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満州に関東軍が駐留していた背景を考える

教科書などでは満州事変については、関東軍が武力による満州の制圧を企て、戦争のきっかけを作って中国軍への攻撃が始まったと書かれるのだが、なぜ当時の満州関東軍がいたかについて一言も触れることがない。

黄文雄氏の『日本の植民地の真実』に、関東軍満州に駐留していた経緯とその規模について記されているので引用させていただく。

ポーツマス条約には、鉄道保護のために1キロあたり15名を超えない範囲で守備隊を置く権利が明記されている。これで計算すると、鉄道守備隊の最大規模は14,419名、実質二個師団になる。その後、日清条約第一条でもこの約款は再確認されている。
関東軍』の前身はこうして生まれたのである。関東軍は、ソ連を仮想敵国とした独立戦闘集団で、その正式発足は第一次世界大戦末期のシベリア出兵(1918年)である。
関東州や関東軍の『関東』は、もともと万里の長城の東端である山海関以東という意味の地域名で、日本が1905 (明治38) 年9月にそこに設置した行政府が『関東総督府』だったことによる。…
満州事変を迎えるまでの19年間、関東軍の規模は内地から交代で派遣される1個師団と独立守備隊、重砲兵大隊、関東軍憲兵隊といった規模に過ぎなかった。もともと満鉄沿線を守備するだけが任務だったため、いたずらに増強することは出来なかったのだ。」(『日本の植民地の真実』p.274-275)

鉄橋守備の日本軍

このようにわが国が軍隊を送り込んだ理由は、明治38年(1905)に締結された日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の追加約款第一において、満鉄沿線を守るために1km毎15名を超過しない人数で守備兵を置く権利が認められていたことによるが、この人数は決して多くない。

わが国が獲得した満州の利権を活かすためには、移民を送り込みさらにインフラを整備するための投資が必要であったことは言うまでもないが、当時の満州の治安は劣悪な状態にありながら中国の官憲は治安を改善させようともしなかった。そのためにわが国は、満州の警察権に関与せざるを得なくなっていたのである。

大正4年3月16日~ 時事新報 日支懸案解決 警察権関与

上の画像は大正4年(1915)3月16日から時事新報に連載された「日支懸案解決」の記事だが、警察権に関与せざるを得なかった事情が縷々述べられている。

「警察権干与の一般的理由を挙ぐれば凡そ左の如し
(第一)満蒙の地たる人煙希疎にして政令の思考風気の教化尚お未だ普からざるが為めに匪賊*横行の患い甚だ多く所謂馬賊*なるものは之等の地方を通じて抜くべからざるの根拠を有するを以て地方人民の生命財産は常に危殆を免がれず仮令い我国人にして此等地方に居住、土地所有及び採砿の権を得るとするも予め是種匪賊の難を防ぐの道を講ずるに非ざれば安んじて住居を構え業務を営むを得ざるべし
(第二)独り匪賊の難あるのみに止まらず満蒙に於ける支那官民中には我国人に対して深刻なる敵意を懐き事に臨み機に触れて之を凌虐せんとするの風あり。或は之に反して我国人に対して頗る好意を表する者もなきに非ずと雖も尚お且つ彼等の性癖として瑣末の衝動の為め急に其心情を一変することあり。決して永く其好意に信頼するを得ざるを以て苟も我国民が三権の獲得に依りて満蒙の内地に支那人と雑居する以上我警察力を以て之を保護するは緊要欠くべからざるの処置ならん
(第三)仮令支那官民に悪意なしとするも、風俗習慣を異にし文化の程度を異にする日支両国民の間には、往々他の言動を誤解邪推して紛争を生ずるの例少からず、鉄道沿線もしくは之に接近せる地方に於ても尚お且つ然りとすれば、我国人の多数が深く内地に進入するの暁に及んでは、此等の弊風は益々甚だしきを加え、或は意外の奇変を勃発するに至るやも量るべからず。是種の危害を予防するの方法としては、我警察権を内地に拡張し我警察官をして支那官民並に我国人の誤解邪推を矯正せしむるの外なかるべし
(第四)支那官憲の間に無知無能にして徳義廉恥の念を欠くもの甚だ多きは今更言う迄もなけれども、満蒙の如き僻陬の地に在任するものに至りては是等の欠点ますます甚しきを加えるの事実あり。斯る官憲の下に在りて我国人が周到公正なる保護を被らんを望むは、甚だ覚束なき次第と云わざるを得ず。固より司法上には治外法権を存すと雖も、一般の警察事務に於ては現状の儘を以てするときは概して支那官憲に一任するの外なきを以て我国人の内地に雑居するもの増加するに随いて其不利不安ますます甚だしきを加えざるを得ず。即ち我国が三権の獲得を要求すると同時に警察干与をも併せて要求せざるを得ざる所以なり
(第五)我国人は事実上既に鉄道附属地其他の境界を越えて附近地方に雑居するもの少からず。其結果として我国人に対する日支両国警察の権現に関して紛議を生ずるの例も亦少からず。斯くの如きは満蒙に於ける日支両国間の関係を円滑ならしむる所以に非ざれば仮令三権獲得のことなしとするも尚お且つ我警察権を未開放地の一部に向って拡張するの必要あり其獲得に依りて我国人の未開放地雑居無制限と為るの暁に及んでは其必要ますます大なるべし」
*匪賊(ひぞく)、馬賊: 関東軍や旧満州国の治安機関は、政府に敵対する集団を盗賊と同じ意味をもつ「匪賊」と呼んだ。騎馬を中心にした組織を「馬賊」とも称した。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10125392&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

