上の画像は昭和6年6月6日の大阪毎日新聞の記事で中国が満州の各地で紛争を起こしていることを伝えているが、おそらくこれらもコミンテルンの工作と無関係ではなかったであろう。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10159971&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

間島共産党暴動のあと、一般の朝鮮人は間島の住処を追われわが国の保護のもとに満州の別の地域に入植を斡旋されたのだが、万宝山に入植中の朝鮮人が灌漑水路を作り種まきを始めたころ、突然中国公安局が来て退去を命じ、五月末には朝鮮人農民90名を留置場に叩き込んだという。その後6月下旬から中国農民によって用水路が徹底的に破壊され、ついに7月に入って激昂した朝鮮人と中国人との間で流血の惨事となった。

この万宝山事件をきっかけに朝鮮半島では中国人への感情が悪化して中国人排斥運動が起こり、多くの死傷者が出たという。下の画像は平壌で中国人が襲撃された事件後の現場写真だが、すさまじい破壊がなされていたことに驚かざるを得ない。

中国人襲撃事件 1931年平壌

関東軍参謀の石原莞爾は『満蒙問題私見』という意見書を5月に作成しており、ネットで全文が出ている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm

この意見書を拾い読みすると、満蒙問題の解決の方法については「唯一の方策は之を我が領土となすにあり」とし、そのために必要なことは、「①満蒙をわが領土となすことは正義なること、②わが国はこれを決行する実力を有すること」の二点を挙げ、満蒙問題を解決することで「朝鮮の統治は満蒙をわが勢力下に置くことにより初めて安定すべし」と書いている。
さらに当時の中国は治安が乱れており、「在満三千万民衆の共同の敵たる軍閥官僚を打倒するは、わが日本国民に与えられたる使命なり」とし、どのようなタイミングで軍事活動を実施するについては、「謀略により機会を作製し軍部主動となり国家を強引すること必ずしも困難にあらず、もしまた好機来るに於ては関東軍の主動的行動に依り回天の偉業をなし得る望み絶無と称し難し」と書いている。

石原莞爾
【石原莞爾】

石原莞爾は謀略による戦争開始の可能性を否定していないのだが、この頃の新聞を読めば暴動が何度も起こっており、石原の言うところの「我が国が軍事行動を起こすことの正義」が認められる「好機」はいくらでも存在していたこともまた事実なのである。

昭和6年8月19日 中村大尉虐殺から参謀本部硬化す

たまたま6月27日に中国官憲のパスポートを携行して旅行していた中村震太郎大尉と井杉元曹長らが行方不明となった。この二人はのちに興安屯懇団に逮捕されて射殺されて、さらに目を抉り耳をそいで焼き捨てられていたことが判明している。
また9月に入ると満州各地で馬賊による殺害事件や強盗事件が相次ぎ、関東軍は馬賊の根拠地にも出動する自力警備を始めたのだが、そんな時期に柳条湖事件が起こっているのだ。

関東軍の自作自演説に対する基本的な疑問だが、日本人が多数乗車している列車を爆破して大きな人的被害が出たらどういうことになっていたであろうか。そうなれば関東軍は現場作業に追われて軍事作戦どころではなかったであろう。もし関東軍の関与が少しでも疑われたら、取り返しのつかないことになってしまうことは誰でもわかる。普通に考えれば、関東軍がこんなリスクの高いことは実行することは考えにくく、軍事行動を起こすきっかけとなるような事件は頻発していたのである。満州事変の引き金となった小規模な爆破事件は、外国勢力が起こしたと考えるほうが正しいのではないだろうか。

昭和6年10月7日 満州日報 南京政府の満洲事変対策

10月7日付の満州日報で満州事変に関して興味深い記事が出ている。この記事を読むと、蒋介石は柳条湖事件を日本軍の仕業と見せかけようとしていた可能性を感じざるを得ない。