生命・財産の危険を感じるような地域には誰しも住もうとは思わないところだが、中国は、満州の地に移住した日本人を排除するためにあの手この手を用いている

大正2年11月3日 やまと新聞 満洲に於ける居住権

たとえば大正2年(1913)11月3日のやまと新聞にはこう報じている。
「我外務当局者は満洲未開放地に居住せる邦人が或は退去を命ぜられ其居住営業権の安定を害さるるが如き傾向は多く之を見ず。却て支那官憲は屡々(しばしば)切実にこれが保護を声明しつつありと称しつつあるも、事実は不幸にして屡々我邦人が支那官憲に迫られて折角築き上げたる其根拠地を放擲して退去せるの実例を見る。今是を最近に起れる二三の事実に就いて証せんか

一、本年三月の交長春の西北方なる農安県に居住せる六戸三十四人の邦人は突然支那官憲に退去を命ぜられ、其命に従わざるや遂に多数の巡警は各戸を包囲して其戸扉を釘付にしたり
二、去る九月中奉化県知事の退去命令により売買街及小城子方面に居住せる邦人男女六名は四平街に引揚げたり
三、十月二十七日満洲各地の官憲は北京政府の命令なりとて未開放地居住の邦人に対しては馬賊等の危険につき生命財産の保護の責に任ぜざる旨を言明し其退去を要求せり
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10125397&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

刀とモーゼル銃を構える馬賊
【刀とモーゼル銃を構える馬賊

「馬賊」は大量の武器を保有しており、満鉄の線路のボルトや枕木が抜き取って列車を止め積み荷を盗む事件、住居侵入事件などが頻繁に起きて、邦人被害も大きかったのだ。本来、馬賊の危険を排除することは中国官憲の仕事であるはずなのだが、それを行おうともせずに「馬賊等の危険」があるとして日本人に退去を要求するというのはどう考えてもおかしな話である。

中国はさらに排日運動を起こして、日本製品の不買や嫌がらせや暴力事件を繰り返したわけだが、国策として満州移民を推進し多額の投資をしてきたわが国として、満州に渡った人々の生命財産や権益を保護することは当然のことではないか。しかしながら、こんな治安状況ではそれが困難であることは明らかだ。

関東庁要覧 大正12年版
【関東庁要覧 大正12年版】

関東長官官房文書課による『関東庁要覧  大正12年版』にはこう記されている。
「南満州に於ける匪賊の横行は依然として酷だしく、大正10年管内外をつうじて日本官憲の聞知せる馬賊、海賊及び強盗の被害は461件。死傷者153人、拉去せられたる人質125人、被害価格55万1643円を算し、内邦人の被害70件、死傷35人、被害価格15万4365円にして、邦人被害は前年に比し著しく増加せり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939399/168

匪賊の夜襲

ところが『関東庁要覧  昭和6年版』になるとその被害はその数倍に跳ね上がり、彼らの犯行の手口が具体的に記されている。

匪賊犯罪は頓(とみ)に増加し、昭和4年中管内警察署の関知せる近接支那管内の匪賊犯罪は1170件の多きに達し、さらに昭和5年に於いては、9月末日までに1650件の夥しき数を示せり
 これら馬賊なるものに付いては確たる定義あるに非ず、頭目、副頭目、小頭目等の下に傾倒的かつ継続的に結合する一種の強盗団体にして、通常小銃、拳銃、刀槍、時としては砲機関銃などを携行し、あるいは馬隊を組織するもの等あり。
 昭和5年中には支那軍服を着用せる軍装そのままの馬賊団各地に横行
を見たるが、その犯行手段としては、個人または住民団体に対し脅迫状を送りまたは直接侵入し、期限を定めて金品を強要し、これに応ぜざるときは機を見て予告通り焼打ちもしくは殺傷をなしもって報復し、直接侵入して銃器その他の凶器を擬し、場合に由りては容赦なく殺傷をあえてし、金品を強奪し人質を拉致し期限を付し囘贖金を強要し、これに応ぜざれば耳鼻または指を裁りてこれを贈り催促を試み、なお目的を達せざるときは人質を惨殺する等大胆かつ強暴なる行為に出づるを常とす。…
 なお銃砲火薬類の取締厳重となり、銃器の容易に得難きに至るや、不逞の徒はわが守備兵および警察官の所持する武器の掠奪を企て、巡邏中の守備兵または警察官を狙撃する事件
を生ずるに至り、昭和4年中には数件の被害を見たるも、昭和5年中にはこれらに対する予防訓練も徹底し、常に賊の機先を制して未然に防ぎえたること一再に留まらず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223815/117

満州匪賊の本部

このように満州は昔から馬賊が跋扈していて法治はおろか人治すらない状況にあり、民衆は仕方なく馬賊に金を払ってその頭目の力で他の馬賊からの襲撃を守ろうとしてきたのである。しかしながら満州内の混乱が進むにつれ、力を持った馬賊が「自衛」を超えて盗賊まがいの行動を取るようになり、次第に武装を強化していくことになる。満州で軍閥に成長して悪政を敷いた張作霖・張学良親子は馬賊出身で、その部下にも馬賊出身者が多かったことを知るべきである。

昭和6年8月18日付 東京朝日新聞

そして昭和6年(1931)6月に中国官憲のパスポートを携行して旅行していた中村震太郎大尉と井杉元曹長らが興安屯懇団に捕らえられて射殺され、さらに目を抉り耳をそいで焼き捨てられる事件が起きた。また9月に入ると、満州各地で馬賊による殺害事件や強盗事件が相次ぎ、関東軍は馬賊の根拠地にも出動する自力警備を始めたのだが、そんな時期に柳条湖事件が起こっているのである。

関東軍はたちまちのうちに北大営、奉天、長春、営口の各都市を占領していったのだが、前述した通り関東軍の兵力は1万数千程度に過ぎず、一方張学良が指揮する東北辺防軍は30~40万もいて飛行機や戦車などの近代的装備も備えていたのである。

林銑十郎
【林銑十郎】

わが国政府は当初「戦線不拡大方針」で臨もうとし関東軍の増派に反対したのだが、もし増派がなければ、圧倒的に人数の多い張学良軍からの反撃は避けられず、多くの犠牲が出たことであろう。関東軍の林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で満州に増援することを決め、昭和7年(1932)2月のハルピン占領によって関東軍による中国東北部支配が完了したのである。

東三省に於ける官兵匪賊暴挙実例

柳条湖事件以降、中国の官兵や馬賊の活動のため、満州の日本人居留民に多くの犠牲が出ている。
国立国会図書館デジタルコレクションに『東三省ニ於ケル官兵匪賊暴挙実例 : 自九月十九日至十一月十五日』という記録がある。「東三省」というのは現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省を指すが、概ね「満州国」の領土を意味している。
その書物には、58日間に165件もの民間人が犠牲になった事件が個別に記録されているのだが、この記録とて全体の一部にすぎないのだろう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187781/3