蒋氏は事件の報告を聴取した後憤怒に燃え北に向って、あの小僧がヘマをやるから斯様な面倒を惹起したのだと張学良氏を罵倒したそうだ
 ロシアの力を借りて今日の地歩を築き上げた国民党及びその政府はその味が忘れられず、満洲事件に対しても同一の筆法で進めば少くともパリ会議やワシントン会議程度には効果のあるものと楽観し御用紙でない新聞までがこの気分で筆を執って居た。その方針は直に上海において実行に着手され一部の外字新聞は日本非難の記事や論文を掲ぐるに至り又外人記者中には南京政府の支給した旅費で満洲視察に出かける者も出て来た。そればかりではなく同じ方法で日本に不利な新聞電報が上海、北平天津その他から欧米に飛ばされた勿論ジュネーヴの施肇基氏には外交部から長文の訓電が発せられ国際連盟の力を借るべく命ぜられた外人記者を通じての宣伝は金力に正比例してそれ相当の成績を挙げているが、国際連盟では支那側の報告に欺瞞が混じていたことが判明したとかで不人気を買い、通り一遍の平和勧告を試みたに過ぎず何等干渉がましき行動を取らないこととなったものらしい。
 国際連盟の態度が南京に報告さるるや首脳部は大に狼狽し蒋介石氏は慟哭せんばかりに落胆したと或る確な筋から漏らされた。そればかりでなく米国も余り力瘤を入れて呉れそうにない事を知り今は二重の失望に悶えて最後の手段として次の二つに力を注ぐ事になった


一、従来の対外宣伝を続行し更に多額の経費を投じて空気の転換を図ること
二、ロシアに交換条件を提言して干渉せしむること」

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10161022&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

蒋介石は世界の世論を日本非難に向けるために多額の工作資金を投入してきたのだが、国連の協力を得ることが出来なかったことに落胆し、世論工作に失敗した張学良を蒋介石が罵倒したというのである。
張作霖爆殺の時は、ソ連はうまく日本軍の犯行であるようにみせかけることに成功したのだが、柳条湖では中国は失敗したということではなかったか。

ところが、戦後になって自虐史観を奉じるわが国の「歴史学者」が関東軍が爆破したことに書き換えてしまい、今日の通説では戦争の原因を作ったのは関東軍ということになっているのだが、歴史の叙述に於いてわが国を戦争に巻き込もうとさんざん挑発した側の史実を全く書かないのは大いにバランスを欠いていると言わざるを得ない。

昭和6年9月18日 満州日報 牛蘭事件の審問

柳条湖事件の起きた日の満州日報の記事に、コミンテルン(第三インター)の命を受けて東洋攪乱に携わってきた牛蘭(ヌーラン)という人物が上海で捕らえられ、六百余の秘密文書が押収されたことが伝えられている。中国に関する文書の解読が進み、この記事によると牛蘭がいた組織は国民政府の軍隊内に共産党の細胞を植え付けてその戦力を弱める工作をし、中華民国の国民を赤化し社会組織を破壊するほか、我が国や朝鮮、インドの労働者煽動や共産党の組織宣伝などに従事し、そのために毎月13万元を使っていたという。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071151&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


獄中のヌーラン
【獄中のヌーラン】

このようなコミンテルンによる社会破壊工作が我が国においても例外でなかったことは明らかなのだが、このような史実が戦後のわが国の歴史叙述からは完全に抜け落ちてしまっているのはなぜなのか。

その理由は少し考えれば見当がつく。これまではすべての戦勝国にとって都合の良い歴史観、すなわちわが国だけが悪者になる歴史観(「自虐史観」)が広められたのだが、コミンテルンや共産主義者による社会破壊工作の史実が歴史叙述に加えられると、いままでわが国に広められていた「自虐史観」が説得力を失うことになることは確実だ。そして「自虐史観」代わって共産国や左寄りの人々にとって都合の悪い歴史叙述に置き換わることとなっていくことだろう。
そうさせないために、わが国では教育界やマスコミ界などに左巻きの人々が多数派を占めて「自虐史観」でわが国民を洗脳し、異論を唱えることも許されない時代が長く続いてきたのだが、最近では大手マスコミが明らかなフェイクニュースを連発するおかげでマスコミに対する国民の信頼が大きく失われて、これまでマスコミが伝えてきた「我が国だけが悪かった」とする歴史叙述にも疑問を懐く国民が増加している傾向にある。

事実に基づいた歴史の見直しが進められその成果が広く伝えられて、多くの人々が「自虐史観」の洗脳から解き放たれる日が来ることを期待したい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html







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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







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