1932年3月に満州国が建国されると満州国軍も創建され、関東軍が従来の任務のほかに満州国軍の指揮をとることとなり、関東軍も年々増加されていく。
そして、当時満州に30万人いたとも3百万人いたともされる馬賊の討伐が関東軍によってなされて、満州の治安がようやく安定したのである。

黄文雄
【黄文雄】

黄文雄氏は、冒頭で紹介した『日本の植民地の真実』で関東軍についてこう解説されている。
「中国人だけでなく戦後の日本人からも、関東軍は満州侵略の張本人として悪名が高い。だが関東軍の歴史的評価の上で最も大切なのは、住民を苦しめ続けてきた軍閥、匪賊を満州から駆逐して社会に秩序をもたらし、王道楽土の近代化建設の基を築き上げたとの功績ではないだろうか。関東軍が存在しなければ、満州の地に平和は到来しなかったのだ。」(同上書 p.275-276)

私が社会人になったばかりの頃、担当した取引先の社長さんが関東軍を経験された方だった。あの当時は私も完全に『自虐史観』に洗脳されていて、関東軍は日本を戦争に引きずりこんだ元凶とのイメージが強く、その社長とは戦争の話を一切しないまま私が別の職場に転勤してしまったのだが、今から思えば随分惜しいことをした。

終戦後73年も経ち、戦争を経験した人々はほとんどこの世を去り、戦争の話を聞きたくても聞くことが出来なくなってしまっている。ほとんどの日本人にとって、日中戦争から第二次世界大戦のことはマスコミが伝える映像や解説を通じてしか知ることしかできないのが現状だが、戦後彼らが伝えてきた大正から昭和にかけての歴史は、国民を『自虐史観』に洗脳させ固定化するために描かれたものと言っては言い過ぎであろうか。
戦勝国が「自国にとって都合の良い歴史」を敗戦国に押し付けるようなことはいつの時代もよくあったこととは言え、いつまでわが国はこのような歴史叙述に付き合わされなければならないのだろうか。当時の記録を読んでいけば、「戦勝国にとって都合の悪い真実」をいくらでも見付けることかできるのだが、残念なことにわが国では戦後の長きにわたりそのような史実は封印されてきたのである。

これからの世界は米中の対立を軸に展開することになると考えるのだが、アメリカからすれば武力を用いなくとも、保有している秘密文書などから「中国にとって都合の悪い真実」を少しずつ公開して世界に広めるだけで、中国に強いダメージを与えることができる。そのようにして戦勝国の歴史が二つに割れるようになると、中国が声高に主張する歴史はその論拠が根底から崩れ、同時にわが国の『自虐史観』論者も力を失うことになるのではないだろうか。

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【ご参考】
このブログで「中国にとって都合の悪い真実」のいくつかを書いてきました。良かったら覗いて見てください。

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

ルーズベルトはなぜ黄色人種の中国を連合国陣営に残そうとしたのか~~米国排日11
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-271.html

軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-285.html

南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-414.html

日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-415.html








関連記事

満州の民衆が関東軍を敵視しなかったのはなぜなのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件から始まった満州事変で、30~40万いたとされる張学良軍は、およそ1万の関東軍によって総崩れとなって満州から駆逐されてしまったのだが、彼らは圧倒的に兵士の数では関東軍よりも優位にあっただけでなく、さらに飛行機や戦車などの近代兵器も大量に保有していた。にもかかわらず、簡単に関東軍に敗れてしまったのはなぜなのか。

張学良

Wikipediaにはこのような記述がある。文中の「彼」は張学良である。
満州事変が勃発した時、彼は北平にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたと後に述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF

NHK取材班が張学良にインタビューして編まれた『張学良昭和史最後の証言』には、張学良が兵士に対し日本軍に抵抗しないことを指示したことが述べられているようなのだが、普通に考えてわずか1万の関東軍に対して30万以上いたという兵士全員に無抵抗を指示したという張学良の言い分が正しいとはとても思えない。

黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられるが、おそらく真実はこのとおりではなかったか。

「それは、張学良軍があまりにも弱体だったからだ。その最精鋭の主力部隊ですら、関東軍の30センチ砲の轟音に驚倒し、そのまま総崩れとなっている。それまで排日侮日に狂奔していた彼らは、関東軍が一向に動かなかったことに安心し、完全に侮っていたのだ。逆襲があるなどとは夢にも思わなかったのである。
 彼らの本質は、匪賊と変わりがなかった。そのような軍隊だから、反乱や兵器の悪用を防ぐため、夜間銃器類は一括して格納されていた。これが主力部隊の決定的な敗因となった。」(『日本の植民地の真実』p.277)

格納されていた張学良軍の銃器の多くは関東軍によって鹵獲されたことは言うまでもない。

日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか

こののち敗残兵が満州各地で略奪と虐殺を繰り返している。
田中秀雄氏の著書『日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか』にはこのように記されている。
9月26日、京奉線を走る列車が新民屯近くでレールを外され脱線した。転覆した客車は待ち構えていた敗残兵の掠奪と虐殺の標的となり、60数名が死傷した。欧米関係では8名が犠牲となり、インド人1名が殺害され、女性を含む数名が行方不明となった。
 これには後日譚がある。破壊車両は天津に運ばれて展示された。日本軍の空爆によるもので、無辜の中国人が多数虐殺されたと宣伝に利用された。アメリカの宣伝も見事で、奉天では3名のアメリカ人が日本人に虐殺されたと報道された。
 奥地の朝鮮農民は敗残兵の毒牙にかかりやすかった。撫順の北40キロ遼寧省鉄嶺県や開原県の2千名あたりが生活する朝鮮農民一帯が襲われ、家はことごとく放火された。辛うじて虐殺を免れた農民は山に逃げ込んだ。虐殺は百名に上った。女性や子供に犠牲者が多かったのは、稲刈りの時期で避難を躊躇した家族が多かったためだ。
 10月1日、敗残兵掃討と農民保護のために重松大隊と警察官が被害地の大甸子(だいでんし)に到着した。山に隠れていた農民は日章旗を見て狂気の如く山を駆け下りてきた。日本兵は十日ばかりろくに食べていなかった彼らに食糧を配った。虐殺死体は目も当てられなかった。鉈(なた)で頭部を割られた男性、負った子供ごと刺殺された母親。藁(わら)を斬る押切で首を落とされた婦人の遺体があった(『満州日報』10月8日付)。警察官は生き残った農民を集め、『どんなことがあってもお前たちを保護する、一歩も譲らぬ』と涙ながらに語りかけた。」(『日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか』p.200-201)

東三省に於ける官兵匪賊暴挙実例

この本にはこのような事例が多数紹介されているが、これらは決して作り話ではない。この大甸子の事件は大連商工会議所がまとめた『東三省ニ於ケル官兵匪賊暴挙実例 : 自九月十九日至十一月十五日』の9月26日の記録(二十八)にもしっかり記されており、この日には2件の列車の襲撃事件が記録されていることも確認できる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187781/5

昭和7年4月14日 大阪時事新報 満洲全土に跳梁する無慮十万の匪賊

黄文雄氏は前掲書で張学良軍のことを「匪賊と変わりなかった」と記しているが、相当数は匪賊そのものではなかったか。
昭和7年(1932)4月14日付の大阪時事新報に満州匪賊の討伐の記事がでている。それによると、これら匪賊団の中心をなすものは第二次東北義勇軍で全体を指揮していたのは張学良の腹心である胡育坤であったという。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10162733&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

満蒙管理論

昭和3年(1928)に出版された細野繁勝 著『満蒙管理論』という本に、中国の当時の軍隊について非常にわかりやすい解説があるので引用させていただく。文中の「支那」というのは「中国」を意味する言葉である。

「支那には過去においても現在においても、実数を測り知る能わざる多くの軍隊がある。こは世界何人の目にも夙(つと)に映出せられている事実ながら、さてその夥(おびただ)しき軍隊はそもそも支那のために何の用を為しているか。実際は数十万乃至(ないし)百数十万をも超ゆる――1920年の統計では百三十六万と称す――その陸軍が、全部国家の兵員ではなくて、いわゆる護国軍とか、革命軍とか、いろいろの名称をこそ付すれ、その実態は一人残らず軍閥の私兵なのである。清朝時代には、それでも表面的には官兵たるの形を装っていたが、武漢革命以来は、その形式さえ失われて悉(ことごと)くそれぞれの軍閥の頭目に隷属する私軍私兵となっている。これは海軍も同様である。その上なお驚くべきことは、それが決して普通の良民ではなくて支那名物の土匪、浮浪人、乞丐(カタイ:乞食)の変形であり、それらの異名同体たる事実である。…
 私兵の存在を容認する国家は、如何なる場合においても断じて健全国家ではない。しからば私兵ばかりしか持たぬ国、私兵以外に一個の国軍も有せざる国、これを目して世界の人々はいかなる名称を与え、如何なる取り扱いを為すべきであろうか――それに国家の名を付すことすらが妥当とはいえない。…
 そこには張作霖とか、馮玉祥(ふうぎょくしょう)とか、閻錫山(えんしゃくざん)とか、蒋介石とか、唐生智などといったような各頭目と、これらに付随する私兵は存在する。そしてその私兵を擁して、一時的にある地方に権力を持つものの存在することも嘘ではない。しかしながら事実はただそれだけである。それが支那を代表するものでなければ、中華民国なるものの権利と義務を諸外国に負うものでもない。ましてや、その軍閥や私兵と没交渉なる絶対多数の支那の人民としては、たとい彼ら軍閥の徒が如何に国家の名を僭称するにもせよ、真実は少しの関係も因縁もないのである。支那の権力者と支那の人民とは徹底的に性質を異にする二元的存在である。…
 支那一般の人民は、昔からその軍隊を呼んで『兵匪』といっている。即ち武装せる盗賊の集団という意である。…
 支那にあっては、初めからその軍隊に投ずるものが匪賊不逞の徒であり、徴募せらるるものも苦力以下の浮浪者なるのみならず、彼らの目的とするところも、武器を携えて劫掠(ごうりゃく)略奪の機会を得んが為である
 支那の軍隊は、旧領が法外に安い。被服食物等も甚だしく粗末である。そしてその安い給料や衣食さえ支給されぬことが珍しくない。それを彼等は民家に対する脅迫と掠奪とで補っているのである。無論かかる軍隊のこととて、戦闘力の強かろう筈はなく、掠奪には頗る勇敢だが、戦争には極めて弱い。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269485/41

軍閥と人民とは「徹底的に性質を異にする二元的存在」とはいっても、こんなレベルの軍隊を維持するために、人民は重い負担と数多の犠牲を強いられていたのである。
前述の大甸子の虐殺事件では、山に逃げ込んで難を逃れた朝鮮人農民が日章旗を見て山を駆け下りてきたという記録は重要なポイントである。満州の人々は、わが国の軍隊と警察に信頼を置き、わが国が匪賊の集団たる張学良軍を満州から追い払うことを心から願っていたのではなかったか。

朝鮮人に限らず満州居留民の多くは日本軍を敵視しなかったようなのだが、その背景を知るためには、かれらは張学良軍閥の為に、いかに過酷な生活を強いられてきたことを知る必要がある。

昭和7年1月12日 満州日報 満蒙新国家

上の画像は昭和7年1月12日の満州日報だが、満州居留民が日本の統治を切望した背景についてこのように解説されている。

「建国次来軍閥のため搾取されている彼等は生色を失い、今日では統治者の何者であろうと搾取主義でない統治者であればよいと悲鳴を挙げている。恐らくこれは偽らざる告白であろうが、暗に日本の監理統治を切望してる者も決して少くない
 之は今次の事変により吸血搾取者たる軍閥を一挙に屠った日本の軍隊が規律整然として秋毫も犯さざるのみか、軍行動に徴発使用した総てのものに対しては支那人からすれば余りに高価過ぎる程の金銭を支払い、兵匪のために掠奪された悲惨な良民に対しては金品を恵与し、曾て味うたことのない人間味を日本軍隊によって味うたことが彼等支那人間に如何に好感を持って迎えられたか。彼等は日本の軍隊と支那の軍隊とを比較して見たのである。
 前者は勇敢で強く、勝って良民を犯さず、戦い休めば我等の顧客で、毫末も搾取的に出でない。後者は良民にのみ強く、敗走に際しては敗戦の駄賃として手当り次第にこれ掠奪、婦女子を姦し放火殺人、全く強盗か軍隊か解釈に苦しむ。また役人は役人で重税に重税を課し、安い日本品の輸入買入を圧迫し、或は日本人との合弁事業禁示、国土盗売等々で個人的の財産を殆んど搾取し尽すという有様である
 今日の彼等は生きんとして生きられぬ悲惨な極に達していた。何が彼等をそうさせたか、云うまでもなく軍閥と役人所謂彼等の統治者である
。日本の統治を切望し歓迎するのは理の当然であろう。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10162877&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

張学良は満州の民に過酷な重税を課しただけでなく、軍の兵士が各地で資産家の誘拐・強奪・財産没収などの悪事を働いていたわけだが、一般居留民がそのために恐怖に晒されていた状況を改善するためには、『兵匪』と呼ばれていた連中を武力で討伐する以外にどのような方法があったというのだろうか。わが国は何度も「厳重抗議」を繰り返してきたのだが、そんなことで改善してくれるような相手ではなかったのである。

奉天入城

よく関東軍が満州を「侵略した」と描かれるのだが、居留民に対し掠奪・暴行を繰り返してきた張学良の私兵を関東軍が討伐したことを、果たして「侵略」と呼ぶべきなのであろうか。
もし満州の人々が関東軍を敵視し強く抵抗したのであれば、「関東軍の侵略」という言い方は理解できるのだが、実際のところはどうであったのか。

まず満州の人口の推移から見てみよう。
満州国が建国された1932年10月の人口は2928万人であったが、1940年には4108万人に増加している。
次に満州国の予算規模は1932年が一般会計113百万円、特別会計42百万に対し1940年は一般会計574百万円、特別会計2,025百万円と大幅に増加している。

もし関東軍が満州の人々に敵視され抵抗されていたのなら、人口が増加することも、経済が成長して税収が増えることもなかったであろう。関東軍に対する満州の人々の支持があったからこそ、平和が訪れて満州の人口が増加して経済発展を遂げたと考えるべきではないのか。

昭和6年10月10日 満州日報 果たして成功するか満洲独立運動

関東軍が張学良軍を打ち破っていく過程で、満州の各地で中華民国からの独立運動が澎湃として立ち上がっていく。上の画像は昭和6年10月10日の満州日報だが、このような記事は他の新聞でも多数報じられている。誤解されないように一言加えておくが、これらの独立運動は関東軍に抵抗するものではなく、それまでの軍閥支配に対する抵抗運動である。張学良の勢力が衰えたから、満州人を中心に独立運動が起きたのである。 
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10161157&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

また9月29日のわが国の閣議では、このような独立運動に関与することは諸外国の誤解を招くことになるので、陸軍も外務省も一切関与しないことが決定されていることを知るべきである。

しかし、この時点では関東軍が張学良の残党討伐はまだまだ終わっていなかった。
黄文雄氏の前掲書にはこう解説されている。
満州事変が起こると、中国側の軍隊22万人と警察官11万人の大部分は民衆の武装勢力と合体し、あるいは錦州に逃れた王以哲軍に合流している。この混乱に乗じて匪賊集団は勢力を拡大し、敗走兵や逃亡兵も取り込んで人員、装備を充実させ、強大な勢力を形成し、匪賊の総数は十数万にも膨れ上がった。
 こうした匪賊が錦州にいた王以哲軍に合流し、遼西地方を荒らしたため、1931(昭和6)年12月には関東軍が、奉天省長臧式毅(ぞうしきき)の要請を受け錦州を攻撃、翌年7月にここを占領して、武装集団を内外に駆逐した。
 このように匪賊、兵匪が各地で跳梁する政情、治安の不安定ななかで満州国は成立した
。」(同上書p.302)

「満州国は関東軍の傀儡国家」などとよく言われるのだが、満州国が成立したのは1932年3月1日で、関東軍が匪賊討伐を完了したのはその4ヶ月もあとの話なのだ。
関東軍が満州のあちこちで勃発した独立運動を仕掛けて工作した証拠があるなら『傀儡国家』という言葉を使うことは理解できないわけではないが、この言葉を使う論者は論拠を示さずにただレッテルを貼っているようにも見える。彼らはその論拠が薄弱であることを承知の上で、議論を避けるために声高に言い続けているだけではないのか。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-293.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html

昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-297.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html









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